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ケント。私は待ってる!



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ブラッディ・マロリー

監督: ジュリアン・マニア

  近緒はこの手の映画にメロメロである。『スポーン』『ブレイド』『バットマン』、、ダークヒーローにフェッテシュなコスチューム。破天荒なストーリー。
 これで主人公が女性なら言うことなし、、最近じゃ『トゥームレイダー』だけど、これは完全にアンジェリーナ・ジョリーのプロモーションビデオだから除外。フェチで選ぶんならジェニロペの『セル』がベストだけど、ちょっと種類が違うし、、。
 そんな中でかなりヒットゾーンなのがこの映画。
でもどこかの誰かが映画レビューで書いてたけど、ヒロイン役のロリヴィア・ボナミーの魅力がもう一つなのは残念。
 (提灯レビューなんかは彼女の事をどう書いていいのか判らなくて「意志の強い和風の顔立ちと鍛え上げられた腹筋」なんてお世辞にならない事を書いている始末。)
 この世界、煎じ詰めれば、同監督も影響されたという『攻殻機動隊』に行き着くんだろうけど、あれは駄目、汗くさいから。映画はオタクに受けてもいいけどオタクの体臭がしちゃだめ。
 そう言う意味では、この映画の何処かフランスぽい洒落っけみたいなのは大事なんだよ、、。
 色処理とかね、俗っぽいんだけど日本人から見ると、青とか赤の使い方が真似できないって感じだし、第一、マロリーの「元旦那悪魔」みたいな男性存在自体が日本にはないもんね。
 この監督に誰かお金出してあげて「マロニー2」を撮らせてあげてくんないかな、主役はミラ・ジョヴォヴィッチあたりがいいかなー。ドラッグ・クィーン“ヴェナ・カヴァ”はもうちょと色っぽい人、起用してさ。
 
 
PS レディ・バレンタイン役のヴァレンティナ・ヴァルガスが填り過ぎ。彼女を見るだけでもB級映画の「美味しさ」が味わえる筈。
 彼女のベルバラのオスカル衣装も良かったし、、でもあれってフェチグラビア雑誌のマーキスなんかにそのまま出てもおかしくないね。口のないモルフィーヌも、あのまんまフェテッシュパーティに出ても全然違和感ないって感じだし。  
 



「不倫と南米」


不倫と南米
吉本 ばなな 幻冬舎文庫

 『ブエノスアイレス』という名を聞くとウォン・カーウァイ監督の映画を思い出す。この映画の主人公であるゲイカップル達が亜に苦しんだのもイグアスの滝を見に行く旅行の途中だっけ、、。
 近緒は気に入った本や映画で取り上げられる外国に直ぐにでも行きたくなる傾向があって困ってる。この本みたいに、後半部分に併録された紀行記録や写真・イラストと合わせて異国情緒を満喫できる「観光文学」として短編連作を書かれたらもうイチコロです。
 でもブエノスアイレスは地球の反対側にある場所だからエコノミー族にはかなり辛い所だ。おそらく近緒は飛行機のシートで硬直しながら発狂するだろうから、この旅行はないだろう。

 吉本バナナは「ちゃん」を付けないといけないような気がする。気安く呼び捨てにしてはいけないのだ。高貴な魂の持ち主であって、しかもバナナちゃんは凄く頭がいい。 そしてお友達にはなりにくい人だ。
 近緒には「不倫と南米」に登場する男性の原型は、彼女の父親(そうあの人だ)であるような気がする。だからここに描かれる「不倫」は、ブエノスアイレスという情熱的なイメージや官能からほど遠いような感触を持つのだろう。
 彼女の、強い日差しに浮かぶ部屋の埃を一つ一つ描写するような文章力も凄いとは思うのだけれど、それはある一面、なんだか優等生が書く作文のような気もして、近緒には少し居心地が悪いのだ。
 それに本書の場合、タイトルには「不倫」とあるが、どの書評にも書かれているようにこれはどう見ても「家族」の物語であり、しかも筆者が構えて書く程の不幸な家族の話ではないのだ。
 吉本ばなな・・・近緒にはもっとも縁遠い「作家」なのかも知れない。




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ボウリング・フォー・コロンバイン

監督: マイケル・
ムーア

 このドキュメントは「面白い」。日本でドキュメントを撮ると、為にはなるが、ちっとも面白くないものができあがる。それは作り手にユーモアがないからだ。
 更にユーモアを無理矢理ブレンドすると鼻持ちならないものが出来上がる。日本人が無理にそれをやると不謹慎と誹られ、実際ブラックユーモアの真似事ぐらいのレベルのものしか出来ないのだ。
 ユーモアの実態とは、実は「哀しみ」ではないかという気が最近している。そう、日本人はこの感覚をユーモアではなく「わび・さび」というものに昇華して来たのではないのか、、。

 まあそんな戯れ言はさておき、この映画を撮ったマイケル・ムーアという人は兎に角、「賢い人」だと思う。何が賢いかって、それは彼がこの映画に「答え」を用意しなかった事だ。
 おそらく彼ぐらいの知性の持ち主なら「アメリカが何故病んでしまったのか」のそれらしい答えの一つや二つは十分に考えついただろうし、その答えを誘導するようなドキュメントだって撮れたはずだ。
 だがリポーターでもあるこの映画の彼は「ちょっと皮肉屋だけど気のいい正義漢」の役割をになっているだけで決して見る者に、答えを押しつけようとはしてこない。 人は他人から深く斬りつけられることを好まない。たとえそれが真実であったとしてもだ。

 この映画で一番雄弁だったのはマリリン・マンソンとチャールトン・へストンだろう。近緒に取ってのマリリン・マンソンのイメージは、どちらかというとビジュアル面では惹かれる事はあるものの、その音楽性や思想についてはただの安っぽいアナーキズムを感じさせるだけの人だった。
 ところがマイケル・ムーアに答えるマリリン・マンソンは実にシャープな男だった。腰が据わってるって感じ、、ポーズでアウトローを演じるミュージシャンは多いけれど彼は本物かも知れない。
 そしてヘストン。マイケルムーアのやや感情的な突っ込みを時間切れ作戦でかわした彼が、自分の屋敷に引きこもうとする姿、、、。恐らくムーアの突っ込みはヘストンの感性のある部分を刺激したに違いない。けれどそのヘストンの感性は、彼自身が大昔に封印してしまったもので、彼はそこに目を向ける事を恐れているのだ。
 それは「ベトナム」を性懲りもなく何度もやってのけるアメリカの後ろ姿でもある。

 「アメリカは自由の国だと言うがそんな自由が何処にある。」このような口調の表現がアメリカにはざらにある。それらの表現を他ならぬアメリカという国家自身が保障しているのだから、やっぱりアメリカは凄いという人もいる。例えばこのマイケル・ムーアがその証拠ではないかと。
 近緒はそうは思わない。マイケル・ムーアは戦っているのであって「保障」されているわけではない。
 自らを自浄する力さえも取り込みつつ、不潔に白く輝いていこうとする国がアメリカなのだ。
そしてアメリカの姿は人間社会の「未来」の姿である。何人も「アメリカ」を否定しきる事は出来ない。

 「ボウリング・フォー・コロンバイン」はアメリカを知るという意味でも優れた作品だが、ドキュメンタリーという一つの映画手法の可能性を感じさせてくれる非常に優れた作品だと思う。この作品を多くの人々が目にする事を願う。
 
PS この映画で分析されるアメリカは、近緒がイラク戦争前に考えていたものとほぼ同じなのだけれど、一つだけ目から鱗のエピソードがあった。
 それは犯罪率が極端に高いとされてきた有色人種街での犯罪数が実は鎮火しつつあるという事だった。
 だとするとchika達が見たり読んだりする「黒人を中心とした有色人種が火種となっているアメリカ国内の犯罪」の情景は果てしなく情報操作された結果だという事になる。
 マイケル・ムーアが指摘する「いつも何かに怯えて暮らす白人社会」という視点が、アメリカを読み解く一つの大きな鍵なのかもしれない。
 少なくとも「巨大で病んだ正義」がなぜアメリカという国から生まれるのかという答えには近づく事が可能な筈だ。



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戦場のピアニスト

監督: ロマン・ポランスキー

  初めてエイドリアン・ブロディと出会ったのはミラ・ジョヴォヴィッチ主演の「ダミー」だ、、、。ミラ・ジョヴォヴィッチ主演って書いたけれど、どうやらこれは日本国内の宣伝戦略みたいな感じで、実際の主役はどうみても腹話術でしか愛を語れない気弱な青年のエイドリアン・ブロディ。
 この人は、この人でしか出せない素敵な味を持っている。滋味という言葉が人間に対して使えるものではないと思うのだが、「慈しみ」を意識せず体現できる風貌を持った数少ない俳優であるのは確かだ。
 その彼が「戦場のピアニスト」でユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンを演じちゃったのは、「はまり役」過ぎて、こちらまで嬉しくなる出来事だった。
 ただし映画自体はエイドリアン・ブロディの演技力や人間の描き方に焦点があたっている訳ではない。言ってしまえば「ある一人の音楽家の逃亡劇」を2時間28分という長尺で映し出したものに過ぎないのだ。
 (もしエイドリアン・ブロディ以外の俳優が、スクリーン上で延々とスポットがあたり続けるシュピルマンを演じたら、この映画、苦痛を感じさせるものになっていただろう。)
 この映画の主題は「人間が人間として扱われないこと」と、その異常さを徹底して普通の人間の営みと対比させて表す事にあったのだろうと思う。だからシュピルマンは飛び抜けた勇者でもないし思想家でもない。そしてナチスドイツは平坦に感じられる程、ユダヤ人の人権を否定し、殺し続けるのだ。
 もちろん、それこそが戦争の本質であるのだが、「戦場のピアニスト」の場合にはそれにくわえてロマン・ポランスキー監督の執念を感じとる事が出来る。
 ホロコーストに関する映画は過去に何度も撮られたし「戦場のピアニスト」もそれらの映画の一つに過ぎない。事実告発的な視点で見れば「戦場のピアニスト」を上回る映画は幾つもあるし、「感動」という意味でもこの映画がさして優れたものであるとも思えない。だが何よりも「執念」がある。「人間が何処までも残酷になれる事を決して忘れない」というロマン・ポランスキー監督の執念だ。
 それはすなわち「正義の戦争」や「綺麗な戦争」がさも存在するかのように見えてしまう今の時代にこそ必要だった筈の視点だ。

そうなんだよ。みんな「戦場のピアニスト」を見て「嫌な気分」になるべきなんだよ。シュピルマンがピアノを弾いてナチス将校に助けてもらうシーンなんてほんとのおまけにしか過ぎないんだから、、。


 



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異形ノ恋

監督: 堀井彩

 「若気の至り」という言葉がぴったりの映画。見ているこちらまでが気恥ずかしくなるシーンが連発されるし、思わせぶりだけが空回りするやけに長ったらしい描写もきもい。
 それでも最後までこの映画を見たのは堀井彩という監督が「異形」というものをどうとらえているかが知りたかったからだ。
 年がら年中苦悩ばかりしている主人王にも興味はないし、昭和中期から棲息してそうなフーテン娘にも興味はない。 ただただ「異形の恋」というのなら、その異形ぶりが女性映画監督にどう映るのかを見てみたいだけの話だ。
 まず主人公を拾ってきたレズ女の異形ぶり、どこの馬の骨とは知れぬ人間を己の住居に住まわせる意識は「異形」だが、そのレズぶりは極めて普通。
 次に主人公の晃。ドラッグもやってないし酒も飲んでいないのに常によたって歩いているかスキップしてるかのバット男。こういう何の値打ちもない男に頭カチ割られたりしたら死んでも死にきれないだろうね。ちょっとマゾ入ってるのかという気がしたけど、ひきょーもんとマゾとは違うので異形度0です。
 このバットマンのつがいになっちゃうのが切子たん。chikaの周囲には時々こういう子が出現するのですが、chikaは正直言ってこういうのはとっても苦手です。天然演技されてるみたいでこちらが落ち着かない。不幸を楽しめる極度のナルちゃんとつき合えるのは、やっぱ貧乏くさい男でしょ。ということでこれも異形度0。
 切子のおにーたん。この人、なんだか田口らんでぃの小説に出て来そう。まっ小説なんかにはよく登場する人物像だけど、こいつぐらいを異形度50ぐらいにしないと、この映画自体がなりたたないのでおまけ。
 番外編で今時珍しいストリーキングが登場したり、パーティグッズのワンちゃんスーツ着て女の子に首輪付けられて散歩する男がいたりと、、これも又、類型的だなぁ、、。
 でもこの映画、何故かベテラン俳優の寺田農とか渡辺哲が出演しててそこだけ空気が違って奇妙な具合。
 まあ渡辺哲さんの演じる人生リタイア組の愚図でのろまなコンビニ店員が、自分を愚弄する若者に怒りのパンチを食らわすシーンだけが唯一光っていんたんだけどね。
 日本映画の為に観客も含めて「新人」をちゃんと育てるべきなのは、よく判るんだけど、、。こういうなまくらで普通の感性の人が「新人」として出て来ちゃっていいのかって思うね。昨今の文学界と重なる部分があるなぁ。
 実力より「チャンス」の問題なのかなぁ。
 
 



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Jam Films

監督: 飯田譲治 岩井俊二 北村龍平  篠原哲雄  堤幸彦 望月六郎 行定勲 ブレット・ラトナー

 全国の隠れ足フェチの皆さん、吉報があります。もう恥ずかしい思いをする事はないんです。良質な足フェチビデオが普通の大手レンタルビデオ店で堂々と借りる事が出来ます。しかもパッケージは「映画通のあなたに」って感じです。
 なんちて、、これは7人の日本人映画監督によるコンピレーション・フィルムとして公開された『Jam Films』の話。谷崎潤一郎指向の足フェチさんなら狂喜乱舞しちゃうであろうショートフィルムが、この『Jam#Films』の中に納められています。それが望月六郎監督作品 Pandora -HongKong Leg-。

 時々、普通の劇場用映画に、AVには出せない生々しいエロスが出現する時があるでしょ。肌の露出はミニマムに絞ってあるし、扇情的な演出もほんのちょぴりしかないのに、それが換えって「隠し味」みたいになって、妙にドキドキものが出来上がっちゃう。Pandora -HongKong Leg-はそのアンバランスを15分間、濃縮しましたって感じ。
 主役が「上等な女」吉本多香美ちゃんだって言うことも、効いてる。この短編の多香美ちゃん、全然脱がない(靴と靴下は脱ぐけど)のに強烈にエロエロ。
 SMfじゃ普通、この映画レビューでストーリー紹介しないんだけど、今日は足フェチさん向けレビューということで特別にストーリーダイジェストをば。

 足に秘密の悩みを持つ眉子(吉本多香美)は、その薬を求めて喧騒の街を訪れた。閉まっている漢方薬局の前でなにやら怪しい男(麿赤兒)に出会った眉子は、「秘密の薬がある」と誘われるがまま男についていってしまう。うらぶれた路地を通って導かれたのは、すでに閉館した劇場。イスに座ると、目の前には大きな箱が。半信半疑ながらも男の指示通り箱に足を入れる眉子。すると、そこにはめくるめく体験が待っていた。
 
 って感じ、足の秘密ってもちろん、水虫の事なんだけど、ペデキュアをした多香美ちゃんの足はとっても綺麗で水虫があるようには見えないんだよね。
(もっとも多香美ちゃんの足なら水虫でボロボロでもその指先や指の付け根をちゅばちゅばしたいという足フェチさんは沢山いるだろうと思うけど)
 多香美ちゃんの綺麗な足が、箱の中に隠れている男の舌と唾液でぬめぬめと嘗め取られるシーンが、この短編のメインディッシュなわけ。
 中でも多香美ちゃんが、箱の中に潜む足嘗め男から口移しで吸い取った大量の唾液と漢方薬を、スローモーションで吐き出すシーンはこの短編のハイライトでしょう。・・ふう、15分間、お嘆美ですぅ。
 
 あっと、あとはついでに『Jam Films』の残り作品のお勧めを紹介しとくね。たぶんこのレビューを読んだ足フェチのあなたは吉本多香美ちゃんしか見ない筈だから、、そんな事しちゃ勿体ないよ。
 近緒のお勧めは行定勲監督のJUSTICE。これって高校生の妻夫木聡君がグランドでハードルやってる女子高生のブルマを見続けるだけの短編なんだけど、凄く映像テンポがいいのね。この監督、やっぱり凄いです。
 二番手は岩井俊二監督のARITA。まあこの手の映画の雰囲気にアレルギー持ってる人もいるだろうから、好みが別れると思うんだけどね、まして主演が広末涼子だし、、、でもARITAのCGシーンは見て損はないと思うけどな、、レディス実写版、「隣のトトロ」って感じの短編です。

 



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SURVIVE STYLE5+

監督: 関口現

 なんだか面白いのか面白くないのかよく判らない映画だ。大昔、村上春樹氏の「ノルウェーの森」を持っているだけで、それが知的なファッションの小道具になったという話を聞いた事があるけれど、なんとなく、その関係を連想してしまった。
 CM界の強力コンビ多田琢、関口現両氏がタッグを組んで撮った映画「SURVIVE STYLE5+」。
 殺しても殺しても、より凶暴強力になって蘇ってくる妻。その妻を殺し続けようとする男・石垣。観客に催眠術をかけたまま殺し屋に殺されてしまう人気催眠術師・青山と恋人でCMプランナーの洋子。そして青山のショーのステージで催眠術をかけられてしまい、自分を鳥だと思い込んで暮らす小林。空き巣をして生活する津田と森下とJの3人組。Jに憧れるホモっ気の森下とサラリーマンに憧れ続ける津田。そんな森下の想いを捉えかねているJと津田。
 永遠に交わることがない筈のそれぞれの奇妙な生活が、同時通訳を連れて行動するロンドンからやってきた殺し屋によって繋がっていく。
 映画の中には、バラバラのエピソードが最後に一気に繋がっていく構成の作品が結構多い、そんな中でもこの作品の収束の仕方はかなり秀逸な部類にはいるのではないかと思う。と言うか、この作品、自分の妻の殺害を殺し屋に依頼した事を悔いて高層ビルから飛び降り自殺する石垣を「助け」に来た「人物」を見てちょっとジ〜ンと来たほどだ。
 それに、一つ一つのケースがそれなりに面白い。どれを好きになるかは観客の好みが出る所だろうが、chika的にはCMプランナーの洋子が妄想するcmアイデアが乾いた笑いを誘って一番好きだ。(作り手の本領発揮っていう所かも知れないが)
 次に鳥になっちゃったパパと小林一家のシュールな家庭風景。岸辺一徳って俳優はあまり好きじゃないんだけど、この鳥パパはこの人以外じゃ出来ないなと素直に思いましたね。
 問題は石垣夫婦の延々と続く殺戮バトル。最後にはこの夫婦の間に本当の愛の発見があって、それはそれで綺麗に取れているし、バトル自体も面白いんだけど、残念ながら「時間が長すぎる」って事かな。特に石垣が夜の闇の中で妻を土に埋めるだけの退屈なシーンを何回も長尺で撮るのなら他のエピソードをもうちょっと詳しく描いたほうがいいような。
 「ノルウェーの森」がファッションの小道具に仕えるからと言って作品自体の文学的な値打ちが下がるわけではない。でもファッションとして通じる付加価値を「ノルウェーの森」に対して周囲が認めているからこそ、その現象は起こるのだ。
 でCMの本質はどちらかというと先の例の後者にあるのではないかと思うわけ。求められるのは「気分」や「手触り」で、「骨太な表現のCM」ってのがあり得ないのと同じね。
 それにCMって余分なものを削ぎ落としていって一番訴求力のあるものだけを残す技だと思うわけ。それをこの映画の場合、CMの技を使いながら、やけに長い映画を作っているわけで、その辺のちぐはぐさが「面白い」「面白くない」を相殺してる感じがするわけ。

 「What's your function here?<お前の役割は何だ?>」

PS この映画の注目の人たち
阿部寛の青山(完全に化けちゃいましたね、この人)。 橋本麗香の女バンパイア妻(?)、台詞がなかったのが良かったのか、なかなかの存在感。殺し屋御用達同時通訳、荒川良々、、もーゆーことなし。

 



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CQ

監督: ローマン・コッポラ

  こんな「気分」映画って、レビューを書くのがホントに難しい。はずれちゃえばゴミみたいなものだけど、ツボにはまればレビューをかく為に「説明」出来ないものを説明する必要があるからだ。
 昭和時代の「何か」に懐かしさを感じるものがあって、それを具体的説明しろと言われても難しいのと同じだ。
 むしろそれはお酒を飲みながら「ああ、それって判る、、○○なんだよね〜」って感じで共感するものだからだ。

 あの「バーバレラ」を、映画の制作現場からレトロフィチャーしたらどうなるか、、そんな映画である。プラス、、映画青年のシャイで古典的な青春物語。
 でこの映画の監督がフランシス・フォード・コッポラの息子ローマンなんだから、話が出来過ぎ。

 この映画、下手すれば映画お宅の「楽屋落ち話」で、実際、映画中に登場する数人の監督も実在の人物だし、ある程度の映画通でなければ面白くないかも知れない。
 それでも映像美は群を抜いている。各カットの構成がどれをとっても「一枚の商業写真」という映像美のタイプではないが、動画だからこそ表せる一種の「耽美」を確実にフイルムに定着出来ている。
 成人以上なら、この映画を見て「甘酸っぱさ」さか「お洒落」のいずれかを感じる事が出来るだろう。
 ちなみにchikaはこの映画の中で、超美形女優ヴァレンタイン(アンジェラ・リンドヴァル)と気弱な臨時監督ポール(ジェレミー・デイヴィス)が「未来カー」に乗って、盗まれた映画フィルムを取り返しにいくシーンがとても好き。

PS アンジェラ・リンドヴァルの顔って化粧映えする作りだよね〜。彼女が女優としてスカウトされるシーンがあるんだけど、この時の「写り」がすっぴんに近い顔だとすると「ドラゴンフライ」の時の顔はゴージャス過ぎて神懸かっている感じ。彼女、顔の作りはトム・クルーズなんだけどね〜。 



「黒娘 アウトサイダー・フィメール」
黒娘 アウトサイダー・フィメール
牧野修
 講談社ノベルス

 

  「黒娘」、、今度は性転換者ではない純粋な美少女2人組のアクションものだって?。ふーん、牧野氏の新機軸じゃない。それって「絶対読まなくちゃっ」て感じで大型書店まで出掛けましたよ、あたしゃ、、。
 でも結果は同じ、、牧野はどこまでいっても牧野(あっこれって悪口じゃないよ、、でも「飽きる」っていう現象は誰にでもある訳で、、)って事かな。
 それにきっちり敵側だけど女性を痛めつける「女装者」を未練がましく配置してみたり結局「傀儡后」と何も変わらないティスト。第一、アトムとウランってドラァグクイーンの「ロビン&ウラン」の二人からインスピレーションを得ているような気がするし、、。
 でも牧野氏の小説ってホントに近緒の感覚と近いんだねー。
 たとえば主人公の片割れであるアトム(小説の登場人物にこのネーミングを当てたのは近緒の方が先だよーん。)が、自分で剥ぎ取った男どもの顔面を被ってオナニーしちゃう発想は激しく近緒と同じ、やっぱり牧野氏とchikaは同じなんだって思ってしまう。
(現に近緒の今度の新作には、顔被りの同じようなシーンが登場するんだけど、これだって「偶然の一致」と言おうか、「変態の一致」なんだよね。)
 これはレクター博士が連続殺人犯の心理をなぞるのと同じなんだろうと思う。
・・ここまで来ると牧野氏と近緒の違いを整理しておく方が、書評としては正確なのかも知れない。
(なんて自己満足なブックレビューなんだ。今にはじまったコトじゃないけど。)

 まず牧野小説には、必ず虐げられ歪んでしまった女性(あるいはマイノリティ)が登場する。そして同時に彼女達は、単にマイノリティなのではなく激しく「異端者」であるコトが特徴になっている。この異端者像は牧野氏の自己投影だろう。
 まあ、この辺りまでは近緒の作法と同じ、、違うのは、牧野世界には、彼らに「解放」が用意されているという事だ。しかもそれは壮絶な殺戮と苦痛を伴っている。
(本作品の場合はご丁寧なコトに、一見フェミニズムと見まごうような体裁が粉飾されている。)
 近緒には、その過程がないのね。牧野世界は心地よい中毒性の「毒」なんだけれど、一応、「解放」という解毒剤も自分自身の中に持っているわけだ。
 近緒にはその解毒剤に当たる要素が「理解と和解・忘却」に代替えされていて「小説」とすれば、もう一つ切れ味が悪いんだと思う。
 つまり殺戮による「解放」は物語を閉じるコトが出来るけれど、「理解・和解」という希望は物語を拡散させてしまうというコトね。
 でもそれはいつも牧野小説の読後感に感じる、あの「余韻のなさ」に繋がっている部分があるように思う。なんだかとてつもないフェチの味がするチューインガムを噛んでるみたいな。
 近緒?近緒は何処に行くのかなぁ?


PS これはつい最近のニュース。こういうのを知ってから「黒娘」を読んでみると、また違う「世界」の発見があって面白いよ。


17歳少女、パンチパーマで男装しレズ淫行H (夕刊--)
 パンチパーマの彼氏は彼女だった?! 男を装って少女と交際し、わいせつな行為をしたとして、神奈川県警泉署は27日までに、同県逗子市に住む無職少女(17)を児童福祉法違反などの疑いで逮捕した。
 調べによると、無職少女は、出会い系サイトに男性名で“彼女”を募集し、今年3月下旬から、横浜市泉区の少女(18)と交際。藤沢市のホテルなどで、女だとわからないよう自分は服を脱がずにわいせつな行為をした疑い。行為は、複数回に及んだという。
 無職少女は身長167センチ、ガッチリした体形にパンチパーマ。服装も言葉遣いも“男”で、とび職のアルバイト経験もあった。交際は4月下旬、相手の少女が男友達と携帯で話したことに腹を立て、顔を殴り、軽傷を負わせるまで続いた。
 被害少女は8月末、「交際男性に殴られた」と被害届を提出。捜査の過程で実は“女”と知らされると、レズ行為だったことに少なからぬショックを受けたという。
 調べに、無職少女は「金を貢がせようと思った。心の中ではオレは男だと思っている」と、男言葉で話しているとか。 [ 2003年9月27日13時0分 ] 



「ルー=ガルー 忌避すべき狼」
ルー=ガルー 忌避すべき狼
京極夏彦
 徳間書店

 

  京極夏彦が書く近未来小説、しかも主人公は14〜15歳の少女達。おまけに装丁がコミック風だから純正・京極になれた読者にはちょっと違和感があるかも知れない。
 近緒だってそうだった。本書を「珍しい」気持ちで買ったものの、読まずに放置してた期間が約1年。
 勿論、腰が引ける原因には本の分厚さ(4.5センチ)もあるのだが、分厚いのは京極夏彦の著書ではいつものこと、やはり、この本の場合「京極らしからぬ」が原因なのだ。
 つまり「あの京極が、、」という吃驚が、「なんてつまらない」という落胆に転化するのが怖いわけ。(少ないページ数なら被害も少ないが、京極本は横道蘊蓄を含めて嫌という程の文章量だからね。だいいち近未来小説で京極の「あの念仏文体」が通用するのかという事もある。)
 でも読後の感想は、「結局いつもの京極本だった」につきる。登場する少女達も前半はなんとか近未来の今風少女を体裁を保っているけれど、後半になって来ると、この少女達、いつもの京極ワールドの歪んだ男達、榎木津・京極堂・木場・関口にすり替わっていくのだ。で結局、その後半部分が面白いわけなのだけれど、、。

 それでも近未来のステージ設定の中でこそ生きてくる少女達のコミュニケーション不全や、デスコミニュケーションからの生還、そして「人殺しは何故いけないか」という今時の命題までを、京極氏独自のテーマと旨く絡ませて書けているのが新味といえば新味でもある。
 ただし、もしこの本を入り口にして京極氏の他の著書に踏み込んだ場合、その読者の半数は途方に暮れるにちがいないが。
 ちなみに近緒は、おそらく京極がノリで書いたのであろう少女達の友情に胸を詰まらせた一人であり、こんな京極作品も大好きなのである。

PS 「人殺し」を背負ってしまった歩未に対して、「これで私も」とプラズマ砲で人を焼き焦がした天才少女・美緒の整理というか、二人のバランスを物語の中でうまく書き切れていない京極夏彦も珍しくていい。 



「沈黙」
「沈黙」
遠藤周作
 徳間書店

上の写真は文中のutanさんの撮影されたものです。

utanさんのサイト「写楽」はこちら

結構、彷徨う人なので、このサイトがずっとあるとは言えませんが。

 夜明け前に「沈黙」を読了。一番、深く突き刺さって来るのはロドリゴ司祭の「神などいない」のではないかという不安と疑問である。
 そして「祈る」事の意味を日本文学でこれほど旨く問うた作品も少ないのではないかと思った。
 
 「沈黙」は、ネット上で親しくさせてもらっているutanさんが、私たちの会話の中で何回か引き合いに出されていて、以前から気になっていた作品である。
 ただ近緒なんかの感覚では、遠藤周作と言えばもう夏目漱石レベルエリアの人物であり、正直に言って読書欲の圏外だったのだ。
 このレビューもどきを書くために、「沈黙」に対するいくつかの書評をネット上で浚ってみたのだが、「キリスト教文学の金字塔」という表現があり、更にはキリスト教が本質的に根付かない日本の文化論でもあると評されていた。
 近緒自身は、クリスマスにはキリスト教ムードに浸り、お正月には神社に初詣に出掛ける典型的な無(関心)神論者であり「転びバテレン」なんてキーワードを差し出されると勘弁してょ〜って感じになる。
 が、遠藤周作氏は、そこを読ませる。遠藤周作の作家としての技量はもちろんの事なのだろうが、氏の眼差しが「人は祈らざるを得ない」存在なのだという人間理解にあるから、近緒のような無(関心)神論者にも、その気持ちを通底させる事が出来るのだろう。

 物語は、キリスト教迫害下の日本にあって不屈の布教活動を続けていたフェレイラ神父の棄教の謎を追って日本に忍び込んだポルトガル司祭ロドリゴの視点で描かれる。これを昭和に生きた日本人である遠藤周作氏が書くのだから、実に巧い細工が可能で、貧困に喘ぐ日本の水飲み百姓達の絶望が外人の目からみた「小さくて貧相な未開の異国である日本」の中で活写されることになる。
 さらにロドリゴの逃亡生活も一種の冒険譚としての娯楽性も保たれているし、物語の後半に登場する長崎奉行 井上筑後守も、心理戦と冷酷さによってキリスト教徒を棄教させる名人としてロドリゴの前に立ちふさがり、なかなか素敵な敵役として彼を読み替える事も可能だ。
 そして最後には主人公ロドリゴが日本に渡るきっかけとなったフェレイラ神父との再会というクライマックスが用意されていて、遠藤周作氏が追っているテーマを外してみれば、実にエンタメ性の高い構成をもった作品なのである。
 
 最初に戻ろう。この小説は近緒にとって「祈り」と、その先にあるものの「不在」の物語である。
 黒人達のゴスペルソングは賛美歌でありながらデビルズソングと呼ばれた。それは神を讃える歌の中に「人間」が織り込まれていたからだ。それは、奴隷としてアメリカで虐げられて来た黒人達が出会った「救いとしてのキリスト教」ならば当たり前の事だ。
 そして遠藤周作氏が活写して見せた日本の切支丹達も同じ事だ。「宗教」の実態は、ロドリゴが最初そう考えていたように神学上の究極にある訳ではない。ただ、だからと言って、遠藤周作はロドリゴの「転び」を苦い思いで肯定している訳でもないのである。
 氏が追求したかったのは、人間は祈らざるを得ない存在であるのに、もしかするとその「祈り」の先には何もないのではないかという事である。
 
 



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ガーゴイル

監督: クレール・ドゥニ

 この映画を見ながらずっとダブルイメージで思い出していたのがアルバトロス配給の死姦映画「ネクロマンティック」だ。あれは本当に気持ちが悪い映画だった。
 映像がグロだとかなんだとかの問題ではなくて、ああいった壊れ方を、原始的なカニバリズムと異常性欲を混ぜ合わせた時に「人間の自然な成り行き」として可能だろうと予想出来るからだ。そして何よりも映画として「汚い」。そこで撮られた「精神」も「映像」も汚くて寒々しい。そう意図されて作られたフィルムなのだ。

 「ガーゴイル」の、激しい性交の末に相手を喰い殺してしまう姿を通じて描き出されたテーマは「ネクロマンティック」と大差はないような気がするのだが、一線を画したのは「ガーゴイル」に映画としての「綺麗」さがあった事だろう。
 そう、同じグロでも映像として「綺麗な」ものと「汚い」ものとでは雲泥の差が生じるのだ。勿論、それは「表現」だけに許されたマジックで、ここで描かれるような現実のグロは何処までいってもグロでしかないのだが。
 「ガーゴイル」の被害者だって、あんな殺され方をしたら快楽死どころか脱糞だってするだろうし、吸血鬼ドラキュラの殺しの様式美に乗っ取った偽リアルなSMまがいの死に様を見せる筈がないのだ。
 「ネクロマンティック」はそういう現実を殊更に露悪的描いたのだが、「ガーゴイル」は愛憎劇の方向に収斂させたわけだ。

 しかし究極のエロスに近づきたければ、この「ガーゴイル」のシチュエーション、制作者側にとっては、なかなか魅力的なものであったに違いない。
 ただし一歩間違うと安っぽいものにしかならない。クレール・ドゥニ監督、「ガーゴイル」ではB級映画ぎりぎりの所で踏みとどまったという所だろうか。
 それも映像の美しさと主役のヴィンセント・ギャロとベアトリス・ダルのお陰だろう。
 この三つの要素がなければ、「ガーゴイル」はB級映画どころか鼻持ちならない空虚な気取り屋映画に転落していた可能性だってあったのだ。

 ヴィンセント・ギャロがホテルの風呂場で自慰して射精するシーンがあるんだけど、「似合うな〜」って思わず納得してしまった。
 その他、電車の中で子犬を抱きながら中年女性の背中に密着する痴漢行為とかね。似合うんだよ、そういうのがこの人は。
 そしてベアトリス・ダル。この人一体何歳になったんだっけ。ジム・ジャームッシュ監督の「ナイトオンザプラネット」で盲目の女性役をやってたけど、あの時は凄い色気だった。
 近緒の中ではいわゆる「勃起モン」No1の映画女優なんだよね。時々ふと田中真紀子を思い出しそうになるけど容姿じゃないわけ。
 このベアトリス・ダルの食人セックスシーンなんて、単純なエロを通り越して、「自分は映画見てて良かった」と思っちゃうもの。
 あと映像美っていうか、絵つくりのねちっこさね。いかにもフランス映画といえばそれまでだけど、ギャロに犯されて喰い殺されるメイド嬢の襟首の官能だとか、緑のスカーフがパリの上空を流されていくシーンとか。
 そういう映像美でテーマを包んだのが正解だったわけ。
まあそれがこの映画自体の本質なのかも。

 

 



I saw a movie.
マトリックス・リローデッド

監督: ラリー&アンディ・ウォシャウスキー

 このレビューを書いている時点でマトリックス3部作の最終章であるマトリックス・レボリューションが上映中になっている。
 普通なら、フェチ・SF・アクションと三拍子そろったこんな美味しい映画を見逃す手はないのだが、、。おそらく映画館にはいかないだろうと思う。
 仕事が忙しくてとても見に行ける状況ではないのも確かだけれど、それ以上に、マトリックス(リローデッド)のあまりの「ドラゴンボール振り」に腰が引けているからだ。
 マトリクスの内容は、難解だと言われる事もあるし、完全なお子さま向け映画だと言う人もいる。
 SF小説の世界では仮想世界テーマは使い古された感があって、実際、そのテーマ追求の奥行きは非常に深く哲学の領域に近い作品も数多い。
 そんな意味で、マトリックスで語られる内容は陳腐で平易な内容に過ぎない。しかし仮想世界の映像化という部分では、桁外れの描写力を持っている。
 ただその桁外れの描写力が、仮想空間そのものより「アニメアクション」の具象化に重点が置かれ過ぎて、見ている側とすれば食中気味になって来るのである。この辺りのバランスが難しい。
 逆に、ワイヤーアクションが全編に鏤められて、その事自体が映画の美しさや完成度を高める事になっていたのがアン・リー監督の「グリーン・デスティニー」だったように思う。
 両作品とも、重力と力学を完全に無視したアクションが延々と続き、観客自体はその超不自然アクションに魅せられ感心するのが「売り」なのだけれど、なぜかマトリックスの場合は違和感が残るのだ。
 ショービジネスとしての格闘技を見ているつもりが、それにストーリーがついていたり、あるいはその逆に、重たい演劇を見ている筈が実はプロモーションビデオ風だったりという乖離感。
 勿論、これはマトリックス3部作という全体像に置いて解消されるものかも知れないのだが。
 
 もっともヴィム・ヴェンダース監督の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のようにドキュメンタリーでありながら充分、音楽映画として通用する映画もあるわけで、マトリックスもミュージックビデオならぬ、ストーリー付き新世代格闘技映画とみれば、充分に完成した作品だと思う。
 第一、登場人物達のコスチュームはレザー・ラバー・PVCというフェテッシュ三大マテリアルを多用しており、観客の「思考」より「見ることの快楽」を強く意識しているのがよくわかる。
 西に、ジェニロペ主演の「セル」があれば、東にキアヌの「マトリックス」という事だろうか。
 
PS モニカ・ベルッチ演じる謎の女パーセフォニー。彼女のドレス、、なにげにラバー、、。いい縫製ってか、仕立てなんだよね。さりげにフェチです。あんなの着たい!!



I saw a movie.
シティ・オブ・ゴッド

監督:フェルナンド・メイレレス

   怖い映画だ。特に子ども達が銃を持って平気でギャング行為を働く描写が怖い。映画の前半に登場するギャング王リトル・ゼの子ども時代であるリトル・ダイスが、自分の殺人衝動のままに「楽しみ」ながら人を撃ち殺す姿は衝撃的だ。
 この場面の怖さに比べると、後半登場するギャング同士の銃撃戦など、臨場感のない戦争映画のようなものだ。
 
 “シティ・オブ・ゴッド”の狂言回し的な意味での主人公は写真家を夢見るブスカペなのだが、この彼も「一花咲かそう」と、腰に拳銃をぶちこんで強盗修行に出る場面がある。
 そのほかリトル・ゼに「男ぶり」を試されて、少年を射殺せざるを得なくなった少年のシーンなど、リオデジャネイロ郊外のスラムに生まれたが故の少年達のサバイバルが余すことなく描かれている。
 勿論、フェルナンド・メイレレス監督はこのスラムが荒れ放題に放置される背景にギャングボスと警察との癒着がある事や、政府の貧困階級層に対する施策の切り捨て主義をきちんと描いているが、なにより大きい描写は少年達の成長(サバイバル)物語だろう。
 そこには救いがほとんどない。その癖、映画自体は陰々滅々としたムードはなく、不思議なほどエネルギッシュであり、時には滑稽味さえ感じる仕上がりになっている。ブスカペのキャラクターや効果的に挿入される音楽のせいもあるだろうが、「ブラジル」の血と肉がそうさせるのかも知れない。見終わってから「この現実を何とかしなければならない」と言ったような感慨を抱かせず、目の前の現実に立ちつくしながらも、この世界で明日からも生きていく自分を自覚させるような不思議な出来上がりだ。
 それに2時間10分という長さをほとんど感じさせないストーリー構成と凝った映像、、なかなかのものである。



I saw a movie.
散歩する惑星

監督 脚本:ロイ・アンダーソン

 分類でいうとこの映画、コメディだそうだ。おまけに「ゆるーい」とか「ローテク」等の言葉が冠されている。
  確かに分類すればそういう事なのだろうが、ここで扱われているテーマや表現は重厚でありかつ切ないもので、決して軽いコメディ映画ではない。
 ハリウッド映画には、際どい差別性を含む「ブラックジョーク」の伝統があるが、スウェーデンにはシュールリアリズムティストに満ちた「おかしみ」という感性があるのかも知れない。これなどは日本のわびさび文化に通じる部分があり、日本人にはロイ・アンダーソン監督の感性、けっこう響くものがある。
 特に主人公(?)のカールが、借金を踏み倒して自殺させてしまった男の幽霊を見てしまうあたりからの展開や恐怖感は、黒沢清監督のそれに近い部分があるだろう。
(幽霊達が登場する場面が生理的に不気味だ。ヒュードロではなくてある時には「突如」ある時には「わらわらと」で、主人公が彼らを拒否できる隙間がまったくないところが怖い。)
 カールという男は保険金欲しさに自分が経営する家具屋に火をつけてしまうような男なのだが、精神を病んだ息子を抱え日々悩みながら、先行きの見えない社会の中でただ平凡な幸せを夢見ながら藻掻いている状況は、決して私たちの日常から乖離したキャラクターではないように思う。
 このカールに先の「戦争」で成仏し損ねた青年の幽霊がしつこくつきまとい何かを必死に訪ねて来るシーンや、謝金踏み倒され男の亡霊が、恨み言をいう訳でもなくただカールにつきまとうシーンも暗示的で面白い。
 この世界には、ほとんど美男美女は登場しない。出てくるのはほぼ疲れ切った中年から老年にかけての人間ばかりであり、そこに映し出される世界も、引っ越しの為に綺麗にものがなくなった家屋のようなシーンばかりが描かれる。
 バーやレストラン、食事の場面はふんだんに映し出されるのだが、そこに登場する人間たちが何かを飲食しているイメージはほとんど残らない。(一時、もの不足のロシアの国情を映し出したニュース映像がしきりと放映された時期があったがそれを思い出す)。
 そして何かから逃げだそうとする人々が巻き起こす、一大渋滞、、。カタストロフィに向けて世界は静かに進行していくのである。
 ただ一方で、「未来の可能性の象徴」である少女が、一度だけこの映画には登場するのだが、この少女も中高年の人々の手によって「いけにえ」にされてしまうのである。
 未来さえも捨て、破滅に向かって静かに逃走する人々の願いが、カールの言う「私はただ静かに平凡で幸せな生活を送りたかっただけなんだ」に集約されるのは言うまでもない。不況にあえぐ日本経済と犯罪超大国への転落と軍国化、、それでも地球は回っていくのだが、この映画の惑星は「散歩」するのである。
 
PS ちなみにこの映画の題名、スウェーデン語原題は“Sanger fran andre vaningen”。英語タイトルでは“Songs from the second floor”である。second floorとは何か、日本も人事ではないテーマだ。



「新宿鮫VI 『氷 舞』」
新宿鮫VI 『氷 舞』
大沢在昌
 光文社文庫

 

 大沢作品は近緒が元気じゃない時に現実逃避的に読むことが多い。昔、「失恋した時に中島みゆきを聞くタイプ」みたいな分類方法があったんだけど、それにちょっと気分は似てるかも知れない。これがもっと重症になると大沢あり正ではなく村上春樹が読みたくなるんだけれど、、。
 新宿鮫って一人の人間の孤軍奮闘の物語でしょ、、どれだけ自分の「筋」を通しきるかっていう生き方が、センチメンタリズムも含めてハードボイルドな物語に繋がっていく。
 大沢さんはそれだけじゃなくて、鮫島刑事を現実ぎりぎりの所で格好よく描く事を厭わないし、年下のロックシンガーを恋人に配置したりしてね、、読者サービスも忘れないところが偉い。へこんだ時には大沢さんのサービスを受けてちょっとだけ元気を取り戻すっていう仕掛けなわけ。
 この「氷舞」は新宿鮫シリーズの中でも傑作の部類にはいるという人も多いらしいんだけど、、chikaには、その評価ちょっと謎だなぁ。
 事件が鮫島刑事の外側で勝手に終焉に向かっていくっていう感じがして、正直言って今回の展開には乗り切れなかった。
 それに鮫島刑事初の浮気をするんだけど、鮫島ってちょっと純情すぎだし、晶の感覚もいまいちよく判らない。
 もしかしたらこの辺りが大沢有政のウィークポイントなのかしらと思ったり。
 「撃つ薔薇」とか女性が主人公の作品もあるけれど、読んでいるとなんとなくこう背中がムズムズするからねー。
 でもその分っと言っちゃ語弊があるけど、ライバルである公安の香田との絡みがうまく書けてる感じがして、その辺りが「氷舞」の評価が高い理由なのかな。
 確かに香田が「おまえは一体、何のつもりだ」と問いつめた時に、鮫島が「俺は刑事だ」と答えたページなんか、ハードボイルド小説ならあってあたりまえの描写なんだけど、これぐらいぴたりと決まるのも珍しいかなと感心させられるもの、、。
 でも鮫島と晶、いずれ別れが来るんだろうな。この二人が結ばれてもハッピーエンドにはなり得ないだろうし。
 となればどちらかが死ぬってことしかない訳で、、「氷舞」みたいな作品が発表されるって事はその時期が、作家の中で近づいているってことなんだろうな、、。
 ちょと寂しい気もするけれどね。ハードボイルドで「指輪物語」みたいなわけにはいかないよね。
 
PS それにしても館ひろしが、鮫島刑事役をやったのは決定的だったよね。もうアレ見た人は、鮫島のイメージを館ひろし以外で想像出来ないでしょ。
 晶のキャラは結構流動的なんだけどね。時々、、館ひろしが歌う気障なバラードなんかが、頭の中で流れて困ってしまう時があるんだ。 




「グッド・パンジイ」
グッド・パンジイ
アンドリュー・ヴァクス
 ハヤカワ文庫

 

 黒いアイパッチをした隻眼の危険な男、、、こいつは洒落者の元犯罪者?著者近影を見るとそんな印象を受けるアンドリュー・ヴァクス。その実体は青少年犯罪と幼児虐待専門の弁護士として活動した経験を持ち『自分のメッセージをできるかぎり広い範囲の人々に伝える』為に「ミステリ作家」になった男らしい。
 近緒は正直言って幼児虐待の問題について挑み続けたいと思うなら弁護士を続ける方が遙かに効率が良いと思うのだが、、。
 ヴァクスの書評を見ると彼の作品のコアが幼児虐待にある事をさして「暗い」「重たい」「現実的」「正面から切り込んでいる」作風だと、結構好意的である場合が多い。
 しかし幼児虐待を扱った作品はヴァクス以外に実に多くあるし、それらの殆どはヴァクス以上に「暗くて重たくて」救いがない。それは多くの作家達がこの問題に対して、主人公バークのような対抗イメージを描かないからだ。その理由は簡単だ。そんな事をすればその作品が一気にアメリカン・コミックスに転落する事を知っているからだ。
 アンドリュー・ヴァクスの作品は完全にエンターテインメントである。一見コアに見える幼児虐待の問題は添え物に過ぎない。

 この小説の世界観を見てみよう。バークの用心棒でもあるマックスという東洋人は武道の達人。そして何故かマックスは口がきけない。ミシェルはおかまでバークが必要とする情報を拾ってきてくれる。モグラは技術者で,強制収容所に入った体験があり,ナチス嫌い。バークの電話の取り次ぎや,仲間への伝言を伝えるのは裏の顔を持つ中華料理店の老女は何故か情に厚い。彼らは家族以上の必要性で密接に結びついている。
 まるで「特攻Aチーム」か「スパイ大作戦」に「ゴッドファーザー」を混ぜたような世界だ。要するにこの世界観とは「こんなのだったら面白いな」と今まで自分が見てきた面白い映画や小説の継ぎ接ぎ細工で成り立っているワケだ。
 勿論、ヴァクスが生来の文章作家では無いことを考えると、その事自体は責められないが、、ただいただけないのは彼がコアにしている「幼児虐待」とこの手法がマッチするものかどうかという事である。
 例えば主人公バークは己自身の過去から幼児虐待者に対して容赦なく「キレて」しまう人物として設定されているのだが、それ自体が殺人に対する免罪符的なカードを握らせて貰ったヒーローの捻出であり、その安易さはちょっと納得出来ない。ヴァクスが「バットマン 究極の悪」を書いた時は「ありうる、納得。」と思ってしまったが、この人はコミックスのノベライズのレベルで「幼児虐待」問題に取り組んでいるのかも知れない。
 本作でもポル・ポトに追われたカンボジア娘・ジェムがバークの新しい恋人として登場するのだが、なんのかんのと悲壮感を漂わせオマケに社会問題まで絡ませてくるのだが、結局の所、本書の描写を見る限り、ジェムの本質的な役割はボンドガールの以外の何者でもないのである。アンドリュー・ヴァクスから連想されるもの、、雑誌プレイボーイ・カジノ・ハリウッド・アメリカンドリーム・山師・露悪の仮面をかぶった偽善者、、、。


 アンドリュー・ヴァクス、「胡散臭い」作家だ。まあこの胡散臭さが面白く感じられる人には「グッド・パンジイ」ってお勧めの作品だけど、「我ながら正義感が強いかも」なって思っている人はジョージ・P・ペレケーノスあたりを一度読んでみてヴァクス菌に対する抗体を作っておくことをお勧めします。




I saw a movie.
ソラリス

監督: スティーブン・ソダーバーグ

 「惑星ソラリス」は近緒がまだSF小説にはまっていた頃に、通ぶってビデオで見たんだよね。これがまた全然わかんなくて、しかも面白くないときてる。それでも眠たいのを我慢して最後まで見たんだ。
 うーんそのお陰かリメイク版の本作品は、ずーっと分かり易くて最後まで見ることが出来ましたのことよ。(マルシアのイントネーションが突如として浮かぶ。義丹ちゃん、妻の目の前でしかもお家に連れ込んでの浮気は、、、そりゃ駄目だよ。)
 「惑星ソラリス」の時もそうだったけれど、この映画を見るとSF映画の古典である「禁断の惑星」に登場したイドの怪物を思いだしちゃう。
 まあそれだけSFの世界じゃ「潜在意識・想念の実体化」っていうアイテムは便利モノだったわけ。原作ではソラリスという惑星自体が意識のメタプールだっていう所が新機軸なんだけど、映画の方じゃそれは踏み台にしか過ぎず、、まあ結局、映画監督のやりたい放題って感じだから難解になるのは仕方ない。
 エヴァゲリオンの最終話なんかもそうだし、とかく無意識領域やメタを扱う映画はそうなるね。
 でも同じやりたい放題でもスティーブン・ソダーバーグ監督の場合は、哲学的な方向に走らず「熟年男と女の傷心ラブゲーム」にしちゃった所が、らしいと言えば、らしいんだよね。
 過去に死なせてしまった妻が宇宙の果てで実体化するんだけど、その元は夫(ジョージ・クルーニー)の妻に対する幻影のコピーにしか過ぎないわけ。でもこの素材は惑星ソラリスから提供されている事もあって、やがてコピーは擬似的な自意識を持ち始め、女に無理解だった男の過去を浮き彫りにし始める。
 「男が愛していたのは生身の妻ではなく、自分の中で作り上げていた理想像だった。その事が妻を傷つけて行く。そしてそれは惑星ソラリスでも変わらなかった、、」って感じ。
 初め「なんでソラリスにジョージ・クルーニーなわけ?全然似合わなね〜」って思っていたんだけど、こういう渋くてちょっとコメディ入ったラブロマンスな展開だと、正にドンピシャリって感じ。
 でもそうまでして、なんでスティーブン・ソダーバーグ監督、「惑星ソラリス」のリメイクをしたかったのか、、これは最後まで疑問なんだけどね。




「ボストン、沈黙の街」

ボストン、沈黙の街
ウィリアム・
ランデイ  (訳)東野 さやか
ハヤカワ・ミステリ文庫

 

 アメリカの警官小説と日本の警官小説は質が違う。もちろん小説を書くための背景である風土や文化、警察機構が違うのだから当たり前の話である。
 それでも日本の多くの作家達は、アメリカ産の警察小説を日本の世界になじませるべく、あの手この手を使ってハードボイルドなティストの移植に苦労してきた。
 その努力はちゃんと結実しており、今では優れた警官小説が沢山読めるようになった。
 しかしだ。やはり何処かが違う。その違いをよく表しているのが本作だろう。「ボストン、沈黙の街」は日本人には絶対にかけない作品だ。
 例えば汚職・賄賂にまみれた悪徳警官や組織を書くとき、日本人には徹底的に汚濁した描写を成しえないのではないかと思う。あるいは「罪と罰」の捉え方も、深いところで大きく違うのではないかとも思う。

 ・・・本書で何度も繰り返されるフレーズがこれだ。
「いい警官はいい理由のために悪いことをする。悪い警官は悪い理由のために悪いことをする。」
日本人作家はあけすけにこういう事をまず書かない。
 「過去に殺人などの罪を犯した人間は、例えその犯罪が発覚しなくても罪の意識に苛まれるものだ。」そう日本人は考えるのが常であって「殺人を犯しても、捕まらなければ、幸せになれる。」とは絶対に考えない。
 まあ良くいって「捕まえられなければ運がいい」だけの話で、その後、殺人者は幸せになる筈がないのだ。つまり日本では「罪と罰」は、殺人を犯した時点で「法」より先に、一枚のコインの裏表として同時に人の心の中に生まれる。あるいは「そうでなければならない」と考えている。

 戦争では人は大勢の人間を殺す事がある。もちろんその事を深く後悔する人もいるだろうが、普通の人間は、戦争が終わればその事を帳消しにし「幸せ」を掴みとる為の人生を送ることが出来る。
 戦争と犯罪とは違うと言うが、その違いとは体制と価値観の差にしか求める事は出来ない。
 もし人殺しの罪の意識を、個人の価値観でチャラに出来のであれば、人は殺人を犯したあとでも「幸せ」になる事が出来るのである。そう「捕まり」さえしなければ。
 だが日本人はこういう思考パターンを受け入れない。これはアメリカ・日本というそれぞれの国の成り立ちにまで遡れる差だろう。
 日本人には「ボストン、沈黙の街」はかなり手強い小説なのだ。
 まあこんなレビューを読んでいても、あなたがもしこの本の半分しか読んでいないのだったらこう言うだろう。「本書は一人の青年の警官としての成長物語である。その間に恋愛あり銃撃戦ありの娯楽に徹した小説だ」と。
 そして本書を最後まで読み、禁じ手すれすれの結末と、暗鬱なテーマ提起に出会った時、今まで読んできたものが「警官小説」であった事を忘れてしまっているだろう。

PS 「グッド・パンジイ」の書評では、その前身が青少年犯罪と幼児虐待専門の弁護士だったというアンドリュー・ヴァクスを徹底的にこき下ろした。幼児虐待という重いテーマを掲げながら、その中身はエンタメ映画の脚本に毛が生えた程度でしかないからだ。
 元検事補としての経歴を持つ、ウィリアム・ランデイはそのヴァクスと正反対の所にいる作家だろう。
 「ボストン、沈黙の街」という作品は、達者な技巧で作られたボリュームのあるエンタメ小説のように見えるが、実は「私小説」に果てしなく近い作品なのではないかと思うのである。



「音楽芸者エミ・エレオノーラ」

音楽芸者エミ・エレオノーラ
森園みるく
新風舎文庫

 

 森園みるくがエミ・エレオノーラを撮影したポストカード集を購入した。森園みるくは観念上の「女」しか撮らないと宣言しているようだ。
 Chikaは「女」のエミ・エレオノーラよりも、ドラァグ・クイーンとしてのエミ・エレオノーラが好きなんだけれどね。
 一時、「ドラァグ・クイーン」なる存在自体が流行った時期があって、エミ・エレオノーラが、女性としての「ドラァグ・クイーン」の存在理由を説明していたような記憶がある。「それって単純にオナベの変形パターンちゃうん?」とか思いながら、女性がバリバリのドラァグ・クイーンを演じられる事には何故か嫉妬を感じていたものだ。
 でも写真を見てると、よぉ〜く観察すると、どう見てもオンナだよ、この人。それは森園みるくが幾ら性倒錯やボンデージやらを描いた所で、結局はノーマル、彼女の感性がオンナそのものである事と同じような気がするんだよなぁ、、。
 そういう意味で最近、エミ・エレオノーラが自分の事を「音楽芸者」って規定したのは、凄く正解だと思う。だってやっぱり「フィメール・ドラァグ・クイーン」なんて存在しえないんだもの。

 写真としての出来?森園みるくが描く絵と同じやね。言い方を変えると、相当上手いという事なんやろうけれど、それ以上の写真じゃないって事かな。でもマンガのクォリティなりベクトルを写真で満たす事にどれだけの意味があるのかって思わないでもない。
 まあこれは「なんでも出来る人」に共通する傾向だろうけれど、、。

PS エミ・エレオノーラって映画の「I.K.U.」に出演してるみたいなんだけど、記憶がない、、。結局、ギンギラピカピカにドラァグ・クイーンしちゃってスクリーンに登場した時点で、映画の場合は逆に個別性が希薄になるんだろうね。そこにいるのはドラァグ・クイーンであってエミ・エレオノーラである必然性は何処にもないっていうことかな。



「バカの壁」

バカの壁
養老孟司
新潮新書

 

 養老孟司の著書の印象として、chikaには氏が封建制度やカースト制を肯定しているように思える部分があってあまり好きではなかった。システムとして、それらの制度よりも民主主義が必ずしも上回っているとは限らないのは判るのだが「差別」という問題がそこに在る限りchikaは現在の民主主義を肯定したいと思うからだ。
 勿論、この印象は近緒自身が氏の著書を最後まで深く読み込んだことがないことから来る部分が多いのだろうと思う。そういう意味で「バカの壁」は、chikaにとってエッセイ風で読みやすく面白い本だった。

 氏が指摘する「無意識の世界をかろんじることの危険性」は個人的にも耳のいたい話だ。眠っている間を「自分の人生」として数えない考え方は、多分にchikaの中にもあるからだ。しかし自分自身でも、意識している時だけが生きている事の全てだとする考え方には、いくつかの危険性と脆弱性が潜んでいるのは何となく気づいていたが、これだけ理路整然と説明されるとちょっと困ってしまうのも確かだ。
 ・・そう煙草が身体に悪いことが判っていながら喫煙行為を止められないニコチン中毒者みたいなものだ。しかし眠る為の夜を無駄なものとして切り離していこうとする「都市」の姿が我々の意識そのもの反映であると指摘されれば、やはり考え方を見直していく必要があるのかも知れない。養老孟司の指摘は単純な自然回帰論ではなく、生き物としての人間の趨勢を左右しかねない重要な視点だと思えるからだ。
 拙作「特殊メイクアップアーティストの憂鬱」は、そう言った視点でテーマ設定を行ったものだが、小説に書くまでもなく、自分自身という個人のレベルでその問題に直面しているのだと、改めて考えさせられた著書だった。

 



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ミリオンダラー・ベイビー

監督: クリント・イーストウッド

 ぐずぐずしている内にこの映画のレビューを書くのが遅れ、ついに年を越してしまった。アカデミーを取るだけあって「ミリオンダラー・ベイビー」は非常によく出来た作品である。
 アメリカ工業製品と日本の製品の精度を比較して、アメリカのそれの大雑把さに驚く事があるが映画に関してはまったく逆だ。登場人物にしたって無駄な人間は一人もいないし、それぞれの性格だってよく掘り下げてある。
  これはスクリーンに誰が何秒映っているとか誰それの台詞回しが上手いとかの問題ではなくて、キャスティングの妙だろう。
  ビートたけしが「いくら俳優さんが人間的な表現をしようと精神的にこう、うーんと力んだ演技してもさ、実際には見えるようにしか映らないんだよ。それをなんとかするのが監督でさ。」みたいな事を言っていたのを思い出す。
 まず立っているだけで、ある種の雰囲気を持っているモーガン・フリーマンみたいな人物を呼んでくる。当然ながら、彼は彼なりの演技をする。
  そのパーツを「物語」という名の前後のフィルムと繋ぎ合わせて、本当にそこに居るような『元ボクサーで事故で引退したジムの下働きの男』を作り出すわけである。この辺の計算というかプログラムが、ハリウッド産の良くできた映画は、みんな冴え渡っている。
 ヒラリー・スワンク演ずるマギーがウエイトレスの仕事をしながら客の食べ残しをチョロまかすシーンとか、小さなエピソードと言うよりも、マギーを生きた人物として描く為に必要不可欠なパーツみたいな感じで撮れているのが凄い。勿論、被写体としてのヒラリー・スワンクの演技も凄いんだけど。
 まあこんな感じで色々な意味で良くできた作品なんだけれどchikaにしてみれば世間一般に言われるほど、感動的でも重たい作品でもなかった。
 それは家族の絆と尊厳死を扱った映画として「ミリオンダラー・ベイビー」がカチっとまとまり過ぎているからなんだろう。この印象は邦画で言うと「半落ち」の感覚に似てるなと思った。
  尊厳死とかの重たいテーマを観客側に一方的に投げつけて終わりという半端で甘っちょろい映画も困るのだけれど、逆に映画としてテーマをこざっぱりと収束されても物足りなさが残るのだ。

 クリント・イーストウッド演じるダンには過去の経緯の中で、どうしても会ってもらえない実の娘がいるようだ。
 その娘への思いと、名トレーナーとしての誇りやボクシングへの愛情の間に挟まるような形で、最初、マギーが登場する。しかし途中からはマギーという人物自身にダンが心を開かれて彼女を一流のボクサーに育て上げていく。
 ・・の筈なんだけれど、マギーを一人の人間として認めながら接していく内に、ダンの中には、何か非常に「濃い」情感が産まれて来るんですよね。例えばマギーの家族に対面して、母親想いの娘に対する母親の薄情さにいたたまれない憤りを感じたり、、。
 これはダンがマギーに『モ・クシュラ』と書いたガウンをプレゼントするあたりから顕著になる。『モ・クシュラ』の意味を聞きたがるマギーに「その答えはお前がチャンピオンになってからだ」と引き延ばしにかかるダン。
 色々あって(ここはネタばれ)最後にダンは、マギーに『モ・クシュラ』とは「愛する人よ、私の血よ。」という意味だと教える辺りで畳みかけるように尊厳死テーマが被ってくる。
 上手いなと言うか、この辺りから、イーストウッドの思惑が、マギーの放つフックパンチみたいにどすんと内蔵に効いてます。
 けれどそのままエンディングに持っていかないで、ちゃんと映画として渋く収束させるのがイーストウッド。この人、年齢を重ねて俳優として渋くなっただけじゃないんですね、。
 ボクシングジムのお荷物でしかなく挙げ句の果ては虐められてジムを飛び出ていった居候練習生デンジャーが再びジムに戻って来る結末でこの映画はおわります。
 まるでどんな苦しみも時が解決するのだ。だからこそ今この時を、矛盾をはらみながらも『モ・クシュラ』と共に歩めと言わんばかりに、。
 
PS 前は性同一障害の女性を演じ今度はボクサーで主演女優賞を取ったヒラリー・スワンク。やっぱただ者ではないですね。男って言っちゃ悪いですが年取って「渋く成長」するか怪優路線を歩むしかないんだけど、そこんとこが女性の可能性なのかなぁ。

 



I saw a movie.
ラストサムライ

監督: エドワード・ズウィック

実はこの人が一番、力入っていたような、、

 chikaが時代劇で「うーん」と納得させられた映画は、黒沢明監督とかの大御所の作品ではなくて実は斎藤光正監督の「戦国自衛隊」なのである。
 演習訓練のため集合地点に到着した昭和自衛隊1個小隊が、時空の歪みに遭遇し、突如タイムスリップして戦国時代に放り込まれてしまうと言うお話。(原作は半村良氏)
 もう一度、時空に歪みを起こして昭和の時代に戻ろうと、彼らは歴史を変える行動に出る。彼らが目論んだ行動とは、戦国の世で天下取りに参戦し、勝利することなのだが、、。
 近代兵器と言う圧倒的な火力を誇る自衛隊員達、戦国の世に置いては「武神」のような存在である筈なのだが、平和ボケの日本から来たが故に彼らは赤子のごとくひ弱なのである。例えば、戦国武将が日本刀で相手を斬首する光景に出くわした自衛隊員などは、その場でゲロをはいてしまう。
 かと思えば戦車が日本刀を持った侍にいとも簡単に破壊されてしまうし、、つまり命の駆け引きに対して、、昭和自衛隊員はあまりにも脆弱だったという事である。
 この映画。見方を変えれば異文化衝突テーマと言っても良いと思う。

 そしてここに異文化の出会いを描いた時代劇がもう一つ誕生した。「渡辺謙アカデミー賞受賞か?」という話題が先行した感のある『ラストサムライ』である。
 chikaはこの映画を見ながら遠藤周作の「沈黙」の事をずっと考えていた。
 『ラストサムライ』を「沈黙」に置き換えると、「沈黙」の主人公である宣教師が夢見ていた「黄金の国、日本」が『ラストサムライ』で描かれており、主人公オルグレンはキリスト教弾圧前の幸せに満ちた宣教師の立場を生きている事になる。
 chikaはこのレビューを書く前に、ファーストインプレッションとして自分の日記にこんな事を書いた。

 「ラストサムライ」ってどうなんなんだろう?あれは東洋思想と西洋思想の補完を描いた映画なのかしらん?そうだとすれば随分、昔流行ったトレンドだよね〜。だって今のニッポンなんて、どこにも「サムライ」も「礼節を心得た民」もいないもの。 今のニッポンって「日本人」とは違う民族だからね。「ラストサムライ」見て今の自分のライフスタイル見つめ直した人多かったんじゃないかな〜。中島みゆきの歌に「盆と正月だけ真人間に帰る私たち」って内容のがあるけどそんな感じだね。ガイジンの勘違いで逆に気付かされるワタシタチって一体なんだろう?
 でもさ、インディアン(アメリカ先住民)とサムライをリンクさせて見せる思考パターンも、よーく考えると問題あるんでないかい?この辺りは、SMfの映画レビューでじっくり語ってみるつもり。


 まあこんな感じである。で今、振り返ってみると『ラストサムライ』を見ている間中、「沈黙」が気になっていた理由が判った。それは映画の主人公オルグレンが、自分のかって犯したアメリカ先住民に対する大虐殺のトラウマを常に引きずりながら、日本という異文化と出会うという構図に、「沈黙」との類似点を見いだしていたのだ。
 もっとも結果は遠藤周作の「沈黙」とは大きく異なって、主人公オルグレンはこの異文化との出会いによって癒されてしまうわけだが、、、ちょっと考えてみれば、例え『ラストサムライ』のような状況設定であっても、こんな結末などあり得ないのはすぐにわかる。
 だってオルグレンは自らが犯した虐殺という行為を、武士道という思考作法に乗っかって価値転換し丸飲みしちゃっただけの話で、アメリカ帰還兵の「ベトナムショック」の例を上げるまでもないと思うが、実際にはこんなお目出度い人間はいない。
 その材料に日本の侍魂を使ったのは、娯楽映画としては成り立つけれど、脚本の精度としてはかなりいい加減だとしか言いようがないと思う。
 勿論、エドワード・ズウィックはこんな考え方など、ただのいちゃもんとしかとらないだろうし、映画人としてはそれで正解だろうと思うんだけれど。

 ただちょっと気がかりなのは、ここで描かれる侍魂を礼賛する感覚が不思議な事に、ハリウッドにも日本にも散在するという事である。
 それは「ラストサムライ」で描かれるサムライ魂は、我々の時代が要求している架空の「侍魂」だからだろう。おそらく日本人なら同じ時代劇でも「たそがれ清兵衛」に登場する侍たちのサラリーマン振りが史実に近いことは直感的に判るはずだ。
 この架空の「侍魂」への礼賛は、「肯定されるべき殺人行為」がありうる事、あるいは高度な「殺人への正当化」を、何処かで日米のワタシタチが求めているから起こるのではないかと思うのである。
 ・・・ついでに言っておくとchikaがこの映画を見ている時に思い出した作品が「沈黙」以外に実はもう一つあって、それはなんと荻窪君主演の「白い侠気」なのだ。
 「白い侠気」も、超越者からの「許可」が下りるのを待っている若者達(我々)の姿を描いている。この世界の総てのしがらみを断ち切り、己の純粋さを貫く為には他者を殺してもよいという超越者からの絶対的な「許可」の声を待ち望んでいる。
 だがそんなものは何処にもないのである。良い意味でも悪い意味でも、そんなものはない、と言い切ったのが遠藤周作の「沈黙」なのではないかと思う。
 そして楽天的にも、オルグレンに対して「許可」の声を放ったのが、『ラストサムライ』に見られるハリウッド産の「偽侍魂」という所なのだろうか。



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アンダーワールド

監督:レン・ワイズマン

 
 ラバーフェチのchikaは、マトリックス・トリニティのPVC衣装に欲求不満を募らせ、このアンダーワールドで今度こそと思ったにも関わらず、、またまた空振りしてしまったのだった。
 主役のケイト・ベッキンセールは、不思議な事に、完全なラバーコスチュームというかフェテッシュ雑誌モデルそのものの格好をしてるのにちっともエロくないのだ。
(ファッションに重点を置いたラバーフェチビデオにもそんなのがあるよ。健康的とはとても言い難いんだけど、格好いいだけで官能性0みたいなやつ。) 
 それは彼女のクールな美貌によるものか、やや少年じみた華奢な身体のせいか、、。
 まあそれを言うならラバーフェチという視点を抜いても、彼女が演じるヴァンパイア女戦死・セリーンと人間マイケルの恋愛行動総てがあっさりしすぎなんだから、全体的に薄味の映画なのかも知れないね。「第一、あんな軽い挨拶程度のキッスしかしない恋愛の為に、セリーンは種族内の様々な掟を破れるんだろうか。」とか色んな事を考えちゃうわけよ。
 それと「走る」「飛び降りる」「着地する」だけがやけに目立つアクションもものたりない。この辺りの格好良さはCGを上手く取り込んだ第一作目の「バットマン」の方がずっと早くて派手だったもの。
 その代わりに、女の細腕でも全然射出反動のない?サブマシンガンを滅多やたらに撃ちまくるのを「アクション」と言うなら仕方ないけどさ、、。でもそれを全面に打ち出すとあまりヴァンパイアという主人公の超人性は感じられなくなるよね。
 銃器の多用は、狼男や吸血鬼存在を単なるモンスターではなく「人間の変異体」に設定したいという思いの現れなんだろうけど、それにしても両者があまりに弱すぎ。
 不死者と言う割には狼男もヴァンパイアもいともあっさり殺されるしね。狼男だって、銀の弾以外だったら死なない場面を、ちょっとでも挿入しとくとかさ。工夫があると思うんだよね。
 全編を通じて良い雰囲気をキープしてるし、一つ一つのディテールも悪くないのに、何とも煮え切らない映画になってしまったアンダーワールド。続編があるみたいにも見えるので次に期待という事で。今回はこれにて打ち止め。
(でも次回作のコスチュームがラバー以外のものだったら多分みないだろうな〜。)



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リベリオン

監督: カート・ウィマー

 お買い得感と言うか「拾いモノ」って感じのする映画ってあるよね〜。SFで言うと『ガタカ』とか、、このリベリオンもそう。テーマはブラッドベリの『華氏451』そのままだし、話の展開もなんの捻りもなくて直球、世界観もしかり、それでもしっかり作ってあるしエンターテインメントを意識している所が偉い。
 まあ感情を抑制して「平和」を維持している世界の象徴“クラリック”の主人公がやがて「感情」を取り戻していく過程を描くのは当たり前として、その彼を目の敵にする同僚“クラリック”が功名心だとか出世欲の塊だったりするし、副総統も支配欲持ってるし、すぐに切れるなんていうお間抜けな設定であったりするのがご愛敬だけどね。(言い換えると完全に感情を抑制しきったキャラをいくら並べても「映画」になんないという事だろうね)
 そしてこの映画の最大の売りはカンフーとガンアクションを組み合わせたガン=カタ。このアクションの最後が歌舞伎の見えきりみたくピタッと決まる(決まり過ぎて見ている方が恥ずかしい)のが嬉しい。まあ映画前半のガン=カタは「相手の射撃特性と弾道を読み切って、己の体術に組み入れた射撃で対抗すれば、弾には当たらず最大の攻撃効率を上げられる」という夢のようなガン=カタ理論通りのアクションだから「おいおいあんた、もう蜂の巣になってるよ」っていうタイミングでも主人公は、バリバリ敵をやっつけまくっていて「無茶やな〜」って感じはしないでもない。
 それでも最後の敵キャラである副総統(どうやらこの人物がガン=カタの創始者でもあるらっしい)との直接対決は「目から鱗」もん。だって接近戦の組み手をこの二人が展開するんだけど、その手の先にはしっかりハンドガンが握られていて、お互いの耳元でセミオートで連射してんだもん。(普通、この時点で耳聞こえなくなると思うけど、、)
 でもこの最後の展開(頂上決戦)ってブルース・リーの映画のパクリじゃん。結局、この映画、今までの映画の「良いとこ取り」をしてるだけなんだけど、それを綺麗で素直なストーリー展開とガン=カタという薬味で上手くまとめ上げてあるってことなのかな。

PS 主人公の「感情」を完全に目覚めさせるきっかけになったヒロインのエミリー・ワトソンなんだけど『レッド・ドラゴン』の含めて「こんな女に惚れるか、、」っていう感じがあるのよね。勿論、実生活じゃそんな事はいくらでもあるんだけど、映画の中じゃあってはならない配役だと思うんだけどね。だってヒーローが純愛を守りきる相手がただの叔母ちゃんじゃ見てる方だって感情移入できないもん。



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ミスティック・リバー

監督: クリント・イーストウッドー

 「十一歳のある日、三人の少年たちはある事件に出遭う。そして二十五年後、若い娘が非業の死を遂げる。被害者の父として、担当の刑事として、そして容疑者として……成長した三人を待ち受けていた運命とは?」原作小説(デニス・ルヘイン)の紹介文より。

 この映画のラストシーンで、ショーン刑事(ケビン・ベーコン)が、被害者の父親ジミー(ショーン・ペン)を、人差し指で撃ってみせる場面をどう解釈すればよいのか?未だに落ち着かない気分でいる。
 ショーンは刑事として「次はお前の番だ」と言ったのか、それとも幼なじみのジミーに対して「見逃してやるからこれから上手くやって行けよ」という合図を発したのか。
 原作小説によると「お前を逮捕してやる」の意味らしいのだが、この映画では二人の微妙な表情からそのどちらとも受け止められるように出来ている。
 ただし「ミスティック・リバー」はよく見受けられる「判断は観客にまかせる」という問いかけ型映画ではない。 、、このラストシーンはそれ自身が一つの主張でありうるような実に微妙な意味を持っているのだ。
 イーストウッドは、観客にジミーの今後の人生に対するジャッジメントをさせる事よりも、「人生はその分岐点においてあらゆる可能性を常に孕みながらも、通過してみれば、その選択がさけようもなかった事実の連続にしか過ぎない」事を苦い思いで提示したかったのかも知れない。
 さらにデイブの抱えている不安や虚無感が、過剰でないティム・ロビンスの渋い演技のお陰で、腹にじんわりと響いてくるのもこの映画の特徴だろう。
 ショーン・ペンの演技のすごさは言うまでもないが、これは「演技しよう」と思えば「演技できる」範囲にあるような気がする。ティム・ロビンスのゆっくりとした足取り、少し斜めにに傾いだ背中。デイブの愚鈍の本質が繊細な鋭さを自らすり潰していった結果だと体現出来るティム・ロビンスがより凄いのだ。
 ショーン・デイブ・ジミー、当分に切り分けられた3者の中の一人として描かれたデイブだから、彼の内面についての突っ込んだ描写はない。しかしながら彼が自分の妻に「自分もモンスターになってしまった」と語るシーンなどは、この映画の一見フラットな表面の下に、どれほどの深さが秘められているかが垣間見えて極めて興味深い。
 もっとも嫌悪している筈の少年売春の通りに自ら足を運び、少年のフェラチオ場面を見て逆上し、買春男を撲殺してしまうデイブの姿の黙示的なこと。
 この映画の最も重要な部分は、登場人物の3人が誰でもデイブの立場に成り得た筈なのに、実際には彼らはそれぞれ別の傷を抱えながらも、三人三様のまま彼らの人生が決して交差せず、殺害という行為をはさんでさえ平行のままに進んでいくという事実だ。
 まさに「ミスティック・リバー」である。そしてこの川底に一番最初に沈められたのがデイブという事になるのだろうか?
 もっともイーストウッドはデイブ自らに「自分は既に死んでいる」と語らせているのだが。苦い映画である。
 



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バットマン ビギンズ

監督: クリストファー・ノーラン

 期待に胸を膨らませて劇場に出かけた「バットマンビギンズ」。だってバットマン様はchikaが抱かれたい男のナンバーワンなんだもの。でもビギンズはティム・バートン版の一作目のリテイクって感じでバートン贔屓のchikaにすれば微妙な作品なのよねぇ。
 確かバートン版では少年ブルースの目の前で両親を殺害したのはジャック・ニコルソン扮する「ジョーカー」だった筈で、貧富の差とか構造的な「悪」に対する視点よりも、どの人間の心の中にもある「闇」そのものへのアプローチが大きかったような気がする。
 それに対しノーラン版ではブルースの両親を殺したのはどこにでもいる貧しい犯罪者で、尚かつダークヒーロー・バットマンのスタート地点が、自分の両親を殺したこの犯罪者に復讐をしそこねた所にあるっていうのが、新機軸なわけで、、。
 もっともこういった視点自体はそれほど斬新なわけではなく、ダーティハリーだってそうだったし、ハードボイルド小説なんてみんなそうなのだ。
 ただ娯楽映画の主人公に、更に言えばアメリカンコミックを映画化したキャラクターにどれぐらい「現実的な陰影をつけられる」かという塩梅というか課題がある筈で、ライミ監督の「スパイダーマン」の成功があっての「ビギンズ」だといえなくもないと思う。(そ言えばスパイダーマンの彼女はマスクの下の素顔を知っているし、ノーラン版バットマンもそんなに仮面性に拘っていないのも共通してるなぁ、、、マスクの重要性より「正義」とうテーマ比重が大きいんだろうな)
 ビギンズを制作中、ノーラン監督のかけ声は「リアルにいこう、リアルにいこう」というものだったらしいが、バットマンスーツやバットモービルなんかの成り立ちを見てると、それもありかと思わせてくれるし、なによりも何故、バットマンが「ゴッサムシティの正義」に固執するかも説明してくれているので監督の言う「リアル」がある程度、腑に落ちて嬉しくもある。
 形状記憶繊維のマントでパラグライダーのごとく飛ぶシーンはちょっとやりすぎだけど、大コンツェルンの御曹司なら手に入りそうなハイテク玩具と個人的な肉体鍛錬を巧く融合して「バットマン」のリアルを作り出してくれた事に感謝すべきだろう。ちょっと残念なのが「敵に恐怖を植え付けるバットマン」の演出の為なのだろうけど、アクションシーンが何がなんだか判らないってのはマイナス。それに修行の山がチベットだったり、修得する武術が忍術だったりする東洋趣味は合いも代わらずだし、変な東洋人(本編だとラーズ・アル・グール)を酒のあて程度に登場させるのはハリウッドの伝統なのかしら。
 だってブルースとずっと色々な意味で対峙していくのは、白人であるデュカード(リーアム・ニーソン)だし、このデュカード、、全然、ラーズ・アル・グールとの接点が感じられないんだもの。
 とりあえず渡辺謙さんについては、日本のマスコミが映画封切り後、ぴたっと取り扱いトーンを下げたのは正解じゃないかなと思う。あんまり騒ぐとかえって渡辺謙さんがかわいそうだよ。あれじゃね。映画自体は・・・なんだか「渡辺謙」の起用って、ハリウッド映画の日本に対するリップサービスちゅーか経営戦略の一環にしか思えないもの。
PS クリスチャン・ベールのバットマンって不思議な清潔感ってゆーのかストイックさが感じられてなかなか良かったけど、chikaが気になって仕方がなかったのがクレイン博士役をやってたキリアン・マーフィ。この人の顔って綺麗にメイクしたらそうとうの美女、しかも官能系になるな〜って。うーんここのままでもしゃぶるの巧そうだし。





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