映像の部2

 
 

将軍の娘

   


将軍の娘
エリザベス・キャンベル

監督:サイモン・ウエスト

 米ジョージア州。、熱帯。ボートハウス。気怠く粘る南部カントリーブルース。蒸気が粘り着く湿気。ある種の魔境、のっけの出だし、いいですね。将軍の娘・エリザベスを演じるレスリー・ステファンソンも良い。特に、軍犯罪捜査部(CID)ブレナー捜査官(ジョン・トラボルタ)の車のパンクを直す姿のキュートさ、本当に「イイ女」に撮れてる。 続いて彼女にモーションをかけ始めたトラボルタの下心を見抜いて、彼(男性)をうって変わったようにはねのける二面性も魅せてくれる。実はこれが、物語の展開の暗示なのだが、、。
 エリザベス・キャンベル将校の自宅は「出来る女」の見本、しかし地下にある隠し扉の裏には、彼女の隠された性癖の発散場所がある。真性のSMの女王様。トラボルタは後半「本当の彼女はきらきらと輝いていてあんな薄汚い女ではない。」とは言うが、彼女の「男に対して身体は開くが、心は開かない秘密」を知り始める。この辺りから猟奇殺人犯を追う熱血捜査官の物語が俄然、社会的なテーマを帯び始めてくる。
 「ものごとには三つのやりかたがある。間違ったやりかた。正しいやりかた。軍隊式やりかた。」とは、将軍(ジェイムズ・クロウエル)がジョン・トラボルタに言った言葉。 三つのやり方の内の一つ「軍隊式」には、あなたが所属する社会のルールをあてはめてみるといい。又、「男女平等社会を維持・発展する為に(あるいは、一見正しそうなお題目を掲げて)、レイプの事実を封殺してしまうという矛盾、そしてそれを平気で犯す感覚。」この感覚も、言葉を置き換えてみれば、我々の身の回りにおいてはお馴染みのものの筈だ。
 この問題に対する映画流の解決として、トラボルタは、自分のキャリアを交換にした脅しに屈せず最後に「やれるものならやってみろ」という姿勢を強く打ち出す。これは良くも悪くも、アメリカ流の正義感であり、私はこれに批判的ではない。この正義感があるから、病巣を山のように抱え込んだ病める大国が辛うじて、背骨を持って立ち続けられるのだろうと思う。
 しかし、映画として分裂しているなと思ったのは、性差別の問題を片方で提示しておきながら、ブレナー捜査官・トラボルタがその課題となんら関わらないどころか、彼の「男女に対する性意識」が時代に逆行してさえいる事である。
 映画の中では相棒の女性捜査官サラ・マデリーン・ストウが、その欠点をホローをしている構図のように思うが、実際の役所はそうは、なっていない。サラはそれらしい言動を見せはするが、両者ともあくまで男性論理にたったヒーロー・ヒロインなのである。
 この映画の「仕掛け」が、キャンベルの娘が「帰って来て」と叫ぶシーンのリアリティを殺いでしまっているのだと思う。
 
 

エントラップメント

 

 

エントラップメント
監督:ジョン・アミエル

 世界最高の泥棒の腕を誇るマックことロバート・マクドゥーガル(ショーン・コネリー)。保険会社の優秀な女性調査員バージニア・ベイカー(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は老練にして弧高の男マックを罠にはめる(エントラップ)ための新たな窃盗を思いつく。最初は追う者と追われる者として出会った二人が、やがて複雑な駆け引きの末にパートナーとなり、80億ドルもの獲物をねらうことになるのだが・・・。
 空から俯瞰した大都会の夜景から始まる映画が好き。わくわくこれから始まる物語にときめく心、それが映画を見る楽しみの一つ。そうなんですト・キ・メ・キなんです。映画は映画としての完成度があるんだろうけれどト・キ・メ・キだけでも映画は充分鑑賞できる。エントラップメントは充分、合格点です。それにしてもショーン・コネリー、、日本の老齢に差し掛かったタレントは、こぞってコネりーのファッションを真似ている見たい。無理ないですね。だって彼は、洗練された色気を加齢の中に見せてくれる俳優としては随一の存在じゃないでしょうか?それにキャサリン・ゼタ=ジョーンズの監視レザービームをかいくぐる肢体のエロチックさ。押さえる愛と求める愛のぶつかり、ストーリーはこれ紹介しない方がいい組立になっているみたい、、。その割にはストーリー展開に無理が多いんだけど、でもこの映画の魅力はそんな所にはないんだろうな。

 これって、成熟した恋を夢見てる女性か、うら寂しい中年男性のための映画でもあるんだよね。いいじゃない、映画って一時の夢をみるものなんだから。
 
 

I SHOT ANDY WARHOL

   



I SHOT ANDY WARHOL

『アンディ・ウォーホールを撃った女』

監督:メアリー・ハロン

ウォーホールのファクトリーに招待された一人の男と一人の女。ドラッグクゥイーン・キャンディと超過激フェミニスト、ヴァレリー・ソラナス。ソラナスのスカム「男性抹殺団」は宣言する、「女の仕事は愛を込めて魔法の国を造ること。」。キャンディが魔法と信じるレブロンの口紅を塗る時、ソラナスは打つ、ビルの屋上でタイプを疾走するような速度で。

 革命組織の一人リーダー・ソラナスは、ウォーホールの取り巻きの一人として食い込みはじめたが、アンディにとってはただの風変わりな「群がり人」の一人でしかなかった。決して交わらない筈の二人だが狂乱のパーティの夜明け、孤独なアンディは寝込んだソラナスに上着をかけてやる、、。二人に微かな接点が見いだされたようにも見えたが、やがてソラナスはアンディの周囲から阻害され、ついに1968年6月、アンディに原稿を盗み取られたという彼女の被害妄想が高じて38口径ベレッタで彼を側面から撃ってしまう、、。

 ヒッピー・マリファナ・徴兵・アングラ・主張する女・ロック。確かあの頃、アートシーンはアンディと共にあった。アンディの周囲を再現するとはつまり、当時のレズビアン、トランスジェンダー、フェミニズムなどセクシュアリティに関する現実を活写することだ。ヴァレリー・ソラナスを演じるリリ・テイラーの歩き方や目の力は当時の前衛の女性を描いて名演。ドラッグクゥイーンのキャンディを演じるスティーブン・ドーフは素晴らしくセクシィ。これが私の見たスペース・トラッカーやブレイドに登場した人物と同一だとは、、。(もっともブレイドの敵役はどこか「濡れた」部分があったけれど)スティーブン・ドーフがどんな風に化けるのか、必見の価値あり。
 
 

黒の天使Vol.

   

黒の天使Vol.2

監督:石井隆

 美しく走れる女優はいい。この映画、天海祐希の上背と身体の切れが担う部分が大きいが、逆に言えば監督の石井隆がそれを十分に引き出したという事だろう。
 映画の前半などは、監督自身がそれを楽しんでいるようにさえ見える。黒のロングコートを、はためかせ歩く姿は夜の都市をさまよう黒い天使のイメージ。裂傷を負った太股、血でぬと付くストッキングを剥ぎ取るシーンもエロチック。
 物語の設定はむちゃくちゃ甘いけど許す。あり得ないスタイリッシュなアル中も許す。女(天海祐希)が綺麗で凛々しいから。大和武士の大根ぶりも、彼の拳闘アクションの凄さで許す。それに彼は、無骨な男の馬鹿さ加減にぴったりだし、、。
 この映画に、精密な人物描写を求めるのは意味がない。石井隆の「女」に対するエロスがいかに映像に結実するかだけが勝負なのだから。
 思えば、エロマンガ、エロ劇画なんてみんなそんなものだ。それを見るのが好きな読者がいればそれでいい。私は、この映画が好きだ。

 
 

KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR

   

KNOCKIN'ON HEAVEN'S DOOR
監督/ トーマス・ヤーン

 ドイツ製ロード・ムービー。ビデオのパッケージには「世界が、日本が熱狂したNo1アクションムービー」なんて無茶苦茶なコピーがついてるけれど、これはまったく詐欺です。でも映画自体はお勧めの佳作です。意外な拾いモノと言っちゃ失礼だけど、少なくとも「金返せ、この野郎。」ってことはないです。でも、脳に腫瘍を抱えた男と末期骨髄腫の男二人のロードの先は、涙なみだの結末になる筈なんだけど、、。意外に淡泊なんですね。ラストでマーチンが実にあっさり逝く場面で、ルディが彼をかき抱く訳でも、嘆き狂う訳でもなく海を観たままだったのは胸に残ります。人間が「死ぬ」事を呑み込んだら、、、「そうかも知れないな。」そんな風に妙に納得させるんですね。むしろ胸にぐっと迫る場面は、非暴力派で暴走を嫌う優男のルディが発作に苦しむマーチンの為に、押し入った薬局で切れたように銃を抜く場面。

 全編の、お洒落なカット割りとコミカルな味付けが、本当は重たい設定を、抑えきって、それが最後のシーンをしみじみと納得させるのでしょうね。
 
 

シンプル・プラン

   

シンプル・プラン
監督:サム・ライミ

 スティーブン・キングが絶賛した(と言う。真実は知らない。)スコット・スミス原作の全米大ヒット小説の映画化なのだそうだ。確かに書店にはシンプル・プランが時期を合わせたように平積みにしてあった、、。例の「原作から読むか、映画をから見るか」のジレンマに悩む。私は片方をとると、もう片方は放棄してしまう質だ。読んだら観ない、観たら読まない。例外は「レリック」ぐらい。「レリック」も本当は映画と原作の関係を意識していなかったのだ。人生は短い。同じプロットを二回味わうには余りにも人生は短い。

 映画の半分は雪景色だ。冷たく厳しい冬だが、それだけに清潔な世界。それに象徴的に何度も登場する黒い鴉達。ストーリーも題名通り至ってシンプル。人がいかに過ちを犯すのか、過ちの連鎖はいかに繰り返されるのか。ただそれだけだ。だがただそれだけであるが故に怖い。「人は何処まで墜ちるのか。」この映画を見て身につまされない人はいまい。ふと、宮部みゆきの「火車」を思い出した。

 映画は淡々と、人物と冬と展開を映し終えて終わる。抑えたカメラワークが良くマッチしていたと思う。で、この映画の監督がサム・ライミである事を思い出して、吃驚した。
 
 

雨あがる

   

雨あがる

監督:小泉尭史

脚本: 黒澤明

 私だって「こんな映画」を見るんだ(汗)。オマージュとはきっとこのような作品の事をいうのだと思う。と、言っても私は黒沢明みたいな監督の撮る映画に、感動も面白さも感じない人なので、本当の所はよくわからないんだけど。
 それに原作が山本周五郎。時々は、近頃の若い娘がマイブームなどと言ってこの作家を読むらしい。きっと周五郎の事を、最近発掘された未開地(幻の国ジパング)の作家が書いたみたいに読んでいるのだろう。ああ、古き良き日本の世界の傍流(傍流でしかなかったことが哀しいけど)。

 純粋で人の良さ故に、他人の自尊心を傷つける男、三沢伊兵衛(いるよなぁそんな奴、近緒の大キライなタイプだけど寺尾聰が演じると許せちゃうから不思議)の仕官物語。不器用な伊兵衛を取り立てるイケテル殿様、永丼和泉守重明(三船史郎)がいい。この大根ぶり黒沢映画の三船俊郎と同じじゃんと思っていたら、本当に息子さんだって後で知って吃驚。

 映画の内容、、?ハハ、、どういうんだろう。これを見て感激する奴は馬鹿だけど、批判する奴はもっと馬鹿って感じかな。あっていいんだよ。こういうのが、そうじゃなきゃ人生やってられないでしょが、、。
 
 

しっくす・すとりんぐ・さむらい

   

しっくす・すとりんぐ・さむらい

ジョン・ウー監督がアクションシーンを舞踊のごとく芸術まで高めたのなら、この映画はロッケンローラーのノリをアクションシーンにコンバートしちゃったという感じ?今、流行のお馬鹿な映画です。皆さんは「子連れ狼」って知ってます?この監督さん絶対、これを見てる。「ちゃーん!」を子役が主人公を呼ぶところまでそっくり。で、この映画は外れなんだろうか、それとも掘り出し物なんだろうか?どちらでもないな。このどちらでもないのがいいのかも。なんだがイルマ・ヴェップから、どうも最近は「表面を撫でる」感触を楽しむ映画によく出逢うな、、。というかヘヴィ級を避けている自分がいるんだけれど。

 余談だけど、外国の監督はどうしてあんなに日本刀の質感が理解できないのかなと思う。日本刀ほど「近代日本のある精神風土」の一端を現したものはないと思うんだけど、だから難しいのかな?
 
 

ディープ・ブルー

   

ディープ・ブルー

監督 レニー・ハーリン

このコーナーで作品を取り上げる選考基準は極めて私的である。私は「B級映画が好き」といった気取り屋でもないし、所謂、文学映画や超最先端のニューウェーブの監督が、特に好きという訳でもない。「かっこいい映画」が好きだし「お洒落」も「エロで変態」な映画も好きだ。要するに、私の感性に何か引っかかる部分があればそれが選考基準になる。HPは、なんのしがらみもなく、おおっぴらにそういった選考基準で批評が出来て嬉しいし、そうでなければこの極私的媒体の意味もないのだろうと思っている。

 で、「ディープ・ブルー」である。気に入りました。こんなふうに登場人物が死んでいく映画を私はあまり見たことがない。これがレニー・ハーリンが意図してやった事なら、私は彼のユーモアセンスに脱帽する。でも、そうでないなら大笑いの馬鹿野郎監督としかいいようがない。でも、どちらにしても最後に生き残った二人をみて思わず「ヤルなー。」と奇妙な場違いの爽快感を覚えたのは確かである。サミエル・L・ジャクソンが他の仲間達を演説ぶって勇気づけ、さあ映画はお定まりのストーリー展開へ一気になだれ込みと思った瞬間、サミエル・L・ジャクソンが鮫にばっくり!イチコロであの世行きになった時なんかは「やるー。でもこの後どうすんだ?将棋で王将を摘んだらゲームは終わりなんだぜ!」なのに映画はそれでも平然と続いていく、。ああそうか、飛車やら角を王将に見なして将棋をする訳だ。キングはいなくてもヒーロー・ヒロインが残っているし、、と思っていると、、、最後に、又、やられるのである。
「おい、おい、いいのかよ。こんな二人を残して納得するような映画作りしてないだろうよ!」最後のエンディングテーマも全然かみ合っていないし、、、。

 トんでもなくツイストした映画が、ディープ・ブルーなのである。LL Cool J、、なんなんだコイツ!わかんねー!そぐわねー。日本にもいったけ「そぐわねータレント」(ビートたけしのものまねで一気にタレントになったデブ、、名前なんてったっけ。)でもLL Cool J、妙に収まっているのよね、この映画の中では、、。

PS 鮫はやっぱり怖い。主人公達が逃げて昇っていくシャフトから下を覗き込むと、貯まった海水の下で巨大鮫がグルグル回っているシーンなんかは、もう私にとって生理的な恐怖感を呼びますね。それとか、冒頭で人間の死体を鮫がくわえて耐水ガラスにぶち当てて来るシーンとか、、「ぎぇ、イジワル鮫っ」て感じで、、あれからこの映画の鮫は「何人、人間を食い殺してもいい。」お墨付きをもらった感じで暴れまくるんだけど、、。海水浴には気を付けてね。
 
 

鮫肌男と桃尻娘

   

鮫肌男と桃尻娘

監督:石井克人

 鮫島(浅野忠信)は(格好良すぎる)ヤクザ。組の金一億を持ち逃げして組員から追われる身。偶然に知り合ったトシコ(小日向しえ)は家出の途中。「あんな所にはもう戻りたくない」と泣くトシコを連れて鮫島の逃亡が繰り広げられる。

和製タランティーノ作品?いいのか、おい、そんなことして。日本の風土にあうのかよー。でも、でも評判通り若人あきらは凄い。若人あきらがいなければこの映画、成立していなかったに違いない。もっとも、この手の映画以外に若人あきらが出演して、「彼」が成立するとも思えないけれど。(気持ちの中では、彼にはこの映画の初めの頃に登場したとてつもなく切れた殺し屋で、最後まで演技させてあげたかったけど、途中、正義の味方ぽくしたのは少し勿体ない気がした。)

 とにかく、見ていて何となく気持ちイイ感じがする映画が、たとえ真似事でも日本に現れた事は歓迎すべき事なんだろうな。でもそれがCM畑の監督から出現したのは、ある意味必然なんだろうね。後、「俺って漫才師だけど本当は演技うまいだろう」的臭みのなかった島田洋八も、見ていて気持ちが良かったし、いつもにこにこ浅野忠信も、眼差しと笑顔で許せちゃう小日向しえも良かった。ま、サラダみたいな作りの映画だから、これで充分!
PS
 個人的に注目してるのは鶴見辰吾。この人が初めてTVに出た頃のかわいらしさを覚えている人は、最近の彼の怪優ぶりにショックを受けるんじゃないかな。好きですね、、。どんどんいっちゃって下さい。言っちゃなんだけど岸辺一徳とか、ああいう人が、ああいう手の演技をするのにはもう飽きちゃった。ある意味、高倉健が「高倉健」でしかないのと一緒でしょう。俳優さんは「え、いいの」って感じで魅せてくれなくちゃ面白くないもんね。
 
 

生ごみ 死体遺棄

   

生ごみ 死体遺棄

監督: 村田啓一郎

 紹介文には「前の住人が残していった生ごみを発端にした、醒めることのない悪夢のような夫婦の日々を描くホラー。」とある。
 近緒的、日本の正統B級エログロビデオの指標となりうる作品です。(それだけです。この映画が凄いと言っている訳ではありません。ただ氾濫するB級映画の基準点を現時点で個人的に定めるとこうなるということです。SFアクションだと「D」かな、、。)でもこの映画、下手なAVより興奮するかも知れないし、自主制作映画みたいな味わいもあって、「お金を、あたしの時間を返せ!!」とまではいかないと思いますよ。この映画、ホラーの中でもあえて分類するとネフロ系なのかなぁ。
 画質が印刷程度のわるい低価格のアダルト本と同じで、妙に色が薄っぺらくて下品なのね、それが一気に動き出しちゃうもんだから、お掃除をしてない湯船に浸かってる見たいにむずむずするのよね。
 それにフェラチオの場面がやたら出てきて、この映画のヒロインはどう見てもフェラチオ中毒ですよ。(というか、この若妻がフェラチオをする場面を撮りたくて支離滅裂なストーリーをでっちあげているんだけど、、。それにしても何だね。死者の復活の場面では
荒俣先生の「レックス・ムンディ」が出てくるのには驚いちゃった。)
 そのフェラチオ中毒の若妻を演じるのが女優黒田詩織ちゃん、熱演です。(「富江」の
菅野もそうだけど、女優さん一人の熱気で持つ映画って実に多いですよね。)
 でもこの映画に・色気・それ以上の事はもとめてはいけません。途中でひょっとしたらこの映画なんだか難しいテーマが隠されているんじゃないかと思わせるような部分がありますが、それはあくまで「擬態」です。でも人体のダミーだけは、もうちょっとましなものを使おうね。他のチープさは嗤って許すけど、、。

 ネクロフィリア・・・死体性愛、死体を愛する傾向のこと

 
 

39  「刑法第三十九条

   

39  「刑法第三十九条」 

監督:森田芳光

 映画に対する「評価」ってどんな意味があるんだろうと考える時がある。私は基本的には「個人の好き嫌い」しかないと思っているけれど、実際にはヒットする映画は多数の人間の最大公約数的な「面白さ」を内包するのは確かだ。だったら「面白い」作品は私たち大衆の嗜好の平均値をまんべんなく満たすものなのかというとそうでもない。過激過ぎる程の「刺激」や「新しさ」も重要な要素なのである。
 前置きが長くなっちゃった。妖怪人間コンテスト映画 39 を見ていると、私は二つの思いに捕らわれる。一つは、39は「羊たち〜」をどことなく連想させ、精神鑑定人・小川香深(鈴木京香)が新しいヒロイン像として成り立つのではないかという予感である。つまり「そういう色と形」の「楽しみ」が今後の日本映画として成立し得ると思うのだ。
 そしてもう一つはテーマの問題である。この映画が発表されてから数年経つが、あれから以降、こういった犯罪は益々酷くなっている。「止まらない。」のである。
 森田芳光がもし片鱗であったとしても39条に絡めて、この映画で何かのテーマを追ったとするならあまりに内容の薄いものだったと思う。まあ、それを言い出せば脚本段階での柴田真樹(堤真一)の犯罪自体が絵空事だが。
 「シュリ」もテーマが南北問題に触れている。テーマとしては途方もなく大きく重いものだ。が、旨く処理をしている。考察が素晴らしいという事ではない。どのような立場の人でも「これだけ私たちの感情をうねらせてくれたんだから許してあげる。だってこれは映画なんだから」そんな満足感がある。
 その辺りが39は破綻していると思う。娯楽なら娯楽でもっと旨い処理をして欲しい。ああいったテーマは後戻り出来ないんだぞ。
 で、話は妖怪人間コンクールに戻って、誰が一番かな?一位は、検察(江守徹)でしょう。あの血の色を抜いた唇メイクで糸を引く大仰な台詞回しはたまんないですね。意味なく人を惹きつける妖怪NO1でしょう。僅差で刑事(岸部一徳)。この人またやってるって感じですが、最後彼が法廷で傍聴してる顔なんか狐に取り憑かれたお公家さんに見えるんですよね。ここまで来ると彼も森田芳光も凄いとしかいいようがない。3位が教授の杉浦直樹、この辺りから「演技」領域かなぁ。小川祐子の吉田日出子はまあ無理なくって所で。 あと残るは主役の鈴木京香と堤真一ですか、、。この辺はどうなんでしょう。私には判りませんな。
 39。何か凄く面白い日本映画になりかけですね。
 

 

エンター・ザ・イーグル

   

エンター・ザ・イーグル

監督:コリー・ユン

 うーん。惜しい、もうちょっとでしょう。アクションは、お家芸のクンフーンは勿論の事、銃撃戦も含めて水準以上。ストーリーも、どじな泥棒夫婦(チャウ・シュウチョンとアニタ・ユン)を配してこじゃれていし、俳優の魅力もマイケル・ウォンを初めとして悪くはない。最後なんて飛行艇の中の大アクションのおまけつきだ。それに加えてヘリコプターからのマイケル・ウォンのバンジージャンプによる銃撃なんて普通思いつかないぞ。香港映画特有の見せようとするサービス精神てんこ盛り。
 だけど、この映画「もうちょっと」なんだよね。詰め込みすぎなのかなぁ、、。後半のアニタ・ユンとシャノン・リーの女同士の友情を描くシーンなんて「違う種類」の映画のパクリみたいだし、、。一本の映画は、プロモーションビデオじゃないし予告編でもないんだから、全部山場にしたりカッコよく見せるのは無理なんだよね。脚本なんて関係ない見せ場の連続みたいな「マトリックス」だってきっちと谷間やベースがあるもの。それにチェコの海外ロケってどんな意味があるのかなぁ。
 ジャッキーチェンの作品でおなじみのゴールデンハーベスト作品「ENTER THE EAGLES」。ブルース・リーの娘のシャノン・リーが(主演?)を張ってるってコピーにつられて見ちゃたんだけど、彼女、怒った顔はブルース・リーで優しい顔は若い時の丘みつ子でウーン、此方も混乱しちゃう。シャノン・リーってすぐに太って「優しいお母さん」になっちゃいそうな人なんだけど、お父さん譲りのアクションやるのね、これが。それでもって「型」が決まるからこれまた不思議。彼女、どことなく意味繋がりで志保美悦子を思い出しちゃう。
 そんなこんなで「捨てるに捨てられぬ」味わいを持ったAダッシュ級(近緒分類)映画でした。シャノン・リー、「やっとく?」。
 
 

ボーン・コレクター

   

ボーン・コレクター

監督:フィリップ・ノイス

 最近はどこを向いてもデンゼル・ワシントン。私の中の「ライム」とデンゼルが喧嘩をする。無駄な喧嘩だ。あなた達は別物なんだから。アメリアもなぁ、、でもアンジェリーナ・ジョリーは熱演だったよ。「読んでから観るか、観てから読むか。」この映画に限っては絶対に小説が先。小説を先に読んでると、映像表現が、素晴らしく面白い言語表現である原作を、「面白さ」において追い抜かそうとするのが良く判るしね。世界の深さは絶対、小説の勝ち。第一、この映画を先に見て「ボーン・コレクター」の面白さが映画程度だと思われて、読者になる可能性が減るなら原作小説が悲し過ぎ。
 だけどこの映画の場合、原作とはまったく別物だと思った方がいいし、そう割り切った時点で、それなりにまとまった面白さのある映画だと思う。(羊たち、、の、映画と原作の関係にはならない。言っちゃ悪いがデンゼル・ワシントンとアンソニー・ホプキンスの比較だけでそれは明白だと思う。デンゼル・ワシントンは全然陰の部分がない人だから、原作の「ライム」のティストを大切にする積もりなら配役ミス。)それでも
「ボーン・コレクター」ファンの何人かは、この小説が映画化された事だけで嬉しいく思っていることだと思うけれど。
 
 

ワイルド・ゼロ

   

ワイルド・ゼロ

監督: 竹内鉄郎

 銀蠅(横浜じゃないよ)みたいなUFOがブンブン飛び回って可愛い。(のっけからマーズ・アタックのパクリだけど俺はこれで行くって宣言でもあるんだから潔いと思う。)くず映画はどこまで我慢できるかが勝負よね。我慢してると気持ちよくなってくるのよ。(アレと同じよ。)それにしても東洋人のゾンビは気持ち悪い程似合わないねぇ。トビオうーんデカ過ぎ(ネーミングは凄く気に入ったけど)。「愛に男も女も国境も関係ねぇ〜!!やっちまえ〜!」ハハッ、けどシティチャイ・クワンチャルってホントにどっちなんだろう?一瞬ヌードになってエース(遠藤雅)がビビル場面があるけど乳房は膨らみかけって感じで、確かにそう言われればそんな感じに見えるけど。まぁ直感的には女の子だね。自信がないのはロケ先がタイだって事、あそこ辺りの子はホントに綺麗だから、、。

 稲宮誠の目障り気障りの変態振りはもうサイコー。映画に登場する脇役変態さんの一パターンを確実に形作ると思う。あんな短パンはかれちゃった日にはもう勘弁としか言いようがない。それが最後になると眼から破壊光線ビカビカだもんね。ギターウルフのキメ過ぎ立ちポーズ100連発、やっぱ格好いいんか?連日35度の馬鹿温度の大阪にピッタリ。みんなアホになれー。(冷静な目で見るもんじゃないきに。)
 
 

13F

   

13F

監督:ジョゼフ・ルスナク
製作:ローランド・エメリッヒ
原作:ダニエル・F・ガロイ
「模造世界」

 のっけから「我思う故に我あり。」VR物の映画としては実に直球を投げたものだ。それに刑事が「個体ユニットが、ここに現れてご主人さまを殺すなんて事が。」なんて冗談めかして最初からこの映画のガイダンスをしちゃってくれる。最近のVR物で有名なのは勿論あのマトリックス。VR物で一体何本の映画が撮られているんだろう。もうこうなって来るとVR物が勝負するのは「趣向」、うーん「趣」なんだよね。
 実を言うと「I sow」ではVR物の範疇に入るだろう「ダークシティ」と「オープン・ユア・アイズ」を没にしている。
 VR物の「おしゃれ系」なら「オープン」だろうし「カルト系」なら「ダークシティ」という事になるのかな。二本とも13Fより上をいく「癖」のある作品だ。
 それでも13Fなんだよね。(前の2作品については特別、言いたい事とか感じた事がないんだ。もっと言えばこっちをミーハーな気分にさせてくれる要素がないのよね。「ダークシティ」の建物グルグルズリズリはそれなりに特筆ものだけど、夢にまで出てくる程じゃないしね。それにストーリーについていえば、VR物なら「話」の捻りや、「考察」で映画に負けるほどSF小説は落ちぶれちゃいないもの。その辺り映画は小説に敵わないんだから変にストーリーに拘らない方がいいと思うんだ。)
 13Fの場合、出てくる俳優さん達が好きなんだ。みんな格好いいし素敵、アーミン・ミューラー・スタールはうまい俳優だし、これって凄く大きな要素だと思う。
 13Fの中では一人ずつ、実在の自分とバーチャルの自分を振り当てられているんだけど、一人一人の俳優さんが役をきっちと演じ分けてる。これが見所というか楽しいんだよね。特にグレッチェン・モルは良いよ、スーパーでレジを打っているあばずれた感じも好きだし、理知的だけどちょっと頑固っぽい地味目の美女もいいしね。
 後、30年代のロスの再現に拘ったりね。仰々しい特撮じゃなくって「映画・演劇」を見てくれって感じが好き。
 ストーリーはどうなんだろう。(余り関係ないと思うんだけどね。だから最初からこの映画の場合ネタをばらしちゃってるし、)世界が入れこ細工みたいになっていて、ラストのラストだって「まだこの世界には上の構造があるかもよ。」パターンの思わせぶりの閉じ方もよくあるしね。
 でも、ちょっと吃驚したのは「人工知能疑似人格にダウンロードして入り込むと人格が融合する」という設定の使い方だね。この設定を良く考えたら、この映画「最後には性悪亭主の身体を自分好みの疑似人格に乗っ取らせて幸せになる女」の話じゃない。凄い話じゃない。ダークシティのラストで「世界を肩に担いじゃう男」と良い勝負だと思うよ。
13F、思わぬ拾いものだよ。「映画」を楽しんで。
 それとグレッチェン・モルをご贔屓に。 
 
 

ミッション・インポッシブル2

   

ミッション・インポッシブル2

監督 ジョン・ウー

同じ設定で映画がこれ程、化けるとは、、、ミッション・インポッシブル2というタイトルは誤解の元なのじゃないかな、、、。ミステリィファンも多少は満足させた前作とは全然別物です。「ジョン・ウー&トム・クルーズ」という題名の方が妥当でしょう。 しかしカーチェイスものでドキドキしたのは久しぶりの事ですね。(実際にはオートバイだけど、オートバイも「動き」で演技してた凄い。)「おいおいそりゃぁ嘘だろう」のアクションがありありの中で、これ程キメて観客に手に汗握らせたジョン・ウー監督の勝ちです。でも、映画の内容は薄っぺらです。下手に考察を始めると「何で?」の嵐で、、、で、ジョン・ウー監督作品の場合はそんな事はどうでも良いことなんですが。

 彼の作品は「演舞」というか、「ダンスシーン」あるいはタブローの連続と考えたほうがいいと思うんですよね。冒頭のトムクルーズのロッククライミングのシーンなんかでも「アクション」で「感じさせ考えさせる」のですから、これはもう凄いとしかいいようがない。確かに今映画は撮影技術の革新とともに新しい表現方法を身につけようとしてるみたいですね。
 ジョン・ウー作品の場合などは、彼独自の表現が出てこない時には、ただストーリーが辻褄を合わせるまで、ひたすら凡庸な画面見つめながらを待っているという感じで、、例のシーンを見ている間は実に幸せな気分になれるので、もう麻薬とおなじですね。(これは飽きちゃった頃が怖いんだけど)ミッション・インポッシブル2では時々サンディ・ニュートンが顔の表情で演技をするのが浮いちゃって間が持たなくて困るほどです。
 ところで制作者でもあるトムクルーズは、監督を変えてミッション・インポッシブルをシリーズにするらしいけど、なかなか良い発想ですよね。イーサン・ハントとあのテーマソングがあれば、監督を次々変えていく方が面白いし、、(ジョン・ウーが3を取ったらもう見たくないけれど、、。)彼自身が、あの役で嵌ると、とんでもなく格好いいですもんね。この映画、素敵なダンスを見に行くつもりでゴーです。
 

 

ナインスゲート

   

ナインスゲート
監督:ロマン・ポランスキー

 バルカン出版の社長バルカンは悪魔研究者としても名高い。その彼が最近入手した17世紀の悪魔書「ナインスゲート(影の王国への九つの扉)」の真贋と、残り二冊のナインスゲートについての調査を「本の探偵」コルソに依頼した。悪魔自身の作とされるナインスゲートを追う旅の途中で、コルソは不思議な女性の手助けを得るが、、、。

 どうです。もう設定だけで「読書好き」「本好き」にはたまらないでしょう。でも、この映画この設定の面白さを、充分には生かし切れていないのですね。この映画が封切られた頃にはロマン・ポランスキーよりジョニー・デップが前にでるなんてとも思いましたが、見終わった後は、この映画、ジョニー・デップだからなんとか持ったのではないかという出来、、。 確かに所々、ワインの地下貯蔵庫に迷い込んだような、ロマン・ポランスキーの甘く饐えた雰囲気は出てくるものの(最後の廃城とか、ね。)、これといったキレやコクが在るわけでもなく、、そう、ミステリーの面白さも、ホラーの嘆美もないのですね、これが、。ちょっとシリアス味を出したジョニー・デップの新しい魅力がなければかなり退屈な作品でしょう。
 でも最後まで見てしまう不思議なリズムも持っているんです。ひょっとするとこれはXファイルみたいな構成にすると伸びていく映画なのかも、、、。

PS これも原作(ペレス・レベルテ)がある映画らしいんだけど、残念ながらこの映画を見てしまった後では、それを探し出して読もうとは思わないんですよね。(小説では映画でスカスカだった謎解きがメインになっているみたいだけど)ボーン・コレクターは、そんなことにならなければいいんだけれど、、、。でも、勘違いしなでね。ナインスゲートは映画の水準を割った作品ではないのです。ただ、ロマン・ポランスキーとジョニー・デップなら相当に面白い映画になった筈だと欲をかいちゃうんですよね、、。本当に残念。

 
 
 

TATARI

   

TATARI

監督: ウィリアム・マローン

 さあポップコーンを用意して「楽しむぞ」って構えで観て下さい。そういう映画作りのスタンスが良いですね。それと全編を微弱に流れ続けるエロ。混乱と毒の楽しみもあるし、、、このリズムを叩き出しているのがスティーブン・プライス( ジェフリー・ラッシュ)エブリンン・プライス(フェムケ・ヤンセン)の二人。なんといってもこの夫婦が面白い。(観てる分には、、、そう多分に映画的演劇的な夫婦関係。)ウィリアム・マローン監督は変態系の人間ですねきっと。全編、結構明るいノリなんだけど、どこか狂騒的でねちっこい部分がる。
 近緒的には、精神がオーバーロードする程の視覚聴覚で精神治療するという装置(拷問器具)でプライスが観る幻想シーンがエロ・グロ・フェチの3拍子揃いでお気に入り。(ほんの少しだけど、ラバーフェチや医療プレイファンの皆様も楽しめるシーンが)。それに最初のジェットコースターシーンもなかなかにやりとさせられたし、、。でも、ちょっと物足りないかな、中途半端に大衆受けを狙うような設定をしないほうがもっと「凄い怪作」になった可能性は山ほどあったのにね。
 
 

オーディション

   

オーディション
監督:三池 崇史

 私がいま注目している作家は村上龍と立花隆である。二人とも「現代」を見つめ続ける作家だからだ。特に村上龍の世界を見つめる目は、私たちを否定しながらも、私たちと同じ視点の高さを保持していて、いつも共鳴させられる部分が数多い。驚くほどの知性の煌めきがあるわけではないが、彼の強靱なスタンスと感性が好きだ。しかし私は彼の小説の熱心な読者と言うわけではない。最近で読んだモノは「イン ザ・ミソスープ」ぐらいで、どちらかと言えば彼のメッセンジャーとしての仕事ぶりに惚れているのだ。 で、この映画である。村上龍の原作は読んでいないので、映画を見ている間中、常に小説「イン ザ・ミソスープ」の世界がBGMの形で頭の中に流れる始末だった。左からは村上龍が、右からは三池 崇史がやって来て私を責めるのだ。私はこの映画を、ミステリーでもホラーでもなくSM映画として捉えている。(ちなみに村上龍はとても上質なSM作家だとも思っている。)村上の上質な部分は、映画の中で、椎名英姫のセリフ「言葉なんか嘘だけど痛みだけは信じられるもの。」
「自分がどんな人間がかがわかるもの、苦しいことや辛いことだけなの。うんと辛い目に合ったときだけ、自分の心の形がわかるのは。」に引き継がれているようだ。SM映画の側面は、画面の節々からあふれ出ているのでここで改めて書き記す必要はないだろう。椎名英姫のラストの扮装など、その手の風俗店のコスチュームそのまんまだし。それにしても石橋凌の手首が、陸に引き上げられた魚見たいにびくびくする場面はやけにリアルだった。けれどSM映画で描写されるのがお似合いの現代社会って一体何なんだろうね。 
 
 

スリー・キングス

   

スリー・キングス
監督・脚本
デビッド・O・ラッセル

 映画『スリー・キングス』、「いくら格好良くたって戦争終結直後の猫糞映画なんて見たくねー。」と思いながらも、TVのスポットフィルムが奇妙に斬新だったのが印象深い作品だった。
 みんなは、覚えているかな〜。湾岸戦争の事を、そんなに前の話じゃないんだけどな。、、でもこうして考えてみるとアメリカという国はつくづく戦争が好きな国というか、(反戦平和の立場を取る人々の精神も含めて)「構造的」に「そんな成り立ち」の国なのかも知れないね。
 そういった視点で見るとこの映画結構面白いと思う。(いけね、このコーナーは政治と戦争はアンタッチャブルだっけ。)
 で、話の流れを変えて、「この映画まだ見てない人」「あるいはTVのスポット放送で限定された予断を持った人は」、断然「お勧め」の映画です。
 『スリー・キングス』はエキセントリックなアーミー映画というか、湾岸戦争で戦争の形が変わってしまった事にシンクロしている次世代型戦争映画だと言えるんじゃないかな。
 この映画の「変さ」加減は、ベースにあるブラックユーモアや皮肉が効いてる事もあるけれど、どちらかというと、斬新なカットや構成・道具立てと言った映像の力が大きいと思う。最初、爆裂した牛の返り血を全身に浴びたジョージ・クルーニー達が、次に爆破されたオートミール(?)を満載したトラックの中身を全身に浴びたり、しつこく描き込まれる「頭部へ銃弾が撃ち込まれるシーンのハイスピード撮影」とか。
 とにかく、映画が「重厚」になっていかないように、奇妙でショッキングなティストのディテールを塗り重ねているような「引き算」の意図が見えるわけ。それでいて、見終わってスカっとするだけの「何も感じない」完全な娯楽作品でもないのよね、これが、、、。
 私は好きですよ、こういう感覚。たしかにこの映画、今の「世界」の一面を切り取っていると思う。出来れば、この監督の映画をもう一本見たいものですね。
 
 

さくや妖怪伝

   

さくや妖怪伝
監督:原口 智生
特技監督:樋口真

 こういう手の映画で「これを見ろ、見なきゃ損するぞ。」ってのが登場すればいいのになぁ、、。といつも思ってるんだけれど、、。遠くは「未来忍者」とか、ちょっと最近ならガメラシリーズの系譜というのかな、一点こだわり主義、「あんまり金、掛けられないし商業ベースで融通も効かないけど、これだけは無理してでも遊ぶ」のね、完成した奴が見たいねぇ。そんでもってヤンヤの喝采を送るって気持ちいいだろうなぁ。
(でもこの映画制作会社のトワーニは、ワーナーと東芝と日本テレビが出資して作った世界配給も視野に入れた日米合弁の映画制作会社なんだそうで、近緒見たいな肩入れの仕方は見当違いみたい。でもトーワニのコンセプトが額面通りなら、この映画サイテーの国辱ものレベルだと思うけど、、。以下、コメントはこのトワーニって会社の事を忘れて書くことにする。)
「さくや妖怪伝」、お子さま向け妖怪映画の正統後継者を最後まで意識して映画作りをしたのは偉い。その癖、傀儡師が持っている呪いの生き人形がどっから見てもバービー人形だというセンスを臆面もなく打ち出す度胸!「古寺の怪猫」とかのキャンプションがドカンと出るのも、子どもがカード集めてる感覚で、楽しい伝統を引き継いでるし、いかにも作り物って感じの妖怪造形路線の周到さもいい。(でも一言、この主役の安藤希のキャスティングは?演技力なんか初めから当てにしてないんだけど、演技しなくても奇妙なオーラを持った子って意外と最近じゃ沢山転がっていると思うんだけどなぁ。それにやっぱりこの映画の場合は主役は「走れる」子だったんじゃないかな。なんで安藤希なのかな。)
 妖刀村正に操られる「さくや」が素敵。援交やってそうな女の子が妖刀に操られてうらぶれたごろつき共の中を転げ回りながら大量殺人。しかもその手口は「吸精」ですぜ、たまりまへんな旦那。それに映画の中に、結構一本筋の通ったテーマがあったりしてね。(この手の映画にはテーマなんて全然余計だけど。)「さくや」と可愛いかっぱ君(この子・本当に可愛い、勿論ヨーロッパ系の美少年じゃないけど)の関係を通して「殺さずば、育てるしかない。」という「筋の通し方」を最後まで映画の中で語ってるんだねぇこれが。
 所で話は変わって松坂慶子姉ぇは、色気満開でごじゃりますねぇ、、。この慶子姉ぇが巨大妖怪になるんですよ。凄いビジュアルです。ジャイアント松坂の太股が俯瞰で拝めるだけでクラクラしますですヨ。
 近緒、特撮監督がこの松坂妖怪をどれだけ壮絶に美しく最後まで撮りきれるかが、この映画の生命線だと思うちょりましたが、やりました。花マルです。これだけは素直にほめちゃりたいです。
(ホント、この映画のターゲット層って一体誰なんだろう。子どもじゃないよな。河童君が笑いのシーンを引き受けているんだけど冷え冷えとして可愛そう。回顧趣味の中年以上でしかあの滑り具合は理解できないはずだけど、、。しかしまあ、近緒はそれでなくとも反意的な意味を込めて( )をよく文章に使う人だけど、こんなに沢山、映画評に使ったのも初めてだよ、、ふぅ〜っ。)
 
 
 

ミッション・トゥ・マーズ

   

ミッション・トゥ・マーズ

監督: ブライアン・デ・パルマ

 最近、SF小説を殆ど読んでいない。昔は発売日を待ちこがれていた程のSFマガジンだって、今は牧野修の「傀儡后」が気になって読む程度だ。この映画だって、映画館の前を通りながら「ふぅーん」って感じだった。で、今度、このビデオを見ることになって久し振りにSFマインドを揺り動かされたのだ。懐かし面白本格SF大作!
 「これって2001年宇宙の旅じゃない!それに未知との遭遇とかアビスの雰囲気もあるし、、。」でも何だか違う、キューブリックの2001程、神秘的な冷ややかさはないし、クラークのアカデミズムみたいな部分より、人間の精気を描く部分が強い。でも、ちゃんとキューブリック&クラークを引き継いでいる。だって近緒はあの頃を思い出してワクワクしたもの。
 プラス、火星上空の電車ごっこや夫婦間の愛情劇はやっぱり「泣いて」しまいました。一体誰なんだ、こんな古いアイテムの寄せ集めを平気でやって、そこそこ見せてしまう監督って?
 その監督は、なんとあのブライアン・デ・パルマ!うーん、半分納得で「そりゃ無茶だよ。」という感想。「俺がやったらこうなるんだって」って言いたかったのかなぁ、、。確かに一つ一つの場面やアイデアはどこからからのパクリかも知れないけど、どのシーンを見ても「人間の艶やかさ」みたいなのは感じるからね。
 でも最後の古代遺跡の中の場面が、どこからの「テーマ館」の内部みたいだったりするセンスまでパクらなくていいじゃないよ、って気もするんだけど、、。
 SFはアイデアじゃなくてセンス。ブライアン・デ・パルマは潤沢なセンスの持ち主だけど、どうやらそれはSF向きじゃないみたい。でも彼の才能なら、一世代まえのSFセンスなら充分にカバーしちゃうんだろうな。ホントに面白かったもの。あのマックの模倣だって言われた某互換機を思い出しちゃった。
PS 『ショーシャンクの空に』のインパクトがあまりに強いティム・ロビンスだって、180度とは言わぬまでも陽性のキャラクターを演じていたし、「内気で照れ屋」そのまんまのゲイリー・シニーズとか、アメリカってホント味わい深い俳優さんたちが沢山いる国なんだね。
 
 

救命士

   

救命士
Bringing Out the Dead

監督:マーティン・スコセッシ

ヤクの売人に突き刺さったバルコニーの鉄柵をトーチで焼き切る。闇に浮かんだ摩天楼に、熱された鉄粉が飛び散って恐ろしく美しい。同時にゆっくりと夜空に広がる打ち上げ花火はマイケルの幻想なのか、売人の幻想なのか、、?
 このワンシーンを見ただけでも私にとっては「救命士」を見る価値があった。
 ある種の人々は、この映画を感動的なヒューマンドラマだと評価するらしいが私にはよく判らない。疲れ切った救命士達を救済するかのように訪れた「双子の出産の手助け」の場面でさえ、ニコラス・ケイジ(フランク)には赤子の「死」を、片方のヴィング・レイムスには「誕生」が象徴的に与えられる。
 自らの仕事を、「死の現場の悲しみを襤褸雑巾で拭き取る事」と吐かざるを得ない、まじめすぎる男フランク。そんな彼には過去の己の未熟な技術で死なせてしまった少女の亡霊が付きまとっている。
 救急車に同乗する3人の異なったタイプの同僚達は、フランクの選択すべき道を暗示しているようだが、彼は現実と折り合いを付けていく為のどの方法も取ることが出来ない。
 恐らく映画は、何の救いもなくただ淡々とニコラス・ケイジ(フランク)と都市の精神的荒廃を描き続けるのだろうと思っていたのだが、、。
 所がこの映画には「救済」が用意してあったのだ。フランクが、残酷な延命処置から自らが救った命を絶ってやる事、一度は同僚と「コイツを狩ろう」と狙い定めたジャンキーを助けてやること。
 この二つの行為の後でフランクは、パトリシア・アークエット(メアリー)に重なる少女の幻影に許しを得ることになるのだが。
 、、、私にはどうもこの最後の構図がよく理解出来ないのだ。
 そんなのより、フランクがメアリーの部屋で眠った事、メアリーの「3つの香りのする3つの石鹸」で顔を洗ったおかげで「山を越えた」と独白した事の方が、余程説得力があるように思われるのだ。
 だってちょっと考えても判るじゃない。いくらメアリーに癒され少女に許しを得ても、このフランクがこの後生まれ変わったように救命士の仕事をバリバリ遂行してる姿は想像出来るわけがないもの。
 マーティン・スコセッシは、あんな結末を見せながらも、「救命士」全編に渡って、映画が終わった後で観客にフランクの復活を予想させるような撮り方は絶対にしていないと思う。
 だから感動を期待する観客にとっては、「なんなのこの映画」ってことになるのだと思う。
コマ落としで繋ぐ場面の表現技法の「新しさ」が旨く消化されていないような部分だとか、フランクがラリって町中で死者たちを助けてまわるシーンがディズニー映画見たいに見えてしまう事とかは割り引いても、やっぱりマーティン・スコセッシは人間の行く末について硬派な考えを持つ映画監督なのだ。
 76年のデ・ニーロ主演作『タクシードライバー』から99年の「救命士」までおおよそ四半世紀が経過したことになる。人も変われば街も変わる。「救命士」の冒頭では「1990年初期ニューヨーク」とはっきり時代設定を明記している。現在の救命に関わるシステムや人間に対する配慮もあるかも知れないが、観る者はやはりここにマーティン・スコセッシの思い入れを感じた方が良いのかも知れない。
 日本も暗いねぇ。これからどうなるんだろう?
「答えは簡単だ。もっと悪くなるのさ。変われるのは俺達の頭の中だけだ。」
 
 

アナザヘヴン

   

アナザヘヴン
監督:飯田譲治

  メディアミックスの中の映画アナザヘブンだと、「原作・映画化」といういつもの相関でこの映画にコメントを付けられないのでちょっと困った事になっている。
 だがこれは最近のすべての「表現」が、あらゆる分野・現象のクロスオーバーを背負っている事を考えると避けては通れない「把握」なのかも知れない。
 非常に優れた文字表現は「視覚世界」さえも飛び越えたイマジネーションの世界に私たちを誘ってくれるが、多くの場合、私たちは「文字だけを読んで」さえも映像の力を借りるのが常だ。
 すでにそれを見越したフレームがメディアミックスというものだろう。アナザヘブンのツトムは、既に江口洋介だし、飛鷹は既に原田芳雄なのである。
 そこで問題になるのは、表現者が主題とする「世界観」だけであろう。「カリスマ」等で黒沢清の提示する「世界観」は強靱で懐が深い。だがその深さ故に、彼の世界観はメディアミックスにはなじまない。それに比べてアナザヘブンはどうだろう。その作りは非常に平易で、スマートでさえすらある。しかしアナザヘブンはそこそこのメディアミックスとしての実績を叩き出している。これが現時点での、この国の平均的な文化が受け入れる文化レベルという事であろうか、、。
 「老若男女、誰もが歌える歌」が、果てしない細分化と個別化文化のなかで消滅してしまった今、まるで群体で一つの意志を持つようなメディアミックスの形式が生まれ、人々がそれを受け入れだしている事は注目すべきことに違いない。今はより大きな「アナザヘブン」を待ちたい所だ。

 なーんてね。でも近緒ミーハーは「柏原崇」だよ、やっぱりね。江口洋介と柏原崇が狭い車の中でやり合うシーンは、なかなか美味しかったよ。なーんか、ずっと前から思ってたんだけど柏原崇ってアレだね。ウン。イイよ。毒林檎みたいで。
 
 

ダンサー・イン・ザ・ダーク

   

ダンサー・イン・ザ・ダーク


監督:ラース・フォン・トリアー

 肉と骨を断つ「刃」は、獣になく人に用意されている。なぜなら人には自前の「牙」がないからである。ただし「刃」はそれだけの用向きにしか使えない。
 「音」を奏でられる訳ではなく、火を起こせる訳でもない。勿論食べる事などできはしない。ただ「断つ」のみである。第一、「刃」は危険である、、が、この道具に無縁でおれる人間もいない。ここに、この「刃」のような映画がある。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」である。
 私は、この映画のレビューを、映画を見る為の観測座標とする為に書いている。従って映画自体の内容に踏み込む積もりはまったくない。それに言い過ぎを覚悟して言えば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は人に勧められるような映画ではないと思っている。
 (ただし、近年これぐらいシュールな映画は見たことがないという事と、見ていて眩暈を起こしそうになった事だけは、この映画に興味を示した人の為に書きとめておきたい。 もっとも私の目眩の原因は、みなさんがおっしゃるようなカメラ視点のわざとらしいぶれの為ではない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は主人公の日常的な生活の描写と妄想を交互に撮り分けて展開していくのだが、私の「眩暈」は日常シーンから突然ミュージカル場面に転換する時のビョークの表情の落差から起こっている。特にビョークが監獄に収容されてからの転換場面を見ていると嘔吐しそうになった程だ。・・・この場面の「落差」は、はっきり言って監督の作為というか悪意を感じる。)
 先に「レビューを書くのは映画を見る為の観測座標とする為」と書いたが、この映画ほど他の観客に「どう受け入れられているのか」が気になる映画はなかった。少なくとも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は、観客に、容易な「好き」「嫌い」を出させないだけの「力」を持つ映画である事だけは確かだからだ。
 例えば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見て感動の余り泣いたという人がいるらしいのだが私にはその事が信じられない。この映画に見られる「愚かしさ」への苛立ちや、無垢である事の重鈍さ、切なさは、私にある種の感情の高まりをもたしたが、それは昂揚した歓喜にも、純粋さへの共感にも繋がらなかった。
 実は、この映画で語られる感覚や現実を我々は日常的に持っているのだと思う。裏切り・失意・思いこみ・他者との不整合、、あるいは現実から逃避していく為の人それぞれの場所。ただそれらがこれ程までには「愚かに」結晶化しないだけの話だ。それらをビョークを通じて結晶化させて我々に提示した事、故にこの作品は傑作なのである。ただし「刃」が「刃」以上でも以下でもないように、この映画にそれ以上の意味はなく「ただそこに」凶暴に転がっている傑作なのである。
 所で「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見てよぎる疑問のもう一つは、「良き感動」も、精神の浄化作用もない映画に「商品価値」はあるのだろうか?という事である。皮肉な事にあるんだろうね。それが人間の不思議さであり映画の不思議さなのだと思う。
 ギャスパー・ノエ監督の「カノン」もそんな映画の一つだ。(作りが単純なだけに退屈きわまりないが「ダンサー・イン・ザ・ダーク」よりはもっと見やすい。)
 近緒は時々こう思う。どこかの大学生が自主映画で作るような自己満足映画なら下手に旨く映画を撮らないでくれと、、。人間の精神の暗部から、人が眼を背けるのはそれなりの理由があるのだ。そんなものを敢えてもう一度見せてもらう必要はないのだと、、。
 しかし、やはり人は「それ」を見るのだろうね。「映画」として「文学」として、、。つくづく「表現」とは業が深いものだと思う、、、。 
 
 

チャーリーズ・エンジェル

   

チャーリーズ・エンジェル



監督:(McG

 近緒はファラ・フォーセット・メジャーズが大好きだったの。近緒みたいな人間は心の中に「好き→その人自身になりたい」というベクトルがあるのね。「女性が好き→女性になりたい」わけです。勿論、好みは日々変わるんだけど、、ファラを思い出したのは勿論、この「チャーリーズ・エンジェル」のせいです。
 チャーリーエンジェルで展開されるコスプレ世界や美的自己完結世界は私のベクトルに奇妙に反応するのね。主役の3人の彼女達って、「見てみてわたし綺麗でしょ。」ってなんの過不足もなくストレートに出せて、見てる方だってそれを楽しめちゃうんだから、羨ましい。「私綺麗でしょ。」をやると、自分で照れるか見ている方が「ふざけんな!」となるのが普通なんだけど、彼女たちにはそれが似合いすぎるほど似合う、このあたりがスターのスターたる由縁なんだね。
 この映画、「ストーリー、設定」皆、アホです。ただしそれを少しでも取り沙汰するのは大人げない。むしろ観客にそう思わせてしまった監督の手腕を素直に買いましょう。(第一、マトリックスのワイヤー手法ですらキャメロン・ディアスの長〜い脚を引き立てる為に使うという凄腕)
 見所、、なんと言っても全編を覆うフェチぽいコスプレショーですね。東洋風のマッサージ・パーラーの場面が出てきてルーシー・リューが素足で敵ボスの顔を踏みつけるんだけど、これってちゃんと一つのフェチジャンルとして成立している分野なんだから。その手の趣味の殿方は、この場面で可愛いジュニアが騒ぎ出してシートの中で右往左往したんじゃないかしら。それにルーシー・リューが上下のレザースーツに身を包んで完璧ドミナをやったシーンとかね。(彼女ってメル・ギブソン主演の「ペイバック」でもSM嬢パール役をやってたね。ルーシーにはそんなイメージがあるのかなぁ、、近緒は楽しいけど、、、彼女にとっては将来的にはマイナスだろうな。)なんだか全編、超メジャー成人雑誌の動くグラビアって感じの映画。三人三様のエロスがくすぐったくって楽しい映画でした。
 
 

アメリカン・ビューティー

   

アメリカン・ビューティー 


監督:サム・メンデス

"アメリカン・ビューティー"というタイトルは、主人公の妻役のアネッサ・ベニングが庭で育てている園芸用のバラの品種名だそうだ。又、現在二万種を超えるバラの品種がある中で"アメリカン・ビューティー"は容姿端麗だがアロマテラピー的な側面で見るとほとんど無価値な花だと言う。
 考えてみれば実に象徴的な映画タイトルを付けたものだと思う。「不思議な気分だった。20年間の昏睡状態から今やっと目が覚めた感じ。」から始まるレスター・バーナム(ケビン・スペイシー)の下半身優勢型の恋心から始まる家族崩壊の物語。
 一日の始まりを「今日は残りの人生の最初の日。」居直ってしまった時の「僕は普通の男だ。失うものがないだけだ。」のレスターの捨て台詞。この様な台詞に共感しないで済む中年男性は(アメリカに限らず日本でも)数少ないハズだ。
 自分が「平凡」だと思いたくない、思われたくないアンジェラ(ミーナ・スバーリ)のような青少年も、見渡す限りうんざりするほどこの国にも存在する。レスターの妻キャロリン(アネット・ベニング)が体現しているような、「絶対に他人の踏み台にはなりたくない、自律してリッチな女性でいたい」と熱望している女性も数多くいる。
 「不毛感、孤独感、閉塞感、、そういった状況が、絡まり合った時、どんな事が起こるか?」
それらの事をこの映画がどう料理しているかは多くの映画評が語っているので、Isawでは改めてそれを、取り上げる必要はないだろう。
 私が心強く惹かれたのは、ビデオフリークで麻薬の売人でもある青年リッキー(ウェス・ベントレー)の言動である。これはサム・メンデス監督が意識して配置した事だろうと思うが、おおよそ一般常識で言えば一番異常であるリッキーが、もっともまともで、この物語の「希望」となる存在になっている。
 特にリッキーと、レスターの娘のジェーン(ソーラ・バーチ)が二人で、リッキーが撮影した「風にゆっくり舞い踊る白いビニール袋」を見つめるシーンは秀逸である。
 又、それらを見るリッキーの「世界は美に溢れていて僕には何も怖いものはない。」という語りは詩的ですらある。このシーンが、この映画の最後にまるで「解答」であるかのように、もう一度、被さってくるのだが、、。
 この映画は、映画『ファイトクラブ』と、「出口」がよく似ている。(醸し出すティストもよく似ているが)
 "アメリカン・ビューティー"の評価においては、巷で言われているような「現代アメリカの社会的病理」だとか「家族崩壊」だとかの描写はあまり重要な問題ではないだろう。それだけを言えばオゾン監督の「ホームドラマ」の方がより「過激」だろうし、そういった作品は実に多くあるに違いない。要はそれらの作品が示す「出口」や「鍵」みたいなものが重要なのに違いない(映画の中身そのものも、それによって出来上がりが違うのだから)。
 そうだとすると、私は『ファイトクラブ』が提示する「原始的な暴力」や、"アメリカン・ビューティー"が微かにほのめかす、個人における禅的な(私にはキリスト教的なとしか思えないが)世界観が、現在の状況の「逃れ」の先にあるものだとはどうしても思えないのだが、、。
 
ps 本当に個人的な事。この映画でレスターが「現実」ならリッキーは「希望」。だったらリッキーの父親である退役軍人(クリス・クーパー)は一体何にあたるんだろう。、、「苦悩」なのかなぁ。近緒はこの人が一番可哀想なんだ、、、。 
 
 

ジェネックス・コップ

   

ジェネックス・コップ

監督・脚本
ペニー・チャン

 映画ってその国の在りようというか、勢いが反映するね。「特警新人類」!好感がもてる「勢い」を感じます。「奢り」や「倦み」がない文化は、深みが無くても心地よいものです。ただ日本も香港も文化がアメリカに引っ張られていくのは、どうかと思うけれど、その内、ジョン・ウー監督の才能のような、ズレというか狭間が、多く輩出され彼らが次世代の文化の主流になればと思います。所で、私は現在の香港アイドルスター達の事をほとんど知らない。だから「キムタクが出演している映画」というスローインで、この映画を見なくて済んでいる。そうした目でこの映画を見てみると、なかなかじゃないですかこの若手達。
 映画自体はそれほど新しい訳でも、人をうならせる捻りがあるわけでもない。敢えてあげるとすればチック症状の警部が出てきたり、日本人テロリスト(60年代じゃあるまいし、でも向こうでは日本人の割り当てとして違和感がないのかな。なんだか複雑な気分。)が目新しいキャラクター作りって所かな。で、中村トオルはなかなか良かった。私には「アブデカ」のずっこけ刑事の印象が強すぎて、彼がアクション系の映画に出るたび、どんなシリアスな演技をしてもアレがちらつくのだけど、今度のは最後までそれをしのいでいた。頬なんかげっそり痩けていて、眼差しにも影があり、下手すると和製トムクルーズみたくみえなくもなく、結構かっこよかったぞ。でも「赤虎」ってネーミングは、「日本人テロリスト」と同じで違和感あるよなぁ、、。グレースは私の好み、妹にして部屋の中に鎖でつないどきたい。あはあ、この映画、どこまでも観客をミーハー気分にさせてくれるね。それって結構凄いことだと思う。そんな映画もあっていいなぁ。
 
 

ギャラクシー・クエスト

   

ギャラクシー・クエスト


監督: ディーン・パリソット

よく出来た映画だと思うんだけどいまいち近緒の琴線に触れなかったので「選外!!」
・・・・「でもなぁ、、うぅ〜ん。」って思い直して書くのがこのレビュー。
 吃驚シガニーで1ポイント。Qちゃん型凶悪エイリアンで1ポイント。アラン・リックマンの「スポック」で1ポイント。トレッカー達への暖かい眼差しに1ポイント。同時に「映画」という虚構への愛着に1ポイント。
 「げげっ結構エエやんこの映画。」って感じですね。
 今も近緒がSFにどっぷりの人なら、この映画「通好みの1本」見たいな感じで推してたかも知れない。(トレッカー的な要素は、昔からないなぁ。だって私はハンパ者だもの)
 まず日本のSFを読まなくなったのは、椎名誠が「アド・バード」を書いたのを読んだときからかな、、。「面白いなぁ、、別にガチガチのSFじゃなくていいじゃん。」って思ったのがSF小説からの離脱の始まり。今はむしろ別のジャンルに分類される人が書くSFぽいものが好き。
 結局、それらの作品は、自分のかきたいものの設定としてSFが便利だったからそんな風に書いたって感じなんだけど、それの塩梅が近緒の場合、好きなのね。ずっとその方が実は「SF」なんだって。
 ちょうどこの映画はそれの「逆の逆」なんだ。なんだかテーマは「トレッカー」周辺にスポットを当ているように見えるけど、本当は違うんだよね。「エンターテインメント」ってこんなに素晴らしいんだよっていう賛歌じゃないかなぁ、、、最後に地球に帰還した5人がステージの上に立って観客にお礼するシーンみててそう思った。
 アメリカのトレッカーやSWファンシーンって層が分厚いから、こんな2重構造が十分に成り立つんだろうね。でも日本人にはその辺りの厚みがないから「これだけのキャストを揃えるのには勿体無いテーマ」って感じるのね。それで近緒としては、この映画にピンと来なかったわけ。
PS ネビュラ星人の動きはいいよう。その動きは「お前、俺をおちょくってんのか!!」って感じる面白さなんだけどね。時々、映画の中で彼らの蛸型の正体が出てくるんだけど、アレを人間体に置き換えたら、確かに「動き」はああなるよなぁと妙に感心させられたりもするしさぁ。
 このサーミアンたちの中で近緒が一番好きなのは「ラリアリ」。こんなに「怖可愛い」キャラは中々お目にかかれないと思うよ。でもそんな彼女と恋に落ちたチェン主任、あんた一体これからどうするの?
 
 

うずまき

   

うずまき
監督:Higuchinsky

 スバルかぁ、、。ホントに昭和中期ノスタルジーなんだ。確かにあの頃って学校に急いで行く時、あんな抜け道が町中に一杯あったよね。それにお巡りさんの制服、昔のほうがいいよね、らしくって。夕暮れ時のライトバンの八百屋さん。泣けちゃいますぅ。
 この年代の女の子が夜の9時でおネムなんですよ。でも、そんなものかなあ、この時代はねぇ、モラル的にも物理的にもねぇ、9時からは大人の時間だったんだから。

 所で「評価」が両極端に別れる映画ってありますよね。その中でも、作品としては成立しているけれど「好き嫌い」の部分で分離されるパターンと、作品とし.てかなり完成度低いけれど、「好き嫌い」の部分で受け入れられるパターンの二つがあると思うの。
 「うずまき」は間違いなく一番最後のパターンだね。これはもう「映画」の作法からずれているのもね。実験映画ですらない。でも私は「好き」。
 冒頭に書いたけれど昭和ノスタルジーに特別な思い入れがある人は、「うずまき」の第1章だけで充分満足じゃないのかなぁ。「あ、そうそう、あれあれ。」という感じでね。ドキュメンタリーで直にそれを見せられると又違うんだよね。「うずまき」っていう番外ホラー映画に出てくるからいいんで、、。
 その他、ヒトマイマイの見せ方も旨いし、目玉グルグルのCGもアホ〜って感じで、思わずにやけちゃうし。第4章の「輪廻の章」なんかはビジュアル的に大賛成。このパートだけループにして、エンドレスで見続けたらバッドトリップするかも、、。
 所が、今まで誉めた事を、全部一本の映画として繋げると「金返せ」構成になるのよねぇ、、これが、、不思議な映画ですわん。
(笙野頼子の「二百回忌」
Higuchinsky で撮ったら面白いだろうな。)
 結局「秀一
(フィーファン)君の舌足らずな鼻声、台詞棒読みがいいね。」って許容できるかどうか?これがこの映画を許せるかどうかの境目なんだろうなぁ。
PS 三輪明日美って子、ブギーポップでもそうだったけど「イイ」かも!!!
 
 
 

スペース・トラベラーズ

   

スペース・トラベラーズ

監督:本広克行

 『踊る大捜査線 THE MOVIE』。小泉今日子をレクター教授に見立てたりしてさ、「受け狙い」見え見えじゃんと思いながら、うーん、やっぱ面白かったと思わせる映画だった。これって、日本人のちょっと新しいもの好きで平均的な「面白い」をしっかり掴んで放さない本広克行監督の手腕なのかな。ひっかけの織田裕二の殉職シーン、なんでこんな薄っぺらい感情で泣くかな〜と思っても泣いちゃうんだから仕方がないなぁ。そんな本宏監督の2作目のスペース・トラベラーズ。
 映画の冒頭は、ちょっとだるい。若者達三人(金城武、安藤政信、池内博之)の車の中の会話が洒落てるように見えて、いまいち切れがない。
(タランティーノ監督の作品をみんなが観ているご時世なんだから、)みんな頼りなくて、ほんわかしてて、こんな若者たちがどうして強盗に入ろうとするのかが、どうにも腑に落ちない。孤児院だとかパラダイスだとか現代若者気質だとかあらゆるものを動員しても無理が多い。  まあそれはさておき、そんな彼らが銀行強盗に入った先で、「立て籠もり」状態になってしまってから、お定まりの人質達と「舞台演劇」の世界に填り込んでしまって、ここからがスペーストラベラーズの肝だなと思ったら、案の定、この映画の原作は、ジョビジョバというお笑い集団のオリジナル舞台劇なのだそうだ。
 「人質と犯人が共感しあって学園祭ノリの非日常を楽しむ為には、とんがった若者たちじゃ無理なんだろうな」と、ここで一応、前出の違和感を納得しては見たんだけれど、、。
 まあそんな目で見れば、「どんな親でも子供には親が必要なんだ。」といった金城の台詞も、本来そんな台詞など彼には絶対似合わないくせに、この映画の中では妙な説得力があるってもの。
 でも結局、この三人最後には「俺達に明日はない」風のエンドを迎えるんだけど、余りにも彼らが軽すぎて(悪人じゃなさすぎて)それでいいんかいと思ってしまう。だって彼らのノリなら「ごめんなさい」って謝って銀行の外に出向いて、結局撃たれちゃうほうが自然だもの。
 「それじゃぁ、格好悪すぎる。」で、ああいうカットシーンになるんだろうけどね。それに、ああ捻ったからこそ、見終わった後の感覚が、逆に「軽くて」済んでいるのかなとも思うんだけど、、。
 でも正直言ってこの映画、ちょと微妙な配合ミスが在るみたいで、こそばゆいというのがホントのところ。例えば、深津絵理のラストシーン、これも何処かで見たことあるパターンなんだけど「踊る」と共通する壷でね、やっぱり泣けた。だから、結局カーブを投げて、最後にこのミットに落とすんなら、もっとやり方があったろうにと思っちゃう訳。「お洒落」+「平均的な面白さ」だけじゃ駄目で、「もっと面白く」する牽引的な要素が映画の中に必要なんだろうなぁ、、。サムシング、、難しいねぇ。
 

 

スリーピー・ホロウ

   

スリーピー・ホロウ


監督:ティム・バートン

  ティム・バートンである。前作「マーズ・アタック!」から3年経過してるのかぁ。でもこの映画、入り方の仰々しさはバットマンの第1作目似かなぁ。ホント、彼の映画のファーストシーンの重厚そうなドキドキする感じがとってもいい(ドキドキワクワクが正式な言葉なんだろうけどティム・バートンの場合はワクワクのほうが全然明るくなくて、出来たら、怖そうで目を瞑っていたい感じがするんだけど、、それじゃ映画が観れないか、、)、、、あのカボチャのかかしどこかでみたような、、NYの市長にクリストファー・リーを出しちゃうか(今でも下から見上げるような角度で彼を撮ると一瞬ダブルね。吸われるんじゃないかと思う)、、。
 イカボッド・クレーンってあのイカボッド先生?ディズニーのマンガ映画であるのよねこれが。ストーリー構成は途中までまったく同じ(マンガのほうは確か学校の先生でひょろ長い神経質なお調子者で描かれていたと思う。これってちゃんとワシントン・アーヴィングって人の原作があるんだってね。)
 このイカボッド先生、いや違った捜査官をシザーハンドのジョニー・デップが演じるんだけど、彼「弱虫君」演技はホント天下一品って感じだね。
 映画の方はゴージャスでお耽美な映像満載で、ターミネーターみたいな首なし騎士(クリストファー・ウォーケン)のアクションと謎解きが骨組み。主役は、超自然に立ち向かう近代精神の持ち主だけど少し臆病な青年ジョニー・デップと、白魔術繋がりでどことなく彼の母親を連想させるクリスティーナ・リッチ扮する富豪の娘。
 テーマは善人の皮を被った狂人(あるいは悪か)。最後の決闘では「フランケンウィニー」のラストシーンのように風車小屋が燃え上がる。
 でも「シザーハンズ」のようにストーリー展開で感情が気持ちよく盛り上がる映画じゃない。どちらかというと、これはバットマン系列の「黒」趣味じゃないかな。
 ヴァン・タッセル夫人(ミランダ・リチャードソン)が不倫の最中に自らの手を切ってその血を男の背中になすりつけるシーンだとか、幼いイカボッドが発見してしまう「鋼鉄の処女で処刑された彼の母親」のイメージだとかね。
 本当はそれがテーマなんじゃないかな。「バットマン」でも幼い頃に両親を殺されたトラウマで、完全に暗黒面に引き寄せられて逃げられない人間を描いてたじゃない。我らがイカボッド先生も何処か拷問器具を連想させる秘密兵器や、研究ノートなど、に拘っているもんね。彼も最後には「シザーハンズ」みたいに恋人の為に結構頑張るには頑張るんだけど、、。

 “死人の木”が首なし騎士の休息場所であり、この世とあの世の境界線であるという設定ね。この死人の木に、首を取り戻した首なし騎士がヴァン・タッセル夫人を伴って戻っていく時に、彼女の手が最後、呑み込まれきれずに残るシーンがあるよね。
 その外の世界に突き出た手が痙攣するじゃない。常識的に考えたらこれは彼女は死にました、あるいは苦しんで死にました、という合図なんだろうけどね。
 その前に首なし騎士が、牙の生えた口でヴァン・タッセル夫人に血まみれの口づけをしてる伏線があって、そんな事から想像すると、この手首の震えは死に吸い込まれていく「快楽の痙攣」に見えなくもないわけ。 「マーズ・アタック」(火星人のアナーキズムちゅうか昆虫ぶりを悪趣味って思えるほどしつこく演出してた。)なんかを見てるとティム・バートンはこの映画でもなんかやってそうな感じがとってもするのね。近緒にとっては、その散りばめられた妖しい匂いに酔うのがとっても楽しいんだけど。
 
 

クリムゾン・リバー

   

クリムゾン・リバー



監督:マチュー・カソヴィッツ

  ジャン・レノってどう思う?。この人、日本じゃ結構人気高いのね。あの「レオン」が強力にアピールしたみたい。ジャン・レノって、もろに「私を、優しく強力に保護して欲しい。」っていう欲求を満たしてくれるキャラなのね。
 それにその保護の仕方だって変にギラギラしていないし、ちょっとお間抜けでお洒落とくれば女の子には言うことなしでしょう。
 でも近緒はレノっていう人はピンとこないのね。どちらかというと近緒、ヴァンサン・カッセルですね。それに「ドーベルマン」の彼より、こっちの彼の方が好きかな。
 ヴァンサン・カッセルって「ドーベルマン」の主人公みたいに劇画的でシリアスな役柄オンリィだと思ってたんだけど、コミカルな部分も出せるんだね。そういった意味で改めて見直したって感じかな。

 で映画の方なんだけど、こういう娯楽大作映画になるとフランス映画とアメリカ映画の気質というか体質の差がもろに出るみたいだね。
 「TAXI」だってそうだよね。アクション映画だって、やっぱり何処かフランスだなぁって思わせる部分があるのよね。変な、例えなんだけど、虫歯を治すのに痛んでいる所だけを削って「かぶせて」しまうのが普通の所を、アメリカ映画じゃ抜歯して代わりにダイヤモンドの義歯を埋め込んじゃう。フランス映画だと、なにげに金のかぶせをしてから、患者との無駄話を延々とやってるって感じ。
 でもこの作品、冒頭は「えっ!?フランス版(羊達の沈黙)を本気でやるつもりなの?」って感じで、思わず身構えたんだけどね。ヴァンサン・カッセルの派手なカンフーアクションが登場するあたりから「???」ってな具合で、結局、「何処かで見ました、美味しいシーン」のコラージュが、この映画の骨子である事が判ってくるわけね。
 この映画の原作はかなりしっかりしたミステリー(ジャン=クリストフ・グランジェ)らしくて、どこをどうすればこんな「継ぎ接ぎに」なるのか不思議と言えば不思議なのよね。
 まあジャン・レノ扮する二一マンス警視は氷河学者(ナディア・ファレ)にホの字になるんだけれど、特別その心の綾が深く描き込まれるわけでもないし、途中から合流するマックス(ヴァンサン・カッセル)警部との間に生まれている筈の連帯感の描写も、やけにあっさりしてるしね。
 まあ一応、最後になって辻褄あわせのように、警視の犬嫌いの訳を警部が尋ねる場面があったり、○○(ネタばれ防止伏せ字。見え見えだけど一応礼儀として)が、銃を発砲するのに躊躇したりはするんだけど。
 これだったらまだ織田裕二の「ホワイトアウト」と、小説版「ホワイトアウト」の関係の方が上等なんじゃないかな?

 「クリムゾン・リバー」の物足りなさは、監督の能力の問題もあるのかと思うけれど、やっぱりアメリカとフランスの違いじゃないかなぁ。何をドラマチックと感じるかの基本要素が違うんだと思う。例えば最近、台頭目覚ましい韓国映画もそうだよね。
 韓国映画の方が、日本のアクション映画よりずっとハリウッド映画の感覚に近いでしょ。つまり物事を享楽する為のレセプターは万国共有なのに、その「種」を探し当てる嗅覚や、それを作り上げるセンスは万国共通ではないという事なのね。

 ・・・これ以上、書くと文明論みたくなってきて自分自身が混乱するのでやめとくけど、まあこの映画、面白くない訳じゃないのでジャン・レノ、ヴァンサン・カッセル、ファンなら見て損はないと思いますよん。
 
 

インビジブル/Hollow Man

   

インビジブル/Hollow Man
監督:ポール・ヴァーホーベン

これは私の弟が、良かったと漏らしていた映画である。多分、弟はラバーに対する偏愛がきつ過ぎるから、ケビン・ベーコンが自分の透明さに形を与える為に被っているラバーマスクだけで、充分に彼の「お気に入り映画」になったのだろうと思う。私も映画の中に登場するフェテッシュな小道具類が大好きだけど、それだけで、一つの映画が気に入るワケじゃない。(と、いうか「インビジブル」の場合は、ポール・ヴァーホーベンという監督自体の問題なんだよね。)
 まあケビン・ベーコンの裸体はとっても私好みなんだけど、、(私の知っているスクリーン上の彼は「激流」のケビン、「ワイルドシングス」のケビン。みんな悪党なんだけど今度もだね。でもケビンは悪党やっても格好いいなぁ、、今回は、『こんな遊び人の天才科学者なんていないよ』程度だったけど。)彼がこの映画に出る必要は何処にあるのかなぁっと、つまりね、、ヴァーホーベン監督の映画に出ちゃうと、監督にドレッシングかけられて役者さんは本来の味が余計にきつく増幅されてギトギトに、、違うか。
 まあね、ヴァーホーベンはそんな気にさせる監督さんな訳。もっと言うなら「こんな人にお金を使わせちゃいけない」と思います。世の中には「妄想」を抱いてる人が一杯居て、更にその妄想を他人様には「変態」呼ばわりされるほんの一歩手前で「創作活動」とかいう名目で料理しちゃう人も結構沢山いるのよね。(私もその内の一人かな。)
 そんな人たちはきっとヴァーホーベン監督を羨ましく思ってるんじゃないかな。「俺にやらせろよな。俺ならもっと旨くやるぜ。どうしてアンタなんだよ〜」ってね。考えたら、ヴァーホーベンが監督でいられて、そこそこのヒットをとばせるのは、こんな観客の増幅転化されたオーラのお陰なんじゃないかな。
 だから逆算すると、ヴァーホーベン監督が「透明人間」を撮らない筈がなかった訳ね。「もし自分の存在が誰にもばれなかったら何をする」っていうのは「明日、世界が終わるとすれば」という「if」に並んでの欲望直撃テーマだものね。
 それが今の時代、ビジュアル的には完全に映画として「見せる」事が出来るんだから、、、。こんな変態監督が「透明人間」をほっておくわけがない。  ある意味、こんな人がいるから映画技術が進歩するんだろうなぁ、、この映画見てつくづく思ったよ。
 でもこの監督、それだけの技術バックを動員出来る位置にいながら、透明化のオン・オフ注射液の色を毒々しい「赤」と「青」という実に判りやすい色分けにさせるんだよね。この手の映画監督として、さすがというのか、あくどいというのか、呆れたというのか、、、。ねぇ、、。
PS エリザベス・シューの女科学者が良かったね。最後は又、リプリー路線かって思ったけど、それでも良かった。彼女の顔って淫乱顔っていうよりどちらかというと理知的で芯のある優しげな顔なんだけど、結構シーンとしては「積極的に好き者」場面が多くて、そのバランスがなかなかにグッドですのよん。彼女のレザーコートとかも近緒の好みのファッションだったし、、ちょっと彼女のファンになったかも。
 
 

The Gift - ザ・ギフト -

   

The Gift - ザ・ギフト -



監督: サム・レイミ

「シンプル・プラン」でのサム・レイミの変容ぶりに惹かれて、しかも今度のテーマが古巣のホラーミステリー、興味津々で本作品を見る。そして映画を見終わっての感想は、どんな映画評にも書かれているんだろうけど、女優ケイト・ブランシェットの存在感につきる。「ザ・ギフト」つまり霊感・霊能を神様から贈られた「贈り物」とする意味が、この映画の一番のテーマなんだろうけど、テーマ成立にはケイト・ブランシェットの存在が絶大。
超能力テーマの2台要素は、人間にとってのその能力の「存在理由」と「位置づけ」だろうと思うのね。
 そして「位置づけ」は能力の「使い方」と裏表の関係にある訳。多くの超能力・霊能テーマではその力を持ってしまったが故に、主人公達が悩み傷つくんだけど、この「ザ・ギフト」は珍しく、霊能を肯定的に捉えている。勿論、主人公は自分の夫の死を予見しながらもその運命を変えられなかった事や、自分を慕う精神に障害を持つ自動車整備工バディを見捨ててしまったのではないかと煩悶したりで、脳天気に霊力を受け入れている訳でもないのだが、、。そこをケイト・ブランシェットが演じる3人の子持ちの寡婦アニーなら、彼女の素の生き方の中で、この厄介な霊能を神様から贈られた「贈り物」として使うだろうと思わせてくれるのである。
 この寡婦アニー(ケイト・ブランシェット)の存在感を、脇で強く浮き出させてくれるのがバディ(ジョヴァンニ・リビシ)だ。幼児虐待のトラウマを克服出来ないバディが唯一の理解者としてアニーを崇拝し、死して尚、彼女を守ろうとする辺りが、霊能を「ギフト」として捉えたこの映画所以なのだろう。しかしこのような「白馬の王子様」が登場したのは映画史上始めての事ではないだろうか、、。
 そして最後のラストシーン。思わず目頭が熱くなって、自分が「ホラーミステリー映画」を見たことを忘れてしまう。なによりもケイト・ブランシェットの存在感がそうさせるのだが、「シンプル・プラン」以降のサム・レイミ監督の抑えたストレートな映画作りも大きくものを言っていると思う。
PS キアヌ・リーヴスはどうでもいいんだけど「ボーイズ・ドント・クライ」のヒラリー・スワンクは配役として可愛そう。あの人物設定ならヒラリー・スワンクでなけりゃっていうくらいのキャストにしてあげて欲しかった、、。
 PSのPS
 この映画を見てから黒沢清監督の「降霊」を凄く思い出した。「降霊」の雪吹ジュンと「ザ・ギフト」のアニーは、ホントに裏表の関係にあるんだなって、、、。