
映像の部3
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『カル』(原題) TELL ME SOMETHING |
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『カル』(原題) TELL ME SOMETHING 監督: チャン・ユニョ |
「シュリ」の成功があったんで、2番手3番手の映画は、外すのが怖くて見なかったんだけど、凄いですわ・・・韓国映画。この分野でもいくんですね。 エレベーターのシーンが凄い。特に女の子が血糊で滑って死骸のそばにべたっと転けるシーンなんかはちょっと鳥肌ものです。 「シュリ」の時もそうだったけど世界レベルに短期の内に肉薄する力ってなんだろうて思う。徹底したマーケッテングと戦略、+やっぱり創作活動に忍び寄る「惰性」って奴ににあぐらをかかない真摯さかなぁ、、。 その真摯さがちゃんと映画のバックボーンになって感じられるもの。主演男優のハン・ソッキュにしてからが「真剣」を絵に描いたような人、決して水も滴るような美男子ではないが彼の居住まいそのものが格好いいのだ。 あともう一人、近緒がこの映画でお気に入りになった男優さんがいる。それは主役の刑事の先輩にあたるオ刑事:チャン・ハンソン。この映画の下敷きになっている「セブン」のモーガン・フリーマンに当たる役柄なんだけど、感覚的には彼の方がしっくりくる。 この映画、主人公の刑事が、不透明な金の出所を追求され自分の母親の延命装置を取り外す書類に同意せざるを得ない所から始まっていく。 つまり仕掛けとして「シュリ」と同じく、底流として「恨」の情感が響いている訳で、それが「セブン」と違うトーンを打ち出していくのだ。それだからモーガン・フリーマンではなく温厚さの漂うチャン・ハンソンであり、同じ東洋人として、「カル」に親近感を感んじてしまうのだろう。 また、別な角度で見ると、この映画ウエットでシャープな黒沢清作品のようにも見える。 興味をお感じになるようなら、見て損はない作品である。 |
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ベレジーナ |
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ベレジーナ
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みんな映画を理屈で分析しちゃう行為をどう思う?。近緒はレビューまがいのこんな文章を書くまでそんな行為をどこか馬鹿にしてた部分があるのね。「第一、映画って感じるものであって文章で解体できないでしょ、、」って感じ。 ところが、こんな感じでレビュー書きながら何本か映画を見てると、「映画の作り」が実に沢山のバラエティを持っている事、極端に言えば監督の数だけ、映画の「作りも」「意義」も「目的」もある事がわかるのね。それぞれの共通点と言えば「面白い」でもなく「感動」「娯楽」でもなく、なんとそれが「目に見える」事だけなのね。 それとその映画がどの国から生まれたかって事と作られた時代背景がかなり重要な要素だって事、。 前置きが長くなったけど、この映画『ベレジーナ』、よく分からないと言うのが正直な所、でも見終わって「金と時間を返せ」って訳でもないんだなぁ、、これが。この映画、スイスに持ってくとブラックユーモアたっぷりのライトコメディなんだろか、、。 確かに社会の仕組みの裏側や、俗に言う権力者達の夜の顔と世間に見せる顔の落差が嫌みなく描かれてはいるけどね。それにしたってそれが特別に鋭いというわけではないし。 まあ近緒的見どころと言えば、私のサイトで取り上げるにはちょうどぴったりのフェチやらキンキィセックスが沢山登場する事と、それらを一人で面倒みちゃうロシア人高級娼婦ベレジーナ(エレナ・パノーヴァ)の存在が、ちっとも隠微でなく清潔・純真無垢に見えるのが凄いというかキュート。 なんだかずーっと彼女の挙動とか顔の表情とかを見ていたい映画なのね。特にあの柔らかそうな髪、羨ましいなぁ、、。 でもストーリーの方は、、一体、?、、、1時間以上も掛けて展開するような内容なんだろうか。最後は『ベレジーナ』が女王になるってのも、特別意外って感じがしないし(数人の老人達が起こした革命の結果という話の展開が無理すぎて)何かの寓意にしてもつまらないし、、。 うーん、、。それでもダメ映画じゃないんだよね、、これ、、人間の肌触りが結構やさしいっていうかね、、。 まぁ、、、また一つ勉強になりましたわ。映画って奥が深い、、。 |
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I.K.U |
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I.K.U 監督: デューリ−・チェン |
「I.K.U」はWeb上のHPで封切り前から色々情報を集めながら見てたんだけど、いざ現物を見ると期待はずれというのか、、この手の映画のよくあるパターンの「ダメ」さ加減をもろに被った作品でしたわん。 確かにファーストシーンでは近緒のマイフェバリットである「ブレラン」の折り紙シーンのパクリから滑り出して、意外とやるのかなと思わせてくれたけど、、。 『なけなしのお金かけて才能浪費して、それもくっだらない「しゃれっぽいテーマ」の為に、お仲間で学芸会のり・・こんなだったらAVの方がずーと上で潔いじゃんか。』って奴ですね。 制約の多い条件下でも、同じ資源でずっと良いものが作れる筈なのに、、「I.K.U」制作上の「何か」がそんなチャンスを潰しているみたい。近緒が第一掲示板でずっと「アギト」レポを続けているのは、そのあたりのアギトチームの頑張りに惚れているからなのよねー。 ・・・でもあれだけの性愛のバリエーションをどうしても並べたかったんなら設定も含めてああなるのかなぁ、、。 確かにホモカップルは、なんだかとても楽しそうに映ってたよなぁ。フィストがペニスになって膣やらアナルからデータを回収する場面は「もののあわれ」を感じたし、、ローション塗って身体のちっこい子にお股をバックからズニュルニュルルってやって貰うのも気持ちいいかも、、なんてね。 映画的にはこの「I,K.U」。近緒のIsawレビューとして確実、選外レベルなんだけど、近緒のHPの立場は「マイノリティ」だかんね。取り上げないわけにはいかんのよ。 (Dizzy役のザッカリー・ナタフがエレベーターの中でクンニされるシーンは「彼って女性だったんだぁ」って感じで吃驚しちゃった。) それに近緒的に、梅宮さやかちゃんや、ここに出てくるお姉さん達が好きだから、、。みんなおしゃれな気分でティッシュ持ってこの映画を見てあげてちょうだい。 緩くてダメ?ごめんねぇ。この監督、勘違いしてるんだから許してあげて、、、。 PS 雑感。この映画では、わざとらしい稚拙な「日本語と英語」のチャンポン会話がしつこく繰り返されるんだけど。下手すると日本の文化風俗はこのティストを持ったムーヴメントが勢力を得て「文化」そのものを持ってちゃうかも知れない、、、。でもそれは決して「良い事」じゃないよ。 「文化は浪費」だっていうけれど要は何を浪費するかっていう事なんだと思うなぁ。 |
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メトロポリス |
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メトロポリス
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近緒はウォルト・ディズニーが描いた初期のミッキー達が好きです。あるいはミッキーが登場するパラパラ漫画に毛が生えた程度の白黒アニメーションも、、。当然、手塚治虫やときわ荘に集まっていた漫画家達の初期の画も。 それらは、今観れば決してこなれていず、どちらかと言えば稚拙ささえ感じさせる画ですが、、それでも精気のようなもの・何かを信じられる者のみが描きだせる「線」と「物語」を内包しています。 若き日の手塚が描いた「メトロポリス」は、その時の彼にとって超未来であった世界です。 ですが、いまの私たちが観る手塚の「メトロポリス」 は郷愁そのものです。その時に描かれた「悲劇」さえ、今では古びて少しの衝撃度もありません。今の私たちは超高層ビルに突っ込んでいくジェット旅客機を自分の家庭にあるテレビジョンで目撃し、まるで「おそろしくリアルな映画」を観るように「悲劇」を感じる時代を生きているのです。 近緒のこの映画に対する耽溺は、やや逃避に近いものだと思います。「メトロポリス」の内包するロボットテーマや、文明文化・都市論などは、古すぎていくらアレンジしても現代に蘇らせる事など不可能でしょう。作り手もそれを判っていてこの作品では若き日の手塚治虫が夢見た世界を再現する事、そしてこの映画の楽しみ方としてディズニー映画のファンタジアのような方向性を目指したのだと思います。 私はそのやり方で満足をさせられました。しかし、映画において、視覚・聴覚的なウェイトに大きな比重を置く事を肯定できず、「テーマ」や物語性を重視される方は「メトロポリス」を観ない方がいいかもしれませんね。そういう見方ではきっとこの映画は「食い足りない」作品だろうと思うし、膨大なセルの無駄遣いとデジタル技術の暴走としか見えないだろうと思うのです。そして、それはそれである意味この映画への正当な評価であるとも思えます。 でも近緒は、この作品が好きです。それは映画に対する嗜好というよりも「ある一人の画家が描く絵が好きである」そんなレベルなのですが、、。でも考えてみれば、そんな部分で勝負出来るアニメ映画が、今まで生まれ出る事が出来ずにいたのではないか、そんな風にも思うのです。 とにかく「メトロポリス」のクライマックスシーン。自らをロボットと知らない主人公ティマと、そんな彼女に恋してしまったケンイチが陥ってしまったカタストロフィの場面で流れるレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」が秀逸です。このシーンの「作り」が「メトロポリス」の映画の総てを語っているような気がします。 PS 手塚漫画のキュートなダークヒーロー、ロックがこの映画では実に見事なくらい「演劇」してます。この映画の中ではこのロックのみをキャラクターとして「抑えて」いないようです。ロックファンには、お勧めかな、、。それにロックの得意技、「女性」への変装もあるし、、。 |
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サマー・オブ・サム |
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サマー・オブ・サム
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レクイザモが大嫌い。彼が喋る時の顎の引き方とかがいちいち気に障るし。あと煙草の吸い方とか。ピアノの白の鍵盤見たいな歯並びとか、、、ボディは好み、、。 猥雑でいかにもチンピラ全然してる所とか、本当に、「あっちにいってよ」って感じで。「ペストはカメレオン」なんて彼の主演の映画は超最低で(キラーコンドームが「壊れ」で騒がれるんなら、この映画も同じぐらい壊れてる。壊れているけど、玄人好みじゃない「お下劣さ」だから騒がれないんだろうね。レクイザモは、どこか濡れたような陰があるから、ハチャメチャをやるとこちらの後ろめたさを刺激するような所がある。)。 それでも近緒が抱きたい男優のナンバー1。彼ぐらいゲイ(一般的に信じ込まれているっていうイメージで)の匂いがする役者はいないよ。 そんな彼が主演?の社会派ドラマがこの映画。正確には、この映画の主役は「時代」ないしは「都市」だと思うけれど。 ニューヨークが、多発する「犯罪」にその身体を犯されていた時代は、何もかもがぶっ飛んでいたって思いこんでた。でも実際には、一般庶民のモラルレベルでいうと「離婚とアナルセックスが罪悪」な時代だったんだね。これ勉強になった。 映画は、1977年、夏に起きた実際の事件に基づいたドラマ。ニューヨークの下町は、サムの息子と名乗る連続殺人鬼の恐怖におびえていた。事件の舞台となったブルックリンでは、マフィアまでもが町を守るために自警団を作り、犯人探しを始めていた。 そのゴロつきの1人、ヴィニー(ジョン・レグイザモ)も、事件に巻き込まれ、親友が犯行に関わっているかもしれないと疑い出すが……。 最終的にこの映画は、「異質」さの象徴である一人のパンク青年に対して、「予断と偏見」が狂気に煽られていかに燃え上がっていくかを告白するような構成になっているのだけれど、、。 当時の風俗というか、「欲望・狂気」を、平坦に配置しすぎたせいか、映画としてのシャープさに欠けたと思う。「凄い映画」でも「下らない映画」でもなく、、あえていうなら「小粒」、何を今更って感じなのかなぁ。近緒がこの映画をレビューに取り上げたかった理由はジョン・レグイザモをみんなに見て欲しい為だったりして。 PS 「2000歳の犬がオレに命令する…。」というのがこの映画のキャッチコピーらしいんだけど、本当に殺人鬼テビット・バーコウィッが、幻の犬に殺人を命令されるシーンは秀逸ですよ。犬の「口パク」が吃驚するほど合ってる。あれで犬が、画面の片隅でしっぽ振ってるのを何とかできてたなら、鳥肌がたってたと思う。 |
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RED SHADOW 赤影 |
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RED SHADOW 赤影 原 作 横山光輝 |
えーっと、この作品はずーと不埒な願望に支えられて見たいなーって思ってた作品です。勿論「映画」としてはなんの期待もしていなかったので、劇場に脚を運ぶなんて事は論外だった作品でもあるのですが、、、。 ええフェチです。レザーコスチュームの!!なんたってここはSMfですもの。でもでも、わおーん、東映制作だよ。創立50周年記念、しかも赤影ぇ、、。 のっけの布袋寅泰!『SF/サムライ・フィクション』続編仕様の出だし、遊んでるよこれ、こんな出だしするのでまともな日本映画見たことないだけど、、、まっいいか「見る」目的が元から違うんだから、、それにしても中野裕之監督、「赤影」でもあのモダニズムを継承してますって事かしら。 確かにライトな味わいの中にシビアな影もちらほらと、、でも期待に反して散漫なイメージはぬぐい去りがたく、映画は只だらだらと続くのであった。 でもいいのよん、近緒は「レザーの臭いが充満」してさえいれば。忍者アクションのシーンだけに用いられる青い色調の画面はいいなぁ、レザーのテカリ具合に余計な妄想を附加出来るから。赤影(安藤政信)のレザーコスチュームにもうっとり。彼って顔もいいけどボディもスーパーナチュラルでいいわ。それにお約束のくの一忍者コスチュームもレザー系なのが素敵。飛鳥(麻生久美子)のポニーテールもいいけど、同じやるならギチギチの顔面拘束用レザーフードぐらい被せてあげたら、彼女のフェテッシュ女優としての陰ファンがもっと増えたんじゃないかしら。 青影(村上淳)が飛鳥(麻生久美子)が脱ぎ捨てた鎧の胸の隆起を揉んだり臭いを嗅いだり、、あなた気持ちわかるわよ。でもこの飛鳥、吃驚するほど早い時期に殺されるのね。二番手の奥菜恵の出番なんか削っちゃってもう少し彼女の出番を伸ばしてやりたかったわ。だって安藤政信ファン以外は麻生久美子の飛鳥だけが楽しみの映画なんだから。 それにしてもキャスト張り込みましたね。さすが創立50周年記念。でも全員、映画のなかに溶け込んでいない!!ある意味これまた凄い事だね。根津甚八はじめ、全員演技が独立していてお互いに全然接点がないんだもの。こんな事やろうと思っても出来ないよ。 津川雅彦と奥菜恵が並んでいるシーンなんて「日本を代表する大ベテラン俳優と舌もまともに回らないアイドルが並んで写ってます。」以上のモノに絶対見えないんだから。中野裕之監督ってこんなにもヘボだったかしら、、。それでも「梟の城」より面白いんだから日本の娯楽時代劇はどうなっちゃうんだろう。 おっといけない。今回のレビューはそんなのじゃなかったんだっけ、、。今度の記事を書くために資料集めしてたら、なんとかの「2ちゃんねる」が引っかかって「Red Shadowの麻生久美子で抜きましょう。」っていうスレッドが出てきたんだよ。やっぱこの映画の鑑賞方法はこれに尽きるんだ、、。 |
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スターリングラード |
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スターリングラード 監督・製作・脚本 ジャン=ジャック・アノー |
敵前逃亡した同胞兵士を撃つ上官、そうしなければ寄せ集めの部隊など一気に崩れてしまう。これが戦時のものの考え方。それに対して「人は希望があれば戦います。必要なのは英雄です。」という発想を持つロマンチストの登場。更に、この映画ではロマンチストが言う「英雄」でさえ、結局は虚像なんだという個人の思いに行き着いていく。 冒頭の数十分間はリアルな描写が連続し、久しぶりに重厚な戦争映画を見た思いと共に、この映画、冒頭に書いたような重たいテーマを最後まで力技で見せてくれるのかと思っていたが、、。 途中からはソ連とドイツの二人の狙撃手対決と、恋の三角関係物語に物語がシフト。娯楽とシリアス、、どちらをとっても映像的に出来が悪いわけではないので、結局見終わってから中途半端さが残った。 まあアメリカ・ドイツ・英国・アイルランド合作せいなのか、旧ソ連の思想への解釈やナチスドイツへの対応など、かなり微妙な部分があり(個人的にはそれってちょっと違うんじゃない?あんた見てきたんか?というのがいくつもあった。)そんな事を考えると、後半の狙撃手対決という娯楽色で映画が覆われた事が、かえって有り難く思えたのが正直な所なんだけど。 狙撃者対決の部分はスティーブン・ハンターの小説を思い出し、純粋に娯楽としておもしろかったし、疲れ果てた戦士達が雑魚寝する部屋の中でヴァシリとターニャのセックスシーンはその切なさに置いて最高の名場面だと思う。 ps ヴァシリにダニロフが見せた嫉妬心や、彼がそのことを激しく悔いる心は、意外と、映画を見終わったあとからジンワリと効いてきます。彼の「私は、総てが平等な世界を夢見ていたのに、、自分自身の、相手にはあって自分にはないものへの嫉妬心さえ克服できないんだ。」の台詞が、戦争中の恋の三角関係が生み出した思いといえど痛い台詞なのです。 |
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天国から来た男たち |
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天国から来た男たち |
三池監督は、自分の作品の中で個性豊かな俳優さんたちを使って、尚更に彼らのアクをデホルメするのが好きみたい。
で、今回、見所の俳優さんは、詐欺師の吉田を追ってきた殺し屋、薮元忠役の北見敏之。彼の「顔の表情」がいかにも演劇的(なんちゅう表現じゃ!!)で見せ物的快感に溢れていて面白い。こんなやくざ、実際には絶対いないけど、「本当にいそう」って感じがするところが演技・演出の妙ですね。 それとあと一人。元調理師の海野俊幸役の遠藤憲一。近緒はこういう怒鳴りぱなしの、きれた暴走演技が好きじゃないんだけど、それでも彼のラスト前の「弁慶の仁王立ちシーン」は、思わず息を呑み、ついでに胸にぐぐっとくるものがありました。(フルメタル極道を少し思い出した、、行きすぎた純情と情念。) この理不尽な感動は、海野の仁王立ちシーンの背景に、シャブ中毒のフィリピン太郎が唱える綺麗な般若心経をバックに流すという、いかにも監督らしい演出が、功を奏したって事があるんだけどね。 後は主人公の早坂幸平役のアンパンマンこと吉川晃司。「漂流街」じゃ結構面白い役所だったけど、今回、吉川晃司にエリートビジネスマンは無理があったんじゃなかったかなぁ。 早坂幸平が手ひどい裏切りを何度も受けて、アウトロウ化していく過程も、この映画の重要な軸の一つなんだけれど、吉川晃司は地金がチンピラ風味だからね、、。彼がエリートビジネスマンってのは説得力がないのね。 でもまあ、監督お得意の「驚愕のラストシーン」を考えるとやっぱり吉川晃司の胡散臭さでよかったのかなぁとも思う。彼って最後の「あの服」と「サングラス」が異様に似合うもの。 こんどの作品は、監督が造る二通りの映画の内「まとも」よりで、(漂流街:天国から来た男たち=DOA:DOA2)の関係のように、監督の主旋律である「はみ出し者へのエール」が判りやすい映画だった。 こういう屈折したヒューマニズムを照れもせずにスパって送りつけてくる所も三池監督らしい部分なんだよね。あっと、三池監督らしいといえば、山崎努の身の回りの世話をするのがフィリピンのオカマちゃんの登場。彼女、大塚寧々よりずっと色っぽいぞ。 ・・この映画、全体的に、フィリピンというお国柄をロケーションを獲たが故に、監督の猥雑さがますますヒートアップし、その分、テーマがよりシンプルに浮かび上がってくるという構造を持った作品なのね。言い替えれば、判りやすいといえば本当に判りやすい映画なのです。その事が三池作品にとって・・・うーんいいのか悪いのか、、。それは近緒的にはちょっとね。疑問が残るところなんだけど、、。 今度は三池監督「殺し屋1」の映画化をするらしい、映画製作の順番で行くと「漂流街」に続く破天荒ラインの筈、今度は期待していいのかな? |
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ビジターQ |
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ビジターQ |
仲間内だけでしかもデジタルビデオで映画を撮っても三池崇史は三池崇史だ。というよりも撮影ノリが軽くて済む成果、いつもより毒の回り方が速いのではないかと思わせる映画「ビジターQ」。 内容は援助交際・近親相姦・家庭内暴力・麻薬・主婦売春・イジメ・ひきこもり・殺人・屍姦、、うーんとにかく三池監督にとっちゃ濡れ手に粟って感じの題材をてんこ盛りにしながら、ある崩壊家庭に訪れた秀臣という男を中心に始まった家族の再生物語。 この秀臣、初めは悪意ある動機で他人の家に入り込み、自分が加速させる家庭崩壊ぶりを楽しんでいるように見えるのだが、、、その実、、本当の意味での「家族の絆」を強める役割を果たすのである。 なーんちゃって、、そんなのは嘘だと思うよ。これって映画で無茶苦茶をやる為の「保険」だよ。家庭内暴力を働いていた息子が自分の母親の母乳と小水の池に突っ伏しながら秀臣に「伯父さんて本当は僕たちを助けに来てくれたんだね。ありがとう。」と言うシーン。対する秀臣は曖昧な笑いを浮かべたまま、、ずるいよ三池監督。 (この秀臣を演じるのは渡辺一志。彼って若手の監督さんらしい。初めなんでこんな奴って思ってたんだけど、後で述べる内田春菊と同じで、彼の曖昧模糊さが結構役にはまっているんだよね。) まあ善意で、この映画のテーマを敢えて上げるとしたら、自分の娘と援助交際し、息子のいじめられ現場や母親への家庭内暴力に対して「自分とはきり離した部分眺め」で「しかもそれにどう反応したらいいのか判らない」父親の、、つまり没関係性の中に落ち込んでしまった人間感情の蘇生プロセスを描いているのだと思える。 もっともこの感情の蘇生は、三池監督にかかると不倫相手の絞殺に死姦、いじめ加害者達への虐殺となって現れるのだが。 この映画の見所は、、、(ってビジターQに普通の意味での「見所」なんてないのだが)、なんといっても内田春菊だろう。私にとっての内田春菊はあの「物語」の内田春菊であり、あの「漫画」の春菊なのである。 迂闊にも、私は春菊の顔を知らず、このビジターQも実をいうとエンドクレジットを見るまで、内田春菊が崩壊過程の母親を演じているとは最後まで知らなかったのだ。 だから下手なのか巧いのか判らない役者さんやな、、素人さんの起用にしちゃ妙に存在感あるし、、それにしてもあの母乳飛ばしは、、、よくやる(赤面)なぁ、、とずっと思っていたのだ。 でも見終わった後は、ああこの人でないと、この母親役は駄目やったんやなぁと妙に感心させられた程なのだ。 凄いぞ内田春菊、、ビジターQを見た人間は、きっと彼女の事を忘れないと思うよ。 PS 三池監督と言えば「男色」である。でもさすがにこの手の映画には登場しないかと思っていたのだが、、。秀臣が入り込んだ家庭で、家庭内暴力を繰り返している息子の部屋に入っていき、上半身裸の息子を抱きすくめるシーンがやっぱりあるんだよね。 秀臣がこの男の子の清潔そうな肌の臭いを吸い込む場面なんて、、「まさか秀臣にこのこ抱かせるんじゃないよね。」っと思わせる危ういシーンだったよ。近緒的には秀吉に、この家族全員を犯して欲しかったんだけどなぁ、、。三池監督はそんな甘い救済物語は絶対に撮らないだろうなぁ、、、。 |
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『映画クレヨンしんちゃん・暗黒タマタマ大追跡』 |
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『映画クレヨンしんちゃん・ |
劇場版の「クレしん」シリーズは、何故かネット上で非常に高い評価を得てるんです。それならば、いつか見てみようと思いながらもずっとご縁がなかったんですよね。 なぜってレンタル店で近緒みたいのが「クレしん」を借りる事自体が抵抗ありますもん、、。いかにも「お母さん」なら問題ないんだけど、まあ「可愛い甥っ子」の為に借りて上げるのよ。ってふりするのが精一杯。 さらに噂によると「クレしん」シリーズにはハズレが一本もないらしいし、、、どれから見たものやら迷うこと迷うこと。(それに最新作はいつ行っても貸し出し中だし)。 まあ当SMFとすれば、ここは新宿ゲイバーの世界がムチャリアルと言われているこの巻から始めるのが妥当だろうという事で、近緒の「クレしん」初体験は、『映画クレヨンしんちゃん・暗黒タマタマ大追跡』と相成りました。 見終わってから?よかったですよ〜。 なぜネット上で絶賛されているのかがよく判りました。映画として実に上手く出来てるんです。近緒、早速、「暗黒タマタマ」ではラベンダーと東松山よねのファンになっちゃいました。 特によねちゃんは、きっちっとキャラが立ってるし、そのキャラが又、チャーミング。実写映画でもこれほどの人物の作り込みは難しいんじゃないかなぁ。 ラベンダーの方は、もうSMFではお約束ですよね〜。チャイナドレスのサイドスリットから見える鍛え上げられたバレーダンサーみたいな色っぽい生足の付け根には、、、。(、、にしてもローズ、レモンとラベンダー。この組み合わせ、ホント、実際のおかまバーにありがちなトリオですね〜。面倒見のいいママに、しっかり者のチーママ、若手の売れっ子ラベンダーなんてね。) それにラベンダーの声(塩沢兼人)が又色っぽい、、昔、アニメ版「お元気クリニック」でルコに女装させられて手コキでイかされた青年が登場するVolがあったんだけど、その声優さんも塩沢さんじゃなかったかな、、、。 映画の筋立ても「伝奇ロマン」に「ロードムービー」、、近緒の大好きなのばっかりで、凄く幸せな気分。特に、仲間の乗る車に置いてけぼりをくらった東松山よねとしんのすけパパが夜中、東北の片田舎を歩くシーンや無人駅で夜明かしするシーンなんかは渋い渋い。 「クレしん」のパワーの源はリアリティなんです。リアリティ?あの絵柄からは思い浮かばないでしょ。所がここで描かれる世界や人間のディテールは総て日常からトレースしたもの、、。健康ランドのシーンや郊外型の巨大スーパーの描写なんか、ちょとも違和感がない。 で、そのリアリティに漫画映画としてのドライブがかかってくるから、「面白い」んです。 日本のアニメ映画は、宮崎駿とエバゲリ(庵野秀明)の二極に別れているように見えるけど、ホントは「クレしん」の流れも正当に評価されるべきだとおもうんだけどなぁ、、、。 みなさまがたも是非「クレしん」シリーズを見るベシです。くらだない「わけわかんね系」より、ずっと映画としてのレベルが高いのが「クレしん」シリーズなんですから。 PS ちなみに「アクション仮面VSハイグレ仮面」にも美形おかまが登場しますが、こちらは、「概念上の漫画ぽいオカマ」です。本編のラベンダーには遠く及ばないので注意!!それに現時点で「クレしん」を二本しか見ていない状態で判断すると原恵一に監督が替わってからの方がより面白いかも、、、。 |
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オーシャンズ11 |
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オーシャンズ11
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近緒はブラッド・ピッドが好きだ。最初彼が登場した時は「ただ甘い顔をした、、」って感じだったけど、ヨゴレって言うかちょっと切れた役所をこなした「ファイト・クラブ」あたりからグッと彼に惹かれるようになった。 でもこの「オーシャンズ11」では彼の貴公子ぶりを再び見ることが出来て、格好良すぎるのもブラッド・ピッドの最良の資質かなと改めて惚れ直したのでありました。 (「オーシャンズ11」の彼を見てると、「スティング」で見せた若い頃のロバート・レッドフォードの何とも言えない甘さを感じるのです。) 勿論、二枚看板の内の一人ダニエル・オーシャン役のジョージ・クルーニーは申し分なく「渋甘い」。 それにカリスマ大泥棒オーシャンの因縁の標的になった三つのカジノを束ねる大立者ベネディクト役のアンディ・ガルシア!!みんな色気たっぷり、、ふぅ、、。 しかしオールビッグネームの配役で構成されたこの「オーシャンズ11」、不思議な事に出来上がりが以外と小粒。 その代わりに、どこをどうとっても映画としての破綻がない。まるでそれぞれのポジションを完全に理解した実力のある野球チームのそつのない試合みたいで、見ているほうには彼らの本当の実力が見えないって感じ? だから大きな感動はないけれど、妙味というか小粋さがこれでもかっていう感じで映画自体に溢れてる。 脚本の方も「ああこのネタどこかで見たことある」の総集番みたいなんだけど、どっちみち「ひっかけ」じゃ、あの「スティング」に敵わないって見定めてるようで、きら星のごとくひしめき合うキャストを美味く生かすように最適化されている。 (それでも近緒なんかはこの映画見ていて二度ほど「騙され」ちゃったけどね。) ラストシーンちょい前、夜の噴水の前で自分たちの仕事(金庫破り)の成功を噛みしめるオーシャンズ11の一人一人の見せる表情が秀逸。 楽しんで観てね。 PS どの配役も絶妙にツボにはまっているこの映画、唯一判らないのがオーシャンの元妻で現在はベネディクトと付き合ってるテス役のジュリア・ロバーツ。 マット・デイモン演じる天才スリ師ライナスが、テスの事を「生きていて良かったと思えるいい女」って紹介してからジュリア・ロバーツが出来て来たので近緒は思わず嗤ってしまった。 |
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ジーパーズ・クリーパーズ |
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ジーパーズ・クリーパーズ |
『激突!』や『悪魔のいけにえ』でサイコやホラーのニューウェブの洗礼を受け、同時に青春ホラーの汗くさい色気に味をしめてしまった人にとっては二段ロケットの面白さを持つ『ジーパーズ・クリーパーズ』。 二段目が加速されて大気圏外の遙か彼方まで飛び出せば、ホラーの中でも名作になったんだろうけど、途中でキャラクターのたったモンスターがあまりにもくっきりと登場するので、スペースシャトル状態ってとこかな。 実は、この映画に登場するモンスターも一見「フレディ」ぽいんだけど、微妙に「何か得たいの知れないものが」仮の姿をたまたまとっているだけという設定をビジュアルでしっかり見せているので、新味があるのね。 つまりホラーものを結構見てきた観客にとっては、「これって見たことあるよねぇ。」と思えば思うほど、従来ホラーと、この作品の「微妙な差」に目が吸い寄せられて、その面白みにはまっていく仕掛けになっている訳。 当然、あまりホラー映画に精通していない人にとっては、ホラー内各ジャンルの定番の良いところ取りをしたのが本編なのだから、外れようがこれまたないという事。 そのかわりホラー映画として「突き抜け」た作品には、なりえないのだが、そんな事は、この監督、狙った上の事なのだろう。 この映画の宣伝、フランシス・フォード・コッポラの名前を全面に出し過ぎ、これじゃまるでコッポラ監督が撮った映画みたいに感じられる、、こういうのを世の中じゃ「詐欺」っていうんだけど、、。その辺りの印象を引きずったままこの映画が評価されるんならちょっと可愛そうな気がする。だって映画の作り自体は凄く達者なんだから。 映画冒頭では、無意味とも思えるほどの時間をかけて、春休みの帰省のため車で実家に戻る大学生の姉=トリッシュと弟=ダリーの口喧嘩や掛け合いが描写される。隠し事をする必要のない異性同士の会話がどこか近親相姦めいたエロスを醸し出しているが、これが実に上手く「モンスター」登場までの前半のサイコホラーパートの下味になっている。 ダリーが地下空間への通気ダクトのような場所から地底に落ちていくシーンはビジュアル的に見てもとても新鮮だったし、死体で飾られた地下空間もグロッタの美術という感じでゴージャス。 そしてこの前半の地下空間の描写も、きちんとラストシーンにつながっているのだからたいした物だ。 繋がっていると言えばトリッシュが、弟の実家で洗ってもらうために車に持ち込んだ下着の匂いや、靴下の匂いの事などを何度も論うシーンがあるのだけれど、これも後半の話の展開にきっちり繋がっていて、実に無駄がないのである。思えば一粒で二度三度と美味しい映画であるわけだから、その構成の妙も味わってみたらどうかと思う。 けれどここまで上手い映画作りをしていて、ホラーの名作にならないのもなんだか不思議で勿体ない気もするんだけど、、。 PS ホラー映画に「色気」や「性」は付き物である。近緒はホラー映画を、カップルが見に来るのも、少年達に熱狂的なホラー映画マニアが存在するのも、結局はそれが原因なのだろうと考えている。 そういった意味でもこの映画はちゃんとツボを押さえきっている。特に最後あたりで登場するマジックミラー越しのトリッシュとモンスターの接触や、モンスターが二人を締め上げながらその体臭をかぎ取るシーンなどは実に性的であると断定してるのである。 |
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ソードフィッシュ |
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ソードフィッシュ |
『ソードフィッシュ』この映画、ニューウェーブのように見えて「ハリウッド映画の典型」。そのくせ映画の王道の骨子を備えながらも、やっぱりどこか新しい、、。よーく見ると実に奇妙な映画なのよね。 特に見終わった後の数秒はこれでいいのかなって感じ、、。この後味はポール・バーホーベン監督の『スターシップ・トゥルーパーズ』のそれに近いかな。 アメリカという大国の目指す所、テロという現状。国家エゴとそれに従属する個人エゴ。映画を見てまで、難しく物事を考えたくないんだけど、喚起されるものはしかたがないよね、、、。でもこの部分についてドミニク・セナ監督は別に責任を取る積もりはないんだろうな。 この人は映画としてあくまでも「新しくて面白いもの」を撮りたかっただけだろうし。 さてさてこの映画、掴みの部分からビデオ画像が乱れ気味のワーナーブラザーズのタイトルを写しだし、トラボルタの映画蘊蓄話から、一気に最近流行のブレッドタイム映像の世界へ突入していく。 このシーン、、普通なら一本の映画の最大の山場。そんなのをこんなに早い段階で見せてしまってリーダビリティ、大丈夫?って感じなんだけど、最後まで観客を引っ張っていくんだから大したものだと思うよ。 それにしても人質に巻き付けられた高性能爆弾とボールベアリングの爆発シーンの凄まじい事。デンゼル・ワシントン主演の最近の映画でも、市街地のど真ん中で人質満載のバスが爆破されるかなり臨場感溢れるシーンがあって鳥肌が立ったものだけど、、こっちはまるで悪夢を見てるよう。 VFXでは「マトリクス」の「銃弾よけシーン」が超有名だけど、このシーンも後日VFX名場面十傑に確実に数えられるだろうね。 名場面と言えば、この映画、色々な意味でにやりとさせられるシーンが次々と登場するのね。それも「奇抜さ」を狙っている訳じゃなくて、大昔からある映画の基本的なエレメントを踏襲してるだけなんだけど、その見せ方が巧い。 冒頭のブレッドタイム全開シーンのように撮影技術の発達を表には見せないけれど、裏で使いまくって「どうよ?」って感じなのね。 例えばヒュー・ジャックマンとドン・チードルの延々と続く「崖落ちシーン」。日本の『池田屋の階段落ち』を思わせて「よっ日本一!!」って声を掛けたくなる訳。 実際このシーンどうやって撮影してるんだろう。結局、ソードフィッシュが最初のハイテンションを落とさずに最後まで観客の関心を惹きつけられるのは、こういう見せ方に対する努力を惜しみなく維持してるからなんだろうね。 (ヘリコのバス吊り上げと空中移送はアイデア的にも絵的にも今一だったけど。) で、ここでこの映画の俳優さん達にも触れて置こう。そう、トラボルタ!!彼、かなり復活してますね。トラボルタが再生出来たのはなんと言っても「パルプフィクション」のお陰なんだから。ここでもなかなかチャーミングな悪党やってます。 次はヒュー・ジャックマン、不勉強で申し訳ないんだけど近緒、この人ってX−MENでのウルヴァリンでしか知らないのよね。正直言ってX−MENでは、どうしてこの人、主役やってるのかしらって思ってたのよ。魅力がないっていうか華がないから、、。 うーん。例えば、この映画の中にヒュー・ジャックマンが女にフェラチオをされながら、しかも銃を突きつけられてハッキングの為のパスワードを見つけだすシーンがあるんだけど演技は上手いのよ、でもエロスがないっていうかね、そんな感じ。 でも欠点はそれぐらい。ソードフィッシュの彼はかなり良いよ〜。彼の、親権を争っている自分の娘とのやりとりシーンなんか、「お芝居巧いじゃん」って思わず感情移入しちゃったし。コンピュータでワーム作っている時のノリは、「あんたはエルトン・ジョンか?」って思わずつっこみを入れたくなったしね。 (この場面、無茶苦茶だっていう人が多いみたいだけど、ビジュアルは別として、心理的にはかなりリアルな描写だよ。ホント。) そして最後にハル・ベリー。言わずと知れた本年度のアカデミー主演女優賞を勝ち取ったひと。でもこの映画と全然印象が違うのね彼女って(俳優さんなんだから当たり前なんだけど。) この映画の中の彼女は思いきりチャーミングな「美女」してるんだけど、アカデミー受賞の時の「やっと(黒人女優にもチャンスの)ドアが開いた」の彼女と全然、「魂」が違うんだから凄いよ。 PS 映画界では随分昔から黒人パワーが凄いから、一般社会と比べると差別構造だとか、当事者にしてもその事に対する意識が薄くなっているんじゃ無いかって思ってたけど、、そうでもないのね。ハル・ベリー自身が生きてきた中で色々あったみたいだし、、。ちょっと再認識させられた今年のアカデミー賞でした。 |
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アヴァロン |
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アヴァロン 監督:押井守 |
映画のはじめ戦車が登場する平野が、いかにもポーランドっていう感じ。それとかエキストラのみなさんがいかにも映画にでれて嬉しそうっていう感じが身体から滲み出ている。なんだかまだ低俗さにすれていない国という感じで好感が持てますね。でも押井監督がオールロケして字幕まで付けて「どうしてこの国」なのかっていうのが、映像からは伝わって来ないんだけどね。(戦車やヘリコが撮れてしかも費用もOKという理由じゃなくてね。) 映画前半のエフェクトをかけた色調から、この世界を覗くと結構、昭和初期の日本のノスタルジーを何処かで感じたりするんだけど、監督がそんな事狙った訳じゃないだろうし、、。 でもなんだかんだ言っても面白かったよ、この映画。「ブラッド」なんていう「調子乗り過ぎアニメ」を観てからだったから、この監督特有の「間」というか空っぽの「思わせぶり」にいい加減うんざりしてたけど、この映画の場合はさすがに外人さんを起用しただけあって嫌味をさほど感じる事もなく結構最後までみれた。 テーマ的には「マトリックス」の逆をやったんだね。ラスト直前の「リアルモードの中の死も結局、ゲームの中だった。」っていう奴をああはっきり映像で見せられると、バーチャルもの特有の「ドンデン」が来るぞ来るぞと判っていてもドキっとするものね。これは結構、監督の「計算」入っているじゃないかな。 前半でしつこく同じフィルムの使い回しがあるじゃない、「概視感の演出にしてもしつこい、一体どういうつもりなんだ。」って思ったけど、この「ドンデン」でああなるほどね。って感じ。 多層世界を主人公が「現実紛い」からスタートして「リアル」層を通過しながらどんどん逆進していく、さてその最果ては?アヴァロン!て感じかな。 たぶんこの手のレビューは一杯アヴァロン(押井作品)フリークがいるんだろうから、これ以上書いても意味がないからやめておこうと思う。(実際、いかにも理系って感じの「アッタマいい!!」ていう感じの人がいっぱいレビューを書いてる。オイオイ、押井は哲学者か?たかが映画だろって感じもしないではないんだけど、、。これなんかは他の映画じゃなかなかみられない現象。) これから書くのは、押井監督作品が生まれたり、社会に迎え入れられたりする「状況」への感覚論ね。 近緒は、アヴァロンみたいな作品が「好き」だけれど、これを成熟した映画として味わえる程の味覚がないわけ。米粒に一本の毛で絵を書き込む芸がある。驚嘆はするし見事だとも思う。第一そこに書かれてある絵だって結構達者なんだから、、。でもそれを一つの絵として一日中眺めていたいとは思わない。 押井監督の作品がそうだとは決していわないが、少なくともアヴァロンの立ち上がりが、今までの日本映画のそれではないのは確かだと思う。これはCM畑の監督が「映画」に流れ込んで来るのとも少し違う。 誤解を恐れずにいうならアヴァロンは、実写映画の市民権を奇妙な具合に手に入れた「おたく文化」の最先端だと思う。 (このあたりの状況に詳しい人は、そうじゃないと言われるだろうけど、「今度、『千と千尋』を見に行こう。」と言ってる人からみたら、そんなこだわりなんてコップの中の嵐に過ぎない。) 近緒が言いたいのは、その事への批判じゃなく、、それをマーケットとして拡大して行きながら過剰に受け入れていこうとする文化の弱腰さ加減なの。 アヴァロンのように、かなり研ぎ澄まされて幅の狭い娯楽性しか持ち合わせていない映画がそれなりに供給される一方で、日本の映画界には、表現的に突き抜けていてしかも広い支持をうけるだけの力量をもつ旬の才能が、まだ柱として立ち上がってこない現状がある。 これは作り手側の問題じゃない。社会的に内在する問題でもないと思う。享楽者側の嗜好の「熟成の問題」なのだと思う。アヴァロンは、日本という社会が示す文化的「傾き」の中で、「おたく文化」が偶然引き当てた「当たりくじ」だと思うのね。 「釣りバカ日記」と「アヴァロン」同じ映画だけど。八百屋さんの店先で大根に混じって生理用品が置いてあるようなものなんじゃないかなぁ。両方あっていいんだけど、ちゃんとならべる努力をしないとねぇ。「本当に欲しい物」が判らなくなるよ、、。 PS WEB世界で大小様々な個人的情報発信をしているみなさん。私たちの行為は「取るに足りない自己満足」じゃないよ。(そう意識してる限りはね。) 次の文化を作る為の「掛け金」を支払っているんだと思う。ネットワーク化された新しくて幅の広い価値観は、次の熟成された新しい「嗜好」を生み出すはず。その嗜好が次の文化の下支えをするんだから。「百人の人間がいれば百通りの面白さがある。」とか言うのは口当たりのいい幻想だよ。言いたいこと、思ってること、どんどん発信していこうよ。 |
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誘拐犯 |
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誘拐犯 監督・脚本: クリストファー・マッカリー |
トロと「ユージュアル・サスペクツ」のクリストファー・マッカリーがジョイント!!最近こういう近緒的「やったね。」組み合わせには、実の所、ハズレが多いのです。 例えば「アニマルファクトリー」はファーロング君とディフォーが共演の監獄ものですよ。それが見終わった後の感想は「、、、、。」のみ。 でこの「誘拐犯」もはじめの内は、きっちり「、、、、。」なんですね。所がですよ、、、ジェームズ・カーン老が登場するあたりから、俄然この映画「脚本ジェットコースタームービー」なんですね。 (勘違いしないようにあくまで「脚本」です。ガンアクションもたっぷりありますが、こういう手の映画に目が慣れている人にとっては普通のレベルです。でもこの人物設定というかマシンガンのように速射される人物相関図は滅多に拝めません。) でもまあ、脚本だけで味わい深い映画というのもどうかな〜と思わないでもないですね。これだけのキャストをそろえながらもっちょと「映像面」でパワーや仕掛けがあればと思うのは私だけでしょうか。 誘拐されるロビンを演じるジュリエット・ルイスの妊婦振りが、やけに目立つのも彼女の芸達者だけではないような気がします。 ロビンを挟んで二人のボディーガードと、ロングボー(ベニチオ・デル・トロ)らの駆け引きや、パーカー(ライアン・フィリップ)があわやのタイミングでドア越しに頭をショットガンで吹き飛ばされそうになるシーンとか、けっこう切れ味のあるカットが随所にあるに関わらず、何故かこの映画、「平坦」なんですよね。 映画の一つ一つの展開に「うむ、うむ、なるほど」といちいち納得するのに忙しくて、今一、映画の見る喜びに浸りきれない所が、△なんです。 きっとクリストファー・マッカリーの「俺が監督した映画なんだから」っていう背負ったものが良くも悪くもこの映画を「固めて」しまったんだと思います。 でもトロは相変わらず雰囲気のある存在ですね〜。彼の魅力ってなんなんでしょう。不思議な俳優さんだなぁ。 PS この映画の原題『The way of the gun』は『銃を撃つ様な人生』と訳せるらしい。クリストファー・マッカリー監督がこの映画を『西部劇』のノリで作ったという事と考え合わせると、かなり納得出来るものがあります。 主役二人を中心にして、この映画総ての登場人物達の「ドライさ」と「湿っぽさ」の混ざり具合の塩梅は、まさに「西部劇」風ですもんね。 |
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トレーニング・デイ |
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トレーニング・デイ |
デンゼル・ワシントンについては、余りいい印象を持っていない近緒なのである。演技が巧いのは充分判っている、、うーん、、なんと言って良いのか、、そう、、彼の全身から発するオーラが高潔で、ご立派過ぎるのである。 そんな印象が見事に逆転して「このデンゼルっていい!!」と思わせてくれたのが「トレーニングディ」。デンゼルの悪役なんて想像も出来なかったんだけど、凄く良い。特に麻薬捜査見習いに出かけた警官ジェイク・ホイト(イーサン・ホーク)が初めて出逢う頃の刑事アロンゾ・ハリス(デンゼル・ワシントン)は凄く魅力的。 両脇の下に吊した二丁の大型拳銃をナイフとフォークを擦り合わるみたいにガチャガチャさせながら悪党に脅しをかけるシーンだとか、普段は冷静沈着なくせに自尊心を傷付けられると拳銃は乱射するは、己のタフさを誇示するかのように交通量のある車道を悠々と横断したりとかね。まるで上品な「シャフト」って感じ。 個人的にはデンゼルに、このミステリアスでデモーニッシュなスーパーコップのまま突っ切って欲しかったんだけどなぁ。 映画の中盤では結構、訳の分かった思いやりのあるタフガイになり、終盤ではただの悪徳刑事になってしまうのが残念。でもこれは脚本上の展開のせいでデンゼルの演技はその時々に応じて素晴らしいものがあるのよねぇ。 特に新人警官の挙動を観察する目だとか、挑発したり宥め賺したりする表情なんかは、普通の「悪役」が似合う俳優には真似の出来ない「当たり前」の怖さがある。 おっと忘れてた、この映画のもう一人の主役イーサン・ホーク。もし共演する相手がデンゼルでなかったら彼の演技はもっとクローズアップされてた筈。 よくよく考えたらこの映画の軸はイーサン・ホーク演じる警官が、アロンゾに体現される現実の妥協点に揺れながら、最終的に己の信じる「正義」を貫き通す部分にある訳で、イーサン・ホークはそれを見事に演じきっているんだから。 彼の何処か寂しげな目が映画の後半、アロンゾとの闘いの中で壮絶な光を帯びて見えるのが又いい。 PS 脚本がねぇ、もう一つだと思う。大沢の「走らなあかん」を彷彿とさせて冒頭は緻密でもの凄いスピード感なのに、終盤に向かうにつれて端折った感じが強いんだよね。 ジェィクがアロンゾに填められてマフィアに殺されかける時に、彼らがジェイクが助けた少女の親戚だと判って助けてもらったり、アロンゾが支配するスラムの住人が最後に彼に反旗を翻しジェイクを助けてやったりね。 こういうご都合主義を使わなくてもジェィクのサバイバルはなんとかなっただろうし。それよりも、映画の前半、それなりに人間的に描かれていたアロンゾが、急転直下のごとくただのちんけな悪党に描かれてしまったのが残念。それがジェイクの視点で映画を構成した為の変化だとしても余りにもあっけなさすぎ。要するに素晴らしい「デンゼルの悪役」ぶりに、釣り合わなかった脚本という事かな。 |
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LIES/嘘 |
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LIES/嘘 監督:チャン・ソヌ |
韓国映画を見るたびに日本映画の体たらくぶりを嘆いてしまうのだが、、ここに、まだ大丈夫な「分野」が一つあった。それは芸術偽装ポルノの分野である。こういった分野のように、映画自体に「勢い」をそれ程、必要としない分野では日本もまだ一日の長という分があり、自国の性文化の爛熟度という点でも有利なのかも知れない。 だから『LIES/嘘』は、Isawで敢えて取り上げなければいけない映画でもないのだが、ここに登場する「本物のサドじゃないけど前戯としてのサド行為が好きな男」と「本物のマゾじゃないけど愛している時はマゾ行為に耐えられる女」が気になって、このレビューで本作を扱うことにした。 それと主役のY でもあるキム・テヨンにも興味があったしね。キム・テヨンって最初に登場した時に「汗くさい中学生みたいなこんな子を、こんな映画に出していいのかよ、、。」って感じがしたのね。 見慣れてくると、結構女ぽいんだって無理矢理思わされてしまうんだけど、冷静に考えると、最後までやっぱり無茶なキャスト。、、日本でこれをやったら大方の男性が萎え、ごく一部の男性が異様に興奮するんじゃないかしら。 それに最初に書いた疑似SM行為、、主役の男の方は途中でMに転向しちゃうんだけど「痛みの中に故郷に似た安らぎを見た」なんて言い出すし、『あんたホンモノじゃなかった筈なんだけど、、Sだってより強い興奮を引き出すための前戯だったしょが、、』と思わずつっこみをいれてしまう私。 この二人、うんこを食べるスカトロまでいくんだけど、これも単なる興奮剤なのね。結局キム・テヨンのどうしようもない童顔や雰囲気だって、彼女のもろに「若くてセックスを憶えはじめてやりたりやりたい」っていうボディを引き立たせる為に在るのが、最後辺りで理解できるのね。 ここまで来て一体、この映画ってなんなのって思ってしまうわけ。 芸術を偽装したポルノにしては妙に小賢しい展開をするし、ポルノを偽装した芸術にすれば深みがまったくない。(最近の韓国映画のご多分に漏れず「勢い」はあるんだけど。)レザーの こういう作品って、本来実力のある作り手が、自分が何者なのかをよく判っていない時に、ものをつくってしまうと生まれ出るものなんだろうと思う。 ちょっとひいた目で見ると、とっても馬鹿げてる映画なんだけど、近くに座ってると作り手の熱気にあてられて「そうなのかなぁ」っと思っちゃうんだよね。 (あっと、ちょっと感じが違うけど中野裕之監督の「サムライフィクション」と「赤影」の関係みたい。) でも最後、主人公の男の「女子高校生の制服と鶴嘴の柄だけで、天使の持ち物として充分だ」っていう台詞には笑ったね。それとか愛の小道具であるスパンキング用の棒がグレードアップしたりね。あれって「メッシー」だとか、「くすぐり」だとかいろんなフェチ分野が在るじゃない、、それと重ねるとなんだか笑っちゃうね、例えば「パイ投げ」なんかどうなのよって思わず突っ込みいれちゃう。 この作品、原作があるらしいんだけど、どんなのだろう、、でも想像だけど飯島愛の『プラトニック・セックス』の方がかってるかも、、。 「まあいいや、、。近緒も韓国の女子コーセーの制服着て、男のお尻を鶴嘴の柄でやってみたいもんだよ。うんうん。」(サクラモモコの口調で) |
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処刑人 |
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処刑人 |
なんと言ってもこの映画、ウィレム・デフォーでしょう。私がディフォーを強く意識した映画はご存じ「プラトーン」です。ディフォー演じるエリアスを見て、彼の強靱な精神・生き方・勿論ミステリアスでチャーミングなスタイルがすべてかっこいいと感じ(ようするに正義の味方で、ちょっと影のある頼れる優しげ兄貴)でも「この人って他の映画じゃ悪役じゃなかったっけ」という混乱も記憶しています。 でもやはりディフォーは怪優なんですよね。 この映画では「タカビーなゲイ」の天才FBI捜査官を演じるんだけど、もう無茶苦茶に生き生きと「素敵」。この映画の出来を色々言う人は、ディフォーだけを見て下さい。 そんじゃ近緒的見どころ 1:ディフォーの所轄「まぬけ」刑事への徹底したおちょくり攻撃が面白い。 「ベーグル買ってこい。」 2:東洋系のマッチョなお兄さんとのベッドでの会話 「お前なにしてんだ。」とタカビー・ディフォー。「愛撫よ。」「ふん!ゲイ野郎が。」 3:「処刑人」達の空想上の銃撃戦シーンでのプラトーン的パロディ。 プラトーンはディフォーの財産だと思うんだけどそれを茶化す所が素敵 4:ディフォー、女装でのディープキッス、ホントに相手の男優さんの舌を吸ってる!! 5:女装して床に横たわって相手を挑発するリアルなシーン。 (コレが又、男がズボンのチャックを降ろすんだけど、どうみても、これからファックやフェラを「お願いしま〜すっていう雰囲気じゃないのね。精液か小便をぶっかける前って感じなのね。)それとかマジで乱れたウィッグを本気で直しているシーン。 要するにこの映画のディフォーで退屈なシーンは一つもない。彼自身、もう楽しんで遊びまくっているという感じ。 、、ああ映画本体のほうね。ディフォーが出るまではこの映画「ドグマ」と共通する格好良さを追求してるのかないう感じで見てましたね。二人の細身のスタイリッシュなお兄さん二人が、気持ちの通いあった兄弟揃い踏みのガンアクションを演じていると確かに格好はいい。まあこの映画の「テーマらしきもの」と映画作りを関連させて、評価なんてものを考え出すとこの映画どうしようもないので置いておきましょう。「文化の差」だとか「現実・宗教の差」とか言い出す人もいるんだろうけど、はっきり言ってこの映画、イーストウッドの「ダーティ・ハリー」にすら、深みにおいて負けてるよ。 「チャリエンならテーマなんてグダグダ言わないよ。面白けりゃいい。でもコレって一応『罪と罰』の問題でしょう。」なんて境界線を、どの監督も持ってるとは限らないのね。 トロイ・ダフィーって良いとか悪いとか抜きにしてきっとそういゆ〜人なんだ。 映画自体が結構、お洒落にコーティングしてあるから勘違いするけど、これがVシネマだと思ったらどおって事ないでしょう。(でも最後のインタビューなんかホント「蛇足」だね。時間が余ったのか、免罪符なのか、映画のエンディングパターンとしての格好良さの勘違いなのか、、。) PS にしても、この邦題サイテーやなぁ、、。久々のぼんくらヒットです。次回作スポット映像ガンガンの今だって、映画のタイトルって集客力上大切やねんけどなぁ、、。これで、もっとかっこいいネーミングだったらもっとヒットしたろうに、、。 最近見たのでは「シャフト」がこの映画の逆パターン。サミュエル・L・ジャクソン、おおお、、なんであんたが「シャフトなん。」ちゅー感じでいっぱい食わされましたが。シャフトが「シャフト」で無くなった悲しみに加え、あの裁判所の前のケリの付け方、ホント「処刑人」の逆パターンだったぞ。チュウーと半端な「シャフト」やった上に、なんで最後にあんな「シリアスぶり」を発揮するんだよ。これじゃ「冷やしカレー素麺」だ。んなもん、、グス、誰が食べる、、、のさ。 |
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ヴィドック
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ヴィドック
監督・脚色:ピトフ
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近緒はこの手の作品がとっても好きである。普段は話の展開に矛盾があったりテーマ訴求力に難があったりすると、なんだかんだと批判対象になるんだけど「好き」だとなんでも許せちゃう。恋は盲目・痘痕も靨。 ヴィドッグ。この映画の話の筋立ては「驚愕の」ラストの落ちも含めて、いちゃもんをつけようと思えばつけられるしアハハと軽く笑って済ませばそれなりに楽しめるという程度のもの。取り立てて騒ぐほどのものではない。だけどそれは、蕎麦専門店に入ってうどんを注文し、うどんがまずいと言っているようなものだ。 近緒はこの世紀末的腐乱色彩と毛穴ブツブツ、歯茎ニチャニチャ、顔脂ギトギトのどアップ映像と、腐れエッシャー系幾何学模様が織りなす、おフランス再現が大好きで、これさえあれば、もう後は何もいりませぬ。 デジタルでこういった世界を生み出す所が、毛唐さんの偉いところで、同じようにデジタルで江戸城周辺を再現した篠田正浩監督作品「梟の城」等と比べると、コンテンツとして決定的に何かが違うのがよく判る。そしてこの勘違いは伝統的に日本映画においてなかなか修正されないみたい。(「梟の城」はことあるごとにだめだめ作品として近緒レビューに引き合いに出される代表作品No1。)映像部分で成り立つ「世界」が映画の中には必ずあってそれは絵画的な感性を持たないテキスト派の監督には、その中心部に降りていくのが難しいんだろうね。ヴィドックは映像という地獄の蓋が開いたような作品なのだ。 でもヴィドックの映像と世界設定が好きじゃない人は、イマイチの映画なんだろーな。うん、それは自信を持って言える。 第一、フランス革命前の時代設定世界の癖に、アクションにカンフーはいってるしなー。ヴィドック役者のジェラール・ドパルデューの出っ腹が蹴り技を繰り出してもなー。(ちなみに近緒はこのバッドティストも大好きなんだけど) そういえばTaxiなんかやクリムゾン・リバーに登場するフランスアクションってハリウッド式を見慣れた目で見るとなんだかみんな変だね。 でもそういうのをみんな上回って登場人物設定がこってりしてたまんないのよねぇ。だからヴィドックが好きなの。カラコンして東洋人女性の振りしてる何でも屋ショーダンサー,プレア(イネス・サストレ)(近緒、、あのメイク顔に惚れてるんだけど、あれは違う女優さんを立ててるように思うんだけど、、。) なんであんたらがナルになっちゃうの?という顔の造形がユニーク過ぎるナル爺軍団。鏡面で出来たマスクをつけたマント怪人(錬金術師・幽霊)。なんだか変としかいいようのない警視総監にその部下。 そして世界で初めて私立探偵事務所をこさえた元犯罪人のヴィドックと、凶暴を絵に描いたような相棒のニミエ。 そして闇の中で買い取られていく処女たち、、、、これで美味しい「世界」が出来ない訳がない。日本でもピトフ感覚で、誰か江戸川乱歩の世界を映画化してくれないかしら、、。 PS ちなみにヴィドックはフランスにおける実在の伝説的人物なのだそうだ。彼をモチーフに多くの文学作品も生まれたらしいけど、ポーの作品にも影響を与えたって、、確かにこの映画を見てると、そういったニュアンスを引きずっているような気がするね。 |
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テルミン
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監督・製作・脚本/ |
まず初めに言って置きたいのは、このレビュー内容は「テルミン」という映画そのものへの感想であったり批評ではないと言うことである。ドキュメンタリーという手法で最近の名作と言えば、ヴィム・ベンダースのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブが上げられるが、この作品をそれと同じ土俵で語るのは無茶というものだろう。 (映画の後半、アメリカに数十年振りに訪れたレオン老が夜の街を歩くショットなどブエナ・ビスタを彷彿させるシーンもあり、ラストもお洒落だと思うけれど。。。) まあ言ってみれば「テルミン」という題材を取り上げた事がこの作品の値打ちと言って良いだろう。今という時代や社会背景の中で、映画の題材にテルミンを探し当てたその嗅覚こそが総てだ。 懐かしさといかがわしさがブレンドされたテルミンという題材が、今という時代の軋轢に悲鳴を上げそうな私たちの感性には慰めとして映るのだから。 近緒のレビューではあまり、作品のあらすじを書いたり事細かな解説は上げないのだが、テルミンについてだけは書いて置こうと思う。 電子楽器テルミンは1920年、ロシアの物理学者にしてチェロの名手だったレフ・テルミンによって発明された世界最古の電子楽器(単音楽器)である。テルミン、その最大の特徴は楽器に直接触れず、空間に置いた両手の動きによって演奏する点である。 木製ボックスに備え付けられた二本のアンテナの周囲には微弱な電磁場が形成されており、手を近づけたり遠ざけたりする動作により電磁場を干渉し、音高、音量の変化を導き出す事が出来る。 音高を定めるにあたって、「眼で見てわかる、触れてわかる」基準が存在せず、演奏者の耳だけが頼りとなる。そう言った意味でテルミンの演奏法は難易度の高いものとされている。 演奏法がシンプルなだけに、演奏の質は奏者の技量に因るところが大きい。演奏者の技量や心理が音に反映される楽器であるともいえる。 右手の細かな振動によるビブラートを加味された音色は、女声にもチェロの音色にも似た、最近の電子楽器では決して得られない、非常に人間的で温かな音印象を醸しだす事が出来る。 映画は、この楽器の発明者であるテルミン博士を軸にしながら「米ソの対立」を挟んで、彼とある一人の女性テルミン奏者の再会までを、何人かの関係者とミュージシャンのインタビューで構成される。 私はこの映画を見終わってから奇妙な事に村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を思い起こしてしまった。 「運命に翻弄される」というフレーズがあるが、時として生まれてから死ぬまでの道筋に、尋常でない奇妙な力が人に働くことがある。当然それによってもたらされる世界は、暗黒とまでは言わぬが平凡な人生から見れば、相当に捻れて見えるのは間違いない。 その力は、人そのものに内在する場合もあれば、社会構造の変遷にその源を探し当てられることもあるだろう。 この映画に、時としてシンボリックに映し出される楽器テルミンは、その「ねじれ」を想起させるのものとして描かれているのかも知れない。 |
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ダミー
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ダミー 監督・脚本: グレッグ・ブリティキン |
「佳作」という言葉があるが、正にこの言葉にピッタリなのが「ダミー」。 駄作じゃないけれど名作でもない、かといって普通すぎて直ぐに忘れさられてしまうような作品でもない。脚本がストレート過ぎるからなんだろうけれど、気弱な青年の腹話術を通した恋愛物語でこれ以上複雑な話を書けばサイコ話になるしかないだろう。 それともう一つは取って付けたようなミラ・ジョヴォヴィッチのキャスティングだ。ビデオの紹介文にはミラが主演みたいな事を書いて在るけど、ミラはどう見ても主演じゃないからこれは大嘘。 この映画で一番しっかり演技をしてるのはスティーブン役のエイドリアン・ブロディ、初めはそうでもないけれど、この人が演じる「気弱な青年」の心優しさがその表情とともに胸に染み込んでくるようだ。 次にやがてスティーブンと結ばれる美人職業カウンセラー役のヴェラ・ファーミガ。「こぼれるような笑顔」とはこの人の表情にあるみたい。水面にたつさざ波のごとく彼女の笑顔が広がるときその暖かさがスティーブンに伝わって、、、みたいな。 この二人がメインでしょう、次にスティーブンの姉で歌手になる夢を捨てて結婚カウンセラーで走り回っているイレーナ・ダグラス。彼女、役作りをしての演技というより、この人自身の存在感が大きい配役かな。 実はこの映画のミラのポジションもこれなのね。スティーブン唯一の、一風変わった幼友達で30近くにもなってロックスターを夢見ているというキャラクター。行動も服装もすべてパンキッシュなんだけど勿論、ミラがやるんだから全てが魅力的に撮れてる。でも彼女がこの話に登場する必然性は何処にもないのね。 確かに彼女が駄目な男友達の為に荒っぽいけれど恋のキューピッド役を買って出たり、祭りの夜に花火で遊ぼうよと「どうせもってこないスティーブン」を誘ったら彼にそれを断られて、絶妙な女心を演じてみせたりするんだけど、、、。 やっぱり違うんだよね。この映画のミラって本編についている豪華なおまけみたい。今映画「ダミー」を買うともれなくミラ・ジョヴォヴィッチがついてますみたいなね。 映画の方は腹話術(ダミー)を通してでしか魅力ある自分を表に出せないスティーブンの独立を描いてハッピーエンドになる定番なんだけれど、それにしてもミラを含んで余計なエピソードを挿入しすぎたのか今一感動が薄い。 第一スティーブン、幾らダミーと一緒だからって、あれだけ行動してたらちっとも内気と言えないしなー。 でも悪くない映画だよ。ほんのりしててさ。 PS さりげにミラの尻の穴掻きシーンがあるんだよね。あれはサイコーだった。ミラって歳くったら伝法なオンナ路線でいくのかも。 |
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ブギーポップは笑わない
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ブギーポップは笑わない
Boogiepop and Others 監督 金田 龍 |
背後に膨大な数のファンを抱えた原作を映画化したものの評論は、とても難しいものだ。もう既にこの原作から派生し独立してしまった小宇宙が、あちこちに存在していることだろう。それに私は原作のブギーポップを読んだ事がないし今後も読まないだろうと思う。 だからこの映画評は、映画そのものへ評論ではない。私が、ネット上で調べた範囲では、特に原作に入れ込んでいるファンから、「映画ブギーポップ」はあまり芳しい評価を得られていないようである。 が、映画そのものは、冷静に見てそれなりに健闘していると思う。特別なSFXやアクション、グロシーンを多用せずに、しかも若手のタレントを使って人物の会話で一応「世界」を成立させているのだ。これを健闘と呼ばないのなら、信じられない程酷い日本映画は山ほどある。 さて、映画の中身だけど、ちらっと見て、「頭のいい子達が揃った高校生像だな、現実にはもっと程度の低い子たちは山ほどいるんだけど」と思いながら、この映画かなり原作のムードを忠実に再現してあると何処かで書いてあったのを思い出した。 なるほどね、である。「メサイヤコンプレックス。多重人格。恋愛の必要性のない子。それにあやうい精神、、触れない細い肩。ブギーポップは世界の可能性。」 うーん狙い過ぎだけどよくツボに嵌ってる、これだけのアイテムというかムードを揃えたら、沢山若い人たちに読まれるだろうとは容易に想像がつく。 でも映画自体の感想はそれぐらいして置こう。「やるな早乙女君、君が一番のモンスターだ。だから監督(脚本)はそのあたりをもっと穿り返した方が、、、とか。追いつめられた委員長に、あんな場面で心情を吐露させていちゃいくらなんでも現実味に欠けるでしょ。」とか、書いても意味のない「映画の成立」だと思うしね。 私は、何よりこの映画で気に入ったのは、吉野紗香のコスチュームなんだ。特にマスクを引き上げて、いかにも中性的でどこか陰ったエロスのある顔を半分みせるシーンは、ぞくっとさせられちゃった。これだけ観れただけで充分という感じで、、。(後はファンの方々にどうか食いちぎられて下さいませ。) あと、この映画にスガシカオの「夕立ち」をいれたセンスは買いますよ。ホント。 |
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チャイニーズ・ディナー
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チャイニーズ・ディナー
監 督: 堤幸彦 |
「密室の中で二人の俳優の演技が激突!!」そんな設定の映画、何処かであるんだろうな。近緒は勉強不足でまだ見たことがない。というよりもその二人の俳優がいかな名優であったとしても、このシチュエーション自体に魅力を感じないので、今後も探してまでは見る事はないだろうと思う。 じゃなんで「チャイニーズ・ディナー」だったかというと、監督が堤幸彦でIZAMが出ているからというミーハーな興味での選択なわけ。 「密室二人芝居」なんだからものを言うのは一に台詞(脚本)二に撮影でしょう。本当は一番目に「俳優」なんだけれど柳葉とIZAMなんだからね。彼ら、よくやってるけど日本を代表する演技派ってわけじゃないし・・柳葉の切れ者悪党にミステリアスな殺し屋IZAMの掛け合いは、まあまって所、(IZAMの舌舐め演技はちょっとうんざり気味だけど)。 そして脚本、「70分、話の展開だけで持たすぞ」っていう意気込みは感じるけど、拳銃を使ったロシアンルーレットは、いくらアレンジしたって映画に持ち込んだ時点で限界があるよね。脚本自体もそれに似た「限界点」があるみたい。 撮影っていうか「絵」はかなり高水準なんじゃないかな。日本映画のニューウェーブに付きまとう「どこかで見た感じ」は拭いきれないけれど、それでも良い。IZAMも柳葉も良くやっているけど、この映画の絵作りじゃなければ持たなかっただろうと思うね。 特に素人に毛が生えた程度の「演技力・役者力」しかないIZAMは、この映画の中では半分舞台装置みたいなものなんだからねぇ、、。でもこの人、いつまで「装置」でいれるのかなぁ。 底流に何とはなしに同性愛チックな微弱な電流が流れてて、更にIZAMの「切れのないでかい図体」をカバーしてくれる映画はそうは用意できないぞ。逆に言えば「チャイニーズ・ディナー」はズバリそれなんだけれどもね。 ラストシーンで柳葉とIZAMが血にまみれた手を握り合うシーンなんて絶対、監督自身が「そのライン」を狙っている筈なんだけど、それを露骨に出さないところが、この監督の「おしゃれ」なんだろうね。 そうそう、おしゃれと言えばエンドロールで役者に並べて「料理メニュー」を出すところなんかも小技です。でも映画を見てる限りじゃそんなに「美味しそう」じゃなかったんだけどなぁ。・・まあ柳葉とIZAMの食べ方にも問題あるけどね。 PS 劇中の柳葉とIZAMが、中華の赤いテーブルの上、裸体で組んず解れつをやっている姿を想像してみるのも一興。柳葉が繋がったままのIZAMの尻タブをパンパンやりながら「毒蜘蛛。いかんのか、いかんのか。」・・腰を柳葉に押しつけながら刺し貫かれる快楽に苦悶の表情を浮かべるIZAM。そして彼の前には先ほど食べ散らかした中華料理の数々が、、、、 ・・でもでも、やっぱ無理やな。そんな妄想をかき消すほどIZAMの身体は「でかくて切れがない」んだもの、、。 |
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GONIN
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佐藤浩市は大好きな俳優さんなんです。あの不屈な面構え、でもどこか優しそうで、、「顔」だけで、そんな「有り様」が出せる事に、彼はお父さんに感謝すべきかな。(結構、おかまちゃんたちには人気があるんだよ彼。) で、本木雅弘、「俺がこんな格好をしてるのは金持ちのモーホーを引っかける為だ。」とか初め「狂犬」役をしてて、佐藤浩一扮する万代に「組織襲撃」の仲間に誘われてからはすっかり万代の「犬」になっちゃう。 最初の本木君のビジュアル系のメークの時の方が逆に「男らし」くて、後の体育系の素顔バージョンですっかり「モーホー」これは一体、どういう設定なんだろう?対するカップルは木村一八とビートたけしの殺し屋ペア。こちらのペアは、佐藤カップルと違って、「初な恋人達が怖ず怖ずと手を握る」ような関係性はなく、端から、たけしが自らの殺しの後の興奮に任せて一八を強制バックしちゃう仲。それにしてもビートたけしは、この手の男の「はまり役」だね。(最近、ちょっとくどいと思うけど、彼しかいないんじゃしかたないか、、。)本木君は、映画の終盤近く、殺された佐藤兄貴のリベンジ戦で、自分の舎弟(一八)を殺される、たけしの「悲嘆」を見つめるんだけど、これって「対比」の為に石井監督がわざと仕組んでいるだろうな。そうしないと、ラストシーンの長距離バス内での、たけしと本木君の銃撃戦が「クール」になり過ぎてしまうものね。この映画結構拾いモノだよ。日本の映画って外れた「大作」か、ハリウッド指向の癖に、観ていて「気恥ずかしく」なるようなものか、変にニューウェーブしてるのが多いからね。これはある意味「日本」の映画だと思うよ。 |
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回路
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監督:黒沢清 |
ここ数年で、映画を見て震え上がった映像は、黒沢清監督の「降霊」の一シーンだ。近緒は霊的な感受性がまったくないので、UFOも幽霊も全然みない人だけど、もし霊というものが見えるなら、こんな感じかもと思わせてくれるシーンだった。昼日中のファミレスに登場する霊なんだけど、これがすっごく怖い。「おぼろな見えにくい恐怖」というか「不完全なるものの恐怖」と言ったらよいのか兎に角、怖い。 まあ、黒沢清監督は「朧気ながらに見える」を映画作りの一つの手法にしているようで、ビジュアル面でもストーリーでも、その効果を実に上手く使う人なのだが、、。これって、一言で言えば「心霊写真効果構造」って読んでいいかも知れない。 それに「破滅」に浸食される現実世界を描くのも得意な人なんですよね。ただし残念な事に、この映画「回路」で、インターネットを扱ったのは今一だったかも知れないなと思う。 人間の特性がテクノロジーとの相関によってドンドン変化していくのは判るし、Webで表される象徴世界も、映画のモチーフとしてはとっても取り上げやすいんだけどね。 インターネットは素材として取り上げるには旬が過ぎたという事かな、と。 で結果として、最後あたり炎上した飛行機が超低空を飛んで墜落してくるシーンを見ながら「オオッこれはつげ義春のネジ式だ。」って思ったり、船で日本を脱出するエンドを見て「渚にて」を思い出したりね、近緒的にはとっても美味しい作品だったけど、、、。 全体的には、バラバラで印象深いカットは盛り沢山だけど、黒沢作品としてもう一つの出来だったんじゃないかなぁ。 PS 主人公やってた加藤晴彦、結構良かった。変に一生懸命生きる若者じゃない部分で「あっちの世界に行ってしまわない」代表を上手く表せてたと思う。それと「降霊」のファミレス幽霊シーンは、近緒に少なからぬ映像的トラウマを与えてくれたけれど、この「回路」にもそう言ったシーンがぎっちり詰まっている。 例えば、ワンカットワンシーンの飛び降り自殺だとか、小雪の黒ゴミ袋マスク剥ぎシーンに続く拳銃自殺だとかね。黒沢清監督の次回作に期待ってとこかな。 |
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ペイバック
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ペイバック
監督:ブライアン・ヘルゲランド |
主役はメル・ギブソン。ニュータイプのハードボイルド?(原作は古いらしい、、。未読)マンガチックと言えばマンガチックだし、ご都合主義典型のストーリー展開。でも全編を通して、洒落ていて何処か適度に湿っている情感。好きです、こういうの。映画インディ・ジョーンズで、青龍刀を派手に振り回す悪漢に「お前なにしてんだ」というような呆れ顔で銃弾を打ち込むハリソン・フォードの場面には痺れましたが、あの手の場面がこの映画には何回も出てくるんですよ。反面、SMカップルのコミカルで過剰な暴力の愛の表現や、ジョン・ウーばりの銃撃戦。いいバランスです。とにかくお買い得な逸品。 それにしてもデボラ・カラ・アンガーは凄く色っぽいですね。ペイバックでは映画の前半、少しだけしか出てこないんですが。(+嗚呼、ジェームス・コバーンも爺ちゃんになっちゃって、、。) |
![]() ルーシー・リュー |
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スコーピオン
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監督:デミアン・リヒテンシュタイン |
冒頭のCGで造形された蠍同士の決闘から、それを捕まえる少年、そして深紅の59年型キャデラックの登場へと流れるように始まっていくこの映画、「面白そう」っていう期待が途中で????になり、最後には「これだけサービスしてくれたんだからやっぱり面白かった」事にして置こうかって感じの妙な映画です。 でもカート・ラッセルの「不良パパ」の役所、スクリーンで何度見た事だろう。惚れたバツイチ女の息子、ジェシー(デヴィッド・ケイ)に行かないでと抱きつかれて感極まる強盗犯マイケル(カート・ラッセル)の切ない表情、いいねぇ。 「悪の匂いを放ちつつも実は良い奴」っていうのも、アメリカ人にとって一つの理想像なのかも知れないね。まあ、その辺りでノホホンとしていてくれれば、絶対正義ぶって他の国に戦争しかけることもない筈なんだけど、、。 その逆に徹底した極悪人マーフィーを演じるケヴィン・コスナーは、演技を楽しんでるのは判るんだけど、やっぱり彼には「悪」は似合わないよ。(それにしてもデンゼル・ワシントンが悪人やった時は、凄みがあったなぁ、、) マーフィーが古美術商で暇つぶしに雑誌の自己診断をやっているカットがあるのだが「男と寝た事がある」の項目にYESに○をするシーンがある。これは後になって判るのだがどうやらマーフィーの仲間であるヘリコプター操縦士ジャック(ハウィー・ロング)との関係を暗示してる見たい。 それとかエルヴィスの非摘出子騒動をマーフィーの出生に絡めたり、結構、デミアン・リヒテンシュタイン監督、新しい「悪人」像づくりに工夫をしてるのだ。だけどやっぱりケヴィン・コスナーじゃ肌合いが違いすぎる。 |
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エリン・ブロコビッチ
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エリン・ブロコビッチ
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ちょっと苦手な映画だ。勿論「面白い」し何度かジンと来るシーンもある。未見の人にも勧められるし、まず誰が観てもこの映画「外れる」事はないだろう。エリンが自分の調査に本気になりだすあたり、つまり「私、今まで、他人からこんなに頼りにされた事はなかったのよ。」という気持ちになる部分や、それ故に自分の仕事に打ち込む姿も痛いほどよく判る。その結果、かまえなくなった子ども達との関係の描写が散りばめてあり、不平を漏らしていた息子が、映画後半で親のやっている事を理解し出す場面も胸キュンものだ。その他、エリンがエリートの女性をぺしゃんこにするシーンなんかも、やれやれって感じで(弱者が強者を打ち負かすって近緒は大好きな構図)ね。 でも近緒はこの映画が苦手なんだ、、。「嫌いじゃないけど、苦手」っていうのもあるんだねぇ。こんなに、感動的なのに映画全体の印象が透明で、時間が経つと「ああシングルマザーのエリンが頑張った話なんだ」っていう記憶しか残らない。 「楔を打ち込まれるような感覚」とか「ゆっくりと沈殿していく思い」とかそんなのを伴わない感動なのよね、この映画の場合。日本じゃ公害訴訟と言えば水俣とかね、そういうものがあるじゃないですか。それにダブってこないというかね。映画で出てくる「調停裁判」で、上告を取らないで賠償金を手っ取り早くとるというのが感覚として馴染まないんですよね。この「調停裁判」への展開で、私の中でエリンの行動は「単純な一猛女性のサクセスストーリー」みたいに変質しちゃうわけ。それに「物語上」だと日本とアメリカのサクセスの価値基準が違うでしょう。一応、日本の場合、表面的には「幾ら儲けた」ってのはサクセスストーリーの副産物として扱われるものね。 普通の裁判じゃなくて、「調停裁判」の方が在る意味、凄く現実的な問題の解決方法で合理的なのは映画の中でアルバート・フィニーのマズリー弁護士が力説していてよく判るんだけど、、、、何せアメリカという国は何でも賠償金の国でしょ、、。どこか信用できないのよね。それが、この映画を見るときに影響してくるんだろうな、、私の場合。 まあ、個人的な趣味で言えば、この映画で好きなのは、なんといってもエリンが自分のスタイルを絶対曲げないっていう所だろうね。自分のスタイルったって思想・信条見たいな大げさなもんじゃなくて、服装のセンスなんかに代表されるライフスタイルを押し切る部分ね。あたしこれは好き。あこがれちゃう。ホントの所、自分に余程、自信がなければ出来ない事だよ。この「自信」と「他人に頼られる」って辺りが結びついて「エリン・ブロコビッチ」が出来上がるんだね、きっと。 PS ジョージっていい男だねぇ、、。日本人男性にこんな感性持った人っているかなぁ、、。それと全然関係ないけどジュリア・ロバーツって細いよね。彼女が調査の為にタンクか何かに降りてくるのを仰角で撮ったシーンがあったけど、足の幅がね、、本当に狭いの、、。 I Just went over and Perfomed 634 sexual favors.Am I Tired. |
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ローラー・ボール
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ローラー・ボール
監督:ジョン・マクティアナン |
近緒はジャン・レノの良さが、未だに判らない。日本には彼のファンが結構いるらしいので、一応、ジャン・レノには「魅力」があるのだろうと思い込むようにしているのだけれど、、。(正直言って「レオン」以外でレノに感心させられるような映画を見たことがない。みーんなノンアルコールビールみたいに偽物の苦みと炭酸だけで成り立っているような映画が殆どだ。日本人ファンは「レオン」のレノの幻を引きずっているだけのような気がするが、、。) この「ローラー・ボール」も大看板としてレノがでるだけあって、大味なだけの凡作である。でもレザーを中心としたビザールファッションのオンパレードなので許す。許しちゃう。 ついでにレベッカ・ローミン=ステイモスが、またもや「X−MEN」のミスティーク的役柄で登場するので花丸あげちゃう。 (彼女ってモデル出身でスタイル抜群だから、顔も含めて身体全体のビジュアルが買われてるんだね。演技力も重要な要素だけど、こういうのも大切だよね。ビザールクィーン大好き。) 「それだけの映画?」って言われると「その通り」って言わざるを得ないところがかなしいけどね。でも映画としての魅力は、前作のジェームズ・カーンが主役を務めた「ローラー・ボール」の方がずっと上だし、、、。目で見て楽しむ要素以外は全て今一つの出来。 映画冒頭のスケボーみたいな板にのっかって普通の車が通る坂道を下り降りるシーンだとか、暗視カメラみたいな映像で延々とオートバイチェイスを撮ってみたり、、映像的にはなかなかやるんだけど、「それがどうした」って感じなのね。 監督はあの「ダイ・ハード」を撮ったジョン・マクティアナンなんだけど、どういう訳か「ダイ・ハード」にあったあのテンションの高さや「男」の可愛さ・強さが全然描けていないのね。 映画の最後は、主人公のジョナサン(クリス・クライン)がローラーボールで孤立奮闘。その姿は、民衆の独立蜂起のきっかけにさえなる感動を人々に与えるってクライマックスなんだけど、、、、映画を見てる方はなぜこのバトルで、観衆やチームメイトが立ち上がるのか判らない。 勿論、そこに至る経緯はちゃんと映画の中で説明してあるのだけれど、それが見る側の感情のうねりに繋がらない、、その不思議。 これは一体なんなのだろう。ジョン・マクティアナン監督は、韓国映画のあの計算され尽くした感情の「タメ技」をもう一度、逆輸入する必要があるのかしらん。 主役のジョナサン(クリス・クライン)の性格が単純過ぎ?映像の視覚効果に走りすぎたのだろうか、それとも偉大なる大味俳優ジャン・レノ伯父さんのせいなのか、、、。うーん謎だ。 それでも許す、、だってビザール・ファッションとフェチ心が、、、まだ言うか、、、 |
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ブラックホーク・ダウン
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ブラックホーク・ダウン
監 督 リドリー・スコット |
『エネミー・ライン』なんていう馬鹿戦争映画を見た後なものだから、実を言うとこの作品と公開時期が近かったリドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』を恐る恐る見たのだ。 「リドリー、お前もか」って感覚は、相手が「大好きな監督ベスト5」に入る監督さんなだけに、近緒にとってはダメージが大き過ぎるからだ。 戦争賛美映画は「どんな形」でもノー。こんな小さなサイトの映画レビューにもならぬ感想だからこそノーと言いたい。変に「映画通」ぶって何処かの国の戦争礼賛映画に馬鹿な理解を示す必要はまったくないのだ。 (・・・でも映画好きにすると良くできた映画に対する愛情ってのは最後まで残るから微妙なんだけどね) で『ブラックホーク・ダウン』。うーん、最後まで微妙な線だね。映像的には『エネミー・ライン』の小技なんて目じゃないほど凄い。不謹慎な言い方だけど、まるでロバート・キャパの写真がそのまま映画になったって感じ。 特にシアンやコントラストが強い色調はソマリアでの闘い(ロケ地はモロッコらしいけれど)を良く顕していると思うし、、、『グラディエーター』の冒頭で見せた大戦闘シーンのチリチリに研ぎ澄まされた交響楽みたいな感じを、今度は完全に使いこなせてるって感じで、もう圧倒的。 ただ、やっぱり初めに危惧したようにこの映画、テーマがよく判らないのね。 例によってアメリカ軍の「思い上がり軍団」が、短時間で軽く済ませるつもりだったミッションに失敗して、敵地のど真ん中で身ぐるみ剥がれていく映画なんだけれど、そこでキーワードになっていく言葉が「たとえ死体になっても決して仲間を見捨てない」。 リドリー監督は、この映画「答えを提示するものではない」と言っているようだが、巧い「逃げ」のような気がしてならない。確かにスクリーンには被害者としてのソマリアの人々が時より映し出されるのだが、、どう見ても割合的にはそれらは「免罪符」以上のものではないように思える。それ以外にも「他人の問題にわざわざクビを突っ込んでくる世界警察アメリカ」についてのやりとりを、アメリカの兵士から、ソマリアの兵士からそれぞれ描き出して、映画自体がイーブンになるように配慮はされているのだが、その癖、ソマリアの民兵を率いる実践リーダーなどはどう見ても「悪党」にしか見えないのだ。 映画には「反面教師のように見えて実はそうではない。」と言った作りを持ち込んではいけない分野と時期があるのではないかと思う。 映画『ブラックホーク・ダウン』は、上に挙げたような批判に対する周到な答えというか配慮というか、逃げをあちこちに配備しつつ、卓抜した映像処理で、最後の最後まで戦争の現実を追いかけていく。 PS マット・エヴァーズマン軍曹を演じたジョシュ・ハートネット、ついに出てきましたねぇ。『パラサイト』の頃から、「あんなにでかい身体にナイーブな心」がキュートだったけれど、今回それが全開でした。 |
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ザ・リング
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ザ・リング
監 督: ゴア・バービンスキー |
ナオミ・ワッツって「マルホランド・ドライブ」のベティ役と、このレイチェル役とでは全然印象が違うのね。同じ顔なのに作品ごとにまったく別人みたいに見えるんだから凄い演技力。 それに彼女って、よーく見てるとなんとなくベッカムに似てる!!女性としては、整っているんだけど地味顔だからそんな風に見えるのかな? ・・・こんな事を考えていたのは、この映画がちっとも怖くないくせに、妙に構えたまったり進行だからだ。 とにかく一つの小説が色々なメディア媒体に取り上げられて、果てはハリウッドまで行ったという事自体が「リング」つーか、「貞子」現象なんだよね。「リング」という小説自体が非常に洗練された都市伝説の機能を持っていたわけだ。 |
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劇場版「仮面ライダー
アギト PROJECT G4」
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原 作 石ノ森章太郎 |
ファンサイトこそ立ち上げないものの私は、熱あるチームプレイの産物としての「アギト」というTV番組がろが大好きである。このアギトが劇場映画として放映される予告を聞いたときに多大なる関心と興味を持ってこの作品を待っていた。とこ不思議な事に「劇場版アギト」を見た後、テレビ放映版を上回るようなこれといった感想が私の中にないのである。たしかに映像的に劇場版アギトにおいては、画像そのものを含めて強いキレのある特撮シーンが沢山あったりするのだが、、。 まずテレビの「アギト」を見慣れた目にはテンポが遅すぎるし、場面転換の切れもあまり感じられない。ここまで映画として大人向きの内容と制作方向を割り切ったのなら、その特性をもっと生かすべきだったかも知れない。 はっきり言ってTV「アギト」は良い意味での「泥縄」式である。TVの向こう側にいるファン・視聴者へのリアルタイムのサービス、そして制作スタッフが、多少の綻びを無視して自分たちのやりたいことをやる。 こんな勢いのあるTV版が一方にあるのだから、映画としては大人向けの拡大版という発想に止まらずもっと作品として煮詰め上げたものが必要だったのだろうと思う。 「映画」として、翔一・涼・誠の3人の中で一番「喋って」いたのは氷川君だろうか。テーマがG3−XとG4の相克だから当たり前か、、。 テーマ自体はかなり古典的なものだけど氷川君のひたむきさでなかなかいい仕上がりになっていた。「美男」で「若い」って得だなぁ。 涼は、またまた子供とのセット、彼は「シェーン、カムバック。」の世界のヒーローだから、この設定合っていると言えば合っているが、もう少し出番が多くてもよいはず。でも最後に見せたギルスの変身は、衝撃的でもあるし暗示的だったなあ。彼が一番正当なる石の森仮面ライダーの後継者なんだろうね。 それにウルフルズの「事件だ!!」が被るエンドタイトル、、どうしてだろう、、こんな荒涼とした感じがするのは。二つの素材ともどう見たってこんな「シンとした」効果をあげる筈がないのに、、。見てると寂しいんだよね。 そういえばアンノウンのデザインや登場の仕方のせいか、かなり長期に渡って、一連のゾンビもの映画を見せられているような気分に陥っていたし・・深海理沙が最後に襲われるシーンは「ゾンビ」そのまんまだものね。 プラス、ギルスが穴に引き吊り込まれたり、、、それで触手ビュルルのあの変身でしょ。 やっぱりこれだけダーク面を見せつけられたら「翔一君ならきっと未来を変えられるよね。」という真魚ちゃんの願いに、観客の方はそうなんだよって言えない気分になるよ。これって狙って組み立てた映画の効果ならちょと「ニューウェーブ」だけど。 PS アンノウンの不可能犯罪が、言葉の説明なしにビジュアル的にこれぐらいよく分かったのは初めて。CGとしては小技だけどアイデアはかなり大業だと思う。でもアギトのシャイニングフォームへの変身シーンは、印象的にマトリックスだね。必要だったかな、、? |
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ロード・オブ・ザ・リング<旅の仲間>
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監督:ピーター・ジャクソン |
この映画は封切りの時に、ペアの招待券を戴いていたもののスケジュールの調整と、主人公フロド役のイライジャ・ウッドとの折り合い(はっきり言って顔が好みじゃない)がつかずパスした記憶がある作品。 でも見に行った娘たちが「あれは映画館で見た方がいいよ。長いけどすっごくいい。」とか言って来るので随分後悔したのを覚えている。そういえばJ.R.R.トールキンの「指輪物語」、、近緒なんかにしてみたら必読書みたいな感じなんだけどまだ読んでいないなぁ、、。 実際、ビデオで見ると、近緒が引っかかていたイライジャ・ウッドって、ホビット族という存在が半妖精なら、彼の「カエル顔」がフロド役で適役ってことになるのかな、、。それにひたすら純粋で痛々しい少年の雰囲気が確かに良く出ていたと思う。やはり役者は見てくれで判断してはいけんという見本じゃのー。 苦しくてもおのが運命を受け入れる事。 ナンテ、世界を構築しちゃうんだもの大したものだわ。あーっ、早く第二部が見たい。 PS エンヤの“メイ・イット・ビー”はこの映画にはまりすぎ、、、でもすべては「指輪物語」から始まっているんだよね。「物語」の持つ力のすごさを改めて知りましたよん。 |
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ブリジッド・ジョーンズの日記
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ブリジッド・ジョーンズの日記
監督: シャロン・マグワイア |
昔、漫画家の石ノ森章太郎氏がその実験精神を発揮して「美女でも美男でもない普通の主人公」で漫画を描くことに挑戦したことがあるそうだ。 えっ?みんなそんなことは百も承知だって?・・だろうね〜。 でもなんと言ってもこの映画、ブリジッド役のレニー・ゼルウィガーの大殊勲賞です。彼女が見せるあの「困り笑い」なんであんなに魅力的なんだろう?三十超えてもあんなチャームがあれば強いよなー。 |
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少林サッカー
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少林サッカー
監 督 チャウ・シンチー |
2002年、日本中がワールドカップ一色になっていた(とマスコミは宣伝していますが、、。)頃、「僕たちあんなの興味ないっす、少林サッカー観てた方が、ずっとましだと思うんで、これから映画見に行きます。」とうそぶいていた若いカップルがいました。 もっともこのカップルに限らず「少林サッカーは超面白い」というのがその当時のオーバーでない風評でしたが。 先ずは地球のオープニングでニヤリ。しかしあの坊主頭だけで少林寺拳法がイメージ出来るんだから、いかに当時の香港映画が「少林寺」で押しまくっていたかが良く判りますね。 PS 特別出演のカレン・モクとか、男装は男装でいいんだけど、なぜドジョウ髭なんだろ? 彼女達、元が可愛過ぎるのでこのメイク違和感丸だし、なんだか監督が男装させて意地悪して喜んでるって感じ、、それがチャウ・シンチーのいちびり感性なのかな? |
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