I saw a movie3

ケント。私は待ってる!



I saw a movie.
Undo

監督・脚本:岩井俊二


   山口智子が健康的すぎてこう言った危なげな精神の持ち主の女は似合わないという見方があるようだ。このUndoに限らず濱マイクシリーズの「罠」に彼女が出演した時もそんな評価があったような記憶がある。
 冗談じゃないと思う。一体、「健康的」って何処に価値基準があるわけ?大体、顔つき体型みたいな部分で言ってるんだろうけど(あるいは出てるCMのスポンサーイメージ?)お門違いも良いところ。
 女優にそう言うレッテルを貼って、目の前の演じられたイメージを半分しか味わえないって可哀想。「罠」の二重人格女もUndoの“脅迫性緊縛症候群”女も山口智子だからいいんだよ。
 こういうのって三輪がやっても菅野がやっても違うのになっちゃうでしょ。「ちゃんと縛ってよ。」と、どちらかと言うとやつれ知らずの童顔の山口智子が、大きな目をあらぬ方向に向けて言うと、「ホントは狂ってないんじゃないか、、でもやっぱり」という感じが凄くエロチックに突き刺さってくる。
  それとか編み物をしながら自分の指を無意識の内に毛糸の中に編み込んでしまったり、そんな狂気は「健康的」な指だからこそ伝わるってもんよ。
 そんな感じで、山口の生命力に溢れたエロスに陰りがでたり、歪みが出たときの手触りってちょっと誰にも真似できないと思う。
 しかもテーマが「緊縛」。映画Undoは、ボンデージSM映画と一線を引いている部分こそが、生命線だとはと思うけど、敢えてBDSMとして見るならそのキャストにトヨエツと山口智子だよ。最高じゃない。

 「かっこつけてる、気取ってるけど中身がない」という批判もあるし、別段それについては的外れではないだろうと思う。雑誌ブルータスの企画から生まれる作品で、ドロドロしたものが出来る筈がないのだ。
 それにこの上映時間で、殆ど2人劇、映像美を狙ったらこうならざるを得ないはずで、その中でやりきれる事をやっているからこそ10年以上たっても視覚的に鑑賞に堪えうるものが出来たのだと思う。
 それはそれで十分に素敵な事だし、現在の岩井俊二作品を考えるなら、この作品も、それ程中身のない退廃的ファッションだけで撮られたものではない事は確かだと思う。
 この映画見てると、ジャン・ジャック・ベネックスの「ベティ・ブルー」を思い出してしまう。同じなら似ているついでに「狂気に陥っていく妻と、それに夫がどう関わっていくか」みたいな部分で迫ったほうが良かったかも、、。「愛」と「縛る」という言葉遊びみたいな部分と、映画の中でSMの部分が交錯しすぎたかな?と思う。
 SMや縛りを理解(抜けられないと言った方がいいんだろうけど)する人から見れば、「これはちょっと違うだろう」という思いが消えないだろうし。
 逆にこの「縛り」を愛を含めた人間関係の隠喩として捉える人は、深読みしすぎる人と、あっさりパスしてしまう人に別れざるを得ないだろうと思う。
 そう、SMはファッションではない。愛がファッションでないように。けれど二つとも幻想である事では共通している。それも取り逃がしたくない「幻想」だ。
 劇中、モエミが石鹸の泡を縛ろうとする象徴的なシーンがあるが、あれを見ていると今書いた事さえ、岩井俊二監督は直感的に答えを出していたのではないかと思ってしまうんだけど、、。
 
PS とにかく歯の矯正金具を外した後の山口智子とトヨエツのキスシーンと、坂の途中、通過する幼稚園児達に囲まれての二人のキスシーンを見るだけでも値打ちのある映画。DVDが出ているらしいから、興味のあるかたはそちらのほうで、、。 (色が綺麗だよ。)



I saw a movie.
ブレア・ウィッチ・プロジェクト

監督・脚本・編集:ダニエル・マイリック&エドゥアルド・サンチェス

 ふーん映画ってこういう見せ方があるんだ。感心もし、実際に怖かったこの映画、ありそうでなかったのはその手法より、その緻密な計算なんだろうな。

 1994年10月21日、ヘザー・ドナヒュー、マイケル・ウィリアムズ、ジョシュア・レナードの3人の映画学科学生がメリーランド州ブラック・ヒルズの森に入った。地元で語り継がれてきた”ブレア・ウィッチ”伝説のドキュメンタリーを製作するためである。早朝、地元の人にインタヴューしたのを最後に、彼らはそのまま消息を絶つ。-----1年後、彼らが撮影していたフィルムのみが発見された。地元の人々に対するインタビューそのものからすでに不気味さを醸し出してはいたものの、彼らはインタビューの中でもあったコフィン・ロック(棺桶岩)を目指してまず森の途中の道路(ブラックロック・ロード)まで入っていった。そこで車を乗り捨てまず歩き始め、そして東タピー川の所で住民に目撃されたのを最後に消息を絶つ・・・。

  画面そのものは1年後に発見されたフィルムの再編によってコフィン・ロックに向かって歩く彼らを映し出していく。しつこくドキュメンタリー撮影にこだわるヘザー。そしてそれにいらつくジョシュー、マイクの姿がありありと映し出されていた。そしてコフィン・ロックに到着した彼らを待っていたものは・・・?
 久々に怖い思いをさせられた作品である。私はこう見えても結構、アウトドアレジャーが好きでトレッキングも野営も大好きである。私に限らず、一時オートキャンプがブームになった時もあったので、この映画を見るような年齢層なら、一度や二度はテント生活の体験をされている事だと思う。
 その個人的な実体験とこの映画のカメラワークが完全に重なってしまい、本当に言葉通り映画に「はまって」しまう。ブラックヒルズの森でなくとも、人里離れた場所でテントを張っていると、夜の底の刻あたりで、「魔」が徘徊しているのを強く感じる事がある。濃厚な「気配」程、怖いものはない。
 そして定かでないもの、みえにくいもの、きこえにくいもの、そのくせそれが指し示すものが明確であるものの不気味さ。それらは悪夢の中の不安や恐怖に良くにている。この映画のラストシーンもその典型だろう。
 



I saw a movie.
アタック・ナンバーハーフ
監督 脚本:ヨンユット・トンコントーン

 

 「アタック・ナンバーハーフ」を怖々見た。ジェンダー絡みのコメディ映画には時々酷いモノがあるからだ。この種の映画には、一般の人間にとって面白くても、インサイドの人間からすると「屈辱」の二文字しか感じ取れない展開もある。
  おまけに実話を元にした「オカマのバレーボールチーム」の映画なら、只々、オカマの仕草を面白おかしく誇張してみせるだけの映画になる可能性が大いにあるわけだ。
 見終わった感想?chikaの不安は杞憂に終わったどころか感動さえさせられた。
勿論「感動」と言っても良質なものではないが、これぐらいスポ根ストーリーのベタな展開を見せられれば誰だって涙の一つもこぼそうというものだ。
 心配していたオカマの仕草の誇張も多用されていたけれど、このバレーボールチームの唯一のノーマル男性選手との対置という形で上手く処理されていて嫌みにならない。それどころか一端のジェンダーフリー論を展開する一つの要素に加工している所がアイデアである。ノーマル男の恋人が、日々苛立っている彼の事を心配して「彼らが、男だから気にくわないの。それともオンナじゃないから腹が立つの?」とやんわりユーモアを交えて諭す辺りが脚本の頭の良さを感じさせる。
 
まあこんな風に書くと理屈が立った映画のような印象を与えるかも知れないが、「アタック・ナンバーハーフ」は極めて平易な映画で、誰が見ても楽しめるし元気になれる。おそらくその秘密は監督の人々を見るめる「眼差し」にあるのではないかと思う。
 映画の中では、このカトゥーイ(オカマとゲイの総称)達を取り巻く大衆の表情が何度も何種類も写し込まれる。カトゥーイ達を囃し立てる子ども、露骨にオカマあっちへ行けと言い放つおばちゃん、彼らのジョークにジョークで混ぜ返す老婆。それぞれ千差万別の反応なのだが、基本的にどの表情を見ても「許容」がその底に流れている。つまりそれがこの監督の「眼差し」なのである。
 ・・それに映画のエンドロールで本当の「サトリー・レック」メンバーの映像が挿入されるんだけど、バレーの試合映像も「映画よりリアルなオカマぶり」で映画のクネシナがまだ可愛く見えるほど(汗)。って事は、なんだかんだ言っても、やっぱりカトゥーイに対する文化が日本とは根こそぎ違うという事なんだよね。

PS タイの懐かしい光景が、、ああ又、タイに行きたくなっちゃった。パタヤで働いてたピア役のゴッゴーン・ベンジャーティグーン、綺麗だね〜。顔の造作って言うよりも肩の丸みだとか背中なんかが完全にオンナしてるし、、。でも本物さん、試合の練習期間中は、辛かっただろうな。



「新宿鮫風化水脈」 「炎蛹」
新宿鮫風化水脈
大沢 在昌 毎日新聞社



  大沢作品では「一気読み」をしない方が珍しいのだが、この作品では、休み休み読んだという記憶が強い。それにこれを読み上げるまでに何冊か違う本を読み終わっている。こう書くとこの作品がつまらないように聞こえるかも知れないが、真壁と雪絵の会話、雪絵とその母、あるいはその3人の絡みなどの場面では「ああまた大沢にやられる」と思いながらきっちり泣かされている私なのだ。
 それに今回の主人公は、どちらというと鮫島や晶などの個人としての人間ではなく、街としての「新宿」、そして鮫島の職業観・世界観であったような気がする。勿論この二つは、いつも「新宿鮫シリーズ」では底流にあるのだが、今回ほど前面に押し出されたものは少ないのではないかと思う。「街」の不思議に、感嘆し感傷に浸るのはなにも職業人・鮫島だけではないのである。
 まあ「新宿鮫風化水脈」はこういう仕掛けだったので、私には珍しくちゃんと睡眠時間を確保し終えた上で大沢作品を読み終えたのである。でも、初めの頃の鮫島とは、こうなんというかアタリが違うのね。「老成」とまでは言っちゃなんだけど、こんなに鮫島に「語らせたり」「気配りさせる」のはどうかなと少しは心配したのも本音。
 『ウォームハートコールドボディ』みたいな昔のものや『撃つ薔薇』なんて狙い所の違う作品を並べちゃ仕方がないんだろうけど、でも大沢の「良い特質」はこれらの作品の「面白さ」じゃなくて、圧倒的に新宿鮫のバックボーンの側にあると思う。だけれど、それをあまりに前面に出し切られると又つらいのなぁ、、と。
 で、この小説がM新聞の夕刊連載だった事を知って(M新聞はとっていない、ちなみに私はほとんど新聞・テレビを見ないで、情報はラジオかインターネットの人です。)自分の中で感じていた「新宿鮫風化水脈」に対する色々な疑問が氷塊した。
  「新宿鮫風化水脈」では鮫島が(というより作家・大沢が)随分いいたい事を言ってる事や、アクションよりは「心の機微」にバランスが大きいのも、なによりも文芸作品みたいな肌触りの意味もね。
 でも、やっぱり作家・大沢が成熟するように鮫島もやはり成長せざるを得ないんだろうなぁ、、「面白さ」と「深さ」か難しいなぁ。
 大沢作品では「一気読み」をしない方が珍しいのだが、この作品では、休み休み読んだという記憶が強い。それにこれを読み上げるまでに何冊か違う本を読み終わっている。こう書くとこの作品がつまらないように聞こえるかも知れないが、真壁と雪絵の会話、雪絵とその母、あるいはその3人の絡みなどの場面では「ああまた大沢にやられる」と思いながらきっちり泣かされている私なのだ。
 それに今回の主人公は、どちらというと鮫島や晶などの個人としての人間ではなく、街としての「新宿」、そして鮫島の職業観・世界観であったような気がする。勿論この二つは、いつも「新宿鮫シリーズ」では底流にあるのだが、今回ほど前面に押し出されたものは少ないのではないかと思う。「街」の不思議に、感嘆し感傷に浸るのはなにも職業人・鮫島だけではないのである。
 まあ「新宿鮫風化水脈」はこういう仕掛けだったので、私には珍しくちゃんと睡眠時間を確保し終えた上で大沢作品を読み終えたのである。でも、初めの頃の鮫島とは、こうなんというかアタリが違うのね。「老成」とまでは言っちゃなんだけど、こんなに鮫島に「語らせたり」「気配りさせる」のはどうかなと少しは心配したのも本音。
 『ウォームハートコールドボディ』みたいな昔のものや『撃つ薔薇』なんて狙い所の違う作品を並べちゃ仕方がないんだろうけど、でも大沢の「良い特質」はこれらの作品の「面白さ」じゃなくて、圧倒的に新宿鮫のバックボーンの側にあると思う。だけれど、それをあまりに前面に出し切られると又つらいのなぁ、、と。
 で、この小説がM新聞の夕刊連載だった事を知って(M新聞はとっていない、ちなみに私はほとんど新聞・テレビを見ないで、情報はラジオかインターネットの人です。)自分の中で感じていた「新宿鮫風化水脈」に対する色々な疑問が氷塊した。
  「新宿鮫風化水脈」では鮫島が(というより作家・大沢が)随分いいたい事を言ってる事や、アクションよりは「心の機微」にバランスが大きいのも、なによりも文芸作品みたいな肌触りの意味もね。
 でも、やっぱり作家・大沢が成熟するように鮫島もやはり成長せざるを得ないんだろうなぁ、、「面白さ」と「深さ」か難しいなぁ。
炎蛹 新宿鮫X
大沢在昌(光文社文庫)


光文社文庫さんの
カバー写真
とっても
気に入ってます。

 個人的にはとても楽しめた作品。まあ「新宿鮫」の中で、図抜けた一本とはとても言い難いんだけどね。「近緒のことだからどうせ、、、。」そう、図星です。「串本清郎」君と「たまき」おばちゃん。考えて見れば大沢作品にはけっこう「女装」だとか「おかま」さんはかなりの頻度で出てくるのよね〜。(気が付いている人は結構多いだろうけど、、。)特にお気に入りは清朗君です。「決められた日に、、。我慢するんだ。」っていう女装外出の興奮心理のツボを結構ついているし、あんまりオープンな評価としては書いちゃまずいんだろうけど「放火」と「女装の性的興奮昂揚」の絡みも旨く考えられているなぁって、。きっと清郎君、携帯握りしめたままパンティの中は勃起しまくりだろうな。それに大沢氏も清郎君を結構綺麗に描いてくれて有り難かった。その分、たまきおばちゃんをリアルモードにしたんだろうけどね、、。いずれにしても大沢氏のこういう人たちへのまなざしがいつも優しいのには感謝だわ。でもどうなんだろう、大沢氏のこういう世界への理解の深さってのは、、清朗君の所謂「なりたち」というか「生育歴」になると途端に「古典的」になるし、そのくせ部分心理はリアルだし、そのバランスがね、、。
 あと今度の「鮫」が面白い原因の一つは甲屋っていう人物の造形。「孤独な一匹狼刑事に、臨時のバディ」って設定は実にオーソドックスなんだけど、それが退職間近の植物防疫官というあたりが「ウンウンそうなんだぁ、、」って感じですね。この親子見たいな二人の関係を読者に見せていきながら、読者をいつの間にか、捜査活動において素人である甲屋を庇うプロの鮫島サイドに回らせてしまう大沢のテクニック。
 パニックノベルみたいな「ゾウムシ」の脅威、外国人女性連続殺人事件、ラブホテル連続放火という3件の事件に鮫島が絡んでいって、尚かつこのページ数で危なげなく処理する手連の手管。
 小説としてあんまり旨すぎても「嫌み」にならないのが、大沢氏の「なんだってそんなややこしいことになっちまったんだ」「新宿だから……なのだろうな」っていう「人間の欲望の街・新宿」への愛着故なんだろうね、、、。それに回を重ねるたびに大沢氏が鮫島をとにかく凡百のハードボイルド風ヒーローから「極普通の、ただまっとうに生きたい一人の男」にしょうとして躍起になっているのがよくわかる。「新宿鮫」はずっとこのバランスを取りながらシリーズを展開し続けるんだろうね。
 それにしてもロベルト・村上。このキャラ、いつ鮫島と直接対決をするのだろう。まあこれは「新宿鮫」がまだまだ続くという暗示なんだろうけれどね。


小野不由美 十二国記
「風の海 迷宮の岸」「月の影 影の海」「東の海神 西の滄海」


小野不由美 講談社文庫

 「美味しい食べ物屋さんがある。するとあなたは、そのお店をみんなに知らせたい?それとも独り占め?万人に好まれる味で、そのお店の在処を広める事に誇りを感じる?あるいは、そのお店の味は自分の嗜好にぴったりだけど、何人かは不味いと言うかも、、そんな時は?」つまらない例えを長々と書いてしまったのはこの作品(シリーズ)のせいである。キングやクーンツ等、これはもう立派すぎて「秘匿の楽しみ」や「偏執的な読み下し」等皆無である。しかし、まだ作家として完成していなくて、自分自身の感性に近い作家と作品にはそれなりの楽しみがある。

「風の海 迷宮の岸」

 耽溺という言葉が世の中にあるが、まさにそれは読書の楽しみの一つであろう。正直に告白して私はこの物語にあるような設定が大好きである。いくらハードな様相を模してみても実は「甘い」羊水の中の大冒険。ファンタジーなんだから、、、。それに、酔えない酒など、誰が飲むものか。泰麒が愛おしい。でも黒麒麟かぁ、、暫くしてこれってファントム・オブ・メナスなんじゃないかと、、そんな気がしてきた。結果的に巨大な「悪」になっていく切ない存在も魅力的だよ。
ps
東京異聞では設定にちょっと緩みがあったけれど、今度は実に楽しめます。

「月の影 影の海」
 自己確立の物語はちょっと苦手。しかし小野不由美の異世界の描写力はなかなかに凄い。
東京異聞の最終章でも壮絶な美しさに満ちた異界を作り出していたが、、。「月の海」でも冒頭の「使令」達の襲撃シーンだけで、もうこれはいけると思わせてくれた。(確かダリの絵で虎だかが飛び出してくる構図の絵があったように記憶している)

 まあ言いがかりを付けるとすれば、昨今の女子高校生を見ていると「陽子」を見つけるのはかなり苦労するだろうし。楽俊の設定はサービス過剰のご愛敬だ。それに、途中、どう読み込んでも陽子の性が揺らいでしまって若きヒーローになってしまうのも作者が「女性」だからだろうか。それにしても「王と麒麟」でワンセット、誰でも王に「選ばれてしまう」不条理、よく考えられた設定である。この設定が、この物語の底流に流れ始めるテーマをどれだけ広めていくのか、あるいは殺してゆくのか、これからが楽しみである。

「東の海神 西の滄海」

 麒麟は六太、王は尚隆である。彼らに対するは妖魔を使う人の子「更夜」と州王「斡由」。六太と尚隆のテンポの良い掛け合いが快い。しかしそれにしても小野不由美、実に面白い世界設定を作り上げたものである。ここでは思考実験による国の興亡が可能だ。国という最大の規模を扱いながら、それを左右するのは個人の小さな感情でしかない。勿論、その仕掛けとしての「足りず」を、 十二国記では「天命」が埋めるのだが。
 ところで「やおい」「JUNE」なるものをご存じだろうか? 十二国記ではどのシリーズも常に、この匂いがつきまとうが、特にこの作品ではその色が濃い。更夜などどうしても男性の人物像を頭の中で結ぶ事が出来ないし、大体にして六太と尚隆の関係は、結ばれる前の年齢差のある男女にしか見えない。勿論、私はその事をこの作品の欠点だとは思っていない。むしろその甘美や隠された耽美があるから、一国の興亡を描こうとして尚かつ、 十二国記がファンタジーとして成立するのだと思う。
 追記 物語の終盤に近い更夜の「人が死んで、国が滅びてなぜ悪い。私は斡由だけよければいい」という台詞にはどきりとさせられる。この台詞、「男」を持った「女」が吐くものようにも思えるし、日本というこの国で「こうなってしまった」現代若者気質を言い当てている台詞のようでもある。



I saw a movie.
文庫 eXistenZ
eXistenZ イグジステンズ

クリストファー・プリースト

柳下穀一郎訳 竹書房文庫

 クローネンバーグ監督の映画「eXistenZ」のオリジナル脚本からのノベライズ作品である。ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」がクローネンバーグ監督によって映画化された時も完全に「クローネンバーグ色」だったけれど、このノベライズもまるで同監督の映画を見るようだった。冒頭のピンクホンや死体銃なんて、どこから観てもクローネンバーグ。でも、映像表現って凄いね。小説とは絶対に「文法」が違う。小説は多かれ少なかれ「意味」や「意義」を伝えないと体を成さないけれど、映像は「何か」だけで引っ張れるものね。映像は「音楽」に近いんだろうな。このノベライズもクローネンバーグ監督の映画を一度でも見たことがある人と、そうでない人とでは、「楽しみ」の度合いが全然違う事だろうと思う。その意味で文庫に映画のショットを貼り込んだのは大正解だと思う。(お陰様で「裸のランチ」の映像が本書を読んでいる間、BGMみたいにちらつく始末)。ノベライズ作品にアレルギーがある人も多いと思うけれど、コレは結構面白いです。(クローネンバーグ監督ファンに限るかもしれないけれど、、。でもクローネンバーグ監督って絶対・変態だよね。私は大好きだけど)

映画 eXistenZ イグジステンズ
監督 脚本:デビッド・クローネンバーグ

 シリコンの生々しくも奇妙な肌色のポッド。人口義手、人工臓器を連想。映画冒頭の車の移動シーンの背景に流れる夜景の安っぽい合成の意識的な詐欺。乳首ないしクリトリスのスィッチ、、、プラグ接続、、全編アナルセックスのメタファー。病気のポッドを接続した後、慌てふためいて接続コードを切断、吹き出す血、その血はストッキングとハイヒールに降りかかる、、、、壮絶なフェチと美。
 鱒の養殖場の設定は、「裸のランチ」の工場とほぼ同じ。デビッド・クローネンバーグは本当にこれが好きなんだろうなぁ、、。ストーリー自体はこんなものかな、、自分の「撮りたい世界」の為に、辛うじて一般ウケするVRものをでっち上げたと言う感じで、、。最後の台詞
「ホントの事言って、これってまだゲームの中?」はご愛敬ですね。
 自分が、本当に拘っている事を、最大限有効に表現出来る「世界観」を確立して、更にそれを展開して作品にするのは実に難しい事ですよね。まあ、そんなこんなでこの映画は、私にとってデビッド・クローネンバーグの最高峰が「
クラッシュ」である事を再認識させてくれた一本でした。



I saw a movie.
マルコヴィッチの穴


監督: スパイク・ジョーンズ



「掴み所」のない映画である。ただ、霧の中を歩いているような「危うげな迷宮世界」というわけでもない。観客の予測なんて無視して、変調した物語が作り手側の確固たる自信を持って展開される、それがこの映画に「掴み所のない」印象を抱かせる一番大きな原因といえるだろうか、、。それに、他人の心や頭脳に入り込むといった設定は、SFの世界では、もううんざりする程古くから、しかも様々なバリエーションを持って語られて来たテーマである。テーマ自体に目新しさはない。
 しかしその事は監督も脚本家も充分意識した上での映画の作りなのだろうと思う。例えば扉から侵入してトンネル(管)を通過し入り込んだマルコヴィッチの視野は、単眼の覗き穴状態にしつらえてある。その設定自体が、寓話的な風味をこの映画に付加する為にあるのであって、「のっとり」テーマも内容ではなく、一つの様式と見なしていいのかも知れない。
 ただ従来の「のっとり」テーマと少し異なるのは、入り込まれるマルコヴィッチがあくまで「乗り物・容器・衣服」的に描かれながらも、物語の骨子としては、彼の独立した個人としての側面が重視されていることだ。(「のっとられ」が匿名の一般人ではなくて、同時代の「俳優」として設定されている理由もそれ故だと思うが。)
 それはこの映画が、「二つの人格の溶解・融合」というニュアンスにシフトしていきながら人間存在を照射するという仕組みを持つのではなく、逆に人間の「孤立」を取り扱うものだという事を示している。そのテーマの周辺が、実に奇妙な味わいを持ちつつ、(一見、時系列にそった正常な物語展開のように見せながら)継ぎ接ぎ細工のように展開されるのだ。
 又、この映画を観ている間中、ずっと感じなければならない生理的なギクシャク感は多分に演出されたものだろうと思える。例えば、同じストーリーでもキャスティングがもし違っていればこの映画、全然違う味わいになっていた筈だ。
 これがマルコヴィッチじゃなくて「ジョニー・ディップの穴」だったら?ほら全然ちがうでしょう?この映画でかなり重要なテーマの一つであるロッティとマキシーンのマルコヴィッチを介在しての疑似同性愛シーンだって、男がマルコヴィッチじゃなくてジョニー・ディップなら全然意味が変わって来るんだから、、。

 「謎掛け」映画の代表格は「2001年宇宙の旅」だろうが、この映画もそれに近い。というより、映画は上手くその方向に持っていくと、その「謎掛け」自体の味わいで、観客が楽しむ事も出来るんだという事が意図されているのではないかと思う。
 考えてみれば、「人間存在」のような、大昔から宗教や哲学で扱われ続けて来たテーマについて、一介の映画監督や脚本家が「答」など提供できる筈がないのだ。むしろ彼らが持っている力は思索性ではなく、映像が喚起するイマジネーションを操作する能力だと思う。「答」は映像を観た人間の数だけあるという、映画のトリックと旨味を最大限、利用したならばこういう映画になる筈だ。ある意味、映画が今後目指して行く一つの流れなのだろうが、、。
 掴み所なく奇妙に変調したこの味わいは、エンドシーン、マルコヴィッチ2世の女の子がプールの中を泳いでいる間中ずっと眩暈のようにつきまとうのである。

PS 劇中の人形の動きや表情はすごく生々しい。特に映画の冒頭にクレイグ・シュワーツが、人形を操る行為も人形の動きも実に生々しくってエロチック。続いて「7と1/2階のレスター社」の登場で、観客の意識はもう撹拌された状態になって「マルコヴィッチの穴」を待つことになっているんだよね。これはもう上手いやり方だと思ったよ。 
 





I saw a movie.
ライフ・イズ・ビューティフル


監督・脚本・主演:ロベルト・ベニーニ



 基本的にI sawでは歴史的な社会問題・戦争問題を扱った映画や小説を取り扱わない事にしている。そういった問題は「幅の狭い感性」や考察・洞察で軽々しく扱われるものでもないし、(特にインターネットという媒体では慎重な姿勢が必要だと思っている。)発言した限りには、必ず一定の責任を担うべき事柄だと思うからだ。「ゴールデン・ボーイ」も「ゴッドandモンスターも実は優れた戦争への問題提起を基調にした作品だが、一応、作品成立の為の角度が、人間の深層心理に焦点をあてた形となっている。
 、、、で、この映画の場合は、少し難しいのだ。
 ホテルでの食事場面で、小学生に教える数学の内容について、やがて主人公のグィドの妻となるドーラの前でちょっとした議論が交わされる。数学を税金の支出に兼ね併せて教える方法が、ドイツの場合取られているのだが、それが難しすぎるかどうかというものだ。「障害を持っている人間に対する特別措置のような無駄金を削ればいくら国家に利益が還元されるか」という問題は小学生にはレベルが高すぎるというのだ。それ対して「いや難しくはない」という反論は出るのだが、その問題に出された「例」自体の問題や、その事を教育の中にもちこむ事の問題が、誰にも批判されない状態で映画は描かれる。もちろんドーラは顔をしかめてその場を耐えているのだが、、。
 これは当時のナチスドイツが、ユダヤを排除するのと同様に「障害」を持った人々を苛烈に迫害していた事実、あるいは近隣の国(イタリアはドイツの同盟国だったので近隣の国という表現では当てはまらないかも知れないが)にその足音を鳴り響かせていたニュアンスを実によく捕らえた場面だと思う。
 基本的にはライフ・イズ・ビューティフルは、このような鋭い提起を随所に忍ばせながらあくまでコメディタッチを崩さない映画なのである。それが実に怖く、まるで私たち自身がロベルト・ベニーニ監督によって「生と死」「希望と絶望」「戦争と平和」が完全に表裏一体化したコインを握らされた格好になるのである。
 この映画のタイトルと内容は、かつてメキシコの隠遁していたトロッキーが、スターリン配下の暗殺者に狙われているのを察知して「今でも自分は"人生は美しい"と思っている」と書いた一文に、ベニーニが強いインスピレーションを受けたことがきっかけで作られたと言う。
 映画の最終段階でロベルト・ベニーニ監督自身が演じるグィドが、収容所を照らし回るサーチライトのスポットから逃れる為に壁にしがみつく姿は完全にチャップリンを意識したアクションだが、もうこの頃になると「笑い」は心の痛みさえ伴ってくるようになっている。そしてグィドの射殺の場面は決して表面には出されないのだが、それは観客へ「配慮」というよりも、観客にはその銃声のみの演出に「突きつけられた」ショックを受けるのである。
 それでもこの映画は「隠れた反戦映画」ではないのだろう。やはりテーマは "人生は美しい"という苛烈なまでの正の生き様だなのだろう。だからこそ、それとは対極にあるものが強烈に負として描かれるのだ。

PS 映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」でもロベルト・ベニーニは喋り巻くっています。いいですね。もうあの域に達すると芸術ですよ。快感さえ感じます。
 




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蝶の舌

監督・脚本:ホセ・ルイス・クエルダ

  

 この映画、ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品の代用品かなと、、「マレーナ」と「ニュー・シネマパラダイス」を混ぜたらこんな感じだもの、、と失礼な事を思い描きつつ、、、、ラストでは実にストレートに泣いてしまいました。
 それにジュゼッペ監督ならこんな終わり方はしないだろうなと、、。本当にこのラストシーン、がつんと来ました。
 これだけ美しい絵をつなぎ、モンチョ少年(マヌエル・ロサノ)の目から見た世界を瑞々しく描いておきながら、なんの躊躇いもなく、この前段を「生きるための裏切りの世界」へ運んでいく凄さ。
 それに誰がどう見たってスペインがファシズムの中に飲み込まれていく中、グレゴリオ先生(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)と少年の関係が悲しいものになっていくのは予測できる。だのに見ている側の「情動」は、このラストシーンで自分の予想を遙かに超えて激しく揺さぶられるのね。「来たよ来たよハンカチの用意」って感じじゃなくて、心の蓋を開けられてしまう感じ。
 ジェットコースタームービーっていう呼び方があるけれど、これは「落下型」ですね。最後の最後に静止画像になる少年の表情も凄いけど、近緒はモンチョ君のパパがグレゴリオ先生に罵倒する表情がつらくて(巧すぎる)、、。

 でもスペインの「光」には魅惑されますね。スペインの光こそが芸術を生んだという言葉、この映画を見てるとよく判る、、。グレゴリオ先生が「ティロノリンコ(オーストラリア産のこの鳥はメスに蘭の花を贈るのが特徴)のようにしなさい」とモンチョ少年を唆して森の中の湖で水浴中の幼い彼女に、白い花を贈らせるシーンだとか、、。もう叙情的絵画としか言いようがない。

PS 近緒は日本映画の「はだしのゲン」シリーズにも泣きます、正直言って、、。戦争とファシズム、、人々の生活を基盤とした共同体がいかに変質していくか。これだけは誰が描いても同じ。そしてそんな「時の流れ」にいかに人々は無力か、、そして同時に強いか、、。



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ナビィの恋


監督:中江裕司

「私があなたに惚れたのは19の春でした。今更、離縁というならば返して下さい19の春を・・・責任とってよ島の空、、。」


 私にとって、「家族」や「元気さ」という概念はもっとも縁遠くて薄いものだ。でも強い憧れを持っている。だから「ナビィの恋」は私から最も遠くて、近い物語なのかも知れない。
 私が、初めて海を泳ぐ海豚を見たのは沖縄に渡るフェリーの上からだった。格安の民宿に泊まり、まったりとした闇の中で母屋からのサンシンの音に耳を澄ませたのも、サンシンが当たり前のように島の生活にとけ込んだ道具としてある事を知ったのもこの旅だった。
 あれから数年がたち、その後も何度か訪れた事のある沖縄だが、そのほとんどが観光でしかなかった。だが、それでも私の中で沖縄・島への思いが強いのはなぜだろうか、、。
 東南アジアでも、少し僻地になる場所への旅行熱が高いという。どうやら私たちが過去の時代に失って来たものへの愛着や惜別の思いが、私たちをそんな場所へ駆り立てるらしい。
 私たちの「街」の季節が「本物の夏」の顔をまだ失っていなかった頃。冷蔵庫が木製で、氷によって中身を冷やしていた頃。
 私たち子どもは、やさしいおじいちゃんかおばあちゃんにタオルケットをお腹に掛けられて昼寝をしたのではなかろうか、、。
 開け放たれた玄関や窓から吹き込んでくる風には「不安」や「危険」の匂いは一切混じっていなかった筈だ。
 「ナビィの恋」で描き出される世界は、どこかそんな気分につながっている部分がある。
 おじぃ事、東金城恵達役の登川誠仁氏の台詞回しなどハラハラするのが、途中からなんでもOKになってくるのは、この人の人徳でもあり、主演の女優・西田尚美や村上淳の若々しさの支援のせいなのだろうか。方や東金城ナビィ 役、平良とみは達者な役者さんで、この人の笑顔はとびっきりの「芸人さん」を感じさせる。この人の配役なら、60年経って再会した昔の男と駆け落ちしたばあさんがいてもちっとも不思議ではないと思わせる。
 勿論、それを黙って見送るおじぃも登川誠仁氏でないと嫌みさが残ったかもしれないが。そんなこんなで見ていて嬉しくなる映画なのだ。
 でも何と言ってもこの映画のもう一人の主役は「音楽」だろうなと思う。私はブルースと津軽三味線と沖縄民謡が大好きで、その意味で「ナビィの恋」は大のお気に入りでもある。
 (でも沖縄民謡でなかったら、「ナビィの恋」の音楽シーンの挿入の仕方にはついていけなかっただろうな、、。私は基本的にアシュレイ・マックアイザックの登場シーンに代表される様な「仕掛け」が好きじゃないのだ。)
 そして最後に押しつけがましいけれど「日本人」なら、この映画を見て欲しいと思う。私たちが失ってきたもの、まだ間に合うもの、まだ強かに残り続けるもの。そういった発見がこの映画には必ずあると思う。
 



I saw a movie.
スナッチ


監督:ガイ・リッチー

  この映画はじめの数分で、「もしかしてこの映画、面白いんじゃない?」とこちらの期待感を強く刺激してくれる。ストップモーション、ハイスピード撮影に斬新なカット。こういう尖った「映像、展開」は大好き。「流行」には「流行の力」がある。でもそんな映画の課題は、それ以上の脚本と構成力を監督が持っているかどうかが鍵。
 ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」は、映像技術の最先端に比べて、物語の構成・展開ともオーソドックスで安心して見ていられる。時々その辺りを勘違いする制作サイドがあって、そんな映画を見る羽目に陥った時は、残念さを通り越して腹立ちさえ覚えるものである。
 (そしてそんな映画は悲しいことに我が国に多い。香港や韓国映画はこういった映画さえどん欲に呑み込んで行くが、それらは不思議な「熱」を帯びている。そして我が国のものは腐乱して冷たい。)
 「スナッチ」の分野はクライム・サスペンス映画に含まれるのだろうが、この映画で特徴的に思えるのは「撃ち殺すシーンは沢山あるが、撃ち殺されるシーンは少ししかない。」という事である。このあたりが、全体が暴力過多であるのに、眉をしかめず「この男達」の暴力というドタバタを楽しんで見ていける秘密なのだろう。
 映画ストーリーは、いくつかの出来事・トラブルと人間が複雑に絡まりあって、最後に一つに纏まって・・というパターン。(最近じゃ先輩タランティーノ監督の「ジャッキー・ブラウン」がいいね。)
 でもこのレビューは、事前資料としては全く役に立たない。「スナッチ」自体が「見て感じて巻き込まれて」いくスピードを楽しむ映画だからだ。
 ただ、ブラッド・ピットが「ファイト・クラブ」より格好よく見えた事だけは申し添えておこう。近緒はこの映画のブラッド・ピットとパイキー(流浪民)のミッキーにセクシィを感じました。プラス、その魅力に開眼させられたのはトニー役のビニー・ジョーンズです。彼はガイ・リッチー監督の前作「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」で、美味しい役所で光ってます。これについてはまた次回に。
PS SNATCHとは、「ひったくる」とか「もぎとる」とかいう意味だそうで、良いネーミングだと思います。物語のタイトルとしてもいいし、それだけでなく映画自体の「体質」も十分に言い当ててる。所で私は、この映画を日本語訳のビデオで見てるんだけどパイキー達の訛言葉のアフレコはかなり面白かった。実際の所はどうなのかなぁ、、。もっともヒヤリングなんてまったくだから、映画で見てもその面白さは分かんないんだけど。



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ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ



監督:ガイ・リッチー

「愉快」って言葉、、最近使ったことないけど、このクライム映画、本当に「愉快」な映画なんだ。若き「英国版タランティーノ」とも呼ばれるガイ監督、でも彼の方が映画の作り手という意味では「達者」に見えるのは何故かな、、。きっと「内輪受け遊び」の部分が少ないからだろうな。
 この映画、とにかく登場人物の一人一人のキャラがしっかり立ってるのね。特に主人公の一人である放蕩息子・エディの父親JD父親(スティング)は、表情だけで凄い存在感。まあスティングの顔の作り自体が悪魔的ではあるのだけれど、、。
 こういうタフな父親像は日本にはないね、戦前にだってないはず、、、父親という役割以上に自立した自我が前にでるというのかね、、自分が自律してて息子にもそれを求める父親。西洋の民主主義・個人主義は流血の中で生まれたものだからね、、。まあ、この映画のJDまで来ると、現実味が薄いから映画の中のファンタジーさとも言えるんだろうけど、日本人はたとえファンタジーあってもこういう父親像は想像できない、、。(日本じゃ、まあそれで良いんだろうけどね、、それにしてもスティングは渋いなぁ。)
 父親像と言えば、この映画にはもう一人「父親」が登場する。近緒注目のヴィニー・ジョーンズ。借金取りのビッグ・クリス役だ。
 ヴィニー・ジョーンズ、、どこか不思議な緩みのあるハードボイルドが似合う男。元、世界的なサッカー選手だったこの人物、ほんとに不思議な吸引力を持ってるよ。「お前達しびれたぜ」とか言いながら、主人公達が強奪した現金の入っていたバッグを返してやるシーン、、ヴィニー・ジョーンズが無茶渋くてかっこいい。
 ところがそのバッグを開けてみると中身は空っぽ、確かにクリスが返しに来た時に言った台詞は「お前達のバッグを返しに来た」で、中身まで返すとは言っていないのだ。
 彼らがたむろする酒場から引き上げるクリスは、愛する一人息子と真新しいスポーツカーにのって「今日から俺達は立派な金融業者だ。」とつぶやく。
 この一連の流れが、実に嫌みなく愉快に描き出されていくわけ。この監督、一癖もふた癖もある悪党どもを映し出すのも上手いが、ヴィニー・ジョーンズやスティングの起用などキャスティングもばっちりなんだよね。
 ガイ・リッチー、、覚えて置いて損はない監督名だよ。
 
PS でもでも、この映画を見てる間中、若い日のビートルズをおもっきり連想していまうのは何故だろうなぁ、、、。
 



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美少年の恋


監督・脚本:ヨン・ファン

 人には、綺麗に思える光景や、暖かな朝が必要だ。そう、「居場所」という奴が、、。それは人の手で長い歳月を掛けてゆっくりと形作られ生み出されるものだ。「美少年の恋」を見ながらずーっとそんな事を考えていた。「居場所」は家族であったり恋人であったりする。でも哀しい事に、この世の中では何時も逆説的な事が起こる。恋が始まり、全てを分かち合いたいたいと思い、、相手の中に自分の居場所を見つけようとするが、、、。
 サム(ダニエル・ウー)が素敵。でもこの映画はペニスとアナルの永遠の連鎖物語みたい。それに「そろいも揃って美少年」の不自然さ。主役を張っている4人の以外のゲイはみんなスケベオヤジか、間抜けなゲイボーイって感じで抽象的に描かれているし、、まあ「映画」なんだから仕方がないんだけれど、、、。
 後、映像的には「赤」と「青」が意識的に取り込まれてあったり、そんな使い古された手法を一応目障りに感じさせず成立させているんだから、それなりに綺麗な映画なんだよね。ナレーションもフィットしてるし。、、でもサムはなんで死んじゃうんだろ?
 「自分勝手な愛が、最愛の人を傷つけた、、」そりゃそうなんだけど、、。この映画の脚本は監督のヨン・ファンが書いた短編小説が下敷きなんだそうで、それは多分に内的でファーザー・コンプレックスに比重が寄った作品らしい。
 確かに映画の中でもサムはその辺りの影を確実に引きずった演出になっているし、それが、寡黙な癖に内側に鮮やかな「華」があるダニエル・ウーにピッタリなんだけど、、でもなぁ。 サムが一番敬愛する自分の父親に、事に及んでいる現場を見つけられたからって、そんな風に結んじゃうのかい?
 近緒の中には、あまりゲイムービーを「お耽美」に撮って欲しくないサムシングがある。それが何だか自分でも判らないんだけれど。まあいいか!『それが映画だ!』だもんね。
PS この映画、Isawでも取り上げた『ジェネックス・コップ』の若手俳優さん達と随分ダブってるんだけど、ホント、香港の俳優さんって芸域が広いね。感心しちゃうよ。



「Mr.クイン」 「わが名はレッド」
Mr.クイン
シェイマス・スミス

黒原敏行 訳 ハヤカワ文庫

  

  「Mr.クイン」。面白いです。一瞬、馳だとかの暗黒小説を思い出したんだけど、勿論、肌合いが全然違う。馳 星周の場合は読んだ後、壊滅的な気分になったりするけれど奇妙なカタルシスにも満ちているのも確かでしょう。だからそれに惹かれて、又、あの世界に復帰するじゃないですか。つまり馳の作品でもやはりどこか人間の情感があって湿っている。凄く突き詰めて言うともしかしたら自分もやってるかも知れないと甘い気持ちで共感できる余地がある。しかし「Mr.クイン」にはそれがない。この作品の「悪さ」加減は半端じゃなく、しかも乾いている。その乾き方は「可笑しみ」さえあって、クールとかいた言葉ではカバー出来ない。
 この作品の面白さは実は二側面あるのではないかと思う。一つは、完全に一人称で語られる事によって、殺人や犯罪自体が「仕事」として切り離せている事。しかもそれが逃げや誤魔化しを入れないで徹底的に書き込まれている事。でもよくよく気を付けてみると、この作品、肉を断つ感触や、苦痛の臨場感溢れる描写はないのである。あくまで知力を尽くしたパズルやゲームの側面だけを「悪」のサイドから描いているだけなのだ。だから、読者はどこか居心地の悪さを感じつつ、この「推理小説を逆回転したような小説」を面白く読むのだろう。
 二つ目はクインの性格に惹かれてしまうという事、私は「大ボラ吹き」と「強弁家」は見てる分には知的な男の魅力の2大要素だと思っている。クインは後者という事になる。ある意味、悪漢小説のジャンルに近しいものがあるかも知れないが、冷静になって考えるとこのクイン、共感する部分・共鳴する部分はまったくないのである。ただただ、このクインは「我々の中」にいるだけだ。私たち自身がお馴染みの自己保身をベースにした日常的な感覚と、殺人がクインの中ではいともあっけなく結ばれており、逆に私たちの方が小説の中で批判力を失ってしまうのだ。この「痺れ感覚」は湾岸戦争の事を思い出させる。
 兎に角、面白い。書評でも新しい感覚の小説と評価したものがあるが、私にはそうは思えない。「後ろ暗い」話ほど面白いものはないが、それには何処か罪悪感を刺激するものがある。そんな話は大昔から我々の身の回りには山ほどある。ただそれを読み物として処理する方法が上手いというのか、「Mr.クイン」の場合、ひねくれていやになるほど開けっぴろげという事だろう。(それと民族が持っている感覚の格差が凄くあるかも知れない。日本人のブラックユーモアとアイリッシュ、シェイマス・スミスのそれとは底が違うしね。)
PS この小説を読んだ人間が集まったら「私はあそのこ○○が嫌、間違っている」討論会が開けると思う。そういう楽しみ方だって出来るかも知れない。ちなみに私ならこうだ。「爆発物による殺人、テロリズムの発想・手法が嫌だ。」で返す言葉として「だったら読むな」って事になるのだけれど、、。

「わが名はレッド」
シェイマス・スミス
鈴木 恵訳 ハヤカワ文庫

     この文庫本はバッグで持ち歩いていたので一度紛失している。本をなくすなんて不思議な話だが誰かの手に渡って読まれている事を願っている。そしてその人がこの本にどんな感想を持ったのか是非聞いてみたい所だ。「わが名はレッド」は置き忘れられた本の内容として相応しいのか、ふさわしくないのか、、。
 結局この本、買い直して最後まで読んだ。前作の「Mr.クイン」の系統だなぁと読み進む内に、ひょっとして、これって救いようがない展開のまま終わってしまうんじゃないかとドキドキしてしまった。
 小説や映画には、悪党が犯罪を成功させてハッピー?エンドを迎える話が結構ある。でもそんな場合には必ず仕込みがあって、例えば出てくる人物が全部悪党だとか、誰も死なないとか、まあ要するに読者が読み終わった後にそれなりの納得ができる為の心理的なアリバイみたいなものだ。
 シェイマス・スミスの場合は「Mr.クイン」の時もそうだったが、悪漢小説の濃度がきつ過ぎて、アリバイ作りがちょっとやばいのだ。だって「Mr.クイン」の主人公は犯罪プランナーなんだよ。クインが周到に用意した犯罪がいかに上手く成功していくかを読ませる小説なんだから。シェイマス・スミスは普通の倫理観なんて歯牙にもかけていないって感じ。
 それに輪を掛けて今回の主人公レッドの場合は、前作の主人公と比べて陰が強く自らの手も血に染める部分がある。で、きっちり今回の展開も周到に用意された犯罪が見事に成功して行く。
 どんな小説でもその結末はある程度予想されるものだが、一つの小説に対してこんな終わり方だったら嫌だなと本気で思ったのは今回が初めてだ。
 結末はネタバレになるので書かないけれど、ここで言う「ネタバレ」も普通の小説のそれとは異なっている。だって最後に明確にされるレッドの犯罪動機を読むと、この物語の様相ががらりと一変してしまうからだ。
 「わが名はレッド」の奇妙なドキドキ感以外の読みどころは、二大怪獣の対決、もとい、二大悪党の悪知恵合戦だろう。近緒なんかはこの部分をもっと読みたかったのだが、本編では以外とあっさり終わってしまう。実践派犯罪プランナー・レッド対サイコキラー・ピカソが繰り広げる損得駆け引き合戦なんてシェイマス・スミスでなければ読めないはず。
 でもこの面白さも最終章で一気に別のものに変化しちゃうんだよね。それが全作の「Mr.クイン」とひと味違うところ。「Mr.クイン」を読んだからもういいやって思っている人は是非、ご一読を。


I saw a movie.
ワイルドアットハート


監督: デヴィッド・リンチ

 考えてみればビデオ化された映画というものは不思議なものだ。ビデオ映画・その功罪は劇場映画と並べられて、これからもいろいろと言われるのだろう。その中で近緒が一番興味深いのは、一作家の創作の歴史の時系列が、観客にとってはさほど大きな意味を持たなくなったという事だ。
 さてさてリンチ監督である。ビデオを借りれば最新作の「ストレイトストーリー」を見てから「ワイルドアットハート」を見るような事が出来る。リンチ監督は結構、私にとってお気に入りの人だから彼の作品の「見逃し」は少ないのだけれど、「ワイルドアットハート」は主役のニコラス・ケイジで遠慮したような部分がある。(どうでもいいけど彼の髪の薄さへの心配と、彼がモト冬樹に似過ぎているという私の強迫観念は、映画世界に没入できないほど、ほとんど病気の域に達している。)近緒のなかでニコラス・ケイジほどリンチ作品から遠い人はいないからである。
 ただリンチ監督の作品をどうしても見たいという欲求が最近強くあって、(夜中にラーメンが突如食べたくなるようなある種の偏った欠損感覚)「ワイルドアットハート」のパッケージに手を伸ばした。
 この作品があの「ブルーベルベット」より後に撮られたいう事自体が驚きである。勿論いつものように関係性を無視した奇怪な人物達が山のように出てきてリンチワールドが展開されるのだが、この映画、時々梅雨の晴れ間のように「一般的なまともさ」が無骨に顔を見せるのである。最後の愛の力を説く「良い魔女」だってリンチ監督、ひねりや諧謔からではなく本当はかなり真剣に撮っているのかも知れない。そんな訳で「ワイルドアットハート」は、まるで才能溢れる若手映像作家がおのれの偽悪家ぶりを徹底しそこねた作品のように見える。
 どうも近緒には、このほころびと後の「ストレイトストーリー」が繋がっているように見えてならないのだが、、、。(リンチ監督が拘ってる、「偶然出くわす交通事故」も共通項だけど、、)まあ真実はどちらにあってもかまわない。少なくともリンチ監督が作品を造り続ける限りはいずれ答えがでるのだろう。
「この世って、ハートはワイルドで、外側は、謎ばかり。」

 それにしてもにニコラス・ケイジの髪の毛が、、、。スネークジャケットの印象と一緒に近緒の頭から離れないんだよう。

PS ウィリアム・デフォーは、私がなんとなく好きな男優さんの一人で、イグジステンズの時の配役もぴったりなんだけれど「彼にはもっとええ役ないんかい」という気がした。なおさらこの「ワイルドアットハート」では、彼の役柄は極め付きドンピシャリなんだけど、「イヤ」だった。
 特にウィリアム・デフォーの歯茎むき出した時のアップなんて、近緒は奇妙に倒錯した胸騒ぎを覚えてしまったのよ。あの口でキスされたら、あの口で身体中を舐め回されたら、アレ〜っって感じで。(あれって良くできた特殊メイクだけど、あのコンセプトって誰が考えたんだろう。それとショットガンの暴発でウィリアム・デフォーの頭が真上に吹き飛ばされるシーン。グロシーンに耐性のある私にしても吃驚して怖かったよ〜。)



「スプートニクの恋人」
スプートニクの恋人
村上春樹 講談社文庫

  

  先に買い込んでいた「ダンスダンス」を放棄してこちらを先に読了した。村上の本は数ページだけ読んで放置しておいても、私に「罪悪感」を喚起しないから好きだ。絶対に枯れない泉みたいな感じがあって、、いつでも好きな時に戻っていけて透明な水をすくい取れる。村上春樹の本とはいつもこんなつき合いだから、食い散らかしをやっても別段問題はないのだけれど、今回「スプートニクの恋人」の場合、私の中には「変わりゆく作家・村上春木の最新刊」を読みたいというスケベ心があった。
 で読後感なのだが、今までの彼の作品と何がどう違うのか、私にはその差が突き止められなかった。むしろ「遠い太鼓」を読んだ後では、「スプートニクの恋人」は村上春樹にとって手慣れた小品という感じがしないでもない。(と言ったらハルキファンに暗殺されそう。ハルキファンは「遠い太鼓」は読まないほうが良いのかも、、。)
 でも一応、このコーナーは書籍批評ぽいことを書くことになっているので、こんなのはどうだろう。(作家の変化が判らないと書いたが、、春樹作品は何時も耽読しているから作品のエッジが判らないとも言える。今から書くことは、ある程度、この作品が私の中の「理屈好き」に共鳴した部分だ。)
 「スプートニクの恋人」は「未だに手に入らぬものへの喪失感」がテーマなのではないかと思う。(手に入らぬものを無くす訳がない。そう、矛盾してる、、勿論そのとおり、でもこう言うしかないのだ。人は時折「それ」を経験する。筈だ。)
 「スプートニクの恋人」は読んでいる間にも、デジャブを覚えた後のあの奇妙な苦しみに似たような感覚がつきまとう。特に後半、「すみれ」と「ミュウ」が肉体的な接触を持つあたりから、幻想の持っている質量とでも言ったらよいのか、そんな重力が働き始める、。
 でもまあ全体的には、村上春樹はいかにも現代的な恋愛小説を纏った小説を書いたものだと思う。登場する「ガールフレンド」も「すみれ」も「ミュウ」も若い女性が自分を投影したくなるような設定だし、、。「ミュウ」がベッドの中で「すみれ」の背中に浮き出る肋骨をなぞってやるシーンだとかね。
 勿論、近緒はその事を非難している訳ではない。村上春木の方向性からスタイリッシュさを取り除く事は極めて「危険な行為」だと思うからだ。
 それに失恋の後の「甘酸っぱい」感覚だけなら、誰でも書けるが、それを踏み台にして人間の存在への問いかけまで手を伸ばす事ができる作家はいつの時代だってそう多くはない。それに「スプートニクの恋人」のような形式の小説では、感受性の瑞々しさと共に、ある程度書き手に加齢が必要な作品なのだと思う。それらの事を考えるとこの作品は生まれるべき時に「必然」をもって創作されたのだろう。
 何かの書評でちらりと読んだことがあるが、そこでは「スプートニクの恋人」と「UFO目撃者の心理を探究した思想世界」は何処かで繋がっているのではないかという趣旨が書いてあった。私は当たらずとも遠からずだと思っている。村上春樹の描き出す「向こうの世界」は、強いファンタジーに塗り込められているように見えて、実はとてもリアルだからだ。それは嘘ではない。それはUFOも同じ事だ。勿論それは科学的立証という概念自体が入り込みようがない精神世界の話ではあるが、、、。
 それにしても「すみれ」は本当に「ぼく」の世界に還ってきたのだろうか、、。村上春樹なら還って来ても不思議ではないといえばないのだが、、。
 
PS 村上春樹は文章が巧い、、こんなことは改めて書く必要はないのだろうが、ちょっとメランコリックな「すみれ」の書く文章が「いかにも」と思わせるほどの出来上がりになっており、近緒などはもう「お手並み拝見」みたいなレベルで充分堪能させて貰った。でも、こんなに文章が旨くなった人は、次に何処へいくのだろう、、。


「ねじまき鳥クロニクル」
『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』
『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』
『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』
村上春樹 新潮文庫

  

  『ねじまき鳥クロニクル』を上手く語れる言葉が見つからない。私にとって村上作品は今までずっと癒し効果をもつものであったのに、、この作品を読んでいる間中、感じていた胸苦しさは一体なんだろう。
 クミコの喪失、。自分が、全く妻という「他人」を理解していなかったという「僕」の発見とおののき、しかも妻の肉体の淫乱と罪の意識の希薄さを告白された痛み。それを懸命に妻と自分とが積み重ねてきた日常と感情の共有をもって、解毒し、隠された真実をつかみ取ろうとする努力の懸命さ。
 (こんなふうに書いては、村上春樹ファンは、「春樹はそんな世俗なレベルで物語を書かない」と反発されるかも知れないが、、私は少なくともこの物語のスタートは間違いなく今書いたことにあると思う。)
 浮気・不倫、、言葉にすれば薄っぺらいスキャンダラスな単語だが、、当事者にとっては深く辛い問題。そしてそのあまりに世俗的な苦悩の向こうに、家族や国家や政治が顔を出してくるのが、この作品の秀逸な部分の一つなのだと思っている。
 僕にテレホンセックスを仕掛けてくる謎の女、、。(昔、貞女と悪女に分裂した一人の女の物語があったが、、、。)僕がその女の名前に思い当たった時から、物語は世俗を突き抜け「暗部」に向かって、歴史を縫い取るようにして深まっていく。
 ここからは、いつもの村上ワールドの常で、日常世界と異世界が入り交じって物語が進行していくのだが、今回の「二つの世界の往来」は現実的な強い苦渋を伴っている。
 その苦渋の中には、村上作品の中ではあまり表だって表面にはでてこなかった「戦争」や「国家・家」の問題が含まれているのだ。いつもの村上なら、主題の流れの中に「食べ物」や「酒」「ライフスタイル」を洒落た文脈と文体で絡めていくのだが、『ねじまき鳥クロニクル』ではそれが極端に少ない。
 さらに常の村上ワールドであれば、主人公の側に結構キュートな支援者が多数存在するのだが、本編ではその役割の笠原メイは、井戸の蓋を閉めて「僕」を窮地に追い込むし、シナモンは薄い影のような援護をしてくれるだけに留まっている。
 そして村上春樹の、あの超絶技巧の良きに達した比喩表現さえも、この作品の中では、暗い旋律の中に埋もれているかのように感じられるのである。
 そう『ねじまき鳥クロニクル』は「癒し」ではなく、「喪失と奪回」の物語なのである。そして読者は村上春樹の文章力によって、それを疑似体験する事になる。だからこそ苦しいのである。
 この苦渋の旅を経て、物語の終章は一応「ハッピーエンドだと思いたい」結末を迎える。クミコは苛烈ではあるが一応、現実の中のこちらの世界に戻っては来ている。だが本当にそれは僕の「奪還」の行為が完成した結果とはまだ誰も考える事は出来ない結末だ。
 主人公の「僕」が言うとおり、「まだこれでもましな方なのだ。もっと酷いことだって起こり得たのだ。」まさにその通りである。つまり、その結末はまったく私たちの生そのものである事を思い知らされる。

 この感想を書いている時点で私が読んだ村上作品の最新作は「スプートニクの恋人」である。
 だが私にとっての村上作品のベストは今の所、この『ねじまき鳥クロニクル』だ。
 読んでいる間中、これ程、心底胸を掻きむしられる思いをした作品はかってなかったし、読み終わってからもその感情が腫瘍のように残る作品も珍しいからだ、、。
 近緒、お勧め。未読の方は是非。でも現在、不倫中のヒトは読まない方がいいかも。

PS この作品を読んでいる間中ずっと頭を悩ましていた事のもう一つの事は、クミコの「姿」だった。クミコの背中や肩のイメージは何度も文章の中で繰り返されるので驚く程くっきりとビジュアライズ出来る。所が、「顔」になるとまったく思い浮かばない。
 村上春樹の作品群に登場する人物は、各種メディアに露出している実在人物と置き換えやすい。それは村上春樹の文体の力だろう。
 ところが『ねじまき鳥クロニクル』では、クミコの容姿だけが確定できないのだ。これはクミコが、本当に何処かにいて今も息をしていそうで、しかも「絶対に存在しない」という矛盾した存在として我々に突き刺さってくる存在だからだと思う。
 だから読者は、クミコをビジュアライズ化しようと思った途端、自らの内に、その該当人物を捜し出さなければならないのだ。そして読者の中にも再び「喪失と奪回」の営みが始まっていくのである。今度は作品の中ではなく、私たち自身のイマジネーションの中で。


「さらば、愛しき鉤爪」


エリック・ガルシア
酒井昭伸訳 ソニー・マガジンズ

  

 人間の皮(ポリスキン)をかぶった進化恐竜ルビオが主人公。このヒトの皮、スーツというよりコルセットや矯正拘束具に近くボタンやジッパーで着脱し、進化によって小型化はしてもその体型は恐竜のままの恐竜族を完全にヒトに偽装させる。
 これだけでも結構、近緒好みの設定なのだが、どういうわけかこの小説、前半はとても退屈で、何度も読むのを止めようかと思ったぐらいだ。
 思うにこの前半、作者自身が、「ヒトの皮を被った恐竜探偵のハードボイルド物語」という突拍子もない設定下で、物語をどう進めていくか、手探り状態で書いていたのではないかと思う。
 だが、読者側もこの特異な設定を渋々消化し始めた頃から、物語は急におもしろくなるのである。
 近緒が大好きなシーンが一つある。それは夜のバスストップで酔いつぶれてしまったクラブ歌手サラ・アーチャーと、本作品の主人公である恐竜探偵ヴィンセント・ルビオが恋に陥っていく描写だ。
 サラ・アーチャーの酔った戯言とメロディの断片が入り交じったスイングが、夜の静寂に流れ、その声に心掴まれたルビオはそっと彼女に口づけする。このあたりはハードボイルド小説固有の「センチな気分・大人の純情」を実に見事に引き継いでいる。
 それに「なぜ人間の格好をした恐竜」なのかという設定上の特異性も、後に明らかにされる登場人物(竜)達の色恋沙汰を含めて、うまく展開し始めるのがこの描写あたりからである。
 要するに、どんでん返しに次ぐどんでん返しのネタは「人間の皮」にあるのだけれど、これはさすがにネタばらしになるので此処では書かないでおこう。(どちらかと言うと「呆れた系」のドンデンなんだけどね)
 純正ミステリーから入った読み手からすれば、本作品はかなり際物に写ると思うが、SFからノンジャンルへと流れ出した悪食読者には、それほど違和感はないだろう。
 特に後半、主人公の恐竜探偵が「キメラ」と呼ばざるを得ないような異形の生命体と出くわし、人間の扮装を解いてバトルを繰り広げるシーンなど喝采ものではないだろうか。
 最後まで諦めずに読んでみて、結構おもしろいから。




I saw a movie.
アナトミー
監醤・脚本:ステファン・ルツォヴィツキー


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不思議な温度をもっている映画だ。レンタルビデオ店にあってもそれほど早い回転もせず、やがてはひっそりと忘れ去られていくような映画かも知れない。けれど面白くて「綺麗」な映画である事は間違いない。
 その美しさは「セル」に匹敵するという評価もあるが、それはちょっと言い過ぎ、「セル」にも標本体の輪切りだとか、良く似たシーンが登場するしティストも近いのは確かだが「セル」の方が映像的に遙かにゴージャスである。それでも侮れない「何か」がこの映画にはある。
 映画は、生きたまま解剖されていく男の「痛い」視点で突然にはじまる。これは麻酔手術をされた事のある人ならなんとなく実感できる感覚だろう。「惨殺」ではなく、あくまで「解剖」だから、クローズアップで映し出される皮を剥かれ綺麗に分解された男の手も精緻な人体解剖模型のように見える。
 そういえばここ最近、毎年のように「人体の神秘展」が行われていて圧倒的に多くの女性に人気があるらしいが、そんな魅力にあい通じる部分が多くある映画だ。
 ステンレススチールの医療機器・器具、それに手術道具、それらはあくまでも清潔で美しく、その上に乗った人体は複雑な構造をもった「物体」でしかない。 そんな物体の「美」に魅入られてしまった医学生。そして彼を更にエスカレートさせる、治療よりも研究を医学の王道とするフリーメーソン=アンチ・ヒポクラテス連盟。
 まあこんなお膳立ての中で、秘密をかぎまわり、走りまくるのが、あの「ラン・ローラ・ラン」で強烈な印象を残したフランカ・ポテンテだ。
 可愛いのか可愛くないのか、しっかりしているのかおっちょこちょいなのか、キャラクターとしても腰の据わらない感のある不思議な彼女が、そのまんまの印象で、「二番目に頭の良い医大生」として、解剖学講座に参加する女性を演じる。
 「二番目」と書いたが、彼女と一緒に講座を受ける事になった色ボケのパツキン娘グレッチェンが、実は「一番目に頭の良い」学生だったという伏線の張り方からして、この映画、重厚なゴシックホラー路線をわざと外している事がわかる。 
  このグレッチェンを中心に据えて奔放な大学生達の性生活を描く事で、その隣にある物体としての死体を際だたせる。更に無機質な解剖室を描き終わった後は、大学周辺の風景を圧倒的に美しく撮影して見せる。
 どうやらこの映画、そんな対比を使いながら、冷蔵庫の照明灯の中に浮かび上がっている綺麗にラッピングされた肉塊の美しさを本気で撮ろうとしているようだ。
 その為に邪魔になるような、従来のホラー映画に付き物であった設定をかなり意図的に外しているのだ。フランカ・ポテンテも従来のホラーヒロインとは微妙に違う。追いつめられている癖に悲壮感がない。 この全体を覆う意図的な微妙なズレと、解剖死体の美しさを味わえる人には是非おすすめの一本です。

PS 紹介の中でこの映画、ホラーのニューウェーブみたいな書き方になっちゃたけれど、大本の設定は王道を行くって感じなんですよ。血がゴムみたいになる死体保存液を生きた人間に注射、、生きたままの人間を解剖して標本にする。これって人間を殺して蝋人形にするとかの設定と一緒でしょう。ホラーの原点ってエロスなんですよね。そこの所は外れていない。というか新しい装いで一生懸命撮ろうとしている。グレッチェンの解剖標本体なんて美しいの一言です。「なんと言っても最も美しいのは彼女の顔だ。一人でいる時は僕はこの顔を被って、、。」とか言いながらサイコ大学生君がグレッチェンの顔をベロンと標本体から外すシーンなんかは、思わず息を飲んじゃいました。



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リトル・ダンサー
監 督:スティーブン・ダルドリー

 この映画、近緒、最大級のお勧め。まずジェンダー論的な書き方をすると「そんな映画なのか」と直ぐに引いちゃう人がいるので、前半の部は極まっとうにご紹介を、、。
 母親がいない貧しい家庭、そして頑固一徹な父親と厳しい社会状況。そんな中で、ある日バレーに目覚めてしまった一人の少年がロイヤル・バレエ学校に入学するまでの物語。映画を見てる間中、泣いたり笑ったり微笑んだり、もう共感の嵐って感じです。
 出演者も脚本も監督も全て花マルです。あえてケチを付けるなら、最後の最後に成長した主人公のビリー役としてバレエダンサーのアダム・クーバーを持ってきた事がどうなのか?という事ぐらいでしょう。
 それでもこの映画、超名作というわけでも感動巨編というわけでもないんですよね。小粒です。でもその小粒さが実に精緻で豊かなんです。
 たった1時間強の時間の中で、イギリスのサッチャリズムが衰退産業への支援打ち切り政策を打ち出し、労働者がどのような状況下で生活を送ったのかとか、親が我が子にかける愛情のあり方、あるいは親としての成長とか、実に旨く映画の中に切り出して来ている。
 状況の多少の差はあれ、こういう激動する社会と揺れ動いていく家族の中で、あなたもわたしも育ってきたのだという事をしっかり共感させてくれる映画なのです。そしてこの私達の「生」を描く映画の核になっているのが「夢、可能性」。
 これだけの事をきちっとパッケージして見せてくれる、こういったタイプの映画、近緒大好きです。
 勿論この成功のキーになったのは主人公ビリーを演じた13歳のジェイミー・ベルでしょうね。天才的子役って柄じゃ全然ないんだけれど、とっても素敵な子です。
 クラスメイトでいたでしょう?スターじゃないけど、隠しておきたいとっておきの男の子。そんな感じです。芯が強くて素直で優しくて、反発もするけどやっぱり厳しい現実には合わせていくしかない事は判っているビリー。このビリーにジェイミー・ベルは内面からシンクロしてますね。とにかく彼のクルクル変わっていく表情を見てやって下さい。最高に愛おしく素敵です。

 次に、このビリーがバレーをやっていることに猛反対した不器用な父親役を演じるゲアリー・ルイス。この人も最高ですね。
 雰囲気的には「北の国から」の田中邦江を硬派にしたような感じなんだけれども、、、。クリスマスの夜の暖を取るためにしんだ妻が残したピアノを黙々とハンマーでたたき壊すシーンだとか、ビリーのオーディション代の為にスト破りの汚名を来てまでも体制の用意した通勤バスに乗り込み、自らの裏切りに嗚咽を堪えるシーンだとかね。そういうのがとてもはまる役者さんなんですよ。
 この人が、父親のスト破りを詰る長男に泣き崩れながら「俺達を見ろ、(炭坑労働夫は)おしまいだ。でもビリーには未来がある。 夢を叶えてやりたいんだ、許してくれ。」と訴え、労働運動の闘士である長男も折れてしまうシーンなどはもう何も言うことなしです。
 それからビリー少年のバレーの先生になるウィルキンソン夫人役のジュリー・ウォルターズ、、、、普通の映画なら単純にビリー少年に力添えをしてやる「いい人」なんですが、、、この映画ではビリーに「あんたは自分の欲求不満の解消の為に僕を使っているだけだ。」といわれビンタを喰らわしたり、、、実在感があるんですよね。
 、、、ああ名場面の数々、、ビリーを中心とした少年、少女達のキュートさ。書いていくときりがないなあ、、って事で大推薦の映画なのです。
 
 ・・でここまでが普通のレビューです。ここから以降はホモセクシュアル等に拒否反応がある方は読まないで下さい。
 (いつもはここから書くんだけどね、この映画に限ってはみんなにもっと見てもらいたいから。)
 ビリーが最初、ボクシングジムの隣に引っ越してきたバレー教室に興味を持ったのに、直ぐにその世界に飛び込めなかった理由は「バレーをやる男はオカマだ。」という既成概念があったからなんですよね。
 父親が激しく息子からバレーを禁止したのも同じ理由。彼らが住んでいる町も男臭い炭坑労働者が形成する世界で、そこから考えても「バレーをする男」は完全な異端者になるわけです。
 「男らしさ」「女らしさ」この辺の二つの価値観の拮抗が、ずっとこの映画の裏側で動いているようです。監督さんは、しきりとビリー少年に「バレーをやったってオカマじゃないんだ。」と言わせ、彼のストレート振りを強調して見せるんですが、どうもその事自体が裏目に出てる見たいですね。
 そんな目で見てみると、ビリーが少女から「あれを見せたげようか」と露骨に誘われても「そんなもの見せなくても君のことすきだよ」とかわして見せたり、女装趣味のゲイの親友からキスされても拒まなかったりとかというシーンが、(性の目覚めの未分化な時期の男の子の対応というか)ビリーのやさしさではなく、何か違うものに感じられるわけです。
 (もしかして制作サイドは、意識的にダブルイメージにしてるのかも)
 おそらくこの時点でストレートな人は「そんなの嫌だ」と思うだろうし、ある程度こう言った事に理解のある人は「ありうる」かもと思うのでしょうね。
 近緒はこの映画がいずれの視点で世界を描こうと、どちらでもOKなんですよ。それよりビリーが親友のマイケル(ステュアート・ウェルズ)に与えた「許容」や「やさしさ」、少女にみせた気配りなんかが、「少年期」の男の子の中には、実に自然に存在するという事実や、あるいはそんなビリーを映画の中に映し止めた事のほうが、重要ではないかと思われるんです。
 映画の最後に、ゲイとして随分逞しくなったマイケルが、黒人の恋人と一緒に成長したビリーのステージを見に来るシーンがあるんだけど、あれが一つの解答じゃないかと思うわけです。
 結局、この映画って「今、感じて生きている。」この瞬間への賛歌じゃないか、そんな風にも思える訳です。
 
PS マイケル役のステュアート・ウェルズ君、違った意味で可愛いですね。彼とビリーのツーショットの場面はいくつかあるんだけれど、二人が雪だるまを作って遊んでいて、マイケルがビリーの手を自分の懐に入れて暖めてやるシーンなんかいいですよ。
 なんだか「初恋」の場面みたいで、、。 



I saw a movie.
猟奇的な彼女
監 督 クァク・ジョエン

 ヒロインを演じるチョン・ジヒョンは、のっけから彼女のさらさらロングヘヤーを揺らしながらゲロ飲み込み演技で、観客を映画の中に引き込んでしまう。
 モデル出身の出演者は、この辺りが強い。素の自分のキャラクターにあった脚本に出くわすと、その時の「旬の自分」で勝負が出来る。しかも、スタイルが勝負だから、顔だけが飛び抜けた美形である必要もない。
 もしその顔に、ちょっとでも傷を付けたら叱られそうな女優がこのゲロ演技をしたら、それはどこまで行っても「白熱の名演技」であって、「いるよなー、見栄えはいいけどこんな風に酔っぱらう女」という観客の共感は決して得られないだろう。
 その他、男女の他愛もないゲームで罰として与えられるデコピン前のチョン・ジヒョンのくちゃくちゃの表情だとか随所に見られる彼女の表情が実に可愛い。
 こんなチョン・ジヒョン演じる「猟奇的な女」がメインだからこそヒットした映画であると思う。この映画で取り上げている恋愛観は、現代の韓国の若者像を写しながらも、初々しく純情かつ古典的であり、題名のように特別斬新なものではない。

 とまあチョン・ジヒョンの可愛らしさばかりに目が行きがちの映画だが、実はヒロインに振り回されるキョヌを演じるチャ・テヒョンの方が達者なのかも知れない。
 すべてをひっくり返してしまうようなコミカルな演技を見せる訳ではないが、天性の「優しさ」を体現出来る彼の個性は「猟奇的な彼女」にうまく対比して、この作品を良質なものにしている。

PS その勢いが衰える事を知らない韓国映画だが、こと恋愛映画に関してはまだまだ日本の方が一日の長があるようである。シュリで見せた、映画の面白い要素だけを旨く配列したような新韓国映画特有の高濃度なエンタメ性は、この分野ではまだ展開でき切れていないような気がした。
 ハリウッドのドリームワークスがこの脚本に目を付けたのは、「猟奇的な彼女」を演じてお似合いの女優陣の確信と、この手のラブコメディの自国におけるヒット展開が読めているからだろう。
 お次は日本、、でもこの国を覆っているダルダル恋愛では望み薄か、、。



「女王の百年密室」
『女王の百年密室』

森 博嗣  幻冬舎文庫

近緒'sロイディ

 森博嗣って「女装」や「ふたなり」が好きなお宅君や、やおい好きの女の子に人気があるような気がする。
 しかも本作はSF風だから余計にそんな読者エリアが広がっていそう。
 近緒のヘッポコ小説もそっちの領域に近いんだけど、SMとかフェチが強いからね、読んでいてあまり「甘く」ないのよね。
 んーつまり、個人的には森博嗣の書くものとは良く似たジャンルにいながら波長が合わないってことなのね。

 第一、この小説ってなんなんだろう。意味のないジャンル分けが流行らないのは良くわかっているけど、SFにしてはファンタジーがきつすぎだし、ミステリーにしては構成が柔だし、耽美風味は施されてあるものの薄味だし、、、あえて言うなら「哲学的お耽美」?
 ジャグジーってあるじゃない、日本人の感覚だとあれってお風呂じゃないのよね。その上、温泉でもないしプールでもない。
 森博嗣の作品って哲学ジャグジーじゃないかって気がするのよね。膚が合う人には心地よくたゆってられるというか、、そうじゃない人には違和感が膚に付き纏ってベタベタする感じで、、うーんそう言う意味では京極夏彦に似てるのかな。
 だから厳密に言うと、この作品をミステリーやSFの読み物として評価するのは間違いなんだろうと思う。
 <誰もが幸せ、ルナティック・シティ>の設定なんてSFじゃ古風で王道すぎて誰も使わないでしょ。犯人探しも、こんなからくりじゃミステリーなんて言うのも烏滸がましいし。
 それに決定的なのは主人公の仇敵になるマノ・キョーヤの描写。何人もの人間を殺した逃亡者の心理描写があれでは説得力に欠ける。
 いくらルナティック・シティに感化された設定だとしても、大量殺人者を「普通の人」に書いちゃ駄目。
 結局、ロイディとミチルのコンビの面白さとか、主人公の「倒錯」から生まれる思考的耽美とかね、、まったくやおい漫画のあのムードで押してるというかね。
 それによく考えたら「ロイディとミチル」の関係はナルシスで、「ミチルと頭脳」の関係は性の同一化って事でしょう。これは「甘く」もなるわな。
 何度も書くけど近緒はこういうの嫌い。ただ自動標準のハンドガンだとか、エヤーバッグ内蔵のプロテクタースーツでのバトルとかね。この辺りはちょっと凄いなと正直言って思うんだけど。
 この人ってグレードの高い赤川次郎なんやろか。(実は赤川次郎の本は全く読んだ事がない。完全な予断と偏見、ぶちかましです。はい、ごめんなさい。)
 



「モザイク」
モザイク
田口ランディ
 幻冬舎文庫

 

  田口ランディは「生臭い」。
 生臭さは、「コンセント」を読んだ時にはそれ程感じなかったし、作者の思惑とは違って結構お洒落な紀行文になってしまった「7days in BALI」では完全に払拭されていたような気がする。
 ところが「モザイク」では、それが強烈に感じられる。本書の主人公は佐藤ミミではなく、ミミの姿を借りた田口ランディ本人である。だから”渋谷の底が抜ける”なんて派手な惹句で始まるこの物語は、見栄えが違うだけで、初期の「コンセント」と書いてある事はまったく同じなのである。
 この「生臭さ」には、あえて「女の」という冠詞は付けずに置こうと思う。それは田口ランディ固有のものであるからだ。
 今思えば「コンセント」の場合には「生臭さ」が有利に働いていたのではないかと思う。まあ「コンセント」の話運び自体が「色キ○ガイの女が死んでしまった自分の兄を探す精神世界トリップ」なのだから、「生臭さ」が有利に働くのは当たり前と言えば当たり前のことだが。

 近緒は今でも田口ランディの本分はコラムニストというかエッセイストにあると考えている。まあいわば雑文家だ。
 エッセイの特徴は、主人公が「粉飾しない生の私」しかいない「小説」だと言うことだ。
 彼女がコラムレベルの文章を書いている時は「生臭さ」は中和されていい感じになる。ところが小説になると作者本人のエゴが加工されないまま、とぐろを巻いたような作品が出来上がる場合がある、不思議な事だ。
 それは彼女がインターネット出身という事も多少影響しているかも知れない。自分もWebで文章を垂れ流す立場にいるからそこの所は余計に理解できる。
 インターネットで熟成された書き手の感覚には、情報の海に漂いながら、つまみ食いをしながらでもシリアスなものが書けてしまうというある種の「お手軽さ」が身に付くものなのだ。
 (「つまみ食い」と言うのは田口ランディの盗作云々の事を指しているのではない。うーん、どう言ったらいいだろう、、、「モザイク」の最後辺りってロバート・ゼメキス監督の「コンタクト」によく似てるでしょ。それに骨法っていうのも一時凄くはやったし。ネッ?)
 勿論、今書いた事は、正規のルート(?)で職業作家になった小説家が、自分の命を傷って作品を書いているなどと言った戯言の裏返しではない。
 要するにインターネットで熟成されてしまった作家は、文章作法の視野というか感覚的な足場が、恐ろしく流動的なのだ。
 だから田口ランディの「本になった小説」を読むと「途切れ」を何度も感じてしまう。それはストーリーが破綻しているとか、展開がまずいとかそういったものではない。
 田口ランディは、何か書く方法を間違っているような気がする。
 これは「モザイク」にも「文章表現というのはレールみたいに直線的で、全体を一気に見渡せる能力がないから、物事の真実を伝えるには云々」と言ったような下りがあって、田口ランディ自身、自分の文章になにかもどかしさを感じているのではないかと思う。

 ブックレビューと言うよりは作家論じみたものになった。ついでに、もう一言。
 実は「モザイク」の主人公の職業が「運び屋」でありしかも古武道の達人である美女だという展開に、近緒は密かな拍手を送っていたのだ。
 これでいよいよ田口ランディも、読者に本気で読ませるエンターテインメントを意識した文章を書く積もりになったのだと、、主人公が漫画じみた設定でもなんでもかまいはしないのだ。
 一人の才能ある人間が、本気で読ませようと考えた作品は、本当に面白くなりうるからだ。
 でも「モザイク」は残念ながら、読んでいく内に「やっぱあんたの言いたいことをエロ話で粉飾しながら愚痴愚痴書いているだけね、、、。エッセイとどうちゃうのん。ダークなだけやん。」っていう感じに最後は収束して行くのだ。
 考えて見ると初期作品である「コンセント」の終わり方は、とてもよかったんだと思う。
 少なくとも本書のような「なんなのこれ、素人が書いたの」みたいな余韻を残さずにすんだのだから。 

PS 「欠点多いよー」って思いながらも目が離せなかったり、結構好きだったりする作家が二人いる。脚本家だと井上、小説家だと田口ランディである。
 田口ランディの場合、(別に喧嘩を売る訳じゃないけど)熱心な読者というか信奉者がいる事自体の不思議と、Web上で思い切り悪口を書かれる状況自体に、彼女の魅力を感じるのだ。
 それにどういう訳か、今度の旅行に何もっていこうって考えた時の本選びには、安全パイになる作家の一人でもあるのだ



I saw a movie.
CHICAGO
監 督:ロブ・マーシャル

 個人的な好みに過ぎないがミュージカル映画はどうも苦手で居心地が悪い。今までの物語としての展開が唐突に歌やダンスに切り替わる違和感をどうしても受け入れられないからだ。 その意味では「シカゴ」という映画、回想・説明の場面を利用して、ミュージカル場面に切り替わるように構成が旨くできていると思う。
 それでもロキシーの夫が延々と歌う「ミスター・セロファン」なんかを無理矢理聞かされると「でもな〜ミュージカルってヤッパリ、、」という感じは残るのだが。
 それより面白く感じたのは、この映画で取り上げられた「シカゴ」と、その当時の何でもありで狂騒的な「時代の気分」だ。
 自分にとって正当な理由があれば殺人も「可」、更に裁判に勝てば有罪も無罪。
 この映画、アメリカ国内では古き良き時代への懐古的な側面を持つと共に、まさに現実を抽出した物語として捉えられているような気がするのだが、、
 勿論、この映画の本当の主題は映画の最後に歌い上げられる「I move on」(何があったって生きて行くんだ!)なのだろうと思うし、それは二人の女優達の力によって(特に誰もが口をそろえて絶賛するゼタ=ジョーンズ)成し遂げられているとは思うのだが、アカデミー賞の発表時期や諸々の事を考えると、正にこの映画の「アメリカ性」の方がより際だって見えるのである。

PS 「Cell Block Tango」(鉄格子のタンゴ)で女囚達が登場するのだが、彼女たちの化けっぷりが凄い。やっぱり女は化粧と服だよねぇ、、。一番代わり映えがしないのは主役のレニー・ゼルヴィガーだったりして。



I saw a movie.
皆月
監 督:望月六郎

「皆月」は、ずーと前から見たいと思っていた映画だけど、レンタル店に行けばいつでも貸し出し可能だし、今、「皆月」を借りるんだったら最新作の方がって感じでスルーして来た映画だ。
 何故、見たかったのかと言えば監督が望月六郎で原作は花村満月、、、それにchika贔屓の北村一輝が出てるからだ。残念ながら奥田瑛二や荻野目慶子には全然興味がないし、実際、映画を見ても奥田の演出過剰のノタノタ兎中年ぶりはちょっとしつこかったし荻野目慶子は、、演技がどうのというほどの出番がない。実際、スクリーンを見る者の目を引きつけているのは北村一輝と吉本多香美の熱演だろう。
 特に北村一輝の危険な魅力は、今ほどではないにしても、この作品でじっくり根を張りつつある。ただしアキラの暴力表現が、現在のTVなどの方がずっと激しく感じられ、物足りなく思えるのは時代のせいだろうか?
 ところで原作者の花村満月が、この映画へのコメントに面白い事を書いている。
 『一緒に暮らしていても心を通じ合うことが出来ず、それなのに他の人とは心を通じ合わせることが出来てしまったりする。そんな心の襞や綾というものを描こうとした。』
 ・・・これって凄く判る。映画で言うとアキラと諏訪が、姉であり妻である沙夜子と本気で向かい合えないくせに、義兄弟同士で理解し合ったり、諏訪が自分を騙そうと近づいてきたソープ嬢の由美と同棲生活を始めたり、、、花村満月が睦月六郎を誉めているけれど、なかなかに上手く表現している。
 初めやくざのアキラが、何故これほどうだつの上がらない諏訪の面倒を見るのかと思っていたのだが、最後になって、なる程と納得させられた。
 最後に自首して警察に出向いたアキラが、背中に背負った観音見せながら自分の肩を姉に咬ませるシーンこれが秀逸だ。
 アキラが自分の姉に対して一つの思いを通じさせる為に随分と長い道のりを歩いて来た事を思わせて見事だと思った。
 「みんな月でした。がまんの限界です。さようなら。」と書いて若い男と家出をした妻(姉)を諏訪とアキラが見つけ出した時、この物語は一気に爆ぜるのだが、花村満月の作品としては意外なハッピーエンドで終わる。
 それは「月」のように他人からの光でしか輝けない人間達に、たった一人混じった「太陽」としてのソープ嬢の由美が「私は太陽なんかじゃない」と否定した時に、再び諏訪と結ばれる結末を迎えるからだ。
 一種の再生の物語。これをセンチメンタルととるか否かは「皆月」を見た者が決めることだろう。


ps 奥田瑛二とタイガースの下柳投手がそっくりだと思ってるのはchikaだけ?テーマ曲の「早く抱いて」が、下田逸郎&山崎ハコだからとっても素敵だと思っているのはchikaだけ?



 



I saw a movie.
隣人13号
監 督:井上靖雄

 主人公の二重人格の設定を利用した一人の人物に対するダブルキャスト映画を二本立て続けに見た。
 
一本は「ハサミ男」と、もう一本はこの「隣人13号」だ。勝敗は「隣人13号」の圧倒的勝利、、「ハサミ男」だって主演が豊川悦司と麻生久美子なんだから撮りようによってはもっと魅力的な映画に仕上がっただろうと思う。
  明暗を分けたのは物語の着地点の相違ってところだろうか。ハサミ男の場合はリスカ少女だとか引き籠もりだとか援交少女の孤独だとか、しょーもないテーマに話を収束させてしまったので原作の凄みのかけらもない屑映画に成り下がってしまっている。
  対する「隣人13号」は結末に逃げ道をこしらえておくなど姑息さはあれど、一応、「裁くは天にあらず、罰するは我なり。いじめられっ子の凄惨な復讐劇」という内容で突っ張り続けた部分が作品の面白さになったようだ。
 まあ、あの三池崇史監督が友情出演するんだから井上靖雄監督の根性勝ちってところか、、。

 さて、映画の話。主人公の村崎十三は小学校時代に自分をいじめた赤井に復讐する為に10年ぶりに赤井の近くへと引越してくる。
  普段の十三は穏やかであるが、もう一つの人格の13号は凶暴で次々に残忍極まりない行動を起こす。お決まりのように13号になっている時の十三には13号になっている時の記憶はない。
  そしてこれも定番だが二つの人格は物語のカタストロフィめがけて急接近する。
赤井と隣人13号との対決で、赤井の攫われた息子がバックパックに詰め込まれて理科室の床を滑って行く所から、怯えきった赤井がそのバックを散弾銃で撃ってしまうシーン等は心を鷲づかみにする力を持っている。
 その後なんども「お前が撃ったのか俺が撃ったのか、どちらなんだよ、教えてくれよ」と叫ぶ赤井の錯乱ぶりもリアル。「あんまりじゃねぇか10年前の話だぜ」ってつぶやきも、自分の家族だけに優しいガキみたいな大人である赤井の口から発せられると、このいじめと復讐のシーソーゲーム、観客の心が、隣人13号に傾くのか赤井に傾くのか微妙な所でもある。
  その辺りも、あえて答えを用意しないで映画を最後まで走らせた部分がこの監督の才能だと思う。でもやり切れない映画ではあるけれどね、、。
 一人の人物をダブルキャストで演出するやり方だけど、村崎十三の小栗旬、抑圧されたもう1人の人格"13号の中村獅童というキャスティングはなかなかに絶妙。
  中村獅童の怪演ばかり目立つけれど、chikaは小栗旬のいじめ抜かれた子犬のようにおどおどした優しさの演技もなかなかだと思うな。
 平川地一丁目の『はがれた夜』がエンディングで流れた時にやっと救われた気分になるんだから、相当に「酷い」映画 ですこれは。

ps あっゴメン、井上三太さんの原作コミック、全然読んでません

 






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