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ケント。私は待ってる!



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ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還

監督: ピーター・ジャクソン

  「ロード・オブ・ザ・リング」三部作を見終わってから、沢木耕太郎の「深夜特急」や「奥の細道」を想起するchikaって変ですか。
  特にフロドが自分の「旅」自体に疲れ切っちゃって煮詰まる場面なんかは、「深夜特急」にも出てくるしね。まさに「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし」って感じが、フロドの表情にぴったりだし。ある意味「ロード・オブ・ザ・リング」ってSFXロードムービーじゃなかったのかって思うんですよね。
 でもこの満腹感ってなんだろう。映画として大傑作だったのかどうかは別にして「満点・満点・満点、優勝だぁ」って感じだけは確かでしょ。
 まあ『王の帰還』ではミナス・ティリスの大決戦のシーンがどうみてもスターウォーズの地上決戦シーンそっくりだとか(脚の長い巨大象モドキだってSWのあのマシンでしょ。)、散々気を持たせておいて、ちゃっかりアラゴルンとリヴ・タイラーは結ばれちゃうし、、。
 いっちゃん強い筈のブラックライダーが、「この世の男には私は殺せない」と言った途端にエオウィンの「私は女よ」攻撃で、空気抜けたみたいにヘナヘナと死んじゃったりして、今までの戦いはなんだったんだよー、冗談はよしてくれーみたいなシーンとか。etc結構、「大味」なんだけど、分厚いステーキを食べる時に微妙な味わいなんか関係ないのと一緒で大した問題じゃないって感じ。
 しかしあんなに嫌いだった「カエル顔」のイライジャ・ウッドも、ちゃんと苦悩するフロドとしてはまっちゃうんだから畏るべし「ロード・オブ・ザ・リング」。

 最後の結末はゴラム・サム・フロドという三人に、欲望・勇気・献身・誠実みたいな人間の属性をそれぞれ振り当てながら結論だしてるんだよね。(それがゲームでいう「パーティ」の原理でもあるわけで)
 それにアクションを中心にした英雄譚が中心のアラゴルン・ガンダルフ組と、冥界的な世界さまようドロドロ・フロド組を分けることによって、恐ろしく長巻きのこの映画全体を観客に飽きさせずに見せられたってのも大きかったな〜。
 結局、王となったアラゴルンがフロドに頭を垂れるシーンがこの三部作のまとめかと、、。

 でもサムとフロドって松尾芭蕉と曽良を思い出しません?



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Uターン

監督: オリヴァー・ストーン

 これ凄く面白い映画です。もっとも、この手の映画が苦手な人には我慢できないぐらいの癖を持ってるから、誰にもお勧めってわけにはいかないけれど。
 物語は、指を切り取られ泣く泣くマフィアへの借金を返すために車で金を運ぶボビーの姿から始まります。64年式の赤いマスタングが、格好を付けたがる癖にそれ程腰の入った悪党じゃないボビー(ショーン・ペン)のちんぴらぶりを良く表していますが、この車が砂漠の一本道を疾走するシーンがオープニングシーン、ストーン監督ってこういうのスキですね。
 マスタングがアリゾナの熱気にやられて修理をせざるを得なくなる。それがボビーの不条理世界突入の第一歩なるわけね。自分を舐めてるとしか思えない対応をとり続ける修理工ダレルの店でひとしきり言い争いをしてからボビーはスペリアという田舎町に繰り出します。
 そこで彼は美しい人妻グレイスと出会うんですが、これがとんでもないわけアリ夫婦の片割れで、、、。親近相姦はあるは保険金殺人はあるは、おまけに町中、浮気だらけで、、おっとこれからはネタばれになるから止めておきましょう。
 お話自体は夫婦間同士の保険金殺人に絡んでしまったちんぴらという設定から考えられるストーリー上それ程、新味はないのですが、どんでん返しがしつこい程あるんですよね。つまりそのどんでん返しの繰り返しの中に「真実」がちらちらと見え隠れする仕組みで、まあその構成自体がこの映画の肝のような気がします。
 その間(ジェニロペとリヴ・タイラーはさておき)パワーズ・ブース ニック・ノルティ ビリー・ボブ・ソーントン ジョン・ヴォイト ホアキン・フェニックス達が演じる田舎町の人間達の濃いこと濃いこと。ボビーが泣きそうになってこの街を出たがるのがよくわかります。ミステリィの筈がボビーが次から次と陥る災難を見てると、思わずこれってシリアスコメディ?って感じさえします。
 そしてもう一つの見所は、勿論ジェニロペ・ノルティ因縁夫婦の愛憎どろどろの万華鏡、、、SM?近親相姦?浮気?金銭欲?裏切りにつぐ、裏切り・・とまあここまでは、よく似た筋立ての映画があってもおかしくないんだけど、この愛憎劇の本当の落としどころは人間じゃなく「アリゾナ」なんですよね。
 つまりあらゆる人間のどろどろを焼き焦がしちゃう荒涼とした「アリゾナ」そのものなんです。で、そう言う見せ方があって、尚かつ、その熱いフライパンの上で焦がされても懲りずにやってるのが人間みたいな、、、ね。
 ん。面白いですよ、この映画。

 



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夜がまた来る
監督: 石井隆

 フランス映画のフィルムノーワールな香りがする古いやくざ映画がなんとなく観たいな〜。そんな気分で選んだのがこの一本。石井隆という名前はchikaの中では映画監督というより待合室に無造作に転がっていた名美シリーズ(きつい顔をした女達)の生みの親って感じかな。
 だからどうしてもエロ漫画作家からの転身というイメージがあって映画監督としてはどうなの?という偏見があったわけ。でもこの人、初めから映画作家志望だったんですね。たまたま絵が巧いと言うことで穴埋め的に描いた作品があそこまで行ったんだから、漫画は氏の表現能力の一部だったのでしょう。
 石井隆と言えば男と女の情念ドロドロっていうのが前面に押し出されているけれど、基本的には物語より「絵」に拘る作家だと思う。この映画でも初めに名美が殺された夫の遺骨をかみ砕くシーンがあるのだけれど、あれも物語というより発想的には「絵」のような気がしますね。もう少しうがった見方をすると静止画を連続させて物語りを紡ぎ出す漫画の駒運びに近い。
 それを一番意識させるのがちんぴら役の椎名桔平が潜入捜査官の根津甚八に透明ビニール傘で喉元を刺される屋上対決シーン。開いた透明の傘の向こうで血みどろになった椎名桔平が空を掻きむしってみたり、彼がビルから墜落してから暫くして傘が突風で吹き上げられてみたりと、並々ならぬ「絵」へのこだわりが感じられます。でもこれが最近の「花と蛇」になって来ると、ちょっと違う感じになって来るんですよね。
 どうみても「夜がまた来る」の方が映画として質的に高い。石井隆という人はあくまで「絵」の映画作家なんだけれど、そのモチーフは「名美」のような女「村木」のような男の情念にあり、それを描くときに最高の力を発揮するような気がしますね。確かに「花と蛇」もよーく見ると今まで石井隆監督が追いかけてきた男と女像に似ている部分は多々あるのだけれど、軸になっているのがあくまでSMの世界であるという差があるんですよね。
 漫画の名美シリーズも湿気った感じがするしSMと親和性が高そうに見えるのだけれど、実際には石井隆の女達は墜ちれば墜ちるほど内部から輝いていくような不思議な部分があって、それはちょっとSMとは種類が違うものなわけで、、。まあ次の石井隆作品を期待しましょう。

PS どちらかというと瓜実顔の夏川結衣が演じる名美ってchikaには違和感が強いんだけどモデルからの転身組の女優さんでここまでやったら立派です。名美が墜ちて場末のウリ専でのたくっているのを村木が発見する場面ではちょっと来ました。それは演じているのが夏川結衣だからじゃないかと思ったりします。

 



「今夜、すべてのバーで」
「今夜、すべてのバーで」


中島らも 講談社文庫

 

 

 らもさんへのしっかりした追悼文を書こうと決めてから随分時が経ってしまった。chikaは「ガラタの豚」と「水に似た感情」の2作品しか知らないので、せめてもう一作品と考えていた時に『今夜、すべてのバーで』はまぎれもなく傑作だという風野春樹さんの声に押され、本作品を読んでからにしようと思ったからだ。
 それになんとなく、らもさん死去に合わせて平積みにされた文庫本を手に取るのが躊躇われたこともある。初な文学少女じゃあるまいし、これは不思議な感覚だ。
 chikaの傾倒する作家はW村上氏だけど、もし彼らの死去のニュースを聞いても、らもさんの時のような「たじろぎ」はたぶんないだろうと思う。「たじろぎ」の正体はらもさんが放つ「身近さ」なのだろうと思う。
 勿論それは、らもさんが書いたものが「庶民的だった」などということでもないし、らもさんが人間の卑小さを好んで描いたからというわけでもない。
 人と人が向かい合った時に、相手の外見ではなく内面をどれだけ感知出来るかは、その人間の練度なのだと思うんだけれど、らもさんはそれを自分自身の「卑小さ」と「たくましさ」の間を行き来しながら、それに鋭い観察力を加えて練度を高めていった人なのではないかと思う。
 「同じ目の高さ」の表現という言葉があるが、らもさんの場合は「同じ内面を見る目の高さ」に加えて「タフさと繊細さ」が融合した表現者なのだ。chikaにとってその表現が身近に感じられないわけがない。

 「今夜、すべてのバーで」で、主人公の小島容と「担当医」赤河が霊安室で若くして病死した少年を挟んで喧嘩をする下りは、らもさん自身の「タフさと繊細さ」の葛藤を見ているようで本当に泣いてしまった。
 ・・そしてらもさんの「依存」への考察、、「依存」の正体が解明出来れば「人間存在」だって判るのだ。chikaもそう思う。
「今夜、すべてのバーで」を破滅と再生の物語だとして読む人もおられるようだけれど、残念ながらchikaには、らもさんが本気で再生を信じてこの小説を書き終えたととはとても思えない。
 というよりも小説としての体を成す為には、はさやかと容の洒落たツーショットで終わるしかなかったのではないかと思う。
 人は「再生」などしない。ただ「希望」や「夢」を時相応に紡ぎながら死んでいくだけだ。そんな簡単な理屈がわからないらもさんではないだろう。
 だからこそ「希望」や「夢」に、らもさんなりの彩りを添えて私たちに提示しようとするのだろう。それが「今夜、すべてのバーで」の正体ではなかったかと思う。
 らもさんの「明るい悩みの相談室」の舞台裏が、アルコール依存症と鬱病と躁病であったことは、何か奇跡的な必然さえ感じさせられるのだ。改めてご冥福を。



「海辺のカフカ」
「海辺のカフカ」


村上春樹 新潮文庫

 

 

2005-03-08
我ながら奇妙な事をやっている。一冊の本をちょびちょびと読んで、その度にレビューを書く。大体がレビューなんてものは一冊を読み終わって書くものなんだけれど、、。
 でもこれはこれで面白い試みなのかも知れない。その本の名前は「海辺のカフカ」勿論、筆者は村上春樹氏だ。
今日は、少年が倉敷あたりの高速パーキングエリアで「姉」のような人と出会う所まで読んだ。気になるのは挿入され始めたお椀山のエピソード。アメリカ陸軍情報部が事情聴取した文書内容という形で展開されているんだけど、これってやっぱりUFOの話だよね?「ねじまき鳥クロニクル」にノモンハンのエピソードが絡み込んでくる構造を思い出しちゃった。さあこれから、どうなるのかしらん?楽しみですね。
 今日のホリエモンVS
ニッポン放送の亀渕昭信社長は「ある方が『ストックビジネスのテロ行為』と言ったが、その通りと思う」などとライブドアを批判する。村上春樹氏が「ねぎまき鳥クロニクル」に挟み込んだ「戦争」は拷問で始まったんだけど、、。

2005-03-14
フランカ・ポテンテっていう女優みんな知ってる?たぶん「ラン・ローラ・ラン」で走りまくっていた赤毛の骨太女って言った方が判りやすい、、か?
 フランカ・ポテンテは「アナトミー」っていうホラーミステリーにも出てるんだけど、どうしてこの大して綺麗でもない骨太女が主役をはれるんだろう、、ってずっと思ってたんだけど『ボーン・アイデンティティー』見てて、なんとなくその理由が判ってきたような気がしました。
 要するにフランカ・ポテンテの魅力って、リアルな普通の女性としての存在感なのね。それに自然なH感覚っていうのかな。自堕落じゃないけど「好き」になったらスキンシップの延長線って感じで相手の肌を確かめちゃう事が自然に出来ちゃうみたいな。
 そ言えば「海辺のカフカ」の方は、全員記憶喪失少年団の重症患者だったナカタさんが猫と喋れる事が判明、おまけに少年がさくら(彼女の今の所のイメージは何故かフランカ・ポテンテ、、文章上の読みとりではもっと小柄で耳の大きなファニーな感じの娘なんだけど。)に手コキしてもらう所まで読んだよ。
 でも少年のシャツに彼が知らない内に真っ赤な血が付いていた描写あたりから、ますます「海辺のカフカ」って村上春樹が過去に書いた作品の総集編ぽいなぁ、、って気がしてるんだけど、、どうなんだろう。

2005-03-16
 国連が製作した地雷反対運動を促進する公共広告キャンペーン「キックオフ」に対し、批判が集中していることについてのコメントを蝦頭に書いた。蝦頭は「お色気ブログ」と性格付けしてあるから、内容的には本来、こちらで展開するべきものなんだけど、敢えて蝦頭に書いた。
 理由はたった一つ、アクセス数がこちらの十倍ぐらいあるから。自分が腹立たしく思った事を書くときでも二種類あって「愚痴を聞いてよね」って感じと「みんな聞いてよ」っていう内容にわけられる。今度のは完全に後者。このテレビスポットだけを見てる時は微妙だったんだけどアメリカの反応を聞いて頭に来ちゃった。

 て後は蝦頭にまかせて「海辺のカフカ」の話。例の集団少年失神事件に引率の女センセイの告白談が付け加えられて、ひょっとすると女センセイの「生理で真っ赤手ぬぐい」と少年の「血でべっとりTシャツ」は同じものなのかと考え初めている所、、猫がナカタさんに対して「あんたが気を付けないといけないのは頭の悪さじゃなくて影の薄さだよ」って予言めいたことを喋っていたのを思い出す。 ナカタさんと少年は時空を超えて引き裂かれた同一存在なんだろうか?等と考えているのだ。
(てか結構、村上作品の中にはこういう構造が良く出てくるし)
 それに「大島さん」はひょっとして「バイなFTM(?)」じゃないだろうかとか妙なことも感じてたりして。
 読み終わった時に、chikaの予想がどれぐらい外れていくのか(あるいは何故外れたのか、その理由も)続きが楽しみ。

2005-03-21
 相方と一緒に山代温泉へ出かけた。時間をやりくりしてって感じだったので、電車を使った遅出早帰りの1泊旅行。 思うことも感じることも少ない、なんだか消化試合みたいな旅だった。ただ、行きと帰りの電車の中では最近になって少しずつ読み始めた「海辺のカフカ」がたくさん読めたことが嬉しかった。
 今は文庫本の形で上巻を読み終えて下巻に入り、カーネル・サンダースが登場して「入り口の石」がナカタさんの枕元に置かれた所まで読み進めている。大島さんがFTMじゃないかという予想はかなり当たったみたいだし、少年とナカタさんが2重の存在じゃないかという予想はどうなるかまだ判らないんだけど、少なくともこの二人が四国で接近しつつあるのは確かみたい。
 それが予想の少し当たっている部分。、予想が当たらなかったのが「海辺のカフカ」は今までの村上作品の焼き直しで再構成されておりそこには新しさがないと思っていたこと。
 ・・・ジョニー・ウォーカーが猫を殺していく描写やナカタさんが彼の胸を刺すシーンが正確に淡々とスピードを落とさす書き込まれているのを見て、村上春樹が「暴力」の観察者である事を止め、物語の書き手の主体としてそれらに関わる事を鮮明にしてるように思えた。
 「アフターダーク」を読んだ時、もう村上春樹は若い世代を主人公にして彼の世界を生み出すことに無理が出始めているような気がしたけれど、「海辺のカフカ」の設定ならまだ大丈夫、そんな気もした。
 それに少年の肉欲やセックスシーンがすごくビビッドに描かれているのには、ちょっと参りましたって感じ。とにかくこんなに登場人物をばらまいておいてどう収束するつもり(いやその積もりがあるのかどうかさえ疑問だった)なのかって思ってたけど、ここまで読み進めてみるとパズルピースみたいに全部の登場人物がある意味を持ってはまり出すんだからちょっと吃驚。
 これは「海辺のカフカ」の表題が女性館長佐伯さんの若い頃のヒット曲名だったり、その歌詞自体に謎解きのヒントがあったり、村上春樹ってこんな風に「判りやすいサービス」もするようになったんだ!!ってのも収穫でした。

2005-03-22
「みなさーん、マツケンダンスって知ってますかぁ」(日記ブロガーにあるまじき呼び掛け調、最近こればっかし)マツケンダンスでサンバじゃないんですぅ。実ゆーと「焼きたて!!ジャぱん」っていうアニメの3D風のEDなんですが面白いですよこれ。踊ってるのがこのアニメのサブキャラで松代健、たぶんこの銘々ちゅーかコンセプトは「マツケンサンバ」狙いだとは思うんだけど、本家を超えたひねりがある。最近のトラボルタならアフロのカツラ付けて洒落で踊ってくれそうな代物。一度ごらんあれ。

 さて「海辺のカフカ」なんですが、旅行から帰って来た途端に読むスピードががくんと落ちてしまいました。でも下巻になってから凄く面白くなって来てるし、イッキ読み出来ないのがかえっていいのかも、、。と言う事でホシノ青年とナカタさんが「入り口の石」を雷鳴が鳴り響く中、持ち上げようとする所までは読んだのですが、、、しかし15才の少年は50を越える佐伯さんと本当にセックスしちゃったのでしょうか?
 さすがにここらの描写は変身した村上春樹氏でも露骨に書くのを躊躇ったのか、随分、意図的な「混乱」を導入してましたが、、。なんだか「女王メディア」とかそんな色合いも、、。うーんと唸っちゃいますね。

2005-03-24
「海辺のカフカ」プロジェクト進捗状況。
ナカタさんがホシノ君と牧歌的漫才のかけあいをしつつ、ついに甲村記念図書館を見つけだす所まで読みました。で、気付いたのが「海辺のカフカ」に冒険談を読み進めているような「ワクワク気分」がある事です。
 村上氏の場合、氏のエッセイ以外で、こんな素直な「楽しさ」をあまり味わった事がないような気がするんだけど、、、この辺りは、どうなんだろう?。

2005-03-25
 本日、「海辺のカフカ」をお昼前に読了。不連続で読んだせいか、クライマックスが何処にあるのかが掴めないで終わってしまった。
 エンディングもこれだけ長い心の旅を終えたカフカ少年の物語としては、ちょっと物足りない感じ。それに結局、ナカタさんってどんな存在だったんだろう?はじめの頃に繰り返し語られていたお椀山のエピソードは、村上春樹氏が得意な「もう一つの世界」の変奏曲に過ぎなかったのか。「海辺のカフカ」って恋愛小説なのか?家族の蘇生の物語なのか?それとも破壊や虚無に対する夢・想像力の話なのか。
 「入り口」と「出口」があるもう一つの世界を潜らなければ、真っ直ぐに世界に立つことも出来ないのが私たちということなのだろうか?etc、、。
 ・・カフカ少年がこの世界に還って来るために、佐伯さんとナカタさんと(父)が死んだんだよね。ちょっと考えがまとまらないなー、、。



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Four Rooms
監督: クエンティン・タランティーノ、他

 マドンナのボンデージ調ラバーコスチューム姿が見たくてこの「フォールーム」を借りたんだけど、映画としてもなかなかの傑作ですよこれは。

第1話監督・脚本:マリソン・アンダース
第2話監督・脚本:アレクサンドル・ロックウエル
第3話監督・脚本:ロバート・ロドリゲス
第4話監督・脚本:クエンティン・タランティーノ

って感じで199X年の大晦日、ロサンゼルスのホテル・モンシニョールの新米ベルボーイ、テッドを中心に4本のショートストーリーが展開されます。
第一話「ROOM321・"THE MISSING INGREDIENT"」で、まだ鍛えすぎていない頃のマドンナの肉欲喚起ボディがピチピチのラバードレスに包まれて登場します。マドンナがレズの魔女だっていうのもなかなかなキャスティングなんですが、この短編自体はそれほど完成度が高いっていうわけでもありません。まあ美女達が寄ってたかってのお色気コメディって感じ。
第2話の「ROOM404"THE WORNG MAN"」ではあの「フラッシュ・ダンス」で印象深かったジェニファー・ビールスのギャグを噛まされたボンデージ姿を見ることができます。といってもこのジェニファー・ビールス、、無茶苦茶強いんですが、、。
第三話は、chika的に一番楽しめた短編です。「ROOM309
"THE MISBEHAVERS"」。邦訳が「かわいい無法者」となっていますが、これが一番内容にぴったりした邦題でしょうね。
 ホントにロバート・ロドリゲス監督の作品って外れのないコミック雑誌って感じで楽しめます。ここに登場するアントニオ・バンデラスもチャーミングだし、、でも死体の腐敗臭と足の臭いは似てるのかなぁ、、。
 そしてトリの第四話は「Pent House"THE MAN FROM HOLLYWOOD"」。延々と続くお喋りシーンはタランティーノのトレードマーク。彼の作品を見慣れた人には「いつものようにやってるよ、、。」って感じで映画は進むんですが、、ホンの数秒のワンカットで、目が覚めちゃいます。
 映画のネタばれなんて全然気にしないchikaですがこればかりは伏せておきましょう。「さすが!タラちゃん」って思いますよ。絶対。
 
 
PS 4本の短編に共通してベルボーイ役で出演しているティム・ロス、こうやって見ると芸達者です。それに気取った身体の動かし方も役柄にピタリとはまっているし、、凄い人なのかも。

 



「灰夜 新宿鮫VII」
「灰夜 新宿鮫VII」


大沢在昌 講談社文庫

 

 

 うーん、書評が書けない、、。つまり「灰夜」って作品は、いつもの新宿鮫シリーズのレギュラー陣が一切登場しないというコトを除いては、何一つとして新鮮味のないストーリー展開なのだ。
 おまけに二・三日の間に事件を解決(?)するパターンは昔の「走しらなあかん、夜明けまで」の方がずっとスリリングだったし、、。
 かと言って面白くないわけでもないのが不思議。最近、小説を読む体力が落ちてきたchikaでも数時間でイッキ読みが出来るんだから大沢在昌氏の筆力が落ちているわけではないんだよね。
 それにしても鮫島警部の理想主義者ぶりは作を重ねる度に磨きがかかってきますね。この本ではそういった人生観以外に、鮫島が他人に「奢られたり」他人のモノを「借りたり」「壊したり」するコトについて異常にけじめをつけたがる描写が何度も出てきて微笑ましいというか、これって「刑事ゆえ」という設定上の筆運びじゃなくて、作者の大沢在昌氏の反映なんじゃないかと、、。
 でも読者の方は「ホントはスーパーキャリアだけど都落ちして現場で頑張ってる格好いい鮫島」が好きな訳で、あまり仙人じみた理想論を何度もぶたれると「もういいや」って感じにならないんだろうかと心配になって来ます。
 シリーズの最初の頃は鮫島の心の葛藤とか「嵌められ」振りがしっかり書き込まれていてその理想論も凄くチカラがあったんだけどね。
 例えば鮫島の愛車はBMWなんだけど、それを大沢氏はリアリティを持たせる為に色々な理由を付けてわざわざ中古車にしてある。そういうエンタメ上の努力をする事が、なんとなく大沢氏にしてみれば疲れて来たのじゃないかしら。言いたいことを一気に書きたいっていう感じ?
 「灰夜」には例によって、二人の大沢氏好みのイイ女が登場するんだけど、彼女たちも単純に味付けというか読者サービスで登場するだけで、全然本気で書いてないみたいだしね。「出張先の小粋なバーで出会ったいい女」程度のイメージを読者が、彼女たちに重ねて読んでくれればいいやって感じでしょ。「灰夜」で八作目だけど、新宿鮫ももうそろそろまとめ時なのかもね、、。



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理髪店主のかなしみ
監督: 廣木隆一

 「理髪店主のかなしみ」、、何やらフランス映画の邦題みたいなこのタイトル、立派な日本のエロ映画である。
 この映画、凄く大雑把に言うと「足」あるいは「ハイヒールフェチ」をメインに据えた廣木隆一監督のエロチックサスペンス映画だ。

 古今東西を問わず、本当にそのフェチを理解している表現者が映画を作るとそれなりにいいものが撮れる。逆に小賢しげにフェチを「お笑いのネタ」や「お洒落の味付け」に使ったりする映画は、その本体自体も駄作の場合が圧倒的に多い。
 この映画は奇跡的にその真ん中ぐらい。
(何故奇跡的と言うか、、、この手の日本映画には佳作か駄作の両極が圧倒的に多いからだ。)
 田口トモロヲが主演と聞いて「あの灰汁の強さにフェチが絡むんだからネチネチギトギトじゃない?」って感じでちょっと引いていたんだけど、映画は比較的淡々とした調子で展開する。
 特にハイヒールフェチなんて、同じ変態でも「行動派の人物」というより「鑑賞派のヒト」っていうイメージがあるんだけど田口トモロヲは静かにそれを巧く演じている。
 自分でたてたコーヒーをゆっくり啜りながら23cmの黒いハイヒールを眺める田口トモロヲがなかなか様になっているのだ。
 その他、女が自分の脱いだヒールにワインを注いで「飲める?」って目で言った時に、それを黙って静かに飲み干すトモロヲもいい。
 勿論、ヒールのつま先に飛び散ったお小水をトモロヲにハンケチで拭かれながら恍惚の表情を見せる麗子役の須之内美帆子も悪くない。須之内美帆子って子は、女優として無茶苦茶綺麗ってわけじゃなくて、この映画の麗子みたいに「素人」としては凄く綺麗なんだけど結局それを安売りするしかない女の「毒素」や「はかなさ」みたいなものを体現出来る人だ。(尤もこの映画が初出演って事だから、その堅さがかえってそんな雰囲気を生み出しているのかも知れないが、、)
 女の中途半端な綺麗さを買うのは、金・暴力・やくざな権力を持つ男と相場は決まっているのだが、これを柄本明が巧く演じている。
 この人も灰汁が強すぎて、その個性を全開にされると演技自体が鼻につく俳優さんだけど、この映画ではきちんとそれをセーブしてるからなかなかいい。
 特に逃げた自分の情婦(麗子)を探しきれない部下に「あいつのことを考えるだけでこんなになっちゃうんだ。どうしてくれんだよ」と腰を突き出して、静かに同性である部下にフェラチオを強要する場面は柄本明によく似合う。
 ところで、この足フェチ映画、、主人公の仕事がなんで床屋なんだろうって暫く考えていたんだけどトモロヲが麗子の生脚のむだ毛を剃ってやったり、脇の下を剃る場面で合点がいった。こういうビジュアルが無理なく沢山撮れる職業だからという事もあるんだけど、床屋が相手の「警戒心」を無条件で解除してしまう数少ない職業だからだ。
 考えて見れば自分の素肌を他人に長時間触らせたり、鋭利な刃物を首の回りで動かされて平気というのは、非常に特殊なケースだと言える。
 麗子の場合は「警戒心」どころか「羞恥心」も解除、、つまりトモロヲの変態振りにほだされてしまったわけだ。(実際には、この「ほだされ」にはどんでん返しがある。まあ良くあるパターンだからばらしちゃってもいいようなもんだけど、それを知っちゃうと前半の展開のエロ味が落ちるので敢えて伏せておく。)
 でもこれだけは書いて置こう。最後に赤いハイヒールを履いた麗子に「この変態!!」と蹴りまくられるトモロヲはこの恋のゲームの敗者なのではない。
 なぜならトモロオが本当に愛したのは麗子ではなくて、「ハイヒール」なのだから、、。

 



「アフターダーク」
「アフターダーク」


村上 春樹 講談社

 

 

 chikaは、話題本をその時期に購入して読むということを、気恥ずかく感じる天の邪鬼なんだけれど、本著については結構早い時期に手に入れてしまった。
 それと言うのもWeb上のある書評に「アフターダークは、ねじまき鳥に対する村上春樹のある種の回答か?」みたいな内容が書かれてあったからだ。
 「ねじまき鳥クロニクル」について言えば、本を読んでいてあれほどしんどくその世界に引っ張り込まれた経験は後にも先にもなく、同じ本を書いた人間が数年後にどのようなテーマ咀嚼をするのか、とても興味があったのだ。
「アフターダーク」を「ねじまき鳥」に対応させると、ねじまきの主人公の妻に当たるのが、浅井エリという事になるのだろうし、その妻を捕らえた「闇」やノモンハン事件は、本著で言うと妹マリに対するコンプレックスや、サラリーマン白石や中国人組織という事になるのだろう。
 ねじまき鳥では「朝」を迎えるのに延々と暗い通路を巡り続けたが、本著では夜明けまでの数時間で、ほのかな希望をとりあえずは手に入れることが出来る。しかもねじまき鳥で多用された意識下の描写は極力短くされていて、視覚的である。
 「この作品は、ねじまき鳥の焼き直しなのか、それとも進化なのか、、、」とか戸惑っている内に、本作を過去の作品の延長線上において読むのは間違いなのかも知れないと思いだした。
 この前、大沢在昌氏の「灰夜」のレビューを書いた時に思ったのが「実力派作家のマンネリ」という言葉だった。大沢在昌氏の場合、テーマを氏の持てるリソースの中で書き尽くしつつあるような気がしたのだ。
 ただ村上春樹氏の場合は、「アフターダーク」で追求しているテーマは過去のものと同じでも、そのアプローチにおいて(今まで作家として具体的な答えを出さなかった部分でも)距離をおかずに作者自らとして語りだしているという大きな違いはあると思う。例えば、中国人女性に暴行を加えた白川のいるオフィスと、眠れる美女である浅井エリが連れ去られた場所が同一であるかのような匂わせ方などは、過去の村上作品では決してなかったコトだと思う。

 問題だけを深く問いつめてその後は只ありのままに提示するだけのアプローチ。この点は、最初から具体的に現代と自分との接点を常に作品上で明らかにして来た村上龍氏とは大きな違いだったのだが。
 しかし今回「アフターダーク」でとられたような文章上の技法が、村上春樹氏が形成し問いつめていく世界に上手くなじむものなのかどうかはかなり難しい所だと思う。(「アフターダーク」の描写が極めて映像的だと言うが、村上龍の「THE MASK CLUB」等と比べれば極めてポエティックで、ニコンとポラロイドぐらいの差がある。)
 言い方を変えると村上龍の紡ぎ出す人間達は、現実にいそうだが、同じ都市生活者でも、本作の高橋やマリは何処か浮世離れした希少種に属するという決定的な差がある。
 その他、普通のサラリーマン・白川がヨガマットの上で筋トレに励げんで逆三角形の筋肉を見せたり(大藪春彦)、元女子プロレスラーのカオルと中国人マフィアのハードボイルドな掛け合い(馳星周)があったりするのだが、そのどれもが春樹節故に、緊張感にかけるのである。
 それでも村上春樹は「読ませる」技量を持っている。だからこそ、それならばその技法を使って、例えば大人達が主人公の(若者を書くには春樹氏は歳を取りすぎている)違う切り口の物語を構成しなおした方が良かったような気もするのである。
 少なくともchikaには「あの村上春樹がリニューアルして帰って」きても嬉しくはないし、春樹氏自身の変化をとことんまで見せつけて欲しい気がするのだ。




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Jam Films 2
プロデュース 河井信哉

 「ファスナー」見たさJam2を見る。こういう短編フィルム集は、お目当て以外の作品を見る時間がつらい。嫌なら見なくていいようなものだが、中に時々「掘り出し物」があったりするのでついつい全編を見てしまう。
 そういう意味で前作のJamは、Jam2の事を考えるとかなり粒ぞろいの短編集だったのかも知れない。
 勿論、Jamでも 北村龍平監督の馬鹿げた駄作が混じっていたように、短編集である限り、当たり外れはさけられない。
 2で言うと「Together」なんてその典型。フィルムと人的資源の無駄遣いとしか思えない作品である。
 小じゃれたカフェで超絶的にまずい料理を「この味わかるでしょ」とか当たり前の顔をされてテーブルに置かれた感じ。
 一体こんなものを誰が見るのか。一体こんなものを誰に見せようとして作ったのか。勘違いの固まりのような作品だ。
 書いていると怒りが湧いてくるのでこのあたりで止めておく。まあ同じ勘違い作品でも『CLEAN ROOM』なんかは許せるっていうかキャストからしてすべて「綺麗可愛い」のでOKなんだけどね。
 さて、お目当ての「ファスナー」なんだけど、コレぐらい原作(ミスチルの歌)のコンセプトに忠実な作品を見たことがない。
 勿論、元が歌なんだからここで展開される世界はすべて元ネタなしなんだけど、コンセプトはミスチルの歌う「ファスナー」にどんぴしゃりという不思議な短編。
 劇中、重要な意味を持ってくるファスナーのジップアップシーンは、ビジュアル的にみても結構エモーショナルに撮れてるし、少年役の有岡大貴もいいしその他のキャストも魅力的だ。
 なんと言っても嶋田久作のオカマぶりがチャーミング、でも少年が家にたどり着いた時に出会ったお父さんも嶋田久作なんだけど、二人ともファスナーがついていて?・・・「大人になると誰もが背中にファスナーを付けて本当の自分を押し込んでいる」っていうテーマから考えると、あれって一体どういう意味なんだろう。
 
『Jam Films2』
プロデュース 河井信哉

『机上の空論』
監督 小島淳二 
主演 片桐仁(ラーメンズ)市川実日子 小林賢太郎(ラーメンズ)
音楽「クレイジー・サマー」キリンジ
『CLEAN ROOM』
監督 高橋栄樹
主演 韓英恵 麻生久美子 津田寛治
音楽 「BULB」THE YELLOW MONKEY
『HOOPS MEN SOUL』
監督 井上秀憲
主演 須賀貴匡 すほうれいこ 大森南朋 杉本彩
音楽 「Together」G.M-KAZ
『FASTENER』
監督 丹下紘希
主演 有岡大貴 高木りな 嶋田久作
音楽 「ファスナー」Mr. Children
   「overture」小林武史



I saw a movie.
ゴッド・ディーバ
監督: エンキ・ビラル

 この映画の主人公ニコポルに憑依する「頭は鷹、首から下は人間という神・ホルス」の造形を見て、思わず冷や汗がでた。だってこのホルス、chikaが昔書いた小説夜の人形達の登場人物・鷲男にそっくりなんだもの。
 chikaは最近の作家さんと同じで、小説を書く場合は頭の中でのビジュアルが先行する人なんだけれど、それでも、これは映像化出来ないだろうなというものもある。
  例えば鷲男なんていうのはその典型で、文章が喚起するイメージの中では可能だけど、映像にした瞬間、その姿がお笑いになっちゃう。、、、の筈、だったんだけれど偉大なるヴィジュアリスト、エンキ・ビラルの手にかかるとこうなってしまうのですね。・・・凄い、凄いわ。
 人によってはゴッド・ディーバのCGを見て(特にポリゴンまるだしの人物)違和感があるだの、実写や生身の人間でやればいいだのという意見があるように思うけれど、、自分の頭の中にあるイメージを具現化する作業がどれほど難しいかが判っていないのだと思う。
  脳内イメージっていうものは空気に晒した途端に一気に劣化するものなのだ。それを劣化させずに、更にそれを見る者の想像力を刺激させるだけの表現を可能にさせるのはまさに卓越した才能ゆえのこと。

 でもこの映画っていかにもフランスって感じだよね。たとえば神ホルスとニコポルが並んでジルの事を語り合うシーンなんか「しかしジルって、ほんといい女だよなぁ、、」「ああ、ミステリアスだし、、彼女、俺が半分もらうからオマエは残りな」みたいな。スケベなくせにどこか女性を敬愛してるみたいな、、、もっともこの感覚、日本・アメリカと並ぶマンガ大国フランスのバンド・デシネ(BD)巨匠であるエンキ・ビラルなら当たり前なのかも知れないけど。

 バンド・デシネで思い出したけどゴッド・ディーバのCGキャラクターの造形が「いつかどこで見たことがある」ものばかりなのもご愛敬(それが漫画の基本だもの)。
  それが寄せ集まった時に独自の世界観が立つかどうかが勝負なんだけどきっちりエンキ・ビラルワールドですね。chikaが一番好きなのはニコポルに放たれた真っ赤なボンデージモンスターかな。それに最後の最後にホルスの嘴から赤い蛇みたいな舌がチロリと出たシーンにはぞくっと来ちゃった。



「池袋ウエストゲートパーク」
「池袋ウエストゲートパーク」
石田衣良 文春文庫

 

 

 遅まきながら「池袋ウエストゲートパーク」を読みました。chikaは天の邪鬼だから、とにかく話題本は「旬」を外して読んでいる。「今月の話題本」だとか、ベストセラーなどと騒がれている内は読まないのだ。酷いモノになると村上春樹の「ノルウェーの森」みたいに超有名になると、手に取るのさえ恥ずかしく思えて未だに未読という状態なんです。(その村上氏への詫びのつもりか「アフターダーク」は出版後すぐに読み終わったんだけれど)
 けれど「池袋ウエストゲートパーク」に関してはすぐに読まなかった事を少し後悔しています。読んでいればTV版I.W.G.P.も結構楽しめたはずだし、何よりも石田衣良氏が展開して来た、その後の出版物もリアルタイムで楽しめたに違いないからです。そう、石田衣良氏の作品は村上龍氏のものと同じで「今日性」こそが大切なのだと思う。
 恐ろしいことに「池袋ウエストゲートパーク」に登場する「ガキ」どもだって、あと数年すれば極めて懐かしい存在になってしまう可能性があるわけだし。
 こう書くと石田衣良は現代性こそ総てのように思われるかも知れませんが、その主旋律自身は、極めて普遍的でひょっとすると山本周五郎や藤沢修平なんかを思い起こさせる部分があって、それはそれで、又、一粒で二百メートル面白いんです。
 というよりも、もしかして石田衣良作品はその先鋭的な時代性と昔ながらの人間心理の普遍性が巧く織り交ぜられている所に価値があるのかも知れませんね。
 この本に含まれている「サンシャイン通り内戦」では思わず、主人公の瑞々しい初恋と、潔い腹の括り方に思わず大泣きしちゃいました。・・・そう、登場人物のキングとかも含めてなんだかんだ言いながらみんな「いい人」なんだから困ってしまう。村上龍、読んでも「泣き笑い」なんて感情は絶対に湧かないし。
 「エキサイタブルボーイ」なんかは幽霊ワゴンの都市伝説の素敵な出だしから含めてSM好きの「姫」や、元いじめられっこの「サル」とかすごくchika好みの「暗黒小説一歩手前」っていう感じの作品なんだけど、この短編だって見事に「引きこもり」が立ち直っちゃうのね。やっぱ、山本周五郎だわ。

 それにこの人、文章が巧い。村上春樹の表現方法には何度もハッとさせられて来たけれど、この人もそう。特に「サンシャイン通り内戦」でのエロ描写の描き起こし方は、すごく氏の才能を再認識させてくれました。

 



I saw a movie.
ヘルボーイ
監督: ギレルモ・デル・トロ

 「ヘルボーイ」を観てきたよ。でも映画館がら空き、、。人気無いのね、、「ヘルボーイ」。「スパイダーマン」がヒットするなら。こっちだってって思うんだけど、やっぱ主役を張っているトビー・マグワイアとロン・パールマンの差なのかな。ロン・パールマンが主人公なんて、もうそれだけで玄人好みじゃん!!なんで見に来ないかなぁと拗ねてみるアタシ。
 アメコミのあのざらっとしたページを捲る肌触りをしっかり持ってるって事も、この手の映画の課題でしょ。そういう意味でムッチャ合格なんだけどな「ヘルボーイ」。
 第一、よく考えるとこの映画のテーマって「悪魔は人間になれるか?」っていう「意志」の話で、実は凄い展開をしてるわけ。
 日本のデビルマンは人間と融合して、その人間の意志が「悪魔」に影響を与えてるわけで、これはまだ納得できる。 でもヘルボーイの場合は、怪僧ラスプーチンが地球上で無理矢理開いた地獄の門の影響で、生まれちゃった悪魔のわけで、彼が人間になれる要素は、ヘルボーイを育て上げたブルーム教授の愛情のみ、つまり「生みの親より育ての親」ってこと。実際、ヘルボーイは悪魔の象徴である額の角を自分の手でへし折って見せるという荒技を見せてくれるのだけれど、、。
 映画としては、その辺りをもう少し濃いめに描いていれば感動巨編になってたりして。
 
 ギレルモ・デル・トロ監督って「ミミック」とか「ブレイド2」を撮ってるんだけど映画作るの上手いよ。自分の感性を微妙に作品に滑り込ませまがらも、きちんと「娯楽」作品を作るところが好き。
 そのお陰で、キャラで言うと(ヘルボーイも大好きだけど)ナチスの残党でラスプーチンらと暗躍する暗殺者クロエネンみたいな「変態」が堂々とスクリーンで観られるわけでね。映画の冒頭、クロエネンの頭部を覆うツルピカ、ガスマスクにスリムでシャープな身体と、ナチス女将校イルザが登場するシーンなんかこりゃフェチコスのSM映画かって思ったくらいでね。

 ただギレルモ・デル・トロ監督のこだわりのキャスティングが微妙なのが超能力者のヒロイン、リズ役のセルマ・ブレア。歳喰ったゴスロリかよ、、、って思わせる彼女の風貌がヘルボーイの世界観にピッタリという人もいれば、怪人とモンスターしか出てこない映画なんだからせめてヒロインぐらい、、っていう人もいるだろうなぁ。
 ともかく皮肉屋のくせに純粋無垢、自分の運命さえねじ伏せてしまう意志力を持っているかと思えば恋敵に石ころを投げつけるような幼い一面を見せるヘルボーイのキャラとしての魅力が総ての映画です。
 惚れちゃうよ。女の子でも見に行けば。

PS ヘルボーイの付き人になる新米FBIエージェントのマイヤーズ役のルパート・エヴァンス、この人はとってもチャーミング、、たぶん、ブレイクするよ、きっと。



I saw a movie.
カンフーハッスル
監督: チャウ・シンチー

  「ありえねー」のお馬鹿加減に騙されてはいけない。たしかに掌底の形で建物が「気」でぶち抜かれたり、人がピンポンのように弾き飛ばされたり、足が自動車の車輪の如く回ったり、ディズニーあたりが特撮をフルにつぎ込んだスプラッタコメディばりの描写が目立つけれど、この映画結構、熱い思いに溢れた映画なのだ。
「直球なんて暑苦しくて嫌いさ」と嘯いてはいけない。熱い思いを何の衒いもなく気持ちよく見せてくれるのが「映画」だし、それがチャウ・シンチー監督作品なのだから。なーんちて。
 「気持ちよく」の中には「観客が次はこう展開するだろう」って思った通りに映画が進む快感もあると思うけれど、チャウ・シンチー監督はそれも上手く利用してる。
 例えば、おんぼろアパートの住人に拳法の達人が3人もいて、だとするとあの大家夫婦もひょっとして怪しいジャン?と思ってると実際そうなったり、ミスリードの逆を行くっていうかさ。
 「先を読ませて進んでいく」・・先の読めない展開より、多分この方が高等技なのかも知れないけど「フムフム、だと思ったんだよな、、だからさ次は主人公だろ、実はぱちもんの如来神拳が本当に、、」って具合に観客を悦ばせながら、ぐいぐいと。
 いいなぁ、達者だよ。それに最終決戦を終え自分を叩きのめしたシンに向かって「その拳はどこで覚えた」と捨て台詞を吐く火雲邪神(ブルース・リャン)と、シンがそれに優しく「いつでも教えてやるよ」と返すシーンがいい。
 この一言に己を拳鬼に落とした筈の火雲邪神が、心底感服したかのように「参りました」の返答をする。しびれましたね。
 これは感動以上にその背景に中華思想を感じますね。アン・リー監督の「グリーン・デスティニー」なんかもこんな感じでしょ。武侠の精神というかね。
 でも冒頭のアイスクリーム売りのお姉さんと主人公の関係の設定って、「小林サッカー」の饅頭屋のおねさんムイ(ヴィッキー・チャオ)ととまったく同じあたりが、チャウ・シンチー監督の人柄を思わせて可愛いです。
 
PS シンと火雲邪神の空中バトルみてたらマトリックスじゃなくて、今は終わってしまったウルトラマンネクサスのCG空中バトルを思い出してしまいました。えーっとこれってどっちが先なんだぁ。



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イノセンス
監督: 押井守

  chikaがSMf以外に運営してるブログでひとしきり「人形」テーマで盛り上がった事がありました。わけあって「観念的な人形」論議が食傷気味のchikaは、巧くその話題に乗り切れなかったのだけれど、、。
 後で考えるとその盛り上がりの中で「イノセンス」を既に見ておられた方が何人かおられたのではないかという気がしています。「イノセンス」では義体・人形といった並びで、どこまで本気なのかは判りませんが、しつこい程、人間存在について語られています。
 押井作品については強烈なファンもいらっしゃるだろうけれども、chikaは前の『アヴァロン』も含めて生理的に受け付けない部分が多々あります。
 押井ワールドは、設定とかビジュアル等、完全に自分自身の壷であるものが多いのに何故か最後までついていけないのです。「たぶんそれは押井の粘着性のせいだよ」とアタシのゴーストが囁くのですが、、、。

 先に「観念的な人形」論と書きましたが、押井監督の場合はそれを変に「人間存在論」にこね合わせてしまう所に、彼自身のたちの悪さを感じます。少なくとも成熟した大人なら、現実に血と肉を持って人間として生きる者の、喜びや悲しみには「人形」を引き合いに出しての思考手遊びなど遙かに超えるモノがあるが判っている筈です。そういった事をバックグラウンドにした上で「表現」して欲しいわけです。映画はそれなりにこの時代の文化蓄積に大きな影響力をもっているのですから。
「人間が子供を作って育てるのも、実は人形遊びをしているのだ」「人間が子供を作って育てるという行為は、人造人間を作るという願望を実行に移しているにすぎない」
「お前は人形の気持ちを踏みにじった」etc、、後半で出てくる主人公達が語るこういった台詞は、いくら創作あるいは世界設定上の事といえど、目が点にならざるを得ないし、そう語らねば人間存在に触れられないのならアプローチ自体に失敗があるように思えます。
 そして「イノセンス」は、テーマ展開においてこのような粘着性を発揮する反面、脚本も映像も「どこかで見た・読んだ」ことがあるものばかりの寄せ集めで(それを一度煮込んで角ぐらいは落としたのは認めますが)新味などはどこにも見いだせません。
 こんな風に書くと要するに「イノセンス」って最低の屑になるはずの映画なのですが、それなりに作品として成立しているのが押井作品の不思議なところなんですよね。
 そして、その成立の原因は、まさにchikaが大嫌いなオタクセンスにあるという事を認めざるを得ないわけです。
 特に川井憲次の無国籍音楽をバックにした棄民都市の描写の酔うような美しさは特筆してしかるべきでしょう。
 現実世界は目をつぶっても続いて行くし、今、目の前に何もない場所にも「世界」は存在する。それが世界の「確実性」だと思います。
 しかし映画、特にアニメ映画には限られたスクリーンの矩形の中にしか「その世界」はありません。
 要は映画が成立する為には、情報がそのスクリーンの中にどれだけ組み込まれているかが重要になるわけです。
 その事を一番よく理解しているのがこの映画ではないかと思うわけです。
 粘液なテーマ展開というサーフェイスと、映像情報体としてのコアで組み立てられた「イノセンス」、、微妙な作品です。

 



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ボンデージドール・・フェティッシュディーヴァ
監督: MOMOW

  アダルトビデオをSMfでご紹介するのはこれで3本目です。chikaは自分にコンプレックスが在る為か、巨乳AV女優が出演する作品も、彼女たち自体も苦手なのですが、松嶋まりなはちょっと別格です。

 彼女、人気グラビア誌「BACHLOR」で、日本人で初めてセンターグラビアを飾った人なんだそうで、確かにそのJカップバストはちょっと驚きです。そんな彼女に対するインタビューを随所に挟んだ構成のラバーフェチビデオ『ボンデージドール・・フェティッシュディーヴァ』。
 ちょっと感激したのは彼女が自らの巨乳を語るシーンです。やっぱり彼女、最初の頃は「巨乳」についてコンプレックスを感じていたみたいで、それをAV女優としての「売り」に転化した辺りの意識革命が、軽くて強靱で好きなのです。
 
それに言っちゃ悪いけど彼女ってそんなに美人じゃないし、メイク落としたらかなり○○だと思うのに、スクリーン上ではきっちりエロスを放出してるわけで、やっぱり「メイク意識」(長島語録?)って大切って感じ。
 それと彼女がラバリストを自称する点です。女性には真性ラバーフェチは存在しないのではないかって密かに思っていたんですが、インタビューを聞いている限り、(ちょっと物足りないけど)彼女は本物です。
  彼女が言う、ラバマスクを付けると「バァーンって切れちゃって」っていう感じ判ります。日常の意識の壁を超えちゃうんですよね。それで超エロになっちゃう。そんな彼女がラバマスクをしてのWフェラシーンは圧巻です。(ペニスの亀頭部分を自分が被っているラバーマスクの表面に擦り付けるやりかた見てると親近感を覚えたり、、へへっ、chikaの得意技です。)
 男性が終わった後のザーメンをマスクの表面に塗るのも、半ば演技、半ば衝動なんですが、その辺りもよく撮れてるし。ビジュアル的には洋物のフェチビデオには届きませんが松嶋まりなという女性の存在感で希少なAVビデオだと思います。
 
 



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マッハ!!!!
監督: プラッチャヤー・ピンゲーオ

  タイと言えばニューハーフじゃなかった仏教とムエタイの国だ。数年前、タイには遊びに出かけた事があるので、ちょっと懐かしい感じが画面から感じられるかなと思ったんだけど、確かにバンコクの繁華街なんかには見覚えがあるけど、その他はピンと来ないのね。
 何処か違う国で撮ったみたい。ヨーするにchikaの印象の中では「タイにはこんな張り切ったムード」はないという事なのね。確かに二輪車は五月蠅いしトゥクトゥク(3輪タクシー)は気ぜわしく走り回っているけどなーんとなくだらしないっていうのがchikaのタイに関する感覚。
 でも「マッハ!」で、なるほどタイって思ったのは仏教の人々への浸透力かな。仏像の頭を取り戻すためにムエタイ名人が都会へ出て行くっていうはタイじゃ違和感なく受け入れられるだろうなっていう感じは確かにする。
 でもこのアクションはどうなの?って言いたい。悪口じゃないのよ。どの映画批評にも書かれてると思うけど、ホント凄いアクションなんだから。でも他の国じゃこんなアクション出てこないと思うんだ。主演のトニー・ジャーが絶対無比の超天才アクション俳優とは思えないし、たぶん肉体的センスだけならこれぐらいのタレントは探せば世界中には色々いると思う。それでも何かが違う。
 肉弾戦というか肘打ち・膝蹴り・踵落とし・回し蹴りそのどれもが相手にヒットした途端に「痛いっ!」ってマジで思うモノ。それとか空中二段蹴りとか、ワイヤーやCG使わなくてもホントに出来るんだなぁとか。とにかくド突き方が凄くて、それで最後に仏様に祈っちゃうから「人間」ってやっぱり本来こーゆー生き物なんだって妙に感心したり。血と肉と仏の心!たかがアクションの癖に、タイの国の文化を感じちゃうわけ。
 それに小声で書いちゃうけど主演のトニー・ジャーの声ってニューハーフになる男の声だよ。それがゴウグンゴウンって片っ端から他人様をド突く蹴るだもんね。

 最初にこの映画とタイとの違和感を書いたけれど、その原因はプラッチャヤー・ピンゲーオ監督の映画作りにあるんだと思う。たぶんこの監督、諸外国の映画は一杯見てる筈だし、影響も随分受けているのだろうと思う。でもそれを無理矢理真似ないで、自分なりに一度濾過したタイ流にまとめ上げている所が偉いと思う。
 
トゥクトゥクのカーチェイスだってハリウッドのエンターテインメント映画の十八番の焼き直しなんだけど、ちゃんとトゥクトゥクの軽量ボディで出来るカーアクションを上手く導入してるしね。だからセンスはハリウッド(香港映画も加えていいだろうけど)だけど、材料は現地調達・素材の味を充分引き出してっていう感じの映画に仕上がってる。うーん侮りが足し。

PS トニー・ジャーを見てて、「たそがれ清兵衛」とか「ラストサムライ」の真田広之 を思い出しちゃった。二人ともアクションにその国独自の文化を練り込む事の出来る才能の持ち主なんだよね。

 



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下妻物語
監督: 中島哲也

 下妻ってホントのとこどうなの、なんだか巧く誤魔化されているような気がするのよね。キューティハニーがさ、どうせ原作の完全実写が出来ないないんなら徹底的にB級ティストで洒落のめしてやろうって画策してさ、、その辺りの青春物版みたいな?
 
キューティハニーはちょっと滑っちゃったみたいだけど、、下妻はかなりストライクって感じでさ。 監督の映像センスの差も大きいんだろうけど、やっぱ主役二人の存在感が狙い通りに決まった分が最大の要素かな。
  キューティハニーのサトエリもビジュアル的には他に考えにくいとは思うんだけど、台詞が入って息をしたら、やっぱり「サトエリ」はキューティハニーにはなれないし、、。
 下妻の場合、初めの頃は深田恭子と土屋アンナのキャストは逆じゃないかって思うんだけど、しばらく見てるとやっぱり二の腕がムチャ太い深田恭子のゴスロリ少女とのずれ振りが凄いヒットだし、土屋アンナのムリムリ・ヤンキーが愛しく見えるし、、上手いってか計算尽く。
 脚本の方も、桃子の生まれ育った「尼崎市」の描写は、当たらずとも遠からず「尼崎市の住民は死ぬまでジャージを着続ける」つーギャグはありですね。
  下妻は知らないけど、ジャスコに支配された「ジャスコ帝国」だと言われる方が地方都市のリアルを一発で想起するんだから、こっちもアリ?このセンスで一部始終を埋めたんだからかなりchika的には花丸映画です。
 でもでもなんと言ってもこの映画、白百合イチゴ役の土屋アンナの魅力で溢れかえっているってか、元CM監督とモデルなんだから相性抜群、パワー倍増てところでしょうか?
 見終わってから、お気に入りの一着を偶然見つけたって感じの映画。もっとも竜ヶ崎桃子のロリ服と同じでいつも着てると妙に見られるけどね。



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スパイダーマン2
監督: サム・ライミ

 まさかスパイダーマンで泣くとは思わなかった、、、。暴走する地下鉄を自分の身体を張って止めようとするピーター・パーカーを、乗客達が励ましたり庇ったりするシーンではもう涙が止まらなくて困っちゃった。
 特に倒れて素顔を晒したピーター・パーカーを見て中年の乗客が「まだ子どもじゃないか、、、俺の息子とさほど変わらないぜ、、。」と呟くシーンから「心配するな誰もあんたの正体をばらしたりしない。」と乗客達が次々とピーターに誓ったり、更にはドクオクから彼を庇おうとしたり、、。
 まあ、このシーンまでにはヒーローである事に疲れ切ったピーター・パーカーの悩みや、彼の婆様の「ヒーロー」論とか諸々の仕込みがあっての事なんだけれどね。
(スパイダーマンとしての特殊能力が衰えていく過程が凄く面白い。ストレスで身体能力が下がっていくのは人間の性なんだねぇ。スパイダーネットが本人の意思に関係なくインポテンツ状態で発射出来ないのが凄くリアル。)

 しかし滅私奉公というか自己犠牲の先にある「価値」を信じ実践し続ける事がヒーローのある事の証だったり、無関心・無責任の連鎖や虚無主義の対抗ワクチンとしてヒーローが必要な「都市」ってなんだろうとちょっと切なくなる。映画としてのスパイダーマンの素敵な所は、アメコミ定番の「悩めるヒーロー」像から一歩踏み出して、人々の繋がりを描いている所だ。
 でも「2」じゃ、ピーターの恋人M.Jが、彼の正体を知りつつ二人の恋を成就させるというちょっとあり得ないラストシーンで観客をホッとさせてくれるんだけど、、、さあサム・ライミ監督、この結末でホントに終わるのかどうか。「3」ではやっぱりスパイダーマンがボロボロになったりして、、。

PS chika的にはベタ褒めに近いスパイダーマンシリーズだけどM.J役のキルスティン・ダンストがちっともチャーミングじゃない事と、前作も含めて敵役がイマイチ「怖く」ない所だけはなんとかして欲しいんだよね。特に今回のドクオクのルフレッド・モリーナは、どうしてもイイ人過ぎて、、、、だよ。



I saw a movie.
COFFEE AND CIGARETTES
監督: ジム・ジャームッシュ

 ジャームッシュ監督の短編集映画「COFFEE AND CIGARETTES」のご紹介。お洒落でエスプリが効いていて人生があって面白い作品です。
 この映画、短編集なんだけれど11のエピソードの中でchikaが最もお気に入りなのがルネ・フレン/E・J・ロドリゲスが登場する「RENEE」と、ラストを飾るビル・ライス/テイラー・ミードの「CHAMPAGNE(シャンパン)」。

 「RENEE」はコーヒーに入れる砂糖や飲み頃に異常な拘りを持つ謎のアンニュイ美女ルネと、ルネに近づきたくて仕方がない給仕の男がルネにコーヒーを闇雲に入れようとするお話。ルネがタバコをくゆらしながら一生懸命読んでいるのが拳銃のカタログ本だったりするのがおかしいし、そこから垣間見えるルネの謎の美女振りが楽しい。chikaもこんな感じが憧れ。

 「CHAMPAGNE(シャンパン)」は昼休みにコーヒーを飲みながらたわいない世間話に興じている二人の老人の話。
 コーヒーをシャンパンに見立てて乾杯した後「人生は楽しまなくちゃ駄目だよ。金と運が無くても想像力でな。さてと、ちょっと昼寝でもするか」
「おいおい昼寝って、後、5分も残っていないぜ、次は仕事なんだぜ」
 そんな相棒の言葉を無視して老人は椅子の上で眠り込んでしまう。
「おい起きろよ。冗談じゃないぜ。おい、起きろてば、、。」安らかに眠り続ける老人は一向に目覚める気配がない。
 気の合う友人に看取られて、贅沢は出来ずとも、(想像力で)人生を楽しみながら終えることが出来るならそれはそれで幸せだろう。この短編、老人二人が冒頭で実際には聞こえない音楽に耳を傾けて陶酔する描写があります。でも彼らは明らかに昔聞いた曲を思い出しているのであって「想像」する為には最低一回の「体験」が必要ってことでしょうね。言い換えると最低一回の素敵な体験があれば、創造力によって人生は豊かになると、そういうことだと思います。


 この短編集に登場する人物は殆どが二人で、渋い掛け合い漫才みたいな会話だけで物語が進行します。
 映画タイトルの「コーヒー&シガレッツ」は、共通した場面設定であると共に、それぞれのエピソードに登場する二人の関係を言い表しているのかも知れない。
 友人・恋人・親戚・双子・兄弟から始まって、感情面では初対面の緊張・裏切り・駆け引き・嫉妬・心配、、とまぁ延々と書けるわけだけれど、二人の人間にある関係性って、コーヒーとタバコのように抜群の相性でありながら、身体に悪くって、それでも止められないという哀しさというか楽しさみたいなものがあります。
 タバコとコーヒーは「頭」に直接響く嗜好品の代表格だけれど、いずれも「中毒」という言葉が絡んでいる。カフェインにニコチン、人が自ら摂取さえしなければ、生きていく上でなんの必要性もないものばかり。
 ところがこれらの中毒になってしまうと「嗜好品」などという言葉の響き以上の重要度をもって、カフェインやニコチンは人生に関わってくる。
「コーヒー&シガレッツ」はジワ〜っと効いてくる映画なんです。
 単純にゆるくて不条理ぽい笑いって、結構、そこいらに転がってるけど、これぐらい、後になる程「実は凄く上等な食べ物食べてたんだぁ」って感じる映画も少ない。
 その上、ケイト・ブランシェットのCOUSINSなんかは、始め彼女が一人二役やってるのが判らなくて、、途中で、え〜っ!?って感じでそれでも「いやまさか?」って疑ってたってぐらい演技の方でも魅せてくれますね。つまり一人が全くの別人を演じ分けるだけならまだありうるんだけど、「いとこ同士」という血のつながりで微妙に似ている部分も演じてるって所が凄い。
 この映画、ケイト・ブランシェットに限らず、出演者が微妙に豪華です。それもただ味のあるチョイスという事だけじゃなくて出演者が監督の持ち味を充分に理解してる所が実にいいんですよね。


STRANGE TO MEET YOU 変な出会い
  ロベルト・ベニーニ/スティーヴン・ライト

TWINS 双子
  ジョイ・リー/サンキ・リー/スティーヴ・ブシェミ

SOMEWHERE IN CALIFORNIA カルフォルニアのどこかで
  イギー・ポップ/トム・ウェイツ

THOSE THINGS'LL KILL YA それは命取り
  ジョー・リガーノ/ヴィニー・ヴェラ/ヴィニー・ヴェラ・ジュニア

RENEE ルネ
  ルネ・フレン/E・J・ロドリゲス

NO PROBLEM 問題なし
  アレックス・デスカス/イザック・デ・バンコレ

COUSINS いとこ同士
  ケイト・ブランシェット

JACK SHOWS MEG HIS TESLA COIL ジャック、メグにテスラコイルを見せる
  メグ・ホワイト/ジャック・ホワイト

COUSINS? いとこ同士?
  アルフレッド・モリーナ/スティーヴ・クーガン
10
DELIRIUM 幻覚
  ウータン・クラン(2役)/ビル・マーレイ
11
CHAMPAGNE シャンパン
  ビル・ライス/テイラー・ミード

 



I saw a movie.
タイガー&ドラゴン「三枚起請の回
プロデュース … 磯山晶 ●演出 … 金子文紀 片山修

 粋でオツな男になりたい!口下手ヤクザとセンス最悪デザイナーの落語青春グラフィティ !

 この「三枚起請の回」は、chikaも贔屓にしてる4月15日から始まった連ドラ「タイガー&ドラゴン」の契機となったTVスペシャル番組をDVD化したもの。連ドラの方は「三枚起請」で基本設定が終わったものとして展開されているので、これを見ないとレギュラーで登場する「男を手玉に取るキャバクラ嬢・メグミ(伊東美咲)」の本当の面白さも今一ピンと来ないかも知れない。それに、青森・出稼ぎ・介護・風俗・居場所なんていうキーワードが見事にメグミという「股下80センチ以上のオンナ」に集約される様は宮藤官九郎ならではのこと。連ドラのファンなら必見のDVDでしょう。
 それに虎児こと長瀬智也が北村一輝に拉致られボコられ瀕死の淵で「かーちゃーん」と叫ぶシーンも宮藤官九郎節が炸裂してます。「っってもこのかーちゃんは、オレんじゃなくて、お前(竜二)のかーちゃんだけどさ」みたいな台詞回しで、「はいハンカチ用意して下さい」っていう展開を一端意識的にずらしてしまう手法ね。
  5月13日のオンエアだった「厩火事」も同じ構成で、安易に泣かせないのが凄い。関西のどつき漫才夫婦のエピソードなんだけれど、癌に犯されたことを秘密にしている妻の真実を、漫才中の顔の表情を見て、理解した夫が愛情の証として、本気でドツき、跳び蹴りを食らわすみたいな直球の「泣かせ」展開でも、下手に泣かせないというのか涙腺がゆるむ前に暖かい感情がこみ上げて来て涙を止めさせる仕掛けがしてある。映画「GO」の作りもそうだったけど、完全に「泣かせ」の状態に話はなっていて、普通なら「さあハンカチ」ってところが、クドカンの脚本はそうならない。胸が詰まった状態というか涙がでる直前の状態が持続するっていうのかな、、「泣かないよオレ」って感じかな。
この微妙なずれが、「新しい脚本」として受け入れられる場合と「新奇さを狙った難しい脚本」として視聴者に受け取られる分岐点になるのかも知れない。chikaにしても宮藤官九郎は面白いのに「語れない」人だった。彼の作品のキーワードが「悔しさ」と「照れ隠し」にあることに気が付くまで相当かかった。「GO」でも「ピンポン」でもジワーって来ちゃうのは見ている側が「悔しさ」に共鳴するからなんだよね。そう照れないで「直球」で言うと「一生懸命生きてるから悔しさが生まれる」ってこと、それを宮藤官九郎は重くなる事を嫌ってエンタテインメントに上手くくるんじゃうんだよね。
だってこの作品の元になっているCKBのタイガー&ドラゴンは結構濃厚な男同士の友情を歌い上げた曲なんだけど、その髄はキープしながらTV版は、タイガー(虎児)とドラゴン(竜二)の設定が途中で「貸した金など、どうでもいいから」と進んで俺(虎児)の噺(はなし)を聴け!みたいな落とし話になっているんだから。

あー後はキャストの話ね。これは微妙。宮藤官九郎作品のツートップと言われてる長瀬智也と岡田准一のがっぷり四つってことだけど、これはもうイイでしょ。演技力があるとかないとか、そんな問題じゃなさそうだし。はまり役だってことも確かだし、、ネ。ただ岡田准一は「こんな綺麗な顔の男性みたことない」とか言われてるヒトなんだけど、、どんどんドリフターズの世界に突き進んでいるような。あと周りを固める人たちは西田敏行、笑福亭鶴瓶、北村一輝、尾美としのり、阿部サダヲ、春風亭昇太etc、、芸達者ぞろいで、ノリ良しです。特にどん兵衛役の西田敏行は「巧い」としかいいようがない。



I saw a movie.
Ray/レイ
監督: テイラー・ハックフォー

 この映画の中ではレイの曲が40タイトルも使われているらしい、、でも視聴中にはそんなに沢山の音楽を聴いているという感覚はほとんどなくて、一人の人間ドラマを鑑賞してるっていう思いがあるだけだ。
 それくらいハックフォード監督は「曲」を使ってストーリーを語るという手法を絶妙に成功させているってことなのだろう。でもこれはレイ・チャールズという人物を扱ったからこそ成しえた構成だったのかも知れない。
 映画を見ていると、レイの音楽は彼の人生そのものとシンクロしているのがよく判る。ただ有名なシンガーを器用にコピー出来るだけの「新人」から、ソウルを生み出した天才へと彼が成長する過程だとか、絶頂期の彼のエネルギーと危うさとかが、その時々に生み出された音楽そのものと見事にだぶっているんだもの。
 レイ・チャールズ本人の指名によってレイ役に決定したというジェイミー・フォックス。『コラテラル』の タクシー運転手のマックスと同一人物だってちょっと思えない出来です。もっともchikaは巷で言うほど彼がレイにそっくりサンだとは思えないないんだけど、彼が熱演してるのは判るし存在感は圧倒的。
 映画そのものの結末は尻窄みで全体の熱気を裏切っているような気もするけど、なんってたって実在の人物なんだから仕方ないか。映画そのものと言うよりレイという人物と「ソウル」を知る上でいい映画だと思います。



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PERFECT BLUE 夢なら醒めて…
監督: サトウトシキ

 「僕はあなたを生きている」とそのストーカーは少女に言った。愛する人の身体を、人生を奪うこと、それが究極の愛のカタチ…その妄執はやがて男の身体にさえ影響を及ぼし始め、男はついに少女そのものに転生を果たしてしまう。

 とまぁいかにもトランスセクシャルでミステリアスな『PERFECT BLUE 夢なら醒めて…』なんだけれど、映画自体はサイコ・ミステリーというより形の変わったラブロマンス映画と言った方が良いのかも知れない。
 シャワーを浴びるストーカー男(大森南朋)のカラダから沢山の体毛が排水溝に流れて行く描写があったり、勤め先のコンビニの店長に「君、もち肌だな、女の子みたいだよ。女性ホルモンが多すぎるんじゃないの」とからかわれる場面があったりで、男から女への変身で映画の濃度を高めようという仕掛けがあるにはあるのだけれど、変身にはそれ程拘っているようではないようだ。
 更に言えばサイコミステリーとしても「怖さ」がない。
 十歳程度の女の子(主人公・愛)に一人の少年(後のストーカー)が一目惚れして、それ以降ずーっと「彼女の人生を生きることが僕の彼女への愛なんだ。」なんて思いこめるものだろうか?という所でまず脚本が躓いている。
 そういった「倒錯」に、リアリティを持たせる為には、二人の年齢に後二・三年欲しい所だし、少なくとももう少し、この二人に過去における、接触の場面をあげないと、いくらなんでも二人が成人してからの展開に無理を感じる。
 それぐらい押さえてくれれば「惚れた女の子にそっくりに生きてきた」青年への思い入れは、今のご時世ならかろうじて可能だ。
 ストーカーの名前は俊彦、演じるのは「殺し屋1」でイチ役を演じた大森南朋でこのキャストは悪くないと思う。 ちなみに俊彦は「僕はストーカーなんかじゃない」と言い切る。実際、愛のことなら何でも知っている彼は、アイドルの卵である愛をつけ回して、その情報を得ているのではなくて「君を生きているから総てが判るんだ」というレクター博士みたいな人。確かにそう考えると厳密な意味では、彼はストーカー行為を働いているわけではないのですね。でも、その「考えそのもの」がストーカーで、その怖さを、深く描き込まなかったので、この映画は変種のラブロマンスになってしまったのですね。ちなみに愛を演じるのは前田綾花、、chika、この子の事はまったく知りません。今後も知らないでしょう。chikaの中では用済みです。
 愛に変身してしまった俊彦と本物の愛の対決シーンがあるのですが、設定が判っているから辛うじて、一人二役に見えるので、そうでなければ下手な幻想シーンにしか見えません。

 所で「好きな人になってしまいたい。」というパッションは何処から生まれ、何処に行くのでしょう。
 普通は「好きな人と一緒になりたい。」という形に物事は進行するのですが「一緒に」が抜けてしまうところが「倒錯」なんですよね。
でも順番としてはこれで合っているのかも知れません。人間には「好きな人と精神的にも肉体的にも同一化したい」という原始的な欲求衝動があるのだけれど、実際にはそれが不可能だから「恋愛・セックス」という社会的な営みにそれを転位せざを得なかったのではないかと、そんな気がするわけです。
 オルガスムスに達すると、愛する人と一体化したような気持ちと同時に絶対的な孤立感を味わいませんか?だから「好きな人になってしまいたい」というパッションは、その表出が人によって違ったりするけれど誰しもが持っているものではないかと思えるわけです。(例えば誰でも恋に落ちる前段階で「あの人の事をもっと知りたい」とか自然に思うでしょう?)
 映画『PERFECT BLUE 夢なら醒めて…』じゃ、愛になってしまった俊彦は、愛と間違えられて刺し殺されるんだけど、ある意味、自分の生を全うしたんじゃないのかと思いますね、、。

PS 公式サイトでは、愛の顔から大森南朋の顔へとビニョーンとモーフィングするカットを見ることが出来ます。それとかシャワーシーンを下から見上げたカットは男の背中に微妙に胸が盛り上がっているようなのがあって、シリコンブラでも付けてるのかとか色々考えてしまいます。
 でもこの映画のマーティロ・マヌキアンのイメージ画は文句なく素敵ですね。全然、映画とマッチングしてないけど、、、。

 



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キング・コング
監督: ピーター・ジャクソン

 赤倉温泉へ寝台特急を使ってスキーに行こうと言う話が急にまとまった。12時頃出発の寝台特急が出る前に映画でも見ようという事になり選んだ映画が「キングコング」。
 映画を見るとすぐに眠ってしまう相方を見るのもいやなので、おそらく何も考えることなく、中身は薄いけれど、やけに動きだけはスムースなCG満開映画なら大丈夫、眠らないだろうって読みも「キングコング」を選んだ理由の一つだった。
 第一、キングコングでどうやって小難しい中身のある映画が作れるの?っていう思いがあるものね。(実際はこの予想、良い方に裏切られましたが)
 相方は居眠りするどころか、じっとスクリーンに釘付け状態。アノ、「グログロ谷底シーン」では特大ムカデ・ヤツデ・ゴキブリ・蛭襲撃シーンに眉を潜めていたので、後で文句を言われるかと思ったけれど、キングコングとエイドリアン・ブロディの「それぞれの愛の形」に満足している模様。(しかし昔のマシンガンって、いくら大きい化け物昆虫だってその身体を貫通する威力もなかったんだろうか?)
 でもこの映画、特撮ってほんとに進歩したなぁと思わせてくれました。だって、昔ならカーチェイスで表してた「スピード勝負のハラハラドキドキ」を恐竜やモンスター同士の絡みでやるんだから。
 それに落下しながらのモンスター同士の戦闘とか、縦向きスクロールアクションが多いのも特徴ですね。見るまでは単純な娯楽映画かと予想してたけど、CGアクションの組立方が斬新だし、なんといってもナオミ・ワッツの表情が抜群。お勧めですよ。

 彼女の起用で「情緒溢れるキング・コング」の作り込みが完全に作動して、まさに美女と野獣のラブストーリーが成立。ナオミ・ワッツ演じるアンの前に出ると、怖がらせるだけで途端に何も出来なくなるキングコングとか、逆にアンの心をつかんだ後の、幸せそうな態度とか、、、。裏読みだけど、アンだって、最初はあれだけコングに掴まれるのを嫌がってたのに、後の方では性的な匂いを感じさせるほど幸せそうに見えるしね。ニューヨークの夜の公園池でのアンとコングのスケートシーンなんかほれぼれしました。さすがにあの『ロード・オブ・ザ・リング』3部作を撮った男だけのことはあるなと、只の特撮シーン満載映画ならお金さえあればダレでも撮れますものね。

 最後に俳優さん達のことを少々。映画監督カールを演じたジャック・ブラック、監督と言うより山師魂爆裂!!って感じをストレートに演じきってます。考えたらこのカールがキングコング物語の推進役なんですよね。あり得ない出会いを作り、あり得ない運命を作り出すカールの狂騒的な野望。普通なら誰もが一発でこんな人物を避けて通る筈なのに、何処か人を取り込んでしまう磁力みたいなものがある、、ジャック・ブラックならでしょうね。ひょっとしたらピーター・ジャクソン監督、この映画監督カールに自分の映画にかける野望を少しだけ重ね合わせているかも、、例えば、アンが「土人」に攫われるシーンなんか、時代錯誤も甚だしいし何処からクレームが来たっておかしくないでしょ。でもあれはわざとあーゆー演出をしてるとしか思えない(笑)。
 そして一応ヒーロー役に、エイドリアン・ブロディ、、。このキャスティング「どーなんだろ」って思ってたんだけど実に上手い配置ですよね。アンの本命が「許されない禁断の恋の相手」コングならエイドリアン・ブロディは完璧な「安全パイ」。エイドリアン・ブロディという安全装置は観客にも働いているんじゃないかしら?特に女性観客にね。



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オールド・ボーイ
監督: パク・チャヌク

 「「お前は誰だ!? なぜ俺を15年間監禁した!?」
 拉致監禁請負業ってユニークだなぁと思いつつ、この映画の主人公であるデスみたいに対象を15年も監禁し続けるためには組織側も相当な企業とっしての体力が必要な筈で、リアリティ面でどうなのかと、、、まっそう言った疑問が根底にある映画なんだけど、それを含んでも面白い映画です。
 と言うか、「ありそうでなさそうな話」だと考えないとやってられないインモラルな側面を持った映画でもあります。その辺りを触れ出すと途端にネタばれにつながるのでここでは書けませんし、このインモラルぶりを、もし映画の「面白さ」の為だけに、作り上げたのだとしたら、ある意味、制作サイドの映画づくりに対する貪欲さを賞賛すべきなのかもしれませんね。
 それに「この映画の結末は誰にも教えないでください」っていう映画は沢山あるけど、本当にそうだなって思える映画は少ないんだけど、この映画はマジでそう思うし、、。
 ってことでネタばれに注意しながら、この映画で面白かったシーンを羅列していくと、復讐に燃えるデスと結ばれていくミドが地下鉄で幻視する巨大な人型の蟻だとか、デスの主要な武器になるトンカチが敵の頭に破線で結ばれる画像だとか結構、パク・チャヌク監督遊んでます。あの『JSA』の絵作りとは随分感じが違うなとか思いながらも、そういう実験的な遊びというかこだわりが随所にあって、デスが拉致監禁請負業のごろつきたちをへとへとになりながら横スクロールで倒していくシーンだとか、本当の黒幕であるウジンがハンカチを口元に笑いを堪えてるところが「泣いている」ようにも見える演出だとか、色々といいですねぇ。
 スアが犯されながら手鏡を見るところなんて、その一瞬で彼女の本質が説明できてるわけだしパク・チャヌク監督すごい、、。
 でもこの映画で凄いのはなんといってもオ・デスを演じたチェ・ミンシクでしょうね。拉致される前のちょっと口は悪いけれど普通のサラリーマンのデスと監禁解放後の「モンスター」となった彼の落差なんて、違う人間が演じてるみたいだし。
 第一、普通の俳優さんだとあれぐらい格好良い「ださいおじん」はなかなか演じられないでしょう。劇中ではデス自身が「15年の監禁生活がなくて以前のデスならこの女に惚れられることはなかっただろう。(これも本当は二重の意味があるんだけど)」と語っていますが、精神が壊れつつも一直線に突き進む執念を失わない男のミステリアスな魅力をチェ・ミンシクは十分に表しています。
 色々な面で十分楽しませてもらった「オールドボーイ 」ですが、最後の最後のオ・デスの選択だけは何か割り切れないものがありました。まあそれも含んでの映画作りなのでしょうが、、。
ps 原作本が日本の漫画だとはちょっとびっくりしましたが、本が狩撫麻礼と聞いてなんとなく納得。男の魅力がよく判っている人です。



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リディック
監督: デヴィッド・トゥーヒ

 映画としてはリディックの前編に相当する「ピッチブラック」の方がずっと面白かったような気がする。ってか頭の使ってる量がピッチの方が若干上って感じなんだけど。
  それにまだあの頃はヴィン・ディーゼルが「悪役」ぽいし、、。
まあいいのです。この映画「リディック」に関しては内容がどうとかキャラの造形がどうとか、そんなもんは何の意味もありませんから。つまりソーユーなんの意味もない馬鹿げた冒険活劇に億単位の金をかける所が偉いし、主演のヴィン・ディーゼルもどこかその馬鹿さ加減に通底してる魅力を発散してますもんね。
 chikaにとっては殆ど滓と言って良い「リディック」を見る理由はただ一つ、この映画の舞台美術ってか映像空間ですね。ゴシック調と呼んでいいのかよく判りませんが、埃の中で黒光りするようなお墓感覚好きですね。それに金使ってるし、、、怖げな人面モチーフがありとあらゆる場面で登場するけれど、あれってお金かけないと一瞬にしてお笑い・お子さまデザインに転落するぎりぎりの代物ですから。それをこれでもかって感じで出してもそれほど違和感ないんだからやっぱり凄い。
それにしても「リディック」と「シュレック」似てない?顔も含めてさ。



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ボーン・アイデンティティー
監督: ダグ・リーマン

 chikaのマット・デイモンのイメージは、、、うーん、そうファンなわけでもないから何とも言えないけど、少なくとも彼は「バリバリのアクション俳優」じゃないのだけは確か。(オーシャン12の時も味噌っ滓やってたもんね)
  だからこの映画の宣伝やってた時も同じスパイものでもアクションじゃなくてミステリーの色合いが濃い作品だと思いこんでいたのね。それが米国じゃ続編の「ボーン・スプレマシー」を含んで結構人気だっていうから驚き。
 で遅まきながら「ボーン・アイデンティティー」見て判ったのが、この作品って、結構スタンダードな正統派スパイアクション映画なんだってこと。
 って言うか古風なぐらい飾り気がなくて「強いスパイ(暗殺者)」がスピーディに敵に向かって突き進んでいく映画なのね。シナリオ上で複雑すぎる伏線があるわけでも、「目の表情で演技するみたいな名脇役」が登場するわけでもなく、ただただ、ジェイソン・ボーンという一人の人間の能力が駆使されて物語が展開していくわけ。
 多分、その飾り気の無い映画作りがマット・デイモンの存在感と相まって受けているんじゃないかしら。地味でナイーブそうな彼が、華はないけど実は無茶苦茶有能なスパイを演じると、こう納得させられるというか、なんとなく観客側に主人公に対する愛着心みたいなものが生まれてくるのね。
 プラス、ヒロインにフランカ・ポテンテを持ってきたのも正解!!ヒロインがモデル風の美女だったらこの作品、又雰囲気が変わってたと思うよ。第一、お金目当てで正体不明の男を車で送ってやったり、その正体が判って行きながらも男に惹かれていく役所って、生活臭のない美女がやるとなんだか不自然だもんね。
 chikaはこの映画でマット・デイモンがフランカ・ポテンテの髪を染めて、その髪をハサミでカットするシーンが大好きになっちゃいました。
 とにかくマット・デイモン、ちゃんとアクションこなしてますよ。猟銃構えてスコープ付きのライフルを装備した暗殺者と森で対決するシーンなんか佇まいまで決まってたし、、、。
  でも主人公が駆使してる格闘技は一体なんなんだろう。マーシャルアーツ系なのかなぁ、関節技にクンフーが混じってる感じだけど。ワイヤーアクションを見慣れた目には返って新鮮。そう、その新鮮さは「ボーン・アイデンティティー」に通じる要素なんだけれどね。



「百舌の叫ぶ夜」
「百舌の叫ぶ夜」


逢坂 剛  集英社文庫

 

 

 船戸与一氏の後書きの一文にぐっと来ました。

一匹の光り輝く蛆虫が囁くようにこう言うのをぼくは聞いた。「照らしてやるから、墓碑銘を読め・・・」(マルドロール)逢坂剛が「百舌の叫ぶ夜」でこういう余韻まで計算していたかどうかはわからない。だが、これこそ一級品のサスペンスのみが持つ残り香なのだ。

 激しく同意!!まあ本編は、構成があまりにもタイトに練り上げられすぎて、逆に「息つく暇が欲しく」なる嫌いはあるものの、船戸与一氏の言うロートレアモン風の残り香を十二分に持つ作品であるコトは間違いない。
 しかもどんでん返しが凄い。まあ記憶喪失ネタを使ったのならこの展開は約束違反といえば約束違反のような気がするけれど、引っかかった読者が悪いのだろう。

 新宿の雑踏の中、爆発事件が起こる。被害者は爆薬の仕掛けられたバックを所持していた極左メンバーの筧と、偶然そこに居合わせた公安部倉木警部の妻珠枝。
 その筧を狙っていたテロリスト百舌だが、事件後記憶を失い、雇い主からも追われることになる。自らの記憶を追う百舌、そして、事件の真相を追う倉木・大杉・明星美希、それぞれが交錯し、やがて警察組織の暗部に踏み込むことに。

 一見、物語の主人公は妻の復讐の為に動き回るくらき、そしてそのくらきと奇妙な連帯感で繋がった大杉達の用に見えるが、この物語の本当の主人公は百舌を象徴とした「人の抗いがたい暗い運命と愛憎」だろう。まさにタイトル通り「百舌の叫ぶ夜」が、暗きやモズらの生きる「時」なのだ。

補足 モズが監禁先で男にアナルを犯される前後の描写はなかなかでした。記憶喪失になっていたモズが何となく自分自身がアナルセックスに対応出来る人間である事を感覚的に思い出したりする所や、強姦まがいの体位とか、、、でも、「ごぶさた」のアナルに失神するほどの痛みを感じるペニス挿入をされて、爆発するような快感は得られないと思うんだけど、、、。



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オーシャンズ12
監督: スティーブン・ソダーバーグ

 『ブラピ&クルーニーが経営するカジノがベガスに誕生! 「オーシャンズ11」でラスベガスのカジノ強盗を行ったブラッド・ピットとジョージ・クルーニーが、ナイトクラブ王として知られるランデ・ガーバーと、ラスベガスで新設されるカジノホテルの建設に参加することが明らかになった。出資は一切せず、かわりに建築好きで知られるブラピがホテルをデザインし、クルーニーと2人で広告塔になるようだ。』
 みたいなニュースが飛び込んできて、ようやくこのレビューを書く気になった。
 というのも『オーシャンズ12』ってどうよ?っていう気分の方が強かったからだ。勿論、これだけの俳優陣を使ったら「駄作」になりようがなく、そこそこ楽しめる作品にはなっている。
  でもなぁ確かに「洒落のめす」っていう感覚は前作同様に引き継がれてるし、キャサリン・ゼタ=ジョーンズとヴァンサン・カッセルがプラスアルファだしおまけに飛び道具みたいにブルース・ウイリスは登場するし、、、凄いパワーアップなんだけれど、前作みたいに映画を見終わった後、しみじみと「このカクテル美味しいね、、。」みたいな感激が出てこないんだよね。
 ジョージ・クルーニーとかブラッド・ピットって、彼ら自身のキャラで役作りが出来るぐらいの大スターなんだけれど映画では、ヨゴレ・ボケ含んで結構色々なキャラに挑んでるじゃないですか。その辺さすがハリウッドスターの底力かなと思っているんだけど、オーシャンズの場合はその逆狙いをしてるわけね。つまりその俳優さん自体が発しているオーラの楽しさみたいなものを出来るだけ損ねない感じで映画を作ってみましたみたいな。
 でも「映画」はどこまでいっても「映画」なわけで、それがグローバルなエンタメである限り、内輪受けする範囲は距離が広がる程、薄くなっていくっていう事ね。マット・デイモンのコミカルな存在感は彼の「ボーン」シリーズとかを一杯見てる人にとっては「一粒で何回も楽しめます」みたいな絶妙な世界なんだけれど、これだけ見た人には「同じやるならもっとボケろよな」みたいな突っ込みがあっても不思議じゃないし。
 最後辺りのジュリア・ロバーツが、劇中で自分自身の役をやるというノリもね。観客が押しも押されぬハリウッドの大スターで、いろんなゴシップも含めてみんなが知ってる「ジュリア・ロバーツ」という大前提がないと、観客は見ててニヤリと出来ないわけでしょ。
 日本で普通の映画好きの人が見て楽しむのには、ギリギリの「内輪受け映画」じゃないかしら。勿論、冒頭に上げたようなニュースなんかに日常的に触れてる立場の人が見たら凄く楽しい「オーシャンズ12」なんだろうけど、、。
 そのあたりのバランスが取れてて映画としての完成度も高かったのはやっぱ前作の「11」かな。
 
PS でも「オーシャンズ12」のオープニングタイトルは映画史に残る傑作だと思いますね。無茶苦茶格好いい。



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恋の門
監督: 松尾スズキ

 自称「漫画芸術家」20才過ぎて童貞、おまけに貧乏な蒼木門(あおきもん)と、同人誌で漫画を描いている「コスプレOL」の証恋乃(あかしこいの)のオタクな純愛ストーリー!っていう触れ込みなんだけど、どーなんでしょ、、。
 実際のオタク界とはあんまり関係ないし、その辺は「むかしあるところのある場所で」程度の設定ぐらいに思っておけばいいんじゃないでしょうか。
 第一、松田龍平君を「二十歳過ぎても童貞のオタク男」にするという時点で無理が、、、でもそのお陰で松田龍平、俳優とすれば結構美味しい体験をしたんじゃないかとは思うんだけどね。
 昔から思ってたんだけど龍平君のヘヤースタイルって不潔ぎりぎりでしょ。男性ファッション雑誌に載るからそうかなーって錯覚しちゃうけど、おーさかのおばちゃんやと「にいちゃん、はよ散髪いきーな」。
  で今度の映画じゃそのヘヤースタイルに加えて無精ひげ満開、、あの何となく妖艶な女顔に無精ひげ、、どう見ても口紅が似合いそうな唇の周りに黒々とした無精ひげが、、、うーむ見てはいけない。
 さらにさらに、その唇からは高度な笑いを誘うとする捏造オタク語が木訥と、、えーんか松尾スズキ!!ワシ、おまえの腹黒い魂胆がきにくわん。でも面白かったよーん。
 この映画の面白さ、主役の二人に限って言うなら功労賞は酒井若菜のほうでしょうね。理想のコスプレモデルとしての男(門)と、性欲のはけ口であり金蔓になりそうな可愛い女(恋乃)というお互いに対する打算ありすぎの二人の恋の行方を語ったのは、やっぱはじけ飛んだ演技をみせてくれた酒井若菜と言いきちゃいましょう。酒井若菜だと、恋乃が漫画バーを経営する元・売れっ子漫画家毬藻田(松尾スズキ)によろめいちゃったりするシーンも自然だしね。
 で松尾スズキという人について、、、演劇に詳しくないchikaとしては松尾スズキがまったく掴めないでいる。でも映画「殺し屋1」に出演してた彼は普通の演技も出来ない「嫌で嫌いな俳優」にしか過ぎないのだ。そのクセ、松尾スズキの「撮られた暁の女―松活妄想撮影所写真集」を買ったのはアタシだし。うーん複雑だねぇ。
 でも温泉宿で、門が普通に絵が描けることがわかって恋乃と二人で手を取り合って漫画を描くシーンなんかは、ロマンチストでなおかつテクニシャン(謎)でなきゃ撮れない筈だしな〜。
  そうよ、もう一本ぐらい松尾スズキの映画をみなきゃ判断が出来ないってことだよな〜「監督さん」評としては。期待してるよん。



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SAW ソウ
監督: ジェームズ・ワン

 映画の前半で女捜査官が「犯人は、死の恐怖におびえる人間を最前列の観客席で鑑賞したがってますね。」って感じのさりげな台詞をはくんだけど、これが後半になると意識的な誤誘導だったり、オチに繋がっていたりで、ちょっとやりすぎじゃないのって気がしないでもない。こーゆーの好きな人は好きなんだろうな〜。
chikaなんかはこの映画、壁につながれたアダムとゴードンの密室劇にするなら、フラッシュバック挿入による状況説明は極力切りつめて最後まで、この二人の心理劇にウェイトを置いてもらった方が趣味だし、、、。(だってせっかくの設定が勿体ないもの。)
まあ密室劇の外側で起こっている展開が、じわじわと、密室内に近寄ってきて最後の最後に「そうなんだぁ」ってのがこの映画のキモと言えばキモなんだけどね。だから後で考えると、密室外で語られるそれぞれのエピソードが実に巧く組み合わされているのがよく分かる。第一、この映画の犯人の名前が「ジグソウ」、、、。この映画を作り上げたジェームズ・ワンとリー・ワネルのいたずらぽいニヤニヤ笑いが目に浮かびそう。
 まあそんなこんなで、作り手の「頭の良さ」が全面に出てる映画で人によってはそれが鼻につく場合もあるかも知れないけど「絵作り」の方は、なんとなくスプラッター直前のエログロムードを意識してるみたいで、chikaには「萌え」。それにこの絵作りで「痛み」のムードをトイレの芳香剤みたいに常時まき散らしている感じもあるなぁ。
 二人が閉じこめられている老朽化したバスルームは解剖室をイメージさせて好きだったし、フラッシュバックで登場する色々な拷問機械も面白いのがあった。中でも「逆トラバサミ」を頭部に装着された女性ジャンキーのエピソードね。SMの世界でもいろんなヘッドギアがあるんだけど、なんとなくそれに共通するにおいをかぎ取ったのはchikaだけかなぁ。
PS drゴードンが不倫しちゃう女の子って、最近、chikaがひいきにしてる蒲生麻由ちゃんに見えて仕方がなかった、、。



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スターウォーズ エピソード3 シスの復讐
監督: ジョージ・ルーカス

 「スターウォーズ エピソード3 シスの復讐」の公開に連動して過去のSWシリーズが何本かTVで放映されていた。
こうして見るとジョージ・ルーカスが、何故この一大サーガを普通の時系列で制作せず前後をバラバラに組み込む理由がどこにあるのか判らなかったが、なにせSW自体が「昔々の未来の物語」なのだから仕方ないのかとも思っていた。
 そしてようやくこのシリーズも今までに欠け落ちていた部分が填って一応の大団円を迎える事となったわけである。
 物語自身はずっと前にハッピーエンドで終わっているくせに、シリーズとしてはビターエンドという不思議な構成だ。スカイウォーカーとダースベーダーの対決さえもこのエピソード3を見てしまった今では、まだ明るいさえと思えるのは不思議なことだ。
 時を同じくして最近公開された「バットマン・ビギニングス」もブルース青年がいかにしてバットマンになったかを暗いタッチで描いていたし、、。
 現在、NHKの大河ドラマ「義経」では、いよいよ義経がその性格と才能と若さ故に悲劇の将の道を歩み始める展開に近づきつつある。こちらも義経本人の性格もあるが、周囲の策謀や状況と言ったどうしょうもない所で事が進められていく背景を意識的に描いている。
 時代が「滅びの美」のようなものを求めているのだろうか、、、。でも玩食のパッケージなんかはダース・べーダーがヒーローみたいな感じで登場してるんだけどね。
 ひょっとしたら、ダース・ベーダーって日本じゃ戦隊ヒーローモノの敵役に登場する「最初は悪役で最後には正義の味方」になる渋くてかっこいいヒーローみたいな扱いなんだろうか。
 でも自分の師匠に四肢を切り取られてケロイドダルマまさん状態になるってのは、うーんどうなのかなぁ。ジョージ・ルーカスの世界観ってこんなのだったけ?

 初めてSWを劇場で見た時は、完全にその世界に魅了され尽くしたのを覚えている。
 子どもにとってみればこの映画はいわば桃源郷のようなものだった。一秒後の世界にずっとずっと胸をときめかせていられるなんて体験は、子どもにとっても、そう滅多にないものなのだ。
 SWはある意味で長く続きすぎたのかも知れない。作る側も受け取る側も加齢と共に世界への認知力が変わっていく。そんな中で子どもの頃に受けたときめきを維持するのはとても難しいものだ。
 SWが壮大な「おとぎ話」から「サーガ」に変化し始めたのはダース・ベーダー卿のフルフェィスヘルメットが外れて、そこにスカイウォーカーの父親の顔が現れた時からだろう。
 そして「ファントム・オブ・メナス」ではこのダースベーダー卿の少年時代が描かれ、「エピソード 2 クローンの攻撃」では青年時代が描かれた。
 SWの大テーマの一つは人の心の「ダークフォース」だったが、可愛いアナキン少年がどんな経過をへて「ダークフォース」に囚われていくのかという描写が、エピソード 2で少しづつ描かれ始め、ルーカス監督の古典的ハリウッド映画回帰も含んてchikaの中ではかなり評価が高い作品になっていた。
 特に主役のアナキンとアミダラを、こういった重いテーマを背後に忍ばせながらも意識的に甘く甘く描いた手法(別の見方ではルーカスは恋愛が撮れないとも)はとても好感が持てた。
  一番やられたなーと思ったのは、アナキンが自分の腕の中で息を引き取る母親を見ながら悲しみにくれそれがやがて「怒り」に変わっていくシーンだ、、。
 観客も、アナキンもバックで流れる音楽に気持ちの変化がシンクロして行き、そのまま建物の外に出て復讐という名の殺戮へと出向くのだけれど、そこから先は至極あっさりした描写で数秒でカット。
 ルーカス監督は観客に「この物語は、これから先の殺しのシーンを延々と見せるものじゃないんだよ」と宣言しているようだ。(エピソード3を見た今でもルーカス監督の心のタッチとはそういったものだと思うのだが。)
 ただこの後ルーカス監督は、アナキンにアミダラの前で「子どもまで手に掛けてしまった自分」を懺悔させると共に、自分の内に生まれた抑えがたい「憎しみ」ははっきり明言させている。そして実際に「シスの復讐」ではアナキンは再び若きジェダイの子ども達を惨殺している。
 これはSW一部作とは打って変わった戦士・知将ぶりを見せるヨーダが、闘いの終結後に「我々は勝利したのではない」と陰鬱な顔を見せた事と共通した演出であるように思う。
 これらのエピソード1・2を受けての「シスの復讐」である。「シスの復讐」単独ではヘイデン・クリステンセン演じるアナキンがいかにしてダークサイドに落ちて行ったかについては説得力が弱いように感じるかも知れないが、ルーカス監督は「ダークサイドに墜ちる」という意味を充分に語り切っているのである。
 特に象徴的だったのは瀕死のアナキンにべーダーマスクが被せられるシーン。観客の視点とアナキンの視点を合わせてマスクの裏側からそれを見せたルーカス監督の演出意図はどこにあるのか?

 ただし、このSWという時の権力の変遷も描いて来た一大サーガが、こうした形での締めくくりを見せた事が、今の私たちにとってどういう意味を持つのかは、私たち側のサーガが終わってみないと判らないのかも知れない。

PS 若き日のアナキンを演じるヘイデン・クリステンセン。前回の「クローンの攻撃」では、初代ダース・ベーダーの悪の重厚さを愛している人にとっては軽すぎて物足りないかも知れないけれど、「シスの復讐」では魅力爆発でした。あの甘いマスクにちらちらと垣間見える「悪」や「危うさ」に完全に填ってしまいました。




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股旅
監督: 市川崑

 市川崑っていう人は凄い監督だなぁと改めて吃驚しました。
 だってこの映画「股旅」、今見ても全然古くないんだもの。それに脚本のクレジットにあの谷川俊太郎氏が連記されていて二度吃驚。
 一人前の渡世人をめざし、生まれ故郷を飛び出した源太、信太、黙太郎の3人は空きっ腹をかかえ流れ着いたニ井宿・番亀一家の世話になり、そこで源太は自分を捨てた父と再会し、心を通わせる女とも出会うのですが。
 渡世の、しかも末端に生きる人間の生態を徹底したリアリズムで描いたこの作品、間違いなく市川崑監督の傑作です。
 配役は若き日の萩原健一、小倉一郎、尾藤イサオ。一見交わる筈のない個性が、見事に「三人のどうしようもなく駄目な若者達のつるみ」を演じています。意外だったのは源太役の小倉一郎。彼って気弱なイメージがありますよね。
「義理」の為に自分の父親を斬り殺す羽目になるこの役所、萩原健一の方が似合うような気がしますが、彼が演じると格好良すぎて「股旅」の乾いた感じは出なかったかも知れません。おそらく市川崑監督、その辺りまで計算してたんでしょうね。
 尾藤イサオは無茶無茶自然に信太役を演じていて、この映画を見る限り、彼が一番、役者のキャリアが長いように見える(笑)。
 この三人の出来の良さに加えて、徹底したリアリズムが良質。映画冒頭の「仁義をきる」シーンの長いこと長いこと、多分、今の映画作りではこんなシーン絶対に許されないでしょうね。
 でもこういう描写があるから、徹底した貧困の状況下においては「一宿一飯の恩義」が「命=飯付き一泊」であるという図式として理解出来るわけですよね。そういう意味では今では作ることが出来ない贅沢な映画なのかも知れません。
 では「股旅」は、ただ忠実に当時の「渡世」だけを再現した映画かというとそうではなくて、ここには裏の主役が登場するのです。
 それは源太が、百姓・又作から寝取った若い女房のお汲(井上れい子)です。寝取ったと書きましたが、実際にはお汲は老人の又作が奴隷として買い取ったようなもので、源太はお汲にして見れば救世主のようなものだったに違いありません。
 このお汲、父親殺しの大罪人となった源太が冗談で駆け落ちを持ちかけると二つ返事で源太に付いて来ます。
 もうこの時点でお汲の体制に対する革命的行為が始まっているわけです。更に、逃げ延びる源太、信太、黙太郎、お汲の4人に追っ手が追いつき、お汲に付いては何も咎めないから帰って来てもよいという申し出があるにも関わらず、お汲はその追っ手をカマで殺害します。
 安定はしているが未来のない生活よりも、危険ではあるが自由と気持ちの許せる仲間がいる源太たちのと「逃れの生活」を彼女は選んだわけです。
 で、そんなお汲みに選ばれた源太達はどうしたかというと、仲間である信太を破傷風で亡くした上に現状に窮した彼らは、彼女を飯盛女に売ることに決めるわけです。
 そしてお汲はそれを承知します。この時点で彼女の「革命」が終わるわけなのですが、これはけして源太に失望したからではなく「革命」とは生き延びてこそ意味のあることというしたたかさ故の事なのです。
 一方、源太と黙太郎は「出世の糸口を!」「渡世の義理を!」というお互いの意地の張り合いで斬り合いを初めてしまいます。この斬り合いも、隙を見て逃げ出した黙太郎のせいで、それを追いかけた源太の崖からの転落死というあっけない幕切れで終わってしまいます。
 ・・リアルですよね。なんのかんのと言っても「渡世の義理」から抜け出せない男の馬鹿さ加減と、オンナのしたたかさ。あまりにもリアル。
 でもそれだから人は愛おしい。そう思わせてくれる映画なのです。
 
 





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