映像の部4

 
 

リターナー

 

 
リターナー

監督:山崎貴

 少女ミリを演じている鈴木杏を見ていて、昔何処かで見たことがある顔だなーと記憶に引っかかるものがあった。後で調べて見てあの「ヒマラヤ杉に降る雪」で工藤夕貴の幼女役で出てた子なんだと知って吃驚。
「ヒマラヤ杉に降る雪」での工藤夕貴と鈴木杏はあまりにも適役過ぎて、近緒の頭の中で鈴木杏が大きくなるときっと工藤夕貴似の女の子になるんだろうと思い込んでいたから、この映画にミリとして登場した彼女がそうだとは気が付かなかったのだ。
 彼女、小さい時から演技が上手かったけれど「そのままで上手いねー。」と感心してしまった。大竹忍のように感情を創って演技する上手さじゃなくて、場面に応じて自分の中にある感情を引っ張り出してくるタイプみたい。
 それに比べて金城武は、、、。彼はどうやっても「危険な男」にならんねー。「恋する惑星」みたく人がいいというか、かっこいいけどどこか頼りない青年をやるとピッタリなんだけど。でも台詞回しの木訥(汗)さを除いて考えると、日本が用意出来る人材で、こんな軽い感じのスタイリッシュ・アクションエンタテインメントにハマる人と言えばやっぱり彼が筆頭なんだろうね。(あ勿論、個人的には金城君、好みですハイ。)
 更にこの映画には三池崇史監督の「新・仁義の墓場」でキレたやくざの演技開眼した岸谷五朗が、それによく似たキャラクターを持つ溝口役として登場。(岸谷五朗、このキレヤクザ役が定番キャラになったりして)
 でも「新・仁義の墓場」路線を辿りながらも、その演技に少し水増しを入れてるのは、映画の質の違いを意識しているのか、はたまた演出の差、故か。

 映画自体の評価?のっけから誰が見てもこれは「ターミネター」のパクリって判るんだから、後は推して知るべし、この一本の映画の中にどれだけハリウッド映画のヒット作が織り込まれているか?お楽しみって感じ。
 でもそれが決して嫌みじゃなくて軽く楽しめる様に仕上がっている所が、新世代ってことなのかなぁ。VFXが凄く達者に使える監督さんが、こういうのを撮ると、2次元美女しか愛せない男達にも、かなりリアルな映像世界を提供できちゃうんだろうなと余計な心配をしてしまった。(この映画の中の鈴木杏は正に2次元アイドルの立体化存在だと思う)
 でもいつまでもこれをやり続けられると、色々な意味で困るんだけどね。

 
デアデビル
   

デアデビル

監督:

マーク・スティーブン・ジョンソン

 デアデビルって悪く言うと、かなり弱めの貧乏バットマンって感じ。バットマンみたいに、大富豪の御曹司だと、生活や生まれ育ちがフラットに描けるから、そのぶん本人の「陰」が際立って美的に描ける。
 デアデビルも、同じ生身の人間ヒーローなんだけど、直接的な言い方だけ彼は身体障害者であり、その生い立ちも欠して恵まれたものではなく、彼の苦悩や「陰」は、バットマンのそれに似ているようでちょっと違う。
 二人とも「悪」と戦う事で自分自身の存在を確かめているんだけれど、デアデビルの方が「もうクタクタ」って感じ。
 戦いの後で教会で懺悔したり、折られた奥歯を吐き出してみたりね。
 こう書くとこの映画、凄く重たく見えるけれど、中味はバットマンシリーズ以上に「マンガ」で薄っぺらい。勿論、アメリカンコミックの映画化なんだからそれで充分。
 CGをふんだんに取り入れた特殊効果は存分に楽しめるし、なにより主役がベン・アフレックなのがいい。勿論それは近緒の極個人的な男の好みなんだけど。

 そう言えばcorkyさんのサイトでも暫くデアデビルの画像が張ってあったなぁ。レザー・ラバー系のあのコスチューム、闇の中で静止画的に見ると、ホモホモって感じで凄くエロチックなんだよね。
(あのレザーの分厚い胸板に頬をすりすりしてベンの乳首辺りをいじって、股間のもっこりに、、あっとはしたない。)
 ところがこのオトコ・ボンデージコスチューム、動くとなんだかちょっと微妙にださい(たぶんあのマスクの水泳キャップみたいな頭部デザインのせい)のは不思議なんだけど。
 
PS デアデビルの唯一の超能力であるレーダーセンスの映像化が、この映画の肝の一つ。つまり新しい感覚を手に入れた視覚障害者が世界をどう認知してるかって事。
 己の持っている視角以外の全ての感覚機能を拡張させた結果が「レーダーセンス」っていう設定。
 ところがそのレーダーセンスとやらは、映画の中では結局、「視覚」に還元されていて、なんだかちょっと誤魔化されているような感じがした。
 まあ映画という媒体自体が「視覚」をメインにしたものだからしかたがないんだけれど、勝新の「座頭市」はレーダーセンスをちゃんと「外」側から実写で描ききっていたぞ。 
 
 
魔界転生
   
魔界転生

監督:平山秀幸
 えーっとこれは純粋な意味で「魔界転生」という映画の批評文ではないんですよね。内容的には深作版「魔界転生」の勝ちだし、深作版だって原作である山田風太郎ワールドと比較すれば「、、、」だし。
 それでもって何故ここに取り上げたかと言うと、ズバリ「麻生久美子の女体から血塗れオッサン麿赤兒がぬめり出る」フェチを語りたかったからなのよねん。
 このシーンって恐らく山田風太郎ワールドを成り立たせる重要なエレメントでもあると思うんだよね。
 麻生久美子が映画のはじめあたりに「女体を使って魔界の者をこの世に転生させる時は法悦の極みと共に」というエロチックなせりふを喋るシーンがあるんだけど、これを本当に特撮で正面から撮っちゃうとは思わなかったのでちょっと得した感じなのね。
 まあその該当シーン、「濃さ」でいうと並の下ぐらいで、麻生久美子ちゃんのセックスライフもなんだか淡泊そうな印象を受けるから、、こんなものかなって感じだけど、山田風太郎の原作でこのシーンを挿入したという意味は大きいと思うんだ。
 冒頭でも女性の身体が、内部変化で加藤雅也演じる荒木又右衛門に変身しちゃうシーンがあるんだけど、あれはちょっと山田風太郎の「忍法」の世界じゃないわけ。
(男の身体に女体が変化しだして肩の筋肉の丸みだとか胸筋のうえに上向きでもつぶれない丸い釣り鐘オッパイがのっかっているの見た時は、違う意味で、、リアルだなぁって思ったけどね。)
 山田風太郎って昔の人だから、彼のセックス観と緊密な所で「くのいち」だとか「忍法」が出てくるわけで、今のサイコなエロ小説なんかと比べると凄く健康的でしょ。
 なんたって基盤が「生命の誕生」とか「否定されるべき死」で、その上で屈折した官能文章を書いている訳だから。麻生久美子から血だらけの麿赤兒が出てくるシーンって、甘く見れば母性が新しい生命を生み出している感じだし、別な見方をすると、「男」性に完全支配される「女」性のマゾ的な描写のようにも見える。これって山田風太郎だって思うわけ。
 だから何度も書くけれど麻生久美子から麿赤兒がぐにょぐにょって出てきて彼女が恍惚の表情を浮かべてるシーンって大きいと思うんだ。
(麿赤兒、生み出して蝉の抜け殻みたいになったかと思うと、はらっ〜ぺったんって感じで麻生久美子が階段に落ちていくシーンは笑ったけど。)
 これを機に今後、山田風太郎原作を映画化するときは必ず、こういったシーンを入れて欲しいものですなぁ。
 
PS この映画、それ以外に語る所はないんかい?と言われそうだけど平山秀明監督のリメイクのホントの売りは殺陣でしょうね。。撮り方がユニークというか、これも一つのチャンバラの方向性でしょうね。批判も多いだろうけど、確かにこういった撮り方もあり得るな〜とは思わせてくれます。
 前作の柳生十兵衛・千葉ちゃんならこんな撮り方、必要なかったんだろうけど、
 
 
マイノリティ・リポート
   

マイノリティ・リポート

監督: スティーヴン・スピルバーグ

  アメリカ人はフィリップ・K・ディックという作家が好きなのかも知れない。
 ハリソン・フォード主演の「ブレードランナー」やシュワちゃんの「トータル・リコール」なんかが有名どころだ。いずれも形は違えど、喪失した自らのアイデンティティを追いかけて主人公達が逃げたり追いかけたりする映画である。
 この「マイノリティ・リポート」もそれに近い。いずれも映画化された時点で主人公達はハードでマッチョな男になっている。 まあこの様に、良かれ悪しかれ、アメリカの心は、深い所で自らの確固たる存在理由を、常に確かめざるを得ない性癖を持っているのかも知れない。
 要するにこの作品の場合、映画とコアとして語るべき部分はそれだけしかない。
 
 後はマニア的な楽しみかなぁ。映画の前半部分のジェットエンジンを背負っての追いかけっこは特撮にILMが噛んだ「ロケッティア」の完成バージョンを思わせるし、犯罪予防局の警官達が未来スワットチームよろしくバラバラと降下したり、これでもかって感じで近未来ガジェットのオンパレード。
 トム・クルーズが自動車の組立ラインに巻き込まれて、あわや身体全体溶接かと思いきや、追っ手が追いついてみると、すかした顔して組立上がった新車に乗って逃走。これなんかインディ・ジョーンズでスピルバーグが良くやってみせる独特のユーモアだよね。
 色々な意味で油が乗り切っているって感じなんだけど、でも「それだけ」なんだよね。スピルバーグってもっとやれる人だと思う。
 この映画、ジュゼッペ・トルナトーレ監督が撮った「マレーナ」みたいな位置づけであればいいんだけど。
PS マックス・フォン・シドー、相変わらず良い味出してます。もうこれくらいになると「生きたもん勝ち」って感じですね、、 それと「プレコグ」のアガサ役サマンサ・モートンもなかなか良かったです、、にしても外国人女優のなんと丸坊主の似合う事よ、、。  
 
 
トリプルX
   
トリプルX
監 督: ロブ・コーエン
 夏だからって別に無茶をする必要はないんだけど、日照時間が長いせいか、遊びまくっている。もちろんお仕事がその間待ってくれるわけじゃないから、睡眠時間を削っての体力勝負。夏は遊び気分をバブル化させるのね。んー体力が欲しい。やりたいことだけやって生きていたいよー。
 てな気分にぴったりなのが「トリプルX」。もちろんこのモードに突入した時は「人類の英知」なんてまるで必要なし。世慣れた「直感」さえあればいいのじゃ。んーっ、そう言った意味でザンダー・ケイジ(ヴィン・ディーゼル)はホント、ニューヒーローになり得るヒト。
・・・でもよーく考えたらジェームズ・ボンドだって相当いい加減な男なんだよね。ある意味ザンダー・ケイジのほうがよほど純朴かも。聞くところによると役者ヴィン・ディーゼルもそんな人物らしい。
 シュワちゃんも人気が出だした頃はそうだったよね。「凶暴」っていう印象に加えて、どこか憎めない愛嬌が見え隠れしてたじゃないさー。
 近緒がこの映画観てて。こりゃバカでも許すと思ったのはザンダー・ケイジのバイクアクションね。だって今まで荒唐無稽なのって山ほどあったけど空を飛ぶヘリコプターとジャンプで対等に渡り合うオートバイはなかったぞ。
 それに極めつけがアクション映画伝統のカーチェイスを、雪崩とスノーボーディングで代替えしたシーン。観客総立ちオーっって感じ。
 そうさ、やるときは、映画でも何でも本気でアホになれってことさ。

PS 悪役ボスの恋人エレーナ(アーシア・アルジェント)、初めはなんとも言えぬ爬虫類的な感触で、しかも女王様っぽくて期待度大だったんだけど、、正体がばれていく程、ただの女に、、。残念ねー。ダリオ・アルジェントの娘だっていう事だけでポイント高かったのに。

 
 
メメント
   
メメント

監督: クリストファー・ノーラン

  深夜のレンタルビデオ店の雰囲気ってどうかなぁ。こんな時間に店に入っている人達って?それぞれの生活背景を色々妄想しちゃって面白いんだけど。(近緒が一番怪しいって? )
 ヘビーローテーションってか、旧作でもかなり貸出率の高いビデオってあるじゃない。そんな中でも劇場にかけた当時は、も一つだったけど「レンタルビデオ」の形態になってからジワーと伸びる作品って、独特のスタンスがあって楽しいよね。

 「メメント」のキャッチコピーは「革命的リワンド・ムービーの誕生!」。リワンドと言えばイ・チャンドン監督の「ペパーミント・キャンディ」もそうだけど、こちらのテーマは「恨み節」じゃなくて、「記憶と生きる」ことの関係。
 こう書いちゃうと難しそうに聞こえるけど「メメント」は、ジャガーやいかれたブランドスーツに文字デカタトゥーって感じでファッションも少し押さえた娯楽ノワール・ミステリ。
 初めに悲劇的な「結末」があって、映画が時間軸を遡り、その結果にいたる過程を描いていくっていう形式は結構沢山あるから、コピー通りそれほど革命的とは言えないけど、この映画は軸を「10分前の記憶が消えてしまう前向性健忘症」に置いた所がネック。
 映画の中の“前向性健忘症”は、際物じゃなくてかなりしっかり描かれているように思う。ビールのジョッキに唾や痰を入れて、本当に主人公がその事を忘れてしまうのかどうかを試すシーンは胸が痛んだ。
 (実際は「心優しい?」キャリー=アン・モスが直ぐに取り替えてくれるのだけれど)
 まあそんな感じで、初めは謎解きオンリィの映画展開だったのが、だんだん主人公の境遇に観客が同情しはじめた頃を見計らって、最後にドカンと、どんでん返し(みえみえジャンという人もいるが)を食らう仕掛けになっている。
 「記憶」とか「写真」とかの話になると近緒はいつも「ブレード・ランナー」で描写されたレプリカントの姿を思い出す。人造人間たちは自分の存在意義をかけて、「記憶」と「写真」に異様にこだわる。
 言い方を帰ると、「記憶」があれば自分を確認する事が出来る、つまり人間として「存在」するという事でもある。その辺りの、人間存在にかかわるテーマも結構描けているのがこの映画の特徴でもある。
 映画の後半で、主人公が下す決断には「ゾクッ」とさせられてしまう。多分、主人公の立場にたてば自分もそうしてしまうだろうと思うからだ。
 結構、評価が高いこの映画、欠点といえば、観客が考えるので「忙しい」という事、「感じて」見てる時間がないというかな。
 映画の主人公になりきってその世界を生きてるって感覚?そういう情動に持って行くのが、映画の至上命令だと思っている人には、この「メメント」ちょっと辛くて「実験映画」みたいに感じるかも?

ps 細面で華奢な感じのするガイ・ピアースの顔立ちは、ドラァグクィーンにいけるなーって思ってたんだけど、後で調べたら映画「プリシラ」に出てたんだ。その事を完全に忘れてるってか、、アホな近緒でした。でも10分よりずっと以前の事だからまあいいか、、。

 
 
ドールズ
   
ドールズ
監督:北野武
  北野武って正直言ってどうなの。ほんとに映画作る才能あるの。この人レベルなら、いわゆる映画好きの素人さん10人集めたらその中に2・3人は同じ様な映画を作れるような気がするんだけど、、。
 場慣れっていうか、その世界の空気を知ってるかどうかって大きいし、素人が直ぐに北野武レベルになるとは思えないけど、数多の映画好きとの「差」としてあるのは、その程度じゃないかな。
 まあ「タケシ」が、シニカルあるいは破壊的なコメディアンであるという事実と、その彼がそれなりに見れる映画を撮れるっていうアンバランスが受けてるんだと思うけどね、、。
 でも本当に大事な事は、北野武自体が「俺って才能があるんじゃねの」って密かに思いこんだりしないで、「好きな映画」「撮りたい映画」を撮り続けている事なのかも知れないね。
 だからこそ、表現上何処をどう突破したら素人監督が、それなりに大向こうを張れるかっていう勘所を見つけだせるんだと思う。
 北野の暴力描写がいいと言われるのはその辺のからくりでしょ。

 ドールズはWeb上で仲良くして頂いているutanさんとのやりとりで、「紅葉」の話題で盛り上がった時に、名前が上がっていた映画。この紅葉の見事さを撮るために映画を一本作ってもおかしくないとか、そんな話だったような記憶がある。
 確かに北野武の映画には、この「紅葉」に限らず、美しい自然(人工)の光景が「意外」に多用されている。ただしそのはまり具合は画竜点睛という訳にはいかず、引用の意味は判るものの「散漫」としているとしか言いようがない。
 ドールズの場合、散漫な印象を与えるのはこの「自然美」だけでなく、「つながり乞食」の愛の描写にも言えるようだ。
 西島秀俊が自分の裏切りの為に壊れてしまった恋人・菅野美穂に贖罪と愛を切なく表すシーンなどはぐっとくるし、ラスト付近で菅野美穂が記憶を取り戻して男に許しを与えてやるシーンもそれなりに感動的。
 でも長すぎるよ、、二人の逃避行っていうか、記憶の旅が。菅野美穂は何をやってもそれなりに絵になるから我慢できるけど、西島秀俊がただただ、汚いんだかお洒落なんだか判らないファッションに身を包み口を半開きにして虚ろな目で、ヅダヅダ〜グデグデ歩くのを長時間見せられてもね〜。
 その間、「おっかけ」の純愛物語や、忠犬ハチ公みたいな「待つ愛」の物語が二編挿入されるて、確かにタケシらしいと言えば彼らしいロマンなんだけど、この二編とも「だらしない」作りになってるのね、、。
 結局、この映画、タケシが狙った人形浄瑠璃の情念の世界の再現じゃなくて、ただ西島と管野がだらしなくズルズルと歩き回ってる事だけが印象に残ってしまう結果なんだよね。
 まっ、映画監督・北野武が本物になる為の記念すべき実験映画なのかも知れないけど。

 
 
狂気の桜
   
狂気の桜
監督: 薗田賢次
 この映画を見終わった後、凄く引き裂かれた気分になるのはどうしてだろう。
「狂気の桜」ってご贔屓の窪塚君が主役でなければ、完全な駄作なんだけど、彼が企画段階でかんでいるだけで近緒の中では「イデオロギッシュ」な部分が増幅されて「もの申す」映画として存在するわけ。
 見る人によって色んな評価があるんだろうけど、この映画に登場するネオ・トージョーっていう若き国粋主義者達(特に窪塚君が演じる山口)の考えてる事は、かなりの率で窪塚君の言いたいこととダブっている筈なんだよね。
 でもその「もの申す」が、ちゃんと映画として展開し切れてないから「狂気の桜」は「損壊した映画」に見えるんだよ。

 残念ながら「狂気の桜」って映画としての実体論で言えば失敗作というより駄作だと思う。青春やくざ映画にしては、画像を弄り過ぎだし、若さと愛国の形を描いた映画にしちゃ、やくざ映画の手法を取り入れすぎ。
 最後に消し屋の三郎に填められちゃった山口が吼える場面。あれってどういう意味なんだろうね。
 かの名作「イージーライダー」みたく、最後のシーンを若い魂が規制の体制に刃向かっていくシンボルとして捉えるのか、それとも単なる玉砕ととらえるのかっていう辺りに繋がる問題提起なのかなー?
 でも「狂気の桜」の場合は、山口達が大人の奸計に手もなく填められている部分ばかりが強調されているように思えるんだけど、、、。
 こんな構成じゃイージーライダーどころか「やぱり悪いことしちゃ駄目よ(反面教師)」って言う教育映画にもならないし。暴走する青春の悲惨さを訴えてるのかねー。そうじゃないんでしょ?結局、すべてがつまらない「ファッション」に収斂される映画なのかなー。
 まあこんな感じの映画だけど、これって近緒らしくない切り口だよね。
 それよか、この映画の見所は三郎(江口洋介)と市川勝也(RIKIYA)の関係ね。
 これって完全にホモ映画じゃんと思いながら、三郎の市川に対する「今夜泊まってけよ」の台詞にドキドキしちゃったよ。
 実際はセックスシーンなんてなーんもないんだけど勝也の指紋を盗み取る為に三郎が、ピンクのラテックスフォームに彼の手を突っ込むアップのシーンがあって、、ああこれで「代替え」やってんだ、と思っちゃった。完全にアナルセックスのメタファーだもんね、あれは。
 それとか三郎の黒いゴム手袋がさ、最初、オンナの首に巻き付いて行くシーンの時ね、オンナに馬乗りになっているからレイプの隠喩かなと思ったんだけど、あれは逆にオンナへの「遮断」というか拒絶だったんだって最後に判った。
 三郎って「男」を殺す事で満足してるんだよきっと。ある意味それってやくざ映画の原理原則でしょ。
 三郎と勝也の対比みたいに、青田(原田芳雄)を慕う山口、山口と遠山景子(高橋マリ子)の純愛が配置されてんだろね。
 でも、そんな美味しい場面があっても、あらゆる意味でどっち付かずなんだよね、この映画って。
 ・・・まあいいか窪塚君が見れたし、ビッチビチのゴム手袋は出てきたし、可愛い高橋マリ子を発見したし。でも遠山景子(高橋マリ子)は一体なんの為に登場したんだろう?

 
 
エピソード 2 クローンの攻撃
   
エピソード 2 クローンの攻撃

監督:ジョージ・ルーカス

 SWの最新作「スター・ウォーズ エピソード 2」を見た。このレビューに取り上げるかどうか少し悩んだ。個人の趣味的レビューではこの「映画」自体が「大き過ぎる」という事だ。歳がばれるけど(気にしてない?)初めてSWを劇場で見た時は、完全にその世界に魅了され尽くしたのを覚えている。
 子どもにとってみればこの映画はいわば桃源郷のようなものだった。一秒後の世界にずっと胸をときめかせていられるなんて体験は、子どもにとっても、そう滅多にないものなのだ。

 SWはある意味で長く続きすぎたのかも知れない。作る側も受け取る側も加齢と共に世界への認知力が変わっていく。そんな中で子どもの頃に受けたときめきを維持するのはとても難しいものだ。
 SWが壮大な「おとぎ話」から「サーガ」に変化し始めたのはダースベーダー卿のフルフェィスヘルメットが外れて、そこにスカイウォーカーの父親の顔が現れた時からだろう。
 そして前作の「ファントム・オブ・メナス」ではこのダースベーダー卿の少年時代。今回は青年時代が描かれる。
 SWの大テーマの一つは人の心の「ダークフォース」だったが、あのアナキン少年がどんな経過をへて「ダークフォース」に囚われていくのかという描写が、今回のエピソード2で少しづつ描かれ始めたようだ。
 そう言った意味合いとルーカス監督の古典的ハリウッド映画回帰で、この作品はSW5本の内でも、近緒の中でかなり評価が高い作品になった。
 特に主役のアナキンとアミダラを、こういった重いテーマを背後に忍ばせながらも意識的に甘く甘く描いた手法はとても好感が持てた。
 映画音楽(ジョン・ウィリアムス)の使い方も、時代がかっているけれど、きっちり登場人物の心理と同調している。
 一番やられたなーと思ったのは、アナキンが自分の腕の中で息を引き取る母親を見ながら悲しみにくれそれがやがて「怒り」に変わっていくシーン、、。
 観客も、アナキンもバックで流れる音楽に気持ちの変化がシンクロして行き、そのまま建物の外に出て復讐という名の殺戮へと出向くのだけれど、そこから先は至極あっさりした描写で数秒でカット。
 ルーカス監督は観客に「この物語は、これから先の殺しのシーンを延々と見せるものじゃないんだよ」と宣言しているようだ。
 ただ、この後ルーカス監督は、アナキンにアミダラの前で「子どもまで手に掛けてしまった自分」を懺悔させると共に、自分の内に生まれた抑えがたい「憎しみ」ははっきり明言させている。
 これは、SW一部作とは打って変わった戦士・知将ぶりを見せるヨーダが、闘いの終結後に「我々は勝利したのではない」と陰鬱な顔を見せた事と共通した演出であるように思う。
 あらゆる激情を裏に秘めながら画像はあくまで叙事詩的に優雅に、、やるなルーカス監督っていうか、これだけのヒット作と地位を持ち得た監督として自分の「やれる」事、「やりたい」事を思う存分手がけ始めたっていう感触が強くなって来たなーという感じ。
 SW、最後まで見れるかなー。それが問題だね。今日と同じ明日が続くとは限らないものね。
 
PS 主役の二人に注目です。場面場面で違うヘア・スタイルにドレス、これってかつての大物ハリウッド女優の扱いじゃないの、、、って感じの、アミダラ役のナタリー・ポートマンには強い「華」を感じました。
 そして若き日のアナキンを演じるヘイデン・クリステンセン。初代ダースベーダーの悪の重厚さを愛している人にとっては軽すぎて物足りないかも知れないけれど、あの甘いマスクにちらちらと垣間見える「悪」や「危うさ」はちょっと中毒になりそう、、、。

 
 
インソムニア
   
インソムニア
監督:
クリストファー・ノーラン
 ついにアル・パチーノまで流行のサイコ・サスペンスなの?って感じで、見逃していた「インソムニア」。先端のハードボイルド小説が好きなお方には、結構、口に合う仕上がりになっています。「インソムニア」って、奇妙な手触りを持ちながらも、地味で歯ごたえのあるしっかりした作品なんですよ。
 これは「煽ってナンボ」の日本での映画宣伝がおかしいのかも知れませんね。それに「メメント」のクリストファー・ノーラン監督だからかなり仕掛けが多いはずという観客側の先入観もあるだろうし、、。 でもクリストファー・ノーラン監督、「メメント」じゃリワインド・ムービーなんて言う目眩ましの方が目立っちゃったけど、テーマ自体はかなり重たくてしっかりしたものを突きつけて来る監督さんなんですよね。今回はそのテーマ性の方が前面に出た感じ。
 不眠に悩まされるドーマー刑事役のアル・パチーノ、改めて年取ったなーと画面を見ながら、それでもその圧倒的な存在感は微塵の陰りもありませんね。この人については何も書かなくていいでしょう。
 近緒がうーんと唸ったのは殺人犯役のロビン・ウィリアムズです。この人は完全に「良い人」のイメージがある人で、彼が演じた殺人者の評価が別れているようです。
 近緒は「あれは事故だったんだよ。確かにあの瞬間に怒りを覚えたのは認めるが殺そうと思ってやった訳じゃない。私はその後、直ぐに彼女を弔った。」という犯人に「少女を十分もかけて殴り殺した変態野郎は、みんなそう言うのさ。俺は普通だ、あれは事故だったんだとな。」と答えるドーマーの為にロビン・ウィリアムズが起用されたのではないかと思います。
 捜査中に誤って(?)同僚を撃ち殺してしまったドーマーと、それをネタに自らの罪を隠蔽しようとする頭の良い殺人者の駆け引きがこの映画の見所なんですが、転落した善良なる小市民といった感じのロビン・ウィリアムズが時より見せる悪魔のような小狡さが、凄く効いてるんですよね。これがロビン・ウィリアムズでなくて、どこから見てもこいつは「異常者」だって感じの俳優さんがこの役所を演じていたら、この映画、判りやすくはなったかも知れないけれど、最後に自分を取り戻したドーマーの姿はこれほど見えて来なかったと思う。
 そういう意味ではロビン・ウィリアムズのキャスティングは当たりだと思いますね。ただあまり彼にはそういう役をして欲しくないというのが人情でしょうが。
 あっ、そうそう『ボーイズ・ドント・クライ』のヒラリー・スワンクがドーマー刑事を尊敬する地元の新人警官役で、でてます。彼女の魅力ってほんと不思議。人の目を引きつけて止まないような「華」がないのに、ちゃんとそこにいるのが判る。かと言ってそれは存在感という程、大げさなものではない。
 まあ彼女もドーマー刑事の覚醒に一役買う新人警官役としては、前に出すぎる訳でもかと言って彩りだけで配置された訳じゃないから、ピッタリのキャスティングかな。
 この映画、色んな意味でクリストファー・ノーラン監督の実力を感じさせる佳作です。
 
ヘルレイザー リターン・オブ・ナイトメア
   
ヘルレイザー リターン・オブ・ナイトメア

監督:リック・ボッタ

 監督のリック・ボッタ氏はあのロバート・ゼメキス制作TATARIの「撮影」をやっていた人らしい。話の筋立ては、ある夫婦がドライブ中に川に誤って転落し、夫は暫く意識不明の状態に陥り目覚めてみると妻は行方不明。更に彼の記憶は混濁したままで過去の詳細を思い出そうとすればする程ひどい頭痛に悩まされる。やがて彼のの悪夢に魔道士が現れ、、、。
てな感じ。
 一言で言ってこの映画「出来損ない」である。
途中まで「ヘルレイザー」というよりデヴィッド・リンチ監督の映画を見てる感じ。(もしかしたらピンヘッドなんかを登場させずに違う魔物を設定するか、あるいはキャラクターを設定せずに最後まで不条理物で行ったら結構面白い佳作になっていたかも知れない。)
 しかしヘルイレーザーシリーズとして位置づけるなら間違いなく最下位の駄作だろう。
 chikaがこの映画をレビューに取り上げようと思った理由はたった一つだ。
 この映画の最後に用意されているどんでん返しがとてつもなく官能的だからだ。(このどんでんここで書いてしまうとそれこそ身も蓋もないのだが殊能将之の「ハサミ男」とよく似ていると書けばピンと来られる人も多いかもしれない。)見終わった後、主人公である「夫」の悪夢を反芻する度に奇妙な官能感にチリチリと苛まれるのだ。もちろんこの「落ち」が強烈に倒錯的だと感じれるのは第1作のアシュレイ・ローレンスの記憶がある人に限られると思うのだけれど。
 ・・・だからこれ一本でみたら、ほとんど意味をなさない映画でもあるのだが。

 PS 途中で異界の修道士(セネバイト)がビニール袋か何かを女性に被せて窒息させるシーンがあったり、かなり強烈なSMセックスを部下である(夫)に迫る女性上司が登場したりで、今までのヘルレイザーシリーズで継続されて来たビジュアル的なフェチ路線から、少しずれた所にある「性」の匂いが濃厚な映画でもある。

 
 
バッドボーイズ 2バッド
   
バッドボーイズ 2バッド

監督:マイケル・ベイ
 アメリカン・馬鹿マッチョ思考はハリウッド映画に二つの娯楽性を与え続けている。先のイラク戦争そのもののように独善的で精神的な病を感じさせる正義感に溢れた映画。 そんな映画によく似たマッチョ思考を持ちながらも、娯楽性至上主義が自らのいかがわしさを払拭してしまった映画。バッドボーイズは後者にあたるだろう。
 あるいは幼い子ども達が繰り広げる「拳銃ごっこ」を、そのまま「よりリアルに豪勢に格好よく」した映画とも言える。
 とにかく「面白い」。趣向を凝らしたカーチェイスに銃撃戦、それらを繋ぐ展開部分でのマーティン・ローレンスとウィル・スミスのボケと突っ込み。どこをとっても退屈する場面がない。この徹底したプロの編集ぶりというか制作姿勢が潔いほどだ。・・勿論、それが鼻について嫌という人にはただただ疲れる馬鹿映画だろうが。
 chikaがにやりとさせられたのは二回のカーチェイス。一回目の大型トレーラーが積み荷の車を爆弾のごとく道路に投下していくアイデアが、二回目には死体運搬車が死体を投下するブラックユーモアに悪のりして行くのだからたまらない。確かにこういうのはハリウッドでなければ撮れない脚本展開だろう。
 あと気になるのがマーカス・バーネットを演じたマーティン・ローレンス。この人、何度かスクリーンでお目に掛かるんだけど、特にスタイルがいいわけでも顔が渋い(面白い)わけでもなくどこが魅力的なんだろうと思っていたけど、、、じんわり効いてくるキャラクターの持ち主だという事を発見した。
 マーカスが誤って催淫効果を持つ麻薬の錠剤を飲み込んでしまった後、車の革張りシートに欲情したり相棒のマイクを美しいと褒め称えたり、上司の頭髪の匂いを思い切り吸い込んで恍惚としてみたり、、それはもう笑い転げるんだけど、、、演技が上手いという事以上に、やっている事が「毒々しく見えない」事がすごく重要なんだなって思うわけ。じんわり俳優、マーティン・ローレンス、注目です。
 
天使の牙 B.T.A.
   
天使の牙 B.T.A.

監督: 西村了

chikaの映画レビューって、観たものを全て書き込んでいるわけじゃない。
 一応、自分のサイトの一コーナーを占めているわけだから、そこには外部に対して多少の責任が生ずる訳で、その為の選択基準として、自分に取ってのお気に入りだったり、他人にとっては掘り出し物にあたるだろうと思われる映画をピックアップしている。
 さらに選外になっても微妙に面白かったりする映画は日記なんかでフォローしている。
 まあそんな感じで「ゴミのような映画」は何のコメントも書かずに、自分がそんなものを見てしまった事自体を忘れ去ろうと努力しているのだ。
 でも年間を通じて、「ソレ」を見たと言うことだけで、怒りを感じる作品も幾つかあるのだ。そういった作品は自分自身の映画評の基準点を再確認する意味で、このレビューにのっけるコトにしている。
 以前にまな板に乗ったのは「ブートレグ フィルム」。今回は本作品。残念ながら二本とも邦画である。


 さて、あなたがレンタルショップの邦画映画の棚の前に立っていたとする。最新版はレンタル中ばかり、せっかくのお休み、今日は何処へも出かけずにお家でカウチポテトしたい気分。棚の中にはちょっと古いけれど「天使の牙」と「A2」が残っている。「A2」が良い映画なのは判っているけど、休みの日にはゆったりしたい。
  「天使の牙」の原作は大沢在昌だし佐田真由美がどんな感じなのか見てみたい。ショーケンまで出てるんだからって感じで「天使の牙」を選んでしまう。
 ・・それが不幸の始まり。
 映画というのは不思議なもので幕が上がると「これはどうだかなぁ?」と思っていても、その内に面白くなるだろう、という気持ちが働いてついズルズルと最後まで見てしまう部分がある。
 こういう「映像美に凝った」作品は特にそうだ。常に青みがかって薄暗くて静かな画面(こんなのがカッコいいと思っている事自体が、もう死んでるんだけど)と、なーんとなく「羊達の沈黙」シリーズを何処かで意識した安っぽい制作態度、、そういうのを常に感じながら、それでも、いや「それだからこそ」、もしかして何かを見せてくれるのではないかと期待して最後まで見てしまうのだ。
 勿論、「天使の牙」は、最後まで客をなめきった映画で終わっている。ひょっとしたら、なめているのではなくて元から映画作りの才能がないのかも知れないが、そう考えると、そんな映画を見てしまった自分に腹が立つのでそう思うのはやめておく。
 それにしても一体この映画は何なのだろう?ひょっとしてアクション・ミステリーの皮を被った女性向けファッショナブル恋愛映画なんだろうか。大沢たかおと佐田真由美のカップルなんだから、果てしなくそうなのかも知れない。
 だったらもっと割り切って、あんな中途半端な和製レクターなんかを登場させないで欲しいね。学芸会じゃないんだからさ。(、、、萩原健一、駄目じゃん。こういう役柄似合うかも知れないと密かに期待してたのに。あなたはアンソニー・ホプキンスじゃなくてデニス・ホッパーの方なの、がっかりしたよホントにもう。)
 それと一番致命的なのは、「秘密地下基地」とか黒装束の部下達ね。あんなコスチューム、今日日、子ども向け特撮番組でもやんないよ。まるで昭和中期の仮面ライダーの世界、その癖、隊員達は茶髪にロンゲのにやけた貌ばかりでしょ。おまけに天井からロープを垂らしてするするとスワット紛いに降りてきたりしてさ。
 自分が見てきた映画のカッコいいって場面ばかり繋ぎ合わせたって面白くなんないって事くらい気がつかないのかね〜。
 ・・・あらゆる事が駄目駄目の映画。もっと駄目なのは、こういう自己満足のあげくの激しい才能の無駄使い映画を、生き延びさせている日本の流通経済やろね。
 やっぱ、エンタメでも駄目なものは駄目、レベルが低いものは低いと視聴者側が、きっちり意識的に価値づけていく事が必要だよね。

 
 
レッド・ドラゴン
   
レッド・ドラゴン

監督: ブレット・ラトナー
ハンニバル・レクター三部作の最高峰は何と言っても「羊達の沈黙」だろう。「レッド・ドラゴン」は、茶葉で言えば出涸らしになりかねない最後の出番でありながら、二番目の出来ではなかったかと思う。
 そうハンニバル・レクターは、そのあまりにも強烈なキャラクター故にリドリー・スコット監督の「ハンニバル」ではヒーローにさえなりかねなかったのである。しかし、この映画では、登場する三人の男達の「怪物性」にテーマを絞ったが故に、一度はジェイソンになりかけてしまったハンニバル・レクター元のサイコ爺に連れ戻す事が出来たようだ。
 もっともこの演出によって、首を傾げてしまうようなサイコキラーが出現してしまったのも確かなのだが。
 それはレイフ・ファインズが演じる「噛み付き魔」ダラハイドである。
 ダラハイドと盲目の恋人リーバのぎごちない恋愛を見ていると、ダラハイドはサイコキラーというよりも現代版フランケンシュタインを彷彿とさせる存在となっている。
 この「噛み付き魔」の殺人衝動は、彼の生育歴に説明が求められる設定になっているのだが、現実の異常事件に慣れてしまった我々にとって、それはいささか古典的であり、盲目の恋人を得てからの彼を見ると、もうこれ以上の殺人は犯せなくなるだろうと言う予測を立てざるを得ないのである。
 映画の中のダラハイドは最終的に、彼の内なる異常=レッド・ドラゴンに乗っ取られてしまうのだが、この演出はとても不自然に見えた。
 まあこのダラハイドの描写によって「絶対に改心」する事のない異常者ハンニバル・レクターがかえって強調されるわけだが。
 一番、線が弱かったのはFBI捜査官ウィル・グラハムを演じたエドワード・ノートンである。レクターによって「お前は私と同類だ」とマインドコントロールをかけられるような、繊細さも、頭の良さも垣間見れず、ウィル・グラハムはただただ走り回っているように見える(同僚の東洋系捜査官の方が余程、頭の回転が速そうだった)。まっいくら善玉とは言え、どう見ても主役ではない。
 結局この映画の主役は、題名通りウィリアム・ブレイクの描く「大いなる赤き竜」に現された「もの」なのだろう。
 それとプラス、「クラリス」の名前に反応する獄中のレクターね。
 
 
バーサーカー SKINNED DEEP
   
バーサーカー SKINNED DEEP
監督: ガブリエル・バータロス
 フイルムが回り始めて数十分は結構期待してたんですよね。こんな超B級作品の中にも時々、掘り出し物があったりして、、、骨董市を丹念に見て回ってお洒落可愛いアイテムを発掘するのと同じ心境なんです。
 第一、この映画、キャラ設定がことごとく微妙にずらしてある所が「何かをやってくれるかも」って思わせるんですよね。
 例えば極悪フリークスファミリーの餌食になるアメリカの一般的(?)家族のパパはマイケル・ムーア監督をしょぼくした感じだし、最終的にヒロインになる女の子は、定番の「巨乳のアーパー娘」じゃなくて年少の痩せぎすで返って危ない(ロリ)感じだし、、。
 何より、途中でフリークス・ファミリーを殲滅にやってくる暴走族チームは全員老人だちゅー意味なし設定が小技で効きまくっているわけです。
 だのに、だのにですよ。この映画いつまでたっても弾けない。弾けそうに見えて低空飛行のまま最後には見事に失速してしまう。
 しかも全編、カルトムービーの継ぎ接ぎだらけ。「エルトポ」と「悪魔のいけにえ」と「イレイザーヘッド」「バスケット・ケース」 、、もうなんでもありなんだから、、。
もっともトビー・フーパーなんかの最新作「ツールボックス・マーダー」なんかを見ると完全にヘタレてるから、この分野自体が枯れかけているのかも、、、。

PS しかしせめて「鋸あごのボルト男」ぐらいはガタイのでかい俳優を使って欲しかった、、。あんな小さな身体の「鋸あごのボルト男」に、「やられてしまう」男達が情けない。まあ「巨大脳男」は、いかにもカルトムービーに登場するキャラムードを醸し出していたけどね。

 
キャシャーン
   
キャシャーン
監督: 紀里谷和明
 今年もあと2ヶ月、漫画実写化映画ラッシュも「デビルマン」の惨敗で締めくくりって感じですね。今年の感じで行くと次の「鉄人28号」も期待薄でしょうか、、。
 chikaの中では一位「キューティ・ハニー」二位「キャシャーン」三位「デビルマン」だったんですが、つい最近、元キャラ自体が余り好きじゃなくて迂回してきた「キャシャーン」を見る機会があって、この順位を入れ替える事にしました。「キューティ・ハニー」は映画としてはゴミですが、庵野監督の「割り切り」に免じて第一位にしていたのを撤回します。やはり同じゴミなら紀里谷監督の真摯な「こだわり」を評価すべきでしょう。したがって一位は「キャシャーン」二位は「キューティ・ハニー」ってことで、、。(あっデビルマン?論外でしょう。)
 さて問題は、紀里谷監督の真摯な「こだわり」です。キャシャーンのヘルメットの取り扱いだとかロボット犬フレンダーについては四の五の言いますまい。あれはあれなりに原作に対して礼節を尽くしていると思っているしね。そんな事より「テーマ」へのこだわりぶりです。
 反戦平和映画のようにもとれるしラスト近くの寺尾聰に付けられた演出を見ると、戦争をも肯定した苦い人間賛歌作品のようにも見えるし、テーマに対するあまりのこだわりぶりが返ってテーマ訴求力の混乱を招いているような気がしました。
 東博士がルナを撃っちゃって「どうせすぐに生き返るからいいじゃん」なんて言いながら、息子のキャシャーンに「自分一人の愛が総てなんだよ。それが人間さっ」って教えてやる場面が、この映画の一時間以上を占める数々の「青年の主張バトル」を一瞬にして凌駕してしまうのが何よりの証拠ですね。(けどchikaはこの場面が一番好きです。)
 それとなんだか不思議ですよねこの映画。セットにお金かけてる舞台演劇見てるみたいで、それで時々、俳優さんが休んでいる時ちゅうか、舞台の合間にCGをスクリーンで見せてるみたいな?
 映画の一つの楽しみは、違う世界にはまり込む面白さで、どんな荒唐無稽な世界でも「リアル」でないと観客は没頭できない。「ロード・オブ・ザ・リング」なんかを見ても判るように、CG技術の発展はまさにその為にあるぐらいだから、、「キャシャーン」はそういうのって完全に無視してるんですよね。映画が観客が「入り込める器」じゃなくて、紀里谷監督の芸術的プレゼンになっている。
 それでも映画の体勢を保っているのは映像センスと、俳優陣のお陰かな、、。何故かスーツの宣伝を連想させるアクションが決まってる唐沢寿明の熱いトークとか、久しぶりに刑事やってた頃を思い出させる寺尾聰とかね。それに及川光博、、ここ7.8年はこの手の役回りが多いんだけど、すっかり板に付いてきたみたい。完全に安心して見てられます。


PS あっそうそう豪華俳優陣と言えばサグレー役の佐田真由美、「天使の牙」の時はなんだかな〜って思ったけれど、、今回は○なんじゃないの〜。(ってか、かなりの時間、サグレー見てても彼女が佐田真由美ってわかんなかったんだな。)内面の演技なんて馬鹿なこと言ってないでビジュアルに徹する事ですよ、アナタは。
 で次は、バラシン役の要潤君、アギトに出てた初めの頃はほーんと学芸会の劇の方がまだましって感じだったのに、、、やっぱ焼肉のタレのCMで演技の開眼をしたのかしら、、。

 
 
半落ち
   
半落ち
監督: 佐々部 清
 妻殺しの刑事・梶聡一郎の「空白の2日間」って横山秀夫氏の原作ではどんな位置づけだったんだろう?恐らく「半落ち」を優秀なミステリーとして成立させた、凄く重要な「空白の二日間」だったんだろうと想像出来るんだけど、、。
 でも映画を見ている限りでは、この「空白の2日間」の謎解きは、なんだか訥々と喋る誠実な案内人に説明されながらガイドされてるみたいで「ああそうなんですか、、」って感じで、とても「面白い」と言えるモノではなかった。
 恐らく制作サイドが、映画と小説の時空構造の違いを、きちんと取捨選択仕切れなかったのではないかと思う。
 例えば小説なら、梶聡一郎に関わるそれぞれの立場の人間の生き様が、梶の存在によって逆照査されるなんて描き方はそれ程難しいコトではないのだ。
 しかし限られた時間と具象という制限がある映画では、受け手の想像力の働き方が小説のそれとはまったく違うから、小説で出来たことを映画に持ち込んで上手く行くとは限らない。それなのに、この映画ではミステリーの要素よりも、人物像の描写にウエイトが大きく取られているし、しかもスポットを当てる人物の人数が多すぎて、映画自体が拡散している感がある。
 まあ、こんな風に書くと映画「半落ち」はとても詰まらない作品のように思えるかも知れないkれど、実はたっぷり泣かせて貰った。逆に言えばこの様な、介護の現実やアルツハイマーの悲惨さなど「泣かせる現実(壊れていく魂)」があると言うことなのだが、、、。
 映画はこの辺りの配慮はそれなりに考えてあって、唐突な感じはするものの、ちゃんと現実へのテーゼとして(吉岡)判事の存在を用意してあるようだ。判事が問いつめる「殺す権利」の否定と、梶のいう「裁く権利」への疑問を対峙させて、映画としてのバランス感覚を見せたのは賢い方法だったと思う。
 ただしどう見ても映画は殺人者・梶を擁護しているようにしか見えなくて、やっぱりベストセラー小説映画化という政策姿勢の甘さが残っているような気がした。

 実際に介護に追われている人達にとってこの映画がどう映るのかその体験のないchikaには想像も付かないのだけれど、アルツハイマーとドナーの組み合わせプラス嘱託殺人の映画では、誰も噛み付きようがないのかも。
 
ps 寺尾聰は演技が上手いのかどうかchikaにはよく判らない。何故と言って彼のたたずまいはどの映画でも同じに見えるからだ。梶の人物像に填ってしまえば「上手い」としか言いようがないじゃん?その点、樹木希林は上手かった。これはもう文句の付けようがなかったです。

 
 
フロム・ザ・ダークサイド ザ・ムービー 3つの闇の物語
   
フロム・ザ・ダークサイド ザ・ムービー 3つの闇の物語
監督: ジョン・ハリソン
 福袋みたいなホラー映画なんです。少年を檻に閉じこめて人肉料理を楽しもうとする魔女の顔に何処か見覚えがあると思えばデボラ・ハリーじゃありませんか。その魔女のお料理タイムを引き延ばす為に少年が話す恐怖物語の第一話が運命249。スティーヴ・ブシェーミの操るミイラに殺される性悪女はなんと「ハンニバル」のクラリス役、ジュリアン・ムーアじゃありませんか。彼女この映画がデビュー作だったんですねぇ。でもってジュリアン・ムーアの兄貴役がクリスチャン・スレーター!!
みれば見るほどさりげに地味ではあるけれど豪華キャストのてんこ盛り。特撮・話運びについては、水戸黄門レベルの安定度。これぐらい「可もなく不可もなし」にするのはかえって難しいのではないかと思うくらい。もしかしてTV版「フロム〜」の「香り」を演出してる?
三話オムニバスの内、chikaが好きなのは、人肉料理直前に少年がぶちかました「恋人たちの誓い」。これって完璧西洋版「雪女」というか、どこの国にもあるホラーなんだよね。でも「もしも約束を破ったら」って縛りをかけてくるのはいつも女性で、その約束を守れないのは男性だという基本設定が共通しているのは妙にうなずけるけど。
 ここで登場する変身シーンの特撮が「無茶」で面白い。小柄で華奢な黒人女性の身体が内側から皮膚を突き破る形で大きなモンスターへの変身を遂げていくんだけど、どう見てもスケール感が違いすぎ。それでもちゃんと変身を遂げるんだからご立派。この無理無理変身と地味派手豪華キャストを見るだけでも値打ちのある一本かも。
 
踊る大捜査線 THE MOVIE 2
   

踊る大捜査線 THE MOVIE 2
レインボーブリッジを封鎖せよ!
監督: 本広克行

 「踊る」をけなすのは誰っ?chikaが許さないから!なんて。
いーんです、面白ければ。そーなんです民度が低い日本人の為の娯楽映画があっていーんです。
 でも初っぱなのタイトルの数分間、何度見ても格好いいー。だっていかりや長助にしたって日本人俳優に見えないもの。かなりハイセンスなMTV出身のハリウッド監督が撮ったって感じ?
 まあ始まって見るといつのも「踊る」なんだけどね。二作目ということで脚本の鮮度は落ちるものの、その分、安心して見ることが出来るというメリットはあるわねー。
 例えばもう気心が知れちゃった室井慎次警視正(柳葉敏郎)が最後には青島のピンチをなんとかしてくれるだろうし、誰かが撃たれても「殉職」はないだろうしね。
 でも泣かすな〜。来るぞ来るぞって見え見えなのに泣いちゃうんだもの。それでもって大泣きする直前でギャグ入れてハンカチで涙拭いちゃう休憩タイムだって入ってるし。
 でも欲を言えば、もうちょっと犯人を立派にするっていうか、こんな極悪非道な奴はやっつけちゃえみたいな感じが欲しかったかな。たぶん追っかけのシーンなんかを含めて相当、ダイハードシリーズを意識したんだと思うけど犯人がリストラされたサラリーマンじゃいくら「アンチ組織・新犯罪」っても無理でしょ。ラストの織田裕二の台詞に苦笑いしたサラリーマンも多い筈だし。
 それからユースケ・サンタマリアは煮え切らないなぁ、ボケと突っ込みは明確な方が歯ごたえがあるのよ。(それなのに今回の「踊る」の役柄で映画が作られるほうだ、ちょっとやり過ぎじゃないの。その感覚って釣り馬鹿を作り続ける感覚以上に痴呆さを感じるぞ)
 逆に沖田仁美(真矢みき)警察庁刑事局参事官はちょっとキャラ立てすぎだしね。ある意味、女性馬鹿にしてない?と思った人いないのかな〜。
 日本じゃ刑事物を大きなスケールで映画にするとすぐに西部警察しちゃってものにならないから、そのあたり「踊る」は上手い手を使ってるなと思わせるんだけどね。
 今回のはちょっと無理が目立ったようで、その辺り第三作(撮るんでしょ?)でクリアして欲しいな〜。

 

 
レジェンド・オブ・メキシコ
   
レジェンド・オブ・メキシコ

監督: ロバート・ロドリゲス
 しょーむない役所を演じているバンデラスはデーブ・スペクターに何故か似ている。お茶目系を演じるジョニー・デップは何故か堂本剛に似ている。
 そんな二人の大競演。食べ合わせまでは行かないけれど確かに意表をついた組み合わせではあるな〜。
 おまけにウィレム・デフォーにミッキー・ローク!!家庭で作るカレーライスの中に、初めてなすびを入れた奴の冒険心がなんとなく判る、、。
 でもこの映画、日活西部劇の無国籍映画の雰囲気がぷんぷんするのは何故?HD(High Dimension)デジタルカメラの使用と、やたら劇画チックなキャラ立ち以外の要素があるよ。これがタランティー監督なら判るんだけどなー。ひょっとしてロドリゲス監督の「メキシコの血」がそうさせるのかも。
 政治音痴のchikaには良く判らないんだけど、今、メキシコとアメリカの関係ってどうなってるんだろう。この映画で不思議な感じがしたのは、クーデターによるメキシコ政府の転覆を狙うウィレム・デフォー一味に対して、一般民衆が一致団結して立ち向かったり、傷ついた孤高のヒーロー、エル・マリアッチが大統領をお守りしたりと、みんなが現体制維持を「だって俺っちはメキシコの子だもん」っていう感覚で頑張っちゃうところ。
 まあそれでも、今までメキシコと言えば犯罪者が逃げ込む格下の砂だらけのきちゃない国って感じでしかアメリカ映画は描いて来なかったわけだから、これは進歩なのかな、、。
 それにしてもジョニー・デップ、『パイレーツ・オブ・カリビアン』あたりから益々いかれぶりに磨きが掛かって来ましたわん。ウィレム・デフォーと違って美形なだけに凄い怪優になったりして。

PS ミッキー君、君はなんの為にこの映画に出たのさ。行き所のない男の色気をムンムンさせてるだけでさ、あの訳わかんない退場振り、、そ言えばウィレム・デフォーも似たようなもんか。伸び盛りの中堅俳優が頑張ってる映画に梅宮辰夫と松方弘樹が顔出ししてるって感じなのかな。

 

 
テキサス・チェーンソー
   
テキサス・チェーンソー
監督: マーカス・ニスペル
 アメリカの極右は、五大湖沿岸、オハイオ、ミズーリ両川流域のハートランドから生まれるとされている。例えばアメリカの穀倉地帯の小さな町。そこにある農場の納屋の暗闇や酒場のざわめきからパラノイアが生まれる。

 伝説的ホラー「悪魔のいけにえ」のリメイクに挑んだマーカス・ニスペル監督の「テキサス・チェーンソー」を見た。(ちなみにテキサス州は言うまでもなくブッシュ大統領の地元だ)、、、でやっと理解出来たんだけれど、前作もこの作品も本当に怖いのは、モンスター・レザーフェイス自体ではなく彼の「家族」だという事だ。
 いやもっと言えば彼らが生息している密閉された「田舎」というバックグラウンドだろうか、、。
 「テキサス・チェーンソー」では地元保安官の登場場面が多いのだが、彼が今風のイカれた若者を執拗に痛め続ける狂ったマッチョぶりの演出を見ていると、この映画が前作よりも「家族」や「田舎」に焦点を当て直しているのがよく判る。
 けれどこんな「怖い田舎」の描写は今に始まった事ではないのだ。「アメリカン・ニューシネマ」の金字塔、イージーライダーの鮮烈なラストシーンは今でも語りぐさになっているのだが、問題は1970年に公開されたこの映画の背景である「田舎」が、30年を過ぎてもそのままだという事にある。
 「イージーライダー」に比べるとがくんとレベルが落ちてしまうが、車の故障で立ち寄ったアメリカ中部のさびれた町で3日間の立ち往生となったドラッグクイーン達を描いた「3人のエンジェル」だとか、ネブラスカ州で実際に性同一障害をもつ女性の身の上に起こった悲劇を元に作られた「ボーイズ・ドント・クライ」だとか、、、アメリカ映画は延々と二重の意味で「内なるハートランド」を撮りつづけて来たのだが、、そこでは何も変わらず正にリンチ監督の「ストレート・ストーリー」を地で行っているという事になる。 ブッシュ再選やイラク戦争の背景にあるアメリカの文化的な側面を語って行けばきりがないけれど、今にもズボンが落っこちそうなファッションを良しとしている、日本の「犯され文化」に溺れきった若い子たちを見ていると、何処かでそういった価値観の整理をし続ける場所や人が必要なのだという気がしている。

 さてマーカス・ニスペル監督の事なんだけれど、氏はビデオ・クリップ業界で活躍しただけあって、映像が「抜けて」いるしトビー・フーパーの「あの色」をスタイリッシュに再現していると思う。更にホラー映画の基本「血と肉と痛み」もよく理解しているようだ。
 そう人間は筋肉・脂肪・骨・内臓・血で構成された「肉袋」だという認識。そして金属はそれらを解体するのだ。でも今回の映画はその筋肉・脂肪・骨・内臓・血を体現しているのはレザーフェイスじゃなくて女の子達のような気がしたけど気のせいか?

 
アイ,ロボット
   

アイ,ロボット

監督: アレックス・プロヤス

 「i.robotフツーじゃん」って巷の噂が圧倒的でしかも主演がウィル・スミス、、。、ロボット自体が大好きなchikaとしては、この映画、実物観るまでは不安げな気分だったけど、視聴後は個人的にかなりの高得点でした。
 それに「21世紀突入してるちゅーのに何故に今さらアシモフのロボット三原則を映画に持ち出してくるかなー。」ていう思いもあったんだけど、NS-5型のロボットデザイン見てて、なんとなくそのモヤモヤも解消。
 つまりこれはウィンドウズマシンの世界じゃなくてMacの世界なんだ!!・・って違うか。
 でもあの乳白色のハーフスケルトンボディとか直線を曲線で包み込むデザインセンスは何度みてもMacを連想させるし、NS-5型が旧世代の「カン空ロボット」を破壊しようと襲いかかるシーンなんかはウィンドウズマシンの無骨さを嗤うMacが、、おっと又、話がもとに戻ってしまう。
 
 Macはさておいてこの映画、本当の主人公であるNS-5型が総てですね。ちょっとキショイあの顔のデザインやバネ式筋肉だとか、スプーナ刑事の言う旧世代の「カン空ロボット」との差、つまり機械から人間に変化しつつある存在をかなりビジュアルな要素として上手く表現している。こうやられると冒頭で「ナニを今更、ロボット三原則」って思いもリニューアルされるってことかな。それにCGのお陰で大量のロボットがスクリーン上に描き出せるから、数千体のNS-5型の中に紛れ込んでいるサニーをスプーナ刑事が探し出すシーンなんて、ちょっと昔なら考えられないような恐怖感が演出されてましたね。
 でもこの映画、アシモフの小説より手塚治虫氏の「鉄腕アトム」をどうしても思い出してしまいますね。その中でも「地上最大のロボット」、、。浦沢直樹氏の「地上最大のロボット」のカバーアルバム、、もとい「プルート01」なんかは「アイ、ロボット」シリアスバージョンみたいですよ。この映画が食い足りないなぁって思われた方、是非、お勧めです。少なくとも謎解きの結末を、動かないスーパーコンピュータ“V.I.K.I.”に持っていくような予定調和物語じゃないですから。

 
サンダーバード
   
サンダーバード
監督: ジョナサン・フレイクス
 5… 4… 3… 2… 1… THUNDERBIRDS are Go!!これこそ健全なよい子達の夢の有るべき姿なのではないか?
なんの前触れもなく「大富豪で元宇宙飛行士」なんだもん。でもあれだけのスーパーマシンを揃えたら小規模国家並の財力が、、なんて事は気にしない。あれだけの大規模災害救助活動したらきっと援助基金が、そうじゃないのなら凄いボランティア活動、、なんて事も気にしない。
 そーゆーのを気にし始めた時から少年は大人になっていくのだ。なーんちゃって。
小さいとき玩具を手に持ってブーンブーンを振り回しながら、自分の世界に入って遊んだことはありませんか?そーゆーのをもっと気持ちよくしてくれているんですよね、この手の映画は。能力があって財力があってしかも人助けをしてる。すっごく気持ちいいじゃないですか!でも現実ではなんとなく幾ら子どもでもお金は天から振ってくるわけじゃないのを知ってるから「元から大富豪」の免罪符ですよ。
 今はレトロ・フィチャーとなったサンダーバード機たちのデザインを見てると、なんとなく円谷プロのウルトラマンシリーズに登場する隊員達が乗り込むマシーンの感触に似てるなーと思っちゃいました。(あっ?えっ?どっちが先なの?)
吊りで合成を念頭に入れて機体を作るとあんな風になるのかなぁ。
 スペースシップのデザインで衝撃を受けたのはスターウォーズで画面一杯にズズズーっと流れていく例のアレですね。全体のフォルムは単純な幾何形なのにその表面は妙に細かなディテールを満載してるという奴。
  次に吃驚したのはエイリアンの住む惑星に到着したリプリー達が乗っていた宇宙船。その有機的デザインを見た瞬間、この映画は凄いって思ってしまったもの。要するにSF冒険映画って思い入れが総てだって事ですよね。

 この映画、映画自体を語るような要素は何もありません。夏休み向けキッズムービーにしか過ぎないんだけど、日本の宣伝媒体が、ひょっとしたら全然存在しないかも知れない「サンダーバードマニア」をでっち上げるという妙な宣伝コンセプトを打っちゃったので、変に期待した人が多かったのかも知れないけどね。
 まあ敢えて見所はやっぱりピンクなレディ・ペネロープでしょう。流行は巡るって言うけれど、60年代ファッションって何かが違う感じがするな〜。
 
ヴァン・ヘルシング
   
ヴァン・ヘルシング
監督: スティーヴン・ソマーズ
 本編を見終わってから、最初のフランケンシュタインと吸血鬼が出会う白黒シーンが一番良かったんじゃないかと、冒頭シーンを反芻してみる。
 こんな感じで過去のホラー映画へのオマージュをいかにも楽しげに撮ってみせたりするのは、何となくティム・バートン監督に似てるなとちょっぴり思った。
 勿論、その後に続く有無をも言わさぬスピーディな展開はスティーヴン・ソマーズ監督独自のものなんだけどね。
 多くのレビューで言及されてる事なんだけど、この作品を見て一番先に思い出すのは藤子不二雄原作アニメ「怪物くん」だ。
 過去の超有名なビッグモンスターを一堂に集めたらどんなに楽しいだろうというアノ発想。まさに映画「ヴァン・ヘルシング」がそれ。
 尤も「007秘密兵器大好き!!」設定のいただきはいいにしても、マシンガンボウガンはアーケードゲーム感覚の移植を目
 指したんだろうけどちよっと滑っているような気がした。スターウォーズで回転射撃台がぐるぐる回って敵の宇宙船を撃ち落とすビジュアル見た時は確かに吃驚したんだけど、今更ナーって感じ。
 移植と言えば主演のヒュー・ジャックマン、X−MANよりこちらの方がずっと似合っている。ウルヴァリンって横にごつい身体のイメージがあるから、どちらと言えば優男系のヒュー・ジャックマンはヘルシングにぴったりなんだもん。
 そしてこの映画のお楽しみは、なんと言ってもヒロイン・アナ王女(ケイト・ベッキンセール)の衣装。
 ロマンティックなベルスリーブのブラウスに、コルセットをがっちり締めて、ワーク風パンツに華奢なヒールブーツ。装飾鎧みたいなコルセットでグッと胸が盛り上がってる所がセクシー。
 もちろんフェチ度数で言うとレン・ワイズマン監督の『アンダーワールド』での彼女の全身ラバーキャットには叶かないませんが、、、、でもここまできたらこの路線を突っ走って欲しいモノです。
 
コラテラル
   
コラテラル
監督: マイケル・マン
 夜の大都会、タクシードライバー、殺し屋、限られた時間、偶然の出会い。好きやんこの設定。日本の小説では、chikaをSFファンからミステリーファンに転向させるきっかけとなった大沢在昌氏の「走らなあかん夜明けまで」を思い出させます。
 この映画、トム・クルーズが主演の割には結構渋い作品に仕上がってると思うんだけど、同じ渋めを狙うなら殺し屋はトム君でなくても良かったような、、。んにゃ、トム君以外だと渋すぎて「良い作品だけど華がない」とか言われてたかな?
 この作品の課題って、そういうことなのかも知れない。トム君が演じるヴィンセントっていう殺し屋とタクシー運転手マックスとの会話見てると結構、ヴィンセントは人間的に深い役所なんだけど、時々挿入される彼のアクションシーンはやっぱり超人的に描いてあったりして、そのバランスがね、、微妙。
 で、もう一方の主役というかマックスのジェイミー・フォックスの方は、はまり役ですね。彼の「普通さ」加減がなんとも言えない。
「この仕事何年やってるんだい?(ヴィンセント)」「十四年、、本気でやりたい仕事の為の腰掛けだよ(マックス)」「十四年やっちゃ腰掛けとは言わないぜ(ヴィンセント)」あたりのやりとりに現実味を持たせようとしたら、枯れてるわけでも脂ぎってるわけでもないジェイミー・フォックスが凄く似合ってる。
 たぶん「名のある演技派黒人俳優」がこれをやったら話が、突き抜けてしまうんだと思う。
 例えば、マックスが最初に出会う女検事には自分の夢をあれこれ語って最後には相手をねぎらったりしちゃうのに、ビジネスマンを名乗ったヴィンセントには、自分の夢を知られるのを畏れたりする、、この辺りの心の機微っていうか構成力って凄いし、、ジェイミー・フォックスも巧く演じてる。それに対して、、トム君は、たぶん彼自身脚本のイメージは十分に掴んでいるんだろうと思うんだけど、もう一つヴィンセントの「欠けた冷酷」さのイメージが足りないんだよね。やっぱトム君は好青年だからさ。こういう悪役には向かないんだよ。クールな筈のヴィンセントがラスト前の戦闘で思わずマックスを庇って射撃するシーンなんかの方がトム君向き。

 それにしてもヴィンセントとマックスの二人がボロボロになりながら、人気の途絶えた大都会を走っている途中で狼(?)に出くわすシーンは、凄く象徴的だったなぁ。

 
パッション
   
パッション
監督: メル・ギブソン
 日本人にとってこの作品ぐらいレビューを書くのが難しい作品はないだろう。勿論、僭越ながら日本人キリスト教徒の存在を勘定に入れての話だ。日本人の宗教観と西洋人の宗教観の違いは、単にその教義が何処にあるかというレベルを超えた所にあるように思える。要するに「血と肉」への拘りの差なのだと思う。
 逆に言えば、そのことを明確に迫ってみせるこの映画の衝撃度というか「剥き出し」さ加減が凄いのだろう。
 ただひたすらにイエス・キリストの「最後の12時間」をリアルに描写する事を貫き通したメル・ギブスンが凄いのだ。
 勿論、通常の「映画」としての完成度で問えば多くの批判を受け止めねばならない作品だが、それらを補っても尚かつ余るだけのものをメル・ギブスンは作り上げたのである。
 今後、このようなキリスト映画は誰にも撮れないだろうと思う。そう「12時間をリアルに再現する」、それは一度やってしまえば2回目からはどんなに出来が良くても、もう「表現」としての意味はなくなるのだ。
 第一、私財約2500万ドルを投じて映画を完成させる超保守派カトリック教徒の俳優件監督などハリウッド以外には登場するはずがないのだ。

 chikaは変態だから、この映画にどうしてもSM的なニュアンスを嗅ぎ取ってしまう。「葡萄酒が血でパンが肉である」という発想や、何故、肉体を持って神の子が復活をするのか、、そういう部分に、それを生み出した文明全体のなみなみならぬ「血と肉」への執着を感じるのだ。
 凄く乱暴な言い方をすると、西洋文化圏で作られるサイコ・スリラー、ミステリー映画のルーツは総てここに在るのではないかと思う。所が日本映画では同じ様な様相を帯びる映画が作られながらもその核になっているものは全く違う。
 ブッダは解脱するのであり復活はしない。日本で数年前にあったサイコスリラー映画ブームでの最高峰は一連の黒沢 清作品だと思うが、そこでの核は肉や血ではなく「念」にある事は如実だし、対して「セブン」や「羊達」は完全に「血と肉」である。
 更には、この「血と肉」は西洋文化圏の歴史の中に綿々と受け継がれ、そこら中で戦いを引き起こしているように思える。宗教を知らぬ者にはキリストは「彼ら・血と肉の呪縛から逃れざる者達」の苦悩の徘徊の姿を抽出したものにしか見えない。

 そしてイラク戦争とアメリカ大統領選、パレスチナ問題。それぞれの内にある課題が先鋭化しつつある時期に、この映画が生まれたというのも一つの「兆し」なのかも知れない。

 
 
IZO
   
IZO
監督: 三池崇史
 「いやはやなんとも」な映画だ。もっとも三池監督ならこんなのを撮っても何の不思議もないけれど、、。
 ストーリーは至って簡単?で、幕末の人切り以蔵の怨念が時空を越えて、己の内からこみ上げてくる狂おしい衝動に突き動かされながら殺戮を繰り返すというもの。
 ただ以蔵のターゲットは一応、その時々の権力中枢に絞られているみたいだ。「みたい」というのは、親殺しや子殺しのような無辜の民への殺戮シーンも、メインテーマの支流程度の扱いで描写されているからなのだが、これが「支流」というにはちょっとばかりきついのだ。
 この作品はテロリズムやアナーキズムを文学的に肯定しているような側面があって、たとえば以蔵が時空の穴に落ち込んだあと小学校の教室に出現し、あわや小学生皆殺しのシーンにつながるのかとヒヤリとさせられたりする。そう池田小学校のあの事件を三池監督は強く意識していたに違いないのだ。ただいくら三池監督でも小学生皆殺しを撮るわけにもいかず、授業参観に来ていたPTA惨殺でお茶を濁したようだ。でも問題は、この映画を見ている物にとってはこのシーンはあくまで支流に過ぎないのに強すぎるエピソードに見えるって事なbんだよね。つまり思いつきでごちゃごちゃ刺激の強い物を詰め込みすぎてるってこと、。もちろん三池監督がchikaが書いてるようなテーマや構成を意識してるとはとても思えないんだけど、多くの観客はいやでもそんな風に映画を順序立ててみてしまうものなのだ。
 実際はIZOって寺山修司のアングラ映画のアクション版みたいな程度でとらえるほうが正解なんだと思うんだけどね。(もっともチャンバラ映画としてはクオリティがかなり低い。だって時々、実際に竹光曲がってるし、アクションは刀で切ったり突いたりしてるように見えないで物差しで叩いてるみたいだし。これで200人切るんだから推して知るべし)
 とにかく昔のちょっとアナーキーな文学青年が映画撮ったらこうなりますって作品を、よくもまあこれだけの豪華キャストをそろえて、勢いだけで撮ったもんだと感心させれます。
 見終わっても感動も感心もしないけど、頭がじーんと疲れ切っちゃうのは確か。でもオールド・フォークシンガー友川かずきだけは何とかして欲しかった。「歌」って結構、パワーがあるものだから、映画のエレメントとしては凄く重要だと思うのね。
 それがあんな形で全面に出てきたら、友川かずき嫌いな人はもうIZO、アウトなんじゃないかな。
これも「俺の趣味なんだよ」って三池監督のうそぶく声が聞こえそうだけど。音楽的にサイテーなのを映画にぶちこんで「俺の趣味」で通るのか、、微妙だよね。そうchika思うに、この映画のボーダーラインは主役の中山一也までだよ。
 中山一也の情けないのか凶暴なのか判らない「オヨホヨ〜っ!!」って叫び声は、聞けば聞くほど癖になって、結構情けない存在である以蔵と重なっていくからいいんだけど、友川かずきはさ、聞けば聞くほど「ええ歳こいてグダグダ抜かすな。人生やりなおせ」って感じだし、、。
ps オールスター、カメオ出演って感じのあるIZOでもあるんだけど、ビートたけしは、「仕事の合間にちょっと遊びに来ました」っていう風情だし、宮本武蔵役の緒方拳は無茶格好いいんだけど映画の中では「あんた誰?」、、、やれやれ、、。三池監督、ノリと勢いでやるにはもう過去の人なのかなぁ。
 
X-MEN 2
   
X-MEN 2

監督: ブライアン・シンガー
  映画鑑賞に耐えうるCG技術が成立した時期から、コミックの映画化が堰を切ったように始まったように思う。
 今では、映画化の為の良い出物がないかプロデューサー達がコミック界を鵜の目鷹の目で探しているような感じさえある。しかし原作コミックの持つ基本的な味いをよく表現した「映画」は意外と少ないモノである。最近の、原作の手触りに近い「映画化モノ」と言えば「スパイダーマン」が上げられるだろう。
 そしてこの「XーMEN2」もそうだ。前作の「X-MEN」では単純に「映画化」という事実のみにウェイトがあった感じだったけれど、今度の「2」では原作コミックの持つ「群像劇」というか「世代劇」の味わいが充分感じ取れる仕上がりになっている。
 勿論、ブライアン・シンガー監督の世界観と共鳴する部分があるからこそ、彼の手によって「映画化」された「X-MEN」。そこにある種の拘りが見えて当然である。同性愛者が抱える苦悩は常に「対立」の構造に集約され、その悩みの解決への道のりはいつも長くて遠い。ミュータントである「X-MEN」達もしかりだ。
 この映画、スタートレックの様に、同監督によってシリーズ化されてもよい作品だと思う。スタートレックがアメリカのフロンティア精神を描くのなら、「X-MEN」は同性愛者の監督によって、アメリカの抱える人種問題や性差別の課題を描けば良いのだ。
 シリーズ化、大河ドラマ化と言えば、大した超能力のないウルヴァリンがこの物語の要になるのは「三国志」の劉備玄徳を思い起こさせて、妙に納得させられてしまう部分がある。でもウルヴァリンのヘヤースタイルだけはいくらコミック通りでも思い切り違和感があったりするのだけれどね。
 それに対して同じくコテコテだけど特殊メイクが妙にチャーミングなのはアラン・カミングが演じたナイトクロウラー。アラン・カミングが一番、この映画の美味しいところを持っていった感じだね。グロテスクな外観とシャイな感性の落差がとってもキュートでした。
  そして忘れてならないのが異形のミュータント、ミスティークことレベッカ・ローミン=ステイモス。「2」のミスティークは変身を重ねてウルヴァリンに迫ったりして、かなり人間味が感じられてイイ感じでした。
 「何にでも変身出来るならどうして普通の人間に化けないんだい?」というナイトクロウラーの質問に対して「どうして普通になる必要があるの?」と聞き返すミスティーク。 これがブライアン・シンガー監督がこの映画を通じて語りたい要素の一つであるコトは間違いないと思うよ。

 
ホネツギマン
   
ホネツギマン
監督: J.トッド・アンダーソン

 『ファーゴ』でアカデミー脚本賞を受賞、映画評論家もうなる“ワイヤード・コメディ”を量産するコーエン兄弟。『ホネツギマン』は、その脚本・製作を担当する弟イーサン・コーエンが手がけたもの。
この映画、面白い、開きすぎた「間」の中になんとも言えぬ擽りが熟成されてるって感じ。特にchikaが好きなのは、ホネツギマンを殺人鬼として追いかける二人の刑事の内の「だらしない」方。何故か、カメラは本編とはなんの関係もないこの刑事のだらしな振りを延々と撮影するわけ。
 例えば朝、インスタントコーヒーを飲むためにコンロにかけた薬缶の水がなかなか湧かないので、コーヒーの粉を昨日の食べ残しのピザに直接振りかけて食べる様子とか、、。
 その他、人間描写の微妙な奇妙さの描写はそこらじゅうにあって、主役のホネツギマンだって、純朴な青年と言うには何処か「おかしさ」を持っているし、彼の父親のドラッグストアに押し入って殺人を犯したマイケル・ジェッターの演技は身障者差別ぎりぎりの所。
 それでも、なんとなく「人間愛」が感じられる所がコーエン脚本の良い所で、最後あたりに主人公が街で拾った女の前で、自らの身体を立ち木を使って整体するシーンなんかは、結構、二人の感情の佇まいの差が見えたりなかなかなのだ。
 勿論、誰にでもお勧めの映画というわけじゃないです。単なるB級映画というには「知的な擽り」が多すぎるし、カルトになるには「普通」過ぎる映画で、特に『映画に行間なんていらねぇ』という人には駄目だろうと思う。
 でも鼻くそをほじった挙げ句に、それでもって長時間遊んじゃうような人には、『ホネツギマン』って癖になる映画かも。

PS パッケージ写真の印象がB級スプラッター・ホラー映画みたいに見えるので要注意。しかもアルバトロスだし。中身は全然違うからみんな注意してね。

 
スカイキャプテン
   
スカイキャプテン
監督: ケリー・コンラン
 ネット上とかの評判が今一だったので、あまり期待しないで見始めた一本。まあアイパッチ姿のアンジェリーナ・ジョリーだとか謎のレザースーツ女だとかお目当てはあったんだけど、、。初めの頃は紀里谷和明監督のキャシャーンを思い出させる靄がかかって透明度のない歯がゆいCGのオンパレード。(どっちが早く制作に入ったんだろう?)
 レトロフィチャーばりばりの絵作りも嫌いじゃないけど特別な愛着も湧かなくて、「
うするよchika」って感じだったけどジュード・ロウとグウィネス・パルトロウの掛け合いが始まってからやっと人心地がつき始めたって感じ。
 新聞記者のグウィネス・パルトロウがジュード・ロウに送られた当時の最高級機「コンタックスI型」を使って、残りフィルム2枚で何を撮るかってあたりからこの映画急に生彩を放ち始めるんだけどな〜。それまでがね。
 楽しげな玩具を山ほど並べて、一体、それで何をしたいのって感じで。・・・んん、もしかしてケリー・コンラン監督がこれでもかって感じで並べてくれた水空両用のカーティスP-40を初めとするこの玩具群が大好きな人が見たら凄く満足するのかもとは思うんだけどね。映画はそれだけじゃないだろってゆーのがあってね。
 でもいろいろな意味で佳作ではありますよ、この映画。それなりに評価されるべきだと思う。
 冒頭に上げた謎のレザースーツ女を演じたバイ・リンに、やけにエロい航空母艦の女艦長の「唇おばけアンジェリーナ・ジョリー」、、、彼女達のキャスティングの意味がいまだにわからんのだけれどね。最後の最後のジュード・ロウの決め台詞が起死回生の一発で、ニヤリと笑ってOKです。
 
フレディVSジェイソン
   
フレディVSジェイソン
監督: ロニー・ユー
 この映画を見ていて、ソフトクリームの「二色」を思い出した。バニラとチョコミントって感じ?しかも「プレデター対エイリアン」とかヒール同士でしょ、あちらの人達って、どうしてこんなのが好きなんだろうね。それに物語の世界観とかまったく違うのに、強引に両者を繋ぎ合わせるところがこれまた凄い。
  比較的使い回しの歴史が少ないフレディはまだなんとかなるだろうけど、ジェィソンなんかはキャラクターが「成長」しすぎて神秘性もなにもなくてもう「ゴジラ」の域に達してるわけだし、、。
 そこで見つけたのがフェレディの弱点は火で、ジェイソンが水、ついでにサイコダイバー・フレディがジェイソンを操るっていう筋立て。映画を見てる間は「くだらねーっ脚本」って感じだけど、冷静に考えると、二つの世界を繋げるには「これしかない」脚本なのかも。
 最後はこの手の映画の「お決まりラスト」なんだけど、ここでもやっぱりジェイソンは「ゴジラ」なんだよね〜。

 プラス、ジェイソン対フレディの戦い見てると、ターミネーターのT-800とT-Xを思い出しちゃうんだけど、、ここの国の人って、こういうのも好きなんだよね。
 むっかーっしのジョン・ウェインが出てくる西部劇なんかで、酒場での乱闘シーンが定番であるんだけど、スーパーマッチョっていうか、「痛くない超暴力」がガンガン映し出されるわけ。
 でもホントはそんな暴力なんかあり得ない訳で、それがエンタメとしてポピュラーに成立しちゃう辺りが、この国の「拳銃王国」たる由縁じゃないかと、chikaなんかは密かに考えてるのだよ。
 
PS この映画の最初に登場するお兄さん達が「馬鹿」の代表で、後で現れる脱走2人組が「まとも」って設定なんだけど、どう見ても後者の2人組の方があぶなそうな人相してるんだよねー。これって監督のジョークみたいに思えるんだけど、みんなはどうおもう?

 
 
模倣犯
   

模倣犯
監督:森田芳光

 

近緒が、映画の見方として凄く参考にさせていただいているサイトがある。その女性Webマスターは、スクリーン上で描かれる人物(監督・俳優も)の気持ちの動きを読みとる力が桁外れに強い方で、近緒は大きな信頼を寄せている。
 そこで見た「模倣犯」の評価が異常に低かったのを思い出した。映画が大好きな人で、どんなに低い評価を付けた作品でも、レビューを見ると「良いところ」を見つけて書く人でもあるんだけど、今回はその文章の歯切れが悪かった。
 
ビデオで「模倣犯」を見終わった後も、暫くネットでこの作品についての感想をリサーチしてみた。・・やはり「ちょうちん」やっている映画評とSMAP中居君ファン以外は、この映画、軒並みに酷評だった。

 近緒は映画そのものより、この賛否の落差が面白くて仕方がない。それはいわゆる「原作付き映画」の宿命以上のものがあるように思う。特に原作の宮部みゆきを読んでいる映画ファンの評は、5点満点で0点とか、もう壊滅的である。
 近緒も宮部みゆき作品をそれほど沢山読んでいる訳ではない(例によって「模倣犯」もベストセラーになってしまい性格が天の邪鬼なので読みそびれている。)が、「原作を読んだ後、脚本を自分で書きたいと思いました。ある種のインスピレーションを感じ、自分にしかできない映画ができるのではないかという思いを持ちました。」という森田監督の発言を読んで正直「こいつは馬鹿か?(失礼)」と思ってしまった。

 それって、鶏が飛んでいる鳥の姿からインスピレーションを得て、餌のついばみ方を変えて見たって話でしょ。この人、絶対、自分の映画を、自分だけで練り上げて作るべき人だと思うんだけどなぁ、、。そうすればいつか努力が実るってタイプの人じゃないかと。(近緒はこの人の事、あまり天才肌って感じがしない、、。公の評価はそうじゃないみたいだけど。)だって映画自体は最後まで「見れる」んだから。
 森田監督は、自分の素材で映画を撮るか、作れないんだったら素材をマイナーな所から発掘して来るべきだと思うよ。

 それにキャスト起用が疑問だらけ。唯一まともなのが山崎努さんだけ。中居君のピース役は、吉野屋や航空会社のちんぴらヤンエグ・イメージから抜け出せないし、ほんと、彼がいつプッっと吹き出してなんちゃってギャグをかまさないかと心配で心配で。
 「新しい中居君」を見て貰えればとか、、どこが新しいんだか、、きっちりバラエティ中居の延長だよ、あれは。ピースの目が良いとか言ってるけど、アノ目、時々TVでもやってるよ。
 それとか添え物にしても「爆笑問題」が画面にでる意味がわかんないし、一番、がっくり来たのは津田寛治さん。この人のこの配役は絶対、ヘンだと思う。良い俳優さんなのに、、、一生懸命、浩美を演ずるほど、どんどん違う浩美になっていくというか、これは役者さんが内包してるベクトルが元から違うんだから起用した方が間違いだと思う。
 藤井隆君に至っては、もう監督の玩具にされてる気がしちゃうんだけど、、。

 それとネット社会の捉え方ね、紋切り型というか、またかい?って感じ。まあメディアを利用しての劇場型犯罪の方は、ついこの間も京都の銀行であったし、情報流通の加速で人間が歪めば犯罪も歪むっていうテーマは、ここ暫くの定番なんだけど、、なんだかその描き出し方が、一昔前の日本映画見てるみたいでね。

 それとピースのVサイン後の自爆・頭炸裂シーンね。あれもアンチからは評価が散々だけど、ありゃーきっと意図的な作画なんだろうね。象徴的扱いっていうかね。
「連続殺人事件扱った映画だけど、俺の腕で血なまぐさいシーン一度も見せてないだろ、ここだってね吃驚したろ、リアルにやろうと思えばさ出来るんだよ、CGにした意味、オマエら考えろよ。」っていう森田監督のしたり顔が見えそうだけど、実際の結果はギリギリセーフの演出にしか過ぎなくて、、、近緒はまあ○だったと思うけど。
 それより一番、駄目駄目だったのはピースの赤ちゃんの登場で幕を閉じちゃった所。映画が娯楽である以上、あの終わり方でいいかも知れないけど、全体の話の展開との繋がりを考えるとね。ピースの人物設定からして、複雑骨折してるよ、あれは。
 
PS 浩美に殺害されるイケイケ女・岸田明美役の小池栄子の顔が窓に押しつけられるワンカット、、SM的エロだったね。あれはきっと意識した演出だと思うよ。森田監督が言う、情報流通の拡大で、今まで片隅に追いやられていた「人の暗部」と簡単にアクセス出来る環境から生まれた人間を、ピースと浩美で顕しているなら、二重の意味で良くできたサービスカットだと思う。
 でも、片方で頑固一徹の人間味の塊の山崎努でしょ、、、アナログとデジタルの対決だと言ってるけど、どうもこの対立のさせ方が下手なんだよね。うーん、色んな意味で中途半端な映画だよ。

 
ブラザーフッド
   
ブラザーフッド
監督: カン・ジェギュ

 話はちょっとずれるんだけど今をときめく韓流スター、ペ・ヨンジュン見たさに日本人ファン10名が起こしたニューオータニ前の事故の事を考えてしまった。いや、熱烈強烈な叔母様ファンの事ではなく、ペ・ヨンジュンが見せたその後の対応についてだ。
 涙の謝罪記者会見だの被害者個人にあてた手紙だの、おおよそ日本人スターならやりそうにもないことの「対応」についてだ。
 ペ・ヨンジュンは自分のファンを「家族」だと認識するらしいが、どうやらそれはスター家業としての営業上の戦略ではないのかも知れない。
 映画「シュリ」から始まった韓国映画ブームは、その過激なまでのハリウッド映画への傾倒と完成度と同時に、映画製作の底流から決して外される事のなかった家族愛や情念の濃さが現在日本人の潜在的なニーズに呼応して来たのだと思う。
 そして韓国映画には、ベタベタに泣けて暑苦しい程の高濃度の人間関係を求めているくせに、国内の日本映画ではそういった映画はけして現れないのも不思議と言えば不思議な事だ。「セカチュウ」や「半落ち」程度の純愛ものなら生み出すことが出来るが、日本映画は決して人間関係の濃度を韓国映画以上に描き出すことは不可能だろうと思う。
 言ってみればこの「ブラザーフッド」はその差の典型である。
「ブラザーフッド」のデフォルトとしてある兄弟愛に違和感を覚えない現代日本人はいないはずだと思う。不謹慎ながらchikaの感覚だと出兵前のジンテとジンソク兄弟の仲の良さは、設定が判らなければゲイ関係にしか見えないのだから。

 ・・とまあこの辺りで民族間の文化及び感性の比較は程々にして本作品について簡単にまとめておこう。「シュリ」と比べると映画としてはどうなのかな?って少し思う。
 映画を前半後半で分けると、前半は丁寧すぎるし後半は端折りすぎ。二人の兄弟が戦争の中でお互いの兄弟愛故に、袂を分かっていく過程を描いていくのがこの作品の一つの主眼なんだろうけど、静的な弟の輪郭が見えて来るほどには、激しく動き回っている兄の隠された英雄志向の露出がピンとこないのだ。
 特に後半、「南」に妻と弟を殺されたと思いこんだジンテが「北」に寝返って「北」の英雄としてジンソクの前に敵として立ちはだかる展開、、、これってどうなんだろうって凄く引っかかる。
 ただ「戦争の内実を問う」映画としては久々に腰の据わった本格的な映画だと思う。人がひとたび戦場で戦えば、相手が昨日までの隣人であろうと同胞であろうと、虫けらのごとく殺し合わざるを得ないんだって事をちゃんとよそ見をせずに描ききっている。
 日本だってちょっと昔にはこれぐらいの真っ当な反戦映画を作っていた時期があるような気がするんだけど、、、。
 真心も反戦の根性も他国の表現に学ばなければ、この国はなりゆかないのだろうかと少し憂鬱な気分になる映画でもある。

 
シルミド
   
シルミド
監督: カン・ウソク
 確かに韓国映画「シュリ」が日本に与えたインパクトは強烈だった。続く「JSA」も日本映画界が追いかける事の出来ない韓国ならでは事情を内包した見事な映画だった。そして今、空前の韓流ブーム。それでも、我々の感性の中には韓国映画には何処かついていけない部分や違和感が昔からあった筈だ。日本人はその違和感故に韓国文化に惹かれ反発し続けて来たのだと思う。それは残念な事に長い歴史で見ると「反発」というよりも「蔑視」の期間が長かったのだが、、。
 シルミドは、長年に渡って隠蔽されてきた韓国政府による金日成暗殺計画と、それを巡る工作部隊の反乱事件を描いたアクション・サスペンス映画。
 1968年1月、北朝鮮特殊工作部隊による青瓦台(韓国大統領府)襲撃未遂事件が発生。同年4月、韓国政府はその報復として仁川沖のシルミド(実尾島)に死刑囚ら31人の男たちを集め、極秘に金日成暗殺指令を下した。こうして31人は、その時の年月から名付けられた684部隊の特殊工作員としてジェヒョン隊長の下、過酷な訓練を開始する。3年後、優秀な工作員に仕立て上げられた彼らに、いよいよ実行命令が下される。しかし、政府の対北政策は決行目前になって大きく転換、北潜入へ向け行動を開始した部隊に急遽命令の撤回が告げられる。
 実話を元に作られたというこの映画が韓国にとってどのような意味があったのかchikaには理解できないのだが、日本国内では「韓国映画」の位置づけをもう一度再定義しなおすきっかけとなる作品ではないかと思う。
 シルミドを「シュリ」と同様に「楽しめた」日本人は少なくなって来ているのではないかという気がするのである。
 それは映画のテーマ云々に関わっての話ではない。テーマで言えば「シュリ」だって相当重いテーマを扱っている。つまり映画全体を覆っている雰囲気というか文化的な気質に、ついていけなくなっている日本人が多くなっているのではないかという憶測をしているわけである。
 映画の登場人物達に感情移入をする前に、日本人であるchikaはシルミド全体を覆っている熱い韓国文化の情念というシールドに感情を跳ね返されてしまう抵抗感があるのだ。
 おそらく「シュリ」を作った頃・韓国ではハリウッド映画のエンタメ性に対する冷静な分析と取り込み作業が慎重に行われていたはずで、それが韓国独自の文化と相まって非常に高い娯楽性を持つ映画を生み出したのだと思う。それがシルミドでは娯楽性のターゲットが自国に向き過ぎているように見える。これはシルミドとよく比較される「ブラザーフット」にも言える事だ。
 一時、日本にもインド映画ブームみたいなものがあって、そのお気楽さが持てはやされたのだが、当然、ブームは既に終了している。勿論、インド映画はそのままの持ち味でインド国内で制作され続けている筈だ。つまり釣バカ日記が海外進出などを視野に入れず、日本人の国民性を満足させる為に作り続けられるのと同じ事なのだが、釣バカ日記ではまかり間違っても違う国で「ブーム」になる事はないだろう。この差は映画として相当大きいのではないかと思う。韓国文化に回帰しつつある映画「シルミド」を見ながらそんな事を考えていた。
PS 今日のレビューはシルミドの周辺って感じですね。映画そのもので言うと684部隊とことごとく対立していた教官が実は一番彼らの事を思っていたという設定が、(ありがちはありがちなんだけど)後の偽善者教官との対峙も含めてぐっと来ましたね。これってシルミドの中ではスパイスみたいなもので本体の味付けとは全然関係ないんだけど、そのスパイスにしか印象が残らないって事自体が、、、。
 
バリスティック
   
バリスティック

監督:カオス
 爆破シーンが異常に多くて、しかも主演が「デスペラード」のアントニオ・バンデラスと「ペイバック」のルーシー・リュー(チャリエンのルーシー・リューじゃないよ、あくまでSM嬢パールを演じたルーシーね。)の二人。
 この映画の予告が流れた頃には、仕事キャンセルしてでもと思ったくらい。でも結果的に、この映画、劇場で見そびれて正解だったのだ。
 元々はルーシー・リューが演じている殺人マシーン・シーバーの役は、シルベスター・スタローンだったらしい。
 見終わった後で、その事を考えると思わず納得の馬鹿映画だし、スタローンを女性のルーシー・リューに入れ替えてもなんの問題もないくらい脚本が緩いのだ。
 更にルーシー・リューの母性について演出過剰なぐらいの浮き上がった撮り方をするので、座りがわるいと言ったらないのだ。ルーシー・リューが自分の子どもの仇を討つために動き回っている「正義の味方」だと判るまでは、結構、面白く見れるので、この演出は質が悪いと思う。
 第一ルーシー・リューがこんなに人間をボコボコ殺しまくってちゃ「実は正義の見方」はちょっと無理だろうと思うんだよね。
 アントニオ・バンデラスも、それなりのアクションはするものの、最後までこれと言った見せ場もなくいいとこなしだしね。(ファムファタールの彼もそんなだった。スパイキッズのパパ役やってからそういう役回りが多いんだろうか?)
 監督のカオス氏は、生まれ故郷のタイで撮ったアクション映画が認められ、ハリウッドデビューを果たした人らしい。でも偏見かも知れんけどタイ映画ってシンハ・ビールみたく山場の接合部分がゆるゆるの筈。
 ハリウッドの馬鹿映画は、「ランボー」みたくお笑いマッチョのアメリカンスピリットでしか撮れない筈なんだよね。
 とにかくアントニオ・バンデラスとルーシー・リュー。この二人の配役ならもっとましなアクション映画が撮れるはずだよ〜。この組み合わせでもう一度、、、無理だろうな。
 
ターミネーター3
   
ターミネーター3
監 督: ジョナサン・モストウ

 なーんにも考えなくて済むオ馬鹿映画を見るつもりでT3を借りた。そーゆーことなので「映画」としては殆ど期待していなかった。例えば、第一作目と同じシュワちゃんの裸体が戻って来たとか言ってたけれど、寄る年波には勝てずやっぱりシュワちゃんの大胸筋はちょっと垂れてたし、、。
 でもシュワちゃんが未来から登場する場面での、捻りあげた「手」に話しかけるシーンとか、星形サングラスの小道具の扱いとか、3作目の余裕って感じで、なかなかこのT3、味な出足を見せるのだった。
  前半のクレーン車を使ってのど派手なカーチェイスなんて、アクション映画の見せ所、見せ壺付きまくりで、なんかもう娯楽映画の秘密を心得過ぎって感じ。
 普通、この手の作品って回を追う毎にテンションが下がっていくものだし、それを避けようと思ったら、全く毛色の違う有名監督を投入してモチーフだけ受け継ぐか、同じ監督にしてよりマニア受けする形にするしかないんだけど、、ジョナサン・モストウ監督って苦労人って感じやねー。
 結構、楽しめました。それと特筆ものなのが女性型サイボーグT-X(クリスタナ・ローケン)とT-800(アーノルド・シュワルツェネッガー)のバトル。
  金属のフレーム同士の戦いなら、そうでもないんだろうけど、生身の二人は方やボディビルダーで、もう一人はスーパーモデル。どう考えても視覚的には勝敗が見えている戦いというか、痛々しささえ感じさせる組み合わせなんだけど、これが特撮のお陰で凄い凄い。
  生身の顔面でトイレのコンクリートをブチ割るは、お互いの身体が完全にハンマー状態。それでもか弱い女性が大男に担がれて壁に投げつけられるシーンには目を瞑らざるを得ない。なのに次の瞬間にはスーパーモデルは平然と瓦礫の中から立ち上がってくるのだ。
 これって一種のSMショーみたいだなーっと、ホントはみんな心の底では思っているじゃないやろか?

PS 噂ではT4がありそうだ、、。でももうシュワちゃんには出て欲しくないというのが本音。だって肉体は辛うじて再ビルドアップ出来たみたいだけど、顔の皮膚の弛みとか頭髪の禿具合とか、老人のターミネーターなんて見たくないもの。
 それに一応州知事だしさ。