書籍の部2

 

キャシー・コージャ

 

「虚ろな穴」

(キャシー・コージャ)
 

黒田よし江訳 ハヤカワ文庫

 原題はTHE CIPHER。辞書で引くとゼロ、ゼロの記号、「つまらぬ人」の意もあるとか。始め読み進めた頃には、これはホラーかなと思いつつ、次第に展開が深まる中でSFマインドが濃くなり、しかしコレは形を変えたラブロマンスなのかと、、。でもどちらにしてもこれは拾いモノでした。
 主人公が、冷たい恋人とビデオ撮影した「虚ろな穴」の中の映像。これが、様々ないびつな人間を呼び寄せ、物語が渾然となってゆくのですが、このビデオ、もしあるのなら本当に見てみたいと思わせるもの。なんというかビザール感覚溢れるもので、とても想像力を刺激させられます。
 それにこの小説、普通だったらかなり、文章でぼやかして済ませられるヴィジアルの部分をかなり書き込んでいる。おそらく作者の実際のイマジネーションで浮かび上がる部分を、文章で定着してあるのでしょうが、これがまたキュート!

 現代人の心の虚空が、地獄の穴となり、地獄のゲートととは、自分自身の虚無に他ならないというあたり、よくある設定でもあるのだろうけど、身につまされるといえば身につまされるテーマですね。

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キム・ニューマン

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「ドラキュラ戦記」

(キム・ニューマン)

梶本靖子訳 創元推理文庫

吸血鬼の飛行戦隊のスタイルが素敵

これってボンデージ・ドラキュラ?

私が好んで読んでいる雑誌のコラムなどに、この「ドラキュラ戦記」が頻繁に登場してくるので、いわば興味半分で読み始めたというのが正直な所。私は、戦記ものも、吸血鬼ものもあまり興味がないので、この二つがドッキングした作品が面白く読めるかどうか?予想通り最初の数ページは「、、、、。」って感じでしたが、吸血鬼の前衛ダンサー?イゾルデがバンパイアの恐るべき自己修復能力を生かした生皮のストリップダンスを疲労する描写あたりから、俄然、面白みが出てきたんです。「ドラキュラ戦記」に限らず最近の小説は、ヴィジュアル面がすごく達者で、下手なSFXを使った特撮映画よりぐっと視覚に訴えてくるものが多いようですが、この小説も、通常の人間形態からの怪物への変身の過程描写がすごく旨い。このイゾルデが、自分のバンパイヤとしての鋭利な爪を利用しながら、自身の生皮をはぎ取っていくシーンであるとか、ドイツ軍の飛行部隊が、自ら巨大な蝙蝠に変身するあたりであるとかは、まさに「見てきた」ような描写になっている。これは私の趣味でもあるけれど、ドイツの殺人飛行部隊の美しい青年隊長が、強大な蝙蝠に変身し、その身体を曲がらない一本の機体にするために、膝上までのブーツを二本とも固定したり、脊椎が曲がらない為のハーネスを装着したり、。これはもう、ボンデージ趣味のドラキュラだなって妙な部分で興奮してるんです。私は以外と小説は、こんな末端の表現にその本質や生身の作家の顔があるんじゃないかと思っているんです。             

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大沢在昌

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新宿鮫 無間人形

大沢在昌の楽しみ

気がつくとその作家の実に多くの作品を読んでいる場合がある。評判通りにとんでもなく面白い。何冊か読み漁って、満腹して暫く距離を開ける。そして偶然にまたその作家の作品を読んで、又も、没入してしまう。私にはそんな作家が二人いる。クーンツと大沢在昌。惚れた作家は花村萬月だけど、彼の作品は私にとってあまりにもリアル過ぎて、大沢在昌にはなれない。(その内、根性入れて、私のお気に入りの「ブルース」の紹介をするつもりだけど、、。)萬月には涙を流すけれどそれは在昌のカタルシスではない。それに「そうなんだよな。」と相づちは打てない。涙で思い出したけどクーンツや在昌の作品を読んで泣いてしまうのは私だけだろうか。「手に汗握る」とか「ハラハラドキドキ」なんて陳腐な言い回しだけど、私にとっての在昌は正にそんな存在。           新宿鮫、無間人形を読んで。

 

T・J・マクレガー

 


T・J・マクレガー 

古賀弥生訳

創元推理文庫

ジャンル分けがあまり意味をなさない現在でも、どうしても私は自分が今、「何を読んでいるのか」に拘ってしまう。「繭」は特にそれが強かった。ホラーなのかしらSFなのかしら。でもT・J・マクレガー、この作家の名前は覚えておいて損はないだろうと思った。書評によると「繭」はグロテスクで恐ろしい物語なのだそうだ。が、私には官能的な作品だった。特に本編のサブキャラクターである少女が特異な嗅覚による知覚能力を持っており、そのあたりの描写は、並の性描写よりもセクシャルなように思えた。これからは「繭」のようなジャンルに捕らわれない、今までの書籍・映像メディア上に乗っかった作者の「お気に入り」の総大成のような作品がこれからどんどん現れてくるのだろう。このアンプラグで発表している私の作品にしてもそうだし、おおよそインターネット上で展開されるSF関連の個人作品はその傾向があるのではないだろうか?

 

津原泰水

 

蘆屋家の崩壊

集英社 

怪奇幻想短編集文庫


妖都

講談社

 蘆屋家の崩壊

筒井康隆に少し味が似てる、、。そう、スプラッタじゃないほうの筒井康隆。でも、この人、表現が凄い、、。ため息がでちゃう。皆さん、凄い人が世の中にはいるんですね。読みましょう津原泰水。この人の名前、覚えておいて絶対損はないよ。


妖都

 耽美、、。そのような言葉で言い表して良いのだろうか?物語の筋立て自体はさして独創的と思えるものではない。確かに表現は桁違いに凄い。だからといって津原の世界を成立させるのは言葉の技巧だけではない。まさに感性の領域にある何かが津原の世界を津原たらしめるのだろう。それが少女小説で培われたものだとするなら、羨ましい限りだ。しかし決してそうではあるまい。、、、ボルゾイ犬の異様に対して、登場人物の女性に欲情を感じさせるあたりが津原をならしめているような気がする。

 

佐藤亜有子

 

ボディ・レンタル 

佐藤亜有子

河出文庫



 ハードカバーで挫折して、文庫本でやっと読み終えた作品である。何故、そうだったかと言うと「面白く」なかったからであり、なぜ無理にでも読み上げたかというと「ボディ・レンタル」
というテーマが私にとって重要だったからである。作品中、ハンス・ベルメールの関節人形に記述が及ぶ部分がある。「ものすごい執着と醜悪なまでの欲望と猥雑さの産物でありながら、ごろんとそこに転がっている。」これについてはまったく私も同じ感覚をあの人形に抱いている。それと同時に、この感覚は全てのフェテッシュに通底するものではないだろうか。

 なにものでもあり得ない存在になりおおせたいという欲望は、あまりに「抱えすぎる」者が抱く生理なのだと思う。
 
 

花村萬月

 

笑う山崎

花村萬月
  祥伝社文庫
 

 とうとう萬月を読んでしまった。私は萬月を読むと途方もなく疲れる。だから読みたいのに避けて通って来た。初めて読んだのが「ブルース」で、それで私は、、。

 「笑う山崎」はまだましだった。「笑う山崎」の山崎は「ブルース」の日本刀の男の横顔だろうと、そんな予感がしていたが、、。でも山崎はまだ「判りやすい」男だった。それは萬月が男の憧れを少しばかり山崎に塗り込めたからかも知れない。でも萬月は山崎のような男達の姿の「仕掛け」でどこまで物語を編み込み続けられるのだろう。私には判らない。

 私には、人間には「深さ」だけではなく「高さ」も許されていると信じる部分がある。萬月の男達は人の生の深みの底で浄化していくような仕草を見せるけれど、「高さ」を許されない世界ではそれは虚偽でしかない気がする、、。まあ、いいか。元気がある時にまた萬月を読もう。それとも泥酔したいような気分の時に読むのがいいか、、。
 

ケント・アンダースン

 

ナイト・ドッグズ

ケント・アンダースン
  ハヤカワ文庫

 訳 菊池よしみ

 今ある世界を忘れない為に

 私の本棚には随分昔から、ナイト・ドッグズの文庫本、上下巻2冊が保管されている。保管と書いたのは、まさにその目的のままである。読み返したくて、おいてあるわけではない。おそらくこの作品を何度も読み返せる人間はあまりいない筈だ。特にストーリーといったストーリーもなく、あるのは只、一人の心の傷を背負ったパトロール警官の目の前に展開される、凄惨な街の日常だけである。 

 私は、今、私が属している世界が、この世界である事を忘れないためにナイト・ドッグズを手元に置いている。汚濁の中で貫けるささやかな「正義」は、もう一個人の拘りでしかない。それでも「拘り続ける」男達がいる事を忘れない為に、私はこの本を本棚に保管している。そして汚濁した世界を愛し続ける為にも、、。

 

筒井康隆

 

邪眼鳥

筒井康隆
 
新潮文庫

 久しぶりに筒井康隆を読んだ。若い頃は、筒井康隆氏の「毒」と「破壊と錯乱」に酔うため、貪るように作品を読んだものだ。氏の作品は変わってはいなかったが、、、、時代の流れは、それぞれの個人にある。リズムが微妙にずれだしている。私のリズムの方が少し、今の軽薄な時代にやや近いかも知れない。

 でも、「文章」の内在する力を再び、思い知らされた作品でもある。これならまだまだ、イマジネーションを喚起し、再構成させる仕組みとしての「文章」は、「映像」に負けないだろうと思わせる。文章を読ませてこれだけの目眩を起こさせる作家が実際にいるのだから。

 でも、当てつけがましく「差別用語」を使う必要が、今の筒井康隆氏にあるのか?それは不思議だけれど、、。氏の「破壊」は円熟の境地にあるはず、、。
 
 

牧野 修

 

リアルヘブンへようこそ

牧野 修
 
廣済堂出版 

異形偉業招待席

 アンプラで取り上げるには遅すぎた作家です。牧野さんの作品は随分昔から読んでいます。いや、「感じています。」といった方が適切ですね。取り上げれなかったのは、私と感受性が余りにも近すぎるからといったら牧野さんに叱られるでしょうか。下に本編からの一部を抜粋させて頂きました。 

 その中でもひときわ大きな落書きはブルーの油性ペンで描かれたものだった。それは、少女漫画風の顔をして自衛官の制服を着た二人の男がズポンを下ろしてセックスしている絵で、エジブトの壁画のように身体は横を向き顔は正面を向いていた。上に被さった男は下の男の首を絞め、下の男の腹からは内臓らしきものがこばれ落ちていた。その横に同じ青いペンで文宇が書かれてある。『オレは性伝換してつらかった、痛かったけど、女になって一〇〇〇万貯めて男とやりまくって楽しい暮らしをしているぞ。頭は使いようだ。ざまあみろ』その横に矢印があって「でも死んじまったら元も子もないよな、糞オカマ』と黒のペンで言かれてある。

牧野さんの作家としての才能にほんの少し嫉妬しています。

 

しりあがり寿

 

真夜中の弥次さん

喜多さん

しりあがり寿

マガジンハウス 



 私はトリップ経験がほとんどない。(全身麻酔の体験は2、3回あるが、、。無の中に墜ちていくのは凄く単純な感覚で、死ぬときもこんなだとすると何だか味気ない。)漫画でトリップしたのははじめてだった。 もう記憶が定かではないが、確か弥次さんと喜多さんの肉体が融合してしまう場面を、何処かの書店で読んだのだと思う。その時、私は切なくて甘い気分に浸りながら薄暮れの迷路で遊んだ。

 その後、この本を上下巻とも購入した。2度目はそれ程強いトリップはしなかった。全部を読み通すと、結構、しりあがりの世界観がしっかりしていて、それが私の幻想世界の視界の鮮度を低下させたのかも知れない。それでも出色のできばえだと思う。この2冊の本は私の家の何処かに眠っているだろう。だが探そうとは思わない。2度読む必要はないのだ。一度、開かれた幻想は、時間の経過と共に霧のように薄れてしまうが、決してなくなる訳ではない。それらは自分の血となって細胞の中にとけ込んでいく。
 
 

ジェイムス・エルロイ

 

キラー・オン・ザ・ロード

ジェイムス・エルロイ

扶桑社ミステリー

小林宏明(訳)

いまさらエルロイされどエルロイ

 都会の中をとても硬質な影が通過してゆく。後に残るのは死骸だけだ。その死に至る道筋の動機に、「人間関係」はない。己のエゴの脈動と変容に、殺害されるべき他人が触れた。ただ、それだけだ。この物語に学ぶことなどなにもない。あるとすれば震えて錠を買うぐらいか、、。しかしこの物語から目を背けられないのは何故だ?

 

宮部みゆき

 

火車

宮部みゆき

新潮文庫

 遅ればせながら「宮部みゆき」を読みました。私、今、「旬の作家」には近づかないというへそ曲がりなもので、(と言ってあんまり遅いのも、もしその作家が同時代に拘っている場合は、読む醍醐味が減少してしまうし微妙ですねこのタイミングは、、)遠回りしながらようやく文庫本を手にとったという次第です。最近、サイコ系のものばかり読み耽っていたので、これにはホッとさせられました。(ミステリーでホッとしていてはいけませんね。それに初めての読者がおられるなら勘違いされますか、、。火車はゆるーい小説ではありません。)ホッとさせられるのは、作者の人間への視線が基本的に温かいからでしょう。
 それに女性の視線が作品の中にかなり色濃く反映していると思います。私は、ある意味で完全に女性・男性の区別に拘らない人間ですが、性差そのものを否定している訳ではありません。 ですから女性の目でしか感じ取る事の出来ない日常や同性への感覚を宮部みゆきが実に作品中に塩梅よく配置してる事に賛意を送りますし羨ましいと思います。
 まあ話は火車に戻しましょう。私にとってこの話は「愚かさと賢さ」の闘いの物語だと思うのです。主人公である休職中の刑事はその語り部であって人間の中にある愚かさと賢さを代表する人物と行為を私たちに見せていってくれる。でも宮部みゆきのやさしさの根元は、愚かさの位置づけを賢さのすぐとなりにおいて、一つのものにまとめて見ることでしょうね。、、それに宮部みゆきのエンターティメントとして最も良質な部分は登場する「女性」が皆、魅力的だという事かな。
 、、とにかく表現の世界では今女性の力が圧倒的に台頭しています。暫く、彼女たちの仕事を存分に楽しんでいきたいと思います。

 

スティーブン・ハンター 

 

ブラック・ライト

スティーブン・ハンター

公手成幸 訳
   扶桑社ミステリー

 ボブ・リー・スワガーを主人公とした4部作の内、3作目の作品である。
多くの書評に「作品発表順で読むべし」とあり、今回、それに従った事が「読む楽しみ」の上で実に有益であったと思う。「ダーティ・ホワイト・・」がこんな形で引き継がれるとは思いもよらず、ただただスティーブン・ハンターの手腕に驚かされるばかりである。私のような個人HPを細々と表現手段にしている人間には「ねたばれ」を配慮した書評なんぞを書かねばならない義理は誰にもないのだが、こればっかりは皆さんの「お楽しみ」の為に、一般的な常識を守ろうと思う。
 その代わりと言ってはなんだが、私が深く感銘を受けたせりふを一行抜き出してみよう。
「でも彼は、ものごとはすべて結果を伴うことを理解していて、平然とその結果に対峙し、それが導くものに従った。」
 その他「極小部を再構成する事によって、総体について非常に多くを学ぶことができるでしょ。」というせりふ。これは本書自身の構成をある意味で旨く言い表したものではないだろうか。その総体とは、親子の関係であったり古い世代(社会)・新しい世代(社会)の関係や対立でもある。
 そして本書のタイトルである「ブラックライト」。スティーブン・ハンターのブラックライトは一体、我々の何を照らし出すのであろうか?

 

小野不由美

 

東京異聞
小野不由美

新潮文庫

 「闇御前」に「火炎魔人」。楽しませてもらいました。耽美です、官能です。でも、ちょっと謎解きは引っ張りすぎかな。それに動機も辻褄が、、いっそ今流行の快楽殺人のほうがしっくりくる。まあいいじゃないですか。このコーナーは私の感性に引っかかった作品を取り上げる為にあるので、別に批判コラムじゃないんだから。個人的には前半の耽美・官能が大好きだし、巻末の数ページの(挿し木したような感じだけど)水都のイメージが好き。でもこの時代の東京は小説のネタになりやすいんだね。どうしてかな?時代が根こそぎ変化して古いものと新しいものがせめぎ合って、ノスタルジーやロマンみたいなものを感じやすいからだろうか?それともここに現代日本人の原風景があるのかな?2000年って時期もそれに相当するのかしら。勿論、来るべき未来は何も見えないんだけれど、確実に時代は変化(衰退)してるし共通点があるんだろうね。  
 

馳 星周

 

虚の王
馳 星周 

光文社 kappanovels

 昔、本読みや絵描きがやくざな楽しみだったことがある。
「そんなことばかりしてちゃ不良になるよ。」と言った類の言葉を、いかにも堅実で堅牢な人生を送る人々から投げかけられたものである。
 それがいつの間にか、これらの行為自体がある種の「教養」に繋がりはじめた。その理由として、世の中が「豊か」に、あるいは「脆弱に」なった事が挙げられるのか、あるいは小説や絵自体が持つ「破滅」の味が薄くなったからなのか、、、私には判らない。
 しかし私は「虚の王」を読んで久しぶりに「本ばかり読んでいるからお前はそんな風になったんだ。」そう言われた事を思い出した。馳の小説を読み通すには「力」がいる。花村満月もそうだ。読み終わってから感激があるわけではない。勿論、何かを得たという錯覚もない。むしろ失ったような気さえする。なぜ、そんなものに金を支払って時間を割り割いて文章を読むのか、、。それは私の場合、ある種のものに目をそらせる事が出来ないからだ。例えばひき殺されて道路に転がる小動物の死体、、。
 隆弘・栄司・希生・潤子、4人それぞれがパートナーを変えながら「破滅」を踊る。否、彼らは元から虚ろなのだから「破滅」とは言わないのかも知れないが、、。
 馳 星周 「不夜城」から少し印象が変わっている。新宿と渋谷の違い。不変の「暗黒」と見えない世代の「暗黒」。短編集のMを束ねると「虚の王」になるのかも知れない。しかし「不夜城」の圧倒的なリアリティに比較して、やくざの小野が栄司にバァイヴを、ケツの穴に突っ込まれそうになるだけで泣きを入れる描写は、かなりご都合主義のように思えた、、。たとえ小野に栄司の不気味さが伝わったと勘定しても、小野の恐怖には無理がある。
 潤子のレズビアンも潤子の家庭環境や、彼女が母親から受けたトラウマと関連づけるのも無理が多い。とにかく淳子というキャラクターの「歪み」自体が不自然だ。隆弘が結局、ホモである自分を認められない事が、彼の破壊行動につながっているという自己分析も、、。
 第一、ホモセクシュアルに背景は必要ない筈だ。
 ただ、それらの事を差し引いても馳は「虚の王」をかなり捉える事に成功しているかも知れない。「虚ろの王」は、時に甘く(そう隆弘が栄司から受けたフェラチオのように、)我々に接し、そして確実に我々を滅ぼす。
 また「虚の王」は、(そう。孝弘が彼のみが成しえる、「彼の殺人」を、栄治が深いディープキスで奪ったように)私たちの原初の破壊のエネルギーさえそぎ落とし、全てを王のものとする。
 物語では隆宏は死に、栄治は生き残る。私が知りたいのは隆宏の「死」が、その苦痛故に甘美であったかどうかだ。
 
 

中島らも

 

水に似た感情

中島らも 集英社文庫

 中島らもの「ガダラの豚」を昔、熱狂的に読んだ記憶がある。「ガダラの豚」がミステリーやホラーとしてどう位置付けられるのかは知らないが、私自身は、「ガダラの豚」は相当に高純度なエンターティメント小説だと思っている。(読んだ時期がこのHPを開設した後なら当然、このコーナーに取り上げている。)
 「ガダラの豚」は、文句無しに冒険小説として読んでも、あるいは文化文明論小説としても面白い。ただ「ガダラの豚」を読んでいる間は、不思議な事に常に「不安感」というかある種の精神の「毒」が、私の意識を苛んでいた記憶がある。その原因が「水に似た感情」を読んで理解できたような気がした。
 「ガダラの豚」の場合、人間が破滅に向かって一気に崩壊していく展開なのかと思いながら読み進めていくと、ぎりぎりの所でそれらは主人公たちの意外に強い精神力によって回避され、読み手がホッと胸をなぜおろすのだが、、。それは作者が企んだ見せかけであって、「ガダラの豚」の裏側に畳み込まれた本当の物語は、どこか別の次元で一気に救いがたい破滅に向かって驀進しているような気を常に起こさせるのである。
 中島らもの作品の本質はそこにあるのかも知れない。
「水に似た感情」の場合、主人公モンクの躁鬱と絡めて、バリの不思議が、個人と世界のつながりを暗示しつつ展開し奇妙な味わいを感じさせる。「島」の話はユングの理論を思い出させる。文庫の概略紹介にはこの小説が「癒し系」の物語のように書いてあるが、私にはとてもそうは思えない、、、。奇妙に透明で穏やかな平坦な流れる感情は、「何か」の「直前」に訪れるものだからだ。
「ガダラの豚」が神経症のスーパーエンターティメント小説だとすると、「水に似た感情」は神経症紀行エッセイという所なのだろうか、、。私はこれを読んで一気にバリ島に行きたくなった。
 

林 巧

 

アジアン・ゴースト・ロード
亜州魔鬼行

 林 巧 
角川ホラー文庫

ちょっと中島らもの「ガラダの豚」を思い出した。別名「深夜特急」の妖怪歎とでもいおうか。結構こういった趣向・構成の話はあるに違いないが、ここまで作者の意図が前面に出るのも珍しいし、その事がかえって爽快である。
 ただ、主人公の鬼沢に対してラムチョップが何の為に登場したのかとか、鬼沢が最後の時点で己の運命をどう咀嚼したのかとか、考えていくと穴があるような気がする作品ではあるが(それに申し訳ないがちっとも怖くない。)それでも面白いと思う。
 その面白さは、旅行ガイドブック等を開いてあれやこれやと想像を見巡らせる楽しみに似ている。これにミステリアスな妖怪や呪術などが絡んでくるのだから、その手の読み物が好きな人には堪えられないだろうと思う。実際に作者は旅の達人のようで、そこに行った者でしか伝える事が出来ない「空気の揺らぎ」のようなものを随分旨く効果的に文章に織り込んでいる。例えば「台北の萬華」の表現などは、行った者、あるいは行ってそう感じ取れる者でしか書けない文章だ。近緒はらもさんの「水のような感情」でバリに生きたくなり、今度はこの作品で「萬華」に行きたくなっちゃた。身体が弱いのに物欲ならぬ旅欲が刺激されて困っちゃうのだ。これが「本」を読む楽しみの一つなのだけれど、、。 
 

ジェフリー・ディーヴァー

 

ジェフリー・ディーヴァー
悪魔の涙

土屋 晃訳 
文春文庫

 現時点(2001・3・)ではディーヴァーの最新作。映画「クレーマー・クレーマー」を彷彿とさせる味付けはしてあるものの、ライムシリーズと組立が似てて近緒はちょっとだけ嫌。でも嫌という事と、面白さとは違うので未読の方はご安心を。相変わらず主人公達はやたら頭がいいし、自らの逆境をスタイリッシュ(変な表現だけどそうとしか言えない)に生きてる。それにあの名物どんでんがえしも健在だし。ただし今回のはちょっと無理が多いと思うのは私だけかしら。ディーヴァーもこのどんでん返しを書いた時は「あらよっ」って感じじゃなかったかしら。ああそれと3作を続けて読んでいるとやはり思うのは、多くの男性読者は、ストーリーテーリング以上に、ディーヴァーが描くヒロイン達に惹きつけられているのではないかという事。「悪魔の涙」では主人公の元妻の描写があって、「何故」ヒロインのルーカスなのか、がより対比的に描かれている。でもあれだなぁ、、サックスにしてもマーガレット・ルーカスにしても、彼女たちって「女性」というよりも「男性」のジェンダーからの蒸留酒みたいな存在なんだよね。そのあたりがディーヴァーの「仕掛け」なのかな。
 

フィリップ・ナットマン 

 

ウェットワーク
フィリップ・ナットマン 

三川基好訳 文春文庫

 サラセン彗星のエメラルドグリーンの光が地上を染める時、その物語は始まった。素敵ですね。「ゾンビもの」のどう転んでも破滅しかないという設定。閉じられた結論に向かって、それでも人々は進まざるを得ない。その悲しみや悲痛さが、良いのですよね。古代の人々が彗星に見て取ったという、はねられた首と長剣のイメージ、何かの押し絵で見た記憶があります。 この超自然の現象を、ゾンビ現象発現のきっかけに据えたのはジョージ・A・ロメロ監督のお手柄であると同時に、必然だったような気がします。
 え?小説の方に話が進まないって?ウェットワークって書評が必要なのかしら、、。「ゾンビ」が小説で読めたらいいね。ってこと。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、全く映画と同じって訳には行かないから、ポリス物によくあるトークや、東洋趣味の破壊工作員が登場したりするんだけど、まるで下手なコラージュみたいであまり意味をなさないんですよね。でもこれがないと、この小説、延々と殺戮シーンを描写するだけになるから仕方ないのかな。でも許せるよこれ。「ゾンビ」の設定そのものが好きな人にお勧めです。
 

上遠野浩平 

 

殺竜事件
上遠野浩平 

講談社ノベルス

「ブギーポップシリーズ」という本、若い人たちに厚い支持を得ているそうである。(近緒はブギーポップを読んだことがないし、これからも読まないような気がする。本と出会うのだって「縁」だから、、。)本作「殺竜事件」は、その作者上遠野浩平が初めて書いた別タイトルの中編という事で、暫く各種の書評を賑わせていたような記憶がある。作家そのものを知っておきたいという気持ちと、「竜殺し」という新機軸のミステリィに興味を持って本書を手にしたのだが、、。
 まあライトティストというか、低タール低ニコチンのたばこを吸ったあとみたいな読後感ですね。いくら軽くしても「たばこ」は「たばこ」。そして軽くすればするほど気軽にすえる人間はふえるが、、たばこの本質からは遠ざかっていく。
 それが「今」の時代に迎え入れられる要素なのかとも思うけれど近緒という人間にはそれはどうでもよいこと。
 と、まあこれが読後感に関することかな。別段「殺竜事件」を非難している訳ではない、気軽に読めるっていう事は大切な要素でもあると思うし。
 それとこの作品を特徴付けている、空想世界を「すでにあるもの」として書ききる度胸も特筆ものかな。
 従来のファンタジーの書き手は、リアリティを付加する為にどうしても「説明」をしたくなるのだけれども、この作品を読んでいると、そういった作業がないように思える。それはイマジネーション部分は「あんたらおたくなんだから大丈夫だよね。」って感じで読者に任せたという度胸、(任せられるような仕掛けが文章中にあるとは思えないけれど。)なんでしょうね。
 「砂漠」と書いては見るが、その砂漠は「砂だらけ」なのか、それとも「岩がゴロゴロしている」砂漠のイメージなのかまでの描写はしない、、、その代わりに、雰囲気だけが漂う「会話」を延々と続けていく。登場人物の人間関係だってそうだ。なんとなくお互い同士を、掴んでいるけれどお互いの深部まではタッチしない。相手の事をわかっていないふりをしながら実は深いところで繋がっていると思っているのに、いざとなると、その繋がりに確証がもてなくなる。
 このあたりが「時代」の気分なんだろうか。はっきり言って近緒はそんな「読」空間は好きになれないのだけれど。
 それと竜のこと、この作品の中で唯一造形が深そうに見えるのは「竜」なんだけれど、この「殺された竜」の思いはなんだか最近見た映画のラストシーンによく似てる。
 超越存在からみれば、たかが数十年の寿命しかもたず、その運命も先読み出来てしまう生き物の「可能性」を、己の長すぎた苦渋ゆえに大切にしてやるというテーマ(映画のブレランもそうだ。)ね。アレ?題名が思い出せない、、その映画それほどの凡作だったのだろうか、、、。多分そうだろう、、こんなテーマを扱ったらどんな作品でも「凡作」か「秀作」にしかならない筈だ。
 それに最後の竜にまつわる殺害方法の「どんでん」らしきもの、、素人芸を金を取って見せられたって感じ、、こんなちんけな「どんでん」の為に、謎なんかかけて引っ張るなちゅ−の(これは本気だ」。)
 謎解きじゃなくて「ロードストーリー」に重点があるならそっちをしっかり書き込みなさい。第一ここに出てくる二人の青年達も、やがて「世界」を背負っていく人物として設定されているのだが、いくら若いといってもこの程度の人物に背負われる「世界」は恐ろしくライトで偏狭な世界なのだろうと思ってしまう。ファンタジー世界は「広さ」の勝負なんだけどなぁ、、。
  、、れれ、振り返ると悪口ばっか書いてる。レビューに取り上げるぐらいなんだから酷くはないんだよ。結局こんなにイライラするのは、こういう「傾向」を好む世代や時代に対してなんだろうな。まあいろいろと現代の「薄っぺらさ」を逆に感じさせてくれる本ではあるなぁ。
 

飯田譲治 梓 河人

 

「アナザヘヴン」

飯田譲治 梓 河人

角川ホラー文庫

ヒドゥン・ヒドゥン

カイル・マクラクラン主演のB級SF映画「ヒドゥン」が、お気に入りの私には、とって面白く読めた作品。冒頭、宇宙からやって来た極悪宇宙人がお水なゴージャス姉御に入り込んだり、カイル・マクラクラン扮する正義の味方、人間憑依宇宙人の優しさが、人間離れしたエロチシズムを放ったり、、。これは映画の方のお話だけれど、小説アナザヘヴンも同じテイストがする。(と言うか、作者は「ヒドゥン」を絶対に観てる。、、と思う。勿論、これからの作家は、みんなこんな風に自分を育ててきたメディアから培養されていく筈だと思う。)でも、本当に人間のつくり出す「物語」からは、吸血鬼パターンや「憑依」パターンは廃れないね。この事は一体何を意味しているんだろうと、時々思う。人間存在の根元的な何かに触れているからかしら、、。ああそれとこの小説、物語のイメージキャスティングて奴を凄く巧く使ってる。と言うか、「狙って」るんじゃないかしら。現実のタレントや俳優を凄くハッキリ当てはめる事が出来るもの。それがとっても面白い仕掛けになってる。それにこの作品、映画になるんだって、その映画、観ない方が良いのか、、観た方が良いのか。ううん。どちらのイメージがつぶれるって事ではなくて、これからは一つの作品を映像やテキスト、グッズなんかで構築していく時代だから、「どう巧く作ってくれるか?」て事なんだけど。

 

グレッグ・イーガン 

 

順列都市
グレッグ・イーガン 


山岸 真訳 ハヤカワ文庫

ウーン、実に久しぶりのSFである。ミステリーやホラー三昧の日々、久々に帰った我が家。でもその昔ほど熱中出来ないのはなぜ、、。ああ「ハイペリオン」を貪るように読んだあの日々は何処へ。

 その物語の「面白い」「面白くない」を左右する一つの要素は実に単純だ。書いてある事が「判る」かどうか、、、。とは言えS・ハンターのシリーズにはかなり長い銃器に関する記述があり、これだって読者は判ったような気になっているが本当の所は余程の銃器マニアで無い限り何も理解できていないに違いない。グレッグ・イーガンが使いまくる科学的アイデアだって、その手の専門家からみれば笑止なのだろうが、私のような脳味噌の持ち主には神の声のように聞こえそれはもう近寄りがたいものなのだ。
 要は塩梅か、、、。と言うことで順列都市は私にとってはかなり苦しい上・下巻2冊だった。勿論、面白くない訳ではない。私は、死後の世界や人間が絶対にのぞき込めない世界を、「いかにもそれらしく」ガンガン描いていく物語が大好きだ。なに言ってるのよ、こうだからこうなのよ。と言った感じで、おおよそあり得ない世界を描ききり、そしてそれに止まらず、その世界の中でさえ、「想像も出来ない」展開に突入していく。
 これがSFの醍醐味なんだから。ああ、、それにしても「順列都市」は「難しい」。まあ、移動・転勤やら進学やら、何かといそがしい春の一日「あなたと私は何故違う存在なの?」とか「死んだら私の意識はどうなるの」とか「私をそっくりコピーした人間と私はどうちがうのか?」を考えてみるのも一興かもですよ。
 

乃南 アサ

 

「花散る頃の殺人」
乃南 アサ 新潮文庫

 「花散る頃の殺人」は六編を含む短編集であるが、近緒の読んだのは「あなたの匂い」と「長夜」だけである。しかもたった二編だけを読むのにおおよそ一ヶ月近くかかっている。自分自身が忙しく、心がささくれだっていた事もあるのだが、読書に関してこんなに取っ掛かりの「薄い」ケースは珍しかったのも確かだ。疲れていても村上春樹などはすんなり読めるんだから、、。
 こんな事を書くと乃南アサに難癖を付けているようで、またまたアサファンに睨まれそうだ、、。ちなみに乃南アサは文章が決して下手な訳じゃないと思う。目を瞑って読むと(そんな器用な真似が出来るかい!!)まるで女性版大沢在昌かって思う時があるぐらいで、、。
 なんだろう。すっごく薄味のスープを飲んでる感じ?リアリティに欠ける訳じゃない。むしろ本書に出てくる音道貴子の視点は完全に乃南アサの視点じゃないかと思えるぐらいにリアルだ。でもそれが小説を読む事の「快楽」には繋がらない。私にとってはそういう事なんだ、、と思う。
 でなんでレビューしてんだって話だけど、、そういう小説の醍醐味から離れた日常の薄味リアルでも、いやだからこそ面白い短編の「読み方」が出来るって事を言いたいわけです。
 たとえば「あなたの匂い」。ゴミ漁りストーカーに狙われた貴子刑事の話なんだけれど、、もうこれはきっちりパンティストッキングを相手の男に被られたり、履きつぶした革靴の臭いを嗅がれたりして、、貴子刑事が悲鳴を上げるわけですね。
 これって女性の側のごくノーマルな感性なんだけど、、こうあっさりやられると「あんたさぁ小説上の女刑事なんだから、、もうちょっと違った感性で台詞吐くなり出来ないの。」っていいたくなる訳です。
 勿論そういうひねくれ読者の反応まで見込んで、乃南アサがこれ書いてるなら、この短編は凄く高度なフェチ小説って事だけど、、。実は近緒、そう見なしてこの短篇を読まさせて頂きました。すると結構この短篇ディープな味わいになります。
 次に「長夜」。これはもと同僚刑事で現在オカマの安曇嬢が貴子の友人として登場します。わけの分かった成人女性と頭のいいしっかりもののオカマ、外国の小説には良く出てくるカップリングで近緒もこの設定が大好きなんですが、「長夜」の場合はその設定に頼り過ぎ。
 だからどの場面を切り取っても「何処かで見た、何処かで読んだ」かっこいい場面って事になる。もっと突っ込んじゃうとこの短篇で安曇がオカマである必然が「スタイリッシュ」以外にほとんどないように思える。
 でも近緒は、こうゆーの好きだから充分楽しめたけど、、まっ、小説読んでるって感じじゃなしに、映画の脚本のノベライズを読んでる感じだわね。でも何度も書くけど乃南アサは下手じゃないよ。ドカンとこないだけで、「長夜」だって涙腺の弱い子ならじわーって来るんじゃない。
 でもそのジワ−ッが合ってるなら、貴子という女は相当な浮気性だってことなんだけど(とっても亭主と別れて長期間凹む玉じゃない筈)、、、。じゃやっぱ、女同士の友情?じゃ何で安曇をわざわざオカマの設定にする訳?って堂々巡りになるわけね「長夜」のバアイ。
閑話休題
 貴子が天海祐希なら安曇は誰がいいかな、、スーパーモデルぽいオカマ、、、うむ、イメージが湧かないねぇ、、。
 

鳴海 章

 

真夜中のダリア
 鳴海 章 角川文庫

 ある日、あなたはお気に入りの作家・あるいは自分の感性に一致したジャンルの本を探し出せないまま、ふとある本を書架から抜き出しレジに進むとする。判っているのは腰帯とパラパラとページをめくって拾い読みした数行のセンテンスのみ。
 これは「恋愛」ではなく「お見合い」に近い状態ですよね。とにかく読みすすめなければ、相手が判らない。「真夜中のダリア」も私にとってそんな本だったのです。
 始めの数ページはかなり克明にゲイやその手の風俗、個々の人物がそこに至る道筋についてが書き込まれています。特に、この物語で最初の「カマ狩り」の犠牲者となるゲイバーの男の少年期描写は、非常にリアルで、かえってこれだけのページ数を、こんな濃密な語り口で構成しきれるものかと不安になる程でした。
 同級生をフェラチオする場面で「射精させた表情に征服感を感じた」と一度作中人物に語らせたら、その後もかなり高密度な心理描写を続ける必要があるだろうし、、、こういった世界は、基本的にミステリーには、「背景」としては似合うけれど、「軸」としては馴染まないと思うんです。
 所がこの小説、暫くすると映画のビッグ・リボウスキそっくりな「超だらしな主人公」が登場して、話向きが変わっていくんですよね。それに読み進めていくと藤原伊織そっくりの肌触りになる。でも、作品がそういった世界に行ききるかと思うと、再び新宿2丁目賛歌に戻ってくる。何故か、この作品にはそういう中途半端さがあるんですよね。
 「○○と△△を足して二で割ったような」という評価が在ります。それには大抵続きがある。「だからお得、だから特色がない」。この作品の場合はどちらでしょう。
 始めダリアは「カマ狩り」をやってのける切れた引きこもり日本少年のように見え、次に美貌のフィリピンゲイボーイに見え、次に訓練された殺人機械になり、最後には、、。と変遷していくのですが。これがどうにも不自然で付いていけない。
 いいかえると読者は作者に「旨くだまして貰えない。」。ただミズキやトヨクニと呼ばれる、主人公の取り巻きである2丁目の住人達の生活ぶりは実によく書き込まれている。でもその描写力や、2丁目世界への愛着が、最後の主人公とダリアの決着に絡んでこない。小さく感じさせてくれて気持ちがいいんだけど、最後に誰かの肩を掴んで「いっちゃう!いっちゃうー。」って大声で叫んじゃうようなカタルシスが無いんですよね。
 残念です。とても残念です。鳴海 章、こういう世界を書かせたら力のある作家さんだと思うのです。それに近緒はこの世界大好きなんです。鳴海 章さんで、この場面設定で旨く書かれたものを是非読みたいものです。
 

トマス・H・クック

 

夜の記憶
トマス・H・クック

村松 潔訳 文春文庫

 目眩のするような重層構造。京極夏彦の「私」や津原泰水「蘆屋家の崩壊」に肌触りが似ていなくもない。多少に関わらず、ご自分自身が何らかの形で文章の創作に関わられる方なら、本書「夜の記憶」を読み進めると酷い「読書酔い」を感じられるのではないだろうか?
 「夢」の中で登場する人物は、「誰」であるかが判るのにその顔は酷くおぼろである。その不確定さ故に「誰」は、次の瞬間には「他の誰か」にすり替わっていたりする。
 「バーチャルリアリティ」系列の表現が、より強く「現実性」を獲得していく為に「確実さ」を求めていくなら、小説は、「ゆらぎ・可変性」を蓄えていく事で、表現として永遠に残っていくのかも知れない。
 誰も「自分の人生」を、真の意味で確実なホトジェニックとして捕らえる事が出来ないのだから、それを補完せんが為に人間の意識との親和性を生かしながら言語表現として小説は滅びる事はないだろうし、「欲望」を充足させる方向では、今後益々ビジュアルを中心にしたバーチャルリアリティ系の表現媒体が伸びて行くのだろう。トマス・H・クックのような文体の小説を読んだり、最近の映画を見ると、「表現」は果てしなくその二つの方向に分化し深化していくように思える。
 その他「夜の記憶」で特に強く意識させられたのは、「記憶」を遡行する旅が可能なのは、現実が過去の集積の上に成り立っているという「事実」である。
 それは「過去の傷に縛られて生きている」というのとは少し違う事なのだ。我々は、普段そのことを余り強く意識しないが、本書を読むとその事実を悲しみとともに強く感じさせられる。
 我々は未来を指向するエネルギーだけで自分の生活を成立させられるほど「強く」はないのだ。ケスラーが怖れられるのは「瞬間に生きている人間」として、理解不能の「欲望の固まり」の姿で我々の生活に割り込んで来るからだろう。
 ストーリィ展開で考えさせられたのは、こういう話の展開方法は狡いという事である。なんとでも、どこへでも展開出来るのだから、、、。そう思いながら私は、トマス・H・クックが紡ぎだした終着点を胸苦しい思いで読み進めて行ったのだが、、、。そうなのだ。何処へでも展開できる仕掛けを作ったからと行って、落としどころはその作者の才能に左右されるのだから、、、。
PS 私は、この小説に、ささやかながらもこういった結末を付け加えてくれたトマス・H・クックの人間性に感謝している、、。それほどに悲しみが深すぎて、涙が落ちるスピードが極端に遅い小説だった。
 

荒俣 宏

 

レックス・ムンディ



荒俣 宏 集英社文庫

 「帝都物語」は貪るように読んだ。「風水シリーズ」も面白かった。ややあって私の中では「珍奇奇書の類の荒俣」のイメージの方が強くなって、この「レックス・ムンディ」である。荒俣氏が紹介してくれる極彩色の奇妙奇天烈な図版が、本書を読む前から、頭の中で百科事典の分厚さで次から次へと捲られて行く。
 あれっ?荒俣氏ってこんなに女性を描くのが下手だったのかなぁ、、。アクションシーンもなんだかなぁ、、。あまり常識的な読者サービスなんか荒俣氏はしなくても充分面白いのに。という感じで最初は正直な所、躓きながら読んでいたのだ。でも物語が、レックス・ムンディそのものの正体に近づくにつれ、これは本当に面白いなぁって思わせてくれました。やっぱり、あれだけの博学博識振りがなければ、あの奇想は思い浮かばないと思う。それにしてもなんとなく帝都物語の時の荒俣氏と肌触りが違うのは何故かな?

 

岩井志麻子

 

岩井志麻子
ぼっけえ、きょうてえ
角川ホラー文庫

 「喜怒哀楽と恐怖とはチャンネルが違う。」けだし名言である。これは本書「ぼっけえ、きょうてえ」の解説に京極夏彦が書いた文章の一部分である。岩井志麻子の作品からこういう見方を切り出して来るのは、やっぱり京極夏彦の能力の高さだろう。

 解説文から始めるブックレビューも珍しいって?お前は何か岩井志麻子に恨みがあるんだろう?って、、。

 ないよ、そんなの全然。ただ、女の書いたこの手の読み物はどうしてかオ・ン・ナの性とかが前面に出るのか(出すのか)な〜と、ちょっとうんざり気味。それに「飢饉」に「間引き」に「近親相姦」、とどめはコロリ、日本の古典的悲惨三大条件だよね。

 だって今はセックスレス夫婦が出現する時代なんだよ。手法というならちょっとあざとすぎゃしませんか、、って感じかな。

 でもホントはこういうの好きなんだよねー。各女性週刊誌が、他紙との差別化をどう計ろうと、どこまでいっても女性週刊誌の性を失わないのと同じ。そういう意味でも、こういう手の話って、他の小説とチャンネルが違うんだよね。

 この辺を知り尽くして書いてくる岩井志麻子がしたたかというのか、恐怖物語の系譜が生み出した必然というのかねぇ、、。 

 表題作の「ぼっけえ、きょうてえ」は実に緻密な構成を持った作品。ラストシーンの接吻なんかは、落語の「死神」とか、「もう半分」の落ちみたいで思わず「巧い!!」とその余韻を噛みしめながら唸りたくなりますねぇ。

 でも近緒は「ちくり箱」じゃなかった「密告函」の方が好きだな、、。「ぼっけえ、きょうてえ」が名人の落語家が語る怪談話なら、こちらのほうは
デヴィッド・リンチ監督の映画みたいでね。頭クラクラ感が癖になるというか、、。

リンチ監督なら「密告函」のお咲とトミを同一人物で撮るだろうな、、。
 

北野勇作

 

かめくん

北野勇作
 徳間デュアル文庫

本作後半の「カメが砂漠を歩いている。」から始まっての数節は、近緒も大好きなあのブレランに登場する、人間とレプリカントを見分ける為の「心理テスト」シーンである。
 その他、この数節に限らず『かめくん』には、ちょっと懐かしいSF関係の映画・TV・小説からインスパイアされた描写や引用が沢山ある。その他、大阪を歩き倒さなければ書けない筈の描写だとか、、つまり、作者が「物語」を紡ぐ時の距離感が、自分の生活感覚に極めて近いという事だろう。
 かめくんは川原の土手道や通勤の道筋で、宇宙や人間存在に関する思索に耽るのだが、おそらくこれだって作者の日常を反映したものだろう。
 こういった書き方は、ある種の私小説やエッセイに近い手法なのだが、これが木星戦争に投入するために開発されたカメ型ヒューマノイド・レプリカメというメインキャラに融合した時に、ちょっと素敵で奇妙な味わいのSF小説に化けちゃったのがこの「かめくん」という所だろうか。
 シリコンとセラミックを何層にも重ね、一ブロックを六角形としたメモリ装置を亀の甲羅に見立てた時点で、この物語は既に「世界の成り立ちを語るもの」として、成立してしまっていたのだと思う。ただこの人工知性体を使って作者が考察してみせる世界や文明論はそれほど目新しいものではない。
 むしろ、安アパートに転がり込んだ上京少年が、細々と生活を繋ぎながら徐々におのれの世界を広げていく様子を、人間界に紛れ込んだこの奇妙な亀型アンドロイドに置き換えた面白さがこの作品の息吹なのだろう。
 そして物語の終わりには、住み慣れた街を離れる事になった「かめくん」は、上京少年等ではなくて、人外のものであり、気が遠くなるような時間と空間に流されていく孤独な「なにか」であるという余韻を読者に与えて終わるのだ。その余韻が心地よい。
 まだ、窓から見える夕暮れの色に「感傷」を抱ける人に、お勧め、、かな?
 
PS 全然、関係ないんだけど、小説に添えられるイラストの存在って大きいね。菊池秀行や夢枕獏と天野喜孝の関係は、ベストマッチングというのかもう切り離せないって感じだもの。  逆に、イラストが違ったら小説自体の印象が、がらりと変わるだろうっていうのもあるよね。本作のイラストは真栄田真宏、メインキャラのカメクンに限って言えば、かなり良い線いってると思うけど、ミワコさんはどうかな?物語の背景のほとんどが日常風景なんだから、カメクンのデザインって大きいだろうし、、、そんな事を考えると色んなイラストの絵で、読みたくなるのがこの「かめくん」なんだろうね。 
 
ジェフリー・ディーヴァー
 


コフィン・ダンサー
文芸春秋 
ジェフリー・ディーヴァー
 訳:池田真紀子

 ボーン・コレクターに続いてライムシーズ、2作目の「コフィン・ダンサー」。今回も又、「相思」であり上司と部下の関係でもあるライムとアメリア達の、相手と一緒にいられない設定を最大限有効利用した話運びだ。「無線でのやりとり」の緊迫性は前作のままだし、おまけに今回は恋の鞘当てまで出てきて充分、「小説」を堪能させてもらった。
 結ばれそうで結ばれない男女の心の機微で読み手を引っ張っていく旨さ。そんなジェフリー・ディーヴァーの書き手としての手練れの部分と、異常心理の描写力や各方面の最新技術への徹底した取材とそれを咀嚼してもう一度、小説に書き戻せる能力。この二つの力が混じり合った作家の作品が面白くないわけがない。
 例えばコフィンダンサーは、ライムチームにとって理解不可能の残虐無比の強敵のように思われているが、ダンサーの行動論理からすると彼は彼の極めて単純なルールで動いているにしか過ぎない。ただダンサーには、普通の人間に備わっている幾つかの精神的な要素が欠落している、あるいは肥大しすぎているから、通常の人間には彼が理解できないだけだ。これは読者側にとって、サイコキラー系統のものを読み進める上で非常によくわかる説明だと思う。
 でも小説「コフィン・ダンサー」には二重の仕掛けがあって、この為に物語の最後辺りに登場する人物については、残念ながらその「お手軽」性のせいか、人物としては深みがなかった。
 もっと手厳しく言えば、このドンデンも、人物もどこかのC級アクション映画に出てくる設定みたいで気にくわない。そういえば、あの飛行機に仕掛けられた爆弾だって、どこかの映画や小説で見たか読んだことがある話だ。
 それに、ライムシリーズの2作目には既成のアイデアの流用や、再構成のニュアンスが露見している部分が残念ながら少なからずあるのだ。又、動けないライムを囲んで、いずれも百戦錬磨の男達がチームを組んで動く面白さもこのシリーズの「売り」だが、今回はライムチームがアットホームしすぎて緊張感が緩んだ感じもする。
 等々、まあ二作目故の宿命で、「新鮮さ」でカバーできない部分のあらもあるが、このライムシリーズ、やはり面白いのである。
 それだけ小説の「技巧レベル」が非常に高いのだ。小説ならではの、話の展開のタイムラグを実に旨く使う、「ああなるだろう、こうなってしまうだろう」という読者の予測を、ある時は「裏切り」ある時は「その通り」に書いて見せる。
 結果的に読者はそのドライブ感に酔いしれられるという寸法だ。ジェフリー・ディーヴァーはやはりそのあたりの読ませ方が上手いのだ。 そして彼が、「ライムとアメリア」という「不完全な超人達」を捻出して、この世に定着させた事。それがこのシリーズの「面白さ」の最大原因だろうと思う。
 
殊能将之
 
美濃牛
殊能将之 講談社ノベルス
 「常識」の泥棒猫みたいな書き手、殊能将之の第2作。同じ泥棒猫でも、前作がペルシャ猫なら今度は、純和製の三毛猫ってところかな。「ハサミ男」の目眩のするような「どんでん返し」を二度と食らうものかと身構えながら、読み進める内、殊能将之、2作目は自分自身の作風や趣向を変化させ初めているのかと思わせる書きっぷり。

 でもなぁ、博覧強記・蘊蓄をたっぷり散りばめる方法も、横溝正史ワールドのパロディ及びフーガ的な趣向も、そんなに独創的とは言えないぞ、、、それに飛鳥青年の恋文あたり「怪しーい」ぞ、前作でやってるからな、、で、本書の中盤、ほら見ろ当たりだ、同じ手が2回も通用するものか、、、。第一、こんなにあざとく「騙し」をやったんじゃ1回目は拍手喝采でも、やりかたがやりかただけに2回目は、、、。

 そんな気持ちで前半までは結構批判的に読み進めるのだけれど、後半はぐいぐい彼の世界に引きずり込まれていく。前半の役に立たないトラップや「遊び」さえも、この吸引力の構成物だったのだと気づかされるのだ。そして本当の「どんでん返し」の登場。やはりやられてしまった。「ハサミ男」だって、そりゃ無茶だろと思いながらも、その強烈な「どんでん返し」の余韻に酔ったものだ。「美濃牛」も同じだ。恐らく私がここまで書いても、「美濃牛」をまだ読んだ事のない者に、心の準備を与えた事にはならないだろう。
 私は、前作の「ハサミ男」から、殊能将之の「どんでん返し」について執拗に書いてきたように思う。しかし実の所、この作家の作品を2作目まで読んで見て、私が惹かれているのはこの「どんでん返し」そのものではない事に気が付いた。
 「余韻」なのだ。例えば美しい女性が立ち去ったあとの空間に残された甘い残り香や体温、そこから想起される様々な感情・思い、そういったもの、つまり、捉えがたいが確実にある「余韻」に私は惹かれているのだと思う。殊能将之の作品は最後の「どんでん返し」を見せつけられるまでに(大変倒錯した言い方だが)その「残り香」がすでに1ページ目から始まっているのだ。濃密な作品である。
 
ジム・トンプスン
 

ポップ1280

ジム・トンプスン
 三川 基好 訳   扶桑社

「えーっと、それはどうかな」おれは言った。「おまえの言うことが間違っているというつもりはないけど、でも、おれとしては・・・・・」
という一見煮え切らない台詞を、主人公ニック・コーリーは事ある度に宣いながら身の毛もよだつような悪事を次々と働いていく。題名は「ポップ1280」、人口1280名という意だそうだ。向こうの映画で、主人公なんかが、ある町に車が差し掛かった時に画面上にちらりと流れていく標示がありますよね。あれなんだそうですが、、。このタイトル、なんで付けられたのか小説の最後あたりでなんとなく納得できます。
 ニック・コーリーという男の職業、人口1280名のポッツヴィルと言う名の小さな田舎町の保安官で、時代背景が第一次世界大戦末期。閉鎖的で人間関係が欲望で煮詰まってしまった、まだ黒人差別明けやらぬアメリカの「群」という一つの島宇宙。そういった世界の中でニックは自らを「無能(裁き)の神」と規定し、変化を遂げていく。変化を遂げていくといっても凡人が狂気の縁に落ちるというのではなく、なるべきモノが顕在化していくという感じなのだが、、。
 今読んでも時代を感じさせませんね、、馳 星周がそれほど新しい訳じゃないって。勿論、小説としての饒舌さは今のモノと比較できないけれど、それは単に時代の雰囲気の反映で左右される事。「ポップ1280」決して古くない。私たちに内在する「狂気」が普遍なのか、それともジム・トンプソンという作家の感性が秀逸なのか、、、判らないけれども。怖いことです。
 PS S・キングが惚れた作家という事ですが、それは何となく判ります。最後あたりの  猛女二人の罵り合いの描写は、キングの作品に良く出てきますモノ、。(読んでいる分には女性同士の罵倒バトルは壮絶で面白い 、読んでいるぶんにはだけど、、。)
 
ハロルド・ジェフィ
 

ストレート・レザー

ハロルド・ジェフィ
今村楯夫訳 新潮社

 「エンド・オブ・デイズ」を見た。酷い映画だった。シュワちゃんはもともとああいう人だろうから(勝手に決めつけているけど。。)あんなテーマの映画に出演しても不思議ではないのだが、、。それしてもなんと薄っぺらい(誤解を招くといけないので注釈をつけとくけど映画自体はとっびっきりという程ではないがそれなりに面白い。けれどこの映画を撮るだけの予算をもっと才能ある監督と脚本家に回してやれればと思うと、そういう意味でも酷い映画だと思う。)


 で、前置きが長くなったが「ストレート・レザー」である。これも酷い作品である。勿論、生活圏が違うのだから、このようなタイプの作品を我々日本人が正当に評価できるとは思えない。(アメリカで起こる荒廃は日本でも必ず起こると言われ耐えて久しいし、事実そうでもある。しかしそのベクトルはやはり違う。)だから、ひょっとしたらアメリカではストレート・レザーはそれなりの作品なのかも知れない?(でも映画でも小説でもこれよりもっと凄い描写をしきる作品は山のようにあるよなぁ。文体でぶっ飛んでる奴もあるし、、。)問題はそれをありがたく頂戴してしまう事であろう。(これは新潮社の癖なんだろうか?チャールズ・ブコウスキーの扱いもそうだ。)

 私が本書を手に取った動機は、本書にフェテッシュの匂いを嗅いだからだ。しかしそれでも最後まで読み通すのは辛かった。理由は簡単である。あらゆる意味で面白くないのである。「ネクロ」は少し読めた。他は駄目だ。和訳のせいなのかと思ったが、この本は訳者があとがきを書いており、そのあとがき自身は面白く読めたので決して訳者のせいではないと思う。
 この酷さ、面白くなさは冒頭のエンド・オブ・デイズに共通している。だから「どうした」という事である。もう時代は物事をあるがままにごろんと目の前に転がしておく手法を「クール」とは言わないのだ。これが私たちの住む世界の光なのだと一本調子に言い切られてもスカットはしないし、その逆に闇を淡々と並べられても、もう誰も満足しないのだ。
 
チャールズ・ブコウスキー
 
パルプ
チャールズ・ブコウスキー

柴田元幸訳 新潮文庫

 この作品のジャンルは一体何なんだろう。長編ハードボイルド、?違うね、私は敢えて「だらだら系人生蘊蓄小説」と呼びたい。文庫本の解説の中に「この小説が無節操・無目的に消費されますように」と書いてあったけれど、「パルプ」は残念ながらそうできる程、面白くはない。
 もしこの作品で、初めてミステリーやハードボイルドの世界に入り込むような人がいたなら、「合掌」である。「パルプ」という作品に、今泉ゴッホの装画や「元祖ハードボイルド」などと言った煽るような帯を付けて、売れ筋の本と一緒に書店に置くのは、かなり詐欺に近いと思うのだが。
 結局、私が「パルプ」を最後まで読み終えることが出来たのは、主人公である超だらしない探偵の一人語りに、平成の日本を生きる者として共感をせざるを得なかった為だ。
 、、勿論、この主人公の「あきらめ節」に最後まで付き合ったって何の得にもなりはしないのだが、、。ここで作者であるチャールズ・ブコウスキーのプロフィルを引用して置こう。


 ドイツ生れ。父はアメリカ空軍兵士。母はドイツ人。三歳のときアメリカヘ移住する。1939年ロサンジェルス・シティ・カレッジに入学。創作科の授業をとる。’41年に大学移籍後は、アメリカ各地を放浪する。その間就いた職業は、皿洗い、倉庫番、守衛、トラック運転手、郵便配達人など。’44年短編が初めて雑誌掲載された。’52年から’70年まで郵便局に勤務しながら創作を続ける。その後、創作活動が旺盛となり、白血病で亡くなるまで50冊に及ぷ詩集や小説を発表した。


 私は作品を楽しむ時には、作者の人生と作品とは切り離して置くべきだと考えている。(その意味で著者近影なんてなのも大嫌いだ。)でも唯一例外があるとすれば、この作品とこの作家だろうと思っている。「パルプ」の場合、創作の部分がパルプな分だけ、作品の底流に横たわる作家自身の感性までの距離が短すぎる。それはまさに「幸か不幸か」といった微妙なバランスの上に立っているんだけれど、、。これは「純文学」なんじゃないかな。パルプな純文学。そういう意味で凄い作品なのかも知れない。
 
村上龍
 
ライン

幻冬舎文庫 村上龍

  村上龍の「ライン」は、随分前から読もうと思って買っておいた本だ。最近の村上龍の作品は、手頃な厚さと発表間隔で手に取れるから「雑誌」感覚で読めて嬉しい。ここで言う「雑誌感覚」は、誉め言葉だ。
 この感覚、村上春樹には似合わないが、村上龍にとってはどちらかと言うと彼の作品の生命線ぐらいに相当するような気がする。
 「雑誌感覚」が良くないのなら「疾走感」と言ってもいいし、「時代感覚」と言ってもいい。
 近緒はこの「ライン」を伊丹空港から旭川空港に向かう飛行機の中で読み始めた。
 VOL1「向井」から始まって、ユウコの存在を暗示するVOL2「順子」のSM嬢のめぐみ。そしてVOL3「ゆかり」で、見知らぬ男に自分とは何の因果関係もない動機で顔を叩き割られるめぐみの後輩の順子。
 という形で各VOLが、単純な「狂気」と呼ぶには余りにも偏り過ぎた人間達のリレーで展開されていく。
 その間、近緒の周りの現実世界ではスチュワーデス(死語?)が年季の入った頑丈な笑顔を見せながら、飲み物の機内サービスをしてまわっている。そして同時にこの飛行機という金属の塊は、信じられない高度と速度を保って空を飛んでいるのだった。
 つくづく人の心のありようとは不思議なものだ。人を空の高みまで物理的に押し上げたかと思うと、一方では家族という最も近くにいる人間にさえ関係を結べなくさせるのだから。

 「ライン」は「繋がらなくなった」人々を描きながら、皮肉にも次から次へとラインを結んでいく。それは全く現実のありようそのものだ。人は意志的に繋がれなくても、哀しい程「連結」されている。
 年末の暮れの忙しい時に誰かが列車に「飛び込ん」だら、世界はその巨体をもぞりと動かすのだ。そしてその一秒後、世界に生えた一本の柔毛が小さく震え、他国ではテロで数十人が死んでいく。
 世界には無関係なものは一つもない。そのくせ人間は繋がり合うことが出来ない。
 村上龍は、その事実を嫌と言うほどむき出しにした「現在」を書く作家なのだ。
 この本のVOL20「他人」を読み終えたのは、富良野滞在四日後、飛行機が二十分の遅れを見せて、夕闇に沈む旭川空港を離陸してからだった。
 後進の都市には道路計画のようなもののお陰で、上空から見ると幾何学的な模様を作り出す場合がある。
 旭川の夜景は上空から見ると蜘蛛の巣模様に見えなくもない。普通なら家屋の灯りや道路の照明灯が織りなす光模様は、くっきりとした直線を描くのだが、、ありとあらゆる場所に雪が積もっているので、その雪が光を反射して光条は滲んで見える。
 結果的に、旭川都市は夜の闇の底で、自ら光る蜘蛛の糸のように見えるのだ。
 
 
PS 「ライン」は「マスククラブ」等と比較すると、「失敗作」のように思える。受話器のコードを見るだけで、ライン上で交わされる会話が聞こえるというユウコの設定が、物語上で何も生きていないからだ。
 少なくとも始めの数話で、物語はユウコに向かって進んで行くように思われる展開を見せるのだが、途中で読者のその予感はあっけなく裏切られてしまう。
 村上龍は抜群のストーリーテラーという訳でもないが、今までこんな外し方をした事がないように思うのだが、、。
 これと言った軸になる登場人物が存在せず、その章のタイトルと主人公が必ず、ずれているという不思議な細工を見ると、村上龍の思いが途中で物語の展開をユウコに収斂させる事よりも、「異常さ」で等価である人間達にリレーをさせる事によって、ラインを描こうと気が変わったのかも知れない。
 ・・まあそれはそれで面白いのだが、個人的にはユウコと向井が出逢って真紀の秘密を暴いていくような展開を読みたかったような気がするのだが、、時代をもの凄いスピードで追いかけなければならない村上龍にはそれさえも歯がゆいのかも知れない。
 
植田正治 黒田杏子
 

「奥の細道」

小学館 ショトルライブラリィ

植田正治 黒田杏子

 本書は写真家の植田正治と俳人の黒田杏子の共著、、今の流行で言うとコラボレーションである。初版は1997年、黒田杏子さんの元となった原稿が1989年の雑誌「太陽」の特集記事だというから、かなり古い。
 もし本書が扱うテーマが俳句ではなく、又、被写体が現代の風景であったなら、本書は非常に寿命の短いものであったろうと思う。
 本書は今見ても色あせのない息吹を感じさせるし、芭蕉が愛でた世界がかってこの国にもあった事を気付かせてくれる。
 その写真と言葉が織りなす世界は、落ち着きと透明なはかなささえ感じさせて好書だ。
 近緒が本書を購入したのは、出雲方面に出向いた時に立ち寄った植田正治記念写真館の売店だった。売店には、日本人はなんでもお土産にするのが得意だから植田正治氏の場合はTシャツまであった。
 このTシャツさすがにセンスは悪くはなかったが、植田正治のネームロゴが入ったものを好んで着る人はいないように思う、、。
 書籍は数種類あったのだが、旅心が働いたせいか思わず手に取ったのが本書というわけである。

 いつも旅行に出かける時に持ち歩いていたフジのデジカメを紛失し、ニコンのものに切り替えて間がなく、そのアナログ写真に似た落ち着いた発色に魅せられていた頃で、写真ばかりとっていた記憶がある。
(ちなみにフジの発色はいかにもデジカメの綺麗さで、嫌いではない。)
 それに本書を購入してから暫くたって「っぽい」というシリーズで写真による思考実験もしてみた。
 芸術写真っぽい自分の写真を並べて、本物と偽物はどこが違うのかというお遊びのようなものだったが、、。しかも近緒のサイトには狂歌コーナーまであるのだ。
 そんなあれやこれやで近緒は本書について並々ならぬ親近感を抱いているのだ。
 俳句も写真も、真似事しか出来ない近緒が生意気な事を書くけれど、俳句と写真というのはどこか似ている部分があると思う。
 いずれも一瞬の時を切り取る技であるし、そこから現れるものは、現実の忠実な複写であると共に、個人によって再構築された表現でもあるという部分だ。
 五ヶ月に渡る大旅行の中で、芭蕉は五十句の「おくのほそ道」を詠んだわけだけど、こうして植田正治の物語を感じさせる写真を眺めながら、芭蕉の句を読むと、彼がいかにシャープな感性の持ち主であったか、、その目と言葉の才能に改めて感嘆させられる。
 5・7・5の言葉の制限は正に、カメラが決まったフレームの中にしか、目の前の時空を切り取れないという制限と同質のものだと思う。
 写真も俳句も決まりさえ守れば誰でも作れる。がそれらが、宝石のように昇華する言葉の連なりとなるか、単なる状況説明でしかないものになるのかの差は、結果として必ず現れる。不思議な事だが必ず偽物は淘汰され、本物は生き延びるのだ。
 
 本書を読んでいて常に近緒を悩ませていたのは、「黒田杏子とはどんな女性なのだろうか。」という疑問だった。別に生業や姿形、その性格に疑問を持っているわけではない。
 彼女は、雲間に出る月が綺麗だからと言って夜中に旅館を飛び出し、月下のもと精進料理に使われる食材が水につけられている様に感嘆する。登山家でもないのにハードな山に登り山寺の風情に感嘆する。
 若い女なら密かに旅先でのアバンチュールに期待し、美味しい食べ物と風光明媚の中にいる自分を愛するだろう。歳をとって旅行に出れば、土産物屋は必ず覗き、あれやこれやと品定めする楽しみと、後日、いついつ何処へ行ってきたかと楽しげに話題に乗せる為の脚本書きも怠りないことだろう。
 近緒には両者の差が尋常ではないように思えるのだ。
芭蕉や植田正治は、どこかできっととんでもない我が儘をはって生きて来て、あの様な作品を残して来たように思う。・・・そういうのって女には似合わない仕事だと思うのだ。近緒は黒田杏子の事を考えて瀬戸内寂聴の事を何故か連想してしまう。
 俵万智が素晴らしいのは、俳句を若い女性の世界に取り込んだ事だと思う。黒田杏子は写経をするように芭蕉の句を肉筆で写すそうだ。彼女の中で俳句は一種の宗教なのかも知れない。近緒には判らない世界だ。
 近緒は肉欲と情念を短い言葉の制限の中で描いて見たいと思う。それもマイノリティの性の立場からだ。

 けれど芭蕉の辿った「おくのほそ道」を芭蕉の意識に近い所で旅する黒田杏子に憧れがまったくないわけでもない。ウォーキングシューズに履き替えて田舎道をてくてくと歩いて行く時は、自分がどんどん小さくなって行き、靴底の小石や砂利を踏みしめる音だけがこの世界で唯一確実なものになる。
 そんな時には黒田杏子が理解できなくもないような気がするのだが、、。
 
瀬川 ことび
 

妖怪新紀行

瀬川 ことび

角川ホラー文庫

 急にタイトなスケジュールが緩んでしまい「なにもしない(出来ない)」一日がポッカリと出現した。それがあまりに急な出現なので、溜まっていたお洗濯やらなにやらの家の用事もやる気が起こらなくて、近所の本屋さんに散歩がてらにぶらりと立ち寄った。
 そこで手にしたのがこの本だった。読むのに時間がかからなくて肩の凝らないものという選択肢だったが、それが当たったようだ。
 折しも近緒が不定期に連載中の「激走。まぼろしトラック」の1年ぶりの新章を書き終えたばかりで、共に「妖怪」つながりとは面白い偶然でもある。もっとも「まぼトラ」はデリバリーサービスのSMニューハーフ嬢が主人公だから「妖怪新紀行」とは旅行がらみで共通点はあるものの文章として目指している所は全然違う。近緒のは勿論、エロであり瀬川ことびさんのものはホラーコメディである。
 読み始めて思ったのはこの作家のエネルギー量というか若さである。たぶん近緒よりも年下の若くて素直な男性作家だろうと思っていた。で、後で調べてみてこの作家は女性である事が判明。確かに主人公であると鵜沢裕司と鳥飼の関係はヤオイぽいし(男性作家だと恥ずかしくて男二人のこんな「優しい関係」は書けない筈だ。)どこかボーイズ小説の匂いだってするのだ。
 まあその事はさて置いて、久しぶりにほんわかとした読書タイムを味わえたのは確かだ。この小説の面白いところは勿論、先の主人公二人のかけ合いの妙なのだが、それもあまり気張っていない所がいい。くすくす笑いをする直前の心持ちがずーっと維持するとゆーか、、まあそんな感じだ。それと「妖怪」の位置づけである。近緒の「まぼトラ」でも霊界やら心霊現象や物の怪の類をどう設定するかで悩んでいるのだが、瀬川ことびさんはどうやら「妖怪」を実体の判明しない「動物」と、はっきり区分しているようだ。
 「妖怪」に関しては、水木しげるだとか、京極夏彦だとかの大御所のいろいろな攻め手があるわけだから、これはなかなか上手い方法なのかも知れないなと、妙なところに感心してしまった。
 ちなみに近緒が好きなのは本書の「第5話 濡れて滴るアニキノコイビト」である。田舎の墓場近くで、ボディコンシャスな白いサマースーツに身を包んだ婚約者に迫られたら、あなたどうします?
 
ヴィクター・ギシュラー
 
拳銃猿
ヴィクター・ギシュラー

宮内もと子訳

ハヤカワミステリ文庫

 訳者の宮内もと子さんは、「拳銃猿」がクエンティン・タランティーノの映画に似ていると後書きで書いている。まさに同感である。過剰で乾いた暴力と延々と続くジョークの裏側に隠れ見える人間のドロドロ。勿論このスタイルはクエンティン・タランティーノの専売特許という事ではなく、彼はたまたま自分の感性を育ててくれた有りとあらゆる娯楽媒体を彼流に誇張しながらフィードバックしたに過ぎない。ヴィクター・ギシュラーがハードボイルドの正当なる後継者であるなら彼の小説が「クエンティン・タランティーノの映画」に似ているのではなく、たまたま同じ結果になったと言える筈だ。
 でも結論から言うとヴィクター・ギシュラーは絶対にタランティーノ映画の影響を受けている筈だ。そうでなければ拳銃猿の軽さとスピードの説明が付かない。
 アメリカ人のジョークが混じった会話の楽しさを取り込んでいるハードボイルド小説は昔から随分たくさんあるけれど、「拳銃猿」はその分野でもかなり優秀な部類に入るのではないかと思う。ニヤリとして「粋やなー」と感心させられるやり取りが3つ4つほどある。
 暗殺専門の主人公が剥製師の恋人に本気で惚れるきっかけが「ガムテープがあればなんでも出来るのよ」の彼女の一言であったり。仲間内の子どもと交わす「大きくなったら何になりたい」会話は絶品である。
 その他「くすぐり」レベルのジョーク交換ならほぼ無数に全編に渡って書き込まれている。そういった文体であるから当然のごとく、人物描写の深さにはある程度の限界があって、そこから来る不満足感は読者が引き受けなければならない部分だろう。結構「拳銃猿」では「人生哲学」みたいなものが披露されるが、それはあくまで飾りだから、かのフィリプ・マーロウの名言「強くなければ生き残れない、優しくなければ」のように取り扱ってはいけない。
 更に言えばこの小説の「新しさ」は、「殺し」にある。主人公はいとも簡単に人を殺す。その「いとも簡単」な経過をヴィクター・ギシュラーは計画的に彼の文体の中に組み込んでいるようである。読んでいてこれはちょっとドキドキする感覚だ。
 そして、この極悪人(読んでいるとそう思えないのが小説の常だが)の主人公が織りなす殺戮物語は当然のごとく彼にとってのハッピーエンドで終わる。
 そういう意味でもタランティーノ映画にそっくりの小説である。娯楽小説は娯楽小説という開き直り方が「新しい」と言えば新しいんだけど、、さて作家としてのヴィクター・ギシュラー、いつまでこんな創作スタイルで我慢し続けられるだろうか、、。
 
北野勇作
 
「人面町四丁目」


北野勇作 角川ホラー文庫

 chikaがSF離れしてからの北野勇作体験は「かめくん」から数えて二作目です。本作は「かめくん」とは打って変わった作風のホラー作品と言いたいんだけれど、初めからジワジワと北野色が見えていて後半になると世界観が「かめくん」の設定とリンクしちゃったりします。
 そんなんでchikaが楽しめたのは「不気味妻」と「人面町」の不条理ワールドがしみじみと展開される前半なんですが、、それにしても筒井康隆の世界に似てる。もっとも似てるのは北野だけじゃなくて笙野頼子も川上弘美もいっぱーいいるから全然問題じゃなくて、chikaなんか、こういう書き手をいっぱいかき集めて、不条理ワールドの連作を買いてもらいたいぐらいです。
 でも「不気味妻」は絶妙のキャラですねぇ。大災害に被災し行き場を失った主人公が遺体安置所で出会った女と成り行き上、所帯を持って、、、うーん上手い!!
 この小説では、主人公が現実世界と異世界とのトワイライトゾーンに紛れ込んだ設定にしてあるんだけど、私たち読者の方だって現実世界に違和感なく溶け込んでいる人なんていないんじぁないかって、、、、ああこれは私たちがいつもどこかに隠し待っているあの不安感を表しているんだなぁって、そんな感じ。
 この不完全な「世界への接続感」を支援してくれているのが、本作では「妻」ってことになるのかな。まあ私たちの場合は「不気味妻」じゃなくて、それは皮肉な事に「健全性」と呼ばれているモノなわけなんだけれど。
 日本の昔話や怪談には異形の者を妻にめとる話が結構あるんだけど、それの現代版、尚かつ応用編と言う感じでなかなか楽しめました。