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10: 斬馬

 腫れぼったい一重瞼に七三にわけた頭髪、、全く特徴のない顔、、「特徴がない」それこそが三平の特長だった。見せかけだ、、斬馬はそう思った。
 第一、三平には極端な程、霊的オーラが感じられなかった。人間には総て霊的オーラが備わっている。その力の歪みせいで現実界に霊のフィールドが発生するのだ。つまり三平は意識的に自らの霊的オーラを制御している可能性がある。
「ここで失礼させてもらいますよ。車椅子で畳の部屋に入るわけには行きませんのでね。」
 三平は開け放たれた襖の向こうの廊下から声をかけてきた。声まで平凡だった。斬馬が聞いていた「蛞蝓三平」のイメージと、目の前にいるこの男の姿とはかなりの隔たりがあった。第一、紋場の三姉妹を拐かした頃、三平は車椅子に乗っていなかった筈だ。
「お初にお目にかかります。斬馬と申します。」斬馬が深く腰を折って礼をする。
「どうかお座り下さい。こっちはこんな身体なので目線が高くなってしまうがご容赦の程を、、。」
 尋常でない雰囲気で部屋の真ん中に突っ立ている斬馬を特に訝しがる様子もなく着座を勧めるあたりが尚更に怪しい。
「ではお言葉に甘えまして」・・それにしても表情のない男だと思いながら斬馬はその場に正座した。
「で、ご用は羽蘭さんのことだとか?」
「ええ、親戚に急な不幸がありましてな、是非、連れて返りたいと。」
「・・・それは困りましたな。」
「、、、確かに契約がまだ残っておると聞いてはおりますんじゃが。失礼な話ですが残りの日数分はこちらがお支払いしますし、、。」
 斬馬は予め用意しておいた台詞を吐いて、さあこれからだと三平の様子を見る。
「いや、勘違いされては困りますな。そう言う事ではなくて、その羽蘭さん自身の姿が昨日の夜から見あたらないんですよ。」
 斬馬は自分の口の中が乾いていくのが判った。ウランを返し渋るならまだしも、居なくなったと言い放つ限りには、三平は4人目の餌食を羽蘭に求めた事になるのではないか。
 それとも本当にウランは自力でここから逃げ出したのだろうか?いやそれなら真っ先に自分に連絡をしてくる筈だ。
「姿が見えない、、?」
「非常に申し上げにくいんだが、羽蘭さんの仕事内容から言うと相手との相性ってものが結構大きな要素になってくる、、、まあ、、その辺は私も少しは反省してるんだが、、、金を払っているのはこちらだという思いがありましてね。つい調子に乗りすぎたのかも知れない。」
「仰っておられる事がようわからんのですが。」
「・・契約の段階で結構、事細かに約束をするのですよ。あれが出来てこれが出来ないという男と女の間の約束事ですな。私としたらそれを破った覚えはないのだが、、今から考えればギリギリのことを、つまり羽蘭さんからすれば契約違反だと思えるようなことをしたのかも知れない。」
 斬馬は車椅子に乗った三平の太股をギリギリと観察していた。ズボンの生地が張っている。長い間動きを止めた筋肉のそれではない。こいつは嘘の固まりだ。
「お屋敷にお伺いした時、跳ね橋を通りました。、、裏手は深い森と山の様に思えるのですが、、もし羽蘭が夜分にこのお屋敷を抜け出したとするなら危なくはないのですか?」
「・・そうそう、それで心を痛めております。羽蘭さんが部屋から居なくなったあと屋敷中の者で周辺を捜索したのですが、、、。」
 斬馬は先ほど出会った馬面の双子や黒シャツの男、尊大な運転手の顔を思い出しながら、彼らが羽蘭を捜索をする光景を思い浮かべようとしたが、なんの図柄も出てこない。 
「では警察に捜索を、お願いせんと」
「それは困りますね。」
「しかし先ほどは心を痛めていると」
「事が公になっては神室の当主である私が女を買ったと噂が広まる。それもわざわざ都会から呼び寄せてだ。いいですか、依頼者側のプライバシー保持については羽蘭さんとの契約事項の第一項目なんだ。当屋敷を出ていったのは彼女自身なのだという事をお忘れなく。」
「では儂が探します。構いませんな。」
「いいですよ。だが森は見かけ以上に深い、、一度戻られてそれなりの装備をされた方が良いのではないですか。」
「そうさせて頂きます。だがお屋敷の方を先に探したい、」
「何を言っているんだ、あなたは。ここは私の屋敷だ。私が羽蘭さんは屋敷から出ていったと言った限りにおいて、あなたがこの屋敷を探す必要がどこにある。」
「半年前、紋場照葉という高校生がこの屋敷に連れ込まれたまま行方不明になったという噂話を聞きましてのう、、。それならば余程広いお屋敷ではないかと。孫の羽蘭は吃驚するほどの方向音痴で、、」
「警察を呼ぶぞ!」
「ほう。先ほどは事を大きくしたくないから警察は呼ばないと仰ったが。」
 三平の身体が怒りの為に震えだした。その時、廊下の奥からぱたぱたというあわただしい音を立てながらタネ婆さんがやって来た。
「旦那様、大変で御座います!!」
 三平は斬馬を睨み付けていたその顔を引き剥がすように老婆へと向けた。
「、、そのお顔は、、」
 三平の顔を見たタネが一瞬怪訝な顔をする。
「・・来客用だ、、忘れたのかっ!」
 三平の声には聞く者を押さえつけるような威圧感があった。
「それでなんの用事だ、」
 タネ婆さんは言われもしていないのに、白砂に引き立てられた罪人のように廊下の床にひれ伏している。
「旦那様、、大奥様がどうしても旦那様を呼んで来なさいと、、」
 タネ婆さんの小さな身体が益々小さくなる。
「オマエでなんとかならんのか、」
「旦那様はご存じの筈で、タネでは何とも成りません」
 その様子から見て、タネ婆さんにとっては目の前の三平より、三平の母親の方が恐ろしいようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  階段を一歩上るたびにゴムと皮膚の間に溜まった汗が動くのが判る。まるでウォーターベッドの中に入っているみたいだった。
 時々はジッパーを下げて上半身の汗を逃がしてやるのだが、下半身までケアをする余裕はなかった。
 結局、ゴム製防護服の着替えを探している内に、あたしは地下室から抜け出す階段を偶然に見つけ出してしまったからだ。
 こうなったら自分の部屋まで戻り、総ての荷物を纏めてこの屋敷から今すぐ出て行ってやる。殺人を犯しているかも知れない異常者相手に契約なんて糞喰らえだ。
 この身体を覆い尽くす三平の唾液がしみ込んだ不潔な汗や脂は、屋敷を出てから洗い流せばいい。神室屋敷の中の水を使ったって、本当に身体を洗った事にはならないんだ。
 コンクリートがむき出しになったかび臭い階段のどんつきにある鉄扉のドアノブをアタシは祈るような気持ちで握った。
 こんな所にもう一度閉じこめられたら、、ここで眠る紋場の三人姉妹にはかわいそうだがアタシは発狂してしまうかも知れない。
 目をつむって思い切ってノブ球をまわす。がちゃりと音がしてロックがはずれ、アタシはついに地下室から解放された。
 後ろ手でドアを閉めるとその場にへたり込む。意味のない涙が出てきた。こん畜生、なんで泣くと堪えてみたが涙は止まらなかった。
 そんなアタシの肩を誰かの手が優しく撫でる。誰かの手?鶴継君?アタシはハッとして思わずドアに背中を擦り付けながら立ち上がる。
 でもアタシの目の前にいたのは、あの優しい鶴継君ではなく黒シャツ姿の見知らぬ男だった。
 先ほど優しげにアタシの肩をなぜた手は、今度は凶暴にアタシの口をふさぎにかかってくる。そげた顔にへばり付いた顔に浮かぶニヤニヤ笑いがアタシの怒りに火を付ける。
「なめんじゃねぇ!!」
 アタシは頭を下げてそのままの体勢で頭突き攻撃に出るつもりでいた。アタシには一通りの喧嘩が出来る自信がある。
 そりゃ、この身体になってから筋肉が違って来てはいるけれど喧嘩は切れたもん勝ちだ。

 しかし実際には、この男にアタシの頭突きは効かなかった。それどころか見事に身体を入れ替えられ、アタシは次の瞬間に腕をねじり上げられていた。
「動くなよ。本気だ。折られたくなければじっとしてろ。」
「ざけん・なっ、、」
 今度は完全に口をふさがれた。おまけに決められた関節から伝わってくる痛みは相手に躊躇がない事をしめしていた。
 もしヒールを履いていたら男の足の甲を踏み抜いて、、、いや駄目だろう、、こいつはプロだ。何をされるか判ったものではない。
「よーし、いい子だ。」
 口を覆っていた手の力が少しゆるめられる。だが関節の痛みは相変わらずで、こちらが叛意を見せたらすぐにでも骨をへし折るぞという男の意思を表していた。
「心配するな、俺は神室みたいに女を痛めつけて喜ぶ趣味はない。たとえその女の股ぐらにペニスがぶら下がっていてもな。」
「何故、知ってる、、。」
 アタシは試しにそっと呟いてみる。
「三平にオマエさんを見張っておいてくれとたのまれた。ペニスがついてたんじゃさすがの俺も手を出さないと思ったんじゃないか。」
「あなた神室の子分ってわけじゃないのね」
 プライドの高そうな男だったからアタシは作戦を変える事にした。
「客分ってとこだろうな。」
 アタシは出来るだけ自分の身体を男にすり寄せるようにした。こんな汗だらけのゴムの服じゃ逆効果かも知れないけれど「チンポ付き女」の物珍しさが男の興味を惹くかも知れない。
「地下室に変な死体が三つもあったわ。あなたも関係してるの。」
 アタシの身体の感触を楽しんでいた男が一瞬凍り付く。一か八かの賭だ。それにこの男が完全な三平の支配下にあるのならどのみちアタシはこの窮地から逃れられない。
「俺は悪党だが殺しはしない、死んだ婆さんの遺言でな。」
「だったら逃がして、なんでもするから」
アタシはそう言ってから男の手の平をゆっくりと舐めた。

「ちっ!どいつもこいつも!!」と三平が小声で毒づいた時、ドーンという空気を揺るがすような破裂音が聞こえた。
 にらみ合っていた三平と斬馬が同時に顔を上げた。すさまじい波動が伝わってくる。この村を蓋をするように覆い被さっていたあの黒雲の腹に雷が走ったようだ。
 だとすると蛸蜘蛛桜にリンクした力の使い手は、目の前の三平ではないという事になる。
 波動は最初、悪寒を引き起こす身体への影響として現れ、次に催淫へと性質を変え始めた。これは幾多の怪異現象を体験した斬馬にしても初めての体験だった。斬馬は自分の股間が若い頃のそれのように頭をもたげるのを感じた。
 一方、三平は車椅子を一気に回転させ屋敷の奥へ走り去っていく。勿論、霊能を持たないタネには先ほどの音も聞こえてはいないし、屋敷を襲っている異変にも気付いていない。
「おタネさん。ご母堂はどんな様子なのかね。木佐貫のおばあから聞いてるだろうが、こうみえても儂は憑き物落としが出来る、、役に立てるかも知れないぞ。」
「憑き物、、、なんでそんなことをいう。木佐貫が言ったか。失礼なことを!いくら幼なじみでも言っていいことと悪いことがある。」
 顔を上げたタネの顔は心持ち赤みを帯びている。勿論、タネ婆さんには自分の身体に起こりつつある変化への理解はない。
「憑き物なんぞではないわ。あの忌まわしい薬じゃ。三平様が、、大奥様に作って差し上げている、、薬が切れた。薬が切れると蛸蜘蛛桜が狂う、、、。」
「タネさんあんた、、」
 斬馬は木佐貫の婆さんが教えてくれたタネと神室家との因縁を思い起こしていた。
 木佐貫の婆さんと幼なじみだったタネは、幼い頃に神室家に働きに出されていた。働きと言えばまだ聞こえは良いが、要するに貧困を極めたタネの両親が彼女を神室へ身売りしたに過ぎない。
 そのタネが長じてからも、村中で悪評高い神室家を常に養護する立場にいたのは、神室家の女主を慕っていたからだと木佐貫の婆さんはそっと教えてくれた。
 なにしろタネちゃんは町から流れ着いて来たという自分の母親のことを酷く嫌っていたから、、神室の女主と出会った時、女主こそが姉か自分の母親だと思って慕っていたらしいのよ。
 しかし、薬が切れると蛸蜘蛛桜が狂うとはどういう意味だろう。
「余計な事はせんでええ!!あんたあの売女を連れ戻しに来たんだろう、、はよう見つけてココからでてけ!」
「羽蘭は昨日の夜、この屋敷を抜け出したんじゃないのか?」
「何を言っちゅう、儂は昨日から泊まりじゃ、この屋敷のことでしらんことはねぇ。」
「なら羽蘭は今どこにいる。」
今度は斬馬の口調が厳しいものに代わる。
「そっ、それはわからん、、自分の部屋や三平様と一緒におらんのなら、鶴継坊ちゃんの所に潜り込んでいるのかも」
「鶴継、、誰だ、、それは。その部屋に案内してくれ。」
「・・・・知らん、儂はもうしゃべらん!」
「ちっ、、婆さん、あんた神室の人間達がどんな事をしてるか本当は知ってるんだろう。だから木佐貫の婆さんから連絡が合った時に、罪滅ぼしの積もりでこの儂に便宜を図ってやろうと思ったんだろう。最後まで協力してくれんか、、こっちは羽蘭の命がかかっているんだ。」
「知んものは知らん。けど、今なら三平様は大奥様につきっきりだ。あんたの人捜しを邪魔する暇もねぇ、、時間を惜しむことだ。」
 タネばあさんは斬馬の視線を受け止めたまま彼の顔を睨み上げている。そんな老婆の様子をみて斬馬は見切りをつけた。これ以上この老婆を問いつめても同じことだ。
 斬馬は腰から縁切りの小太刀を引き抜くとそれを隠すこともなく右手にぶら下げ、老人とは思えぬ素早さでその場から走り出し始めた。


 

 なぜ「あの時」から、急にこの用心深い男がこれほど大胆になったのかアタシには想像もつかなかった。
 たしかにこのアタシもあの時は無性に男のペニスがしゃぶりたくなったのは確かだけれど、、。
 そしてアタシがイマラチオに近い行為を自ら受け入れたのもあの時が初めてだった。
 男は信じられない事に、私の汗まみれの身体を彼の舌で隈無く舐めつくしてくれた。
 今、アタシ達二人は地下室の入り口の真横にある空き部屋の床に横たわっていて、まだ収まり切らぬ肉欲のくすぶりをお互いに慰めあっている。
 そんなアタシ達の様子をもしかして見知らぬ人間がみれば恋人同士のように見えたかも知れない。
「生体コンピュータという発想は現代ならそれほど珍しくはない、、よな、、だがその原型が第二次世界大戦中にあったとしたらどうだ。そしてそれを引継ぎ発展させて現実のものにする天才がいたら、、、つまりそれが神室だよ。そして俺はその上をいく。ただ、専攻分野が違っていてな。俺のアイデアを結実させるにはどうしても神室が作り上げたものが必要になるんだ。」
 男の名前は柊という。三平とは海外留学中に知り合い、柊が2学年下の後輩になる。その先輩後輩という繋がりは、二人が日本に帰ってきて、一方は田舎の大地主、片一方はやさぐれて半分やくざ者という立場になってからもそのまま引き継がれたと言うのだ。
「天才の性犯罪者と天才やくざが手を組めば何が出来上がると思う。」
 自分のことを天才やくざ?馬鹿男の典型、、、女の中にはこういう手合いの馬鹿さに惚れるタイプもいるが、アタシは性同一障害者でさえないから、男の馬鹿は同性として単なる馬鹿にしかみえない。
 それなのに、そんな馬鹿話を効きながらアタシの指先は柊の毛の生えた乳首をいじくっている。もっともアタシが頭の中に思い浮かべているのはあの優しい鶴継君の顔だったが。
「おれが神室の代わりにあちこち走り回ってやっているのはそのためさ。」
「三平が大火傷して足が不自由だから?」
「足が不自由?火傷?ああ、、、。」
 柊が笑いを堪える為に背中を丸めながら向こうをむく。
「何、笑ってるのよぅ。あなたまさか紋場三姉妹の拉致まで手伝ったんじゃないでしょうね。」
「くくうぅ。どう思う!!」
 突然、振り返った柊がアタシの首を絞めにかかって来た。 


 斬馬が走る。無数にあるかと思える程の部屋のドアを開けながら。
 羽蘭のオーラを探し出す為に霊感を利用することは出来ない。なぜなら既に悪意に満ちた圧倒的なオーラが屋敷中に充満しているからだ。それは嵐の海で穏やかな波を探すようなものだ。
 だがそんな苦境にあって斬馬は、奇妙なことに気力体力とも充実している自分を自覚していた。その充実は催淫を催す波動が若返り効果を相乗しているのではなく、捨て身の気概を思い出した斬馬自身の己の内面的な変化から来るものだった。
 思えば無茶ばかりしてきた人生だった。歳をとったからと言って収まりかえってみても、今更何も変わりはしない。大事なものを奪われたなら、今まで通り、力づくで取り返すまでのこと。
 それが叶わぬなら、それだけの自分だということだ。数日たてば今この時の無理は、酷いしっぺ返しとなって老いさらばえた身体を急襲するだろう。
 下手をすれば命に関わるかも知れない。だが今、羽蘭を救出せずして長生きをして何になる。
 斬馬はそんな思いを確かめるように縁断ちの小太刀をもう一度強く握りしめた。遠慮はしない。邪魔だてするものは切って捨てる。

 回廊式の廊下を右に曲がるドンつきが見えた頃、その巨体がのっそりと現れた。
 神室家の門をくぐった時に出会った馬面双子の片割れだ。斬馬は足を止めて息を整える。
「爺に会ったらお引き取り願えと旦那に言われたヨ。黙ってこの屋敷からでてけ。」
 驚いたコトに双子の片割れのズボンの中心が激しく盛り上がっていた。この男も淫派に影響されているのだ。
 目も血走っている。このような人間の中では暴力と性欲が未分化で混在している可能性が高い。だとすれば厄介だ。遠回りするか、、斬馬はちらりと後ろを振り返る。神室屋敷の薄暗い廊下が延々と続いている。駄目だ、時間がない。
 しかし正面突破するにはいかにも手強そうだった。その佇まいからこれといった体術を心得ているようには見えなかったが、三平の手足となって相当な荒事をこなしているのは明白だった。
 下手をするとこの相手を制圧するには殺傷以外に方法がないかも知れない。しかしいくら腹を括った斬馬であっても、知恵の足りぬ相手を切り倒すわけにはいかない。
 何か有効な武器か、あるいはこちらに有利に働く条件はないのか。斬馬の目は薄暗い廊下の突き当たりに突っ立ている馬面の男とその周辺を観察した。何もない。花瓶一つない。
 ・・・いやあった。男に憑いている霊的オーラだ。正確にはその男が自分に取り憑いていると思いこんでいるオブセッション。
 それは茶壷を背中に背負った巨大なナメクジの姿をしていた。いかに霊視にすぐれた斬馬といえどこれほど、一人の人間の霊的オーラが具体的なイメージを結ぶ例は少ない。 珍しい。
 それは男の発達遅滞に起縁するものなのか、それとも他の誰かにオーラを弄られたのか、、。
 他にも意識を失った学生服姿の少女を肩に担いでいる本人らしい男の姿が見えたがそちらはぼんやりとしていた。
「やってみるか、、」
 それは斬馬の中では禁じ手に属する攻撃方法だった。
「そんなことをするとオマエが怖がってるナメクジ様が怒り出すぞ。儂はナメクジ様とは友達なんじゃ。」
 男はきょとんとした顔つきになる。次にその顔が何かを思い出したかのように紅潮する。
「隠しても判っておるぞ、ほれあのナメクジ様じゃ。」
 斬馬は自分が見ているイメージを男の額に向けて送りつける。実際にそれが有効なのかどうか、その技を使った事がない斬馬には判らない。
 過去に一時つるんだ事のある女霊能者が教えてくれたやりかたをなぞっただけだ。
「大切なのは言葉よ。それで小さな芽を大きく育ててやるのよ」
「おいおいそりゃ催眠術じゃないのか」
「違うわよ絶対に」女霊能者の鮮やかな笑顔を思い出す。
 確かに男の顔は青ざめ始めている。視点がすでに定まっていない。男は自分の中にいるものを見ようとしているのだ。
「おまえがガキのころにしでかした事をナメクジ様は許しちゃいないんだ。その上、ナメクジ様の友達であるこの儂を傷つけようなんて、オマエ、自分がなにをしようとしてるのか判っているのか。」
 勿論、当て推量だ。イメージだけではこの男が過去においてどういったトラウマを被ったのかまでは判らない。
 しかし男は明らかに斬馬の言葉にひるんでいる。斬馬は勢い良くずかずかと前に進み出す。
 対する馬面の男は金縛りにあったように動けない。不思議な事に、男のズボンの下のペニスが益々怒張している。
 斬馬は男の眼前で自分の手のひらをぱっと勢い良く開くと、その手で男の顔をつるりと撫でてやる。
 その時、何か得たいの知れないモノが入った茶壷に無理矢理、頭を押し込まれている少年の映像が、指先から斬馬に直接飛び込んできた。
 頬に擦り付けられる無数のナメクジの感触。自分の後頭部を押さえつける細長く神経質な指の感触、そして背中に当たる母親の乳房。
 斬馬は次々と飛び込んでこようとする幼児虐待の生々しい男の記憶を急いで遮断した。
 その途端、男は泡を吹きながら直角にどすんと倒れた。
 男の中で一旦噴出しかけた記憶が、斬馬の行為によって逆流したのかも知れない。
 細かく痙攣を続ける男の身体をまたぎ超えて、再び走り出そうとする斬馬だったが、何を思ったかふいに立ち止まり、男の頭部近くに屈み込んだ。
 縁断ちの小太刀を鞘からすらりと引き抜くと、男の側頭部にそれを当てる。トドメをさそうとしたのか。いや切り取ったのは男の一房の髪だった。
「これで縁が切れた。二度と悪さはするな。今度、お前がこの屋敷で儂を邪魔立てすれば殺すしかないんだからな。」
 斬馬はその髪を男の胸の上に投げつけると、今度こそきっぱりと走りだした。

 数分走った時に転機が訪れた。信じられない事に斬馬は羽蘭の気を感じたのだ。この悪霊の気が充満した屋敷の中でそれを感じ取れるとは奇跡に等しかった。しかもその気は二つ前の部屋から流れ出ている。
 斬馬はその部屋に飛び込んでいく。だが部屋の中に人影はない。よく整理され清潔な部屋だった。一瞬、その雰囲気からこの部屋の主は女性かと思ったが、それにしては女性が好むような調度やアクセサリー類が全くなかった。
 だが逆に男性の部屋だとしたら、壁のコーナーに立てかけてある金属バットのグリップはやけに綺麗すぎるし、まるで偽装された「男の部屋」のように見える。・・・しかし何故こんな部屋から羽蘭の気が発生しているのだろう。
 斬馬は壁に飾られてあった写真を手にとって見る。そこには美しい女性と彼女によく似た中世的な顔立ちをした少年が写っていた。斬馬はその写真を見て暫く考え込んでいる。 羽蘭の「気」があっても本人がいないのなら、すぐにここを立ち去るべきだ。時間がないのだから。だがこの部屋には何かがある。
 斬馬は羽蘭の気を頼りに部屋の片隅にある大きなクローゼットを開ける。いくら大きいと言っても人が隠れるには無理のあるクローゼットなのだが、羽蘭の気は確かにそこから発信されていた。
 しかも引き戸の部分から気がもれている。もしかして羽蘭は既に殺害されてバラバラ死体となってこの中に詰め込まれているのではないか。斬馬はとんでも無い妄想を引き剥がすかのように、思いきってその引き戸を開けた。
 中にプラスティック製のコンテナボックスが幾つか入っていた。
 羽蘭の気はそこから立ち上っている。斬馬がその蓋をはがして発見したのは、綺麗に折り畳まれたラテックス製の女性の着ぐるみだった。
 その顔は日本人離れしていると言うか、どちらかというと外国の漫画にでも登場してきそうな顔つきをしていた。
 何故この着ぐるみから羽蘭の気が立ち上っているのだろう、、、。そして斬馬はある事に気付いた。この気は羽蘭そのものの気ではなく、羽蘭に強い関心を持つ誰かが、この着ぐるみに「羽蘭」として定着させたものだと。
 その人物の霊力は相当なものに違いない。斬馬は、その人物の輪郭を少しでも掴もうと、その他のコンテナボックスを開けてみた。
 今度は男性のペニスが付いたラテックス製のパンツが出てきた。内側の構造を見てみる。どうやらそれを見るとこのパンツの装着者は女性らしい。しかも斬馬がそのパンツを弄っている内に、先ほどまでしなだれていたペニスが少し強度を増したようで、思わず斬馬はそれを取り落としそうになった。

 

 

 その時だった。斬馬が攻撃を受けたのは。
通常であれば背後から忍び寄ってくる敵の気配ぐらいは掴めていた筈なのだが。よほどペニス付きパンツの面妖さに心奪われていたのだろう。
 屈み込んだまま襟首を捕まれた斬馬の身体がフワリと浮かび、部屋の反対側に叩きつけられる。勿論、斬馬も無抵抗にそれを受け入れたわけではない。
 男から投げ飛ばされる間際に、縁絶ちの小太刀で男の二の腕を斬りつけている。叩きつけられた壁の上にあった棚からの落下物が斬馬の頭部を打ったのだろうか、血が流れ出し、それが斬馬の視界を曇らせた。
 それを斬馬が拳でぬぐい取る。男の顔が見えた。先ほど倒した双子の馬面男の片割れだった。
「弟に何したっ!!」
 男は血相を変えている。余程、斬馬に対する怒りが強いのだろう。先ほど傷つけられた自分の腕を庇おうともしない。
 縁切りの小太刀は、その相手の闘志自体には何の影響も与えない。記憶の一部分さえ消し去ることも改竄することもない。
 つまり縁切りの太刀がふるわれた時点では、肉体的にも精神的にも一切の影響を相手に与える事は出来ないのだ。その力が発揮されるのは「その後」つまり「未来」でのみ、縁を切る力として発動されるのだ。
「何?弟の縁・しがらみを切ってやっただけじゃ。オマエと同じじゃ、、。」 
「うっ、うそを付け!!寛司、、、ナメクジみたくなってたぞっ!!この糞爺っ。三平さん、言ってた通りだ。変な魔法使いやがって!!」
「ナメクジってのはなんだ、、。いいがかりもたいがいにしろ。人が親切に、、」
 斬馬が起きあがる。 
馬面男は金属バットを見つけてそれを構えていた。
「皮膚がドロドロに溶けてた。三平さんは俺達の病気を治すいい魔法をつかうけど、爺、オマエは最悪だ。ここでたたき殺す。」
 斬馬は覚悟した。先ほどは、なんとか殺生沙汰を切り抜ける事が出来たが、今度ばかりは無理なようだ。今度の相手にははっきりとした殺意がある。
 そしてこの男には本来、付いて居なければならない「霊」が完全に削ぎ落とされていた。三平が何かをこの男に施していたのかも知れない。
 それに縁切りで馬面男の弟の身体をなんとか出来るわけがないから、三平は弟にも過去に何か施術を行っている可能性があった。
「、、、一つ教えてくれないか、、この部屋、誰のだ?」
「、、、鶴継さんのだ。」
 扱いやすい。同時にこんな「幼い」人間を傷つける事になるのかと思うと斬馬の胸に痛みが走る。
「質問はもういいのか?」
 男はそう言ったかと思うと金属バットを振りかぶって突進して来た。それは恐ろしいスピードで、斬馬は縁断ちを頭上で水平に構える事で、辛うじてそのバットの攻撃を受け止めるのが精一杯だった。
 斬馬はお互いの隙を見切る為に、こうして暫くにらみ合いが続くのかと思った。
 だが男の反応は違った。男は無防備にもすぐに飛び下がると今度は横殴りにバットを振ってくる。
 男には攻撃の合間に出る隙をなくす、という戦術的な概念がないのだ。ただしその分、この男にはスピードがあった。今度も斬馬は縁切りでそれを受けざるを得ない。力もスピードも男が勝っている。このまま間合いを外さす、バットと刀で打ち合いをしていればいずれ打ち負ける。
 斬馬は男の数度目の打撃を受けながら態と、男との間合いから転がり出た。勿論、男が追撃してくるのは目に見えているのだが、、。
 腰を落とした斬馬に、男が再び金属バットを振りかぶった時、彼の背後から弱々しい声がかかった。
「兄ちゃん、、、痛い、、、痛いよう、、。」
 腰を落とした斬馬の位置からは男の弟、寛司の姿がよく見えた。寛司は先ほど倒れた廊下からココまで這いずってやって来たのに違いない。
 だがその姿はどうだ。皮膚という皮膚から内分泌液がシミだし、その下の筋肉が弛緩しきっている。男が「弟がナメクジになった」と表現したのも頷ける。それに実際、あちらこちらの部分では皮膚の腐乱が起こり初めている。
 男が弟の声に一瞬、振り返る。斬馬はその隙を見逃さなかった。縁切りを力いっぱい横様に振り切る。両足首切断とまでは行かなかったようだが、男はその痛みに絶えきれずそのまま仰向きに倒れた。
 斬馬は躊躇せず次の行動に移った。自分の身体の上で金属バットを蠅をおうように振り回している男を後目に、先ほどのクローゼットに駆け寄りそれを押し倒しにかかる。
 男が斬馬の意図に気付いて這い蹲りながらその位置を変えようとした時には、既に大きなクローゼットは男の身体の上に倒れ込んでいた。
 斬馬はクローゼットの下敷きになって動きの小さくなった金属バットをもぎ取ると、そのバットで巧い具合に突き出していた男の頭部を強打した。
 勿論、手加減はした積もりだ。ほんのしばらくの間眠っていてくれるだけでいい。
 そして斬馬は金属バットを遠くに投げ捨てると、再び縁切りを腰のベルトから引き抜いた。しかし斬馬は、鶴継の部屋の入り口で小さく痙攣を繰り返している寛司と、男を交代交代に見比べてから、小さくため息を付き鞘から抜き出しにかかった縁切りを再び元に戻したのだった。
「いけるかも知れねぇなぁ、、、」
 遠ざかりかけた意識が戻ってくる時に、そんな言葉を波が砂を巻き込むように運んできた。
「いや、すまん、すまん。神室がさ、女が落ちる時の顔は格別だっていうからさ、、、こいつはこの際、試してみようかって、、、」
 まだ意識がはっきりしない。でもたぶんこういう事だろう。柊はまだアタシの事をいつでも始末出来る対象と見ていて、柊がそれをするかしないかは、アタシのサービス次第だってことを遠回しに言ってるわけだ。
 それに紋場三姉妹との関わりについては答える積もりはないらしい。
「なあ、あんたの色っぽい顔見てたら、もいちどやりたくなって来た。さっきはさ。あんたらが言うスマタだったんだろ。俺さ一度、アナルってやって見たかったんだよ。どうよ」
 アタシは目をとろんとさせて、勿論、演技だ、黙って頷いて見せる。
「でも無理に入れちゃ駄目、、お互いに準備がいるの、、女の子でも乾いてちゃ無理でしょ、、、」
「乾く?ぷっ。面白れーこと言うな、、いいさ。やらせてくれるんなら時間かけてもさ、、第一、今日は何発でもやれそうな気分だしな。」  
 いちいちムカつく男だったが我慢した。さっきみたいに不意をつかれて首を絞められるようなドジな真似は二度としない。
「柊さんは、何を作る積もりなの」
 柊の乳首を舌の先でねぶり上げる合間に尋ねて見る。勿論、アタシの空いた手は柊のペニスをじらし炙っている。
「作る?」
「さっき言ってたじゃない。三平の研究が完成したら次は俺の番だって。」
「そんな事よく、覚えてんな。」
「柊さんのこと興味があるのよ。」
 勿論、柊は今のアタシの言動を命乞いの為の取り入り作戦だと思っているだろう。柊がアタシを利用するなら、アタシだってそうする。
 アタシは本当に三平がこの屋敷で何をしているのか知りたかったのだ。柊の事なんて本当はどうでもよかった。
「新人類だよ。人類創世。つまりこの俺が本当に実在する神になる。」柊は目をつぶって恍惚としている。アタシの指先のせいだけではないのかも知れない。つまり柊は自分の言葉に酔っているのだ。
「なあ羽蘭、、実はクローン人間は、もう実用段階に入っているんだ。モラル上の問題があるだけなんだよ。でも下らねぇ人間のコピー作ったってなんの意味もない。せっかく一から人間をこね上げられるんだ。性能のいいのを作るべきだと思わないか。こういう思想は昔からあるんだぜ、真・神軍化計画ってな、神室家は先の戦争当時からそんな実験の手伝いもやって来たのさ。」
 鶴継君が話してくれた毒蜜の話を思い出した。アタシは柊の乳首を甘噛みしてやる。
「くっ、、まあ神室の場合はクローニングじゃなくて純粋な人体改造だがな。三平はそっちの方は引き継がなかったみたいだ。奴ならそっち方面でも充分出来る筈なんだが、どうやらそれについちゃ家のほうでゴタゴタがあったみたいだな。もっぱら真・神軍化計画で生まれた副産物にご執心、、つまり植物を利用したバイオコンピュータの開発さ。」
 柊はべらべらと良く喋った。要するに早くイかない為に男が頭の中で数を数えるのと同じ事だ。どうしてもアタシのアナルにその小汚い粗チンを突っ込みたいのだろう。
 そろそろ潮時だ。あの地下室で見た写真の意味がなんとなく見えて来た今、この男からの脱出を考えてもいい頃だった。
 それに紋場三姉妹の件については、純粋に三平の性癖から生まれた事件ではないかとアタシは考え初めていた。背後にどす黒い陰謀があるとか、両家の確執があったとか、多分全然そんなのじゃないのだろう。
 要するに三平は「恋愛=相手との同一化」と考える人種で、我が儘放題で育ったこの男は自分の欲望をそのまま実行に移しただけの話なのかも知れない。勿論、その方が数倍、罪が深い。
 アタシはフェラチオをする為に身体を入れ替えながら、先ほど脱がされたラバー製の防御服を柊に見られないよう身近に引き寄せた。なぜならそれがアタシにとって最も手に入りやすい武器だったからだ。

 
2005/07/17

11:脱出

 「ねぇ自分でもやってみない、、気持ちいいわよ。アタシ、ホントのこと言うと、さっきので味しめちゃたみたい。」
 柊の耳元で出来るだけ甘く囁いてやる。柊の首の下に潜らせた右手は、その時の為にゴム製の防護服を掴んでいるが、左手は尚も強度を失わない柊のペニスを愛撫することを忘れない。
「、、、んん、、何の事だ。」
「酷いわぁ、自分がやったこともう忘れてるぅ。許さないから。」
 アタシは一気に防護服のゴム生地を柊の顔面に押し当てた。勿論、柔らかくだ。まだこちらの真意を悟られてはいけない。
「ぶぶっ、、窒息、、プレイか、、」
「そうよ。気持ちいいんだから、あの時と同じよ。」
 アタシはゴム生地を両手で引き伸ばすようにして柊の顔に密着させ、余りを首の後ろで交差させる。柊のペニスの相手はアタシの膝小僧にバトンタッチさせた。これからは一気だ。
 だが柊がアタシの企みに気が付くまで、数十秒もかからなかった。アタシはアタシをはね除けようとする彼の強靱な筋力を、胴に巻き付けた脚で押さえ込み、彼が打ち付けてくる拳に必死で絶えた。
 暫くして柊の動きが止まった。やったのかと思って私は彼の顔を覗きこんだ。
 その隙を付かれて立場を一気に逆転された。アタシは柊の古典的で実に単純な作戦にひっかかってしまったのだ。
「たっ、確かに気持ちがいいなっ、このオカマ野郎が。」
 アタシの上に馬乗りになったヒイラギの拳が飛んでくる。側頭部への衝撃で一瞬目が眩んだ。柊は本気だった。
 もうこうなったら勝ち目はない、アタシは観念した。その途端、柊の身体がどさりと倒れ込むようにしてアタシの身体を覆う。
 この後に及んで、柊はまだアタシの身体を楽しみたいのだろうかと、固く閉じていた瞼を怖々開けると、遠くで懐かしい声が聞こえた。
「嬢ちゃん大丈夫か、」
 次に柊の身体がアタシの上から取り除かれた。先ほどまで柊の胸板が占めていたその空間の中に、斬馬さんの鞣し革と皺で作ったような精悍なくせに妙にすっとぼけた顔がぬっと現れた。
 アタシは自分が唾液や精液・汗といった体液まみれのびっくりする程恥ずかしい状態でいる事も忘れて、斬馬さんにしがみついた。
 斬馬さんの胸に顔を擦り付けると、その身体からアタシが長い間かかって忘れ去ろうとしてきた家族の匂いがした。涙が胸の奥からもの凄い水圧で駆け上がってくるのが判る。
 でも何故か「泣いてはいけない、泣けば自分という人間が今ここで消えてなくなってしまう」という声が何処かで聞こえてきた。その声は、いつも心の内で繰り返すフレーズに変換される。
 「アタシは哀れな奴隷達に君臨する女王様なんだ」と。

「悪いが急いでいる。三平は儂が嬢ちゃんを取り返しに来た事を知って、死にものぐるいで妨害にかかってくる筈だ」
 その言葉は、アタシが斬馬さんの胸から急いで離れようとしたのと、同時だった。
 斬馬さんはすっかり伸びきった柊の側に散らかっている彼のシャツやズボンをかき集めてアタシにすまなさそうにつきだした。
「気持ちが悪いだろうがこれで我慢してくれ。それを着たらすぐに逃げる。この屋敷自体の霊圧も何故か急上昇してるんだ。」 

 

 斬馬は羽蘭を伴って薄暗い廊下を駆けた。外界に面する窓という窓は総て戸板でふさがれている。その戸板の隙間から漏れ出る光さえ、巨大な蛸蜘蛛桜の枝葉に遮られて、どこか濁って見える。
「斬馬さん待って!」と羽蘭が急に声を上げて、ある部屋の中に飛び込んでいく。
 その行為に思わずチッと舌打ちをしてしまう斬馬がいた。斬馬は追いつめられているのだ。
 具体的な追っ手の姿はまだない。まだないが、今まで味わったことのない悪意が、そこら中の空間に垂れ込めている。右手の中に握りしめた縁切りさえも頼りなく感じられる程だった。
 間もなく部屋から飛び出してきた羽蘭の肩からはポーチがたすき掛けでかかっている。もし羽欄が大きな荷物でも持ってきたら間違いなく斬馬は羽蘭を叱りつけていたことだろう。
「走るぞ」斬馬は後も見ずに駆け出す。数分走っただろうか、斬馬の後ろの羽蘭が声を上げた。
「待って斬馬さん!!」
「どうした、もうへばったのかっ!」斬馬の語気が荒い。
「いいえ、そうじゃなくて、アタシ達さっきから同じ所をグルグル回ってない?それに廊下の距離がどんどん伸びてるような気がするの。」
 それを聞いた斬馬の身体が一瞬硬直し、拳が握りしめられ、怒りの前触れを現した。
「素人が知ったような口を叩くな。」斬馬の頭の中では既にそのような言葉が吐かれていた。
 何人もの男達をSMという道具立てで相手をしてきた羽蘭だ。目の前の斬馬の感情は手に取るように判っていた。それでも羽蘭の目は動じることなく正面から斬馬の瞳を覗き込んでいる。
 その射込んで来るような視線を受けて、斬馬の心の奥で沈んでいたものがゆらりと頭をもたげた。
 斬馬の半生、義理と女の為に殺傷沙汰に明け暮れた毎日。だが斬馬はそれを後悔したことがあっただろうか。惚れた女を守ると決めたら、どんな見返りも求めずにどんな犠牲を払ってでもやりぬくこと、それが無学な自分の矜持だったはずだ。
 そう己を持ち直した途端、斬馬は今、自分たちが完全に蛸蜘蛛桜の強力な力場の中に取り込まれている事を理解した。斬馬の力強い本質さえ、蛸蜘蛛桜によってそぎ取られているのだ。いわば彼らは蛸蜘蛛桜の腹の中にいるようなものだった。
「すまん、、。今、見えたよ、、。あやつに取り込まれていた、儂は情けない男だ。」
「いいの、反対よ、斬馬さんは霊感が強すぎるからそうなっちゃったのよ。アタシは鈍感だから逆に色々な仕掛けが見える。そういうことだわ。でもちょっと安心した。」
「すまん、気を付ける。」
「ううん、そーゆーことじゃなくて斬馬さんにも弱いところがあって安心したってことよ。」
 そういいながら羽蘭はけさがけしたポーチから、斬馬が見覚えのある眼鏡ケースを取り出した。
「、、、それをわざわざ危険を冒して取りに戻ったのか?」
 斬馬が蛸蜘蛛桜屋敷に入る前に手渡してやった幽霊眼鏡、、。
「いやねぇ勿論、お財布とか、その他諸々の貴重品と一緒よ、そんなに純情可憐じゃないわ。」
「で、それでどうするつもりなんだ。」
「勿論、ここで幽霊眼鏡を使うの。此処からの出口が見つかるかも知れないでしょ。」
「やめておけ、危険だ。それを使うには嬢ちゃんは霊能が低すぎる。」
「さっきの斬馬さんのていたらくは霊能の高さが原因だったんでしょ、懲りないのね、、」
 そんな風に羽蘭の口元がにんまりと吊り上がる。女王様の微笑みだ。
 斬馬が寂しげに肩をすくめる。
「でも一瞬で終わらせてね。素人のアタシでも、こんな薄気味の悪い場所で幽霊眼鏡を使ったらどうなるかぐらい予測はつくわ。」
「ああ、お嬢ちゃんが、出口か、それに相当するものを見つけてくれたら、指を指してくれればいい。儂も取り込まれる一歩手前まで、その方向で本気の霊視をしてみる。運が良ければこの縁切りで突破口が開けるだろう。」 
 斬馬は自分の決意を示すように右手にぶら下げた縁切りを少し振った。ちゃりんとささやかな縁切りの鍔なりが廊下に響く。
 斬馬と羽蘭は揃って薄暗い廊下を擬視した。羽蘭が幽霊眼鏡をかける。斬馬は遠い昔やった運動会のかけっこの直前を思い出した。
 そしてそのスタートの合図は突然に発せられた。
「あそこ、3メートルほど先の左側の壁のくぼみ。そこから外の綺麗な光が漏れてる。きっと昔は勝手口だったのよ。」
 斬馬はそれを聞くなり駆け出し、霊視を始めた。廊下中の壁や天井、床ありとあらゆる場所に、ドロドロに解けた人体が埋め込まれていた。
 床を蹴る斬馬の足を掴もうとする手こそなかったが、腐乱した顔という顔が斬馬に血反吐を吐きかけてくる。
 そしてその場所は確かにあった。戸板ほどの長方形を描くように清らかな光が微かに漏れだしている。
 斬馬は縁切りをその隙間に突き入れる。だが腐乱死体で出来た長方形はびくともしない。
「駄目よ、早く!!」横目で見ると、羽蘭が床にしゃがみ込んで吐いている。
 床に埋もれた怪物共がその吐瀉物を奪い合ってうごめいているのが見えた。それに驚いた事にまだ羽蘭は幽霊眼鏡をかけたままだた。恐らく斬馬の身を案じての事なのだろう。
 斬馬は思いきって突き入れた縁切りをドライバーのように回転させた。
 刃が折れるかも知れない。縁切りは霊能を持つものの、特別な名刀というわけではないのだ。肉の戸板がきしむ手応えを感じた斬馬は、こじる力を強めるとともに、右足で思い切り戸板をけりつけた。
 パキンといういともあっけない音がしたかと思うと、戸板自体がまぶしい程の光の中に倒れ込んでいった。その代わり、縁切りの刀身は三分の一ほどが失われていた。
「やったぞ羽蘭、早くこい!」
 外界から進入してくる光と、蛸蜘蛛桜屋敷の肉の闇がせめぎ合い始めた。実際にあちこちで蛋白質が焼けこげる匂いがした。そんな中を羽蘭が必死の形相で走ってくる。
 斬馬は勢い余ってつんのめりそうになった羽蘭を抱き止めながら外界に転がり出た。


 柊はずきずきと痛む後頭部に手を当てながら、その半身を起こした。羽蘭の姿も、自分の衣服もない。あるのはただ、羽蘭の身体の抜け殻のようなゴム製の防護服が床にぺたりと伸びているだけだった。
「くそあのオカマ野郎、ただじゃおかねぇ。おーい神室!!聞いてんだろ!こののぞき見野郎。俺のあれを出せ。あれに追わせる。ずたずただ。ずたずたに切り裂いて死ぬより苦しい目に遭わせてやるぞ。」
 柊は絶叫しながら部屋の天井の片隅に隠されている監視カメラのレンズを睨み付けた。

 それの形状を言い表すのには「蟹の甲羅を身に纏った巨大な蜘蛛」という言葉が最もふさわしいのだろう。
 ただし、その甲羅の中心からは赤子のような体型の人型の上半身が突き出ていて、この生き物の創造主の悪意が伺える。
 さっきまで柊と羽蘭がエロチックな死闘を演じていた部屋にその蟹もどきがいる。だがその佇まいは外見の獰猛さに似ず穏やかだ。まるで主の命令を待っている賢くて成熟した猟犬のようにも見える。
「・・・・来たか、、まずは匂いを覚えろ。この俺をこけにしたオカマ野郎の匂いだ。」
 蟹もどきは床に座り込んだ柊よりも二倍ほどの高さがある。その蟹もどきの鋏のある脚がそっと持ち上げられて、刃先を柊の身体すれすれをなぞるように動かし始める。
 鉄をも断ち切れるような鋭い刃を持つはさみだがそれは内側の事で、外側は小さな藤壺ににた凹みのある突起物が帯状に並んでいる。それがこの生き物の、嗅覚を司る器官なのだろう。
 面白いことに、それと連動するように甲羅の頂上にいる赤子の形をしたどす黒い肉の塊が、深呼吸するような動きを見せた。 
「そのオカマ野郎の側には、俺を殴った奴がいる筈だ。そいつも始末しろ。だが二人ともトドメはささずにおくんだ。死ぬ前にこの俺が奴らに唾を吐きかけてやる。」
 どす黒い赤子の肉界の頭部に当たる部分に二筋の切れ目が走ったかと思うと、そこからホオズキを思わせる真っ赤な眼球が現れた。続いて、口に当たる部分に裂け目が広がり真っ白な鋸の歯のようなものが見えた。笑ったのかも知れない。
「判ったら行け。」
 柊はグロテスクな赤子の顔に頷いてやる。蟹もどきは来たときの素早さで柊のいる部屋からその姿を消した。


 斬馬と羽蘭の二人は回廊式の屋敷の外庭にあたる部分に転がり出ていた。
 空を見れば薄曇りの日射しで、それ程、良い天気ではない。それでもこの二人には外界は光に満ちあふれた世界だった。
 振り返ると先ほど斬馬が蹴破った戸板と蛸蜘蛛桜屋敷の黒々と穴の空いた横腹が見える。それを見た二人は上がってしまった息を整える事も忘れて、もつれる足で出来るだけその場から離れようとした。
 そうしなければ蛸蜘蛛桜屋敷が、再び彼らを、その腹の中に吸い込もうとするような気がしたからだ。
 だが実際は逆だった。蛸蜘蛛桜屋敷は彼らを吸い込む変わりに、世にも残忍な追っ手をその腹から吐き出したのだった。
 戸板の穴から飛び出した蟹もどきが、まるで重さを持たぬもののように6本の爪先を突き立てながら地面にサクリと着地した。
 さすがに荒事に鍛えぬかれた斬馬は、瞬時に腰を落として短くなった縁切りを中段に構えた。
 だがその気持ちは混乱に支配されている。蛸蜘蛛桜の腹から生み出されて来たこの怪物、、霊気がまったくない。
 今、自分は霊視モードにも入っていない。だのにこの怪物は、その異様な身体を外気にさらしながらしっかりと自分の目の前に在る。
 肉厚の巨大な蟹の甲良を、細長い三対の脚が、重力に逆らうように地面から持ち上げている。そして恐ろしく切れ味の良さそうな蟹ばさみは隙のない構えで斬馬達を狙っていた。
「気を付けて、それは本物よ。悪夢なんかじゃないわ、たぶん柊が作り出した怪物だと思う。」
「ひいらぎ?」
「斬馬さんが気絶させた男よ。三平の友達だとか言ってた。」

 柊だ。柊の作り出した怪物だ。柊以外の誰が、こんな馬鹿げた生き物を作り出すというのか。アタシには直感的にその事が判った。
 斬馬さんはこの怪物を見て混乱している。当たり前だ。アタシだってあの地下研究室や柊に出会っていなければこんな映画の中にしか存在しないような怪物に出くわしたら自分のほっぺをペンチでつねってみようとするだろう。
 斬馬さんはアタシを自分の身体の後ろに庇いながらじりじりと後ずさりを始める。
 蟹もどきは屋敷の壁から扇形に回り込んで、アタシ達を壁際に追い込もうとしてくる。こいつには知能があるんだ。
 そして蟹もどきは急に動いた。続いてドスっという音が聞こえた。
 蟹もどきのはさみが横になぎ払われ、辛うじてそれを避けた斬馬さんの胸元を掠め、それが屋敷の壁にめり込んだのだ。壁にめり込んだ鋏の為に、手元を縛られた形になった蟹もどきの動きが止まった。
 斬馬さんは一瞬その手に持っている折れた刀で、蟹もどきの脚を断ち切ろうとしたようだが、それを思いとどまって、アタシを連れさらに後ろに逃げ、怪物との距離を開けた。 それが正解だったのだ。斬馬さんの動きを見て、蟹もどきはいとも簡単に壁にめり込んだ爪先を引き抜いて見せた。動きを止めて見せたのは罠だったのだ。
 アタシ達と蟹もどきのにらみ合いはそれから数分続いた。

 蟹もどきの甲羅の上から上半身を突き出した小人は、しきりと自分の顔を撫でながら何かを呟いている。
 けれど蟹の頭部には突き出た目部がありそれが確実にアタシたちの動きを監視しているのが判る。
「柊は、自分はキメラも作れるって言ってた、、。」 
「・・まいったな、動きがとれない。このままじゃ千日手だ。ここはお嬢ちゃん一人で逃げてくれるか。」
 でも斬馬さんの言う千日手は、この蟹もどきの飼い主の登場によって一気に破れた。 
「呆れたもんだぜ。もしやと思って覗いて見たが、こんな近くにいやがったのか。」
 蟹もどきの向こう側、つまりアタシ達がさっき脱出して来た屋敷の穴から、柊がひょっこりと顔をつきだし、やがてその長身を表した。
「あいつが柊、、、」
「お前が斬馬か、、随分神室が苛立っていたぜ。今は俺も一緒だがな、この歳になっておめえみたいな爺に頭を殴られるとは思わなかったぜ。」
「ポチ、もう遠慮はいらねえ、その爺、この場で切り刻んでやれ」 
 その言葉をまっていたかのように蟹もどきは急に動き出した。
 斬馬は、繰り出される蟹ばさみの切っ先を交わしながら、蟹もどきの甲羅の上にいるこびとを攻撃しようとしている。 分厚い装甲に守られた異形の本体から突き出いてる人間、誰が見てもそれがこの化け物の弱点のように見えた。
 そんな斬馬の攻撃を見ている柊の口に薄笑いが浮かぶ。
「逃げろ、逃げるんだ」
 斬馬が自分を楯にして羽蘭を逃がそうとするのだが、羽蘭は蟹もどきを中心に大きく回り込むだけで、この修羅場から逃げ出そうとはしない。
 羽蘭の求めているのは手頃な武器だった。恐らく二人かかりでもこの蟹の化け物は打ち倒せまい、しかし、明らかにこの化け物は柊に操られている。
 柊ならまだ勝ち目はある。それに化け物が柊を守ろうとしたなら、そこに斬馬が蟹もどきに付け入ることの出来る隙が生まれる。
 農作業に使う鍬が草むらのなかに転がっていた。羽蘭は急いでそれを拾うと柊に突進していく。
 やはり羽蘭の予想通り、蟹もどきの背中のこびとは振り返るようにして羽蘭の動きについて来た。
 斬馬はそれを見逃さず、一気に蟹もどきとの間合いをつめ、折れた縁切りをこびとの真上から振り下ろす。
 ぐじゃりという音が聞こえたかと思った瞬間、斬馬は後ろに飛び退いた。それはこびとの血しぶきを避けるといった余裕のある行動ではなく、命辛々の動作だった。
 蟹もどきはこびとへの攻撃などものともせず、蟹の爪を飛び込んできた斬馬に対して真横になぎ払ったのだ。こびとは単なる趣味の悪いアクセサリーかダミーに過ぎなかったのだ。


 後ろに飛び下がったものの、斬馬の胸は真一文字に引きさかれていた。シャツの下からは既に血が滲み初めている。
 一方、羽蘭は振り下ろした鍬を柊に受け止められ、逆に動きを封じられていた。
「観念しろ、大人しくするなら、その爺もう少し生かして置いてやる。いや、、俺がお前をもっと具合良く改造してやる。あのポチみたいにな。それを受け入れるなら、その爺、ここから解放してやるぜ。」
「嘘ばっかり、三平がそんな事、認めないわ!」
「ふざけるなあんなマザコン、目じゃないぜ、俺があいつの母親の薬を調合してやっている限りは、奴は俺の奴隷なんだよ。」 
 斬馬は疲労の為か膝を地面についている。今、蟹もどきの二度目の攻撃があればひとたまりもないだろう。
 羽蘭は鍬を握る手の力を緩めた。柊は鍬を羽蘭からもぎ取ると地面に投げ捨て、羽蘭を背後から羽交い締めにし、その首を腕の関節で絞めた。柊の股間が膨れ上がって逸物が羽蘭の腰に押しつけられる。
 柊の加虐に火が付いたようだ。
「やっぱ気が変わった。お前はこの場でくびり殺してやる。その方が感じるぜぇっ。」 
「駄目よ!!兄さん。その人を離してやって」
 何処から走ってきたのか、息を切らせながら背の高い女性が、柊に叫んだ。見れば神室屋敷の玄関に近い4メートルほど先の壁にある窓が開いている。位置的に推測すれば鶴継の部屋の窓だ。その女性はそこから飛び出して来たのかも知れなかった。
「冬子、、お前、なんでそんな格好してる、、。」
柊が驚きの声を上げる。
「兄さん、コレ見て。」
 冬子と呼ばれた女性は、後ろ手でかくしていた包丁を自分の喉元に突きつける。
「本気よ、判っているでしょ。それにこのこの屋敷はもうお終いみたい、私がここに留まる必要はなくなったの。」
「三平がお前を手放したのか、、」
 柊の腕の力が一気にゆるむ。その隙に羽蘭は柊から逃れて斬馬に向かって駆け出す。
 女との距離が縮まり彼女の様子が詳しく見えた。女は柊の妹らしいが、その顔に柊との共通点はあまり見いだせない。
 ショートカットの髪はその質が柔らかいのか、女の形の良い卵形の頭をそのまま際だたせて見せている。
 切れ長で大きな目は、きつさよりも寂しさを感じさせる。薄い唇と少し大きな口、、白いセーターと灰色のスカート、シンプルなのに派手に見えるのは女の均整のとれた上背のある体つき故のことだろう。
 羽蘭と斬馬の二人はお互いを庇いながら、ゆっくりと冬子の方にあとずさっていく。
 今の彼らの守護者は冬子しかいない。二人が冬子の側に近づいた時、彼女が小声で羽蘭に話しかけて来た。
 風が動いたとき冬子の身体の匂いがした。その時、羽蘭はわけもなく身体をふるわせたのだ。
「羽蘭、早く逃げて、今なら屋敷の跳ね橋は上がってる。」

 アタシはその背の高い女がアタシの名前を知っている事に驚きを覚え、さらにはその声色に不思議な懐かしさを感じた。
 女は理解できない磁力でアタシをその場に惹き付けようとしたが、手首を掴んだ斬馬さんの手がそれを許さなかった。
「行くぞ。嬢ちゃん!!ここは彼女の好意に甘えよう。」
 斬馬さんの表情が歪んでいる。自分がどんな窮地に陥ろうと決して女子供を見捨てない斬馬さんが、今、己の信義を捨てようとしているのだ。身体へのダメージ以外に、精神的にもよほど追いつめられているのに違いなかった。
 それはアタシには感知出来ないのだけれど、先ほどからぎいぎいと軋みだした神室屋敷全体の異変と関係があるのかも知れなかった。
 アタシはちらっと柊の顔を見た。今の柊はアタシたちの事など眼中になく、突然自分の前に現れた女に心を奪われているようだった。
 その様子から、柊が彼女を傷つける事はないと判断してアタシは斬馬さんと共に最後の力を振り絞って走り出した。

 強大な蛸蜘蛛桜屋敷は、腹痛に苦しむ動物のようにぎりぎりと震えていた。屋敷に使われた填めガラスの類が割れる音さえ聞こえた。地面が揺れているわけではない。
 それは跳ね橋をわたり終えてあえぎながら地面に倒れ込んでいる羽蘭・斬馬の二人には自明の事だった。
「今一体何が起こっているの?」
「戦いだ、、、屋敷の中で誰かが蛸蜘蛛桜と戦っている。」
「・・・えっ、あの女の人?」
「いや彼女は、不思議な霊気を持った人だが蛸蜘蛛桜と戦えるような力はない。あの柊でもない、、。」
「じゃ三平、、。」
「だろうな、、儂は今まで三平が蛸蜘蛛桜の力を操っていると思っていたんだが、、何かの事情で、制御できなくなっているのかも知れない。」
「屋敷の地下室で三平の曾おばあさんが蛸蜘蛛桜の根と同化してる写真を見たわ。柊は蛸蜘蛛桜は生体コンピュータみたいなものだとも、。」
 斬馬はタネが三平に「母親の薬が切れた」と告げに来た事を思い出した。
 屋敷中の異変が始まったのも、そのあとのことだ。三平の母親に、蛸蜘蛛桜に接続された曾祖母さん、、。それにあの旧日本軍兵士の亡霊達。  
「お嬢ちゃん、他に何を知ってる?」
 羽蘭が斬馬の胸元の傷を調べて顔をしかめた。傷自体は深くはないが、ギザギザの傷跡が痛々しかった。今は斬馬のハンカチで傷口を押さえてやる事しかできない。出血が少ないのが幸いだった。
「昔の軍隊が超人兵士を作ろうとこの近くに研究所を置いた話だとか、それに神室家が協力して、その時、神室の女は不老不死になったって鶴継君が言ってたけど。」
 鶴継の名を口にした途端、羽蘭は何かに気付いたかのように、その顔を上げ橋の向こうで震えている屋敷を急いで振り返った。
「彼女、鶴継君だわ、、きっと。」  
 羽蘭はふらりと立ち上がると、屋敷に向かって歩き出した。
「馬鹿。何をする積もりだ。」
「だって鶴継君をたすけなきゃ。」
「止めろ、、鶴継って奴がどういう人間か知らないが、今の儂らには、この屋敷はもう手に負えん。ここの屋敷は因縁や怨念が強すぎる。それを蛸蜘蛛桜は栄養分にしてるんだ。儂らでは無理だ。紋場姉妹のことも諦めた。お嬢ちゃんを取り戻しただけで充分だ。これ以上儂を苦しめんでくれ。」
「・・ありがとう斬馬さん、でもここからはアタシの問題なの、ゴメンね。」
斬馬の顔が今まで見せた事のない表情に歪んだ。
「それなら私もいくわ。」
 その時、彼らの背後から若々しいけれどせっぱ詰まった声がかけられた。
 そこにいたのはカーディガンを羽織った制服姿の木佐貫理恵だった。右手には和弓、背中には矢筒を背負っている。ここまで駆けて来たのか息が荒い。
「・・理恵ちゃん、どうしてここに。」
 驚いたように斬馬が後ろを振り返る。
「どうしてじゃないわ、神室屋敷に何か異変が起こっているのは村にいる誰もが感じてる、、もっとも誰もここに来ようとはしないけれど、、私は、お爺さんが心配になったのよ。」
 斬馬は今、理恵が悪気なく発した「お爺さん」という言葉に深く傷ついていた。羽蘭を曲がりなりにも助け出した今、己の年齢という実態と体力の限界は、もう気力だけでは跳ね返せないものとなっていた。
「この子、斬馬さんの知り合い?」
 羽蘭の声には棘がある。微妙な嫉妬が混じっていた事もあるが、何よりも神室屋敷の化け物ぶりを知っている身とすれば、一緒に屋敷に乗り込むという小娘は足手まといとしか良いようがなかったからだ。そこに排斥の念が生じるのは当たり前だった。第一、理恵の身が危険だった。 
「・・ああ、紋場照葉さんと同級生だった娘さんで、照葉さんを探してる。儂はその事も頼まれておったのだ。」
「、、、。」
 羽蘭の脳裏に地下室に寝かされてあった三つの死体の姿が浮かぶ。照葉の死を伝えればこの娘は引き下がるだろうか、いやこの子なら却ってその言葉を確かめに行こうとするだろう。
 気の強そうな理恵の顔からそれが一目で判った。第一、羽蘭は自分に照葉の死を伝える力がない事を知っていた。
「斬馬さんは怪我をしてるの、誰かが面倒を見なくちゃ。」
 それが理恵をここに縛り付ける為の、羽蘭が思いついた策略だった。実際、斬馬は一人で身動きが出来るような状況ではなかった。
「だったらあなたが側にいてあげて、お爺さんが傷ついたのはあなたのせいなんでしょう。」
 理恵が強い調子で答えてくる。それを聞いた羽蘭の拳が握りしめられる。斬馬が驚いたように顔を上げる。だがやがて何事かを決意したように言った。
「二人とも行っておいで。儂の事は心配せんでいい。理恵ちゃんには、照葉ちゃんを探すこれが最後のチャンスかも知れない。そんな予感がするんだ。それに羽蘭、、あんたの決心もどうやら本物のようだ。二人とも、やって失敗した後悔よりも、やらなかったことの後悔を大きく感じる人種のようだからな、、いくがいい。だが危ないと思ったらすぐに引き返せ。あんたらの命よりも大きなものがあの屋敷にある筈がないんだ。いいな。」
 羽蘭は不思議そうな顔で斬馬を見つめ、やがて納得したように理恵を見た。
 斬馬は霊能者だ。常人にはないものが見える。おそらく神室屋敷に起こっている力場の混乱が、羽蘭達の進入を有利に導くと判断したのだろう。あるいはこの理恵という娘に何か特別な力があるのか、、。
 そうでなければ羽蘭達の決意など一蹴していた筈だ。それに今、神室屋敷には柊を押さえる事のできる冬子という女性がいるのだ。
「幽霊眼鏡、又、借りていくね。」
「・・・ああいいだろう。良い考えだ。今も神室屋敷は荒れ狂っている。だがそれは儂が思うに内輪もめだ。三平が儂らを追ってこれなかったのはそのせいだ。幽霊眼鏡であの時のように活路がひらけるかも知れない、。」
「理恵ちゃん。理恵ちゃんはその矢をこちらに、」
 そういわれた理恵は不思議そうな顔をして、たすきがけしていた矢筒を斬馬に手渡す。
 斬馬は刃先の折れた縁切りを矢筒にあて、目をつむって神経を集中させている。
「・・なーに、呪いだよ。この矢が敵に良く当たるようにな、さあ行っておいで二人とも。」
 羽蘭は自然に理恵の手を引こうとしたが、理恵はその手を無視して神室屋敷へ走り出した。
「ちっムカつく!」
そして数歩遅れて羽蘭が理恵の後を追って走り出した。


 
2006/01/01
 

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つぎのぺぇじ!!