![]() |
|
I saw a movie1 ケント。私は待ってる! |
I
saw a movie.
監督・製作・脚本 グレン・ゴーイ
|
|
主人公ホックの弟、レスリーが可愛い。レスリーはこの映画の後半にとても可愛くて色っぽい女装姿を見せてくれる。でも彼が、男性の姿で最初登場した瞬間から「それ」と判るのは、キャスティング故か演出の妙なのか、、。女装したレスリーの前髪の引き詰め方が不自然なのは、ウイッグのせいなのかなぁ。それとものばし終わった地毛の癖なんだろうか?髪の毛の「黒」だってきつ過ぎるしなぁ、けれどそんなメイクで彼が横を向くと肌のきめ細やかさと相まって女性とは別の官能美があるのよね。 それにレスリーが身に付けていた太股がちらりと見えるドレスとか、そこから見える胸の谷間とかがとっても新鮮。それって女装した若い男だけが出せる美なのよね。前半のいかにも優等生の大学生らしいファッションとの落差が、ますますこの子の変身ぶりを際だたせているみたい。 この子と父親の間には、彼のカミングアウトを境目にして大きな断絶が生まれるんだけど、それはこの映画のあくまで傍流のエピソード。だって最後は彼の兄であるホックがダンス大会に優勝して、この子の性転換手術代を出してあげるという結末をみてもらってもわかる。全体的にはとってもハッピーな物語なんだよ。 (だから意地悪く考えると、何故レスリーがある日「オンナになりたい」って言い出すのか、脚本上の必然性が「物語の味付け」以外に見あたらないのね。まあマーライオンの近くでは男娼がうろうろしてるっていう「話」から考えると「この国の意外と良くあるピリッとした現実」なのかも知れないけど、、。) 近緒はシンガポール映画を見たのは初めてだけど、「悪く」ない。この監督の持ち味なのか、ある程度この国のお国柄が反映されているのか判じがたいけれど、世界に対する優しくて素直な視線がいっぱい感じられる映画だ。 今の日本で、こんな持ち味の青春映画を撮ろうと思えば観客の違和感を無くさせる為にどれだけの変化球をなげる必要があるかと思うと気持ちが暗くなってしまった。 変化球で思い出したけれど、この映画はあらゆる物がイミテーション。しかも記号として一致するだけで、見破るのはとても簡単。「サタデーナイトフィーバー」のトラボルタまがいなどは、似ているというのもおこがましいんだけど、最後にはそんな彼にさえ好感をを持ってしまうのよね、、。 肩の凝らない気持ちよさが欲しい方、ブルース・リーが大好きで、同時にあの年代に懐かしさを覚える方にはお勧めの映画です。勿論、TG・TVに興味のある方ならレスリー君の初々しい艶姿を見るだけでも値打ちのある映画ですよ。 |
I
saw a movie.
製作総指揮:クライヴ・バーガー
監督・脚本:ビル・コンドン
|
|
ほとんどなんの予備知識もなしに、このビデオを手にした理由は、総監督があのクライブ・パーガーだったからだ。オープニング、、やけに渋好み、。去年4/5冊出版してお定まりの廃刊コースを歩んだSF映画専門雑誌に、カミングアウトしたクライブ・パーガーが「ハリウッド映画に嫌気をさして、新しい形の本当に良い映画を作りたい」といった内容の記事があった事を思い出し、嫌な予感が走る。 この前「ゴールデンボーイ」を見たばかりで、主役も同じイアン・マッケランで、準主役が、方や美少年でこちらはマッチョマン、ブレンダン・フレイザーとくる。、、嫌いじゃないけれど、私のパーカーは「血の本」であったり『不滅の愛』『ウィーブ・ワールド』であって欲しかった。 それに老人のホモはどうにも寂しくていけない。映画監督ジェームズ・ホエールを演じるイアン・マッケランの色気や好色さが痛々しい。でも、これはわざとの演出なんだろうな。これが映画の後半になってきて「ゴッドandモンスター」の重いテーマを拡大していくんだから。と気付く頃から、この映画のすごさが判りはじめてくる。 つまり私は「ヘルイレイザー」のもっと完成されたものを期待していた事になる。でもこの期待は二つの意味で見事に裏切られる。この映画は凄いです。戦争・人間の誇り・性・愛・ジェンダー・孤独・家族・死、そういった諸々のテーマが幻想の中に事実として彫り込まれている。 後半、話の展開が進むにつれ、この映画はどんどん凄みを増していく。映画史の中で「ゴッドandモンスター」が、後世、どう位置付けられるのか、私のあずかり知らぬ所ですが、私の中ではこの映画は「名作」だとしか言いようがありません。当SMFに、来られたお客さんなら、この映画「必見」です。 話はそれるけれど、後半、庭師のブーンが己の裸体を映画監督ジェームズ・ホエールにスケッチさせるくだりは蜘蛛女のキスを思い出させますね。それにブレンダン・フレイザーは本当に身体のデカイ、純朴な青年をやらしたらもう天下一品です。彼を庭師ブーンのキャストにあてたのは実に大正解のような気がします。確かにホモ好みの身体であるくせに、その好奇心丸出しの純粋さでブーンがホエールに接近していっても、ちっとも嫌らしさを感じさせない。 始めにクライブ・バーガーらしくない映画と書いたけれど、裸のブーンにガスマスクを付けさせてホエールに後ろからおそわせる辺りはパーガーらしくて興奮させれました。そして家庭を持ったブーンが降り出した霧雨の中でフランケンシュタインの「振り」をするシーンは秀逸の一言です。私は暫く茫然とそのシーンを見ていました。 |
|
「ゴッド・アンド・モンスター」2001年正月劇場公開 98年度アカデミー賞脚色賞を筆頭に、世界の各映画賞で作品賞、脚本賞、主演男優賞、助演女優賞に輝いた傑作、「ゴッド・アンド・モンスター」。日本では
** 参考 ** |
I
saw a movie.
|
|
お酒を飲みながらベティ・ブルーを見た。部屋の中には、水やりをさぼって半分枯れかけた観葉植物の鉢がある。一夏の間中、猛威を振るい続けた暑さも、今夜は泣きを入れ始めた暴れん坊みたいな感じ。そう。夏の間には、氷みたいに冷やしたお酒があんなに美味しかったのに、今はそれが少し身体にきつい。 彼らの蜜月が始まった、海岸沿いのバンガローが好き。壊れた爺さんのサックスが好き。ベティは、ゾルグの書き散らした下らない文章なんか見つけなきゃよかったんだ。 もっともっと、水の中にいる見たいな「緩やかな裏切り」や「失望」を体験すべきだったんだ。燃えるような「恋」や「愛」は、時の流れに浸して綺麗な玉にして手の平の上で転がすか、苦いお酒にするんだ。だから人はゆっくりと狂っていける。そんな風にできない者は相手か自分を滅ぼすしかない。 なーんてね。たぶんこの映画は、強い感傷と共に、観る者の胸に「自分」という名のベティやゾルグを目覚めさせる映画なんだろうね。 色使いやカット割りの綺麗さへの賛美は、この映画を語るのに当然の事だろう。私はそれらに加えて、この映画の中に効率よく散りばめられたユーモアを高く評価しておきたいと思う。 「転ける・ぶつかる」ゾルグ。母親の葬式に出かけるのに必要な黒のネクタイが、ヌードのプリント柄しかない友人がいたり、、。だって少なくともそんな時、ベティも私たちの胸中のベティも「笑う」じゃない。あの「間」と生活の描写がなきゃ、これは愛という名のアウシュビッツの映画になっちゃう。 (閑話休題、どうして映画の中のおフランスの方々はあんなに格好良く美味しそうにコーヒーを飲むんだろうね。文化的に見て「日本の爺さん婆さんが茶をすする場面」があれに対抗出来てくれればいいんだけどなぁ。他に日本には「日常的な食」が様になるシーンがないもんね。スターバックスが流行だと言えばそればっかだし、、情けねぇー。「流行」を楽しむんじゃなくて「生活」を楽しむレベルにもうそろそろ移行したいよね。) それにしても「モザイク」はむかつく。ベティ・ブルーはどこまでもどこまでも綺麗な映画なのに。こういうのを見ると体制の検閲って本当に理屈なしに馬鹿げてるって思うね。 ベティ・ブルーって邦題の方も、原題の直訳で「朝、37.2度」の方がいかしてると思うけど、まあこれは仕方ないか、、。 |
I
saw a movie.
|
|
こういうファンタジーを見せられるとフランスの文化ってやっぱ大人やねぇーと思いますね。でもベネックス監督、沈黙期間がちょっと長すぎ、、。これぐらいの作品、、、片手間に、肩の力を抜いてちょちょっと撮って欲しいなと勝手な思いに囚われたり。 「青い夢の女」は「精神分析医と殺人事件、被害者は自分の患者」よくある設定、よくある話運びで取り立てて目新しい部分は何もない話。ただただ精神分析医のユング・アングラードが死体の始末に困って右往左往してるだけなんだけど、、味がある。 どうもこの味の中身(分析しようがないんだけど)感触としては、きれいによく遊んで来た男性の肌触りみたいかな。(ホント、きれいには遊べないと思うケドね。) ・・まぁ、監督も主役のユング・アングラードも「くたびれちゃっただけじゃん」という声もあるけど。 でも「ベティ・ブルー」なんかを見てから、これを見るからユング・アングラードのコミカルタッチの演技が粋に見えるわけだしね。 「枯れる」ということ「粋」ということを、久しぶりに感じさせられた一本でした。 PS 寝椅子のある診察室に大きく取られた窓から見える風景、ラストのエッフェル塔の電飾。タイトルインのバックに使われたイラスト(はじめと終わりに登場する女陰のスケッチなんだけど、はじめの子どもの殴り書き調から、最後はちょっと幻想味が入った写実に変わるのね、いかにも映画の内容を示していて暗示的だけど、それがくどくないのがいい。)みんな素敵です。おフランスです。 PSのPSなのだ。 「墓場でダッチワイフと寝るDJ」が穿いてたのってラバーパンティかしら、、。DJの抱いていたダッチワイフに詰め込まれて、、。うーん、近緒もユング・アングラードの分析医にかからないといけないかな、、。 |
「サラ、神に背いた少年」
|
|
この作品(原題は「サラ」)は、J・T・リロイって坊やが書いた小説なんだけど、要約するとリザード(男娼・娼婦)としての彼自身の体験談に、奇妙なファンタジーを織り交ぜた作品なんです。 近緒がこの作品で一番、好きなのは、主人公が自分の母親に鞭打たれ罰せられるのを恋いこがれる瞬間の心理描写です。これがとってもリリカルで可愛い。(勿論、作者のこういった表現が働く心理背景を捉えて分析すると、深刻だとも深淵だとも言えるのだけれど、、。) まあ別の視点でミーハー的に書いちゃうと、近緒は精神的に若干マゾの気が在るんだけど、肉体的にはマゾ要素が皆無なんですよね。で、その辺りの構造が全く理解できなかったのがリロイ君のお陰で少しだけ判った様な気がしたんだよ。結局マゾって「痛み」を「どう受け止められるか」ってことなんだよね。 後、「どんな男であっても射精するの前の瞬間の表情が好き」みたいな表現があるんだけれどこれには同感(恥)。この辺りが主人公が「自分の母親みたいな最高のリザード」になりたいっていう辺りの心理の最初の動機なんだろうね。 それからこの小説は、女装の男娼の視点で「世界」を捉えてあるので、当然、主人公のいる世界にはそういった人々が山ほど登場する訳です。ポン引き・同業者・買い手etc。この小説の持つ奇妙な温かさは、彼らの描写から来る部分も大きいでしょうね。マッチョなトラック野郎が、ラフな男らしいコスチュームの下にシーム入りのストッキングを大切に履いていたりね。近緒はこういう部分、こういう世界にホント和んじゃう。 それとこの小説で一番良いのは、自分自身に対する肯定感を味わえるって事でしょう。この辺りのテーマっていうのか相克は映画の「BE MY BOY」や「ディファレント・フォー・ガールズ」とか色いろ取り扱われている訳だけれど、このリロイって子はまだ18でしょう。 だから自分がリザードである事の肯定感は、こねくりあげて積み上げたものじゃなく「素」なんだよね。それが心地よい。勿論、心理学的に分析していけば娼婦の母であるサラとの同一化願望が潜んでいるとか、失われた父性を求めるために男に優しく抱かれたいとかなんとか考えられなくもないんだけど、、。ニューハーフとかオカマっていわれる存在に、自分の心の中で何の問題(社会的な屈折)もなくなれちゃうというのは、日本流にいうともう「業」の世界なんだから、それは否定すべきことじゃないのね。ホントに近緒はそう思う。後は世間との折り合いだけって感じかな。「生物学的に見て歪んでいる」とかいう指摘があるかも知れないけど、そもそも人間の存在自体が動物の中では異常だしね。 追伸 ああ、近緒も聖獣ジャカロープのエネルギーにあやかりたいよー。だって表現に携わるものはすべからく皆、リザードなんだから。 |
I
saw a movie.
ドーベルマン
監督:ヤン・クーネン
|
|
フランス既存映画への“挑戦状”ヤン・クーネン監督の「ドーベルマン」。公開当時は国内でも結構騒がれていた記憶がある。勿論「ドーベルマン」観ました。ドラッグ・クイーンのソニアが、狂気警視クリスチーニに家庭まで踏み込まれて精神的にズタズタにされるシーンに妙な胸苦しさを覚えたり、、。でもバイオレンスやアクションシーンなら日本のVシネマ辺りでもそこそこやるし、斬新なカメラワークも1時間以上連続で駆使できる訳もないし。と、まあ私の当時の評価は△○だったんですね。でも心の中には引っかかっている。数年すれば観たことも忘れてしまうような映画が多い中で「引っ掛かって」いるのは「何か」があるからなんですね。 で、最近ビデオレンタルで見つけたのがこの「ドーベルマン・エクスプレス」。このエクスプレス、ただのメイキングビデオかと思ったら、ヤン・クーネン監督の小中編映画が収録されているのですね。「ブルーム・レース」「ヴィブロボーイ」「キャプテンX」「赤ずきん」これだけ観ると、ヤン・クーネン監督の輪郭が何となく見えて来る。ヤン・クーネンの表現は日本のヤング・アダルトコミックの輪郭と同じだと思いこんでいたけれど、少し違うみたい。特に「赤ずきん」を観ていると(私のお気に入りです。)その感が強くなる。この監督の切ないまでの「暴力」への思い入れは一体何なんだろうと思う。もし、レンタル店の棚にこれがあったら、騙されたと思って観ても損はないと思いますよ。 |
I
saw a movie.
監督:ヘンリー・セリック
製作・原案:ティム・バートン
|
|
あちらの方々のこだわりは、SFものでも人形ものでもアニメでも、科学的根拠というか、どれだけ現実に近いかみたいな部分に力を妙に注ぎますよね。「ゴジラ」もそうだったし、このナイトメアーも、人形達には思い切ったデホルメが施してあるのに、人形の動きはトップダンサーとかそのものなんですよね。で、この過剰な部分がナイトメヤーでは上手く嵌っていたと思います。 所で、私の頭の中ではこのナイトメヤーが先で、バットマンが後なんです。ですから、「妖しく闇を走るキャットウーマン。暗黒の都市を摩天楼の頂上から見下ろす孤高のバットマン。の原型をナイトメアーに見た。」なんて事を、思わず書きそうになったんです。制作順で言うとこちらが後なんですよね。でもそのことは、見方を変えると「闇の力の悲哀」みたいなテーマはティム・バートンの外せない重要なテーマだと言う事を照明しているんでしょうね。 人は誰も悪夢を抱えて生きるもの、、。それでは、ジャックが間違って良い子たちに悪夢をプレゼントしたように、私も皆さんに私のダークファンタジーをプレゼントして差し上げましょう。 |
|
|
あのティム・バートン監督がよりにもよって『猿の惑星』!?しかしですよいざ始まって見ると「心配ご無用」って感じで、どこからどう見てもバートン色のゴシックホラーって感じのオープニング。 そしてその中身も充分に面白い。いっちゃなんだけど「マーズ・アタック」で彼が描きたかったテーマは、監督の諧謔趣味が高じて混乱した向きがあったけど、今回はそのテーマの訴求力も天下一品。 当然『猿の惑星』と言う限りにはお猿さんメイクが肝なんだけれど、単純に『人間が猿にどれだけ化けられるか』というアプローチではなく、そんな事は前提として、進化した別の生き物である人格ある『猿』を創造した所が偉い。それに全ての猿がそうだとは言えないけれど、習性やアクションなどもかなり実物を観察して作り込んであり、これも『猿の世界』のリアリティ作りに貢献しているようだ。 先に述べた、テーマの訴求力も、この猿の造形と行動に支えられていると思う。そう、この映画の本当の主役、エイプ軍隊の将軍セード(ティム・ロス)を見て欲しい。特に宇宙飛行士レオ(マーク・ウォルバーグ)によって、透明防護壁に閉じこめられて狂乱の内に、ハンドガンを乱射する将軍セード。兆弾の危険性や防護壁の強固さなど、怒りと新しい力に捕らわれてしまったセードには気付く術もない。この姿には慄然とする部分が潜んでいるが、それはおそらく、セードの狂乱ぶりが人間の秘めたる凶暴性を刺激するからだろう。そして最後にはセードは疲れ切った猿同様、穴蔵の中にその身を丸めてすっこんでしまう。 これを見た観客は、「ああやっぱり猿なんだなぁ、、度はずれた凶暴性を見せるけれど、その嵐が去ってしまうと、何事もなかったようにその情動が無に戻ってしまうんだよね。あれ、人間ってああならないよね。絶対、穴蔵の中にモグリこんだりしない、って事は、人間の方が粘液質でえぐい凶暴性を持ってるって事?」 ティム・バートン監督はこのあたりを説教くさくなく、ちゃんと映画監督として映像で提示してくる部分が凄いと思う。 でも正直に言って、チンパンジー、アリ(ヘレナ・ボナム・カーター)に見られるような女性『猿』の造形には多少、バートン監督の挑発的な悪趣味を感じるね。まあこれは将軍セードという造形に伴う、必然的なおまけと考える方がいいのかも知れないけど。(バットマン造形の必然的おまけであるキャット・ウーマンは素晴らしかったけれどね。それと、なんとなく将軍セードにバットマンの影を感じるのは近緒だけかしら。) PS 最後にヘストン版『猿の惑星』の「衝撃のラストシーン」と、バートン版「衝撃のラストシーン」の比較をしておくね。ヘストン版はおそらくこの映画が発表された時代背景を考えると、本当に理詰めで『衝撃的だった』んじゃないかと思う。SF小説なんかの年譜を読んでいると、ヘストン版が映画として登場した少し前ぐらいに、ブラックホールやホワイトホール、タイムトラベル、ワープといった単語が花盛りになったみたいで、その辺りの状況を考えるとあの『自由の女神』は相当、説得力があったんじゃないかと思う。 で、方やバートン版なんだけれど、こちらは、最近の映画によく使われる「お約束」パターン。しかしお約束はお約束でも、インパクトは圧倒的にこの映画のバアイは高い。それはおそらく観客が、あの将軍セードに表される『歴史』が又繰り返されるのかという、絶望感とうんざり感を、単に映画の中の物語に留まらず、私たちの世界に浸食する形で感じ取ってしまうからだろう。 |

「ペニス」
ペニス
津原泰水 双葉社
|
|
私は個人サイトを中心としたウェッブの世界では、一つの確実であからさまな原理が存在していると思っている。それは『わがまま・好き勝手』だ。それと同時に、ウェッブ世界全体は「情報の大海」でもあるのだが、その無限とも見える大海から「正確さ」や「公共性」をあまり期待しない方が良いとも考えている。ではこの大海に一体何が詰まっているのだろうか、、。私はその半分以上の成分が個人の『妄想』ではないかと思っているのだが、、。 私は、『I saw』という私のつまらぬ映画・書籍評について、たった一つだけ「ルール」を架している事がある。それは私が取り上げた映画なり書籍が、作品自体がもつ表現力という鍵で、私のどの部分の扉をどう開いたのかをハッキリさせておくという事だ。 『曲解・誤読・資料不足・不正確』そんなものは、個人レベルのHP上にあるレビューを書く上で最優先されるような課題ではないし、それに対する批判など何一つ怖れてはいない。 第一、一つの表現に触れて、作者の意図したもの全てを全部判る必要が何処にあるというのだろう。表現に触れると言うことは『他者を誤解する』ということか『自分を発見する』という事でしかない。自分が触発されたこと、それが全てなのだ。 ならば「誤解・曲解・発見・触発」その事こそ、私のようなHP上のレビュー欄には明示的に「表す」必要があると思っているのだ。Web上で知り合った知人からは、公共性や市場原理を必要とされていないWeb作家(そういったモノがあるのかどうか私には心許ないが)には二・三人の読者がいればそれで書き手としては充分だと教えて貰った事がある。恐ろしく細部の偏狭なデティールやテーマを書きつづるWeb作家の特質を考えて見ると名言だと思っている。反面、このような極私的な部分や需要が、今でも拡大と膨張をし続けるインターネット宇宙の構成要素の非常に大きな部分なのだと考えると不思議な気もしているのだが、、。 と、ここまでが『ペニス』の感想に入るまでの長い前置きなのである。 他者の表現活動に触れるとき、私は、私とその表現との相性をさして「親和性」という言葉をよく使う。それと同時に、私には対人恐怖症の気があって生身の人間が苦手な所もある。この二つを考える時、例えば自分にとって非常にシンクロ率の高い作家がいたとして、その人と生身で出会ったらどうなるのだろうか?と想像ながらも身がすくみ上がるような不安を感じる時がある。 かなり深い部分でその相手と精神的にシンクロするという事は『情交』を交わした事に等しいと思うのだが、、、しかし私たちは精神の抽出物の存在ではなく、肉体の日常に左右されている存在だから、おそらく日常生活においては、シンクロしたという事実自体が呪われたものになるような気がするのである。 相手が思っていたより背が高いとか低いとか、そういった事からまた始めて行かなければならず、かって入り込んだ筈の場所の入り口すら見失ってしまうかも知れないのだ。 『ペニス』の感想になっていない?どうだろう?自分ではおそろしくリアルな感想を書いているつもりなのだが、、現在は185ページ、、夕食後から読み始め、入浴で一旦中断、もうすぐ日付が変わろうとしている。 このまま耽読をしてしまう予感がするが、精神的に不安定なので、無理にでも眠ろうと思う。ある種の本は私に薬物めいた強い影響力を与えるのだ。 変な例えだが、私は村上春樹で心を「トリートメント」され、津原泰水で「酔って墜ちて」しまう体質を持っているのかも知れない。 朝だ。再び『公園』に入る。この小説に雨のシーンと夜が多いことを思い出す。日中も登場するが凡庸な日中は決して登場しない。第一、私の中の『公園』は昼間でも光と闇が豊かな人工ジャングルに近いイメージがある。そして『ペニス』には、あらゆる所に砂絵のアクセントとなるような煌めいて散在し卓抜過ぎる比喩表現がある、この表現は一体何に支えられているのだろう。優れた視覚記憶とそれを言葉に変換する知力なのか、発想なのか、、、いや津原泰水が心の蓋をあける鍵をもっているからだろう、、技法と呼ぶよりは鍵と読んだ方が良い。そんな鍵を持った作家はそうはいないし、同時代に出会えた自分も幸運なのだろうと思う。 私の中で『ペニス』に登場する夜の場面は、映画ロストハイウェイのような毒々しい発光した赤の色彩が炸裂する世界だ。勿論、色彩は赤に止まらない。『ペニス』の世界はもっと芳醇だ。しかし読んでいく上で浮かび上がってくビジョンには、しきりと内側で発光する光や色のイメージがつきまとっている。昔、様々なカクテルを綺麗に撮影した写真集を見たことがあるが、それは相当、官能的な美しさに満ちていた。カクテルの色は単色でも美しいし、更に比重と色味が違う二つの液体の境界線などは、永遠に眺めておれそうな気がしたものだ。津原泰水の色彩は、あれの有機体といおうかグロテスク版のイメージがある。 朝から読み始めて六時間程たった。読了である。昨夜と合わせておおよそ半日ほどの心の旅といおうか「惑い」であった。月並みな表現、しかし一番、説得力のあるだろう感想をここで述べておく。『私も公園の中にいた。』それもおおよそ十二時間の監禁状態である。何人かの読者は現世に帰ってこれないのではないだろうか、といらぬ心配までしてしまう。 『世界』への不能者は、数多い筈だ。実数は数えられないし、何を持って不能というのか、その境界線も判らない。だがその数の分だけ確実に「表現」があるのだと思う。 それはWebの世界を見ればはっきりと判る事だ。「隠したり」「埋没させたり」しないでそれを「見せたり」それで「まぐわったり」する事、それがWebの世界の登場で容易くなった事がいいのかどうか私には判らない。(私はその表現の発信者でありたいと思ってはいるが。) ただこれだけは言えるだろう。そんな風に変質を遂げつつあるWeb上のコミュニケーションや表現の感覚レベルで判断しても、『ペニス』は面白いし、蠱惑される世界を持った作品であると。 PS 私はその作品によって、私の心に楔のように打ち込まれアンカーとなった『部分』を、この「PS」で告白する事にしている。それは作品そのもののメインテーマから離れた所にある末梢や、隠されたものである事が多い。しかし『ペニス』の場合のアンカーは、この作品ほぼ全てといえる。従って告白はない。又、「公園」や「公園管理人」「冷凍庫の中の少年」などの設定については、これはもう津原泰水という人間に与えられた天啓だろうから何もいう事はない。 ただ、『ペニス』の特徴として(私は津原泰水の作品をこれ以外に二作しか読んでいないのだが)今までに気づかなかった部分で糞尿汚物嗜好(こういった貧相な言葉では括れないのは判っているが他に適当な言葉がない)が挙げられると思う。『私』がホームレスの女性に性的ないたずらを仕掛けるシーンも『汚れ』に突き進んでいく情動みたいな部分が克明に描かれているし、私の一番記憶に残っているのは若き日の『私』と『すなお』の夜の河原でのシーンだ。 洗練された両性具有存在へのアプローチやフェチシズムは津原作品にずっと昔からあったけれど、それはどこかコーヒーにいれる砂糖やミルクのような色合いが意識的に施されているような気がしていた。、、しかし『ペニス』ではスカトロも含めて、それらの向こう側にあるものへ、一気に飛び抜けたようだ。 ただ、その着地点が谷崎とかサドではない部分である事が、私にはとてもうれしい事なのだ。この人はまだまだ惑うだろうし、私はまだまだ津原泰水の惑いに蠱惑され続けるのだろう。 |
「グルーム」
|
|
「このミステリーがすごい!」が出た時点で、ベスト10から自分好みの海外ミステリーを選んだ本を読むのが冬の楽しみの一つ。対象は別に1位になった作品でなくても構わない。で、今回近緒が選んだのはジャン・ヴォートランの「グルーム」。 でも読んだ感想は、もう一つだったなぁ。勿論、このレビューに取り上げるぐらいなんだから水準以下って事は決してない。 主人公のハイムが彼の妄想世界であるアルゴンキン・ホテルと現実を行ったり来たりする中で偶発的(?)に殺人を犯していく過程の描写は、確かに読ませてくれるんだけれど、残念なのはこの作品、全編に渡って読者としての興奮をずっと持続させてくれるわけじゃないってこと。 つまりは近緒みたいな読者を釣り上げた「このミス」のレビューが上手かったってことだ。正直言ってサイコ君絡みやフェッテシュの匂いのするミステリーが目当てで「グルーム」を読んだんだけれど、ちょっと肩すかしって感じ。 理屈っぽくてちょっと気取ったお喋りがぎっしり詰まっていて、ついていくのが少し辛い感じ。あーっ、これってフランスの感覚だよなーって途中で気が付く。 それに後半「女刑事サラ・ドッドルドーが登場する辺りから、主人公ハイムの妄想結界世界に破綻が訪れ、物語は急速にハードボイルドサスペンスに」と、なればいいんだけれど、グルームではどちらも物語としての興奮度が失速してしまうのだ。筆力がなくて息切れしているならともかく、ジャン・ヴォートランの場合は「書きたいことはもう書いたからいいや」って感じなのね。 このあたりのアクのなさというか、エンタメへの執着度のなさはフランス娯楽映画にも共通してるみたい。この欲求不満の原因は、多分、楽しませる為ならどんなお馬鹿でもやってのけるハリウッド映画のコテコテ・エンタメ精神に毒されている近緒のせいもあるんだけどね。(この気持ちって物語中の色情狂アメリカ女性パメラ・アバークロンビーみたい。) ジャン・ヴォートランが書きたかった事というか、作者が自分を投影して入れ込んでいたのは、勿論、主人公のハイムと彼が自分自身の分身として投影したアルゴンキン・ホテルの住人達なのだろうと思う。 従って主人公ハイムに関しては、「いくら病んだ精神の中で猟奇的な犯罪を犯そうが、それが現実的な価値観に照らし合わせれば極悪非道の悪なのだ」という視点をこの物語では放棄している。 ラストシーンで、ハイムは走らせる事が出来ないオートバイにうち跨り夢想世界に逃亡を試みるのだが、結局、彼を包囲した「現実の」刑事達に銃殺される。しかしそれは当然の報いと言うよりも「可愛そう」にさえ読者に映るのだ。 ハイムが、逃避し戦っているのはこの現実という「糞ったれの世界」なのだ。 PS 「このミス」でエリック・ガルシアの「さらば、愛しき鉤爪」が7位にランクキングされていたのにはビックリした。と言うのもこの小説随分前に買って読み始めたのに未だに読了しないまま手元にあるからだ。 |
I
saw a movie.
監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
|
|
シチリアの小さな村ではまだ映画が唯一の娯楽だった。戦争の影を引きずる映画全盛時代に、その「映画」で育つ少年トトと、彼を温かく見守る壮年の映写技師アルフレードがいた。 時は流れる。アルフレードはフィルムの引火により火事を起こし失明し、トト少年がその後を引き継ぐ。トトが多感な青年になった時、アルフレードは人生の張りを失いつつあった。全ての青年には旅達の時がある。 「話すのも黙るのも同じ事だ。だったら黙ってるほうがいい。」と言ったアルフレードが「自分のすることを愛せ。子供の時、映写室を愛したように」にと、激しくトト青年に願いをかけた。 人は他人に強く本音を伝えるときはその言葉自身が自分への願いである事がほとんどだ。 満ち足りた人生だったのか、夢を積み残した人生だったのか、あるいは自分が「満足してしまった事」への悔恨がトトの可能性への願いに転化したのか、、。父親は息子にそんな期待をかけるものだ。ましてアルフレードとトトの関係は、血が通っていない分だけもっと純粋だったかも知れない。 こんなに見終わった後「満ち足りて、力の湧く」映画は久しぶりだった。 もしこの映画の事を「映画好きが涙を流して喜ぶ映画」だと思って敬遠されているなら、それは大きな間違いだ。あなたが偏執的な映画好きでなくても、きっとこの映画に感動する筈だ。 そして勿論、普通のあなたでも監督自身の「映画への限りない愛情」が、あなた自身の中の「別の言葉で語られていた大切な何か」であっても良いことに気づく筈だ。 美しい映画である。「美しい写真に近い映画」ではない。「美しい絵画に近い映画」でもない。現実世界そっくりに生きて動くが実は偽物である、そんな美しい、、映画である。どんなに酷い現実を映してもその裏に「夢」が隠れているのが、、美しい映画である。 映画の冒頭の風のそよぎであなたはそれを知る筈だ。そしてトト少年の目を通して、これからの未知の人生が「夢」に満ちている事を知る。 そして老いて光を失ったアルフレードの知恵から、過ぎてしまえば「光り輝く瞬間も苦悩の瞬間」もふくめて、あらゆるものが「夢」である事を知る。 全ては夢だ。だからこそ「自分のすることを愛する」必要があるのだ。 私は「海の上のピアニスト」と比べるとこちらの方が、スマート過ぎない分、好きなんです。 トト少年の「飛びはねぶり」とか、この時点での人物描写は、とてもレトロな演出なんですよね。それがトトの成長につれて現実へ現実へと、フイルムの色調さえ変わっていく。最後のパラダイスシネマが爆破されるシーンの色調はもうほとんどドキュメンタリー映画にまで近くなる。そしてラストシーン。喜びと悲しみが入り交じった感情に晒される対象が「白黒フィルム」!!この巧さは「海の上のピアノ弾き」にも随所に出てくるけれど、、。何処かが違うんですよね。ニュー・シネマパラダイスと「海の上のピアニスト」は、、。 |
「顔に降りかかる雨」
桐野夏生 講談社
|
|
−−−「自分で死ぬやつは身勝手の極致です。忘れるしかない。自分を痛めつけることはない」「わかってます」一瞬、この前に立っている男の胸のなかに倒れ込みたくなった自分を、私は恥じた。−−− 女探偵のハードボイルド小説、(女性のハードボイルド)の意味がよくわかる。ハードボイルドは男の専売特許ではないのだ。 男が書くと「男」の弱点が強調され「女」が美化される。そして、ここ辺りが微妙だが桐野夏生の場合は「男」が美化されて「女」が墜ちる。いずれにしてもハードボイルドは性別に関係なく成立する事が、この作品を読めば感覚的によく腑に落ちる。 こういった作品が成立するのは桐野夏生の才能であるが、同時に「時代」ということも背後にあるだろうと思う。人間の基本的な部分に直に関わる表現分野においては、「社会の変化や、時代の変化」とはあまり関係なく、その描き表す部分は、昔から変化がないと言う人もいるが、これは絶対に違う。一昔前には絶対に出現しなかった作品なのだ。 と言っても、私は、この作品がフェミニズムから見てどうかという論評を加えようとしている訳ではない。あくまでも、女側からでも「ハードボイルド」が成立するという事と、今まで、そんな作品が、特に日本では生まれなかったという事を言いたいわけだ。 (そして一番重要な事は、この作品の登場が、私にはとても心地よいという事なのだ。) 「時代」と言えば、作中の川添桂や山崎龍太に代表される人たちも「時代」の落とし子だろう。(勿論、彼らが体現する性癖は昔からあるが、それらが社会の中で一つのシーンを形成出来るのはこの時代だからとしか言いようがない。) この手の人たちはある意味「美しい」存在なのだと思う。(「そんな風に見たいときは。」と注釈をつけて置くべきだろうが)それを、上手く作中のなかに取り込んだのも桐野夏生の一つのセンスだろう。 ただ山崎龍太の「見え方」が少しご都合主義なのは、他の人物設定が良くできているだけに、気にはなった。(私は、ラバーの衣装が好きなトランベスタイトを身近に良く知っているが、龍太が舞台に上がったコスチュームでは、彼のもとの性を見間違ったりする設定は、あまり現実的ではないと思う。) しかしこの事も、「東ドイツ」「ネオナチズム」や「中古部品」などという関係で落とす桐野夏生の手腕の前に、許せる範囲のサービス精神の発露と見なせるのだが。 −−−濃度の高い、氷よりも冷たい液体が、喉を滑っていく。これが私のプライドだったらいいのに、と思った。−−− 村野ミロに乾杯。そして桐野夏生の「美しい表現」に乾杯。 |
I
saw a movie.
監督:メール・チョンロー
|
|
ゲイ・ムービーというよりはフィリピンという国、そして日本という国を考えさせられる映画で、又、私にとっても公私ともども「痛み」を感じさせられる作品である。多くのゲイ・ムービーを見ていつも考え込んでしまうのは「家族」の事だ。多くの場合、ホモセクシュアルは「家族」の概念にとって疎外の対象として描かれる。中でも「父親」と「ゲイの息子」の関係は深刻である。ところが「真夜中のダンサー」の場合、その相克が非常にゆるやかなのである。緩やかなのは「父親」だけではなく、この映画に登場する3人兄弟がすべてゲイであり、彼らの母親もその事を「生活の為に」許容しているのである。長男のジョエルに至っては、彼に「男の愛人」がいる事を理解している赤ん坊のいる妻まで登場する。 「男が身体を男に売ることによって金を稼ぐ事」が、この社会においてそれほど強いタブーではないのは社会の「貧困」と、人間関係に対する「おおらかさ・いいかげんさ」が背景にあるように見える。「(3兄弟の内の次男デニスが警察に謀殺されて)これは、デニスをゲイバーで踊らせたり、デニスの転落をゆるして来た私への天罰なのよ。」と彼らの母親が嘆くのだが、、それは決して道徳的な観念からではなく、母親として、「この社会でどう息子達を生き延びさせていくか」を見誤ってしまった事への悔恨だろう。又、前出のジョエルの妻は「日本」に子どもと夫をおいて出稼ぎにでようとするし、ジョエルは身体を売り続ける事で、それを支えようとする。 映画の後半は一気に、ジョエル一家の「大らかなる母親」が拾って面倒をみた麻薬中毒の少年の存在が原因となり、一家の崩壊に雪崩れ込んでいくのだが、、。「コールボーイで稼ぐ額は大きいけれど、俺たちは毎日なにかを失っている。」「僕らはいつも犠牲者だ。それじゃ駄目なんだ。」そういった言葉が、決して前向きの展望として語られない所がこの映画の怖い部分だ。そして、その社会から抜け出る為の一つの出口として「日本」がある事、これも怖いことなのだと私は思う。 PS 「ゲイを愛せるのはゲイだけだ。」「本物の女以外を恋人にする男はみんなゲイなの。」「中近東に送り出されたこの国の少年達はみんなゲイになって帰ってくるわ。」これはこの映画の舞台となるマニラのゲイ・シーンでやり取りされる会話である。「真夜中のダンサー」は上に上げたような社会告発の側面を持つと同時に、優れた風俗ドキュメントの顔も持った作品である。 |
I
saw a movie.
監督:アン・リー
アクション監督:ユエン・ウーピン
|
|
アン・リー監督は、自分が映画の新しいジャンルを切り開いたことに気づいているだろうか。いや「新しい」といっては言葉自体に語弊があるかも知れない。今までにもこのようなワイヤーアクションを多用した映画はずっと作られて来たのだから。 だがしかし、これほどまでにアクション自体が人物の性格を演じ、感情を揺り動かし、時には精神的な「美」さえも現した映画はなかったはずだ。伝説のブルース・リーにしても彼の思いつめたような顔の表情が彼のアクションをブーストしたのであって、アクション自体が「演技」をしたのではない。 第一、この映画の出演者の中で本格的なアクション技術を持つのはミシェル・ヨ−だけのはずだ。だが「凄い」。冒頭のミシェル・ヨ−とチャン・ツィイーの半重力世界の追跡シーンなどはまるで夢を見ているようだ。確かに、ワイヤーだという事はわかる。だがそれを含んでもその動きは十分に美しく脅威的でさえある。そしてこの二人の2度目のバトルでは、二つの「世代」そして「愛の形」を、アクションで表現するのだから、何をか況やである。 技では百戦錬磨で優れているシュ−リン(ミシェル・ヨ−)が、イェン(チャン・ツィイ)相手に、碧名剣を待たれたが故に勝てない。「武器は一流でも腕は二流ね。」とやってみても勝てないのである。イェンは肩で息をしている、それでも若さゆえ、エネルギーが費えることはない。若さ故の「無鉄砲さ」と、成熟故の「思慮深さ」が、それぞれの持つエネルギー量において拮抗するのである。そういうことが二人の「アクション」をみればわかるのである。 そして竹薮の頂上でのイェンとリ−・ム−バイ(チョウ・ユンファ)のアクションシーン。風にざわめく緑の竹笹の中から、まるで水面に浮かび上がってくるようにみえるイェン(チャン・ツィイ)の顔のアップシーンなどは、極め付きで美しい。こんなカットを含んでこのアクションは、チョウ・ユンファのキャラクターと演技力を更に得て「幽玄」さを感じさせるほどの名シーンになっている。 ただ良いこと尽くめの『グリーン・デスティニー』だが、ストーリー展開については評価が分かれるところだろうと思う。物語は、イェンの気持ちの変化や行動で展開する仕掛けになっているのだが、周囲の変化に対しイェンがなぜ、「そう感じた」り「そう行動にでる」のかが、その時々の場面では理解できないのだ。暫くしてからしかもかなり観客の推理も入れて「ああなるほど」とわかるのだから、、。 (もしかしてこの混乱は、この映画のもう一つのベーシックなテーマである「武侠」といった思想性や「女性像」に関わっているのかも知れないが、、。) 例えば映画ラストに修行山の谷間にイェンが飛び降りるシーンだって、人によればその行為の「解釈」が違うのではないかと思う。私にはイェンの自殺行為だと思うのだが、「飛び降りたときに願いがかなう」という伏線が冒頭にはってあり、イェンが何を願いながら飛び降りたのかが判らなくなるのである。契りを結びあったロー(チャン・チェン)と沿い遂げることを夢見ているのか、それともリ−・ム−バイを死なせてしまったことへの償いなのか、、、。それはどちらでもいいという訳にはいかないのだ。その事自体が映画を見た時に「感動する」という仕掛けに繋がっていくのだから。 『グリーン・デスティニー』はそういう混乱が随所に含まれる映画でもあるのである。しかし、冒頭に述べたように、『グリーン・デスティニー』はその混乱を補って余りあるアクション映画だとも言える。このアクションに見とれてください。そしてチャン・ツィイーのキュートさに魅入られて下さい。 |
I
saw a movie.
監督:チャン・イーモウ
|
|
そうは言っても「初恋のきた道」はびっくりするぐらい単純な「恋愛映画」。一人の少女が村に都会から教師としてやって来たエリート青年に恋をする。この当時の時代や社会背景からすれば、やや「禁じられた恋」だが、、少女達はお互いの一途な思いで添い遂げ40余年の結婚生活をおくる。やがて夫は死に、残された老婆は土地の風習どおり、夫の遺体を病院から自分の村まで「初恋がきた道」を「担いで」運ぼうとする、、。 でもこの映画の実に多くの事をしみじみと問いかけてくるのだ。語りかけてくるのは「恋愛」の事だけじゃない、、色んな事。 そして主演のチャン・ツィイーはもう文句なし、、それにしても、、、ある年齢で、、その年齢でしか体現できない表情を出し切れる作品に出会えたことは、彼女にとっても幸せな事だろうなって思う。 風景は「青」から「黄」色へ、「黄」色から白へ、、移り変わっていくけれど少女の「赤」は変わらない。 これは映画通が論ずる為の映画ではない、チャン・ツィイーファンの為の映画でもない、、近緒が思うに、期せずして「日本人」の為の映画だと思う。 |
I
saw a movie.
監督:チャン・イーモウ
|
|
チャン・イーモウ監督の「初恋の来た道」を先に見たもので、近緒の中ではどうしても両者を見比べてみる感覚がある。勿論、美少女チャン・ツィイーを登用した時点で両者の差は明らかで、自然や風景を切り取る作業でも「初恋の来た道」の方は過剰といって良いほど「美しい」。 「あの子を探して」のカメラの視点は極力、子どもたちの動きや表情をオーバーアクションでないことに気遣いながら、作品に取り込むことに力を注いでいるようだ。 こんな風に書くと、2本の作品は際だって違っているか、あるいは片方が商業ベースにのっかった作品か?と思われるかも知れないがそれは違う。 近緒の目には「初恋の来た道」のチャン・ツィイーもこの作品の主人公である少女ウェイ(魏敏芝)も同じ魂を宿しているように思えてならない。言い換えればそれは、チャン・イーモウ監督の思想そのものであるような気がするのだ。 二人の女性に共通すること、それは人に捧げる思いの頑迷なまでのひたむきさだ。チャン・ツィイーはひたすら恋人を待ち、少女ウェイは少年チャンを求めてひたすら歩く。 そして、少しばかりの誤解を生むかも知れないが二人の女性に共通するもう一つの項目は、ある種の「高潔さ」というか「気高さ」だろう。 ある寒村の一ヶ月間の代用教員(実体は子ども達のお守り。)としてかり出されて来たウェイは、その代価の金に執着してる(こんな表現が嫌いな人には、アニメの「じゃりんこチエ」みたいと言っておこう。)少女だ。大人に向かって口を開けば「本当に五十元くれるのね。」ばかり。 彼女が学校をやめて都会に出ていったチャン少年を探しにいく動機だって、自分が代用教員の間に生徒が減らなければ五十元以外の報奨金を貰える約束があるからであるし、その為の捜索費用だって、いわばなんの関係もない生徒達に命令し無理矢理働かせるわ、挙げ句の果ては無賃乗車も厭わずというというものなのだ。 さらに映画の冒頭では、都会の学校に引き抜かれようとする生徒を、教師の強権を発動して隠してみたりする。勿論その子が可愛いからではなく(本人は都会の学校に行きたがっている)その報奨金の為だ。 ただウェイの金への執着には不思議な傾向があって、彼女が都会にでてからはその持ち金を、自分の為には一切使わず総て少年の捜索の為に使い切ってしまうのだ。 結局ウェイは空腹の余り、露店の食べ残しを浚うのだが、それも人から哀れみを施されてそうするのではないのである。表面的には、誰の世話にもならないという顔を保ち、周りに人気がないのを確認しながら飢えた犬のごとくに鉢の残り物をすすり込むのである。 勿論、ウェイが金に執着を持つのは、他の寒村の子ども達がそうであるように貧困のせいだ。そして何よりも「金」がどんなものであるのかを知っているからだ。 だが少女ウェイは決して人の哀れみをかって金を手に入れようとはしない。理不尽で強引な手法も使うが、それは何かの対価としての「金」であり、己の能力を駆使した交渉の結果の「金」なのだ。その態度はウェイの大人との関わり方にもよく反映されている。 それほどに自立してると言えば聞こえはいいが、中学生の年頃の少女が、そうであらねばならない現実を考えると胸が痛くもなるのだが、、。 そしてウェイは大都会の中で、持ち前の強情さと粘りで、とうとう少年を探し出す手段としてテレビにまで出演してしまう。 (都合良く登場する善意のテレビ局長を初めとして、この後半の展開を「甘い」といって嫌う人もいるが、近緒にはこの話で、これ以外のどんな展開がありえるのか判らない。) そして番組の中で「なぜ、あなたは少年を探しているのですか?」とインタビューされて応えられずにいるウェイ。 もしかしたらウェイは自分の少年探しの動機を恥ずかしい事として捉え始めたのかも知れない。あるいは探している内に自分の心細さと少年の気持ちが重なって少年への思いが募り本気になったのかも、、。 それとも存外に、出稼ぎ先で逃げ出して彷徨っていると知った時点で少年を本気で心配しだしたのかも知れない。 小さな子どもなのだ。色々な思いが交錯したのに違いない。「帰ってきてホエクー。本当に心配したのよ。」・・最後に涙を流して、己の中で結晶化した少ない言葉を語るウェイ。 もうこれは・・・泣いちゃいます。 (こんなに見え見えの直球なのにね、本当に素直に泣かされてしまう映画作り。これがチャン・イーモウ監督の特質なんだよね。) PS 子ども達が、工事現場の労働(?)を終えて、2缶しか買えなかったコーラをまわし飲みする光景にぐっと来るかどうかで実体験世代、バーチャル体験世代が判る。もうバーチャルにさえ所属しない世代が存在するんだろうな。それが幸せなのかどうか、、。よく言われる事だけれど、こんなにモノが溢れていている癖に何も真剣になれるものがない国で生きる事がどういうことなのか、、。 そう懐疑する私は、私なりに次の出口を考えてるけど、、。「あんたらは考えてるの」って叫き散らしたくなる今日この頃なのだ。 |
「貧困旅行記」つげ義春 新潮文庫
|
|
近緒の中で、つげ義春と言えば「ガロ」。「ガロ」は随分、歴史がある漫画月刊誌らしい。一度、出版社自体が潰れたような話も聞いている。それから復活したり、又潰れたり、、どちらにしても青林堂という出版社の名前自体が「ガロ」と同様に有名なのも、不思議といえば不思議な月刊誌なのだ。 近緒には馬鹿な思いこみがあって、それは「ガロ」なんかに露出する作家達の生活水準は、そこそこ高くてきっと洒落た生活をしているんだろうなーという感覚なのだ。 (当時の近緒の思考回路は「掲載本数が少ない=売れない」という図式にはならずオメデタクも一本で生活出来るという風になっていた。) それにガロに掲載される作家は、個性派というか、独自の創造性が確立されている人ばかりで、結構色々な「違う分野」で彼らの作品を見たし、原稿料稼いでいるよきっと、てな感じでその思い込みをますます加速させていたのだった。 そして一頃のガロ(最近はどうだか知らない)には、陰鬱で貧乏たらしい作品ばかりが並んでいたが、それは生活実体ではなく編集者によって作家の「趣味」が揃えられているのだと思っていた。 近緒にとって「つげ義春」は、そのガロと、当時の私を代表する作家。「ねじ式」よりは氏の「ほんやら洞」タイプの漫画が好きだったけれど、いずれにしても身の回りの少女・少年コミックを見慣れた目には、つげ義春の漫画の有りよう自体が新鮮だったのだ。 さて、今回の「てへへ読書感想文」は、このつげ義春の「貧困旅行記」である。氏の文章ははっきり言って下手だ。何気なく読んでいると、妙に味があってイラストでいう所の「へたうま」系の文章なのかしらんと思ってしまうけれど、やっぱりズバリ言って、下手なのである。 どの章を読んでみても、文章自体にピントがなく、なにやら読み物を読んでいるという感覚がしないのだ。例えば、これを紀行文だと思って読むと大きな間違いだし、ならばエッセイかというとそうでもないのである。 しかしどういうわけか氏の文章は凄く読みやすい。上手に文章が書ける人は無意識の内に「読ませよう」と計算が働く。そしてその計算が命取りになる場合が多い(汗)。 けれどなーんも考えないで自分の頭の中に浮かんだ事を素直に文章に書き出して行く人も片一方には存在するわけで、更にその中でも自分の思考と同じ歩調で、多くも少なくもなく巧く収まった文章が綴れる人がいる。そういう人の文章は、ホント、巧まずして気軽に「読める」ものに仕上がってしまう。 つげ義春の筆力はそんな人の「一歩手前」って所かな。つまりこういう紀行文やエッセイめいたものを書くポジションとしては結構いい位置にいるわけだ。 でも読みやすいとは言うものの、つげ義春のこの紀行文は万人向けとは言い難いかも知れない。「とことん零落した自分に、なんとなく憧れ安心する」感性なんて許せない・肌に合わないという人にとっては、絶対に読めないというか、腹立たしくなるのが必定の文章でもあるからだ。 この近緒にしたって本書冒頭の「蒸発旅日記」なんかを読んでいると「ちょっと待ってよ、あんた子ども過ぎ、押入の中に入って夢でも見てな」って思ってしまう。まあ、つげ漫画のバックボーンとしてはあり得る世界なんだけれど、ああいった漫画だから許せるのであって、現実の女性との関わりで考えると一人の男性の行動パターンとしてはかなり問題ありだ。 (えっ内容が判らないって、、本屋で立ち読みしてね。ほんの数ページで、この感覚わかると思うよ) 話それちゃうけど、本書を読む限りつげ義春の奥さんはつくづく偉い人だと思う。(そう考えれば映画「無能の人」は、つげ義春の世界を巧くフィルムの上に実現して良くできている作品だ。吹雪ジュンのホワーとした奥さんぶりが、本書を読んでいるとリアルな演技であるのがよく判る。主役・監督の松田優作の物まねする人の事は知らないケド。) で本書のタイトルの「貧困」なんだけれど、これは色々な意味でつげ義春は本当に「貧困」旅行をしていたのだと思う。ただしそれは何処か余裕のある貧困なのである。 冒頭にガロに集まる作家は、そこそこ余裕のある生活をしているんじゃないかという話を書いた。何故そんな思いこみがあるのかと言うと、近緒自身が幼かったという事もあるんだけれど、本当の「貧困」は自分の意識の中でそれを客体化出来ないぐらい惨めものだという事を幼心にも感覚的に理解していたからだと思う。 言い方を変えると貧困者は生き方そのものが壮絶になってくるのものであって、当時のガロの漫画によくあったような甘くて切ない感覚などは「貧困」には一切含まれていないのだ。 少なくとも、将来的な設計も持たず不安定で乏しい収入が続く男が「旅」に出かけ、しなびた商人宿や山奥の湯治場で、さらに己を「惨めさ」の中に置く事を楽しむ、なんて事は貧困の壮絶さには含まれない。 (あっ、これはつげ義春の書いたものを非難している訳ではないので念の為) だからこそ、あのつげ義春の漫画が生まれるのだとも言える。つげ義春の山頭火にも似たその辺りの微妙な感覚を、許容できたり共鳴出来る人なら、本書においても「貧困旅行の旅情」を愉しめると思う。ある意味、本書はなかなか手に入らないユニークな視点を持った紀行文なのだ。 ちなみに近緒は本書の「猫町紀行」が、カフカの「城」を想起させてとても好きだ。次は「秋山村逃亡行」かな。 「秋山村逃亡行」に登場するラーメン屋の夫婦のシチュエーションで短編を一つ書きたいと思ったぐらいだ。 秋は旅行シーズン。つげ義春の文庫を一冊、カバンに入れて、、。・・やっぱ、お勧めできないわ。 |
「凍える牙」|
|
女性ミステリー作家論なんて大げさな文章を書くつもりはないのだけれど、「凍える牙」を読んでいるとふとそうした事を書きたくなってしまう。 男性作家が探偵や警官を主人公にした物語を書いても、同じものが一つもないように女性作家の場合も違うのだが、その差は男のものより大きいような気がする。 うがった見方だけれど、それは男性より女性の方が「現実」との渡り合い方がよりリアルだからという気がしてならない。 本作品では女刑事である主人公・音道刑事の相棒として滝沢という風采のあがらない中年刑事が登場するのだが、この男への音道刑事の観察がそのまま女性の視点であり感性であろうと思う。ただこの作品では秀逸にも、男性である滝沢の心理から主人公に関わる心理描写もして見せるのである。 ただそれが小説としては「薄っぺらい」、そして薄っぺらいのだけれど、残念な事に「現実の男」はやはりその程度の場合が実に多いのである。 作品の前半は、主人公とこの滝沢とのやりとりが小説のベースになっており、それはそれで面白く感じたし、これをとことん書き込んで最後に意外な展開にもつれ込ませていくのかなぁと大いに期待させてくれる。(これはジェフリー・ディバーの「ボーン・コレクター」の手法の一部だね。)所が、後半は話の趣ががらりと変わるのである。作中人物の捜査員達も捜査対象の中心が「発火ベルト殺人事件」から「ウルフドッグ殺人事件」に変わるのかよ〜と愚痴をこぼすのだが、読者にしたってどうもこのあたりの転換がすっきりこないのである。(「実は二人いて」というのもジェフリー・ディバーの常套手段だけど、彼のバアイこれだけ遊ばせてくれたんだからという気持ちになる。) この小説全体を覆っている雰囲気としてそういった「中途半端さ」が随所にある。いや決して面白くないわけではない。むしろこの中途半端さは作者の「面白い・あるいは書きたいもの」を突っ込んでいく姿勢の現れであって読者は色々な味が楽しめるのだから。 だけど、、そう「だけど」なのである。こんな事を書いても意味はないのだが、音道という人物の造形を桐野夏生が書いたら、もっとリアルなものになっただろうし、男性社会の中の女性・あるいは人の業・家族の業というテーマを宮部みゆきが書いたらもっと濃い感動が獲られたような気がするのである。 よしんば娯楽性というなら音道とバイク・音道とウルフドッグの関わりをもっとこってりと描きあげるべきだったかも知れない。音道が「休みの日には大型バイクでツーリングをしている。」程度の設定だけでは本当のバイク好きにはものたりないだろうし、同じ書くなら「掻き上げるクラッチペダルが当たるライダーブーツの爪先。そして右親指上部の凹み」みたいな嵩張るくらいの描写があって、あの極めて美しい「音道とウルフドックの夜の追跡劇」がもっと光ってくると思うのだが、、。 まあ、なんだか批判ばかりしているようだが、食い足りないと感じるのはそれなりに美味なのだ。魅力的なキャラクターを一人生み出すこと、それが作家にとってどれほど難しいか、、「音道貴子」は成功している。この成功した「音道」がくっきりとした輪郭を読者に投げかけないのは、安易に娯楽路線にのっけられるような女性像を書いてしまうと現実の女性から離れていく、そういった思いが無意識に作者に働いているからかも知れない。 それでも音道は成功しているのである。プレイボーイの表紙を飾るような女性像を押し出さなくても、もっともっと魅力的な主人公像を成立させうる作家が、これからは女性の側からどんどんでてくる筈だ。 次は是非とも音道を主人公にした真の「娯楽」作品を読みたいものだ。 PS 「凍える牙」映像化されてるみたいですね。音道刑事に天海祐希、滝沢掲示に大地康雄、なる程、、、彼らが動き出したらどうなのか判りませんが、絵柄的にはぴったりですね。 特に天海祐希、近緒は「黒の天使U」の彼女の姿しか頭の中にないんですけど。絵柄としてはベストチョイスですよね。 |
I
saw a movie.
|
|
困った。Isawでは「書籍・映画・ビデオ・コミック」と、近緒の感性に引っかかったもののレビューを扱っているわけだが、このような連続ドラマものを手がけるのは初めてである。、、さてさて、何をどう書いて良いのやら。 一言でまとめればダークエンジェルは「マックス(ジェシカ・アルバ)かっこいい!!」で終わっちゃうんだけどね。長く書くなら「面白い連ドラ」の解析をしないと駄目だろうし、、。 まあ、ひとまずこのドラマの立ち上がりの説明だけはしておこう。 舞台は近未来。2009年の米国ワイオミングにあるDNA研究所から12人の少年少女たちが脱走した。彼らは戦闘マシンとして開発されたジェネティックス(遺伝子操作人間)だった。 そして、2019年、脱走者のひとりであるマックス(ジェシカ・アルバ)は19歳に成長していた。彼女は、追跡者たちの目から逃れながら、テロリストの電磁波爆弾で荒廃したシアトルに身を潜め、脱走後、離ればなれになった仲間たちの行方を追っている。だが、彼女の肉体に彫り込まれたバーコードの秘密を知る男“アイズ・オンリー”ことローガンに出会い、マックスは彼と共に腐敗した近未来社会の暗部との戦いを始める事になる。 そして同時に、彼女の執拗なる追っ手・DNA研究所指揮官ライデッカーとの戦いも、彼女の宿命を暗示するように展開されていく。 、、とまあこんな感じ。どう?お話自体は、それほどユニークな設定じゃないでしょ。 主人公マックスの日常的な背景として自転車運送会社を設定し、レズの「オリジナル・シンディ」や、嫌われ者上司「ノーマル」を配置して、いくつかの、人間を掘り下げる為のエピソードを番外編として挿入してるのも連ドラらしい構造かな。でもこれって連ドラの定番のフォームなんだよね。 ( 内緒話的なんだけどこれって、「アギト」に登場する、G3ユニットや真魚ファミリーの受け皿構成によく似てるなって、、第一、テーマも「異形の人間を通しての人間考察」でしょ。) その他、ロマンス軸は勿論、ローガンとザック。 (特にマックスとローガンがまったく同じ事を同じタイミングで何度も喋るシーンは、使い古された演出なのに、二人がとっても初々しく可愛い恋人達と思える仕上がりになっていて楽しい。) アクション軸はライデッカー。 (このライデッカー、ハードボイルドかと思えばそうでもないし、実は結構平凡で冴えない奴かもと思うと、簡単に人を撃っちゃうし、、脚本を何人かで書いているからこうなるのかな、。) でもこのグチャグチャさが、彼の「一体この人、怖いんだか何だか判らない」っていう風貌とよく合ってると思うんだけどね。 (、、でもライデッカーがマックスに向かって「お前は俺の女房に似せて作ったんだ」と言った途端に、「変な目つきで見んじゃねー!!」って、のど頚掴まれたシーンは情けなかったなぁ、、。) こうして見ると「ダークエンジェル」あまりにも連ドラの王道を驀進しているので、ジェームズ・キャメロンが言ってる「映画じゃ撮りきれないテーマ・内容」って一体なんなのって聞きたくなるんだけどなぁ。(と言うかジェームズ・キャメロンって人はとっても大味な人なんじゃないかと、だからヤル人がやればダークエンジェル如きの世界観なんて映画尺で充分描き切れると思うんだけど、、。) 近緒がこのシリーズを買っているというか、ユニークだと思っている部分は、たった一つなのね。マックスを、たまたま超人に作られてしまってはいるけれど、現代的なちゃんとした女の子に描こうと努力している事かな。その辺りがバイオニックジェミーの頃とはとは時代が違うって事なんだろうね。若い女の子がデート前に脚の毛を剃るシーンを、こう言ったテーマの作品が映し出したのを始めて見たし、「ホテルのタオルを盗む。」っていうジョークやらね。 まあこのダークエンジェル、全体を通じて様々なエピソードがあるわけだけど「異形の者から照らし出す人間存在」という本来のテーマに肉薄しているものは意外と数が少ない。 第14話「ジェイス」 Femele Troubleでは、マックスの輸血で一度は回復したローガンの足が、血液の拒否反応により再び麻痺しはじめて、その辺りの彼の心理描写が面白かった。一度、奇跡の回復を見せた脚を再び失いつつある時の、焦燥感やダメージの深さの描写はとてもリアル。マッチョな人間はこういう状況にとても弱いんだよね。 そして第17話「ベン」 Pollo Locoは、「首にIDコードが彫られた変死体が発見され、そのコードナンバーが脱走した仲間の一人ベンのものであった為にマックスが奔走するのだが実は、その遺体は彼のものではなかった。」って話。 変種のサイコキラーものなんだけれどマックスも深いところではベンと同じように「追いつめられた存在」である所が、面白いところだ。 結局、14話にしても17話にしてもマックスとローガンが自分の「欠損した部分」をどう飲み込んでいくのか、、あるいは、何を梃子にそれを乗り越えていこうとするのか、、そのあたりの話に結ばれていくんだけれど、、。 まあ1stシーズンでは、マックスとローガンがお互いを導き合いながら、同じ存在としての自分たちを認識する部分で終わっている。でも1stシーズンであんな終わり方をした物語が今度も「明るく続けられる」のだろうか、、。でもなんたって題名通り、ダーク・エンジェルだからなぁ、、。 |
I
saw a movie.
監督: アンドリュー・グレイブ
|
|
黒のパンティがアノ形にもっこり浮き上がってる!わーあそこがでっかそう!それにしてもラバーコスチュームの威力は凄いな〜、、こんな大男でもそれなりに「女」に見えちゃうんだから。やっぱラバーのツルテカの光沢と質感が効くんだね。(ラテックス系マテリアルと人肌との見た目の親和性はヌーブラで実証済み) まあこれ以上このシーメール(設定上だけね、ビジュアルはコスチューム以外で期待しちゃだめ。外人さん特有の毛深いおなかを舌先でチロチロと舐めながら下方に向かって、、って場面もないではないけれど、なにぶんどう見ても似合わないカツラ被った男にしか見えないから)の事を書くとネタバレになっちゃうので置いておくけど、該当シーメールの登場を除いても、「ワイヤー・イン・ザ・ブラッド」拾いモノです。 まず冒頭で描かれる主役男女二人組の人間描写が面白い。臨床心理分析官トニーの日常生活破綻者ぶりや、あそこに蜘蛛の巣張ってそうな女性刑事補キャロルの「普通ぶり」が結構スマートに描かれているのね。 |
![]()

![]()
I saw a movie1