■ 激走!!まぼろしトラック ■

6: 鶴継

 そこは浴室というより、手術室か映画で見るような死体処理室みたいな場所だったけれど、お湯に入れるなら地獄の釜でも良かったのだ。
 アタシはふらつく足下も気にならず、部屋の中央にせり上がった真四角の湯船というか小型の生け簀に近いものに飛び込んだ。
 立った状態で首もとまで水面がくるのだから相当に深い。広さだって身体を真横にしても上下にたっぷりの余裕がある、、きっと本来の目的は湯船ではないのだろう。
 それでもアタシは、自分の汚れを流し極度の全身拘束で滞ってしまった体中の血流を再生してくれるお湯に感謝した。
 瞼を瞑ってお湯に身体を預けていると、先ほどアタシをレズリー・ローの呪縛から解放してくれた鶴継君の優しげな顔と体温が蘇って来るような感じがした。
 三平のプレイは私をレズリー・ローという等身大の生き人形にした上、更にご丁寧な事にも、レズリーを形どったゴムマスクの上から、鼻孔と口の穴しか開いていない分厚い真っ黒な全頭マスクをかぶせての放置プレイに移行していたのだ。
 ラバーマスクを二枚重ねしたアタシの口に、三平がボールギャグまでツッコンで来た時には、さすがのアタシも悲鳴を上げそうになった。
 三平には「顔」というか「記号としての皮膚」に異常な執着があるように思えた。
 身体を覆ったレズリーのゴムの膚によって皮膚呼吸も遮断され、更には鼻孔と口からのわずかな呼吸しか許されない状態に陥ったアタシは意識が朦朧となり始めていた。
 そんなアタシを張り付け台から下ろし、レズリーの皮を剥がしてくれたのは鶴継君だった。
「兄に頼まれた。・・やるだけやって面倒な事はすぐに他人に押しつける。困った人だ。」と言葉少なく言って鶴継君は、ダッチワイフの皮を剥ぎ中身の人間を取り出すというとんでも無い作業を黙々とこなしたのだ。
 その奇妙に手慣れた手際や、不可触領域である三平の部屋に平然といる鶴継君の不思議を、アタシが自分の頭の片隅においやったは、ひとえに恥ずかしかったからだ。
 鶴継君が脱がせてくれる度に、レズリーの裏返った皮膚の窪みからは大量の汗が流れ出た。もっと最悪なのは腰回りのラバー部分だと、失禁や汚物が付着している可能性があると言うことだった。
 でも鶴継君は何も言わずに、そう、まるで肛門科の先生みたいに黙々と作業をこなした。
 それが鶴継君の優しさだったんだと、今頃気づいて、アタシはお湯の中に頭のてっぺんまで潜った。
 
 手術道具が乗っている方が似合いそうな浴室内のキャスターに、石鹸やリンスが仕舞われていたのだが、あいにくシャンプーがなかった、、。
 鶴継君が途中まで見送ってくれた脱衣室に予備のシャンプーの記憶があったので、アタシは脱衣室を探してみる事にした。
 その時、浴室との間を隔てている脱衣室の磨りガラスの向こうに人影が見えた。
 アタシは三平が覗きに来ているのではないかと震え上がった。お風呂に入って精神的にも弛緩しきった今の状態では、三平と渡り合える筈がなかった。もしそうなればアタシは、日銭を稼ぐために監禁・暴行を受け入れるような事になる。
 どうやら人影は、屈み込んでこちらに背中を向けているようだった。これなら顔を鉢合わすことはない。
 それに、三平に怯えを感じる自分自身が許せない気分が頭をもたげて来て、アタシは磨りガラスを少しだけ開けてその人物を観察する事にした。
 白いセーターと見覚えのある優しげで力強い背中が脱衣かごに向かって丸まっていた。
 猫がミルクを舐めるような音と、分厚いゴムが立てるごぼごぼという音が同時に聞こえた。
 鶴継君の後頭部の向こうに、鈍く光る肌色の分厚いストッキングのようなものがユラユラと揺れて見えた。
 あれはアタシがさっきまで履かされていたレズリーの下半身だ。
 両足分が揺れている所を見ると、鶴継君は股の部分を舐めてるみたいだった。
 アタシは、汗と体液と汚物にまみれたあのラバーの裏側を洗った覚えもふき取った覚えもない。
 顔が真っ赤になった。そして下半身と乳首の芯に久しぶりの本物の興奮を覚えた。
 鶴継君の丸い背中は時々震えて罪を告白しているように見えた。
 そうじゃない。そうじゃないのに、、。
 どうして恥ずかしがるの。人間はみんな変態よ。
 アタシは綺麗にメイクしてあげた鶴継君とレズしてる自分を想像してみる。鶴継君はナチュラルメイクだとお嬢さんぽくなるだろうけど、そこを崩してイケイケにしたらいい感じになる筈だ。豹柄のうんとエロなのを着せて、、目抜き通りのど真ん中でディープキス、、。
 アタシとキスして起たない男はいないから、きっと鶴継君もパンティからペニスはみ出させるほどになるだろう。 アタシはスカートの上からそれを優しく揉んで上げる。鶴継君の精液の付いたパンティならアタシだってしゃぶりたい。
 鶴継君の背中を見ながら、そんな想像をしてアタシの手は自分の股間に伸びている・・恥ずかしがらないで、、人間の頭の中なんて、みんなそんなものよ。
 少なくともアタシは鶴継君の事を理解できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 アタシはそっと浴室に引き返した。身体にタップりの泡を立ててオナニーをした。
 自分でやるなんて本当にひさしぶりだった。もちろんオカズは鶴継君だ。
 お尻を持ち上げて右手は前を愛撫し、左手の指でかき混ぜる。三平の時とは違って本当に気持ちがよかった。
 結局、髪は石鹸を使って洗って済ませた。
 次に脱衣場に戻った時は、あのゴム服は無くなっており、
 代わりに乾いて気持ちの良さそうなバスタオルが何枚も置いてあった。
 アタシが身体を拭いて身支度をととのえて廊下にでるとそこに鶴継君がいた。
 すっぴんだったけれど恥ずかしくなかった。もう鶴継君には恥ずかしい所を何回も見られている。
「髪の毛、乾くまで僕の部屋に来ないか。ここからだと君の部屋より僕の部屋の方がずっと近いからね。」
 アタシの胸はうぶな中学生みたいにキュと音を立てて縮んだ。これは本当の話。 
「、、複雑。まるで迷路みたい。」
「雰囲気がね、そうさせるんだよ。僕も初めてこの家にやって来た特はそう思った。でも実際はとても判りやすい作りになっているんだ。山手線、、大阪で言えば環状線みたいなものだ。右回りで歩いていくか左周りで歩いていくかの選択肢しかない。」
「ここがお婆様の部屋、先のもう一つ奥の部屋は大お婆様の部屋になっている。」
「ひいお婆様、、ってことね。」
 でも曾お婆さんって一体、何歳になるのだろう。三平の祖母ですらその実像が想像も付かないのに、、、私は干からびたミイラのようなものを想像して見た。
「うん、寝たきりらしくてタネさんやお婆様が面倒見てると聞いている。・・まあ一度もその姿を見た事がないんだけどね。僕の部屋は間に一つ空き部屋をはさんでその隣にあるんだ。」
 思わず「気持ち悪くない?」と口を挟みそうになったがそれを止めた。ちょうどタイミング良く、その話題の主である曾お婆様の部屋の前にさしかかったからだ。
 なんだか背中に寒気が走った。斬馬さんに貸してもらった幽霊眼鏡を、今ここで使ったら一体どんなものが見えるんだろう。
 もちろん答えは判っていた。霊感の類を一切持ち合わせていないアタシだって、この周辺を覆っている異様さは感じ取れるのだ。
 ここにはきっと何かがある。そしてそれはアタシの想像以上のものであるのに違いない。


 鶴継君の部屋は思った通り清潔でよく整頓されていた。そのあたりのことは、男の人の場合、爪を見れば判る。爪を短くしている男はまず合格だ。
 鶴継君の爪の色は桜色で形は縦長。マニキュアをしてあげたら綺麗になりそうだった。
 鶴継君は、アタシ達の為のコーヒーを仕掛けてから、奥の部屋から、新しいバスタオルを持ってきてくれた。
 アタシはタオルを受け取るふりをして、それを下から支えている彼の手に触れようとした。
 けれど鶴継君は、人影に逃げる敏感な川魚のように、アタシの指先が触れた途端にその手を引っ込めた。タオルだけが何事もなかったようにアタシの手の上に残る。
・・ほうそういうつもりなの。でもアタシはそんなコトでめげないよ。
「鶴継君は私みたいな人、軽蔑する?風俗なんか行った事ないんでしょ。」
 ちょっとした挑発だった。風呂上がりで化粧をおとしたままの卵の剥き身みたいなアタシの顔は、すね気味の表情方が可愛いらしい。
「いいや、この歳だよ。風俗にも行った事はあるさ。」
 鶴継君はおどけたように言うが、彼の長すぎる睫のせいでそれが似合わない。
「嘘、鶴継君なら女の子に不自由しないでしょ。どうして風俗なんかに行く必要あるの。」
「面倒なのはいやなんだ。金で買ってる優しさの方が落ち着けていい。ああ、入ったみたいだ。」
 プッ、金で買える優しさだって、、。旨いタイミングで鶴継君はコーヒーメーカーの方にすり抜けて行った。


「ところで死蜜って、知ってる?」
 鶴継君はカップを、アタシたちを隔てるテーブルに置いて話始めた。どうあっても話題を違う方向に持っていきたいらしい。
「僕もここへ来て初めて聞かされたんだけど、、そいつは河原の少し水辺から離れた濁った水たまりにあるんだって。そこには蝶々が何十匹も集まるらしいよ。水たまりだから、すぐに干上がっがってしまうし見た目も綺麗なものじゃないから、村の人はあまり気にしなかったらしい。でも死蜜は使い方を知っている者にとっては凄い薬になるって事なんだ。」
「薬って?」
 アタシは水たまりに蝶々が一杯集まっている光景を想像してみた。確かにあのフワフワは一、二匹だから可愛いので、たくさんいたら気持ち悪いだろうと思った。
「延命薬さ。それで曾お婆さまが長寿になったというわけだ。」
 鶴継君は日本昔話のナレーションみたく「めでたしめでたし」とは言わなかったけれど、半分冗談じみた口調で話をまとめた。
「ふーん、長生きの秘密は人魚の肉とかじゃないんだ。」
 アタシは自分の知っている知識を披露してみた。尤もその知識のソース元はコミックだけど、鶴継君にはアタシの事を単純な風俗嬢だと思って欲しくなかったのだ。


「あはは、そうだね。でもこの話、代々村に伝わる根拠のない噂話や昔話みたいなものじゃないんだよ。なんでもこの村の上には戦争中日本軍の医療研究所みたいなものがあったらしい。そこには随分、強制連行された外国の人とか捕虜達も連れてこられたらしいね。」
「やだ、それって人体実験とかじゃないの。」
 アタシは仕事の「待ち」の時に色々な種類の本を読む。勿論、メインはコミックだけど、、一時期、ナチスの人体実験を殊更に拾い上げたようなグロ本に、はまった事があるのだ。
 鶴継君はそれには答えず話を進めた。今度は顔つきが真剣になっている。アタシを本気で怖がらせようというつもりなのか、ちょっと真意が掴みかねた。
「人によると死蜜っていうのは何かの廃液じゃないかって言うんだ。その川にさ、何か危険なものを投棄しようと運び込んだ時にそれが漏れたんじゃないかとか、、その他いろいろな噂があるな。」
「例えばどんなの?」
 アタシはいかにも話に夢中になってるって感じで鶴継君ににじりよった。
「この家は昔から旧家で実力を持っていたから、駐屯中に色んな便宜を図ってもらうために、研究所の所長が軍の機密情報とかを漏らしていたんじゃないかという説もある。 あの木のお陰で、この家の主はいやでもそういった事に関心をもたざるを得ないからね。それを盗み聞きしてたのが曾おばあさまだということなんだ。」
「鶴継君の話って、それとかそういったが多いよ、意味がよくわかんない。」
「そうだね、、でも笑っちゃ駄目だよ。それって言うのは人体の強化や巨大化の事なんだ。つまり兵士の改造だね。そこで蛸蜘蛛桜と関係が出てくるんだ。蛸蜘蛛桜は昔、一度枯れそうになったらしい。家主としては自分の代で、代々引き継いだ蜘蛛桜を枯らすわけにはいかないだろう。」
 未来を語る純粋な少年のように、鶴継君の口調が熱くなり始めた。そんな彼の口の動きに見惚れてしまう。今すぐその口をアタシの唇で覆ってしまいたい。
「桜の花は、いつでも咲く準備が整っているらしいよ。それを抑止する成分が桜の中に安全装置としてあるという事なんだ。冬のど真ん中で受粉しても仕方ないからね。でもここで大切な事は、桜はいつだって花を咲かせる事が出来るという事なんだ。春にしか咲けない訳じゃない。つまりそう言う発想で、不死不老をとらえ直す事も出来るわけだ、、、。人間には死んだり衰えたりする装置が埋め込まれているのであって、人生八十年は必然ではないという事だね。この発想をベースにした研究がすすめられていたらしい。」
「神室家とその研究所との関係の中で、とにかくおばあちゃんが何かを画策して長生き出来るようになったんだよね。だから村の人達は気味悪がって死蜜だとか、いろいろなうわさ話をこしらえたんだ。」
 病的なまでに自分の美貌にプライドを待っている神室家のお嬢様を想像して見る。お嬢様は、昨夜盗み聞いた不老長寿の薬を手に入れる為に、その美貌を武器にして初老の軍医を誑し込んで、、。
「まあ、そういう事かな。さっ、そろそろ髪が乾く頃じゃないかい。それにもうすぐ夕食だし。」
 さあこれでお話はおしまい、良い子は早く寝ましょうねと言わんばかりの口振りだった。
「アタシ、鶴継君と一緒に食事がしたいな。」
「それは無理だよ。最初に言ったろう。僕は家の者と食事をするし、羽蘭さんは、、、そのう、残念だけど僕らの家では正式なゲストじゃないんだ。」
 三平の誘拐殺人疑惑やら化け物植物・それに今聞かされた旧日本軍とのドロドロとした関係、そんな「家」のゲストになる必要はなかったし、神室屋敷での疎外感から来る痛みに似たような感覚も薄らいでいた。
でもこの美青年に対するアタシの欲望は募るばかりだった。
「・・・ん、すぐに部屋に戻るよ。鶴継君も迷惑みたいだし。ねっ、教えて?鶴継君ってこの家のひとじゃないんでしょ。ここに来る前はどんなだったの。」
 この部屋を出ていく交換条件みたいな物言いで気が引けたけど、アタシは彼の全てが知りたくなっていた。
「思い切り古典的に表現するなら妾の子だよ。三平兄さんとは異母兄弟になる。僕の母が死んだ時にこっちに引き取られた。」
「・・そんな目で見ないでくれよ。映画じゃないんだからさ、ここでは虐められてもしていないし、僕の方も神室家を呪っちゃいない。・・まあ愛されてはいないがね。でもそれはこの家に来たからじゃない。それは昔からだし。」
 これでいいかいという感じで、鶴継君は言葉を切ってアタシの目を覗き込んだ。
 深くて透明な瞳の色、この目は哀しみを知っている目だ。アタシのお客さんの中にも何人かこんな目をした人が居る。


 

 

 

 鶴継君の瞳の色に見せられて、ぼーっとしたまま薄暗い廊下を歩いていたら、突然何かにぶつかって転けそうになった。
 磨き抜かれて深い森の沼の水面みたいに見える廊下の上に、毛皮を引き剥かれた猿がいた。あの蜘蛛桜をはじめてして、本当にこの屋敷は化け物だらけだ。
「気をつけな。この馬鹿おんな。」
 足下からしわがれた罵声が飛んでくる。その罵声には奇妙な事に、怒りよりも怯えが多く混じっていた。
 廊下にへたり込んでいたのは、猿ではなく・・タネさんだった。
「いつまでつったってんだい。人を突き飛ばしておいて謝りもしないんかい。こん馬鹿おんな。」
 確かに、、、アタシは口から飛び出しかかる悲鳴を押さえる為に、口もとに両手をあげたまま凍り付いていた。
 急いでタネさんの周りに散乱しているものを拾い集めた。タネさんが起きるのを手伝おうかと一瞬思ったが、その為に手を握っただけでも文句を言われそうなので、そっちの方は諦めた。
 タネさんが落したお盆や得体の知れない血塗れの食器の類を彼女の側に素早く並べ終えると、アタシは黙って頭を下げてその場を立ち去ろうとした。
「どこへ行くんだ。おまえの部屋は逆だよ。逆。そっちは姫さまの部屋じゃ。」
 その時、アタシは鶴継君の部屋から、まったく逆向きに歩き始めている事に気が付いた。元来た道筋を逆に辿ろうとしている。アタシが進もうとしているのは例の曾お婆様がいる方向だったのだ。
 いくら鶴継君に逆上せ上がっていたからって、そんな事を間違うなんて、、、急に背中が寒くなった。
 もしかしたら「引き寄せられた」のかも知れない、、そんな考えが頭をよぎった。
 タネさんの顔を見ると、その顔は心なしかひきつっていた。この人も、単純に自分とぶつかった「馬鹿おんな」に怒っているだけではないのだ。
 タネさんはまだしゃがみ込んだままだった。アタシは余程、強く彼女にぶつかったのかも知れない。
 でも廊下の曲がり角で、出会い頭にぶつかったのは確かだけど、あの時のアタシは鶴継君の事で頭が一杯で夢遊病者みたいにゆっくりと、歩いていた筈で、、
 えっ?さっきタネさんは、アタシが彼女を突き飛ばしたと言ったのではなかったか?
「すいません。でも突き飛ばしたりしてません。」
 アタシはタネさんの元に戻って手を差し出しながらそう言った。誤魔化すな、という返答と共に拒絶が返って来るかと覚悟していたが、タネさんは素直にアタシの手を借りて立ち上がった。
「・・そうかも知れんな。なんせ姫さまの側じゃ、、色んな事が起こる、悪戯なすったんじゃろう。」
 その時、曾お婆様のいる部屋の方向から器物を壁に投げつけるような激しい音が響いた。
「姫様は機嫌が悪い、、、じゃが、それは儂のせいじゃねぇ。」
 タネさんが首をすくめた。

 アタシはタネさんの代わりにお盆を持って、彼女の小さな背中を見ながら廊下を歩いた。
 そうしながら、つくづく霊感の類を持たない自分である事を感謝した。それでも自分の後ろに広がる廊下の闇が怖かった。その闇は曾お婆さまの部屋に繋がっているのだ。
 もちろん、タネさんが言う「姫様」と、曾お婆様が同一人物であるのかなどと問いかける積もりは一切なかった。
 アタシは契約期間が終われば、この屋敷を出る事が出来る人間なのだ。
「・・馬鹿おんな、、鶴継ぼっちゃんに手を出すでねえぞ。」
「えっ?」
「おまえ、ぼっちゃんにいやらしい色目使っとるじゃろうが。まっ叶いはせんだろうがの。」
「え。」
「ぼっちゃんが何故ここにいるか。その理由を知ったら、おまえ、、、」
「・・・まっ、いいじゃろ、知らぬが仏じゃ。」
「なんだよ、それ。」
 思わず声にドスを入れてしまった。
これをやると普通の人間は間違いなくびびる。ところがタネさんはアタシを無視したままだ。
 顔色を変えようにもその渋茶色では変えようがないのかも知れない。
「お前、安国寺の一休さんになりゃええんだ。」
 タネさんの顔面を覆う大量の皺がうねうねと移動した。嗤ったのかも知れない。
 やっぱりこの屋敷は悪霊に取り付かれてる。しかもダブルで、、、。

 
2003/10/11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7: 鬼門を睨む猿

 一日の中に「一日」が二回詰め込まれたような日がある。タネさんが用意してくれた夕食をとった後、アタシの部屋にかかって来た電話がその二回目の始まりだった。
 三平が黒い旧式の受話器の向こうから、夕食までの出来事が何事もなかったかのような口調で、アタシに誘いの電話をかけてきたのだ。
 確かにアタシは一週間の契約でここにやって来た。しかしアタシの身体を二十四時間・六日分、契約者に売り渡したわけではないのだ。
 アタシがその事を言おうとすると、先回りするように三平は言った。
「月が綺麗に見えるんだ。仕事抜きでさ、君を誘っている。満月の夜に蛸蜘蛛桜がどんなふうに輝いて見えるか、、そりゃ夢のようだよ。まっ、観月会という所だ。無理にとは言わないがね。・・昼間は結構ハードなプレィだったし。」
「鶴継さんも誘っていただけますか。」
 もし三平と鶴継に同時に合うことが出来れば、アタシの頭の中に巣っているあの疑問が解ける。相手がこの条件を飲むことを渋るなら申し出を断るまでの事だ。
「、、、半分、ノーだな。ただし君はかなりの確率で、鶴継を見ることが出来るかも知れない。月がよく見える部屋に行くと、そこからは鶴継の部屋の中の様子がよく見えるんだ。鶴継は私のピアノを聞くために窓を開けるからね。」
 ・・・ピアノ、、この男はピアノを弾くらしい。博学強識で何でも出来るスーパーマン。三平ならタネさんが言っていた「安国寺の一休さん」の意味を知っているかも知れない。
「・・・安国寺の一休さんってご存じですか?」
「なんだい藪から棒に。」
「タネさんが鶴継さんの話をしてる時に、私の事を安国寺の一休さんだと。気になって仕方がないんです。」
「、、、タネがそう言ったのか。」
「ええ。」
「一休和尚は、16の時に安国寺を飛び出している。君にも早い時期に、この家を出ていって欲しいという事なんだろう。で、、今の話、承諾してくれたと考えていいんだね。」
 何を警戒しだしたのか、いつもと比べて三平の口調はやや堅かった。
「ええ、あなたがピアノを弾いて下さるのなら。」
「判った嬉しいよ。今すぐ私の部屋まで来てくれたまえ、部屋の前で待っている。」
 という事はやはり観月会は三平の部屋で行われるのではないのだ。
 確かに今日、招かれた鶴継の部屋は三平の部屋の対角線上にあるわけではなかった。この屋敷にはまだまだ隠された部屋がたくさんあるということだ。そう、、蛞蝓三平の秘密の数のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 斬馬は煌々と光る満月の下で、酔いどれながら自分が泊まっている安宿に続く民家の土塀脇の道を歩いていた。
 後少し行けば土塀は終わり、ウランと別れたあの神社の境内に出る。そうすれば先ほどから我慢していた尿意を解放してやれる。確かあの角を曲がった所に公衆便所が、、。
 斬馬がそう思ったときに、彼の頭上に黒い影が振り下ろされた。斬馬が只の初老のトラック運転手なら、その影に頭か肩を強かに打ち据えられていただろう。
 だが斬馬はその攻撃をかわし、更にその相手の懐にまで飛び込んでいた。
 斬馬は、黒い毛糸の防寒マスクで顔を隠した男が握っていた木刀ごと、その腕をねじり上げる。
 容赦はなかった。何も考えずに相手の骨をへし折るつもりだった。そして相手が苦痛に沈んだら更に、脚を使って大きなダメージを与える。
 そこまでを一気にやる。それが斬馬が体験の中で学んできた攻撃方法だった。
「痛てぇえ。」マスクの下から予想外の若い悲鳴が上がる。
勿論、だからと言って斬馬に躊躇はない。斬馬は男の背後から腕をねじ切るつもりで一気に力を込めようとした。
 その瞬間、「止めて」という声と共に、斬馬の頬を掠めて何かが通過していった。
 斬馬はその声の方向を睨んだ。斬馬が今まで歩いてきた土塀横の道に、月光を背にしたジーンズ姿の少女が弓を構えて立っていた。年齢から察すると高校生のように思えた。
 その弓には二の矢がつがえられており、それは真っ直ぐに斬馬の額を狙っていた。
 少女のひたむきな瞳は自分は本気だと語っていたが、それは同時に駆け引きなど出来ない若さ故の素直さも露呈していた。
「この男を放してやったら、嬢ちゃん、弓を降ろしてくれるかな。」
 斬馬のひょうひょうとした声が低く響く。そこにおびえはまったくない。こうして自分が相手をしている人間の中身が判った限り、もう戦闘の必要はない。相手は子どもだった。そして斬馬は人生の手練れだった。
 少女はしばらくその黒目がちの目で斬馬を睨んでいたがゆっくりと弓を下げ始めた。
 斬馬もそれに合わせて男をねじり上げていた腕の力を緩めてやる。
「理恵ちゃん。」
 覆面男は斬馬の戒めから解き放たれると少女の元に駆け出し、再び木刀を中段に構えて、少女を自分の背中に隠した。
「・・ほう。さっきはへなちょこだったんだがな、、変わるもんだ。今のお前さんだと素面の儂でもかなわんかもしれんな、。」
確かに覆面男の構えには全く隙と言うものがなかった。
「祐介君は手加減したのよ。彼は去年、インターハイで優勝してるのよ。」
「、、ふぉう。でもなぁユウスケ君よ、君は一体なんの為にその覆面をしてるんだい。」
「へっ?」





 三人は今、斬馬が泊まっている宿の部屋にいる。祐介がカップラーメンの麺を啜り上げる音が心地よい。
 矢を斬馬に放った少女も、がさつではではないが旺盛な食欲を見せている。
「悪いな、つき合って貰って、、、儂は一杯やった後のラーメンが好きでな。だが言っちゃなんだが、こんな田舎じゃこの時間、どの食堂もあいておらん。」
 斬馬はカップから汁をすすりながら、自分の孫と言ってもおかしくないような二人を嬉しそうに眺めていった。
 勿論、斬馬が本当にラーメンを食べたかったわけではない。昼間の聞き込みのついでに、寂れた雑貨店で義理買いしたカップ麺を若者達に振る舞ってやりたかっただけだ。
「夜食の為に、ラーメンの買い置きをする流れ者って、やっぱり怪しいでしょ。」と理恵がすねたように言う。
 話は当然ながら、何故彼らが斬馬を襲ったのかという内容に推移していた。
 彼らの斬馬に対する疑惑をあらかた、大した説明もせずに数十分で解いてしまったのは、斬馬の人柄と話術と言えた。
「まっ、怪しくはあるわな、、。だが風俗をやっておる孫娘が心配で心配で、その仕事先をうろうろしておりますと自己紹介はできんじゃろう。」
「そうでもありませんよ。村じゃ神室屋敷に招かれた女の噂で持ちきりなんだ。わけありだってみんな思ってる。第一、おじいさん、あんた本当にあの女の肉親なんですか。」
 もっとも、そう言うほど祐介は斬馬を疑っているわけではなかった。ただ先の乱闘で自分がこの老人にいともあっさりねじ伏せられた事がひっかかっているのだ。
「昔から一緒に暮らしていたのなら、こうはなっておらん。第一この儂がついていながら可愛い孫を風俗なんぞにはやらせん。あの子に巡り会えたのはつい最近のことなんじゃ。だから余計に可愛いいてのう。」
「どうせソープかなんかでばったりっていうパターンなんじゃないですか、身の上話をしてたら、、おおっお前は!!って感じで。」
「桂君!!」
 理恵が厳しく窘める。聞けば桂祐介が高校3年生。木佐貫理恵が2年生という事で、年齢は理恵が下だが、どこからみても理恵のほうが精神的に成熟している。
「その辺りは話せば長くなる、それにいくら懇切丁寧にその経緯を君に説明したところで、その話の信憑性を立証できるものはなにもないからな、ご想像に任せるよ。で、今度は君たちの番だ。今夜、儂が二人の人間に襲われたのは紛れもない事実だ。だろう?」
 二人は首をすくめて小さくなった。
「恩着せがましい言い方になるが、この儂がかくかくしかじかと警察に訴えれば、君たちに申し開きが出来るとは思えない。そこの所をしっかり肝に銘じてほしいんだ。」 
「わかっています。でもあなたを襲ったのは僕だ。理恵ちゃんは僕を庇っただけで、、」
「で、儂に矢を放ったわけだ。」
ますます二人は小さくなる。
「顔をあげなさい。儂が聞きたいのは君たちが何故そこまでするのかということだ。」
 うつむき加減の理恵の顔が真っ赤になる。斬馬が、かけた揺さぶりに対する理恵と桂の反応は少し違うようだった。
 特に理恵には、まだ何かがありそうだった。
「だから行方不明になった同級生の事を心配して、ちょっとでも情報があれば聞き出そうという事で、、、この村で紋場三姉妹や神室家に探りを入れてる怪しい人物を。」
「、、木刀と弓矢で襲った。」
斬馬がたたみかける。
「警察が頼りに出来るなら、こんな馬鹿な事はしません。それは判ってください。私はともかく、桂先輩は私に協力してくれただけなんです。」
 理恵が真正面から斬馬を見てそう言った。あの月明かりの下、こちらに矢をはなった時と同じ目の色だ。
「警察が信用できないっていう辺りをもう少し詳しく説明しれくれんかな、、。」
「ナメクジが、、あっいや、神室が警察に圧力をかけているんです。」
「しかし今は平成の世の中だよ。いくら田舎の大地主だからと言って、一個人が警察に影響力を持つとは思えないんだがね。」
「一番最初に行方不明になった睦月さんは、この村に花嫁修業っていう名目で里帰りしてたんです。」
 それは斬馬が仕入れた情報と一致していた。紋場睦月は非常に良くできた娘で、京都の大学を優秀な成績で卒業し、一流企業に就職、今度は一年も立たぬ内に同じ会社に勤める重役の子息に見初められるという絵に描いたようなコースを歩んで来た女性らしい。
 その彼女が神室に戻ってきたのは、このまま行けば疎遠になるばかりの両親と花嫁修業という名目でしばらくの親孝行をしたかったからだと言う。
 勿論、幸せすぎる村から出ていった女の里帰りにはいろいろな邪推も飛び交ったらしいが、久しぶりに帰ってきた睦月本人に会った村人達は、その考えをすぐに否定したらしい。それほど出来のよい娘だったのだ。
「だから睦月さんが行方不明になった時は、ご両親だけじゃなくて、婚約者の方もこの村に乗り込んできて、村中が騒然とした雰囲気になりました。なんでも婚約者のご両親が相当な実力者だったみたいで、京都府警のお偉いさんまで引っ張りだしてきたんですから、、。大人達は五菱がバックならそれくらい簡単だって、これで神室もおしまいだって。」
「婚約者って五菱グループの中枢企業に努めていた訳だ、、。それが案に相違して、駄目だった、、。」
 五菱は戦前から続く大財閥で、一部では警察権力のと癒着も噂されている。、、その五菱の力を持ってしても、いや、だからこそではないかと斬場は妙なひっかかりを覚えた。
「、、そう。村の人たちは心の底で、これは紋場と神室の戦いなんだって思ってた。いつも神室が勝ってたけど、今度ばかりは違うと、紋場には強力な後ろ盾がいるし、神室家の中から逮捕者がでたら今度こそ神室家もおしまいだと。だからみんな警察に協力したんですよ。三平が睦月さんをつけ回していた事とか、普段絶対に言わないことまで警察に言った。ところが睦月さんの失踪に関する警察の動きはたったの3週間でぴったり止んでしまった。当の紋場家が捜索願を取り下げたんです。勿論、それだけじゃなくて、はじめはあんなに勢いのよかったフィアンセもこの村にこなくなった。」
「判ります?裏でどんなことがあったのか、、私たち高校生が判りようがありません。でもたった一つ確かな事は、ある日を境にして、この村では睦月さんの失踪事件はなかった事になったということです。」
 斬馬はその婚約者のルートから、つまり五菱と神室の関係の情報を手に入れる必要があるなと考え始めた。
 甲が乙の弱みを握っている。それを第三者が知れば甲の強みは弱みに変化するかも知れない。
 ウランが陥るであろう窮地から彼女を救い出す為にはそんな力も必要かも知れなかった。
 それに神室の力は、「現実」的にも想像以上に強大であり、その力がどこから発生してるのかに強い興味を感じる斬馬だった。
「薄々、この村の人間が神室のことを良く思っていないのは判っていたが、一時は村中で対決姿勢を露わにしたわけだな。」
「テレビの時代劇にでてくる悪い庄屋みたいな感じじゃないんだけど、私たちみたいな若い人間でも神室家がいつも自分たちの頭の上に覆い被さっているどんよりとした黒くて分厚い雲みたいに感じているんです。うちのお婆ちゃんとかは口に出さないけれど随分、神室家の傲慢さのとばっちりを受けて悔しい思いをしてきたらしいです。さっき斬馬さんも言ってたけど平成の世の中でこんな事って信じられないでしょう。でもあるんですよ。ここに住んでいれば判ります。・・だからあの時はみんなの気持ちが一気に膨れ上がって、、でもその反動で、、。」
 もし目の前のこの少女がウランだったら自分はこう言っただろうと斬場は思う。
「嬢ちゃん。大勢の人を呪縛し身動きをとれなくさせる妖怪がこの世のには存在するんだ。そいつの名前は歴史っていうんだがな。」きっとウランなら笑ってその戯れ言を受け流すだろう。
 けれど目の前の少女はそれを真正面から聞き入れそうだった。
「その反動?」
「次女の葉月さんが事件の2ヶ月後に行方不明になった時は、みんな震え上がってしまって、、警察が形式ばかりの聞き込みをした時でも口を噤んでしまいました。今度は本当に怖くなったんです。神室は警察でも押さえられない。次は自分の家の番じゃないかと、、実を言うと私の家でもそうでした。お前が神隠しにあったらかなあんと、今後いらんことは一切言うな、神室にはさからうな、、そんな感じでした。私もそう思ってました。友達の照葉が浚われるまでは、、。だから、私くやしくて。」
 理恵の膝の上の握り拳が震えている。涙をこぼす予感はなかった。この娘は既に泣きつくして、今ここにいるのだろうと斬馬は思った。
「僕は女の子同士の友情って信用してなかったんだけど、照葉が失踪した後の彼女のがんばりを見て考え方、変えました。今、彼女を手伝っているのは義憤っていうかそういうのからです。」
 桂君よ、君は今、一つの嘘をついて、ついでに一つの勘違いをしてる、、もっとも両方とも今の儂には羨ましい感情の発露だと思うがね。そう混ぜ返したいのを斬馬は我慢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ええ貌しとる。君らは鬼門を睨む猿やね。」
斬馬は宿の窓から見える神社の黒い森に視線を流しながら言った。
「、、猿ですかぁ、二人ともあまり猿には似てないと思うんですが。」
「確かに君は猿というより鬼瓦だし、嬢ちゃんの方はテレビで歌でも歌ってそうだ。」
「鬼門って何ですか。風水かなにかと関係してる」
「嬢ちゃんは、どこかの誰かと違って話しやすい。まあ君らの年齢じゃ大概、女の方がしっかりしてるがね。」
 桂の顔が又、赤くなる。勿論、桂とて部活動では主将を務めてきた人間だ、それほど単純ではない。ただ先ほど酔った斬馬にあしらわれた事と、理恵の手前、どうしても感情が幼く反応してしまうのだ。
 斬馬は自分の言葉に一つ一つ反応する桂の表情を楽しんでいるようだった。
「あまり知られていないが、幾つかの京都の神社の祠には、鬼門の方向を睨んでいる猿の像があるんだよ。そこからもし鬼が出現したらいつでも飛びかかれるようにね。ここの神社にもそれがある。荒れ庭に朽ち果てている小さな石像だ。貌は削り取られているから、ちょっと猿には見えない。」
「、、貌なしだわ。私、お婆ちゃんから聞いた事がある。」
「だったらこの村にとっての鬼門の方向にあるものの名前を知っているかい?」
 桂と理恵の二人が同時に顔を見合わせる。
「でも鬼はもう飛び出てるのかも知れない。」
理恵が暗い顔で言う。
「、、まあ、元気を出す事だ。たとえその鬼がこの村を徘徊しているんだとしても、それを知った者は、鬼をもう一度もとの場所に封じ込める責任があるように思うんだがね。」
「それだけじゃ駄目。もし本当に出歩いて酷いことをしたんなら、償わせる。絶対に、、。」 
 確かに、理恵なら、ためらわずにその鬼に向かって矢を放つだろう。


 三平は薄暗い廊下の真ん中で車椅子の背をこちらに向けてアタシを待っていた。手押しハンドルがいかにも押せとばかりに突き出ている。電動式なのに人の気持ちを逆撫でする車椅子だ。
 と、その車椅子がクルリと突然に回転し正面を向いた。
そこに三平の姿はなく、代わりに鶴継君が座っていた。
 驚くアタシを見ていた鶴継君のきれいな唇の端が醜くゆがんだ。
 そしてそのゆがんだ唇の隙間から、長くて真っ赤な舌がぞろりと伸び出して、自分の唇の表面をなめた。
 次に鶴継君は、なにを思ったか、自分の両手の指先を鈎のように曲げ、顎の下に引っかけた。
 鶴継の顔が下から上へと縮み、又伸びた。
 ぐにゅぅとでもいうような音を立てながら鶴継の顔が頭髪ごとはがれ、その下から三平の黒いラバーマスクが見えた。
「楽しんでもらえたかな。どうやら君はこの私と弟の事を同一人物だと思っているような節があったんでね。ちょっとした、いたずらを思いついたってわけさ。」
「ほら、これをあげるよ。私からのプレゼントだ。」
 三平が自分の顔からはぎ取った鶴継君のマスクを私に投げてよこす。あたしは反射的にそれをキャッチする。
 怒りより驚愕の感覚が勝っていた。なぜこんなに吃驚したんだろう。
 もしかしてあたしは心の奥底であの屈折したSMプレィの相手の正体が鶴継君であればと、望んでいたから、こうも激しく動揺しているのかも知れない。
「さあ行こうか、、私についてきたまえ。観月会を始めるとしよう。」 

「・・斬馬さん、もしよかったらこれから私の家に来ませんか。」
「申し訳ないが、嬢ちゃんを家まで送り届けるのは、この鬼瓦君で十分だろう。それにもう9時を回っているんだよ。お嬢ちゃんの家に迷惑をかける。」
「そういうのじゃなくて、内のお婆ちゃん、神室屋敷に勤めてるタネさんの友達なんです。昨日、タネさんと喋ったって言ってから、もしかして斬馬さんのお孫さんの事も知ってると思うんです。」
「・・・それならそうしたいのは山々だが、、明日にでも。」
「内のお婆ちゃんは宵っ張りだし、旅の人と話をするのが大好きなんです。それにこれを言っちゃここの叔父さんに怒られちゃうけど、泊まるんなら私の家の方がずっと快適です。」
 理恵がちらりと斬場の横に畳んである薄い布団を見て言った。
「そうしてやって下さい。たぶん理恵ちゃんは、同じ事を繰り返したくないって気持ちで言ってるんだと思います。」
 祐介が真顔で言った。大人びている。これが本来の桂の姿なのだろう。
「同じことって、、」
「そうです。ナメクジ三平はまたやると思います。今度は斬馬さんのお孫さんです。前みたいに油断したり、こっちが気後れしてやることをやらなかったりしたら、、、今度は私が正真正銘の馬鹿だって事になります。」
 気丈な理恵の表情が今にも泣き出しそうだった。
「・・・そうか判った。ここは甘えるとしよう。なんと言っても君らは鬼門をにらむ猿だものな。」

「じゃ、お婆ちゃん、私はもう寝るから。隣の部屋にお布団引いてあります。あまり飲み過ぎないように、そのお酒飲みやすいけど、後がひどいってみんな言ってますよ。」
 理恵が笑いながら席を立つ。神室家に入ったウランが今の所、無事であるという話を老婆から聞きおえて、それが自分の退席の潮時と判断したのだろう。
「はよ行け。ねんねの時間はおしめえよぅ。」
 老婆は指先で空中の塵を払うようにして理恵を追いやるが、その目は我が孫が可愛くてたまらないといった様子だった。
「あんた、ええ男だのう。儂がもうちとわかけりゃ惚れる所だ。あほれ、マディソン街の橋ちゅう映画みたくなぁ。
ほんに理恵は人を見る目がある。あれでちゃんと男に惚れる性分があればの、、、相手がおなごではのぅ、どないもならん。なんせこれだけは神さん仏さんの思し召しだからの。」
 斬馬はにこにこしながら、次がれた酒をぐいと旨そうにあおる。
「ばっさま、あいにくだが儂しゃその映画みとらん。だが今聞き捨てならん事を言ったな。嬢ちゃんの相手がおなごだと、、。」
「儂一人に相談しよった。私はレズビアンなんだと。相手は同級生の照葉ちゃんだ。」
 斬馬は湯飲みをいろりの木枠にかたんと置くと、その手で後頭部を撫であげてから、顔を洗うようにした。
「ずるいぞ、ばっさま、なんでそんな事を初めて会う儂のようなものに言う。」
「由佳はあんたをこの家につれてきた。しかもこの儂に会わせる為に。さっきも言ったが理恵の人を見る目はたしかじゃ。あんたは見込まれたという訳じゃな。」
「助けてやってくれんね、理恵を、、。その為には照葉ちゃんのことに決着をつける事だ。あの子は未だに照葉ちゃんを恋いこがれておる。自分がたすけられなんだ。という気持ちがあるから、なおさらだ。しんじゅうなら死んでるではっきりさせてやらんと。それに桂のボンが可哀想じゃ、、。」
「・・・あああの鬼瓦な、、それは同感だ。」
「おなごが好きなおなごはおる。そのことについてとやかくはいわん。ただそれは男の真心を一辺は受け入れてから自分が何者なのかを考えてからでもおそうはない。けど、今の理恵は照葉ちゃんに縛られてしもうて桂のボンの事もなにもみえちゃらん。」 
 老婆が居住まいを正して頭を下げた。
「頭をあげてくれよ。儂はただの年寄りのトラック運転手だ。理恵ちゃんを助けてやれるような力はもってねえ。」
「そんなことはねえ。儂にはちゃんと判る。あんたは退魔の力をもっちゅう。神室は魔じゃ。理恵は警察が神室の権力の力に負けたと思ってるようだが、そんなもんじゃねぇ。神室が魔じゃからこうなったんじゃ。」
 斬馬は顎を撫でながら考え込む。老婆が言ったことは的を得ている。いくら大地主といえど神室三平は片田舎の一容疑者にしか過ぎないのだ、そんな男が犯したかも知れぬ誘拐事件の捜査を押さえ込む力は尋常のものではない筈だ。
 それに斬馬自身がウランに神室家行きを止めさせようとしたのは心霊的な予兆が働いたからだ。
 今でも神室屋敷からは信じられないほどの黒くて重たい障気が流れ出している。
 しかし事件は現実のこちら側の世界で起こった事なのだ。
心霊と現実が癒着したトラブルは、どちらか一方だけの解決では本当の意味での解決にはつながらないのだ。
 斬馬自身、現実と心霊世界を跨ぐタイプの「魔」とは、歴史の淀み、呪縛の力だと考えている。淀み呪縛を解決する為には光しかない。
「ばあさま、、。あんたが神室について知ってる事をすべて教えてくれないか。」
 斬馬とウラン、その日二人は長い夜を迎える事になる。
 

 
2004/03/27
   
 

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