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I saw a movie10 ケント。私は待ってる! |
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マトリックス レボリューションズ
監督:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー
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「マトリックス」の第一部を見た時には、この映画「カルト」的な要素はほとんどなかったように思う。脚本の「???」な部分は、単なる演出上の味付けであり、あくまでもこの映画はSFXアクションの至高を目指すものだった筈だ。そして映画全体を覆い尽くす、ラリー・ウォシャウスキー監督自身の個人的な嗜好であるフェチ追求。 ところが、いつ路線を変更したのか、「リローデッド」を経て最終章では「マトリックス」の中の「???」部分は、主人公ネオとエージェント・スミスの対立を軸に、預言者オラクルとの禅問答的な会話時間の露出度の増大とともにが長くなり、一端のカルト映画に成長してしまった。 でもカラード優勢のザイオンの中にあって何故白人のネオが救世主なのかとか。カルト映画になりおおせる為には「マトリックス」は、あまりにも「世俗的通俗的」な部分が強い映画なのではないかと思う。 まあそれでも「マトリックス」を「哲学的」に楽しみたい人はWeb上にディープな映画評が散見されるので、そちらを利用するのも一つだろう。 近緒がマトリックスで注目するのはただ一つ、この映画に登場し続けたフェチシーンである。トリニティに代表されるラバー系ファッションだとか、果てはメロビンジアンのフェチパーティ会場シーンだとかTWINS(ツインズ)のビザールなコスチュームコンセプトだとか(嗚呼きりがない)、ラリー・ウォシャウスキー監督、自分の個人的な趣味を全面展開して来たのではないかと思う。最近の映画で「マトリックス」の変態度に匹敵するのは「セル」ぐらいのものだろう。 だから近緒的にはラリー・ウォシャウスキー監督にフェチ系AVビデオと実写ドラゴンボールを2本撮ってもらえば、それでいいのではないかと不謹慎な事を思っているのである。もっとも「女優」キアヌがそのAVに出演してくれればの話だけど。 |
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高村薫 講談社文庫
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「高村薫の『マークスの山』を読み始めているが、猛烈に面白い。」と日記に書いてから四・五日後に本書を読み終えた。 初めはバッグに忍ばせて置いたものを仕事の合間に、後にはベッドに持ち込んで本格的に読み込み始めた。 先を知りたくて、そして活字を追う事自体が快感という小説を読む本来の楽しさを味わったのは久しぶりだった。 この本がベストセラーになった事も映画化された事も勿論知っているし、その頃の賛辞の熱狂ぶりがちょっと尋常なものではなかった印象があったが、、。さもありなんである。この本は確かに図抜けて面白い。 その時々のベストセラー本、騒がれれば騒がれる程読まないというへそ曲がりな自分の習性に今回ばかりは冷や汗をかいた。このような読む楽しさを体験せずして見逃してしまう可能性だってあったからだ。 なぜこの本がこんなに面白いのか思いつくままに列挙しておこう。 人物の苦い心理描写に共感できる。これはこの小説の本質であるかも知れない。警察官である合田が、リアリティを大切にする警察小説の中でも、例外的に魅力的に描かれるのは、彼が小説の主人公である限りには仕方がないのだが、それでも高村薫の凄い所は合田が主人公らしからぬ凡庸なミスを犯して苦しみ、疲れ果て摩耗し、真理追究と保身の狭間で汲々とする様を描き尽くす部分だ。 次に矛盾した言い方だが高村薫が女性作家であると言うことの魅力がある。 世の中には面白い本が山とある。楽しい。次は高木薫の何を読もう。 |
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世界五都市(ロス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキ)のタクシードライバーが主役の小編オムニバス。ウイノナ・ライダーばかりがこの映画の前に出てしまうのはどうかとは思う(私もミーハー気分で映画を見ている人間だから偉そうには言えないけれど、)彼女はオムニバスの一番最初に登場するし、確かに彼女の可愛らしさは特筆ものだけどストーリー自体はイマイチの出来の一編だから。これで止められちゃうと後の4編が可愛そう。 先ずは(ロス)から。「シット!!」で出会った新人発掘エイジェントの遣り手おばさんと、見かけによらずきっちりした人生設計を持つタクシードライバー(ウイノナ・ライダー)の出会いと別れ。「あんた判ってんの映画スターよ。」とウィノナに声をかけるエイジェント、「いってる事は判ってるわ、それに憧れる若い女の子も大勢いるでしょうね。でも私の場合は違うのよ。」と優しく断るウゥノナ。「知ってる?ポパイのせりふよ(俺はおれだ。)」仕事編というところか。 私の一番好きなニューヨーク編、これは本当に笑える。毒気のない笑いは久しぶり。スキップするタクシーを拾う事になったヨーヨー。彼とブルックリンまでの道行きで交わされる東ドイツからやって来た新米ドライバー・ヘルムートとの会話は最高。「金は必要だが重要じゃない。」これは家族愛編にいれておこう。 私の興奮した(パリ)編。ロワーズ河岸まで盲人の女性を送ることになったアフリカ人のタクシードライバー。「俺の肌の色が判るか?」「関係ないわ。私は色を感じるのよ。アンタにはわかんないでしょうけどね。」この女性を演じるベアトリス・ダルが無茶苦茶エロチック。白目を剥きながら(というか盲人の演技)口紅を塗るシーンは鼓動が早くなるよ。生唾ゴックンの世界だね。でもまじめな部分で見ればこれはハンディ編(あえて障害者問題や人権問題とは申すまい。この映画はそういった問題をちゃんと人生のレベルの視点で撮れてる。) (ローマ)編。これは「性」がテーマかな、アハハ、、違うね、「お喋りの罪」編だね。七つの大罪には「お喋り」も入れとくべきだと思うよ、ホント。特に天才ホテル辺りを通過した時に喋り始めるベニーニのノリと言ったら最高。 そしてラスト(ヘルシンキ)編、このテーマは「不幸」そして「やっぱり朝はやってくる」かな、、。トラブル尽くしでやけ酒を煽りベロンベロンになってタクシードライバーのお陰でやっとこさ自宅まで帰りついた男の側を、朝が早い近所の男達が「お早う」と声をかけながら出勤していく。そう、こうやって、どんな「不幸」があっても「日常」は淡々と過ぎていくのだ。 このラストと、冒頭の宇宙に浮かんで自転する地球のシーンが、くるんと繋がってなかなか面白い仕掛けの映画ですよ。トム・ウェイツのエンディング曲もしみじみ聞いちゃいました。 |
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監督:三池崇史
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「ねぇあの場面さ。どうおもう、。」そんな風に映画を見終わった後からガヤガヤやれる映画が少なくなったと思いませんか。最近の映画って、みんな「計算尽くで狙って」て、「見事過ぎる」からじゃないかな。駄作は駄作なりに、その「計算」が失敗してるだけの話でね。映画の使命って「万人に均一で大量の感動やワンダー」を与える事なのかなぁ。「実験的な」と呼ばれる映画でさえも「狙った実験的」が鼻につく今日この頃。この映画は凄いです。 とにかく、見終わった後で「こんなのを見た」って言いふらしてしまいたい、という欲望がめらめらと湧くんですよ。 「みなきゃ駄目、見ろよ。」てなわけで、相手がコレを見終わった後どうか、そんな事お構いなしにね。無節操に「広めたく」なる。多分そうやって、そそのかされた人間はこれまた誰かに「見ろよ」って言ってしまうんだろうなキット。「どこそこの場所で幽霊がでるそうだぜ。」見たいな世界に近いなこれ。 新宿って不思議だねぇ、、東南アジア系の音楽かぶせるだけで異国情緒満点というのか無国籍地帯に見えるんだから。そんな中で「力の強いモノだけが居場所を得る。」「弱いモノは生きてちゃいけないのかよ〜。」「日本人のようで日本人でない、中国人のようで、中国人でない俺たちのヒーロー」etcの台詞が決まるしね。 「フライ・朱鷺・ラーメン」そしてあの横浜の中華料理の店長のトーク、鶴見辰吾の遊びよう。よくまあこれだけいたずらが思いつくなと、しかもそれを自制しないという弾けぶり、、ブラボー・べらぼーです。 だから竹内力も哀川翔も、俳優っていう扱いじゃなくてホントはそんないたずら為の人間アイテムなんじゃないかな。哀川翔のあの高い鼻声ってほんと若いアイドル系の男の子が、一瞬だけ世間様から許してもらえる声だと思うのね。そういう声の持ち主が「やくざ」系やり続けてる事自体が脅威なのね。 (でもないかニューハーフの娘達に結構暴ヤン上がりが混じってたりするから。) 近緒、哀川翔のはいてるズボンが気になって気になって、あれは一体なんなんだろうって気になって仕方がなかった。大昔のツッパリ(死語2乗)君達のお召し物の延長なのだろうか、、。フリョーの延長、哀川翔自体がそういう存在なのだけれど、映画のアップじゃ結構、年齢が顔に刻まれていて、彼の成り立ちを考えると不思議な色気さえ感じさせる、、それと同じようにあのズボンもなんだかフォーマルダンスの時にはくと結構格好よさそだし、、、。哀川翔、侮りがたし。 竹内力のコート姿もいいわよ。近緒はロングコートがぴったっと決まるのが「かっこいい」と思える人だから(マトリックスも良かったしブレードも、、ターミネーターのシュワちゃんは無骨すぎて)。コートは肩幅が広くて胸板が厚くて、脚が長い。この三拍子が必要なのよねぇ、、、。哀川翔に並んでこの人もいい、、勝新が何をやっても勝新だった、あの臭みをちゃんと引き継いでるし、第一、色ぽいんだもの。 俳優さんの話はもういいか、だってこの二人、レンタルビデオじゃ知名度高いもんね。 オープニングはもう最高。背中から銃弾をぶち込まれて、腹から先ほどまでかきこんでいたラーメンどばぁ、、のシーンでは、「なるほどねぇ、さっきのラーメンわんこそば状態のシーンはこの伏線だった訳ね。」と妙に感心すると共に、普通こんなの思いつかないよと敬礼状態。 それとこの監督、新宿系プラス変態趣味だよね。スカトロ・ゲイ・とかSM・医療プレィとかね、ホント好きなんだと思うよ。「オーディション」でも妙に石橋蓮司が主人公の娘めに折檻するシーンに尋常じゃないこだわりがあったしね。第一この映画でも「トイレでおかまのバックを責めている男の首を切って血が飛び散るシーン」ばかり話題になってるけど、よく見ると、あれってその血を浴びてる犯され男の表情の方が「いってる」みたいで凄いじゃない。 それとか石橋蓮司の甲賀瑞穂の殺害シーン、近緒あれ凄く感じちゃった、屎泥を杓子に汲んで瑞恵にもう一度掛けるシーンだとか、脚で踏みつけて糞尿プールに沈めてから「あ〜あ、又やっちゃったよ。俺。」とかね。凄いわ。結局この監督のいたずらの凄さって、このレベルで「全てを並べて」観客にだせちゃう所なんだろうな。 映画の中盤、これってこの映画を(色々な意味で)肯定的に扱う人にはあまり評判が良くないみたい。一言で行って「だるい」という事なんだけど、近緒は結構この部分も好きだな。柏谷みちすけ(この映画で大のお気に入りになっちゃた)とかダンカンだとか、風貌だけでそれらしく見える役者さんというのか、揃える者揃えたら、深みがなくってもそれなりに「暗黒小説」って感じに映画はなるものなのね。時々、竹内と哀川翔にもっと演技力があったら、、なんて馬鹿な事を思わせてしまう話運びだったりするんだよね。まあ、これは近緒が馳とか花村とかが好きなせいなんだけど。 そして衝撃の噂のラストシーン。どんな名作映画のラストシーンの印象が薄れようがこれだけは記憶に印刻されたまま少なくとも十年は残るだろうね。まあこれについてはWebサイトを検索してみて。近緒はこのシーンについてのコメントはパスだわん。 PS 近緒が読んだことがあって凄く怖い目をさせられた時代劇の劇画があるのよね(多分、平田弘史だと思う。)。DOAのラストシーンで、哀川翔や竹内力が死の直前で踏ん張る部分があるんだけど、その劇画の事を思い出しちゃった。多分、劇画では武士かなんかが拷問されたり怨念どろどろの果たし合いをしたりの場面が延々と続く話なのね。それで腕はなくなる、脚はなくなる、でも数年すると信じられないような工夫をしてリターンマッチをやるわけ、それでまた残った身体の部位が破損されて、またそれを、、怖くて怖くて、、その劇画を思い出した。幸いDOAは実にあっけからんと終わっちゃうんだけど、インパクトはあの劇画にとってもよく似てたなぁ。 |
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「シャドウ・オーキッド」
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自分と良く似た世界を展開されるプロの作家に対して、近緒は物書きの端くれとして、嫉妬を感じる時がある。中でも一番強くそれを感じるのは牧野修氏に対してだ。 フェチ傾向・変態ベクトルが同じでも、、筆力などが比べものにならないので、この嫉妬、タチが悪いのだが。 柾氏の作品については昔、近緒がまだSFマガジンを愛読していた頃にすこし読んだ事があって、バーチャルとリアルの間での性トランスをセンシュアルに書ける作家さんなんだなという印象があった。 (ヴィーナス・シティという世間的にも評価が高い傑作があるのだがそちらは読んでいない。)自分と近い世界を描く人だけど、こちらに焼け付くような嫉妬感を抱かせる感性を持つ人じゃない、というのがその時の印象だった。それ以降、柾氏の作品を特に注視するという事はなかった。 (それに活字中毒まで行かない読み手には、手に取る本というものには「縁」というものがあって、いくら自分の好きな範疇の本でもその「縁」がない時は読まないものである。) 所がある日、Web界で(広義の意味で)トランスものに対する深い蘊蓄をもたれるHさんが、柾氏の「シャドウ・オーキッド」をやや興奮気味に紹介をされていたのを発見し、これは是非という感じで本書を手にしたのである。 お話自体は、収監した生徒を強制女装で去勢してしまう少年院まがいの私立学園をステージに、そこに君臨する生徒会長と、学園に送り込まれた一人の少年の冒険ラブロマンス物語である。無線で遠隔制御出来るアヌスリングなどといった小道具が登場したりで、その世界観だけで充分、自ら成り立ってしまう物語でもある。 だがそれは物語の外縁の話だ。「これから惑星ウリナスに送り込まれたSM嬢の波乱に満ちた一生を書きます」と言うだけでは、物語は命を持たない。 近緒思うに、エロチックな文章を書く場合には、どの作家の中にもコアになる「変態」が存在(もう少し優しく言うとその作家が好きなシチュエーション)しそれが創作のエネルギー源になるのだと思う。 、、どうやら柾氏のコアは、絶世の美女に仕立て上げられた元「男」に、ビデオ等で彼女の過去の姿を見せつけながら、アナルやペニスを責め立てる部分に集約されるようだ。 「内なる男性」が自分の「外なる女性」に欲情する構造、、「いやん、あの時の私の姿を見せないでぇ。興奮しちゃぅ、」みたいな、、ね。 これは女装というかTV(トランベスタイト)感覚の本質をかなり旨く刺激するシチュエーションエンジンだと思う。 これは美味しい。読者はこれを味わいたくてテキストを読むのだ。 (本書の83ページのひろき真冬のイラストも秀逸、彫りの深い男性的な男の顔こそ、化粧に良く映え美女になる事を良く表している。実はこういうショットは外国のTVを扱った写真によく登場するのだが、そこにある隠された意味をくみ取ってイラストにするのはなかなか難しいものなのだ。ゴッホ今泉などは、その部分を最大限拡張して見せるイラストを描くが、、。) 逆に近緒は、こういった作品に、後から付加されたようなジェンダー論は好きではないし、重要でもないと思っている。例えば作品中に繰り返される「宙吊り」であるとか「女社会にはめ込んでしまう」とか言った、、一見その事自体に社会的な価値があるように見えるアイテムなんかがそうだ。 こういったものが職業作家の作品がメディアに乗っかる為に、免罪符のような役割を果たすのは良く判るが、書き手自身はそのアイテムから発生するものを、己の作品の主なテーマとするのか、あくまで飾りで済ますのか、あるいは次の大テーマをブーストする為にそれが必要なのかぐらいは整理しておいた方がいいような気がする。 自分が快感を感じる為に好きな事を書きたいんなら、思い切り書けばいいのであって、変に作品中に「形」を作ろうとするから、読み手はその形を追ってしまうし、一方作家はそっちを本気で書いてはいないから、結果として作品の構成自体が散漫になるのだと思う。 例えば本書で言うと「姫」こと岡村静夫は、物語の終盤近くで、作者の脳内で完全に女性になってしまっていて「男が強制的に女に変化させられている」という倒錯感が全然なくなってしまう。つまりジェンダーの「たわみ」で感じるエロスが、物語の展開上、作品の途中で蒸発してしまって、最後は単純な冒険ラブロマンス話になってしまっていると言うことだ。 同じように、物語途中で雅彦を裏切るしのぶは、最初「宙吊り」に引き込まれながらもぎりぎりの所で抵抗している「少年の純粋さ」を表すシンボルとして、旨く描写されているのに、これ又、話の展開上、単純な「嫉妬する少女」になってしまい最後の最後のエンディングでは、完全に主人公に惚れた只の「女の子」として描かれるのである。 これでは本書の文章量の四分の三を割り当てた耽美も倒錯も(あるとするならジェンダーテーマも)全てが凡庸なものに置き換わってしまう。 勿論、好きな事だけ、己のテンションに任せて、ただ書いていけばどうなるかという見本は(特に「変態」ものについては)Web上に山のようにある。それらの多くは、一回は読めても、二回同じものは読めはしないのだ。それらのテキストは読者に免罪符を持たせようと配慮されていないし、その本質があまりに個人的な、あまりに強烈な欲望の固まりに過ぎないからである。 が、近緒はそういったテキストの中にこそ新しい文学の可能性があると信じている。沼正三の「家畜人ヤプー」などはある意味、「変態」が昇華された凄い作品なのではないかと思う。 「シャドウ・オーキッド」はTV小説としても十分に面白いと思う。しかし近緒がこの作品と作者に「嫉妬」を感じないのは、己の個人的な「欲望」に、作品を賭けていく苛烈さを感じないからだろう。 PS それにしても形を失ってしまう原形質のドロドロ女のイメージは、何故こんなに何度も色々な作品に繰り返し顕れるのだろうか。しかも大抵は溶けているのは女であり、それに包まれるのは男である。逆は殆どない。つまりこれは男性原理に基づいた性ファンタジーシンボルという事なのだろうか。 それはさておき、柾氏はこの「ドロドロ」をラバースーツの肌の中に密封しておき、とりあえずは女性の形を残しておくという発想を見せてくれている。これはラバリスト達の、ラバースーツに感じるフェチの一要素を良く理解している者でないと組み立てられない発想だと思う。フェチに限らず、この辺りの発想の軽やかさが柾氏の才能なのかも知れない。 |
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監督&脚本&美術/ヤン・シュワンクマイエル
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彼らの発明品 エロ本を立ち読みする一人の男、「ただ読みはいけねぇよ。」とじろりと睨む店の親父。ここからストーリーは延々と「絶頂」を迎える為の狂気の準備期間を映し出していく。前半、映画はフロイト流の象徴行為のオンパレード。フェチ行為なんて他人から見ればなんの意味もないのに、それをじっとこちらに見つめさせるあくどさ。途中でこれはホラーかミステリー映画なんじゃないかと錯覚してしまう。しかしオナニーマシーン作りに没頭する夫の妻がテーブルの下に隠した鯉の青光りする肌を愛撫するシーンは美しく思わずドキっとさせられる。これが終盤の、テレビ撮影中に鯉のサッキングでもだえるシーンに繋がっていくのだけれど、、。6人のメンバーがフェチの対象を最後に「取り替える」落ちも目眩がしそうで洒落てる。この監督さん、チェコのアート・アニメ界の巨匠にしてシュールレアリストとして有名なんだそうです。この映画の前半は、その経歴がどんな意味を持つのか判らなかったんだけれど、後半は思わずうなってしまいました。特に血しぶきの代わりに干し藁が飛び散るSMシーンはある意味、本当に怖いですよ。 |
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監督&脚本&美術/ブラザーズ・クエイ
(スティーブ・クエイ/ティム・クエイ)
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収録作品 「レオシュ・ヤナーチェク」27分 「ストリート・オブ・クロコダイル」の原作はポーランドのカフカと呼ばれるブルーノ・シュルツだそうだ。そしてクエイ兄弟の師は先に紹介したヤン・シュワンクマイエル。それにしても驚異的なSFXが潤沢に映像世界に持ち込まれる現代でも、ブラザーズ・クエイのイマジネーションの広がりは決して色褪せて見えない。結局、技術は人間の闇を越えられないということなのだろうが、、。皆さん一度、この作品をご覧アレ。感性豊かな皆さんならきっとナチュラルトリップしますよ。 PS冒頭の「レオシュ・ヤナーチェク」はイライラするけど我慢してね。でもビデオの早送りは駄目よ。これは実に緩やかな助走の役目を果たすのだから、、。ね。ゆっくりお腹の力を抜いて、息を浅く静かに、、、するとね。 闇の中、光の釣り糸で釣り上げたモノ 磨りガラスの向こうに揺らめく人影 |
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「オープニングで魅せる映画はほぼ当たり」私はこの格言をほぼ信用している。真俯瞰のカットからグングン視線が底に向かって降りて行き、その先にはクローゼットの中で「縛られた女」が横たわる。ウォシャウスキー兄弟の衝撃的な監督デビュー作(96米)である。斬新なくせに普遍的な視線はマトリックスと同じ。仮釈放中のレズビアン(ジーナ・ガーション)コーキーとマフィアのマネー・ローンダラー、シーザーの情婦ヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)は、エレベーターの密室の中でお互いの「性」を知る。激しいセックスの後、ヴァイオレットはシーザーがボスから預かっている200万ドルを奪う計画をコーキーに持ちかけオンナ二人の巧妙な罠は仕掛けられる。お後は見てのお楽しみという事なんだけど、肝心の「お後」の方が私には面白いのかどうか判らなかった。確かに彼女たちが仕掛けた罠に対するシーザーの予測不可能な反応にヴァイオレットが強かに対応していく部分は面白いんだけど、前半であれほどつぎ込んでおいたコーキーの魅力は後半では少しも出てこない。まあそれでも魅力的な映画だったけれど、、。コーキーのレザージャンパー、ヴァィオレットのレザーのハーフスーツ。コーキーの錨の浮かんだワーキングブーツとヴァィオレトの黒いマニキュア。女同士の誘惑の駆け引き。同性愛。それらがスタイリッシュな映像で作り込まれた前半のバウンドと、後半のバウンドは別物の映画なのかも知れない。もし脚本が違っていればこのコーナーで取り上げた事があるニコラ・グリフィスの「スロー・リバー」の様な形の映画に仕上がっていたかも知れないと思うと個人的にはとても残念。でも最後のシーザーを高速撮影したシーンはなるほどって唸らされた。あれだけでもウォシャウスキー兄弟は才能があるんだと感じさせられる。お勧めです。私はこのフラストレーション次の自分の作品で解消しようかな、、。最遠寺流同性愛サイバーパンク小説なんかどうだろう。 | |||
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あまりのチープさにぶっ飛ぶ。CGとBG(マイケル・バータ)はかなりの水準なのに、死にそうなパワードスーツや役者の台詞まわし(特に中野D児みたいな人、あんたなんなんだ?)。お腹が痛くなりそう。 でも面白い。この面白さはどこから来るんだろう。昔から下品で安い食べ物は美味しいって決まってるものね。「ホルモン」だとか「洋食」だとかね。ああコレ大阪ウケだね。(モンジャ焼きを出した方がいいのか、、。)でも中にはそんなモンでも妙に高級なものにグレードアップしたものがあるのよね。例えばたこ焼きなんて「たこ焼き懐石」なんてものもあるんだよ。それって確かに不味くはないんだけどさ、違うよね。 Dはあの下品な食べ物が「下品だから旨い」って事をよく覚えて作ってあるような気がするんだ。 主人公の川俣がコンバットスーツ着たまま手足を怪獣(ネーミングが隕石怪獣だって、ステキ)にもぎ取られる所とか、毒々しくってとてもデリシャス! それとか主人公の川俣がヤクザに取り囲まれて、振り向きもせず脇の下から拳銃の銃口を的に向けてニヤリと笑うシーンなんてまるで宍戸錠だよ。(今はジョン・ウーのダンス二丁拳銃の時代だってのに) 岡部暢哉は「D」を徹底して悪漢(はやりの暗黒)小説みたいな感じにしたいらしく、ここでヒューマニズムの発露見たいな場面にもって行きながら、必ずそれを「壊して」見せる。こう書くとニューウェーブぽいけど、なんせ下手な役者とチープな特撮だからそれがそんな風にスマートに見えない。それが気持ちいいわけ。 なんだか書けば書くほど凄い映画みたいに見えるので、気が引けちゃうけど隕石怪獣が暴れまくる歌舞伎町のシーンもホント臨場感が良く出てるんだ。ガメラもそれで騒がれてたけど、「D」の方が数段上だ。だって歌舞伎町の匂いするもん。勘違いしないでね、特別な演出や工夫を加えてる訳じゃないんだ、そのまんま歌舞伎町を撮ってるんだけどね、これ監督が新宿歌舞伎町が好きでいつもはいずり回っているとしか思えないわけ。 これSMFお勧めです。他の映画評欄だったらコレ薦めると馬鹿にされるだろうから、敢えてやっちゃう。
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「赤い航路」はその昔、ラバーフェチの人たちの間で結構(小さかったけれど)ブームになった作品なのです。それはこの映画の中でヒロインであるミミ(エマニュエル・セイナー)が、ラバー衣装を何度か身につけるシーンがあるからなんだけど、それはホンのお湿り程度の数秒のシーン、でもそういうのに飢えてる人たちにはきっと貴重だったんだろうね。(私のIsawをご覧の方なら結構フェチぽいシーンが好みだろうから、「赤い航路」でそれらが出てくる場面を中心にしてレビューを書くね。) オスカー(ピーター・コヨーテ)とミミが、通常のSEXに飽きてSMに走り始めた頃、彼らがアドルトショップにショッピングに行くシーンがあるのね。そこでミミがラバーマスク(多分そうだと思うんだけどレザーかも知れない)を被って、肌色をした極太ディルドーを振り回しながら更衣室から飛び出して薄暗い店内をはしゃぎ回るわけ。このシーンは本当に、吃驚させられた。おまけにミミはソレ風のファッションでラバーマスクから舌をチロチロと付きだし腰を淫らに振りながら踊るのね。 この映画では、二人の最初の出会いが、ダンサー志願の子供っぽいウェイトレスとパリに魅せられた売れない作家がバスの中で偶然、、という感じの結構ロマンチックな形で始まっている。その関係が、深い「男と女」のものになるにつれ、SEXの在り方も微妙に変化していくのを描いていく構成で映画は展開されるんだけど、このアダルトショップのシーンは、ミミの「奔放さ」が二人のSEXの中でかなりオスカーに大きな負荷を与えるんだろうという暗示を示す旨いシーンだと思った。 次は、オスカーが自分の原稿を出版社に売り込もうと出かける時に、同伴しょうとするミミの真っ赤なラバーワンピースを身につけるシーン。ここではオスカーが呆れるから、一応、ラバーって向こうでも一応、「服」ではなくて「淫猥」のレベルにあるんだなって妙に納得しちゃった。 それからこの映画、ラバーだけじゃなく聖水プレイまで込み込みなのね。まあ、二人のロマンチックな出会いの後半で、オスカーが「足が冷たい」というミミの為に彼女の素足の足先を揉んで愛おしげに息を吹きかけた時から、実は「それ」が始まっているのを予告してくれているんだけど。 ロマン・ポランスキーってどこか谷崎潤一郎と通底する部分があるのね。ただポランスキーはそういったエロスに何処か「祝祭」めいたものを付加したくなる傾向を持っているみたい。近緒が本当に好きなのは、オスカーがナイジェル(ヒュー・グラント)に語って聞かせるミミとの爛れたSEXや愛憎劇の回顧シーンじゃなくて、船内の年越しパーティの部分なの。オスカーの爆ぜたような態度とか、オスカーの破滅そのものに誘蛾灯に惹かれてくるようなナイジェル夫婦だとかね。それが一気に年越しパーティの騒乱の中で終末を迎えるのが「いかにも」って感じで大好き。それがなきゃ「娯楽」映画って言えないもの 。 でも考えてみたら、自分の妻の女同士の情交を観戦した後、眠りについた妻を背中から撃ったオスカーの気持ちはどんなだろうって感情移入させられるんだよね。それとか「一夜レズ」という夢から覚めてみると、そこは殺人現場だったというナイジェルの妻フィオナの気持ちとか。そういうのが客船の甲板で抱き合うナイジェル夫婦の思いの中でどうまとめられていくんだろうか?なんてね。結構ポランスキーって「愛憎ドロドロ」だけじゃなくて意外とやるのかも? PS 邦題「赤い航路」の原題は BITTER MOON。ハネムーンを皮肉っているんだそうだけど原題の方が圧倒的にいいね。あといいたかないけどミミのエマニュエル・セイナーはどうかなぁ、、ミミの「馬鹿な小悪魔から執念の女」の流転を、もし違う女優が演じていたらと思うのは近緒だけかな、、。映画の半ばでオスカーのいびり攻撃でミミが心身共に衰弱するのを演じるんだけどあれじゃゾンビだよ。それにつくづく「ゴージャス系の化粧顔、叔母さん顔と紙一重」という事実を認識させられたね。気をつけなくっちゃ。 |
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ウィレム・デフォー、彼のフリークス・妖怪ぶりは最高である。彼の演技を観る為だけに、この映画があってもいい。それにジョン・マルコヴィッチ、、最高のキンキィキャスティング!!、おまけにウド・キアーまでいる!! 時は、映画「吸血鬼ノスフェラトゥ」の撮影が準備される1922年。デカダン退廃ムードが蔓延するドイツのブレーメンで物語は始まる。ムルナウ監督(ジョン・マルコヴィッチ)は傑作を完成させるために主役ノスフェラトゥの俳優を必死で捜していた。そこに登場するのが、長い爪を乾いた振動音をたてながら神経質にすり合わせる世にも奇怪な容姿のマックス・シュレック(ウィレム・デフォー)だった。 このマックス・シュレックの、単純な怪物顔じゃないメイクがいい。時々はデフォーの顔の印象が、そのメイクから薄く浮かび上がってくる時もあるが、ほとんどの場合はマックス・シュレックというこの映画上で設定された人物「そのもの」である。これは「特殊メイク」としても「演技」としても凄いことなのじゃないだろうか? 現実は、くすんだ緑色調のリアルな画像で表され、劇中、撮影され続けるフィルムがモノクロ色で表される。 デフォーが、見事な特殊メイクによってマックス・シュレックを演じ、そして同時に本物の吸血鬼であるノスフェラトゥが、映画の中では自分の本質を隠し時代がかった「吸血鬼」を演じる。これらの2重、3重のめまいのするような重構造。 『吸血鬼ノスフェラトゥ』という映画自身とこの時代の持つ痺れるような麻薬的効果と共に、ジョン・マルコヴィッチの熱演とウィレム・デフォーのスーパー演技とが相まって陶酔の1時間半を生み出すのである。 PS 近緒は、本当に「怖い」と思える吸血鬼を初めて見た。驚異の俳優ウィレム・デフォーは、吸血鬼ノスフェラトゥに血と肉と、そして最悪な事に「性格」を与えたのだ。 |
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『π〈パイ〉』のダーレン・アロノフスキー監督最新作。ちんぴら二人組が母親の家から盗み出したテレビを売り飛ばすシーンから始まって、しばらくは彼らのヘロインがらみの話と老婆の孤独な生活の描写が続く。 他の監督の作品なら特別に違和感を感じるような出だしではないのだが、ダーレンに限っては、「この監督一体何を撮ったのだろう?」と混乱を起こしてしまう。 それほど前作のパイの奇妙なSF風味の印象が強かった訳だが、、、。この映画、見終わった後の印象は、ダーレン・アロノフスキー、実にしっかりとした映画を撮れる実力の持ち主だという事である。 皮肉な言い方をすれば、全映像中、約3分の1はこの監督らしい前衛的なカメラワークが見られるのだが、実際の所、この人にはこんなものは必要ないのだと思う。 話の内容は「きっとうまくいく」筈のことが、どんどんと裏目に(麻薬がらみなんだから裏目に出るのが当たり前なんだけど)でて、最後には総ての登場人物が破滅に向かっていくというお話。 この監督の面白い所はその「破滅への道行き」を、なんの思い入れもなしに、どんどん映像的に加速させながら撮っていくという事だ。 だがそれは「クール」というのでもない。ちゃんと麻薬中毒によって崩れていく恋人達の関係だって実にわかりやすく描いているし、孤独な老婆が麻薬中毒を「自覚」せぬままに狂っていくようすも実に丹念に描いている。 それでも彼らが「壊れていく」様は圧倒的に早く、余りにも計画通りに崩壊が進行し、作品の中に観客の「情緒」が挟まれる余地を残さないのだ。 主人公の青年が片腕を切断されて、彼を慰めようとする看護婦が「恋人を呼んで上げたから暫くまつのよ」と慰めてやる。 主人公は、ヤク中でもある恋人を自分自身が追い込んでしまっており、又、彼女が今どういう状況にいるのか予測がついているので「彼女は絶対にここに来ない」という。そしてこの映画は、脚本上で操作可能な筈のどんな奇跡も起こさず、彼女を絶対に彼の元に戻さない。 ようするに、この映画は人の生々しい現実認識を照らし合わせるようにつくられており、その分「わかりやすい」のだ。 さけられない悲劇は寸分の揺るぎもなく「さけられない」、、。あの時「こんな選択をしたら、こうはならないのに」そんな隙間が入り込むような物語ではないのだ。だから、映画を見ながら「もう助けてやって」とつぶやいてしまう、、。 でも、不思議と後味は悪くない。それはこの映画が突き抜けてしまっているからなのか、、我々みんなが「きっとうまくいかない」ルールってものが、この世界を下支えしている事を、本当は熟知しているからかも知れない。 悲しげに微笑みながら狂っていく老婆を演じるエレン・バースティンが凄い。この歳で「この役」をスクリーンの中で「演技」する事自体が驚異的だといっていいと思う。 近緒的には、主人公ハリーの恋人マリオンを演じるジェニファー・コネリーの変化が好き。ある時はヘロインをアクセサリー代わりにする才能ある若いデザイナー、ある時はハりーに首っ丈の何処にでもいそうな女の子、 、、、そしてヘロインに飲み込まれて、次々と自分の身体を男達に切り売りしていく壊れた女。不謹慎な言い方だけれど、そのどの姿も美しいのだ、、。 (誤解があると困るのだけれど、彼女の演技が凄いというのではない、、どういったらいいんだろう。こんな風に壊れていく綺麗な女の子って実際にいるよね。って感じかな。それがジェニファー・コネリーにぴったりだという事。) この映画、本当は、秘密パーティーに出かけ男達に陵辱されその見返りに得たヘロインを幸せそうに胸に抱きかかえて眠るジェニファー・コネリーの姿が一番「怖い」のかも知れない。 |
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I
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藤山寛美の娘は凄いっと言われて久しい。けれどこの人、よくよく考えて見れば映画という媒体にどうマッチングするのか?それほどの「舞台の人」なのである。そんな不安と期待のなか「顔」を見た。見終わった後の結論、決して阪本順治監督は藤山の存在感に負けていない。そうではないと思う人は藤山寛美・直美のオーラの強烈さの程を知らないのだ。 さてさて映画のほうだが、時より実験的な手法が挟まれたりするものの直球の正統派日本映画という感じで安心感がある。それに「(女性の)引きこもり・マイナー・ブス」これらの決してビジュアルでないテーマを、こんなに真正面から、しかもリアルに撮りきったのも凄いと唸らせる。(これを考えると主人公・35歳正子は、藤山直美しかいないだろう。と納得させれてしまう。) 「可哀想やね。はよ、女になり。」でスタートする正子オデッセイと彼女の目の前に広がる傷ついた人間達が織りなすワンダーランド。ここに出てくる男達はみんな何処かが欠けた人間達だから、正子の屈折した言葉「別に許してもらわんでもええよ。」に次々と共感を感じていくようだ。また、この台詞を聞いた途端、豊川悦司のやさぐれが、ちらっと正子を振り向くカットは、男の生き様を描くのが得意だといわれる監督らしいなと思わせる絶妙のタイミングだ。 そんな男の描き方に対して、この映画の中では、正子より年上の女性は全て「癒し」のシンボルとして描かれるようである。「お腹減ったらご飯食べて、遠くをみらんでいい。遠くをみてたらあたしなんてとっくに終わってる。」そう正子に泣きながら伝える大楠道代の(律子さん)は、役所と彼女の風貌がマッチングしてて最高。本当にこんなママが実在していそうだし、だとしたら正子でなくとも大楠道代ママに甘えてみたい、、。 そしてこの映画のタイトルの「顔」なんだけれど、藤山直美の顔の表情の変貌振りは凄いよ。別段、特殊メークなんかで顔ががらりと変わる訳じゃないんだけど、正子が「逃亡」を自覚し始めてから、逃げ込んだ先の世界での彼女の「顔の持つ言葉」が全て変わっていくんだから。映画の終盤あたり、どこかの島の漁村に正子は流れ着くんだけれど、その時の藤山直美のアップなどは、見ているこちらがドキリとさせれる程、純で可愛い女に仕上がっている。引きこもり時代のふてぶてしい正子の顔と全然その印象が違う。これは藤山直美の技量なのか阪本順治監督の構成の巧みさなのか、、。兎に角、見ているこちらがため息がでるほどの変貌振りである。 そしてこの映画のラストシーンは凄い。一言でいってシュール。おしゃれな訳ではないし、笑えそうで笑えないし、涙が出そうで出ないし、、わたしはこういうタコ・シュールぶりも大好き。 PS 藤山直美がすこし前屈みになって頷くのはお父さんそっくり。「生き写し」というやつです。正子が「生まれ変わっても約束して。」として迫るリストラサラリーマン佐藤浩一が相変わらずいい。佐藤浩一がいいという評価に不思議がる人もいるようだが、答えは簡単だ。男もオンナもみんな彼に抱かれたいのだと思う。佐藤浩一はそういう色気を持った人だ。それと倒産しかけのラブホテルオナー役の岸部一徳。この人の本来の持ち味が一番よく引き出されていたと思える登場の仕方だった。余談だが、彼が売り上げをごっそり持って雀荘に出かける時の言づて「震災にあったひとやったら男のカップルでも、家族でも止めたり。」は、ささやかだけど心に残る一言だった。 |
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こちらは元祖、、。
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映画「顔」で阪本順治監督をかなり好きになって、監督の作品を逆にたどって見ているんだけど、、これより先に「ビリケン」を見るべきだったかなとちょっこと後悔。 豊川悦司と真木蔵人のコンビは好きだし、何よりTVのショーケンと水谷豊の「傷だらけ」が好きだしねぇ、そういった意味ではこの映画言うことない筈なんだけど、、。 元祖「傷だらけ」の冒頭、ショーケンが牛乳飲むシーンなんかは理由もなにもなく、もう刷込まれたように近緒の心に印刻されているんだよね。あの世界を「今の時代」「今の俳優」で取り直しリニューアルってことを考えると豊川悦司と真木蔵人はキャストとしてかなりイイ線行ってるんじゃないかなぁ。 真木蔵人のプロサーファー云々っていうバックグラウンドもバタ臭い顔(ハーフだから当たり前か)も、平成ユタカにぴたり。トヨエツ(ミツル)も、みちのくプロレスのシーンで少年「蛍」の手前、無理無理で頑張っちゃう姿は確かにショーケンのりだし。 そしてミツルとユタカの関係。確か「友達以上ホモ未満」ていうキャッチコピーがあったと思うけどぴったしだね。彼らの「一緒につるんでいたい」ていう気持ちは恋愛感情にも似てるし、今つるんでいたって、それが永遠に続く訳じゃないっていう予感は、男同士の間には確かにあるしね。 父方の祖父に引き渡した「蛍」との別れの後、ユタカが「俺達もきれちゃうのかなぁ。」ってさりげなく言うシーンが、終末に結びついていく隠されたハイライトなんだろうね。ここは判る人には胸が痛くなるシーンだろうと思う。 映画「ブエノスアイレス」のウィン(レスリー・チャン)はどうしようもない悪女だったけど、ミツルは自ら身をひこうとする悪女なのかなぁ。ここ辺りが「ホモ未満」故か、、、。 ・・で、ここまで良いことばかり書いていて、それ以上この作品に惚れ込めないのは、映画自体が一本調子過ぎるからなんだよね。「蛍」との別れなんかで思い切り盛り上げて、そのあともこれでもかって感じでやろうと思えば組み立てられた筈なのに、、実際には結構「平坦」って感じで話が流れていくんですよね。 青春ロードムービーの新しい形って感じで気取ってわざと平坦にしてラストをぶつ切りにしてあるのかなぁ、、。でもその割には、結構狙ったぐっと来る場面が随所にあるわけだし、、。 結局、俳優さんに下駄を預けて、演出とか脚本・構成で仕掛けるのを控えてるみたい、、。それが乾いた感じで好もしく思える時と物足りなく感じる時に分かれてしまう訳。でもやっぱ「傷だらけ」はあざといぐらい揺さぶってくれる方がいい世界なんだよね、、。うーんこの映画、大好きだけど物足りないよー。 |
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I
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珍しく平日にお休みがとれたので映画「ザ・セル」を観に行きました。あらかじめ頭の中で想像していた手触りと全然違うので吃驚、、。一言でいって「動く外国の高級ファッション雑誌」ですね、これは。フェチな見方ならその洗練レベルに置いて<<O>>とかの雰囲気に似ていなくもない。それと映画を観ている間の感覚がどの映画とも違う。息を潜めてスクリーンを食い入るように観ているのだけど例の「スリルとサスペンスで手に汗握る」わけでもない。 強いて例えるなら美術館に展示して在るようなルネッサンス絵画やボッシュの絵が突然動き始めたら誰だってそこから目が離せないていう感じ? それぐらい圧倒的な映像美です。でもストーリー自体は目新しいものではありませんね。日本でも夢枕 獏さんがずっと以前に「魔獣狩り」あたりでサイコダイバーを確立しているし、近緒だってかなり昔にバーチャ・システムとサイコダイブを織り交ぜた世界での殺人事件もの(混沌王会議の騎士達)を書いているぐらいですから、、。 それにザ・セルのサイコキラー(スターガー)は、またまた幼児虐待のトラウマを抱えているし、例えアメリカの現実から考えてそういった設定に説得力があったとしても、もうなんだか「お約束」みたいでうんざりです。 (ターセム監督も本当はそう考えているんじゃないかなぁ、、FBI捜査官にそれらしい台詞を吐かせているし、第一、スターガーの少年時代の可愛らしさと成人してからの奇人ぶりの落差を考えると、監督はそんな辻褄なんかは本当はどうでもいいと考えてるとしか思えない。) それにサイコダイブの以外のシーンは、映画としては平坦で清潔で何も深みはないのです。これらのシーンは一応、物語の進展の為とサイコダイブシーンの「箸休め」の為にあるんだと思って下さい。、、それにしてもこの映像は凄いですね、センスの固まりというか(ホラーにだってグロにだってハイセンスはありえる!)こんなのが映画で出て、おまけにDVDなんて媒体があるんだからアート系の写真集なんてものは将来的になくなっちゃうかも知れませんね。あーそれもその筈、この監督、ミュージックビデオやCMの名手(映像美のモンスターと呼ばれているらしい!)だって。ジョン・ウーのミッション・インポッシブル2が車のCMだとするとターセムは高級コスメCMかなぁ、、。 こんな感じがするのもターセム監督のお洒落な映像美のせいなんだけど、ジェニロペのインパクトも強いな、彼女の野性的でグラマナスなスタイルは勿論だけど、あの光沢のある沈んだローズピンクの口紅に覆われた唇についつい目がすいよせられる近緒。 逆に言うと女心理学者っていう設定はどうみてもジェニロペにそぐわない。一番似合ってるなぁって思ったのは事件が一段落した後、彼女がFBI捜査官に会いに来た時のジェニロペのスタイル。いかにも下町のラテン系娘って感じで、編み目の大きいレースのケープとサンダル・あのファッションいいなぁ、、。 このレビューはここまでです。だって「羊達の沈黙+VRもの」の一言で説明は終わっちゃうし、それ以上深読みできる脚本じゃないし、、でも「映画」の一分野として充分以上に成立している。そういう映画です。見るしかないです。没入して下さい。見逃したらなら絶対ビデオじゃなくてDVDを借りましょう。 全然関係ないけど、ああ、もうすぐ「ハンニバル」の公開、、予告編を見る限りじゃこれこそ映画でないと駄目だろうな、、。 PS フェチな視点で見所はジェニロペがスターガーの心にダイブする1回目がいい。ほんと、フェテッシュファッションってお洒落というかアートに化けやすい。そしてホラーにも親和性が高いしなぁ、、。ピンヘッドもいかしてたけど、スターガーの「鉄吊り輪」もなかなか、、。 |
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原作は1963年に始まったアメリカン・コミックス(ストーリー:スタン・リー 作画:ジャック・カービー)。日本でも一時、アメコミブームが巻き起こった事があり、マイナーブーム好きの近緒も、これに乗っかった事があるのよね。たしかその時に得たXメンの記憶は、ここに描かれている世界観自体が膨大に拡張拡散しネクストジェネレーションがなんたらかんたら、、、でついていけなくなった(気力がというより、あの当時の情報量の流入の少なさ、が気合いの入っていないマニア予備軍にはちょっとつらいものがあったんだと思うけど)で、そちらの方は例によっておのおのがたで検索してたもれ。 近緒はこのレビュー「好き好き、ミステーク」で行くよ! 映画のファーストシーンは1944年、「青と雨」のポーランド。(ここはやっぱブライアン・シンガー監督らしい。)ナチスに強制連行されるユダヤ人の少年が、ミュータントとして覚醒する。この少年が長じてこれがなんとあのイアン・マッケラン様、、、。彼は近緒の悪食映画ランダムレビューに最多登場の俳優さんではないだろうか。ダメダメ、イアン・マッケラン様ではなくてミステークちゃんのお話よ。 ミステーク 自分の目で見たものなら、人間でも物体でも自在に変身できる。全身ブルーの容姿はセクシーかつクール、そして最強のミュータント。 演じるはレベッカ・ローミン=ステイモスお嬢様。1972年カリフォルニア州生まれ。カリフォルニア大学在学中からスーパーモデルとして世界各地で活躍。98年MTVのファッション番組の司会に選ばれ人気を博し、TV「フレンズ」でTVデビュー。映画「オースティン・パワーズ:デラックス」にも本人役で出演している。ピープル誌の“世界最高の美女50人”に2度選ばれ、GQ誌“ウーマン・オブ・ザ・イヤー”に選ばれる。 と、いうのが表向きのディテール。 『ミステーク』って蛇女か半魚人の造形のルーツを持ってるみたいだけど、近くはギーガーデザインの女性モンスター(映画ならスピーシーズ)のイメージからスピンアウトしてる感じ。ミステークの生足で、中年男への顔面にビタビタバシバシ、アクロバッテック攻撃は凄くエロチック!それとかミュータント高校(!)の可愛い坊やが、その顔だけ残してミステークの悩殺ボディにモーフするシーンとか、、ああ近緒、ホントこういう時だけは自分の嗜好を有利に思った事はないわよ。堪能! ミステークのボディのうろこは1万個ある設定なんだって、SFXの皆様、ご苦労さまです。そしてごちそうさま。 でも近緒は何故にこういった造形に惹かれるのかなぁ、、。先日Webを流していたら東南アジア系のシーメールサイトのバーナーに「人妖」って漢字があったのね。ああそうなんだって妙に感じ入った次第。 近緒が惹かれるのはこの「人妖」の部分なんだ。それにこれ系の映画のキャラターは必ずと言って良いほどフェチサイトに取り上げられるでしょう。彼らにも「美味しい」素材なんだよ。 |
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「レオン」から10年、、、ってこの宣伝姿勢たいがいにした方がいいかも。確かにメインの組み合わせはマチルダとレオンの関係に近いけれど、内容が全然違う。脚本が「ミスティック・リバー」のブライアン・ヘルゲランドで、原作小説はA.J.クィネルの『燃える男』だもの、やっぱりベースが乾いていて辛口。 前半、少女ピタのボディガードに雇われ「レオンしてる」ジョン・クリーシィは優等生のデンゼル・ワシントン。 でも後半ピタを奪われ復讐の鬼と化したクリーシィはあの「トレーニング・デイ」で超悪徳警官を演じたデンゼル、その差ね。 「レオン」の甘い夢を味わいたいなら、この映画途中で席を立つ方がいい。そうすれば天才子役ダコタ・ファニングの愛くるしい演技も、デンゼル・ワシントンの樫の木の様な演技も充分堪能出来るのだから。 逆に言うと前半で描かれるピタとの交流ですさみ切った心を回復していく主人公の心と、後半の凄まじい復讐戦との噛み合わせがあまり上手くいっていないような気がするんだけど、どうなんだろう。 主人公は、自分が今までやってきた「殺し」の仕事に嫌気がさして、アルコール依存症と悪夢に悩まされる毎日を送って来た。そんな彼が初めて出会う「少女」という全く別の世界の存在に、心癒されていく過程は実に自然で映画でも上手く描いている。 だがその少女が、自分の警護中に誘拐され殺されたという時点から主人公の行動は、完全な殺人者としての「昔」に戻ってしまっている。しかも重傷の身でありながらよりパワフルに、、。又、娘を奪われた母親も彼に誘拐犯を殺してくれとはっきり明言する。この映画の中では「歯に歯を目には目を」の円環は途切れない。 ・・とすると少女と出会った時に得た主人公の「癒し」とは一体なんだったのか? 最後に誘拐犯達に拿捕され車の中で息を引き取っていく主人公の目に映っていたメキシコの「世界」だけではちょっと説明不足だったかも知れない。 PS 三流記事の画像スクラップのような映像や文字挿入がかなり目立つ。しつこいので格好いいとも効果的とも言えない。前半・後半の話の噛み合わせも含めて映画作り上の問題なのか、、、とっても好きな映画なので、もうちょっと上手く作って欲しかったなぁ、、。 |
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「アロマパラノイド 偏執の芳香」
牧野 修 角川ホラー文庫
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この人はもっと遠くまで飛べる人なのに(誤解があるといけないので、遠くまで連れていってくれると言った方がよいのかも)この作品では後半部分でその飛翔力が落ちてしまう。それと「アロマパラノイド」で語られる「匂い」と「言葉」の関係。SFマガジンに新人で「この人だ。」って思わせて登場した時から、近緒には「牧野 修」、随分「言葉」に拘る人なんだなという思いがあって、、、。この本が「匂い」をテーマにしたものだと聞いて、戸惑い気味に、暫く書架に手を伸ばさなかったのだが、、。 で今度、文庫化されて敷居が低くなったという思いから「アロマパラノイド」を読んでみるとやはりこの作品「言葉」がテーマだった。勿論、牧野 修の作品の基本は何時も通り「世界認識」。要は意識の物語なのだが、「匂い」は「言葉」への考察・実験のブースター装置のような扱いだったのだ。 、、という事で、どこまでいっても牧野 修は牧野 修なのであるが、最近私が思うのはこの人が本当の実力を発揮するのはビザールな映像描写と「電波系の人々」を書く時なのではないかと思う。「正邪の対立」だとか「悪の組織」だとか「正義の論拠」などを書かせるとからきし駄目なような気がするというかこの人、そんなものはちっとも書きたくないのだろう。ただやはり自分の作品が金を取って読まれるとなると、それなりに読み手の立場みたいなものを気遣っているのかも知れない。この作品でも最後は軟着陸をやったなぁっという感じで。 この作品で進藤のキャラクターが好きですね。なんだが進藤は八っ墓村の「白はちまき懐中電灯」のパンク版って感じだし、なんとはなしにボンデージ趣味を感じさせるから、、。ホント、私が強くこの作家に惹かれるのはこの部分なんだけど、例えば笈野がフランス娘の口を大きく開けさせて鼻を突っ込み匂いを嗅ぐ描写だとかね。 PS 作者の巻末を読んで、この作品に何となく感じていた中途半端さの原因の一つが判ったような気がした。近緒もSMFで4編ほどの長編をアップしたけれど、中に二つの長編を無理に繋げ合わせたものがある。一つを書いている最中に、あっこれいい、絶対書きたいというものが浮かんできて、別の作品で書けばいいのに、テーマとなるものが少し似ているからっていうだけで今書いているものに無理矢理という次第で。私の場合は、一本の作品には一つのコアしか具合良く収まらないんだと痛感した記憶がある。 勿論「アロマパラノイド」の場合はそれとは事情が違うのだけれど、、、いずれにしても、もっと内容を整理して読者の事なんか無視してたらもっと凄い作品になったかなぁとも思う。「変態おもちゃ箱」としてはとても可愛い作品なんだけれど。 |
「忌まわしい函」
牧野 修 集英社文庫
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近緒の読みたいもの、書きたいもの、そのままを書いてしまうのが牧野修氏である。氏のラバーフェチやトランスジェンダーがてんこ盛りに同人的ノリで蠢き回る「傀儡后」などは、そのまま過ぎて笑ってしまったぐらいだ。更にさらに粘液グログロでフェチ気質満開のスプラッタやモンスター造形に見られるお耽美も近緒のツボを突きまくっている。本書で言えば「罪と罰の機械」に登場する罰の執行官などは、近緒の愛する「ヘルイレイザー」シリーズに登場する魔人の一人に加えて欲しいぐらいだ。 納められた短編の一つ「<非−知>工場」なんてクローネンバーク監督の「裸のランチ」や「eXistenZ」の視覚世界の文字展開であり、好みの監督まで似ているようである。 まあ近緒のフェチレパートリーに合わないのは氏の「電波」系でだけある。しかし牧野氏のこの分野の達者さにも舌を巻かざるを得ない。近緒は密かに「電波」を書かせたらこの人が一番なのではないかと思っている。その意味で「電波大戦」は近緒にとっての憧れの一品でもある。しかもストッキング・トゥーフェチのおまけ付き。舌の先に当たる化繊のざらつきやストッキングに包まれた足指の付け根の汚れに対する固執だとか、ホント、実践的な描写がいい。 そして「我ハ一塊ノ肉塊ナリ」はトビー・フーパーの「悪魔のいけにえ」の世界をSF(神話)的世界に無理矢理接合させていく試みだが、これはあちらのB級映画が良くやる手法で近緒も大好きである。 ・・つって今まで書いた文章を読み直すと、牧野氏の作品については殆ど「好き・好き」ばっかりで殆ど書評の体をなしていないのに気付く。 ふと思うのだが牧野氏って実は自分のツボを完璧に突く見たい映画や小説がないから、「それなら自分で書いてやれ」って感じで小説を書いているのが丸出しの人ではないかと思う。 なんだかエロ漫画を描き始める動機に似ているように思うんだけど、大体の人はそれが職業になってくると色々な格好をつけるようになるのね。それをしないというか、しないで済む似非芸術風味を牧野氏の場合は文体として手に入れているみたいで、今のような作風があるんだと思う。うーん羨ましいというか、、その辺がねぇ、、一ファンとしては複雑な所なんだよねー。 |
「シークレット オブ ドラァグクィーン」
杉並北尾堂 北尾トロ
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「読書好き」の方なら一度ぐらいは「ダ・ヴィンイチ」という月刊総合誌を読まれた事がおありだろう。そこで暫く前に「自費出版の実態」みたいな企画連載があって、その企画の中心が北尾さんで、その「本」が、これから紹介する「シークレット オブ ドラァグクィーン」なのね。 「まあこんなキワモノ、売れるのかしら。」と思いつつ、早く読みたいと恋焦がれていたのが当時の私。それがつい最近、地元の大手書籍店を彷徨っていると、この本が「お洒落っぽく」置いてあったのである。「大手」と「お洒落ぽい」という所が味噌(味噌だってなんて卑猥な表現)で、場末の小さな個人商店のアダルト本の薄暗い棚には決して置かれないわけね。 内容的には小判サイズの印刷紙の悪いSM雑誌と大差はないんだけどね。人は「パッケージ」で内容を判断し評価づけるものなのだ。でもこの構図、ドラァグクィーンのお姉さま方そのものにもいえるかも知れないね。「お釜」より「ニューハーフ」の方がネーミングとしてはスタイリッシュだし、、。まあ厳密には、そのそれぞれの「呼び名」と「その実態」は違うのだという薀蓄を披露される方もおられるだろうけど、(確かにドラァグクィーンとパート女装は違う)近緒は、性同一障害を除いて、基本的には「男が女を演じる」構造は同じではないかと思う。 勿論その「あり方」は千差万別で、それこそ「本書」を呼んでいただければよくわかる事だろうと思う。 (・・・ああ、これはブックレビューのコーナーだっけ、こんな分類論を展開していったら2メガぐらいプレーンテキストで消費してしまう。) 私のサイトに来られる人ならきつと興味深く読める本だと思いますよ。この本に登場するドラァグクィーンの皆様方は、Webにサイトを運営されている方が多いんですけど、よりインサイドな「個人の生理感覚」はこの本に寄稿してある文章の方が優れているみたいだし。 まあ個人的な批評を(批評だってキャ!!)くわえるなら、ちょっと「お洒落ぽさ」が中途半端だったかなぁって事、多分、北尾さんの販売戦略だったんろうけど、、。 十分この世界を「堪能したい」人にとってはこの本、決して「読みやすい装丁」じゃないし、逆にこの本を所持している事で、自分がお洒落に見せたい人には、やっぱ内容がね、、。まだ「ハッテン場」の話題はファッションには、ならないと思うし、、。 個人的には図版をたっぷり楽しみ他かったし、(今泉ゴッホサイコー)読み物は読み物でもっと読むことに集中できるものにしてほしかったですわん。 だけどそうやると大判のムック誌見たいになって、ゼッタイ売れないだろうなぁ。。。 |
「天使の囀り」
貴志祐介 角川ホラー文庫
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貴志は、「怖い話」を長時間、読者に継続して読ませることの出来る作家だと思う。「黒い家」などは「不安マラソン」の最高峰で心臓に負担がかかるほどだ。その質は不安のテンションが高く、同じく不安を雰囲気として持続させる土着の「おどろ」とは少し違う気がする。、、、サイコの視線で、読者と共に世界を凝視するというのが最も近いのだろうか。この作品の場合、テーマ的には瀬名作品に近いのだろうが、息苦しい程の不安感覚は中島ラモの「ガラダの豚」にも共通するようだ。 「ブラジル脳線虫」っていう小道具を使って、自分がもっとも恐れている状況に自らを追い込んでいくシステムを、物語中に生み出したのは「さすが」と唸らざるを獲ない。このシステムを使った最初の登場人物である作家高梨の「死恐怖症」を呼び込んだ死は、まだ概念的な「怖さ」に止まっているけど、この後、続々と現れる被害者達の死に様は、これでもかというほどグロテスクだし官能的でもあるのよね。 近緒の友人で「もしかすると人間てさぁ、、死ぬ時にとんでもない強烈な快感を獲るんじゃないかな。そうでないと、なんだか辻褄ってゆーか生きてることと死ぬ事のバランスがあわないじゃない。」って言ってた子がいるけど、アレの一番気持ちいい時の事を考えると、その子の言ってることもあながち単純な夢想とも言えない気がするのね。 滝沢優子がアオコまみれになりながら悶え死にしたり、仏教画の捨身虎図のごとく自ら虎に我が身を投げ与えたりする助教授がいたり、、。 でも、もっと怖いのは、そういう描写や設定に読者がちゃんと「快」を感じながら反応するという事だよね。貴志祐介っていう作家は、そういった人間心理もちゃんと心得ていてサービスする人なんだと思う。そのあたりがWeb界に嫌という程転がっている「グロ文」との違いなんだろうなぁ、、。(近緒もそうなのかなぁ、、でも、そうならそうで、私ならその欠如感をもっと巧く利用してやるよ。) PS 私はこの小説の中で一番好きな部分は、実を言うと「序章」なんだ。「序章」の「呪われた沢」の部分。ここには本文のすべてのパースペクティブがすべて納められているのに、それがアマゾンのジャングルという霧の中にけぶっているわけ。この感じ、いいよね。でもよく考えて見ると、後半だって舞台は日本なんだけれど「密林を分け入って、何か恐怖の源となるものに出会う」という仕掛けは同じなんだよね。「黒い家」もそうだし「クリムゾンの迷宮」もよく考えると同じ図式だし、、。 |
「傀儡后」
牧野 修
ハヤカワSFシリーズJコレクション
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牧野修の「傀儡后」は、ミステリィやホラーに傾倒していく近緒をしばらくのあいだ「SFマガジン」に繋ぎ止めていた唯一の引力である。その引力の源は残念ながらSFマインドにあるのではなく、精神世界に密接に結びついた「フェチ」だ。「傀儡后」はSFマガジンに連載されていたものをまとめ加筆された作品である。後書きを読むと、驚いたことに牧野修は本作が初めての連載体験だったらしい。 そう言われれば本書を読んでいると確かにテーマに揺れがあるのがよく判る。 テーマなんて表現を使うと紛らわしいが、要するに「書きたい、自分で書いて楽しみたい」という部分が、それぞれの固まりごとに違う事がはっきり判る。場合によれば、ただ話を体裁よく進める為だけに書かれた章さえあるような気さえする。 (それがどこだとは言わないが、、牧野修は適当に幻想味たっぷりの文章を書く技量を持っているので、意外とその部分は読者にとって重要そうにみえる部分なのかも知れない。) 故に、傀儡后は一本の完成された長編作品を読みたい人には、あまり出来のよい作品とは言えないだろうと思う。その他、登場人物として出てくるアナーキー・マーシーや速水優など、フェチシーンにそのまま実在する題材を物語に取り込んだことも、それらを知っている人間、知らない人間、それぞれの立場で評価が別れる部分だろう。 牧野作品の総てを肯定している近緒だって、桂男と美香のキャラクター作りの違いぶりは(アダリと菜蛹への接し方と対比したとしても)ああいった結末にもっていくのなら違和感があり過ぎると思うのだ。 更に付け加えるならもう一人の主役である涼木王児、、彼をインターセクシャルとするのは構わないが、どう考えても文章が形作る彼のキャラは「男」性以外の何者でもないし、そうしなければならない必然性が物語にあるとも思えない。 彼の弟との絡みでいうなら、いっその事、ビザール趣味な文章なのだからホモセクシュアルな兄弟でもよっかった筈で、王児が追う負い目を女性特有の感性に帰着させる方法には違和感を覚える。 という事で、やはり全体としてはいろいろな破綻がある作品である。 でもやっぱり近緒は傀儡后が好きだ。牧野修が「長い間書いてみたくて、あまりに待ちすぎて中身が空っぽになった作品」と後書きに書いているが、その気持ちは本当によく判る。それでもフェチシーンの水底にいる人間達は「傀儡后」を書けるステージに上がった牧野を羨んでいるに違いない。 近緒はまさにその一人。リチャード・コールダーに感じた羨望と嫉妬を牧野修に感じているのだ。だからもっと徹底的にやれば良かったのにと思ってしまう。そこから開ける新しい文学の世界があったのではないかと思うことしきりである。 近緒のIsawをご覧の方の中には女装は勿論の事、ドーラーの方やラバーフェチ・タイツフェチの方も多くいらっしゃるのではないかと思う。そんな方には、SFだからと言わずこの傀儡后、是非おすすめします。 PS 傀儡后を読んでいて思い浮かべるのはリチャード・コールダーは勿論だが、怪奇伝記小説やダリの絵も想起させる。つまり傀儡后は、強力なビジュアルを伴う異世界を想起させる文章というわけなのだが、どういう訳か近緒、「空想科学世界ガリバーボーイ」というテレビアニメを思い出してしまった。 (近緒はこのアニメの、魔術を科学で変換したり世界の果てが滝になって終わるという世界観が大好きで、日曜の朝、眠い目をこすりながら見ていた記憶がある。) このアニメの中に悪役として満月男爵という、まんま顔が月になった男爵が登場する。お話自体も、魔法と科学が同居する世界の皇帝・ジュドーの妹ミスティが「兄の屈折した愛」から逃げだし、やがて主人公の少年と出逢い、、魔術合戦の末、、というのがストーリーなのですが、、。 フレームは傀儡后と同根なのではないかと思う。・・・世界はイメージ満ちあふれ、作家はそれを吸い上げ放出する。 |
『好き好き大好き!』
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主人公の女の子の名前が蒲乃菜、(ほのな)と読むんだよ。もうこれだけで駄目なんだけど、あと二、三日で新年を迎えようかとしているこの年の瀬に、何故かゲームノベライズ小説『好き好き大好き!』のレビューを書いている私、、、。 でも、小説のレビューを兼ねながら、近緒自身の「小説を書く」行為も同時に総括するなら、この『好き好き大好き!』は、凄くいい題材なのかも知れない。 近緒が、この小説に出逢ったのは、随分昔の事で、恥ずかしいけれど愚弟夫婦の影響を受けてRUBBERにはまってからだ。近緒は昔からSF小説が大好きな人で、RUBBERのSFファッション的な要素にはある程度親和力があったのかも知れない。俗に言うラバーフェチになるのに幾らも時間はかからなかった。それにRUBBERはエッチな部分も強いけれど、ファッションとしても結構素敵なアイテムだと思ってるし、、。 あっと、横道にそれちゃったね。そんな風にRUBBERにはまった私がインターネットで一番最初にやった事は、「RUBBER小説」探しだった。で、引っかかったのがこの作品なのね、、。 色々な見方があるんだろうけど、近緒はこの作者の文章は「巧い」と思ってる。描写力や比喩表現がどうのとかいう事ではなくて、世界を創造して相手に伝える「力」を持っている。それが「物書き」の最低限の基礎だと思うんだけど、この作者にはそれがある。それに技巧的にも巧い。 近緒は頑張って、「良い物書き」になる為、修行に励んでるけど、まだまだ、力不足、、。実を言うと、私の力があまたの「ピンからキリの職業物書き」さんたちの足下にも及ばないんだって事を自覚したり、嫉妬の感情に苛まれるのは、こういう「物書き」さんの作品に出逢った時なんだ。 この作品の内容?、一言で言って凄く暗いし犯罪的だと思う。だって内容が少女拉致監禁なんだもの、それから後が、強制ラバー拘束をしての放置プレイの数々でしょ。 マルチエンディングのロールプレイゲーム、ノベライズの宿命なのか、全体の構成の中に、あまり必然性のない形で数人の女の子達が絡んでくるけれど、それを除けばその殆どが「コレクター」から営々と映画や小説で受け継がれてきた拉致監禁飼育パターンの王道を行く内容なのね。 文体的には句読点が少なく、やたらと一行が長いのも特徴。近緒もリズムを作る為に意識的にそんな文章を作る事があるけれど、中上健二じゃあるまいし、大方の、物書きは、文章をそぎ落として短く詰める作業をするのが普通な筈。 文章をシェイプする一つの理由は「読者に読みやすくする」為。二つ目の理由は「長い文章をちゃんと成立させる方が難しい」という理由。(二つ目の理由は、近緒だけにあてはまるのかも知れないけれど) そういう目で見るとこの作者、わざわざ粘液質な主人公の大学生と作品全体のムードづくりの為に、全編長文で通した訳だから、相当文章を書く力があるのだと思う。 でも、この人、本当にラバーが好きなのかな?って思う所は沢山あるのね。(勿論、この作品、ラバーフェチの人間をターゲットにして書かれたものじゃないから批判には値しないけれど) 多分、作者の物を書くエネルギーって「監禁、飼育」そのモノにある気がするのね。多分この小説の中で、ラバーは一人の人間の人格を奪って完全な物体(生きたフィギュア)に、するための小道具なんだろうね。この作品を読んでいると、その「妄執」がひしひしと伝わってくるわけ。確かにその妄執のおかげで興奮するしトリップもする。 でも読んでいる間中ずっと息苦しいのね。もう止めてよって感じ、、。悪夢にだって夢特有の甘美さがあるのに、、それがない。このいうに言われぬ見えない罪悪感にまみれた息苦しさを思うとき、精神病患者のヘンリーダーガーの絵を唐突に思い出すんだけれど、あれが「表現」として成り立つぎりぎりの最北だと思うのね。 近緒は自分自身のスタイルの中で、自分しか書けない世界、偉そうに言えばジャンルを作りだそうと考えているんだけど、一番気を付けなくてはいけないのがここだと思うんだ。 「拉致監禁飼育」モノで凄い表現内容を持つ映画や小説は沢山ある。読んでいて息苦しくなるのも沢山ある、、でも、、どの作品も「エロ(劣情催淫)」だけを追っちゃいないわけ。このテーマでエロだけを追うと「危なくなる」から、、。 倫理的な価値観とかじゃ絶対にないけれど、でもやっぱりモノを書くって行為は、無限に「なんでもあり」の世界じゃない、(というか、書く行為は自分自身を必ず何かに向かい合わせていく筈)と思うんだよね。 、、ってな事を考えさせてくれる作品なわけですよ、これは、、。 あっ、勿論、ラバーフェチの人は「買い」ですよ。まあ本気のラバーじゃなくて、なんだか「SM衣装のラバーファッション」って感じはしないでもないけど、ラバー特有の皮膚感覚や嗅覚については結構リアルに書けてるんだから。 でもこの小説の「毒気」に耐えられればって条件付きだけどね、、。 |
『夜が終わる場所』
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読了するのに随分、時間が掛かった作品。心理描写も達者だし、表現力もあるし、ストーリーだって、、、だのに読み進めるのが辛い、読んでいる間中ある種のくらい予感が働くわけ。 主人公の警官マックス・スタイナーの幼なじみであり友人であるバンクの歪なスーパーコップぶりや、幼女失踪とかが小説に登場した途端に、この話、「幼児虐待」やその手の問題に小説のストーリーは絡んでいくんだろうと、、。 これらの問題は、アメリカだけの問題じゃなくて日本のかなり重症ともいえる課題になっているだけに、筆力がある作家が書けば書くほど読むのが「しんどく」なるのだ。 それとこういった課題への日本とアメリカの対応の格差もあるよね。あの大震災の後でアメリカの対応システムを紹介した報道番組を見たことがあるけれどやっぱり、民間・公共含めてしっかり考えてある。それにこういったそのまま「生」に密着した問題への対応だってやっぱり凄いと思わされる。(じゃ、なんでそんな問題が起こるのよ、という根元的な問題もあるけど) 映画「アフリクション」は、このレビューから外したぐらい中途半端な出来だったけれど、アレぐらいの出来でも、アメリカじゃ自国が抱えている社会病理の「おさらい篇」ぐらいの訴求力が充分あるんじゃないかと思う。 第一この小説で、日本人である私が読んで一番リアリティを感じられないのは、様々な崩壊家庭や社会状況の劣悪さじゃなくて、むしろそれを助けようとする「組織」の存在なのね。 こんな風に書くと「またまた、幼児虐待・トラウマ・親近相姦・レイプを絡ませて書いた警官小説かぁ。」って本書を誤解されそうだけどそれは違う。特に本編最後の「夜が終わる場所」に相当する謎解きで展開される話は、非常に深い人間洞察に裏付けられたものだし、言い方は悪いが、ある種の本当に「怖いミステリィ」だとも言える。 でもなぁ、、最近の小説の終わり方ってみんなこんななんだよね。「それでも明日はやって来るから、やれることを、、」って感じ、、。 これから「秋の夜長」って季節です。まっじっくり読んでください。悪くはないです、、。 |
I saw a movie.
オー・ブラザー!
監督:ジョエル・コーエン
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近緒のサイト名「アンプラグ」の発端に、エリック・クラプトンが絡んでいる事は何処かで書いた。そのクラプトンがロバート・ジョンソンという黒人ブルースマンにいたく影響を受けていたのを知ったのは、コーエン兄弟の「オー・ブラザー!」を見てからだ。 ロバート・ジョンソンはこの映画の中では、主人公である脱獄犯3人組に助けられる「悪魔に魂を売ってギターの名手にしてもらった黒人青年」として登場する。実際にロバート・ジョンソンは、ブルースの名手であると共に、早死の上、レコード数の少なさも手伝ってか、結構ミステリアスな人物らしい。 ブルースにアンプラグ(生ギター)、更には物語の展開の中で実に旨くはまり込んだゴスペルにC&Wとくれば、背景の南部の匂いと共にこの映画の肌触りが判って貰えるだろうか。 更にはあのジョージ・クルーニーが、志村ケンすれすれの妙にすっとぼけたミシシッピー州の伊達田舎親父を演じるのである。まあ「ビッグ・リボウスキ」の延長線上にあるこの映画、コーエン兄弟の真骨頂という感じです。 しかしコーエン兄弟、なぜこんなに微妙に「粋」でおかしみのある絵と話が撮れるんでしょうね。主人公ジョージ・クルーニーの名前がユリシーズ。彼らが脱走して最初に出逢う「予言者」が、手漕ぎ車をこいでる盲目の黒人、彼曰く「汝らは屋根の上にいる牛を見ることであろう」とシュールな御託宣を述べる。かくして30年代アメリカ中南部を舞台に脱獄犯三人の奇妙な「オデュッセイア」が始まるのだけど、、。 登場する人物がみんないいですね。コーエン映画には「美男・美女」がほんのちょぴりしか登場しないんだけど、代わりに癖のある人達がたっぷり登場して、彼らが時間が経てば経つほど魅力的に見えてくるから不思議。 美男系のジョージ・クルーニーにしたって、別れた妻の新しい婚約者との決闘シーンなんかは他の映画じゃ必ず勝ちゃうのに、ここじゃ実に見事にやられてしまう。その演出も別に大スターに「ヨゴレをやらしてみました」って感じじゃなく、すっとぼけて可愛いわけ。 でも可愛いと言えば、間抜けな脱獄犯デルマー役のティム・ブレイク・ネルソンがとってもいい。もう一人の相棒ピートが不思議な洗濯女姉妹(セイレーンの読み替え)に蛙に変身させられたと思い込んだり、又、その蛙を怪しい片目の聖書売り(一つ目巨人の読み替え)に握り潰されて、卒倒してみたり、実に演劇的に嫌みなくコミカルなのだ。 まあこんな具合に小さな「見る楽しみ」を拾っていくと、凄く沢山の発見がある映画で、書いていけばきりがないぐらい。 ところが全体の印象としては「大傑作」みたいな構えは微塵もないのね。やっぱり不思議だコーエン映画。 PS カントリーブルースがお好きな人はたまらない映画でしょう。近緒的にはジョージ・クルーニー率いる「ずぶ濡れボーイズ」が大満足でした。 |
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I saw a movie.
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
監督・脚本・出演/ジョン・キャメロン・ミッチェル
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性転換の手術に失敗した主人公の歌う歌詞が「アレの長さが6インチから5インチ減って残りは怒りの1インチ」、、、こうやって文章にするだけでも監督・脚本・出演すべてをこなしたジョン・キャメロン・ミッチェルの才能がわかる。 しかしまあコーカソイド系の顔立ちって女装にホントに映えるのねぇ。それにハリウッドというか、向こうのショウビジネス世界のメーキャップ技術って、ため息がでるほど凄いねぇ。青年時代のヘドウィグってまだいかにも女装者っていう感じなんだけど、トミー(主人公の失われたカタワレ)と出会う頃の彼は、体型は別にしてほとんど「綺麗」といっても良いくらいなんだから。で土台は青年時代の彼と同じな訳で、、つまりメイクアップ技術だけで、意識的に「綺麗」のグラデーションを作り出せるということなんだね。(羨ましい、、。) PS 映画の中で、ヘドウィック率いるバンドが演奏するときの環境映像仕立てで見せるアニメが素敵です。ちょっと前に日本でもイラスト界に「ヘタウマ」っていうジャンルが確定したけど、これは「ヘタウマ」よりもうちょっと素朴なアートを感じるなあ。制作はエミリー・ハブリー。まあ考えてみればこのアニメと合うって事自体が、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」がナイスな映画だという証明かしら。 |