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I saw a movie2 ケント。私は待ってる! |
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saw a movie.
監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー
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「脳が数学に殺される。」というのがキャッチコピー。、、どうだかなぁ。ちょっと首を傾げちゃう。この映画が、取り扱っているテーマも、なかなか分類しにくいものだと思うけれど。最遠寺流に名付けちゃうと「数学アクションムービー」、数学者が主人公のアクションものという意味じゃないよ。「論理アクション」と言ってもいいかな。それが変に理屈ぽく見えないように「格好いい」カメラワークで誤魔化してあるんだよね。何だかよく判らないけど、見てるぶんにはとりあえず面白いって感じで、、。世紀末も断崖絶壁になると、いろんな映画が出てきて面白いですね。 でも、主人公が追求する「たったひとつの数式によって、宗教的な真理からウォール街の株式事情まで、世界の全てを解析出来る。」というのは意外と普遍的で広範囲に広がっている妄想じゃないかな。ホント、普通の人だって、参照する為の薄っぺらい人生訓の一つぐらい手元に置いておかないと、処理しきれない多すぎる情報や、人間関係があるんだもの。映画の中ではその辺りを「神の本当の名前」みたいな形で、クロスさせているけれど。その意味では、この映画、ホントは怖い映画なのかも知れないよ。 |
I
saw a movie.
監督・脚本:フランソワ・オゾン
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最近の「I saw」では、監督論と言おうか表現手法論みたいな部分に、こだわりを持ち始めています。本当に今の世の中、様々な優れた才能があるものですね。 日常の中に潜んだ異常を鋭く描き出す手法と、アブノーマルをただ淡々と描写していく手法。どちらが前衛的なのかなぁ。世紀末的断崖の縁に立つ現在としては後者が有利かな。だってアブノーマルが掃いて捨てるほどある世の中では、それをあっけからんと受け入れるしかないですもん。 「海をみる」は、正直言って始め寝てしまいそうになりました。でも、長期出張してしまった夫の帰りを待ちわびる若い人妻のもとに、一人の女性キャンパーが訪れてから、徐々に物語の世界が歪んでいくのですね。と、まあ普通の映画ならここから観客をぐいぐい引き込んでいく為の凝った仕掛けをしていくんだろうけど、フランソワ・オゾンの場合は実にさり気なく異常になっていく。 「レズ」と「汚物フェチ」が絡んでいく物語なのかと思わせながら少しずつ話がずれていくんですね。そのものズバリのシーンがないのに、観客の「不安感」が実にうまく引き出されていく。 個人的には「トイレとウンチと歯ブラシ」「割れた石の棺の中の闇」がドキッとさせられたんだけれど、、、。本当の一番の仕掛けは「赤ちゃん」なんですよね。最後のタチアナが、サーシァの赤ん坊を抱いて島を離れるシーン。凄く怖かった。この映画の3人の主な登場人物が赤ちゃんを含めて全て女性なのが暗示的です。 「サマードレス」。私の場合は、これを見終わってから暫くシェイラの「バン・バン」のメロディーが頭の中から離れなかったです。なんとも言いようがないですね。あって当たり前の青春短編映画とも言えるし、、。 |
監督・脚本:フランソワ・オゾン
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フランソワ・オゾン監督は「困ったちゃん」である。「ああ、そんなこと言ちゃお終いじゃん。身も蓋もないよ。」というような事を確信犯めいて、あけすけにいう人物がいるが(私のことじゃないよ。)この監督はどうもそういう趣味があるらしい。プラスアルファで「こうすればいいんじゃない。」とか「でもね。」とか言ってくれるとまだ救われるのだが、そのまま放り出してしまうのでどうしようもないのだ。かと言って彼等が無責任な訳でもない。第一、こういった人々が提示する内容は、誰も責任なんて取りようがない。というよりも、だからみんな黙っているだけど、、。 『海をみる』では、まだ情緒的な部分が残っていたような気がするが、この映画には情緒なんて一つもない。我々は、重いテーマを「クールに、あるいは淡々と撮る。あるいは笑いやファンタジーに包む」そういった馴染み深い手法で、あるいは「その手法に救われて」映画を見る部分がある。時と場合によって我々は、その見せ方を監督の才能として「上手い、下手」と評価するのだが。 フランソワ・オゾン監督の場合は、そういった「巧さ」を拒否しているかのようだ。かと言って「重いテーマを直視する」ような組み立てもしない。それでいて見終わってからこちらが「うらぶれた気持ち」や「荒んだ気持ち」にならないのがこの監督作品の不思議な所だ。(ましてや「感動」なんて絶対にしない。) いくらかの映画評では、「この映画は既成のホームドラマの痛烈な皮肉である」としているが私はそんな風には思わない。だいたいフランソワ・オゾンは、何かを批評する為に映画を撮るような暇な人間ではないと思う。 でも一応、意味的な部分で「ホームドラマ」を捉えるとするなら、やっぱり「鼠」に象徴される部分がキーワードになるのかなと思う。この映画では、ホモセクシャル、バイセクシャル、近親相姦、SM、障害者、それぞれを家族の一員に割り振ったあと、最後にはそれらが一応全部落ち着くところに落ち着いてしまう。唯一、父親だけがこの輪っかから「死」を与えられて除外される。あるいは「鼠」になった父親が殺されて、所謂「倒錯した性」の世界が平和に閉じられるのである。 こう書くと父親は「常識」とか「体制」の象徴のように見えるが、映画の中では決してそうではなく、彼はほとんど「混ざりもの、異物」といった状態におかれているに過ぎない。やっぱり父親は「鼠」なのだ。 ただこの「鼠」は、「象徴」や「体制」のような「形として表現出来ない何かのエネルギー」を表すご大層なものでもないようである。 母親の台詞には「アナタ(夫)は卑劣(鼠)だわ」「みんな愛に飢えているからどんな形でも受け入れる」「自分に素直になれたわ。」とか一応、彼らが置かれた状況の中で意味を辿れる部分が用意されているが、だからと言って、この母親が息子と近親相姦をする繋がりまでを説明する台詞でもないのである。 むしろ覚めた目で見れば、狂った一家を惨殺する夢を見る父親の方が正常だし、映画の最後になると唯一リアリティのある人物は、他の強烈な人々ではなく、今まで一番影が薄く家族の問題に無関心な父親だったりするのだ。 完全に意味のない「存在」を「意味があるように見える繋がり」に混入するとその繋がりは分解していく。そんな化学反応の実験を見ているような映画である。これをそのままに見せて、「家族崩壊のドラマ」「家族という仮面を引き剥がしたドラマ」と呼ばせない所がフランソワ・オゾンの特質なのだろう。 PS この映画の評価は恐ろしく別れるみたいだ。好き嫌いの別れる種類の映画や監督は山と存在するようだが、そのパターンのほとんどは「0点か100点」の関係だろうと思う。 フランソワ・オゾンの場合はそれとは違って「0点か、点数が付けられない」の関係なんだろう。 基本的に「映画は娯楽」だとするなら、フランソワ・オゾンから得られる娯楽は実に奇妙な味がすると言って良い。 |
監督・脚本:フランソワ・オゾン
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フランソワ・オゾンだからって過激な「毒」を期待しすぎた私が愚かでございました。この作品、めちゃめちゃ「当たり前」です。オゾンが「当たり前」になったらなんの取り柄もないのでございます。映画テーマの下敷きにグリム童話なんかを持ってきたのが運の尽きだと考察しますでございます。(くどいか、でもフランソワ、。) とまあ言っても「心の健康に効く映画」だけを見ている人にとっては、これでも結構ショッキングなのかも。 この映画で見るべきものは、俳優さん達でしょうか。オゾン監督はいつも、なとなく喉越しの悪いキャスティングをするけれど、主演の2人(ナターシャ・レニエ、ジェレミー・レニエ)も、いつも程のレベルではないにしても「キテ」ますね。 ナターシャゃ演じるアリスは、無軌道で小悪魔的な高校生という設定なんだけれど、どうみてもやってる事は「オ・ン・ナ」そのもので、彼女の奇妙な生々しさもそれにぴったり。 ジェレミー(高校生リュック)はどうかな、、って思ってたけど、「森の男」と出会ってからの展開を見て、なるほど、この為のキャスティングだったんだと納得。 リュックは、アリスにそそのかされてサイードという美男高校生を殺してしまうのね。そのサイードとの絡みのなかでリュックは潜在的なゲイの要素を感じさせてくれるんだけど、この時点ではまだインポテンツ気味の只のストレート、これが後半「森の男」との出会いでゲイの部分が顕在化させられる仕掛けになっているのね。 「森の男」かぁ、、食人鬼の小汚いおっさんなんだけどね。彼が自分のあばら屋で沐浴をしてるシーンなんかが妙にエロチックに撮れているのは、きっとオゾン監督の視線なんだろうね。(これには、森の男とリュックペアで身体の洗いっこというパート2があるのよ、これも味わい深いシーンよ。) この森の男によってリュック君は、徐々に飼育・調教されていくわけなんだけれど、それを地下の貯蔵庫に閉じこめられたアリスが見ているというのも「濃厚」といえば「濃厚」。でもこれが観客に果たす効果を知りながら、アリスとリュック・森の男の距離をあっさり撮ったりする所がオゾン監督なのね。 この「あっさり」は、リュックがこれまたアリスにそそのかされて森の男と寝た後、その隙を見て彼らが逃げ出すシーンにも適用されるのわけ。 リュック達が逃走する気配を感じ取って、眠っているふりを止めた森の男と、今正にドアを閉めようとするリュックの視線が、「どうだ」って感じで絡むドキッとさせられるシーン。この時点で「森の男」とリュックの間には、愛情関係とは言わないまでも何らかの精神的な繋がりが成立しているわけで、やりようによっては幾らでも観客を泣かせられるシーンでもあるわけ。普通の監督さんならここにヤマを持ってくるでしょう。見てる方は、こんなにあっさり撮られてさえ身につまされるシーンなのにね。 でも、この作品に限っては、この「淡々と異常な事態」を流していくオゾン流が、あまり意味があるような気がしないのよね。それがこの作品の欠点。 第一オゾン監督の作品ってどんなエンディングを迎えたとしても、そのことについてとやかく批判されたりしないじゃない。それはそういう構成を持った彼流の力のある表現だからなのよね。 ところがこの作品に限っては結構いろういろ言われたりする。みんな「物語」をこの作品に投影するからだろうけど、それはグリムを下敷きにしたんなら仕方ないよね。 近緒から言わせるとアリスが追っ手の警察に簡単に射殺されるのは必然。森の男が警察に捕まってリュックが「違うんだ!その人は違うんだ!」というあたりは、やっぱ映画の括りとしては「おまけ」じみてる。 でもそんな辺りにオゾン監督はちっとも拘っていない筈。でもみんなは拘る。そういう作品なんだよ『クリミナル・ラヴァーズ』は。 PS 森の男がリュックと添い寝して、彼を手でイかせてやるシーンがあるんだけど、お互いの衣服に染み付いた体臭まで嗅げそうで、妙にリアル。メジャーな映画でゲイシーンを扱うものの中には、時々、こんな風に飛び抜けて現実的な描写があるのよねぇ、、。これって、、。 |
I
saw a movie.
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まず始めに断っておく。この映画は「傑作」である。映像美に酔い、不覚にも幾度となく涙が出そうになった。そう断った上で私の思いを書いておきたい。 まずトラビス(ハリー・ディーン・スタントン)は駄目男である。数年間もほったらかしにしておいた息子に出逢って「心からアイシテル」なんてことを言うけれど、どう見てもトラビスは「暫く振りに再会した父親としての自分」を愛しているようにしか見えない。だってそんなにアイシテルなら息子をほったらかして砂漠を放浪してはいけないよ。狂気に取り憑かれたなんてのは言い訳だ。 そして弟夫婦は人が良すぎる。あんたら親権を裁判で争ったら必ず勝つよ。どうしてトラビスなんかにハンターを譲っちゃうわけ?次に、逃げ出したグレ母ジェーン(ナスターシャ・キンスキー、信じられない程、はまり役。)。子どもを生んだからにゃいつまでも「女」引きずってんじゃないよ。etc、、。と、まあこんな具合である。 映画は、こと男と女の愛憎話になるとなんでもOKにしちゃう部分がある。確かに娯楽なんだからなんでもOKだとも思う。でもそれなりの責任も何処かでとっとくべきなんじゃないかなとも思うのね。なんかこの映画見せて、一方的にジーンと感じさせちゃったりするのはどっか詐欺みたいに思う訳。 「やりっぱなし」なんだ。「泣かせる映画」で見せた泣き顔は、照れ笑いで誤魔化せるし、「やりきれない」結末の映画は不機嫌な顔と沈黙がお互いの了解事項じゃない。「不条理」の結末なら会話が弾むけど、、このパリテキサスを見終わった「引き」はやっぱ責任とってないよ。 テキサスの砂漠を彷徨い行き倒れた時にトラビスは「黙り屋」の症状になってたけど、あれ最初どういう事なのか私は理解できないでいた。でも映画を見終わってからトラビスが彷徨う意味が判って「黙り屋」になる経過が理解できる気がした。 ちょっと「男と女のスジ」からは離れるかも知れないけど、行くところに行けばトラビスは日本にも一杯いるよ。むしろそう考えるとトラビスが何故あんなに早く、弟に口を開いたのかちょっと出来過ぎみたいな感じさえ受ける。だいたい世のトラビス達はそのまんま路上死しちゃったりするんだから、、。 ライ・クーダ。ホワイトブルース。うーんそうだね。「パリ、テキサス」はB・Bキングとかマディウォーターズじゃなくてやっぱりライ・クーダだろうね。「白」だから云々っていう積もりはないけど、少なくとも「黒」じゃこの映画には合わないだろうね。それはハッキリしてると思うんだ。 テキサスの空を埋める黒い雷雲。闇に浮かぶモーテル。映像の力って本当に凄いね。 「映画の中だけの彼女」「遠い銀河系の話、、。」自分の母親の事を、育ての母にそんな風に喋れる頭のいい子。その癖、外見はどこから見ても母親似の息子。幸せだった日々の8mm。毎月5日の送金。「パリ、テキサス」は話の仕掛けが上手すぎる。 初めにトラビスは駄目男と書いた。でもトラビスは「空想の女、淑女、パリ。」とか言って自分の父親の話をしながらきっちり自己分析も出来る。そこまで判る男は、女性を愛しすぎたからって粗野な真似はしないよ。自分自身の中で勝手に制御がかかる筈なんだから。 今度はジェーンの場合。ハンターを育てなかった理由「むなしさを埋める代償にしたくなかった。」。ウーン、わかんねぇ。逆なんじゃないか?日本の女ならこう言うね「この子がいたから私は生きていけました。」って。 しかしジェーンの場合は、映画の性格設定から考えると、確かに息子を代償にしてズタズタにするのは目に見えているよね。でも、逆に言えば、それが不幸に繋がっていくと予見出来るのは、彼女が凄く頭がいい証拠にもなる訳。どうしてそんなに頭がいい女が、トラビスから逃げ出す方法しかとれなかったんだろう。それとも、たかが5・6年の人生経験だけで、ここまでジェーンの理解力が伸びるのかなあ。 まあ、これは脚本段階の問題だし、映画はそんな部分を無視するのがいいので、問題ないかとは思うんだけど、、。 男の方の心の動きはすごくリアル(我が身に置き換えて理解出来る、いかにも、ひょっとしたら俺も、というレベルで)だけどね。そういう視点で見るとあのマジックミラー越しのやり取りはある種、男の幻影じゃないかなと思うけれど、、。 ジェーンが「泣くぞ泣くぞ」と思っている内にきっちり泣く、最後までこの二人は彼らの間のマジックミラーを越えようとしないだろうと思ったら、やっぱり越えない。そういう仕掛けで、見ている人間は、心を震わせながら、全部、ウンウンと深く頷きながら腑に落ちていく次第。 でも、これ今のフェミニズムの視点を取り込んだらどんな映画になるんだろうね。(きっと面白くはないだろうけど、、。) 「どの男の声もあなたなの。」 「男は女を好きになりすぎた。想像を絶するくらい愛していると思った。」 「結婚するだけでは、まだ物足りない。ずっと一緒にいたい気持ちがつのり、男はついに仕事を辞めて家にいるようになる・・」批判してる訳じゃないんだ。こういう台詞、男はみんな判る、はっきり言って男にはそういう破滅願望があるんだから。 だからそういう部分を刺激して成り立っている映画はどこか「狡い」と思うんだ。やっぱり何処かで映画としてのやり方で責任をとって欲しい。 親子を引き合わせて自分はまた旅に出るってのは、一体なんだろうって思う。確かに映画としては成立するんだし、ああしか持って行きようはないんだろうけどね。 シェーンは「救って」去るんだろう(しかも死にかけで、、だからヒーローになる)。トラビスは、誰も救った訳じゃない、自分はお膳立てして逃げるばかり、苦悶する自分に陶酔してるばかりだ。そして観客も「そんな男」を引きずってしまう。 「イージーライダー」でアメリカ映画は、どんな不都合な結末であっても「託して終わる」という新しい終わり方、あるいは映画としてのある種の責任の取り方を捉えたんだと思ったんだけどね。ヴィム・ヴェンダーズは「アメリカ人が撮れなくなった真のアメリカ映画を撮りたかった」と言ったらしいが、、。 はっきり言って日本人にとっては「母恋物」だよこれ。泣くんだよ、日本人はこういうのに、、。はっきりいってジェーンという女性像も含めて、これ男の欲望の幻想譚だよ。 もしジェーンが若くなくて水商売も出来ない色艶のない女性として設定してあったらどうなの?もうこの手の映画を「深い」なんて言っちゃ駄目な時代なんだと思うんだけどなぁ、、。 |
I
saw a movie.
監督:ファイト・ヘルマー
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この映画をサイレント映画と紹介する人もいるだろうが、正確には映像が紬出す物語を際だたせる為、説明的な機能を持つ台詞を極力絞った表現方法と言い表す方が良いかも知れない。説明的な言葉がない分、幾通りもの読みとりが出来そうなものだが、このツバルのストーリーは実に単純で判りやすく読み違えようがない世界を構築している。 ただ主人公のアントン(ドニ・ラヴァン)は今で言う引きこもり青年ではないかとか、後に彼と結ばれるエヴァ(エバチュルパン・ハマートヴァ)はかなり性的に奔放な性格をしているのではないかとか、、その程度の深読みは出来る。 が、それ以上の意味をツバルに求めては、かえってこの映画自体の味わいを損ねる事になるだろう。 例えばエヴァが夜のプールで裸で泳ぐシーン。普通なら単純に、ただただ「幻想的に清潔に」を目指して美しく撮影されるのだろうが、水色のモノトーンの中でいつも持ち歩いている水槽と金魚を解き放ち金魚と戯れながら泳ぐエヴァは、その豊満な肉体を含めて幻想的であると同時に、生々しく美しい。 例えばプールのオーナーであるカールの葬儀シーン。彼が愛して止まなかった室内プールに、彼の棺は浮かべられその回りには数百本のキャンドルが並べられている。並の撮り手ならこのプールの水の透明度をガラスのようにするだろう。だがツバルではこのシーンの水の色はあくまでも暗く、淀みさえ感じさせる。それはどう表現しようと「死」は「死」であると言い切っているようにも見える。 そして主人公達が居住まいする室内プール施設の外界はいつも雨と荒涼の世界である。 だがそれらの光景には差し当たっての寓意や象徴的な意味はない。我々にとって世界は否が応でもそこにあり、そこから意味をくみ出すのは人間の都合であるように、この映画で描き出される世界は「ただそこにある」のみである。 ただファイト・ヘルマー監督はそういった世界の構造をファンタジーに置き換える事に成功した点で秀逸なのだろう。 PS 劇中アントンがエヴァのブラジャーに顔を埋めてみたりという下着フェチじみた描写がかなりの頻度で登場する。アントンの性的な幼さを描写したシーンなのだろうが、結構、その辺りから監督の嗜好は読みとれるモノである。 映画すべてのワンシーン・ワンシーンが絵画的に優れて美しい事と、なによりもそれが映画の中で優先される事は、先に述べた「嗜好」と無関係ではないだろうと思う。 ※ツバルというのは、南太平洋に浮かぶ実在の島の名前で、"8つの島"という意味。インターネットの検索でツバルをかけるとこの島のインホメーションが先に浮上する。 |
I
saw a movie.
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ジェットコースタームービーに慣れた目には最初、ビリー・ブラウン(ヴィンセント・ギャロ)がレイラ(クリスティーナ・リッチ)に出逢うまでが辛い。ビリーがレイラを伴って里帰り(ムショ帰り)した辺りから、ようやく物語の筋が見え出してくる。ビリーの家庭の有り様って、これから日本でもどんどん増えてくるんだろうね、、。壊れてるんだけど少しだけ愛が残っている家族の関係、、ちょっと胸が痛くなる。それでビリーみたいな屈折した青年が生み出されて来るわけ。そんな時代を反映した「格好つけ」で淋しがりやの若者の恋物語を扱った映画は、日本にも随分ある、、でも、、バッファロー66が少し違って見えるのはヴィンセント・ギャロのマスクとかスタイル、存在感のせいなんだろね。 レイラ、可愛いね。「俺の一人だけの天使」ってコピーがあったような気がするけど、本当にこんな彼女がいれば、沢山の若者が癒される筈だし、犯罪だって激減すると思うよ。ボーリング場でのレイラのタップダンスシーンはとっても幻想的で私の大好きなシーンの一つ。勿論、ホテルのベッドのビリーとレイラのシーンは最高の名場面。ギャロの「棒」見たいな身体が実に効果的。あのシーンと、ラスト直前の殺しシーンを映画の展開上で、旨く融合できるようになったら、ヴィセント・ギャロは凄い監督になるかも知れないね。 |
I
saw a movie.
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休日の早朝(未明の頃)ガタカを見る。夜空は宇宙につながっているが、未明の頃の静けさも宇宙につながっている。ガタカは「静か」な作品だ。その「静けさ」の中で地上から何度も何度もロケットが、まるで叶わぬ夢のように「空」に向かって打ち出される。遺伝子のメカニズムが解明されて、生まれてくる子供を選別することが可能になった近未来の話。そこではそのような操作をして生まれた人間とそうでない人間との間に新たな差別構造が出来上がってる。主人公は、今と同じ方法で生まれた人間で、遺伝子操作されて生まれた弟が一人いる。かたや未来を約束された弟と、遺伝子調査により弱者としての人生の烙印を押された主人公。だが主人公は、弟のような選別された人間にしか開かれていない「宇宙」への夢を追いかけ始める。その舞台が「ガタカ」。 冒頭タイトルシーン、切られた爪の落下シーンのクローズアップから、髪の毛、髭、垢と続き「これって何?」と思わせておいて、映画の中盤から展開される「遺伝子レベルでの超エリートへの成りすまし」作戦を無理矢理観客に呑み込ませてしまう。凄く強引なんだけど、映画自体は実にクール。このクールさ、カメラ・ワークもあるけれど音楽(マイケル・ナイマン)が担うところが大きいかも。 結局の所、この映画、人間の「可能性や努力」を描いているのだけれど、それが決して暑苦しくないのはどうしてだろう。主人公が木星に旅立つ直前に、弟と再会して、夜の海で泳ぎ勝つシーンで、夜空を覆う雲が途切れて満天の星が見える。この弟との「ケリを付ける」場面は決して、青空の下ではないのだ。そして、主人公が成りすました不遇の超遺伝子エリートのジェローム・ユージーン・モローに主人公に対して「お前に夢を貰った」と言わせながら、ああいった結末を迎えさせる意味。主人公の可能性へ挑戦は片道切符の切なさがある。そうどこかに諦観があるのだ、、。 |

「ハンニバル」
高見 浩 訳 新潮文庫
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「観たら読まない。読んだら観ない。」の罠にはまったのが「羊たちの沈黙」である。「羊たちの沈黙」の場合、小説を読まずに映画を先に観たものだから、私の中でクラリスはジョディ・フォスターであり、ハンニバル・レクターはこれはもう絶対、アンソニー・ホプキンスしかいないのだ。この状態で、小説「ハンニバル」を読むとアンソニー・ホプキンスが物語の中で優雅に動き出してしまう。 でも小説「ハンニバル」ではクラリスはちょっと違う。ジョディ・フォスターは、マスタングに似合わないし、「ヘルメットのようにぺったりと頭を覆うプラチナブロンドのヘヤースタイル」になっても妖艶には見えない。、、、私は第六部の「長いスプーン」が大好きだけど、この時のクラリスはジョディにはちょっと荷が重いかも知れないと感じている。 それにしてもハンニバルの第二部「フィレンツェ」からがちょっと辛い。私って阿呆なんだろうか?ルネッサンス芸術なんてまるで興味はないし、物欲魔・エリートグルメ・俗物丸出しのハンニバル・レクターもお呼びじゃない。ましてや惚れた女に思いを馳せるような「怪物」はお呼びじゃない。日本古来の神は、ただただ「超越した存在」であって善悪の属性はないそうだが、読者はそういった側面をハンニバル・レクターに求めているような気がするのだ。ハンニバル・レクターの妹の死や癒しとしてのクラリスの存在を物語に導入する意味はあるのだろうか?勿論、最終章でクラリスの転生で、「ハンニバル」という物語は違うレベルに転移したのだと思うけれど、、、。 |
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リドリー・スコットは相変わらず、現実に存在するのに実は異世界という『世界』を見せるのが旨いなぁ、、。と、でももう少しフィレンツェの異世界ぶりを見せてくれるかと思ったけれど、堪能する所までは行かなかった。その意味でこの映画はちょっと期待はずれ。 ストーリー展開の方は、もとからリドリー・スコットが原作の「ハンニバル」をどう料理するかなんてあんまり期待していなかったので可もなく不可もなくって所かな。そう思って冷静に後から考えて見ると、結構、この映画、原作には忠実だったみたい。まあ敢えて相違点を上げるならハンニバルを最後まで一応、「悪党」で取っておいてくれたところかな、、。(さすがに最後の腕の切断では一気に「平凡」なオチになっちゃったけどね。)その分、原作と比べて、クラリスとの微妙な心理の絡みが薄まってしまったのは映画の宿命?でも原作とこの映画の距離は面白いね。あの飛行機の中の食事の場面は思わずニヤリとさせられる。こういうあたりが、日本の原作付き映画とは違う部分かな、お遊びの精神があるんだね。 近緒的には、ホントのところ原作通りの幻想的なラストシーンが見たかったんだけどネ。クラリスがジョディー・フォスターじゃないなら、まぁいいかという感じ、、。あの晩餐を引き金にして、何処までも堅牢な倫理外骨格を守り通そうとしてきたクラリスが、精神的に「剥けて」しまうエロチシズムが原作にはあって、それが小説の場合、ラストの幻想シーンに雪崩れ込んでいくんでしょ。それこそ、あの「真面目なジョディー・フォスター」こそが醸し出せた「崩壊」のエロチシズムなのになぁ、、。ジュリアン・ムーアじゃね。同じ「堅さ」を感じさせる女優でも二人の中身は違う印象があるものね。 それと、あの例の晩餐シーンね。映画の冒頭で、レクターに対するもう片方の精神的怪物であるメイソンを、あれだけ映像的に剥き出しにしたんだから、例のシーンもきっちりやるだろうと思ってたけど、案の上やってくれてましたね。でも「合成だ」ちゅうのが微妙な画像の位置ずれでかなり見えてしまっていたのがちょっと残念かな〜。映画「ハンニバル」。「羊達」とははっきり言って別物です。でもいいんじゃないですか、、。 PS ハンニバルのブックレビューと映画レビューが、たった半年ぐらいの開きだけで、ジョディー・フォスターの評価を巡って180度違う記述をしている。これってとっても面白い。間にジュリアン・ムーアという女優をひとり入れただけなのにね。私の中のこの変化は何を意味してるんだろう、、。 |
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「マタンゴ」の水野久美女王様 |
何気なくレンタルショップを覗いたら007シリーズの「ダイ・アナザー・デイ」が出ていた。濃ゆ〜いコネリー叔父さんがボンドじゃない007なんて、プレイボーイのグラビアみたいで見る気もしない。でも今度はハル・ベリーが「強いボンドガール」で登場しているので、多少引っかかりがない事もない。
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「遠い太鼓」
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村上春樹が書くものと私との出会いのタイミングはいつも不思議である。前の村上作品の書評でも書いたけれど、彼の本は私にとってもベーシックな「癒し」の材料なのである。そして彼の本は、私が忙しさで投げやりになっている時とか、体調を崩して病気になっているときにひょっこりと現れるのだ。 本著「遠い太鼓」は、今年の冬の旅行にもっていこうと思ってスーツケースに詰め込んだものが、実際には旅先での読書量が稼げず、後になって風邪で寝込んでしまったベッドの中で読んでいる。今、外は雨と雷を伴った春の嵐だ。ただ雲がそれほど厚くないのか、結構、空は明るい。 こういった環境の中で異国の描写力に優れた「遠い太鼓」を読んでいると不思議な気持ちになる。それは「遠い太鼓」が私を遙かギリシャ・イタリアのレストランや小島に運び去ってくれるのに、外では日本の春先の花の匂いが混じったような柔らかい雨が降っているからである。 文中、村上春樹は「この時代の中で今更、紀行文でもあるまい」と書いていたが、私にとっては十分に面白く、しかも「文章を書く秘密」の一端が垣間見れた、とてもお得な作品だった。 しかしまあ、改めて思うのだがこの村上春樹という作家、なんて「美味しそうに」料理や食事を書けるのだろうか、、。本当は、「彼が飛び抜けてすばらしい表現力を持っているから食事風景も美味しそうにかける」という順番が正しいのだけれど、それでも私はこの事を、村上春樹の特質として上げたい。なぜなら彼が「生活」を苦しむのではなく、楽しむ事を知っていて、しかも深いところまでたどり着けるスタイリッシュな作家だと思うからだ。 ギリシャ・イタリアか、、行きたいなぁ、。でも、お金も暇も決心も私にはないし、、いつだったか瀬戸内の牛窓のプチホテルに泊まって「似せエーゲ海」を鑑賞し「地中海料理のフルコース」を食べたっけ。丘の上にあるギリシャ建築風のプチホテルから眼下に広がる貧相な光景は、その風光に若干の類似点はあるのだろうが、訳の分からない所にトタン屋根の工場があったり、なんの色気もない煙突があったりで、どうしたって「日本の近郊型漁村」の印象はぬぐい取れない。まあそれはしかたないにしても料理は美味しかった(日本の「食」は何処の国よりも優れているっていわれてるらしいけど、想像だけでもそれはそうだろうと思う。)特に、丸ごと食べる事が出来る柔蟹とワインの取り合わせは「幸せ」だった。でも頭の中で考えていた事は「こんなの食べてあとでお腹壊さないかしら。」だった。 あはは、、それにしても、私の食べる言葉の貧しい事、、春樹が聞いた「遠い太鼓」の音は私には聞こえそうにもない。 |
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ショコラって「サイダーハウスルール」のラッセ・ハルストレム監督だしジョニー・ディップが流れ者役で出演。おまけに彼の生ギター演奏が見られると聞いたので、期待大でしたが、、「サイダーハウスルール」の作り込みを見た後では、いくら童話仕立ての人間寓話であっても、映画とすれば「穏やか」過ぎるんじゃない?という印象の映画でした。 片田舎のフランスの光景も、ヴィアンヌ親子のチョコレートショップの店内も、ため息が出るようなシックさで、それらを眺めているだけでも大満足ではあるのですが、話の中で、村人達との対立構図の内容がうまく整理されている分だけに、最後の和解が予定調和という感じでした。 勿論、こんな観客の反応も読んだ上での映画づくりだったのでしょうが。 近緒は、この映画と時期を前後して上映された同じようなニュアンスを持つ「あめり」を思い出して(お菓子つながり)、ついつい両者を比較してしまうのです。ショコラのヴィアンヌは村に改革をもたらす異端者であり続け、最後に己のもたらした変革の中に安住を見たのに対し、あめりの場合は途中まで同じなのですが、彼女自身も自己変革を果たす所が違いますね。それがこの二つの映画の「苦み」の差なのでしょうか。 でも意識的に感情の起伏の押さえられた演出が連続するこの映画にも、ぐっとくる部分が二つありました。ジョニー・デップ扮するジプシーとヴィアンヌが結ばれる直前、彼女が、娘に感じている負い目に涙する場面。 二つ目は、自分の為に用意された最後のパーティに満足してこの世を去った筈の老婆(ジュディー・デンチ)の葬儀の場面です。 神父が「彼女は死ぬ前に悔い改めた事を願う」と言った時に、参列者のグループをそっと離れながら、村をさろうと決心したヴィアンヌの姿が印象的でした。今まで村の因習に縛られた世界に果敢に対抗してきた彼女も、老婆の死そのものにショックを受けた上、あまりにも強固な古い考え方に諦めが忍び寄ったわけですね。 こういうシーンではヴィアンヌに名台詞を言わせてみたりして、場面を大きく盛り上げる演出が可能なのでしょうが、それをしなかった事が、かえってこのシーンの深みを強く観客の心に刻めたのかも知れませんね。 主役から脇役まで、きっちり人間が描けているのもラッセ・ハルストレム監督作品の特徴。伯爵(アルフレッド・モリナ)から始まって、この映画では良いところ取りのジョニー・ディップまで、申し分のない俳優陣ですが、結構いいのが子ども達。 よく見りゃ不気味君不気味ちゃんの二人の子ども達の愛らしさと存在感が良い感じです。. |

「故郷・美ら・思い」
セントラル楽器
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元ちとせの「故郷・美ら・思い」を購入する。、、ああ元ちとせの「声」がそこにある。「その声はなみだで出来ている」っていうキャッチコピーがあるけど、これってそう外れちゃいないと思うよ。(なみだの定義は人それぞれだけどね、、。) 所でIsawで音楽CDを取り上げるのは今回が初めてだし、今後も「音楽レビュー」の予定はない。このレビューを書こうと思ったきっかけは同CDパッケージに入っていた島歌についての「解説書」にあるのだ。だから分類もIsawでは書籍扱いにしてある。 このアルバムでは22曲の奄美の島歌が収録されているのだが、その多くは「恋歌」である。土着の民謡はエッチィなものが多いけれど、これらの島歌もその類に近いものであると言って良いと思う。大体、閉鎖された狭い地域社会の中で、ゴシップ的に取り沙汰されるテーマは日本全国共通で下ネタ・エロネタが多いのだ。 例えば幾つかの島歌の解説文をピックアップして置こう。 5曲目の「かんつめ」。奄美が薩摩藩の統治下にあった頃、豪農の元に身売りして一生奉公人として過ごす「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる人々がいた。 歌の上手いかんつめもそんな家人の一人。彼女は隣村の役所勤めの岩太郎と恋仲になるが、身分の差とかんつめの主人の横恋慕の為にその恋は成就しない。そしてかんつめは様々な折檻にあってついに自害するのである。 9曲目の「塩道長浜」。喜界島の塩道で起こった事件。ある男がけさまつという美女に惚れ、浜辺で想いを遂げようとする。けさまつは機転を利かせて逃れるが、後に残った男は浜中を馬に引きずり回されて殺されてしまう。けさまつは狡賢い女だとする説もあるが、一方で俗人の犯すべからざる神女だったという説もある。 「汗肌けさまてぃ故じゃヨ〜。」・・・うっすらと汗ばんだ肌から、肉感的、魅力的な女性を形容する言葉だといわれる。 どうだろうか?これだけでも色々な「絵」が描ける。こう言った情念が元ちとせのヴォイスを生み出すのである。 以下は私の日記に書いた「元ちとせ」関係の雑文である。「1st album」の「Hajime Chitose」についての文章はあまりにも軽すぎるのでここには紹介しないが、近緒がどれぐらい元ちとせのヴォイスにはまっているかはこれでご理解願えると思う。 2002/02/17 (日) 薔薇口紅ぬりぬり2.95mm 初めてこの曲にであったのは夜の高速道路をとんでもないスピードで走っていた時だったと思う。とにかく前方に目を凝らしてハンドルを握っている無我の境地と言おうか、、。そんな時に、不思議と耳にまとわりついていた曲だった。 曲名が、わだつみがなんとかで名前がちとせ、、右翼の女の子でパンク?なんて頓珍漢な思いこみをしてた。 こんな混乱した記憶を持ったのも彼女の強烈な歌声のせいだ。どこかのFM局のDJが私のお薦めなんだと紹介していたっけ、、、。それからずっと気になっていたんだけど、彼女がやっとメジャーに浮上して来てくれてCDを簡単に買えるようになった。 彼女の名前は「元ちとせ」、曲名は「ワダツミの木」。 音を聞いて鳥肌が立つ思いをしたのは最近では宇多田ヒカル以来の事だ。近緒は昔から黒人ブルースと沖縄民謡の間に強い親和性があると思っている。親和性のルーツは民族の歴史ではなく「血」。遺伝子に埋め込まれた固有の旋律といっていいのかしら。それを肉づけるのは「ボイス」「こぶし」「才能」。 このシングルに納められた曲の詞の背景はよく判らないのだけれど、海の描写の場面では必ず沖縄の平で何処までも続く神秘的な海を思い描いてしまう。近緒には沖縄って「土」ではなく「海」で出来ているようなイメージがあるからだ。 でも元ちとせの歌声は、喜納昌吉の「花」やThe BOOMの「島唄」程には明るくない。何処かウエットな部分があって、それが近緒の抱いている黒人ブルースと沖縄民謡の接点としてはより近くて心地よいのだ。 元ちとせはこれから大好きな歌手の一人になりそうな予感がするので、すこしネットで検索をかけてみた。それで判ったことは彼女が沖縄ではなく奄美の出身だという事。 奄美は気候風土の面では沖縄と全く同じなのだが、その歴史は琉球や薩摩とは又違ったものであったらしい。そして奄美の「しまうた」の音階は、日本の民謡と同じ5音階なのだそうである。だから、、いいや、、理屈は、、なんだか彼女のCD全部集めてしまいたくなってきたぞ。 2002/02/20 (水) 薔薇口紅ぬりぬり0.22mm 一日もたたない内に、もう中毒みたいに「コトノハ」を焦って買い込んで、あとは元ちとせの本物(?)の島唄時代のアルバムを探すしかなくなっちゃたんだけど、、、 意外と近緒が本当に聞きたいのは、そちらの方なのかも知れない。何よりも私は、あのクルクルと回っていくこぶしや胸を掻きむしられるような独自のファルセットとドライブ感に魅了されているんだから。 彼女が1998年に日本親善大使としてブラジルに渡った時の思い出話を引用しておきたいと思う。 「老人ホームみたいな所に島唄を唄いに慰問したんですが、全然奄美の人じゃないおじいちゃんおばあちゃんが、島唄を聞いて『日本を感じた』って泣いちゃって・・・。感動した・・・私が逆に。ずっと帰ってないらしく、帰ろうったってすごい距離ですしね。」 奄美じゃない人が、彼女の唄を聞いて日本を感じるってなんだか凄くよく判るような気がする。例えば日本に住んでいながら、モンゴルとか朝鮮半島の萎びた寒村とか、全然違う土地の写真に「日本」を感じる時があるんだもの。「原風景」というのかな、、そういったもの。コリアン演歌とかに、より日本的情動を喚起されてみたり、、これって一体なんなんだろうって思うんだけど上手く説明が出来ないんだね。 もしかしたら今の日本って、私たちの血の底にある「原風景の日本」から凄い勢いでどんどん離れつつあるのかも知れない。ちなみに元ちとせのあのこぶしは島唄を歌っている間に「ある日、突然生まれた」ものだという。、、、うーん「原風景」も含めて遺伝子のレベルで考えたくない話だよね。どちらかというとユングで語りたい話題。だってそうじゃなきゃ寂しいもの。 2nd Indies ALBUM「コトノハ」のお気に入りは「竜宮の使い」と「精霊」。作詞、作曲に当たっている間宮工と上田現が気になる人たち。 特に上田現が「島唄」をどう消化して曲作りをしているか凄く知りたい。元ちとせの曲の中でブラスが絡んでくる曲は、本当に聞いていてゾクゾクするんだから、、。 |

「IT'S
A WONDERFUL WORLD;Mr.Children」
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歌詞が気に入って曲を聴くってことは滅多にない。その逆はある、、音はいいのに歌詞は生ぬるいな〜とか、、。音楽は、自分が気持ちよくなるために聴くから、音が肌に合わないのは聞いても仕方がないと思うのだ。 原由子(東京タムレ)ちゃんのヒットが良い例だけれど、日本が高度経済成長を遂げていた60年代〜70年代初頭の「懐かしさ」がブームになってるよね。あの頃の和製フォークソングは、健気なぐらい「長い日本語」を素直に曲に乗せてる。それこそ「字余りぃ!」って感じだけどちゃんと歌詞が判る。 PS アルバム内マイベスト。(歌詞じゃなくて曲という意味ね。) ファスナー 昨日 君が自分から下ろしたスカートのファスナー 大切にしなきゃならないものが きっと ウルトラマンのそれのように 帰り際 リビングで僕が上げてやるファスナー 欲望が苦し紛れに もしも ウルトラマンのそれのように きっと 仮面ライダーのそれのように きっと ウルトラマンのそれのように 惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを・・ |
「人間の土地」
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「人間の土地」を読む。この本は、SMFがリンクさせて戴いたウェッブマスターの「大切な1冊」として挙げられていた書籍でもある。勿論、「人間の土地」を手にしたのは件のウェッブマスターの考え方に強く惹かれる部分が多くあったからだ。 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの有名な「星の王子さま」の方は既に読んでいる。、、と言っても随分昔の話なのだが、、。彼自身が飛行士である事も有名だし、この本の題名を知らない人の方が少ないぐらい有名な本だ。 だが正直に言って、私にとって「星の王子さま」は、あの押し絵以外、話の内容も私の記憶の中に残ってはいないし、読後なんらかの感動を覚えた記憶もない本だった。 今考えると、その主な理由の一つにサン=テグジュペリが、当時「流行って」いて、しかも「有り難がられて」いたことが上げられると思う。 中でも「星の王子さま」は「この大人の童話の奥底には計り知れない人間の叡智がある。」といった感じのキャンペーンがはられ、ブームとして煽られていたような背景がある。(言い換えれば「星の王子さま」をブームに出来る、そんな幸福な時代もあったという事だろう。) 当時、小生意気で(今でもそうだけど)気取り屋の私は、そんなブームに人一倍敏感な癖に、同時にそれに反撥するような所があった。だから「星の王子さま」も、反撥しながら読んでいたのだと思う。 まあ考えてみるとあの当時の私が、農夫が鍬を持って「世界」を知る事と人間が飛行機に乗る事を重ねて思索出来るサンジュクテペリを、理解する筈がなかったのだが。 それに加えて、私は年齢的なもの以外に、サン=テグジュペリを本当に理解するためには、「資質」という意味において大きな隔たりを持っていた筈だ。 「人間の土地」を読んで判ったのは、サン=テグジュペリは、思考実験のような形で文章を紡ぎ出すのではなく、彼の体験や生き方、感性で一気に思索まで飛んでいく人みたいだという事だ。 だから、彼の文章を本当に「判る」のは難しいのだと思う。彼の思いにたどり着く為には、それに類似した体験から読者もスタートするしかないのだと思う。 (もちろん「本」は「言葉」なんだから「読む」ことも、その意味も「知る」ことは出来るのだが、、。サン=テグジュペリの場合それでは充分でないのだ。もし「自然」が言葉を持つなら、「自然」を見つめた事がある者にしか、その声は聞こえない筈だ。) 私は、自分の未熟を指してそう実証できるが、この事を広く言えば、今の時代の実に多くの成人男性達も「サン=テグジュペリ」を「判らない」のではないかと断じている。 サン=テグジュペリと私たちでは、一種の生きていく上での「覚悟」というか「佇まい」そのものが余りにも違いすぎるからだ。 サン=テグジュペリはどんな人間にも、それは「ある」「生まれる」というような書き方をしているが、彼が「この世界は蟻塚のようだ」と吐き捨ててからも、世界はもっと酷くなっているのだ。 今や、彼の唾棄する安っぽいヒロイズムさえ希少価値が生じる世界と時代に私たちは突入しはじめているように思う。 ちなみに2000年はサン=テグジュペリ生誕100年の年だそうである。 彼が生きた時代は、実にライト兄弟が初飛行に成功してから30年とたっていない頃の話で、飛行機は風防すらない複葉機の時代だった。空はバイキングの時代だったのだ。だからこそ、そんな荒々しい自然の中で造形された想像力豊かな男達は、どれ程「優しかった」かと思うのである。 特に私がその優しさを思ったのは「人間の土地」の「8」の章、つまり死地に赴く軍曹が他の兵隊に起こされる場面を巡っての記述である。 私には、人生の長短を「遠近法の問題にしか過ぎない」という覚悟も、その覚悟を引き寄せるものもない。また、その覚悟が引き寄せる「豊潤な時」も知らない。 ただ、そのことが、幸せなのか不幸なのかは、もう少し生きて見なければ判らない事だろうとは思ってはいるのだが。 PS 別段、堀口大學大先生様の訳をけなすのではありませんが、「人間の土地」をもう少し平易な文体で読みたかったです。訳文されたものさえ時代がかった「古典」になっていくのは辛いです。特にサン=テグジュペリのようなタイプの作家は、読者の身に沿わすような訳され方が必要だと思います。 私たちの「読む力」が落ちてゆくのは仕方のない事です。原文があるんです、。原文は弄れません、勿論。でも訳文なら、いくらでも今の時代にサン=テグジュペリを蘇らせてやれる事が出来るような気がするのですが、、。勿体ない話です。 |
I
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監督:スコット・ヒックス
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よい映画というのは、本当に最初のつかみがうまい「ヒマラヤ杉に降る雪」の場合は、ストーリーの掴みというより映像での掴みに力が入っていたが、、。 物語の発端となる溺死体が海から引き上げられるシーンの前後は、流れる水銀の表面のようで、、冷たく、色を殺して、滑らかに表現される。ついで恐ろしく克明な死体検分のシーンは、リアルであるのにグロテスクさを感じさせない。 この様にスコット・ヒックス監督は、ストーリーがどう展開されようとも、その静謐でどこまでも美しい映像を決して忘れない。象徴的に何度も現れる「海岸に打ち上げられた魚の死体」と、「生命力に溢れたヒマラヤ杉」の対比、これも又素晴らしい(勿論、この演出が映画そのもの展開を遅滞させ、遡行型の時系列ストーリー展開と相まって、観る者に緩慢さを誘うという指摘もあるようである。)。とにかく、私はスコット・ヒックス監督の映像の作り方というかリズムにシンクロ出来る幸せな観客だった。 映画には、現在の主人公達の子供時代を映し出す場面がよくある。でもほとんどの映画は子供時代と成人した後の主人公達は似ても似つかぬ場合が多い。しかし「ヒマラヤ杉に降る雪」は例外だ。この二人(工藤夕貴、イーサン・ホーク)の子ども時代を演じる子役達が、彼らの面影を実によく残している。しかも、彼らは本編の説明的はおまけではない。彼らの登場シーンはある意味で、本編より重要な位置づけを持っているとも言える。 ここで登場する、映像的にも大変優れた幼い性のエロティシズムの描写は、イシュマル(イーサン・ホーク)の成立基盤であると同時に、どうしようもなく移り変わりゆく時代の流れや社会の変動に対する、絶対的な心の回帰点として描かれるのだから。(特にハツエの子ども時代の鈴木杏は、工藤夕貴の面差しに似てるという事もあるが、実に自然でいい演技をしている。最近、某飲料水のCMに出ている彼女の姿ではただただ生命力に溢れた可愛い子というイメージだが。) 真珠湾攻撃から9年目の人種偏見に満ちた「裁判」。そして日系アメリカ人が歩んだ苦難の歴史。第2次世界大戦時に財産を奪われ、強制収容所に連行された日系人達の有り様。それらがこの映画では丁寧に描き込まれていく。最後に、殺人の疑いを掛けられたカズオの弁護人を務めるガドマンドソン(マックス・フォン・シドー)の深い言葉が耳に残る。「これは小さな島の小さな事件ではない。世の中には、時々全ての人間が裁かれる時と場面があるのです。」 、、、だがこの映画は決して人間の倫理観や歴史を問う作品ではないと思う。そういった視点のみでみるなら、確かにこの映画は展開が「ぬるい」と言えると思う。 イシュマルの存在はハツエ(工藤夕貴)が彼の美徳として讃えた「優しさ」にあり、その美徳故にイシュマルは、戦争で失われた彼の片腕と共に「執着」に釘付けされていた。 「ヒマラヤ杉に降る雪」はそのイシュマルが、この裁判劇を通じて、再び「息を吹き返す」行程を描いた映画なのだ。 「事故も戦争も逆らい切れぬことなのだよ。自由なのは人の心の内だけだ」とガドマンドソン老が語る。イシュマルはそれを受け入れ、己の存在を再び取り戻す。そしてハツエの前に再び、あの幼い頃の自分を見せる事が出来たのである。そしてハツエはそんな彼に「優しい心を有り難う。」と答えた。 己の思いに囚われて、何も出来ない時がある。それは「執着」でしかないのに、自分の心には何か価値ある違ったものに見える事がある。 私たちは、私たちがもとに居た「素晴らしい」場所に帰っていく権利がある。ようは「吹っ切る」事だ、、。イシュマルのように、、。 |
I
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先ずはこのレビューを始める前に、「The ビッグオー」を紹介してくださった「あきみ」嬢に感謝します。特撮ヒーロー物のエポックとして残るであろう仮面ライダー・クウガの存在をCorkyさんに教えてもらったように、「あきみ」嬢がいなければ、このような作品があった事さえ知らずにいたのだから、近緒は本当に「ラッキー」なんです。(「あきみ」お嬢さんもCorkyさんもWeb上で知り合いました。そういった意味でもWeb万歳!!) 巨大ロボットの操縦方法は、クリエイター達にとって昔からの命題であり、見る者にとっては空想上のリアリティの要だったんですよね。「ビッグオー」ほぼ満点です。 それにこの作品、どれだけのパロディが含まれているか、それを考えるのも一つの楽しみ。映画で見ていくと「ダークシティ」「バットマン」そして勿論「ブレードランナー」。特にブレランの、スロージャズがバックで流れて1人称の語りで流すパターンが、上手く消化されてよく決まっている。特撮・アニメで、見ていくとまず初めのタイトルバックはあのウルトラマン、その他コンセプトとしてジャイアントロボ(実写・アニメとも)、峰不二子プラス、ユナ・サマーみたいな「エンジェル」etc。小説なんかでも、盲目の恋人の前で食べ物の乗っていない皿をカチャカチャやってみるシーンだとか、この当たりは、含蓄が深い人なら一大論文が書けるんじゃないかしら。 でも問題はそういったアイテムをどれだけ旨く、作品の中に組み上げられるかって事なんだけれど一言で言って「お上手。」 こじゃれた会話を気取っても、なかなか「ホゥ!」って感じで決められなくて滑っちゃうのが日本の脚本の宿命みたいに思っていたけど「心地よい音がする目覚ましベルなんてないわ。」etc、結構「決め」が入ったのも一度や二度じゃない。「A Legacy of Amadeus」のエピソードでは主人公ロジャー「彼のピアノは君みたいに正確じゃないが譜面に誠実なんだ。」の決め台詞から始まって、ゲスト主人公のピアノ名人アンドロイド・インストルの指が無くなっているシーンを、衝撃的に見せる脚本の力もある。 それにこれはどのアニメのファンサイトでも言われている事だけど、R・ドロシーのキャラクターの魅力は秀逸で特筆物。ドロシーとロジャーの掛け合い、矢島晶子の声の「サイテーね。」に恋しそう。 「Daemonseed」「Winter Night Phantom」は、なんだか近緒の短篇に出てくるような世界で、これはもう吃驚。アニメとか特撮の世界はホントに今、侮れないね。自分達の創作環境のチープさを最大限利用して、作る側も「楽しみ」見せる方にも「楽しませて」くれている。篠原監督の「梟の城」とかね。(近緒はこの映画の悪口ばかり言っているような気がするけど)金をつぎ込んで大作造って想像力の弱さを暴露しているような世界とは一線を画するような世界が産まれつつあるのかも知れないね。 PS1 れぷりかんと・あんどろいど・ろぼっと・ 機械に人の心は宿るのか。記憶と心は関連するのか。心とは何か。 あいざっくあしもふが、このテーマを明確に打ち出してから、人々はまるで自らを試すように、この問題を考え続けて来た。しかし、人々の夢想の中にしか無いと思われていたこの答えも、科学の発達によってその回答が現実のものになろうとしている。でも答えが判ったからといって我々は「変われる」のだろうか? PS2 「ろびん」と「R・ドロシー」 「The ビッグオー」の設定の一部は明らかにバットマンだけれど、するとロビンに相対するのは誰?勿論、R・ドロシーという事になる。バットマンワールドは色々なインスパイアワールドを生み出しているが、その中でも有名なのは「バットマンとロビン」の恋愛(性的)関係であり、これはその気がない人でも充分に想像に難くない部分だろう。色々なパターンがある。その1・バットマンとロビンはホモ関係である。その2・ロビンは実は女性である。その3・ロビンはノン気のバットマンの気を惹きたくて女性になりたがっている。その4・・・という風に性のファンタジーはどんどん展開し増殖していく訳だが、この「The ビッグオー」だって、その性ファンタジーの一部なんだと近緒は思っている。つまりアニメは、そういった「隠された性ファンタジー」の装置なんだと。 |
I
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私は子どもを扱ったシリアスな映画が嫌いだ。特に小さな子どもではなくローティーンが対象となったものなど見たくもない。そこにはかなりの確率で大人の子どもに対する勘違いが含まれているから、、。 大槻ケンジか誰かが言っていたけれど、中学生や高校生の頭の中にはピンクの豚が走り回っていると、、私もそう思う。実際に私がそうだったから。 馬鹿だし感情が未熟だ。繊細なんて事はないし、確かに傷つきやすいがそれは自我が肥大しているに過ぎない。そんな事は一端の大人なら誰でも知っている事なのに、いざ何かの形で表現される段になるとそれが美化されるのは、作り手が年老いているのか、自らの通過点を粉飾したくなるのか、、。 それでもこんな私のフィルターを突き抜けてこちらにやってくる映画がある。その映画自身に「力」があるのだ。「リリイ・シュシュのすべて」はそんな一本だ。 でも冒頭のBBSの画面をなぞった画面を見て何となく安心した。この映画はj-pop的映画なんだと。つまりそこには現実の子ども達など何処にも存在せず、作り手のイマジネーションが「あり得そうな子ども達」という虚像に投影した人物が、汗もかかず体臭も立ち上らせず、ただ美しく苦悩しているという、そいうパターンだからだ。 それならそれで楽しみようがある、、要するに「嫌い」じゃない。見ている人間が、その世界と正しく距離をとれるなら、そのありえない残酷な美しさを堪能すればいい。 (現実の「残酷」は笑ってしまうほど無惨で滑稽だ。犬の餌にもならない。) 「世界」を発酵させ蒸留させたものが詩や歌や映像なのだから、、それらの中には、苦しみや悲しみに酩酊できるスタイルを持つ表現がなければやりきれないと言うものだ。 私はこの作品の中で、主人公の中学生達がオヤジ狩りの金を横取りした資金で沖縄に行ったシーンがとても好きだ。(人によっては取り留めもなく長いこの映画で、一番整理すべきエピソードがこれだというかも知れないが、、。でも、それをいうなら総ての場面が抒情的であり思わせぶりな記号に鏤められたこの作品は全編整理の対象になる。) 旅はいつも人をくっきりと「世界」から浮き立たせ、その存在を相対化させる。己が何者であるのかを知るためには異世界や異物を自らの内に引き込む必要がある。旅はその為にある。 星野が沖縄の離島で、溺れかけた事、海から跳ね上がる魚に突き刺されそうになったこと、大沢たかお扮する男の死に触れた事は彼の自我の変容にとって非常に強い触媒になった筈だ。 この強烈な夏の体験を経て星野は新学期を迎え、あるきっかけから「いじめられる」側から「いじめる」側へ転身する。まあこの辺りの描写は「リリイ」自体の作品構成が、最近の青少年問題のコラージュのようなものだから、作り手にとっても本当はあまり重要な事ではないのだろうと思う。(そんなものを描写したところで現実の事件には勝てないのは目に見えている。) むしろ作り手は、自らが黒幕になって女子生徒をレイプをさせたり売春をさせたりする星野と、それらを総て目前にしながら為す術もない雄一が、それぞれの位相こそ違えながらも、現実よりもリリイのエーテルに生きようとする部分こそが問題の「核心」なのだととらえているようだ。(そしてどういう積もりかこの部分についてさえも監督は明確な自分の姿勢を出していない。まあどうでもいいんだけど。) この男の子たちに対して女の子たちは、レイプ後にスキンヘッドで登校した久野は勿論の事、自死した津田にしてもより「現実」に対峙して生きているようである。 「リリイ・シュシュのすべて」は何の答えもなく終わっている。この終わり方はこの作品からして必然だと思える。何かを方向付けたり、語る事自体が作品を作る上であらかじめ放棄されているかのようだ。だから美しく見える、単純な仕掛けだ。 映画はこれで構わない。アルコールを抜いた酒を酒とは呼ばないし、酔わせる為の映画もある。 最後に、私はレビューを書く前にネット上で、その映画に対する批評を参考の為にいくつか読む。そんな中で「この映画の登場人物の誰ひとりとして好きになれないし共感もしなかった」というものがあった。実に正しいと思う。それを言い切るのが見る側の責任だ。そういう事が必要とされている時代なのだと思う。 エーテルなんて創作世界以外のどこにもない。 PS このレビューは結構多くの誤解を招くだろうと思う。そんなのは構わない。けれど岩井俊二という人物は素晴らしい才能を持っている事だけは明記しておきたいと思う。津田が見上げる夕暮れ間近の空に宇舞うカイト。リリィのコンサート会場前にある巨大なディスプレイの前に立つ雄一の小さくて今にも押しつぶされそうなシルエット。どれをとっても胸が痛む。映像で言葉を語れる数少ない監督だ。日本映画の一つの可能性である事は確かだ。 |
I
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私の映画レビューでは意識してゲイムービー(一般的なレベルであるけれど)を取り上る事にしている。だから、この映画も「その手の」と思われるかも知れないが、どちらかというとこの映画、カテゴライズ上はバディ・ムービーと言った方がいい。それも「友情の中に男同士の愛が芽生え」といった隠し味がある訳ではないから、かなり本格的で優秀なバディムービーだろうと思う。取り扱っているテーマだって、まぁこれは一言でいうなら「人間の尊厳」に関する映画なのだ。ただしその「尊厳」は、インポになった男が失われた「男」をどう模索するか?といったレベルに話は落として在り、実にそれがしみじみとして伝わってくるのだが、、。 誇り高く生きてきた、又そう願うだけでなく、実際に生きてもこれた。そんな男がある日突然ハンディを背負ったら、、。。ロバート・デ・ニーロとフィリップ・シーモア・ホフマンの会話が「普通」の癖に強烈に面白い。 「お前はアーティストなんかじゃない。只の薄汚い女装野郎だ。」「夢を見てどこがわるいのさ。あんたこそ自分が惨めだっていつも泣いてりゃいいのよ。」要は、今の自分自身をどう「肯定」するかって事なんだよねぇ、、。しみじみ。 それにしても、ロバート・デ・ニーロってどんな俳優なんだろうね。顔面麻痺の演技だって、そんなに力いれてやってないやろって突っ込み入れてやりたくなるんだけど、やっぱりデ・ニーロなんやねんねぇ。。それらしく見えちゃうもんね。 一方、フィリップ・シーモア・ホフマンは映画「マグノリア」で看護士役を演じているのを見たんだけど決して過剰でない「普通のやさしさ」を好演していて妙に印象に残っていた人。これはもう、ドラッグクイーンのラスティどんぴしゃりの演技をしていた。化粧を落としたドラッグクイーンのスタイルの時間を多く演出させたのが正解。お陰で、そっち方面の楽しみは減っちゃったけど、なかなか含蓄のある人間ドラマを描けていたと思う。 PS 「娼婦のティア」は本当に可愛い女性だね。デ・ニーロが「寝てくれる女」の話をしてくれた友人を彼女に紹介した時に「それは女のひとでしょう。」と言い当ててデ・ニーロがラスティの事を思い出しながら妙に納得した表情になるんだけれど、、。 この場面も含めて、娼婦のティアの存在も、これらは、どちらかというと丸ごと脚本上での「男」の「女」に対するファンタジーじゃないかなぁ、、、。まあラスティみたいな境界線上にある男達の何人かも、そんなファンタジーを「女」にもっているし、「男」にとっては心地良くはあるんだけれど。いいのか悪いのか、ちょっと複雑な気分にさせられちゃった。 所でチャ・チャ(ウイルソン・ジャメイン・エイレイジャ)は美形だね。映画の中には、お姉さん達のホンマモンも混じっているらしいんだけど、彼は一応その筋の人ではないらしい。でもまあ、ヨーロッパ系の顔立ちというのは、ほんとグラムな女装に適しているというのか、なんというのか、、。羨ましいわぁ。 |
「生への帰還」
生への帰還
ジョージ・P・ペレケーノス
ハヤカワ文庫 佐藤耕士訳
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「生への帰還」。すでにシリーズものの何冊かを出し終わっている作家の最終巻を真っ先に読んでしまったようだ。 「ワシントン・サーガの最終巻」の概略説明より「ジョージ・P・ペレケーノスの最高傑作」というアイキャッチに目が眩んだ報いだ。 でも普通は、こんな事を悔やんだりはしない。近緒には、一人の作家の「全何十巻」を読む気力がない、それよりは出来るだけ違った種類の本をたくさん読みたいという「読書欲」の方が強い。 更に言えば今まで年代譜を感じさせるシリーズを形成した作品群で、読む順番を意識したのはスティーブン・ハンターぐらいしかない。つまり数世代に渡る一族の血の繋がりや宿縁に重点を置いたミステリーはそう多くないという事だ。 しかしこのペレケーノスの作品に限ってはある程度、読む順番を守った方が良かったのかも知れない。 「生への帰還」のラストを読んで、描写が淡泊なのに強い余韻を感じさせるのは何故なんだろうと疑問を抱いていたら「訳者後書き」で納得してしまった。 二人の主人公が丘の上から自分たちの町を見下ろして感慨に耽っているラストシーンは、今までに移民達が下町で繰り広げてきた苦いサーガへの慰安の眼差しでもあるのだ。 主人公の一人ニック・ステファノスはギリシャ系移民であるが、ここで展開される人々の濃厚な繋がりは、映画「ゴッドファーザー」を中心点とした一連の映画を連想すると理解が早いかもしれない。 ペレケーノスの作風の特徴の一つは、日常生活の細かな描写だろう。それもバスケットボールに対するファン気質であるとか、男達の車に入れ込む馬鹿さ加減、あるいはビールの銘柄の好み・酒を呑むスタイル、そういった視点で描かれる文章量が圧倒的に多い。 PS 「生への帰還」の冒頭は素晴らしいスピード感に溢れており、ペレケーノスはこういった書き方もやろうと思えば十分に出来る作家なのだろうと思った。 これで全編を貫き通したら、その内容はともあれ彼はベストセラー作家になるのではないかと思う。少なくとも映画化の話ぐらいは舞い込んでくる筈だ。 |
「タフの方舟」
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今日なにげにニュースを聞いていたら日本の人口減少は止まるところを知らず、このまま行くと3000年を越える頃には「日本人」自体が地上から消え去るそうだ。「日本沈没」ならぬ「日本蒸発」、小松左京も考えつかなかったシナリオですね。勿論、その主な原因は小子化傾向。 さあこの問題、この小説の主人公ハヴィランド・タフならどうするだろう。彼は、二度に渡って惑星ス・ウスラムの人口増加問題を解決している。もっとも二度目のそれは人間の性自体に迫るシビアな解決方法だったが、、、てな感じの「天の果実」も面白いけれど、chikaはタフが全長30キロにも及ぶ生物兵器巨大戦艦〈方舟〉号を手に入れる下りを描いた「禍つ星」が好きかな。 完全にヴィン・ディーゼルが主演してそうなB級SF映画のノリでしょ「禍つ星」て。でも身の丈2メートル半、でっぷりとした巨体は真っ白でつるつる「……でございますな」の慇懃口調でえげつないことしながら猫ちゃんを可愛がるハヴィランド・タフはヴィン・ディーゼルじゃ無理か。 それにいくらB級ティストたって、様々な惑星から集めた生物の胚(はい)種とクローニングを駆使して惑星そのものの環境を変化させてしまう環境エンジニアとしてのハヴィランド・タフは、やはり正当なSF小説の主人公だしね。 さて人口増加問題に悩む惑星ス・ウスラムにタフが取った方法とは、この惑星が持つ従来の作物に替えて、効率よく食糧となるものをクローニングで導入する方法。 で実際、目先の困難は解消されるんだけど、豊富な食糧に恵まれた人々は逆に安心して産めよ増やせよと更に人口増加が進む。勿論、タフにはそんな未来は目に見えた事だったのだけれど、そこにはヒューマニズムという壁があってという内容が「パンと魚」。 ここでもう一度問題、あなたが生物兵器巨大戦艦〈方舟〉号を操る環境エンジニアならこの日本にどんな処置をしますか? |
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この映画については原作も大好きだし男優さん達のラインアップも魅力的なので公開前はすーごく期待していた。原作における設定上の映画化の難しさも、自衛隊の全面的な協力が得られると聞いていたし、なんと言っても監督がセミドキュメント「KT」をこなした阪本順治氏だから全然問題ないと思っていた。 |
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「コンスタンティン」自らの地獄堕ちを阻止するために人間の世界に入り込んだ悪魔の中間的存在を地獄に送り返すやさぐれエクソシスト、、設定も世界観もまるごとchikaの好みなんだけれど映画自体はいまいち。キリスト教の宗教観が血肉になっている欧米ならと思ったけれど、映画を見てる限りには単に脚本上の問題かと、、。 PS ・・コンスタンティンの腕まくり刺青攻撃ってハガレンのアレにそっくりなんだけど、、、どっちが先なんやろう? |
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プロデュースが水木しげる・荒俣宏・京極夏彦・宮部みゆきで、監督があの三池崇史!! この映画の収穫はなんと言っても栗山千明ちゃん。鳥刺し妖女アギが似合いすぎる程似合ってる。舌をべろんちょと出して唾をジュルジュルジュー、完璧、若きSM女王様ですね。 映画全般の印象としては初めに書いたように「一旦木綿、お前、鬼太郎の前ではええ顔してるんちゃうんか!?」の台詞とか、大怨霊ヨモツモノの東京上空への来襲シーンでの「なーんだガメラだぁ」とか、しつこいぐらいに「東京都知事」の名前を妖怪達に連呼させて見せたり、ホント三池監督よく遊んでます。
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I saw a movie2