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悔しいけれどタネさんが持ってきてくれた夕食はとても美味しかった。大根とかの煮付けも美味しかったし、刺身や焼き魚も新鮮だった。小さなお櫃に入れてあったゴハンも殆どなくなりかけていたぐらいだ。
いくら神室がその昔、海から京都に向かって海産物を運んだ街道の途中にある村だとはいえ、こんな山奥なのに海の魚が美味しいというのも不思議な気がした。
でも薄暗い廊下に置いてあるハンドワゴンに、お盆ごと食べ終わった食器類を乗せる頃には、夕御飯の美味しさよりも、心に蟠った惨めさの方が勝り始めていた。
これってなんなの、表面的は下にも置かない待遇だけど、実際は隔離されているようなもんじゃない、ちょっとでもアタシと長くいるとエイズにでもかかると思っているのかしら。
まってよ、、ひょっとしてあいつらホントにそう思っているんじゃないでしょうね。
アタシは自分の思いつきに頭に来て、わざわざ食器を部屋の洗面所で洗った事を後悔しはじめた。あのタネさんなら、この食器を下げた後で煮沸殺菌さえやりかねない。
その時だった。部屋の奥にある内線電話の呼び鈴が鳴ったのは。
「今晩は。もう食事は摂ったかね。」
電話口の向こうから無機質な声が流れ出る。よく訓練されたアナウンサーのようなしゃべり方だ。だがその底には倦怠が満ちている。それにこの声、つい最近聞いた事がある。
「えっ、あ、はい。アナタは三平さんですか?」
「そうだ。君の雇い主だ。九時に私の所に来てくれるか。」
思い出した。口調は違うがこの声は鶴継君にそっくりなんだ。でも兄弟なら似ていて当たり前だ。
それでも声があまりに似すぎていたので、アタシは三平と鶴継君が同一人物である可能性を考えざるを得なかった。
ひょっとしてこの屋敷に入り込んだ時から手の込んだプレイが始まっているのかも、、。いやあり得ない、第一、鶴継君のあの容姿なら手間暇かけずともどんな快楽でも得られる筈だ。
「ええ勿論、でもどんなスタイルがお好みですか。それに場所が判らないし。」
そう言ってみただけだ。平均的な女王様スタイルで、この屋敷の中を歩き回るつもりはなかったし、ましてやそんな姿でこの家の人間に案内を頼むなどという事は論外だった。
普通のクライアントは、SMプレイが一つの演劇空間である事を心得ているから、自分自身が幻滅をしない為に、お膳立てには神経質なほど気を使う。だからアタシは殆どの場合、相手の用意してくれた状況にのっかるだけでいいのだが、、。
「今日は何もしない。話だけでいいんだ。私のいる場所は直ぐに判る。廊下をただまっすぐに進めば良いだけだ。ドアを少し開けておく。その灯りが目印になるだろう。じゃ、、待ってる。」
電話はかかってきた時のように一方的に切れた。
私は時計を見た。九時までには二時間近くある。風呂に入って念入りに化粧をしようと思った。
仕事の中で「話だけ」という体験もないではないが、多くの場合それは入り口での事だ。男には射精しない限り出口はない。

三平旦那の部屋に向かう「廊下」は、アタシに宛われた部屋までの道のりの様に平坦ではなかった。
幾つかの階段を挟んで上に昇ったり下ったりした。乏しい光量の電球が照らし出す廊下は木製の洞窟のように見えたものだ。その内、廊下の内装は純和風のものから洋風のものに変化し出したのだが、時間の感覚が狂い始めたアタシにはその区切れ目が思い出せなかった。
一体、この屋敷はどれだけの広さがあるのだろう。アタシは思い切りタイトなミディスカートを履いてきた自分の判断の甘さを呪った。
第一、黒のシーム入りストッキングにピンクの部屋履きスリッパが似合うはずがない。
働く者の知恵という奴で冬場でも汗に浮かないファンデを付けた事だけが正解だった。女王様は重労働なのだ。
でも息が乱れ始めている。息が上がった女王様はみっともない。それじゃ只のヒステリー女だ。
そんな馬鹿な事を考え始めた頃に、ようやくアタシは三平旦那の部屋に辿り着いた。
この家では頑丈なドアは珍しくはないが、多分三平旦那の部屋のものは最高の部類に属するんじゃないかと思う。
半開きになっていた重たいドアを引き開けると、そこには真っ赤で小さな「王国」があった。
ドアの真正面に位置する壁一面に張られた緋色の巨大なカーテンと、小豆色のカーペットがアタシにそんな連想を起こさせたのだ。
「こちらへ。ドアは自動的に締まるから。」
ドアを閉めようとやっきになっているアタシの背中に、電話で聞いた声が響く。確かにドアは音も立てずにゆっくりと締まっていく。かすかなモーター音が聞こえた。
一体なんなのここって。もし閉じこめられたら出られないかも知れない、、、。ザンバさんが言ってた紋場家の失踪三姉妹の事が脳裏をよぎる。
でも次の瞬間、アタシは精一杯の営業スマイルを浮かべると、声の元へ歩き始めていた。
三平旦那は細長い部屋の奥に、王様が座るような椅子にガウン姿で腰掛けていた。彼の背後の壁には左右にドアが二つあり、この部屋が彼の王国のほんの入り口でしかないことを暗示していた。
「もっと近くに。君の姿をよく見せてくれ。」
ピンヒールの踵を絨毯に突き刺しながら歩きたかったが、実際のアタシはピンクのスリッパをぺたんペたンと引きずりながら三平旦那の元に向かった。
三平旦那は鶴継君が言ったようなマスクなどしていなかった。その代わりにガウンからはみ出た身体は全て包帯で覆われていた。
「特に服装については指定しなかったんだが、、気がまわるようだね。」
包帯の奥の瞳がアタシの下腹部をなめ回している。別に透視して裸を見ようとしてるわけじゃない、タイトスカートのカーブや光沢込みでアタシの身体に欲情してる感じ、フェチの視線だ。アタシのシルクのブラウスの下で鳥肌が立っている。
「、、弟からこれの事について話は聞いているな。」
包帯を巻いた指先が、同じく包帯だらけの頬にかすかに触れる。見ているだけでも痛々しい。
「もっと側に、・・そして、僕の包帯をほどいてくれ。君に本当の僕を見て欲しいんだ。」
「えっ!?」
思いもかけない言葉だった。
「今夜が、君との契約の第一日目だろう。」
無機質な声に楽しんでいるようなニュアンスが混じり出す。
「でも看護婦のような仕事は契約の中に含まれていません。」
そう、最初が肝心だ。そうしないと多くの客はプレイ中にそれが契約上で行われている行為だという事を完全に忘れてしまう恐れがある。
「看護婦ではない看護士だ。それにこれは立派なプレイの一つだよ。君はサデスティンで、私は自分の醜い正体を暴かれて喜ぶ究極のマゾヒストってわけだ。さあ早く。」
拳を握って人差し指と中指の間から親指を突き出してやりたい気分だった。こんな変態野郎は大嫌いだ。いざとなったらお前の頭の上にゲロをぶちまけてやる。
頭部の包帯をほどいていくアタシの手が震えていた。畜生、、怯えるな、そんなのは相手の思うツボだ。アタシは女王様でMじゃない。
包帯の下からケロイドの肌が見えたら思い切り「醜い」と言って侮辱してやれ。そしてこのアタシにつまらないブラフを仕掛けた事を後悔させてやる。
でもアタシの口の中はからからに乾いていた。医者や看護婦達が、壊れた人体を平気で見ていられるのは「治療」という目的があるからだ。そして家族には愛情が、、今のアタシには何もない。
包帯の層が薄くなって下に包まれているものの色が透けて見え始めて来た。
黒い?黒いケロイド?色どころか肌の光沢が変だった。まるでゴムみたいに光っている。
アタシはある予想のもと、怒りにまみれて、残った包帯をはぐった。
包帯の下からは、真っ黒なゴムマスクを被った三平の頭部が出現した。
「ついでに手の包帯もほどいてくれるか。」
三平はくぐもった笑いを混ぜながらそう言った。
「冗談だよ。楽しんでくれたかな。」
三平が自分の手から包帯を剥ぎ取って、これもピッタリ手に張り付いた黒いゴムの手袋が露わになっていくのをアタシはぼんやりと見つめていた。
「それって大人の玩具なんかで売ってるようなマスクですよね。とても医療用だとは思えない。」
辛うじてそう切り返した時には胸の動悸が少し収まりかけていた。
「どんなに精巧に出来ていてもマスクはマスクだ。人の生きた顔の代わりには、ならないんだよ。要は下の醜い顔を隠すことが出来ればいい。だったら後は趣味の問題じゃないかね。僕は色んな種類のマスクを持ってる。今日は手持ちのマスクの中で一番SMぽいものを選んだ。輸入品だよ。おもちゃじゃない、ゴムの質やフィット感が違う。要するに君と会うために、このマスクをコーディネイトしたってわけだ。」
三平の黒いゴムマスクの唇の部分に入ったスリットがひくひくと動く。
「あそこもゴムマスクしてるんならコンドームを付ける必要がなくていいですね。」
少しだけ余裕が出てきた。こういう相手には弱みを見せてはいけない。デリバリーでは、本当にMの客が女王様を買うのかどうかを先に確かめる術はない。
中には女王様を「壊す」ことが目的の真正サドが、デリバリーを頼む場合だってあるのだ。アタシは、デリバリー先のレイプは犯罪行為として成り立つのだろうかとふと不安になった。
「鶴継がどう言ったのかしらんが、下腹部は無傷だよ。変な言い方だが火傷する前より、数倍強くなった。僕の場合は色んな感覚機能が変調したんだろうな。どうかね。予定を変更して今直ぐそれを試してみるか?」
アタシはマスクの二つの穴の奥から発せられる三平の強い視線から逃れる為に、部屋の中を見回した。それに三平との会話も出来るだけ避けた方がいいような気がした。下手をすると会話を交わすだけで三平のペースに取り込まれてしまいそうだった。
緋色のカーテンの反対側の壁には図書館にあるような書架がしつらえてあった。その中にはジャンルの定まらぬ大量の本が乱雑に突っ込まれてある。
アクセサリーのような全集や百科事典のような書籍は一冊もない。
主に洋書や実用的な学術専門書や技術書が多かったが、アタシにも見覚えがある最近のベストセラーなども多数見受けられた。書籍の乱れ具合から三平がそれらの本を本当に読んでいるのがよく判った。
「乱雑に見えるだろうが、総ての本の索引はある。ここにね。」
嫌みな三文役者の台詞を演じて見せるように、三平がゴムの指でゴムのこめかみをぴちょぴちょと突つく。
目を反対側に移す。緋色の分厚いカーテンが庭側の壁一面に引かれている様子は、まるで大舞台の緞帳を眺めているようだった。
あのカーテンをあけると噂の蛸蜘蛛桜が見られるのだろうか。そう思うとアタシの身体は、自然にカーテンの方に近寄って行き始めた。
「君の手では開けられないよ。布地が重すぎるんだ。そこも電動式になっている。その時が来たら見せてあげるから、今は我慢する事だ。物事にはそれにふさわしいステージってものがある。」
三平の口調に少しだけ緩みが滲んだ。もしかしたらこの男、蛸蜘蛛桜に愛着を抱いているのかも知れなかった。
「この屋敷が、回廊式に建てられたのは家の何処にいても中央にある桜が見られるようにしたんだと聞いたんです。でも此処に来てから内側の景色は一度も見た事がない。」
アタシは三平との会話が蛸蜘蛛桜に向かうように誘導した。
「回廊式と言っても、完全なものじゃなかったんだよ。桜を植えた先々代当主は相当なワンマンだったらしいが、この屋敷を造った時は、周囲の親族の反対を受けて鬼門の方向だけには住居を建てられなかったと聞いている。まあ、親族達が信心深かったと言うより、そんな形でしか先々代当主への抵抗を示せなかったんだろうな。あるいは彼らのせめてもの意地と言っていいかも知れない。」
遠くから離れて見ると、黒光りするゴムのマスクを付けた三平は異界の住人のように見えた。
「その鬼門の上に僕専用の住居を建てた。つまり此処は、鬼の通り道ってわけだ。そしてこの屋敷は完全な回廊、、つまりあの木をすっぽり包む女陰、、」
三平は再び元の口調に戻ってアタシを見つめながら「、、いやアナルになったわけだ。」と言った。
「・・君は上出来だよ。僕の目に狂いはなかった。明日からが楽しみだ。明日は午後三時に来てくれ。服装は今日のでいい。実を言うと君に着て貰いたい服はこちらで用意してあるんだ。その時に、ここから中庭を見せてあげるよ。今日は疲れただろう、よく休むといい。」
アタシはカーテンを背にしていたので、入り口のドアがゆっくり開いていくのが見えた。一体、この男は何処でドアのリモート操作をしているんだろう。
「ええ、疲れましたよ、あんたの変態ぶりのお陰でね。」アタシは頭の中で思い切り悪態を付きながら、にっこり笑って「ありがとうございます、それじゃお休みなさい」と挨拶をして部屋を出た。
自分の部屋に帰ると、他人の家なのにホッとした。そして無性に斬馬さんと話がしたくなってバッグの中から携帯を抜き出した。
別れ際にザンバさんは、この辺りで自分が定宿にしている旅館の電話番号を教えてくれていたのだ。アタシはそれを打ち込もうとして唖然となった。
携帯が圏外になっている。神室村では三本きっちり立っていたのに、、この屋敷は、神室から数十キロ離れているってわけじゃないのに!!
どういう事なの?ワザと電波障害か何かを起こして携帯電話を無効にしてる?、、三平の部屋の遠隔操縦の自動扉やカーテンの事を思い出した。
そしてアタシは部屋の片隅においてある内線電話を見つめた。恐らく今のタイミングならあれを使って斬馬さんに連絡がとれる筈だ。でも二回目は無理だろうという予感がした。
携帯の圏外の件はよく判らないが、電話の盗聴ぐらいなら三平は平気でやるだろうという確信があったからだ。
しかし本当にいざとなれば鶴継君に頼み込んで彼経由で電話をかける事が可能かも知れない。
要するにチャンスは2回。だとするなら今はまだそのチャンスを使うべき時じゃない。そう、何事もなくこの一週間が終わる可能性だって大いにあるのだ。
もう一度、お風呂に入りたかったが、くたくたに疲れていた。どんな危機が自分の間近に迫っていようと、人はその表面の見てくれに誤魔化されてしまう。美人三姉妹の失踪事件などその典型だ。
あたしの所属する業界は、暴力団と無縁とは言い難いし、結構血なまぐさい事も身近で起こる、それにアタシはお嬢ちゃんじゃない。だのに自分が凶悪犯罪の首謀者とみなされる人物の側にいながら全く危機感がなかったのだ。
いや、本当は気付いていたのかも知れない、、。だからこんなに疲れているのだろう。
アタシは洗顔をして化粧を落とすと、奥の間にいつの間にか引かれてあった布団に潜りこんだ。布団はタネさんが敷いたのだろう。
そう言えばこの部屋は施錠が出来ない。入ろうと思えば誰だっていつでも入れるんだ。この家じゃプライバシーなんてないのと同じだ、と痺れたような意識の中でかすかにそう感じた。
そしてアタシは布団の中で、今日一日の出来事を思い出しながら、もう一度それらを自分の中で整理しようともがいている内に、深い眠りに落ち込んで行った。
アタシは巨大でグロテスクな樹木に抱かれている。あまりにきつく抱きしめられたせいで、アタシの身体の大部分は樹木の中に埋もれてしまっている。
樹木はアタシを抱きしめながら、アタシの身体から栄養分も同時に吸い取っているようだった。
樹木のあちこちにある枝の先に、人間の頭部のような黒いゴムボールの実が生る。多分、アタシの栄養分のお陰でそのボールはどんどん大きくなる事が出来るのだ。
三平のゴムで出来た顔がどんどん膨れ上がっていって、パチンと弾けた。中から鶴継君の頭が飛び出して、フワフワと中空に浮かんでどこかに飛んでいってしまう。見る間に今度は、黒い実が三つ同時に膨らみ始めた。
中から何が飛び出してくるのか、アタシには予想が出来た。
駄目だよ。そんな夢みちゃ、、夢の中のアタシが、アタシに注意してくれている。
そう、、、ちゃんと眠るんだ。
女王様はタフでなきゃ、、、。
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