■ 激走!!まぼろしトラック ■

13:虚(ウロ)

「大広間の左側にある廊下を右手に進む。大広間から数えて九番目の部屋の奥に照葉がいる。座敷牢の中だ。会ってから答えを出すがいい。」
 三平の指示を頭の中で何度も反復しながら理恵は屋敷内を駆けた。もうすぐに照葉に会える。こんなに簡単ならあの時すぐにでも神室家に直談判に来ればよかったんだ。
 理恵はそう思ったのだが、実際は、違う意味で「簡単」ではなかった。

 さっきからいくら廊下を走っても前に進まないのだ。廊下の突き当たりに見える壁が近付いてこない。
 不思議な感覚だった。
 立ち止まると自分と建物との関係は正常に戻っているのだが、走り出すと足が廊下の板面を蹴っている感覚があるのに前に進めない。
 いや、自分では進んでいると思えるのに光景が変わらないのだ。理屈で考えればルームランナーの上を走っているようなものだが、自分の感覚ではそんな不自然さはまったくない。
 夢の中ではよく出てくる光景だが、現実にそれが起こるとなんとも説明の付かない奇妙な感じだった。
 それに、貧血で倒れる前の、奈落の底に落ち込んで行くようなあの感覚がずっと続いている。
 理恵は思い立って背中にくくりつけている矢筒から矢を一本抜き取り弓にあてがった。斬馬さんが念を込めておいたと言った矢だった。
 理恵は鍛えに鍛えた揺るがぬ凛とした姿勢で、その矢を廊下奥にある正面の壁に向かって放った。
 矢はいつもの様にまっすぐ的に向かって飛んでいき壁に突き刺さった。
破邪の矢、、私はあの矢のようになればいい。理恵はそう思って再び走り出した。

 理恵が座敷牢に到着するまでの時間は、こちらで調節出来る。蛸蜘蛛桜が発生させる時空への影響力は自分のコントロールを離れ乱れているが、屋敷に入った人間の一人や二人への干渉力程度は、保持出来ていた。
 三平は照葉になるために地下室に降りた。
 照葉になるのは久しぶりの事で少しだけ興奮を感じた。だが三姉妹を手に入れた頃の興奮とは比べモノにならない。
 当時はこの興奮は永遠に続くものと思えたが、それは暫くして冷めた。その時、自分はつくづく業の深い人間なのだと改めて思った。
 柊の妹の身体を自分に少し接ぎ木して、その業は癒えるかと思ったが、煮えたぎる欲望は方向性を変えただけだった。
「・・だがこの皮、以前より肌の馴染みがよくなった。」
 自分の身体に「女」を混ぜたからだと三平は思っている。それが科学者としての思考とかけ離れた所にある事は自覚していたが、それよりも超常的な力を発揮できる自分自身と感覚の方を信用していた。
 シリンダーから取り出したばかりの照葉の生きた皮は、ひんやりして心地よく少し脂の乗った表面は驚くほどすべらかである。
 照葉の皮を装着する前に、この肌触りを味わっていたい誘惑にかられたが、いくらなんでもそれだけの時間的なゆとりはなかった。
 理恵などなんとでもなったが、理恵を欲しがっている母親は飢えすぎており、時間をおけば何をしだすか判らなかった。
 そうなればいくら三平でも母親の精神状態とリンクしている蛸蜘蛛桜を、もう一度制御下に置くのは難しくなる。

 三平は着ているものをすべて脱ぎ、最後に自分の頭部を覆っている黒いラバーマスクを引き剥がした。その下から鶴継、いや柊冬子の顔が現れる。
 照葉の背骨に沿った形に通っている一本の薄い筋を指先の感覚で見つけだし、さらにその先端がうなじの毛の中に潜り込む位置を探り当てる。
 そこにある小さな皮膚のしこりが、この人体スーツのファスナーのプルトップだった。
プルトップを摘むと一気にファスナーを引き下ろし、照葉の背中を裂いた。
 スーツの裏側はその表面と打って変わって、消化器官の内壁を思わせるようなグロテスクなものだった。
 実際、スーツの中につま先をそっと入れるとそれは三平の肌に蛭のように吸い付いてこようとする。
 三平はその動きを無視してストッキングを巻き上げるように照葉の脚をまず履いた。
 次にペニスを納める内袋を皮から探し出して、そこに自分のペニスを挿入する。すでに三平はかるく勃起していたからこの作業は簡単だった。
 照葉の下半身を腰まで引き上げると、「皮」が勝手にウエストのサイズを本来の照葉のそれまで引き絞ってくる。
 こういう機能だけを取り上げて見ると、このスーツ自体が自らの意志で生きているように錯覚してしまうが、むろんそれは単なる「皮」が人を取り込んだ時に起きる条件反射にしか過ぎない。
 そして照葉の胸の裏に自分の胸を合わせる。
 自分の乳首を中心に、蜘蛛の巣のようなものが張り巡らされてそれが、照葉の乳房の感覚とシンクロする。やや小振りだが若々しい照葉の乳房が、その感覚も含めて三平のものになったのだ。
 最後に三平は、照葉の口の裏側に飛び出た男根状突起をマウスピースのように口にしっかり咥えると、照葉の顔を上に向かって強く引っ張り、皮の余裕を出した上でその中に自分の頭部を潜り込ませた。
 暫く、身体全身がむず痒いように感じられたがそれはすぐに収まり、自分が裸で地面にたっているような自然な感覚に収まった。
 身長は本物の照葉より少し高い。けれど体型は完全な補正が効いているので、視覚的には本物と見分けは付かないだろう。
 声は人体スーツでは変えられない。声まで変える細工も出来ないわけではなかったが、三平は本人に成り済ますためにこのスーツを生成したのではないのだ。
 それに三平自身が女性の声を出せた。
 これは鶴継を接ぎ木した時の副産物のようなものだった。
 だがそれが照葉のもの似ているのかは判らない。しかしそれは半年以上、空白のある理恵にとっても同じ事だろうと思った。
 理恵にとっては、違和感だらけの照葉だろうが、照葉は半年以上も幽閉されていたという思いがその違和感を和らげるだろう。
 それにいざとなれば理恵を騙し果せなくとも構わなかった。目の前にいる照葉が、中身のない抜け殻になり果てていること、しかもその中身が三平である事を知ったら理恵は絶望の淵に落ちるだろう。
 そして次にどす黒い怒りに染まるに違いない。そういった人間の脳髄から抽出されるマイナスの強い感情こそが母に与える薬のコアになるのだから、、。
 それは理恵の身体を蛸蜘蛛桜の「虚(うろ)」に放り込むだけで取り出せる。理恵の皮のコレクションなど、以前ほどの執着はなかった。
 それならばあの羽蘭とかいうオカマの身体にずっと興味がある。しかしまあとにかくここは、母親の気狂いをなんとしてでも納めることだった。
 「虚」は三平の力を半減させる力場でもあるのだが、それもこの際、大きな問題ではなかった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  実は進んでいる。ある時、そういう認識が理恵に芽生えてきてそれからは楽だった。永遠に続くかと思えた廊下での疾走が、通常の運行に戻りつつある。
 きっかけは、やはりあの斬馬が念を込めて手渡してくれた矢を正面の壁に射こんだことだった。
 大広間から数えて九番目の部屋の奥まで、たどり着いて理恵はそう思った。
 さあここからが私の勝負、、弓道の試合の時のような気合いを入れて、理恵は最後に残った襖をいきよい勢いよく払った。
 太い白木で作った格子の向こうに和服を着た照葉がこちらに背を向けて横座りに座っていた。ストレートな長い黒髪、、何度、その黒髪に自分の指を巻き付けて遊んだことだろう。
「照葉!」
 理恵は叫んだ。しかし照葉は振り返らない。
 もしかして照葉は、耳を痛めたのだろうか、、それともその顔に何か傷を負った?
それらを確かめようと理恵は格子に取り付き、再び「照葉」と叫んだ。
 少し照葉が後ろを振り向く、まだ理恵からはその顔がすべて見えないが、照葉には理恵の存在が見える角度の筈だった。
「こっちを向いてよ照葉、理恵よ。こんなに待ったんだから、こんなに探したんだからぁ。」
「止めて。今、理恵とあったら別れられなくなる、、。」
「何言ってるのよ。一緒にここを出ようよ。」
「無理、、三平様が言ったでしょう。ここに私が残るか、あなたが残るか二つに一つだって。」
「何、馬鹿なこと言ってるの。二人で逃げるのよ。三平なんかに邪魔させないし。」
「理恵は三平様の本当の力を知らないのよ。」
「三平、三平って私は照葉のなんなの。私、照葉のことずーっと思い続けて来たんだよ。」
「だったらこの牢を破ってここに入ってきて。」
 勿論、理恵はそうする積もりでいた。
 だが先ほどから目で探している限りでは、格子の壁にある出入り口には、大きな錠前がかかっており、そして無論、それを開ける鍵はどこにもなかった。
 三平が持っているのだろうか、、、三平と対決する、、照葉を見て安心した瞬間から理恵の中から闘争心が半分ほど弱まっていた。
 こんな状態で三平から鍵を奪えるのだろうか。

 ・・・もしかしたらと理恵はある事を思いつき錠前に取り付いた。
 その鍵穴に矢の先を当ててみる。ぴったり同じ口径とは言わないが、鏃は旨い具合にその中に入り込みそうだった。
 斬馬さんが念を込めた破邪の矢。超常的な事ばかりが起こるこの屋敷の中では、自分にとっても有利な働きを、この矢はしてくれるのではないかと思ったのである。
 現にさっきは無限に続く回廊からこの私を助けてくれた、、、理恵は一心に鍵穴に入れた矢先をこじりだす。
 中で幾つかの金属が動く気配がする、すると間もなく錠前が音を立ててはずれた。
 驚いたような表情を浮かべた照葉がこちらを向くのと、理恵が牢中に飛び込むのが同時だった。
 その照葉の顔を見て、「あれ照葉なんとなく変わった。」と思った理恵だったが、その理由を確かめる事が出来なかった。
 なぜなら次の瞬間、理恵は牢内の床にぽっかり空いた、落とし穴の中に落下していたからである。


 鶴継君の部屋からアタシの部屋に寄った。別に余裕があったからじゃない。
 彼を助け出す、その思いで三平屋敷に戻ってきたのはいいけれど、アタシには、彼、いや彼女の居場所にまったく見当を付けられなかったからだ。
 アタシの荷物は全部無事だった。スーツケースの奥にそっと隠しておいた鶴継君のフェィスマスクも、、、服を着替えた。
 スリムジーンズに履き替え、黒のピタTシャツの上からデニムのショートジャケットを着たら少しだけ人心地が付いた。幽霊眼鏡はジャケットの胸ポケットに収め直した。
 さらに、どでかい金色のバックルの付いた飾りだらけの幅広ベルトに断ち鋏を差し込んだら、サムライみたいに刀を腰にはいたような気になった。
 背中に背負える形のヴィトンのポーチに、この前持ち出し損ねた貴重品の残りとフェイスマスクをしまい、部屋の中で持ってきたハーフブーツを履いた。
 畳の間だったけど全然関係なかった。ここは戦場なんだから、口うるさいタネ婆さんだって今回ばかりは許してくれるだろう。
 それにしても鶴継君はどこにいるんだろう。なんにしても鶴継君が、終焉を迎えつつあるこの屋敷のどこかの部屋で一人怯えて閉じこもっているというような事だけはないだろうと思った。
 それに先ほどタネ婆さんの鋏から流れ込んできたあの物語というか柊の記憶、、、もしあれが真実なら、鶴継君は、三平屋敷の異変の中、人の肉体を改変すべく用意されたあの地下室にいるのではないか。そこで鶴継君がどんな役割を背負うのか、そこまでは判らなかったが、鶴継君ならそれから逃げないだろうという気がしていた。
 とりあえず、いやだけど、あの忌まわしい地下室へ行ってみなければ仕方がないだろうとアタシは考え初めていた。

 ミクロの直径からセンチメートルの直径までの幅を持つ蛸蜘蛛桜の根っ子が、そこでは複雑に絡み合っていた。それは全体としてみると、電気信号を通じ合う機能を持った、一種の神経網と言って良かった。
 更に細胞レベルで見ても植物と動物のハイブリッドである蛸蜘蛛桜の根の集合体である「神経網」は、さらに奇々怪々な代物でもある。基本は動物のそれによく似ているが、部分的にはあろう事かシリコンや金属ま取り込んでいるのだ。
 その神経網の、最も密集した部分が、三平が「虚(うろ)」と呼んだ洞の壁面だった。
 それこそ柊篤郎が、「人造生命生産工場」とも「不死さえ可能にする巨大病院」とも呼んだ存在だった。
 ここで柊冬子は鶴継として再生し、紋場三姉妹は生きた人肉スーツに変えられ、三平は自らが理想とする肉体の持ち主として変身したのである。
 そしてこの「虚」が可能にする最大の秘術は、過去において蛸蜘蛛桜が育てられた目的そのもの、つまり「不老不死」だった。

 ここは地底にある空間だろうと思った。馴染みのある湿った土の匂いがしたからだ。先ほどから衣服からむき出しになった皮膚の部分がちりちりとする。
 蟻だと、思った。
 けれど恐怖はなかった。
 理恵の住む地方では人を咬む種類の蟻の存在は聞いたことがなかったし、幼い頃の遊びと言えば、土遊び等はざらで、蟻など虫の内に、はいらなかったからだ。
 しかし今、その無数の蟻が理恵の身体に取り付き、やがて理恵全体を地面から持ち上げ、巣穴へ運び込もうとしている。
 目さえ醒めれば、相手はいくら数が多くても小さな蟻にしか過ぎないのだ、すぐに追い払える。
 理恵はそう考えたが、肝心の身体が指一本動かせない。暫くすると、蟻たちによって、女王の間のステージに理恵の身体は横たえられる。
 今度は蟻達の手にはシャベルが握られており、蟻達はそれを使って理恵の身体に土を一斉にかけていく。
 仰向けに横たえられた理恵の身体はあっと言う間に半分ほど土に埋もれ始め、ここまで来るとさすがに理恵は、恐怖を感じ始めた。
 このままだと生き埋めにされてしまう。生き埋めにされ、いずれは女王蟻の餌になってしまう。
 今すぐ土をかけるのを止めさせなければ、、止めて、、お願い止めて、、やめてください、、止めろ。止めろ、止めろ!!

 目が覚めた。
 叫んではいなかったが、喉がからからで全身が重かった。
 やっと目が覚めたというのに、周りの状況の理不尽さは、先ほどの夢とそう代わりはないようだった。
 いやどうやら夢の方が救いがあるようだった。
 自分の頭は何かに固定されていて、視界が眼球の動く範囲しか確保できない。
 身体全体も同じ様なものだった。
 要するに先ほど見た夢は今の状況を言い表していたわけだ。
 夢では仰向けにされて、土に半分埋もれていたが、現実では仁王立ちのポーズで壁か何かに縦半分・身体がめり込んでいる。
 いやめり込んでいるのではなくて、ツタのようなものにびっしりと巻き付かれているのだ。
 さらに薄闇に目が慣れてくると、ここが地底の女王蟻の間ではなく、得体の知れない植物群によってその表面を覆い尽くされた小さな卵形の洞窟だということまで判った。
 出口は正面、、上の方から時々、なま暖かい風が吹いているから、上部にも外界と繋がっている穴がある可能性もあった。
 えっ!?私はその穴からここへ落ちてきたの?理恵は唐突にそう考えた。
 思いだした!
 私は照葉を助け出すために牢に入ったのはいいけれど、途端に床が抜け落とし穴に落ちたのだ。
「目が覚めた、、理恵?」
 正面の出口を人影が塞いだ。いやその人物からすると入り口か、、逆光で人物の特定が出来なかったが女性の声だった。
「今、ここを明るくするわ。」
 声がそう言った途端、洞窟の内壁部全体がぼんやりと発光した。
 複雑に絡み合った植物の中でも、苔類の類が発光しているのだろう。
 そうやって浮き上がった洞窟の内壁の詳細は、余り気持ちのよいものではなかった。
 その殆どは、根や蔦・羊歯類である筈なのに、なぜか自分が巨大な内蔵や消化器官の内側にいるような印象があったからだ。
 さらに驚いたのは声をかけてきた人物の正体だった。
「照葉、無事だったのね。」
 そこにいるのは、思い焦がれてきた自分の恋人である筈なのに、この再会には酷い違和感を感じていた。
 小さい頃、ある日、何の前触れもなく、自分の母親が本当の母親ではないのではないかと感じられるような奇妙な感覚。
 解けかけた、だらしない帯、、乱れた長髪、、自らが踏みつぶした植物のどす黒い緑に染まりかけた白い足。
 ・・・それでもそこにいるのは照葉だった。
 照葉がどんどん近付いて来て、その息が顔に当たる所まで来た。
 照葉の唇が理恵の唇に重ねられ、舌が割り込んでくる。
 放課後の体育館裏で、裏山で、たまに遊びに出かけた街の映画館で、、何度も交わした口づけ。
 違う!照葉じゃない。
 それでも理恵の舌は、照葉が差し込んできた舌に応えてしまう。
 唾液を啜った。
 照葉、、ああ照葉、愛しい人。
 照葉の幻に重ねて、目の前の女の唇と舌を貪る理恵。
 そんな理恵の反応を楽しむかのように照葉は理恵の顔全体をその唇と舌で犯しはじめる。
 理恵の形のいい鼻全体を口に含み舌で舐めあげる。
 くはっ、、思わず息継ぎをする理恵を見て今度は照葉の指先が理恵の制服のスカートの下に潜り込む。
 この状況の恥ずかしさに理恵の腰は照葉の愛撫から逃げようとするのだが、蔦にがっちりと固定されたその肉は微動だにしない。
「ちょっと・・・ちょっと止めて、止めてよ。今はそんなことしてる場合じゃないでしょ。」
「えぇ?どんな場合なの?そんなこといいながら理恵の、濡れ初めてるよ。」
 照葉はその身体を理恵に押しつけながら、今度は空いた手で、制服の上から乳房をわしづかみにしてくる。
「えっ!なんで!」
 理恵は、自分の太股の上に押しつけられてくる、太い棒のようなモノを感じた。
 それは照葉の股間にあった。
「・・邪魔なんだよな、、もう。」
 照葉は、そう言うと、今はもうかろうじて自分の身体に引っかかっているだけの着物をその場で脱いだ。
「ああ、そうか、もっと見えるように下がってやるよ。」
 照葉は、全裸のまま理恵の側から数歩下がった。
 照葉の股間からペニスが天を突き上げるようにして生えて出していた。
「あんた、誰?」
「誰だと思う?」
「本物の照葉をどうしたの?」
「本物だよ。今、お前の目の前にいる。」
「・・判らない、、、照葉は三平に男にされちゃったの。私たちがレズだったから?」
「ほう、、面白いな、混乱するとそんな風に考えるんだな。」
「・・その言い方、あんた三平ね。どうして照葉に化けてるの!」
「化けてるんじゃない、照葉を着てるんだよ。そう服を着るみたいにね。」
「今、脱いで見せるからそこでよく見てるんだな。」
 そう言い終わると、照葉は自分の口を大きく開けるや否や両手の指先を口の端にひっかけた。
 照葉の口の中で舌が突き出されかと思うと、今度は蛇が脱皮するみたいに舌全体がくねくねと動いた。
 プシュウという微かな音が聞こえたかと思うと、その舌は中身の抜けた殻のようにぺしゃんこになった。
 そしてそれと同時に照葉の顔面がほんの少し緩んだように見えた。
 今度はその手の指先を上唇と下唇のそれぞれにかけかえ、それをまるで顎と顔半分を外す勢いで上下に引っ張る。
 照葉の顔がその口を中心にして上下にぐにゅうと伸びた。いや伸びたのは照葉の顔面の皮膚だけだった。
 その下から理恵の知らない、又、別の美しい顔が現れる。今や照葉の顔は、その新しい顔の首の回りに垂れ下がっている一房の革袋にしか過ぎなかった。
「やれやれ、こうやって素顔を見せてやってもまだピンとこないようだな。」
 そういうと自らを三平と認めた男は、さっき脱ぎ捨てた照葉の着物の束から黒いゴムマスクを探し出し、それを新しい顔の上に被った。
「さあどうだ。」
「・・三平、、ナメクジ三平、、。」
「でも、でも、照葉を本当にどうしたの?」
「だからさっきから言ってるじゃないか、これが照葉だって。」
 三平が自分の首にマフラーのようにぶら下がっている照葉の顔を理恵に見えやすいように手前にたぐり寄せて見せた。
「それって本物なの、、中身はどうしたの?」
「中身は捨てたよ。中身が欲しかったわけじゃないからね。ああ、そうか、中身は君に返してあげればよかったかな。」
「・・ざけんなぁ、、、ざけんじゃねえよお、、。照葉を返せ。生きた照葉を帰せぇ、、。」
 理恵の苦悶に満ちた言葉を聞いた途端、三平が唐突に目を瞑った。
 未だに勃起したままの三平の男根から 精が放たれたのだ。
 それも大量に、もう少しで理恵の身体に届くかと思えたほど勢いがあった。しかしそれは普段の三平にはあり得ない暴走だった。普通なら高まった三平の性欲は「力」に還元され、蓄えられるのが常だったのだ。
 三平の力を干渉する「虚」の内部ならではの出来事ではあった。
「ふぅ、、気持ちがいい・・・なんで人の苦痛はこんなに気持ちがいいんだろう・・」
 三平は自分の手でペニスの濡れた先端をぬぐい取り、その指に付いた残滓を黒いマスクで覆われた口で舐め取った。
「うっ、、。」
理恵は嫌悪感で本当に吐きそうになる。
「・・だっ、黙れ、この変態野郎、、お前なんかに一度でも泣き顔を見せたのが恥ずかしい。お前・絶対殺す。絶対・殺してやるからな、」

「あっあ?ああ・やって見るか?お前、自分の両手に何を握っているのかまだ判ってないようだな。」
三平はいかにも面白そうに言う。
 理恵は、そう言われてやっと自分の両手が、細くて固い何かを握っていることに気が付いた。
 限られた眼球の視野では、水平に長く広げられた腕の先までは視認しずらかったし、その両手は蔦や根にびっしりと覆われていたのだ。
 それらの緊縛力が強く理恵の両手はいつも痺れたような感覚になっていて、自分の手が何かを握っていることすら判らないでいた。
 弓と矢、、理恵はあの座敷牢から転落する時すら、それらを手離さなかった事になる。破邪の矢、、、これなら、と理恵は思った。
「お前が右手に握っている矢から、斬馬とか言う爺さんの力が見える。この虚の中にあって大したものだ。どうだ理恵、最後の勝負にかけて見るか。この力比べ面白そうだ、受け立ってやってもいいぞ。」
 理恵は右手を自分が張り付けられている壁から引き離そうとする。
無理に引き剥がせば自分の手は自由になったとしても、同じように蔓に絡め取られている肝心の矢が折れるかも知れない、、そう一瞬考えたが、そんな普通の矢なら、目の前に立つ三平という化け物じみた男も倒せないような気がした。
 第一、破邪の矢を意識した途端、それを握っている自分の右手から生命エネルギーと呼べるような気が再充填されるを実感しているのだ。
 今、それを信じるほかに理恵に為す術はなかった。
 実際、右手が数センチ、戒めから解かれはじめていた。
「お願い、、私の左手にも力を貸して・・貴方を射る為の弓がいるのよ。」
 左右の蔓や根がビチビチと引きちぎれる音がした。理恵は渾身の力を込めて、自分の両拳を自由にしようと必死になっていた。
 そんな理恵の様子を舌なめずりするような表情で三平が眺めている。
 一瞬よ、一瞬で勝負を付ける。
 もし両手が自由になったら、矢と弓が無事に使いモノになったら、一切の躊躇を捨てて、矢を番え、目の前の三平の胸のど真ん中を撃つ。
 この距離なら私は絶対に外さない。私の照葉をこんな風に汚した変態悪魔は絶対に殺す。
 そしてその時は突然やって来た。
 理恵の両手が自由になると、その手にはそれぞれ矢と弓が握られていた。両手首には数本の細い根が巻き付いているだけだ。
 理恵は矢をつがえる。相手は今までのどんな試合より打ち抜きやすい的だった。
気力も気迫も充実している。
 ぎりぎりまで張りつめられていた弦がブンと唸った。
 突如、理恵は自分の左足に強い衝撃を感じた。
 それはやがて信じられないような痛みに変わっていく。
 しかし理恵は声を上げなかった。この上、三平に無様な自分の姿は見せられなかった。
「何っ?」
 右手と左手は今度、体側に降ろした形で蔦や根に引き戻されている。
一端、理恵の手首の戒めを解いたように見えた蔦や根が、彼女が矢を放とうとした直前に、再びその力を取り戻し、矢の軌道を変えたのか。
「ほほう、私じゃなく自分の足を射抜いてしまったのか、、残念だったな。あの矢はもうないぞ。それにほれ!」
 理恵はついに悲鳴を上げた。
 自分の矢が貫て出来た足の甲の穴の隙間にさらに何かがぎりぎりと入り込んできたからだ。
「もういい、蛸蜘蛛桜よ。我慢しなくていいぞ。この女のありとあらゆる穴から忍び込んでやれ。、特に悔しさと恨み辛みで彩られた苦痛に満ちた脳味噌の味は最高だぞ。」
 理恵の壁に埋まった両耳からは既に何かが侵入を果たしていた。
 それよりも自分の視覚で確認できる鼻の穴に動物の触手のような動きで根が入り込んでくる様子を見た時の方が理恵の絶望感は強かった。
「斬馬の念など、この私になんの影響力がある。騙してやったのさ。意識を失っているお前に弓と矢を握らせたのは私だ。わざとお前の戒めを緩めたのは蛸蜘蛛桜そのものだ。それをお前という馬鹿女は勘違いして、笑わせてくれたよ、、本当にな。」
 理恵の悲鳴の中に叫びが混じる。それは怒りなのか絶望なのか。


 柊は、今すぐにでも走り出したい気持ちを抑え、殊更にゆっくりとした足取りで三平屋敷を離れようとしていた。
 蛸蜘蛛桜の本格的な暴走が始まれば、その影響が屋敷を離れても数キロの範囲に及ぶことが判っていた。
 蛸蜘蛛桜は人の恐怖心を敏感に嗅ぎ取る。
 三平屋敷から脱出した柊が、恐怖心を感じながら移動を続けたら、真っ先に蛸蜘蛛桜に嗅ぎつけられ追いつかれる。それは判っていた、判っていたがそれ故にゆっくりと歩いた。
 ・・・柊にも男としての、いや悪党としてのプライドがあったのだ。

 三平屋敷の前に流れている川の南西方向に、やや小高い丘のような場所がある。県道といっても名ばかりの田舎道だが、それが丘のすぐ側まで繋がっている。
 両手に、屋敷から持ち出してきたデータを詰め込んだスーツケースが二つあっても、さほど苦にはならない道行きだ。
 柊は当面の目的地をそこに決めていた。
 多分、あそこなら蛸蜘蛛桜からの直接的な影響は免れることが出来るだろうし、何よりも、蛸蜘蛛桜の暴走の様子や三平屋敷の崩壊を自分自身の目で見てみたいという欲求が強かったのだ。
 勿論、柊の中には、自分の妹である冬子の最後を、たとえ遠くからでも看取りたいという気持ちもあった。
 冬子を死の淵から救ったのに、なぜか冬子はそれを喜ばなかった。冬子がそれでも生き続けたのは兄である柊の喜ぶ姿の為だと言うことは理解できていた。
 それと自分の血肉を分けた三平の為、いや、人の自然な生死から逸脱して生きることになった神室一族への共感と言うか哀惜の念に似た心情もあったかも知れない。
 だからこそ冬子は崩壊しようとする神室屋敷に残ったのだ。
 柊は、自分にもう無理矢理にでも妹を引っ張ってこうようとする気力がないことを自覚していた。
 それは自分の心の何処かで、冬子を再生させたこと自体の誤りを理解し始めていたからだ。
「・・・俺は結局、妹を見捨てて自分一人で逃げて来た。どう言いつくろうと現実はそんなもんだ。」
 柊はようやく目的地である丘の上に上り詰めて腰を降ろしながらそう呟いた。
 自分に言い聞かせる為だ。少なくとも妹に対してだけは正直な男だったのだ。
 丘の上からの三平屋敷は、見下ろすとまでは行かないにしてもその全景が余すところなく見て取れた。
 今の所、三平屋敷に目に見えるほどの変化はない。
 いやむしろ感覚的な部分では、あれほど強く感じた禍々しさが、少し和らいでいるような気さえした。
「・・ほう三平の奴、、もしかして薬をなんとか調達したのか、、、だが無理だぜ、三平。蛸蜘蛛桜の暴走は、もうそんなんじゃ押さえられない。蛸蜘蛛のコアになってる曾祖母さんの意識が完全に蒸発しちまったからな。」
「・・儂もそう思うな。」
 不意に背後から声を掛けられて柊は飛び上がった。
 振り返ると、そこに一人の傷だらけの初老の男が突っ立っていた。
 自分がキメラをけしかけて殺し損ねた男だ。
 キメラとの交戦で、衣服も身体も酷くボロボロだったが、はだけたシャツから見える胸は、あり合わせの布切れで手当した様子が見て取れた。
「斬馬だ。あの時は世話になったな。」
「ちっ、くたばりぞこないが、、。」
 そう応えた柊に気色ばんだ所はなかった。
「あんた、少し落ち着いたようだな。憑き物が落ちたようだ。」
「憑き物?そりゃあんな化け物屋敷に何年もご厄介になっていたんだ。多少は影響されても不思議じゃないな。」
「ここに座って良いかな。」
「ああ、俺だって金を払ってここの指定席を買ったわけじゃない。それにせっかく、俺をつけてきてくれたみたいだしな。」
 斬馬は柊と並ぶようにして腰を下ろした。身体を曲げる動作をすると、どこかが痛むのか斬馬は、顔を歪めた。
「儂らを最後に救ってくれた女性、冬子さんと言ったかな?あんたの妹さんだろう。ここには連れ出せなかったのか?」
「それを言うなら爺、お前もだろうが、どうしてここにあのウランとか言うオカマがいないんだ。」
「ウランは冬子さんを探しに三平屋敷へ戻った、、、。いや正確には鶴継君を捜してかな。」
 それを聞いた柊の顔が一瞬、歪んだ。
「・・冬子は三平屋敷と運命を共にする気なんだ。あのウランが冬子を救い出せるのか、、俺には判らん。」
 普段の柊なら応えるような内容ではなかった、それにその言葉にはいつもの棘がなかった。
「あんたにさえ、言うことを聞かせられなかったんだからな。」
 つい先ほど自分を窮地に追い込んだ相手に対してとは思えないほど、斬馬の声は暖かい。
「俺には冬子があそこに残る理由がいまいち、納得出来ないんだ。」
  柊にしても、少し前に自分が殺そうとしていた相手に対する物言いではなかった。どこか斬馬に縋っているような気配すらあった。
「なんだかあんたには冬子さんが屋敷に残った本当の理由が判っているような口振りだな。」
「三平や、その母親に同情してるんだよ。奴ら赤の他人なのにな、たった一人の肉親であるこの俺の事を無視してだ。考えて見れば理不尽な話だ、、。」
「普通ならそうだろうよ。しかしあんた、冬子さんを、無理矢理生き返らせたんだろう。」
 柊の心は軟化していた。
 本当なら(お前なぜそんな事を知っている。)と斬馬に間髪を入れず問いただしていたはずだ。
 自分の代わりに、あの羽蘭が冬子を助け出そうとしている。そしてここにいる老人はその羽蘭の保護者なのだ。そういう思いが柊を柔らかくしている。
「無理矢理ってことはないだろう。俺は冬子の兄だぞ、冬子はまだ結婚もしていない。そんな妹が事故にあって死にかけたんだ、人間なら誰だってその命を救おうとするだろ、、。」
「もし事故ならな。」
 (自殺)・・・その言葉を聞いて柊の顔が蒼白になった。
 自分の妹が自殺する、、そんな可能性について柊は斬馬に示唆された今の今まで、考えた事がなかったのだ。
 もし冬子が自殺しようとして、それを無理矢理、柊が再生させたのだとしたら、そして冬子を自殺に追い込んだ原因が未だに取り除かれていないのだとしたら、、冬子が三平屋敷に残る理由が判る。
 もう一度自殺するため、そして、同じ死ぬなら、誰かの役に立って死のうと心に決めたのだろう。
「・・・さっき儂は憑き物が落ちたようだと言ったろう。あんたはそれを蛸蜘蛛桜だと思ったようだが、それは違う。あんたに取り付いていたのは、冬子さんの生き霊だ。儂もあの屋敷にいる時は、それが判らなかった。あんたが屋敷の外の物陰に隠れて休んでいた儂の目の前を通り過ぎた時、それが見えたんだ。」
「冬子の生き霊だと。ふざけた事を言うな!」
 斬馬のこの言葉には、さすがに柊が気色ばむ。
「生き霊とは、本人がどうする事も出来ない相い矛盾する思いの底で生まれるものだ。当の冬子さん自身も気が付いていないんだよ。その生き霊はあんたを心底愛しながら、同時に怨んでいる。一体あんたと冬子さんの間には何があったんだ?冬子さんの自殺の原因はあんたにあるのじゃないか?」
 柊は膝の間に自分の頭を押し込んだ。
 泣いているようだった。
「余計な事を言ってすまんのう。儂はこう見えても霊能があってな。気の毒な霊を見ると、哀れでなぁお節介をしてやりたくなる、、。冬子さんの生き霊がそうだ。基の心が純粋だからこそ、そうなる。」
「・・・あんたに本当のことを告白したら冬子が救われるのか、、もしそうなら俺は俺の過ちを洗いざらいぶちまける。だがあんたには冬子は救えないだろ。そしてあんたが言ったとおりなら、妹が救われるには冬子自身が死ぬしかないんだ、、。俺が死んでも、冬子の悲しみは増すだけだ。冬子はそんな女なんだ。」
「・・おんなじゃない。それこそがあんたの間違いだ。冬子さんはあんたを兄として愛しているんだぞ。」
「・・・判っている。もう許してくれ。」
  斬馬は俯いて肩を震わせたままの柊から、その視線を三平屋敷に移した。
 時として霊能は見なくてよいもの、知らなくてよい事実を、斬馬に見せてしまう事がある。
 そしてその力を宿した幽霊眼鏡を持って、羽蘭は今どうしているのだろうか、と。


 

 

 

 
2009/07/18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14:人魚心中

 若い女の絶叫が枯れていく、、悲鳴や絶叫は羽蘭にとって珍しいものではなかった。
 男や女に鞭を振るう時も、ヒールで蹴りつける時も本気でやる、だから相手からは「生」が、ほとばしる叫びが出る。
 しかし、命の振幅が振り切れるような絶叫と、そしてそれが段々と枯れていくのを聞くのは、今が初めてだった。
 有り余る「生」が暴走して、迸っているのではなく、それが無理矢理引き摺り出された挙げ句、萎びながら急速に消滅しかかっているのだ。
 理恵だ。
 あの子、こんな所まで入り込んだんだわ。羽蘭は走った。自分に何かが出来るとは思えなかったが、走らざるを得なかった。
 見覚えのある地下研究室の外れに、洞窟の入り口のようなものがあった。以前、迷い込んだ時にもこれはあったのだろうか?、、それとも蓋のようなものがされ、隠されてあったのだろうか、、。
 ほの暗いその小さな洞窟の中に、オンナの白い背中が揺れるように見えた。
 誰?理恵じゃない。だったら冬子?
 一つだけ確かな事は、今は呻きとなって消えかかりつつある理恵の声は、その奥から聞こえてくるという事実だった。
 腰に挿していた裁ち鋏が異様に熱を持ち始めた。
 その熱さにたまりかねて走りながら裁ち鋏を引き抜いた途端、一つの直感が、鋏から流れ込んできた。
 『あの裸のオンナは照葉に化けた三平、、早く理恵を助けてやれ、、、そうね?、そうなのね、、タネばあちゃん!!』
 羽蘭は裁ち鋏を腰ダメに構え、間近に迫った女の身体にぶつかっていった。
 もしみんな自分の錯覚だったら大変な事になる、、という思いが一瞬、羽蘭の脳裏を横切ったが、それ以上に、理恵の漏らす切迫したうめき声の変化が、羽蘭をせかせていた。
 間に合わないかも知れない。さらに、ここで訪れる「死」は、普通ではない。死んで全てが、終わるわけではないのだ。
 羽蘭は自分の体験の中からそれが理解できていた。なんとしてでも理恵を助けなければ。
少なくともその死を三平にゆだねてはならない。

 三平はふと自分の背後から、一種の「気」が放たれているのに気づいて後ろを振り返った。それは、照葉の顔を元通り被り直し、その顔で理恵をいたぶり尽くすのに夢中になっていた最中だった。
 そこに羽蘭がいた。
 何かを手に持っている。三平が、迫ってくる羽蘭に気が付いたのは、それが放っている異様な「気」のせいだった。
 そうでなければ理恵が断末魔に示す「艶」を、蛸蜘蛛桜とともに吸い込み、それに酔っていた三平は、羽蘭の体当たりの攻撃をまともに食らっていたかもしれなかった。
 矛盾した話だが、虚の側では三平の力は混乱し、普通の人間の力しかもたない羽蘭の攻撃は、その微力さ故に隙を付く形で、三平に到達した可能性があるのだ。
 三平は半身になって身をよじり、羽蘭が突き出した金属の突起物を辛うじてよける事に成功した。
 しかしその身体はバランスを失いたたらを踏みながら、虚の壁に縫い止められている理恵の身体に被さるように倒れ込んでいった。
 自分に背中を押しつけるように倒れ込んできた三平の首筋に、理恵は最後の力を振り絞り、その首を傾け食らいついていく。
 口の中に照葉の黒髪が溢れたが、それには構わず、首を必至に前に突き出し、とうとう照葉のうなじの皮を捉えた。
 歯をかみ合わす。
 三平の身体からは痛みを表す何の反応もない。どうやら理恵の歯は、照葉の「皮」だけを捉えたようだ。
 構わなかった。ただ何も出来ずに死んでいくより、少しでも三平の邪魔が出来ればそれで良かった。
 正確に言うと、理恵の頭の中では、自分が羽蘭の攻撃をより効果的なものにさせるために三平を釘付けにするのだという、明確な意志は、既に働いてはいなかった。
 ただ、このまま死ねるものかという無念さだけが、理恵に残された最後の体力を燃焼させたのだ。
 しかし照葉の皮のなんと甘い事か、、、理恵は薄れゆく意識の中で、ただそれだけを思った。

 三平は体勢を立て直そうと足を踏み変えたのだが、それがうまく行かなかった。
 なぜか自分の頭部が虚の壁に縫いつけられたようになっていたからだ。
 無理に動こうとすると顔の皮膚全体が後ろに引っ張られるような気がした。
 一番影響が出るのは自分の「目」で、頭を大きく動かすと、瞼が引っ張られてモノが見えなくなる。


 羽蘭は、自分の目の前の顔に見覚えがあった。
 この地下室で見つけた紋場三姉妹の人体剥製の内の一体だった。その顔が、今、目の前で、ぐにゅうぐにゅとまるでゴムのように歪み動いている。
 元の顔が綺麗なだけに、それは例えようもなくグロテスクだった。そしてうごめく照葉の顔の向こうには、もう一つの顔があった。
 その顔は血走った目を見開いたまま、照葉のうなじ辺りに歯を立て、食らい付いている。
「理恵ちゃん!」
 羽蘭がそう叫んだ途端、三平はその両腕を羽蘭の身体に突き出し、羽蘭の身体を後方数メートルまで吹き飛ばしていた。
 羽蘭はその勢いに負けて、手に持っていた裁ち鋏を取り落とし、床に尻餅を付く形で落下した。
 三平の目は素早く床に転がった裁ち鋏に注がれるのだが、次の行動が起こせないでいるようだった。
 いつもなら手をふれないで遠方の物質に干渉できる力が発揮できないのだった。
 どうやら攻撃を加えたい相手には直接、自分自身の身体を接触させる必要があるようだった。
 つまりこの虚の壁につなぎ止められていては、何も出来ないということだった。
 三平は、背後の理恵の頭部に手をかけ、自分から引き剥がそうとするのだが、なぜかそれが出来ず、仕方なく自分の照葉の口に指を突っ込んで皮を脱ごうした。
 しかしその機構に損傷が起きたのか、それもうまく行かないようだった。
 そして人体スーツの装着口兼、非常脱出用のうなじに隠された極小のファスナートップは、照葉の首をくわえ込んだ理恵の口のなかにある。
 今や三平は理恵だけでなく、文字通り照葉にも、体中を羽交い締めにされ、その動きを制限されているのだった。

 羽蘭は、三平が自分の瞼の下に、指を鈎爪の形にしてひっかけているのを、ぼんやりとした頭で見た。三平に突き飛ばされて受けたショックは、身体的なものだけではないようだった。
 照葉の目の形が縦に引き延ばされていく。・・目の周りの皮膚を引きちぎっているんだ。でも、何の為、、、決まってる、身にまとった照葉の皮をそこから裂いて脱出するつもりなんだわ。
 こんな間抜けな三平って初めて、、、いや違う。ここがそういう場所なんだわ。
 三平本来の力を混乱させる何かが働いてる。
 それにタネばあちゃんがあたしを助けてくれてるように、理恵だって、照葉だって、、このアタシを助けてくれてる。
 羽蘭は突然目が覚めたように、床に転がった裁ち鋏を拾い上げると、もう一度三平めがけて体当たりを仕掛けた。
 腰ダメに構えられた裁ち鋏が深々と三平の腹に突き刺さった時、三平はようやく、自分の顔を覆っていた照葉の顔を脱ぎ捨てていた。
 しかし、その三平からの反撃はもうなかった。
 羽蘭が、三平から身体を引き離すと、三平はその場に崩れ落ちた。
 既に絶命している。
実にあっけない幕切れだった。
 自分の足下で、鶴継の顔で死んだ三平を呆然と眺めている羽蘭には、この時、蛸蜘蛛桜そのものが、三平の存在を不要のものとして切り捨てたことなど知る由もなかった。



「こうして斜め上から眺め降ろしてみると三平屋敷というのは五稜郭本陣のようだな。屋根の真ん中に突き出た物見櫓がある。その横に頭を出している鮹蜘蛛桜だけは余計だがな、、。」
 確かに高さの足りない丘から三平屋敷を見下ろすと、回廊構造になった屋敷の中庭、つまり鮹蜘蛛桜が植わっている空間が建物で見えにくくなり、結果、三平屋敷は一風趣の変わった和洋折衷の洋館風に見えるのだった。
「本陣?箱館奉行所のことか、爺、あんた何歳だ?明治生まれか?それとも意外に江戸時代の生まれだったりしてな。」
 柊の涙は乾いていたようだ。その面は斬馬と並んで、眼下の三平屋敷に向けられている。
「・・かも知れんぞ。本陣の姿は写真で見たと言っておこうかの?それにしても五稜郭に雰囲気がよく似ておる。屋敷の周囲を囲む堀と川が混じって星形になっているしな。」
「同じ星形でも鮹蜘蛛のは、デビルスターの五芒星だ。五芒星は世界中で魔術の記号として用いられて来た。、、、扱い方一つだな、守護に用いられることもあれば、上下を逆向きにして悪魔の象徴にすることもある。あれはデビルスターの方だよ。」
「ほほう、良く知っているな。」
斬馬の口元にほほえみが浮かんでいる。
「その口ぶり、今の説明、あんたにとっては釈迦に説法と言わんばかりだな。確かにそっちは俺の専門じゃない。こんなつまらない知識が俺にあるのは必要に迫られていたからさ。」
「悪いな、そんな話じゃなくて儂は、あんたの専門的な立場から、聞いてみたいんだ、、。あの鮹蜘蛛桜の正体をな、、、あれは一体何なんだ、、。」
「科学的には説明できんよ。矛盾だらけの代物だ。だから、さっき必要に迫られてと言っただろうが、、」
「羽蘭からは、あんたが鮹蜘蛛桜の事をバイオコンピュータだと、、。」
「確かに、俺があれを弄り始めた頃は便利なラボ付きのスーパーコンピュータだった。三平にその存在を教えられていたからこそ、俺は冬子を連れてここにやって来たんだしな。」
 冬子の名前を口にして、柊の表情が再び曇ったが、今度は立ち直りが早かったようだ。
「爺さん、、分かりやすく言うと、蛸蜘蛛桜っていうのは」柊はそこまで言って首を振った。言い直しを考えたようだ。
「今の出来の良いコンピュータってのは人の感情までシュミレーション出来る、見た目にはコンピュータが自分自身で意志決定しているような動作さえ可能なんだ。正に人工知能の名に恥じない所まで来ている、、。鮹蜘蛛桜もな、」
「答えてくれるつもりになったのか?」
「さあな。今度は俺からの質問だ。怒り泣きわめく感情、、そして未来を夢見る力を持った人工知能、、、さて人間との違いはどこにある?」
「同じだと言いたいのか?それは絶対に違う。人間には魂があるが、機械には魂がない。霊能のある儂には見えるんじゃよ。お返しに分かりやすく説明しよう。機械の幽霊は金輪際、存在しないってことだ。」
 人の念が込められた物質は、自らが意志を持つように見える場合がある。
 それは、その物質に与えられた干渉力が、物質を所持する人間の思考能力や諸々の力を一瞬にして高める結果である。
 そういった順で物質が意志を持つように錯覚されるのであって、物質自体が意志を持つ筈はない。
 斬馬の使っていた「縁切りの太刀」も、羽蘭に与えた「幽霊眼鏡」も、理恵に持たせた「矢」もすべてそのようなものだった。
 では、その「念」とは何か?と問われれば今の斬馬にはその半分までしか説明する能力はなかったのだが。
 機械(コンピュータ)の幽霊は存在しないと言ったが、それは随分、内容をはしょった答えだったのだ。
 柊も、この儂に蛸蜘蛛桜を説明する時に、このもどかしさを感じているという事か、と斬馬は少し苦笑した。
「霊能者を自称するあんただ、そう言うと思ったよ、、、だがな鮹蜘蛛桜にはあんたの言う、その魂があるんだ。」
「その基は、、三平の曾婆さんか、、。」
「日本陸軍医療特殊研究班は、コンピュータに喰わせるプログラムを作る代わりに、蛸蜘蛛桜の神経網を直接、そのオンナに接続した。それが真・神軍化計画の土台だな。犬と人間のオンナが交わって八人の剣士が生まれましたってレベルの話だが、実際それが起こってしまったんだから仕方がない。鮹蜘蛛桜の原型が、元から地球上の植物からかけ離れたものだったとも考えられるしな。」
「だから鮹蜘蛛桜は、三平の曾婆さんの魂を持つ、人間と同等のコンピュータだと?」
「二つ間違ってる。同等じゃない、能力的には鮹蜘蛛桜の方が遙かに上だ。それに三平の曾婆さんの魂を引き継いでるわけでもない。そんなものはとっくの昔に干からびてる。鮹蜘蛛桜の魂は正に鮹蜘蛛桜自身が生み出したものだ。いま三平屋敷に起きている異変は、表面上は三平の母親の乱心に蛸蜘蛛桜がシンクロした動きのように見えるが、実はそうじゃない。覚醒だよ。鮹蜘蛛桜が、曾婆さんの魂の抜け殻を完全にその身から引きはがして、自分自身に目覚めつつあるんだ。俺たちは今、巨大な知的生命体の誕生に立ち会っているんだよ。」
「・・自我に目覚めた鮹蜘蛛桜は、一体これから何をするつもりなんだ。」
 斬馬のその問いかけに答えるように、三平屋敷の中央に生えた巨大な植物がぶるりとその全身を震わせたように見えた。
「・・全ての生き物には共通項がある。たとえ、その出自が地球外でも同じだろう。それは子孫を残すことさ。ましてや鮹蜘蛛桜は植物に近い存在のはずだ。種だよ。鮹蜘蛛桜としての種を蒔くんだ。それが俺の出した結論さ。」
 柊は自分の右側に置かれたスーツケースの表面を撫でた。その中には、柊の専門分野の研究データだけではなく、意外にも鮹蜘蛛桜の秘密が隠されているのかも知れなかった。
「柊さん、あんた先ほどは植物は専門じゃないと言っとったが、随分詳しいじゃないか?」
「必要に迫れてと言っただろう、、冬子が鮹蜘蛛桜のことを知りたがっていたんだ。」

 足下に倒れている三平、蛸蜘蛛桜の奇怪な根に、その全身を絡め取られ立ったまま息絶えている理恵、その両方の死体を見ながら羽蘭は自分がなすべき事を暫く考えていた。
 三平の死体はまだしも、理恵はしかるべき処置を取ってやれねばならない、そう思ったが、自分が三平屋敷において残された時間と、先ほどから急激に膨らみ始め、普通の人間でさえ感じ取れるほどの悪しき波動の高まりを考えると、やはり鶴継を捜し出すことを優先させなければと決めなおした。
 せめてと思って、羽蘭は理恵の瞼を閉じてやると、今度はその場で、ぐるりと虚の内部を見回した。
 ここ数日間の滞在と、三平や柊との対決の中で、羽蘭は三平屋敷の大体を理解したつもりでいたが、こんな風に隠された虚を新たに発見したのだ。
 この屋敷には、まだ羽蘭が知らない秘密の場所があり、そこにこそ鶴継がいる可能性があると羽蘭は思い至ったのだ。
 ・・自分がまだ出会っていない重要人物がこの屋敷に残っている。それは三平の母親だ。鶴継はその側にいる。
 そう気づいた時、羽蘭の頭上から微かな風が吹いてきた。
見上げた羽蘭の視線の先に、複雑に絡み合った根が形作った縦穴があった。
 その縦穴の入り口へは、目の前にある理恵の死体を包み込んだ根の集合体を遡っていけば容易に到着しそうに見えた。
 理恵が導いてくれているのだ、、羽蘭は何の根拠もなくそう思った。
 自分が果たし得なかった「思い人との再会」、、理恵は羽蘭を鶴継に引き合わそうとしている、、。
 果たしてそんなことが、と思い返す前に、羽蘭は既に蛸蜘蛛桜の根が形成する壁にロッククライミングよろしく取り付いていた。

「で、その種とやらはどんなものになるのかな、、」
「蛸蜘蛛桜は雌雄同体であり、動物と植物のハイブリットでもある。その種の性質も、そこから押して知るべしだろうな。蛸蜘蛛桜の繁殖力は恐ろしく強い筈だ。そして今の所、この地球上では文字通りの唯一の一個体なんだから、大量の種を撒き散らそうとする筈だ。」
「、、、、。大昔のSF映画にそういうものがあった。宇宙から侵入した植物に人間を含めた地上が侵略されていくんだ。」
「あたらずとも遠からず、って奴だな。何しろ蛸蜘蛛桜にも、その種にも、ものを考えられる頭があって、しかも、こんな言葉は使いたくはないが、魔法が使える筈なんだからな。」
 柊は「魔法」という言葉をいかにも自分にはそぐわないと言わんばかりに吐き出した。
「魔法というより呪術という方が似合っているな。儂は今の今まで神室一族の人間が、蛸蜘蛛桜が発生する一種の力場を操作変形する事によって、それをおのが呪術として来たものだと思っていたが。」
「たぶんにそういう面はあっただろうな、蛸蜘蛛桜が目覚めるまでは。言い方を変えれば、三平達のそんな関わりが、蛸蜘蛛桜をここまで成長させたのかも知れない。」
「種がばらまかれて、どんどん成長したら、映画のように人間は滅んでしまうのか?」
「鮹蜘蛛桜は、頭の足りない怪獣じゃないからな、、そして恐ろしく強力だ。自分の子ども達が育っていくための環境を作るために、、、つまり食物ピラミッドの事実上の頂点にいる人間を排斥する為に、色んなことを仕掛けてくるだろう。最初は、その個体数の少なさを、寿命の長さでカバーしながらな。だが生き物である限り、本当の意味での不老不死の存在などあり得ないんだ。総ての生き物は、やがて死ぬ、だから今生きているとも言える。どの生き物も必ず、死に至る因子を自分の内部に持っていて、自分自身ではそれを排除できないんだ。そこを突けばいい。鮹蜘蛛桜の個体数が増えないうちにな。」
「、、、なんだか誰かさんの為に、用意したような答えだな。」
「その通りだよ。斬馬さん、、。」
「冬子さんか、、。儂はあんたの妹さんに初めて会った時、なんだかほっとしたのを覚えている。」
「冬子が俺のキメラからの攻撃の壁になってくれると、直感したのか?」
「見損なわないでくれるかの、そうじゃない。除霊師としての仲間意識じゃよ。」
「除霊師?」
「儂は、トラックの運転の傍らで除霊もやっておる。その繋がりで何人か除霊師の知り合いがいてな。まあ偽物もおれば、本物もおる。本物であっても金を積まなければ動こうとしない者も、人の難儀を見てほっておけぬという者もな。冬子さんはそれじゃ、そういった人間が持つ特有の気を持っていた。」
「・・・お人好し同士ってわけだ。」
「単純なお人好しではないぞ。儂も最初は霊に憑かれた人間をほっておけずに手助けをしてやっていたが、その内、こりゃとりつかれる方の人間が悪いんじゃないかと思うケースが多くなった。それでも除霊は続けておる。なぜだか判るか。それは霊の方が哀れだからだ。哀れでたまらんから成仏させてやる。ただ霊と言っても、先ほどからの人工知能の話ではないが、そこに人格や意志がある訳じゃない。霊を成仏させてやったところで、その霊が穏やかな霊に生まれ変わるわけでも、感謝されるわけでもない。ただ歪んだ力場が消えてなくなるだけの話だ。それでも除霊をする。さっき言ったが、呪われて当然の人間の為にもだ。つまり、言い方を変えれば自分の為なんだよ。人の無念をそのままに出来ない。それは、、、自分自身の中に納めようがない無念が既にあるからだ。だからそうする。」
 そこまで斬馬は一気に喋った。
「あんたの言ってること、、、なんだか判るような気がするよ。それで妹は今、あの屋敷で除霊をしようとしてるんだな。」

 タネの裁ち鋏を、ジャングルをかき分ける時の鉈のように扱いながら、羽蘭は5分ほど、闇の筒の中を這い上って行った。
 所々で自ら発光する苔が根の表面に張り付いていたので、羽蘭は真の闇の恐怖にさらされる事はなかったが、代わりに黄泉の国に続く洞窟とはこんなものかという妄想が嫌というほど膨らんでいた。生者の世界と死者の世界をつなぐ長い道、、。
 ただその妄想は、第二の虚と呼んで良い、球形の空間に羽蘭がまろびでた時に立ち消える事になる。
 そこは光苔の量が多いのか、かなり周囲の状況がはっきり見て取れた。ドーム型の天井にあたる部分に人が通れそうな穴が数個開いていた。
 ここに来て羽蘭は自分の迂闊さを呪った。
 なぜか羽蘭は、理恵達がいた虚の天井から伸びる縦穴は、どこまで行っても一本きりで、それは間違いなく次のステージに自分を運んでくれる通路だと思いこんでいたのだ。
 その思いこみがあるからこそ、羽蘭は殆ど光の届かない窮屈なトンネルの中を、さしたるパニックに陥ることもなく進んでこれたのだ。
 これから先は、進路の選び方によっては、蛸蜘蛛桜が形成するトンネルの中でのたれ死にする可能性もあるのだ。
 そう気づくと、羽蘭は今までの自分の道行きに震えを感じ、暫く動けなくなっていた。
 どうしよう、、、目を閉じると羽蘭の瞼の裏に、斬馬の日に焼けた皺だらけの精悍な顔が浮かんできた。
 その顔は「大丈夫だよ、嬢ちゃん、儂がついてる」と言っている。
 儂がついてるって斬馬さん、深い手傷を負って今にも死にそうなくせに、、、、羽蘭は懐かしさと切なさで、泣き笑いの表情を浮かべ始めた。
 その時、羽蘭はある事を思いだした。
幽霊眼鏡だ。
 あの無限回廊から斬馬と羽蘭を救ったのは幽霊眼鏡だった。その幽霊眼鏡が今、自分の胸ポケットの中にある。
 見たくないものも見えてしまう眼鏡だったが、それは世界に隠されたものを総て暴き立てる幽霊眼鏡、故のこと。
 それなら尚更、幽霊眼鏡は三平の母親の居場所に繋がる穴を選んで見せてくれる筈だった。


「見ろよ始まったな、、。予想通りだ。それにしてもおぞましい。あれを見ると俺が作ってきたキメラなんて可愛らしい子犬みたいなもんだ。」
 柊が、まるで蛸蜘蛛桜に自分の声が届くのをおそれるように、そっと小声で呟いた。

 三平屋敷の中央部分の屋根の縁から、棘がびっしり密集した黒い蜘蛛の脚の先端が覗いて見えた。
 その棘だらけの皮膚の表面に幾筋かの蔦仕様の植物がからみついている。
 遠くから見下ろして、これだけの大きさだ。実物は心臓が止まるほど大きく太いモノに違いない。
 そこまで斬馬は思って、次にある事に気が付いた。
 今、自分はこの光景を霊視しているのか?それとも隣にいる霊視の効かない柊と同じ光景をみているのか。
 柊が見ているモノが、自分と同じなら、これは「現実」に起こっていることになる。だとしたら大変な事だ。
「蛸の脚は8本、蜘蛛の脚も8本、これは偶然かな。でもなんで8本なんだ?一体この数は誰が決めたんだ、え、どう思う斬馬さん。」
 怪獣映画を思わせる巨大な蜘蛛の脚に続いて姿を現し始めたのは、ぬめぬめと光りのたうつ吸盤の付いた軟体生物の脚だった。
 こちらの方は蜘蛛の脚のように一旦、天には伸びず、そのまま三平屋敷の屋根の上を這いずり回っている。
 この二種類の生き物の脚をまとめている胴体は一体どんな形をしているのか・・・斬馬は喉がカラカラに乾いてきた。
「あんたにも、もしかしてあれが見えているのか?」

 幽霊眼鏡をかけるたびに羽蘭は思う。
 斬馬さんはこのみたくもない世界をいつも見ているのだと、、。最初の内は、そのグロテスクさに身をすくめるばかりだが、そのうちに気が付く。
 幽霊眼鏡が見せるのは、魔物達が跳梁する世界ではなく、どうしようもないほどの、人の世の悲しさなのだと。
 その幽霊眼鏡に導かれ、羽蘭はとうとう巨大な蛸蜘蛛桜内部の導管をくぐり抜けた。
 くぐり抜けた先は、小さな板張り物置のような場所の中で、それ自体もっと大きな部屋に備わった設備の一つのように思えた。
 直径1メートルほどの縦穴の出口は、この物置の床面積の三分の二以上を占めている。
 今立っている場所から、少し後退するだけでその穴に逆戻りしてしまいそうである。
「そうか、今アタシがいる場所は、井戸の周りに立てられた囲いの中、、それかエレベーターの出入り口みたいなもんなんだわ。」
 だったらこの外に、この縦穴を利用する人間がいる空間があるんだ。
 羽蘭がそう気づいて、目の前の板戸を探ると、ちょうど腰の高さあたりに木の取っ手が見つかった。

 薄く開いた板戸の向こうに、妖かしの世界が広がっていた。
 総桧造りの大広間の壁の真正面は、一面、蛸蜘蛛桜の樹皮でありその一部は奥にくりぬかれ、底にあたる部分には水が張ってあるようだ。
 旅館の大広間の壁がぶち抜かれ、そこに無理矢理接合された洞窟風呂みたい、、羽蘭の体験では、思い浮かべる事の出来る光景の近似値はそれぐらいだった。
 蛸蜘蛛桜の幹を抉り込んで作られた大きな湯船には、二つの人影があった。
 羽蘭がその内の一人を認めると、彼女の手は、知らぬ内に板戸を全開にし、その身を前に進めていた。
「、、、鶴継君、、。」
 羽蘭の足は、樹皮のない反対側の壁にある大きな窓が取り入れ、床に投げ落とした光の膜の上を、滑るように移動していく。
 空には雲が流れているのだろうか、床に湛えられた光は斑をえがく。
 ここは三平屋敷で最も高い位置にある物見櫓の中だった。
 つまり三平の母・鬼姫の居間でもある。
 湯船の中で横座りの姿勢のまま、羽蘭がまだ見知らぬ美しい女性を抱いているのは、紛れもなく鶴継だった。
 こちらを見つめる鶴継の視線に吸い込まれるように、彼女たちに近付いて行った羽蘭だったが、鶴継の表情が克明に読みとれる位置まで来ると、糸が切れた操り人形のようにその場にぺたんと座り込んだ。鶴継は微笑んでいるのに、その瞳は笑っておらず、何かを厳しく拒絶している。その拒否の対象はアタシなの?羽蘭は混乱していた。じゃさっきアタシを誘ったのは誰?
 湯船の水面が重たくぴちゃりと跳ねる。見ればそこに大きな魚の尾鰭の先端のようなものが一瞬姿を現しすぐに消えた。

 鶴継君の首に濡れて張り付いた黒髪は、随分重そうだった。
 湯船に張られた水が普通のものではないのかも知れない。
 時より身じろぎする二人の身体の動きについていく波紋もまたゆっくりとして、その水の重さを表していた。
「きっとこの水は蛸蜘蛛桜の樹液なんだわ」と羽蘭は、先ほどから霧がかかったような思考の中でそう考えた。
 太陽ががかなり傾いてきたのか大広間を満たしている光の斑麩は、この奥まった湯船の縁まで届き始めている。
 その光は最初、不思議な笑みを浮かべたままの鶴継を照らし、次に瞼を閉じてまるで深い眠りに落ちているような美女の顔を照らした。
「あああ・・この人は多分、三平のお母様、、こんなに綺麗でお若いなんて」と羽蘭はその美貌に酔った。
 勿論、この時点では、羽蘭は鬼姫の若さが、理恵から奪い取ったものであることも、その美貌をより磨いたものが鶴継の血液であったことを知るよしもない。
 これほどの美貌が手に入れられるなら自分は何を引き替えにしても構わない、、自分が女になったのは、どこにも理由などはなく、ただ綺麗になりたかったからなのだと、、そう思った時に、、羽蘭に衝撃が走った。
 窓から斜めに差し込む日の光が、ついに湯船に満たされた樹液を照らし出したからだ。
 湯船の底は漏斗状になっていって、二人が横たわっている場所はそうでもないが、その中心部分は漏斗の先の穴の深さを反映してか青黒く見えた。
 そして鶴継と鬼姫の周囲の水は赤く濁っていた、その赤の濃度が一番濃いところが鶴継の体側部分だったのだ。
 羽蘭の動揺に気づいたかのように鶴継が首を振った。
「何、、なんなの鶴継君?」
 鶴継は、無言で水の中から自分の左手を引き抜いて羽蘭に掲げてみせる。
 その左手の指は、しっかり鬼姫の指に絡んでいて、鬼姫の左手も同時に引き上げていた。
 そして二人の手首には横一文字の切り口があり、それが絶えず赤い血を規則正しく垂れ流していた。
「わかったでしょ、羽蘭、だからもう行って。」
鶴継が初めて口を開いた。
「わかるって何を、何にもわからないよ鶴継。」
「お願い、羽蘭、お義母様は満足して今眠ってらっしゃるの、このまま静かに逝かせて」
「だったらほっとけばいい、鶴継まで一緒に行く必要ない。」
「・・・僕はいいけど、今、羽蘭の顔みたら、羽蘭の為に一緒にここを出ようかって、、、ウィルスも送り込めたし、正直ちょっと迷っちゃった。けど、もう遅いみたい。それに鮹蜘蛛桜には、お母様の血だけじゃ足りないのよ。だからね。」
 羽蘭は涙を目にいっぱい貯めて激しく首を振った。
 こんな泣き方をしたのは、あの時だけだと羽蘭は昔を思いだし、その切なさが、又、今の状況に重なって余計にないた。
「羽蘭、泣いてちゃダメ。僕が君を巻き込んでしまったら、僕がやろうとしてる事の意味がなくなっちゃう。早く逃げて、この屋敷は蛸蜘蛛桜と一緒にもうぐ崩壊するんだから。」
 鶴継の、いや柊冬子の、その言葉を聞き、その言葉を蛸蜘蛛桜が理解したのか、大広間の樹壁が揺れ、床が大きく跳ねた。
「羽蘭、さあ早く!!」
 今や湯船を満たしている樹液も波立ち始めている。そして鬼姫が目を覚ました。
 自分の左手を鶴継の手からふりほどき、自分の手首からも血が流れ出しているのを見た時に、鬼姫は総てを察したようだった。
 その顔はまさに夜叉のものに変貌し始めていた。
「おのれ、たばかったな、鶴継!!」
 鶴継につかみかかろうとする鬼姫だったが、それを予め予期していたように鶴継は鬼姫の両腕を絡め取った上に、更にその首を腕で締め上げている。
 だが、その下半身を強靱な巨大魚の尾鰭と化した鬼姫の身体全体の動きは封じきれず、二人は、もがきながら漏斗状の中心に向かって水の中に沈んでいった。
 羽蘭が沈んでいく鶴継の腕を掴まえようとした瞬間、床が大きく傾き、羽蘭の身体は湯船からこぼれた大量の樹液と共に、床の上を、窓がある壁の方向に押し流されていった。


 合計16本の脚が総て、回廊式になった三平屋敷の外側に出たと見えた瞬間、今度はその中庭から何か巨大でけむくじゃらの小山のような物体が盛り上がってきた。
 それは巨大な蜘蛛の尻と言うか腹部だった。
 その腹部が一度大きく痙攣すると、天に突き上げられた尻の先端から黒い霧のようなものが吹き上げられた。
 霧は上昇気流に乗るかのように少し高度を増すと、その内部に、きらきらと光る糸のようなモノを数百本表した。
 霧は拡散し、その黒さは無色透明なものとなり、代わりに光る糸が四方へ飛び散っていく。
「とうとう種を吹き出しやがった。もうすぐ第二波が来るぞ。」
 三平屋敷の劇的な異変を目の前に、思わず立ち上がった柊が押し殺したような声で呟いた。
「・・・いや少し様子が、おかしいぞ。」
 同じくその隣に立ち上がった斬馬が指摘したとおり、蛸蜘蛛桜の陣痛とも言うべき腹の痙攣は唐突に止まり、今度はその腹自体が空気が抜けた風船のように三平屋敷の中庭に萎んでいく。
 同時に、三平屋敷の壁際で派手にのたうち回っていた16本の脚が見る見るやせ細っていくのだ。
 それらの蛸蜘蛛桜の収縮に合わせるように、三平屋敷の各部分が、その内側へ内側へとゆっくり倒壊していった。
「・・たいした女性じゃないか、あんたの妹は!どうやったか想像もつかんが、あんな巨大な怨念の固まりを成仏させたんだ!」
 その様子を目の前にして思わず斬馬は、興奮の声を上げた。
「いや、まだだ!!」 
 そう叫んだ柊は、血を流したような夕焼けの空を見つめていた。
 そこには、自分自身が吹き出した細長い蜘蛛の糸を気流に乗せながら飛来してきた種が無数に浮いていた。
 その種は八本の長い脚を持っており、それを使って飛行の舵取りをしているようだった。
「ここまで飛んでこれるのか、、」
 そう言った力のない柊の呟きを、嘲るように、けたけたと笑う声が小さな声がどこからか流れて来る。
 斬馬は見た。
 屋敷から吹き上げられた種の群れの、その一部が今まさにこちらに降りて来ようとしている、そしてそれらの頭部には、人の小さな顔が付いていることを。
「うんむ、この斬馬を舐めるなよ。」
 斬馬は直立の姿勢のまま手印を結んで九字を切る。退魔の早九字だった。「臨」と唱え、空中で横線を引く。
「兵」と唱え、空中で縦線を下ろす。
「闘」と唱え、「臨」のときの下に横線を引く。
「者」と唱え、「兵」のときの右で縦線を下ろす。
 九字の謂われなどどうでもよい。
 とにかく気を束ねる儀式が執り行われればそれでよいのだ。それで斬馬は三平と同じように目の前の空間に影響を与える事が出来る。
 蛸蜘蛛桜の影響力は、今、確実に弱まっている筈だ。ならば儂の霊能なら、この身一つで蛸蜘蛛桜の種ぐらい吹き飛ばしてみせることが出来る。
 斬馬が最後の印を結び終わって、その手を種の群に突き出した途端、今まさに斬馬に襲いかかろうとしていた種の群が燃え尽きるように消滅していった。
「柊さん、あんたも、、」
 自分の隣にいる筈の柊の姿がなかった。
 柊は数メートル後ろで倒れていた。斬馬が九字を切っている間に、その場から駆け出したのだ。
「儂が守ると、一言声をかけていれば、、」
 駆け寄って見た、。
 柊の身体は悲惨な様相を示していた。
 数匹の種が、俯せに倒れた柊の身体に取り付いている。
 衣服がある部分では種が取り付いた部分が焼けこげたようになっている。酸か熱を発して皮膚に取り付いているのだろう。
 現に柊の後頭部からは細い煙が上がっていた。その横顔の頬の肉に、しっかり食い込んだ種は、柊の肉体から何かを吸い上げているようで、柊の顔は見る間に、黒ずみひからびていく。
「鮹蜘蛛桜の子らよ、成仏せい、、、、柊さん、あんたもだ。」
 斬馬は再び九字を切り始めた。

 
2009/08/08

15:エピローグ

 土曜日の昼前、羽蘭は地方都市にある私鉄の小さな駅に着いた。おおよそ一年ぶりことになる。
「やっぱり祐介君なのね。」
 羽蘭はJRの駅前ロータリーに出迎えに来た青年に飛びついた。その様子は、おおよそデリSM嬢が顧客に交わす挨拶とは思えない。
「名前がYUSUKE KATURAでデリ先がココでしょ。あの村に一番近い都会といったらここしなかいし。あたしが厄介になってた病院もここ。もしかしてって思ってたんだ!」
「別に僕、羽蘭さんを騙す積もりはなかったんですよ。」
桂祐介は羽蘭を眩しげに見て言った。
「そうよ、、そうよね。アタシが勝手に祐介君のイメージ作り上げてて、きっとこれは別人なんだって思いこんでたんだわ。」
 初めての顧客は、必要最低限の情報しか事務所から聞かされないシステムになっている事については触れなかった。そしておおよそ桂青年のイメージはSMと、かけ離れているという事も。
「さあ時間が勿体ない、後は車の中で話しましょう。」
 桂青年は、そう言うと軽自動車の助手席側のドアを羽蘭のために開けてやっていた。


 あの時、羽蘭は鮹蜘蛛桜の樹液と共に、湯船の漏斗状の底に溜まっていた大量の汚泥と一緒に押し流されるように傾いた物見櫓から落下していた。
 付け加えて、突然訪れた崩壊の激震で傾いた物見の下の屋根の角度、さらにその下に生い茂っていた蛸蜘蛛桜自身の枝葉の存在など、それら総てが羽蘭の落下の衝撃を和らげる方向に働いたようだ。
 羽蘭は軽傷で発見された。
第一発見者は桂祐介。
 村人達が三平屋敷の異変を敏感に察知してその側に近付くことさえしなかった状況の中、桂祐介は理恵への思いが断ち切れず、一人、屋敷にその足を運んでいたのである。
 三平屋敷の倒壊は、桂がまさに跳ね橋を渡りきった直後に起こっており、桂がその巻き添えを食わなかったのは、三平屋敷の倒壊が、何かに吸い込まれるように内側へ内側へと向かったからである。
 三平屋敷の上空を、何か黒い蠅の群れのようなものが覆い尽くし倒壊が始まった時、桂は短い叫び声を聞いた気がして、屋敷の倒壊後もその場に残って声の主を捜したそうだ。
 結果、桂が瓦礫の下に見つけたのは理恵ではなく、羽蘭だったのだ。
 病院に運び込まれた羽蘭は、3日間眠り続けた。これと言った外傷は見あたらず、脳波にも異常が認められない状況にあったにも関わらずの事だった。
 所属クラブの責任者が羽蘭を貰い受けに来るまで、入院中の羽蘭の面倒を見たのは桂だった。
 若いニューハーフと男子高校生という珍しいカップルは、小さな地方都市の大きなうわさ話になるだろうと思えたが、実際には何一つ起こらなかった。
 それは、神室屋敷の消失という大事件が何のニュースにもならなかった事と同じ仕組みだったろう。
 元からこの世にあってならぬものが消失したのだ、それを今更、無くなったと言って騒ぎ立てる必要がどこにある。そんな声が聞こえてきそうだった。
 第一、神室と繋がりのある五菱グループの絶大な権力は、未だに生き残ったままだったのだ。五菱による事件の隠蔽工作は当然、広範囲に働いていた。勿論、その事を羽蘭は知らない。
「あの時は、随分お世話になっちゃった。でもどうしてあんなに面倒見てくれたの?」
「村の大人達は、自分の家族も含めてなんですが、一切神室家と関係を持ちたらがなかったですからね。駐在まで含めてそんなのだから、僕が羽蘭さんの事を、嫌でも面倒みなくちゃいけなかったんですよ。それに、、」
「それに、何なの?」
「一度自分の手で助けた人だったし、、。海に飛び込んで助けあげたのに、人工呼吸をいやがって人を死なすって間抜けじゃないですか。」
「、、、そうかなぁ、、もう本当のこと言っちゃいなさい。その方が気持ちが楽になるよ。アタシ、理恵ちゃんの代わりだったんでしょ。」
 羽蘭は理恵の最後について、桂には伝えていなかった。
 屋敷の前で言い争いをして、二人は別々に屋敷に入ったとまでしか言っていないのだ。
 勿論、三平屋敷跡からは、誰の死体も発見されていないし、今後も発見される事はないだろう。理恵は行方不明のままになっている。
 しかし桂を含めて村人達は誰もそんなことを信じてはいない。神室家に関わった者は総て、死ぬか災難を被るのだ。
「・・・あの時、無理矢理にでも、理恵と一緒に三平屋敷に乗り込んでいくべきだったって、今でも後悔してます。」
「そうしてたら、祐介君は三平にあっさり殺されてたよ。そういう心配もあったから理恵ちゃんは、祐介君と、一緒に屋敷にいかなかったんだと思うよ。」
 はっきり言ってあの時の、理恵の頭の中には照葉しかなかった。
 でも、自分に気持ちを寄せてくれる男を危険に晒したくなかった、、そんなふうに考えられる筈だし、そう考えても、傷つく者は誰もいない。
 同性しか愛せない女もいる、そんな女を愛してしまった男もいる。辻褄が合わせられるのなら、合わして何が悪い、それが羽蘭流だった。
「ありがとう、羽蘭さん。」
それから桂は暫く無言で車を運転していた。

 車はてっきり神室村に行くものだと思っていたが、そうではないようだった。このまま行くと、相当交通量のある第一級の国道にでる筈だ。
「ところで桂君は今何してるの、大学生?浪人?」
「やだなぁ社会人ですよ。学生やってて、こんな遊びが出来るほど、ここらは都会じゃないですよ。」
 羽蘭はどきっした。
 その言い回しに「普通の男」を感じたからだ。
 自分の中で、桂祐介は、羽蘭をあの世界から救い出してくれた「純真無垢な青年」の象徴としてあるのだ。
 でも、それはあくまで羽蘭が作りだしたものに過ぎない。
「役場勤めですよ。父のコネで無理矢理入れてもらったんです。ほら暫く前に、神奈川で利権を利用した役所職員不正採用とか全国ニュースになってたでしょう。まんまあれですよ。」
「なんでなの?桂君なら剣道でだって大学行けるし、頭もすっごくいいじゃん。」
「・・やる気がなくなっちゃたんですよ。」
「理恵ちゃん、怒ってるよ、きっと。それもあたしのせいなのって。」
「っ、ははっ、そうじゃないですよ。三平屋敷がああなった後の大人達の反応みてて、、、いや紋場三姉妹が失踪した時からかな、、触らぬ神に祟りなしって奴ですよ。今度はその祟り神自体がいないというのに、、、それに自分の中にもそういう怯懦な部分が一杯ある。理恵の捜索だって最後まで主張も実行も出来なかった、、単純に邪魔が入ったという事だけじゃない、僕は無言の脅しに負けたんだ、、その怯懦が捨てられない、、捨てられないなら、それに似合った生活をしようって。」
 そうじゃないわ、きっと君は、女しか愛せない女に心底惚れて、その上、その女に死なれた、、そう言うどうしようもなくなった自分に、がんじがらめにされてるだけ。
 そんな目で世の中を見るから、総ての大人が、長いものには巻かれる事なかれ主義のエゴイストばかりに見えるのよ。

「三平屋敷が、ああなった後、村中の人間がどんな嘘を平気で重ねていったか、笑っちゃうぐらいですよ。雨も降っていないのに鉄砲水で一つの屋敷が押し流されちゃったんだから。さすがに警察が入った時には、この状況も変わるんだろうと思ってたら、そのデタラメな筋書き道理に事が運んでいく、、ここは一体、どこの国なんだって思いましたよ。羽蘭さんだって、初めからいない事になっているんですよ。」
「自分だけなら正義を通せるのにって考えたことない?家族がいたり、仕事があったり、大切にしなきゃならないものが一杯あったら、我慢しなきゃならない事もたくさん出てくる。」
「そういう言い抜けで、物事は腐っていく。悪いとはいいませんよ。僕もその一人なんだから、でもそういうのは言い訳だ。せめてそれは判っていないと。」
 なんと言われても僕の気持ちは変わりませんよと言いたげだった。
「ところで、斬馬さん見つかりました?僕はあの人は本物だと思う。あんな本物の生き方を見せつけられたら、たまらないなって思うこともあるけど、やっぱりあこがれちゃう。」
 その斬馬は神室の村から居なくなっていた。
 トラックもなくなっていたから死んだ訳でもない筈だし、何よりも羽蘭が目覚めた時に一番最初に顔を見せる筈の男であったのだ。
 村人達がそんな風に事後処理をしたのなら、斬馬さんはそれを見越して自ら村から消えたのかも知れない。
 羽蘭は自分を放っておいて、という甘えた恨みもあったが、昏睡状態にあった三日間の様子は何もわからないのだ。
 もしかしたら、その三日間という間、斬馬は遠くで羽蘭を見守っており彼女に回復の見通しがついた時点で、消えたという可能性だってあるのだ。

「大阪に帰ってからも、あの手この手とやってみたけど、、、よく考えたら普通の状態だって簡単に捕まえれる人じゃないのね。全然消息がつかめない。」
「理恵ちゃんと同じね。手の届かない所に行っておきながら、残っている人間には、もしかしたら、あーじゃなかったかとか、こーじゃんかったとか、謎だけを残していった。」
「・・・まあ、この話は一旦、打ち切りましょうよ。ほら見えてきた。前から目星を付けていたホテルなんですよ。結構いい設備があるらしい。でもああいう所は僕の付き合ってる女性とは試せないないんで実態は判りませんがね。羽蘭さんみたいなプロに満足してもらえるかどうか、、。」
 車は峠道に入っていた。山際へ食いこんだカーブのその奥にラブホテル「天球儀」があった。



 ホテルに入ってからは理恵を演じた。
 桂君は全ての枷を外したように、思い切りマゾしてた。
 もしかしたら理恵と桂君の関係は本当にこんなものだったのかも知れない。少なくとも桂君の頭の中では、二人の関係は確実にそうだったのだろうと思う。
 桂君はプレイの間中、何度も泣いた。そしてその度に、アタシは羽蘭に戻って、彼の頭を抱いてやった。


 翌る日の夕刻にホテルを出ることにしたんだけど、外は霧が立ちこめ空は真っ黒だった。
 桂君が運転をしながらしきりに首をかしげる。
「どうしたの、それほど特別な天気って訳でもないでしょ。」
「いや交通量の方ですよ。ここって見栄えは秘境の山道みたいに見えるけど、実は高速と主幹道路をつなぐ要の県道なんです。日曜の夜でも車はひっきりなしに走っているのが普通なんですよ。それがさっきから一台も出くわさない。」
「ラジオ付けてみたら、何かの事情でこの近くで通行止めが起こってるとか。」
 桂君は流していた音楽を止めてラジオに切り替えたんだけれど雑音しか流れてこない。
 なんだかヘンと思い始めた途端、車がガス欠の症状を起こして、すぅーっと力なくスピードを落としていく。
 桂君はさほど慌てる様子もなく、車を上手く路肩に寄せた。
「ガソリンは満タンしたばかり。日頃の整備だってちゃんとやってるのに、、、とにかくエンジンまわり見てみます。羽蘭さんはここにいて下さいね。」
 そう言って申し訳なさげに、桂君は車の外へ。
 桂君が外に出た後、車の中が急に冷え込み始めて、アタシは慌てて桂君を追いかける。「おかしいなぁ、、何も異常はないんですよ。」
 桂君はボンネットに頭をつこんだまま、そう呟く。
「ねぇ祐介君、あれ見て、向こうから車が来るよ。」
「ホントだ、、あのヘッドライトの位置だとトラックみたいですね。助けてもらえるかな、、僕まだJAFとかに入ってないんですよね。」
 霧の中に二つ浮かび上がった灯りは確かにトラックのものだ。
 でも普通じゃない。この感じ、、、桂君には判らないんだろうか。
 桂君は車の後ろに回り込んで何やらごそごそと探し始め三角形の赤いものを引っ張り出してきた。
 そして今度はそれを頭の上に掲げるとコンサートの時にペンライトでやるみたいに左右に振り始めた。さすが体育会系。
 でもトラックのスピードは落ちず、私たちの目の前を通過していった。
 そのトラックの横腹に懐かしい図柄が一瞬見て取れた。そしてその後部ドアには、銃を構えたまぼろし探偵のペイントが、、。
 霧の中、まぼろしトラックは、あたし達から銃数メートル離れた所で急停止した。
 勿論、アタシはトラックに向けて駈けだしていた。


2009/08/15

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