書籍の部1

 

ウィリアム・c・ディーツ

 

「戦闘機甲兵団レギオン」上・下

(ウィリアム・c・ディーツ)

冬川 亘訳 早川文庫

当サイトは一応SFに分類されると思いますが、HPタイトルで唱っている様に、サディズムやマゾヒズムあるいはフェテシズムをSFの娯楽面と基底に盛り込んだ志向を持っているサイトでもあります。
 そんな視点で見たとき、「戦闘機甲兵団レギオン」上・下は充分に楽しめるSFになっているのではないかと思います。レギオンの書評は牧 眞司氏が充分に下巻の巻末にお書きですから、SFMではこの作品をフェテシズムの側面でご紹介しておきます。レギオンの世界設定で最も異彩を放つ部分は、機械度98パーセントというガンダム的サイボーグボディに女性の生体脳が装填されている事です。この設定が、登場する人物たちにとって義足や義手といったイメージの中で展開されてゆくわけです。失われた生身の感覚への渇望や新しい強力すぎるマシンボディへの撞着、そしてサイボーグ同士の恋愛とセックス。勿論、本書の中では、サイボーグ同士のセックスシーンは、バーチャルリアリティの中で展開されるのですが、読者のイメージの中ではむしろ、人型の巨大戦車が二体、後背位でセックスしているように像が結ばれる訳です。
 そしてその事が、読書中には特異に感じられず、非常にエロチックな図として描かれるのです。作者のウィリアム・c・ディーツがフェテシズムなどに特別深い理解があるのか知る由もありませんが、ほとんどのストーリィ展開が安っぽい既存のアクションを焼き直し、張り合わせただけの
ものであるのに、この機械のボディと生身の生理感覚の考察だけが、異常に固執してあるのです。
 ともかく女機甲兵ヴィレインと機甲兵サラザールのサイボーグ来世での奇妙な出会いと恋愛物語だけでも、SFに違った味付けを求める貴方には、充分に楽しめるものだと思います。

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石ノ森章太郎

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石ノ森章太郎先生

追悼石ノ森先生

「仮面ライダー」を有り難うございました。

私のHPのキーワードの一つに「仮面ライダー世代」を挙げさせて頂いています。近緒もおなさい頃、ライダーのTVを食い入るように見ていました。当時の特撮ヒーローものの中でもダークなイメージが「ライダー」の中にある事を子供ながらに感じ取っていました。

無理矢理に改造人間にされてしまった悲しみ。そして孤独な戦い。TV版のライダーに限らず、サイボーグ009にもロボット刑事にも通底している悲しみでしたね。今、近緒は違った意味で「ライダー」の悲しみに共感するようになりました。自ら責任の取れない変容を施されても、ライダーは人々の前にあって怪物である事から逃れられず「恐れられ」「避けられ」るのですね。そしてライダーは「仮面」を付けた。仮面をつけて、自分を忌み嫌う人々のために戦った、、。

手塚治虫先生から私は未分化のエロスを(みなさんはアトムの肌の色艶に、ロボットのエロス、両性具有のエロスを感じませんでしたか?それはリボンの騎士を論じるまでもなく治虫先生の青年漫画の中に幾つも出てきた筈です。)頂き、石ノ森先生からは悲しみのエロスを頂きました。あなた方が創造されたイマジネーションは多くの人々の原風景の一部に溶け込んでいると思います。私の拙い作品も、その血肉をそぎ取ってゆけば、石ノ森先生の悲しみの「ライダー」に突き当たるのです。石ノ森先生、仮面ライダーを私たちに有り難うございました。             

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 馳星周

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「不夜城」

馳星周

何処にも行けない我ら1

「不夜城」

映画化された「不夜城」の男優さんがとても素敵なのと、馳星周という名前の響きに惹かれて、ついつい「流行モノ」に手を出してしまった。
 というのが、本書「不夜城」を手にしたときの正直な感想です。読後感、、。これは、面白いか、面白くないのかといった側面では整理がつきませんでした。同じハードボイルド作家の大沢在昌氏の作品は、間違いなく(面白くて)、立て続けに数冊氏の文庫本を貪り読んだ記憶があります。けれど、いくら(面白くて)もこの様なWeb上の小さなホームページ書評欄に、わざわざ大沢在昌氏の作品を取り上げようとは思わない訳です。恐らく大沢氏の作品の場合の読後感は、ほとんどの読者が同じ「思い」を持つはずであり、それは苦みがあったとしても、とても(良好)で平均的なものである筈なのです。しかし馳氏の「不夜城」の読後感は読み手によって違うものが出てくるのではないか。私自身、「不夜城」を読み終わった後に、しこりのようなモノが残り、そのしこりは、何故か出口を求め排出されたがっているのです。
 日常の生活の中に、突如登場するトラブル、そのトラブルを発端にして、世界が硬質なモノに変化し、己のライフスタイルや存在意義を激しく揺さぶりはじめ、右往左往させられる。しかしそんな状況であっても結局、人は何処にも行けはしないし、目を見張るような本質的な変化を遂げるわけでもない。ただあるがままに、己のルールに従って精一杯、対処し生きるだけの事。それでも人が揺れ動いた跡には、少しばかりの隙間が出来る。この隙間に、人は感情を揺り動かされる。
 大沢氏の「走らなあかん夜明けまで」では「人間もまんざらすてたものではない」という読後感が残り、「不夜城」の場合は「救いがない」という表現では十分ではない程の暗い(しこり・異物感)が残る。「不夜城」の新しさはこのしこりが、余りにも現代的で「日常的」過ぎる事ではないかという事です。 確かに、「不夜城」が展開される世界は、アジア系マフィア達が鎬を削る新宿2丁目であり、主人公達はアジア系在日外国人の2世混血であったり、残留孤児2世であり、社会的には何処にも属する事を許されない人間達を描いてはいます。
 考えてみれば、この物語の帰着としての(しこり)が私たちの「日常」である筈がないのですが、やはり私たちは、不夜城の主人公達と同じ暗さを内に持っている事を確認せざるを得ない。
 健一は独り言のように「どこにも属せないのは、結局の所、自分がおかれた状況そのものにあるのではなく、自分自身のとらえようなのだ。」と呟き、同種類の生き物としての夏美を見いだす。この「捉え」が、読者のどこかの部分と共鳴して、読者をこの「どう見てもカタルシスのない物語」を読まし続けるのではないのかと思うわけです。(少なくとも私はそうだったという事です。)
 二つ目の「不夜城」の特徴に、性倒錯を基盤にしたエロティシズムがあげられると思います。主人公の一人である健一が、ゲイバーでアルバイトをしていた設定をさして、性倒錯のテーマが基底にあるといっている訳ではありません。ヒロインである夏美とまぐわっていても健一は、「夏美に犯されている自分」を幻視しています。又、彼が犯した初めての殺人のきっかけは、男に「犯される」恐怖であった訳です。そして健一は殺人前の異常な興奮状態の中で薬物中毒の男を「犯し」てしまう。
 他者を「犯す」自分と、「犯される」自分の重なりといいますか、融合が、「不夜城」のエロティシズムの基本なのではないでしょうか?そしてこのエロティシズムも極めて現代的なものではないかと思うのです。破滅への衝動と、救済への希求。そしてそれが同時に一人の中に、深く閉じこめられて、とてつもない生き延びるためのバイタリティに繋がっていく。が、本来、相対するモノが一人の人間の中にある限り、その人間は何処にも行けない。
「何処にも行けないハードボイルド」これが私にとっての「不夜城」なのです。

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馳星周

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「M」

文芸春秋

何処にも行けない我ら2

 今ちょっと肉体的に疲れていて「M」を読み終えるのに少し努力が必要だった。収録された作品の内「眩暈」は、インターネットに接続される何人かの人々には、ずいぶん身近な共感を得られるだろうと思う。「人形」は、フェチストの心を擽り、彼らからの多くの肯きを得られる事が出来るだろうが、主人公を作り上げるまでの道具立てがヘビィ過ぎるかも知れない。「声」は正直に言って「しんどい」。「不夜城」でも書いたが馳 星周は何処へも行けない私たちを良く書ききれる数少ないニュータイプの作家の内の一人だと思うが、物語をこれ程、乾燥させる意味は在るのだろうかと思う。新聞のどれかの事件記事を拡大して見れば、実際にこれと同じような事が日々起こっている筈だ。だがそれをいくら冷酷に克明に書き込んだとしても、そこに読み物としてどんな意味が発生するのだろう?表題作でもある「M」はこの「声」のバランスから「不夜城」に戻りつつある作品で、個人的には一番好きな中編である。勿論、この作品にだって救いはないが、決して交差はしないものの、まだ乾ききらない愛の幻影がある。作家にそれが必要がなくても、読者にはそれが必要なのだ。

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ディーン・クーンツ スティーブン・キング

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ドラゴン・ティアーズ
ディーン・クーンツ

白石朗訳新潮文庫


ニードフル・シングス
スティーブン・キング


芝山幹郎訳文春文庫

「前千年紀混乱症候群」キィワードは「責任感」?

キングのニードフル・シングスからクーンツのドラゴン・ティアーズまで立て続けに読みました。どちらも今までに読んできた両氏の作品から比べると戸惑いを感じました。キングの作品で最近読んだのはグリーン・マイル、あれには冬場読んだせいもあるのか、大きな暖炉に太い薪をゆっくりとくべていくような読書の感触があったんだけど、、。
ニードフル・シングスはその薪になかなか火がつかない。ついてからは、「これはスプラッタコメディを意識した作りなのか、それともホラーファンタジーなのか、、」読み進めていってもこちらの波長が合わないのです。結果的に「読む」にのめり込めない。確かに、「ゴーントさん」にはめられた女性二人が共に刃物をもって真昼の決闘をするシーンはどきどきさせられましたが。そしてクーンツ、氏の作品はとても面白くて一時期貪るように読んだこともあったし、恥ずかしながら読書中に涙を流した事もあります。でも今度のドラゴン・ティアーズでは、、、。いえいえ(面白くない)なんて事はありません。のっけから「Xファイルをもしもハリウッド映画のアクション物にしたら」という乗りで、二人の男女の警官がマネキンだらけの屋根裏倉庫の闇の中で、精神異常の犯罪者を追跡し、挙げ句の果ては犯罪者が手榴弾まで持ち出して、読者サービスに勤めます。
そしてそして片一方の主役であるモンスターが早々と、何か煮え切らない形で早々と登場し、、。でもクーンツ節はいつ出てくるんだろう。どんどん映画でも見ているようなシーンの繋ぎが連続して行くだけで。文庫の帯には(もはや面白いだけのクーンツではない!)とか巻いてあるのに、、、。確かに本編のヒロインであるあるコニー・ガリヴァーはしつこくアメリカの病んだ部分を告発はするのだけれど、これもよくある設定で(面白いだけでない)内容にはなりきっていないような気がするし、、。とかなんとか言っている内に下巻。ここあたりからクーンツ節が滲みあがって来るんですね、やっぱり。


「真の自由・・・責任から逃げる自由ではなくて責任をともなう自由というのは、大人がいだく幻想としての価値があるわ。でも名声は、安っぽい昂奮でしかない。未成熟な人間でないと、名声を心の底から楽しむことはできないわ−−−そう思わない。」

コニー・ガリヴァーが同僚の警官であるハリー・ライオンに語りかける言葉。賛成。大賛成!と思わず頷いてしまう。私は、作品の中の人物にこういう言葉を吐かせる事ができるからクーンツはクーンツなのだと思います。でもあるんですよキングのニードフルの中にもこういった場面が(というかこれがニードフルの本当の軸なのかな?)。主人公のアランパングボーン保安官は妻と息子の事故死に深い傷をおっており、方や彼と新しく恋仲になったポリー・チャーマーズも自分の赤ん坊を若い時期に亡くしている。この二人が、自ら背負ってしまった「責任」をどう処理していくかが、スプラッタコメディの底流にしっかり流れている。もしかしたら「前千年紀混乱症候群」が蔓延している今というこの時代の中にあって「責任」をいう言葉はとてつもなく重要な言葉としてこの二人の作家の目に映っているのかも知れませんね。では最後にクーンツ節をもう一つ。


= 問題は責任を進んで引き受けてしまうことや、自ら好んで人並み以上の責任の重みに耐えることにあるのではないかと、彼は気づいた。 そうか、くそっ、まったくちがう、人を守れなかった失敗にきちんと対処するかわりに、責任感を持ち出して、すり変えているのが問題なのだ。 人間ならば、ときどき失敗を犯し、そして、しばしば失敗というものは、個人に責めを帰せられぬ、避命的なものだ。 失敗して学ぶべきは、立ち直るだけでなく、立ち直りを楽しむことだ。失敗も彼から、その喜びだけは抜き去れない。
 人生の楽しみから顔をそむけるのは、もしも神を信じる−−そして、信じていない愚か者もいるだろうが−−者ならば、罰当たりなことだ。 つまり、「他人は失敗するが、わたしは失敗できない。なぜなら、わたしは並みの人間ではない、きみたちとはちがう、天使と神のあいだにあるからだ」といっているのも同じだ。 なぜスコットを失ったかわかった◇彼自身が、人生に対する愛着、楽しむ気持を失くしたからこそ、息子に有意義なものを分かちあたえられず−−あるいは、スコットがニヒリズムに陥りはじめるのを食い止められなかった。 この瞬間、もしも生きる理由を数えあげたら、そのリストは数項目にはとどまらないだろう。百項目になるかもしれない。数千かもしれない。=

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リチャード・コールダー

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「アルーア」

リチャード・コールダー

浅倉久志訳

トレヴィル発刊

「アルーア」 リチャード・コールダーの楽しみ

どうして、この人の事を忘れていたんだろう?私の創作の最も偉大なる近似値、リチャード・コールダー。それはおそらく彼が上品すぎるから?そして彼の第二作の作品を読まないのは私の嫉妬心から?以下、彼の作品の中で、ガイノイド泥棒である貧相な東洋の小悪党モスキートが、一皮剥いて人造美少女に化ける(元の姿に戻る?)シーンをご紹介します。この耽美素敵です。モスキートを抱きしめたくなるから。

暑さにひび割れたドレツサーの上に、クリームと、ドーランと、パウダーと、軟膏と、皮膚軟化剤を並べた。それから女物の服をそろえ、昼間の皮膚を脱ぎ捨てて、ドールに変身した。鏡の中の分身がウインクをよこした。この妹は繊細な子供っぽい顔だちで、まだ頬のあたりにおさな太りが残っている。そこにツッパリ風の感じをつけたしているのは、ボブヘァと、三百月形のいたずらっぽい目、ふたつの黒い太陽のように燃える目だ。ちょっぴりとがった唇は、欲望と侮蔑の両方を伝えている。そして肌は−人造女特有のしみひとつない、磨きぬかれた肌は−見るからに合成物めいている。きょうの衣装?豹の毛皮模様のボディ・ストッキングと、十五センチの錐刀。もちろん性器は(いつも厄介だが)スコッチテーブで固定し、恥丘のふくらみに見せかける。ほほえんで、犬歯をチェックした。完壁。ベッドに寝そべって、フィジヵル・カルチャーの雑誌を拾い読みした。ラジオが、ブワッ、ブワッとまわる無関心な扇風機相手に、恋の喪失と発見の物語をささやいている。

 

D・プレストン&L・チャイルド

 

地底大戦 レリック2
D・プレストン&L・チャイルド


富永和子訳 

扶桑社ミステリー

「ミミック」と「地底大戦」

まずは映画「ミミック」から。これは私にとっては、とても「拾いもの」の映画でした。「エイリアン」が発表されてから、この手のものは、かならず「エイリアン」のベースを模倣するというのか、テイストから離れないないのだろうと思っていましたが。

この昆虫の「擬態」のアイデアを、ここまでもってこれた事、それを具体的に映像に出来たこと。これは「ミミック」にとって最大の強みだと思います。荒廃した迷宮のような地下鉄に亡霊のように佇む背の高い男、、。まさか、この男が、、。

「大都市の地下に広がる巨大な大迷宮」と言えば、レリック2「地下大戦」。これも拾いものですね。結末が少し貧弱であるけれど、とにかく面白い。冒頭、警官がドライスーツを着込んで自分の鼻先さえ見えない泥水の中で、首のないミイラ化した遺棄死体を発見する滑り出しあたりから、もうドキドキさせられます。映画のレリックを見てから、あるいは第2作という条件下で、これほど面白く感じさせられたのは、この作品自体が非常によく練り上げられた構成をもっているからでしょう。そしてやはり「虚構のように見えるけれど、実は、ありえる現実」がレリック2のおもしろさを支えているのだと思います。大都会の地底に広がるジャングル。そのジャングルの樹木は文明の汚濁。そのジャングルに潜む猛獣達は、、、、。

 

ニコラ・グリフィス

 

スロー・リバー
ニコラ・グリフィス 

幹 遙子訳 ハヤカワ文庫

 人生を「川」に喩えるのは古今東西、何処も同じ事。この作品の川の象徴は万華鏡のようで、ある時は環境汚染問題の象徴であったり、「衣・食・住そして性を含めた生活の楽しみ」の象徴であったりもする。

 主人公が、同じアパートの住人である老人から貸し与えられた犬と、川に散歩に出かけて一時のリフレッシュを得たり、屋上から眺めおろす川を見ながら思索してみたりといった場面は、私の感性にとってく重なる部分が多い。
 でも少し引っかかるのは、主人公の女性が、レズビアンであるに関わらず(あるいは世界を見る感受性が完全に女性のものであるに関わらず)、それが結局、男世界の物語の価値観を引きずっているという事。 私は、この物語を読みながらひどく心地よい気分に浸っていられたのですが、唯一その部分だけが私をざらついた気分にさせていたのです。
作中の人物で私の大好きなスパナー(女ハッカー、誘拐犯から逃れて瀕死の重傷を負った主人公を助けて、後に彼女と、抜き差しならない関係になる険な女性)が、主人公を「小公女様」と詰る場面があるけれど、それはニコラグリフィスの自己批判ではないかしら。
 でも、この作品にはそれらを越える「女性」が満ちあふれている。それが私のような人間には心地よく感じられるのです。それにこの物語の主な場面設定の一つに上げられる近未来の下水処理場と、そこに働く人々のコスチュームはとてもフェテッシュなんです。

 例えば厚さ1ミリ半のスキニースーツや、コウモリの翼のような上半分を持つ防護スーツ、そのほか顔にぴったりと密着するマスクやフード、ネオプレーン製のブーツ等々。
 まさに私のテーマであるSMFにぴったりの作品です。

 

殊能将之

 

ハサミ男
殊能将之

講談社ノベルス

 色々な書評で話題になったミステリィである。私はシリアルキラーものが大好きだが、この手の分野は、書き手の人間に対する洞察力が作品の質を左右するものだとも思っている。だからハズレの作品はどうしようもなくハズレで、そういった意味でなんでもかんでも読もうと思っている訳ではない。(それに私の読書のリズムは「旬を外せ」だし。)
 それでも本を手にしたのは「ハサミ男」という強烈な題名があったからだと思う。読み終えてみるとこの題名自体に意味があるのだが、、、それはさておき、個人的な評価を述べれば、なぜこの作品がそれほど高い評価を得るのかが余り理解できないというのが正直な所である。勿論、面白くない訳ではない。(面白くないものや印象に残らないものはこのコーナーには取り上げないのだから)
 一つの事象を複数の人物の視点で切り分けて書く構成は、特別な方法ではないけれど、こういう使い方をされると、「なんでもあり」になってしまう気がする。それに、どこかの書評でハサミ男に対して「シリアルキラーものが提起する人間の狂気、云々。」を読んだ気がするが、それを言うならもっと凄みがあって完成度の高いミステリィ作品はいくらでもある。このコーナーで取り上げたエルロイのキラー・オン・ザ・ロードなどかなり過去の作品だが、その水準にハサミ男が迫っているはずがない。
 それでも「面白い」。その面白さはおそらく読者が途中までこのハサミ男を肯定し尚かつ好きにさえなるからだろう。ハサミ男は「空っぽの男」を自らに規定するが、ハサミ男の行動はどう考えても「空っぽ」ではないからだ。それがこういう結末にもって行かれると読後感が妙にぎくしゃくとしたものになる。読者が作者に「いっぱい食わされた」そんなものでさえないと思う。かと言ってどんな結末なら良いのか、これも思い浮かばないのだが。今、私は中上健二を「漢字練習帳を使っての書き取り練習」のような扱いでひどくゆっくりしたペースで読み続けている。
 中上の作品の中には男や女の濃密な狂気が現れる。勿論、今の日本社会であのような「地」に縛られた情念は低下しているであろうが、やはり現代の日本人の狂気は、今しばらくは中上の色に染まっていると思う。
 だから私は殊能作品の最後に登場する人物が小説上においても基本的に成り立たないと感じてしまうのだ。殊能氏がもう一度作品を出されたら、今度は楽しみにして待てるとは思うのだけれど、、。

 

ジェフリー・ディーヴァー

 


ボーン・コレクター


ジェフリー・ディーヴァー

文芸春秋 
訳:池田真紀子

壊れた完全な人々

驚くほど魅力的な人物の造形。とくにサックス巡査「こんな女性警官いないよ。」と思いながら、もしかしたら、、と思いこませる旨さ。その技術にのっかるスーパーヒロインが魅力的でないはずがなく、、。最後にはこの彼女にもう一度逢いたいとさえ思ってしまう。勿論、サックス巡査の、臨時のいけ好かないボスであり本編の主人公である安楽椅子探偵ライムの造形もすばらしい。この二人に共通しているのは容姿端麗・頭脳明晰で抜群の行動力を持つという完璧な人物設定のくせに「壊れて」しまっているということ、、、それだから魅力的なんだけれど。「ボーン・コレクター」これはもう近緒の一番のお勧めです。絶品です。

「だが、忘れることにした。いつまでもそんなものを引きずりながら仕事を続けられるわけがないだろう?」ライムの言葉が心に残ります、、。