その時、歴史が動いた
2000年4月から「ニッポンときめき歴史館」の後を受けて始まった、NHKの歴史ドキュメント番組です。キャスターは松平アナ。放送は毎週水曜日の午後9時15分から。
どうしても地味になりがちの歴史番組になるべくエンターティーメント性を持たせようとしているので、テーマの選択などにも配慮しているのがうかがえるが、そのことが歴史番組としての特徴を薄めてしまうことになりかねないのは両刃の剣。なおNHKの歴史番組の特徴として、諸説入り乱れているようなときは無難な説をとる傾向があるので、あまり珍説・奇説の類は出てこない。ただし、皇室絡みの時などは権力筋の意向に添ってやや右翼史観に偏っていることがあるので注意は必要。
この番組も2009年春をもって9年の長い歴史に幕をおろしました。2009年春からは後継番組として「歴史秘話ヒストリア」に入れ替わることになりました。後半になるとかなり深刻なネタ切れ傾向を示していたこの番組ですが、果たして新番組はどうでしょうか。
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12/10 その時、歴史が動いた「一人、そしてまた一人〜マザー・テレサ平和に捧げた生涯〜」
貧しい人々のために尽くし、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサについて。
多民族と多宗教が混在するバルカン半島で、彼女は1910年にアルバニア人として生まれる。しかし第一次大戦で民族対立が激化し、父がアルバニア人の独立運動に身を投じたのが災いして、彼女が9歳の時に父が死亡する(毒殺されたと言われているという)。傷心の彼女は振興に救いを求め、そこでカトリックの聖人である聖フランシスコの「主よ、あなたの平和をもたらす道具として私をお使い下さい」という祈りの言葉に感銘を受ける。
やがて18才になった彼女は修道女となってインドに渡ることを決意する。そこで貧困者を目の当たりにした彼女はコルカタ(カルカッタ)の修道院で教師を務めることになる。しかしヒンズー教徒とイスラム教徒の対立で多くの血が流れた惨状を目の当たりにして、修道院を離れて救済活動を行うことを願い出る。それは当時の修道院の規則に反することだったが、彼女の熱意によって2年後に彼女の願いは認められる。彼女はここで修道服を脱ぎ、民衆の服であるサリーに着替えて修道院を後にする。
彼女はスラムで放置されて、そのまま誰からも見捨てられて死んでいくだけの人々のために「死を待つ人々の家」を設置する。そんな彼女に「カトリックの修道女がヒンズー教の聖地を乗っ取った」という噂が出るが、結核で運び込まれたヒンズー教の僧侶をヒンズー教徒の流儀に則って看取る彼女の姿が民衆の誤解を解く。そして彼女はさらに身よりのない子供たちのための施設も設立する。やがて彼女の活動への理解が深まり、周辺の住民達の協力や援助が集まるようになってきた。
彼女はさらに第三次中東戦争の難民の救援のための活動を行うなど、さらに活動の幅を広げ、ついにはノーベル平和賞を授与されることになる。彼女の支援が世界に認められたのである。
生涯を貧しい人々と平和のために捧げた偉人の物語である。世界の指導者達がせめて少しでも彼女の精神を譲り受ければ、今の世界はこんなにもひどいことになっていないのだが、実際は私欲のために戦争を始める馬鹿大統領や、意図的に貧困層を作り出してそれを奴隷化することで富裕層を優遇しようとするような世襲の馬鹿総理などばかりで、世界は彼女の理想とはほど遠い方向に向かうばかりである。彼女が立派だと思う点の一つは、彼女はあくまでキリスト教的奉仕精神から救済活動を始めているのだが、決してキリスト教の価値観自体を押しつけようとはしていないことである。宗教団体の慈善活動は、往々にして自らの布教活動の手段という偽善活動になりがちなことを考えると、彼女の精神はかなり立派であるということは言える。大体、宗教がなんだとか、民族がなんだとか言っている限り、世界に平和は訪れないだろうというのが現実なんだから。
12/3 その時、歴史が動いた「戦国の十字軍〜キリシタン大名・大友宗麟の「聖戦」〜」
今回のテーマはキリシタン大名大友宗麟。外からは島津や毛利といった強大名の侵略、内では血みどろの内紛というものを見続けてきた彼は、ポルトガル人が持つ技術力に目を見張り、ポルトガルと手を組むことで強大化を目指す。また同時に彼はキリスト教の教えにも感化され、国内に領民のための病院を設立するなどの行為も行う。ただ彼の内面では、キリスト教の「殺すなかれ」の教えと、自衛のためにも戦争をしないといけないというジレンマによる苦しみがあったという。
そんな時、隣国日向の伊東氏が島津に敗れて援軍を求めてくる。島津と戦うことに危険を感じる家臣や息子の義統は反対するが、宗麟は強硬に日向攻めを主張し、義統も渋々従う。宗麟は日向にキリスト教の理想の国を作ろうという考えがあったのだという。宗麟は自ら十字軍の深紅の十字架を旗印に「聖戦」として日向に遠征する。彼は日向北部に務志賀(西洋音楽「ムシカ(ミュージックのポルトガル語)」と名付けた理想郷の建設を始める。しかしこの際に宗麟が旧来の神社仏閣を破壊したり、僧侶や神官を労役に狩り出したりしたことからキリスト教徒ではない家臣達が動揺する。そして大友軍は統制が取れないまま耳川で島津軍と衝突して惨敗、2万もの将兵を失うことになる。
ここから大友家の衰弱が始まり、大友家に見切りをつけた家臣の離反なども始まる。島津の脅威がそこに迫る中、宗麟は自ら秀吉と面会して援軍を請うが、秀吉からは四国平定が終わるまで1年持ちこたえるように告げられる。そしてついに島津軍が大友氏の本拠であるに府内に攻め込んでくる。義統軍は敗走、しかし宗麟は数十人の家臣と臼杵城に立てこもる。彼は領民保護のために領民を要害の臼杵城に迎え入れて、彼らと糧食を分かち合いながら持ちこたえるが、弾薬を尽き、もはや抵抗の手段もなくなる。しかしその時、宗麟を救うべく義統の軍勢が臼杵を目指し、大友軍がゲリラ戦で粘るうちについに秀吉軍が現れて島津は撤退する。
ただ結局は宗麟はこの戦いからほどなく病死し、またその直後に秀吉によってバテレン追放令が出され、もともと親キリシタンではない義統によって領内のキリスト教関係の施設なども一掃されることになってしまうのである。
うーん、宗麟の意図は分からないでもないが、どうも美化されすぎの感が。宗麟が本当にキリスト教の「汝殺すなかれ」の教えで悩んでいたのだとしたら、彼はかなりの理想主義者だったのだろう。と言うのも、キリスト教の「殺すなかれ」の教えなんてその実は嘘っぱちで、実際には当時最大クラスの大殺戮をしたのはくだんの十字軍だったし、キリスト教関係者にはそのことを悩んだり反省したりした節はほとんどなかったのだから。この無反省は現代にまで続いているから、ブッシュがイラク戦争を「現代の十字軍」なんて言って大騒動になったのだが(イスラム側からすると、これはアメリカが侵略戦争だと明言したのに等しいから)。
そしてこの聖戦というのが曲者。歴史的に見た場合、一番凄惨な結果になるのがこの聖戦だから。と言うのは、これを掲げたら最後、相手とは妥協の余地が一切なくなって、相手を殲滅するかこちらが殲滅されるだけになってしまうから。現在でもイスラム教徒がイラクなどでこれを掲げて自爆テロに邁進しているし。また第二次大戦にしても、天皇を中心とした大日本帝国を守るための聖戦という側面があったから、あそこまで泥沼になってしまった。
歴史的に見た場合は、大友宗麟は「宣教師に乗せられた挙げ句に自滅した、時流の読めなかった戦国大名」という評価になっちゃうんだよな・・・。結果的には宗教などを非常にドライに見ていた信長や秀吉が天下を取ったわけで。
9/17 その時、歴史が動いた「名君の改革に異議あり〜徳川宗春 華麗なる反乱〜」
江戸時代中期、窮乏する幕府財政を建て直して名君と呼ばれていたのが徳川吉宗だった。彼が行った享保の改革は質素倹約を旨として、財政支出を徹底的に削減することによって財政を好転させる政策だった。この改革の効果によって悪化していた幕府財政は好転した。
しかしこの改革に異議を唱えたのが、尾張藩主の徳川宗春だった。彼は22人の男兄弟の20番目と、本来は跡継ぎの立場になかったのであるが、藩主である兄が病死したことによって他に藩主を継ぐものがおらず(亡くなっていたり、他家を継いでいたりした者ばかりだった)、彼が藩主を継ぐことになったのだった。自由な立場で街中で放蕩生活を行っていた彼は、吉宗による質素倹約令が町の活気を奪い、民の生活を苦しめている実態を目の当たりにしていた。そこで尾張藩主になった彼は、吉宗の改革に真っ向から反することになる。
藩主に就任するや派手な出で立ちで尾張に乗り込んで民衆を唖然とさせた彼は、芝居を奨励してさらに遊郭を設けるなどして名古屋の町を活性化する。彼の考えは「しっかり働いて、しっかり息抜きをする」というものだった。彼の政策によって名古屋の城下町は繁栄し、民衆も活気づく。
しかしこの宗春による明からさまな反乱は吉宗の怒りを呼ぶ。早速幕府から詰問の使者が送られる。しかし宗春は公的な場では自らの態度を謝罪して改めることを約束するが、その後の私的な場(いわゆるオフレコ発言)では、吉宗の改革の誤りを指摘し、自らの政策の正しさを主張する。
だが彼の政策が進むにつれて明からさまな問題も発生してきた。城下が活気づくのはよいが、それが風紀の乱れにつながり始めた。また彼の考えは「しっかり働いて、しっかり息抜きをする」というものだったが、その「しっかり働く」がなくて遊興にのみ溺れる者も増え始めた。さらに皮肉なことに、城下が活気づいてもそれは尾張藩の年貢収入には何ら影響するものではなかった。
これらの問題点の発生や、幕府との対立が深まることに懸念を感じる重臣達が現れる。そしてついに彼らは宗春が参勤交代で名古屋を発った時に合わせて、クーデターで実権を掌握してしまい、宗春が行った政策をすべて撤回する。名古屋の状況を聞いてもすぐに戻るわけにいかない宗春。そしてようやく参勤交代が終わり名古屋に戻ろうとした矢先、彼は幕府より藩内での騒動の責任を一人取らされる形で蟄居を命じられる。実は重臣達は事前に吉宗と連絡を取っており、吉宗は彼らを利用して宗春を排除したのだった。
緊縮経済が正しいか、積極経済が正しいかという昔からの命題です。確かに質素倹約に基づく改革は幕府の財政は好転させるが、民衆の生活を抑圧するので、概して庶民の評判は極めて悪いです。吉宗による享保の改革はともかくとして、その後にそれを焼き直しした寛政の改革と天保の改革が実際は短期で頓挫してしまうのはそれが大きな理由でもありました。
また宗春の悲劇の原因の一つは、当時の財政システムが年貢にのみ依存しており、商人などから所得税や法人税にあたるようなものを徴収するというシステムがなかったことである。だから財政を好転させるのは新田開発などによる年貢増収か支出削減しかなく、城下がいくら賑わっても財政には関係ないということになってしまったわけである。この問題に取り組もうとしたのが実は田沼意次なのであるが、彼は今では賄賂政治家の象徴のように言われていることから分かるように、残念ながら彼の改革は幕府の守旧派の抵抗で頓挫している。
実は田沼意次の政策とは何も賄賂で私腹を肥やすことを目的としているのではなく、商業を発展させて商人から税を取ろうというものだったのである。そのためには彼はロシアとの交易まで考えていたという。彼の目指したのは、それまでの重農主義だった幕府のシステムを重商主義に変換しようという極めてドラスチックなものだったのだが、あまりに先進的すぎて当時の幕府の重臣達には理解できなかったのである。
宗春も田沼意次レベルの政策を持っていたら成功していた可能性はあるのであるが・・・。それが彼の不幸。ちなみに庶民から見た吉宗は、現在にさかんに言われているほどの名君とは見られていません。やっぱり歴史とは権力者の側から記されるということもあります。
7/15 その時、歴史が動いた「応仁の乱、天下を滅ぼす〜終わりなき"戦いの連鎖"〜」
応仁の乱とは京都を焼け野原にした乱である。この乱の勃発によって足利幕府の権威失墜は決定的となり、戦国時代へと突入することになった。この乱の経過を追えば、幕府の無能な対応、武士の体面などの無意味なプライドなどによる泥沼化といった愚かしさが見えてくるという。
そもそもの発端は、近畿南部の大名である畠山氏の跡継ぎ争いであった。当主の息子とそのいとこが跡目争いを始めたのだという。これに対して、幕府の権威を示したいと思っていた将軍の義政が調停に乗り出す。彼は直径であるということを重視して、息子の義就を後継者に指名した。しかしこの義就の人格に問題があった。粗暴でわがままで、将軍の権威をかさに着て隣の領地に攻め込むという挙にまで出たという。この義就を義政は次第に憎むようになる。そして義政はついに当初の裁定を裏返し、家督をいとこの政長に与える。はしごをはずされて激怒した義就は河内の山城に立てこもる。義政はこれを反逆として追討を命じるが、2年がかりでも鎮圧ができない。しかも妻の日野富子から義就を許すように迫られる。富子のバックには有力家臣の山名宗全がおり、彼は畠山氏を味方に付けて自身の勢力を拡大することを狙っていた。そして義政はそれに圧され、義就を赦免してしまう。
これで将軍の権威が失墜したことが甚だしい。しかも最悪なことに義就と政長がついに直接の武力衝突を起こしてしまう。義政は他の大名に介入しないように指示を出すが、山名宗全がそれに反して義就を援護、政長の軍を一日で破って戦闘は終了する。だが義政は将軍の命に反した山名宗全を処罰することは結局できなかった。
畠山氏を味方にした山名宗全は守護大名の頂点の実力者として振る舞っていた。しかし政長が細川勝元の援軍を得て京に戻ってき、山名宗全を不意打ちし、義政の花の御所を包囲する。義政を御所に押し込めた勝元は、自分たちを幕府軍として認め、山名氏追討の許可を与えるように迫る。側近達は反対するのだが、結局は義政はこの要求に屈してしまう。
先手を打たれた山名宗全は屋敷のある西部に陣取り、東部の花の御所に陣取る細川勝元との戦いになる。応仁の乱の勃発である。この戦が始まったことで、近畿各地の大名が我先に京にはせ参じ、大軍勢同士の争いとなる。数の上では東軍が優勢だったが、大内政弘が西軍に加勢したことで勢力は拮抗する。この間、義政は何とか調停を試みようとしたが、ことごとく山名宗全に拒絶されて不調に終わる。この戦乱で京は焼け野原となってしまう。
戦いが長引くにつれ、諸大名の利害が混乱して情勢は泥沼となっていった。しかも義政の弟の義視が御所を飛び出して西軍に身を寄せるに至って、事態は混乱の極みに達する。もはや義政には何をする能力もなくなっていた。しかも軍勢不足を補うために大名達が民衆を金銭で雇った足軽が増加するにつれ、彼らの略奪や乱暴狼藉によって京の町は混乱の極みに達してしまう。
やがて争いの当事者である山名宗全と細川勝元が相次いでこの世を去るが、それでも全国に飛び火してしまった乱に収束の気配は見えなかった。しかし乱が続いて11年目、思わぬ形で乱が収束する。領国の不安定化や戦の負担に耐えかねた大内政弘が、日野富子に賄賂を献上して、幕府側と戦った罪を不問にして、官職を与えられて領国を安堵される形で帰国したのである。大内政弘の帰国で西軍の諸大名は続々と帰国、ようやく乱は終息したのである。
なお義政はこの一件で完全に政治の世界に嫌気がさしたのか、将軍職を幼い息子に譲って、自身は自ら建造した銀閣寺にこもってしまったようである。
何ともはや、どうしようもないという悲惨な状況。確かに義政の優柔不断のように思える。彼に同情するとしたら、室町幕府はそもそもが大名の代表政権という色彩が強く、権力が弱かった上に、彼の頃になるとそれがさらに進行していたということである。だから将軍が出した指示に大名が堂々と反してしまうということに陥る(落ちかけていた権威に、彼がとどめを刺したのも間違いないが)。なお大内政弘が日野富子に賄賂を送ったという話があるが、このようなエピソードから日野富子は守銭奴と言われることがある人物でもある。
この事件から学ぶとすれば、トップが無能だと世の中が混乱すると言うことと、世襲の権力者が続くとやはり自然に権力者が無能になっていくと言うことである。これは今の日本でも大して変わっていない。残念ながら。
7/8 その時、歴史が動いた「古池や蛙飛びこむ水のおと〜松尾芭蕉 人生を映した17文字〜」
今回のテーマは俳句を創始した松尾芭蕉。
松尾芭蕉(本名・松尾宗房)は伊賀上野の生まれで、家の格式としては武士に準ずるものの、農業で生計を立てる必要があるという家で、父親を早くして亡くした彼は貧しい生活を送っていた。しかし伊賀上野は伊勢や京都、奈良からの街道の交差点で、これらの文化が流入しており、俳諧なども人気を博しており、芭蕉にとっては俳諧は生きる励みだった。そんな彼が19才の時に転機が訪れる。地元の上級藩士に仕官することになり、そこで藤堂良忠に出会ったのだった。俳諧の名手で京都での最大の流派である貞門に属する彼から俳諧の手ほどきを受けた芭蕉は、見る見る俳諧の腕を上げていく。
しかし4年後、良忠がこの世を去り、芭蕉は自らの前途を思案することになる。これから6年間の芭蕉の行動は謎であるのだが、その後の彼は江戸に出て富裕な町人に俳諧を教えることで生計を立てるようになる。そんな中、古典から題材を録る貞門とは異なり、庶民な的な言葉で奇抜な内容を読む談林に出会い、その自由な空気に惹かれた彼は談林に転じる。
だが芭蕉はやがて今までの俳諧が所詮は言葉遊びに過ぎず、精神的な深みがないことに気づき、新しい俳諧の形を模索するようになる。そうして41歳の時に、彼は俳諧の新しい形を模索して西国への旅に出る。これが野ざらし紀行である。この旅において彼はその時の心情を17文字で詠む新しい俳諧の形に行き当たる。そして旅から帰った1年後、彼が弟子達の前で詠んだ句が「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句だった。それは今までの俳諧にはない新しい形式の俳諧で、また短歌に匹敵するような芸術性を秘めた新しい文化でもあった。これが蕉風俳諧と呼ばれ、今の俳句となる。
俳句誕生のエピソードなのだが、所詮は松尾芭蕉の精神内での話なので、この手の歴史物としてはドラマにしにくいところ。実際、何となくパッとしないエピソードになってしまった。これなら、松尾芭蕉隠密説の真偽について考察するなどの方が、歴史番組としては面白くなったのではという気もする。
6/25 その時、歴史が動いた「戦国のゲルニカ 大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか」
豊臣家が滅んだ大坂夏の陣。権力者の側から描かれることしかないこの合戦だが、巻き込まれて地獄を見た多くの民衆がいる。その民衆に注目したのが今回。
大阪城の収蔵品に「大坂夏の陣屏風」があるが、この屏風が異色なのは、大抵この手の合戦図屏風は自らの祖先がいかに勇敢に戦って手柄を挙げたかを誇示するものが多いが、この屏風はその左半分に逃げまどう民衆の地獄絵が描かれていることである。大坂夏の陣では民衆が無防備のまま合戦に巻き込まれ、逃げまどう民衆は川で溺れ、またようやく岸に泳ぎ着いても、略奪や暴行、さらには無差別に民衆の首を取って武者の首と偽って手柄にありつこうとするにせ首、さらには奴隷狩りの被害にあって犠牲者が続々と出たのだという。
また悲劇は合戦前にも合戦後にも発生している。豊臣方につくか徳川方につくかで真っ二つに分かれた村では、その対立が後々まで尾を引き、また豊臣方が徳川の背後を突かせようと一揆をけしかけた村では、一揆勢として立ち上がった村人が犠牲となった。結局はこれらの多くの民衆の犠牲によって江戸時代の到来となるのである。
戦国の合戦などについて民衆の側から捉えるという視点はほとんどないので、これは画期的。実際に戦争における民衆の視点が欠落しているので「戦国時代は躍動的ですばらしい時代」とか「戦争は格好いい」なんていうトンチンカンな考えが出てくるわけである。実際のところは民衆にとっては正義の戦争もくそもない、その現実は今でもイラク辺りで証明されているわけなのであるが、権力者の欲と人間の愚かさはいつまでも尽きない。
6/11 その時、歴史が動いた「北方探検 異境の大地を踏破せよ〜間宮林蔵 執念の旅路〜」
今回のテーマは間宮林蔵。あの間宮海峡を発見した人物である。
1807年、南方進出を狙うロシアが択捉に上陸、攻撃を行うという事件が発生した。総崩れになる幕府群の中で、ただ一人持ち場を守って立ち向かおうとした役人が間宮林蔵だったという。彼は測量のためにこの地にやってきて、未だに測量半ばのこの地を離れることは、自分の仕事が無駄になることだという想いが強かったという。しかし彼も回りに無理矢理に説得されて逃走することになる。その後、彼は持ち場を離れた責任で江戸に呼ばれて取り調べされることになる。
この事態に衝撃を受けた幕府は、国後に軍勢を送って守備にあたる。しかしここで問題になったのが樺太のことだった。当時は樺太のことが全く分かっておらず対策の取りようがなかった。そこで樺太の調査が急務となったのだが、この任務に指名されたのが間宮林蔵だった。またこれは間宮林蔵自身にとっても、択捉での屈辱を晴らせる絶好の機会だった。
彼は樺太が島であることを確認して幕府に報告を送った後、自ら海峡を渡って異郷の地に乗り込む。樺太の現地民にデレンという地にどこかの国の役所があると聞いたからである。もしそれがロシアのものならロシアがすぐそこに迫っていることになる。そこで間宮は現地民に協力してもらいながら、デレンの地に向かう。途中で言葉も全く通じない異境の民に危うく殺されそうになったりしながらようやくたどり着いたデレンは、北方の交易地で、役所は清のものであった。この周辺地域は多くの民族の雑居地域であり、ロシアの勢力もまだこの辺りには及んでいないことを確認した間宮は、帰国してその旨を幕府に報告する。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認したのは有名だが、海峡を渡ってもいたんだという話・・・とは言うものの、特に中身があるように思えなかった内容だな・・・。番組演出が淡泊に過ぎたか。
6/4 その時、歴史が動いた「人を衛る都市をめざして〜後藤新平・帝都復興の時〜」
医師だった後藤新平は、西南戦争でコレラ患者の治療に当たったことをきっかけに、公衆衛生向上のために内務省の衛生技師になる。彼の理念は「人と人とのつながりが人体のように機能することで世の中が発展する」という独特のものであった。
日清戦争の帰還兵の伝染病対策に起用された彼は、現場で陣頭指揮をとる。彼は部下を叱咤激励しつつも、その一方で部下を信じて彼らの自主性に任せるという方式で、23万人の帰還兵の検疫を無事に完了する。3年後、台湾の民政局長に任命された後藤は、今度は都市計画に携わることになる。彼は上下水道の整備や幹線道路の建設などを行う。その後、南満州鉄道の総裁に任命された彼は、若手を起用して沿線のインフラ整備を行い、都市の開発を行う。そしてついに内務大臣に就任した彼が手がけることになったのが東京の再開発だった。
彼は官民共同の都市研究会を立ち上げ、東京の再開発のプランを検討する。しかしその矢先に関東大震災が発生し、東京は壊滅的被害を受け、彼のプランはすべて白紙に戻ることになる。
関東大震災から再建が急がれる状況になった。彼は都市研究会以来のメンバーを集めて復興計画を練る。彼が計画したプランは、将来の交通量増加を見越した広い道路や、防災をにらんでの広い公園も配した大胆な都市計画だった。ただこのための費用は当時の国家予算に匹敵する13億円と見積もられ、このプランは復興審議会で猛反対を受け、予算は5億7500万円に削減される。予算が削減されたことから、後藤達は土地買い上げではなく、住民から土地を提供してもらって道路等を整備する区画整理の方法を提案する。しかし後藤達のプランは議会で猛反対を食らう。区画整理事業は国がやるべではないとの反対だった。東京の復興はすでに待ったなしの状況で後藤は大幅な計画後退をのまざるを得なくなった。
しかし後藤の理念に共感したのが東京市長で、かつて後藤の腹心だった永田秀治郎だった。彼は国に代わって市が主導して区画整理を実行する。その結果、東京は防災や衛生に配慮した新しい町として再生したのだった。この時に活躍したのが、かつて後藤の元で働いた人材だった。この時の開発が現在の東京の原型になっているという。
後藤は「金を残して死ぬのが下、仕事を残して死ぬのが中、人を残して死ぬのが上」と語っていたらしいが、実際に多くの人材を育てたようである。今の政治家や官僚には残念ながらこういうスケールの大きな人物は見あたらない。この国の人材の劣化というのも著しいように思えてならないのである。
なお当時はダーウィンの進化論を社会にも適用して、弱者などを救済することは国家の活力を削ぐなどといった主張があったが(その究極がナチスである)、彼はその考えを真っ向から否定したという。伝染病などになったら弱者かそうでないか関係なく命を落としてしまうから、世の中全体の衛生水準を上げないと国家は繁栄しないというのが彼の考えだったとか。全くその通りである。それに対して、最近の政治家、特に小泉などは、強者(と言っても、その実は世襲の馬鹿ボンのことだが)さえ残れば、弱者は死んでも良いという考えを実践しているのだから、愚かの極みというべきか。この国の劣化はとどまるところがない。
5/28 その時、歴史が動いた「養殖真珠宝石界に革命を起こす〜女性を輝かせた男・御木本幸吉〜」
今回の主人公は真珠の養殖で有名な御木本幸吉。
昔、真珠は天然物しかなく、しかも発見される頻度が極めて低いことから超高級品であり、ごく一部の女性しか身につけることは出来なかった。うどん屋を営みながら、副業的に真珠の売買をしていた御木本幸吉は、真珠が女性を輝かさせることに興味を抱き、真珠の養殖に本格的に取り組み始める。しかしそれは困難の連続だった。借金を重ねて増やした貝が赤潮で全滅したり、借金まみれの彼を常に支えてくれていた妻が亡くなったりなどの逆境の中、貝のどこに核を入れれば良いかの試行錯誤を繰り返し、ようやく彼は半円真珠の量産に成功する。彼はその半円真珠を使って、当時は和装が多かった女性のための帯留めなどの装飾品を製造する。
しかし彼はさらに次の時代を見据えていた。やがて日本も洋装の時代が来るとにらんでいたのだ。そうなると洋装に似合うネックレスなどの装飾品が必要で、そのためには真円真珠の製造が不可欠だった。しかしネックレスに使えるような大きな真円真珠の製造は困難を極めた。しかし彼は作業の下手な職人に限って真珠が出来る事実から、核に外套幕を付着させることがポイントであることに気づき、これをきっかけにして量産に成功する。こうして洋食による真円真珠が画期的な価格で世界に登場することになった。
しかしこれに抵抗を示したのがヨーロッパの宝石商だった。彼らは養殖真珠を「偽物」と断定し、マスコミを中心にネガティブキャンペーンを展開する(天然真珠の価格が下落することを恐れたのだろう)。御木本幸吉に対する風当たりが強くなる。しかしここで引き下がるとすべての女性を真珠で輝かせるという彼の夢は費える。ここで彼は勝負に出る。宝石商達を相手に外国で裁判を起こしたのだった。そして1924年5月24日「日本の養殖真珠は偽物ではない」との判決が下る。決め手になったのは生物学者達の「天然真珠と養殖真珠を違うものだと判断することの方が困難である」という意見だった。こうして養殖真珠は社会的に認められることになる。
私が小学生の時の修学旅行で御木本幸吉の記念館を見学した記憶があります。昔は彼の功績については教科書に載っていた記憶がありますが、今はどうなんでしょう。なお宝石と言われるものの中で、真珠は唯一生物的に作り出されるもので、他の鉱物系の宝石とは性質が全く違います。だからこそ天然物と全く変わらないものを人工的に作り出せたわけです。なお今では鉱物系の宝石も人工的に合成することが可能ですが、宝石としての価値は天然物と大きく差をつけてあります。
もっとも私には宝石なんて興味ないです。私の目にはダイヤモンドなんて黒炭の同素体としか見えないし、ルビーやサファイヤも不純物入りアルミナ結晶、真珠なんて炭酸カルシウムにタンパク質が加わった球という風にしか見えませんので。はっきり言って化学屋は、宝石にはあまり価値を感じなくて、価値を感じるとしたら煮ても焼いても腐らない金ぐらいです。
5/21 その時、歴史が動いた「攻防北の黄金王朝〜奥州藤原氏VS源氏」
今回のテーマは奥州に独自勢力を築きながら、最後は源氏に滅ぼされた奥州藤原氏について。
平安時代、陸奥の国は朝廷の支配下にあり、朝廷から派遣された陸奥守によって地元民である蝦夷は管理されていた。この陸奥守の国府である多賀城に送られてきたのが藤原経清だった。藤原氏の一門である経清だが、彼は主流から離れていたので地方の役人を歴任していた。彼の役割は当時は陸奥でのみ算出していた黄金を朝廷に届けることだった。しかし陸奥で算出した金は中央に届けられるだけで、地元民は全く潤うことはなかった。
中央での栄達を望めない経清は蝦夷の有力者である安倍氏の娘と結婚、彼らと結びつくことになる。しかし1051年に安倍氏が陸奥守に対して反乱を起こす前九年合戦が勃発、朝廷は陸奥の守に源頼義を派遣して鎮圧にあたる。経清は悩みつつも頼義側につく。しかし蝦夷の女を妻にしていた武将が讒言によって処罰されるのを見た彼は、所詮は自分も頼義の信任を得られることはないと判断、安倍氏側に寝返る。経清の寝返りによって安倍氏は朝廷群を打ち破る。
しかし頼義は隣国の出羽の蝦夷である清原氏に働きかけ、清原氏の軍勢が安倍氏への攻撃に参加する。これで安倍氏は滅ぼされ、経清も捕らえられる。裏切り者である経清に対する処罰は苛烈なものであった。彼は苦痛を増すために、あえて鈍刀で首をはねられたのだった。しかしこの時、経清の子供である清衡が生き残る。
清衡は母が清原氏当主の妻となったことから、清原氏の元で養育された。彼は清原氏の三人の息子の一人として勢力範囲の一部を任されるほどの信頼を得る。しかし当主が死亡して、1083年に後継者争いである後三年合戦が勃発する。弟である家衡に急襲され、妻子や家来を殺害された清衡は、陸奥守である源義家の支援を受けて家衡を討つ。こうして清原氏の当主の座をついだ清衡は、義家が私欲で争いに介入したとして朝廷から罷免されたのを機に、藤原の姓を名乗って奥州に都を設立する。朝廷に莫大な貢ぎ物を送ることで従順の姿勢を示して中央からの介入を排しつつ、交易などをさかんにして平泉は繁栄する。
しかしその藤原氏の転機は源頼朝の登場で訪れた。当時の日本は奥州を藤原氏が、関東を源氏が、西国を平氏が分割支配する状況だったが、西国の平氏を滅ぼした頼朝は奥州の藤原氏の制圧も目指す。そこに頼朝に追われた義経が逃れてくる。当主の秀衡は決断に迫られる。義経を追い返して頼朝に従順の意を示すか、それとも義経を押し立てて頼朝と一戦を構えるか。しかし既に朝廷への貢ぎ物を頼朝を通して納めるように要求されるなど、頼朝の藤原氏を滅ぼそうという意図を見抜いていた秀衡は頼朝と決戦する意志を固める。
しかしそんな矢先、秀衡が病死してしまう。彼は息子の泰衡に「藤原氏は義経と共に源氏と戦うべし」と言い残していたのだが、朝敵になることをことを恐れた泰衡はその決断が出来ず、義経を急襲してその首を頼朝に差し出して従順の意を示す。しかしそもそも頼朝にはその意志はなく、やがて藤原氏は攻撃を受けて平泉も陥落、こうして奥州藤原氏の栄華は終わる。
と言うように歴史を追えば、結局は4代目の泰衡の器量がなかったという結論にならざるを得ないわけだが・・・。実際、この時に秀衡が亡くなったのは非常に致命的だったと思われる。現実にはあそこで奥州藤原氏が徹底抗戦の意志を固めていれば、戦上手で知られる義経を前面に押し立てられると長期戦になっていた可能性が高かろう。すると当時はまだ西国も安定とはほど遠かった上に、頼朝の権威だって絶対的なものではなかったので、西国で不穏な動きが出たり、頼朝の家臣から離反が起こったりなど、何がどうなったかは分からなかったろう。となると、そこから数十年早く戦国時代に突入というような事態もあったかも。まあこれも「歴史のif」なんだが。
5/14 その時、歴史が動いた「日本人の心を守れ〜岡倉天心・廃仏毀釈からの復興〜」
今回のテーマは天下の愚策「廃仏毀釈」について。
明治初期の日本。日本の貴重な文化財が危機に瀕していた。発端は新政府が発した神仏分離令だった。これは国家神道を国の基本にしようとした政府が、既にかなり仏教との混交が進んでいた神道を強引に仏教から切り離そうとした政策だった。しかしこれに過剰に反応した民衆が、仏教の排斥に向かい、文化財でもある多くの仏像が破壊された。また多くの僧侶が神官に転向し、管理する者がいなくなった寺院は荒れ果て、経典が包装紙に使われたり、仏像が薪にされるような事態に至った。
この事態を憂いたのが岡倉天心だった。彼は仏教文化の壊滅的状態を見て、なんとかする必要があると立ち上がる。しかし世は脱亜入欧の時代で、日本の固有文化を尊重する空気はなかった。そこで彼は内閣総理大臣の伊藤博文に直接働きかける。彼はお雇い外国人のフェノロサに強力を仰ぎ、日本絵画の鑑賞会に伊藤を招いた上で、「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」とフェノロサから伝えさせることで、日本美術の保存の重要性を訴える(今も昔は、なぜか日本は外国人から圧力がかからないと動かない変な国だ)。天心の働きによってようやく日本の伝統文化を保護する方針が打ち出されることになる。
その半年後、天心はヨーロッパに渡り、外国の美術品の管理状況について視察する。そこで彼が衝撃を受けたのが、首や手足が破損した状態の彫刻(トルソー)がそのまま美術品として評価されていることに衝撃を受ける。ただ日本の仏像は美術品であると同時に信仰の対象でもある。一部が欠けた状態の仏像は信仰の対象とはならず、かといって下手な修復は美術品としての価値を下げる。天心はこのジレンマに囚われることになる。
視察の10年後の明治30年、ついに日本初の文化財保護法が成立する。東京美術学校の校長に就任し、美術行政を取り仕切っていた天心は、ようやく本格的に文化財の修復に乗り出そうとする。しかしその矢先、怪文書がきっかけで彼は職を追われることになる。天心が日本美術を重視することに反発した西洋美術派の反発が生んだ事件だった。(これについてはどっちが悪いとは一概に言いにくいんですよね。この番組だけ見てると、西洋美術派が強硬だったように見えるが、視点を変えると天心によって西洋美術派がかなり圧迫されていたのも事実です。)
野に下った天心は、民間団体である日本美術院を設立し、そこで文化財の修復を本格的に手がけることになる。彼が打ち出した方針は、現存の仏像については直接的に手を加えることはなく、破損部分のみを厳密な調査に基づいて復元して補充するという方法だった。彼のこの方針に基づいて多くの文化財が復元され、これが今日にまで残されることになった。
天下の愚策「廃仏毀釈」について。バーミヤンの大仏を破壊した馬鹿タリバンと同じようなことを、よりによって日本人がやっていたわけです。ちなみに日本の文化財は近代に二度危機を迎えています。一回目がこの廃仏毀釈。この時には心ある外国人が持ち出すことによって破損を免れた重要文化財もあります。二回目が第二次大戦後、戦争自体で破壊された文化財もありますが、戦後にアメリカに接収されたり、売却されたりで、多くの貴重な文化財が海外(特にアメリカに)に大量に流出しました。だから今日「日本にあれば国宝級」と言われる文化財がアメリカの美術館にゴロゴロあったりするんです。日本がいかに文化というものに敬意を払ってこなかったかを物語るエピソードでもあるわけですが。
なお神仏分離令のナンセンスさは、実際にあまりに実行困難だったために、最終的にはこの政令自体が有耶無耶になってしまったことがすべてを物語っています。そもそも日本における神仏習合は昨日今日始まったものではなく、仏教が日本に伝来した頃から既に始まっており、熊野信仰に見られる本地垂迹など、日本の信仰の重要な根幹の一つになってしまっているので、それを切り離すなんてどだい不可能だったわけです。残念ながら明治新政府の中心連中の文化意識はその程度のレベルだったというのが現実だったりするわけ。今でも政治家は文化には全く無知な輩が多いですが。
4/30 歴史ドキュメント01「徳川家康「江戸」建設に挑む」
次の歴史番組の形態を模索したパイロット番組と思われるスペシャルです。以前に「魯山人」をテーマにしてパッとしない内容になってましたが、今回はもっと無難に徳川家康の江戸建設にした模様。
さてそもそも家康が江戸に拠点を構えることになった理由だが、小田原攻めの時に秀吉に「江戸に居城を構えるように」と命じられたことによる。これは勢力が拡大していた家康を旧来の領地から切り離すことと、当時は湿地帯でとても城を作れるような状態でなかった江戸の開発を命じることで、家康の力を削ぐという目的が明確だった。しかし当時の家康にはそれに反抗するわけにもいかず(反抗するなら秀吉相手に一戦構えることになる)、家臣を引き連れて江戸の地に移動している。
ここで家康は、城の建設もそっちのけで、まずは家臣の住宅を比較的安定している地盤の部分に建設することから始めた。また一面が湿地帯である江戸の状況を見た家康は愕然としたが、同時に開発次第では江戸は発展の可能性がある立地であることも見抜いていたようである。江戸の開発については大阪をモデルにしていると考えられるとのこと。
しかしながら江戸の開発は難航を極めた。海が近いために真水の確保に苦労し、井の頭から水路で真水を引いたり、町人を招くための土地を作るために、湿地帯の前島に水路を築いて地盤を乾燥させるなど多くの工事が必要で、そのたびに家臣達が不眠不休で作業したという。こうして建設した土地に、家康は各地から町人を呼び集めて家臣達の生活を支える町人街を作り上げた。
そして江戸が劇的に発展するのは秀吉の死後である。関ヶ原の合戦で勝利して事実上天下を押さえた家康は、今度は大名達を動員しての天下普請を開始する。彼が取り組んだのが日比谷入り江の埋め立て。これは大名達の屋敷を建設するための土地を確保する目的もあった。この普請に各大名が動員され、彼らは多大な出費を強いられることになる。この普請は江戸の発展を促すと共に、家康にとっては脅威となり得る大名の力を削ぐ目的もあった。
多くの犠牲も払いながら日比谷入り江の埋め立ては急ピッチで完成。こうして江戸の原型はできあがる。
なお江戸は明暦の大火で市街の6割が消失するという被害にあっているが、この後、保科正之を中心として江戸の街の復興が行われ、この時に市街の大幅再整理と市街域の拡大が行われたという。これらを経て、江戸は世界最大の100万都市へと発展する。
以上、江戸の生い立ちについて。それほど感心するような情報もありませんでしたが、歴史番組としての基本を押さえており、以前の魯山人の時に比べると歴史番組としては格段に面白くなっていたように思います。魯山人の時には「どんな版組を作るのか」ということがまるで絞れていないように思えたが、今回は歴史番組としてテーマがハッキリしていたのが勝因。やはりターゲットのハッキリしない番組は駄目と言うことです。もっともこの形態は、今までの歴史番組と大きくは変わっていないので、制作側としては新味を出しにくいというジレンマがありそうですが。
4/23 その時、歴史が動いた「古事記誕生〜日本最古の史書の謎〜」
日本最古の史書である古事記だが、その中身は国造りの神話などとても歴史書とは言い難いような内容も含んでいる。
そもそも古事記の編纂を命じたのは天武天皇で、豪族を二分する壬申の乱で勝利した彼は、天皇を中心に国をまとめる必要に迫られていた。それまで歴史書は口伝のものを各豪族などが各々でまとめたものが多く、地域によって内容に大きな違いがあった。そこで彼は、天皇が日本を治める正当性を担保するものとしての正史を必要としたという側面が強かったようである。
実際の古事記の編纂は、歴史書について記憶していた稗田阿礼の口述を太安萬侶が筆記したという形になっているが、それは単なる口述筆記のような単純なものではなかったという。当時の日本では文書記述用のカナがキチンと整備されている状況ではなかったから、記述が様々で、文書があっても読み方が分からないというような状況だったという。それを稗田阿礼が口述することで初めて読み方や意味が明らかになるという状態で、それを太安萬侶がキチンと他の者にも分かる形にしながら記録していくという作業になったようである。
こうして編纂された古事記だが、これがその後、国家神道と結びついてしまったりなどいろいろあったが、今日でも日本人のメンタルには根を張っているわけでもある。
史書と言っても古事記の文献的価値は、残念ながら中国の史書などと比べると数段低いのは事実。中国ではかなり昔から、歴史を正式な形で記録するという作業が行われてきたが、日本ではこの時になってようやくなので、その差が出るのは仕方のないところ。結果として古事記の記述はとてもそのまま歴史的事実として読み取ることは無意味な内容が多いが、それでもその中から裏の意味を読み取ることは可能である(どこの国でも、太古の地方の豪族の話が神話に影響している。登場する神も怪物も、どちらもそもそもは地方豪族や部族の場合が多い。)。それに読み方によれば、天皇家とは大陸から渡来した部族の末裔という解釈も可能なわけで(高天原が朝鮮半島や大陸を意味していたら、そのものズバリである)、いろいろな解釈が可能になるわけである。
とは言うものの、これを中心に据えて歴史の教科書を作れるというような代物ではなく、そんなことをすると、進化論を否定して「神が万物を作りたもうた」と書かそうとしているアメリカ南部のとんでも教科書みたいになってしまうわけであるが。
4/16 その時、歴史が動いた「人間は尊敬すべきものだ〜全国水平社・差別との闘い〜」
士農工商の封建社会において、その身分制度の外におかれたのがエタ・非人と呼ばれた人たちである。彼らは職業などを制限され、差別の下で貧しい生活を強いられた。明治新政府発足後、四民平等により彼らは建前上は差別がなくなった。しかし現実には彼らは部落民として日常的に激しい差別にさらされ、彼らは貧困と差別に苦しめられながら、自らの出自を隠して生活することを余儀なくされていた。女学校を卒業して結婚して教師になった女性が、部落出身であったことが発覚すると共に、教職を追われた上に「血が汚れる」と離縁を申し渡されて自殺した事件なども発生している。
そんな時代、部落出身の青年・西光万吉がいた。彼もやはり部落出身であることを隠して生活していた。しかしそれが転機を迎える。きっかけは米騒動だった。暴動の中には貧しい生活を送る部落民も含まれていた。そのことが「部落民は凶暴だ」「性根が腐っている」と差別を巻き起こしたのだ。まるで部落民であること自体が罪であるかのような論調に、西光万吉は憤る。しかし振り返ってみると自らも差別を逃れるために、部落民であることを恥ずべきこととして出自を隠していたことに気づく。そして彼はこの問題に正面から向き合うことを決意して東京から故郷に戻る。そして貧しい暮らしを送る人々の中で、自らが立ち上がることを訴える。
一方、政府も部落対策を始める。しかしそれは「部落民の性根は歪んでいるので、それを矯正することで世間の同情を集めることができる」と部落民に対する教育政策であった。つまり差別する側でなく、差別される側に問題があるとしたのである。
今でも差別主義的思想を持つ輩は、いじめ問題などでも「いじめられる側に問題がある」などとのことを言いたがるが、それと同じ思想である。言うまでもないことだが、いじめ問題ではいじめる側にほとんどの問題があるし(いじめられる側の問題など、まず本人の責任でない問題が多い)、差別についても差別する側の問題である。
西光万吉もこの政府の政策を見て、その間違いに憤る。彼は「部落民自身が不当な差別の撤廃を求めるべき」という論文を読み、自らが立ち上がろうと「水平社」を結成する。彼は部落への同情を呼びかけていた新聞記者の元を訪れて、同情を呼びかけるのは止めて欲しいと訴える。あなた達のためにやっているんだという記者に対して、彼は「可哀想という恩着せがましい姿勢こそが部落民を見下しているのだ」「尊敬する気持ちを持って、同じ人間を見て欲しい」と訴える。これを聞いた新聞記者は自らの傲慢な姿勢に気づいて恥じ入る。
彼の運動は全国に広がっていった。そして出自を隠していた部落民達も徐々に彼の運動に加わっていった。そして1922年3月3日、全国水平社創立大会が開かれ、そこで西光は水平社宣言を読み上げる。「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ」という宣言に、多くの部落民が感動の涙を流す。
彼らの行動のおかげで、部落差別については当時よりははるかに改善した。今日では少なくともある程度の知性を持つ者なら、部落差別のナンセンスは分かっている(数百年前に豊臣秀吉が支配のために取り入れた制度に今まで引きずられているのだから、馬鹿そのものである)。しかし未だにわざわざ調査してまでも差別したがる馬鹿とか(昔から「差別とは卑怯者の最後の安らぎ」と言う。自らに自信を持てない輩は、人を差別で引きずりおろすことで自尊心を保とうとするのである。)、差別を口実にして利権を引き出そうとするエセ同和なども存在しており、残念ながら部落差別の完全根絶まではいっていない。
また差別は部落だけではない。同じ日本人同士でさえこのざまなのだから、国籍が変わったりするとこれがまた差別につながる。未だに「家柄がどうこう」となどと言う輩がいるが、あれなど差別意識そのものである。それに現在の世襲のバカボン政権は貴族社会を目指そうとしているから、家柄で差がつく差別社会を理想と考えている。現に「勝ち組、負け組」などいう言葉が新たな差別の芽として育っている。これが社会階層として完全に固定化されれば、小泉や安倍が夢見た身分社会の完成である。人間に浅ましい精神があり、それに支配される浅ましい人間がいる限り、どうしても差別の根絶は難しい。
ちなみに西光が新聞記者に対して語った言葉については、障害者の団体も同じようなことを言っている。それだけ難しい問題だと言うことでもある。
4/9 その時、歴史が動いた「音楽の市民革命〜神童モーツァルトの苦悩〜」
今回は毛色が変わってモーツァルト。モーツァルトが音楽を一部の特権貴族から市民に取り戻す過程を描いている。
神童として貴族会でもてはやされたモーツァルトは、14才で初のオペラを書き上げるなど非凡な才を発揮する。彼はザルツブルグの領主に仕え、各地を演奏旅行したり、オペラの作曲を引き受けるなど大活躍する。しかしその後、彼が20才の時に新たに領主に就任した伯爵と対立する。伯爵は彼にオペラなどの大作は作らず、領内の協会の儀式用の短い音楽だけを作るように命じたのだった(早い話は、伯爵はモーツァルトを芸術家として見ずに、単に儀式用音楽の作曲職人としてしか見ていなかったわけである)。これに怒ったモーツァルトは伯爵とケンカ別れしてウィーンに出る。
しかしここで彼は仕事の依頼が全く来ないという状況に直面する。当時の音楽界は貴族に牛耳られており、伯爵に通じる貴族は彼に仕事を与えなかった。つまりは「生意気な平民風情」が権力者から干されてしまったわけである。
貴族社会の横暴に直面したモーツァルトだが、それでめげるような器ではない。彼は貴族社会を痛烈に批判した作品である「フィガロの結婚」に注目して、これをオペラとして上演しようと考える。しかし当時この作品は上演禁止とされていた。そこで彼は皇帝の信頼の厚い宮廷詩人を仲間に引き込み、脚本と音楽は極秘で完成、そして宮廷詩人の人脈を利用して皇帝に直接に上演許可を得ることにした。彼は「貴族批判のセリフはすべてカットした」としたと説明し、皇帝に音楽を披露、宮廷詩人を信頼していた上に、モーツァルトの音楽に魅せられた皇帝は、深く内容を吟味することなく上演を許可する。しかしモーツァルトは確かに直接的に貴族を批判したセリフはカットしていたが、内容自体に権力者に対する批判を潜ませていた。彼はこれを貴族達の前で披露したわけである(強烈な意趣返しである)。
「フィガロの結婚」で貴族社会にけんかを売ったモーツァルトだが、時代の方が彼を追いかけてくる。やがてフランス革命が勃発、人間は平等だという思想がヨーロッパを席巻する。そんな中、モーツァルトは市民のためのオペラを企画する。それが貴族階級のためのイタリア語ではなく、市民のためのドイツ語で書かれたオペラ「魔笛」であった。この作品には人間は平等であるというメッセージが込められていた。モーツァルトは病をおしながらこの作品を精力的に書き上げる。そしてこの作品は大ヒットする。しかしモーツァルトは身体を壊して、この2ヶ月後にこの世を去る。
今回の内容は、いわゆる「アマデウス」のヒットで一般に広がってしまった「モーツァルト=音楽的才能以外は単なるアホ」というイメージに対抗しているようである。確かにあの映画のモーツァルトの人格はあまりにデフォルメされてしまっているのは事実である。とは言うものの、彼が生活力的には欠けている部分が多々あったのも事実で、後先を考えずに行動する部分もあったので、「単なるアホ」は極端にしても、あまり計画的人生を送った人間でないのも確かである。
なおモーツァルトは音楽が貴族から市民に移行する時の過渡期の作曲家としての苦悩があったが、この後のベートーベン以降は最初から市民を相手にした音楽家としての活動がメインとなっている。生活と自由な創作の狭間での苦悩とは、芸術家にはつきものであるが、モーツァルトも才能豊かであるが故にそれに翻弄されたということでもある。それに比べると、現代は生活に何の不安もない状態での「自称芸術家」がなんて多いことか(某知事の息子とか)。ちなみに「無職」ではあまりに世間体が悪い場合に名乗る職業で多いのが、作家(含フリーライター)やアーティストだったりする。何の資格もいらないので、名乗るは自由であるから。もっとも、世間がそう認めてくれるかは別問題だが。
3/12 その時、歴史が動いた「戦国北条百年王国の夢」
今回の主人公は、戦国時代に関東で勢力を誇った北条氏について。北条氏は初代の早雲が戦国大名として勢力を確保してから、氏直が秀吉に降伏するまでの五代の間続いたのだが、北条氏は民を慈しむことを基本理念において統治を行っていたということを紹介らしい。
まず早雲であるが、彼は応仁の乱で苦しむ民を目の当たりにして、自らは民を慈しむことを基本において、それによって民に対して過酷な統治を行っていた足利氏を追って伊豆・相模に独立勢力を確立したという話。実は早雲についてはこの番組で以前に扱っており、この序盤部分は事実上はその時のダイジェストである。
次に登場するのは三代の氏康。武田や今川との戦に明け暮れることになり、民が疲弊していることに気づいた彼は、早雲の教えに立ち返って民を慈しむ政策を実行したという。年貢の支払いに行き詰まって逃亡した農民のために、それまでの年貢を免除する徳政を導入したり、目安箱を設置して公平な裁判を導入したという。また武田信玄・今川義元と三国同盟を結んで外交によって争いを解決できる道を選んだことによって、領国は安定したという。
しかしその北条氏に暗雲が漂うのは、秀吉が全国統一を目指し始めた時。中央集権を進めて、民に過酷な重税を課す秀吉の政治は、北条氏の理念とは相容れないものだった。そこで氏直は徳川家康や伊達政宗と手を組むことで秀吉と対抗することを目指す。そして秀吉の小田原征伐。氏直は万全の体制で籠城して時間を稼ぎ、家康や政宗が呼応してくれれば天下の情勢はまだ分からないという策を打つ。しかしその家康が秀吉によって切り崩され、政宗も秀吉に降伏するに至って万策尽きる。氏直は自らが切腹することで他の者は助けるという条件で秀吉に降伏、こうして北条氏の百年王国は終わりを告げる。
なんか今まで見たことのある話の総集編のような印象を受けた。なお北条氏は「小田原評定」という言葉で言われるように、秀吉の侵略の前に打つ手もなく無策に明け暮れたように言われるが、それはあくまで構成の権力側からの見方だろう。実際にはそれなりの手は打っていたというわけで、その方が実情には近かろう。もっとも、徳川や伊達という味方としては心許ない連中に頼らざるを得なくなっていた時点で(共に敵にしたらたちが悪いが、味方としては頼りない連中である)、情勢は絶望的に不利だったのであるが。
3/5 その時、歴史が動いた「北越の蒼龍"明治"に屈せず〜河井継之助 地方自治への闘い〜」
異国船が現れるなど社会が騒然としてきた幕末。北越の小藩・長岡藩では、莫大な借金に財政が破綻寸前であった。その立て直しに活躍したのが河井継之助だった。最初は彼の意見は上層部によって妨げられていたのだが、彼の紳士に藩の将来を思う姿勢が藩主に認められ、藩主の後押しで改革を実行してからは、長岡藩の財政に目に見えて改善していった。
しかし時代が彼の前に立ちふさがる。幕府に対して長州藩が闘いを挑み、幕府はその処理に手間取っていた。それを見た河井は、幕府にもはや諸藩を統率する力がなくなっていることを感じ、藩の武力の強化を行う。
やがて大政奉還、そして新政府軍による幕府討伐が始まった。新政府軍は数手に分かれて最後まで抵抗を続けていた会津に迫っていった。その一軍が北陸沿いに武力で各藩を従えながら長岡に迫ってきた。河井はなんとか長岡を戦乱から救う方法を模索するが、抵抗すれば新政府軍に攻められ、降伏すると会津との戦乱に狩り出されるのは必至で、どちらになっても戦乱に巻き込まれるの確実であった。河井は新政府にも幕府にも荷担しないとして中立を宣言する。
降伏を迫る新政府軍に対し、河井は自らが使者に立ち交渉を行う。また彼は、新政府に対して「諸藩を武力で従えるのではなく、諸藩がそれぞれ繁栄すれば日本全体が強くなる」という主旨の嘆願書を新政府軍の使節に差し出す。しかし新政府軍代表の土佐藩士の岩村精一郎(24才)は、河井を地方の家老と侮り、彼の話などに聞く耳も持たず、武力による制圧のみを告げる。河井はここに来て戦闘のやむなしを決意する。
しかし戦闘は新政府軍にとって予期せぬものになった。長岡藩の兵力1300に対して新政府軍は5000、しかもまず奇襲をかけたのは新政府軍だった。長州藩最強の奇兵隊に対し、河井は自ら最新兵器のガトリング砲で立ち向かい、奇兵隊に対して痛手を加える。しかし三方から攻め寄せる新政府軍を支えきれず、長岡城は奪われる。だが河井はゲリラ戦で抵抗を続け、2ヶ月に渡って新政府軍を釘付けにする。この頃に書かれた河井の檄文によると、まだ新政府の体制が定まっていないから、抵抗を続けているとそのうちに新政府軍に反乱する藩などが出てくることを河井は期待していたことがうかがえるという。
同様の懸念は新政府側も持っていた。新政府軍の参与であった木戸孝允は、もしこの北越戦争で敗北すれば新政府の瓦解にもつながりかねないとして、大規模な増援を送り込む。
一方、その頃の長岡では、河井が自ら700を率いて長岡城に総攻撃を仕掛け、ついに長岡城を奪還してしまう。しかしこの時、河井が足に銃撃を受け、深手を負った河井は指揮を取れなくなってしまう。そこに新政府軍の援軍が到着、21藩1万2000にも及ぶ軍勢が長岡に迫る。そして抵抗空しく長岡城は最陥落、長岡の市街は灰燼と帰し、河井も会津に向かって落ち延びる途中で傷が悪化して亡くなる。
この後、日本は中央集権国家として突っ走ることになる。それが果たして良いことだったか悪いことだったかは判断に苦しむところである。また河井に対しても、無益な抵抗で徒に犠牲者を増やしたとの批判もあるようだ。まあ確かに、河井の行動に対する評価は難しいところだろう。もっとも彼は武士の体面とかの狭い了見で新政府にたてついたわけではないのであるが。
ちなみに明治維新は若い藩士が老人達を押しのけて台頭したまさに若手活躍の時代なのだが、それは裏を返せば「世間も知らないひよっ子が感情にまかせて突っ走る」という時代だったわけでもあり、あたら無駄に事を荒立ててしまった部分も多々ある。河井との交渉を頭から決裂させた岩村精一郎なんてのは、まさにその典型だったような。
2/27 その時、歴史が動いた「軍服を脱いだジャーナリスト〜水野広徳が残したメッセージ〜」
日露戦争に日本が勝利し国中が沸く中で一冊の本が人気を博した。その本「此一戦」は日露戦争の戦いでの日本軍の活躍を描いたもので、執筆したのは海軍軍人として自身も戦争に参加した軍人の水野広徳であった。彼は軍隊を強化することこそが国を救うと考え、軍国主義の重要性を謳った。
しかしその彼の考えを完全に覆す事件が起こる。第一次大戦が勃発、戦車に毒ガス、航空機が投入されたこの戦争は、それまでの戦争の様相を一変させた。大量殺戮が可能となったのである。最新の戦争の状況を視察するために軍事視察にヨーロッパに赴いた水野は、フランスの激戦地ベルダンを訪れる。
そこで水野が目にしたのは、老若男女の別なく殺戮された大量の死体であった。破壊と殺戮を欲しいままにした戦場はこの世のものとも思えない惨状であった。国の膨張政策がぶつかり合った結果のこの事態に、水野は国家の有りように対する大きな疑問を抱くようになる。国家は国民を守るためのものではなかったのか、軍人としての自身の存在、それらに悩んだ水野は、戦争を防ぐには軍備の撤廃しかないという結論に至る。帰国した水野は大臣に「日本はいかにして戦争に勝つかより、いかに戦争を避けるかこそが重要だ」と当時の軍部の方針に真っ向から反する意見を述べ、自身も軍服を脱ぐ。
水野はジャーナリストとして軍備縮小を世に訴えた。軍備の拡大で疲弊していた国民に水野の主張は受け入れられ、また第一次大戦で疲弊したヨーロッパでも軍備の縮小に向かい始め、軍縮会議が実施される。
しかし世の中は不穏な方に向かい始める。軍部が統帥権を盾にして政府の軍縮方針に反発、暴走を始める。また言論に対するテロによる弾圧も始まる(今も昔も卑怯者がすることは同じである)。軍縮を進めた浜口雄幸総理が馬鹿右翼の凶弾に倒れるに至り、テロを恐れて政府も沈黙、完全に軍部はコントロールを失って暴走する。
やがて満州事変が勃発、水野はこのままではアメリカとの戦争になり、日本は爆撃機の攻撃を受けて死屍累々野状態になると訴えるが(まさに後の東京大空襲を事前に完璧に予言していた)、彼のこの主張は民衆の目に触れる前に発禁処分となる。そして軍部による報道管制が強化され、報道機関は御用報道ばかりになる。講演会で自らの主張を訴える水野は卑怯者の右翼テロリストに命を狙われることになる。そしてついには彼は執筆禁止者リストに載せられ、発表の場を完全に奪われることになる。
この後の日本はまさに水野の予想通りの死屍累々たる惨状を経て敗戦へと至ることになる。正常なジャーナリズムを失った国がどのような惨状を迎えるかを物語るエピソードである。
戦争に賛成する奴は、自分は絶対に安全な場所にいられると確信している卑怯者か、戦争の現実を知らないか想像も出来ない馬鹿だけだと言うが、水野も実際の惨状を目の当たりにして考えが180度変わったという。現実に日露戦争ぐらいまでは一応は戦闘員同士の戦いが主であり、まだ軍国的ロマンチシズムを振りかざす余地があるが、第一次大戦以降の戦争は、非戦闘員の大量殺戮を競うだけのものであり、軍国的ロマンチシズムさえ出てくる余地がないのである。今日に至るとまさに「軍隊では国民を守れない」というのはハッキリしており(アメリカのイラク戦争の泥沼を見れば明らか。軍事力的には比較にならない差があるのに、イラクのテロによる反撃をアメリカは全く防げないでいる。)、軍拡に走るのはナンセンスだというのは明らかなのである。
2/20 その時、歴史が動いた「シリーズ秀吉の猛将2 豊臣家存続の秘策〜加藤清正 二条城会見〜」
秀吉の配下で猛将として名を上げた加藤清正。彼は知略も兼ね備えた武将でもあった。肥後で豪族の反乱が起こった時、清正は慈悲で持ってあたれば収まると秀吉に進言、秀吉から肥後の半分を託され見事にこれを治めた。清正の秀吉に対する忠誠は厚く、清正の虎刈りの伝説は、彼が朝鮮出兵時に秀吉に薬としての虎を献上していたことによるという。
しかし秀吉がこの世を去る。清正は秀頼を命がけで守ることを誓う。秀吉亡き後、家康と三成との対立が激化した時、清正は有力者にもかかわらず秀頼に家臣の礼をとり続ける家康こそ、秀頼を盛り立ててくれる人物と見込んで関ヶ原の戦いでは東軍について九州で闘う。
しかし関ヶ原の合戦で勝利をおさめた後、ようやく家康がその本心を現し始めた。家康は豊臣家に多くの普請をさせたり、無断で領地を他の大名に分け与えたりしてその財力を削ぎにかかる。これを見た清正は豊臣家の将来に暗雲が漂ってきたことを感じる。他の武将が家康に気を使って、秀頼のご機嫌伺いに現れることさえなくなった時にも、清正は敢然として秀頼の元に通い続ける。また彼は熊本城に秀頼を匿うための部屋を設け、いざとなれば秀頼を守って熊本に籠もって一戦するつもりでいた。
そして家康がついに秀頼に害を及ぼす意志を示す。10万の兵を率いて上洛した家康が、秀頼に二条城に来るように求めたのだった。清正はもはや秀頼が家康配下の一大名となってでも存続を図るしかないと考え、反対する淀君を説得して秀頼と共に二条城に向かう。
清正は家康を刺激しないようにわずかな供回りだけを従えて二条城に向かった。秀頼につきそう清正は、もしもの際には家康と差し違える覚悟で懐に短刀をしのばせていた。そして秀頼と共に下座で家康を待った。上座についた家康は秀頼に共に上座につくように招く。しかしこれを受けては秀頼に臣従の意志がないと見られてつけまれると見た清正は秀頼にそれを拒否させる。こうして家康と秀頼の二条城での会見は終了し、清正はなんとか秀頼を守り抜くことに成功する。しかしその後、清正は熊本への帰国途上の船上で倒れ、この世を去る。大坂の陣で豊臣家が滅ぶのはその3年後である。清正亡き後も加藤家を警戒していた家康は、大坂の陣の際に熊本城に家臣を派遣して監視させていたという。
豊臣家にとって痛かったのは、家康に対抗できる力を持つ唯一の大名であった前田利家が亡くなったことと、この加藤清正が亡くなったことだと言われている。実際、知勇兼備の加藤清正が亡くなった後、武辺者の福島正則だけでは豊臣家を支えられなかったのは当然と言えば当然であるわけである。
もっともその知勇兼備の清正も、関ヶ原では家康にまんまとだまされているわけだから、家康のタヌキ度は相当のものであったということでもあるのだが。
2/13 その時、歴史が動いた「シリーズ秀吉の猛将1 戦国の風雲児 法の世に散る〜福島正則 広島改易事件〜」
秀吉の家臣で、その武人としての働きで出世した福島正則。しかし彼は時代の変化に飲み込まれてしまうことになる。
豊臣家に対する忠誠度が高く、秀頼を守り抜くことこそが自らの使命と考えていた福島正則、しかし彼を中心とする武闘派が石田三成を中心とする官僚派と対立したことが家康につけ込まれる元になる。家康が上杉討伐に出た間に三成が挙兵した際、家康こそが秀頼を守ってくれる人物と信じていた正則は、自ら率先して家康支持を表明、それが豊臣系大名の趨勢を決し、結果として関ヶ原の戦いは家康川の勝利に終わる。
しかし関ヶ原の合戦で勝利をおさめた後の家康は、徐々にその正体を現し始める。正則など豊臣恩顧の大名は、家康から多数の普請を命じられてその国力を衰退させられる。この期に及んで家康の意図に感づいた正則であるが、時は既に遅くもう抵抗するすべはなかった。
こうなった以上、正則は豊臣家が家康に屈する形になっても仕方がないから、何とか豊臣家が存続できる道を模索するようになる。そして家康が10万の兵を率いて京に上り、秀頼に二条城に来るよう求めた際、秀頼が殺されると反発する淀君を必死で説得、秀頼を二条城に送ると共に、盟友の加藤清正と協力して必死で秀頼を守り抜く。
しかしその後、彼が頼みとしていた盟友・加藤清正が病死、正則一人では家康とは対抗しようがなかった。そして家康はついに豊臣家に鐘の銘文の件で因縁をつけて合戦に及ぶ。正則は自らが使者として秀頼を説得すると願い出るが、元より豊臣家を滅ぼすことしか考えていなかった家康には一顧だにされなかった。こうして正則の願いも空しく豊臣家は滅亡。失意の正則は、家康家臣の一大名として存続する道を選ぶ。
だがそれさえも彼には許されなかった。家康が亡くなり、後を継いだ秀忠は自らに全く軍功も何もないことにコンプレックスがあった。そのような彼は大大名を改易することで自らの権威を示そうと考えていた(実力のない二代目馬鹿ボンほど、無意味に権威を振りかざそうとするという典型)。その時に標的にされたのが外様大名の正則だった。
広島城が豪雨被害で石垣が崩れる事故が発生、正則はすぐに復旧工事を命じたのだが、これが城の修繕は幕府に届け出が必要だと定めた武家諸法度に反する行為だと幕府に糾弾されたのだった。工事した分を元通りに戻す(つまりは破壊する)よう命じられた正則は、幕府に対して反逆する意志がないことを示そうと、指示された部分とは別の部分をより大規模に破壊する。
しかしこれは幕府側にとっては格好の口実となる。正則が幕府の指示に従わなかったと正則は領地没収を命じられたのである。こうなっては幕府と一戦交えると家臣4000人は城に立てこもり、正則の指示を待つ。正則は決断を迷うが、結局は幕府の指示に従って粛々と領土を明け渡す。
正則の話を見ていると、典型的な体育会系脳天気男の悲劇のように思える。正則のような単純な男は、家康のような古狸にかかるとひとたまりもなかろう。見事に餌食にされてしまったわけである。もっとも最後の改易を粛々と受け入れたのは、正則自身は豊臣家が滅んだ時点で既に半分死んでいたとも言えるのだろう。まああそこで一戦を構えても、武士の面目は立つかも知れないが、無駄に家臣領民の犠牲を増やすだけなので、統治者としては妥当な選択でもあるのであるが。
なお次回は加藤清正とのこと。清正は正則よりは知恵者だったようで、家康の意図を見抜いて密かに秀頼を逃がすための算段を図っていたとの記録が残っている。ただ彼の場合、行動を起こす前に本人が亡くなってしまうのであるが。
2/6 その時、歴史が動いた「シリーズ江戸時代の危機2 天明の大飢饉 江戸を脅かす〜鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策〜」
鬼平犯科帳の主人公で、火付盗賊改として悪を厳しく取り締まったイメージのある長谷川平蔵であるが、彼は犯罪者の更生にも貢献した人物であるという。その長谷川平蔵が主人公なのが今回。
1787年、天明の飢饉による米価高騰に苦しむ人々が、江戸中の米屋を襲う天明の打ち壊しが広がっていた。町奉行が歯が立たないこの暴動の鎮圧に活躍したのが長谷川平蔵であった。しかし暴動が鎮圧された後も治安が定まらず、これを取り締まるための火付盗賊改のトップに起用されたのが長谷川平蔵だった。彼は強盗などの重要犯罪者を取り締まったことが記録に残っているが、一方で衣類泥棒やスリなどの犯罪も多く取り締まっており、それらの犯罪は無宿人によってなされていた。
無宿人の多くは天明の飢饉によって食べられなくなった農民が江戸に流れて来たものだったという。職もなく生きていけなくなった彼らは、犯罪に走ることになったのだという。無職人対策は幕府でも重要問題となり、無宿人を重労働に課して見せしめにしたが無宿人が減ることはなく、老中の松平定信は彼らを故郷に送り返す人返しの政策をとったが、治安の悪化を恐れる大名達に反対され頓挫する。定信は新たな対策のための人材を求めるが、誰も応じる者はいなかった。そんな中、自ら名乗り出たのが長谷川平蔵だった。彼は無宿人の多くが生きるためにやむなく犯罪に走る現状をよく知っており、彼らに職業訓練を施し自活能力を与えることで更生できると考えたのである。
平蔵は隅田川河口の島に人足寄場を建設し、そこで無宿人達に大工や鍛冶、おけ作りなどの技術を身に付ける訓練が行われた。また寄場で作られた製品は江戸で販売され、特に紙すき訓練で作られた再生紙は飛ぶように売れたという。その利益の2割を平蔵は材料代や道具代として差し引き、8割を人足達に分け与え。出所後の生活の元手として貯金させたという。また一方で、彼は各地に部下を送り、人足達の出所後の就職先の開拓も行った。
しかし人足達の中には、既に労働意欲を完全に失っている者もいたという。そこで彼は道徳の実践を説く心学の学者を招き、勤労や禁欲の重要さを教える徳育に力を入れたという。これによって多くの人足が次第に更生への道を歩んでいった。そうして1790年、第一号の出所者が社会復帰していった。この後も順調に出所者は増え、江戸の治安改善に大きく貢献したという。
江戸自体に既に今日の刑務所の基本が見事に完成していたことに驚く次第。長谷川平蔵は実はかなり先進的な民主主義者であったようである。実際、当時のように貧困のために犯罪に走ったというような犯罪者の場合、この手の施設は更生に対して大きな効果を上げることが出来たであろう。彼がこのような先進的な施策をとれたのは、彼の本質が慈悲に満ちていたというようなことよりも、やはり日常的に貧困者の実態に触れて現実を知っていたということが大きいだろう。金持ちの世界しか知らないボンボンだとこのような現実的な政策は取れず、貧乏であること自体を犯罪のようにとらえて安直に切り捨て策のみを取ってしまうというのが実際である(前総理や前々総理がまさにその端的な代表例である)。
ただ今日のように、「人を殺してみたいと思ったから殺した」というような馬鹿や、性犯罪者のような趣味の犯罪者が増加している今日では、この方法での更生は難しいというのが難点である。説くに人間の根本が完全に壊れてしまっている馬鹿の場合、通常の意味での更生はほぼ不可能というのが現実だったりするところが厳しいところ。現代においても徳育重視を訴える政治家などもいるが、問題はその中身が愛国心などという役にも立たないくだらないものばかりであるということ(自分たちには都合がよいのだろうが)。滅私奉公、忠君愛国なんかを強調しても犯罪者が更生できるどころか、また新たな犯罪者を生み出すのがオチ。公の精神を教えるなら、国などという小さな枠を課さないことが重要である。全く難しい時代になったものである。
1/30 その時、歴史が動いた「シリーズ江戸時代の危機1 富士山大噴火〜幕府・腹腔への闘い〜」
今回からシリーズで、江戸時代の危機に対して当時の政権がどう対応したかを特集するそうな。今回は天変地異への対応。宝永の富士山の大噴火である。
江戸時代中期の1707年11月23日、富士山が大噴火を起こす。麓には火山弾や火山灰が降り注ぎ、壊滅的な被害を受ける。しかも被害はそれにとどまらなかった。小田原の酒匂川の川底が火山灰で上昇、堤防が切れて流域の村々が押し流されて壊滅してしまったのだった。しかし小田原藩には民衆を援助する力はなく、幕府に領地の半分を差し出すという前代未聞の挙に及ぶ。幕府はそれを認め、国の主導で復興が進められることになった。幕府は全国の諸般から資金を集め、堤防の修復作業を行う。
しかしこの時に工事を受注したのは江戸の大商人で、彼らは修復費の大半を遊興費や接待費に充て、堤防は粗悪な木材を使用した手抜き工事を行う。そしてこの手抜き工事の堤防は案の定、すぐに決壊し、残っていた家々までも押し流される。こうして農民に見捨てられた亡所と呼ばれる廃村が増加することになる。
だが吉宗が8代将軍に即位した頃から状況は変わる。彼は幕府の地方行政を痛烈に批判した田中休愚に目を付け、彼を小田原藩の復興事業に取り立てる。休愚はまず談合を廃し、公平な入札を行う。その結果、地元の事情に詳しい業者が今までよりも安い費用で工事を受け持つことになった。彼は川の流れを元に戻すと共に、弁慶枠と呼ばれる木枠を川の流れに接地し、川の流れを弱める。これで洪水は防げると思われた。しかし今度は下流に大量の火山灰が蓄積し、豪雨で下流の堤防が決壊してしまった。そこで休愚は下流の堤防工事も行うことになる。
こうして堤防は完備されたが、今度はその維持管理の負担について住民達の間で対立が深まる。休愚はこれを仲裁して負担が公平になるように配慮すると共に、吉宗から与えられた資金によって祭りを開催、住民の間のわだかまりを解いていく。
吉宗は休愚の実績を認め、彼を大寒に取り立てる。しかしその直後、彼は病に倒れてこの世を去る。休愚の事業は娘婿の蓑笠之助に引き継がれることとなった。彼は火山灰で覆われた小田原で栽培できる作物として、サツマイモを農民達に紹介する。サツマイモは当時、青木昆陽によって関東に普及し始めたばかりの作物だった。こうして村々は復興に向かう。
しかしその矢先、再び酒匂川が反乱、休愚が築いた堤防も決壊してしまう。笠之助は本格的な堤防の建設が必要と幕府に申し出、吉宗も翌日に工事の許可と資金を保証するという異例の早さの対応をする。笠之助は城の石垣に使用された石積みの技術を堤防に応用、強固な堤防を建設する。住民もこぞって工事に協力、堤防完成後は酒匂川の反乱は目に見えて減少する。それと共に住民も村に戻って来、幕府も小田原藩に土地を徐々に返還していく。こうして復興はなされたのだった。
うーん、やっぱり吉宗という人物は指導者としてはなかなか優秀だったと言うことか。それにしても江戸時代でさえ災害復興に国が主導的に取り組んでいるというのに、今の政府は「自助努力」の名の下に被災者を切り捨てたのだから、どっちの時代の方が進んでいるんやら・・・。工事の入札を行ったら、奉行と癒着している大手商人ばかりが受注して、彼らは工事は手抜きして費用の一部を接待(つまりは政治家へのキックバック)に回していたと言うのは、これまた現代と全く変わらない図式。だから今でも、このような不正の財源のためのガソリンの暫定税率を死守しようと自公が悪巧みしているのだが。
1/23 その時、歴史が動いた「都会の地下に夢をもとめて〜地下鉄の父・早川徳治〜」
今回の主人公は日本で初めて地下鉄を建設した早川徳治。彼は元々は政治家を目指して後藤新平の書生となっていたが、後藤が鉄道院総裁の任にあったことから、彼は今後の国家にとって鉄道が重要だと考え、いきなり新橋駅での切符切りから始めたという。彼の現場主義はこの頃から徹底していた。
1914年、早川はイギリスに自費で留学し、現地の地下鉄などを調査する。そしてグラスゴーの地下鉄が乗車人数を制限して、ゆとりを重視しているのを見てショックを受ける。当時の東京は路面電車がすし詰めで走っている状況で、ゆとりなどとても考えられなかったからだとのこと。
帰国した彼は、早速地下鉄の構想実現のために動き始める。しかし東京で地下鉄を建設するという話は当時の人々にはあまりに突飛すぎ、彼は山師扱いされたという。しかし彼は諦めず、独自に交通量調査を実施したり、地質のデータを入手したりして地下鉄建設のための出資を募って回った。ようやく彼の努力が実り、大物実業家の出資が決まり、1919年に地下鉄建設の許可が下りる。ただしこの時の許可状には「東京市が買収する時にはこれを拒めない」との記述があったという。東京市自身も、地下鉄が事業として成り立つならそれを取り込む思惑があったのだという。
工事は難航を極めたが、早川はくじけそうになる現場の技師達を鼓舞しながら工事を続け、ついに1927年に上野−浅草間の地下鉄が開通する。この地下鉄は当初は評判を呼ぶが、やがては乗客数が低迷し始める。そこで彼は路線延長の勝負に出る。この時に建設資金を捻出するため、百貨店の前に駅を作って建設費を百貨店に出資してもらうという方法をとる。こうして路線は新橋まで延びる。都心の百貨店と直結する地下鉄は新たなの人の流れを生み出し、東京の新しいモードを発信することになる。
しかし早川も予想していなかった事態が発生する。地下鉄が事業として旨味があると感じた事業者が、続々と路線を建設し始めたのだった。また次々と鉄道会社を手に入れていた五島慶太が新橋に路線を延ばし、早川に直通運転を申し入れてくるが、早川は地下鉄に対する考え方の違いからそれを拒否する。早川は地下鉄にゆとりを望んで、施設面に先行投資をしていたが、五島はあくまで合理主義的にコストを切りつめるタイプで、思想として水と油だったらしい。
両者の争いは続いたが、そこに思わぬ介入が発生する。鉄道省が地下鉄を国家の管理下に置く姿勢を打ち出したのだった。そして早川と五島の対立を格好の口実にする。そして早川は鉄道省から辞任を迫られることになり、結局は1941年に鉄道事業の一切から手を引かされる。この時に地下鉄はすべて営団に譲渡されることになったのだという。ちなみに早川はその翌年に病死している。
えげつなと感じる結果だが、当時は国が戦争絡みもあって鉄道を国家の元に集約していた時期で(地下鉄だけでなく、路線鉄道がすべて国鉄に統合されていた)、その流れに早川も巻き込まれたということ。その後、地下鉄は公的機関によって運営されることになったが、残念ながら現在の東京地下鉄を見れば分かるように、早川が目指した「ゆとり」とは対局の姿になっている。
先週に予告を聞いた時には、今回はプロジェクトXになるんだろうかと思っていたが、予想に反してプロジェクト×(バツ)だった。実際、あの番組に登場した人たちも、必ずしも全員が報われた人ばかりではないんだが。
12/19 その時、歴史が動いた「対馬藩・決死の国書すり替え〜朝鮮通信使秘話〜」
日本と朝鮮半島の中間に位置する対馬は、昔から日本と朝鮮半島の貿易の中継地となっていた。山がちでろくに耕作地もない対馬ではそれが生命線でもある。
戦国時代、この対馬の当主は宗義智であった。しかし豊臣秀吉の勢力が拡大したことが対馬にとっての災厄をもたらす。秀吉に臣従することになった宗氏だが、秀吉は朝鮮侵略の意志を示し、宗義智に先鋒を務めるように命ずる。日本と朝鮮が交戦状態になると対馬にとっては死活問題である。義智はなんとか秀吉をなだめようと、朝鮮国王に願い出て通信使を派遣するように願い出るが、その使者を秀吉は朝鮮からの降伏の使者だと思い、明国を攻める時に朝鮮にも兵を送るように命じる。
明を宗主国にしていた朝鮮が飲めるはずのない条件だった。こうして朝鮮との関係は決裂、秀吉は朝鮮に軍を派遣、義智も小西行長と共に前線に送られる。当初は破竹の進撃をする日本軍だが、明が援軍として参戦する頃から敗勢に陥る。勝ち目のないことを感じた義智は、明に偽造の秀吉の降伏文書を送って講和に持ち込む。明は日本に使者を送り、秀吉はこれを降伏の使者だと思いこむが、やがて使者の真の意図が判明、烈火のごとく怒った秀吉によって二回目の軍の派遣が行われる。多くの犠牲者を出した戦いだが、またも日本軍は劣勢に陥る。やがて秀吉が死去、日本軍は撤退となり義智は帰国するが、眼にしたのは荒れ果てた対馬の姿だった。
対馬再興のために早急に朝鮮との国交再開の必要性を感じる義智だが、秀吉と代わって権力を掌握した家康は、自分は朝鮮出兵へは無関係の態度を示しており、朝鮮側が求める謝罪文書を送る可能性はなかった。そこで義智は再び国書を偽造する。それに対して朝鮮が返礼の使者を送ってくる。しかし使節が持参した国書の内容を知った義智は慌てる。朝鮮側の国書は、先の謝罪文書に対する返答の形になっていた。そこで義智は朝鮮国王の国書も偽造、使者が将軍と会見するまさにその日にようやくすり替えに成功する。
こうして日本と朝鮮の国交回復はなり、その後、朝鮮からは11回の通信使が送られることになる。
中継貿易で成り立っていた対馬の宗氏は、昔から日朝の窓口のような役を果たしていたが、その頃から国書の偽造は日常茶飯だったようです。つまりは双方の面目が立つように取りはからって、国交がうまく続くように細工していたということ。したたかでもあるが、貿易に頼らざるを得ない小国の悲哀をも秘めているわけである。朝鮮半島や大陸と緊張関係になった場合、一番災厄を蒙るのは常に対馬であり、実際に元寇の時には日本本土に先立って対馬が攻められ、多くの犠牲者を出している。そのような地であれば、国際関係に敏感になるのはある意味当然。これは日本の本土の人間よりも、多くのアメリカ基地を抱える沖縄の者の方が戦争につながる動きに敏感なのと同じである。
12/12 その時、歴史が動いた「天下に旗をあげよ〜伊達政宗・ヨーロッパに賭けた夢〜」
遅れてきた戦国大名などとも言われる伊達政宗だが、彼が東北で覇を唱え始めた頃には、不幸にも秀吉の力が強大化していた。秀吉に対抗することがかなわず臣従する政宗だが、その結果として国替えで領地を失うことになる。
しかしその異封先でも彼は金山や鉄の開発で国力を着実に上げていった。なおその影にはキリシタン勢力の存在もあったという。彼はキリシタン達の技術力を使って、鉄の生産力などを上げていたのだという。
徳川幕府の時代になっても政宗は天下取りへの野望を棄てていなかった。そんな政宗を警戒して、幕府は何度も江戸城の普請を課すなどで経済力の疲弊を狙う。これに対して政宗はスペインと国交を開いて貿易することで利益を上げることを考えて使節を送る。さらには国内のキリシタン勢力と手を結んで幕府を倒すことも考えていたという。彼がその使節に選んだのが、古くからの家臣である支倉常長だった。
スペインに到着した支倉常長だが、スペイン国王との交渉は不調に終わる。既にスペインには幕府がキリシタンを弾圧していることが伝わっていたのだという。支倉はさらにローマ法王による調停を狙って法王と会見するが、やはりこれも不調に終わる。
一方、その頃政宗にも危機が迫っていた。家康が倒れ、幕府内で政宗が謀反を目論んでいるとの噂が持ち上がっていた。政宗は動きをとれず支倉らの帰りを待つしかなかった。1620年、支倉ら使節団一行が帰国する。しかしその報告は政宗を落胆させるものだった。ここで政宗は天下取りを諦め、領内においてもキリスト教禁止に踏み切る。幕府への恭順の姿勢を示したのだった。
政宗が一発大逆転を狙って失敗したと言う話。まあスペインと手を結んで幕府をひっくり返したとしても、その後の日本画どうなったかは怪しいものですから(スペインの植民地にされる可能性もある)、これは良かったのか悪かったのかは分かりません。政宗は最後まで天下を狙ってあの手この手を打っていたようですが、結局はすべて空振りに終わったようです。よく言われるように、彼は産まれてくるのが10年以上遅すぎたんですね。
11/28 その時、歴史が動いた「緒方洪庵・天然痘との闘い」
幕末の日本。その頃、猛威を振るっていた病気が天然痘だった。当時の日本では天然痘の効果的治療法はなく、また死亡率も高かった。この天然痘に立ち向かったのが医師としても教育者としても有名な緒方洪庵である。
緒方洪庵は自身が子供の頃に天然痘を患ったせいで、病弱になって武士としては不適で医師を選んだということがあり、天然痘に治療に対する意志が強かったという。
蘭学を学んでいた洪庵は、天然痘の予防法である牛痘法を既に書物で知っていた。しかし肝心の牛痘ワクチンが日本にないために、それを施すことが出来なかった。そのため、頼まれて危険な人痘法を施した結果、患者が発病して死亡してしまったという苦い経験もあるという。
そんな洪庵に転機が訪れたのは1849年、天然痘に対処するために佐賀の大名が牛痘ワクチンを入手したのである。洪庵は京に行くと、そのワクチンを分けてもらう(分苗)。なおこの頃のワクチンの分け方は、子供の腕で培養してそこからかさぶたなどを取って別の人に植えるという方法らしい。牛痘ワクチンを入手した洪庵は除痘庵という施設を開設し、そこで天然痘予防のための活動を同志と始める。
しかしこの活動が軌道に乗らない。当時の人々は「牛痘を接種すると牛になる」などという迷信に支配され、除痘庵に近づかなかったのだという。ワクチンが保存できるのは一週間ほどで、その間に次の患者に植えていく必要があるのだから、患者が来ないことはワクチンがなくなってしまうことを意味する。洪庵はやむなく貧乏人に米などを与えて、その代わりにワクチンを打たせてもらうということまで行うが、そのことは除洪庵の資金繰りを急激に悪化させることにもつながり、彼の元から多くの同志が離れていってしまう。
危機に瀕した洪庵だが、時代の方が動き始める。ペリーの来航による鎖国の崩壊などで、世の中の価値観が変化し始めたのである。洪庵は除痘庵を公の組織として認めてもらえるように幕府に働きかけると共に、地方の医師にワクチンを分苗する活動を続け、牛痘法の普及に努める。
そのような努力の甲斐あって、ようやく牛痘法が世間に認められ始める。すると今度は別の問題が発生する。牛痘法が評判になったことから、怪しげな医師が牛痘法を装ってインチキな薬品を接種する例が増加してくるのである。このままではせっかくの牛痘法に対する信頼までが崩れかねない。洪庵はこのようなインチキを防止するためには、除痘庵を公の組織として認めてもらうことによる権威付けが必要だと考え、さらに幕府に働きかける。
そして1858年、ついに除痘庵は幕府公認の施設となり、牛痘法の推奨を始めるのである。
緒方洪庵と言えば適塾が有名で、ここで学んだ生徒の多くが明治維新で活躍することになるのだが、当の洪庵自身は倒幕などの意志は全くなく、あくまで医師としての活動がメインであったわけである。
なお「牛痘を接種すると牛になる」なんて馬鹿な迷信に惑わされた当時の人々を笑うのは簡単だが、現代人だって実はあまり偉そうなことを言えたものではない。今でも「マイナスイオンは身体に良い」とかのあからさまなインチキに踊らされている輩は多いわけだから・・・。
11/21 その時、歴史が動いた「継体天皇ヤマトを救う」
今年は継体天皇即位1500年だそうで、その関連でのテーマの模様。
さて、時は6世紀。ヤマト政権では求心力が衰えて戦乱が続いていた。506年、跡継ぎのいない武烈天皇が崩御したことで後継問題で大和朝廷は混乱する。政治の実権を握っていた大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が協議し、後継の天皇として白羽の矢を立てたのが、越前を治めていた男大迹王(をほどおう)だった。越前の国を治める彼は朝鮮ともパイプがあった上に、鉄の産地であった近江地方へも影響力があったことが決め手になったとのこと。
しかし男大迹王は慎重だった。豪族の中に自分の天皇即位に反対する者がいるとして即位の辞退を告げてきた。そこで慌てた大伴金村と物部麁鹿火が中心となって豪族達の意見をとりまとめる。そのような状況を調べていた男大迹王は、それを見て天皇即位を決定する(つまりはなかなかの策士なのである)。
天皇に即位した男大迹王は継体天皇となる。しかし彼はヤマトに入らず淀川流域を転々としていたという。これは彼が百済との結びつきを重視しており、水路で朝鮮半島とつながっていた淀川流域を重視していた現れだとのこと。また彼は国造りのための政治制度を先進国である朝鮮半島から仕入れることで国内の基盤を強化する。
しかし朝鮮半島に異変が発生する。百済にとってライバル国である新羅が加耶に進出、百済にも脅威が迫ってきたのである。これを聞いた継体天皇は百済に援軍を送ることにする。だがこの軍勢が北九州で妨害される。この地域を治めていた豪族の磐井が周辺の豪族を率いて反乱したのだった。そして彼らの背後には新羅の存在があった。
この戦いは継体天皇にとってまさにヤマト政権の命運をかけた戦いとなる。しかしなんとか勝利を収め、継体天皇は国内の基盤の強化に成功する。
と言う話なのだが、何しろこの辺りの古代史は史実と伝説が入り交じっている時代なので、諸説紛々であるような気もしないではない。それに教科書などでは「磐井の反乱」という言い方をされるが、そもそもこの時代の九州豪族がヤマト政権に従っていたかも怪しく。現実はヤマト政権対九州政権の国際戦争に近かったような気がする。もしかしたら、継体天皇の援軍派遣なるもの自体が、そもそもそれに名を借りた九州遠征だった可能性もあるのではないかという気もしないでもない。
なお九州については邪馬台国九州説なども含めて、まだまだ古代史で謎の部分も多く、今後のさらなる研究も待たれるところ。実際私自身も、ヤマト政権と九州と出雲のそれぞれの関わりがどうもよく分からない。そもそもはいずれも独立した政権だったように思われるのだが(邪馬台国が九州から大和に移ったという説もあるようだが)。
10/17 その時、歴史が動いた「義に死すとも不義に生きず〜会津戦争 松平容保 悲運の決断〜」
幕末、京ではテロが頻発して治安が悪化していた。そんな時に京都守護職に任命されたのが松平容保である。藩士には経済的負担の大きさを懸念する声もあったが、彼は徳川家のために尽くすのが使命と京に赴任、治安の回復に努める。また禁門の変での長州軍の撃退などに活躍、その甲斐あって京の治安は沈静化し、容保は孝明天皇からの信任も厚くなる。
しかし比較的徳川家に理解のあった孝明天皇が没して情勢は変化する。薩摩は朝廷を抱き込んで新政府を樹立、容保は徳川慶喜と共に鳥羽伏見で薩長と戦うことになる。兵力的には優勢だった幕府軍だが、薩長側が錦の御旗を掲げたことで幕府側が動揺、総崩れとなってしまう。徹底抗戦を主張した容保を押さえて、慶喜は江戸へと撤退してしまう。
その後、新政府軍は江戸へ迫り慶喜は恭順の意を示す。しかし容保は逆賊としての汚名を着せられる羽目になる。彼は朝廷ばかりか、徳川に対しても逆賊扱いされることになる。この事態を受け、容保の会津は藩の名誉をかけて戦うことになる。この時に新政府の使者に対して会津の藩士が述べた言葉が「たとえ義をもって倒れようとも、不義をもって生きず」だという。会津は評価は後世に託すと戦いの道を選ぶことになる。
しかしそれは壮絶なものになる。会津に同情して東北の多くの藩が協力するが、新兵器を誇る新政府軍の前に敗北、会津は包囲されることになる。会津藩は籠城するが、その時に足手まといになることを避けて多くの女性や老人は自害したという。また白虎隊の悲劇があったのもこの時である。そして食糧の備蓄も乏しい中、会津藩士は徹底抗戦をするが、ついに容保の「これ以上藩士や家族に塗炭の苦しみを与えるのに忍びない」という意志により、降伏することになる。
新政府側は何が何でも会津藩を武力で潰すつもりだったので、こうなることは避けられなかったように思われる。それは会津が旧幕府勢力の中では一番の軍事力を持っていたことと、容保が京都守護職の時の取り締まりなどで長州藩からかなり恨みを買っていたことなども大きいだろう。
この後、会津藩士は多くが蝦夷地に流れることとなって、これが薩摩と会津の遺恨につながっていくわけである。悲しい歴史だ。容保は筋を通したわけだが、それが結果として良いか悪いかなんて、後世でも判断のしようがない。ただ個人的見解としては、負けるのが分かっている戦争をするのは、単なるナルシシズムにしか思えないのだが。
10/10 その時、歴史が動いた「賤ヶ岳に散った夢〜猛将・柴田勝家の悲劇〜」
本能寺で信長が明智光秀に討たれた後、信長家臣団の有力者であった秀吉と勝家が対立することとなる。そしてこの両者が雌雄を決することとなったのが賤ヶ岳の闘いである。今回はその柴田勝家が主人公。
信長亡き後、勝家は家老の合議制で織田家を運営することを考えていた。これに対して、秀吉は信長の後継者にたった3才の三法師を後継者に推し、自分がその後見として織田家を差配する野心をむき出しにする。
結局、この両者の溝は埋まるはずもなく、ついには正面衝突することになる。まず先手をとったのは秀吉。勝家が越前北の庄で雪に閉ざされて動けないうちに、長浜城や岐阜城を落とす。これに対し勝家は、2月末頃、ついに大軍3万を仕立て、まだ雪の残る北国街道を南下する。
これに対する秀吉の柵は、土塁を築いた上での持久戦だった。これに対して勝家は短期戦を目指していたが、秀吉の堅固な土塁を抜けずにいた。しかし勝家にも勝算がないわけではなかった。勝家は岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益、さらには長宗我部や毛利にまで働きかけ、反秀吉包囲網を形成しようとしていた。
そしてこれが功を奏する。滝川一益と織田信孝が動いたことで、秀吉が軍勢の一部を割いてそちらに当たらざるを得なくなるのである。この時に勝家側の佐久間盛政は秀吉側の砦の奇襲を進言、勝家もそれを認める。佐久間盛政は夜明けと共に奇襲をかけ、秀吉側の砦を二つ落とし、勝家に総攻撃を進言する書状を送る。
しかし勝家は盛政に撤退を支持する。秀吉の軍勢の移動の素早さを警戒したのだった。現に、勝利したとはいえ盛政の軍勢は敵中に孤立しているに等しかった。そして勝家の懸念が的中する。秀吉が直ちに軍を引き返してきたのだった。盛政は撤退をしつつ秀吉の軍勢に当たることになる。鍵を握るのは盛政の背後を守る形の前田利家軍。しかし前田利家は秀吉有利とみて無断で戦線を離脱してしまう。こうして盛政軍は敗退、柴田軍は全軍敗走となってしまう。
こうして秀吉の天下が定まることとなる。北の庄に敗走した勝家は、秀吉軍に包囲され自刃して果てる。
内容的には以上のようなところ、特別に新しいことも珍しいことも何もない。最近になって発見された勝家側の資料が追加されたぐらいのもの。観点としては、勝家は無骨一辺倒の人間ではなく、器量としても秀吉に劣るものではなかったという観点。それはその通りだろう。ただ事前の根回しその他で、秀吉の方が一枚上手だったのは間違いない。
それと柴田勝家にとっての不幸は、信長の息子達が揃いも揃ってボンクラだったということ。彼らがもう少し器量があれば、勝家もそれを盛り立てて秀吉に対抗するすべもあったのだが・・・・。
10/3 歴史ドキュメント01「グルメ誕生〜北大路魯山人と器〜」
今回は特番。本来は1ヶ月以上前に放送される予定だったのだが、安倍内閣のドタバタで番組が吹っ飛んでしまったといういきさつがあり、ようやく今回放送にこぎつけたようである。テーマは魯山人。
後の魯山人こと房次郎は養子先を転々とする不幸な少年時代を送っていた。しかし4軒目の養子先で彼に転機が訪れる。彼は自分の味覚の鋭さに気づき、料理で養父を喜ばせられることが分かったのである。これが彼と料理の出会いだった。
20才で東京に出た彼は書道家の岡本可亭の元に身を寄せる。彼はその料理の腕を活かし、まかない料理で可亭の心をつかんだのだという。彼は2年の修行で書家として名を上げ、食うには困らない程度に稼げるようになった。この頃から食道楽を極めたいと思った彼は全国を回っていろいろな料理に触れるようになる。
彼は北陸の金沢で風流人として知られる細野燕臺と知り合い、細野が設けた一席で優れた器に盛られた料理は、同じ味付けでもさらに美味しくなることに気づく。これが彼と器の出会いだった。
彼は東京で古美術店を始め、一級の器に料理を盛って振る舞うようになり、これが評判となる。このことで彼は自らが理想とする料亭を建てることを考える。また彼が魯山人と名乗り始めたのもこの頃だという。
しかし料亭を作るとなったら器が不足していた。やむなく彼は、古代の名品を真似た絵付けを自ら行った器を用意する。そして彼は料理人を集め、材料も一級品を産地直送で集める。そうして彼の料亭である星岡茶寮が開業する。
星岡茶寮は評判を呼ぶ。しかしやがて「魯山人の器は所詮間に合わせの模造品」という批判が起こる。料理のレベルが高かっただけに、器のアラが目立ってきたのだ。上絵だけをつけて、自分の銘をつけた器を作ってきたことを恥じた彼は、本格的に器の製造を始めることを決意、鎌倉に自らの窯を開き、一流の陶工を集めて研究に励む。彼は研究のために料亭の売り上げを湯水のようにつぎ込み、名品を買い集めた。また苛立つ彼は勤め人ともトラブルが増える。
やがて彼は、器の原点は自然にあるということに気づくが、その頃に星岡茶寮を解雇され(経営は彼以外の者がしていた)、日中戦争の勃発で職人も戦争に狩り出される。一人になった彼は創作に励み、彼独自の備前焼に行き着く。そうして彼の器の世界が開花する。
今回は特番形式であるが、恐らく「その時、歴史が動いた」がかなり長い放送になりマンネリ化の気配が出ていることから、次の歴史番組の形態を模索しての試行だと思われる。だが、正直なところこれは失敗である。はっきり言って面白くない。
確かに魯山人というネタの選択のまずさもあるが、番組の作り方に問題が大きい。今回を一見しての印象は「美の壷みたいだな」というもの。しかし美の壷は美術品の鑑賞の仕方などのポイントの紹介が情報として面白いが、この番組はそこまで踏み込んでいるわけではない。かといって歴史番組としてはあまりにドラマがないし、考えさせる部分もない。何よりも、世の中との関わり合いが登場せずに魯山人を追っているだけだから、歴史番組ではなくてまるで「プロフェッショナル」か何かみたいである。
また竹中直人をわざわざ起用しているにもかかわらず、その意味が全くない。大体、最後の部分の竹中直人が懐石料理を食べているだけの展開は、番組としても退屈至極でだれてしまうだけ。
つまりは所詮は美術番組ではないし、かといって歴史番組としてもしまらないという中途半端な内容になってしまった。はっきり言ってこれなら、以前に何回かやった「歴史の選択」シリーズの方がまだ良い(双方向は絶対に不要だが)。
歴史の原点を探るという番組コンセプト自体は悪くないと思うのだが、どうもできあがった番組がイマイチ。ネタを再吟味してリターンマッチをしてもらいたいところ。歴史番組を名乗るなら、事件もしくは人物の社会との関わりは不可欠である。中途半端にいろいろな番組の要素(美術番組、グルメ番組、人間ドキュメント)を取り込むのではなく、歴史番組としての核を明確化しておく必要があるだろう。
9/26 その時、歴史が動いた「日中国交正常化」
300回記念に記念になると言う今回のテーマは、日中国交正常化。昭和49年9月29日に日中共同声明が調印され、日中関係の正常化がなされることになったが、その舞台裏について解説。
日中国交正常化に動いたのは田中角栄であるが、当時の日本は台湾政府と国交を行っており、中国とは国交がなかった。日本は台湾政府と日華平和条約を締結して、これによって中国との講和はすんだという姿勢をとっていた。しかし田中は中国との貿易が増加していることに注目し、中国との今後の経済関係を強める必要性を感じ、それから中国との国交正常化を目指していた。
そして社会情勢も変化する。1971年、アメリカのニクソン大統領が中国訪問を発表。ベトナム戦争が泥沼化していたアメリカは、ベトナム政府の後ろ盾である中国と交渉することによって事態の打開を狙っていた。この流れを受けて、田中は本格的に中国との国交正常化に乗り出す。そして佐藤内閣退陣後の総裁選挙において、親台湾派の福田赳夫を破って総理に就任する。
しかし中国との交渉に入った田中の前に問題が発生する。周恩来との交渉に入った田中だが、まず最初に対立したのは歴史認識問題だった。田中がかつての日本の行為について「多大なご迷惑」という表現をしたことに中国側が反発する。中国側の主張は「迷惑」という言葉は軽すぎると言うものだった(中国側の認識では、迷惑とは道で水をかけてしまったなどのレベル)。これに対して田中は、日本においては迷惑という言葉は誠心誠意のお詫びにも使う言葉だと説明して、なんとか理解を得る。
だがより本質的な問題になったのは台湾の問題だった。日本が中国との講和は日華平和条約で解決済みとすることが、中国は1つであることを主張している中国政府にとっては認められないことだった。これで交渉は暗礁に乗り上げる。外務スタッフの深夜に及ぶ議論の結果出てきた案は、今までの日中間の関係について「不自然な関係」と表現して、その点については曖昧にするという案であった。この案を外務大臣の大平正芳が中国側に提示した時、中国からはすぐの回答は得られなかった。しかしその後、田中が毛沢東に呼び出され、そこで中国側が日本の提案を飲むという意志が示される。こうして日中国交正常化が実現する。
以前に石橋湛山の話があったが、その後編のような内容。また田中が総裁選で勝利したのが、今度総理に就任した福田康夫の父である福田赳夫というのが象徴的なんだろう。
なおこの時に日中国交正常化が実現した最大の理由が、日中双方共に両国の関係が重要であるという認識があったからであり、結局はそれがその後も続いているわけである。ただその認識の背後には、経済的関係だけでなく、ソ連の存在も大きかった。だからソ連崩壊と共に、日中関係が微妙になってきたりしている。またこの時には曖昧に終わられた台湾についても、その後に存在感が大きくなってきて無視するわけにも行かなくなって来たりしている。日中関係は今や問題山積みでもある。
9/19 その時、歴史が動いた「赤ちゃんを死なせない〜乳児死亡率ゼロ・ある村の記録」
昭和30年代、「もはや戦後ではない」という言葉に見られるように、都市部では繁栄の始まっていたこの時代、地方では未だに立ち後れが目立っていた。岩手県の沢内村では乳児の死亡率が高く、全国でも最悪の岩手県の中でもその平均死亡率以上という惨状だった。ここで立ち上がったのが村長の深沢晟雄だった。彼は「月にロケットが飛ぶ時代に赤ちゃんがコロコロ死ぬなど許せない」と乳児死亡率ゼロを目指して活動を開始する。その深沢を扱ったのが今回。
台湾などで実業家として活動していた深沢は、終戦を海外で迎えて志半ばで故郷の村に帰ってくる。しかし彼がそこで見たのは昔と変わらない村の惨状だった。多くの乳児が死亡していた。
昭和32年、村長に就任した深沢は村の赤ちゃんの命を救うための活動を開始する。しかしその彼の前に雪が立ちふさがる。豪雪地帯の沢内村では冬は雪に閉ざされ、病院に行くこともままならなかったのである。しかし除雪のためのブルドーザは県に二台しかなく、深沢の構想は村民には夢物語のように思われた。必死でブルドーザを探す深沢、そこに朗報が届く。彼の熱意を聞きつけた建設機械会社が最新型のブルドーザを貸してくれたのだ。その効果は絶大で、村人は病院に通うことが出来るようになる。この一件が村人の心に希望を持たせることになった。
深沢はさらに定期的な乳児検診を実施、その結果、子供達の発育不良やくる病の多さなどが明らかになる。適切な育児が行われていない証拠だった。また診療所の医師にも問題があった。耳が遠く聴診器も使えない医師、攻撃的で性格に問題のある医師、果ては薬物中毒の医師までがいた。深沢は東北大学に医師の派遣を要請するが「地方に派遣すれば医師の技量が落ちる」と反対される。しかし深沢は大学に通い続け、ついに医師の派遣の承諾を得る。
また深沢は母親達の意識改革のために保健婦達が中心となった教育を行う。しかしここにも壁が立ちはだかる。家庭で育児を差配していた姑達だった。「子供は放って置いても育つ」という考えを持つ彼女たちが育児改革の妨げとなっていた。そこで深沢は姑達の意識を改革するため、部下の提案で「おばあちゃん努力賞」を導入する。虚弱児を立派に育てた姑に贈る賞である。この構想は功を奏し、姑達の意識が改革されていく。そして乳児死亡率は低下に向かう。さらに予防医療に力を入れるため、病院に保健婦を常駐させる。このことにより、医師は乳児の発育状況などの情報を把握し、適切な医療を行えるようになる。
しかしまだ問題があった。病院にかかることは「かまど返し」と言われ、財産をなくす大きな出費だと考えられていた。これを解決するために深沢は医療費の無料化を打ち出す。国民健康保険で定められた半額分の自己負担を村が肩代わりするのである。しかしこれには県から法律違反だとの待ったがかかる。しかし深沢は「憲法が保障している健康で文化的な最低の生活すらできない国民がたくさんいる。訴えるなら最高裁まで争う。」とこれを一蹴する。またこれは村の条例にも反することであった。しかし村長の強い意志を前にして、村議会も沈黙する。こうして全国に先駆けて、乳児医療の無料化が行われる。これによって村の赤ちゃんのすべてが病院にかかれるようになる。そして昭和38年1月1日。ついに乳児死亡率ゼロが実現される。
すごい人だなとしか言いようがない。彼は「国のやり方だと不十分だ」とその先を行って、そして実績を上げたわけである。またうまいなと感心したのは「おばあちゃん努力賞」。今だとこういう時には「賞金でも出すか」になって、その財源はどうするんだという話になるのだが、戦前教育を受けている姑の世代は「役所から表彰される」という名誉に弱いわけで、その性質を見事についている。彼がすごいのは、往々にして高邁な理想を持つ政治家は、それの実行の段階の具体策でこけるんだが、彼は実現性のあるプランを掲げる能力やそれをサポートする部下を持っていると言うこと。この辺りは良い意味で実業家上がりなんだろう(悪い実業家上がりは、言うまでもないが金に汚い)。
彼は国よりも先を行っていたんだが、情けないことに国は医療についてさらにレベルを落とそうとしている。何しろおよそ先進国とは言えない最悪の制度と言われているアメリカの医療制度をモデルにしようとしているんだから。なおアメリカの医療制度がどのようにとんでもないかは、マイケル・ムーア監督の「シッコ」を見ればよく分かるので一見をお勧めする。
なおあの映画について世間で誤解されている点について言っておくと、アメリカは国民健康保険がないので、個人が保険会社と医療保険を契約している。だから底辺の貧乏人はこのような医療保険の契約が出来ないせいで病院にかかることが出来ない。しかしこの映画が扱っているのはそういう人たちのことではなく、普通に医療保険に加入しているにもかかわらず、保険会社がなんだかんだと理由をつけて保険を支払わないせいで命を落としている人がいるということ。保険会社には申請者に対して因縁をつけて保険金請求を却下するための専門家がおり、契約している医師は請求の却下率が高いほどボーナスが出るようになっているということ。で、現実に、ガンで手術を受けたら「あなたの年齢ではそのガンにはかからない」と文句をつけられて医療保険がおりなかったり、本人も知らなかった細かい病気を調べてきて「告知義務違反があったから契約は解除」なんて言われている例が続出しているということを扱っているのである。日本でも保険会社の不払いがつい最近に事件になったところであり、アメリカ型の制度なんかが導入されたらどうなるかは、容易に想像がつくのであるが。
9/12 その時、歴史が動いた「外交の信念 時流に散る〜宰相・廣田弘毅の闘い〜」
今回の主人公は、第二次大戦当時の外務大臣で、東京裁判において唯一文官として死刑になった人物である。
外交官であった廣田弘毅は、日本は中国に手を付けるべきでないという信念を持っていた。と言うのも、当時の中国では列強の権益が絡み合っており、そこに進出していくことは列強との対立が不可避だったからである。
しかし時代は廣田が望んだとは全く逆の方向に向かう、満州事変が勃発、軍部は中国への軍事侵略を進め、満州国が建国される。そんな頃に廣田は外務大臣に起用される。彼は軍部の独走を掣肘することを期待されていた。この時、廣田は軍部を抑えて外交交渉に奔走し「私の在任中に戦争はない」と断言、彼は日本を外交手動にする共和外交を目指していた。
しかし中国を勢力下におくことを画策していた軍部はさらに暴走する。統帥権を振りかざし、外交の介入を排除したのである。当時の日本の憲法では軍の統帥権は天皇に属するという欠陥があったので、それを悪用したわけである。こうしてまさに「何とかに刃物」の状態になった軍部は手の付けられない状況になる。さらに狂犬化した軍部は、二二六事件で実力行使にまで及ぶ。
この頃に廣田は総理大臣に就任する。軍部を抑えることを期待して起用された廣田だが、もう既に彼にはその力も気力も亡くなっており、軍からの要求に唯々諾々と従うだけだった。そして間もなく廣田内閣は総辞職となる。そして日本は責任者不在の無責任体質のまま、戦争へと突入していく。
暴走する軍部はさらに廬溝橋事件をでっち上げて中国軍と衝突、戦火は際限なく拡大していく。この時の廣田は近衛内閣の外務大臣として入閣していた。彼は再び外交交渉での解決を目指すが、閣議は一方的に軍部主導で決してしまう。戦火が拡大する中、廣田に一度だけチャンスが訪れる。天皇が「もうこの辺で外交交渉によって問題を解決してはどうか」と発言したのだった。この言を受けて廣田は中国政府も飲める条件の和平条件をまとめ交渉に臨もうとする。しかし状況が一変する。南京が陥落し、日本の先勝で国中が浮かれた状態になってしまい、もはや交渉の余地がなくなってしまうのである。廣田の用意した和平案も、閣議において中国政府が到底飲むことはできない条件に改められてしまう。そしてついに日本政府は「中国の国民政府を相手にせず」の宣言を発し、全面戦争に突入してしまうのである。
戦後、廣田は東京裁判において死刑判決を受ける。廣田自身は軍国主義者ではないが、結果として戦争を傍観したというものであった。廣田はそれに反論することなく刑に処される(戦争を主導した軍部の連中は、あの手この手で見苦しく延命を図ったのであるが)。そこには諦めとも反省ともが入り交じった心境があったのではないか。
軍部の暴走を抑えきれなかった悲運の外務大臣の末路です。しかしあの時代の狂犬化した軍部を果たして誰が抑えられたかは難しい。こういうことがあるから、軍部の暴走を防ぐ装置としてシビリアンコントロールと言うことが戦後に重視されたのである。それにもかかわらず、それをはずそうとしている馬鹿が今の時代にもいるようだが。
9/5 その時、歴史が動いた「引き裂かれた村〜日米戦の舞台・フィリピン〜」
大国に翻弄され続けてきたフィリピンだが、第二次大戦では日米の間で翻弄され、フィリピン同士で頃試合をする羽目になってしまった。そのフィリピンについて。
フィリピンにアメリカが進出したのは1898年、10年の戦いの後にフィリピンはアメリカの植民地とされる。アメリカの支配下でのフィリピンでは、アメリカと結託した地主が農民の土地を奪い取る例などが相次ぎ、フィリピンでは深刻な格差が発生、貧しい農民のアメリカへの不満が高まる。そして貧困層を中心としたサクダル党がアメリカ支配に抵抗して立ち上がる(暴動発生)。しかし十分に武器も持たない彼らに対し、アメリカは銃による弾圧を行い、多くの犠牲者が出ることとなる。
そこに日本が進出してくる。日本は大東亜共栄圏を大義名分に掲げ、ハワイ真珠湾と共にフィリピンのアメリカ軍基地に攻撃をかけ、フィリピンを占領する。日本の進出に対し、これをアメリカからの独立の契機と考え、日本に協力する人々も現れる(かつての貧困層に多いと思われる)。日本はフィリピンからアメリカ色を一掃すべく、日本式の教育などを導入する。
しかし日本に好感を持つ者だけではない。特に日本が大量に軍隊を駐屯させ、その食料を現地調達にした結果、フィリピンは深刻な食糧難に陥る。そのような中で日本に対して反感を募らせる者が増えてくる(かつての富裕層に多いと思われる)。そしてフィリピン人による抗日ゲリラが結成される。抗日ゲリラは日本の現地施設や軍施設などへの攻撃をかける。日本はフィリピン人を懐柔するために1943年にフィリピンを名目上の独立国とするが、それは功を奏することはなく、日本は親日派のフィリピン人を集め、マカピリと呼ばれる対ゲリラ部隊を結成する。その結果、フィリピン人同士が争うことになる。
しかし戦局は日本にとって厳しくなってくる。フィリピンにはアメリカ軍が迫り、抗日ゲリラにはアメリカ軍から武器が渡る。そして日本軍に対するゲリラの攻撃も激化する。住民に紛れて攻撃をかけてくるゲリラを見分けるために、日本軍はマカピリによってゲリラを通報させるようにする。しかしその結果、フィリピン人同士の間で憎しみが深まることになり、ついにはマニラにアメリカ軍の攻撃が迫る中、日本軍によって住民への無差別虐殺が発生することになる(マカピリが深く関わっている)。
だが日本軍は敗北、するとマカピリは今度は抗日ゲリラの中に取り残されることになる。今度は彼らが抗日ゲリラのリンチにあうことになった。人々の憎しみを一身に受けた彼らからは多くの犠牲が出るが、その実数は未だに不明だという。
結局、フィリピンは内部に大きな憎しみを残したまま、再びアメリカの支配下で戦後の時代を送ることとなった。同国がアメリカの支配から脱する道を選ぶのは、マルコス独裁政権を倒した後になる。
日米の間で翻弄されたフィリピンの苦難の歴史についてである。なお同様のことは各地で起こっているが、先の大戦を美化したい連中は、ことさらに親日派の方だけを取り上げて「日本はアジアを開放するために戦争を行っており、それは現地民にも歓迎されていた」と主張するのだが、それが都合の良すぎる見方であるのは言うまでもない。先の大戦が日本だけが悪いのではなく、欧米などにも問題があり、結局は列強同士の植民地争奪の戦争だったというのは事実であるが、それは「日本が悪くない」という意味ではなく、「日本も悪いし、欧米も悪い」ということに尽きる。だから私は「日本だけが悪いのではない」という主張には頷くが、「日本は悪くない」という主張には「ふざけるな」と言いたくなるわけである。
なお日本はそのような愚かな侵略合戦に参加して多大な犠牲を出した反省から、戦争に荷担しないということを誓った。ほとんどすべての侵略戦争が、自国の防衛や相手国住民の保護を大義名分にしていたことから考えると当然の判断である。日本が戦争に参加しないというのは、単に自国民の犠牲を恐れた卑怯な行為ではなく、他国民に犠牲を出すことを避けるための尊い行為だと考える。そしてこのことは日本人としてもっとも世界に誇って良いことだと考えている。だからこそ、日本をアメリカの手先として再び戦争に駆り立てようとする連中に怒りを感じるわけでもある。
7/31 その時、歴史が動いた「忘れられた島の闘い〜沖縄 返還への軌跡〜」
今回のテーマは、戦中に本土の犠牲にされ、戦後もさらに本土の犠牲にされ、現在もさらに本土の犠牲にされている沖縄についてである。
戦後、沖縄はアメリカの統治の元におかれていた。アメリカは沖縄を基地として長期保有を考えていた。収容所に押し込まれた島民は配給が不足していたために餓死者を出していた。この時にアメリカ軍との交渉役を務めていたのが瀬長亀次郎だった。しかしその要求は入れらず、それだけでなくアメリカ兵による強姦事件が続発していた(アメリカ軍の得意技である)。瀬長は「戦争は終わったが、地獄は続いていた」と述べている。
昭和21年に一応民政への移行が謳われるが、実際は飾りのようなものでアメリカに統治されたままであった。瀬長は島民の人権を訴えるが、朝鮮戦争の勃発で沖縄の重要性はさらに増大、アメリカは沖縄の永久保持を意図、日本本土も沖縄を放置したまま独立をしてしまう。
昭和20年代後半になると、冷戦下でアメリカの基地が拡張され、基地のための土地収用が進み始める。これはアメリカ軍の意向でいつでもただ同然で島民の土地を収用できるという事実上の土地の強奪である。生活の基盤が破壊される島民は抵抗するが、上を手に脅しをかける米軍を前にして無力であった。
この時に運動の先頭に立ったのも、立法員(県議会に当たる)の議員になっていた瀬長だった。彼は強制収用反対を訴えるが、アメリカ軍はさらに無期限での土地収用を打ち出す。そして目障りな瀬長を、米軍が手配していた人物をかくまうのに協力したという罪で突然に逮捕する(今でもよくあることである)。瀬長の拘束は1年半にも及ぶが、その間にも米兵によって6歳の少女が誘拐暴行されて惨殺されるという事件も発生する。
瀬長は釈放後も土地収用反対の活動を続け、島ぐるみ闘争と呼ばれる大きな運動になる。そして昭和31年12月、瀬長は那覇市長選挙に立候補し、アメリカとの協調路線を訴える候補を破って当選する。
しかし早速米軍の妨害が始まる。米軍が大株主だった銀行が、突然に那覇市の預金を凍結して融資も中止したことで、市は公共事業などが不可能になる。しかしこの事態を受けて那覇市民が動いた。市民が市政を支えるべき行列を作って納税を始めたのである。また議会には瀬長を支援する市民が押しかけた。これに対してアメリカは市長の不信任が出来やすいように制度を変更し、瀬長をついに不信任で追放してしまう。
しかしこれが本土にまで伝わり、アメリカの横暴に対する懸念が表明される。また再選挙では瀬長と同様に日本復帰を訴える候補であり、沖縄の祖国復帰への動きに拍車がかかる。またアメリカのベトナム戦争から戦争反対の機運によって、本土でも沖縄の復帰を求める声が上がり始める。このような声に押されて、ついにはニクソン大統領と佐藤総理の間で昭和47年に沖縄の施政権が日本に返還されることが決められる。しかし沖縄は基地を押しつけられたままという条件付であった。
その後、瀬長は反基地闘争も続けるが、現在に及ぶも沖縄は基地は残留しており、アメリカ兵による犯罪も絶えていない。
日本人なら、アメリカの汚いやり口に自然に憤りがわき上がってくるところだが、何もこれは日本だけでの話ではなく、イラクではまさにこの状況が現在進行形で起こっている。今イラクでは、米兵による市民に対する無差別発砲や強姦などが頻発しているが、日本政府はそんな米軍の支援を続けているわけである。この現状を考えると、やはり日本はつくづくポチなのだが。
7/4 その時、歴史が動いた「冷戦の壁を破ろうとした男〜石橋湛山・世界平和への願い〜」
第一次大戦後、日本が大陸への進出を図る中、東洋経済新報の記者の石橋湛山はそれに対して冷ややかな目を向けていた。彼の主張はアジアの植民地との貿易額は9億円に対して、アメリカやイギリスとの貿易は18億円であり、日本が大陸進出を続けてアメリカやイギリスと対立すると、その18億円が犠牲になるというもので、彼は日本は平和な貿易立国を目指すべきと訴えた。しかしその後も日本は帝国主義的領土拡張を続け、ついには世界から孤立する。そして日本が戦時色を強める中、湛山は憲兵からの圧力を受ける。しかし彼は自らの主張を曲げることもペンを折ることもしなかった。そして日本の敗戦。国民が深い喪失感に沈む中、彼は「更生日本の門出 前途は実に洋々たり」と日本は平和な貿易立国として羽ばたけると主張する。
彼が政界に転身したのは、吉田茂に大蔵大臣に抜擢されたことからだった。大蔵大臣になった湛山は誰もが手を付けなかった進駐軍の経費削減に手を付ける。国家予算の1/3をも占めることになっていたこの経費に切り込んだのである。この問題に真っ向から切り込む湛山に対し、GHQはこの問題が大きくなることをおそれ、経費の2割削減を飲む。これ以来湛山は心臓大臣と呼ばれることになった。しかし昭和22年5月、湛山はGHQから突然公職追放に追い込まれる(GHQによる意趣返しとしか思えない。彼は戦争遂行に協力はしていないのだから。)。その間に朝鮮戦争の勃発、米ソの冷戦などによって日本は共産主義に対する防波堤として、西側諸国に取り込まれることとなる。
やがて湛山の公職追放は解かれたが、その頃に米ソの対立は激化し、共に水爆実験を繰り返していた。湛山はこの冷戦構造に風穴を開けない限り、世界は水爆によって滅びるということを感じる。
鳩山内閣の元で通産大臣に就任した湛山は、経済を足がかりにしたアジア外交に着手する。彼は国交のない中国と民間貿易協定締結の後押しをする。経済での結びつきから国交回復へとつなげようとしたのである。しかしこれはアメリカが反発する。あくまで「防波堤」である日本が、勝手に中国と結びつくことは彼らにとって脅威だったのである。しかし湛山はアメリカの意向を無視する。だが鳩山内閣が退陣、後継者としてアメリカ一辺倒の岸信介の名が上がるに至って、湛山は共産圏との関係改善を訴えて総裁選に出馬する。
総裁選で湛山は僅差で岸に勝利する。岸に期待していたアメリカ(岸なら良い飼い犬になると考えていたのだろう)はこの結果に狼狽したという。しかし全国で自分の政策を訴えるための遊説を繰り返していた湛山は、突然に脳梗塞で倒れる。医師から2ヶ月の安静を要求された湛山は総理に就任して69日で辞任を決意する。
湛山辞任の後は岸が総理に就任した。岸はアメリカ一辺倒の政策をとり、中国を敵視する。さらにその頃、中国軍が台湾に対して武力行使したことをきっかけに米中関係は一触即発の事態に陥る。この事態を懸念した湛山は、病身をおして訪中を行う。しかしアメリカべったりで中国敵視の政策をとる岸は、政府は無関係との姿勢を崩さず、湛山の訪中は賛否が渦巻く中でのものとなった。
湛山は周恩来との交渉を目指したが、日本の中国敵視政策に非難する中国側は強硬だった。それでも彼はなんとか周恩来との直接会談に持ち込む。その席で彼は秘策を繰り出す。それは日中米ソ平和同盟だった。二国間では解決不可能な問題を四カ国の枠組みで解決しようというものだった。これは国連代表権をまだ持たない中国にとっては国際社会への足がかりとなるもので、周恩来にとっては一考の価値があった。周恩来は湛山の提案に同意し、台湾への武力行使をしないと伝える。これ以降、日中貿易も再開され、やがては両国の国交回復へとつながっていく。
昔から日本の保守政治の中にはアメリカ一辺倒の勢力と、中国との関係も重視する勢力があるのだが、その後者の側の話。もっとも日中米ソ平和同盟が実際にどの程度有効に機能したかは評価の難しいところがある。なおアメリカは日本が中国と接近することをこの頃から警戒していたが、それは今でも続いている。だから岸の流れを汲む小泉政権や安倍政権は、アメリカのポチとして何が何でも中国との対立を煽ろうという方向に向くわけである。
しかし実際に日本がアメリカ一辺倒で中国と対立することが国益にかなうかはよく考える必要がある。アメリカが日本を中国と対立させたがるのは、両国が手を結んで強大化するのが恐いのと、いざ中国と有事がある際は日本をまさに防波堤として戦場にするつもりであるからである。日本としてはそれにホイホイと乗る必要はない。中国とべったりしろなどとは言わないが、両国の力を秤にかけて間で巧みに振る舞うぐらいのしたたかさは必要なわけである。所詮日本のような地理的な小国は軍事力だけで国を保つことは不可能であるので、勢力バランスの狭間で平和を保ちながら、貿易立国で生きるしか道はないのではないかというのが私の考え。今の世界は、軍事力で物事を解決するにはあまりに狭すぎる。
6/20 その時、歴史が動いた「乱世に祈りを〜蓮如・理想郷の建設〜」
室町時代、京の本願寺の宗主の息子の蓮如は、貧しい中で全国の布教の旅を続けていた。本願寺は親鸞が開いた浄土真宗の寺だったが、この頃には衰退していたという。布教の旅の中で、彼は塗炭の苦しみを受けている農民を見ると共に、僧侶の腐敗も目の当たりにする。世の中に疑問を感じた彼は、親鸞の「四海の信心の人は皆兄弟」という言葉に真理を見る。
彼はこの言葉に従うべく、村の僧侶たちなどへの指導の旅に回ると共に、村同士の諍いを治めるべく講を広げる。従来は僧が唱える経を聞くだけだった講を、彼は全員が経を唱和する集会に変え、また比較的裕福な門徒が提供する酒や食べ物をみんなで飲み食いしながら話し合う寄り合いを講の後に開催した。やがてこの講が広がっていき、農民以外の堅田衆なども加入して大きな広がりを見せる。
しかしこれが旧来の宗教勢力を刺激する。本願寺を敵視する比叡山延暦寺が本願寺と堅田を急襲、堅田の町は焼き払われてしまう(京の周辺での布教活動は、延暦寺から見るといわゆる縄張り荒らしであったわけである)。
辛くも脱出した蓮如は、北陸の吉崎に道場を開くと、親鸞の教えをかな交じりの文章で分かりやすく記した御文章を執筆する。この御文章は多数書き写されて広がり、多くの信者が吉崎に集まってくる。蓮如は自ら彼らを手厚くもてなしたが、吉崎に多くの信者が集まってくることが周囲を刺激することになる。周囲との対立を恐れる蓮如は、これ以上吉崎に集まらないで欲しいと訴えるが、もう既に信者には彼の言葉は届かなくなってしまった。さらに門徒に武士が増えたことが暴走につながる。吉崎の信者たちは武装を始め、ついには門徒たちが応仁の乱に巻き込まれることになる。彼らは敵対する領主を追い出したばかりでなく、他の宗派などへの攻撃や略奪に走るなど暴走を始める。蓮如は激怒して信者を抑えようとするが、一部の信者は加賀で独立してしまう。挫折感にさいなまれた蓮如は、一人吉崎を後にする。
京の山科にたどり着いた蓮如はここで仏法領(仏の教えがすべてを規定する理想郷)を作ろうと考える。そこは巨大な土塁に囲まれており、これは周囲からの攻撃を防ぐと共に、内部からも攻め出すことはしないという意志を示すものであった。しかしその実現のためには人出も資材も不足していた。しかしそこに大阪の信者たちが吉野から切り出した材木を持って駆けつける。しかしその頃、加賀の一揆勢が勢力を拡大、蓮如たちも争いに巻き込まれる危険が起こってきた。蓮如は作業を急がせる。そうして1483年、山科本願寺が完成する。そこは80万平方メートルの敷地面積内に信者たちが暮らす寺院都市であった。町は門徒たちによって自治され、戦乱の中50年の間平和を守るのである。
戦乱の中で、武装中立を保ったのが蓮如のスタンスだったようだが、彼が同時に唱えていたのは政治への不関与であり、これはいわば政教分離か。最近の巨大宗教組織は、大抵が教祖の私欲から政治介入を目指すとのとは対照的な姿勢である。私は加賀の一向一揆は蓮如が関与しているものという認識を持っていたのだが、今回の内容から見ると、むしろ蓮如は反対していたということになっている。確かに途中で路線対立みたいなものがあり(内ゲバの多さも宗教組織にはよくつきまとう)、実質的に蓮如は吉崎から追放されたようである。
まあ彼自体は苦労人ではあったようだし、庶民の生活の苦しさも知っていたので支持を集めたのだろう。ただ彼の後継者がその同じ資質を持っているとは限らないわけで、この後の本願寺の混乱もその辺りに起因したりするのだが。
6/13 その時、歴史が動いた「ニッポン外交力誕生〜伊藤博文・神戸事件解決〜」
今回のテーマは神戸事件。これは1868年の王政復古直後でまだ新政府が発足していない空白時に発生した事件である。備前藩の行列を横切ろうとしたフランス兵と小競り合いになって威嚇射撃をしたことから、欧米列強の陸戦隊と備前藩が交戦状態になり、神戸が列強に占領されてしまうという事件である。
この解決に当たったのが伊藤博文だという。基本的に伊藤博文は列強と武力で争ってはいけないという考えを強く持っていたという。それは彼がかつて長州藩から海外に留学させられた時、アヘン戦争で敗北して事実上列強の植民地化された清の現状を見ていたからだとか。
番組では伊藤博文の経歴についての解説が大半を占めるのだが、要は「列挙と武力衝突してはいけない」と考えていた彼は、下関事件でも列強との仲介をしようとしたが、藩内の強硬派のために失敗、結局長州藩は列強と戦闘状態になって、砲台を占拠されるなどの大被害を蒙る。やがて彼は倒幕の必要性を感じ、そのために薩摩藩から最新鋭の武器を導入するために交渉、従来の丸玉を使うゲベール銃よりも射程距離の長いミニエー銃を入手することに成功(ミニエー銃はいわゆるライフルマークのあるタイプで、射程距離が長い)、これが幕府軍との戦いで威力を発揮、結局は幕府による長州征伐の失敗につながり、権威の失墜した幕府は大政奉還にまで至ることになる。
列強の神戸占領については神戸開港を急ぐ列強の思惑もあったという。列強は責任者の処分を求めていた。また日本は新政府が発足したことを対外的にまだ表明していないということも着かれたという。そこで伊藤は天皇親政の宣言を列強に公布するように働きかけると共に、断固として責任者の処罰に抵抗する備前藩をねばり強く説得したという。結果として備前藩は責任者の処罰に同意、伊藤は今後の日本の対外問題については万国公報に基づいて解決することを宣言すると共に、各国の大使を備前藩の責任者の切腹の場に立ち会わせたという。こうして日本最初の外交問題は解決したということらしい。
要はこの事件のポイントは、日本が国際法に基づいて外交問題を解決するということを宣言したことにある。ただ日本がその後に不平等条約を解消するにはまだまだ時間を要するのであるが。なお伊藤が備前藩の責任者の切腹に各国の大使を立ち会わせたのは、処罰をキチンとしたということを明らかにするだけでなく、切腹を彼らに見せることによる威嚇も狙っていただろうことは推測も着く(そちらがこれ以上ことを荒立てるつもりなら、死ぬ気で一戦構えるぞという無言の脅し。欧米人に腹切りパフォーマンスはかなりインパクトがあるだろうから。)。
6/6 その時、歴史が動いた「メキシコ五輪 奇跡の銅メダル〜日本サッカー・勝てる組織作り〜」
何やらサッカーネタは以前にやった記憶があると思っていたが、それはベルリンオリンピックに出場した時のことであったようである。今回はその34年後にメキシコオリンピックで銅メダルを取った時のことだという。
東京オリンピックに日本中が湧く中で、一つだけ蚊帳の外にあった競技がサッカーだったという。サッカーは知名度が低いだけでなく、当時の日本チームは連戦連敗で、アジア大会でも予選落ちする状態だったという。そこでこのサッカーを立て直すべく白羽の矢が立ったのが、ドイツ人コーチのデットマール・クラマーだった。
本場ドイツのコーチがどんな高度な戦略を教えてくれるか。期待して待つ選手たちに彼が教えたのは基本中の基本のインサイドキックだった。実際、この基礎さえまともにこなせない選手が多かったのだという。彼は選手たちに基礎の訓練を徹底させると共に、日本人選手にあった戦略を立案していく。日本人はパワーがないが俊敏性があることに目をつけた彼は、パンアンドゴーを重視した練習を繰り返す。彼は選手に大和魂を説き、選手を心身共に強化していく。
また彼は選手だけではなく、指導者も育てていた。彼は岡野俊一郎と長沼健に指導者として資質を見いだして育成する。岡野には情報収集能力と分析力、長沼には選手からの人望があった。
そして東京オリンピック。日本はアルゼンチンと当たることになった。日本の勝利を予想したものは誰もいなかったが、グラマーは個人技に勝るアルゼンチンを速度で翻弄することに活路を見いだしていた。そして逆転でアルゼンチンに勝利する。大金星であったが、日本の勝利はそこまでだった。
グラマーが日本を去った後、日本チームを率いたのは岡野コーチ、長沼監督だった。彼らは日本チームの強化を続け、杉野→釜石の日本の得点パターンを作り上げる。そうして臨んだメキシコオリンピック。日本チームは予選から快勝、ついには決勝へ進出する。しかし連戦の疲労で準決勝で敗れる。そして銅メダルをかけて地元のメキシコチームと挑んだ試合。序盤からメキシコの猛攻を受ける日本。しかしそれをしのぐと反撃、釜石のシュートが決まる。日本は前半で2点を先取する。しかし後半に突入した時には選手は体力が尽きていた。それでも体力の限界を超えた選手たちは全力でメキシコの攻撃を防ぎきる。懸命に戦う日本の姿に、ついには観客席から日本を意味する「ハポン」のコールさえわき起こる。そして日本は勝利する。
日本チームは後にフェアプレー賞も授与されたそうだが、懸命に戦う日本選手に対して地元から日本コールが起こったというのは、思わず感動してしまうエピソードである。そう言えばメキシコといえば、あのWBCでも自身には決勝進出ののぞみはないにも関わらず、アメリカチームを粉砕して結果として日本を援護してくれたことを思い出した。良い連中である(笑)。
5/23 その時、歴史が動いた「悲しき女帝 許されざる恋〜道鏡事件の真相〜」
今回のテーマは、古代史最大のスキャンダルの一つである道鏡事件である。道鏡事件と言えば、野心家の僧・道鏡が、女帝に取り入ってまんまと天皇になろうとしたが、和気清麻呂ら廷臣の行動で阻止された事件という風に一般に言われている。この番組では若干解釈が違うという。
さて主役の一人は女帝・孝謙天皇である。彼女の父は、奈良の大仏の建立で有名な聖武天皇である。聖武天皇には結局男子が出来なかった(一人生まれたがすぐに死んだ)ことから、娘を皇太子に立てる。そして聖武天皇は大仏建立の事業に力を入れ、それが軌道に乗った749年に娘に皇位を譲って出家する。彼が娘に伝えたことは「仏法僧の三宝を盛んにせよ」ということだった。孝謙天皇はこの父の言いつけを守っていくことになり、父の死の一年後に大仏殿を完成させる。
しかし天下は定まらなかった。女帝は所詮はつなぎと見られており、757年に彼女を皇位から引きずりおろそうとする政変が発生する。それが橘奈良麻呂の変である。彼女に代わって男子の皇族を天皇に立てようとするこのクーデターには皇族や貴族が443人も関わっていた。計画は事前に漏れたことで未遂に終わるが、彼女は大きな衝撃を受ける。結局その翌年、彼女は譲位を余儀なくされ、いとこの男子が淳仁天皇として即位する。
しかし淳仁天皇の即位と共に、彼を養子にしていた藤原仲麻呂の勢力が増してくる。彼は太政大臣にまで登りつめ、国政を意のままに操り始める。淳仁天皇は自ら政務を執る気は全くなく、恵美押勝という尊号を受けた藤原仲麻呂が国の政策を独断で決済するようになる。そしてこのことが孝謙上皇と淳仁天皇の対立を深めることとなった。そして淳仁天皇が自分の亡くなった父に天皇の尊号を送ろうとしたことに孝謙上皇が反対したことで、両者の対立は決定的となる。
やがて孝謙上皇は病に倒れる。その彼女を懸命に看病したのが弓削道鏡であった。この後、この二人は急速に接近することになる。
しかしこのことがスキャンダルとなり、孝謙上皇は淳仁天皇から道鏡との関係を責められることになる。怒りをあらわにした彼女は、宮殿を出て法華寺に入る。10日後、再び人々の前に現れた彼女は尼僧の姿となっていた。そして淳仁天皇には天皇としての資格はないとして、天皇の権限を奪い取ることを宣言する。この彼女の宣言を受けて、藤原仲麻呂に不満を持つ貴族たちが彼女の回りに集まってくる。764年、藤原仲麻呂は孝謙上皇を排除するべく反乱を起こす(恵美押勝の乱)。しかしこれは直ちに孝謙上皇の知るところとなり、逆に先手を打たれて淳仁天皇は捕らえられ、天皇の証である駅鈴と玉爾を孝謙上皇に押さえられてしまい、仲麻呂自身も逃亡の途中で捕らえられて処刑される。
孝謙上皇は淳仁天皇は淡路島に流すと、再び自らが天皇に即位する。これが称徳天皇である。そして彼女は信頼する道鏡を法王に即位させ、彼に天皇に等しいほどの実権を与える。
そして道鏡が法王についた3年後の769年、太宰府から知らせが入る。九州の宇佐神宮で「道鏡を皇位につかせるべき」という神託が下ったというものである。称徳天皇は真偽を確かめるべく、信頼していた女官の弟である和気清麻呂を宇佐神宮に送る。しかし彼が持ち帰った知らせは「天皇は皇族から立てるべきで、無道の人である道鏡は排除すべき」というものであった。これを聞いて、和気清麻呂が他の貴族と結託して道鏡を排斥しようとしている感じ、激しく怒ると清麻呂を穢麻呂と改名して流罪にしてしまう。
判断に悩んだ称徳天皇だが、1ヶ月の後に決断を下す。それは道鏡を皇位につけることはしないというものであった。さらに和気清麻呂と共に謀略に加わった者も許すというものであった。
さてこの番組の解釈であるが、従来は野心満々の道鏡が自ら皇位を狙ったという解釈が主流であったのだが、それに対して道鏡を皇位につけようとしたのは、むしろ称徳天皇だったというもの。道鏡は自らは積極的には動いていないとしているのである。
うーん、これはどうか。道鏡が全く野心なしに称徳天皇に近づいたとは思いにくいというのが私の考えである。実際、惚れた男を天皇にしようと称徳天皇自身も動いたかもしれないが、道鏡からの働きかけがなかったとは思いにくい。
なお道鏡については巨根だったなんて噂もありますが、これはなにしろ噂だけでそんな記録など残っていません。多分、中国の歴史に残っている始皇帝の母と愛人のロウアイ(日本字表記が不可能)のエピソードなどからの連想だろうと思われる(この人物については、史記に「巨根だったことから愛人にした」とはっきり書いてあるんですよね。中国の歴史書は正確さ重視ですから。)。
真実のところははっきりしないのだが、歴史上皇族内での皇位争いは血みどろの抗争が延々と繰り広げられているが、皇族と全く無関係の者が皇位につこうとしたというのは、この件が唯一なんですよね。だからこそ古代史の最大のスキャンダルにも挙げられているわけで。ちなみに現皇太子が娘しかいないことから、女帝の是非についての議論が起こったが、この時に保守派が「女帝が誕生すると、どこの馬の骨か分からない奴が天皇になることになる可能性がある」とか言って反対していたのは、この道鏡事件がイメージにあったりするわけです。
5/16 その時、歴史が動いた「日本ミステリー誕生〜江戸川乱歩・大衆文化との格闘〜」
日本のミステリーの元祖である江戸川乱歩が少年時代を送ったのは、都市化が進みつつある明治30年代。当時は新聞小説が花盛りで、彼もそれらによって文学に興味を持つことになった。大学生の時に、彼はエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」に出会ったことでミステリーに興味を持つ。この頃の彼は、アメリカに渡って探偵作家になりたいと夢を抱いたという。
しかし資金不足でその夢はかなわず、彼は日本で職業を転々としながら作品を発表する機会をうかがっていた。当時はまだ日本では探偵小説のジャンルは確立していなかった。そして大正12年、彼は処女作である「二銭銅貨」を発表、この時に初めて江戸川乱歩のペンネームを使用したという。
この後、彼は次々と作品を世に送り出す。この時に誕生したヒーローが探偵・明智小五郎である。まさに大衆文化が花盛りで「エロ・グロ・ナンセンス」がキーワードの時代に、彼は次々と話題作を発表し、時代の流行と合致してもてはやされることになる。
しかし彼の作品が有名になると共に、大衆からの予想外の反応も巻き起こすことになった。彼の作品のセンセーショナルさから、彼の実像と離れたイメージが勝手に一人歩きし、バラバラ殺人事件が発生した時には犯人として名指しする投書まで現れる始末。過熱する報道と巨大化する自らの虚像から大衆に嫌気のさした彼は、ついには執筆をやめてしまう。
しかし昭和10年に、彼に少年倶楽部から少年向け少年向け作品の執筆依頼が舞い込む。彼は最初は戸惑うが新境地のつもりで挑戦する。こうして怪人20面相と少年探偵団の物語が登場することになる。
だが翌年に日中戦争が勃発すると、探偵小説は犯罪を誘発する反体制的なものとして弾圧されることになる。そして検閲はだんだんと厳しくなり、太平洋戦争が始まると彼の作品はすべて絶版にさせられる。こうして乱歩は執筆活動をやめてさせられてしまう。
そんな彼に転機が訪れたのは終戦だった。もはや作家をやめる覚悟だった彼だが、終戦で考えを変える。この後の彼は、自らの創作よりは後進を育てることに力を入れるようになる。昭和21年、雑誌「宝石」が創刊され、彼は探偵小説の紹介や募集小説の審査員を行った。ここに掲載されたのが横溝正史の「本陣殺人事件」だった。これが戦後初の本格探偵小説となる。そして彼は探偵小説の普及のために昭和22年、探偵作家クラブが設立される。この団体を中心に彼は後進の発掘に活躍する。
以上、日本の探偵小説の黎明期のお話。今や小説の一ジャンルとして確立しているミステリーですが(このジャンルがなかったら一番困るのは、テレビの2時間ドラマだろう)、なかなか日本で定着するのには苦労したようです。ちなみにSFの方は未だに大人のエンターティーメントとしてはまだ定着していないようなのが、私としては残念なところです。
しかし今回のこの番組を見ていると、江戸川乱歩の作品がいかによく映像化されているかが分かった。うーん、天知茂は懐かしかったな・・・日本で唯一と言えるハードボイルドを出来る役者だったのですが。ちなみに私の心の中に今でも強烈に残っている役者は、この天知茂と、時代劇と言えば彼しかいなかったという萬屋錦之介、そして日本で唯一SFが出来る役者だった平田昭彦の3名です。正直なところ、最近の役者はどうでもいいです・・・。
5/9 その時、歴史が動いた「源頼朝魔法の大逆転〜富士川の戦い〜」
今回のテーマは源氏再興のきっかけとなった源頼朝の富士川の合戦の勝利について。
源氏の没落の原因となったのは平治の乱である。この乱において平清盛に源氏の統領であった源義朝が敗北したことから。嫡子であった頼朝は危うく殺害されるところであったが、清盛の母の取りなしもあって伊豆に流刑になったのであった。
この流刑先で頼朝は北条政子と結婚するわけである。なお頼朝伝説ではこの時期は「源氏再興の思いを胸に秘めながら、雌伏していた時期」となるのだが、この番組の解釈はやや異なる。どうもこの時期の頼朝は、この境遇に既に安住してしまっていたのではないかとしている。実際、清盛によって幽閉された後白河法皇の子である以仁王が頼朝に決起を促す令旨が送られた時も、行動する様子はなかったという。
しかし二ヶ月後、令旨を受け取った源氏を追悼する計画を平氏が立てているという連絡を受け、頼朝はやむなく決起する。しかし頼朝の呼びかけに応じる武士はほとんどなく、頼朝の元に集まったのはわずか40騎にすぎなかったという。この40騎で頼朝は決起するものの、平氏の軍勢に囲まれて惨敗、命からがら房総に逃れる。
関東の武士を味方につけない限り、自身の命さえ危ない状況の中、頼朝は一世一代のはったりをかます。以仁王からの令旨に「東国各地の土地の支配権はすべて頼朝に任せる」と書かれているという嘘をついて、平氏の支配に不満を感じている東国武士の心を惹いたのである。これで頼朝の呼びかけに応じる武士が出始めた。そして転機となったのは房総に大勢力を張っていた上総広常の帰趨。平氏との関係が悪化していた彼は、平氏につくとも頼朝につくとも決心できないまま、頼朝の器量を見極めようと2万の大軍勢を従えて頼朝の元に訪れたのだが、その広常に対して頼朝は遅参に怒って一喝するという態度で迎えたとのこと。それに圧倒された広常は、頼朝は大将の器量があると考えて彼に従ったとか。
さらに隅田川を渡河する際には、この流域を支配していた秩父平氏に対し、源氏のシンボルである白旗を大量に見せることで、かつての恩義(源義家に従って奥州征伐に従軍した際、朝廷から恩賞がもらえなかったので義家が秩父平氏に私財を与えた)を思い出させることによって味方につけたという。これによって頼朝の評判はさらに高まり、軍勢は一気に10万に膨れあがったという。
一方、頼朝討伐を命じられた平維盛は難儀に直面していた。彼の軍勢は兵員を現地調達するよう命じられていたのだが、何の見返りもない徴兵から逃れようとする者が多く、結局は3万人程度の軍勢しか集まらなかったのだという(しかも士気は最低)。
両者の軍勢は富士川を挟んで向かい合う。しかし頼朝の大軍に驚いた維盛の頭には、にらみ合いで引き分けに持ち込むことしか考えはなかった。この時点で両軍の士気には雲泥の差が生じており、その結果、一斉に飛び立った水鳥の羽音に驚いた平氏軍勢が総崩れで逃げ出すという結果に陥る。
頼朝は平氏軍を追討せず、関東を固めて武士団に恩賞を与えることを優先した。このことによって彼らの間に主従関係が確立されことになったという。
以上、源氏決起にまつわるエピソードであるが、頼朝がかなりきわどいところではったりをかましていることがよく分かる。ただ私が以前から引っかかっているのは、源氏の御曹司である頼朝にこれだけの器量が本当にあったかである。私は頼朝の背後に彼を操った参謀の存在を感じているのだが、歴史はその辺りを明らかにしていない。
まあなんにせよ、こうして武士政権の確立にまでこぎ着ける頼朝だが、結果としては疑心暗鬼から親族衆を粛正するに至って、最終的に鎌倉幕府は北条氏に支配されることになる(この辺りはどうも漢の高祖にそっくりなのである)。この流れを考えても、やはり誰か背後にシナリオを書いた人物がいるように感じられてならないのである。
5/2 その時、歴史が動いた「憲法九条平和への闘争〜1950年代改憲・護憲論〜」
安倍晋三が憲法改定を言い出している中で、やけに微妙な問題を扱うものだと感じたが、やはりNHK的バランス感覚というか、両論併記に近い無難な形をとりつつ、憲法改正論議は必要なのではないかという政府が喜びそうな方向に微妙に誘導していたのが今回の内容。また当然ながら安倍晋三による検閲に配慮して、岸信介を持ち上げることも忘れていない。
内容的にはさほど新しいものはない。早い話が憲法九条で戦争放棄を謳ったものの、その後のアメリカの思惑で急に再軍備を強いられたことで、憲法と実態との矛盾が生じる(憲法改正論者は、平和憲法を押しつけられたとは盛んに主張するが、なぜか再軍備を押しつれられたとは言わないのである)。そんな中、憲法改正を掲げたのが岸内閣。しかし日本が戦争に巻き込まれる可能性が増大する中で国民世論は割れ、自民党は憲法改定に必要な2/3の議席を確保することに失敗する。そこで岸は安保改訂によって憲法改定につなげようとするが、これが国民の猛反発を呼び(いわゆる「安保反対闘争」)、安保の改訂には成功するものの、総理辞任に追い込まれ、後の池田内閣は憲法改定を封印してしまったというもの。
さて憲法改定の問題だが、国際貢献だなどと美名を掲げているが、憲法改定を言っている連中が「先の戦争は正しかった」と言っている連中と完全にかぶっていることが要注意である。これを見ると、連中が何を狙って憲法を変更しようとしているかはおのずと明らかというものである。いざドンパチが起こった時、連中は一番に逃げ出し、戦火の中で犬死にさせられるのは一般国民だと言うことを忘れないように。あの戦争において言えることは、とにかく人の命が安かったということである。そういう風に自分の命を安く差し出したい人は戦争に賛成すればよいが、私は自分の命をそんなに安くは考えていない。
なお憲法改正というと第九条がすぐに上がるが、あの連中は九条だけでなく、むしろ基本的人権の保証などの条項に「国益に反しない限り」という制約をつけて、自分たちの利益=国益とすり替えることで、国民の基本的権利の侵害を狙っているということも忘れてはいけない視点なのだが・・・・。
4/25 その時、歴史が動いた「大奥華にも意地あり〜江戸城無血開城・天璋院篤姫〜」
今回の主人公は大奥最後の実力者とも言われる天璋院篤姫。彼女が江戸城無血開城に果たした役割を紹介するという。
彼女はそもそもは島津斉彬の養女であったのだが、13代将軍に家定が就任することになって、その後妻として指名されたのだという。しかし彼女は実は斉彬から「次期将軍に慶喜が就任できるように画策すること」を命じられていたという。またこの時に彼女に対して監視員としてつけられたのが西郷隆盛だったとか。
そもそも家定はその能力に疑問が持たれており、斉彬は次の将軍として慶喜に期待していたらしい。しかし彼女は慶喜の将軍就任に反対の城内の空気に手を打てないまま、家定が結婚から1年半でなくなり、23才で髪をおろし天璋院と名乗ることになったという。彼女は大奥のならわしで故郷に帰ることも出来ないままその後を暮らすことになる。
家定に代わって家茂が14大将軍に就任するが、そこに政略結婚で送られてきたのが皇女・和宮である。自分と同じ立場である和宮に同情した天璋院は、彼女が徳川の女性として生きていけるためにしきたりなどを積極的に指導していく。最初はそれに反発する和宮も、やがては彼女の立場を理解し、徳川の女性として生きていくことを選ぶ。
しかし彼女たちに受難が訪れる。家茂は病でなくなり(和宮の結婚生活も1年半だったとか)、薩摩が朝廷を擁して倒幕に立ち上がったのである。天璋院も和宮もいわば実家に裏切れたことになる。そこで彼女達はめいめいの立場で徳川家存続のために動き始める。天璋院は江戸城退去を促す幕臣に対し、懐刀を自らに突きつけて「無理にここから追い出すのなら自害する」と言い放ったという。天璋院の肝の据わりようには勝海舟も舌を巻いたという。その一方で彼女は倒幕軍を率いていた西郷隆盛に攻撃を思いとどまり戦いを避けるようにと書状で切々と訴える。彼女を政治的に利用してきたと思っていた西郷としては、彼女の書状には胸を打たれるものがあったのではないかとしている。
そして倒幕軍は江戸を前にして進軍を停止する。そして西郷隆盛と勝海舟の会談がなされ、江戸城は無血開城される。天璋院は千人いた奥女中達が退去していくのを見送った後、自らは身一つで江戸城を後にしたという。その後の彼女は、自分に仕えた奥女中達の再就職や縁談に奔走し、自らの生活は困窮する中で、島津からの経済援助を拒絶してあくまで徳川の女としての意地を貫いたという。48才でなくなった時には所持金は今の金額で6万円しかなかったという。
彼女のエピソードに関しては、既に以前に和宮自体がこの番組で登場しているので、その角度を変えた焼き直しという感が強い。天璋院と和宮については、いわば嫁と姑に近い立場なので、互いにはいろいろとあっただろうが、どうも最後にはやはり似た立場の女性同士という連帯感が生じていたのも確かなようだ(嫁と姑と言うにはあまりに二人の年齢も近いし)。
ただ和宮のエピソードの時にも書いたが、江戸城無血開城については彼女たちの活躍が影響しなかったとは言わないが、あまりに内戦が長引いて欧米列強につけ込まれてはいけないという西郷や勝の判断が大きかったのではないかと私は見ている。現実には、この時には多くのものが各々の立場で動いていたのではないか。
で、次回は憲法についてとか。うーん、明らかに権力筋からの介入を招きそうな微妙なテーマ。実は既に安倍晋三の検閲が入っているかもしれない。
4/18 その時、歴史が動いた「海の関ヶ原〜村上武吉・水軍にかけた夢〜」
戦国時代、芸予諸島の能島を根拠地としていた村上氏は瀬戸内の海賊だった。潮の流れも速く航海の難所だったこの地において、村上氏はその抜群の操船技術によって無敵を誇っていた。しかしこの村上氏の家督を継いだ村上武吉は、村上氏の内紛などを目の当たりにし、海賊の寄せ集めではなくより強固な集団に再編成する必要に迫られる。
そこで武吉は海賊稼業をやめることにする。略奪をするのではなく、瀬戸内海を航行する船から通行料を取り、その護衛をすることで安定収入を確保することに成功する。当時、海外ともつながる交易ルートであった瀬戸内海の地理的位置付けもあり、村上氏は徐々に力をつけていく。そんな村上氏にとって転機となったのは、毛利元就と手を組んで陶晴賢を打ち破ったことであった。以降、村上氏と毛利氏は友好関係を保ちながら発展をしていく。
しかしそんな村上武吉の前に立ちはだかったのは織田信長だった。信長の石山本願寺討伐に伴い、本願寺を援護する毛利氏の要請で武吉は信長の海軍と戦うことになる。初戦は村上水軍の巧みな操船技術や集団戦法に、焙烙による焼き討ち攻撃が功を奏し、織田海軍を散々に打ち破る。しかし二度目の戦いでは、織田軍は鉄板張りの鉄甲船を投入、村上水軍の火攻めも通用せず、大砲による奇襲攻撃で村上水軍は敗北を喫する。この敗北は村上氏を動揺させることになり、一族内から織田方に寝返るものが現れるなど、村上氏は危機を迎える。
だが信長は中国への本格進出の前に本能寺で倒れ、村上武吉は一息つくことが出来る。しかしそのような時も長くは続かなかった。信長の後を継いだ秀吉が勢力を伸ばし、中国・四国・九州を平定してしまうのである。朝鮮出兵を考えていた秀吉は、補給路である瀬戸内海は自ら押さえるつもりであった。村上氏に対して秀吉から「通行料を取ることを禁じる」最後通牒が突きつけられる。もはや村上氏には抵抗のすべもなく、武吉は九州に引き籠もることになる。
その後、村上一族は朝鮮出兵にもかり出されて辛酸をなめることになる。だが秀吉が亡くなったことで風向きが変わり始める。中央では家康と三成の対立が激化、ついに関ヶ原の合戦が勃発する。村上武吉は、毛利輝元が西軍の総大将になったことで、西軍に荷担して東軍を攻撃する。
村上氏は伊勢などで東軍の後方を撹乱すると共に、瀬戸内海を確保して九州の東軍大名の補給路を断つ作戦に出た。しかし関ヶ原の合戦では東軍が勝利を収める。しかし武吉はまだ諦めていなかった。四国を押さえて瀬戸内海を完全に勢力下に治めると、まだ東軍と対抗することができると考えていた。しかし瀬戸内海平定をかけての愛媛の攻略で、敵方の降伏の計略に騙され、奇襲によって敗北、武吉の夢も費えさる。
以上、村上水軍の栄光とその末路であった。瀬戸内に覇を唱えた村上水軍であったが、陸上の大勢力には対抗することが出来ず、ついにはその配下に収められてしまったということである。そう言えば番組でも言っていたが、信長・秀吉・家康の三人に仕えた武将は少なくないが、この三人とことごとく戦ったことのある武将というのはかなり珍しいかもしれない。
なお芸予諸島は、実際に現地を訪れると、ここでかつて海賊が活躍していたというのは非常に理解できる。複雑な島影は船が隠れるには最適であるし、潮の流れは複雑で速いので、潮の流れを熟知しているかどうかが操船技術に関わるだろうし、ここを航海する商人などはたまらなかったろう。なお似たような地形のマラッカ海峡では、未だに海賊が暗躍しているとのことだが。
4/11 その時、歴史が動いた「所得倍増の夢を追え〜高度経済成長の軌跡〜」
最近、戦後ネタも扱うようになったこの番組だが、それにしても生々しいテーマである。
池田内閣による所得倍増計画の立案自体は下村治というエコノミストによるものだという。戦後、荒廃しきった日本を見た大蔵官僚の下村は、焼け野原の中でもたくましく生きている日本人にまだこの国には可能性があると感じたという。
当時の日本では都市と農村の所得の格差などの問題が発生しており、それの解決が急務となっていた。かつて日本が貧しさのために海外に富を求めたのが戦争の原因と考えていた下村は、貧困から脱出することが重要だと考えていた。
特需景気が終わった日本では、もう経済成長は限界だと考えられていたが、ここで下村が考えた経済政策は需要でなく供給が経済成長の起爆剤になるというものだった。企業の技術開発などを促して、新たな商品が登場することで需要が喚起されるというのが彼の考えだった。そして彼は計算に基づいて、年間の成長率11%という数字をはじき出した。
しかし彼の考えは官僚や政治家などには認められなかった。しかし彼の考えに共感を示したのが池田勇人だった。そして池田勇人が総理大臣になった時から、彼の経済政策が実施されることになる。大幅な減税などで経済を刺激したことと貿易自由化による海外との競争で、企業は設備投資や技術革新に走り、いわゆる三種の神器の登場などで、消費も拡大、日本の経済は順調に成長していった。また地方からは労働力が流入、金の卵とも呼ばれ、これが農村と都市の所得の格差の解消につながった。
昭和39年のオリンピックの直後、池田勇人ががんに倒れ、下村の理解者はいなくなる。またこの頃に下村の政策の矛盾も発生していた。工業の成長に伴う公害や農村からの労働力の流出によって、農業の衰退も始まっていた。そしてGNPの伸び自体も低迷し始め、大型倒産なども発生するようになり、株価の下落も始まる。
ここで下村は禁断の手を打つ。赤字国債の発行であった。戦前の経済の混乱の教訓から長らく封じられていた手だった。しかし政府のあくまでも経済成長を優先する姿勢は市場に受け入れられ、経済は再び成長局面に転じ、所得倍増計画は実現する。
・・・という話なんだが、どうにも所得倍増計画の正の面にばかり日が当たっているのが何とも。実際、額面の所得は倍増したが、実はこの間に物価も飛躍的に上がっているので、生活水準の向上は所得の向上と必ずしも比例はしていないという事実があるのだが・・・。
またこの時に赤字国債という禁断の手を打った副作用は大きく、その後も経済政策を口実にして、自民党の支持基盤である土建業界への買収のために赤字国債を垂れ流した結果は、現在の財政危機に陥っているわけである。後に下村は自身の所得倍増計画の路線を捨て、江戸時代のような国家にするのが良いとしてバブル景気を批判したと言うが、彼自身には自分の経済政策の問題点もよく見えていたのだろう。ただ残念ながら、もう軌道修正が出来なくなっていたというわけである。
今の日本に必要な経済政策は、ひたすら成長を目指すものではなく、ゼロ成長でも成立するものであるべきなのだが、その理論をキチンと構築できている者はいないようである。その挙げ句に、竹中のような日本の資産をすべてアメリカに売り渡すことを目的とするようなインチキ経済学者が政策をリードしたりする始末。こりゃ救いがない。
4/4 その時、歴史が動いた「謙信恐るべし」
今回の主人公は戦国最強とも言われ、信長も恐れたという上杉謙信である。
今でこそ日本有数の米所である越後・新潟であるが、戦国時代には湿地で耕地が限られていたため、土地を巡って豪族たちが争いを繰り返していたという。長尾景虎(後の上杉謙信)も謀反の度に命の危険に去られることになり、寺に預けられて育ったという。19才で病弱な兄から家督を譲られた謙信は、その軍事的才能によって越後の平定を行うが、彼の願望自体は越後に戦乱が亡くなることだったという。仏教に心の救いを求めた彼は、24才で無闇に人を殺さないなど5つの誓いを立てるという。彼は国を豊かにすることによって争いをなくそうと、青そという植物の繊維の普及を行い、彼は自ら京への売り込みを行ったという。それによって越後は豊かな国となる。
しかし国が豊かになると外敵が現れる。信濃に勢力を伸ばし、越後をうかがう勢いを見せた信玄と彼は対立することになる。殺生を行わないという戒律との矛盾に悩む謙信。謙信は毘沙門天に救いを求め、私的野心ではなく義のために戦うと言うことで問題の解決を図る。私心のための戦いをしない謙信は幕府から関東管領に任命される。彼はこの後、幕府や他の領主からの要請による戦いのみをすることになる(こうして上杉謙信は義理100の武将になったわけである)。
その間に勢力を伸ばしたのは織田信長。信長は将軍義昭を擁して京に上ると、当面の最大の敵である武田信玄を牽制するために上杉謙信と同盟を結ぶ。謙信は「室町幕府を守護する」という信長を信用する。
しかしやがて武田信玄が死去、その直後に信長は義昭を追放、さらに浅井・朝倉を滅ぼして北陸に勢力の伸張を図る。この頃の信長は謙信と敵対することを恐れ、謙信に数々の贈り物攻勢をかける。その中の一つが現在国宝になっている洛中洛外図屏風だという。立正大学教授の黒田日出男氏の分析によると、実はこの中には謙信が描かれており、信長からの謙信への「京の支配は一緒に行いましょう」というメッセージを込めているというのである。この時点で謙信は完全に信長の術中にはまっていたという。
しかし設楽が原の戦いで武田勝頼を破って自信を深めた信長は、謙信の周辺に調略をかけるなど、いよいよ本格的に北陸進出の野心を見せる。またその頃、追放された義昭から謙信に反信長で立つことの要請があり、信長の真意に激怒した謙信はいよいよ本格的に活動を開始、石山本願寺や毛利と結んで反信長包囲網を結成、信長に包囲されていた本願寺を支援すると共に、自身も越後を出発する。彼は越中を平定、能登の七尾城を囲む。七尾を落とされてはまずいと考えた信長は4万の主力を七尾に差し向ける。
しかし謙信は難攻不落の七尾を怒濤の勢いで落とすと、加賀の一向宗と手を結んで信長軍を待ち受ける。また謙信は信長の鉄砲隊の弱点も見抜いていたという。上杉軍は大量の鉄砲を装備する織田軍よりは明らかに装備が劣る。それを克服する謙信の策は野戦に持ち込むことだった。上杉軍では合い言葉を徹底するなど、野戦の準備を整える。また織田軍の偵察をことごとく討ち取るなど、情報も遮断する。そして先のことが全く分からないまま手取川を越えたところに陣をひいた織田軍(背水の陣になってしまっている)に夜襲を仕掛ける。夜の闇で視界をふさがれた上に、数日来の豪雨の中、織田軍の鉄砲隊は有効に機能せず、織田軍の多くの招聘は増水した手取川に追い込まれて多くの溺死者を出す(1000人以上が戦死したとか)。戦の後、謙信は「戦ってみると信長は案外弱い」と発言したという(さすがに戦国最強、武力100の武将である)。
信長は動揺、反信長包囲網は一気に活気づくが、そんな中で上洛準備中の謙信が突然に厠で突然に倒れる。脳卒中だったと考えられているとのこと(あまりにタイミングのの良すぎる死に、暗殺説もありますが)。これによって反信長包囲網は崩壊、信長が天下を握ることになる。
以上、戦国最強とも言われた上杉謙信について。なお私の説明の途中で「信長の野望」のパラメータが混入しておりますが、それは機にしないでください(笑)。
暗殺か病死かはともかくとして、この時点で謙信が倒れるということがなかったら、実際に信長の天下取りはあったかどうかは微妙なところだろう。謙信は信長が案外弱いと語ったとのことだが、そもそも尾張の兵は東国の兵などに比べると弱兵なので、対等の条件で戦うことになると弱い。だから信長は装備などに力を入れて、対等以上の条件で戦えるようにしたわけである。その信長軍が機能しない条件に持ち込んだ謙信はさすがというところ。
それにしても信玄にしても、謙信にしても、あまりにタイミングの良いところで死にすぎているので、暗殺説は未だにあります。暗殺などでなかったのだとしたら、信長はかなり強運だったということにもなりそうですが。
3/14 その時、歴史が動いた「歴史の選択 邪馬台国はどこか〜近畿説vs九州説〜」
今回はいわゆる地デジ宣伝企画。例によっての両論をぶつけてアンケートをとろうというあまり意味のない企画である。
テーマは古代史の最大の謎となっている「邪馬台国はどこにあったか」である。諸説がある中で最も有力な九州説と近畿説を競わせている。
まず近畿説の根拠については、奈良県の桜井市に纒向遺跡という大規模な遺跡が発見され、それが邪馬台国ではないかと考えられるということ。この遺跡からは各地の形式の土器が見つかっていることから、各地からの定住者がいたと考えられ、かなり有力な国があったと考えられることから、邪馬台国に違いないというのである。
また邪馬台国は魏と同盟を結んでおり、その権威をバックにして日本を支配したと考えられるという。その権威の象徴が銅鏡であり、だから近畿地方を中心に銅鏡が多く分布するのだという。そしてその邪馬台国がそのまま大和朝廷につながったとしている。
これに対して九州説の方は、吉野ヶ里遺跡こそが邪馬台国であったという考え方になる。吉野ヶ里遺跡の建物を復元してみると、物見櫓や宮殿があったと考えられ、魏志倭人伝に記述してある邪馬台国の様子に非常に一致しているのだという。
またこの時代ぐらいから鉄器が使用されるようになったが、当時の日本では製鉄技術がなく、日本は朝鮮半島から鉄を輸入していたのだという。九州からは鉄器が多く出土しており、朝鮮半島に近い九州は最適な立地であり、邪馬台国は鉄器を元にした武力で君臨していたというものである。またこの邪馬台国が、やがて日本支配のために都合の良い東方に移動していき、それが大和朝廷につながったとしている。近畿における墳墓が西日本様式の集大成のようになっているのは、邪馬台国が移動していった証拠であるとしている。
投票の結果は九州説の方が優勢であった。吉野ヶ里遺跡の発見後、考古学の世界でも九州説がやや優勢であることから考えると、その通りの結果になったというところだろう。ちなみに私も以前より九州説を有力と考えている。ただ邪馬台国=大和朝廷というには少々疑問を感じている。私の説は、邪馬台国はそのまま九州地方政権となり、新たに近畿の大和朝廷が別個に強大化したというものである。邪馬台国という音と大和の音が非常に似ているので、両者はつながっているという説には説得力もあるが、私は畿内の権力が強くなった後も、九州は常に独立王国的な色彩が強かったことなどから、両者は別個のものと考えているわけである。
3/7 その時、歴史が動いた「苦しむ患者を救いたい〜イタイイタイ病裁判・弁護士たちの闘い〜」
今回のテーマはイタイイタイ病。日本の公害病訴訟の先駆けとなった裁判を扱っている。
富山平野の婦中町では戦後、骨がもろくなる奇病が流行しており、全身の72ヶ所が骨折している人も出たという。この病気の原因の究明に乗り出したのが、開業医の萩野昇だった。彼の証言によると脈をとるために手首を取っただけで骨が折れたとのこと。この病気は大正時代から発生していたが、原因不明の風土病とされていた。
萩野は彼は患者の住所を地図に記録したところ、患者の発生地域が神通川流域に集中しているのは明らかだった。彼は神通川を遡ったところにある三井金属神岡鉱業所に注目、この鉱山の廃水が原因ではないかと考えた。神岡鉱業所では明治時代から亜鉛や鉛を大量生産していたが、その排水はほとんど処理されないながら垂れ流しされていた。萩野は患者の調査の結果、カドミウムが大量に蓄積してることを確認、イタイイタイ病はカドミウムを含む排水によるものだと結論づけて学会発表を行う。しかし彼の発表は他の学者からは冷淡にあしらわれる。
しかし彼の発表に注目した人物がいた。地元の農家の小松義久である。彼は祖母をこの病気で失い、母もこの病気で苦しんでいた。彼は被害者たちに立ち上がることを呼びかけるが、米が売れなくなると尻込みする人々が多く、彼の説得は難航した。しかし彼は一軒一軒必死で説得(時には力づくで追い返されたこともあるという)、1966年に被害者団体であるイタイイタイ病対策協議会結成にこぎ着ける。その半年後、彼ら30人が神岡鉱業所に直接交渉に向かうが、彼らは警察によって身元確認された挙げ句に、長時間待たされて現れた職員にこう言われる「公の機関が多少なりとも三井に責任があるかのようにおっしゃいますれば、こんな遠いところへ、しかも暑い中をおいでにならなくても、私の方から補償に参じます。逃げも隠れもしないです。天下の三井でございます。」
つまり丁重に門前払いされたと言うことである。この職員の発言には「天下の三井」の責任を国が認めることなどあり得ないという高をくくった態度が露骨に現れている(三井は戦争遂行の国策に従った会社であったわけだから)。
翌年、窮地に陥った小松の元を地元出身で東京で弁護士をしている島林樹が訪れる。彼は弁護士になってまだ1年あまりだったが、それでも患者たちの手助けをしたいと申し出たのだった。彼は小松の呼びかけで集まった患者たちに「こんなひどい公害を許してはいけません。裁判で闘いましょう。」と呼びかける。彼は弁護士仲間にも協力を呼びかける。それに応じて全国の若手弁護士が手弁当で結集、20人の弁護士が協力することになる。
1968年、若手弁護士たちと被害者たちとの初めての会合が行われる。しかし患者たちからは「大企業相手の裁判では勝ち目がない。」「莫大な費用がかかるのではないか。」「裁判が長引いて患者は全員死んでしまうのではないか。」と反発の声が上がる。ここで小松が口を開く「地元でも、米が売れなくなるとか嫁が来なくなるとかいう抵抗は根強い。万一、三井との裁判に敗れることがあれば、地元にいることは出来ないでしょう。そうなれば、先祖代々の戸籍を持って町を出なくてはならない。でも子供や孫の将来のためです。今、私どもがやるしかないでしょう。」。小松の固い決意が会場の空気を一変させる。こうして患者と遺族が原告となって損害賠償請求訴訟が行われることが決定、弁護士たちもイタイイタイ病訴訟弁護団を結成する。
しかし訴訟には大きな壁があった。損害賠償を請求するための民法709条では、神尾鉱業所がカドミウム流したことが故意か過失まで立証する必要があることになっていたのだが、その証拠資料は神岡鉱業所が持っており、実証は事実上困難だった。苦しんだ島林は一つの条文を発見する。それが鉱業法109条だった。そこには鉱業廃水で損害を与えた時は、鉱業権者が賠償するようにとの鬼才があった。彼は農業や漁業補償のためのこの条文を、健康被害への賠償に適用することを考えた。
ただそれでも因果関係の照明は必要だった。しかしカドミウムの人体への影響を立証するとなると、裁判の長期化は必至だった。弁護団はイタイイタイ病が神通川の流域だけで発症していること、その神通川の水が神岡鉱業所の排水で汚染されていることに絞って立証することにする。こうして1968年3月9日に富山地方裁判所に提訴される。
平均年齢37才という原告側弁護団に対し、三井側弁護団は三井三池炭坑争議の弁護団長や元名古屋高裁長官などそうそうたる布陣であった。裁判開始から三井側弁護士はカドミウム説を否定すると共に、証拠調べも拒んで引き延ばしを図る。これに対して原告側弁護団は現場検証を求め、ようやく半年後に実施される。しかしその時も亜鉛集積所での検証が拒否されるなど、原告側の思惑通りには進まなかった。しかも訴訟費用が底をつく。そこで裁判費用支払いの猶予を受ける訴訟救助を弁護士たちは思いつく。しかし訴訟救助を受けるには生活保護を受けるほどの資産がない場合に限られていた。しかし被害者には農地も家もある。悩んだ弁護団は被害者は三井と比較すると相対的に資産が少ないという論をひねり出し、裁判所も全員に訴訟救助を認める。社会の空気が変わりつつあったのだ。実際に婦中町議会では全会一致で町費から100万円の助成金を出すことを決めた。これに対して工業化に熱心だった富山県から横槍が入るが、世論が原告団に味方し、富山県のほとんどの市町村が裁判支援を決議する。
1969年、証人尋問が開始される。原告側証人と被告側証人の意見は真っ向から対立(当然ではある)、しかし患者の証言などもあり、被告側は徐々に追い込まれていく。追いつめられた被告側は、第三者による科学的な鑑定を求め、裁判の引き延ばしを図る。しかし既に21人の原告が亡くなっていた。これ以上の引き延ばしはできない。島林らは早く結審することを訴える。
1970年、公害裁判に対して最高裁でも動きが現れる。今後の公害裁判に対し、加害企業に立証責任を負わせること、訴訟救助の適用で原告を保護する必要があることを打ち出す。こうして三井側の申請は却下され、1971年6月30日に原告勝訴の判決が出される。日本の公害裁判において原告側が初めて勝訴した画期的判決だった。三井側は即日控訴するが、翌年の控訴審でも原告側が勝訴、判決は確定する。この判決の後、水俣病訴訟や四日市ぜんそく裁判などで原告が勝利する。
日本の公害訴訟において画期的な事件となったイタイイタイ病訴訟のエピソードである。この判決が画期となって、日本の企業も環境問題を考えないといけなくなり、それが今日の日本企業の環境技術の高さにつながり、それが今後の日本の競争力の高さにもつながっていることを考えると、この判決は目先の金のことしか考えない守銭奴(某経済団体の便所会長のような人物)には日本の企業にとって好ましくないように感じられたかもしれないが、実際は長期的に見た場合に日本の企業にとっても好ましいものであったのは明らかなのである。現に番組でもエピローグとして、その後の神岡鉱業所がいかにして地元の人々と協力しながら被害補償に取り組んだかを紹介している。
ところでこの番組では以前より「プロジェクトX」的なものをやりたいという意志がにじんでいたが、今回などはまさしくプロジェクトXそのものであった。ネタ自体も戦後のものであるし、当時に関わった人物を中心に、本人の証言も交えながらの構成など、まさにプロジェクトXそのものであった(むしろ、なぜプロジェクトXでこのネタを扱っていなかったのかが奇妙なのだが)。その結果として、いかにもこの番組らしく演出は抑えめであったにもかかわらず、この番組には珍しいほどの「熱い」話になっていたようである。実をいうと、私も不覚にも涙がにじんだのである。
2/28 その時、歴史が動いた「天下は我が掌中にあり〜黒田如水・もうひとつの関ヶ原〜」
豊臣秀吉の軍師として彼の天下取りに貢献した黒田如水(官兵衛)。しかし彼は実は天下分け目の関ヶ原の裏で、天下取りを狙ったと言われている。今回はそのエピソード。
黒田官兵衛は播磨の小寺氏の家臣だった。当時の小寺氏は織田と毛利に挟まれて存亡の危機に瀕していた。切れ者で知られる官兵衛は、信長が天下をとると睨んで信長につくことを主君に勧め、小寺氏は信長につくことになる。彼はこの時に毛利攻めに派遣された秀吉と出会う。官兵衛は秀吉の要請を受け、播磨地域の豪族たちの説得工作にあたり、多くを信長方につけることに成功する。
しかし1578年、官兵衛の主君の小寺氏が突然に毛利方に寝返ることを決意、再び織田方につくよう主君を説得した彼は、毛利派の家臣によって幽閉されてしまう。彼の幽閉は1年に及び、織田軍に救出された時には半死半生の状態だった。そうして救出された官兵衛は秀吉の家臣となる。そして官兵衛は秀吉の元で頭角を現し、本能寺の変では秀吉の中国大返しを仕掛け、ついには秀吉を天下人にする。
官兵衛は秀吉の九州討伐にも参加、そこに息子の長政を同行させる。ただし勇猛果敢に戦果を上げる長政に対して官兵衛は、匹夫の勇で大将の道ではないと批判したという。官兵衛は巧みな調略で九州の豪族を味方につけ、秀吉の九州平定のお膳立てをする。
九州平定に多大な功績をあげた官兵衛。しかし彼に与えられた恩賞は豊前の18万石にすぎなかった。この頃から既に秀吉は官兵衛の才能に脅威を感じ、自分を脅かすのではないかと警戒を始めていた。そのことを知って愕然とした官兵衛は、1589年に家督を長政に譲り、自身は豊前に隠居する。この時から官兵衛は如水と名乗ることになった。
しかし1598年に秀吉が死去した後、天下は大きく動き始める。家康は勢力を強め、それを牽制しようとする三成と対立する。これを見た如水は、近畿との間の情報網を整備して、しきりに情報を入手し始める。実は彼は天下を狙っていたのだという。如水の戦略は、家康と三成の対立でほとんどの大名が出征した後の九州を平定、その兵力を率いて中国を平定しながらさらに軍勢を増やし、そのまま長い戦いで疲弊している関ヶ原の勝者(如水は家康が勝つと見ていた)を倒し、天下を手に入れるという作戦だった。
如水は家康に警戒心を抱かせぬため、5000の兵を与えて息子の長政を家康の元に送り、自身は金で雇った農民たちを含む9000の兵で隣国の攻略を開始する。そして攻略した兵を次々と吸収しながら、軍勢を膨らませていった。しかし如水が愕然とする情報が飛び込む。長期戦になると見ていた関ヶ原の合戦が、なんと半日で決着がついてしまったのである。しかも皮肉なことに、東軍の勝利に貢献したのは息子の長政だった。悔しがる如水だが、こうなると東軍に味方をしているふりをしながら、早急に九州を平定して兵力を整えるしかなかった。そこで彼は急いで九州を攻略、島津の攻略を残すのみとなる。この時には既に如水の軍勢は3万に膨らんでいた。しかし島津攻めを始めようとした時、1600年11月12日、家康からの進軍を止めるようにとの書状が届く。家康は如水の動きに危険なものを感じていたのだった。ことここに及び、如水はもう勝敗が決したことを悟らざるを得なくなる。
この後、如水は真の隠居生活に入り、二度と戦場に立つことはなかったという。
黒田如水の最後の大勝負の話。ただ関ヶ原の戦いが長期化すると見て、裏で怪しい動きをしていたのは何も如水に限った話ではない。東北では伊達政宗が如水と全く同じようなことを考えて実行していた。だからもし関ヶ原の合戦が如水のもくろみのように長期化していたとしたら、三成と家康は混乱の中で倒され、九州から攻め上った如水と、東北から攻め下ってきた伊達政宗との間で第二次関ヶ原の合戦が行われていた可能性もあるわけである。そうなったとしたら先の歴史は全く予想できない。両者の対決が早期に決着がつかず、長引くようなことになると、各地で不穏な動きが出てきて結果としては戦国時代第二弾が訪れるという可能性もある。
ただし実際のところは、このような動きがあることは当然ながら家康も察知しており、そのために短期決戦になるように誘導していたわけである。結局のところ水面下での腹のさぐり合いでは、結果として勝利をおさめた家康が一番したたかだったと言うことか。
2/21 その時、歴史が動いた「鉄は国家なり〜技術立国 日本のあけぼの〜」
今回のテーマは製鉄。日本が鉄道レールを完全国産化に至るまでの話とか。なんか地味。
明治時代より日本において鉄の国産化は急務であった。そこで1880年に官営釜石製鉄所が作られるが、燃料が近くに存在しない上に、設備と技術がすべてイギリスからの輸入だったため、操業がうまく行かず、2年で閉鎖の憂き目にあう。しかし産業の発展と共に鉄の輸入は増加し、国家財政が危機的状態になり、やはり鉄の国産化は重要であるとして、改めて製鉄所建設のための委員会が設置される。議員などがメンバーを占める中で唯一の近代製鉄の専門家として参加したのが、帝国大学工学部教授の野呂景義だった。
一刻も早い製鉄所の建設を求める政府に対して、野呂は失敗の原因を徹底的に究明することからはじめることを訴える。2年間釜石に通い続けた彼は、原料調査を行っていない、海外技術に手を加えずにそのまま導入したことなどが失敗の原因として、最初は小規模に導入して、徐々に規模を拡大することで技術力を上げていくことを主張した。
1901年、八幡に官営製鉄所が建設された。しかしそこに野呂の姿はなかった。鉄の増産を急ぐ政府は、大規模な製鉄所の建設をいきなりはじめ、政府の方針と対立した野呂は既に去っていた。この製鉄所では野呂の弟子達が苦戦することになる。いきなり製鉄所はその生産能力の1/10も生産できなかったのだった。そして相次ぐトラブルで1902年には高炉の停止が命じられる羽目になる。
しかし1904年に日露戦争が勃発し、鉄の確保のために高炉の再開が命じられる。しかしやはり鉄はとれなかった。野呂の弟子達は野呂に助けを求める。彼らから細かく事情を聞いた野呂は、国産コークスがもろくて高炉中で壊れてしまうことが原因だと分析する。彼は国産コークスの特性に合わせて炉を改良、ようやく銑鉄の取り出しに成功する。野呂は徹底して原因を究明して対策を打つという、技術者としての重要な姿勢を弟子達に伝えたのだった。
そうして製鉄が軌道に乗ったと思われた大正時代、思わぬ事態が発生する。国産レールの破損事件が多発したのだった。この時には既に野呂はこの世になく、原因究明に当たったのは野呂の弟子達だった。その中でも研究員の児玉晋匡は全国の現場をくまなく回り、寒冷地で破損が多いこと、イギリス製のレールがぬきんでて破損が少ないことなどを明らかにする。イギリス製レールと国産レールの徹底的な比較分析が行われ、国産レールには内部に不純物の層があり、そこが破損の原因になっていることが明らかになる。そして日本向けの新しいレールの規格が制定され、世界でもトップクラスのレールが開発され、1930年に海外からのレールの輸入がすべて停止され、国産レールのみでまかなわれるようになったのである。
うーん、やはりネタとして地味。なおこの番組の場合、こういう技術系のネタの時は、以前なら露骨にプロジェクトXを意識した構成になっていたが、今回は演出にそのような影はなかった。NHK全体がプロジェクトXの呪縛から逃れたという象徴だろうか。
なおこの時に製鉄は完全に国産化されたような印象を受けるが、実際はまだまだ鉄の輸入は多く、第二次大戦開戦の決定的要因の一つは、アメリカからくず鉄の輸出を禁止されたことにあったりするのである・・・・。技術力開発に力を入れながらも、常に資源小国の悲哀を味わっているのは日本の宿命のようなものでもあるのである。
2/14 その時、歴史が動いた「中国と国交を回復せよ〜足利義満の日明外交〜」
室町時代、三代将軍に就任したのが足利義満だが、彼が将軍に就任した時はまだ南北朝の動乱期であった。そんな時、彼は衝撃の知らせを受け取る。南朝の後醍醐天皇の皇子であり当時九州で勢力を誇っていた懐良親王に、明から日本国王として任じる使者が送られていたのだった。南朝と明が軍事力で結ぶことを恐れた義満は、早速明へと使者を送ることを考える。
しかし幕府内では義満に反対する声が強かった。未だに蒙古襲来の記憶の残る幕府には、中国に対する不信感が強かったのである。しかし義満はその反対を押し切る形で明への使者を送る。しかしその結果は惨憺たるものだった。日本国王である天皇の臣下である義満には交渉の資格がないとして門前払いを食らったのである。
その6年後の1380年、義満は再び明に使者を送るが、またも拒絶される。義満が中国の皇帝に対しての臣下の礼をとっていないということが理由だった。これには幕府側も憤る。ここに来てこのままでは埒があかないと考えた義満は、まず国内を固めることに専念する。そして1392年、ようやく南北朝の統一に成功する。
こうして国内を固めた義満だが、明との国交回復は諦めていなかった。当時の日本では宋の銅銭が普及していたが、国交の途絶で銅銭の供給が絶え、日本国内がデフレ状態になっていたのだった(日本独自の銭を鋳造すれば良いような気もするのだが、国産の銭を作っても当時の国際通貨である中国銭よりも信用が低くて使い物にならなかったかのだろう)。
だが義満はあえて急がなかった。まず朝廷から准三后という皇族に匹敵する地位を取得すると、息子の義持に将軍位を譲り、天皇の臣下という立場を脱する。そして京の北山に、将来の明からの使者を招致することを想定した政治と外交の舞台を建設する。この中の迎賓館として建築されたのが金閣である(この工事には当時の金で400億円かかったことになるとか)。
しかし義満の努力を無にする事件が発生する。中国で皇帝の側近が謀反を起こし、その裏で日本の関与があると疑われたのである。義満にとっては全くあずかり知らぬ事件であったが、これで国交回復は暗礁に乗り上げる。
義満は情報を集めながらじっくりと時期を待つことにする。そしてその時期が到来した。明で皇位継承争いが起こったという情報が入ったのだった。明の皇帝も今なら味方となる国を求めていると考えた義満は、そっそく使者を送る。こうして1401年、3度目の使者が送られたのだった。義満は使者に多くの貢ぎ物を持たせ、義満自身もあえて臣下の礼をとった。1402年、義満の願いが叶って明からの国書を携えた使者がやって来る。こうして日本と中国の国交が回復されたのだ。
この後、日本と明の貿易は盛んとなり、明の銭も流入、幕府の財政基盤も大いに強化されたという。明の皇帝に対してあえて臣下の礼をとった義満は、名を捨てて実を取ったのである。
なかなかにしたたかな外交駆け引きの話であるが、日本と中国の関係については大体古代から一貫しているのは、日本は中国のプライドをくすぐっておいて、実利の方をしっかり取るというパターンである。義満にしても「頭を下げるだけならただ」という計算があったように思われる。なお今の日米関係を見れば、高圧的に出られた上に実利も向こうに取られているのだから、ある意味古代の外交の方がよほどうまかったようにさえ見える。いつから日本はこんなに外交下手になったのだろうか。まあ指導者の資質が悪くなったというべきかもしれないが。
なお日本と中国との国同士の正式な国交は894年の遣唐使廃止以来絶えた状態とのことだったが、この間も民間ベースでの貿易などは常に行われていたという。確かに平清盛なども宋と貿易をしていたはずである。なんだかんだ言っても、中国と日本は関わり合いなしにはすまないわけである。
2/7 その時、歴史が動いた「完成・戦国最強軍団〜武田信玄・苦悩の生涯〜」
今回のテーマは武田信玄。この番組によくある大河ドラマ連携企画でもある。
武田信玄は「人は城、人は石垣」などと言い残しているが、実は武田家臣団は決して一枚岩ではなく、それを結束させるために信玄は非常に苦労していたというエピソードのようである。
武田家ではそもそも家臣の力が強く、信虎はそれを抑えるために圧政を敷いた。それに対して反発した家臣団は、放蕩三昧で御しやすいと考えた信玄を担ぎ、信虎を追放した。こうして当主となった信玄だが、その行動は改まらず、それを好機と見た隣国に攻められて領土の一部を失ってしまう。これに危機感を感じた家臣団は内紛で揺れる諏訪に攻め込み、11日で勝利をおさめる。信玄は諏訪市の娘に熱を上げるが、家臣は諏訪氏に諏訪を乗っ取られるとそれに反対する。その時に信玄に味方したのが山本勘助だったという。
その後も信玄の家臣団への統制はなかなかとれなかったという。悩む信玄に助言したのが山本勘助で、彼は信玄に甲州法度の制定を働きかけたという。しかしながらこの甲州法度もまだ家臣へ受け入れられなかった。そしてその家臣団の統制の弱さが露呈したのが、信濃の村上氏との衝突だった。功を焦って深く切り込みすぎた家臣達は村上氏の反撃で兵の1割を失う完敗に終わる。
家督を継いで8年後、信玄が勘助に家臣の統率術を訪ねた。その時に勘助が答えたのが、戦を続けて領土を獲得し、その土地を家臣に与えることだということだったという。またどうすれば合戦に勝てるかについては、1に計略、2に布陣、3に情報の見極めただと答えたとのこと。これを聞いた信玄は、村上氏の家臣の一部を寝返らせる謀略を行ってから村上氏を奇襲、その領土を手に入れ。それを家臣に積極的に分配する。このことによって信玄を敬う家臣が増えだしたという。
しかしその信玄の前に立ちはだかったのが上杉謙信だった。結局は合戦は5度にも及び、その中で最も激しかった4回目の戦いで山本勘助も戦死している。だがこの合戦は家臣団の結束を固める効果も上げた。武田の本陣が危うくなったとき、自らの命をかけて信玄を救おうとする家臣達がそこにあった。
その後、情勢の変化が起こる。今川義元が討たれたことで今川氏が弱体化したのだった。信玄は今川領への侵攻を計画するが、これがまた家臣団の内紛を招いた。今川氏の娘を妻にしている嫡男の義信が今川攻めに反対、それに同調する家臣の一部と、信玄の追放を計画したのだった。信玄は義信に同調した家臣を厳しく処分し、義信を幽閉した。しかしそれでも火種は消えず、信玄は義信を反逆者として処分するという苦渋の選択を迫られる。
我が子までも手にかけ今川領を手に入れた信玄はいよいよ京への上洛を目指す、そこに立ちはだかったのが徳川家康だった。浜松城に立て籠もる家康は信玄にとっては目障りな相手だった。城攻めを行えば兵を消耗するし、無視して進軍すれば背後を突かれる恐れがある。そこで信玄は大胆にも徳川軍を三方原に引き出す策に出る。武田軍の背後を突いたつもりで進撃してきた徳川軍は、突然反転して魚鱗の陣で攻勢をかけてくる武田軍の前に惨敗する。武田家臣団の結束がなさせた業だった。
以上、世間で思われているほど武田軍の結束は絶対的ではなく、信玄も結構綱渡りの状態だったというのが今回のテーマ。ただ何もこれは武田家に限った話でなく、どこの戦国大名でも似たような状況だったと思われる。当時の大名は、決して専制君主なわけではなく、豪族連合に担がれた首長というのが実態だったのではなかろうか。だから家臣の方が実力が上になって乗っ取られてしまった例もよくあるし、君主の器量のなさに愛想を尽かした家臣団が離反してしまったという例も少なくはなかった。結局はこの時代の良い君主とは、領土を広げて恩賞をくれる人物であるわけだから、必然的に戦国大名は領土拡大のための戦いに明け暮れなければならなかったわけである。武士といえば主君のために命をかけてなどと思われているが、そんな価値観が固定化されたのは江戸時代以降のことで、この時代の武士はもっと現実的でドライである。なお武田家はこの後、息子の勝頼の代で滅亡しているが、勝頼の最後も家臣に裏切られたことによるものであった。
この時代に大名をするのは、今の時代に会社の社長をするのなんかよりも、はるかに大変だったということである。今の財界を見渡しても、これが戦国時代なら当に家臣に追放されていそうな経営者が多い。少なくとも「サービス残業合法化法案」なんかを与党に裏で働きかけて通そうとするような輩など、この時代ならとうの昔に追放されているか寝首をかかれているだろう。
なおこれは余談だが、今回の映像、随所にかつての大河ドラマ「武田信玄」(中井貴一主演のやつ)の映像が使われていたようだ。現在の大河ドラマはまだここまで撮影が進んでいないだろうから。こういう使い回しが多いのもこの番組の特徴。ちなみに今回は大河ドラマを意識して、山本勘助の存在をかなりクローズアップさせているが、それでもこの程度なんですよね。実のところ、山本勘助という人物は、歴史上で見てみると特にこれということをしていないといわざるを得ないと思うのですが・・・。
1/31 その時、歴史が動いた「東京オリンピックへの道〜平和の聖火 アジア横断リレー〜」
ヒトラーによる国威発揚に利用されたベルリンオリンピック。その時に日本の水泳チームを率いて参加していたのが、田畑政治だった。彼は日本でもベルリンに負けないオリンピックを開催しようと企画、東京が次回のオリンピックの開催地として決定される。しかし日中戦争の激化と共に不参加を表明する国が続出、結局は東京オリンピックは幻と終わる。またこの戦争で田畑は多くの教え子を失い、スポーツを愛国心高揚に使用することの愚かさに気づく。
戦後、国際社会に復帰しようとしていた日本だが、ロンドンオリンピックへの参加は拒否される。イギリスは日本に対する敵対心を捨てていなかった。しかし次のヘルシンキオリンピックには日本の参加が許される。しかし田畑がそこで見たのは、東西冷戦がオリンピックに持ち込まれている姿だった。日本は西側陣営の一員として、東西対立の中で参加を許可されたのである。田畑に複雑な思いがよぎる。
またフィリピンで開催されたアジア大会では、日本を取り巻く厳しい現実を見せつけられる。日本の選手には観客から罵声が浴びせられ、石が投げられた。アジアの国は日本による侵略の痛みを忘れていなかった。
田畑はそんな中、真に平和国家として日本が生まれ変わったことを伝えようと、日本でオリンピックを開催することを計画する。しかし未だ復興途上にある日本で、オリンピック開催は不可能であると当時の岸首相は反対する。そこで田畑はオリンピックがもたらす経済効果をアピール、ようやく国もオリンピック誘致へと動き始める。
そうして東京オリンピックの開催が決定された。ここで田畑はもう一つの計画を進める。それは聖火をアジアの国々巡ってリレーすることだった。これはかつて日本が侵略した国々に、日本が真に平和国家となったことをアピールすることだった。かつては罵声で浴びせたアジアの人々が、聖火リレーには歓声を上げた。そしてアジアを巡った聖火は、最後に広島で原爆の日に生まれた選手によって聖火台へと点された。こうして東京オリンピックは平和の祭典として開催されたのだった。
スポーツと平和の問題について考えさせる内容・・・なのだが、あまりに簡略化しすぎていて、肝心の部分が抜けているように思える。実際はアジアの対日感情が、単にオリンピックの聖火リレーだけで改善したなんて単純なものではないはずなのだが、その辺の背景が完全に抜け落ちているので、どうにも唐突な印象を受ける。
それに現在のオリンピックは決して美しいものではなく、金と薬の祭典にまで堕落してしまっている。個人的には、もう既にオリンピックは使命を終えてしまっているように思えてならないのであるが。
1/24 その時、歴史が動いた「それでも民は祈り続けた〜島原の乱・キリシタンの悲劇〜」
島原の乱の原因については諸説ある。純粋にキリスト教信仰を守るためのものだったという解釈から、キリスト教はあくまできっかけであって、実は領主の苛政に対する蜂起、土一揆の拡大版であったという解釈、また幕府に対する不満から端を発した世直し一揆的なものなどという解釈があるが、今回の解釈はキリスト教信仰が一番重要な要素であったというもの。なんか内容が私が最近読んだ本のものに近いなと感じていたら、ゲストはまさに私が読んだ本の著者の神田千里氏であった。
江戸幕府が成立した年、島原の地域は領主の有馬氏がキリシタンで、キリスト教を保護したことから領民のほとんどはキリスト教に帰依していた。しかしキリシタンは寺社を焼き払うなどの他宗に対する過激な攻撃を行っていた。
そのようなキリシタンに警戒心を抱いたのが家康であった。また彼にはプロテスタント国であるオランダの国王から、カトリック国のスペインとポルトガルが日本で宗教内乱を起こして侵略を目論んでいるとの国書が届けられていた。実際、イエズス会には日本の宣教師から「日本の征服が可能」と伝える文書が残っているという。
そして1612年、有馬氏が密かに領地の拡大を目論んでいたとして処刑され、1614年には禁教令が布告、宣教師達は国外へ追放される。有馬氏に代わって島原を治めることになった松田氏は、キリシタンを徹底的に弾圧、多くのキリシタンが改宗させられることとなる。
しかし密かに信仰を続ける人々もいた。彼らが拠り所としていたのは、ローマ教皇からの援軍を送ることを約束する手紙だった。1637年、3年連続の飢饉にもかかわらず過酷な税の取り立てで苦しむ人々が、次々にキリシタンへの回帰を宣言し始める。彼らの間ではやがて天人が現れるという伝説が広がっており、天草四郎こそがその天人として祭り上げられる。このことによって、ほとんどの村人がキリシタンへと回帰することとなった。
キリシタンへ回帰した村人達は武装蜂起、島原藩では対応が不能になり、一揆勢は島原城まで押しかけた。この乱に懸念を感じた将軍の家光は3万7千の一揆軍に対して、12万の軍勢を送り込む。幕府軍の襲来を知った一揆勢は原城に立て籠もって、カトリック教国の援軍を待つ戦略に出る。
幕府軍は最初は力押しで攻撃をかけるが、信仰で結束する一揆勢は手強く、多大な損害を出す。そこに新たな指揮官として到着したのが、老中の松平伊豆守信綱、知恵伊豆とも呼ばれる切れ者だった。彼は城内に「キリシタンになったことを悔いて投降する者は許す」という矢文を打ち込ませ切り崩しを図るが、それに対して一揆勢は「神に対して命を捧げる覚悟」との矢文を打ち返してき、信綱は一揆勢の信仰の固さを思い知る。
しかし一揆勢の待ち望む援軍は来なかった。援軍を送ろうにも禁教下の日本には宣教師達が上陸することさえ不可能だったのだ。また信綱は一揆勢の意志を挫くために、オランダに依頼してオランダ船による砲撃を行わせる。味方と信じていた外国船からの攻撃に、一揆勢に動揺が広がる。
籠城から3ヶ月、一揆軍の結束にかげりが見られるようになった頃、幕府軍は総攻撃に出る。もはや一揆勢には抵抗する力はなく、キリシタン達はなで切りにされ、天草四郎も二の丸で命を落とす。幕府は一揆勢の死体ごと原城を埋めてしまい、まさに乱を封印してしまう。その後、さらに禁教令は徹底され、踏み絵を使った宗門改めも導入されるようになる。
以上、島原の乱はあくまで信仰が中心であったという話。ただ信仰が中心であったが、飢饉によって追いつめられて、藁をもつかむ思いで信仰にすがろうとしていた事情もかいま見える。また宣教師が日本征服の野心を持っていたということについては、濡れ衣だという意見もあるようであるが、今回の番組ではその野心があったことをはっきりと認めており、これは私も全く同感である。実際、日本に布教を行ったイエズス会は、戦う宣教師軍団とも言われており、彼らが布教を行った地域にはやがて侵略軍がやって来ているし、宣教師自らも先頭に立って戦っているのである。だからあの時点で家康が禁教令を布告したのには、合理的理由はあったわけである(何もキリシタンに対する過酷な弾圧を正当化するつもりは毛頭ないが)。
なお番組ではキリシタン達は最後まで信仰のためにほとんどが玉砕したかのように描かれているが、投降しようとして捕らえられたという山田右衛門作に限らず、実際には結構落伍者はいたということが神田氏の著書にも記されている。その辺りが、単純に信仰だけのものではなくて、土一揆の性質があると言われる理由でもあるのだが。まあ私には、追いつめられすぎて村人が破れかぶれになった面が強いように思われ、結局は島原藩の失政が原因としか考えられないが。
1/10 その時、歴史が動いた「戦国の剣豪、太平を築く〜柳生宗矩・「活人剣」の真実〜」
今回の主人公は、幕府の剣の指南役として知られている柳生宗矩が主人公。
柳生一族はそもそも柳生の里を根拠地とした豪族で、宗矩の父・石舟斎が築いた独自の剣の流派が柳生心影流で、石舟斎は剣の達人として知られていた。しかし既に戦国も末期に近づくこの時代では、合戦の主役は鉄砲・弓・槍などの遠距離兵器であり、剣の出番はあまりなくなっていた。しかも柳生の地は交通の要衝のために、他の豪族からの干渉が強く、生き残りのために諜報技術に通じることになる(伊賀との姻戚関係もあったという)。
しかし豊臣秀吉が天下を統一した後、太閤検地にあたって領土を誤魔化していたとして領土没収の憂き目にあう(交通の要衝だけに、秀吉が因縁をつけたのではないかと推測するが)。
9年後、没落に貧していた柳生家にチャンスが訪れる。家康に剣を指南したことで、宗矩が召し抱えられることになったのである。そして関ヶ原の合戦。宗矩は家康から、石田方の内部調査と後方攪乱を命じられる。家康は柳生家の剣の腕よりも、諜報活動の技を買っていたのだった。宗矩はその功で柳生の領地を再び与えられるが、宗矩にとっては複雑な心境であった。
その後も宗矩は諜報活動の面で家康に貢献することになる。大坂の陣では豊臣方の内部情報を探り、幕府成立後は各大名の動向を探った。柳生家は表向きは公儀の指南役ということになっていたので、各大名に門弟が召し抱えられていたが、彼らがいわゆる諜報員だったのだという。
しかし宗矩は釈然としない気持ちを捨てきれなかったという。しかも友人であった坂崎成正が謀反を起こした際、彼は秀忠の指示で仲介工作を行い、成正が切腹したら坂崎家は取りつぶしを免れるということで説得したのだが、幕府側は最初から坂崎家を取りつぶす気であり結果として友人を欺いてしまうことになる。宗矩の絶望感は強まっていく。
そんな宗矩に転機が訪れたのは禅僧・沢庵との出会いである。彼は宗矩に「こだわらぬ心こそ動かぬ心」ということを伝え、目先のことにこだわらずにより大きく物事を見ることを教える。これで宗矩は剣の道と人生を重ね合わせることになる。
その頃、宗矩は家光に剣を教えるようになる。宗矩は剣を通して家光に生き方を指導していくことになる。その時に彼が家光のために記したのが兵法家伝書で、そこには「人を殺す刀を人を活かす剣」にすることを記している。彼は家光に、悲惨な戦乱が二度と起こらない世の中を作る重要性を訴えていたのだという。そして家光は太平の世を目指すための「武家諸法度」を発する。
剣の道と太平の世で板挟みになった剣豪の話。実際、太平の世になって行き場をなくした剣豪は多く、宮本武蔵などもその一人である。宗矩は途中で思考を切り替えたようだが、それが出来ずに時代の狭間に消えていった者も多いし、中にももう一度戦乱を起こそうとしたはた迷惑な奴もいる。同様のことは今の世でも、内線が治まった後の軍人などに起こることが多い。どうしても軍人という存在自体が戦を好むというのは否定できないようで、軍が強すぎるアメリカが未だになんだかんだと戦争をしたがるのも同じである。
ただ、宗矩が諜報に対して釈然としないものを感じていたのは分からなくもない。実際、柳生家はそっちの活動に従事していたことは結構知られているので、今でも創作の世界などでは悪の黒幕的な描かれ方をされることが多いから(「子連れ狼」などではもろに敵役でした)。大体、CIAやKGBの長官なんて、どうしたってあまり良いイメージはないから。今回の番組を見てても、宗矩は家光の弟を追い落とす工作をしてたりするわけだし・・・・。
12/20 その時、歴史が動いた「母の灯火 小さき者を照らして〜石井筆子・知的障害者教育の道〜」
明治時代、鹿鳴館の華と言われた美しい貴婦人がいた。長崎の名家で生まれ、高級官僚に嫁いだ小鹿島(石井)筆子だった。フランス留学経験もあり、津田梅子と共に華族女学校の教師も務める才女である彼女は、世間の羨望の的だった。
しかし明治19年に彼女が娘を授かった後、彼女の運命は暗転する。彼女の生んだ長女・幸子に知的障害があることが明らかになったのである。さらに次女は幼くして亡くなり、三女も発達に遅れがあった。新聞はかつての鹿鳴館の華の彼女のことを「憐れ」と書き立てる。富国強兵策のまっさなかの当時の日本では、兵隊にもなれず働きも出来ない知的障害者は差別の対象となっていた。彼女は信仰にすがるしかなかった。またこの頃に人権思想に触れて感銘を受ける。
しかし彼女の不幸に追い打ちがかかる。彼女が31歳の時に夫を病で失い。また娘が障害者では後々に婿もとれないと、嫁ぎ先から離縁される(早い話が、障害者の娘などいらんと、娘と彼女は嫁ぎ先から追い出されたわけである)。彼女は路頭に迷うことになる。
そんな時に彼女が出会ったのが教育者の石井亮一であった。彼は初めて知的障害者のための全寮制の学校である滝乃川学園を立ち上げたところであった。アメリカに留学して障害児にもその発達を促す教育があることを学んだ彼は、障害児を教育するための施設を作ったのである。彼の教育方針に感銘を受けた筆子は、彼の学園に協力することになり、やがて明治36年に二人は結婚する。
しかし筆子を待っていたのは、今までの良家の子女とは全く異なる教育現場だった。本を破って投げる子、つばを吐いて噛みつく子、教育の現場という状況ではなかった。しかし彼女は、夫共に生活を通して生徒達を教育していく。
例えば朝食も大事な教育だった。幼い頃から牛乳しか飲まずに食事をしなかった子供がいた。その子供に大して彼らは味覚を養うことから始め、ついには普通の食事をするようにまで教育した。しかもその子は偏った食生活が改善されたことで、苦手だった計算も出来るようになったのだった。
しかしそのような手探りの教育を続けていた大正9年、園児の火遊びで男子寮から出火、救出の遅れた園児6人が焼死する。彼らは布団をかぶったままなくなっていた。恐怖のあまり隠れてしまったことで発見が遅れてしまったのだった。この事件は筆子を打ちのめす。
だが大正デモクラシーの社会雰囲気の中、彼女の教え子や渋沢栄一などの財界人が学園救済に乗り出し、10万円(今の価値で4000万円)が学園に寄せられる。これで彼女は再び奮い立つ。
学園再開にあたって、亮一は以前から抱いていた構想を彼女に打ち明ける。大人になった学園生が働ける農場を作りたいというものだった。しかしそれには1億円以上の借金が必要だった。二人は熟慮の末「子どもと共に学び 共に食し もし糧なくば 共に死せん」と決意する。こうして昭和3年、学園は東京・巣鴨から国立市・谷保へ移転する。ここで農業を学んだ園生の中には親元に帰って行く者も出た。彼らの理想は実を結ぶかと思われた。
しかし昭和4年、昭和恐慌の波が訪れる。巣鴨の土地を売って借金返済に充てようという思惑がはずれ、学園の借金は2億円に膨れあがる。また筆子も脳溢血で床に伏し、亮一も病に蝕まれる。珍しく弱音を吐く筆子を励ます亮一。しかしその亮一が昭和12年に70才で死亡する。翌年、日中戦争が勃発、世間は戦争色一色に染まっていく。もはや限界として学園の閉鎖も検討され始める。
しかし彼女はこの学園を見捨てることは出来なかった。昭和12年10月16日、彼女は夫の後を受けて学園長に就任する。彼女はあらゆるツテで寄付を募り、私財をなげうって学園の存続に貢献する。そして滝乃川学園は今日まで続いているのだという。
障害者教育に取り組んできた先人の物語である。障害者は以前より強い差別にさらされて、社会のお荷物扱いを受けてきたが、こういう先人の血を流すような努力があって今日につながったのである。特に戦争中などは、兵隊として役に立たない障害者は、数々の迫害を受けており、並大抵の苦労ではなかっただろうと思われる。
しかしこれをふいにしようとしているのが今の政府である。特に弱い者いじめ大好きの小泉が制定した「障害者自立支援法」はその名とは正反対の障害者生活破壊法である。元々この法律の目的自体が、障害者に福祉サービスを利用させないことであるので、生活が立ち行かなくなる障害者が続出し、現場では惨憺たることが起こっている。さらに今の安倍晋三は、兵隊にならない国民は不要と考えているくちなので、障害者はさらに見殺しにされる可能性が高い。私が小泉内閣を史上最低の内閣と断言するのは、金のある奴は犯罪者でも徹底して優遇するくせに、弱者救済のために先人が積み上げてきた努力は極めて単純に無に帰してしまったからである。
11/29 その時、歴史が動いた「ひらがな革命〜国風文化を生んだ古今和歌集〜」
1100年前、平安時代の中期、日本のシステムは中国から導入した律令制度で行われており、1万人の官僚が国を支えていた。そして彼らが公式に用いていた文書は漢文であった。
この頃に登場した秀才が菅原道真だった。当時の学者の当然の教養として彼も漢文を身につけていた。この同じ頃朝廷に登場したのが、有力者藤原氏の御曹司、藤原時平である。彼はかな文字を駆使する和歌の達人で、多くの女性と浮き名を流していた。
886年、讃岐の地方長官に任じられた道真は、地方で律令制度の限界を目の当たりにする。重税に耐えかねた民衆は土地を捨てて逃げ出しており、貧困にあえいでいたのである。当然ながら税収も減る一方であった。京に呼び戻されて参議に任命された道真は律令制度の立て直しを決意する。この頃、藤原時平も名家の御曹司として参議の地位を得ていた。
894年、疲弊する朝廷では57年ぶりに遣唐使を送って、唐から最新の知識や制度を導入しようという機運が盛り上がる。しかし道真は唐の現状を伝える文書を読んで愕然とする。唐では戦乱か相次いで国内が乱れに乱れており、この時期に遣唐使を送っても得る物はないばかりか、使節の身の危険さえ考えられた。道真は遣唐使を廃止することにする。
さらに道真は律令制度の改革にも着手した。有力者の土地所有を認める代わりに、彼らから税を徴収するシステムを考えたのである。そして彼が改革に着手した頃、宇多天皇が退位、醍醐天皇が代わって即位し、この時に道真と時平が補佐役として立てられた。位としては有力者である時平の方が道真よりも上であったが、学識や経験豊富な道真が自然と朝廷のリーダーシップを握るようになった。
しかし道真の改革は中国の制度を絶対視する官僚達の反発を呼んだ。道真に反発する彼らは自然と時平の周囲に集まるようになり、ついには彼らは集団サボタージュに及び政務は停止してしまう。その結果、道真は太宰府に流されてしまう。
道真を押しのける形で朝廷のトップに立った時平だが、彼にしたところで律令制度の改革の必要性は感じていた。彼は道真と同じ方策を採用するが、その改革はうまく進行しなかった。そこで中国を絶対視する風潮を改めるためには、日本の文化に注目する必要があると、彼はかな文字による和歌を集めた古今和歌集を編纂することを命じる。
このことによって、今まで女性の文字として正式な物と認められていなかったかな文字が、社会の表に現れることとなり、それが国風文化という日本独自の文化の開花につながっていったのだという。
と言う内容なのだが、律令制度改革に古今和歌集というのがどうにもこうにもピントがずれているように見えて、どうにもしっくり来ない。やはり政治改革が必要にもかかわらず、愛国心を洗脳する教育改革という馬鹿げたことにばかり精を出している安倍晋三に対するNHKからの援護射撃のつもりなんだろうか?(NHKの番組内容については、安倍晋三は自らに都合が良いものとなるように逐一干渉しているようですから)。
なお番組では藤原時平自身は特に道真を排除しようという意図はなかったという解釈だが、果たしてそれはどうだが。後の世に時平は道真追放のための陰謀を練った悪の張本人として悪役にされてしまったが、それは実際に本質を突いているように私には思える。時平の権力奪取は、藤原氏が朝廷を牛耳るという意図の元に行われており、そのためには道真が邪魔だったことは間違いないからである。
ちなみに律令制度が崩壊して、有力者の土地私有が認められるようになった時、一番恩恵を蒙ったのが実は藤原氏だったのである。改革と詐称して、自分の周辺にだけ利益をばらまいている安倍晋三との共通点はここにもある。
なおかな文字については、よくぞ日本にかな文字があったもんだと感心している。日本にかな文字がなかったら、コンピュータの定着が5年は遅れたであろう。実際、かな文字に該当する文字のなかった中国で、ワープロを導入するのにどれだけ苦労したかを考えると、かな文字様々なのである。
11/22 その時、歴史が動いた「我が手に郷土を〜真田昌幸・信州上田の市民戦争〜」
今回の主人公は、信州の小大名でありながら、当時最強の徳川軍団を二度にわたって破り、あの徳川家康を震撼させたという真田昌幸である。
真田家は武田氏に仕えていたのだが、武田氏の滅亡によって主を失うことになる。武田の重臣としての今までのキャリアがふいになってしまった昌幸は、真田の発祥の地である信州の上田を根拠に再起を期すことになる。しかし領国を見て回った昌幸は、干ばつなどで田畑が荒れ、疲弊している農民の現状を見る。少しでも良いから年貢を軽くして欲しいと直訴する農民達に、彼はなんと年貢の半減を約束する。彼は当面の収入よりも農民からの信頼を優先したのだった。
また独立領主として国造りをしていくには家臣団の充実も重要だった。彼はかつての同僚であった武田家臣団に目をつける。しかし彼らを雇うにも十分な禄がなかった。そこで彼は武田の浪人達に城下の一等地を与え、それまでの真田の家臣団と差別せずに重臣などの重要な地位を与える。そのことによって武田の浪人達は昌幸こそ主君として頼める人物であると信頼をする。
上田の周辺では200万石の北条氏と130万石の徳川氏が勢力を競い、上田へと手を伸ばしつつあった。これに対抗する昌幸は10万石の国力しかなかった。この限られた国力で大勢力と対抗するために昌幸が打ち出した方針は、農民に土地の所有を認め、農民と土地の結びつきを強めることであった。農民の郷土防衛意識を強めたのだった。
1582年、昌幸が国造りを始めて間もない頃、北条氏が上田近くまで進出してくる。昌幸は急遽防衛のための城作りに着手するが、敵を牽制しながら城作りを急ピッチで進めるのは人手不足で困難であった。しかしその時に領民達が立ち上がる。彼らは自ら築城工事に加わり、上田城を完成させる。上田城の堅固さを目にした北条氏は損害を恐れて撤退する。昌幸は領民を城に招いて宴会で慰労したという。
1585年、再び危機が訪れる。徳川が真田に領土の割譲を要求したのだった。徳川に従うべきとの意見も家臣団から出たが、昌幸はここで妥協すると、いずれすべての領地が徳川に浸食されると判断、この要求を拒絶する。激怒した家康は7000の精鋭を上田に差し向ける。これに対して真田の兵力は2000足らず、昌幸は籠城を決意する。この時、町人を籠城に加えると足手まといになるという家臣に対し、昌幸は「城下に住むものを慈しまなければならない」と一喝、町民達を全員籠城に加える。
徳川軍が上田城下に押し寄せてきた。昌幸はあえて攻撃を加えず、ギリギリまで敵軍を引き寄せる。元より真田を小勢と見くびっていた徳川軍は、真田与しやすきと見て一気に城に押し寄せてくる。頃合いと見た昌幸は反撃を指示、城に押し寄せた徳川軍の頭上に丸太が落とされ混乱する徳川軍に対し、鉄砲の一斉射撃が浴びせられる。大混乱する徳川軍に対し、真田軍が側面から突入する。かつての武田家臣団が「今こそ昌幸の恩に報いる時」と大奮戦、徳川軍は支えられずに城下に退く。しかし城下には昌幸の指示で各所に柵を設けていた。柵に遮られた徳川軍は行く手を阻まれて立ち往生する。その時、昌幸は城下に火を放つ。徳川軍は1300人もの被害を出し、潰走状態となる(1300人が犠牲になっても、まだ徳川軍の方が真田軍よりも数で勝るのだが、ここまで惨敗すると既に戦闘意欲は皆無だろう。)。
その後、昌幸は秀吉に接近、領土を安堵されることでようやく上田に平穏な日々が訪れる。しかし1598年、秀吉が死去したことでその平穏は再び崩れることとなる。そして1600年、ついに関ヶ原の争いが起こることとなる。三成から西軍への参加を要請された昌幸は、いずれ家康が再び上田に侵攻してくることを予想し、西軍に荷担することとする。この時、長男の信幸は東軍へ加わり、次男の幸村は昌幸と行動を共にし、一族が二つに分かれることとなった(これは昌幸による真田家存続のための策略との説もある)。
西に軍を進める家康は秀忠に主力軍を与え、真田の討伐を命じる。真田討伐後は主力軍は家康軍と合流し、徳川軍が主体となって三成軍を倒すことで日本のほぼすべてを手中に収めようという家康の構想だった。
徳川主力軍3万8千を迎え撃つ真田軍はわずかに2500。絶体絶命の危機に、昌幸は身分にかかわらず敵の首1つに対して土地百石を与えるふれを出す。まさに国家総動員だった。この呼びかけに応じて農民達も手製の武器を持って軍勢に加わる。
徳川主力軍が上田に到着する。しかしかつて昌幸に敗北している徳川軍はすぐには攻撃にかからない。そこで昌幸は彼らの目と鼻の先で高砂を舞って見せ、彼らを挑発する。こけにされた徳川軍は攻撃の号令を待たずして五月雨式に上田城に攻めかかってくる。城壁にとりついて来た徳川軍に対して、農民達は灼熱する粥をふりかけた。徳川軍はやけどを負って混乱する。そこに農民達の矢がいかけられる。彼らは武士を相手に回して奮戦、彼らを追い返す。徳川軍が川に追い込まれたのを見た昌幸は、せき止めていた川の水を一気に流れさせる。押し寄せる濁流に多くの兵が飲み込まれる。徳川主力軍は大打撃を受けたのだった。結局、秀忠軍は真田に足止めされたことで関ヶ原に遅参するという決定的な失敗をし、家康は秀吉恩顧の大名達の軍勢を中心として西軍と闘わざるを得なくなり、西軍から没収した領土の8割は彼らに配分せざるを得なくなる。このため、家康は西国の直接統治は諦めざるを得なくなり、結果として外様大名ばかりの西国が徳川政権のアキレス腱となってしまったのである(実際に、明治維新で幕府を打倒したのは西国の外様勢力であった)。
徳川の天敵とも言える真田の話。真田がもう少し大軍勢を有していたら、歴史は根本的に変わっていたのではという考えもあるぐらいである。実際、大坂の陣の時に真田が大阪入りしたと聞いた家康は「昌幸が大阪に入ったのか?!」と慌てたというエピソードが残っている。既にこの時には昌幸が死んでいることは家康は知っていたはずなのだが、それを忘れるぐらい動揺したらしい。なお大坂の陣では幸村が真田丸で健闘しているが、この時に幸村がとった戦法も、敵を挑発して引き寄せてからそこを一気に叩くという昌幸の戦法そのものである。
今回の番組では、真田の強さの背景には領民達の協力があったということを取り上げ、真田の奮闘は結果として家康の構想を狂わせることになったと結論している。歴史を真に作るのは実は名もない民衆達であり、昌幸は彼らにとっては守るに値する主君であったということである。真田は兵法的に優れていただけでなく、統治の面でも優れていたという証拠にもなる。まあこのようなエピソードが多々あるから、今でも真田氏は一般的に人気が高いのだろう。実のところを言うと、私自身も真田ファンなんですが(「信長の野望」で真田氏に天下を取らせたこともあったな・・・)。
11/8 その時、歴史が動いた「日本を発見した日本人〜柳田国男・「遠野物語」誕生〜」
明治時代、日本が近代化を進める中で農政官僚であった柳田国男は、農村を豊かにするべく農村の近代化を目指して奔走していた。貧農の生活を知っている彼にとって、農村を豊かにすることは願いであった。
そんな柳田に転機が訪れる。明治41年、九州を視察で回っていた彼は、宮崎県の山村で原始的な焼き畑が行われていることを知った。その村は椎葉村。7月にそこを訪れた彼は驚くことになる。この地域では焼き畑を行うと、1年目にそば、2年目にひえやあわ、3年目にあずき、4年目に大豆を育て、その後は放置して山の栄養が復活するということを行っていた。厳しい山里の中で自然と共生して生きていく知恵がそこにはあった。またこの地域では焼き畑は村中で協力して行われていた。椎葉村では柳田はここに古典的ユートピアの姿を見る。
さらに椎葉村ではイノシシ狩りも独特の作法と儀式に乗っ取って行われていた。そこにはイノシシの乱獲を戒める知恵が働いていた。彼らはイノシシを山の神からの授かりものと考えており、「のさらん福は願い申さん」(過剰な収穫は願わない)という自然と共生するための言葉も残っている。柳田はこのイノシシ狩りの慣習を記録にまとめる。
同じく明治41年、彼は早稲田大学で文学を学ぶ遠野出身の佐々木喜善から、遠野に伝わる民話を聞いていた。それは山男や山の神、天狗やカッパが登場する不思議なものばかりだった。柳田はこのことから遠野に興味を持つ。
遠野を訪れた柳田は、民話が生活の中に根付いており、一種の教訓にもなっていることに気づく。しかし同時に彼は危機感をも感じる。文明化が進む中で遠野の生活も変化しつつあり、画一化が進みつつあったのである。このまま遠野の伝承を廃れさせてはいけないと考えた彼は、失われつつある日本を記録する必要を感じる。そして明治43年6月14日、柳田は遠野物語を出版する。そこには遠野の民間伝承が記録されていた。これが日本民俗学の創始となる。その後、柳田は全国の民話を集めて回り、将来の民俗学者の発掘にも貢献することになる。
民俗学創始の物語。柳田が懸念したように、現在の日本はものの見事に画一化して、残念ながら昔ながらの文化はほぼ壊滅しています。そう言う意味では文化の破壊が急速に進んだ明治時代に柳田が存在していたことは日本にとっての幸運と言うべきだろう。これが昭和になってしまっていたら、いくら頑張ったところでどうにもならなかったろうから。
11/1 歴史の選択「坂本龍馬暗殺 黒幕は誰か?」
坂本龍馬の暗殺については、後に見廻り組の今井信郎が自分が実行犯だと告白しているという。しかしその黒幕についてはついに口をつぐんだままだった。そのために黒幕については諸説あるが、会津藩主で京都守護職だった松平容保だったとの説と、薩摩藩が黒幕だったという説を取り上げている。
松平容保が黒幕だったという説は単純。まず彼は今井の上司に当たるから命令はしやすいし、さらに坂本龍馬については彼が大政奉還を進めたのが許せなかったという物である。
これに対して薩摩黒幕説は、幕府の武力討伐を目指す薩摩にとって、龍馬の幕府も取り込んだ新政権という構想は都合の悪い物だったというのが動機。ただ薩摩がどうやって幕府型の見廻り組の今井に龍馬暗殺を依頼できたかがネックになるが、実は薩摩は見廻り組に対して貸しがあったのだという。実際にいろいろと水面下での接触はあったようである。
で、視聴者にジャッジをさせているのだが、結果は薩摩黒幕説の勝利。実は私も龍馬暗殺については薩摩黒幕説を採っている。というのは、大政奉還を実現してしまった後に龍馬を暗殺しても幕府には何のメリットもないからだ。松平容保ほどの人物が個人的恨みのようなもので龍馬暗殺を命じるとは思いにくく、あの時点で龍馬に対して殺意を抱いているとすれば、薩摩が一番可能性が高い。
元ネタ自体は大分前に放送した内容と連動している。はっきり言って、地デジ宣伝のためのつまらない企画。私は前から批判しているのだが、NHKとしては上層部の思惑で地デジを宣伝するという至上命令が出ているので、こういう無理な構成の番組が登場する次第。そもそも歴史の事実なんて、視聴者のアンケートをとっても何の意味もない。
10/17 その時、歴史が動いた「格差への怒り政府を倒す〜大正デモクラシーを生んだ米騒動〜」
大正7年、全国で100万人を越える国民が低賃金や物価高に怒って暴動を起こし、結果的に当時の寺内内閣を退陣に追い込んだのが米騒動である。しかしこの米騒動も、元をたどれば富山のある港町での小さな騒動が最初だったという。
富山の小さな港町・水橋は富山から北海道に向けての米の積出港で、そこでは「お母」と呼ばれる女性たちが、米の運搬の重労働を低賃金で行っていた。彼女たちは低賃金で働く一方、当時の日本は第一次大戦による景気で、成金と呼ばれるにわか金持ちが出現、庶民の生活とはかけ離れた贅沢をしていた。しかも彼らはその資金を米相場に投入し、米の価格は急激に上昇、庶民の生活は苦しくなる一方だった。
この頃ロシアでは、戦時下の不況にあえいだ婦人労働者が「パンと平和よこせ」をスローガンにデモを決行したのをきっかけに国民が蜂起、皇帝を退位に追い込むロシア革命が発生する。しかし当時の日本の首相で陸軍大将だった寺内正毅は、これを大陸進出の好機ととらえ、シベリア出兵を進める。
日本のシベリア出兵はさらに成金たちを米相場上昇へと誘導した。このままでは生きていけないと考えた水橋のお母達は、リーダーである水上ノブと共に、米商人に対して米をよそに運び出さないように懇願する。しかし商人は全く取り合わなかった。彼女たちの訴えは暴力的なものではなかったが、彼女たちはあくまで引き下がらなかった。結果、ノブ達リーダー格の者が警察に連行される。
この頃、同様の騒ぎが富山の各地で起こり始める。これに対しての当初のマスコミの態度は批判的だった。しかしかねてから日本で貧富の格差が拡大していることを懸念していた高岡新報の記者・井上江花は、この事件を単なるお母たちの暴走ではなく、社会の欠陥による事件であると考え、政府は社会政策に力を入れるべきであると政府を批判する。彼の記事は当局に目をつけられ、新聞は発売を差し止められる。しかし彼は彼女たちの訴えが葬られないように、この記事を全国の新聞へ配信する。彼の記事が各地の新聞に掲載されると、同様の社会矛盾に直面していた民衆が各地で立ち上がる。暴動はあっという間に全国に広がる。
しかしこの事態に対し、戦争のことしか眼中にない寺内馬鹿総理は、軍隊を動員しての鎮圧を指示、全国で多数の逮捕者が出る。また新聞が騒動を煽っているとして報道を弾圧する。しかしこれに対し、新聞各社は全国各地で抗議集会を行い、政府批判で徹底抗戦する。そしてついに事件が発生する。山口県宇部村の騒動の際に軍隊が発砲、死者14人重軽傷16人の犠牲が出たのだった。これによって民衆の怒りは政府に向かい、ついには騒動を鎮圧するべき警察官さえ民衆側につく事態となる。そして事態ここに及び寺内内閣は総辞職へと追い込まれる。
政府の不公平な政策に対する民衆の怒りが、ついに内閣の転覆にまでつながった事件である。結局この時の民衆のパワーが大正デモクラシーへとつながっていくのだが、昭和になって再び政府による言論統制が強化され、あのアホな戦争に突入してしまうわけである。
日本人はおとなしいといわれるが、この時はさすがに矛盾がひどすぎてついにはおとなしい日本人も本気で怒ったという事態である。これに比べると現代人はおとなしいというか、腑抜けというか、おかげで小泉や竹中のような「金持ちなら犯罪者でも優遇する」というふざけた政策が実現できるわけである。なお現在の安倍総理も国民の生活なんか眼中になく、あわよくば戦争をしたいというアホな考えに凝り固まっている。
なおこの時は、マスコミも気骨があったわけだが、今やマスコミは政府の露骨な統制政策で、ご用マスコミばかりになってしまって、今や安倍讃辞一辺倒という体たらく。いよいよこの国もやばくなっているわけだが。
なんか今回の内容、露骨に制作者のメッセージが見えるんだが、大丈夫なのか? それでなくても今の総理は、あの手この手でマスコミに対して公然と圧力をかけてくる卑怯者だし、NHKも上層部は政府に対するご追従者ばかりになっているというのに。
10/10 その時、歴史が動いた「神は我を救い給うか〜キリシタン 細川ガラシャの生涯〜」
キリシタンとして有名な細川ガラシャだが、キリスト教社会の西欧では模範的淑女とされているという。
細川ガラシャこと玉は、1563年に明智光秀の娘として生まれた。織田信長の家臣として頭角を現していた明智光秀の娘として、彼女は16歳の時に細川忠興と結婚、子供も生まれて幸せな日々を送っていた。しかし4年後にそれが暗転する。本能寺の変が発生、細川家は光秀に協力するように頼まれるが、細川家はそれを拒絶、孤立無援の光秀は羽柴秀吉に討たれる。謀反人の娘となってしまった玉は、夫・忠興から「もう一緒に暮らすことは出来ない」と告げられ、人里離れた山奥に幽閉されるここととなる。
2年後、羽柴秀吉から許しが出、彼女の幽閉は解かれるが、彼女の留守中に忠興は側室との間に子供をもうけており、玉にとっては居場所がなかった。いたたまれなくなった玉は、精神的に不安定になる。この時に彼女が興味を持ったのがキリスト教だった。愛を説くキリスト教に彼女は強く惹かれる(不遇な立場などになり、精神的な免疫力が落ちた時に人間は宗教に乗せられやすくなる。だからインチキ新興宗教は、信者の勧誘を病院でよく行う。家族が病気で気弱になっている時を狙うのである)。
一度、宣教師の話を聞きたいと思っていた彼女にチャンスが訪れる。夫の忠興が秀吉の九州討伐に同行して留守になったのだった。彼女はその時に宣教師の元を訪れ、万人が平等というキリスト教の斬新な教えに惹かれ、入信することを決意する。しかしこの時は彼女が身元を明かさなかったために洗礼が受けられず、その後、彼女は宣教師の元を訪れることが出来なかったので、結局は彼女は侍女を入信させて、彼女から洗礼を受ける。この時の洗礼名がガラシャである。
しかし宣教師追放例が秀吉によって出され、忠興によってキリスト教徒の侍女たちが追い出されそうになる。ガラシャは夫の仕打ちに、夫と別れて西国に隠れ住みたいと宣教師に訴えるが、宣教師は「困難に出会って人の徳は磨かれて美しい光を放つ」と彼女を説得する(という美しい話になっているが、実は宣教師の側は大名婦人が入信しているというのは大きな宣伝効果があることで、彼女を手放すわけにはいかないというのが本音だったりするんだが・・・・)。これ以来、彼女は怒りを抑えて、忍耐強い人格者となったという。
だが秀吉の命によって甥の秀次が切腹させられ、その累が忠興にまで及ぶかもしれないという事態が発生。彼女は忠興から、万一の時は自害するようにと告げられる。この時、彼女は宣教師に相談するが、宣教師はキリスト教の教えでは自殺は絶対に許されないと彼女に告げる。幸いにしてこの時は忠興には累は及ばなかったが、この教えが彼女の胸に残る。
そして関ヶ原前夜、家康の留守中に決起した三成は、大名たちの妻子を人質にして協力者を増やそうとする。その時に最初に目をつけられたのが細川家だった。そして夫の足手まといになってはいけないという思いと、自殺は許されないという教えとに板挟みになった彼女は、家臣に自らの胸を刀で突かせて死ぬのだった。こうして三成の策略も水泡に帰し、関ヶ原の戦いは東軍の勝利となる。彼女は死後も家臣らから慕われ尊敬されることとなる。
と言う話なのだが(注:括弧の中は私自身による補足で、番組の内容とは異なる)、実際にいろいろ裏があったりするのである。私は、宣教師たちがキリシタンを使って日本の侵略を目指しているという秀吉の宣教師追放例は、根拠のない言いがかりと考えてない。実際、世界中で宣教師の後からは軍隊がやってきて、ヨーロッパの植民地を広げていたわけだから。ただ日本の場合は、戦国でもまれていたせいで、当時は洒落にならないぐらい軍事力の強い国だったので、ヨーロッパ諸国がわざわざ日本に遠征して侵略するというのは実力的に不可能だったから、キリシタン大名を増やしてそれを先兵に使用しようとしていたのは事実なのである。実際、日本に布教したイエズス会は「戦う宣教師軍団」として有名で、かなり好戦的な輩も多く、宣教師追放例でキリスト教徒側が一方的に迫害されたように言われがちだが、実はこれ以前にキリスト教徒を先導して寺社の破壊などといった手荒いことも既にしていたりするのである。だから細川ガラシャがヨーロッパで讃えられるというのは、そういう背景も考えに入れとく必要があるわけだ。
10/3 その時、歴史が動いた「戦火をこえた青春の白球〜学徒出陣前 最後の早慶戦〜」
戦前、圧倒的な人気を誇っていたのが東京6大学の学生野球だった。その中でも早慶戦は抜群の人気を誇っていた。しかし1941年、アメリカと開戦して戦時色が強まっていく中、大学野球は危機を迎えていた。
馬鹿軍部が「野球は敵国のアメリカのスポーツである」と弾圧を行い、これにへたれ文部省が同調したのだった。そして1942年には6大学リーグ廃止の声まで上がる。この時、早稲田大学野球部顧問の飛田穂州は野球を守るために陸軍省に乗り込む。野球は敵国のスポーツだからけしからんと言う馬鹿軍部に対して、彼は「学生野球は遊びではなく、教育の一環である。舶来のものがいけないのなら、軍人は鎧を着て兜をかぶり、槍や長刀で戦わなければならないのではないか。」と反論する。また慶応大学塾長の小泉信三も文部省によって開かれた戦時下での学生スポーツを議論する会の席上で「野球のどこに国の煩いとなる点があるのか。」と主張する。
しかし1943年には、へたれ文部省は学生体育の目的を戦争遂行に集中させるとして、日本古来の武道を重視し、野球などの外来のスポーツを優先種目から除外した。そこで早稲田の飛田は陸軍将校の前で選手に手榴弾の遠投をさせるなど、あらゆる手を尽くして野球存続のためのアピールを行う。また6大学リーグでは野球用語を日本語に言い換えるなどの存続策を図る。しかしついにへたれ文部省が6大学野球の解散を通達する。
この頃になると野球の存続も難しくなりつつあった。野球用具の調達が困難になってきたのだ。早稲田のマネージャーの相田暢一は東京中の用具店を回って、300本のバットと3600個のボールをかき集める。後1年で卒業となり、そうなると徴兵される彼は、なんとしても早稲田の野球を存続させたかったのだ。しかしこの年の9月にはついに学生の徴兵猶予も停止され、20歳以上の学生は卒業を待たずに軍隊に入れられることとなった。
そのほとんどの部員が徴兵されることになる慶応野球部の中で、その前に最後の早慶戦をしたいという声が上がる。主将の阪井盛一はこのみんなの思いを塾長の小泉に訴える。小泉はそれを快諾する。次に阪井たちは早稲田の顧問の飛田を訪ねる。この申し出は飛田にとっても思いもかけない提案だった。しかしことなかれの早大当局はその実施に難色を示す。学生たちの徴兵は迫っていた、もう時間がない。飛田は自分が全責任を負うことにして、出陣学徒壮行早慶戦を開催することとした。
試合は徴兵検査の9日前の10月16日に行われた。球場には6000人の学生が応援に押しかけた。しかしこの試合は勝敗は無関係であった。両校の選手は白球の感触を愛おしむようにプレーを続けた。試合終了後は早稲田が慶応の応援歌を、慶応が早稲田の校歌を歌って互いの健闘を讃え合った。
その後、彼らは戦場へと送られていった。そして多くの学生が犠牲となり、本土への攻撃も激しさを増し、早稲田大学のキャンパスも空襲で大被害を受けた。しかしそんな中、飛田たちは相田が調達した野球道具を懸命に守り続けたという。そうして終戦から3ヶ月後、うち沈む人々を勇気づけるために、帰還した学生やOBによって再び早慶戦が開催される。この時にこの道具が使用されたのだという。
日本にとっての愚かな時代の話である。この時、馬鹿軍部のせいで学生たちだけでなく多くの貴重な人命が失われたのである。こんな時代は二度と来させてははならないのだが、このように馬鹿な時代を「美しい国」などと呼んで復活させたいと考えている輩が今は総理だというのだから・・・・。昔から馬鹿な歴史だけは繰り返してしまうのである。それは戦争とは国民にとってはとんでもないものだが、権力者にとっては必ずしもそうではなく、むしろおいしい場合が多いから。この辺りが二代目のボンボンとかに政治をさせるとろくなことにならないという理由でもあるのだが。
9/20 その時、歴史が動いた「シリーズ「秀吉の家族」2 戦国の母 関ヶ原を決す〜おね・豊臣政権生き残りへの道〜」
今回の内容に関しては全く新味はなしである。内容的にはこのページを下の方に検索すると出てくる2/28の内容とほとんど同じである。微妙な解釈の違いとしては、おねは豊臣家を存続させるために東軍側についたが、結果としてそれは大坂の陣でふいになったということを強調しているのと、小早川秀秋に宛てた黒田長政らの「北の政所の意向に従うように」という工作文書が出てきたぐらいである。
で、私の解釈であるが、既におねには豊臣家に対する実質的な執着はなくなっていたというものである。と言うのも、秀頼が秀吉の実子でないのはほぼ間違いないし(あれだけ多くの側室を持ちながら一人も子が出来なかった秀吉が、老年になってから淀君にだけ2人も子が出来た)、当時からその噂もあったと思われ、おね自身もそのことは確信していたと思うので。それでもまだ彼女自身が豊臣家の中にいるうちは豊臣家名の存続に意義を感じたかもしれないが、実質的に淀君に豊臣家を乗っ取られた後となればなおだろう。そのおねの心中を分かっているからこそ、福島政則や加藤清正といった子飼いの武将までが徳川についたわけである。
9/13 その時、歴史が動いた「シリーズ「秀吉の家族」1 もう一人の秀吉〜豊臣秀長 太閤記を演出した弟〜」
秀吉の弟で、豊臣政権を裏から支えた名補佐役と言われているのが秀長。堺屋太一氏が彼を主人公にした本を書いていたりするが、その秀長について追ったのが今回である。
秀長が武士の道を歩き始めたのは1562年、信長の足軽頭として仕えていた秀吉に請われてのことだった。農民の出で織田家の中で孤立しがちの秀吉には、腹心の部下が欲しかったのである。
農民の出で目立った武功などあげられない秀長が、頭角を示したのは信長の美濃攻めのことだった。美濃の斉藤氏の勢力をそぐために、川並衆を味方につけるように命じられた秀吉のため、秀長は彼らに誠意を持って理を説き、彼らを味方につけることに成功する。彼の実直な性格が川並衆の信頼を勝ち得たのだという。この功で秀吉は有力武将にのし上がる。さらに浅井・朝倉攻めの際は、浅井に背後を突かれ撤退する織田軍の殿を買って出た秀吉軍の中で、秀長は川並衆と共に奮戦して織田軍の撤退を助ける。この時の功で、秀吉は浅石を滅ぼした後に近江長浜城の城主となる。
しかし秀吉の支配に反発を感じる近江では、旧家臣などの抵抗が起こっていた。秀長は彼らに対して温情を持って手をさしのべることで秀吉への反感を鎮める。またこの時に彼が召し抱えた藤堂高虎が、後に秀吉の毛利攻めの際に秀長の恩に答えて獅子奮迅の働きをし、秀長が奪われた竹田城の奪回に成功したという。
その後、本能寺の変が起こり、秀吉が天下人への道を歩み始めるが、この時にも秀長は影で秀吉を支え続けた。その秀長がもっとも心配したのは家康の存在だったという。そしてその家康が織田信雄を担いで秀吉に小牧・長久手の戦いをしかけてくる。戦線が膠着状態になる中で、秀長は家康の大義名分を失わせるしかないと判断し、信雄を攻め、彼を秀吉との単独講和に追い込む。これで家康は戦闘の大義名分を失ってしまう。こうしておいてから、後方で家康に連携して策動していた紀州に対しては、情を持って対することで自らの支配下に治め、四国の長宗我部には自ら陣頭に立って戦って屈服させる。
しかし天下の覇権納めるには、家康を臣下にするしかなかった。秀吉は妹と母を人質に出して家康の上洛を促す。謀殺される危機を感じて警戒しながら上洛してきた家康を、心からもてなすことで警戒を解いたのは秀長だった。そして家康は秀吉に臣従することになる。
以上、秀長の視点からの物語・・・というのだが、今ひとつ秀長の活躍がはっきりしない部分があるが、それは仕方ないところがある。結局のところ秀長は常に秀吉に影のように従って補佐してきたのだから、彼の活躍というものは歴史に残っていないのである。それが逆に彼が名補佐役だったと言われるゆえんであったりする。
実際に、彼が病没した後、豊臣政権は急速に傾くことになる。秀吉は朝鮮に出兵して失敗、さらには甥の秀次の一党を殺害するなど、豊臣家内部もおかしくなり始め、秀吉の死後に豊臣家が滅亡する下地を作ってしまうことになるのである。もし秀長が生きていたら、秀吉もここまで愚かな行為に走ることはなく、結果として豊臣家は延命できただろうという話もあるのである。
大体、企業などでも成功した人物は名補佐役が存在していた例が多い。中には一人でリーダーと補佐役の両方を兼ねることが出来る天才のような者もいるが、そんな全知全能な人間はほとんどいないので、やはり成功には補佐役の存在が不可欠になるのである。そして路線の対立などでこの補佐役を更迭してしまったような時から、その人物自身の没落が始まるという場合が多いのだという。かのダイエーの中内功がまさにその軌跡をたどってしまったと言われている。
9/6 その時、歴史が動いた「日本独立その光と影〜吉田茂とサンフランシスコ講和条約〜後編」
いよいよ講和条約締結が見えてきたが、1951年に交渉のためにアメリカから訪れたジョン・フォスター・ダレスは吉田に意外な要求を突きつける。それは日本に再軍備しろというものだった。アメリカは日本に駐留するだけでなく、日本を西側諸国の一員として軍事勢力に組み込むつもりだったのだ。しかし憲法に戦争放棄を謳い、未だに国民に戦争の傷跡の大きい日本ではこれは抵抗を呼ぶと吉田は考え、これを一度は拒絶する。
しかしアメリカから寛大な講和を引き出したいと考える吉田は、将来軍隊を創設するという秘密文書をアメリカに送る。そして講和条約の締結は進行し、これとは別に再軍備と米軍駐留について別の協定書が結ばれ、これは講和締結まで秘密にされることになる。
こうして講和会議が行われることになったが、アメリカが主導する講和会議にソ連が抵抗し、講和の正否は微妙な状況となった。そして1951年8月31日、日本全権団がサンフランシスコに出発する。そして9月4日講和会議が始まる。続々と西側諸国の代表が参加する中、韓国と北朝鮮は戦争中ということが理由で、また中国も中華民国と中華人民共和国が対立中であるとして招待されなかった。しかしここに参加しないと思われていたソ連が乗り込んできた。ソ連のグロムイコ代表は、会議開催早々、中国の参加しない会議は無効だと訴える。
ソ連の提案は反対多数で拒絶されたが、会議は最初から波乱含みだった。またソ連に同調するポーランドやチェコスロバギアが反対に動く。こうしてアジアの動向に注目が集まる。アジアからはまずフィリピンのロメロ代表が演説を始める。フィリピンは日本に賠償金が請求されないことに不満を感じていたが、日本が生まれ変わることを講和の条件にする。これに対して吉田らは日本は平和国家として生まれ変わることを誓い、東側陣営の国家をのぞく国家が講和条約を締結する。
しかしこの同じ日、吉田は密かに日米安全保障条約に調印したのだった。
結局、戦後のゴタゴタがすべてこの時から尾を引いているということになってしまうのである。特に南北朝鮮や中国とは講和していないと言うことは、この後も長く尾を引き、今日のトラブルにまでに至っているということになる。また日米の関係の問題もこの頃に端を発していると言うことになる。
それにしてもどうしても政治的な問題に絡まざるを得ない内容を、政治的には中立であることを建前とするNHKが扱うと言うことで、内容がかなり微妙になった印象を受けたのが今回のシリーズ。いかにもNHKらしく、右・左のいずれの立場からも「それは違うだろう」という不満の残る内容になったのではないかとの印象がつきまとうのだが・・・・。
8/30 その時、歴史が動いた「日本独立その光と影〜吉田茂とサンフランシスコ講和条約〜前編」
今回は2週連続で日本独立に至ったサンフランシスコ講和条約について、それを締結した吉田茂を中心に紹介するとのこと。
終戦直前の昭和20年の5月、東京が大空襲を受けた時、吉田茂は陸軍刑務所に収監されていたという。彼は戦前から大戦に反対し、開戦後も早期講和のために動いていたので、軍部や右翼から睨まれ、それがきっかけで収監されたのだという。そして逮捕から2ヶ月後の5月末に釈放された彼が見たのは、もっとも彼が恐れていた焼け野原になった日本の風景だった。
戦後、日本はアメリカの占領下に置かれることとなり、独立を果たすということが最大の課題だった。この難局に外務大臣として抜擢されたのが吉田茂だった。和平のために活動してきた彼の経歴が、政治の表舞台に呼び戻すことになったのだという。
彼がもっとも懸念していたことは、講和に渡って過酷な条件を課されることで、今後の日本の独立や自立が束縛されることだった。実際、第一次大戦後にドイツは天文学的な賠償金を課され、それがドイツ国民の不満につながり、これが後のナチスの台頭の土台になったということを外交官であった彼は強く認識していた。
彼は「寛大な講和」を目指すために「良き敗者」であるように留意した。GHQから押しつけられてくる改革はかなり過激なものであったが、それに従うことで「良き敗者」たろうとしたという。彼の考えは「良き敗者」はやがて「良き勝者」を育み、それが「寛大な講和」に結びつくと考えたのだという。日本国憲法は総理となった吉田の元で公布され、それを見たマッカーサーは「占領の目的は達成された」と日本の独立を提唱した。
しかし講和はスムーズには行かなかった。東西対立に巻き込まれ、アメリカの対日講話の提案に対してソ連が異議を唱えて、暗礁に乗り上げてしまったのである。しかしその中でも吉田は、このことは日本にとって必ずしも不利ではないと見ていたという。というのも、この頃に講和条約を締結したイタリアでは、かなり過酷な条件が課されていたからだという。
吉田は米ソ対立の中で、その中間に位置する日本の地理的位置を利用して、寛大な講和を引き出そうと考えていた。彼の決意は「戦争に負けて外交に勝った歴史がある」という言葉に集約される。
そして昭和24年5月、風向きが変わり始める。2年前に対日講話に異議を唱えたソ連が協議開始を提案したのだった。それを受けてアメリカも具体案の作成に取りかかる。しかし国論は東西両陣営と同時に講和をする全面講和は、西側諸国と先に講和を結ぶ単独講和を行うべきかで分かれる。しかし吉田はそのどちらを選ぶかは言明せず、曖昧な答弁を繰り返す。しかし昭和25年2月14日、ソ連が中国と日本を仮想敵国とした同盟を締結したことで、単独講和の方向に動くこととなる。
しかしここにきて、日本の地理的位置を共産圏への封じ込めに使いたいと考えたアメリカの軍部が講和に難色を示し始める。そこで吉田は、日本が自らアメリカの基地を受け入れることを表明することで、アメリカ軍部の抵抗を和らげる工作を行う。こうして講和が前に進むことになる。
日本の独立を目指す吉田茂の暗闘だが、このときの諸々が後にも響いてきている。結局のところ、このときに基地を受け入れたことで、沖縄では未だに米軍の犯罪の被害に遭うことになるし、アメリカも未だに日本を属国のような意識を持っている。また吉田の秘密主義が後々までに影響を及ぼしたという面もあり、吉田茂の外交に関しては確かに頑張った部分もあるのだが(一つ間違うと日本が分割統治されていた可能性もあったわけなのだから)、問題点もあり、功罪相半ばというところである。
結局はこれ以来、日本は共産主義に対する防波堤(中曽根が言ったところの浮沈空母)としてアメリカに滅私奉公することを国是とすることになったのだが、東西冷戦構造の崩壊でその位置づけが急速に崩れてきたのが昨今の状況というわけである。過去の枠組みに固執しようとする連中は、ソ連よりも数段格下の北朝鮮を仮想敵国としてアピールしているが、ソ連と違ってアメリカに対する攻撃力をほとんど持たない北朝鮮では迫力不足であるので、今度はなんとか中国を引っ張り出そうとして、ひたすら中国の神経を逆なですることに邁進しているというわけなのである。日本を含め、アメリカも外敵を作らない形での外交なんてやったことがないので、右往左往しているのが現状だろう(無理矢理に外敵を作って、内政の不味さを外敵のせいにすり替えるのが常套手段だったので)。
多分、日本の外交はこれからしばらくは迷走することになるだろう。そのどさくさに、憲法を改定して日本も核武装を目指そうなんて考えている馬鹿が次の総理になりそうだなんていうんだから、あまり明るい見通しが見えないのが厳しいところだが。
8/23 その時、歴史が動いた「幻のハワイ日本連合〜カラカウア王・祖国防衛に賭けた生涯〜」
19世紀、帝国主義の元で欧米各国がアジアへの進出を競っていた。そんな中でアメリカが太平洋進出のための拠点として進出を図っていたのがハワイだった。アメリカ人はハワイでサトウキビ農園経営で富を蓄積し、着々と実力をつけており、当時のハワイは独立した王国だったにもかかわらず、アメリカの支配が徐々に強まっていた。
そんな1874年、ハワイに新しい王が即位した。デイヴィッド・カラカウア、37歳の第7代国王だった。彼は就任すると直ちにアメリカとの通商条約締結を勧められる。アメリカの資本家たちはアメリカへの輸出への関税を撤廃することで、サトウキビの輸出か振興され、ハワイが潤うと説得したのである。
彼は条約に調印した。その結果、アメリカの資本家たちは莫大な富を蓄積し、彼らはその資金で土地を買いあさり、条約締結後の15年でハワイは国土の半分を失うこととなった。さらに彼らはその力で政界に進出、政府の主要閣僚も彼らに抑えられることとなった。さらにアメリカは軍人を派遣して、パールハーバーに軍事基地を設置する準備も開始していた。ハワイの主権は徐々に侵害されていった。
この状態に危機を感じたカラカウアは、アメリカに対抗するために同様に欧米の進出で圧迫されているアジア各国で連合を結成し、日本にその盟主となってもらうことを考える。
1881年、カラカウアはアジア・ハワイ連合の構想を心に秘めて、世界周遊の旅に出たいと議会に提案する。カラカウアの心を知らない議会はそれを承認する。こうしてカラカウアの外遊が行われたが、一行の中には2人のアメリカ人が監視役としてつけられていた。
日本に到着したカラカウアは熱烈な歓迎を受ける。当時の日本は不平等条約の改正の必要性に迫られており、アメリカの事実上の支配下にあるハワイに最大限の好意を示すことで、アメリカの歓心を買おうとの意図もあったという。明治天皇と会談し、日本の陸軍観兵式に参加したり、日本の兵器工場を視察したカラカウアは急速に力をつけている日本に期待する。
しかしアメリカ人の監視下にあったカラカウアには自由に行動する余地がなかった。そんな中、カラカウアは突然に宿舎から行方をくらましてしまう。実は彼は通訳と2人だけで、明治天皇の元を突然に訪れ、密かに会談を行ったのだった。そこで彼はアジア・ハワイ連合の考えを明治天皇に訴え、日本にその盟主になって欲しいと依頼する。彼はアジアやハワイを後ろ盾にして、日本が不平等条約の改定を欧米に要求することも可能だと訴え、また日本との友好の印に、姪のカイウラニ王女を日本の皇族と縁組みさせたいと訴える。あまりに重大な話に即答のしようがなかった明治天皇は、熟慮の上回答すると答える。
カラカウアの独断行動に怒ったアメリカ人たちは、彼の行動を完全に制約する。彼はその後中国を回ったが、西太后との会談はアメリカ人の強硬な反対で実現せずに終わる。
明治天皇の回答書がカラカウアの元に届いたのは1年後だった。回答は丁重な断りの内容であった。実はカラカウアの提案は日本政府内でも大騒ぎとなり、外務卿の井上馨は8ヶ月もの間決断を下せずにいたのだった。しかし今まで不平等条約の改定を頑として受け付けなかった欧米列強に、条約改定を受け入れる機運が出てきたことを聞き、彼らの機嫌を損ねることを恐れた井上は、カラカウアの提案を拒絶することにしたのだった。
その後、カラカウアは1882年に国王派を首相と蔵相に任命して王権の強化を図るが、1887年にアメリカ人武力行使をちらつかせながら国王の議会に対する権利を剥奪し、その後病に倒れた彼は1891年に54歳で死亡する。そして1898年にハワイはついにアメリカに併合される。
例によってあの国はえげつないことをするなという印象。最終的に武力を背景に他国を侵略するというのは、アメリカの典型的な行動パターンである。なおカラカウアの病死というのも、実際のところは怪しいものである。もっともこのような行動はアメリカに限らず、日本もその後全く同じようなことを行っているので偉そうなことを言えたものではない。ただアメリカとの違いは、日本は今はこのような行為はしていないが、アメリカは未だに現代進行形だということである。
なおハワイ文化の振興にも貢献したカラカウアは、今日でもハワイの民衆に人気があり、カラカウアの名前の付いた通りや彼の像があるということだが、これは今日どう間違ってもハワイがアメリカから独立運動を起こすなどという可能性がないからだろう。もしそのような可能性があれば、彼の存在は歴史上のタブーにされてしまったはずだ。実際、モンゴルでは社会主義政権の時代には祖国の英雄とされているチンギス・ハーンについて語ることはタブーだったという。
ところでカラカウアの構想であるが、所詮は弱者連合であるアジア・ハワイ連合が成立したところで、どれだけ実効を持ったかにはかなり疑問がある。というわけで、この時の日本政府の対応はやむを得ないものというように感じる。
なおこの番組についてだが、KONISHIKI氏の出演を売りにしているようでは既に末期症状。大体、この番組はドラマではないから、彼が出演したからといってどうこういうものでもない。ネタに詰まってきているからそういう目先のことで売りにしようというのではあまりに悲しすぎる。
8/2 その時、歴史が動いた「焼け跡から生まれたチャンピオン〜ボクシング白井義男とカーン〜」
今回のテーマは日本で初めてボクシングの世界チャンピオンになった白井義男について。明らかに亀田のチャンピオン戦を意識しての企画である。ただ、白井義男のチャンピオンって、歴史番組ネタか?
終戦直後、仮設のリングでボクシングが行われていた。やがては多くのボクサーが復員してきた。その中の一人が白井義男だった。かつては将来を嘱望されたボクサーだった彼だが、彼は従軍中に腰を痛めてしまっており、もう駄目だと言われていた。
そんな白井に目を付けたのが、GHQ天然資源局水産部に勤務するために日本に来ていたアルビン・R・カーンだった。彼がGHQで与えられた仕事はあまり重要なものではなく、不完全燃焼の日々を送っていた彼は、白井を世界的なボクサーに育成したいという野心を持つ。しかし実は彼はボクシングに興味あったものの経験はなかった。しかし白井はわらにもすがる想いで彼の指導を受ける。
カーンの指導は白井のフォームのチェックだった。基本練習ばかりを延々とやっている白井を仲間達はあざ笑う。しかしカーンは白井に「ボクシングは打たせずに打てば勝つ」と防御重視のボクシングを教える。そして白井は半信半疑のまま、初戦で勝利をおさめる。そして白井は防御重視のボクシングでついに日本フライ級チャンピオンに登りつめる。
しかし白井とカーンのボクシングは「足を使って動き回るだけでつまらない」との批判も受けた。当時はピストン堀口のような、打たれても打たれても精神力で前進するボクシングが本物だと思われており、白井のボクシングは卑怯者とさえ罵られた。カーンは自分たちのボクシングを実証するために、一階級上のバンダム級王者・堀口宏(ピストン堀口の弟で、ボクシングスタイルは兄と同じだった)に挑戦しようと持ちかける。怖じ気づく白井をカーンは「これは踏み越えなければならない関門なんだ」と諭す。そして白井は堀口に判定で勝利し、二階級制覇を達成する。
昭和25年9月、カーンはハワイを訪れ、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノのマネージャーであるサム一ノ瀬を訪ね、白井にダド・マリノとの対戦のチャンスを与えて欲しいと頼む。しかし日本がまだ国際社会に復帰していなかったこの時期には、カーンの申し出は無謀なものだった。しかしカーンはサム一ノ瀬を説得、彼の尽力で白井は挑戦資格を得る。
昭和27年サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立国家に復帰した。その三週間後に白井とダド・マリノの試合が行われることになった。日本中がわき返る中、白井は強いプレッシャーを受ける。カーンは白井に「敗戦で失われた日本人の自信と気力を、君の勝利で呼び戻すのだ」と諭す。そして白井は15Rを戦い抜き、判定でダド・マリノを破る。
敗戦国の白井と、戦勝国のカーンの二人三脚の物語である。くじけそうになる白井をそのたびに諭すカーンの言葉が鍵になっているが、試合のプレッシャーに押しつぶされそうな時に「日本人の自信と気力」がかかっているようなことを言われたら、逆にプレッシャーにならないのだろうかと疑問は感じたが(笑)。
ところで、番組としては亀田と絡めたタイムリーな企画を狙ったのだが、その亀田の試合が「世紀の八百長試合」と非難される内容になってしまったのが、なんとも悲惨。そう言えば次回はKONISHIKIが出演するなどと宣伝していたが、一体この番組はどこを目指しているのやら・・・。
7/26 その時、歴史が動いた「川中島の戦い 引き分けの謎」
今回は毎度の双方向宣伝企画である。テーマは川中島の戦い。川中島の戦いと言えば、信玄と謙信のどっちが勝ったかに投票させるのかと言えばさにあらず、この戦いは両者の力が拮抗していた故の引き分けと見るか、実はどちらも本気で戦うつもりはないパフォーマンスだったという説のどちらを支持するかである。
なお以前より、この企画は「視聴者に投票させる意味が全くない」と言われていた(だろうと思う)ためか、今回は両方の説に基づいた最終VTRを作成し、支持の多かった説の方のものを放送するということにしていた。なんとかして投票に意味を持たせようと言う苦肉の策であることが分かる。
まず実力拮抗説だが、これは今更説明するまでもなく今まで世間一般で言われていたもの。甲斐の国力を増すために信州への進出を図った信玄に対し、信州が落ちれば越後が危ないと考えた謙信が迎え撃ったというもの。また信玄は善光寺周辺の商業資本にも目を付けており、そのことが仏教を厚く信奉する謙信の逆鱗に触れたとしている。
一方のパフォーマンス説だが、信玄・謙信共にクーデターで権力を掌握した人物なので、国内をまとめるために外敵を作る必要があったというもの。また激戦と言われた第4回の川中島の戦いにしても、信州の武将達があまり死んでいないことから、実は記録で言われているほど死者は出ていないとし、また現地の地形を考えるとキツツキ戦法は不可能だった(1万もの軍勢が馬をつれて山沿いに夜襲をするのは無理)ことから、実は撤退しようとしていた両方の軍勢が霧の中で遭遇してしまった遭遇戦だったというもの。また信玄と謙信の一騎打ちは、収拾のつかなくなった戦線を納めて撤退に持ち込むための両者の必死のパフォーマンスだったというものである。
投票の結果は僅差で実力拮抗説の方が勝利したようである。
なお私の考えは、パフォーマンス説に近いものである。それは両者が川中島で死力を尽くしたとしてもあまり得るものがないからである。なお第4回の川中島合戦については、撤退中の遭遇戦だったという考えには同感だが、犠牲がそんなに多くなかったというのは疑問である。むしろ無秩序な遭遇戦だったが故に、想定外のとんでもない犠牲が出たと考えている。ましてや信玄と謙信の一騎打ちなど、そもそもあり得るわけがないというのが私の考え、多分両者とも、大混乱になってしまった自陣を立て直すのに必死だっただろう。
さて今回、いくらか工夫はしたようであるが、やっぱりこの企画自体は意味がないとしか言いようがない。歴史の事実について視聴者に投票させたところで何の意味がある? 基本的にこの手の番組は、ある観点に立った考えをまとめて視聴者に提案するというのが意味があるのと違うのか? それが視聴者の多数意見に合わせて結論を変えるのでは、番組自体の意味がないではないか。やはり地デジ宣伝企画なんてろくな物にならないとしか言い様がない。まあ地デジ自体がテレビを売りたいという家電メーカーの思惑に従ったろくでもないものだから、どうしようもないのだろうが。
7/12 その時、歴史が動いた「生まれくる命 そして母のために〜荻野久作の受胎既発見〜」
今回のテーマは、女性の排卵周期を初めて明らかにした荻野理論で、世界中で注目を浴びた医師・荻野久作である。
明治45年3月、新潟の民間病院である竹山病院に赴任した若い産婦人科医。それが30才の荻野久作だった。彼は東京帝国医科大学で将来を嘱望されていたが、両親を養うために就職した。医者不足の新潟では東京の4倍の給料を提案してきたことが、彼が新潟に来た理由だった。
赴任地の新潟で彼は田舎の女性達の厳しい状況を知る。子供が欲しいのに出来なくて離縁されそうになっている女性。家の存続を最優先にする当時は、足入れ婚といって跡取りが生まれるまでは入籍せずに正式な嫁と認めない風習があるのを知った。その一方で、逆に多産で身体に負担がかかり、ついには流産で死亡してしまう女性もいた。女性がいつ妊娠するかさえ明らかになれば、このような悲劇が防げる。しかし当時は排卵の周期についてはまだ明らかではなかった。そこで彼は自ら研究を行うことを決意する。
当時から月経と排卵の関係は言われており、月経から14〜16日で排卵が起こるとされていた。しかし荻野が自ら集めたデータと参照したところ、排卵日は明らかにそれとずれていた。行き詰まった荻野だが、ある時、生理痛の相談に来た女性が月経の2週間前ぐらいに必ず痛くなると言ったのを聞いた時に、月経の次に排卵が来るのではなく、排卵の次に月経が来るということを思いつく。荻野は早速データを見返した。それらのデータは次の月経の12〜16日以内の範囲にピタリと収まった。
早速荻野は自分の妻とでその結果を確認する。最初の7ヶ月は排卵期を大きくはずして夫婦の関係を結ぶ。その7ヶ月間、妻は妊娠しなかった。そして8ヶ月後、今度はその日にあわせたところ、妻は見事に第3子を妊娠したのである。
荻野は早速この理論を日本の医学誌に発表する。しかし権威主義の傾向が強い日本の医学会は、市井の開業医が唱えたこの理論を完全に無視した。このままでは自分の理論は闇に葬られ、女性達は救われない。悩んだ彼は、医学先進国であるドイツで自らの理論を発表しようと、必死に蓄えた金銭でドイツに渡航する。
しかし国や大学の後ろ盾のない彼には、論文を発表できるツテが全くなかった。彼は各地の有名産婦人科医や大学などを訪ね、自らの論文を読んで貰う売り込みを行う。しかし斬新すぎる彼の論文はなかなか相手にされなかった。しかし彼が苦労すること3ヶ月、初めて彼の論文に目を留める医師が現れた。フンボルト大学のシュテッケル教授だった。彼は荻野と同様に排卵周期の解明に長年取り組んでおり、荻野の斬新な発想が彼の興味を惹いた。彼は荻野の論文をドイツの医学誌に載せると約束し、1930年の2月22日、ついに荻野の論文はドイツの医学誌に掲載された。
荻野の論文に対して、当初は反応はほとんどなかった。しかし思いがけないところで大きな反響を呼んでいた。避妊や堕胎などを禁じていたカトリックでは、多産による生活困窮に苦しんでいた。しかし自然の摂理に基づく荻野学説による避妊なら許されるのではないかと大論争が起こったのである。激論の結果、当時のローマ教皇ピオ11世が荻野学説に基づく受胎調整を容認する。これで一躍荻野の理論は有名になり、科学的に実証されたのだった。そして日本にも逆輸入、日本でも受け入れられることとなった。
なおその後、荻野は大学の教授への就任を何度も要請されたが、その要請を拒否し、生涯を新潟で医師として送ったという。また昭和30年代にに荻野理論が安価な避妊術として週刊誌に盛んに紹介された時、荻野はその風潮を激しく批判したという。より確実な避妊法が開発されたにもかかわらず、自分の学説を安易に使われ、その結果赤ちゃんの命が失われることを許せなかったのだという。彼が発表した学説は、命を守るために生み出した学説だったのである。
いわゆる荻野式の提案者である荻野久作のエピソード。当時の日本の医学会の権威主義が情けなく感じられるだろうが、実際のところは未だにこの体質は改まっていないと言える。だから日本では駄目だと感じた研究者は、海外を目指すことになるのである。
ちなみに荻野理論を皮切りに女性の妊娠についての研究は進み。荻野久作自身が語っているように、現在ではより確実な避妊法なども開発されている。それにも関わらず、特に若い男女に安易な妊娠や中絶が増加しているのは、特に男性自身が生命についてキチンと考えていないということが大きいだろう(女性が主体性を持っていないためという指摘もあるが)。私はカトリックではないし、女性の尊厳の点からものぞまない妊娠を女性だけが強要されるのはおかしいと考えているので、妊娠中絶に反対するつもりは毛頭ない。しかし安易な乱用には当然であるが反対である。
ところで荻野以前から月経と排卵の関係は言われていたというのだから、今になってみれば荻野理論はコロンブスの卵のようなものである。だれもこれを思いつかなかったというのは、あまりに研究者の考えが硬直していたというような印象も受ける。
7/5 その時、歴史が動いた「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」
今回のテーマは、徳川将軍の前で開催される御城碁で12年間無敗を続けたという、本因坊秀策についてのエピソードである。なお巨人ファンの松平アナは「あの巨人でさえV9なのに、秀策はV12」と紹介していたが、これは趣味が出過ぎ(笑)。
1829年、広島の庄屋の家に桑原虎次郎(後の本因坊秀策)は生まれた。彼は物心のついた頃から囲碁に強い関心を示しており、それを見た母に五歳の時に囲碁を教わったという。彼はメキメキと上達し神童と呼ばれ、7才で地元三原城の城主に見出され、英才教育を施されたという。そして9才の時に城主の勧めで修業のために江戸に旅立った。彼はそこで囲碁の家元である本因坊家に入門した。という当時の城主は十二代目の丈和であり、日本の囲碁界に君臨していたという。
彼はそこで日々の雑務をこなしながら、修業の日々に励んだ。彼は古い棋譜を学びながら、他流試合で腕を上げた。この時に彼が好んだ戦法が、最初の三手で3つの隅を固めるというやり方だという。
その秀策に実力を示す機会が訪れた。兄弟子の本因坊秀和と対局することになったのだという。ここで彼は後に秀策流と呼ばれる隅から両方向の攻めを目指す布石を打ち、この勝負を引き分けに持ち込んだのだという。
18才の秀策は家元井上家の当主・井上因碩と対局、老練な井上の打ち筋に押されて苦戦する秀策だが、127手目、碁盤のほぼ中央に打った一手が流れを変える。その一手でそれまで分断されていた秀策のすべての石がつながって連動した。この一手を打たれた井上は狼狽を隠せなかったという。この時に対局を観戦していた一人の医師が、動揺して真っ赤に染まった井上の耳を見て秀策の勝利を確信したという。後にこの手は「耳赤の一手」と伝えられることになるという。この一手をきっかけに秀策は逆転勝利をおさめた。
押しも押されぬ実力を身につけた秀策は、1846年についに本因坊家から跡継ぎを勧められる。三原城主の浅野氏に見出されて彼の援助を受けていた秀策は、その恩を思ってこの話に躊躇うが、本因坊丈和は浅野氏にも説得工作を行う。秀策が名門の本因坊家を継ぐということを名誉だと考えた浅野氏は、その話を快諾する。こうして秀策は本因坊家の跡継ぎに定まる。
その翌年、秀策は御城碁に出仕することになる。各家元の代表が腕を競うこの場で、秀策の快進撃が始まる。しかし時代は幕末、ペリー来航などの動乱の時代を迎え、御城碁の開催さえも怪しくなったり、故郷の母が病気になるなどの試練を乗り切って(結局、母は秀策が連勝記録を達成した後に死去)、彼は御城碁で12年間無敗の19連勝を達成する。しかしその後に流行したコレラによって、34才で死亡する。図らずしも秀策の死後、世情の不安から御城碁は中止され、そのまま江戸時代が幕を閉じる。秀策の死は一つの時代の終わりともつながっていた。
未だに碁の世界ではカリスマ的人気を誇っており、碁聖と呼ばれている秀策についてのエピソード。今まで強かった碁打ちは何人かいるが、その中でも無敗記録を立てているのは秀策だけだという。また秀策は、並み居るライバルを押しのけての圧倒的強さ、無敵の必殺技(秀策流)、そして若すぎる死と伝説になりそうな要素が揃いすぎている。なお秀策の強さの背後には、「神の一手」を極めようとしていた藤原佐為の亡霊の存在があることが指摘されている(オイオイ)。
囲碁というとかく地味になりがちなテーマで、どうやって盛り上げるかに配慮していたのがうかがえる内容。また一応歴史番組として、世の中の流れと結びつけるという観点も忘れてはいなかった。ただこのネタをヒカルの碁の連載が終了してからしばらく経つこの時期に持ってくるという、微妙なタイミングのはずし具合は、いかにもNHK的なんだが(あまりに生々しすぎる時期にはNHKとしては無理なんだろう)。
6/21 その時、歴史が動いた「幻の大艦隊〜イギリスから見た薩英戦争〜」
イギリスと薩摩が直接に砲火を交えた薩英戦争。幕末期のこの日本の対外戦争について、イギリスの視点から描いたのが今回のテーマである。
1859年、イギリスから通商条約批准のために使節団が日本に送られる。全権代表は中国で長い経験を積んだ老練な外交官ラザフォード・オールコックだった。しかし幕府の側は前年にアメリカと日米修好通商条約を締結した際、ハリスから「イギリスが日本侵略の意志を持っている」と聞かされており、警戒心が高まっていた。
その日本に対してオールコックは威圧的態度をとる。通商条約批准の日には江戸市中で140人からなる大パレードを敢行、制止を振り切って江戸城内まで乗り入れる。さらに高輪東禅寺を公館にして江戸に居を構えたり、ひたすら高圧的で国威を見せつける態度を示す。
しかしその裏で、実はオールコックには焦りがあった。当時のイギリスは中国と第二次アヘン戦争の最中であり、日本に振り向ける艦隊の余裕がなかったのである。オールコックの態度には弱みを見せないための虚勢の部分もあったのである。「中国の大艦隊をいつでも江戸に差し向ける」は決まりの脅し文句だった。
一方、中国のイギリス艦隊に注目していたのが薩摩藩主・島津久光だった。イギリスが日本を侵略するつもりなら、まず一番南の薩摩が狙われる。危機感を抱いた薩摩では自前で鉄製の大砲を製造したり、鹿児島湾に水雷を設置するなどの独自の軍備を進めていた。
やがて日本は開港し、イギリスはアメリカを抜いて貿易額の一位となる。しかしオールコック達が富士登山を強行したことが、富士を神聖視する日本人を激怒させ、武士の間に攘夷の機運が高まり始める。またイギリス人が我が物顔で日本をウロウロとすることに島津久光も怒りを感じていた。そしてとうとう事件が起こる。1861年7月5日の夜半、イギリス公使館が14人の浪士に襲われ、公使館員3人が重傷、オールコック自身も命を狙われて辛うじて助かるという事態が発生する。自らが攘夷の嵐を巻き起こしてしまったことに震撼したオールコックは艦隊の派遣を要請するが、艦隊は日本に来ることはなかった。オールコックは自ら休暇を願い出て本国に帰国してしまう。
1ヶ月後、代理公使として日本に着任したのが陸軍中佐のニールだった。彼もオールコックと同様に武力を背景に威圧的な交渉を行う。そんな時、薩摩藩の行列に騎馬で乗り入れたイギリス人が無礼打ちにされ、1人が死亡、1人が重傷を負う事件、いわゆる生麦事件が起こる。
ニールは艦隊の日本派遣を要請するが、第二次アヘン戦争は終結したものの、太平天国の乱への対応に追われていたイギリス艦隊は動かなかった。しかし半年後、ようやく中国での乱が終結し、イギリス艦隊12隻が日本に向かって移動を開始する。最新式のアームストロング砲を装備した最強艦隊だった。武力を背景にニールは薩摩藩に2万5千ポンド(現在の価値で3億円)の賠償金を要求する。しかし薩摩の島津久光はその要求を拒絶する。イギリス艦隊は江戸から薩摩に向かう。
その頃、薩摩では大騒ぎとなっていた。ニールからの賠償を求める書簡に記載されていた事件の首謀者を処刑せよとの文面が、島津久光の首を要求していると考えたからだった。しかし実はニールが要求していたのは、斬りつけた主犯の処分だった。幕府に雇われていた福沢諭吉が文面を直訳したために誤解を生んでしまったのだ。薩摩領内では武士だけでなく農民からも動員された5万人が国を固める。
それに対してイギリス艦隊は最初から楽勝気分で、物見遊山のつもりだった。既に幕府から賠償金10万ポンドをせしめることに成功していたことも、彼らに日本を甘く見させることになっていた。艦隊を見せつければ薩摩も怯えて賠償金を支払うと考えていたのである。
しかし薩摩では10ヶ所の台場に85門の大砲を据え付けて待っていた。その中には鉄製の150ポンド砲の巨砲も含まれていた。鹿児島湾に悠然と入ってきたイギリス艦隊は、いきなりの薩摩の予期せぬ猛攻撃でパニックになる。ニールの乗船していた旗艦ユーリアラス号は賠償金の箱で弾薬庫の扉が塞がれ、反撃さえ出来ない状態だった。大混乱になるイギリス艦隊。しかしようやく2時間後、旗艦ユーリアラス号が攻撃を開始、イギリス側の反撃が始まり、鹿児島の城下は炎に包まれ、一進一退の攻防となる。しかし薩摩の一発の砲弾が旗艦ユーリアラス号に命中、艦長と副長が戦死したことで戦いの帰趨は決する。イギリス側戦死者13人、薩摩側5人、イギリス艦隊は3日後に満身創痍の状態で撤退する。
それから3ヶ月後、薩摩とイギリスの間で講和の交渉が行われた。実質的に敗戦に近い状態だったために、身構えて交渉に臨んだニールは我が耳を疑った。なんと薩摩があっさりと賠償金の支払いを飲んだのである。実は薩摩では戦争後にイギリスの砲弾を分析、圧倒的な技術力の差を痛感しており、実力を持っての攘夷は不可能と判断していたのである。この後、薩摩はイギリスと友好関係を結び国力を増強、明治維新へとつながっていく。
イギリスにとっての手痛い敗戦のエピソードだが、ゲストの軍事アナリストも言っていたように、イギリス側の慢心が何よりの敗因だろう。東方の野蛮国と見くびっていたの間違いない。多分艦隊を城下に見せつければそれで怯えて直ちに降伏すると高をくくっていたのは間違いない。結果として、自らむざむざと薩摩の砲台の射程距離に入り込むこととなり、アームストロング砲の長射程のメリットを全く生かせないことになってしまったのである。
また当時のヨーロッパの軍隊が強いと言っても、それは今イメージするほど絶対的なものではなかったという事実もある。まず補給線が圧倒的に長いという不利があるし、それに兵器の優劣も現在のハイテク兵器ほど一方的なものではなかったのである。そもそも機関銃でも弓矢で命中すれば人を殺せるのは一緒であり、兵器は使い方次第というところがある。実際、イギリスが圧勝したように思われているアヘン戦争でも、局地戦ではイギリス軍が惨敗している例もあるのである。
なお薩英戦争は明らかにイギリスの思惑はずれなのだが、そこに至る過程を見ていると、「窮した時ほど虚勢を張る」という欧米人の特色というか、欧米流交渉術の特徴がもろに出ている。ただ計算違いは、当時の日本人は中国人よりもさらにプライドが高かったということか。当時の武士などはプライドだけで生きていたような存在なのだから。
注目すべきは薩摩のしたたかな対応だろう。事実上の勝利でも浮かれることなく、冷静に彼我の実力差を認めてあっさりと講和しているのは優れた現実感覚である。薩摩側はイギリスのミスがなければ勝てなかったことを分かっていたのである。実際、この後1864年に長州がイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊と交戦して惨敗、砲台を占拠されるという目にあっており、薩摩の判断は正しかったことが証明されている。
それにしてもこの時はこれだけ冷静な判断が出来た薩摩の流れを汲む日本政府が、その後には第二次大戦であれだけ無謀で馬鹿げた判断ばかり行ったのはなんとしたことなのだろうか。どうも時代が進むにつれて日本人は退化しているのかとさえ思ってしまう。そう言えば、基地移転にかこつけたアメリカのぼったくりを丸飲みしたポチ小泉は、この時代の幕府よりもさらに退化しているよな・・・・。
5/31 その時、歴史が動いた「これは正義の戦いか〜ジャーナリスたちのベトナム戦争〜」
ベトナム戦争はジャーナリストが終了させた戦争とも言われる。ジャーナリスト達がアメリカの大本営発表に疑問を感じ、自ら現地の真実を伝え、それがアメリカ国民の反戦意識につながっていった。そのジャーナリスト達が今回のテーマである。
南北で分裂したベトナムで対立が強まった時、アメリカは傀儡政権である南ベトナムを支援していた。また現地には報道のために記者達が訪れていた。そんな記者達の中にニューヨークタイムズのデイビッド・ハルバースタム、UPIのニール・シーハンらがいた。彼らはこの戦争の報道をチャンスだと考えていた。またCBSニュースキャスターのウォルター・クロンカイトなども現地のレポートを行っていた。
ベトナム戦争開始当初は、ジャーナリスト達もアメリカの大本営発表を信じ、ベトナム戦争は共産主義を倒すための正義の戦争だと考え、そういうスタンスで報道を続けていた。当初はアメリカ軍の優勢のみが伝えられていた。そして国民もアメリカの優位を伝える報道の影響もあって、戦争支持派が65%と反対派の21%を遙かに凌いでいた。
国民の支持を受けてアメリカは介入を深める。そして1964年、アメリカ軍の哨戒艇がトンキン湾で北ベトナム軍の攻撃を受けるトンキン湾事件で、アメリカはついに直接介入を行うことになる。18万人の地上部隊が投入され、さらに北ベトナムへの空爆(北爆)が開始される。
この頃、UPIのニール・シーハンは軍の将校からアメリカ軍の活躍の話を聞かされる。それは共産主義者300人を戦死させたというものだった。これはスクープとしてニューヨークタイムズの1面を飾るが、実は誤報であった。実際は戦死者は15人に過ぎなかったのだ。戦場を見ていなかったシーハンは軍の水増し情報に踊らされたのだった。この件でシーハンは、サイゴンで軍の発表を聞いているだけの自分たちは、戦場の真実を伝えていないのではないかとの疑問を感じる。
1965年の夏、南ベトナムの海岸線をヘリコプターで飛んでいたクロンカイトは、偶然信じられない光景を目撃する。数十万人の収容能力のある巨大な基地の建設が進められていたのである。アメリカ軍は勝利目前と言われていたのに、長期戦の準備を進めていたのである。クロンカイトは軍の発表に不信感を抱く。
サイゴンを飛び出したハルバースタムとシーハンの2人はメコンデルタで兵士と行動を共にして、前線の実態を目の当たりにした。アメリカ軍が敗北して死傷者を出していたのである。北ベトナム軍のゲリラ戦にアメリカ軍は大苦戦をしていたのだ。ハルバースタムは前線でアメリカ軍将校のジョン・ヴァン中佐からやり場のない不満を伝えられる。それは彼らが支援しているはずの南ベトナム軍は本気で戦う気がないというものだった。ハルバースタムはこの現実をそのまま記事にする。しかしこれに激怒したジョンソン大統領は、彼らを祖国の裏切り者と呼び、ライバル誌の大物記者に依頼し、彼らの記事を打ち消す記事を掲載させる。これに動揺したニューヨークタイムズは彼らの記事の真偽を疑う。
変化はテレビにも起こり始めていた。それまでテレビでは残虐な場面を映さないように自主規制されていた。そんな中、クロンカイトはサイゴンから届いた映像について放送すべきかどうかをディレクターに相談される。そこに映されていたのは、南ベトナムの民家を焼き払うアメリカ軍の姿だった。クロンカイトはこの映像をそのまま流すことにする。放送直後からCBSには「アメリカ人がそんなことをするわけがない」と抗議の電話が殺到、翌朝にはジョンソン大統領から「君たちはアメリカの国旗に泥を塗った」と抗議の電話がくる。
しかし1966年には投入兵力は38万、死者は6千人を超えていた。そして戦線は膠着したままだった。この年、アメリカ国民の戦争支持率は50%を割り込んでいた。
1968年、北ベトナム軍は南ベトナムの各都市に大規模な攻勢をかける(テト攻勢)。激しい市街戦の結果、アメリカ軍は辛うじてサイゴンを死守し、ジョンソン大統領は勝利宣言を行う。しかしこの時、衝撃的な映像が家庭に飛び込んでいた。南ベトナム警察長官が捕虜を路上で射殺した映像だった。これ以外にも非人道的な戦場の映像が次々と飛び込み、これは正義の戦争かという疑問が国民に湧き上がってくる。そして再びベトナムに渡ったクロンカイトは、自らのレポートの最後で「この状況から抜け出すには停戦しかない」と自らの意見を述べる。
1969年10月、アメリカでは史上空前の反戦デモが起こり、デモ参加者は200万人に及んだ。この年、世論に追われる形でジョンソン大統領が退任、後任はベトナム戦争終結を公約にしていたニクソンだった。しかし戦線縮小の困難さに直面した彼は「私はアメリカ史上初の敗北を決める大統領になりたくない」と言い始める。
1971年、本国に帰還してニューヨークタイムズに移ったシーハンは、驚くべき文書を入手していた。それはアメリカのベトナム戦争介入の実態を示した秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」だった。そこにはトンキン湾事件が実はアメリカ側の挑発だったことなどが記されていた。この文書の公開は国家機密漏洩罪当たるのではないかとニューヨークタイムズ者の幹部は掲載に反対するが、シーハンは「この文書はジョンソンのものでもニクソンのものでもない。血を流して代償を支払ったアメリカ国民とインドシナの人々のものである。」と主張、この文書はニューヨークタイムズの1面に掲載される。そこでは北爆での死傷者の8割が民間人であって、軍事施設に限って爆撃するなどということが嘘だったことなども報告されていた。ベトナム戦争正当化のために政府が重ねていた嘘が暴かれたのだった。
連載の中止を求めるニクソン大統領は、記事の掲載差し止めの仮処分を裁判所に求め、政府とジャーナリズムの戦いはついに連邦最高裁判所に持ち込まれる。そして最高裁は大統領の差し止め命令を却下する。「報道機関は政府に奉仕するものではなく、国民に奉仕するものである。」
そして1973年3月29日、ついにニクソン大統領がベトナム戦争の終結を発表する。
不覚にも涙が出そうになった。凄まじいジャーナリスト達の戦いである。この時の骨太のジャーナリスト達のことを考えると、今のジャーナリスト達の情けないこと。この時の教訓で学んだアメリカ政府は、湾岸戦争やイラク戦争では徹底した報道管制を行い、ジャーナリスト達の自由な報道を禁じたのである(これに反したジャーナリストは「イラク軍の犠牲になった」ということになって、米軍に「誤射」されることになる。)。番組でも言っていたが、この時の教訓は皮肉にもジャーナリスト達よりも、政府の方が学んでいたのである。
そしてそれに輪を掛けて情けないのは日本のジャーナリスト達である。イラク戦争では大本営発表に終始したどころか、政府の意向を受けて、イラクで人質にされた人々を非国民として叩くという信じられない破廉恥な行為のお先棒まで担いだわけである。健全なジャーナリス精神などかけらも見られない報道機関が多すぎるのである。
もっとも、最近はあまりのイラクの泥沼ぶりに、さすがのアメリカの報道姿勢も若干は変わりつつある。しかし日本の方は相変わらずである。結局日本には、マスメディアは存在してもジャーナリズムは存在しないということになる。
5/24 その時、歴史が動いた「帝と民の巨大プロジェクト〜東大寺大仏 聖武天皇の挑戦〜」
今回は大仏建立について。今までは大仏建立は、国家の力を占めそうとした聖武天皇が考え、民衆を動員したはた迷惑なプロジェクトという認識が強かったのだが、そうではなくてもっと民衆も加わったプロジェクトであったという解釈らしい。
奈良時代、律令制に基づいて国家を強化しようと考えていた朝廷にとって、聖武天皇はまさに律令制を定着させるにはこの人しかいないという切り札だったという。聖武天皇は天皇に即位すると律令制の浸透を図る。
しかしそれは民衆にとっては迷惑以外の何物でもなかった。律令制に基づいて彼らの税負担は強化され、しかも天災などで収穫がなくても律令制に基づいて一定の税が徴収されたため、国民は負担に耐えかねて逃亡を始めたという。
その頃、民衆に支持された僧が行基だった。彼は布施屋と呼ばれる施設で人々に無料で食料と寝場所を提供しながら、ぶっ虚の不況を行った。彼の教えは抑圧に苦しむ民衆の心をつかんだが、勢い彼の元には政治に不満を持つ民衆が集まってくることとなった。そのことに脅威を感じた聖武天皇は行基を弾圧し、追放する。
しかし民衆の逃亡は一向におさまらなかった。律令制が浸透さえすれば国はまとまるという聖武天皇の信念は揺らぎ始めていた。その最中に、かつて聖武天皇の教師を務めたこともある山上憶良が地方勤めから都に帰る。彼は地方の民衆の状況を目の当たりにし「貧窮問答歌」を読んだ人物である。彼の報告を聞いた聖武天皇は、自分が民の現状を全く知らなかったことに愕然とする。
ここにいたって聖武天皇は各地に救援物資を送り、減税を行ったが民衆の逃亡はまだとまらなかった。そのような時、聖武天皇の元に行基が地方で民衆を動員して土木工事を行っているという報告を受ける。そして民衆によって建立された河内の智識寺に足を運んだ彼は、民衆が自ら進んでこれだけのものを作ったということに驚愕する。その後、彼は行基の元を訪れて語り合い、その結果として大仏を建立して仏教によって民衆をまとめるということに思い至り、行基の協力を取り付ける。
しかし実際の建造は困難を極めた。当初は信楽に計画されたのだが、地震や山火事で工事は進まずに断念せざるを得なくなる。次に若草山の麓に場所を移したが、今度は行基の弟子達の間で意見が二分、離反する弟子なども出て行基も心労で倒れてしまい、工事は暗礁に乗り上げる。そんな時、聖武天皇は現場に訪れると、自ら土を手にとって運び大仏建立への意志を示す。これで民衆達も動き始める。
その後、工事中の事故や行基の死などのトラブルもあったが、752年、ついに大仏は完成する。
要するに聖武天皇は今まで言われていたよりももっと民衆のことを考えていたよという内容であり、それも分からないでもないが、終始彼が上からの視点でものを見ていたのは否定できないだろう。また民衆の間で布教を行っていた行基にしても、結局は権力に取り込まれたと言うことを否定できず、それが彼の弟子が割れた原因だろうと考える。当時の民衆がどう考えていたかということについては資料がないので(常に云えることだが、歴史というのは権力者によって残されるものであるので、民衆の考えは残らないのである)、実際のところ民衆がどう思っていたかは分からない。
なお最近登場した説に、平城京が滅んだのは大仏建立のせいだという説がある。当時のメッキ技術というのは、金を水銀と合金にして、それを塗布した後に加熱して水銀を飛ばすという方法であり、これは必然的に大量の水銀の蒸気を発生されることになる。この水銀の蒸気が奈良盆地に溜まって病気の発生や環境の破壊につながったという説である。まあこれだけが原因とは考えられないが、実際に、この後に平城京は遷都されるのだが・・・。もしこれが本当ならかなりの皮肉である。
4/26 その時、歴史が動いた「歴史の選択 本能寺の変 織田信長VS明智光秀」
今回は、NHKの内部の事情で年に2回ほどある「デジタル放送宣伝企画」である。デジタル放送をアピールするために意味もなく視聴者投票を取り入れるという例の企画である。
で、今回のテーマは「織田信長と明智光秀のどっちを支持するか」。どちらかを上司にするとしたらどちらが良いかなどと言っていたが、そんなことを言われたら私は迷うこともなく明智光秀を選ぶ。織田信長が上司だったら、会社は大きくなるかもしれないが、自分は使い捨てでリストラされてしまうのがオチである。
番組の方では両者を比較するのだが、織田信長は体制破壊者で、能力主義、そして目的のためには冷酷だった人物。これに対して明智光秀は現状を強化しながら穏健な社会を目指すタイプで、家族主義の温情主義である。明智光秀は歴史上は謀反人とされているが、実際のところ彼の領土だったところではとにかく民衆のウケがよい。また彼については妻に対する細やかな愛情を示すエピソードも残っている。人格的に明らかに欠陥があったと考えられる信長(間違いなくヒステリーの傾向がある)に対して、光秀は穏健な常識人だったようである。
というわけで、番組では3回に渡って投票をしたのだが、最初は人気の点で信長がリードしていたのに、番組が進行するに連れて光秀の票が伸びて、最終的にはひっくり返ってしまったのが象徴的。信長みたいな唯我独尊で自分にとって都合の悪い者は次々と切り捨て、さらに言えば庶民のことなど一切顧みないという人物は、歴史の上で見ていくには面白いが、同時代の人間にとっては迷惑きわまりないと言えるだろう・・・・とよく考えてみたら、今の日本でも、能力は信長の足元にも及ばないにもかかわらず、彼の悪いところだけを忠実にコピーしているかのような奴が政治を仕切っていた。こりゃ末世だわ・・・・。
4/19 その時、歴史が動いた「それでも地球は動いた〜ガリレオ・ガリレイの栄光と挫折〜」
今回はこの番組では珍しい世界史ネタである。テーマは地動説を唱えたガリレオが宗教裁判によって地動説の放棄を迫られるエピソードについて。
1564年にガリレオはピサで7人兄弟の長男として生まれる。彼の家庭は貧しかったが、優秀だった彼は知人の援助でピサ大学に入学する。しかしそこで教えられていたのは2000年も前のギリシア時代の学問であり、彼はすぐに興味を失った。大学よりも外の世界に目を向ける。ルネサンスの時代を迎えて自分の目で観察することを基本にした学問が始まっており、そのような新しい学問が彼の心をとらえる。そして彼は世の中のすべての事象は数学で説明できるとの確信を持つ。
彼は独学で物理学の研究を始める。そして重い物体の方が早く落ちるというアリストテレスの定説の間違いを実験で明らかにし、これが認められて28才で名門のパドバ大学の数学教授に任命される。
そしてガリレオの名を上げたのが自作の望遠鏡による天文観測の結果だった。彼は月のクレーターなどを発見したり、木星に4つの衛星が存在することを発見した。彼のこの功績はヴァチカンにも認められ、バルベリーニ枢機卿などは彼の熱烈な支持者となり、彼は当代随一の科学者との評価を得る。
しかし彼の栄光は自らの発見によって暗転する。彼は金星の観測結果から、かつてコペルニクスが仮説として提唱していた地動説が正しいことを確信する。しかし地動説は、聖書の記載が唯一の真実であると信じていた阿呆の集まりであるローマ教皇庁にとっては異端の教えだった。また当時はカトリックとプロテスタントの対立が激化していた。しかしガリレオは地動説は聖書の教えの解釈さえ変えれば問題ないと考えていた。だが運悪く彼の手紙が聖職者(狂信者と同意)の手に渡り、彼は異端審問を受ける羽目になる。
審問の結果、阿呆共は地動説は聖書の教えに反しており異端との判断を下す。ただ当時の判例ではガリレオは火あぶりになるところだが、バルベリーニ枢機卿などの彼の支持者の尽力で死罪は免れる。
しかし地動説を唱えることを禁じられたガリレオは、数々の中傷に苦しめられることになる。しかし7年後、彼の支持者であったバルベリーニ枢機卿が教皇に選ばれた(ウルバヌス8世)ことを知った彼は、今なら地動説を受け入れてもらえるのではないかと、地動説と天動説を対話形式で紹介した「天文対話」を出版。この本は飛ぶように売れる。彼はこの本で特に地動説を勧めたわけではなく、両論併記で読者の判断に委ねようとしたのだが、人々はそこに真実を見たのだった。
しかし彼のこの本が、他ならぬウルバヌス8世を激怒させたのだった。プロテスタント諸国との戦いで神聖ローマ帝国が劣勢に陥っていた時に、カトリックの教えに疑問を投げかけかねない彼の地動説は都合が悪かったのである。結局ガリレオは、宗教裁判によって死刑か地動説の放棄かの二者択一を迫られ、地動説の放棄を余儀なくされる。
その後の彼は幽閉状態の中で生涯を送ることになる。しかし心の中で地動説を諦めていなかった彼は、死の前に自らの研究結果をまとめた「新科学対話」を記す。この書はプロテスタント諸国で出版され、後にニュートンなどに影響を与えることになる。
結局、彼がこの書を記したことが後に大きく影響し、歴史の上では後に彼は勝利者となり、彼が異端審問を受けたという事実は、皮肉なことに宗教というものがどれほど馬鹿げていて救いがたいものであるかということを端的に物語るエピソードの一つになるのである。
宗教というのは実にくだらないものであるが、そのくだらないものが世の中を支配したこの時代、ヨーロッパでは数々のとんでもないことが起こっていた。これはその一つである。なお地動説がここまで頑なに否定されたのは、地動説が真実か否かという次元ではなく、当時は教会が権力機構そのものであったから、それに楯突くものはとにかくなんでも否定するという組織防衛上の話であって、理屈ではないのである。そういう意味では組織防衛が合理性に優先している今の日本の官僚機構も宗教組織とそっくりかもしれない。
4/12 その時、歴史が動いた「大奥悲しみの果てに〜徳川家宣正室 天英院煕子の生涯〜」
徳川綱吉の治世、徳川家宣とその妻・煕子は甲府藩35万石を治める小大名だった。家宣は藩政に手腕を発揮し、甲府藩は繁栄していた。また公家から来た妻の煕子を大事にして夫婦仲は非常に睦まじかったという。しかし1704年、その2人の運命が急変する。綱吉に子供がいなかったことから、家宣が次期将軍に任命されたのである。そして1709年に家宣は6代将軍に就任、煕子は正室として大奥に入ることとなった。
しかし44才で大奥に入った煕子には戸惑うことばかりであった。大奥は当時の幕府の予算の1/4も使用し、将軍の世継ぎを生んで育てる一大官僚機構になっていたのだった。彼女はいきなりこの巨大組織を取り仕切ることになったのだ。
家宣の治世は正徳の治と呼ばれて評判はよかった(馬鹿将軍綱吉が制定した生類憐れみの令などの馬鹿法を、彼は片っ端から廃止したわけだが)。だが煕子にとっては辛い日々が続いた。夫婦が共に過ごせる時間はほとんどなくなっていた。しかも大奥には「御褥御免」というしきたりがあり、30歳を過ぎた女性は正室であっても将軍と夜を過ごせなかったのである(世継ぎを生むことが最優先にされていたということである)。家宣も4人の側室を持たされ、やがてその1人・お喜世に男子が産まれる。
そして1712年、家宣が突然に倒れる。しかしたとえ正室でも大奥の女性が将軍の居住空間に立ち入ることは出来なかったため、彼女はそこに駆けつけることは出来なかった。そして家宣はそのまま亡くなり、彼女は臨終に立ち会うことさえかなわなかった。
家宣の死後は、お喜世の生んだ家継が7代将軍に就任した。家継の生母であるお喜世は月光院と名乗り、煕子は天英院と名乗ることとなった。ここで慣例では将軍が死ぬとその正室は大奥から出ることになっていたのだが、天英院は家宣から若い家継のことを託されていたために、大奥に残留し、家継を盛り立てることとなった。しかしそのために、将軍の生母として勢力を伸ばしてきた月光院と対立することになってしまう。
しかもこの頃、月光院の派手な生活が災いし、大奥の規律は乱れに乱れる。その挙げ句に絵島生島のスキャンダルも発生、大奥に対する風当たりが強くなる。しかも家継が風邪をこじらせて危篤状態に陥り、幕府は将軍の後継者がいないという非常事態になってしまう。
こうなれば次期将軍を御三家から招くしかないが、だれを後継にするかの議論は全くまとまらなかった。また大奥の中では息子の危篤に動転した月光院は大奥を取り仕切れる状況になく、混乱状態になっていた。この時に天英院が立ち上がる。彼女は月光院を励まし落ち着かせるし、幕府の重臣を呼び集めて、次期将軍を紀州の吉宗にするようにと告げる。大奥が次期将軍を決定するという異例の事態に承伏しかねる重臣達に、彼女は切り札を繰り出す「これは家宣の遺言だ」と彼女は告げたのだった。
こうして吉宗が8代将軍に就任、徳川幕府の危機は回避される。
以上、吉宗が将軍に就任するに至るエピソードでもあるのだが・・・・うーん、やっぱりネタとしては弱すぎる。そもそも6代将軍が印象の薄い人間だし(結局はその治世は4年しかないわけだから、印象が薄いのも当然である)、大奥の話となるとどうしても裏のエピソードなのでなんとも。ただ吉宗が天英院にこれで恩を感じていたのは事実らしく、それ故に大奥に対して頭が上がらなくなったというのも後々につながっていくのである。ちなみに幕府の財政の建て直しを迫られていた吉宗は、大奥のリストラにも取り組むのだが、この時には一悶着あったようではある。
しかし家宣にしても、吉宗にしても、直系の連中は駄目でマシな人材は傍系からしか出てこないという典型的なパターンなのである。やはり世襲なんてろくでもないということは歴史で証明されているとしか言いようがないということはつくづく感じる。と言うわけで、世襲議員ばかりになりつつある日本は、このままだといずれは滅びそうだ。
で、次回はガリレオ・ガリレイの地動説の話。と言うわけでいよいよ世界史の登場です。多分、宗教が支配する世の中はどんなアホな世の中になるかってことを、痛感させられるエピソードになっちまうんだろうな・・・。
4/5 その時、歴史が動いた「マッカーサーを叱った男〜白州次郎・戦後復興への挑戦〜」
終戦後、焦土となった日本はマッカーサーをいただくGHQに支配されていた。そんな時にGHQと日本政府との連絡を受け持つ終戦連絡中央事務局に入ってきたのが白州次郎だった。彼は抜群の英語力とマッカーサーを相手にしても全く物怖じしない態度で注目を浴びる。彼は「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」という信念を持っていたという。GHQから彼は、従順ならざる唯一の日本人と評されたという。戦前から吉田茂の信を受けていた彼は、戦後に吉田茂が外務大臣に就任したため、この厄介な任に抜擢されたのだという。
マッカーサーは日本の憲法改正を急いでいた。しかし日本側の草案は明治憲法を基本に置いたものであり、GHQ案とはかけ離れていた。白州はGHQに抗議したり調整したりしながら、いかにして受け入れられやすい憲法にするかに奔走したが、結局はGHQに押し切られるような形になった。白州はこの時に「敗戦国の現実」を思い知らされたという。
この後、吉田が首相に就任するが、当時の日本経済はガタガタの状態で、その建て直しが急務となっていた。GHQはこの状態を統制を強めることで収拾しようとするが、その試みは成功しなかった。吉田が統制経済に協力的でないと見たGHQは政権交代を見越して、解散総選挙の実施を促す。その結果、政権は社会党の片山内閣に移行する。しかし片山内閣下でも経済は好転せず8ヶ月で辞任、さらに次の芦田内閣は昭電疑獄のスキャンダルでガタガタになり、世論に吉田復帰期待論が持ち上がってくる。
これに対してGHQの民政局が反対し、吉田の民主自由党に内部分裂の画策を行う。これを内政干渉だと反発した白州は民政局の独走に反発する参謀第二部に接近し、民政局の内政干渉を阻止するように働きかけた。これでGHQ民政局は力を失い、吉田内閣が成立する。貿易庁長官に就任した白州は、GHQの統制経済から自立を果たそうと考えていた。しかし輸出の許認可権を握る貿易庁には利権が集中し、業者からの賄賂が横行していた。白州はこれらを徹底的に糾弾すると共に、根本的な組織の改革の必要性を感じる。自分たちの利権が脅かされることを恐れた商工省は永山時雄を白州の監視のために送り込む。しかし白州はこの永山を逆に説得して仲間に引き込んでしまう。
その時、日本は貿易を中心とし自立すべきだとの考えを持つ経済顧問のジョゼフ・ドッジが来日、これを好機ととらえた白州は、一気に組織改革に動く。そして昭和24年5月25日に設立したのが通商産業省だった。白州の貿易で立国するという意志が反映された組織だった。
その後の日本は、この時の「貿易立国」という考えに沿って、経済発展を続けていくのだが、それがやがて日米貿易摩擦につながるようになるとは歴史の皮肉である。またこの通商産業省も後にやはり利権の巣になってしまった。役人の体質を改めるのは組織改革だけでは駄目だという証拠でもある。
なお白州は憲法についてGHQに押しつけられたものだという認識を持ってはいたが、その戦争放棄などについては評価していたという。この辺りが押しつけられた憲法だから全面的に駄目と主張して戦争をやりたがるアホな輩と彼が違うところである。日本人には珍しく「ものが見えていた」人物だったのだろう、彼は。
さて新装開店したこの番組だが、ネタ不足を補うためかこれからは戦後史や世界史なども扱うという。ただ世界史を扱おうと思うと映像的にしんどいし(この番組で海外取材は難しいだろう)、戦後史については生々しすぎるだけにいろいろと横槍が入りやすい(権力による介入が入りやすくなる。どこぞの政治家のようにNHKの番組内容に逐一介入したがる輩がいますから)などの問題も多々ある。さてどうなることやら。
3/8 その時、歴史が動いた「ゼロ戦・設計者から見た悲劇〜マリアナ沖海戦への道〜」
太平洋戦争初期においては、その圧倒的性能で米軍を恐怖のどん底にたたき落としたゼロ戦。しかしやがては悲劇の運命をたどると共に、戦況は悪化をしていった。その過程を追うのが今回の内容。
そもそもゼロ戦は海軍からの無茶と思われる要求に基づいて設計された。エンジンは外国製の8割程度の出力しかないのに、速度や航続距離ではそれらを凌ぐという無茶な要請に応えるための方法は1つしかなかった。それは機体の徹底した軽量化だった。しかしこれは必然的に機体強度の低下と防弾性能のなさに直結し、これがゼロ戦の後々の致命傷となる。
まずゼロ戦はその試験飛行から波乱含みだった。強度不足のために急降下から急上昇を行った時に機体が空中分解する事故が発生した。しかし海軍はこの問題に急降下性能の抑制と、ほんのわずか主翼強度アップという小手先で対応する。
それでもゼロ戦は初戦における真珠湾奇襲などでは大戦果を上げる。しかし1つの転機となるのがガダルカナルでの戦いである。この時にはゼロ戦の中心は改造型の2型になっていたが、この機体がとんだ欠陥品だった。大出力化した大型エンジンを搭載するために燃料タンクが小さくなったことと、空母搭載のために翼端を無理に切り落としたことで空気抵抗が増えたため、航続距離が著しく短くなり、ラバウルとガダナルカナルの間を往復することが出来なかった。そのためにガダルカナルの航空戦では旧型のゼロ戦のみが投入されることとなり、徒に熟練パイロットを消耗しただけで敗北する。
明らかに設計の失敗だったが、この件について海軍では誰も責任をとることがなかった。結局はこの無責任さがこの後の悲劇につながる。またこの頃、アメリカはほとんど無傷のゼロ戦を入手することに成功、これでゼロ戦のすべての弱点が明らかになる。その上でアメリカは、強力なエンジンを搭載して機体を徹底的に強化した新型機F6Fを開発する。
F6Fの登場でゼロ戦の優位は完全に崩れ去った。ゼロ戦が後ろにつくとF6Fは急降下、これにゼロ戦は全くついていくことは出来ない。またF6Fは上空でゼロ戦を待ちかまえ、急降下しながら攻撃を行った。防弾の全くないゼロ戦は、燃料タンクや操縦席に被弾し、次々と撃墜された。
前線のパイロットからは防弾に対する要望が高まる。しかし海軍上層部は「大和魂で突破する」という馬鹿げた精神論を振りかざすだけで防弾は採用しなかった。
そしてアメリカがサイパン上陸攻撃を開始したことから始まったマリアナ沖海戦。日本は持てるすべての航空戦力を投入するが、既に機体性能でも劣り、熟練パイロットの多くを失っていた日本軍は、電探によって日本軍の襲来を察知して万全の体制で待ちかまえるF6Fの前で次々と撃墜される。またなんとかそこをかいくぐった機体も、米軍の猛烈な対空砲火の前に防弾性能のなさという弱点をさらけ出し、ことごとく撃墜された。日本はこの戦いで戦闘機の8割を失い、これで航空戦力が崩壊する。
例によって軍隊の駄目さ加減を示すエピソードである。日本軍の致命的欠陥は、人員の損耗を軽視しすぎていたことである。やはり人間は赤紙一枚でいくらでも調達できるという甘い考えがあったのだろう。もっとも技術的にも資源的にもアメリカに負けているのが明らかな中で、防弾をした上で米軍機と互角以上に渡り合える戦闘機が開発できるかといえば、それもどだい無理であったのだが。突き詰めれば、どだい無茶な戦争に突入した上層部が馬鹿だったということに尽きるのである。
ただこれではっきりしているのは、精神主義では合理主義には絶対勝てないということである。精神的要素なんて、物質的環境と社会的環境が整った後で効いてくる要素なので、それが逆にはならない。ましてや近代戦ではなおさらであるということだ。
なお、戦争をなくすには「戦争を決断した者は必ず最前線に立つこと」というルールを作れば良いという話もある。実際にこんなルールを守る輩などいるわけがないが、とにかく戦争をやりたがるのは安全な場所にいることが出来る奴というのは常に言えることで、今の日本でもやたらに勇ましい奴ほど必ず安全な場所にいる。
3/1 その時、歴史が動いた「さらば殿様〜廃藩置県 激動の内幕〜」
中央集権国家として基盤を固めようとしていた明治新政府にとって、解決しないといけない問題は藩の存在であった。政府は全国を府と県に分け、そこに中央で任命された知事を派遣しようと考えていた。しかし封建社会を根底から覆すこの変革には、薩摩や長州などの有力藩の反対は必至だった。特に薩摩の島津久光は藩の廃止には強硬に反対しており、強行すれば何が起こるか分からなかった。
まずは人民を朝廷に返還する版籍奉還から政府は計画し、木戸孝允は主君である毛利敬親を説得する。毛利敬親は藩士を自由に行動させたことから、別名「そうせい候」と呼ばれていた人物であるが、さすがにこれには首を縦に振らなかった。藩の基盤が危うくなれば、内乱になりかねないことは彼でも感じていたのである。
結局、新政府は薩摩・長州・土佐・佐賀の四藩の藩主に版籍奉還を上表させるが、この合意を取り付けられたのは、この版籍奉還には実態はなく、藩主による支配が続くシステムとなることが考えられたからである。藩主達にすれば、国のトップが将軍から朝廷に変わったというだけの意味しかなかった。版籍奉還によって藩には藩主に変えて知藩事を任命することになったが、結果としてそれには藩主が任命されることになった。
廃藩置県後も結局は支配構造は変わらず、新政府の収益は直轄領からの年貢だけであり、それは日本全体の3割に過ぎなかった。そこで政府は徴税の強化を行うが、これは民衆の反発から暴動につながるだけだった。政府の財政基盤確立のためにも廃藩置県は急がれた。
しかし意外なところから廃藩論が持ち上がった。藩の財政の建て直しに苦しんでいた地方の諸藩から、藩内改革に限界を感じ、廃藩によって一気に改革を進めるべきとの声が上がり始まるのである。新政府にとってはこれは願ってもない追い風のはずであった。しかしやはり薩摩などの意向が気になる新政府は廃藩置県に踏み切れなかった。
ここでさらに新たな動きが起こる。土佐藩大参事の板垣退助の呼びかけで、土佐・米沢・熊本・徳島・彦根・福井藩の大参事達が集まり、藩を廃止して各藩の代表者による議会を開設し、薩長政府を牽制しようと言う計画が持ち上がっていくのである。
ことここにいたって黙ってみているわけにもいかなくなった新政府は、ついに廃藩置県に踏み切る。しかしこれは木戸孝允、井上馨、山県有朋、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、西郷従道の7人だけの密議で決定されたもので、一種のクーデターであった。突然に朝廷に呼び寄せられた藩主達は、唐突に廃藩の詔を聞かされることになったのだという。心配された混乱は起こらず、諸藩は黙り込んだが、薩摩藩だけは屋敷に花火が上げられたという。これは島津久光の最後の抗議の意味が込められていたという。
着々と改革を進めたかに思われる明治新政府であるが、実はかなり綱渡りであったという話。かつての自分たちの主君が最大の抵抗勢力であったのが皮肉である。ただ廃藩置県が予想以上にスムーズに進行したのは、もう既に各藩とも限界が来ているという共通認識が合ったのではないかと思われる。もっとも薩摩藩はこの時に納得しておらず、結局はそれが後の西南戦争への伏線となることになる。
2/22 その時、歴史が動いた「伝染病から日本を守れ 細菌学者 北里柴三郎の闘い」
明治時代の日本は、開国以降外国からの伝染病の脅威にさらされていた。当時の日本では検疫もなされていなかったため(不平等条約の影響があるという)、外国から伝染病が流入しては大感染を繰り返し、特にコレラは数度にわたって流行し、多くの犠牲者を出していた。肥後の北里村の北里柴三郎も、幼い弟二人をコレラで失い、伝染病に対する憎しみから研究者への道を歩んだ。
北里はドイツ・ベルリンに渡り、世界で初めてコレラ菌を発見したコッホの元を訪れる。彼はそこで連日研究に励み、コレラ菌が三に弱いことを発見する。これはコレラの消毒法につながった。またコレラが経口感染することも明らかにしたという。しかしここで政府から思わぬ横槍が入る。彼に他の留学生と交代するようにとの指示が下ったのだった。その窮地を助けてくれたのは恩師であるコッホだったという。彼は北里が確実に大きな研究成果を上げると主張して、北里が研究を続けられるように取りはからってくれた。北里はその後、破傷風菌の純粋培養に成功したり、動物の抗体を利用する血清療法という画期的な治療法を発見した。
ようやくコレラの治療の道筋を見出した北里は、欧米の多くの大学から誘いやコッホの慰留を断り、日本に帰国して伝染病の治療に尽くすべく伝染病の研究所を開設する。しかしそれは理解を得られず、近隣の住民からは感染を恐れての反対運動までも行われる。彼は血清療法の有効性を示して理解を得るため、自分の娘に対して血清を投与して治療を行う。娘は見事に全快し、血清の有効性が証明される。北里の元には治療を求める患者が次々と訪れた。しかし今度は血清が足らなくなってしまった。彼は国家レベルで伝染病対策に取り組む必要を感じ、政府に訴えるが、富国強兵を最優先にする政府には彼の意見は通らなかった。
しかし思いがけない出来事が転機となる。1894年、香港でペストが流行し、日本にも上陸の危険が迫ったのであった。危険を感じた政府は北里を中心とした6人の調査団を香港に派遣する。北里らは患者が廊下にまで横たわっているという惨状の香港の病院で、部屋にこもりきってペスト患者の解剖調査を実施する。6人の派遣団の内3人がペスト感染で倒れるという中、北里はペスト菌の正体を発見することに成功する。
帰国した彼は、血清の製造などの対策を行うと共に、国を挙げての伝染病対策が必要であると訴え、伝染病予防のための法律を作成する。こうして1897年、伝染病予防法が成立する。患者の隔離、検疫の徹底、上下水道の整備などを訴えた、後の伝染病予防の指針ともなる法律だった。この法律が成立したことで、後に神戸にペストが上陸した際も迅速な対応で感染の拡大を阻止、さらにはコレラの流行をも抑えることに成功する。
日本が本当の意味での「先進国」になるのに貢献した人物の物語である。「文明国とは衛生が発達した国を指す。戦に勝利したことを喜ぶのが文明国ではない」というのは至言である(戦に勝利したことを喜ぶのは文明国ではなく野蛮国である)。この時代からの基礎があるからこそ、日本は今でも世界でトップ水準の衛生を誇れるわけである。現在、BSEやSARS、新型インフルエンザなどが警戒されているが、果たして現在の日本は北里柴三郎の意志を生かせるかが再び問われているようである。もっとも政府が一般国民の健康や命のためには金を使いたがらないのは、あまり変わっていないのが不安だ(小泉はアメリカご追従のためなら、国民の命など平気で差し出す輩であるから)。
2/8 その時、歴史が動いた「壬申の乱 天武天皇誕生の秘密」
今回は初めて「天皇」という称号を用いた天武天皇が、兄である天智天皇の息子の大友皇子に勝利して権力を掌握した壬申の乱についてである。
豪族蘇我氏を滅ぼして権力を掌握した中大兄皇子は皇太子として実権を握り、大王中心の政治を進める大化改新を行う。彼は難波の宮に都をおいて諸改革を進めた。さらに彼は大王の権力を示すために、唐・新羅連合軍と戦う百済を支援、中国大陸に軍勢を送り込む。しかしその軍勢は白村江の戦いで惨敗、彼の政策も挫折する。その時に中大兄皇子を支えたのが、弟である大海人皇子であったという。彼は離反しかねない豪族達をつなぎ止めるのに奔走し、兄の改革を再び軌道に乗せる。そして中大兄皇子は大王に即位する(後の天智天皇)。
大王になった天智天皇は大津に遷都する。大津遷都の意図は朝鮮半島との交流に有利であったことと、渡来系の豪族であった大友氏の本拠であったことなどであったという。彼は大友氏に長男を預け、これが後の大友皇子になる。さらに天智天皇は太政大臣の職を設け、それに大友皇子を就かせることで大友皇子が後継者であることを明らかにしようとする。当時は後継者は一族の中の有力者から選ばれることが多かったが、彼は血統による継承を打ち出したのだという。しかしこの決定に大海人皇子は不満を感じていた。天智天皇が病気になった時、彼は大海人皇子を病床に呼び、大友皇子への協力を要請するが、大海人皇子は病気を理由にそれを断り、出家して仏道の修業にはいると吉野に去ってしまう。
しかし吉野に去った大海人皇子に対し、大友皇子は脅威を感じていた。彼は大海人皇子を討つために軍勢を集め始める。それを聞いた大海人皇子も立ち上がる。彼は秘かに吉野を去り、美濃に向かう。この頃から彼は数々の「不思議な力」を見せ始めるという(早い話が自身に神秘性を持たせるための演出なのだが)。また彼は途中で伊勢神宮の天照大神を祀ることで、伊勢神宮との結びつきの強い東方の豪族を味方につける算段をする。彼の策略は頭にあたり、伊賀・伊勢・桑名・尾張・美濃の豪族は彼の味方につく。
大友皇子と互角の軍勢を揃えた大海人皇子は大友皇子の本拠である大津宮に向けて進軍を開始する。しかし彼自身は前線に立たず、総大将は息子の高市皇子に託す。高市皇子を大友皇子と互角の地位で戦わせることで、自身は彼らを超越する位置にいることを誇示したのだという。戦いは激戦を極めるが、ついには大海人皇子の軍勢は大津宮に乱入、逃げ場を失った大友皇子は自害して果て、戦いは終結する。
勝利して権力を掌握した大海人皇子は飛鳥に都を移す。そして自らの称号としてそれまでの大王でなく、「天皇」という称号を用いる。また過去の大王にも遡って天皇の称号を与えることにした。こうして天皇が誕生したのだという。
天皇誕生の話なのだが、つまり古代史最大の合戦である壬申の乱を中心としたエピソードである。壬申の乱自体は比較的良くある息子と弟の後継者争いというパターンである。現在も皇位の継承が問題になっているが、これももし皇太子に何かあった時、皇位を娘の愛子ちゃんが継ぐか、弟の秋篠宮が継ぐかという話であるので、実のところは図式はよく似ていたりするのだ。これがかつてのような天皇がすべての権力を掌握している時代なら、愛子派と秋篠宮派の二派に分かれて合戦になりかねないところだったが、幸いにして現代では武力衝突ということはなかろう。ただ既に、皇室典範の改定を巡って水面下の攻防はかなりあるようではあるが。
大海人皇子としては、兄を常に陰から支えてきたのは自分だという自負もあったろうから、当然ながら自分が後継者になるはずだとの思いもあったろう。彼は地位を大友皇子に譲った形で吉野に隠遁したが、実際のところは権力への野心は捨てていたとは思えない。番組では大友皇子側の仕掛けに対応する形で起ったようなニュアンスが出ていたが、現実にはある程度は予定していたことのように思われる(当初の予定よりも行動が早まった可能性はありそうだが)。実際に東国の豪族を仲間に引き入れたのも、天照大神を祀るパフォーマンス一発ですんなりいくはずもなく、既に水面下での工作は進行していたはずである。多分そのような工作では、御曹司の大友皇子よりも大海人皇子の方が長けており、それが最終的に勝敗を決めたように思える。
2/1 その時、歴史が動いた「新聞誕生〜幕末・ジョセフ彦の挑戦〜」
1837年、播磨の船乗りの次男として生まれた彦太郎は、兄の薦めで舟で江戸に出かけた帰り、遠州灘で舟が時化に巻き込まれ遭難、アメリカの商船に救助させる。当時の日本は鎖国状態にあり、日本に帰ることの出来なかった彦太郎はアメリカへと連れて行かれる。ここで彼はアメリカの文化に驚く。この時、彦太郎は13才。彼はそこで税関長のサンダース夫妻に引き取られ、教育を受ける。そして18才の時にカトリックの洗礼を受け、ジョセフ彦と名乗るようになる。
彼は商社に就職し、そこで頭角を現す。アメリカで活躍する彦には社会の注目が集まり、彼は大統領と会見する機会も得る。国家の最高権力者にでもこのように会えるアメリカの自由に彼は感銘を受け、日本にもこの自由の精神を伝えるべきだと考え始める。
その頃日本では、ペリーの来航によって日米和親条約が締結される。そこで彦は日本に帰ってアメリカの情報を人々に伝えたいと考える。しかしキリスト教徒になってい彼は幕府に弾圧を受ける心配があった。そこで彼はサンダース夫妻の薦めでアメリカに帰化しアメリカ国籍を得る。
こうしてアメリカ国籍を持つ日本人として帰国した彦だが、彼の行動は外国人居留地の中に制限されていた。しかも攘夷の嵐が吹き荒れ始めた日本では、彼も命を狙われており、枕元に銃を置いて寝るような状態だった。このままではどうにもならないと考えた彼は、日本で新聞を作ることを考える。彼は協力者として岸田吟香と本間潜蔵の2人を得て、新聞の製作を始める。
彼は海外の新聞を集め、それを翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵の2人がそれを記述するという形で新聞製作が行われる。しかし彼の行動は、海外の情報を独占することを狙っていた幕府の反発を呼び、彼は連行されそうになる。しかしそこで彼は自分がアメリカ国籍であることを盾にして拒絶する。そして1864年、日本で初めての新聞が発行された。名前は「新聞誌」。諸外国の政治・経済・戦争の情報から、茶・煙草・綿などの世界の相場なども記載されていた。最初は手書きの5部だけ発行された新聞も、やがては木版に移行し、100部に部数が増える。福沢諭吉も帰国後この新聞を購読したという。
その後、居留地の火事などで彦は新聞の発行を断念せざるを得なくなるが、彼の精神は明治新政府に継承されることになったという。
以上、日本で最初の新聞の話なんだが、まず最初から「ジョセフ彦って誰?」というのが正直なところ。どうしてもマイナーな人である。またその半生もジョン万次郎と見事にかぶってしまう。ジョン万次郎が政府で働いたのに対し、彼はあくまで民間の人間だったために、どうしても歴史評価上の割を食ってしまった感はある。
またエピソードとしても非常に弱い。多分この時代に彼と同様に情報の発信を目指していた者はいたと思うが、彼の発行した部数から考えると果たしてそれがどれだけの影響力を持ったかが疑問。発行部数100部だと、マスコミではなくてミニコミである。
1/18 その時、歴史が動いた「古代の文明開化〜1号寺院・飛鳥寺建立の戦略〜」
日本に初めて仏教が伝えられたのは欽明天皇の時代である。百済から日本に仏像と教典が伝えられたのである。この頃の仏教は東アジアで大きな勢力を広げていた。しかしこれを受け入れるかどうかは朝廷内で意見が分かれる。大連の物部氏は強硬に反対し、大臣の蘇我氏は賛成と意見が割れた。
こうなったのには蘇我氏と物部氏の背景の違いがある。仏教導入に積極的だった蘇我氏は配下に多くの渡来人がいたのに対し、物部氏は石上神宮を氏神とする神道色の強い豪族だった。当時の仏教は単なる信仰というだけでなく、総合文化と言えるものであった。蘇我氏は仏教を導入することで先進的な文明を導入しようと考えていたのだが、物部氏ら諸豪族の強硬な反対により、欽明天皇は国家として仏教を受け入れることは見送り、さらに次の代の敏達天皇も仏教を公認しなかった。それどころか物部氏は高句麗の使節を暗殺、新羅には贈り物を拒絶、百済から招いた高官も暗殺と朝鮮半島との関係は断絶に近い状態になる。
この状況に危機感を感じた蘇我馬子は自ら率先して仏教に帰依し、高句麗の僧を迎え、家臣の娘を出家させて尼僧とする。そして翌年には仏塔を建てるなど公然と布教に乗り出す。しかしこれに対して物部守屋が疫病を口実にして仏法の排斥を敏達天皇に奏上、敏達天皇もこれに同意する。こうして物部守屋は仏塔を切り倒し、仏像のあった屋敷を焼き払い、尼僧らの法衣をはぎ取って鞭打つという仕打ちを行う。
ついに蘇我氏と物部氏は決定的な対立を迎えるが、両者の力関係に変化が生じるのは敏達天皇の死後、用明天皇の時代である。即位後まもなく病に伏した用明天皇は、初めて仏教の崇拝を表明するのである。これに物部守屋は強硬に反対するが、蘇我馬子は天皇の意向を持ち出して押さえつける。そして多くの豪族は物部氏から蘇我氏へと乗り換えることになる。
起死回生を目指す物部氏は武力によって蘇我氏を討とうとし、蘇我馬子をこれを受けて立つ。諸豪族を率いて闘うと蘇我氏と、武力に長けた物部氏の争いは激闘となるが、戦闘の最中物部守屋が狙撃されて戦死、物部軍は総崩れとなる。
こうして権力を掌握した蘇我馬子は飛鳥の地に都を築き、仏教の布教を開始する。しかしその頃、馬子は中国で隋が勢力を伸ばし始めたことを高句麗の僧から聞き、早速視察のために遣隋使を派遣する。隋は朝鮮半島にも勢力を拡大しようとしており、その拡大主義は日本にも脅威だったのである。日本の使節が中国を訪れるのは120年ぶりだったが、この派遣によって日本の政治制度が隋よりも遙かに劣っていることが明らかになる。
日本の遅れをなんとかしないと考えた馬子は、仏教布教のために建立中であった飛鳥寺を最先端の文化センターとして位置付け、先端の技術を導入する。飛鳥寺は日本にはかつてなかった瓦葺きの建物となった。そして飛鳥寺の完成が近づいた頃、日本は再び遣隋使を送り出す。この時に使節が携えた国書が例の「日出ずる処の天子 書を日没する処の天子にに致す つつがなきや」というものである。この高慢な国書に隋の皇帝の煬帝は激怒し、日本に国情視察の使節を送り出すことにする。もしここで日本が見くびられたら侵略の危機さえある。しかし馬子は万全の準備を持って飛鳥で使節を待ち受けていた。馬子が建立した飛鳥寺は大陸の寺院にもひけを取らない規模で、しかも最先端の技術を用いて建造されていた。飛鳥はこの後発展を続け、中国や朝鮮の使節も訪れるようになる。
日本は今まで新たな宗教を導入する時は、大抵その副賞が目的で導入を行っている。仏教の副賞は最先端の中国文化、キリスト教の副賞は鉄砲であった。食玩目当てで飴を買うマニアのようなものである(笑)。
なお遣隋使においては日本は思い切りはったりをかましたわけだが、外交には時にははったりも必要なわけである。それに比べて今の外交は・・・。アメリカにはポチだし、アジアには無意味にケンカを売るんだから、小学生レベルだ。
1/11 その時、歴史が動いた「人間ドラマ誕生〜近松門左衛門・曽根崎心中」
徳川家綱の時代、幕藩体制は固まり戦はなくなった。しかしそれは武士にとっては出世のチャンスがなくなるという意味でもあった。そんな中、公家に仕える武士であった杉森信盛は、武士を捨てて、好きだった浄瑠璃の道で生きていく決心をする。彼こそが後の近松門左衛門である。
彼は京で人気を誇る浄瑠璃太夫・宇治加賀のじょうに弟子入りして修業することになるが、浄瑠璃作者の地位は低く、なかなか芽が出ることはなかった。しかし6年後、彼が31才の時にチャンスが訪れる。彼が曾我物語の後日談として創作して描いた「世継曾我」が脚光を浴び、それが竹本義太夫に注目されたのである。彼は近松に書き下ろし作品を依頼し、近松は座付きでない独立作家として認められたのである。
近松は平家の武将・景清を主人公とした人情物語「出世景清」を制作、ロングランの大当たりをする。近松はそれまで歴史上の英雄豪傑の物語が中心だった浄瑠璃に人情の機微などを持ち込み、彼の作品は新浄瑠璃と呼ばれた。この頃から彼は、自分の作品に「作者近松門左衛門」と記すようになった。作者が出てくるのはおこがましいと思われていた時代に、彼はこの道で生きていくことを宣言したのである。この後の近松は、多くの歌舞伎の制作を行う。
1703年、歌舞伎作家として活躍していた近松に、竹本義太夫から声がかかる。彼の浄瑠璃は歌舞伎に押されて客が入らず、興行が行き詰まっていた。彼は近松に助けを求めたのだった。今までにない新しい浄瑠璃をつくって欲しいとの義太夫の依頼に近松は悩む。そんな近松にヒントを与えたのが、曾根崎で起こった商家の手代の徳兵衛と遊女のお初の心中事件だった。封建制度の秩序の中で自由に恋愛もできない息苦しさを感じていた庶民の感情を、近松は2人の心中事件を題材にしたドラマに描きあげることで表現したのだった。この作品は大当たりし、竹本義太夫の浄瑠璃は一気に持ち直したという。それ以降、近松は多くの浄瑠璃用の名作を制作する。
日本最初のメロドラマ作家の近松門左衛門のエピソードである。現在のドラマの基本と言える形態は大体江戸時代に出尽くしており、ある意味、現代の作家はこの頃からほとんどレベルが上がっていないとも言える。近松はこの時代の流行作家と言えるわけだが、さすがに時代の空気を読むのに非常に長けており、流行作家にとってはそれが命であるのは今も変わっていない。ただ、その時代に話題になった事件を芝居などの題材にするというのは良くある話であり、誰でも結構よくやっていることであることを考えると、近松の「曽根崎心中」がそれだけヒットしたというのは、ただ単に時代に便乗しただけでなく、彼の才能もあったのだろう。少なくとも、女子高生コンクリート詰め殺人事件を題材にしたくだらんエロ映画を制作して、被害者の家族などに大顰蹙をかったどこぞの馬鹿監督などとは才能のレベルが違うというものである。
12/7 その時、歴史が動いた「真珠湾への道 後編 〜山本五十六 運命の作戦決行〜」
アメリカとの戦争が不可避となりつつある中、山本五十六は航空兵力による真珠湾攻撃作戦を軍令部に提案する。山本は国力に勝るアメリカに勝利を収めるには、この作戦で初戦においてアメリカの兵力に壊滅的だけ気を与え、講和への世論を盛り上げるしかないと考えていた。しかし艦隊決戦思想に支配されている軍令部は山本の奇抜な作戦に反対を続ける。
また山本はこの作戦自体にまだ問題点があることを認識していた。当時の魚雷では真珠湾の浅い水深では魚雷が海底に衝突して使用不能になるのである。そこで山本は鹿児島湾で従来よりも遙かに低い高度で魚雷を発射する訓練を重ねさせる。
真珠湾攻撃の準備を進める一方で、彼は対米講和の行方にも注目していた。彼自身はアメリカとの戦争には勝ち目がないと考えていたので、もし対米講和が実現すれば常にいつでも作戦を中止できるように準備を行っていた。しかし彼の希望は、本音では日本と戦争がしたくて仕方がなかったルーズベルトによって打ち砕かれる。
この時のために開発された新型魚雷(浅い水深に対応したもの)を搭載した日本機動艦隊は、12月8日真珠湾を奇襲、アメリカの太平洋艦隊に甚大な被害を与える。しかし軍令部より自艦隊に被害を受けないように言明されていた現地指揮官の南雲は、敵空母の補足も真珠湾の燃料タンク及びドックの破壊もしないまま帰還、結局はこれが実は後に致命傷となる(アメリカ軍はその国力を動員して、日本が予測したよりもはるかに早く太平洋艦隊を再建する)。
また山本は国際法に則って事前通達を行ってから攻撃をするように配慮していたにもかかわらず、結局は攻撃の通知は55分後になってしまい(こうなった背景にもアメリカの陰謀があったという説もあるようだが)、日本はだまし討ちの形になってしまい、山本の意図に反して戦意喪失どころから逆に対日参戦機運を盛り上げてしまうことになる。
一方、日本の国内は攻撃成功に湧き上がってしまい、こちらもアメリカとの早期講和などといった状況でなくなる。皮肉なことに、アメリカとの戦争に反対し、アメリカとの早期講和を望んでいた山本の意図は完全に裏目に出てしまうのである。
結果としてアメリカとの戦争は泥沼化し、山本自身も前線で米軍機の犠牲になる。そして彼自身が予想した通り、日本は焦土と化してしまうのである。
歴史の皮肉の後半である。山本五十六は戦場においては知将であったが、戦局全体を左右できるだけの状況ではなかったため、結局は彼の行為がことごとく裏目に出てしまったということである。まあこの戦争自体が、日本が見事にアメリカの戦略にはめられたものであると、私などは見ているのであるが。
こういう言い方はなんであるが、当時の日本は「敗戦でもしないとどうしようもない」ぐらいにおかしくなっていたのも事実であり、この戦争で負けなかったとしても、また次の戦争でよりひどい結果になっていた可能性は高いと思う。おかしくなってきた国内を自律的に正常化するというのはなかなか難しいものであり、実際、あのアメリカでさえもおかしくなりつつある現状を未だに自律的には正常化できていない。
日本は甚大な犠牲と引き替えに国内の正常化に成功したのだが、未だにアホな上層部はあの時代を懐かしんで、またあの異常な時代に戻そうとしているようである。結局、根本的な病因は残念ながら取り除かれていなかったということを痛感させられる今日この頃である。
11/30 その時、歴史が動いた「真珠湾への道 前編 〜山本五十六 苦渋の作戦立案〜」
12月ということで開戦スペシャルである。今回は日本画泥沼の闘いに陥るきっかけとなった真珠湾攻撃について、その立案者であった山本五十六に注目して紹介していく模様。
山本五十六は日露戦争に従軍し、士官候補生として日本海海戦に参加、敵の攻撃で指二本を失う重傷を負ったが、日本が大国ロシアに勝利する場面に立ち会ったのだった。この後、日本は軍艦建造に走ることになり、フィリピンに権益を持つアメリカと対立していくことになる。
海軍のエリートとしてアメリカとの太平洋覇権争いを牽引していた山本は、大正8年5月、駐米武官の任を受けアメリカの国情視察を行う。ここで山本はそれまでの考えを一変することになる。アメリカの経済的繁栄ぶりと、莫大な生産力は日本とは比較にならない者であることを痛感、この国を相手に戦争しても勝ち目がないことを悟る。
昭和9年、イギリスで行われた軍縮条約の予備交渉において海軍少将の山本が全権に選ばれる。この条約ではアメリカとイギリスと日本の主力艦保有比率は5:5:3に制限されており、屈辱的な不平等条約は破棄すべきとの声が国内で高まっていた。山本は政府から「不平等を改められない場合は、条約を破棄する」という方針を告げられる。しかし山本は条約破棄は避けるべきだと考えていた。彼は条約に少々の不平等があっても条約を締結すべきとして政府に打診を進めていた。彼の考えは、もし条約が破棄されれば、工業生産力の差から軍事力の差は5:3どころか10:1にでも開いてしまうというものであった。しかし日本政府からは交渉打ち切りの指示がくだされ、日本は軍拡競争に突入することになる。
帰国後の山本は海軍本流をはずされ、航空部門に左遷される。しかし日中戦争が勃発、日本とアメリカの対立が高まるにつれ、アメリカとの全面衝突を懸念する海軍首脳によって海軍次官に据えられる。
しかし日本はドイツ・イタリアとの三国同盟を目指して動き始め、アメリカとの対立はより激化する。山本は三国同盟はアメリカとの戦争を招くことになるとあくまで反対する。それ以来山本の元へは急進的な政治団体(いわゆる馬鹿)が押しかけ、山本は過激派に命を狙われることになる。2.26事件などが起こった殺伐とした当時の政治状況では、まともなことを言えば命が危ないのだった。
しかし情勢が変わる。ドイツが日本が敵としていたソ連と不可侵条約を結んだことで、三国同盟の話が立ち消えになったのだ。それを見た山本は退役を決意し、勇退前のお定まりのポストである任期二年の連合艦隊司令長官ポストを引き受ける。しかしこれが歴史の皮肉だった。
山本が司令長官に着任したまさにその日、第二次世界大戦が勃発、開戦初期においてはドイツは圧倒的武力で連勝、それを見て再び三国同盟待望論が持ち上がってくるのである。近衛文麿内閣も三国同盟を推進、同盟反対の山本の声は空虚に響くのみであった。そうして三国同盟成立、日米開戦は時間の問題となる。山本はこの時「アメリカと戦争するということは全世界を相手にするということだ。東京あたりはさんどくらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」と語ったという。
退役するか最前線で指揮を執るかに迷った山本は後者を選ぶ。そして日本の取るべき道は、最初の一撃でアメリカの戦意を挫いて講和に持ち込むことしかないと考える。こうして山本は新戦力である航空機を使用した作戦を立案するのである・・・・。
日米開戦前夜の話。アメリカの国力を知る山本五十六は早期終戦論者であったが、情けないことに日本でアメリカの実態を知っている者はほとんどいなかった。孫子に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」というのがあるが、当時の日本は敵を全く知らず、己のこともよく分かっていなかったということである。しかし日本全体が集団ヒステリーのように対米戦争に傾いていた状況ではどうしようもなかったわけだ。
なお日本が対米参戦に巻き込まれたのルーズベルトの計算通りであり、結果として日本は踊られてしまったことになる。山本が「戦争を好めばどんな大国でも滅びる」と書いていたが、やたらに戦争を好むアメリカも、そろそろ滅びかかっているように私には見えてならないのだが。
11/16 その時、歴史が動いた「秘められたメディア戦略〜児玉源太郎 日露戦争のシナリオ〜」
日本にとっては圧倒的に不利な戦いであった日露戦争。今回はその戦争を日本にとって有利な講和に導くための、参謀・児玉源太郎のメディア戦略を紹介する。
明治時代、近代化を急ぐ日本は、不平等条約の改正と大陸での権益の確保が国の課題となっていた。しかし日本の大陸への進出はやはり朝鮮半島への進出を目指していたロシアとの対立を呼ぶ。そうして1904年、ついに日本の先制攻撃によって日露戦争が開戦される。
国際的な電信網が発達していた時代、欧米のメディアはみなこの戦争に注目した。メディアを味方につけて日本を有利にしたいと考えていた児玉源太郎は、欧米の記者を受け入れて帝国ホテルで厚く遇する。しかしその裏で、児玉は記者を前線には行かせないようにしていた。
その頃、日本軍は鴨緑江のロシア軍を攻め、まだ戦闘の準備の整っていなかったロシア軍を1日で打ち破る。児玉はこの戦況を事細かに記者に報告し、情報をコントロールする。日本勝利の情報は記者達によって世界中に知らされる。
そして開戦5ヶ月後、児玉は自らの手でロシアに勝利を収めるべく大陸に渡る。そして遼陽を攻め、犠牲を出しながらも勝利を収める。一方ロシア軍の指揮官・クロパトキンは無理な戦いを避けて遼陽を放棄する。この勝利の報を日本に送った児玉は、世界中が日本の勝利を報ずると信じていた。しかし彼の意に反して、メディアはクロパトキンの戦略的撤退を称えるものが主であった。児玉は愕然とする。
メディアがロシア寄りになったのには理由があった。記者を国内に留め置いた児玉に記者達の不満が高まっていたのだ。やむなく児玉は記者の従軍を許可するが、機密が漏れることを恐れる彼は、電信などの通信を禁じる。しかしこれがまた記者の不満を呼んでいた。
一方のクロパトキンは積極的にメディア対策を行っていた。彼は記者達を自分の側に取り込んでいたのだ。児玉の情報操作が裏目に出ていた。そこで大本営はついに情報公開の方針を立てる。
しかしメディアの見方はまだ「ロシア有利」であった。児玉はアピールできる大きな戦果が必要だと考える。そこで彼は旅順を攻撃していた乃木希典に目をつける。彼は乃木と戦力を合わせると203高地に攻撃を集中させこれを奪取、旅順を攻略する。また旅順攻略に多大な犠牲を出した乃木の解任の声が日本の参謀本部から上がるが、児玉はその声を抑え、積極的に乃木を英雄としてメディアに売り込む。児玉のこの作戦は功を奏し、乃木は一躍メディアの寵児となる。
児玉はロシアに対する戦局を有利にするため、ロシアの拠点である奉天の攻略を決意する。ロシア軍は32万に対し、日本軍は25万。児玉はこれを5軍に分け、敵の後方に回り込む西側の部隊を乃木に指揮させる。戦いは東側の部隊の衝突から始まった。ロシア軍が東側に援軍を送ったのを知った児玉は、乃木を部隊を突撃させる。西側から乃木の部隊に攻められたクロパトキンは、東側と正面から部隊を移動させてこれに当たる。それを見た児玉はここで正面部隊を突撃させ、乃木にはひたすら前進を命じる。乃木の部隊は3倍の敵を相手に多大な犠牲を出しながらも前進を続け、ついにクロパトキンは奉天からの撤退を決意する。
日本軍は7万もの犠牲を出しながらも奉天を制圧した。この知らせはメディアによって世界中を駆け回り、日本有利の世論が沸き上がる。そしてこの半年後、ロシアとの講和条約が結ばれる。
イラク戦争などでアメリカが気をつけていた情報のコントロールというものを、実は日本も行っていたというエピソードである。これを見ていると児玉源太郎が実にしたたかな現実主義者であることが分かる。
また乃木については、私は「明らかに戦略的に無能」と見ているのだが、今回の制作者も多分私に近い感覚を持っているのでは無かろうか。今回の内容は、明らかに乃木は「作られた英雄」だっということを語っているわけである。奉天での戦いでも分かるが、結局のところ彼は「犠牲を顧みない猪突猛進」しか戦略には無かったようである。
なおこの戦いでは日本は勝利を収めたのだが、この時に既に第二次大戦で惨敗する下地は出来ていたことも感じられる。それは「兵力の損耗を計算に入れていない」という日本軍の体質である。奉天を落としたといっても、ここで日本軍は事実上継戦能力を失ってしまっているのだから、相手が本格的に体制を立て直してきたら、玉砕するしか無かったわけである。損害を最小限に抑えて退く時には退くという思想が、既にこの頃から日本には無かったことがうかがえる。
結局のところよくいわれているとおり、日露戦争は薄氷の勝利だったわけだが、それを勘違いした軍部の暴走の結果、後のアホな大戦に突入するのである。現実主義者の児玉が見れば、自分の後輩達のあまりの愚かさを嘆いたであろう。
11/9 その時、歴史が動いた「鎖国の扉を開け〜ジョン万次郎 漂流民の挑戦〜」
14才の時に漁で難破した万次郎は、伊豆諸島の鳥島に流される。しかしそこは無人島で彼らは飢えと乾きに耐えながら、アホウドリを殺して食べ、雨水で乾きをしのぎながら100日が経過。彼らは餓死寸前でアメリカの捕鯨船のジョンハウランド号に救助される。万次郎は日本に帰りたかったが、鎖国政策をとっていた日本には上陸することが出来ず、彼は船長のホイットフィールド似アメリカに渡ることを勧められる。
アメリカのニューベッドフォードに着いた万次郎は、アメリカの技術力に感嘆する。彼はホイットフィールド船長の家に家族の一員として迎えられ、そこで船長の勧めによって小学校に通い、小学生と共に勉強をし、アメリカ文化を吸収していく。その後、彼は船乗りを養成する学校に入学し、航海術を学んでトップの成績を収める。
彼は19才で船乗りとなるが、日本に帰るチャンスはなかった。しかし漂流民をまるで罪人のように扱う日本に対する船乗り達の不満を目の当たりにし、日本を開国させたいと考えるようになる。そして帰国を決意する。
彼はカリフォルニアの金山で日本に渡るための資金をつくり、上海行きの商船に乗り、琉球に近づいたところで秘かに小舟で琉球に1851年に上陸する。この時の万次郎は24才だった。しかし万次郎はそのまま役人に拘束され、鎖国の禁を犯した罪で長崎の奉行所に送られ、9ヶ月もの詮議を受けさせられる。彼がようやく土佐に帰ったのは帰国後1年半後だが、土佐から出ることも外国のことを話すことも禁じられた状態で、幕府に開国を説くどころではなかった。
しかしその1年後に彼の運命は急転する。ペリー艦隊が来航したことで、アメリカの真意を測りかねた幕府によって、彼の知識が必要とされたのである。老中・阿部正弘に呼び出された万次郎は、アメリカは日本との親睦を図りたいと考えていることを訴え、また通商についてはアメリカは本気ではないという旨を伝える。これを受けて、幕府は通商は拒否するものの、港は開くという判断をする。こうして万次郎は通訳として幕臣に取り立てられる。
しかしペリーの再来航による交渉の直前、水戸の徳川斉昭から、万次郎がアメリカのスパイである嫌疑がかけられ、万次郎は通訳からはずされる。万次郎は自分を推挙してくれた江川英龍に訴える。彼は徳川斉昭の意向に背いて交渉に万次郎を同行する。彼は江川と共に幕府全権代表の林大学頭と面談する。林はアメリカ側の剣幕に押されて、不安になり、開港だけでなく交易も認めようとしていた。ここで万次郎は林に、アメリカの本意は開港にあって、通商までも慌てて認める必要はないと訴え、またアメリカが琉球を占領するというのは出任せだろうと伝える。
こうして日米交渉が開始、幕府側はいきなり開港を認め、交渉の主導権を握る。そしてペリーが交易を切り出した時にはきっぱりと突っぱねる。ペリーは少し考えた後、この条件を飲む。この時、通訳から外されていたはずの万次郎が、実は隣の間に控えて、幕府のために働いていたとの記録が残っているという。こうして日米和親条約が締結される。
明治維新の時に活躍した人物でありながら、幕府側にいたということと、あまり政治的ではなかったということで今一つ存在感の薄いジョン万次郎についてである。なお万次郎については、英語は堪能であったが、土佐の漁師の出身であるために、日本語の方がかなりなまっていて通じにくかったという記録も残っているとか(笑)。私は以前に万次郎が作ったという英語の教科書を見たことがあるが、そこに表記されているカタカナ発音が、今一般に言われているカタカナ発音よりもよほど原音に近いのを感じた記憶がある(What time is it now? を「ホワッツタイム、イズ、イット、ナウ」と発音するよりは「掘った芋いじくるな」と言った方が通用するという類)。彼の学習はすべて実戦に即していたようである。
それにしても万次郎はたまたま黒船来航の件で重用されるようになったが、同じような漂流民でも鎖国の禁を破ったということで、最悪は処刑されてしまった者もいるわけであるから、これも運不運である。時代が彼を求めたという側面はかなりあるのだろう。
10/19 その時、歴史が動いた「誰がための仏教か〜鑑真和上の宗教改革〜」
奈良時代、朝廷は仏教による国造りを目指し、平城京への寺院の建設を進めていた。しかし民衆は租庸調の税だけでなく、寺院建設の労役も課されることとなり、重税に喘ぐこととなる。そのために税を免除されていた僧侶になる人が増え、大幅な税の減収につながるだけでなく、怪しげな僧侶がえるなどして世の中が不穏な情勢になり、律令国家の根幹が揺らぎ始めていた。そこで朝廷は唐から高僧を招いて日本の仏教界の建て直しを図る。
これに答えたのが鑑真であった。日本への布教の熱意に駆られる彼は、当時の国禁をおかして日本への渡航を試みる。何度もの失敗によって彼は視力を失いながらも、753年に6度目の挑戦でようやく日本にたどり着く。
国を挙げての大歓迎を受けて平城京に入った鑑真は、朝廷によって戒律を伝えることを一任される。彼は仏教界の戒律を正す作業に取りかかる。彼は東大寺に戒壇院を設けて、ここで250項目に及ぶ戒律を守ることを誓う(受戒)儀式を行った者しか国から僧侶として認められないようにする。これで僧侶の数は激減、税金逃れの出家は減り、喜んだ朝廷は鑑真を仏教行政の最高責任者の大僧都に任命する。
しかし鑑真の思惑と朝廷の思惑がここからズレ始める。鑑真は僧侶を減らすことを目指していたわけではなかった。彼は優秀な僧侶を増やすことを目指しており、東大寺に道場を設けて多くの優れた層の育成を始める。しかしこれは僧侶の人数を減らしたいと考えていた朝廷と対立を呼び、758年、ついに鑑真はたった2年で大僧都を解任される。
しかし鑑真の日本への布教の熱意はこれで終わったわけではなかった。彼は隠遁生活を行っていた地に、人々の寄進による私設の寺院を建設する。こうして唐招提寺が建設される。最近になされた金堂(いわゆる本堂)の再建修理のための調査の結果、金堂が建設されたのは鑑真の死後であることが確認されており、実は当初の唐招提寺は講堂・僧坊・食堂のみであったことが分かったとのことである。つまり鑑真はここに寺院と言うよりも、僧侶が仏教の戒律を学ぶための修行場を築いたのだという。ここで学んだ鑑真の弟子達は全国で教えを広めたという。
唐招提寺は鑑真を招いた朝廷が鑑真のために建立したと聞いていたのだが、実は私立の寺院であったとは初めて知った。あそこまで苦労して来日した鑑真は、実はその後はかなりの冷遇を受けたのだというのは、私にとっては思いがけない話だった。それにしても仏教が国教として扱われるようになってまだそんなに年月が経ってはいないと思うのに、既にかなりの腐敗が進行していたとは。まあヨーロッパにおいてもキリスト教教会は中世において腐敗を極めていたし、権力を持った組織が腐敗するというのは古今東西変わらぬ現象のようである。しかし朝廷も、仏教を国の基本として建国しようとしていながら、僧侶が増えるのは困るって・・・結局は仏教を自分たちに都合よく使うことしか考えてなかったように思われる。
それにしてもそのような逆境で腐らずに自身の信念を貫いた鑑真という人の熱意も驚くばかりである。まあ国禁をおかしてまで来日した人だから、並大抵の意志力と行動力ではなかったのは間違いないが。思わず「ボクには出来ない」と小学生の読書感想文のような感想が出てくる(笑)。
9/21 その時、歴史が動いた「戦国出世の方程式 藤堂高虎 大阪の陣の大勝負」
地侍の家に生まれた藤堂高虎は180センチの巨漢の男だった。15才の初陣で敵の武将首を上げる武勲を上げた彼は、浅井長政、阿閉貞征、磯野員冒、羽柴秀長と4人の主人の間を転々としながら、数々の武勲を上げ、4600石の知行を持つところまで出世をした。しかしここで高虎は武勲によって出世をしていくことには限界を感じる。羽柴家の家臣には賤ヶ岳の七本槍など戦上手が多く、武勲だけでは行き詰まることが必至だったのである。
ここで高虎は転進を図る。彼は今までの戦の経験から、どのような城が堅固であるかを学び、築城の名手として生涯に20もの城を築いたという。そして秀長の家老として2万石の重臣にまで出世する。だが秀長の死後、秀吉による身内の粛正の煽りを受け、自分が使えていた秀保(秀長の息子)が謎の死を遂げるに至って(秀吉による暗殺が疑える)、自身の身の危険を感じた高虎は髷を切って高野山へと入る。今までの地位をなげうって俗世間から姿を消した彼は、秀保の家臣が粛正される中も俗世から離れた彼には秀吉も手が出せず、逆に自分に仕えるように説得する。それに応えた高虎を秀吉は7万石で迎える。もっとも高虎が高野山に籠もっていた間も家臣は離散せずに待っていたとのことだから、どうも最初から計画づくだったようである。
秀吉の死後、石田三成と徳川家康の対立の中、高虎はいち早く家康支持を打ち出す。関ヶ原の合戦で彼は西軍への寝返り工作などで活躍するが、戦後に外様大名を次々と粛正していく家康に高虎は危機を感じる。そして大阪冬の陣、高虎は豊臣方の謀略によって内通の疑いをかけられる。
この時に高虎がうった手は「徹底した忠誠」を見せることだった。徳川型の先鋒として出陣した彼は、家康本陣の奇襲を狙う長宗我部軍を発見、間に湿地を挟むという不利な状況下に関わらず攻撃を仕掛け、6人の大将と300人の家臣を失うという大被害を受けながらも、長宗我部軍を撃退する。家康は高虎のこの活躍を賞したという。
藤堂高虎というと、私は「保身に長けた人物」というイメージを持っているが、確かに風を読むのに長けていたようである。世の中が定まらない時は、主君を渡り歩くことでキャリアアップをし、世の中が定まりかけると誰が一番有力かを読み、世の中が完全に定まると体制に忠誠を誓うという流れを踏んでいる。サラリーマンとしてはある意味で参考になる生き方なんだが、こういう人物には歴史のロマンを感じないのは事実である。ある意味、高虎は超リアリストだったとも言えるだろう。少なくとも「歴史上で尊敬する人物は?」と聞かれて名前が挙がるタイプではない。まあ高虎はそんなことはそもそも全く望んではいないだろうが(笑)。
9/14 その時、歴史が動いた「二宮金次郎 天保の大飢饉を救う」
二宮金次郎といえば、柴を担いで本を読んでいる銅像が小学校などにあり、夜になるとその銅像が動き出すなどと云うことで有名であるが(笑)、何をした人かと言われると具体的に言える人は意外といない。今回はその二宮金次郎の活躍について紹介している。
小田原城に近い栢山村の農家に生まれた金二郎は、1791年の5才の時に酒匂川の叛乱で田畑をすべてを失ったという。藩からの支援はほとんどなく、やがて両親は過労で死亡、親戚の家に引き取られた金二郎は子守で貯めた金で松の苗を買い、酒匂川の土手に植えたのだという。彼は自ら酒匂川の堤防を強化しようと自力で努力したのだ。この松は金二郎の松と呼ばれて今日も残っているという。
貧しい中で独学で学問もした金二郎は、失った田畑の復興に取り組む。彼は荒れ果てた土地を耕し、捨てられた苗を見つけてはそこに植えたという。そして一年後には一俵の米を収穫し、20才の時には田畑を再興し、かつて両親と住んでいた土地に家を建てて、妻子も持ったという。無一文から家を興した金二郎は話題になる。
そして1821年、藩主の大久保忠真から出頭を命じられる。小田原藩が下野の桜町に持っていた領地の年貢収入が極端に落ち込んでいたことから、金二郎に桜町の建て直しを依頼したのだ。拒む金二郎だが、最後には10年間自分のやり方でやるという条件で赴任する。
桜町に村役人として赴任した金二郎は、現地を見て愕然とした。農民は昼間から酒を飲んで働く意欲が全くなかった。なぜこのような状態になったのかを調べた金二郎は、あまりに年貢が重すぎるせいで彼らが働く意欲をなくさせていたことに思い当たる。金二郎は年貢を1/4を下げることを村人に約束した上で桜町の再興に取り組む。彼はキチンと働くものは褒賞し、怠ける者に処罰するという姿勢で農民に対する。しかし金二郎の厳しいやり方に反発する村人もいた。そこで金二郎は誰にも告げずに突然に姿を消す。村人達は話し合った結果、金二郎に帰ってきて欲しいとの嘆願書を藩に提出する。こうして金二郎と村人に信頼関係が形成される。桜町はみるみる復興する。そして天保4年、夏のナスがまるで秋ナスのような味がする異変を感じた金二郎は、飢饉が来ることを予測、村人に穀物を備蓄することを指示したため、天保の飢饉が到来しても桜町の人々は飢えに苦しまずにすむ。
1836年、桜町を救った金二郎に、今度は小田原領民を救済する命が下る。彼は民を救うためと抵抗する役人に迫り、藩の米倉を開かせる。
しかし藩の米倉を開いてもそれだけでいつまでもしのげるわけではないことを分かっていた金二郎は、農民達の実態を調べ、食料も金も足りている無難、不足しつつある中難、どちらもなくなってしまった極難に分類し、極難の中で命の危険のある人々を集めて、一日一合の飯を与える。さらに無難、中難の人々を集めて、余分の金や米を提供させて基金をつくり、これを村を通して極難の人に無利子で貸し出すという相互扶助のしくみを作り上げる。この結果、小田原藩では一人の餓死者も出なかったという。
後に金二郎は天保の改革に取り組む幕府に取り立てられ、全国の農民の救済のために活動したという。
二宮金次郎は立派な人だとは聞いていたが、まさか農協の元祖だったとは知らなかった(笑)。戦後にはあのGHQまでもが、二宮金次郎は偉大な民主主義者であったと高く評価したという(日本的なものは片っ端から否定したGHQが、戦前の修身に登場していたはずにもかかわらず、金二郎を評価するというのはかなりのことだと思うが)。
恥ずかしながら、私も今回の番組を見て初めて二宮金次郎がどういう人だったかを知った次第。死んだ後も遺言によって土を盛っただけの質素な墓を残したのみというのは、今時の政治屋に聞かせてやりたいようなエピソードである。やはり上に立つ者は、庶民の喜怒哀楽を知っている者でないといけないという良い例であり、苦労知らずの二代目馬鹿息子がろくな政治を出来ないのは自明でもある。
9/7 その時、歴史が動いた「歴史日本の謎 平家はなぜ滅亡したのか」
今回は趣向を変えて、歴史について通説と別の説を取り上げて紹介するという形式である。視聴者からどちらに説に納得できるかを投票して貰うということから、デジタル放送のPR企画(NHKはこれが多い)ということと、マンネリ化しているこの番組の新しい形態を探る試みの両方の側面がありそうである。
今回取り上げたのは平氏の滅亡の原因について。通説で言われている権勢を独占した平氏は驕り、さらには権力を掌握するためにクーデターを起こすまでにいたり、それが他の武士らの反感を呼んだという「身から出た錆」説と、後白河法皇による陰謀などによって追い込まれた平氏が乾坤一擲の大勝負としてクーデターに至ったという「窮鼠猫を噛む」説の二つである。番組では上田早苗アナが通説の方を、松平アナが新説を紹介というパターンで持って行っている。
・・・・だが、正直なところ完全に番組としては失敗である。まず通説と新説に違いがなさすぎる。現実は第三者から客観的に見れば「身から出た錆」なのだが、当の平氏にすれば「窮鼠猫を噛む」と考えていた可能性が非常に高い。つまりどう見るかを争っているだけで、歴史的事実を検証するというほどのスタンスになっていない。しかも番組全体は上田アナと松平アナの淡々とした喋りが中心で全く盛り上がらない。そしてアンケートを取ったものの、その結果が最後に数字で紹介されるだけで、そこから何にもつながらない。つまり全く無意味なわけである。これは完全に失敗と言っていいだろう。
ちなみに通説と新説を戦わせる形式というのは、私も歴史番組の形態としては考えており、名付けて「歴史ウソ?ホント?」という番組企画である(当然ながら私は番組制作者でもない一視聴者ですから、単なる素人の与太話ですが)。ただこういう番組構成の場合は、各説に合わせてそれようのVTRを作って、最後は視聴者に判断を委ねる(投票をさせるという意味ではなく、私の考えているのは番組は双方の考え方だけを提示して「判断を下すのはあなた自身です」と視聴者に投げて何の結論もつけずに終わるのである)という形にするのが良いと思っている。今回の番組内容はこの私の素人企画と比較してさえあまりに練れていない印象で、何やら無理矢理に作り上げたように見える。またもやNHK上層部による「デジタル放送をPRしろ」という緊急命令によるものなのだろうか。そう言えば地上波デジタル放送はかなり苦戦している(当初の目論見に比べてさっぱりチューナーが売れていない)との話であるから。
ちなみに地上波デジタルが視聴者にそっぽを向かれている大きな理由に、厳しすぎる録画制限(実質的に編集不可)というのがありますが、あまりの不振ぶりに耐えかねて、これを緩和しようという動きが出ているようです。これは当然のことである。
8/31 その時、歴史が動いた「家康が最も恐れた男〜敗者 石田三成の関ヶ原〜」
歴史は勝利者によって記録されるものであるから、とかく敗者は不当に低く評価されがちである。私は以前より、不当に低く評価されている人物として石田三成と明智光秀を挙げているが、今回の主人公はその石田三成である。
石田三成が暮らしていたのは近江の姉川の合戦の戦場にほど近い地域であった。そこの豪族の息子であった三成は、近江の領主となった秀吉に1577年に仕官する。三成の才知に目をかけた秀吉は、三百石の禄高で彼を召し抱えたという。三成は加藤清正や福島政則らと共に賤ヶ岳の合戦に参加しているが、三成は戦場において武功を立てることはなかった。
この三成が頭角を現すのは天下が定まった後である。太閤検地において三成は活躍し、これが結果として商業などの発展に貢献した。その功績に対して秀吉は三成を筑前・筑後33万石の大名に取り立てようとするが、彼は九州の大名になるよりも秀吉の元で官僚として腕をふるうことを希望して、これを辞退する。
しかし三成の運命が暗転するのは1598年に秀吉が死んだ後である。三成は天下の争乱を避けるために秀頼をもり立てようとするが、秀吉の死を待って動き始めたのが徳川家康である。徳川家康は勝手に大名の婚姻政策を進めるなど専横を開始する。これに対して三成は五奉行と家康以外の五大老の連名で家康を制止する。しかし1599年、家康に唯一対抗できる力を持つ前田利家が死去、三成は後ろ盾を失う。そしてまさにその夜、三成は加藤清正や福島政則ら武闘派の襲撃を受ける。三成は間一髪で襲撃を逃れるが、結局は家康の力を頼るしかなく、結果として謹慎を命じられることになる。
だが三成は、家康が上杉景勝の武力討伐に出兵した際に挙兵、秀頼を戴くことで家康の軍勢を超える9万の軍勢を集結することに成功する。しかし結局は家康の切り崩し工作によって裏切り者が出、関ヶ原で敗れることとなる。しかし西軍の前面に立った三成の軍勢は、「戦下手」と言われていた三成の評判に反して最後まで善戦し、結果として全滅したという。
三成の視点から描くと言う割には、大して普段と変わらなかったような印象である。まあさすがに、もうこのネタはあまりにもやり尽くしていて今更しんどいのだろう。なお番組でもゲストの国際日本文化研究センター教授の笠谷和比古氏が「三成は人望がなかったなどと言われるが、部下の奮戦を見ると、彼らに命を捨てさせるだけの人望があったはずだ」と言っていたが、それはまさに同感である。実力的に家康とは比較にならないような三成が、まがいなりにも家康と互角の戦いを出来るだけの勢力を結集できたのは、彼の知略もさることながら、人望が皆無では不可能だったのではないかと思われる。実際に大谷吉継なども勝ち目のないことを承知で三成のために命を賭けており、そうさせるだけの器量は彼にあったというべきだろう。三成と家康の最大の違いは、家康は上の立場から他の大名に命令できる位置にいたが、三成はそれだけの地位がなかったということである。三成の地位がもっと高ければ、家康と互角以上の戦いが出来たであろうことは間違いない。
なお三成は秀吉に取り入って栄達した人物として後世に喧伝されているが(当然ながら勝利した徳川方はそう記録するだろう)、番組でも言っている通り、彼は私欲を通したことがなかったのは間違いないようだ。そういう意味でも彼は優秀な官僚だったようである。彼が生まれたのが戦国の世でなく、世の中の安定した100年後だったら、多分優秀な幕府の官僚として名を残していたであろう。もし現代に現れたなら、国土交通省か財務省あたりの改革に取り組んで貰いたいところである。
ちなみに今回のタイトル「家康が最も恐れた男」となっているが、これは違うだろうというのが正直な感想。家康は三成に対しては、少なくとも戦においては恐れたことはないと思う。また彼の行政手腕には目を付けていたろうが、家康がそれに脅威を感じるとも思えない。関ヶ原の合戦においても、常に先手は家康が取っていたわけで、家康が三成を恐れる理由はない(むしろうまくおびき出したんだから)。実際にはこのタイトルに合致しそうな人物と言えば真田昌幸である。
8/24 その時、歴史が動いた「日露衝突を回避せよ〜高田屋嘉兵衛 決死の交渉劇〜」
高田屋嘉兵衛は蝦夷地や国後などで昆布やニシンを仕入れ、それを北前船で上方に運ぶことを巨額の富を一代で築いた商人だった。しかしその嘉兵衛が44才の時、1812年に国後沖でロシア船に捕らえられる。嘉兵衛が捕らえられたのは、この5年前にロシア軍人のフォボストフが択捉島に上陸して略奪・暴行を働いたことに対する報復として、幕府が1811年に上陸したロシアのディアナ号のゴローニン館長以下8人のロシア人を捕縛したゴローニン事件の影響であった。日露は一触即発の緊張状態になっていたのである。
嘉兵衛を捕らえたのはディアナ号の副艦長のリコルドであった。嘉兵衛は5人の水夫と共にカムチャッカに連行される。しかし彼らは収容先で飢えと寒さに苦しみ、仲間のうち3人が栄養不足からくる脚気などで倒れる。嘉兵衛は生き残るためには事態の打開が必要だと考え、使用人のロシア少年に近づき、ロシア語を勉強する。そして嘉兵衛はリコルドと交渉して、自分たちをリコルドと同じ部屋で寝泊まりさせるように強引に主張する。そして抑留から2ヶ月後、嘉兵衛はリコルドの留守を見計らって、リコルドに宛てたロシアの政府の文書に目を通す。その結果、ロシア政府はゴローニンが理由なく捕らえられたと考えて怒っていることを理解する。嘉兵衛はロシアの誤解を解くことが自分が帰国できる糸口になると考え、リコルドに対して、フォボストフの暴行から始まった日露の対立の経緯を説明する。事情を理解して納得したリコルドは、嘉兵衛に対してゴローニン達を取り戻す方法を尋ねる。これに対して嘉兵衛はロシアが謝罪すればゴローニンは釈放されると答える。しかし実はこれは嘉兵衛にも確証があるわけではなく、帰国するための賭であった。
リコルドは直ちにロシア政府と交渉し、嘉兵衛が日本政府との仲介人に指名される。しかしその時、嘉兵衛の耳にロシアの軍艦5隻が日本に出撃準備をしているとの情報が伝わる。もし交渉が決裂したら、日露が全面戦争になる恐れがあった。嘉兵衛は難題を背負うことになる。
1813年4月、嘉兵衛は日本に向かって出航する。そして翌月、国後島に到着、陣屋に向かって交渉に臨む。嘉兵衛はリコルドに覚悟を示すため、髷を切って交渉に臨んだ。嘉兵衛はロシアの謝罪文を懐に交渉に臨む。嘉兵衛は鎖国破りの咎で拘束されるが、日本の要求がロシアの謝罪文の提出であることを知り、持参したロシアの謝罪文を提出する。しかし謝罪文の書面がロシア政府高官のものでなかったことから(リコルドの署名だった)、この謝罪文は突き返され、嘉兵衛は函館で軟禁される。
嘉兵衛にとって最後の望みはリコルドが新たな謝罪文を持って帰ってくることだった。リコルドは日本を発つ前に「新たな謝罪文を持って必ず帰ってくる。あなたは友達だ。」と嘉兵衛に約束していた。そして9月16日、リコルドは嘉兵衛との約束を守って再び帰ってくる。そしてゴローニン事件は解決、捕らえられていたロシア人達も無事に解放され、嘉兵衛も無罪放免となる。出航するディアナ号、見送る嘉兵衛、その時ディアナ号のすべての船員達が叫ぶ「ウラァ タイショウ(万歳、大将)」。嘉兵衛はロシア人達と心を通い合わせていたのだった。
高田屋嘉兵衛はさすがに一代で身を起こした人物だけあって、度量の大きさが違う。それにしても抑留されて2ヶ月で政府の文書を理解できるだけのロシア語をマスターしたのだから、駅前留学も真っ青である。いくらなんでも全くのゼロから2ヶ月でここまでというのは考えにくい(しかも正規にロシア語の授業を受けたわけではない)ことから、彼は商売柄以前から少しはロシア語を耳にしていたのではないかと推測する。
彼は商人らしく、信義に重点を置いて日露の衝突を回避したのだが、その交渉の行方が自分の運命に直結しているのみならず、もし戦争にでもなれば自分の住んでいた函館などが戦場になるということを恐れていたのだろう。一般市民の普通の感覚で戦争を回避する必要を感じていたのである。ここがやたらに対立を煽りたがる馬鹿政治家などとの違いである。
しかも彼は交渉の過程において、ロシア側の謝罪文はキチンと出させているわけである。この辺りがイラクで外交官を米軍の誤射で殺されても(状況から見てその可能性が実に高いと私は考えているが、明らかに報道規制がなされているようで全く続報が出ない)、その事実を伏せてひたすら対米追従だけをしている小泉となどとは違うところである。筋は通して双方の顔が立つ落としどころを探っているのはさすがに商人の交渉術でもある。しかしこうして活躍した嘉兵衛に対する報償がたったの5両だったというのが、いつの時代も政府は民間人を馬鹿にしているもんだと妙に納得。
8/3 その時、歴史が動いた「ソ連参戦の衝撃〜満蒙開拓民はなぜ取り残された〜」
今回のテーマは、日本人に多くの犠牲者を出し、シベリア抑留や中国残留孤児などの戦後にまで残る多くの問題を起こした原因となったソ連参戦についてである。
昭和6年、陸軍の陰謀による満州事変で満州に傀儡国家を樹立した日本は、満州に100万の開拓民を送り込む(満蒙開拓団)。この満州を守備するべく駐屯していたのが関東軍であるが、日本のこの方面での軍備強化は必然的にソ連との緊張を高め、ついに昭和14年にノモンハンで両軍が武力衝突する。しかしこの時、日本軍は近代装備のソ連軍に惨敗し、1万8千人を超える死傷者を出し、停戦協定を結ぶことになる。
ノモンハン事件の1年後、東南アジアへの進出を図った日本は英米との対立を深め、ソ連はヨーロッパでのナチスの台頭を懸念していた。こうして両国はアジアで対立するのは避けた方が賢明であると利害が一致し、昭和16年4月に両国は5年間の期限を切った日ソ中立条約を締結する。こうしてソ連はナチスとの戦線に戦力を集中し、日本は東南アジア進出に力を入れることになり、ついにはアメリカと全面戦争になる。
しかし状況は変わっていく昭和19年にはソ連はナチスとの戦いの勝利をほぼ確実にしていた。そして昭和19年のソ連革命記念日での演説で、スターリンが日本を明確に敵として名指しにするなど、日本に対する風向きが変わってくる。さらに昭和20年の連合国のヤルタ会談で、日本の抵抗に手を焼くアメリカのルーズベルトは、ソ連のアジアでの権益を認める代わりに対日参戦を促す密約をスターリンと結ぶ。
一方の日本では南方戦線の泥沼化と共に、関東軍からは精鋭が南方戦線に引き抜かれ、その穴埋めは現地の開拓団から男性が徴兵されてあてられた。しかし彼らは訓練はおろかまともな武器さえもなく、既に関東軍の空洞化が進みつつあった。
そして昭和20年4月、ソ連外相モロトフに呼び出されたソ連大使の佐藤尚武は日ソ中立条約の破棄を通告される(まだ条約の有効期間は1年残っていたが)。また既にソ連軍はシベリア鉄道で西方の戦力を東方に移動しつつあった。しかし大本営はこの事態を受けても、ソ連の日本への参戦はないと甘い分析をしていた(分析力の不足と言うよりも、思考停止か現実逃避に近かったのではないかと私は感じるが)。
そして昭和20年、ドイツは連合国に無条件降伏する。この頃になると日本でも沖縄戦で惨敗(現地の民間人を大量に巻き込んでの犯罪的戦闘である)、日本の劣勢はどうしようもなくなっていた。しかしこの期に及んでの御前会議の決定は日ソ中立条約の延長を求め、ソ連に連合国との和平の仲介を依頼するという現実離れしたものだった(国体護持・・つまりは自分たちの利権を保護する天皇体制を維持するということだが・・を最優先するあまり思考停止を通り越してやはり現実逃避に陥っていると思われる)。そしてソ連大使佐藤の元にはソ連に日本からの外交使節を受け入れるように手配せよとの指示が届く。しかしこれは当然であるが、佐藤はモロトフと会うことさえも出来なかった。
7月には連合国がポツダムで会談をなす。この時、既に原爆実験に成功していたアメリカのトルーマンは、ソ連のアジアでの勢力拡大を懸念して、ソ連の対日参戦は不要と考えていた。このアメリカの態度を見たスターリンは対日参戦を急ぐ。こうして7月26日、日本には無条件降伏を勧告するポツダム宣言が行われるが、その宣言にソ連が参加していないのを見た日本は、ソ連が和平交渉の仲介に応じるのではないかとの期待を抱く(完全に現実逃避)。こうして政府がポツダム宣言を黙殺した結果、8月6日に広島に原爆が投下される。
この事態を受けて、スターリンは対日参戦を早める命令を翌日には下す。そして佐藤大使が8月8日クレムリンに呼び出されると、モロトフから宣戦布告たたきつけられる。しかも戦闘開始まで後1時間しかなく、しかも本国に連絡しようにも電話線などはすべて切断されていた。
そして8月9日午前0時過ぎ、ソ連軍の全面攻撃が開始される。既に張り子の虎と化していた関東軍にはそれを防ぐすべは全くなく、守備隊は各地で全滅、全面崩壊となる。なおこの連絡が届いた大本営では参謀次長が「予ノ判断ハ外レタリ」などとのどかなことを言っていたようだ。(なお番組では言っていないが、この時に関東軍の首脳部は民衆を捨てて真っ先に逃亡しているのである。)
さらに8月9日には長崎にも原爆が投下され、8月10日の御前会議でついにポツダム宣言の受け入れが決定される。
しかしこの時、女性と子どもだけが残されていた満蒙開拓団では地獄が始まっていた。ソ連軍との戦闘に巻き込まれたり、略奪や暴行の犠牲となったり、逃亡の最中に命を落とすなど多くの犠牲が発生していた。また降伏した関東軍の兵隊はシベリアに抑留され、厳しい強制労働の中、多くの犠牲を生じる。(これも番組では説明していなかったが、このシベリア抑留の影には、ソ連に対する賠償の代わりに日本政府が彼らを見殺しにしたということも後に判明した。)
番組では当時の体験者の証言も含めて淡々と進行していた。当時の満蒙開拓団の生き残りで、逃亡の途中に子どもを栄養失調でなくしたという女性の「地獄だった」という淡々とした証言が、胸を打つ(語り口が感情的でないところに、かえって感情の深さを感じてしまうのだ)。
まさに戦争とはいかなるものかというものを感じさせられるエピソードである。この期に及んでも自分たちの利益を最優先し、現実逃避してしまっている日本政府。既に戦後の利権を巡って綱引きをしている米ソ。そしてその影でいつも最大の犠牲を払わさせるのは一般庶民である。つまりは権力者の利益のために庶民が犠牲にされるということこそが戦争の本質である。
それだけに戦争は権力者にとっては「儲かるビジネス」であり、それが未だにアメリカが戦争をしたがる理由でもあるし、日本でも戦争で自分が犠牲になることは絶対ないと確信する者達は、再び戦争をやりたいと考えており、そのための手段が改憲であるわけだ。日本で最も好戦的なのは、まかり間違っても自分が犠牲なる可能性はないと考えている者達であり(今の日本の政治家の中には戦争で犠牲どころか、そのドサクサで儲けた者達の末裔が多い)、そう言う連中が再び暗躍をしているのである。
7/27 その時、歴史が動いた「戦艦大和の悲劇〜大艦巨砲主義、時代に敗れる〜」
戦艦大和が就航したのは、日本空母部隊が真珠湾でアメリカ太平洋艦隊の戦艦群を全滅させた8日後だった。日本海軍の切り札として投入された大和だが、結局はまともに活躍できないまま、終戦間近に無意味な沖縄特攻作戦に導入され、昭和20年4月7日に九州沖で航空機に袋だたきにされて沈没する。今回はその大和がテーマである。
日露戦争における日本海海戦での日本海軍の鮮やかな勝利により、世界中で戦艦建造競争が開始される。日本ではアメリカの40.6センチ砲クラスの戦艦に対抗するため、46センチ砲を積んだ戦艦の建設を開始する。大和は41センチの装甲板で覆われ、1000以上の水密区画に分離され、最新の注排水システムを備えた最強の不沈艦であった。
しかし大艦巨砲主義の象徴である大和を時代遅れにしてしまったのは、皮肉なことに日本軍自身だった。真珠湾の奇襲攻撃で航空機の優位性を悟ったアメリカは、戦艦の建造をやめて大量に空母の建造を開始した。しかし日本は対照的に大艦巨砲主義から抜けられず、大和型戦艦の2番艦である武蔵の建造も開始される。
大和はミッドウェーの海戦に投入されるが、はるか後方で戦闘に参加することも出来ないまま、機動艦隊が壊滅することをただ見守るしかなかった。
空母部隊の全滅で、日本も空母の増産を開始するが、日本の生産力はアメリカの1/10にすぎなかった。そのため、大和も対空兵装を強化する改造が施される。そうして大和はマリアナ沖海戦に投入されるが、ここでも活躍の場がないまま、日本の航空戦力がほとんど壊滅してしまう。さらにレイテ沖海戦ではすでに航空戦力による護衛のない日本海軍は袋だたきにされ、武蔵が沈没、大和もたまたま遭遇した敵の護衛空母一隻を沈没させただけで、大した戦果のないまま撤退せざるを得なかった。
アメリカ軍の圧倒的な物量の前に日本軍は劣勢に陥っていく。そんな中で神風特攻隊などが出撃していった。そして大和に沖縄の米軍上陸部隊を攻撃する命令が下される。沖縄に到着すれば浅瀬に乗り上げて陸上兵力を攻撃するという特攻作戦だった。昭和40年4月6日、片道分の燃料だけを積んだ大和が出撃する。しかし翌日には敵の航空部隊に補足され、袋だたきの状態になる。アメリカ軍は徹底して大和の左舷を狙い、左舷に集中的に魚雷を受けた大和は、頼みの注排水システムもついに限界に達し、最後には転覆して爆発沈没する。大和の沈没は日本海軍の最後の断末魔であった。
無用の長物の象徴のように言われ、昭和の三大馬鹿査定の筆頭にあげられる(後の2つの1つは青函トンネルで、もう1つは整備新幹線だったり、本四架橋だったりします)大和であるが、こうして見てみるとやっぱり無用の長物だった。諫早湾干拓などと同じで、いくら無用でも一度走り出したら止まらないという官僚的体質が、この時代の日本では軍部にまではびこっていたということである。そもそも日本が航空機決戦の時代の先鞭をつけたのに、結果としてそれに乗り遅れてしまったというのが、当時の軍部が思考停止していた証拠である。もっとも航空機決戦主義は、そのものズバリの物量決戦であるから、そちらの方向に行ってしまうと日本に勝ち目はなかったわけで、あくまで艦隊決戦に持っていきたかったという心理も分からないでもない。しかし一端時代が動き始めてしまった以上、もはやどうにもならなかったわけである。
もう一つ日本の軍部がおかした大きな過ちは、人命を軽視しすぎたこと、日本軍は兵隊はいくらでもただ同然で徴兵できる消耗品のように考えていたが、熟練したパイロットは簡単に補充がきかないという当たり前のことに考えが至ってなかったわけである。後半の戦闘がさらに悲惨な状況になるのは、航空機の質量での劣勢もあるが、そもそも航空機があったところで既にパイロットの技量で大幅に負けている(熟練パイロットはほとんど戦死していた)のだから、所詮は勝負になりようがなくなっていたということである。そして最大の過ちは、国体の護持を最優先にした挙げ句、終戦の時期を遅らせすぎて、徒に犠牲を増やしたこと。このことはまさに犯罪行為のようにさえ思われる。
結局、当時の日本の国力でアメリカと戦争をしたこと自体が無謀で、負けるべくして負けたという面が強い。要は日本はまんまとアメリカに乗せられて戦争を起こしてしまったわけである(精神主義に毒されて軍事ボケしていた馬鹿軍人ならともかく、日本でも少しは頭のある連中は、アメリカと戦争して勝ち目がないことは十分に認識していた)。真偽のほどは知らないが、日本がアメリカに開戦したことを知ったルーズベルトは狂喜したとの話もある。まるで今のイラクのようで、結局はアメリカのやることは今も昔も変わっちゃいないということでもある。
それにしても、大艦巨砲主義の時代が終わって役に立たなくなった大和に、付け焼き刃のように機銃を設置するというのが、当初の農地開拓という目的が消失したら慌てて治水という目的を引っ張り出してきた諫早湾干拓に似て、これもいかにも役人的な感じのする発想である。大和って、終始一貫官僚主義の象徴だったのかもしれない。官僚が暴走したら一般市民が最後には犠牲にさせられるというところまで。
7/20 その時、歴史が動いた「信長の巨大鉄船、戦国の海を制す〜織田水軍VS村上水軍、決戦大阪湾〜」
今回は「信長の野望」マニアに圧倒的な人気を誇る鉄甲船のエピソードである。
信長が水軍の設立を開始したのは、伊勢の北畠氏を攻めることを考えた時である。京に上るための最短ルートを確保するには伊勢の攻略は不可欠であった。しかし伊勢には強力な水軍が存在した。もし信長軍が陸上づたいで伊勢を攻めた時、海岸から側背をつかれる恐れがあり、水軍の攻略が不可欠であった。そこで信長は豪族同士の争いに敗れて信長の元に身を寄せていた九鬼嘉隆に命じ、水軍を設立させる。
そして1569年、信長は伊勢を急襲する。攻撃が奇襲であったために、完全に機先を制して伊勢水軍の動きを封じ込めることに成功するが、予想以上に北畠氏の居城の制圧に難航し、戦線は硬直する。やがて武田氏が援軍として水軍を送る用意をしているとの情報が入ってくる。そうなれば伊勢の水軍もそれと共に活動を始める危険が発生する。信長はここで自らの水軍を投入する。
信長の水軍は大型の安宅船を中心として鉄砲を搭載した火力に優れたものであった。これらの水軍が沖合から伊勢水軍の陣地を急襲した。伊勢水軍は射程200メートルの鉄砲の攻撃に大混乱し壊滅、武田氏も海戦の不利を知って水軍の投入を取りやめる。こうして孤立した北畠氏は降伏する。
その後、天下統一を目指す信長は、着々と畿内に勢力を広げていった。しかし大坂で頑強に抵抗したのが本願寺である。ついに1576年、本願寺への総攻撃が開始される。頑強に抵抗する本願寺に対し、信長は包囲線で兵糧攻めを行った。そのために信長は和泉や摂津の水軍を動員して大阪湾の海上封鎖を行った。
しかしそこに本願寺の援軍として攻め寄せたのが、毛利輝元が派遣した戦国最強と言われた村上水軍であった。団体戦に長け、統制のとれた村上水軍は、機動力で信長の水軍を翻弄する。一方の信長側は海上では頼みの鉄砲が十分な効果を発揮できないでいた。そして信長軍の安宅船に接近した村上水軍は火矢や焙烙(手榴弾のようなもの)による火攻めを一斉に行う。この攻撃で信長軍の安宅船は焼き払われ、完全に壊滅する。
この事態を受けて信長は、九鬼嘉隆に焙烙にも耐える鉄の船を建造することを命じる。嘉隆は考えた結果、従来の安宅船よりも1.5倍ほど大型の全長30メートルほどの安宅船に鉄板を張ることにする。そのための鉄板は信長が関の刀鍛冶を動員して作らせた。
1578年、再び大阪湾で海戦が行われることとなった。攻める村上水軍は600隻の船団、これを迎え撃つ信長方の水軍は鉄甲船6隻だった。当初は機動力に勝る村上水軍のペースで戦いが進むが、村上水軍の得意の火攻めはまったく鉄甲船には効果がなかった。そこで村上水軍側は接近して移乗攻撃をかけようとする。しかしこの時に鉄甲船の秘密兵器が火を吹く。3方に配置された西洋式の大砲が、村上水軍の大将戦をめがけて一斉に火を吹いたのである。至近距離からの砲撃に村上水軍の中心となる大将船はひとたまりもなく沈没する。指揮系統を失った村上水軍は混乱し、ちりぢりになって逃走する。こうして信長水軍は勝利をおさめ、これが後に本願寺の降伏につながる。
火攻めをされたのなら燃えない鉄の船を造ればいいなんてことは、誰でも考えそうなことだが、それを現実化してしまうところが信長の非凡なところである。こうして登場した超弩級兵器の鉄甲船は、この海戦で鮮やかな勝利を収めたものの、その後の歴史に二度と登場することはなかった。それは謎とされているが、この兵器の限界を考えると「二度と使えなかった」というのが実態だろう。鉄甲船は兵器としては根本的な欠点を抱えている。それは機動力が皆無であること。この時の海戦では奇襲攻撃で敵の指揮系統を破壊することに成功したから勝利したが、実際は小舟で取り囲まれて移乗攻撃をかけてこられたらひとたまりもなかった可能性が高い。白兵戦に持ち込まれたら鉄の装甲も鉄砲の火力も役に立たない。初戦では相手の度肝を抜くことが出来たので、敵が体制を立て直す前に勝利できたが、一度ネタが分かってしまうと、次に万全な対策を立てて当たられたらどうしようもなかったのではないか。つまり鉄甲戦の存在自体が一種の奇襲攻撃であり、同じ奇襲は二度と効かないということは、信長にしても秀吉にしても分かっていたはずである。
なお今回の番組は海戦シーンをCGなどで再現する力の入れようであったが、村上水軍の火攻めを食らって安宅船が爆散して沈没するシーンには、思わず「そりゃ違うだろ」と呟いてしまった。火器の威力を考えると、日本海海戦じゃあるまいし、あんな派手な海戦にはなりようがないと思うのだが。どちらかと言えば、赤壁の戦いの方がまだ実際のイメージは近いのと違うか?
7/13 その時、歴史が動いた「実録・大岡越前〜火事と闘った知られざる素顔〜」
江戸は非常に火事の多い町で、何度も丸焼けになっている。1717年(享保2年)にも江戸で大火が起こり、江戸の7割が焼け野原になるという惨事となった。この直後に41才という当時としては異例の若さで町奉行に就任したのが大岡忠相である。彼は火災からの復興が義務づけられていた。
大岡が注目したのは、当時の江戸では町人が住む町の面積は16%にすぎないのに、出火率は全体の62%を占めていたことだ。町人の町は超過密状態で非常に火に弱かったのである。大岡は町人の町の防火が鍵だと考え、耐火性の強い瓦屋根や塗り壁を導入させようとするが、これは町人の経済力からして非現実的な政策であり、結局は大家などに責任を持たせ、徹底的に火元管理をすることで火事を抑止しようとする。
しかしこれはほとんど効果がなかった。当時の江戸では放火が非常に多かったのである。そこで火事が起こった時の被害を最小にするための防火対策を考える。当時の江戸の防火は幕府直轄の定火消と大名家が雇った大名火消の2種類が担っていた。しかし彼らは武家の町を守るだけで、町民の町には出動しなかった。そこで大岡は江戸の1000の町民の町に町火消を創設することにした。
しかし大岡の目論見最初から頓挫した。町火消と定火消の間でいざこざが起き、町火消不要論が湧き起こったのである。この事態に大岡は将軍・吉宗に直訴、町火消し消火に当たっている時は定火消は手を出さないようにとの命令を出させる。
だが大岡の意に反して、町火消しの無力さが露呈する事件が起こる。当時の消火活動は水をかけて火を消すという技術が確立しておらず、建物を倒して延焼を防ぐという破壊消火であった。しかしそのための知識と経験を持つ鳶職は大名火消しとして雇われており、町火消は素人集団であった。そのために火災現場でもまともに作業が出来ず、しかも指揮系統がはっきりしていないため、集まった火消達は全く統制がとれなかった。そのために1720年の火事では寛永寺が延焼で焼け落ちるという被害が発生する。
町火消の実力不足は明らかであり、存続の危機に立たされていた。そこで大岡は吉宗に図って起死回生の策を講じる。この年、吉宗は大名火消に市井の鳶を雇うことに対する禁令を出した。さらに大岡は町火消をいろは47組に統合、総数を3万人から1万人に絞って少数精鋭とした。さらに各組に組頭を置き、組同志の連携がとりやすいようにした。そこに大名火消しから流れた鳶職が大挙して加入、レベルが一気に向上した。また大岡は彼らの士気を上げる策を講じた。武将の馬印に当たる纏の所有を奨励したのである。これらの施策は彼らのプライドを刺激、纏持ちは粋な江戸っ子の代表として注目を浴びる。
そして町火消の実力を世に示す事件が起こる。1747年、江戸城の二の丸から出火して江戸城が全焼する危機に瀕した時、幕府から出動を要請された町火消は、この火事の消火に見事成功するのである。
江戸時代版プロジェクトXといった趣。次々と起こる難題に対して大岡の決断が見せ所になっている。ナレーションを松平アナから田口トモロヲに変えたら、それでプロジェクトXになりそうだ。OPなんて明らかにそれっぽかったし(笑)。またこの番組はありものの映像をよく使うが(大河ドラマから持ってくることが多い)、今回は往年の時代劇から抜粋していたようだ。あの纏を持っていた人物の顔に見覚えがあるような気がするのだが、私は往年の時代劇ファンではないので(萬屋錦之介のテレビ時代の時代劇ならよく見たのだが)誰かまでは分からない。
それにしても大岡が吉宗に町火消の重要性を訴えるのに「経費節減になる」という論理展開でいったのはある意味笑える。この時代から経費削減には民営化の手法がとられていたということであろう。ただ消防などといった公益性の高いものを本当に民営化するのは無理な話で、この時も民営化というよりも分権化の方が実態に近いのかもしれない。
また大岡は庶民の心理を操作するのにも長けていたと感じる。消火活動等という危険性の高い任務に従事させるために、彼は火消に「格好良い仕事」というイメージを与えるために腐心し、それが纏に結実したと言えるだろう。粋ということに高い価値観をおいていた当時の江戸町民は、まんまと大岡の策略に乗せられて(笑)、勇んで火消活動に従事したというわけである。仕事にとって実は一番大切なものはモチベーションであるということを示す実例であり、大岡は今日の世なら人使いのうまい名マネージャーになったことであろうと感じる。
なお次回は「信長の野望」マニアに圧倒的な人気を誇る「鉄甲船」のエピソードのようである。CGまで投入したかなり気合いの入ったもののようだが、これは明らかにスタッフにもマニアがいるな・・・。
7/6 その時、歴史が動いた「プロ野球を作った男たち〜昭和10年 アメリカ遠征記〜」
早慶戦が圧倒的な人気を誇っていた昭和6年10月、アメリカの大リーグ選抜チームが来日する。日本は大学の有名選手らを集めて迎え撃ったが、まるで歯が立たず、17戦全敗という散々な結果に終わり、選手のみならずファンまでもが日米の圧倒的な実力の差に愕然とする。
この時、日本がアメリカと互角に野球で戦えるようになるためにはプロ野球チームを設立するしかないと動き始めた人物がいた。読売新聞の嘱託記者であった鈴木惣太郎である。彼は企業廻りをして資金を集めようとするが、なかなか出資は集まらなかった。しかし読売新聞社主の正力松太郎が、ベーブ・ルースを招いて日米野球をしようと考えているのを知り、正力にプロ野球チーム設立の資金提供を了承させる。こうして31人の選手が集められる。
昭和9年11月、ベーブ・ルース率いるアメリカチームが来日する。雪辱を期する日本チームはエース沢村栄治を登板させる。しかし沢村はいきなり連打を浴び、打撃陣もアメリカ投手に歯が立たず、15戦全敗という結果に終わる。呆然とする日本チームに対し、アメリカチーム監督のコニー・マックが日本チームのプロ意識の欠如を指摘する。
こうなれば本場アメリカでプロの野球を体得するしかないと決意した日本チーム18人の選手が、昭和10年2月アメリカ遠征のために渡米する。対戦相手は実力的に釣り合うと考えられるマイナーリーグが対象とされた。日本チームは東京ジャイアンツと名付けられる。彼らは一流ホテルに宿泊し、料理も日本人向けの特別メニューが用意された。しかし彼らはいきなりアメリカのチームに惨敗する。またアメリカのプロ野球選手の生き残りの厳しさに驚かされる。しかもアメリカチームは4月の公式リーグに開幕に合わせて、調整が進むと共にますます強くなり、日本チームとの実力の開きが生じてきた。
するとこれが観客数に影響してくる。当初は物珍しさで来ていた観客が、試合のレベルが低いと来なくなったのである。入場料収入の激減がチーム財政を圧迫、それは選手の宿泊料や食費に跳ね返る。また入場料収入の減少を試合数の増加で補おうとした結果、日程が厳しくなり、疲労した選手の怪我も増加、選手の不満が高まりチーム崩壊の危機に瀕する。
しかしそんなハングリーさの中で、日本選手に徐々にプロ意識が芽生えてきた。それが各人のプレーに磨きをかけ、沢村の豪速球や田部の俊足などがアメリカのマスコミなどでも注目され始めた。
そうして彼らが乗り込んだデトロイト。彼らは強豪でもあるフォードのチームと対戦することになる。スタンドはフォードのファンで満員だった。これに日本選手は奮い立つ。そしてキャッチャーの中島が負傷で倒れるような激しい試合の中、彼らは見事に6対0でフォードに勝利する。見事な試合内容に、グラウンドになだれ込んだ観客は敵である日本チームを祝福する。この試合はアメリカでも大きく報道される。彼らのプロとしての試合がアメリカ人の目にもかなったのである。
帰国した彼らを待っていたのは歓呼の渦だった。こうして翌年に、7チームでの本格的プロ野球のリーグ戦が開始される。
以前にもプロ野球ネタがありましたが、またもプロ野球ネタです。どうもこの番組はプロ野球が好きなようですが、巨人ファンの松平アナのせいでしょうか? なお今回のエピソードは巨人のエピソードですが、こうやって巨人は日本のプロ野球創設に貢献したことから、「球界の盟主」を自認しているわけですが、まだこの頃は日本プロ野球界全体を考える余裕があったのに対し、最近は巨人がよければ他はどうでも良いという安直な考え方で、日本のプロ野球全体を存亡の危機に追い込んだ渡辺恒雄のような阿呆に支配されるようになったのだから、巨人もプロ野球も墜ちるところまで堕ちたものである。
ところで今回の話、確かにエピソードとしては面白くはあるが、これはどう考えても歴史番組のネタではない。ネタで苦労しているのは分かるが、歴史ファンとしてはプロ野球なんてどうでも良い話をされてもね・・・。
6/29 その時、歴史が動いた「さらばサムライ 西南戦争・田原坂の真実」
地震が下級武士の出身であるため、士族階級の限界を感じていた(というよりも士族階級を恨んでいたとさえ言える)山県によって、徴兵制の導入などを核とした士族階級の解体は着実に進み、さらには帯刀を禁じる廃刀令の発布、ついには今まで支払われていた秩禄の廃止の決定された。これに対して士族らの叛乱が起こったが、山県による徴兵軍隊はその装備の優位さなどによってこれら単発的な叛乱を次々と鎮圧していった。
しかし明治10年1月、鹿児島県内の陸軍施設から武器弾薬が運び出されようとしたのを機に、薩摩士族が政府の火薬庫を各地で襲撃、ついに叛乱の火の手が薩摩で燃え上がる。中央政府から離れ、薩摩で反隠遁の生活を送っていた西郷は、この報を聞いた時「しまった」と叫んだという。しかし彼らの暴発は停まらず、彼らは西郷を旗頭に押し立てようとする。この期に及んで西郷も覚悟を決め、それを引き受けるという。
しかし西郷の意図はまだ武装叛乱にではなく、政府との話し合いにあったという。西郷としては大久保らの同志と談判し、士族の立場を守ることが出来る落としどころを探ろうと考えていたようである。しかし彼らは賊軍として政府軍に討伐されることになる。
薩摩軍1万3千は九州における政府軍の要衝である熊本城を囲む。しかし3千の政府軍の守備隊は優秀な装備で頑強に反抗し、戦線は硬直する。そして2月、山県有朋率いる1万5千の軍勢が熊本城救援のために到着する。それに対して薩摩軍はその半数を割いて、田原坂で迎え撃つ。
かつて加藤清正が防衛陣地として考えていたという田原坂は要害の地だった。また装備で劣る薩摩軍も士気では勝っていた。そもそも戦いの意義を感じていない上に、庶民出身の徴兵軍では弾丸を恐れて物陰から手だけ出して銃を撃つものが多いのに対し、薩摩軍は立って狙いを定めて撃つため、銃の性能は劣っても命中率は格段に違い、「薩摩の立ち撃ち」として恐れられたという。また政府軍を震撼させたのは薩摩軍による切り込みであり、接近戦に持ち込まれた政府軍は大敗し、開戦後1週間で政府軍は1千人の死傷者を出す。
この大敗に対し、士族を軍に起用すべきだとの声が政府内で上がるが、徴兵制の根幹を揺るがす行為に山県は抵抗する。しかし政府軍はなおも大敗を続け、やむなく山県は士族出身者が大半を占める警官隊の戦線投入を決断する。彼らは軍隊ではないとして銃を持たず、剣のみで敵陣に斬り込むため、抜刀隊と命名されたという。彼らは最前線で薩摩軍に切り込みをかけ、多くの犠牲を出しながらも薩摩軍の戦線の一角を崩し、それが田原坂での政府軍の勝利につながったという。なお抜刀隊の士族には会津出身者が多く、彼らは「戊辰の仇討ち」と叫びながら敵陣に斬り込んだとのこと。田原坂で敗退した薩摩軍は劣勢に陥り、結局は西郷の自決によって戦闘は終結する。
ここまでエピソードを聞いたところで、私は「日本の陸軍の悪しき風習はここから始まったのか?」と感じたのだが、ゲストの佐々木克氏もそのような見解であるようである。つまりこの戦闘後、日本の軍隊では精神主義が強調され、明治天皇を軍隊を束ねるカリスマとして持ち上げるわけだが、結果としてそれが過重な精神主義と人命の軽視につながり、そのままその体質を第二次大戦まで引きずった結果、まさにそれが原因で敗北するわけである。
結局のところ、日本軍は明治時代における成功のメカニズムをそのまま現代にまで持ち越してしまったわけであるが、それは剛直化してしまった組織によるものであるが、この時の薩摩軍の強さが意識化に刷り込まれていたということもあるかもしれない。となれば、これは歴史の皮肉であるが。
6/22 その時、歴史が動いた「さらばサムライ 西郷隆盛 徴兵制の決断」
明治新政府樹立後も、新政府の基盤は弱いままだった。未だに財政と軍備の大半は藩が握っており(全国の石高3000万石のうち、政府の収入となるのは旧幕府直轄領などの800万石、兵力では武士40万人のうち新政府直属兵は3000人)、当時の政府は中央集権化を進める必要があった。
新政府は廃藩置県を計画するが、これは士族の反発が必至であった。そこで新政府は士族達に圧倒的な支持を受けていたカリスマ・西郷隆盛に協力を要請する。新政府樹立後、故郷に帰って半引退のような生活を送っていた西郷だが、要請によって上京する。こうして明治4年7月14日、廃藩置県の詔が発布される。西郷は厳戒態勢で臨んだが、一夜明けても特別な混乱は起こらなかった。こうして版反体制派崩壊し、中央集権国家が実現した。
しかしまだ武士の処遇の問題があった。武士の40万人という数は明らかに多すぎ、彼らに支払う禄が政府の財政を圧迫していた。政府は武士を廃止し、国民皆兵の軍隊を創成することを考えていた。また軍務を取り仕切っていた山県有朋は、下級武士の出身であり、身分制度にあぐらをかいている武士の限界を痛感していた。当時の山県の言葉として「武士と称し抗顔坐食し、その甚だしきに至りては、人を殺し、官その罪を問わざる者のごときにあらず」というものが残っているという。武士という立場にあぐらをかいて無駄飯を食って、ひどいのになると人を殺しても罪を問われないということである。まるっきり、今の二代目馬鹿ボン議員共と同じである。
しかし徴兵制の導入は士族の存在意義を根底から覆すものであり、彼らの猛烈な反発を呼んだ。その頃西郷は、廃藩置県に激怒した島津久光を説得するため、明治天皇と共に薩摩に赴いたのだが、説得に失敗したところであった。東京に戻った彼は、木戸や大久保らが外遊していたために一人残される(彼等は外遊を口実にして、廃藩置県に対する批判から逃げていたという面もあるという)。徴兵制の反対派は山県に狙いを絞り、彼の汚職の疑惑を暴き出す。軍は混乱し、山県の政治生命も絶たれかねない状態になった。山県は西郷に徴兵制の意義を説き、彼の協力を要請する。徴兵制の必要性は自身も感じていた西郷は、山県に一旦辞任を促し、後のことは自分に任せるように言う。
西郷は山県の辞任後、徴兵制反対の急先鋒の薩摩藩士に面会し、「山県は辞任したのに、これ以上争うことはあるのか」と彼らを沈黙させる。そして明治5年11月28日徴兵の詔が発布される。
と、ここまでが今回で、いわば前編に当たるようである。そして来週は、こうして徴兵制を導入した西郷が、皮肉にも士族達に担がれてその新政府軍と戦うことになる西南戦争についての話になるという。
徴兵制というのは、当時としては武士の特権を破壊することであり、つまりが武士階級の消滅を意味していたのであるから、彼らが反発するのは理の当然というものであり、それが分かっていたから大久保ら「政治家」はさっさと逃げ出していたのである。それに対して「軍人」であり、不器用な人物でもあった西郷隆盛はすべての前面に立たされたということになる。
ただ山県の言う通り、近代戦に対して士族は全く対応できておらず、その特権意識が今後障害になる可能性も高かったのは事実であり、この時はこういう方向に行くのは必然だったのだろう。
ところでNHKは「日本国策放送」と揶揄されることもあるぐらい、明らかに政府の意図を受けた放送が多い。そういうことを考えると、この時期に徴兵制の話を持ち出すことに非常な不気味さを感じるのだが。ましても国際貢献を隠れ蓑にして軍事拡大を目論んでいる小泉政権下では・・・。私はそのことが一番恐い。まかり間違っても、二代目馬鹿ボン議員共の利益のために、国民が血を流させられるのは御免である。すでにアメリカなどはそういう国になってしまっているが、日本もそういう国にしたいのが彼らの思惑なのだから。
6/8 その時、歴史が動いた「エンタツ・アチャコの漫才革命〜あんじょうわろうてや!〜」
なんかコテコテのテーマだなと思ったら、NHK大阪開局80年記念ということで大阪局制作でした。お好み焼きの匂いがしそうだ(笑)。
大正11年(1922年)、明石の小さな演芸場で横山エンタツと花菱アチャコの二人が出番を待っていた。彼らは病気になった芸人の代わりに、急遽穴埋めとして出演させられたのだった。ここでエンタツがアチャコに奇妙な提案をする。彼は喋りだけの漫才をしようと持ちかけたのだった。当時の漫才は歌や踊りの合間に喋りを挟む音曲万才が中心であった。このような万才に対し、エンタツは「今の万才はあまりに猥雑で下品である。日本中の老若男女が誰でも共感し、家族で笑える無邪気な笑いをとる万才がしたい。」と考えていた。
しかし彼らの試みは散々な結果に終わった。いつまで経っても歌も踊りも登場しない彼らの芸に、客達は「芸がない」とミカンを投げつけたのだった。その後、エンタツは一人で浅草に上り、ここでチャップリンなどの喜劇を意識した新しい万才を模索するが一向に客の笑いは取れなかった。そして昭和4年(1929年)、彼は万才をやめてしまう。しかし彼が生活のために始めたパーマ機の販売も大失敗、生活に行き詰まる。そんな彼の元を訪ねてきたのが、吉本興業総支配人の林正之助だった。サラリーマンの増加などによって寄席の客層が変化しつつあるのを感じていた林は、今の芸では観客に受けなくなると感じていた。そこで新しい万才を模索していたエンタツに声をかけたのだった。エンタツはアチャコと組ませてもらえるのならとその話を受ける。
そうして二人の新しい万才を求める苦闘が始まった。どんな話だったら観客が聞いてくれるか。二人は風呂屋に出かけて客の話に耳を澄ませた。そして家族などの話を題材にすれば観客が聞いてくれるのではないかと考えた。こうして編み出した家族の話などをテーマにした万才はだんだんと評判を呼ぶ。
時代は昭和8年、満州事変が勃発するなど世相に影が差し始める。そんな中、さらに新しいネタを追い求める彼らは、ラジオで人気となっていた野球の早慶戦に目を付ける。そして野球の実況をパロディにした「早慶戦」のネタを作り出す。彼らの「早慶戦」は大阪で爆発的人気を呼ぶ。しかし日本全国の人を笑わせるにはラジオに出るのが一番だった。しかし当時の吉本興業は、芸人がラジオに出ることを禁じていた。ラジオで芸を披露すると寄席の入りに差し障ると考えていたのである。しかも昭和5年にNHK大阪が吉本の人気芸人だった桂春団治に直接交渉し、彼がラジオに出演した件で吉本興業とNHKの関係は最悪となっていた。このままでは二人のラジオ出演は難しかった。
しかし時代が変化し始める。ラジオの全国中継が始まり、NHKは演芸コンテンツを求めていた。また吉本の方でもラジオに出演した後の春団治の寄席がむしろ以前よりも入りが良くなるということが起こり、ラジオに対する認識を変え始める。こうして先の春団治の件についてNHKが吉本興業に謝罪するということで、二人のラジオ出演が実現する。そして彼らの万才は日本中を爆笑させる。
しゃべくり漫才の元祖の話である。大阪と言えば、やくざ・漫才・お好み焼きというイメージがあるようだが、あまりにコテコテすぎるネタである。ちなみに私はエンタツ・アチャコの名前は知っているが、明らかに彼らは過去の人すぎてよく知らない。むしろゲストに出演していた喜味こいし氏が兄の夢路いとし氏(既に故人)と組んでやっていたしゃべくり漫才が記憶に残っている世代である。夢路いとし氏が亡くなる直前ぐらいに二人の漫才をテレビで見た記憶があるが、そのしゃべくりのテクニックはさすがだと感心したものである。彼らがちょうどエンタツ・アチャコの後継的位置付けになるようである。ちなみに番組では、さらに横山やすし・西川きよしの二人、ついで中川家のVTRが登場していたが、正統派しゃべくり漫才の系譜と言えばこの辺りの流れになるのだろうか。確かにこれに付け加えるとしたらオール阪神・巨人ぐらいか。
しゃべくり漫才はラジオ時代を意識した新たな漫才の形と言うことだろうが、そういう意味で言うと、テレビ時代を意識したのはどつき漫才か? それがさらに発展すると漫才ではなくてコントの形になってくるようにも思えるのだが。そしてテレビ時代に徹底的に対応したのが、陣内智則になるのか?(笑) ん?はなわはどんな流れにつながってるんだ?(笑)
6/1 その時、歴史が動いた「民を救った義士たちの物語〜宝暦の治水・薩摩藩士の苦闘」
今回のテーマは薩摩藩士が遠く離れた美濃の地で行った治水の物語である。まるでプロジェクトXのような内容だが、確かにOPからしてプロジェクトXくさい。例によってプロジェクトXを作りたい連中が作ったのではないかと思わせる(笑)。
1754年(宝暦4年)、幕府から届いた書状に薩摩藩は騒然とする。それは「美濃・伊勢・尾張の各河川の治水工事を命ずる」という幕府の治水工事命令書であった。これはいわゆる「お手伝い普請」というものであり、幕府が各藩に強制する公共事業のようなものであった。目的はいわゆる社会インフラの整備などもあったが、その実は諸藩(特に外様藩)に金銭的負荷を課すことでその力を削ぐことにあった。幕府は薩摩藩が琉球貿易や黒砂糖の販売などで力をつけつつあるのを警戒しており、それに対する処置であると見られた。
問題になったのはその工事の内容であった。総延長120キロに及ぶ堤防建設をほとんど薩摩藩独力で実行するというものであり、その費用は15万両(今日の価値で120億円とか)と試算された。既に参勤交代の費用などで66万両の借金を抱えている薩摩藩にとって、その費用は藩財政を破綻させるものであって、理不尽としか言いようのないものだった。命令を拒否すれば藩は取りつぶしの憂き目にあう、しかし藩士の中では幕府と決戦すべしと言う強硬論が台頭する。これを制したのが家老の平田靱負である。彼は「民を救うのは武士の本分」という大義を訴えて、藩士を説得する。
こうして薩摩藩士の第一陣が美濃に出立した。別行動をとった平田は大阪で豪商達に借金を申し入れる。しかし薩摩の財政が火の車であることを知っている豪商達は資金提供を渋り、結局平田は予定していた額の半分の資金も調達できなかった。しかもそこに薩摩藩の江戸屋敷から届いた書状が平田を震撼させる。それは総工事費を改めて見積もると、当初予定の倍になったというものだった。やむなく薩摩藩は領民に特別税を課し、領民は飢えと貧困で困窮する羽目になる。
しかも美濃に到着した平田が眼にした光景は信じられないものだった。先に送られた藩士達は粗末な農民の小屋に詰め込まれており、一汁一菜の粗末な食事が与えられるのみだった。しかも幕府は治水の専門業者を雇うことを許さず、素人である藩士と農民だけで作業が進められていた。さらに幕府の役人は石の積み方など細かなところに文句をつけては、何度も工事をやり直しさせていた(つまりこの工事の目的が幕府の薩摩に対する嫌がらせであったことがはっきりするわけである)。平田は幕府に治水の専門業者を雇う許可を申請するが、幕府はそれを却下する(幕府の目的を考えると当然な対応)。そんな中、藩士の一人が抗議の切腹を行う。幕府に反抗の意志を示すことを公に出来ない平田は、泣きの涙でその死の真相を伏せる。
しかし彼らの苦労は続く、その年の夏、美濃を大豪雨が襲い、藩士らの奮闘も空しく建設途中の堤防が決壊してしまう。ここで平田は再び治水の専門業者の雇い上げを嘆願するが、これも再び却下される。そんな中、追い打ちをかけるように作業現場で赤痢が蔓延、藩士に数十名単位の死者が出た。また抗議の意味や、病で足手まといになることを恐れた藩士の切腹も相次いだ(実に28名もの藩士が切腹した)。
堤防の修復はなんとか完成したが、最大の難所がまだ残っていた。それは木曽川と揖斐川の水量を調整するための分離堰を油島に建設する工事だった。これは急流の中に堤を建設するという専門家にさえ困難な工事であった。ここで平田は三度専門業者の雇い入れを嘆願する。この頃になると幕府の側もさすがに薩摩藩士に相次いで犠牲者が出るという異常事態に、工事の失敗を懸念し始めていた(工事が失敗したとなったら、今度は幕府の威信に傷が付く)。ようやく幕府からの許可が下りる。
しかしこの時になると工事の資金が底をついていた。平田は大阪の豪商と交渉し、特産の黒砂糖や菜種の販売権を担保に借金をした。これは藩の財政の根幹をひっくり返しかねない決断であった。なおこの時の文書によると、借金はすべて平田の個人名義になっていたという。責任をすべて平田が一身に背負うつもりだったのである(最悪の場合は、薩摩本国が後で「あれは平田が勝手にしたことで、薩摩藩は全く感知していない」と開き直ることも可能にするつもりだったのだろう)。
そして油島の工事は開始された。急流の中工事は難航を極め、犠牲者も出たが、工事は完成する。平田は工事の犠牲者を悼む意志と、この堤防を未来永劫守るために薩摩から取り寄せた1000本の日向松を植える。こうしてようやく薩摩藩士は帰国。それを見送った平田は、自邸で自刃する。平田の死は病死と公表される。
凄まじい物語である。また幕府による嫌がらせも執拗であり、これに対する怒りがそのまま後の明治維新にまで引き継がれたのではないかとの話もあったが、さもありなんである。もっともこのエピソード自体が再発掘されて日の目を見たのは、薩長閥による新政府が樹立された明治以降であり、そっち向きのバイアスがかかっていることも考慮には入れておく必要はある。それでもこの当時の幕府によるお手伝い普請の実態を示す資料としての意味があろう。恐らく薩摩だけでなく、他藩でも似たような事例はあるはずである。1754年と言えば、九代将軍家重の治世であり、吉宗の享保の改革でわずかに持ち直した幕府が、再び衰退の局面に入りつつあった時代に当たる。薩摩藩に対するこの過酷な仕打ちは、落ち目になりつつあった幕府の焦りと表裏一体でもあったろう。
それにしても終わってみたら、やっぱりプロジェクトX(笑)。困難な作業、立ち上がるリーダー、名セリフ「民を救うのは武士の本分」、次々と立ちふさがる難題、政府の無理解、バタバタと倒れる仲間、農民達との心の交流、リーダーの決断、乾坤一擲の大勝負、そして目的を達成、リーダーは一人ひっそりと去る。内容といい、展開と言い、これでナレーションが田口トモロヲなら完全にプロジェクトXだろう(笑)。
5/25 その時、歴史が動いた「傷ついた戦場の兵士を救え〜佐藤常民 日本初の国際人道支援〜」
今回のテーマは日本赤十字を立ち上げた人物について。敵味方関係なく傷ついた兵士を救うという赤十字の理念は、当然のことながらなかなか理解されなかったようだ。
明治初期、西南戦争の勃発した九州では凄惨な光景が繰り広げられていた。新政府軍と薩摩軍の両軍の衝突の狭間で、兵士の死体はそのまま野ざらしに放置され、負傷兵は放り出されたまま死ぬに任されていた。この光景に心を痛めたのが元老院議官の佐野常民である。彼はかつて欧米を視察した時に見た赤十字の理念に感動した経験があった。また彼の故郷の佐賀でも反乱が起こり、戦いの中で彼の友など多くの人々が亡くなっていた。彼は戦争での犠牲をこれ以上出したくないと考え、敵味方関係なく負傷兵の命を助ける博愛社の設立を計画し、同じく元老院議官の大給恒と共に右大臣の岩倉具視に請願書を提出する。しかし岩倉は「なぜ賊軍の命を助ける必要があるのか」とこの請願書を却下する。
しかし佐野はそのまま九州に向かい、現地司令官の山県有朋に訴える。現地の惨状を目の当たりにしていた山県は、政府軍の責任者である有栖川宮熾仁親王に取り次ぐことを約束、佐野の訴えを聞いた有栖川宮は彼の請願を聞き入れ、博愛社設置の許可を与える。この時、佐野は感極まって涙したという。
佐野は早速故郷に戻り、博愛社に対する出資と協力を要請する。佐野の要請に故郷の人々は全面的に協力し、元藩主の鍋島氏は現在の額で300万円に当たる額を寄付し、佐野の後輩の医師達が佐野と共に危険な戦地に赴くことに同意した。彼は仲間と共に熊本に赴くが、彼らの活動は難航を極めた。賊軍をなぜ助けるのかと政府軍の妨害を受けたり、薩摩軍の残党の襲撃を受けて同志の一人が死亡する事件まで起こった。双方の無理解に苦しめられた結果、佐野達が救護したのは1429人で、これは死傷者数の5%にすぎなかった。
西南戦争は終了したが、いずれ中国において外国との衝突が必至と見た佐野は、この活動をより強化する必要を感じる。佐野は博愛社の活動をより理解して貰うため、政府に働きかけてジュネーブ条約への加入を促し、博愛社を日本赤十字社へと発展させる。佐野は女性看護士などを養成、赤十字社を拡張する。
そして日清戦争が勃発した。赤十字社の救護班は大陸に派遣される。彼らは大陸の寒さ、疫病の発生、敵軍からの攻撃(清はジュネーブ条約には加盟していない)の中で敵味方の区別なく負傷兵の救助を行い、その行為は諸外国からも高く評価される。
「人道支援は非軍事で」という典型的なエピソードである。非軍事組織であるからこそ、中立を謳えるわけであって、これが軍事組織ならこうはいかない。ただこのような非軍事組織が有効に機能するには国際的取り決めが必須である。なお日清戦争の時は、日本はこのように諸外国の眼を気にしながらある意味「カッコつけながら」戦争している余裕があったのだが、これが第二次大戦になると全く余裕がなくなり、戦争の手段を選ばないようになる。もっとも手段を選ばなかったのはアメリカなども同じであり、非戦闘員への計画的殺戮(無差別爆撃)などという明らかにモラルに反することを行っているのだが(だから日本軍の中国人民への虐殺行為に並んで、アメリカによる原爆なども糾弾されるべきなのである)。
5/18 その時、歴史が動いた「戦国をひらいた男 北条早雲56才からの挑戦」
乱世の梟雄などと言われ、戦国時代を拓いた人物とされているのが北条早雲である。しかしその歴史上の重要性に反して、彼の出自は謎が多い。巷では伊勢の素浪人だったという説が小説などで広がっているようだが、実際は幕府でも重きをなしていた伊勢一族の分家の出であるというのが最近の研究の結果であるという。
彼は将軍の弟・足利義視に仕えたが、この時に応仁・文永の乱を体験する。戦いは民衆を巻き込んだ陰惨なものとなり、多くの餓死者を出した。しかし幕府は何の手も打とうとしなかった。若き早雲はそのような光景を間近で見ていたのである。早雲は30才で義視の元を辞し、僧となる。このまま僧として一生を終えるかと思われた早雲であるが、50歳の時に突然に行方不明になる。
彼が歴史の舞台に姿を現すのは1487年、早雲が56歳の時である。彼は守護の名代として駿河を治める今川氏の一門の小鹿範満を急襲し殺害、先代の守護の息子を新しい当主に据える。今川家では御家争いが起こっており、小鹿範満には人望がないということを見越した上での行動であった。この戦いで早雲は伊豆を睨む地にある興国寺城を手に入れる。この城は当時の城では珍しい堅固な要塞であったという。
1493年、隣国の伊豆を支配する足利家で後継争いが起こっていることをつかんだ早雲は伊豆に出兵、彼は幕府の権威を振りかざして民に背を向けている足利一族には、皆殺しなどの苛烈きわまりない態度で挑んだという。しかし一方で、民衆からは略奪などを行わないように自軍を厳しく律したという。次に早雲が目を付けたのは交通の要衝である小田原。堅城ではあるが当主がまだ若いことをつかんだ早雲は、腰を低く接して油断させ、奇襲によって小田原城を手に入れる。しかし翌年、関東管領の上杉軍が小田原奪還を目指して3000の騎馬軍団で攻め寄せる。これに対して早雲の手勢は数百、この戦いで早雲は大敗を喫する。この後、早雲は長期にわたって守勢に回ることを余儀なくされるが、早雲は逆境の中でも冷静に上杉家の衰退を見抜き、国内の充実に努める。彼は戦国時代で初めてと言われる検知を行い、商工業の発展にも努める。さらには年貢の引き下げにも着手し、農民の支持を得る。農民達は早雲を父のように慕い、足軽として軍に参加する者も増加した。
そして1510年、早雲82才にして上杉氏との決戦を決意する。この時、早雲は2000以上の兵を率いており、戦力は互角となっていた。最後は奇襲攻撃によって勝敗が決し、早雲は勝利を収める。その後、3年をかけて彼は相模の国を完全に平定、87才の時、彼は室町幕府にいたいして独立宣言を行い、朱印状の発給を行う。こうして戦国時代の幕が開いたのである。
奇襲、だまし討ちといった手段が多かったため、梟雄と呼ばれる早雲であるが、その根底には民衆のためという考えがあったとしているのが今回の内容。もっとも、民衆のためというのも民衆の支持を得て自国の国力を強化するという計算も間違いなくあっただろう。ただ、彼が単なる野心家だけだったら、このように力を付けられなかったの確かで、そこには民衆や豪族達が既に幕府に見切りをつけ、新たなる指導者を求めていたという背景が間違いなく存在する。早雲はそこに新たなビジョンを提示したわけである。時代に乗ったということが大きいだろう。
それにしても56才でことを起こすというのは、人間50年などと云われていた時代を考えると、信じられないような話である。実のところ、彼の出自が明らかでないことなどもあり、実は私は彼の年齢については半信半疑な気持ちが強いのだが、その辺りは歴史学会では決着はついているのだろうか。ちなみに年齢の問題はやはり中国の歴史などでも問題になっており、よく言われているのは太公望について。彼の年齢を文書の通りに解釈していたら、100才を軽く越えてしまうのだという。この辺り、まだ真実は闇の中である。なお太公望については、資料に間違いがあるというごく普通の説から、太公望は複数存在したという説、太公望クローン説(嘘)、太公望ハーロック説(これも嘘)などがあるという。
5/11 その時、歴史が動いた「にっぽん郵便創業物語〜前島密の挑戦〜」
郵便システムを確立したことで知られる前島密だが、彼がこのシステムを導入することに至った背景の一つとして、彼自身が文書の未達によって命を狙われるという体験をしたことがあるという。
海外渡航経験があり英語力のある前島は、薩摩藩に藩士として招かれていた。その時、大久保利通に新設する海軍の士官にならないかと勧誘されたのだが、薩摩藩が欧米との対決姿勢を強めていたことに反対の考えを持っていた彼は、それを断って薩摩を辞して故郷の越後へ向かう。彼はそこから、この度の海軍士官就任を断ったいきさつを十数通の書面にしたためて薩摩に送ったのだが、その書物は一通も薩摩に到着せず、薩摩の海軍創設計画を知った途端に出奔した前島は幕府の密偵として疑われ、島津氏から殺害の指示が下されてしまったのだという。
前島の書面が薩摩に届かなかったのは、当時の文書配送システムの複雑さにあった。前島の書面は高田藩に預けられた後、江戸屋敷まで大名飛脚で送られ、そこから高田藩士自身の手で薩摩藩の江戸屋敷送られた後、薩摩藩の大名飛脚で薩摩に送られることとなっていた。しかし薩摩との関わりを恐れる高田藩は、前島の書面を途中で握りつぶしていたのである。当時はこのように途中で検閲が入って文書が握りつぶされるなどと云うことがよく起こっており、また町飛脚は採算のとれる街道筋にしか配達をしていないうえに、文書も本当に到着するか怪しく、手数料も極めて高かった。このことが前島の「誰でも手軽に利用できる郵便システムの導入」の意志を固める。
新政府成立後、前島は新政府に招請され、念願の郵便システムの確立の作業を開始する。しかし新政府には財源がないことから、前島は新政府が飛脚業者に支払っていた莫大な資金を元に、まず東京、大阪、京都の間での郵便システムを創始する。
その後、彼は政府の仕事でイギリスに渡り、そこで最新の郵便システムを視察する。そこで彼が注目したのは、全国一律料金制度であった。帰国後の彼は、その制度を導入するために各地の有力者などに声をかけて、郵便局を開設するように呼びかける。彼らは国家のための名誉な仕事として、ほとんど無給でそれを引き受ける。また新郵便制度に従来の飛脚業者などからの猛烈な反発もあったが、前島は飛脚問屋の総代である佐々木荘助と直談判で郵便システムの理念を説き、飛脚問屋にも新システムに協力して欲しい旨を訴え、佐々木を説得する。
こうして明治6年4月1日、全国一律料金制度の郵便システムが創設された。その料金は二銭。牛乳1本が五銭で買えた時代であった。こうして日本の情報化も進行することになったのである。
郵政民営化に併せての企画のようである。ちなみに特定郵便局の事実上の世襲が問題になっているが、特定郵便局とはまさにこの時に前島が各地の有力者を説得して私財を提供して解説して貰った郵便局の末裔である。この時は郵便を社会に定着させるための妙案だったのだが、100年以上を経過して当時の精神も完全に消え去った後、特権として問題化してきたというのが現状である。郵政全体の民営化の是非はともかくとして、世襲制の公務員というのは現在の社会においては問題が多いのは間違いなく、特定郵便局の制度の見直しは必要であろう。
ただ、国家全体の利益を見据えて郵便制度を創設した前島に対し、今日議論させている郵政民営化は、特権を守ろうとする既得権益者の欲と、格好をつけたいだけの首相の見栄といった極めて低次元の争いになっており、前島密が見れば情けなさに顔を覆いそうである。
4/27 その時、歴史が動いた「源義経 栄光と悲劇の旅路 第2回 北へ 流浪の果てに」
今週は義経の後半である。
平家の討伐には成功したものの、頼朝の不信を招いてしまった義経は、直接に頼朝と会って誤解を解こうとして家臣を引き連れて鎌倉に向かうが、鎌倉の手前で足止めをされてそのまま頼朝には会えずに終わる。
義経はやむを得ずそのまま京に引き上げるが、そこで頼朝の手のものによって命を狙われることになる。ことここにいたり義経は頼朝に正式に反旗を翻さざるを得なくなる。義経は後白河法皇に働きかけて頼朝追討の宣旨をもらい、西国の武将に頼朝追討を呼びかけるが、この呼びかけに応じる武将は全くいなかった。これは頼朝の手が先に回っていたこともあるが、頼朝は家臣に領地を与える権限を持っており、家臣団との間に御恩と奉公の関係が確立していたのに対し、義経にはそのような権限はなかったことにある。この事態に義経は頼朝と現状で一戦構えることは不可能と判断し、体制立て直しのために一旦西国に引き上げることにする(これで京が戦渦に巻き込まれることが避けられたわけだから、京の民衆の義経への支持はさらに高くなったとのことであるが)。しかし頼朝からの圧力を受けた後白河法皇は先の宣旨を撤回し、新たに義経追討の宣旨を出し、義経は朝敵になってしまう。
西国での体制立て直しも困難となった義経は、奈良県の吉野の宗教勢力の支配下に逃げる(ここで静御前との涙の別れがある)。しかしそこにも頼朝の手が回り、義経はかつて世話になっていた奥州の藤原秀衡を頼って落ち延びる。
義経を押し立てて頼朝と対抗することを考えていた秀衡は義経を受け入れ、義経はようやく安住の地を得たかに見えた。しかし不幸にもまもなく秀衡は病で死亡し、後を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈して、義経を殺害する。
以上、やはり以前に放送した内容の総集編の感が強く、新たに登場したことはほとんどない。
行く当てのなくなってしまった義経は、結局はかつて世話になった奥州を頼ったのだが、彼にとっての不幸は秀衡の後継者である泰衡の器量が秀衡には到底及ばなかったことである。泰衡は一旦頼朝に屈することで奥州藤原氏の延命を図ったのだろうが、結局は間もなく奥州藤原氏は頼朝によって滅ぼされたのだから、この時に義経を殺害せずに手を組んで頼朝に立ち向かうのが正解だったのだが、その判断が出来だけの器量がなかったのだろう(秀衡は間違いなくその覚悟を決めていたようだったのだが)。もし泰衡が義経と完全に手を組んでいたら、実践指揮官としての義経の器量は間違いなく頼朝よりも上であったし、奥州の合戦は長引く可能性があっただろう。そうなれば頼朝に服しているとは言い難い西国が動揺し出すことは必定で、こうなると結果はどちらに転んだかは分からないだろう。
なお頼朝がここまでして義経を葬ろうとしたことには、嫉妬説などがあるが、嫉妬などといった単純なものよりも、頼朝の正確に根ざしたもっと深いものだろう。頼朝の人格の基本には人間不信があるので、事前に将来の脅威を除こうと考えていたのだろう。しかしこうして親族衆を徹底的に排斥してしまったツケで、結果として源氏の本流は絶えてしまい、その後は北条氏に事実上乗っ取られてしまうわけであるから、これは非常に皮肉なことなのだが。
4/20 その時、歴史が動いた「源義経 栄光と悲劇の旅路 第1回 西へ 戦いの彼方に」
大河ドラマ連携企画・・・であるのだが、正直なところ今までやったことの寄せ集めのような内容で、特に見るべきところもない。
平治の乱で平家に破れたことで、源氏一門は離散することになる。源義経は京都の鞍馬寺に預けられていたが、平家の打倒を目指す彼は、再起を期して奥州の藤原氏を頼る。そこで兄・頼朝が挙兵したと聞いた義経は、藤原秀郷から家臣をつけられて頼朝の元にはせ参ずる。
しかし頼朝の扱いは義経の期待に反して冷たいものだった。彼は義経をあくまで家臣として扱い、義経はその屈辱に耐える必要があった。関東武士団の長である頼朝は、奥州藤原氏に対して警戒心を持っており、義経の背後に奥州藤原氏がついていることも、彼が義経と距離を置く一因であった。
義経は手柄を上げることで頼朝に認めてもらおうと、獅子奮迅の働きをする。彼は京都で無法を働いていた木曽義仲を破り、さらに平氏討伐では一ノ谷で奇襲攻撃によって圧倒的な勝利をおさめ、屋島の戦いでも少数による奇襲攻撃で平氏に勝利する。しかしそれでも頼朝の義経に対する扱いは冷たかった。また単独で暴走する義経は、頼朝から配下としてつけられた関東武士団から「大将としての器ではない」と見られ、彼らとの関係もぎくしゃくする。
そして壇ノ浦の戦い、義経は平氏に反感を持つ水軍を味方に付けることで、兵力的に圧倒的に有利な平氏とまともに戦える兵力を揃える。この戦いでは義経は、諫める配下を振り切って、自ら陣頭で戦う。しかし海上での戦いには平氏に一日の長があり、潮の流れの関係もあり源氏は危機に陥る。その時、義経は合戦ではタブーとされていた非戦闘員の舵取りへの攻撃を指示する。舵取りを失った平氏の船は混乱し、源氏が勝利、平氏は海の藻屑と消え去る。
と、既に明らかに知られていることの総集編である。特に今回に登場した新事実はない。
なお義経の悲劇については、明らかに彼が世渡りが下手すぎたということに尽きるが、確かに彼に大将たる力量がなかったというのもその通りであると思われる。将来の武家政権を企図して、それに沿った戦略を駆使している頼朝に対し、義経は単に目の前の敵に勝利することしか考えていない。また義経が先頭に立って戦ってしまうというのは、彼が部下達の手柄を横取りしてしまうことになり、それが配下の関東武士達の不満につながっていたことは容易に推察できるのだが、組織的考えのない義経にはそれは分からなかったのだろう。これは自身がプレーヤーとしても高い能力を持っているマネージャーが行いやすい失敗でもある。マネージャーは前線での手柄は部下にあげさせてやり、自身の手柄は部下に手柄をあげさせたことと考える必要があるのだが、そこのところの切り替えの出来ないマネージャーが往々にしているのである。義経は流転の生活を送っていたため、個人や小集団で活動することが多く、大軍を率いる発想がそもそもなかったのではないかと思われる。またいかに起死回生の策といっても、漕ぎ手を攻撃するというルール違反は、合理的思考よりも体面を重んじる当時の武士の反感を呼んだであろう事も想像に難くないところである(この時代の武士の戦いは多分に儀式的な部分があり、多くのルールがある。結局そのルールをそのまま馬鹿正直に守ったことで、後に第一回の蒙古襲来の際に鎌倉武士団は惨敗するのであるが。)。義経は天才戦術家ではあったが、戦略家ではなかったし、ましてや政治家ではなかったというところに尽きるだろう。
4/13 その時、歴史が動いた「武田家滅亡の謎〜戦国最強軍団はなぜ滅びたのか〜」
武田勝頼といえば、父・信玄の残した甲斐の国を守りきれず、武田家を滅ぼした愚将と一般的には考えられがちである。しかしそれは認識が間違っているというのが今回のテーマである。
1573年、信玄の急死により、四男の勝頼が武田家を継ぐことになる。しかしそれは最初から波乱を含んでいた。甲陽軍艦には「勝頼は信勝が十六になるまでの陣代とする」と記載されており、勝頼はそもそも代理とされていたというのである。これは勝頼の母が信玄によって滅ぼされた諏訪家の出身であり、勝頼は信玄の息子と言うよりは、諏訪家の者であり、信玄の家臣筋であったのである。当然ながら勝頼が武田家を率いることには重臣達には不安と不満が起こる。
一方、信玄は自分が死んだ後に3年は外征せずに国力を充実しろと言い残していた。しかし信玄が死んだと見た徳川家康や織田信長、上杉謙信の軍勢が武田家の領地に侵入してきており、それを見過ごすわけにもいかなくなっていた。勝頼は重臣達の反対を押し切って出兵する。平時にはゴタゴタ揉めても、合戦になると団結するのが武田軍団でもある。勝頼は信長の領地であった東美濃で一気に18カ所の砦を攻め落とす。
しかし織田方の最後の拠点である飯羽間城で戦線は硬直する。こうなると重臣達は戦の継続に反対するのだが、ここで積極攻勢を主張したのが新参者の家臣達だった。勝頼に忠誠を見せようとする彼らの意を汲んだ勝頼は、彼らを起用し、飯羽間城を落とすことに成功する。さらに1574年には遠江の拠点で、信玄も落とせなかった高天神城を落とし、勝頼は信玄の時代よりも領地を広げる。武田家の重臣達は積極攻勢に出すぎる勝頼を危ぶんだが、信長は「勝頼は油断ならぬ敵である」と評価していたという。
しかし1575年、家康が治める長篠城に進軍した武田軍は、鉄砲隊を中心に万全の準備を整えた織田・徳川連合軍四万の前に大敗し、1万人もの犠牲を出す。
大抵の歴史書ではここで武田家が事実上滅んだように書いてしまうのだが、実はこの後もしばらく武田家は持ちこたえているのである。そしてこれこそが勝頼が愚将ではなかった証明である。
敗北した勝頼は武田家の立て直しに取りかかる。まず彼が行ったのは軍備の近代化で、今までの槍などではなく鉄砲を重視するようにする。またそのための資金を調達するために、京にパイプを持つ有力商人を家臣に取り立てるなどの画期的政策を行う。この結果、武田家の実力もまた盛り返し始める。その頃、反信長連合軍に包囲されて窮地に陥っていた信長から、和睦の使者が送られてくるが、勝頼は武田家の名誉のためにこれを蹴る。
後顧の憂いを立つために北条氏との同盟を強化しようとした勝頼は、北条氏政の妹を妻に迎える。しかし勝頼の望みに反して北条家との同盟はすぐに崩壊してしまう。1578年、上杉家の家督争いが景勝と景虎との間で起こった時、北条氏政の弟である景虎を支援するべく勝頼は軍勢を出すが、その隙をついて家康が駿河に攻め込んで来たために武田軍が反転したところ、それがきっかけで景虎が殺されてしまうのである。これに北条氏政は激怒、逆に徳川方についてしまう。こうして勝頼は織田・徳川・北条に包囲されてしまうことになる。
包囲されて苦戦する勝頼の元に、高天神城が家康に包囲されて苦境に陥っているとの報が来る。一般的にはここで勝頼が援軍を送らなかったことが勝頼への家臣の信頼を失墜させ、武田家滅亡の原因になったとされている。しかしどうやらこれにも裏があるとの話である。
甲陽軍艦によると、この時、高天神城からは援軍を求める文書以外にもう一通の密書が送られてきていたというのである。それは「この戦況で勝頼が出陣する危険を冒すよりは、城を捨ててくれ」というものだったという。つまり城兵は援軍が来ないことを覚悟していたのだという。勝頼が援軍を送らなかったということになったのは実は信長の策略であり、この時、高天神城の城兵は家康に対して降伏を申し入れていたのだが、信長はあえてそれを認めさせず(この時代は城兵が降伏を申し入れたら受けるのが常識)、高天神城を玉砕させることで「勝頼が高天神城を見捨てた」ということにしたのだという。
信長の戦略は頭にあたり、武田家臣団は崩壊、勝頼は逃げ延びる最中に覚悟を決めて自刃する。なおこの時、彼は妻を実家の北条家に帰そうとしたが、彼女は「輿で送られても帰りません」と言って彼と最後を共にしたという。どの程度まで脚色があるのかは知らないが、戦略結婚で来た女性にそこまで言わせたのなら、やはり彼はただ者ではないと思うのだが。
結局のところ、勝頼が愚将でなかったのは間違いないのだが、彼の不幸は信長という希有な人物と戦う運命になってしまったことである。彼としては古い体質の武田家を必死で改革しようとしていたが、残念ながら間に合わなかったというのが実態なのだろう。実際、勝頼は愚将だったら、設楽ヶ原の敗北からすぐに武田家は滅んでいるところだが、その後7年間武田家を持たせたわけであるから、それなりの力量はあったのだろう。父親が偉大すぎた故の悲劇という側面もある。
歴史は常に勝者の側によって記録されるので、敗者の側は不当に低く評価されるのは常である。そういう例はあまたあるが、武田勝頼もその例の一つであろう(彼以外には、明智光秀、石田三成などもそうだと思う)。
4/6 その時、歴史が動いた「大帝国の野望、博多に散る〜大陸から見た蒙古襲来〜」
今まで何度か登場している蒙古襲来であるが、今回は大陸の側に視点をおいてこの事件を眺めてみることで、新しい知見を出そうと言うことらしい。なお冒頭から松平氏が「以前にも放送してますが、再放送ではありません」と強調しているのは、この番組が再放送が多いと言われていることを意識しているのだろうか。
1268年、モンゴル帝国から日本に国書が届く。この国書を見た朝廷は、モンゴルの軍事的脅威と判断し戦々恐々としたというのだが、実はこれが過剰反応だったという。モンゴルの資料によると、この時の国書は日本に平和的に国交樹立を呼びかけるものだったのだという。南宋攻略を進めていたモンゴルは、日本と対立するよりも手を組む方が得策だと考えていたのだという。しかし朝廷は国書に返答せず、蒙古退散の祈りをするだけだった(アホ)。
執権の北条時宗はモンゴルへの警戒を指示する。それは幕府は南宋から招いた僧侶を唯一の外交情報源にしていたからだという(つまり情報が最初から非常に偏っていたということだ)。結局、モンゴルの使者は何の返書も得られぬまま追い返される。クビライはこの無礼に戸惑い、落胆するが、何度も日本に対して使者を送る。しかし日本はこのモンゴルからの友好のメッセージには全く答えなかった。南宋の攻略を進めるモンゴルは5度目の使節を日本に送るが、これはもはや猶予がないことを示すかなり強い調子の文書だったという。しかし時宗はこれも無視する。ことここにいたり、クビライは兵を起こす必要性を感じ、高麗の軍船を日本に送り込む。これが文永の役である。この戦いは歴史にも残っている通り、日本軍は勝手の違う相手に戸惑い、惨敗。元は一日で博多を制圧してしまう。しかし最初から占領し続ける意図のなかった元は、一日で引き上げる。
日本に対して軍事力を誇示した元は、ここで再び日本に使者を送り出す。しかしクビライがその返答を待つ前に南宋が元に降伏、クビライは南宋の強大な艦隊を手に入れる。ここに至り、モンゴルは海洋帝国の夢を抱くことになる。
一方の日本では、権威の失墜を恐れる幕府が元との対立姿勢を強めていた。未だ勢力が盤石と言い難い鎌倉幕府としては、ここで弱腰を見せれば武士政権の崩壊につながりかねないと考えたのである。時宗は元からの使者を斬り、これを知ったクビライは日本総攻撃を命じる。
日本総攻撃に動員された兵力は文永の役の5倍に及んだ。資料によるとこの時の元の軍艦には農機具を携え人々も乗り込んでおり、日本占領後に植民する用意をしていたという。
しかし博多沿岸に到着した元軍(東路軍)は、日本の防衛網が一新されていることに戸惑う。沿岸には石による防塁が築かれ、日本は元のものよりも射程の長い弓で攻撃をかけてきた。元側も弓で応戦したが、揺れる船の上からでは狙いがつけられず(艦船の砲よりは、地上の砲の方が有利なのは現在でも常識)一旦撤退する。さらに沖合に逃げた元の船団に対し、日本側は小舟で乗り付けての奇襲攻撃をかける。東路軍は辛くも沖合に逃れて、ここで江南軍を待つが、江南軍は指揮官の交代などで混乱して予定日になっても到着しなかった。東路軍は3ヶ月間補給しておらず、食料不足や船の損傷で自滅寸前にまで陥る。結局、江南軍の到着は予定日よりも1ヶ月半も遅れる。そしてこの1ヶ月半が元軍に命取りになる。出撃しようとする元の艦隊を台風が襲い、7万の将兵が海の藻屑と消える。世界制覇を目指すクビライの野望は、その第一歩で費えるのである。
さて、今回のポイントは「大陸側から眺めてみることで新しい知見が出る」ということだったのだが、実際のところは特に新しい知見が出てきたように思えない。あえて言うなら、最初はモンゴルは日本に友好を求めてきたということであるが、そんなことは今までにも言われていたことである。確かに鎌倉幕府は世界情勢に対する疎さからつたない対応をしたが、ここで友好関係を築いたところでそのまま日本と元が一戦交えずに終わったかどうかは微妙なところである。また最初の元寇(文永の役)が元にとっては軍事力の誇示が目的であり、その目的を達成したから一日で引き上げたのであって、この時は台風で被害を受けたわけではないというのも最近では通説になっていることである。
新しい視点という割にはさして新しくなかったという企画倒れ的な感のあるのが今回である。歴史番組がネタ的にしんどくなっているのは分かるが(科学番組のように最新の研究で新事実が次々出るというものではないから)、せめて切り口はもう少し鋭く願いたい。
3/30 その時、歴史が動いた「恋・人生・そして小説〜樋口一葉 女性作家誕生の時〜」
この度5000円の肖像に採用された女流作家・樋口一葉。彼女が今回の主役である。
一葉は17歳の時、士族だった父が事業に失敗して借金を残したまま死亡、彼女は老いた母と妹を養う立場に追い込まれてしまう。当時は女性の仕事と言えばまともに金になるような仕事がなく、彼女はその当時流行し始めていた小説を書いて原稿料を得ることを思いつく。
彼女は当時新聞などに小説を連載していた作家の半井桃水の元を訪れ、小説の指導を依頼する。桃水は反対するが(男でも小説で食べていくことは難しいのに、女性はさらにハンデがある)、一葉の熱意に押されて指導を引き受ける。彼女は彼の指導の元、文体などの訓練を受ける(桃水によると彼女の最初の作品は「和文めかしき」とのこと。つまり昔の王朝文学的で流行小説としては文体が固いということだろう。)。
試行錯誤の末、彼女は「闇桜」を書き上げ、桃水から合格との評を得、桃水が創刊した文芸誌「武蔵野」に掲載される。この作品はありがちなストーリーであったが、桃水に恋愛感情を抱き始めていた一葉の心情が反映して、恋愛描写にリアリティがあったという。しかし文芸誌「武蔵野」は売れないまま廃刊になり、一葉には原稿料は全く入ってこなかった。しかも彼女は通っていた歌塾の師匠の中島歌子から、桃水が彼女のことを自分の妻として吹聴していると言われ、桃水と決別してしまう(この辺りが現代人には理解しがたいところだが、当時は結婚前の女性にそのような噂が立つということ自体が非常な屈辱だったという。)。
その後、一葉は職人を主人公にした小説「うもれ木」が知人のツテで文芸誌に掲載され、初めて原稿料を得るが、この後一葉の筆はさっぱり進まなくなってしまう。人間を深く描こうとすればするほど筆が進まなくなった。
これはいわゆる創作家につきもののスランプである。しかもこれは作家がさらにハイレベルの世界を目指そうとしたために陥るタイプのスランプ。これを突き抜けてさらに高い次元に突入するか、妥協して適当なところで手を打つかでその作家の後の評価が変わるのだが、当時生活に困窮していた一葉には極めて危険である。
結局、全く小説が書けなくなって生活に困窮した一葉は、下谷竜泉寺町に引っ越し、そこで小間物屋を始めるが、単価の安い小間物屋では生活は一向に楽にならなかった。しかも引っ越し後、それまで借金に応じてくれていた知り合いが金を貸してくれなくなり、生活は切迫していった(遊郭の近くであったということだから、いよいよ身を持ち崩したと見られたのだろう)。そして結局はその小間物屋も失敗、どん底の状態の中一葉は本号丸山福山町に引っ越す。その地域は酌婦と呼ばれる売春婦達が住んでいる地域であり、彼女はそこで酌婦達と知り合い、彼女たちの生活を知ることになる。
そして彼女がその酌婦をモデルにして描いた作品が「にごりえ」であった。これは大評判を呼び、一葉は一躍近代文学の旗手として注目される。その後、彼女は「たけくらべ」を執筆するが、結核のために24才で死亡する。
よく知られていることだが、一葉はあまりに若くして死亡したため、実質的には作品としては「にごりえ」と「たけくらべ」ぐらいしか残っていない。それにも関わらずこれだけ彼女が有名なのは、彼女の作品がいかにインパクトがあったかと言うことである。彼女は元々文才自体は持っていたのだが、やはり小説家としては世間のことを知らなすぎたのだろう。それがどん底の生活をすることで、世間の最底辺への人々の生活を知り、それが小説家として肥やしになったということである。創作家は基本的に人間を知らないと創作が出来ない(人間を知らない作家の書いた作品は、とにかく人物の描写や感情にリアリティがなくなる。最近のドラマの台本などがそれに近しい。)ので、こういうことはよくあることではある。まただから、小説で成功して大家と呼ばれるようになった作家は、その後の作品がどんどんと駄目になっていくこともある(要は有名になってしまったことで、世間の常識と乖離してしまうのだ)。一葉は早逝してしまったことで、そのような晩年の醜態をさらすこともなかったし、逆に「もし生きていたらどんな作品を描いただろう」という想像を抱かせることになって、伝説となったという側面はあるだろう。
ところで新紙幣であるが、1000円は野口英世。彼は偉人伝にあげられている人物ではあるが、実際はスポンサーに貢がせてはその金を散財していたということであり、偉い人というだけでなく「どえらい人」という側面もあることが知られている。5000円の樋口一葉は、今回のエピソードのように結局は貧窮の中で病死した。このラインナップを眺めていると、どう考えても日本の景気が良くなりそうには思えないのだが・・・。例えば紀伊国屋文左衛門とか、もう少しバブリーな人を肖像に出来なかったのだろうか(笑)。
3/2 その時、歴史が動いた「実朝暗殺〜歌人将軍は、なぜ殺されたか?〜」
鎌倉幕府の三代将軍・実朝の就任は鎌倉幕府内での権力争いの渦中であった。二代将軍の頼家は土地を巡る裁きが公平でないなどで鎌倉武士団から信頼を失い、反旗を翻した武士団によって伊豆に追放されてしまった。その後に新将軍として担ぎ上げられたのが12歳の実朝であった。しかし執権の北条時政(実朝の祖父に当たる)は若い妻にそそのかされて、伊豆に流されていた頼家を殺害、さらに彼女の娘婿を将軍にするために実朝の命を狙おうとする。その時に実朝を救ったのは時政の娘であり、実朝の母である北条政子であった。彼女は実朝を弟の北条義時の屋敷に保護する。鎌倉武士団は実朝の元に結集、時政の元に駆けつける者は一人もいなかった。これで時政は観念し、伊豆に流される。
実朝にとって転機となったのは、彼の和歌が藤原定家に認められ、朝廷との結びつきが出来たことである。和歌を通して古代の朝廷の政治を学んだ実朝は、古代の朝廷をモデルにして人民のための政治を行おうと志す。
しかしそのことに執権の北条義時以下の鎌倉武士団は警戒心を抱く、頼朝以来、鎌倉は常に朝廷と距離をおいて独立を保ってきた。実朝の朝廷への接近はその独立を危うくするものと感じられたのである。義時は実朝に忠誠を尽くす和田義盛を罠にかけ、反逆者として処分してしまい、実朝から軍事上の実権を奪う。
一方、自身の権力基盤の危うさを一層感じていた実朝は、朝廷内での官位を上げることで将軍の権威を上げようと画策する。そして実朝の要望に応えて朝廷側も実朝の官位を上げていく。しかしここで朝廷側には「官打ち」という分不相応に官位を上げて相手を滅ぼそうとする呪詛の意図があったことに実朝は気づいていなかった。
こうして実朝がより一層朝廷に接近することは、義時らの懸念をさらに増大させる。しかし実朝はさらに朝廷に接近をする。朝廷に接近を図る実朝が鎌倉武士の反発を呼び、鎌倉武士の反発が実朝に将軍の権威の向上を目指せる(その手段としては朝廷への接近)という悪循環に陥っていた。そしてついに実朝は右大臣に任命される。ここに来て鎌倉武士団は実朝が完全に朝廷に取り込まれたと判断する。
そして実朝の右大臣就任のための儀式の帰り道、儀式の行われた鶴岡八幡宮に潜んでいた公暁(頼家の息子)が実朝を暗殺する。公暁は結びつきの強かった三浦義村に自分が将軍になれるよう取りはからうようにとの手紙を送るが、義村はその書状を北条義時に提出、公暁討伐が決定され、公暁は三浦義村の兵によって殺される。結局これで源氏は滅びてしまうのである。
実朝の暗殺については、北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、朝廷黒幕説など種々の説が存在するが、今回の内容は鎌倉武士団による共同謀議説である。論旨としては通っており、あり得る話ではある。特にこの時代の将軍は、後の徳川幕府の将軍のような絶対的権力者ではなく、武士団の代表程度のニュアンスしかないから、彼等の利益に反すると考えられたら排除される可能性は大なのである。ただ私個人としては、共同謀議を行うには当時の鎌倉武士団の利害が完全に一致していたとは言い難いと感じることから、北条義時黒幕説を採っている。この考えの根底には「犯罪は常にそのことによって最も利益を得る者によってなされる」という原理が存在している。
どちらにしても、実朝という人物は政治家としてはあまりに現実感覚がなかったように思われる。最初から文人であればこのような不幸な目に遭わなかっただろうに、あたら将軍に担ぎ上げられたのが不幸だったようだ(兄の頼家がヘマをしなければ、彼も一生を歌人として送れた可能性があっただろうに・・・)。
2/23 その時、歴史が動いた「我が運命は民と共に〜悲劇の英雄 楠木正成の実像〜」
楠木正成と言えば、鎌倉幕府滅亡のときに後醍醐天皇方で戦い、その知略によって幕府軍を翻弄、建武の新政に対して大いに貢献するが、その後に挙兵した足利尊氏に湊川の戦いで敗れて自刃した武将である。天皇に忠誠を尽くした武士と言うことで、戦前に主に尊敬の対象にされていた。今回のテーマは「楠木正成の実像」と称しているが、それはつまり楠木正成はただ単に天皇に対する敬愛で挙兵したわけではなく、その背後には鎌倉幕府に反発を感じていた多くの民衆の意志があり、この民衆の意志が後醍醐天皇から離れた時に楠木正成自身もその生涯を終えたという意味である。
鎌倉幕府末期、時の執権の北条高時は闘犬にうつつを抜かして、全国から闘犬用の犬を献上させる(これがまた徳川綱吉時代の「お犬様」を彷彿とさせるのだが)など、幕府の指導力は衰退の一途をたどり、民衆も生活の困窮の中で苦しんでいた。そんな中、後醍醐天皇が政権を天皇に取り戻すべく挙兵、彼は反幕府勢力に協力を呼びかける。しかしまだ幕府の軍事力は強く、後醍醐天皇の元に参集する者はいなかった。そんな中、後醍醐天皇の元に駆けつけたのが楠木正成である。政重は河内赤坂城で挙兵、しかし兵はわずか500にすぎなかった。これに対して北条高時は数万の幕府軍を差し向ける。圧倒的な兵力差に油断し、赤坂城を一揉みにしようとした幕府軍であるが、これに対して正成軍はゲリラ戦法をとり、慣れないタイプの戦で幕府軍は数百の犠牲を出す。この時の正成軍に参加していたのは実は地侍などの民衆であり、彼らは正規軍とは違う団体戦が得意だった。
ここで幕府軍は城を取り巻いての兵糧攻めに作戦を切り替える。これには正成軍もなすすべもなく兵糧が尽きる。ここで正成は城に火を放つ、幕府軍は正成が自害したと見ていたのだが、実はこれは正成の撹乱戦術であり、彼はこの間に脱出していたのである。
行方不明になっていた正成は1年後、忽然と姿を現すと摂津の天王寺を占拠、京をうかがう姿勢を見せる。幕府はこれに対して幕府軍最強といわれていた宇都宮軍500騎を差し向ける。正成軍は2000、正成の部下達は夜討ちで一気に叩くことを提案するが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と言って、さっさと天王寺を引き払う。呆気なく天王寺を奪回した宇都宮軍だが、4日目の夜に信じられないことが起こる。数万ものたいまつが彼らを取り囲んでいたのである。正成の大軍に包囲されたと感じた宇都宮軍は激しく動揺する。しかし正成軍からの攻撃はない。これが毎晩続き、4日後、ついに耐えきれなくなった宇都宮軍は天王寺から撤退する。しかしこれは正成の心理戦であった。実は彼は5000人の農民にたいまつを持たせて数万の軍勢に見せていたのである。正成は民衆の間にネットワークを持っていたのである。
このネットワークがフルに活躍したのが千早城での戦いだった。千早城に立て籠もった正成に対し、幕府軍は8万の軍勢で包囲する。幕府軍は力攻めを避けて兵糧攻めを行うのだが、いつまで経っても千早城の兵糧は尽きなかった。実は正成は山伏などのルートを使い、密かに城内に兵糧を運び込んでいたのである。そして何と逆に包囲する幕府軍側の兵糧が尽きてしまう。幕府軍の背後では正成が仕掛けたゲリラ戦によって補給路が断たれてしまっていた。こうして幕府軍は櫛の刃がこぼれるように脱落者が出、ついには瓦解してしまう。幕府軍が正成に敗れたという報は全国に伝わり、足利尊氏らが幕府に対して反旗を翻し、ついに新田義貞が鎌倉幕府を滅亡させる。
こうして後醍醐天皇の建武の新政が始まったのだが、それは民衆が期待したものとは違っていた。後醍醐天皇は公家ばかりを優遇し、また急進的に改革を急ぎすぎた挙げ句に、民衆は今まで以上の重税にあえぐことになる。こうして民衆の心は後醍醐天皇から離れていく。また公家ばかりが友軍されることは武士にも不満を抱かせ、彼らの代表と言える足利尊氏がついに後醍醐天皇に反旗を翻す。正成は一度は尊氏を退けたものの、自軍の兵士までが九州に落ち延びていく尊氏を追っていったのを見て、後醍醐天皇に尊氏と和睦することを懇願する。しかし公家達はその必要を認めなかった(なんで貴族というのはいつの時代もこうも無能なのだろうか?)。そして九州で再び勢力を盛り返した尊氏は京を目指して進軍してくる。そして正成は負けることを承知で湊川の戦いに挑み、圧倒的に少数の兵で善戦するもついには自刃に至るのである。
今回の主題は「楠木正成の後ろには多くの民衆が控えていた」と言うことなのだが、はっきり言ってこれはかなり以前にも出てきたネタで、その時も千早城での戦いを上げて「山伏などの抜け道を使用していた」と解説していた。つまりネタ自体は既出であって、今更「楠木正成の実像」などと銘打つほどのネタでもない。この辺りが番組的に最もしんどいところである。
なお後醍醐天皇については、皇室の中ではかなり能力の高かった人であるようだが、所詮は貴族には民衆の心は分からなかったということか。民衆の支持を得たことで倒幕に成功したのに、その民衆を疎かにしたことで権力を失ってしまったわけである。これは貴族などと言われる連中の限界を示している。苦労知らずの二代目政治家などがろくな政治が出来ないことや、二代目の世襲社長が会社をつぶしてしまうパターンと一緒である。やはり生まれながらに上の立場にいた人間には、どうしても限界がある。せめて優秀な部下の直言を容れる度量があればまだ最悪の事態は免れるのだが、このような人間はどうしても「なぜいちいち下の立場の者の意見を聞く必要があるのか」という考えになりがちなので、それも難しいようである。
2/16 その時、歴史が動いた「日米攻防90日 国際軍縮を実現せよ!〜ワシントン会議・全権 加藤友三郎の挑戦〜」
第一次世界大戦後、世界平和を求める空気の中で、日米は太平洋でのにらみ合いを続け緊張が増していた。特にアメリカがハワイ・フィリピン・グアムなどの太平洋方面の海軍基地を強化して、日本を包囲するような形になっていたことは、日本の警戒心を高めていた。
そんな中、第一次世界大戦での犠牲の大きさに欧米から軍縮を求める世論が盛り上がり、米・英・仏・日など9カ国が参加しての軍縮会議がワシントンで行われることになる。日本がこの会議に全権として送り込んだのが海軍大臣であった加藤友三郎である。軍人である加藤を全権として送り込むことには、国内外からの反発があったが、それに反して加藤には別の思惑があった。彼は日本の不況の現状を把握しており、現在の状態で軍拡を続けるのは無理であると考えていたのである。彼は軍縮によって軍事による財政圧迫を避けることを目論んでいたのである。しかし海軍内の強硬派はアメリカを警戒しており、主力艦保有対米7割が最低でも必要な線であると主張していた。
そうして1921年11月12日に軍縮会議の第一回総会が開催される。ここでアメリカ全権のヒューズが軍縮案を提案する。それは各国が現在進行中の主力艦建造計画をすべて放棄すること、今後10年主力艦の建造を行わないこと、米・英・日の主力艦比を10:10:6にすることというものであった。この提案に議場からは拍手が沸き上がる。アメリカは国際世論を背景にして日本に圧力をかけようとの意図を持っていた。
しかしこれは日本にはとても飲めない案だった。まず軍部は対米7割を主張していたし、この案に従うと現在建造中の新鋭戦艦「陸奥」の廃棄をすることになり、これは海軍を激高させる。これに対してアメリカは会議直前に戦艦「メリーランド」を大急ぎで完成させていた(この辺りのせこさは、この国は今も昔も変わらないなと妙な感慨を抱かせる)。しかし軍縮を成功させることが重要であると考える加藤は、イギリスの反応を見ることにする。大幅な軍縮を迫られることになるイギリスもこの案に反発するはずと見ていたのだ。しかし彼の意に反してイギリスはこの案に賛成する。第一次大戦で保有艦艇の半数を失ったイギリスには、もはやかつての海軍力を維持する力がなく(大英帝国の崩壊が既に始まっていたことを示す事実である)、既にアメリカと同調することで話が出来上がっていたのである。窮地に追い込まれる加藤。しかし彼は会議の席上でアメリカの提案に賛成する用意があるとの発言をし、各国の喝采を受ける。国際的孤立を避けた上で、受け入れ条件については別途交渉するとしたわけである。加藤のこの発言はアメリカでも高く評価を受ける。
しかしこれは海軍の強硬派を激怒させることになる。挙げ句が会議に随行した強硬派の随行員の一人が「対英米7割が認められなければ日本は会議を離脱する」と発言するなどに至り(明らかに分を超えた発言であり、本来なら厳罰ものだと思うのだが)、加藤の意図は頓挫する危険に直面する。
加藤はここで日露戦争の戦友である海軍元帥・東郷平八郎に働きかけるという最終手段に出る。東郷は加藤の「軍事力だけでは国を守れない」という意図を察し、強硬派の幹部に対して「責任ある大臣が6割で良しと思うなら、大臣の言う通りでよろしい」と発言、これで海軍内の反対派は沈黙する(日露戦争の大殊勲者であり、後には軍神にまでなる東郷にこう言われると、誰も反発できなかったのだろう。軍隊というところの権威主義的姿勢を痛感させることではある。)。
対米6割受諾可の切り札を得た加藤は、ここでアメリカに対して最後の交渉を持ちかける。彼は対米6割を受け入れることを隠した上で、陸奥の建造を認めることと、アメリカがフィリピンなどの基地の拡張を凍結することを提案したのである。自国が主催する会議をまとめたいアメリカはこれを受諾、こうして1922年、歴史的な軍縮条約が締結されるのである。
条約締結のための外向的駆け引きストーリーである。似たようなエピソードは以前にも日露戦争の講和条約の話が出てきた。ただ、いわゆる交渉術の実践例としては面白いかも知れないが、番組的には地味にすぎ退屈になる感は否めない。
なお加藤はこの条約が恒久平和を約束するものでないことを見抜いていたというが(考えれば当たり前のことである)、やがて日米は太平洋で衝突することになる。ただそれでもこの条約はしばらくは有効に機能したのは事実ではある。悲しいかな人類は未だに恒久平和などというものを実現したことはない。大きな戦争の直後にはしばらくは民衆の間に反戦意識が盛り上がるのだが、しばらくするとその意識が薄れてきて、そのうちに戦争で得をする連中が暗躍を始め、やがては多くの国民が戦争に巻き込まれてしまうという繰り返しなのである。今の日本がまさにその状態で、既に国民は戦争経験世代の減少で戦争の現実が伝わらなくなり(これは政府が意図的にそう誘導してもいるが)、その挙げ句に戦争で儲かる連中が、過去の戦争を賛美したり、侵略戦争を国際貢献にすり替えるなどで再び日本を戦争に巻き込もうとしているわけである。歴史を見ていると、この辺りが嫌と言うほど見えてくるのが辛い(だから政府は正しい歴史は勉強させたがらないわけであるが)。
2/9 その時、歴史が動いた「プロ野球を変えたホームラン〜展覧試合 オーナーたちの戦い〜」
戦後、野球が市民の娯楽として人気を博し始めていた。GHQも日本の占領政策をスムーズに進行させるために、アメリカのスポーツである野球を後押ししていた。GHQ経済科学局長のマーカット少将はアメリカ式の二リーグ制が野球の人気を確立すると見て、読売巨人軍の正力松太郎に旗振り役を命じる。しかし当時民政局から公職追放処分を受けていた正力は、自分の代わりに動ける人物として大映スターズの若きオーナー・永田雅一に白羽の矢を立てる。撮影所のの案内係から社長ののし上がった風雲児であり、「だっぱ」と呼ばれて人を動かすのがうまかった永田は、積極的に動き始める。こうして彼は読売新聞の競争相手である毎日新聞など名だたる企業を野球に参入させ、二リーグ制を実現する。
二リーグ制になったプロ野球では、セリーグでは正力が新興メディアでテレビを利用して巨人のPRを行い、パリーグでは永田が当時絶頂であった映画の力を利用してPRを行い、両リーグは人気を二分していた。
1959年、天皇が野球に興味を示したという話を聞いた正力は、天皇を巨人戦に招くことを考え、宮内庁に打診をする。しかし宮内庁側は「球界の総意でないと動けない」と返答をしたことから、正力はパリーグに内緒で調整を始める。しかしその動きはやがて永田に知れる。天皇が一般大衆に与える心理的影響の大きさを知っていた永田は、天皇をパリーグに招くために動き始める。こうして両者の綱引きが起こる中、宮内庁の決定がなされたのは試合の6日前だった。結果を知った永田は「お上がプロ野球をご覧になるのは、球界にとって名誉なことだ。ゴタゴタを起こすわけにはいかない。」と語ったという。
こうして天覧試合が開催される。試合は接戦のまま、最終回に長島が村山からサヨナラホームランを打つ(ちなみに村山は死ぬまで「あれはファールだった」と語っていたらしいが)。この後、巨人の人気が沸騰し「巨人・大鵬・玉子焼き」と言われる時代が来る。
プロ野球再編でゴタゴタがあった直後だから扱ったテーマなのだろう。ゲストのスポーツライターの玉木正之氏が「この後、巨人の人気だけが突出するというプロ野球界にとっては歪な問題が発生したのだが、その問題点を長島という傑出したスターの光が隠してしまった」と言っていたが、それは全く同感。皮肉なことにこの天覧試合が後のプロ野球界衰退の一つの原因にもつながったわけである。実際、この後のプロ野球は、巨人の独走と、巨人さえよければそれでよいという渡辺オーナーなどの独善の結果、かつてのファンにそっぽを向かれることになる。
ところで、正直なところ今回のテーマは「どこが歴史なのか?」。司会の松平アナ(根っからの巨人ファン)だけは昔を懐かしんで楽しんでいた風だったが、私には個人的には面白くないテーマだった。まあプロジェクトXで扱うには生々しすぎるテーマだし、かと言って他に適当な番組もないしと言うことでこの番組で扱ったんだろうが、歴史番組としてはテーマがせこすぎてつまらないというのが私の感想である。ネタが苦しいのは分かるが・・・。
2/2 その時、歴史が動いた「龍馬が愛した女〜幕末、愛と別れの物語〜」
幕末の志士・坂本龍馬には妻がいたのだが、そのお龍の話である。
龍馬がお龍と出会ったのは、彼が京都で定宿にしていた寺田屋でのことで、お龍はそこで働いていたのだという。お龍はそもそもは京都で医師の娘として生まれたのだが、父が亡くなって貧しくなり、寺田屋に働きに来ていたのだという。龍馬はお龍のことを故郷に「面白き女」と手紙で書いているとのこと。実際、彼女は炊事などは全くダメで、お茶やお花などには長けていたという(育ちが良かったわけだろう)。そして龍馬がもっとも彼女に惹かれたのはその気っぷの良さだという。
龍馬は日本を変えるために薩摩と長州に手を組ませるために奔走し、それを実現するが、その直後にお龍は龍馬の命を救ったことがある。それは寺田屋が幕府側の捕り手に包囲された時、いち早くその異変に気づいたお龍が、直ちに龍馬に急を告げ、おかげで龍馬は脱出に成功したという。薩摩屋敷に保護された龍馬は、お龍と結婚し、西郷隆盛などの勧めもあって幕府の目を逃れるためにお龍をつれて九州に出向く。そこで龍馬とお龍は日本で初のハネムーンを行ったと言われている。この時の様子を故郷に書き送った龍馬の手紙は残っており、文面から見るとかなり「はじけている」とのこと。
しかし二人の幸福は続かなかった。龍馬は再び京都に戻り、大政奉還のために奔走するが、その直後の慶応3年11月15日に京の近江屋で刺客に襲われ、新時代の到来を見ることなくこの世を去る。なお龍馬の暗殺については、幕府の手の者によるという説や、薩摩の中で武力での倒幕を目指す勢力によるものという説などがあるが、未だに真相は明らかではないという。ちなみに私は後者の薩摩説を採っている。西郷隆盛などを中心として、当時の薩摩の中には武力倒幕派が台頭しており、平和裏に政権移譲することを狙って画策していた龍馬は今や目の上のたんこぶであったのではないかと考えられる。よって、邪魔になった龍馬を暗殺した考えられる。実際、この時点で大政奉還が行われており、龍馬の暗殺が幕府方の者によるとするなら、それにはもはや単なる意趣返しぐらいの意味しかなくなってしまうからである。
なお龍馬の死後にお龍は龍馬の故郷の土佐に行ったが、そこでは邪魔者扱いされたことから、彼女は1年後に京都に移っているが、生活が成り立たず龍馬の縁者などを頼って転々とし、その後露天商の男と結婚したとのこと。お龍がかつての龍馬について語り始めたのはかなり後のことで、彼女の墓には彼女の夫によって「龍馬の妻」と墓碑が刻まれているという(彼女の夫もかなり複雑な心情の男に思われてならないが)。
今まで散々にやりつくされている龍馬のエピソードを視点を変えての描き直しだが、はっきり言って新しい知見は何もない。それどころか龍馬のハネムーンのエピソードは以前にも出ており、視点が変わったという気さえしない。さすがにネタ的にこれはかなりキツイ。同じネタを扱ってはいけないということはないが、どこかで見たことがあるような内容ばかりでは面白味に著しく欠ける。
1/26 その時、歴史が動いた「日露戦争100年 日本海海戦〜参謀 秋山真之・知られざる苦闘〜」
この番組の第一回が日本海海戦であったが、今回はその同じテーマを参謀の秋山真之に焦点を当てて焼き直している。
日清戦争後、日露戦争に至るまでの期間は、海軍の技術が劇的に変化した時期である。大砲の射程距離や破壊力が飛躍的に向上し、船舶の装甲は大幅に強化され、船舶の推進力も強化されて速度が増していた。そのような装備の変化に伴って新たな戦略の構築が必要とされていた。
日本はアジアでの権益を巡ってロシアと戦うことになったが、当時の日本の海軍力はロシアの1/3にすぎなかった。このような状況下で参謀に起用されたのが若冠30代であった秋山真之であった。彼は「知謀湧くがごとし」と評された俊英で、物事のポイントを捉える能力に秀でていたという。
秋山は村上水軍の兵法書から集中攻撃による各個撃破の考え方を、まあアメリカ軍とスペイン軍が戦ったサンチャゴ会戦から、各司令官が作戦の目的を完全に理解した上で独自の対応を行えることが重要であるということを学び、日本の海軍の革新に取り組んでいた。
東郷に参謀として起用された秋山が考えついた戦法は丁字戦法であった。これは艦隊で敵艦隊の前方を遮断しながら、敵の先頭艦に集中攻撃を浴びせていくというものであった。秋山は早速この戦法を、ロシアの旅順艦隊との黄海海戦で実践しようとするが、この時はロシア艦隊が直前で回頭して逃走を図ったことから、丁字戦法は不発に終わる。その後、ロシア艦の機関の故障によって追いついた日本艦隊は、幸いにして旅順艦隊に壊滅的打撃を与えることに成功したが、もしここで旅順艦隊を取り逃がしていれば日本にとっては旅順艦隊とバルチック艦隊に挟み撃ちにされて殲滅される危険があった。秋山は実戦では机上の作戦と異なる事態が起こり得ることを知り愕然とする。
やがてロシア・バルチック艦隊が現れ、日本艦隊との先頭になる。秋山は水雷艇の攻撃と主力艦の砲撃を組み合わせた波状攻撃を立案していたが、会戦当日は波高が高く、水雷艇による攻撃は不可能であり、主力艦での砲撃で挑まざるを得なくなる。ここで秋山が繰り出したのが改良した丁字戦法だった。かつて黄海海戦での教訓から、敵を逃がさないように直前での回頭を取り入れていた。これは回頭時に逆にこちら側が集中攻撃を受ける危険のある策だったが、東郷はこれを採用する。
そして開戦、秋山の作戦は功を奏し、バルチック艦隊の1番艦と2番艦に決定的ダメージを与えることに成功する。しかしここで3番艦が予想もしなかった転舵を行い逃亡を図る。秋山は急遽反転し、それを阻止しようとするが、それを見たバルチック艦隊は再度転舵、旋回を終了した第1戦隊はそれにすぐには対応できず、バルチック艦隊を逃亡させる危険に陥る。しかしここで第2戦隊は独自の判断によって第1戦隊に追随せず、ロシア艦隊の前方を塞ぐ行動に出る。結果的にこの独自の判断が奏功しバルチック艦隊の撃破に成功する。秋山が考えていた各司令官が作戦の目的を完全に理解した上で独自対応を行うという方針の勝利でもあった。
内容的に第1回の焼き直しであったが、秋山に焦点を当てたことで作戦面をよりクローズアップしたことになるので、戦略マニアにはより楽しめる内容になっていたようである。この海戦での日本海軍の勝利は、進化した装備をどれだけ有効に使いこなせたかということが大きい。当時の日本の艦船とロシアの艦船を比較した場合、火力ではロシア側が勝っており、日本側が勝っているのは機動力においてであった。秋山は火力の不備を一点集中攻撃による各個撃破で補い、機動力の優位を艦隊の練度の向上によってより決定的なものにして戦闘に挑み、機動力と艦隊運動の正確さがすべてを決める丁字戦法で勝利したわけである。そこには彼我の戦力を十分に分析した上で、万全の準備を持って挑むという姿勢がそこにはあった。しかしこの後の日本軍は無意味な精神主義に陥り、この基本のところがだんだんと疎かになる。その結果が無謀な第二次大戦への突入と惨敗につながるわけである。また秋山の「各司令官が作戦の目的を完全に理解した上で独自対応を行う」という考えも、皮肉なことに現場の暴走による作戦計画の不徹底ということに結びついた。そういう点では、日露戦争ではあれだけ機能的に働いた日本軍が、太平洋戦争ではなぜかくも無惨で無能な結果に陥ったのかというテーマは、組織論的には面白いのではないかと感じた(権威主義や官僚主義の蔓延が背景にあるのは間違いない)。
1/12 その時、歴史が動いた「百世の安堵をはかれ〜安政大地震・奇跡の復興劇〜」
江戸時代末期、1854年(安政元年)11月5日、和歌山沖を震源地とするマグニチュード8.4の大地震が発生した。これが安政南海地震である。この時、和歌山の海沿いの村・紀州広村の商人・濱口梧陵は、津波の発生を予期し、村人に高台の八幡神社に避難するように呼びかける。さらに津波の第一波が襲来後、逃げ遅れて暗闇の中でパニックになる村人達を救うため、津波の第二波が襲来する危険を冒して高台を下り、周囲の稲藁に火を付けて村人達に避難方向の指示を出した。梧陵の活躍によって村人の97%が助かることが出来たのである。
しかし村人の苦労はそれからだった。村は壊滅状態で、避難先の寒さに命を落とすものが続出した。梧陵は紀州藩に支援を頼むが、財政が危機的状態にあった紀州藩はそれを無視する(災害時にお上は庶民のことなど助けないのは、今も昔も同じようである)。先行きに対する絶望と津波に対する恐怖から村を離れる村人が出始め、村は消滅の危機に直面する。そこで江戸と銚子で醤油屋を営んでいた梧陵は、私財を投じて村民のための仮小屋(いわゆる仮設住宅)を建設し、農具などを提供する。しかし津波に怯える村人達は希望も気力も持てずにいた。
村人に希望を与えるため、梧陵はさらに私財を投じて巨大な堤防を建設することを計画する。工事には村人を動員して、彼らに賃金を与えた。こうして村人は初めて将来に対する希望を持ち始める(防災事業と失業対策の両面政策ですな)。
しかし一年後、今度は江戸でマグニチュード6.9の直下型地震(安政江戸地震)が発生、梧陵の江戸の醤油屋が壊滅的な被害を受ける。梧陵は江戸に向かうが、店の被害はあまりに甚大で、番頭は梧陵に堤防建設への支援を取りやめないとこのままでは店がつぶれてしまうと訴える。既にこの時点で梧陵の送った支援は総資産の2割を占めるまでになっていたのだ。危機に直面した梧陵は悩む。しかし堤防に期待する村人達からの手紙を見て、支援の継続を決意する。彼の決意を知った職人達は奮起、店員全体が一丸となって銚子の醤油屋は過去最高の生産量を上げる。
こうして1858年、全長900メートル、高さ4.5メートルの広村堤防が完成する。この堤防は後に昭和南海地震の際、この地の津波被害を防ぐ働きをした。
インド洋大津波があった直後で、あまりにタイムリーな内容。最初はこの津波を受けて急遽編成したのかと思ったが、日数的に考えてそれは難しいだろうから、多分阪神大震災10周年に合わせて編成したらたまたま津波が起こってしまったのだろう。
私財をなげうって地元のために尽くした人物の物語である。彼は商人であったわけだが、単に金儲けしか考えないようなタイプの人間とは違ったということか。彼は後に和歌山県議会の初代議長に就任したとのことだが、これだけの大事業を行った人物なら当然であろう。このような人物こそまさに「地元に貢献する政治家」であって、現在のように国から税金を分捕ってきて、それをまるで自分の金であるかのように選挙区にばらまいた挙げ句、その一部をふところに入れるような政治家は、地元に貢献しているのではなく単なる税金泥棒である。昔はこのようなタイプの政治家がいたから、政治家になったら身上をつぶす(井戸と塀しか残らないという意味で「井戸塀政治家」という言葉もある)と言われたものだが、現在は政治家になったらお屋敷が建つようだ。いかに多くの金を自らの懐に突っ込んでいるかがうかがえる。
なおこの時に彼が作った堤防は、時期と規模から見ても世界最初で最大のものであったとのことであり、この頃から日本の津波対策技術は世界最先端を言っていたと言えるようだ。
12/8 その時、歴史が動いた「ミステリー大化改新〜蘇我入鹿暗殺の実像〜」
古代史の謎として未だに明らかでない部分が多い大化改新であるが、今回は大化改新には実は黒幕が存在したとの説である。
大化改新については日本書紀に記述があるのだが、一般的には天皇をないがしろにしようとした蘇我入鹿を、天皇親政を目指す中大兄皇子が暗殺したとされている。しかしまず蘇我入鹿には天皇に取って代わる意図はなかったというのである。
まず蘇我入鹿が天皇に取って代わることを狙っていたという証拠としてあげられる山背大兄王(聖徳太子の息子で、当時の時期天皇の最有力候補)襲撃事件であるが、これは飛鳥京を作ることにこだわっていた皇極天皇が、斑鳩を拠点にする山背大兄王がそれに対する抵抗勢力になっていたことから邪魔になり、蘇我入鹿に命じて殺害させたのだという。実際にこの時、皇極天皇は蘇我入鹿を罰することなく、古人皇子を次期天皇候補として据えているという。
しかしこのことによって皇極天皇の弟である軽皇子に不満が高まった。そしてこの軽皇子に近づいたのが中臣鎌足であったという。中臣氏は代々神事に携わっていたが、蘇我氏の仏教重視政策により要職から退けられており、蘇我氏に対する恨みは深かった。彼はさらに中大兄皇子にも接近すると共に、蘇我倉山田石川麻呂にも接近し、蘇我の一族にまで食い込む。さらに彼が暗殺の共犯として声をかけたのが、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田であった。これらの人物は実は中大兄皇子以外はすべて河内和泉地区の豪族であり、地縁を持っていたという。つまり蘇我入鹿暗殺の中心にいたのは中大兄皇子ではなく、軽皇子であったのだという。
さらに話はこれで終わらない。実は蘇我入鹿暗殺の背景には皇極天皇自身も関与していたというのが今回の説である。当時の人民は豪族達に支配されており、皇極天皇といえども蘇我入鹿など豪族達の同意がなければ人民を徴発することが出来なかった。皇極天皇自身は飛鳥京建設に固執していたが、蘇我入鹿はそれに対して熱心ではなく、そこに軽皇子が公地公民制の改革の構想を持って話を持ちかけたのだという。この改革がなれば天皇が自ら人民を動員しての都の建設が可能になるということで、皇極天皇がこれに乗ったのだという。
唐突に大化改新が出てきたからどうしたのかと思えば、どうやら新年に大化改新をテーマにした歴史ドラマがあるので、それに連携した宣伝企画だったようだ。どうも昨今のNHKはこの手の内部宣伝企画がやたらに多いのが気になるところ。
ところで大化改新なのだが、実はこの存在自体に疑問を投げかける説もある。と言うのも番組中でも触れていたように大化改新は日本書紀にしか記述がなく、日本書紀自体がその内容の信憑性にかなり疑問のある部分も多いことから、当時の他の資料などとつき合わせた場合、矛盾も多々あるのだという。そのことから大化改新自体が存在しなかったという説もある。
それはともかくとして、私個人としては「中臣鎌足首謀説」である。結局はこのクーデターは、権勢を誇っていた蘇我氏と、それをけ落とそうとした策士・中臣鎌足の権力抗争だったように思われるのである。実際、この後の日本は天皇親政と言うよりも藤原氏の時代に最終的には落ちていくわけであり、天皇家はそれに巻き込まれたという考えである。中大兄皇子は単なる旗頭にすぎず、あくまで主導権は中臣鎌足が握っていたのではないか。
11/24 その時、歴史が動いた「ニッポンに学べ!タイの"明治維新"〜「王様と私」・ラーマ5世の苦闘〜」
映画「王様と私」のモデルになったタイ国王・ラーマ4世及び、その息子のラーマ5世の時代はタイにとって独立を維持するための苦闘の期間であったという。ちょうど時期は日本の幕末と重なり、日本とタイの両国はある点で非常に類似した経緯をたどる。
1855年、欧米列強がアジアに対して領土的野心を露骨に示しながら進出してきた時期である。この時期、日本では幕府が不平等条約を締結させられて、それが幕府滅亡の一因になるが、タイにおいてもやはりラーマ4世がイギリスとの不平等条約を強いられていた。ラーマ4世はイギリスとの不平等条約に甘んじながらも、タイを近代化する必要性を痛感していた。しかし1868年にラーマ4世は64歳で死亡、後をついだのチュラロンコン王子は15歳でラーマ5世として即位する。奇しくもこの時、日本では明治天皇が16歳で権力の座に就いていた。
見聞を広げるため、イギリスの植民地になっていたアジア各地を訪問したラーマ5世は、イギリスの国力に驚嘆すると共にタイの近代化の必要性を痛感する。これがこの後の彼の政治の基本方針となる。
成人した彼は、自ら国王としての指導力を発揮して改革に乗り出す。まず国政参議会を設立し、国王中心の集団合議制を敷いた上で、国税改革に乗り出す。当時のタイの徴税システムは、徴税請負人が自ら税率を決めており、国家には税の一部しか入らず、多くは有力貴族に流れていたのである。しかしこれを改革することは当然ながら有力貴族の反発を呼んだ。特に摂政であったシースリヤウォンら側近の抵抗が強く、改革は一時頓挫する。
しかし彼が30歳の時、改革の追い風となる事態が発生した。抵抗勢力の中心であったシースリヤウォンが死んだのである。彼は当時急激に勃興しつつあった日本を参考に、西洋列強から外国人を雇いい入れて諸制度の改革に乗り出す。その中には日本人の政尾籐吉の存在もあったという。この時、養蚕業や女性教育などが日本から導入されている。またこの腐敗が進行していた仏教も王の権威の元で再編成する。
しかし欧米列強との関係に問題があった。当時のタイはまだ不平等条約を撤廃できていなかったし、フランスやイギリスが領土的野心を剥き出しにしてタイを侵食しようとしていた。タイはかねてより朝貢国であったラオスをフランスに渡すと共に、さらに西カンボジアも割譲する妥協によってフランスとの問題を解決し、さらにイギリスに対してはスズの産地であったマレー半島を割譲して鉄道の建設資金を求めると共に、不平等条約の改正も行った。こう書くと、タイは一方的に領土を割譲させられたように見えるが、フランスへの領土割譲は移民問題の解決も含んでいたし、イギリスへの領土割譲はイスラム教徒の問題を回避するためであり、タイにとって必ずしも一方的に不利なだけの条件ではなかったようである。
こうしてかつて領土は縮小したものの、外交交渉によって独立を守りきったラーマ5世は、今日でもチェラロンコン大王としてタイ人に尊敬されているという。日本は富国強兵の道で列強と対抗する方法を選んだが、タイはまた異なる解決法を目指したと言うことだという。
当時に非常に似た環境にあったタイと日本を対照的に描いた面白い内容である。この当時の欧米の野蛮さはかなりのものであったから(今でもその本質は大して変わってはいないが)、その欧米と対等に渡り合っていくのはかなりの苦労があったであろう。現に弱みを見せてしまった中国はこの時散々に食い物にされてしまっているのであるから、タイにとっても独立を維持するのは至上命題であったろうことは想像に難くない。
さて結局のところ、タイのやり方と日本のやり方とでどちらが正しかったのは難しかったところだ。両者を比較するなら、日本は脱亜入欧で欧米列強のやり方を真似しようとした結果、最終的には中国に対する進出合戦に乗り出すことになり、その権益が衝突した結果、第二次大戦で国家滅亡の寸前にまで追い込まれてしまう。これに対してタイはあくまでアジア的なやり方で、領土を大幅に失うことにはなったが、欧米とまともに戦争をすることはなしになんとか独立を維持することは出来た。結局のところ、日本にかけていたのはしたたかな外交交渉であって、それは未だに変わっていないようである(アメリカ追従ばかりやっているうちに、世界中で孤立の危機に瀕しているのだがら、つくづく外交がダメな国である我が国は)。
11/17 その時、歴史が動いた「サムライ魂でデパートを創れ!〜近代百貨店誕生物語〜」
以前にあんパンの回で「和魂洋才」という言葉が出てきたが、今回のキーワードは「士魂商才」というものらしい。武士の精神で商いを行う。つまり儲けのみを重視するのではなく、義を重んじるという意味の言葉らしい。今回の主人公である日比翁助が師と仰ぐ福沢諭吉の言葉だそうな。だから今回の内容には企業メセナの走りのようなエピソードも登場する。もっとも「武士の魂で商売を」と言えば、私には「武家の商法」とか「大名商法」という言葉の方がちらついて、あまり良い印象がないのが事実だが(笑)。
明治時代半ば、急速に近代化が進む日本の中で、未だに立ち後れていたのが商業であった。三井呉服店などでも江戸時代と変わらないような旧態依然とした商売が行われており、大名の没落などで今までの顧客を失った上、貸付金の踏み倒しなどで経営危機に陥っていた。母体の三井家も危機感を感じて人材を送り込んでの改革を行うが、旧来の番頭などの反対で難航していた。ここに送り込まれたのが、氏族出身の銀行員であった日比翁助である。
彼はそれまでの「座売り」と言われていた奉公人が倉から一つずつ商品を出して客に示す方法を廃し、西洋式の陳列販売を導入することを考える。そのために彼は、従業員による運動会を開催したり、客へのサービスの徹底を指示するなどして、まず風土の改革から乗り出す。そして明治33年、三井呉服店は陳列販売を開始する。
三井の陳列販売は大評判を呼び、手応えを感じた日比は、呉服店を近代的な新店舗に立て替える案を母体の三井に諮る。しかし当時重工業化が進展する中で、三井は事業を銀行・商社・鉱山に集約することを考えており、日比の提案は否決されたばかりか、呉服店が本体から切り離されることまで通達される。
三井の本体から切り離されたことで、従業員にも不安が高まり、日比への批判も強くなってくる。そんな中、日比は生き残りのためには近代的なデパートに切り替えるしかないと考える。日比は従業員に対して持ち株制と能力給の導入、純益の3割を賞与に充てるといった待遇改善策を提案した後、デパートの視察のために欧米に出かける。彼はロンドンの老舗デパート・ハロッズに通い、ハロッズの支配人と面談するなどしてデパート経営のノウハウを取得して帰国する。
明治41年、日比は東京の日本橋に木造3階建ての仮店舗を開店する。仮店舗というものの、今までの呉服店のイメージを一新する斬新な設計(大型ショーウィンドウや吹き抜けを採用していた)などで評判を呼ぶ。また彼は文化事業による社会貢献を目指し、児童博覧会の企画を行い、少年音楽隊を結成するなどの事業に乗り出す。そしてこの児童博覧会も大好評を博す。
ここで日比はいよいよ鉄筋5階建ての近代的デパートの建設に乗り出す。しかしここで思わぬ非難が生じる。日露戦争後の不況で多くの人があえぐ中でデパート三昧の贅沢を奨励することがけしからんとの批判である。日比はこの思わぬ批判にショックを受け、神経衰弱状態になって現場を離れざるを得なくなる。
しかし大正2年、不況がさらに深刻化する中、日比は病床の中で第5回児童博覧会を企画する。非難を受けるのではと警戒されたが、予想に反して大好評を博す。不況の中でも人々は娯楽や文化を求めていたのである。これに意を強めた日比は、ついに大正3年、日本初の近代的百貨店を開店する。多くの客が押しかける。日比の理想が実現した瞬間だった。
日本初のデパート設立物語だが、こうして見てみると「デパートって、そもそもは理念を持っていたのか」と感心することしきり。昨今はデパートの低迷が言われて久しいが、このような理念が消えてしまったことが大きいのではと思う次第である。最近つぶれたそごうの水島会長などを見ていると、とても金儲け以外の理念があったとは思いにくい。単なる物を売るだけの店舗なら、郊外のディスカウントストアに勝てないのも道理である。昨今のデパートにおいては、デパート展なる美術展がたまに行われるところにかつての理念の片鱗がうかがえる程度である。
さらに娯楽の多様化というのも大きいだろう。映画館が急速に衰えたのと同じである。私が子供の頃などには、日曜日にはデパートで買い物をして、最上階の大食堂で食事をするというのが、子供にとってもうれしいパターンであったのだが、今時の贅沢に慣れた子供はそんなことでは喜びもしないだろう。まさに時代は変わりけりといったところか。
11/10 その時、歴史が動いた「秘録・幻の明治新政府〜維新を変えた激動の27日間〜」
幕府軍と薩長軍が正面から衝突した鳥羽伏見の戦い。この戦いの雌雄を決したのは、薩長軍に錦の御旗が掲げられた時である。自分たちが朝敵となってしまったことに動揺した幕府軍は動揺し、敗走に転じる。しかしこの直前まで、実は徳川慶喜も加わった新政府の構想が進んでいたのだという。
慶喜も加えた新政府の構想を進めていた中心人物は越前藩主の松平春嶽であった。これに対して大久保利通や西郷隆盛は幕府を完全に排除することを主張しており、両者は激しく対立していた。
王政復古のクーデター直後、新政府は慶喜の官位の降格と領土の返上を要求し、これに応じるなら慶喜の新政府への参加を認めるとした。その使者として送られたのが松平春嶽であり、彼はこの交渉をまとめて慶喜の政権参加を実現しようとしていた。慶喜自身はこの要求に応じるつもりだったようだが、幕臣連中が猛反対し、御所を取り囲んでいた薩摩軍に攻撃をかけかねない勢いになってしまう。そこで慶喜は一旦軍勢を大阪に引き上げる。
しかし幕府軍が大阪に引き上げたことで、逆に朝廷内には、体制を整えた幕府軍が再度侵攻してくるのではないかとの恐怖が湧き起こる。この時期に春嶽は、官位を「降格」でなく「辞退」に、領地を「返上」でなく新政府の財源として「提供」することにするという慶喜のメンツが立つ妥協案を強硬派の岩倉具視と間でまとめる。
春嶽はこの案を新政府案としてまとめるべく、大久保や西郷抜きの会議の席で決定しようとするが、大久保らが働きかけた反幕府派の公家の猛反対によって難航。しかし春嶽は半ば強行にこの案をまとめ、慶喜もこの案を受諾した。こうして慶喜の新政府入りが実現する筈だったのだが、ここで思いがけないことが起こる。
慶喜がこの案を受諾した前日、江戸で徳川方が薩摩藩邸を砲撃する事件が起こったのだ。これは江戸の治安を乱すことを狙った西郷隆盛が江戸城の二の丸に放火させたのが原因だった。春嶽はこの混乱が京に飛び火する前に交渉をまとめようとするが、間に合わなかった。西郷の挑発に乗った徳川の家臣団が暴発、大阪から京に進軍を始めたのである。激発する家臣の中には「上様を刺してでも進撃する」という者までおり、慶喜にも制止は不可能であった。
幕府軍と薩長軍は鳥羽伏見で衝突する。しかしこの時点では土佐などは「この戦いは徳川と薩摩の私戦である」として参加しなかった。しかしこの混乱に乗じて、大久保らは画策を開始する。皇族の仁和寺宮を担ぎ出して薩長軍を官軍にしようとしたのである。春嶽は越前軍を両者の間に割り込ませてでも戦をやめさせようと考えるが、時既に遅く、また朝廷工作の点でも大久保らに先んじられてしまうのである。こうして薩長軍に錦の御旗が立つことになったのである。
非常に目まぐるしい展開である。実は幕府軍はこの後、大阪城に退いて一戦を構えようとするが、総司令官たる慶喜がわずかな側近と共に大阪城から江戸に脱出してしまい、結局は幕府軍は戦わずして総崩れになってしまうのである。未だに解せないところがあると言われている慶喜の敵前逃亡だが、こういう経緯があったのなら慶喜の心境も分からないではない。慶喜としては「俺の気持ちも分からずに、なんでこいつらはこんなに暴走するんだ」との苛立ちぐらいは感じていただろう。家臣の暴発は、慶喜の統制力のなさとも言え、それは家臣達に将来のビジョンを見せられなかった慶喜に責任もあるが、そもそも徳川本家の出身ではない慶喜(一橋家の出身である)としては、権威で家臣を抑えることが出来ないのがなんとも辛いところだったろう。
なお現代人にはたかが錦の御旗ぐらいでなんでこんなにビビるのかはどうしても理解しがたいところであるが(特に皇室に対して何の特別の価値も感じていない私などは)、当時の武士にとっては錦の御旗とは大義名分そのものであったのだろう・・・と言ったところで、やはり理解しにくくはある。現代ではブッシュのように大義名分なしで大っぴらに侵略戦争を始める大国の指導者がいて、それに我が国の指導者は無条件に追随しているわけであるから。しかし彼らのような恥知らずと違い、メンツに生きていた武士としては、大義名分を失うことは死にも匹敵することであったのだろうと推測するしかないところか。
それにしても大久保や西郷のしたたかな(と言うか、あからさまに言うと卑怯である)策略に対し、ことごとく乗っかってしまう幕府側の単純馬鹿っぷりと言えば・・・。私はこうなってしまった以上は慶喜も大阪から逃げ出さずに、腹をくくって一戦を構えるしかなかったのではと思っていたのだが、こんなレベルの連中を率いて新政府軍と戦争する気になれなかったのも分からないでもない。正直なところ、今回のエピソードを見ていると、慶喜に同情の気持が少々湧いてきた(笑)。やはり能力主義に近い状況で藩士の中から人材を選抜した薩長と、未だに世襲制が色濃かった幕府側との人材のレベルの差だろうか。
11/3 その時、歴史が動いた「義経はなぜ死んだのか〜源頼朝と奥州藤原氏の攻防〜」
源平の戦いの頃の日本は、西国の平氏、関東の源氏、奥州の藤原氏と3つの勢力に分割されていた。奥州の藤原氏の根拠地・平泉は京都に次ぐ巨大な都市といわれており、奥州は金に恵まれ、良馬を産したことから国力も強く、藤原氏は朝廷に金や馬を献上することで奥州の自治を認めさせていた。義経はこの藤原氏の当主・秀衡に庇護されていた。義経を奥州独立維持のための切り札と考えていた秀衡は、義経が頼朝に呼応して挙兵した際、家臣の佐藤継信、忠信の兄弟を義経に同行させる。
頼朝の元に馳せ参じた義経。しかし頼朝は義経が藤原氏の家臣を連れてきていたことで警戒する。平氏との戦いの際に藤原氏に背後を突かれることを恐れていた頼朝は、藤原氏と結びついているらしき義経に不信を感じたのである。結局、この不信は後々まで続き、義経が平氏を滅亡に追い込んだ後、佐藤忠信と共に朝廷から官位を受けたことで爆発する。
義経はなんとか兄の怒りを解こうとするが、それもかなわず、それどころか頼朝から命を狙われるに及んでわずかな家臣と共に京都を落ち延びる。そしてその義経が頼ったのが秀衡である。
当時の奥州は17万の軍を持っており、鉄に恵まれたことから良質の刀を製造する技術もあり武器も豊富であった。ここに義経の軍事的才能が加われば頼朝とも互角に戦えると考えた秀衡は義経を迎え入れる。
秀衡に奥州軍を託された義経は、大規模な堀を築いたりして鎌倉軍の襲来に備える。しかしそんな最中、不幸にも秀衡が病に倒れる。死を悟った秀衡は最後の床で息子の泰衡・国衡と義経に対して、三人で協力して頼朝を討つように言い残してこの世を去る。
義経が奥州にかくまわれていることを知った頼朝は、直ちに奥州を攻めようとするが、義経のついた奥州は戦うには手強すぎると止められる。そこで彼は藤原氏の分断工作を開始する。
頼朝は朝廷に働きかけて、泰衡討伐の宣旨を願い出る。朝敵となることで奥州自治の根拠を失うことと、日本中の武士を敵に回すことを恐れた泰衡は動揺し、義経を差し出すことを申し出て時間を稼ごうとする。しかし頼朝はさらに朝廷に圧力をかけ、泰衡討伐の宣旨を直ちに出すように働きかける。この事態に秀衡は義経を包囲して攻撃、自らの運命を悟った義経は自刃する。その後、義経の首は鎌倉に届けられたが、頼朝は受け取らず、鎌倉軍はその1ヶ月半後に奥州に攻め入る。義経なき奥州軍は鎌倉軍に敗北、藤原氏は滅亡する。
義経の悲劇は傑出した人物であった秀衡が死んでしまったことに尽きるようである。秀衡の後を継いだ泰衡はあまりに器量が小さかったということだろう。泰衡は朝敵の言葉に怯えてしまったが、秀衡は頼朝に勝ちさえすればそんな立場はいつでもひっくり返せることが分かっていただろうと思われる。実際のところ、そのつもりだからこそ義経を迎え入れたはずである。彼にしてみれば、このまま鎌倉の圧力を受け続けていればいずれは藤原氏が滅亡するのは時間の問題であると考えていたからこそ、息子達にあくまで頼朝と戦うように言い残したのだろう。しかし残念ながら息子の泰衡はあまりに器量が小さすぎたし、恐らく秀衡の意図さえも理解していなかったと思われる。
もし秀衡がこの時に死んでいなかったら、義経を戴いた奥州軍と、頼朝率いる鎌倉軍が正面からぶつかることになり、これは容易に勝敗が決することはなかろう。そうして戦が長引くと、西国が動揺し始め、場合によってはそのまま群雄割拠する戦国時代にまで一足飛びに突入という展開もあり得たかもしれない。歴史の「もし」を語ることは詮無きことなどと言うが、しかしこの「もし」というのが実は一番面白いのである。
10/27 その時、歴史が動いた「実録・ええじゃないか〜幕末ニッポンを動かした民衆パワー〜」
幕末に発生した謎の現象である「ええじゃないか」。これはそもそも1867年三河の牟呂村である男が御札を拾ったことがきっかけだという。この時に御札を拾った二人の身内が相次いで死んだことから、神の祟りを恐れての祭りが行われたのだが、その後も村では御札が降り、連日連夜の祭りを続けることになったのだという。やがては他の町にもこの騒動が飛び火し、各地で連日連夜のお祭りが続くことになったという。この祭りでは餅や酒などがふんだんに振る舞われ、それが出来るのは大商人や地主などの金持ちしかいないことから、この頃から御札は金持ちのところに降るようになったという。
この時点での仕掛け人は恐らく村人などの庶民であったろうと思われるという(つまりただ飯にありつこうという魂胆)。しかしやがてはそれが政治的メッセージを帯び始める。この頃の庶民は助郷などの賦役に不満を感じており、これらの不満がこの騒ぎをきっかけに爆発したのだという。この頃のええじゃないかのお囃子の中に「世直し」という言葉がしきりに登場したという。
そしてこの頃に徳川慶喜による大政奉還が行われる。しかし当時の朝廷には統治能力はなく、このままだと何の実態も変わらないことを懸念した岩倉具視は、西郷隆盛、大久保利通や坂本龍馬と謀って、薩長軍を京都に引き入れて王政復古のクーデターを起こすことを計画する。倒幕派の怪しい動きに気づいた新撰組などの佐幕派は、岩倉らの行動を阻止しようとするのだが、まさに岩倉らの援軍のようになったのがええじゃないかだったのだという。この頃に京都にも飛び火したええじゃないかで京都市中は混乱。結局幕府側はその警備に忙殺されてしまい、結果としては薩長軍の集結を見逃して、王政復古のクーデターは成功してしまったのだという。
未だに「誰が何のために仕掛けたのか」という部分に謎が多く、その実態が不明である「ええじゃないか」を扱ったという点が面白いが、結局のところその実態は謎のままであった(笑)。実は倒幕派が仕組んだものだったという仮説でいくのかと思っていたのだが、この番組の内容だと「自然発生」だったという結論のように見える。
結局この時は民衆は単に踊り狂ったわけであるが、これがフランスなどなら革命につながっているところだが、そうならなかったのは日本人の国民性なのだろうか。もっともこれで政権が転けていたら、インドのガンジーの独立運動と渡り合えるぐらいの「非暴力非服従」運動になっていたところだが(笑)。ちなみに今の政府を見ていると、ええじゃないかと言うより「駄目じゃないか」と踊りたくなるところだ。
10/13 その時、歴史が動いた「列国の野望 シベリアを走る〜ロシア革命・ソビエト成立まで混迷の5年〜」
レーニンによるロシア革命が1917年、そしてソビエト連邦が成立したのは1922年、実はこの間に5年間の月日がある。帝政ロシアを倒すことには成功したレーニンだが、実はソビエトはすんなり成立したわけではなく、その間には列強の介入や帝政ロシア再興を目指す連中との対立があった。その時代のエピソードである。
今回のエピソードの主役の一人になるのがアレクサンドル・コルチャークという一般には知名度が0に等しい人物である(実は私もこの人物の名前は聞いたことがない)。ロシアの帝政が倒れたのは1917年だった。第一次世界大戦に参戦して2年が過ぎたこの年、相次ぐ兵員の損耗などで負担に耐えかねた民衆と、軍の一部が帝政打倒に立ち上がり、ニコライ2世は退位しロマノフ王朝は終焉する。この時、黒海艦隊司令長官であったコルチャークは民衆側に立った下級兵士によって艦隊を乗っ取られ、追放されるという屈辱的な体験をしている。
帝政の打倒には成功したレーニンであるが、ロシアの統一は出来ていなかった。ロシアでは旧帝政派や民族派などの30以上の政権が乱立して割拠する混乱状態になっていた。一方、コルチャークはイギリスと接触していた。コルチャークを通してロシアの権益を得たいと考えたイギリスは彼の利用価値を認める。
レーニンはドイツとの講和に動いていた。このことはイギリス・フランスにとって好ましくないことであった。両国は日本にも働きかけ、レーニンの革命政権に圧力をかけることを考える。一方、コルチャークをハルビンのセミョーノフの反革命政権に軍事大臣として送り込んでいた。シベリア独立を目指していたセミョーノフは裏で日本の支援も受けていた。日本はシベリアに傀儡政権を建てることでロシアの権益の確保を目指していた。やがてコルチャークはセミョーノフと考え方の違いで衝突、日本軍よって追放される。
一方のレーニンも危機に瀕していた。第一次世界大戦で帝政ロシア側についたチェコスロバギア軍がレーニンと関係の悪化でロシアから脱出する。この時、チェコ軍は革命からロマノフ王朝の金塊500トンを奪い取っていた。そして列強はチェコ軍救援を名目にしてロシアへの出兵を行う。日本も1万2千人の軍勢をウラジオストクに派遣する。この時、ロシアに派兵したのは10カ国以上になる。その中にはイギリスの支援を受けたコルチャークも存在していた。
やがて第一次大戦は集結するが、ロシアに対する列強の進駐は続いていた。終戦より一週間後、オムスクにイギリスの支援を受けた旧帝政派が新たな政権を樹立する。その最高統裁官に就任したのがコルチャークであった。彼はここでレーニン政権への勝利を目標に掲げる。コルチャークはイギリスやチェコ軍と連携し、軍備を整える。またコルチャークの手元にはチェコ軍が入手した500トンの金塊もあった。コルチャークは各地の反革命派と連携してモスクワに進撃をする。しかしここでレーニンは徴兵制を敷いて軍備を強化、大幅に増強された革命軍の前にコルチャーク軍は敗北する。さらにイギリスも撤退を決意、残留した日本軍も補給線であるシベリア鉄道に対する破壊工作などで苦戦を強いられ、奇襲によって一個大体が全滅するなどの被害を受ける。
このような戦いを仕掛けたのは革命政権のゲリラ兵であり、彼らは農民と区別がつかないため、日本軍は疑わしい集落を焼き討ちするなどの無差別攻撃に出る(後に中国戦でも繰り返された日本軍のお家芸である。このような蛮行が結果として現地民の反感を招くことになる。ちなみに今のイラクでのアメリカ軍の事情も似たようなものである。)。
敗北したコルチャークはオムスクからシベリア鉄道によって脱出を図るが、シベリア鉄道に対する破壊工作でこの逃避行は遅々として進まず、ついにイルクーツク手前の駅で包囲され、囚われる。そして裁判にかけられた彼は反革命行為で処刑される。
一方、コルチャークが持ち出された金塊の大半が行方不明になったという(これが後の黄金伝説の原因になっているのだろう)。しかしそのうちの7トンはセミョーノフによって日本に運ばれたという。その後、紆余曲折があったが日本軍もロシアから撤退、レーニンはソビエト連邦を樹立する。
非常に動きが目まぐるしいため、ボーっと見ているだけでは流れが把握できなくて大変である。コルチャークが主人公と言っていた割りには、彼は脇でウロチョロしていただけで(笑)、しかも途中退場してしまう。何やら時代に乗り遅れた挙げ句に、大国の思惑で翻弄された者の悲しさだけが彼のエピソードには残る。彼の名前が歴史に残っていないのはある意味必然だろう。彼は歴史を動かす側でなく、その動きを止めようとして失敗した側にいるわけだから。
10/6 その時、歴史が動いた「グッドバイちょんまげ〜明治日本文明開化騒動記〜」
明治の日本では幕府が締結した不平等条約の改正が課題となっていた。しかし文明化=文明化と考える欧米にとって、日本のちょんまげは当時の清の弁髪と同様に珍妙で未開の風習の象徴のように考えていた。この状況を見た木戸孝允は日本の風習の変更が必要と考え断髪を勧めようとするが、岩倉具視を始めとする宮中の公家などの強烈な反対を受ける。
木戸はせめて政府機関からだけでも断髪を進めようとするが、その結果はちょんまげを禁止した造幣局では、当時では破格の給料を与えていたにもかかわらず就職希望者が激減するという事実であった。そこで木戸は断髪の法制化という強硬手段に出る。明治4年に散髪脱刀勝手令が発布される。しかしこれが全国に思いがけない騒ぎを巻き起こす。断髪した夫を不気味がって離婚する断髪離婚の増加や、村人に村長が断髪を強制したことで怒った村人が蜂起し、村長宅が焼き討ちを受けた上に一揆にまでつながるというような事件が発生、全国が極めて不穏な空気になる。
当時のちょんまげは単なるヘアースタイルの問題ではなかった。まげは身分や地方によって細分されており、日本の文化やステイタスの象徴でもあったのである。それだけに世間の反発も大きかった。木戸は断髪を徹底するために明治天皇に髷を落として貰うことも考えるが、宮中の女官達は皇室の西洋化には頑強に反対しており、そんなことを始められるような状況ではなかった。
そんな中、明治4年末に不平等条約改正のための使節がアメリカに送られる。全権大使は岩倉具視、木戸は副使であった。大半の使節が洋装の中、ちょんまげに固執していた岩倉具視はちょんまげに和装という出で立ちだった。
初めて見た西洋文明に目を丸くする岩倉らは、各地で熱烈な歓迎を受けることで気をよくし、交渉の前によい手応えを感じていた。しかしアメリカに留学させていた息子達とあった岩倉は、彼らから愕然とする話を聞かされる。それは岩倉の和装がアメリカ人には珍妙な見せ物のようにおもしろがられているだけで、彼らは日本人を軽蔑しているというものであった。アメリカ人の偏見を目の当たりに知らされた岩倉は、この時に髷を落とすことを決意する。
結局交渉は決裂する。この時にアメリカは日本を対等の交渉相手とは見なしていないことがはっきりし、岩倉も日本の改革の必要性を痛感する。そして宮中でも改革が行われ、ついに明治6年3月20日に明治天皇が断髪、それを見た庶民の間でも急激に断髪が普及していく。
現代人の我々にとっては非常に馬鹿らしい騒ぎに見えるが、ゲストの黒鉄ヒロシ氏が言っていた「この時はこれしか仕方なかった」というのがその通りであろう。当時の明治政府は断髪のみならず、鹿鳴館に見られるように形から入っていくという馬鹿げた政策を多くとっているが、それは内に対しての日本は変革しているんだというPRと同時に、外に対するPRでもあったわけだ。当時の欧米は文明化=欧米化という非常におごった考えを持っているので(今でもその本質はあまり変わっていないが)、形だけでも西洋化しないことにはまともに相手にさえもされなかったというのが事実である。要は偏見剥き出しの欧米人が馬鹿なのであるが、馬鹿に対処するにはこちらも馬鹿にならないといけないことがあるという外交の事実である。もっとも馬鹿は欧米人だけでなく、現代の日本人にしても、例えばアフリカなどの変わった風習を紹介する番組などには露骨な軽蔑のまなざしが入っていることが多い。自分の方が立場が上だと思っている者は、相手が自分と異なるというだけで軽蔑の対象にしがちである。これは大は国家間の対立から、小はいじめにまでつながる人間の浅ましい心理である。相手を自分と対等の人間として捉えていたら、決してこうはならないはずなのだが。
なお黒鉄ヒロシ氏は「今でも例えば我々よりも数段進んだ宇宙人などが現れたら、まずそのスタイルから真似をしようとするなどということが起こるのでは」などと言っているが、これも慧眼だろう。確かにアフロ星人が襲来したら、地球人はみんなアフロになりそうである(笑)。その時の外交使節団はみんなアフロヘアでアフロ軍曹でも踊るんだろうか・・・失礼、これはネタがズレすぎた(笑)。
9/22 その時、歴史が動いた「焼け跡にゾウがやってきた〜海を越えた日本の子供たちの夢〜」
今回は戦後の心温まるエピソードである。もっとも歴史の本筋には関係がない(笑)。
プロジェクトR「子供たちの夢、ゾウよ再び〜上野動物園のゾウ復活 執念の総力戦〜」
第二次世界大戦、多くの国民が犠牲になったが、犠牲は人間だけではなかった。上野動物園では動物たちは殺され、ゾウがいない動物園となってしまった。戦後、子供たちが声を上げた「ゾウが欲しい」。しかし当時の日本は国民の食料さえも事欠き、ゾウを輸入する外貨も全くなかった。その時、一人の商社マンが立ち上がった。「戦争でゾウを奪った大人達がなんとかしてやらないと」。彼の行動はやがて全国を巻き込み、インドのネルー首相をも動かした。これは子供たちと彼らを思う大人達の心温まる物語である。(ナレーション 田口トモロヲ)
膳場「プロジェクトR〜挑戦者たち 今夜は戦争でゾウがいなくなった上野動物園に、再びゾウを呼ぶために奮闘した子供たちと大人の物語です。」
国井「見てください、膳場さん、これが戦後に上野動物園にやってきたゾウのインディラの写真です。」
膳場「うわっ、さすがに大きいですね。これだけ大きいと輸送も大変でしょうね。」
国井「そうなんです。それにこの頃は国民さえも飢えに苦しんでいた時代ですし、輸入をするにも外貨は全くない。ゾウを連れてくると言っても簡単なことではなかったんです。」
膳場「物語は戦争直後に遡ります。」
昭和20年、日本中に多くの爪跡を残して太平洋戦争が終結した。そしてその爪跡はここ上野動物園にもはっきりと残っていた。戦争中、上野動物園では多くの猛獣たちが軍の命令によって殺された。トラ、ライオンなど27頭もの動物が犠牲になった。3頭いたゾウは餓死させられることが決定された。彼らは1ヶ月間餌を与えられず、やせ細って死んだ。
戦後、GHQの指示により、日本に民主主義を浸透させるために各地で子供議会が開催された。その中の一つ、台東区子供議会で一つの手紙が紹介された。それは「昔見たゾウのことを忘れてしまっている妹に、本当のゾウを見せてやりたい」と10才の少年が上野動物園の園長に送った手紙だった。彼はゾウを買うためにと貰ったばかりの自分の小遣いを上野動物園に送ったのだ。子供議会のメンバーは、2頭のゾウが生き残っている名古屋の東山動物園に、ゾウを一頭貸して貰うように頼みに行くことを決定した。その大任を負って名古屋に出向くこととなったのは、議長の大畑敏樹と副議長の厚田尚子だった。
名古屋に着いた彼らは、東山動物園園長の北王英一に面会し、ゾウを一頭貸してくれるように頼み込んだ。しかし彼らの願いを聞いた北王の表情が曇った。実は東山動物園のゾウは戦争中の栄養状態の悪さのために健康を害しており、とても東京までの輸送に耐えなかった。北王は彼らの願いを聞き入れることは出来なかった。彼は返事をする代わりに二人を黙ってゾウ舎に連れて行った。飼育係が二頭のゾウを引き離し、檻を閉めた時だった。突然に二頭のゾウが互いに泣き始めた。「この二頭を引き離すわけにはいかない」二人はそう悟るしかなかった。
厚田「二頭の様子を見て、これは駄目かなと自分では納得したんです。でもなんとか方法はないかなと感じたんですが」
諦めきれなかった二人は、名古屋市長の塚本三にも陳情した。訴えているうちに感極まった厚田の頬に涙が流れた。しかし市長の塚本にもこればかりはどうすることも出来なかった。二人は失意のまま東京に帰るしかなかった。
膳場「今日はゲストとして、当時名古屋に陳情に行かれた厚田さんが来られています。」
厚田「こんにちは。」
国井「わざわざ名古屋まで行ってこられたんですね。」
厚田「そうです。みんなの期待を背負って責任重大だという緊張感がありました。」
国井「しかしゾウを借りる話はだめだったんですね。」
厚田「ええ、あの二頭の姿を見ると、とても彼らを引き離すなんてことは出来ないのは感じずにはいられませんでした。しかしやはり諦めきれなかったんですね。」
国井「で、市長の下に陳情に。厚田さんはあの時、涙まで流されたんですね。」
厚田「ええ、想いがこみ上げて来てしまって・・・・。」
膳場「こうして暗礁に乗り上げたプロジェクトですが、ここから思わぬ展開が起こります。」
ゾウを借りることが不可能になった台東区子供議会は、大胆な決定をした。ゾウの輸入を国会に訴えることにしたのである。彼らは地元選出の参議院議員宿谷榮一の元に請願書を持参した。しかし当時の日本は困窮しており、国会では財政立て直しのための公務員の大量解雇の計画で侃々諤々の騒動になっていた。宿谷は子供たちの誓願の扱いに困り、参議院議長の松平恒雄に相談を持ちかけた。松平は考え込んだ。その時、松平の頭に日本国憲法の条文が浮かんだ。日本国憲法は基本的人権の考えに則り、国民の請願権を認めていた。彼は言った「子供も大人でも基本的人権は同じである。受理しよう。」こうして国会史上初めて、子供の請願が受理された。
しかし当時の吉田内閣は、子供たちの請願を実現することは出来なかった。子供たちのためにゾウを買ってやるにも外貨が全くなかった。これが当時の日本の現実だった。
しかしこの子供たちの請願は新聞で大々的に報道された。そしてこれが思わぬところで事態を動かすこととなった。
それは東京商社での雑談から始まった。社員の江森盛久と商談していたインドの貿易省のニョギから、ゾウについての話題が出た「日本の動物園にはゾウがいないそうですね」。江森は戦争でゾウがなくなったいきさつをニョギに語った。その時、ニョギから思いがけない言葉が出た「私からインドのネルー首相にゾウの寄贈を頼んでみましょうか」。ニョギの叔父は地方州の商工大臣でネルー首相とも面識があった。もしかしたら彼がネルー首相との橋渡しを出来るかもしれないというのだった。それを聞いた江森、絶対にこの話を雑談で終わらせたくないと考えた。江森は急遽友人の新聞記者に連絡した。この件は直ちに新聞に載った。新聞記事には書いてあった「子供たちがネルー首相に手紙を書けばゾウを送ってもらえるかもしれない」。この記事を呼んだ全国の子供たちから新聞社に続々と手紙が送られてきた。その手紙は1週間で1500通も集まった。ニョギはこの手紙を受け取り、ゾウを送ってもらえるように力を尽くすと約束してインドに帰った。
しかしゾウはとても高価な動物、しかも当時のインドも戦後の混乱の最中であった。大人達は本当にゾウを送ってもらえるとは思っていなかった。当時新聞社で子供たちの手紙を集めた志村武夫。絶対に無理だと思っていた。
志村「ゾウみたいに高い動物が絵を描いただけで来るなんて誰も考えてなかった。何十年かかるか分からない話だった。」
ニョキが帰国してから3週間が経過した。「やはり駄目なのか」諦めかけたその時だった。ニョギから朗報が入った「インド政府がゾウを寄贈することを検討している」。だが問題があった。輸送費は日本が負担する必要があった。しかし当時の日本にはそんな予算はなかった。さらにGHQがゾウの輸入に反対していた。プロジェクトは再び暗礁に乗り上げた。
膳場「もう一人のゲストにお越し頂いております。ゾウを寄贈して貰うために奔走した江森盛久さんです。」
江森「こんにちは。」
国井「発端はほんの雑談だったわけですか。」
江森「そうです。雑談の中で、ニョギ氏の方からネルー首相に頼んでみるということになって、これは絶対に実現しようと。」
国井「そして1500通もの手紙が集まったんですよね。」
江森「これだけ日本中の子供たちが願っているんですから、引き下がるわけにはいかなくなりましたね。大人がゾウを奪ったわけですから、やはり大人がなんとかしてやらないといけないと」
国井「しかし問題が、しかもGHQまでもが反対したんですね。」
江森「あの当時のGHQは絶対でしたからね。しかしそれで負けているわけにはいかない。」
膳場「難関に直面したプロジェクトですが、突破口を見つけます。」
この時に立ち上がったのが江森だった。「戦争でゾウを奪った大人達がなんとかしなければ」。彼は上野動物園園長の古賀忠道と共にGHQに出向いて、ゾウの輸入を許可するよう訴えた。しかしGHQは言った「食料不足の下で大量の食料が必要なゾウを持ってくるなどもってのほかだ」。これに対して江森は答えた「ゾウの餌は草やワラであり人間と競合はしない」。しかし輸送手段をどうするのかと聞かれて返事に窮した。彼は心当たりを片っ端から当たった。そしてようやく無償でインドからゾウを運搬してくれる貨物船を手配することができた。「子供たちのためにゾウを輸入させて欲しい」。ついにGHQの許可が下りた。「インドからゾウをもらい受けることが出来たら、こんどこそ日本人は平和な国家を築かないといけない。戦争によってゾウを餓死させるようなことは二度とあってはならいない」江森は心に誓った。
昭和24年9月23日、ついにインドからゾウのインディラが到着した。ネルーは日本に送るゾウに自らの愛娘の名前をつけていた。ネルーはインディラに平和のための使節としての思いをのせていた。
9月25日インディラのお披露目の日が来た。上野動物園には開園前から行列が出来た。その日、8万5千人もの入場者を記録した。その中にはあの台東区子供議会の子供たちの姿もあった。
厚田「・・・・」
江森「・・・・」
国井「GHQを説得するには相当のご苦労がありましたね。」
江森「やはり一番の問題は輸送のことでした。考えられる限りのツテを当たって、インド初の貨物船を見つけた時には、これはやったーって感じでしたね。」
国井「インディラを初めて見られた時はどうでしたか。」
厚田「ああ、やっとゾウが来たんだって。感無量でしたね。」
膳場「インディラのその後の物語です。」
上野動物園にやって来たインディラは、全国達の子供の「ゾウを見たい」という要望で、移動動物園で全国を回ることになった。初めて見るゾウの姿に子供たちは目を丸くし、インディラの周りには常に子供たちの笑顔があった。
昭和58年8月11日、戦後の子供たちに勇気を与えたインディラは亡くなった。今は上野動物園の慰霊碑で眠っている。
実に感動的な物語である。しかし戦後のネタであるし、無名の人々の活躍が中心であるし、この番組よりもどちらかと言えば「プロジェクトX」向きのネタであるような気がしてならない。以前より私はたびたび「この番組のスタッフはプロジェクトXを作りたくて仕方がないのではないか」と感じることがあったが、今回なんかももろにそんな気配が濃厚に漂っている。
というわけで、今回も悪のり企画のプロジェクトRという塩梅です。だって番組冒頭から「プロジェクトXをやりたい」ってオーラが漂ってるんですから。今回のOPなんて、少しカットのテンポを上げてBGMを「地上の星」にしたら、そのまんまプロジェクトXですから(笑)。だけどこの企画、はっきり言って滅茶苦茶大変ですから(書き込み量は通常時の倍以上ありますね。所要時間も倍以上)、次は番組の方でやってください(笑)。
しかしつくづく感じるのは、この時代の日本には民主主義の理念のようなものが濃厚に漂っていたということ。GHQがそれを推進したというのは当然あるでしょうが、長い戦争に対する真摯な反省というものもあったのでしょう。それに比べれば今の日本は、民主主義を守るべき政治家連中自身が民主主義を軽んじているのは腹立たしい限りです。中には「アメリカに押しつけられた」などと妄言を吐いている馬鹿までいる始末。それに国民の方もあまりに民主主義を当たり前に思いすぎて、それを守るべき努力を怠っているようです。このままだといつの間にやら民主主義が破壊されて、またもや戦時の総動員態勢に逆戻りということにされかねないことを懸念します。いつの時代も戦争で良い思いをする連中がごく一部におり、そう言う連中の発言力がもっとも強いですから。そう言う連中が私益を図ると、国民が塗炭の苦しみを舐めるわけです。再び動物たちを殺さないといけないような馬鹿な時代は絶対に来させてはならないところです。
9/15 その時、歴史が動いた「悲劇の英雄"アラビアのロレンス"の真実」
アラブの英雄として映画の主人公にもなったロレンスであるが、彼は実在の人物である。
第一次大戦の時代、イギリスはスエズ運河の権益を巡って、ドイツ側についたオスマン帝国と対立していた。イギリスはオスマン帝国の後方にあたるアラブ人の叛乱を煽動することで、オスマン帝国を脅かすことを計画、考古学者でアラブについて詳しいトマス・エドワード・ロレンスを工作員として送り込む。さらにメッカ太守のフセイン・イブン・アリーに対し、アラブ独立国家の建設を支援すると持ちかけて、彼のオスマン帝国への叛乱を呼びかける。
フセインはアラブ諸部族と共に叛乱を起こし、メッカ周辺を押さえるがオスマン帝国は直ちに反撃、部族間の結束が弱く装備にも劣るアラブ軍は窮地に追い込まれる。その時にアラブに送り込まれたロレンスは、フセインの三男、ファイサル・イブン・フセインに目を付ける。ヨーロッパの学問を修め、政治家の資質もあったファイサルがリーダーにふさわしいと考えたロレンスは、彼の軍事顧問として行動を共にする。
ロレンスはオスマン軍の補給路となっていたヒジャーズ鉄道の破壊作戦を実行する。80回にも及ぶ奇襲で補給路を断たれたオスマン軍は大混乱し、アラブ軍にはベドウィンを中心とする志願兵が集まる。彼らはアラブの自由のために集まっていたのだ。彼らと寝食を共にして戦い続けたロレンスの中に、アラブ人に対する共感が生まれてくる。当初はイギリスの工作員としてイギリスの国益のために活動していたロレンスであるが、だんだんとアラブ人の側に視点が移っていったのである。
ロレンスは難攻不落のアカバ要塞に対し、大規模なラクダ部隊を率いて砂漠を横断しての背後から奇襲をしかけ、要塞を落とすことに成功する。
しかし1917年、ロシア革命の発生によってロシアの外交文書が公開されたことで、サイクス・ピコ協定という英仏露によるオスマン帝国の領土の分割のための秘密協定が暴露される。この協定ではロシアの南下、英仏によるアラブの分割が約束されていた。さらにイギリスはバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ国家の建設も約束していた。イギリスはこの地域に対して、何重もの相矛盾する約束を交わしていたのである。これはロレンスに大きなジレンマをもたらす。しかしそれとは対照的に、ロレンスは戦争宣伝として「砂漠の英雄」として祭り上げられていく。
その後、アラブ軍はイギリス軍と合同でダマスカスの攻略を計画、ロレンスはイギリス軍に先んじてダマスカスを制圧することで、アラブによる暫定政権の確立を目指す。砂漠を横切って攻略を行ったアラブ軍は、イギリス軍よりも先にダマスカスを制圧することに成功する。
1919年、パリで講和会議が実施される。ロレンスはファイサルと共にアラブの代表として会議に臨み、アラブの独立を要求する。これに対して、英仏はそれを支持する声明を発表、彼らの目的は達したように思われた。しかしその一ヶ月後、アラブをイギリスとフランスの委任統治領とすることを定める外交機密文書が作成されていた。モスルで油田が発見されたことで、イギリスはフランスを抱き込んでアラブを支配することを狙ったのである。ロレンスはかれを阻止するために、イギリスの外交機密文書を暴露するなどの抵抗をしたが、イタリアでのサンレモ会議によってアラブの委任統治案が締結される。もっとも皮肉なことは、ロレンスの活躍を伝える記録映画が、イギリスのアラブに対する指導力の宣伝に使用され、イギリスによるアラブの委任統治を支持する世論を形成することにつながったことだった。ロレンスの夢は石油資源の独占を目指すイギリスの野望によって費える。その後、フランス軍は武力でダマスカスを制圧、ファイサルを追放する。
自らの思いに反して、汚い政治家どもによってその反対側の目的に使われてしまったという、歴史の英雄の悲劇である。この番組中で伝えられている彼の心の変遷は、彼が残した文書で確認されているようである。今に残されている彼に対しての印象は「繊細で神経質な部分がある人物」とのことであるが、多分彼の根っこの部分はかなり純粋な若者だったのだろうと考えられる。だから当初は国のために軍を志願し、アラブ人と共に暮らすうちに彼らの立場に共感するという経緯をたどったのだと思われる。
当時、植民地主義が曲がり角を迎え、落日に向かいつつあったイギリスは、かなり露骨な領土的野心を示していたようである。また第一次大戦による戦費の負担が莫大なものとなり、イギリスの経済が事実上破綻していたこともそれに拍車をかけたことは容易に推測できる。綺麗事を言っている余裕などなかったイギリスにとしては、ロレンスの提案など一顧だにしなかったのだろう。この辺りの事情は、現在落日に向かいつつあると思われる大国アメリカが、国際世論を全く無視してイラクに対して露骨な侵略戦争を行った事情と類似するところもある。古来より往々にして、落日に向かいつつある大国のそれを妨げようとする悪あがきは、周囲の国にとんでもない不幸をもたらすことが多いのである。アメリカの近くにいすぎる日本は、その点を注意しておく必要がある。
結局はこの頃からの問題が、今日の中東問題につながっているわけである。これがヨーロッパが中東に対して原罪を負っていると言われる所以のところである。だからこそこの地域の問題には、日本のような原罪と無関係な国が乗り出すことが期待されているのだが・・・この国の政治家にそれを望むことはとうてい無理なようであるのが悲しい。
9/8 その時、歴史が動いた「信長と道三〜改革者を生んだ非情の絆〜」
どうしてもネタが限られる都合上まんねりになりがちな中で、いかに新味を出そうかと苦戦しているこの番組だが、今回は信長と道三の関わりを中心に紹介するとのこと。戦国時代の改革者として知られている信長であるが、実は彼の改革は道三のものを参考にしているのだとことである。
そもそも信長と道三は、信長が道三の娘である濃姫と結婚していたことから、道三は信長の舅にあたる。信長は若い頃から「うつけ」と言われ軽んじられていたが、結婚から4年後、父の信秀が急死して信長が跡を継ぐことになる。それから間もなく、道三から信長に対して婿と舅として会わないかとの話が来る。あらゆる手練手管で美濃一国を手に入れた道三の誘いだけに、もしかしたら謀殺もあり得るのではないかと家臣達が警戒する中、信長は道三と面会に出向く。ちなみに信長の部隊は長槍(普通の槍よりもはるかに長い)と鉄砲を使うことを特徴にしていたが、そもそもこの構成は道三が編み出したものだという。信長はそれをさらに拡張したわけである。そして彼はこの部隊を引き連れ、道三との面会に赴く。信長と面会した道三は、信長の器量が並々ならぬことを一瞬で見抜いたという。彼は「いずれ自分の息子達は、あの信長の家臣になるだろう」と語ったという。
その後、尾張に今川軍が侵攻するという事態が発生。信長は道三に救援を仰ぎ、道三は家臣の安藤守就を派遣する。信長は安藤守就に居城の守備を任せると(もし裏切られると本城を失くすわけだから実に大胆である)、自ら前線に出向いて今川軍を蹴散らす。帰国した安藤守就から報告を聞いた道三は、信長は敵に回すと恐るべき男になると語ったという。
しかし道三と信長の関係は思いがけない形で終わりを告げる。以前より道三から「器量不足」と言われていた息子の義竜が、道三に始末されることを恐れて道三に反感を持つ勢力と結んで道三を攻めたのである。信長は直ちに救援に出向くが、彼が駆けつける前に道三は「美濃を信長に任せる」という遺書を残して死ぬ。
道三の死後の信長には、身内の叛乱や今川軍の再度の侵攻などの困難が降りかかるが、敵の虚をついて勝利を収めた道三の戦いを参考にした桶狭間の奇襲で勝利する。
尾張を固めた信長は、美濃攻略に乗り出す。しかし美濃の領主達の結束した抵抗で信長は苦戦する。そこで信長は美濃の領主の結束を崩すため、小牧山に新しい城を造ると共に、そこに道三のやり方を参考にした城下町を建造する。こうして経済力を見せつけた信長は、秀吉に美濃の領主達の切り崩しを行わせる。信長は寝返りそうな領主には金を与えるなどの方法で、東美濃のほとんどの領主を寝返らせる。
この頃、美濃では義竜が急死し、その子の竜興が跡を継いだが、14才で国主となった竜興は遊興にふけるばかりで、国の将来を案じた安藤守就ら美濃三人衆は信長への寝返りを決断する。こうして竜興は完全に孤立、ついに信長に降伏、信長は美濃を手に入れる。信長はこの時から天下布武の印を用い始める。信長が天下統一に乗り出した時であった。
信長は独創的な人物であったが、それがすべて彼個人からのみ発していると考えるのは無理があろう。道三に限らず手本に出来るものは手本にしたと考えるのが正解であろう。なお道三と信長の関係だが、これはまさに戦国らしく互いに利用してやろうという魂胆が見え見えの政略的なものであるが、その一方で道三が信長の器量に惚れ込んでおり、本気で自分の後継者に考えていた節もあるという。結局彼は自分の息子に命を奪われるのだが、その息子の器量については非常に低い評価をしていたらしいので、信長の登場で義竜はさらに追い込まれたという側面もあったろう。
信長は「実力主義」を徹底させた人物なので、尾張の国主を先祖から引き継いだ父・信秀よりも、実力で一から身を起こした道三の方が参考になったのは確かであろう。もしくは道三の存在を間近で見ていたことが、信長を徹底した実力主義者にしたという可能性も確かにあり得なくはない。
ただ、こういう上司の下では部下は息をつく暇もなくなるということになりがちである。うまい上司はそこのところを適度にバランスを取り、時には部下が気を抜けるように取りはからうのだが、信長に決定的に欠けていたのはそういう配慮だった(信長はこれまた究極のエゴイストでもあったから)。結局はそれが最終的に彼の命取りになるのだが・・・。
9/1 その時、歴史が動いた「武田信玄 地を拓き水を治める〜戦国時代制覇への夢〜」
武田信玄と言えば戦国最強の武将として知られており、信長をも震撼させた上洛の行動や、謙信との川中島の戦いなどがよく登場するが、それでは月並みだと考えたのか、今回は信玄が上洛を開始するまでの間の内政を中心として紹介している。
信玄が国主になるまでの父・信虎の時代、甲斐は小領主が分立している状態の貧しい国だった。信虎はそれを力で押さえようとしたが成功せず、むしろ家臣の心は離れていくだけだった。そのような中、信玄は半ば家臣に押されるような形で信虎を国外に追放して、国主となる。
若くして国主となった信玄は、隣国信濃に進行する。そして獲得した領地を家臣に与え、甲斐を一枚岩にしていく。
また国力増強には新田開発が不可欠であった。そのために必要だったのが釜無川などの河川の治水である。信玄は、それまで各豪族がその場その場で行っていた治水を、中央が統制した大規模なものに切り替える。信玄は家臣の石高に応じて堤防建設の長さを決め、作業を割り当てる。工事は釜無川と6カ所で交わっていた御勅使川の流れを整理し、合流点を2カ所にすることで洪水を防ぐというものである。その時に大規模な石組みの堤防が築かれている。また堤防を守るために聖牛と呼ばれる石と木材を組み合わせた装置なども導入している。さらに堤防の保守のため、税を優遇することによって堤防近くに人を住ませる移住なども行っている。
また信玄の軍事行動を支えたのは甲州金と呼ばれる甲斐独自の金貨である。これらの金を産した金山は金山衆と呼ばれる独自の技術者集団が押さえていた。このような金山衆に対して信玄は、彼等を保護する代わりに産出した金の4割だけを納めさせるようにして配下に加えたのである(共存共栄の思想である)。こうして信玄の配下になった金山衆は、合戦時においても地下のトンネルから敵の城の井戸の水抜きをしたり、城壁を崩したりなどの工兵としての働きもしている。
こうして着々と国内の整備を行い、国力を盤石のものとした上で、信玄はいよいよ上洛に乗り出す。番組ではここからの部分に最後を費やしているが、この部分は今まで何度も放送したものの総集編の雰囲気であり、あまり新しい内容がない。知られているように、上洛を行った信玄は三方原で家康を散々に打ち破るが、上洛の途上で病に倒れ、自らの死を3年間秘するように言い残してこの世を去るのである。
内政に重点をおいた紹介ということで、番組としては極めて地味な内容。しかし武田信玄を理解するためには、彼が有能な政治家であった部分を忘れるわけにはいかないので、これは歴史を語る上で押さえておく必要がある内容である。とはいうものの、ネタ的にはかなりしんどくなってきている印象を受ける。
8/18 その時、歴史が動いた「奇跡の銀メダル人見絹枝〜日本女子初メダル獲得の時〜」
まずいきなりであるが、録画に失敗してしまった。時間が変更になっていることを知らなかったので、見事に冒頭の15分が欠損である。録画を再生してみると、既に人見絹枝はアムステルダムに行ってしまっていた(笑)。
そしてアムステルダムオリンピックに参加した人見絹枝であるが、彼女は当時100mの世界記録保持者だったのだが、本番ではプレッシャーに負けてしまい、準決勝で惨敗してしまう。
このままでは日本に帰られない(この辺りに現代と違う悲壮感があるのだが)と考える彼女は、今まで走ったことのない800メートル走に出ることを決意する。そしてこの競技で銀メダルを獲得して日本に凱旋する。
要約すると30分が数行になってしまった(笑)。しかし実際に内容的にはこれだけしかなかった。
彼女はその後、日本女子スポーツの先駆者として各地で公演などの活動を行ったそうだが、3年後、ロサンゼルスオリンピックに向けての女子選手団の結成を目指していた最中、過労から来る肺炎で24才で亡くなってしまう。過労が原因というところに何やら嫌なものを感じるのだが、この「若くして死んだ」というのも、彼女の物語が伝説になる一因であるのは事実だろう。
人見絹枝の名前ぐらいは私も聞いたことがあったが、短距離の選手が800メートルでメダルを取ったということまでは、恥ずかしながら全く知らなかった。今では信じられない話だが、当時はまだ女子選手層も薄く、今ほどに各競技に特化した選手が揃っていたわけではないという事情はあるだろう。ただそれを差し引いて考えたところで、彼女の快挙がとんでもない偉業であるのは間違いないが。
それにしても彼女には日の丸を背負った悲壮感がどうしても漂っている。現在の選手は、そこまで国を意識する必要がないのは、スポーツとしては正しいことであり、喜ばしいことである。
7/21 その時、歴史が動いた「世界遺産 熊野の森を守れ〜南方熊楠・日本初の自然保護運動〜」
今回はタイトルからしてまるでプロジェクトXのようであるが、実際に中身もプロジェクトXである。時代が明治・大正でなければ、間違いなくプロジェクトXネタである。
国家神道による国家統制の色彩が強まりつつあった明治時代、明治39年に施行された神社合祀令によって、神社は一町村一社に限られることとなった。この結果、多くの神社が廃止され、その鎮守の森として保護されていた森林は次々と伐採されていった。鎮守の森の樹齢数百年の木は巨額で売買され、その利権に群がる連中が国策を隠れ蓑にして懐を肥やしていたのである。この事態に熊楠は故郷の熊野の森も危なくなると懸念する。彼は鎮守の森の伐採を「神狩り」と断じ、この伐採は人々の生活にも影響を与えているのではないかと、住民の事情調査を始める。すると、伐採によって森の保水力がなくなり鉄砲水が増えたり、天敵の減少によって害虫が増加したりなどの悪影響が出ていることを把握する。そして何よりも鎮守の森の伐採は人々の心の荒廃を進めつつあることを目の当たりにする。
熊楠は伐採に反対するため、猛然と新聞への投書を始める。ここで彼は「神社合祀は希世の愚挙なり」と断罪する。しかし彼の思いと裏腹に伐採は進み続けた。明治43年その熊楠の元に、那智の原生林に危機が迫っていることが知らされる。業者が役場と警察を賄賂で買収して伐採権を得たのである。彼は直ちに反対のための行動を始める。彼は地元の新聞社に通い、伐採計画に関わる賄賂の授受の実態を解明氏よとしたのである。彼によって暴かれた不正によって地元の村人達が立ち上がり、訴訟を起こす。やがて業者は文書偽造の廉で逮捕され、伐採計画はなんとか回避される。しかしこのような熊楠の運動は権力側からの圧力を受けることになる。400年間南方家が守ってきた大山神社が突然廃止に追い込まれ、熊楠らの抵抗も空しく、大山神社の森はすべて伐採されるのである。これは明らかに利権まみれの県知事ら官憲による熊楠に対する嫌がらせであった。そして熊楠は神社合祀を推進する会合に乗り込み、県の役人らに熊野の森の植物を投げつけて抗議、彼は警察に取り押さえられ留置される。
しかし熊楠が留置されたことが大きな反響を呼ぶ。世界的にも通用する学者になっていた熊楠が留置されてまで森を守ろうとしていることを新聞で知った人々が、彼の釈放を求めて押しかけてくる。また彼の留置所暮らしの間に、内閣書記官の柳田国男からの書物の差し入れがあったことから、熊楠は柳田と知り合うことになり、それが後の運動に影響を与える。
釈放後の彼は三重県の阿田和の大楠が伐採されるという投書を読み、その伐採を中止するための運動を開始する。これを止めるためには三重県知事を説得するしかない。彼は文通を始めていた柳田の支援をあおぐべく、彼に協力を訴える。柳田は熊楠の意志を受け、三重県知事に伐採中止を働きかける。高級官僚である柳田の書簡は功を奏し、三重県知事は伐採の中止を通達する。
しかし彼の活動はこれでは終わらない。熊野の継桜王子神社の廃止に伴って、その周囲の杉林が伐採されることになったことから、彼は現地に駆けつけて村人達と共に保存のための運動を開始する。村人は総出で植物の調査を行い、彼はそれを元にして和歌山知事に嘆願書を送る。彼はこの嘆願書の中で「エコロジー」という言葉を初めて使う。彼はこの言葉を様々な動植物が互いに関わり合って生存していること示すために使用したのである。しかし彼のこの思想はバカ役人どもには理解できず、40本の杉は9本だけを残してすべて伐採されてしまう。
これに衝撃を受けた熊楠は、神社合祀による自然破壊をエコロジーの思想に基づいて全国に訴える。この時に彼が書いたのが南方二書と呼ばれる文書であり、この文書は柳田国男によって製本され、各界の名士達に配布される。彼のこの書は多くの反響を呼び、多くの財界人、政治家までにも賛同者を呼び、明治45年ついに帝国議会で神社合祀反対運動が審議されることになる。ここで熊楠によって調査された自然破壊の実態が報告される。そしてついに神社合祀令が廃止されることになる。
日本で初めてではないかという大規模な自然保護運動の顛末である。利権にまみれた政治家どもは、回復不能な自然破壊をやりたがるというのは、どうも今も昔も変わっていないようである。ここで熊楠は初めてエコロジーという言葉を使用したのだが、人間も自然の中で共生しているという考えは、西洋文明かぶれしている役人連中よりも、むしろ庶民の方が実感として理解しやすかったのではないかと思われる。また既に学者として名声を確立していた熊楠が、科学的な見地から「自然破壊が人間の生活に悪影響を及ぼす」と解説したのは、影響力は大きかったと思われる。
ただ神社合祀令が熊楠の運動だけで廃止されたというのは、どうも怪しいような気がしてならない。もっと他の分野で神社合祀令による弊害が出つつあって、それとも合わせ技で廃止に追い込めたのではという気がしてならないのだが、私は近代史にはあまり詳しくないので、そこのところははっきりとは分からない。ただ、利権まみれの政治家連中が、熊楠の自然保護の崇高な訴えに単純に感銘を受けたとはなかなか考えにくいのである。
7/14 その時、歴史が動いた「新撰組 ドキュメント池田屋事件〜近藤勇・突入決断の真相〜」
今回のテーマは池田屋事件。はっきり言って露骨な大河ドラマ連携企画である。
近藤らが長州藩士の倒幕派の陰謀をかぎつけ、池田屋に切り込んだ時は隊士は近藤を含め4人、これに対して長州藩士は20人が刀を抜いて待ちかまえていた。なぜこのような無謀な突撃をかけたかというのが今回の主題。
結論から言えば、武士を目指して新撰組に志願したものの、一向に働きの場がなくて活躍できなかった近藤達にしてみれば、この池田屋事件は千載一遇のチャンスであったということと、広い空間での団体戦ならともかく、建物内という狭い空間では敵方も人数の多さのメリットが使えないので、勝算があると近藤が計算したということである。
もっともこれでも持ちこたえられたのは、近藤達の剣の腕が高かったのはあるだろう、実際のところ最初は4人で斬り込んだが、途中で沖田総司は結核の発作で戦線離脱、藤堂平助も重傷を負ってやはり戦線離脱し、最終的には近藤勇と永倉新八の2人で支えていたというのだから、半端なことではないだろう。
なお池田屋騒動などの顛末は、後に新撰組の数少ない生き残りである永倉新八が手記を残しており、そこで詳細を知ることが出来るとのことで、今回の内容もその手記に基づいている。もっとも永倉新八自身による手記となると、永倉の活躍がどこまで客観的に書かれているかには少々疑問もあったりするが(少々意地の悪い見方かもしれないが、老人が昔を思い出しての手記などは、どうしても自身に美化が入ることがある)。また今回のゲストは、新撰組に思い入れがあるのか「よく新撰組は池田屋事件で明治維新を遅らせたと言われるが、むしろこれで倒幕陣営が引き締まって、明治維新が早まったかもしれない」と言っていたが、これは贔屓のしすぎというものだろう。客観的に見ると、新撰組は一旗揚げようとした野心ある若者達が時流に反してしまって自滅したとしか見えない。ドラマとしてはともかく、歴史的意義から言えば新撰組の歴史的意義はほとんどないというのが私の見解である。
ちなみに今回の内容には全く新味はなし。内容的には以前に放送した新撰組関係のエピソードの繰り返しである。やっぱりタイアップ企画という意味しかないような。
7/7 その時、歴史が動いた「「関白」対「源氏長者」〜家康・秀吉「姓」をめぐる知られざる攻防〜」
戦国時代と官位の関わりというのは、なかなか理解しにくいものである。実力本位の下克上の時代、既にその権威など地に墜ちている朝廷による官位など、なんの役にも立たないように思えるのだが、実はそう言うわけでもない。やはり全国の武将に号令を発しようと思えば、それなりの権威付けが必要なのである。この朝廷と武士の関係というのは後の江戸自体まで矛盾を含んだまま継続されるのだが、今回のテーマはその矛盾と密接に関わった「姓」の問題である。
かつてなぜ秀吉の天下が家康に取って代わられたかを分析する場合、秀吉が征夷大将軍になって幕府を開くことが出来なかったからだという分析が成されていたことがある。しかしこの分析が全く的をはずしたものであるのは明らかである。秀吉にとって権力を掌握するには、別に将軍にならずとも関白の地位で十二分だったのである。実際、将軍の地位だけがあったところでどうなるものでもないのは、室町幕府末期の将軍達の悲惨な状況がすべてを現している。つまり将軍であろうが、関白であろうが、大事なのは実力である。そう言うわけで近年では秀吉は将軍になれなかったのではなく、将軍にならなかっただけであるというのが普通の解釈である。さてこうなった場合、次に出てくるのは「つまり朝廷による地位など、戦国時代には何の意味もなかったのだ」という論になりやすいのだが、実はそう言うわけでもないというのが今回の内容であると言える。
小牧長久手の戦いで秀吉軍にさんざんの苦戦をしいた家康に対し、秀吉から和議のために上洛するように求める使者がやってくる。しかし暗殺を恐れる家康はこれを突っぱねる。この時に家康が秀吉の要請を突っぱねた根拠になったのが、家康はこの時既に従三位という官位を持っていたが、秀吉は当時は無位無官であったことであるという。つまり無官のものが官位が上の者を呼びつけるとは何事だと言うことだろう。
この家康の態度に対し、自分も官位を手にする必要があると感じた秀吉は、官位獲得のための調停工作を始める。当時の官位は姓によって決まっており、高位の官位を得るためには源平籐橘とよばれる「平氏、源氏、藤原氏、橘氏」のいずれかの姓を持っている必要がある。そこで秀吉は強引に近衛家の養子となり藤原の姓を得ると共に、一気に従一位の官位を手に入れ、さらに関白の地位をも手に入れる。この後に秀吉はその権威を背景にして家康に上洛を求め、ことここに至ってはもう断りようがないと、家康は上洛をし、諸大名の前で秀吉に臣従する姿勢を示すことになる。
と、このようにこの番組では家康が上洛をせざるを得なくなったのは官位の権威のためという解釈なのだが、それは私には疑問である。確かに官位の件も一つの要因ではあろうが、それよりも何よりもこの時に秀吉は家康の元に自分の母親を人質として差し出してまでいる。その状況で家康がさらに上洛を拒み続ければ、家康の方が「卑怯者、臆病者」として諸大名に嘲られる恐れがあることを恐れたのではないだろうかというのが私の解釈である。
さてこうして心ならずも秀吉に臣従した家康であるが、家康を警戒する秀吉は突然の関東への国替えを命じるなど、家康の勢力を削ぐための理不尽な仕打ちを始める。しかし時期を待つために耐えている家康は、黙々としてこれに従う。また北条氏への忠誠心がまだ残っている関東の民衆を抑えるために、新田氏の流れを汲む源氏を名乗ることによって自らの正当性を確立しようとしたのだが、これが後の伏線にもなったという。
秀吉の関白の権威に対抗するためには、それを凌ぐ権威が必要である。そのために古書を調べた家康がたどり着いたのが「源氏長者」という肩書きである。その肩書きは源氏一門の長と言う意味であるが、室町幕府の衰退と共に、公家が就いていた地位である。「征夷大将軍」だけでは「関白」の肩書きに負けるが、「源氏長者」と併せ持つことで「国王」と認識されることになり、「関白」を凌ぐことが出来るのだという。
そこで家康の源氏長者を得るための工作が始まる。彼は秀吉に恭順の意を示しながら官位を徐々に上げ、やがて秀吉の従一位に次ぐ正二位まで昇進する。そして秀吉が死去、秀頼が成人するまでは五大老が政治を仕切ることになるが、他の大老が従三位にすぎないのに対し、家康は正二位とはるかに高い官位であり、これが家康が五大老の筆頭となる大義名分となったという。また家康の台頭を警戒した石田三成らが挙兵した関ヶ原の戦いでも、勝負を決することになった小早川秀秋と吉川広家の寝返りを誘った際にも高い官位は有効に機能したとしている。
こうして権力を掌握した家康は、秀吉の死後空位になっていた関白を朝廷に返上することで秀頼の関白就任を阻むと共に、朝廷へ工作を行い源氏長者の地位と征夷大将軍の地位を獲得する。こうして万全の地位を得た家康は、豊臣方を滅ぼして天下を手に入れる。
今まで征夷大将軍のおまけにようにしか捕らえられていなかった源氏長者という肩書きに着目した興味深い内容である。この番組の解釈は、征夷大将軍一本だけだと関白よりも劣るから、源氏長者との合わせ技で関白を凌いだということになる。面白い考え方であるが、私には少々異論もある。確かに官位を全く無意味なものと考えるのは問題があるが、この番組の解釈は官位をあまりに重く見すぎであると考える。まるで家康の台頭が官位の上昇に伴ったもののように見えるが、実際はその逆で家康が勢力を増すと共に官位がそれに伴って上がったというのが正しいのではないか。先にも述べたが、実力の伴わない官位など無意味である。家康が五大老の筆頭になった際も、家康の領国の国力が他の大老よりも傑出していたのを忘れてはならない。小早川秀秋の寝返りについては家康からの誘いだけでなく、北の政所に対する気遣いがあったことは言われているし、吉川広家の造反もそもそもは毛利の力では徳川に対抗することが不可能と考えた彼による毛利家の生き残り戦略であった。家康の官位というものは確かに一因として影響しているかもしれないが、少なくともそれが主因になっているとは考えにくい。
以上、解釈としてはなかなか面白いものであるが、あまりに一面にこだわりすぎているように思える。官位や役職はあくまで従であって主ではないというのが私の考えである。
6/30 その時、歴史が動いた「もう一つの日本を創った男〜平将門 東国独立政権の謎〜」
関東地方に住み着く最大の怨念などと言われながら、未だに慕っている者も多い平将門。彼についてのエピソードが今回の内容である。
平安時代中期、武勇で知られた平将門は東国武士の筆頭として頭角を現していた。この頃の東国の人々は貴族が課す重税にあえいでいた。中央から送り込まれた国司は、不当に税を取り立てて私服を肥やしており、領民は苦しんでいた。また飢饉の際にも税は変わらず取り立てられ、土地を捨てて逃げ出す農民も増加していた。
将門は農民達のために開墾を行うと共に、中央と対抗できる兵力を蓄え始める。そして939年、常陸の国の国司に反逆して逃げてきた藤原玄明を保護したことで、将門はついに常陸の国に出兵する。独自の製鉄技術によって製造した最新鋭の刀を装備する将門軍は、3倍の兵力を要する常陸の国司軍を打ち破り、常陸の国の印と倉の鍵を手に入れる。これは将門が朝廷から領地を奪い取ったことを意味する。そしてこの時から将門は東国を独立させることを考える。
将門軍は破竹の進撃を開始する。また彼を慕う民衆も彼と共に蜂起した。そして将門は東国のすべての国司を追い出し、事実上の支配者になり、新皇に即位する。この時に八幡大菩薩の巫女のお告げがあったことになっており、彼が新皇に即位した際に菅原道真の霊魂が現れたとされているとのこと。将門は自らの地位を権威づけると共に、菅原道真を持ち出すことで反中央の色彩を明確にしたのである。
朝廷は将門を呪い殺すために寺社に祈祷調伏を行わせるが、当然ながらそんなもので将門が死ぬわけもなかった。またこの頃西国でも藤原純友の叛乱が発生し、朝廷は追い込まれる。そこで朝廷は将門追討のために前代未聞の太政官符を発する。それは「将門を討った者は貴族とする」というものであり、貴族社会の根底を覆しかねない決断であった。そしてその呼びかけに答えたのが、平貞盛と藤原秀郷であった。
しかしこのことを全く知らなかった将門は、手元の兵を農作業のために国に帰す。これが将門の運命を決めることになる。将門が軍を解いたことを知った平貞盛と藤原秀郷が2900の軍勢で攻め寄せる。それに対する将門軍は400。圧倒的劣勢の中で将門は戦いに挑むが、敵の矢に当たり命を落とす。
番組では、将門は志遂げずに命を落としたが、結局は彼の叛乱が貴族社会に風穴を開け、後の武士台頭につながったとして