その時、歴史が動いた
2000年4月から「ニッポンときめき歴史館」の後を受けて始まった、NHKの歴史ドキュメント番組です。キャスターは松平アナ。放送は毎週水曜日の午後9時15分から。
どうしても地味になりがちの歴史番組になるべくエンターティーメント性を持たせようとしているので、テーマの選択などにも配慮しているのがうかがえるが、そのことが歴史番組としての特徴を薄めてしまうことになりかねないのは両刃の剣。なおNHKの歴史番組の特徴として、諸説入り乱れているようなときは無難な説をとる傾向があるので、あまり珍説・奇説の類は出てこない。ただし、皇室絡みの時などは権力筋の意向に添ってやや右翼史観に偏っていることがあるので注意は必要。
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9/17 その時、歴史が動いた「名君の改革に異議あり〜徳川宗春 華麗なる反乱〜」
江戸時代中期、窮乏する幕府財政を建て直して名君と呼ばれていたのが徳川吉宗だった。彼が行った享保の改革は質素倹約を旨として、財政支出を徹底的に削減することによって財政を好転させる政策だった。この改革の効果によって悪化していた幕府財政は好転した。
しかしこの改革に異議を唱えたのが、尾張藩主の徳川宗春だった。彼は22人の男兄弟の20番目と、本来は跡継ぎの立場になかったのであるが、藩主である兄が病死したことによって他に藩主を継ぐものがおらず(亡くなっていたり、他家を継いでいたりした者ばかりだった)、彼が藩主を継ぐことになったのだった。自由な立場で街中で放蕩生活を行っていた彼は、吉宗による質素倹約令が町の活気を奪い、民の生活を苦しめている実態を目の当たりにしていた。そこで尾張藩主になった彼は、吉宗の改革に真っ向から反することになる。
藩主に就任するや派手な出で立ちで尾張に乗り込んで民衆を唖然とさせた彼は、芝居を奨励してさらに遊郭を設けるなどして名古屋の町を活性化する。彼の考えは「しっかり働いて、しっかり息抜きをする」というものだった。彼の政策によって名古屋の城下町は繁栄し、民衆も活気づく。
しかしこの宗春による明からさまな反乱は吉宗の怒りを呼ぶ。早速幕府から詰問の使者が送られる。しかし宗春は公的な場では自らの態度を謝罪して改めることを約束するが、その後の私的な場(いわゆるオフレコ発言)では、吉宗の改革の誤りを指摘し、自らの政策の正しさを主張する。
だが彼の政策が進むにつれて明からさまな問題も発生してきた。城下が活気づくのはよいが、それが風紀の乱れにつながり始めた。また彼の考えは「しっかり働いて、しっかり息抜きをする」というものだったが、その「しっかり働く」がなくて遊興にのみ溺れる者も増え始めた。さらに皮肉なことに、城下が活気づいてもそれは尾張藩の年貢収入には何ら影響するものではなかった。
これらの問題点の発生や、幕府との対立が深まることに懸念を感じる重臣達が現れる。そしてついに彼らは宗春が参勤交代で名古屋を発った時に合わせて、クーデターで実権を掌握してしまい、宗春が行った政策をすべて撤回する。名古屋の状況を聞いてもすぐに戻るわけにいかない宗春。そしてようやく参勤交代が終わり名古屋に戻ろうとした矢先、彼は幕府より藩内での騒動の責任を一人取らされる形で蟄居を命じられる。実は重臣達は事前に吉宗と連絡を取っており、吉宗は彼らを利用して宗春を排除したのだった。
緊縮経済が正しいか、積極経済が正しいかという昔からの命題です。確かに質素倹約に基づく改革は幕府の財政は好転させるが、民衆の生活を抑圧するので、概して庶民の評判は極めて悪いです。吉宗による享保の改革はともかくとして、その後にそれを焼き直しした寛政の改革と天保の改革が実際は短期で頓挫してしまうのはそれが大きな理由でもありました。
また宗春の悲劇の原因の一つは、当時の財政システムが年貢にのみ依存しており、商人などから所得税や法人税にあたるようなものを徴収するというシステムがなかったことである。だから財政を好転させるのは新田開発などによる年貢増収か支出削減しかなく、城下がいくら賑わっても財政には関係ないということになってしまったわけである。この問題に取り組もうとしたのが実は田沼意次なのであるが、彼は今では賄賂政治家の象徴のように言われていることから分かるように、残念ながら彼の改革は幕府の守旧派の抵抗で頓挫している。
実は田沼意次の政策とは何も賄賂で私腹を肥やすことを目的としているのではなく、商業を発展させて商人から税を取ろうというものだったのである。そのためには彼はロシアとの交易まで考えていたという。彼の目指したのは、それまでの重農主義だった幕府のシステムを重商主義に変換しようという極めてドラスチックなものだったのだが、あまりに先進的すぎて当時の幕府の重臣達には理解できなかったのである。
宗春も田沼意次レベルの政策を持っていたら成功していた可能性はあるのであるが・・・。それが彼の不幸。ちなみに庶民から見た吉宗は、現在にさかんに言われているほどの名君とは見られていません。やっぱり歴史とは権力者の側から記されるということもあります。
7/15 その時、歴史が動いた「応仁の乱、天下を滅ぼす〜終わりなき"戦いの連鎖"〜」
応仁の乱とは京都を焼け野原にした乱である。この乱の勃発によって足利幕府の権威失墜は決定的となり、戦国時代へと突入することになった。この乱の経過を追えば、幕府の無能な対応、武士の体面などの無意味なプライドなどによる泥沼化といった愚かしさが見えてくるという。
そもそもの発端は、近畿南部の大名である畠山氏の跡継ぎ争いであった。当主の息子とそのいとこが跡目争いを始めたのだという。これに対して、幕府の権威を示したいと思っていた将軍の義政が調停に乗り出す。彼は直径であるということを重視して、息子の義就を後継者に指名した。しかしこの義就の人格に問題があった。粗暴でわがままで、将軍の権威をかさに着て隣の領地に攻め込むという挙にまで出たという。この義就を義政は次第に憎むようになる。そして義政はついに当初の裁定を裏返し、家督をいとこの政長に与える。はしごをはずされて激怒した義就は河内の山城に立てこもる。義政はこれを反逆として追討を命じるが、2年がかりでも鎮圧ができない。しかも妻の日野富子から義就を許すように迫られる。富子のバックには有力家臣の山名宗全がおり、彼は畠山氏を味方に付けて自身の勢力を拡大することを狙っていた。そして義政はそれに圧され、義就を赦免してしまう。
これで将軍の権威が失墜したことが甚だしい。しかも最悪なことに義就と政長がついに直接の武力衝突を起こしてしまう。義政は他の大名に介入しないように指示を出すが、山名宗全がそれに反して義就を援護、政長の軍を一日で破って戦闘は終了する。だが義政は将軍の命に反した山名宗全を処罰することは結局できなかった。
畠山氏を味方にした山名宗全は守護大名の頂点の実力者として振る舞っていた。しかし政長が細川勝元の援軍を得て京に戻ってき、山名宗全を不意打ちし、義政の花の御所を包囲する。義政を御所に押し込めた勝元は、自分たちを幕府軍として認め、山名氏追討の許可を与えるように迫る。側近達は反対するのだが、結局は義政はこの要求に屈してしまう。
先手を打たれた山名宗全は屋敷のある西部に陣取り、東部の花の御所に陣取る細川勝元との戦いになる。応仁の乱の勃発である。この戦が始まったことで、近畿各地の大名が我先に京にはせ参じ、大軍勢同士の争いとなる。数の上では東軍が優勢だったが、大内政弘が西軍に加勢したことで勢力は拮抗する。この間、義政は何とか調停を試みようとしたが、ことごとく山名宗全に拒絶されて不調に終わる。この戦乱で京は焼け野原となってしまう。
戦いが長引くにつれ、諸大名の利害が混乱して情勢は泥沼となっていった。しかも義政の弟の義視が御所を飛び出して西軍に身を寄せるに至って、事態は混乱の極みに達する。もはや義政には何をする能力もなくなっていた。しかも軍勢不足を補うために大名達が民衆を金銭で雇った足軽が増加するにつれ、彼らの略奪や乱暴狼藉によって京の町は混乱の極みに達してしまう。
やがて争いの当事者である山名宗全と細川勝元が相次いでこの世を去るが、それでも全国に飛び火してしまった乱に収束の気配は見えなかった。しかし乱が続いて11年目、思わぬ形で乱が収束する。領国の不安定化や戦の負担に耐えかねた大内政弘が、日野富子に賄賂を献上して、幕府側と戦った罪を不問にして、官職を与えられて領国を安堵される形で帰国したのである。大内政弘の帰国で西軍の諸大名は続々と帰国、ようやく乱は終息したのである。
なお義政はこの一件で完全に政治の世界に嫌気がさしたのか、将軍職を幼い息子に譲って、自身は自ら建造した銀閣寺にこもってしまったようである。
何ともはや、どうしようもないという悲惨な状況。確かに義政の優柔不断のように思える。彼に同情するとしたら、室町幕府はそもそもが大名の代表政権という色彩が強く、権力が弱かった上に、彼の頃になるとそれがさらに進行していたということである。だから将軍が出した指示に大名が堂々と反してしまうということに陥る(落ちかけていた権威に、彼がとどめを刺したのも間違いないが)。なお大内政弘が日野富子に賄賂を送ったという話があるが、このようなエピソードから日野富子は守銭奴と言われることがある人物でもある。
この事件から学ぶとすれば、トップが無能だと世の中が混乱すると言うことと、世襲の権力者が続くとやはり自然に権力者が無能になっていくと言うことである。これは今の日本でも大して変わっていない。残念ながら。
7/8 その時、歴史が動いた「古池や蛙飛びこむ水のおと〜松尾芭蕉 人生を映した17文字〜」
今回のテーマは俳句を創始した松尾芭蕉。
松尾芭蕉(本名・松尾宗房)は伊賀上野の生まれで、家の格式としては武士に準ずるものの、農業で生計を立てる必要があるという家で、父親を早くして亡くした彼は貧しい生活を送っていた。しかし伊賀上野は伊勢や京都、奈良からの街道の交差点で、これらの文化が流入しており、俳諧なども人気を博しており、芭蕉にとっては俳諧は生きる励みだった。そんな彼が19才の時に転機が訪れる。地元の上級藩士に仕官することになり、そこで藤堂良忠に出会ったのだった。俳諧の名手で京都での最大の流派である貞門に属する彼から俳諧の手ほどきを受けた芭蕉は、見る見る俳諧の腕を上げていく。
しかし4年後、良忠がこの世を去り、芭蕉は自らの前途を思案することになる。これから6年間の芭蕉の行動は謎であるのだが、その後の彼は江戸に出て富裕な町人に俳諧を教えることで生計を立てるようになる。そんな中、古典から題材を録る貞門とは異なり、庶民な的な言葉で奇抜な内容を読む談林に出会い、その自由な空気に惹かれた彼は談林に転じる。
だが芭蕉はやがて今までの俳諧が所詮は言葉遊びに過ぎず、精神的な深みがないことに気づき、新しい俳諧の形を模索するようになる。そうして41歳の時に、彼は俳諧の新しい形を模索して西国への旅に出る。これが野ざらし紀行である。この旅において彼はその時の心情を17文字で詠む新しい俳諧の形に行き当たる。そして旅から帰った1年後、彼が弟子達の前で詠んだ句が「古池や蛙飛びこむ水のおと」という句だった。それは今までの俳諧にはない新しい形式の俳諧で、また短歌に匹敵するような芸術性を秘めた新しい文化でもあった。これが蕉風俳諧と呼ばれ、今の俳句となる。
俳句誕生のエピソードなのだが、所詮は松尾芭蕉の精神内での話なので、この手の歴史物としてはドラマにしにくいところ。実際、何となくパッとしないエピソードになってしまった。これなら、松尾芭蕉隠密説の真偽について考察するなどの方が、歴史番組としては面白くなったのではという気もする。
6/25 その時、歴史が動いた「戦国のゲルニカ 大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか」
豊臣家が滅んだ大坂夏の陣。権力者の側から描かれることしかないこの合戦だが、巻き込まれて地獄を見た多くの民衆がいる。その民衆に注目したのが今回。
大阪城の収蔵品に「大坂夏の陣屏風」があるが、この屏風が異色なのは、大抵この手の合戦図屏風は自らの祖先がいかに勇敢に戦って手柄を挙げたかを誇示するものが多いが、この屏風はその左半分に逃げまどう民衆の地獄絵が描かれていることである。大坂夏の陣では民衆が無防備のまま合戦に巻き込まれ、逃げまどう民衆は川で溺れ、またようやく岸に泳ぎ着いても、略奪や暴行、さらには無差別に民衆の首を取って武者の首と偽って手柄にありつこうとするにせ首、さらには奴隷狩りの被害にあって犠牲者が続々と出たのだという。
また悲劇は合戦前にも合戦後にも発生している。豊臣方につくか徳川方につくかで真っ二つに分かれた村では、その対立が後々まで尾を引き、また豊臣方が徳川の背後を突かせようと一揆をけしかけた村では、一揆勢として立ち上がった村人が犠牲となった。結局はこれらの多くの民衆の犠牲によって江戸時代の到来となるのである。
戦国の合戦などについて民衆の側から捉えるという視点はほとんどないので、これは画期的。実際に戦争における民衆の視点が欠落しているので「戦国時代は躍動的ですばらしい時代」とか「戦争は格好いい」なんていうトンチンカンな考えが出てくるわけである。実際のところは民衆にとっては正義の戦争もくそもない、その現実は今でもイラク辺りで証明されているわけなのであるが、権力者の欲と人間の愚かさはいつまでも尽きない。
6/11 その時、歴史が動いた「北方探検 異境の大地を踏破せよ〜間宮林蔵 執念の旅路〜」
今回のテーマは間宮林蔵。あの間宮海峡を発見した人物である。
1807年、南方進出を狙うロシアが択捉に上陸、攻撃を行うという事件が発生した。総崩れになる幕府群の中で、ただ一人持ち場を守って立ち向かおうとした役人が間宮林蔵だったという。彼は測量のためにこの地にやってきて、未だに測量半ばのこの地を離れることは、自分の仕事が無駄になることだという想いが強かったという。しかし彼も回りに無理矢理に説得されて逃走することになる。その後、彼は持ち場を離れた責任で江戸に呼ばれて取り調べされることになる。
この事態に衝撃を受けた幕府は、国後に軍勢を送って守備にあたる。しかしここで問題になったのが樺太のことだった。当時は樺太のことが全く分かっておらず対策の取りようがなかった。そこで樺太の調査が急務となったのだが、この任務に指名されたのが間宮林蔵だった。またこれは間宮林蔵自身にとっても、択捉での屈辱を晴らせる絶好の機会だった。
彼は樺太が島であることを確認して幕府に報告を送った後、自ら海峡を渡って異郷の地に乗り込む。樺太の現地民にデレンという地にどこかの国の役所があると聞いたからである。もしそれがロシアのものならロシアがすぐそこに迫っていることになる。そこで間宮は現地民に協力してもらいながら、デレンの地に向かう。途中で言葉も全く通じない異境の民に危うく殺されそうになったりしながらようやくたどり着いたデレンは、北方の交易地で、役所は清のものであった。この周辺地域は多くの民族の雑居地域であり、ロシアの勢力もまだこの辺りには及んでいないことを確認した間宮は、帰国してその旨を幕府に報告する。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認したのは有名だが、海峡を渡ってもいたんだという話・・・とは言うものの、特に中身があるように思えなかった内容だな・・・。番組演出が淡泊に過ぎたか。
6/4 その時、歴史が動いた「人を衛る都市をめざして〜後藤新平・帝都復興の時〜」
医師だった後藤新平は、西南戦争でコレラ患者の治療に当たったことをきっかけに、公衆衛生向上のために内務省の衛生技師になる。彼の理念は「人と人とのつながりが人体のように機能することで世の中が発展する」という独特のものであった。
日清戦争の帰還兵の伝染病対策に起用された彼は、現場で陣頭指揮をとる。彼は部下を叱咤激励しつつも、その一方で部下を信じて彼らの自主性に任せるという方式で、23万人の帰還兵の検疫を無事に完了する。3年後、台湾の民政局長に任命された後藤は、今度は都市計画に携わることになる。彼は上下水道の整備や幹線道路の建設などを行う。その後、南満州鉄道の総裁に任命された彼は、若手を起用して沿線のインフラ整備を行い、都市の開発を行う。そしてついに内務大臣に就任した彼が手がけることになったのが東京の再開発だった。
彼は官民共同の都市研究会を立ち上げ、東京の再開発のプランを検討する。しかしその矢先に関東大震災が発生し、東京は壊滅的被害を受け、彼のプランはすべて白紙に戻ることになる。
関東大震災から再建が急がれる状況になった。彼は都市研究会以来のメンバーを集めて復興計画を練る。彼が計画したプランは、将来の交通量増加を見越した広い道路や、防災をにらんでの広い公園も配した大胆な都市計画だった。ただこのための費用は当時の国家予算に匹敵する13億円と見積もられ、このプランは復興審議会で猛反対を受け、予算は5億7500万円に削減される。予算が削減されたことから、後藤達は土地買い上げではなく、住民から土地を提供してもらって道路等を整備する区画整理の方法を提案する。しかし後藤達のプランは議会で猛反対を食らう。区画整理事業は国がやるべではないとの反対だった。東京の復興はすでに待ったなしの状況で後藤は大幅な計画後退をのまざるを得なくなった。
しかし後藤の理念に共感したのが東京市長で、かつて後藤の腹心だった永田秀治郎だった。彼は国に代わって市が主導して区画整理を実行する。その結果、東京は防災や衛生に配慮した新しい町として再生したのだった。この時に活躍したのが、かつて後藤の元で働いた人材だった。この時の開発が現在の東京の原型になっているという。
後藤は「金を残して死ぬのが下、仕事を残して死ぬのが中、人を残して死ぬのが上」と語っていたらしいが、実際に多くの人材を育てたようである。今の政治家や官僚には残念ながらこういうスケールの大きな人物は見あたらない。この国の人材の劣化というのも著しいように思えてならないのである。
なお当時はダーウィンの進化論を社会にも適用して、弱者などを救済することは国家の活力を削ぐなどといった主張があったが(その究極がナチスである)、彼はその考えを真っ向から否定したという。伝染病などになったら弱者かそうでないか関係なく命を落としてしまうから、世の中全体の衛生水準を上げないと国家は繁栄しないというのが彼の考えだったとか。全くその通りである。それに対して、最近の政治家、特に小泉などは、強者(と言っても、その実は世襲の馬鹿ボンのことだが)さえ残れば、弱者は死んでも良いという考えを実践しているのだから、愚かの極みというべきか。この国の劣化はとどまるところがない。
5/28 その時、歴史が動いた「養殖真珠宝石界に革命を起こす〜女性を輝かせた男・御木本幸吉〜」
今回の主人公は真珠の養殖で有名な御木本幸吉。
昔、真珠は天然物しかなく、しかも発見される頻度が極めて低いことから超高級品であり、ごく一部の女性しか身につけることは出来なかった。うどん屋を営みながら、副業的に真珠の売買をしていた御木本幸吉は、真珠が女性を輝かさせることに興味を抱き、真珠の養殖に本格的に取り組み始める。しかしそれは困難の連続だった。借金を重ねて増やした貝が赤潮で全滅したり、借金まみれの彼を常に支えてくれていた妻が亡くなったりなどの逆境の中、貝のどこに核を入れれば良いかの試行錯誤を繰り返し、ようやく彼は半円真珠の量産に成功する。彼はその半円真珠を使って、当時は和装が多かった女性のための帯留めなどの装飾品を製造する。
しかし彼はさらに次の時代を見据えていた。やがて日本も洋装の時代が来るとにらんでいたのだ。そうなると洋装に似合うネックレスなどの装飾品が必要で、そのためには真円真珠の製造が不可欠だった。しかしネックレスに使えるような大きな真円真珠の製造は困難を極めた。しかし彼は作業の下手な職人に限って真珠が出来る事実から、核に外套幕を付着させることがポイントであることに気づき、これをきっかけにして量産に成功する。こうして洋食による真円真珠が画期的な価格で世界に登場することになった。
しかしこれに抵抗を示したのがヨーロッパの宝石商だった。彼らは養殖真珠を「偽物」と断定し、マスコミを中心にネガティブキャンペーンを展開する(天然真珠の価格が下落することを恐れたのだろう)。御木本幸吉に対する風当たりが強くなる。しかしここで引き下がるとすべての女性を真珠で輝かせるという彼の夢は費える。ここで彼は勝負に出る。宝石商達を相手に外国で裁判を起こしたのだった。そして1924年5月24日「日本の養殖真珠は偽物ではない」との判決が下る。決め手になったのは生物学者達の「天然真珠と養殖真珠を違うものだと判断することの方が困難である」という意見だった。こうして養殖真珠は社会的に認められることになる。
私が小学生の時の修学旅行で御木本幸吉の記念館を見学した記憶があります。昔は彼の功績については教科書に載っていた記憶がありますが、今はどうなんでしょう。なお宝石と言われるものの中で、真珠は唯一生物的に作り出されるもので、他の鉱物系の宝石とは性質が全く違います。だからこそ天然物と全く変わらないものを人工的に作り出せたわけです。なお今では鉱物系の宝石も人工的に合成することが可能ですが、宝石としての価値は天然物と大きく差をつけてあります。
もっとも私には宝石なんて興味ないです。私の目にはダイヤモンドなんて黒炭の同素体としか見えないし、ルビーやサファイヤも不純物入りアルミナ結晶、真珠なんて炭酸カルシウムにタンパク質が加わった球という風にしか見えませんので。はっきり言って化学屋は、宝石にはあまり価値を感じなくて、価値を感じるとしたら煮ても焼いても腐らない金ぐらいです。
5/21 その時、歴史が動いた「攻防北の黄金王朝〜奥州藤原氏VS源氏」
今回のテーマは奥州に独自勢力を築きながら、最後は源氏に滅ぼされた奥州藤原氏について。
平安時代、陸奥の国は朝廷の支配下にあり、朝廷から派遣された陸奥守によって地元民である蝦夷は管理されていた。この陸奥守の国府である多賀城に送られてきたのが藤原経清だった。藤原氏の一門である経清だが、彼は主流から離れていたので地方の役人を歴任していた。彼の役割は当時は陸奥でのみ算出していた黄金を朝廷に届けることだった。しかし陸奥で算出した金は中央に届けられるだけで、地元民は全く潤うことはなかった。
中央での栄達を望めない経清は蝦夷の有力者である安倍氏の娘と結婚、彼らと結びつくことになる。しかし1051年に安倍氏が陸奥守に対して反乱を起こす前九年合戦が勃発、朝廷は陸奥の守に源頼義を派遣して鎮圧にあたる。経清は悩みつつも頼義側につく。しかし蝦夷の女を妻にしていた武将が讒言によって処罰されるのを見た彼は、所詮は自分も頼義の信任を得られることはないと判断、安倍氏側に寝返る。経清の寝返りによって安倍氏は朝廷群を打ち破る。
しかし頼義は隣国の出羽の蝦夷である清原氏に働きかけ、清原氏の軍勢が安倍氏への攻撃に参加する。これで安倍氏は滅ぼされ、経清も捕らえられる。裏切り者である経清に対する処罰は苛烈なものであった。彼は苦痛を増すために、あえて鈍刀で首をはねられたのだった。しかしこの時、経清の子供である清衡が生き残る。
清衡は母が清原氏当主の妻となったことから、清原氏の元で養育された。彼は清原氏の三人の息子の一人として勢力範囲の一部を任されるほどの信頼を得る。しかし当主が死亡して、1083年に後継者争いである後三年合戦が勃発する。弟である家衡に急襲され、妻子や家来を殺害された清衡は、陸奥守である源義家の支援を受けて家衡を討つ。こうして清原氏の当主の座をついだ清衡は、義家が私欲で争いに介入したとして朝廷から罷免されたのを機に、藤原の姓を名乗って奥州に都を設立する。朝廷に莫大な貢ぎ物を送ることで従順の姿勢を示して中央からの介入を排しつつ、交易などをさかんにして平泉は繁栄する。
しかしその藤原氏の転機は源頼朝の登場で訪れた。当時の日本は奥州を藤原氏が、関東を源氏が、西国を平氏が分割支配する状況だったが、西国の平氏を滅ぼした頼朝は奥州の藤原氏の制圧も目指す。そこに頼朝に追われた義経が逃れてくる。当主の秀衡は決断に迫られる。義経を追い返して頼朝に従順の意を示すか、それとも義経を押し立てて頼朝と一戦を構えるか。しかし既に朝廷への貢ぎ物を頼朝を通して納めるように要求されるなど、頼朝の藤原氏を滅ぼそうという意図を見抜いていた秀衡は頼朝と決戦する意志を固める。
しかしそんな矢先、秀衡が病死してしまう。彼は息子の泰衡に「藤原氏は義経と共に源氏と戦うべし」と言い残していたのだが、朝敵になることをことを恐れた泰衡はその決断が出来ず、義経を急襲してその首を頼朝に差し出して従順の意を示す。しかしそもそも頼朝にはその意志はなく、やがて藤原氏は攻撃を受けて平泉も陥落、こうして奥州藤原氏の栄華は終わる。
と言うように歴史を追えば、結局は4代目の泰衡の器量がなかったという結論にならざるを得ないわけだが・・・。実際、この時に秀衡が亡くなったのは非常に致命的だったと思われる。現実にはあそこで奥州藤原氏が徹底抗戦の意志を固めていれば、戦上手で知られる義経を前面に押し立てられると長期戦になっていた可能性が高かろう。すると当時はまだ西国も安定とはほど遠かった上に、頼朝の権威だって絶対的なものではなかったので、西国で不穏な動きが出たり、頼朝の家臣から離反が起こったりなど、何がどうなったかは分からなかったろう。となると、そこから数十年早く戦国時代に突入というような事態もあったかも。まあこれも「歴史のif」なんだが。
5/14 その時、歴史が動いた「日本人の心を守れ〜岡倉天心・廃仏毀釈からの復興〜」
今回のテーマは天下の愚策「廃仏毀釈」について。
明治初期の日本。日本の貴重な文化財が危機に瀕していた。発端は新政府が発した神仏分離令だった。これは国家神道を国の基本にしようとした政府が、既にかなり仏教との混交が進んでいた神道を強引に仏教から切り離そうとした政策だった。しかしこれに過剰に反応した民衆が、仏教の排斥に向かい、文化財でもある多くの仏像が破壊された。また多くの僧侶が神官に転向し、管理する者がいなくなった寺院は荒れ果て、経典が包装紙に使われたり、仏像が薪にされるような事態に至った。
この事態を憂いたのが岡倉天心だった。彼は仏教文化の壊滅的状態を見て、なんとかする必要があると立ち上がる。しかし世は脱亜入欧の時代で、日本の固有文化を尊重する空気はなかった。そこで彼は内閣総理大臣の伊藤博文に直接働きかける。彼はお雇い外国人のフェノロサに強力を仰ぎ、日本絵画の鑑賞会に伊藤を招いた上で、「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」とフェノロサから伝えさせることで、日本美術の保存の重要性を訴える(今も昔は、なぜか日本は外国人から圧力がかからないと動かない変な国だ)。天心の働きによってようやく日本の伝統文化を保護する方針が打ち出されることになる。
その半年後、天心はヨーロッパに渡り、外国の美術品の管理状況について視察する。そこで彼が衝撃を受けたのが、首や手足が破損した状態の彫刻(トルソー)がそのまま美術品として評価されていることに衝撃を受ける。ただ日本の仏像は美術品であると同時に信仰の対象でもある。一部が欠けた状態の仏像は信仰の対象とはならず、かといって下手な修復は美術品としての価値を下げる。天心はこのジレンマに囚われることになる。
視察の10年後の明治30年、ついに日本初の文化財保護法が成立する。東京美術学校の校長に就任し、美術行政を取り仕切っていた天心は、ようやく本格的に文化財の修復に乗り出そうとする。しかしその矢先、怪文書がきっかけで彼は職を追われることになる。天心が日本美術を重視することに反発した西洋美術派の反発が生んだ事件だった。(これについてはどっちが悪いとは一概に言いにくいんですよね。この番組だけ見てると、西洋美術派が強硬だったように見えるが、視点を変えると天心によって西洋美術派がかなり圧迫されていたのも事実です。)
野に下った天心は、民間団体である日本美術院を設立し、そこで文化財の修復を本格的に手がけることになる。彼が打ち出した方針は、現存の仏像については直接的に手を加えることはなく、破損部分のみを厳密な調査に基づいて復元して補充するという方法だった。彼のこの方針に基づいて多くの文化財が復元され、これが今日にまで残されることになった。
天下の愚策「廃仏毀釈」について。バーミヤンの大仏を破壊した馬鹿タリバンと同じようなことを、よりによって日本人がやっていたわけです。ちなみに日本の文化財は近代に二度危機を迎えています。一回目がこの廃仏毀釈。この時には心ある外国人が持ち出すことによって破損を免れた重要文化財もあります。二回目が第二次大戦後、戦争自体で破壊された文化財もありますが、戦後にアメリカに接収されたり、売却されたりで、多くの貴重な文化財が海外(特にアメリカに)に大量に流出しました。だから今日「日本にあれば国宝級」と言われる文化財がアメリカの美術館にゴロゴロあったりするんです。日本がいかに文化というものに敬意を払ってこなかったかを物語るエピソードでもあるわけですが。
なお神仏分離令のナンセンスさは、実際にあまりに実行困難だったために、最終的にはこの政令自体が有耶無耶になってしまったことがすべてを物語っています。そもそも日本における神仏習合は昨日今日始まったものではなく、仏教が日本に伝来した頃から既に始まっており、熊野信仰に見られる本地垂迹など、日本の信仰の重要な根幹の一つになってしまっているので、それを切り離すなんてどだい不可能だったわけです。残念ながら明治新政府の中心連中の文化意識はその程度のレベルだったというのが現実だったりするわけ。今でも政治家は文化には全く無知な輩が多いですが。
4/30 歴史ドキュメント01「徳川家康「江戸」建設に挑む」
次の歴史番組の形態を模索したパイロット番組と思われるスペシャルです。以前に「魯山人」をテーマにしてパッとしない内容になってましたが、今回はもっと無難に徳川家康の江戸建設にした模様。
さてそもそも家康が江戸に拠点を構えることになった理由だが、小田原攻めの時に秀吉に「江戸に居城を構えるように」と命じられたことによる。これは勢力が拡大していた家康を旧来の領地から切り離すことと、当時は湿地帯でとても城を作れるような状態でなかった江戸の開発を命じることで、家康の力を削ぐという目的が明確だった。しかし当時の家康にはそれに反抗するわけにもいかず(反抗するなら秀吉相手に一戦構えることになる)、家臣を引き連れて江戸の地に移動している。
ここで家康は、城の建設もそっちのけで、まずは家臣の住宅を比較的安定している地盤の部分に建設することから始めた。また一面が湿地帯である江戸の状況を見た家康は愕然としたが、同時に開発次第では江戸は発展の可能性がある立地であることも見抜いていたようである。江戸の開発については大阪をモデルにしていると考えられるとのこと。
しかしながら江戸の開発は難航を極めた。海が近いために真水の確保に苦労し、井の頭から水路で真水を引いたり、町人を招くための土地を作るために、湿地帯の前島に水路を築いて地盤を乾燥させるなど多くの工事が必要で、そのたびに家臣達が不眠不休で作業したという。こうして建設した土地に、家康は各地から町人を呼び集めて家臣達の生活を支える町人街を作り上げた。
そして江戸が劇的に発展するのは秀吉の死後である。関ヶ原の合戦で勝利して事実上天下を押さえた家康は、今度は大名達を動員しての天下普請を開始する。彼が取り組んだのが日比谷入り江の埋め立て。これは大名達の屋敷を建設するための土地を確保する目的もあった。この普請に各大名が動員され、彼らは多大な出費を強いられることになる。この普請は江戸の発展を促すと共に、家康にとっては脅威となり得る大名の力を削ぐ目的もあった。
多くの犠牲も払いながら日比谷入り江の埋め立ては急ピッチで完成。こうして江戸の原型はできあがる。
なお江戸は明暦の大火で市街の6割が消失するという被害にあっているが、この後、保科正之を中心として江戸の街の復興が行われ、この時に市街の大幅再整理と市街域の拡大が行われたという。これらを経て、江戸は世界最大の100万都市へと発展する。
以上、江戸の生い立ちについて。それほど感心するような情報もありませんでしたが、歴史番組としての基本を押さえており、以前の魯山人の時に比べると歴史番組としては格段に面白くなっていたように思います。魯山人の時には「どんな版組を作るのか」ということがまるで絞れていないように思えたが、今回は歴史番組としてテーマがハッキリしていたのが勝因。やはりターゲットのハッキリしない番組は駄目と言うことです。もっともこの形態は、今までの歴史番組と大きくは変わっていないので、制作側としては新味を出しにくいというジレンマがありそうですが。
4/23 その時、歴史が動いた「古事記誕生〜日本最古の史書の謎〜」
日本最古の史書である古事記だが、その中身は国造りの神話などとても歴史書とは言い難いような内容も含んでいる。
そもそも古事記の編纂を命じたのは天武天皇で、豪族を二分する壬申の乱で勝利した彼は、天皇を中心に国をまとめる必要に迫られていた。それまで歴史書は口伝のものを各豪族などが各々でまとめたものが多く、地域によって内容に大きな違いがあった。そこで彼は、天皇が日本を治める正当性を担保するものとしての正史を必要としたという側面が強かったようである。
実際の古事記の編纂は、歴史書について記憶していた稗田阿礼の口述を太安萬侶が筆記したという形になっているが、それは単なる口述筆記のような単純なものではなかったという。当時の日本では文書記述用のカナがキチンと整備されている状況ではなかったから、記述が様々で、文書があっても読み方が分からないというような状況だったという。それを稗田阿礼が口述することで初めて読み方や意味が明らかになるという状態で、それを太安萬侶がキチンと他の者にも分かる形にしながら記録していくという作業になったようである。
こうして編纂された古事記だが、これがその後、国家神道と結びついてしまったりなどいろいろあったが、今日でも日本人のメンタルには根を張っているわけでもある。
史書と言っても古事記の文献的価値は、残念ながら中国の史書などと比べると数段低いのは事実。中国ではかなり昔から、歴史を正式な形で記録するという作業が行われてきたが、日本ではこの時になってようやくなので、その差が出るのは仕方のないところ。結果として古事記の記述はとてもそのまま歴史的事実として読み取ることは無意味な内容が多いが、それでもその中から裏の意味を読み取ることは可能である(どこの国でも、太古の地方の豪族の話が神話に影響している。登場する神も怪物も、どちらもそもそもは地方豪族や部族の場合が多い。)。それに読み方によれば、天皇家とは大陸から渡来した部族の末裔という解釈も可能なわけで(高天原が朝鮮半島や大陸を意味していたら、そのものズバリである)、いろいろな解釈が可能になるわけである。
とは言うものの、これを中心に据えて歴史の教科書を作れるというような代物ではなく、そんなことをすると、進化論を否定して「神が万物を作りたもうた」と書かそうとしているアメリカ南部のとんでも教科書みたいになってしまうわけであるが。
4/16 その時、歴史が動いた「人間は尊敬すべきものだ〜全国水平社・差別との闘い〜」
士農工商の封建社会において、その身分制度の外におかれたのがエタ・非人と呼ばれた人たちである。彼らは職業などを制限され、差別の下で貧しい生活を強いられた。明治新政府発足後、四民平等により彼らは建前上は差別がなくなった。しかし現実には彼らは部落民として日常的に激しい差別にさらされ、彼らは貧困と差別に苦しめられながら、自らの出自を隠して生活することを余儀なくされていた。女学校を卒業して結婚して教師になった女性が、部落出身であったことが発覚すると共に、教職を追われた上に「血が汚れる」と離縁を申し渡されて自殺した事件なども発生している。
そんな時代、部落出身の青年・西光万吉がいた。彼もやはり部落出身であることを隠して生活していた。しかしそれが転機を迎える。きっかけは米騒動だった。暴動の中には貧しい生活を送る部落民も含まれていた。そのことが「部落民は凶暴だ」「性根が腐っている」と差別を巻き起こしたのだ。まるで部落民であること自体が罪であるかのような論調に、西光万吉は憤る。しかし振り返ってみると自らも差別を逃れるために、部落民であることを恥ずべきこととして出自を隠していたことに気づく。そして彼はこの問題に正面から向き合うことを決意して東京から故郷に戻る。そして貧しい暮らしを送る人々の中で、自らが立ち上がることを訴える。
一方、政府も部落対策を始める。しかしそれは「部落民の性根は歪んでいるので、それを矯正することで世間の同情を集めることができる」と部落民に対する教育政策であった。つまり差別する側でなく、差別される側に問題があるとしたのである。
今でも差別主義的思想を持つ輩は、いじめ問題などでも「いじめられる側に問題がある」などとのことを言いたがるが、それと同じ思想である。言うまでもないことだが、いじめ問題ではいじめる側にほとんどの問題があるし(いじめられる側の問題など、まず本人の責任でない問題が多い)、差別についても差別する側の問題である。
西光万吉もこの政府の政策を見て、その間違いに憤る。彼は「部落民自身が不当な差別の撤廃を求めるべき」という論文を読み、自らが立ち上がろうと「水平社」を結成する。彼は部落への同情を呼びかけていた新聞記者の元を訪れて、同情を呼びかけるのは止めて欲しいと訴える。あなた達のためにやっているんだという記者に対して、彼は「可哀想という恩着せがましい姿勢こそが部落民を見下しているのだ」「尊敬する気持ちを持って、同じ人間を見て欲しい」と訴える。これを聞いた新聞記者は自らの傲慢な姿勢に気づいて恥じ入る。
彼の運動は全国に広がっていった。そして出自を隠していた部落民達も徐々に彼の運動に加わっていった。そして1922年3月3日、全国水平社創立大会が開かれ、そこで西光は水平社宣言を読み上げる。「吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ」という宣言に、多くの部落民が感動の涙を流す。
彼らの行動のおかげで、部落差別については当時よりははるかに改善した。今日では少なくともある程度の知性を持つ者なら、部落差別のナンセンスは分かっている(数百年前に豊臣秀吉が支配のために取り入れた制度に今まで引きずられているのだから、馬鹿そのものである)。しかし未だにわざわざ調査してまでも差別したがる馬鹿とか(昔から「差別とは卑怯者の最後の安らぎ」と言う。自らに自信を持てない輩は、人を差別で引きずりおろすことで自尊心を保とうとするのである。)、差別を口実にして利権を引き出そうとするエセ同和なども存在しており、残念ながら部落差別の完全根絶まではいっていない。
また差別は部落だけではない。同じ日本人同士でさえこのざまなのだから、国籍が変わったりするとこれがまた差別につながる。未だに「家柄がどうこう」となどと言う輩がいるが、あれなど差別意識そのものである。それに現在の世襲のバカボン政権は貴族社会を目指そうとしているから、家柄で差がつく差別社会を理想と考えている。現に「勝ち組、負け組」などいう言葉が新たな差別の芽として育っている。これが社会階層として完全に固定化されれば、小泉や安倍が夢見た身分社会の完成である。人間に浅ましい精神があり、それに支配される浅ましい人間がいる限り、どうしても差別の根絶は難しい。
ちなみに西光が新聞記者に対して語った言葉については、障害者の団体も同じようなことを言っている。それだけ難しい問題だと言うことでもある。
4/9 その時、歴史が動いた「音楽の市民革命〜神童モーツァルトの苦悩〜」
今回は毛色が変わってモーツァルト。モーツァルトが音楽を一部の特権貴族から市民に取り戻す過程を描いている。
神童として貴族会でもてはやされたモーツァルトは、14才で初のオペラを書き上げるなど非凡な才を発揮する。彼はザルツブルグの領主に仕え、各地を演奏旅行したり、オペラの作曲を引き受けるなど大活躍する。しかしその後、彼が20才の時に新たに領主に就任した伯爵と対立する。伯爵は彼にオペラなどの大作は作らず、領内の協会の儀式用の短い音楽だけを作るように命じたのだった(早い話は、伯爵はモーツァルトを芸術家として見ずに、単に儀式用音楽の作曲職人としてしか見ていなかったわけである)。これに怒ったモーツァルトは伯爵とケンカ別れしてウィーンに出る。
しかしここで彼は仕事の依頼が全く来ないという状況に直面する。当時の音楽界は貴族に牛耳られており、伯爵に通じる貴族は彼に仕事を与えなかった。つまりは「生意気な平民風情」が権力者から干されてしまったわけである。
貴族社会の横暴に直面したモーツァルトだが、それでめげるような器ではない。彼は貴族社会を痛烈に批判した作品である「フィガロの結婚」に注目して、これをオペラとして上演しようと考える。しかし当時この作品は上演禁止とされていた。そこで彼は皇帝の信頼の厚い宮廷詩人を仲間に引き込み、脚本と音楽は極秘で完成、そして宮廷詩人の人脈を利用して皇帝に直接に上演許可を得ることにした。彼は「貴族批判のセリフはすべてカットした」としたと説明し、皇帝に音楽を披露、宮廷詩人を信頼していた上に、モーツァルトの音楽に魅せられた皇帝は、深く内容を吟味することなく上演を許可する。しかしモーツァルトは確かに直接的に貴族を批判したセリフはカットしていたが、内容自体に権力者に対する批判を潜ませていた。彼はこれを貴族達の前で披露したわけである(強烈な意趣返しである)。
「フィガロの結婚」で貴族社会にけんかを売ったモーツァルトだが、時代の方が彼を追いかけてくる。やがてフランス革命が勃発、人間は平等だという思想がヨーロッパを席巻する。そんな中、モーツァルトは市民のためのオペラを企画する。それが貴族階級のためのイタリア語ではなく、市民のためのドイツ語で書かれたオペラ「魔笛」であった。この作品には人間は平等であるというメッセージが込められていた。モーツァルトは病をおしながらこの作品を精力的に書き上げる。そしてこの作品は大ヒットする。しかしモーツァルトは身体を壊して、この2ヶ月後にこの世を去る。
今回の内容は、いわゆる「アマデウス」のヒットで一般に広がってしまった「モーツァルト=音楽的才能以外は単なるアホ」というイメージに対抗しているようである。確かにあの映画のモーツァルトの人格はあまりにデフォルメされてしまっているのは事実である。とは言うものの、彼が生活力的には欠けている部分が多々あったのも事実で、後先を考えずに行動する部分もあったので、「単なるアホ」は極端にしても、あまり計画的人生を送った人間でないのも確かである。
なおモーツァルトは音楽が貴族から市民に移行する時の過渡期の作曲家としての苦悩があったが、この後のベートーベン以降は最初から市民を相手にした音楽家としての活動がメインとなっている。生活と自由な創作の狭間での苦悩とは、芸術家にはつきものであるが、モーツァルトも才能豊かであるが故にそれに翻弄されたということでもある。それに比べると、現代は生活に何の不安もない状態での「自称芸術家」がなんて多いことか(某知事の息子とか)。ちなみに「無職」ではあまりに世間体が悪い場合に名乗る職業で多いのが、作家(含フリーライター)やアーティストだったりする。何の資格もいらないので、名乗るは自由であるから。もっとも、世間がそう認めてくれるかは別問題だが。
3/12 その時、歴史が動いた「戦国北条百年王国の夢」
今回の主人公は、戦国時代に関東で勢力を誇った北条氏について。北条氏は初代の早雲が戦国大名として勢力を確保してから、氏直が秀吉に降伏するまでの五代の間続いたのだが、北条氏は民を慈しむことを基本理念において統治を行っていたということを紹介らしい。
まず早雲であるが、彼は応仁の乱で苦しむ民を目の当たりにして、自らは民を慈しむことを基本において、それによって民に対して過酷な統治を行っていた足利氏を追って伊豆・相模に独立勢力を確立したという話。実は早雲についてはこの番組で以前に扱っており、この序盤部分は事実上はその時のダイジェストである。
次に登場するのは三代の氏康。武田や今川との戦に明け暮れることになり、民が疲弊していることに気づいた彼は、早雲の教えに立ち返って民を慈しむ政策を実行したという。年貢の支払いに行き詰まって逃亡した農民のために、それまでの年貢を免除する徳政を導入したり、目安箱を設置して公平な裁判を導入したという。また武田信玄・今川義元と三国同盟を結んで外交によって争いを解決できる道を選んだことによって、領国は安定したという。
しかしその北条氏に暗雲が漂うのは、秀吉が全国統一を目指し始めた時。中央集権を進めて、民に過酷な重税を課す秀吉の政治は、北条氏の理念とは相容れないものだった。そこで氏直は徳川家康や伊達政宗と手を組むことで秀吉と対抗することを目指す。そして秀吉の小田原征伐。氏直は万全の体制で籠城して時間を稼ぎ、家康や政宗が呼応してくれれば天下の情勢はまだ分からないという策を打つ。しかしその家康が秀吉によって切り崩され、政宗も秀吉に降伏するに至って万策尽きる。氏直は自らが切腹することで他の者は助けるという条件で秀吉に降伏、こうして北条氏の百年王国は終わりを告げる。
なんか今まで見たことのある話の総集編のような印象を受けた。なお北条氏は「小田原評定」という言葉で言われるように、秀吉の侵略の前に打つ手もなく無策に明け暮れたように言われるが、それはあくまで構成の権力側からの見方だろう。実際にはそれなりの手は打っていたというわけで、その方が実情には近かろう。もっとも、徳川や伊達という味方としては心許ない連中に頼らざるを得なくなっていた時点で(共に敵にしたらたちが悪いが、味方としては頼りない連中である)、情勢は絶望的に不利だったのであるが。
3/5 その時、歴史が動いた「北越の蒼龍"明治"に屈せず〜河井継之助 地方自治への闘い〜」
異国船が現れるなど社会が騒然としてきた幕末。北越の小藩・長岡藩では、莫大な借金に財政が破綻寸前であった。その立て直しに活躍したのが河井継之助だった。最初は彼の意見は上層部によって妨げられていたのだが、彼の紳士に藩の将来を思う姿勢が藩主に認められ、藩主の後押しで改革を実行してからは、長岡藩の財政に目に見えて改善していった。
しかし時代が彼の前に立ちふさがる。幕府に対して長州藩が闘いを挑み、幕府はその処理に手間取っていた。それを見た河井は、幕府にもはや諸藩を統率する力がなくなっていることを感じ、藩の武力の強化を行う。
やがて大政奉還、そして新政府軍による幕府討伐が始まった。新政府軍は数手に分かれて最後まで抵抗を続けていた会津に迫っていった。その一軍が北陸沿いに武力で各藩を従えながら長岡に迫ってきた。河井はなんとか長岡を戦乱から救う方法を模索するが、抵抗すれば新政府軍に攻められ、降伏すると会津との戦乱に狩り出されるのは必至で、どちらになっても戦乱に巻き込まれるの確実であった。河井は新政府にも幕府にも荷担しないとして中立を宣言する。
降伏を迫る新政府軍に対し、河井は自らが使者に立ち交渉を行う。また彼は、新政府に対して「諸藩を武力で従えるのではなく、諸藩がそれぞれ繁栄すれば日本全体が強くなる」という主旨の嘆願書を新政府軍の使節に差し出す。しかし新政府軍代表の土佐藩士の岩村精一郎(24才)は、河井を地方の家老と侮り、彼の話などに聞く耳も持たず、武力による制圧のみを告げる。河井はここに来て戦闘のやむなしを決意する。
しかし戦闘は新政府軍にとって予期せぬものになった。長岡藩の兵力1300に対して新政府軍は5000、しかもまず奇襲をかけたのは新政府軍だった。長州藩最強の奇兵隊に対し、河井は自ら最新兵器のガトリング砲で立ち向かい、奇兵隊に対して痛手を加える。しかし三方から攻め寄せる新政府軍を支えきれず、長岡城は奪われる。だが河井はゲリラ戦で抵抗を続け、2ヶ月に渡って新政府軍を釘付けにする。この頃に書かれた河井の檄文によると、まだ新政府の体制が定まっていないから、抵抗を続けているとそのうちに新政府軍に反乱する藩などが出てくることを河井は期待していたことがうかがえるという。
同様の懸念は新政府側も持っていた。新政府軍の参与であった木戸孝允は、もしこの北越戦争で敗北すれば新政府の瓦解にもつながりかねないとして、大規模な増援を送り込む。
一方、その頃の長岡では、河井が自ら700を率いて長岡城に総攻撃を仕掛け、ついに長岡城を奪還してしまう。しかしこの時、河井が足に銃撃を受け、深手を負った河井は指揮を取れなくなってしまう。そこに新政府軍の援軍が到着、21藩1万2000にも及ぶ軍勢が長岡に迫る。そして抵抗空しく長岡城は最陥落、長岡の市街は灰燼と帰し、河井も会津に向かって落ち延びる途中で傷が悪化して亡くなる。
この後、日本は中央集権国家として突っ走ることになる。それが果たして良いことだったか悪いことだったかは判断に苦しむところである。また河井に対しても、無益な抵抗で徒に犠牲者を増やしたとの批判もあるようだ。まあ確かに、河井の行動に対する評価は難しいところだろう。もっとも彼は武士の体面とかの狭い了見で新政府にたてついたわけではないのであるが。
ちなみに明治維新は若い藩士が老人達を押しのけて台頭したまさに若手活躍の時代なのだが、それは裏を返せば「世間も知らないひよっ子が感情にまかせて突っ走る」という時代だったわけでもあり、あたら無駄に事を荒立ててしまった部分も多々ある。河井との交渉を頭から決裂させた岩村精一郎なんてのは、まさにその典型だったような。
2/27 その時、歴史が動いた「軍服を脱いだジャーナリスト〜水野広徳が残したメッセージ〜」
日露戦争に日本が勝利し国中が沸く中で一冊の本が人気を博した。その本「此一戦」は日露戦争の戦いでの日本軍の活躍を描いたもので、執筆したのは海軍軍人として自身も戦争に参加した軍人の水野広徳であった。彼は軍隊を強化することこそが国を救うと考え、軍国主義の重要性を謳った。
しかしその彼の考えを完全に覆す事件が起こる。第一次大戦が勃発、戦車に毒ガス、航空機が投入されたこの戦争は、それまでの戦争の様相を一変させた。大量殺戮が可能となったのである。最新の戦争の状況を視察するために軍事視察にヨーロッパに赴いた水野は、フランスの激戦地ベルダンを訪れる。
そこで水野が目にしたのは、老若男女の別なく殺戮された大量の死体であった。破壊と殺戮を欲しいままにした戦場はこの世のものとも思えない惨状であった。国の膨張政策がぶつかり合った結果のこの事態に、水野は国家の有りように対する大きな疑問を抱くようになる。国家は国民を守るためのものではなかったのか、軍人としての自身の存在、それらに悩んだ水野は、戦争を防ぐには軍備の撤廃しかないという結論に至る。帰国した水野は大臣に「日本はいかにして戦争に勝つかより、いかに戦争を避けるかこそが重要だ」と当時の軍部の方針に真っ向から反する意見を述べ、自身も軍服を脱ぐ。
水野はジャーナリストとして軍備縮小を世に訴えた。軍備の拡大で疲弊していた国民に水野の主張は受け入れられ、また第一次大戦で疲弊したヨーロッパでも軍備の縮小に向かい始め、軍縮会議が実施される。
しかし世の中は不穏な方に向かい始める。軍部が統帥権を盾にして政府の軍縮方針に反発、暴走を始める。また言論に対するテロによる弾圧も始まる(今も昔も卑怯者がすることは同じである)。軍縮を進めた浜口雄幸総理が馬鹿右翼の凶弾に倒れるに至り、テロを恐れて政府も沈黙、完全に軍部はコントロールを失って暴走する。
やがて満州事変が勃発、水野はこのままではアメリカとの戦争になり、日本は爆撃機の攻撃を受けて死屍累々野状態になると訴えるが(まさに後の東京大空襲を事前に完璧に予言していた)、彼のこの主張は民衆の目に触れる前に発禁処分となる。そして軍部による報道管制が強化され、報道機関は御用報道ばかりになる。講演会で自らの主張を訴える水野は卑怯者の右翼テロリストに命を狙われることになる。そしてついには彼は執筆禁止者リストに載せられ、発表の場を完全に奪われることになる。
この後の日本はまさに水野の予想通りの死屍累々たる惨状を経て敗戦へと至ることになる。正常なジャーナリズムを失った国がどのような惨状を迎えるかを物語るエピソードである。
戦争に賛成する奴は、自分は絶対に安全な場所にいられると確信している卑怯者か、戦争の現実を知らないか想像も出来ない馬鹿だけだと言うが、水野も実際の惨状を目の当たりにして考えが180度変わったという。現実に日露戦争ぐらいまでは一応は戦闘員同士の戦いが主であり、まだ軍国的ロマンチシズムを振りかざす余地があるが、第一次大戦以降の戦争は、非戦闘員の大量殺戮を競うだけのものであり、軍国的ロマンチシズムさえ出てくる余地がないのである。今日に至るとまさに「軍隊では国民を守れない」というのはハッキリしており(アメリカのイラク戦争の泥沼を見れば明らか。軍事力的には比較にならない差があるのに、イラクのテロによる反撃をアメリカは全く防げないでいる。)、軍拡に走るのはナンセンスだというのは明らかなのである。
2/20 その時、歴史が動いた「シリーズ秀吉の猛将2 豊臣家存続の秘策〜加藤清正 二条城会見〜」
秀吉の配下で猛将として名を上げた加藤清正。彼は知略も兼ね備えた武将でもあった。肥後で豪族の反乱が起こった時、清正は慈悲で持ってあたれば収まると秀吉に進言、秀吉から肥後の半分を託され見事にこれを治めた。清正の秀吉に対する忠誠は厚く、清正の虎刈りの伝説は、彼が朝鮮出兵時に秀吉に薬としての虎を献上していたことによるという。
しかし秀吉がこの世を去る。清正は秀頼を命がけで守ることを誓う。秀吉亡き後、家康と三成との対立が激化した時、清正は有力者にもかかわらず秀頼に家臣の礼をとり続ける家康こそ、秀頼を盛り立ててくれる人物と見込んで関ヶ原の戦いでは東軍について九州で闘う。
しかし関ヶ原の合戦で勝利をおさめた後、ようやく家康がその本心を現し始めた。家康は豊臣家に多くの普請をさせたり、無断で領地を他の大名に分け与えたりしてその財力を削ぎにかかる。これを見た清正は豊臣家の将来に暗雲が漂ってきたことを感じる。他の武将が家康に気を使って、秀頼のご機嫌伺いに現れることさえなくなった時にも、清正は敢然として秀頼の元に通い続ける。また彼は熊本城に秀頼を匿うための部屋を設け、いざとなれば秀頼を守って熊本に籠もって一戦するつもりでいた。
そして家康がついに秀頼に害を及ぼす意志を示す。10万の兵を率いて上洛した家康が、秀頼に二条城に来るように求めたのだった。清正はもはや秀頼が家康配下の一大名となってでも存続を図るしかないと考え、反対する淀君を説得して秀頼と共に二条城に向かう。
清正は家康を刺激しないようにわずかな供回りだけを従えて二条城に向かった。秀頼につきそう清正は、もしもの際には家康と差し違える覚悟で懐に短刀をしのばせていた。そして秀頼と共に下座で家康を待った。上座についた家康は秀頼に共に上座につくように招く。しかしこれを受けては秀頼に臣従の意志がないと見られてつけまれると見た清正は秀頼にそれを拒否させる。こうして家康と秀頼の二条城での会見は終了し、清正はなんとか秀頼を守り抜くことに成功する。しかしその後、清正は熊本への帰国途上の船上で倒れ、この世を去る。大坂の陣で豊臣家が滅ぶのはその3年後である。清正亡き後も加藤家を警戒していた家康は、大坂の陣の際に熊本城に家臣を派遣して監視させていたという。
豊臣家にとって痛かったのは、家康に対抗できる力を持つ唯一の大名であった前田利家が亡くなったことと、この加藤清正が亡くなったことだと言われている。実際、知勇兼備の加藤清正が亡くなった後、武辺者の福島正則だけでは豊臣家を支えられなかったのは当然と言えば当然であるわけである。
もっともその知勇兼備の清正も、関ヶ原では家康にまんまとだまされているわけだから、家康のタヌキ度は相当のものであったということでもあるのだが。
2/13 その時、歴史が動いた「シリーズ秀吉の猛将1 戦国の風雲児 法の世に散る〜福島正則 広島改易事件〜」
秀吉の家臣で、その武人としての働きで出世した福島正則。しかし彼は時代の変化に飲み込まれてしまうことになる。
豊臣家に対する忠誠度が高く、秀頼を守り抜くことこそが自らの使命と考えていた福島正則、しかし彼を中心とする武闘派が石田三成を中心とする官僚派と対立したことが家康につけ込まれる元になる。家康が上杉討伐に出た間に三成が挙兵した際、家康こそが秀頼を守ってくれる人物と信じていた正則は、自ら率先して家康支持を表明、それが豊臣系大名の趨勢を決し、結果として関ヶ原の戦いは家康川の勝利に終わる。
しかし関ヶ原の合戦で勝利をおさめた後の家康は、徐々にその正体を現し始める。正則など豊臣恩顧の大名は、家康から多数の普請を命じられてその国力を衰退させられる。この期に及んで家康の意図に感づいた正則であるが、時は既に遅くもう抵抗するすべはなかった。
こうなった以上、正則は豊臣家が家康に屈する形になっても仕方がないから、何とか豊臣家が存続できる道を模索するようになる。そして家康が10万の兵を率いて京に上り、秀頼に二条城に来るよう求めた際、秀頼が殺されると反発する淀君を必死で説得、秀頼を二条城に送ると共に、盟友の加藤清正と協力して必死で秀頼を守り抜く。
しかしその後、彼が頼みとしていた盟友・加藤清正が病死、正則一人では家康とは対抗しようがなかった。そして家康はついに豊臣家に鐘の銘文の件で因縁をつけて合戦に及ぶ。正則は自らが使者として秀頼を説得すると願い出るが、元より豊臣家を滅ぼすことしか考えていなかった家康には一顧だにされなかった。こうして正則の願いも空しく豊臣家は滅亡。失意の正則は、家康家臣の一大名として存続する道を選ぶ。
だがそれさえも彼には許されなかった。家康が亡くなり、後を継いだ秀忠は自らに全く軍功も何もないことにコンプレックスがあった。そのような彼は大大名を改易することで自らの権威を示そうと考えていた(実力のない二代目馬鹿ボンほど、無意味に権威を振りかざそうとするという典型)。その時に標的にされたのが外様大名の正則だった。
広島城が豪雨被害で石垣が崩れる事故が発生、正則はすぐに復旧工事を命じたのだが、これが城の修繕は幕府に届け出が必要だと定めた武家諸法度に反する行為だと幕府に糾弾されたのだった。工事した分を元通りに戻す(つまりは破壊する)よう命じられた正則は、幕府に対して反逆する意志がないことを示そうと、指示された部分とは別の部分をより大規模に破壊する。
しかしこれは幕府側にとっては格好の口実となる。正則が幕府の指示に従わなかったと正則は領地没収を命じられたのである。こうなっては幕府と一戦交えると家臣4000人は城に立てこもり、正則の指示を待つ。正則は決断を迷うが、結局は幕府の指示に従って粛々と領土を明け渡す。
正則の話を見ていると、典型的な体育会系脳天気男の悲劇のように思える。正則のような単純な男は、家康のような古狸にかかるとひとたまりもなかろう。見事に餌食にされてしまったわけである。もっとも最後の改易を粛々と受け入れたのは、正則自身は豊臣家が滅んだ時点で既に半分死んでいたとも言えるのだろう。まああそこで一戦を構えても、武士の面目は立つかも知れないが、無駄に家臣領民の犠牲を増やすだけなので、統治者としては妥当な選択でもあるのであるが。
なお次回は加藤清正とのこと。清正は正則よりは知恵者だったようで、家康の意図を見抜いて密かに秀頼を逃がすための算段を図っていたとの記録が残っている。ただ彼の場合、行動を起こす前に本人が亡くなってしまうのであるが。
2/6 その時、歴史が動いた「シリーズ江戸時代の危機2 天明の大飢饉 江戸を脅かす〜鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策〜」
鬼平犯科帳の主人公で、火付盗賊改として悪を厳しく取り締まったイメージのある長谷川平蔵であるが、彼は犯罪者の更生にも貢献した人物であるという。その長谷川平蔵が主人公なのが今回。
1787年、天明の飢饉による米価高騰に苦しむ人々が、江戸中の米屋を襲う天明の打ち壊しが広がっていた。町奉行が歯が立たないこの暴動の鎮圧に活躍したのが長谷川平蔵であった。しかし暴動が鎮圧された後も治安が定まらず、これを取り締まるための火付盗賊改のトップに起用されたのが長谷川平蔵だった。彼は強盗などの重要犯罪者を取り締まったことが記録に残っているが、一方で衣類泥棒やスリなどの犯罪も多く取り締まっており、それらの犯罪は無宿人によってなされていた。
無宿人の多くは天明の飢饉によって食べられなくなった農民が江戸に流れて来たものだったという。職もなく生きていけなくなった彼らは、犯罪に走ることになったのだという。無職人対策は幕府でも重要問題となり、無宿人を重労働に課して見せしめにしたが無宿人が減ることはなく、老中の松平定信は彼らを故郷に送り返す人返しの政策をとったが、治安の悪化を恐れる大名達に反対され頓挫する。定信は新たな対策のための人材を求めるが、誰も応じる者はいなかった。そんな中、自ら名乗り出たのが長谷川平蔵だった。彼は無宿人の多くが生きるためにやむなく犯罪に走る現状をよく知っており、彼らに職業訓練を施し自活能力を与えることで更生できると考えたのである。
平蔵は隅田川河口の島に人足寄場を建設し、そこで無宿人達に大工や鍛冶、おけ作りなどの技術を身に付ける訓練が行われた。また寄場で作られた製品は江戸で販売され、特に紙すき訓練で作られた再生紙は飛ぶように売れたという。その利益の2割を平蔵は材料代や道具代として差し引き、8割を人足達に分け与え。出所後の生活の元手として貯金させたという。また一方で、彼は各地に部下を送り、人足達の出所後の就職先の開拓も行った。
しかし人足達の中には、既に労働意欲を完全に失っている者もいたという。そこで彼は道徳の実践を説く心学の学者を招き、勤労や禁欲の重要さを教える徳育に力を入れたという。これによって多くの人足が次第に更生への道を歩んでいった。そうして1790年、第一号の出所者が社会復帰していった。この後も順調に出所者は増え、江戸の治安改善に大きく貢献したという。
江戸自体に既に今日の刑務所の基本が見事に完成していたことに驚く次第。長谷川平蔵は実はかなり先進的な民主主義者であったようである。実際、当時のように貧困のために犯罪に走ったというような犯罪者の場合、この手の施設は更生に対して大きな効果を上げることが出来たであろう。彼がこのような先進的な施策をとれたのは、彼の本質が慈悲に満ちていたというようなことよりも、やはり日常的に貧困者の実態に触れて現実を知っていたということが大きいだろう。金持ちの世界しか知らないボンボンだとこのような現実的な政策は取れず、貧乏であること自体を犯罪のようにとらえて安直に切り捨て策のみを取ってしまうというのが実際である(前総理や前々総理がまさにその端的な代表例である)。
ただ今日のように、「人を殺してみたいと思ったから殺した」というような馬鹿や、性犯罪者のような趣味の犯罪者が増加している今日では、この方法での更生は難しいというのが難点である。説くに人間の根本が完全に壊れてしまっている馬鹿の場合、通常の意味での更生はほぼ不可能というのが現実だったりするところが厳しいところ。現代においても徳育重視を訴える政治家などもいるが、問題はその中身が愛国心などという役にも立たないくだらないものばかりであるということ(自分たちには都合がよいのだろうが)。滅私奉公、忠君愛国なんかを強調しても犯罪者が更生できるどころか、また新たな犯罪者を生み出すのがオチ。公の精神を教えるなら、国などという小さな枠を課さないことが重要である。全く難しい時代になったものである。
1/30 その時、歴史が動いた「シリーズ江戸時代の危機1 富士山大噴火〜幕府・腹腔への闘い〜」
今回からシリーズで、江戸時代の危機に対して当時の政権がどう対応したかを特集するそうな。今回は天変地異への対応。宝永の富士山の大噴火である。
江戸時代中期の1707年11月23日、富士山が大噴火を起こす。麓には火山弾や火山灰が降り注ぎ、壊滅的な被害を受ける。しかも被害はそれにとどまらなかった。小田原の酒匂川の川底が火山灰で上昇、堤防が切れて流域の村々が押し流されて壊滅してしまったのだった。しかし小田原藩には民衆を援助する力はなく、幕府に領地の半分を差し出すという前代未聞の挙に及ぶ。幕府はそれを認め、国の主導で復興が進められることになった。幕府は全国の諸般から資金を集め、堤防の修復作業を行う。
しかしこの時に工事を受注したのは江戸の大商人で、彼らは修復費の大半を遊興費や接待費に充て、堤防は粗悪な木材を使用した手抜き工事を行う。そしてこの手抜き工事の堤防は案の定、すぐに決壊し、残っていた家々までも押し流される。こうして農民に見捨てられた亡所と呼ばれる廃村が増加することになる。
だが吉宗が8代将軍に即位した頃から状況は変わる。彼は幕府の地方行政を痛烈に批判した田中休愚に目を付け、彼を小田原藩の復興事業に取り立てる。休愚はまず談合を廃し、公平な入札を行う。その結果、地元の事情に詳しい業者が今までよりも安い費用で工事を受け持つことになった。彼は川の流れを元に戻すと共に、弁慶枠と呼ばれる木枠を川の流れに接地し、川の流れを弱める。これで洪水は防げると思われた。しかし今度は下流に大量の火山灰が蓄積し、豪雨で下流の堤防が決壊してしまった。そこで休愚は下流の堤防工事も行うことになる。
こうして堤防は完備されたが、今度はその維持管理の負担について住民達の間で対立が深まる。休愚はこれを仲裁して負担が公平になるように配慮すると共に、吉宗から与えられた資金によって祭りを開催、住民の間のわだかまりを解いていく。
吉宗は休愚の実績を認め、彼を大寒に取り立てる。しかしその直後、彼は病に倒れてこの世を去る。休愚の事業は娘婿の蓑笠之助に引き継がれることとなった。彼は火山灰で覆われた小田原で栽培できる作物として、サツマイモを農民達に紹介する。サツマイモは当時、青木昆陽によって関東に普及し始めたばかりの作物だった。こうして村々は復興に向かう。
しかしその矢先、再び酒匂川が反乱、休愚が築いた堤防も決壊してしまう。笠之助は本格的な堤防の建設が必要と幕府に申し出、吉宗も翌日に工事の許可と資金を保証するという異例の早さの対応をする。笠之助は城の石垣に使用された石積みの技術を堤防に応用、強固な堤防を建設する。住民もこぞって工事に協力、堤防完成後は酒匂川の反乱は目に見えて減少する。それと共に住民も村に戻って来、幕府も小田原藩に土地を徐々に返還していく。こうして復興はなされたのだった。
うーん、やっぱり吉宗という人物は指導者としてはなかなか優秀だったと言うことか。それにしても江戸時代でさえ災害復興に国が主導的に取り組んでいるというのに、今の政府は「自助努力」の名の下に被災者を切り捨てたのだから、どっちの時代の方が進んでいるんやら・・・。工事の入札を行ったら、奉行と癒着している大手商人ばかりが受注して、彼らは工事は手抜きして費用の一部を接待(つまりは政治家へのキックバック)に回していたと言うのは、これまた現代と全く変わらない図式。だから今でも、このような不正の財源のためのガソリンの暫定税率を死守しようと自公が悪巧みしているのだが。
1/23 その時、歴史が動いた「都会の地下に夢をもとめて〜地下鉄の父・早川徳治〜」
今回の主人公は日本で初めて地下鉄を建設した早川徳治。彼は元々は政治家を目指して後藤新平の書生となっていたが、後藤が鉄道院総裁の任にあったことから、彼は今後の国家にとって鉄道が重要だと考え、いきなり新橋駅での切符切りから始めたという。彼の現場主義はこの頃から徹底していた。
1914年、早川はイギリスに自費で留学し、現地の地下鉄などを調査する。そしてグラスゴーの地下鉄が乗車人数を制限して、ゆとりを重視しているのを見てショックを受ける。当時の東京は路面電車がすし詰めで走っている状況で、ゆとりなどとても考えられなかったからだとのこと。
帰国した彼は、早速地下鉄の構想実現のために動き始める。しかし東京で地下鉄を建設するという話は当時の人々にはあまりに突飛すぎ、彼は山師扱いされたという。しかし彼は諦めず、独自に交通量調査を実施したり、地質のデータを入手したりして地下鉄建設のための出資を募って回った。ようやく彼の努力が実り、大物実業家の出資が決まり、1919年に地下鉄建設の許可が下りる。ただしこの時の許可状には「東京市が買収する時にはこれを拒めない」との記述があったという。東京市自身も、地下鉄が事業として成り立つならそれを取り込む思惑があったのだという。
工事は難航を極めたが、早川はくじけそうになる現場の技師達を鼓舞しながら工事を続け、ついに1927年に上野−浅草間の地下鉄が開通する。この地下鉄は当初は評判を呼ぶが、やがては乗客数が低迷し始める。そこで彼は路線延長の勝負に出る。この時に建設資金を捻出するため、百貨店の前に駅を作って建設費を百貨店に出資してもらうという方法をとる。こうして路線は新橋まで延びる。都心の百貨店と直結する地下鉄は新たなの人の流れを生み出し、東京の新しいモードを発信することになる。
しかし早川も予想していなかった事態が発生する。地下鉄が事業として旨味があると感じた事業者が、続々と路線を建設し始めたのだった。また次々と鉄道会社を手に入れていた五島慶太が新橋に路線を延ばし、早川に直通運転を申し入れてくるが、早川は地下鉄に対する考え方の違いからそれを拒否する。早川は地下鉄にゆとりを望んで、施設面に先行投資をしていたが、五島はあくまで合理主義的にコストを切りつめるタイプで、思想として水と油だったらしい。
両者の争いは続いたが、そこに思わぬ介入が発生する。鉄道省が地下鉄を国家の管理下に置く姿勢を打ち出したのだった。そして早川と五島の対立を格好の口実にする。そして早川は鉄道省から辞任を迫られることになり、結局は1941年に鉄道事業の一切から手を引かされる。この時に地下鉄はすべて営団に譲渡されることになったのだという。ちなみに早川はその翌年に病死している。
えげつなと感じる結果だが、当時は国が戦争絡みもあって鉄道を国家の元に集約していた時期で(地下鉄だけでなく、路線鉄道がすべて国鉄に統合されていた)、その流れに早川も巻き込まれたということ。その後、地下鉄は公的機関によって運営されることになったが、残念ながら現在の東京地下鉄を見れば分かるように、早川が目指した「ゆとり」とは対局の姿になっている。
先週に予告を聞いた時には、今回はプロジェクトXになるんだろうかと思っていたが、予想に反してプロジェクト×(バツ)だった。実際、あの番組に登場した人たちも、必ずしも全員が報われた人ばかりではないんだが。
12/19 その時、歴史が動いた「対馬藩・決死の国書すり替え〜朝鮮通信使秘話〜」
日本と朝鮮半島の中間に位置する対馬は、昔から日本と朝鮮半島の貿易の中継地となっていた。山がちでろくに耕作地もない対馬ではそれが生命線でもある。
戦国時代、この対馬の当主は宗義智であった。しかし豊臣秀吉の勢力が拡大したことが対馬にとっての災厄をもたらす。秀吉に臣従することになった宗氏だが、秀吉は朝鮮侵略の意志を示し、宗義智に先鋒を務めるように命ずる。日本と朝鮮が交戦状態になると対馬にとっては死活問題である。義智はなんとか秀吉をなだめようと、朝鮮国王に願い出て通信使を派遣するように願い出るが、その使者を秀吉は朝鮮からの降伏の使者だと思い、明国を攻める時に朝鮮にも兵を送るように命じる。
明を宗主国にしていた朝鮮が飲めるはずのない条件だった。こうして朝鮮との関係は決裂、秀吉は朝鮮に軍を派遣、義智も小西行長と共に前線に送られる。当初は破竹の進撃をする日本軍だが、明が援軍として参戦する頃から敗勢に陥る。勝ち目のないことを感じた義智は、明に偽造の秀吉の降伏文書を送って講和に持ち込む。明は日本に使者を送り、秀吉はこれを降伏の使者だと思いこむが、やがて使者の真の意図が判明、烈火のごとく怒った秀吉によって二回目の軍の派遣が行われる。多くの犠牲者を出した戦いだが、またも日本軍は劣勢に陥る。やがて秀吉が死去、日本軍は撤退となり義智は帰国するが、眼にしたのは荒れ果てた対馬の姿だった。
対馬再興のために早急に朝鮮との国交再開の必要性を感じる義智だが、秀吉と代わって権力を掌握した家康は、自分は朝鮮出兵へは無関係の態度を示しており、朝鮮側が求める謝罪文書を送る可能性はなかった。そこで義智は再び国書を偽造する。それに対して朝鮮が返礼の使者を送ってくる。しかし使節が持参した国書の内容を知った義智は慌てる。朝鮮側の国書は、先の謝罪文書に対する返答の形になっていた。そこで義智は朝鮮国王の国書も偽造、使者が将軍と会見するまさにその日にようやくすり替えに成功する。
こうして日本と朝鮮の国交回復はなり、その後、朝鮮からは11回の通信使が送られることになる。
中継貿易で成り立っていた対馬の宗氏は、昔から日朝の窓口のような役を果たしていたが、その頃から国書の偽造は日常茶飯だったようです。つまりは双方の面目が立つように取りはからって、国交がうまく続くように細工していたということ。したたかでもあるが、貿易に頼らざるを得ない小国の悲哀をも秘めているわけである。朝鮮半島や大陸と緊張関係になった場合、一番災厄を蒙るのは常に対馬であり、実際に元寇の時には日本本土に先立って対馬が攻められ、多くの犠牲者を出している。そのような地であれば、国際関係に敏感になるのはある意味当然。これは日本の本土の人間よりも、多くのアメリカ基地を抱える沖縄の者の方が戦争につながる動きに敏感なのと同じである。
12/12 その時、歴史が動いた「天下に旗をあげよ〜伊達政宗・ヨーロッパに賭けた夢〜」
遅れてきた戦国大名などとも言われる伊達政宗だが、彼が東北で覇を唱え始めた頃には、不幸にも秀吉の力が強大化していた。秀吉に対抗することがかなわず臣従する政宗だが、その結果として国替えで領地を失うことになる。
しかしその異封先でも彼は金山や鉄の開発で国力を着実に上げていった。なおその影にはキリシタン勢力の存在もあったという。彼はキリシタン達の技術力を使って、鉄の生産力などを上げていたのだという。
徳川幕府の時代になっても政宗は天下取りへの野望を棄てていなかった。そんな政宗を警戒して、幕府は何度も江戸城の普請を課すなどで経済力の疲弊を狙う。これに対して政宗はスペインと国交を開いて貿易することで利益を上げることを考えて使節を送る。さらには国内のキリシタン勢力と手を結んで幕府を倒すことも考えていたという。彼がその使節に選んだのが、古くからの家臣である支倉常長だった。
スペインに到着した支倉常長だが、スペイン国王との交渉は不調に終わる。既にスペインには幕府がキリシタンを弾圧していることが伝わっていたのだという。支倉はさらにローマ法王による調停を狙って法王と会見するが、やはりこれも不調に終わる。
一方、その頃政宗にも危機が迫っていた。家康が倒れ、幕府内で政宗が謀反を目論んでいるとの噂が持ち上がっていた。政宗は動きをとれず支倉らの帰りを待つしかなかった。1620年、支倉ら使節団一行が帰国する。しかしその報告は政宗を落胆させるものだった。ここで政宗は天下取りを諦め、領内においてもキリスト教禁止に踏み切る。幕府への恭順の姿勢を示したのだった。
政宗が一発大逆転を狙って失敗したと言う話。まあスペインと手を結んで幕府をひっくり返したとしても、その後の日本画どうなったかは怪しいものですから(スペインの植民地にされる可能性もある)、これは良かったのか悪かったのかは分かりません。政宗は最後まで天下を狙ってあの手この手を打っていたようですが、結局はすべて空振りに終わったようです。よく言われるように、彼は産まれてくるのが10年以上遅すぎたんですね。
11/28 その時、歴史が動いた「緒方洪庵・天然痘との闘い」
幕末の日本。その頃、猛威を振るっていた病気が天然痘だった。当時の日本では天然痘の効果的治療法はなく、また死亡率も高かった。この天然痘に立ち向かったのが医師としても教育者としても有名な緒方洪庵である。
緒方洪庵は自身が子供の頃に天然痘を患ったせいで、病弱になって武士としては不適で医師を選んだということがあり、天然痘に治療に対する意志が強かったという。
蘭学を学んでいた洪庵は、天然痘の予防法である牛痘法を既に書物で知っていた。しかし肝心の牛痘ワクチンが日本にないために、それを施すことが出来なかった。そのため、頼まれて危険な人痘法を施した結果、患者が発病して死亡してしまったという苦い経験もあるという。
そんな洪庵に転機が訪れたのは1849年、天然痘に対処するために佐賀の大名が牛痘ワクチンを入手したのである。洪庵は京に行くと、そのワクチンを分けてもらう(分苗)。なおこの頃のワクチンの分け方は、子供の腕で培養してそこからかさぶたなどを取って別の人に植えるという方法らしい。牛痘ワクチンを入手した洪庵は除痘庵という施設を開設し、そこで天然痘予防のための活動を同志と始める。
しかしこの活動が軌道に乗らない。当時の人々は「牛痘を接種すると牛になる」などという迷信に支配され、除痘庵に近づかなかったのだという。ワクチンが保存できるのは一週間ほどで、その間に次の患者に植えていく必要があるのだから、患者が来ないことはワクチンがなくなってしまうことを意味する。洪庵はやむなく貧乏人に米などを与えて、その代わりにワクチンを打たせてもらうということまで行うが、そのことは除洪庵の資金繰りを急激に悪化させることにもつながり、彼の元から多くの同志が離れていってしまう。
危機に瀕した洪庵だが、時代の方が動き始める。ペリーの来航による鎖国の崩壊などで、世の中の価値観が変化し始めたのである。洪庵は除痘庵を公の組織として認めてもらえるように幕府に働きかけると共に、地方の医師にワクチンを分苗する活動を続け、牛痘法の普及に努める。
そのような努力の甲斐あって、ようやく牛痘法が世間に認められ始める。すると今度は別の問題が発生する。牛痘法が評判になったことから、怪しげな医師が牛痘法を装ってインチキな薬品を接種する例が増加してくるのである。このままではせっかくの牛痘法に対する信頼までが崩れかねない。洪庵はこのようなインチキを防止するためには、除痘庵を公の組織として認めてもらうことによる権威付けが必要だと考え、さらに幕府に働きかける。
そして1858年、ついに除痘庵は幕府公認の施設となり、牛痘法の推奨を始めるのである。
緒方洪庵と言えば適塾が有名で、ここで学んだ生徒の多くが明治維新で活躍することになるのだが、当の洪庵自身は倒幕などの意志は全くなく、あくまで医師としての活動がメインであったわけである。
なお「牛痘を接種すると牛になる」なんて馬鹿な迷信に惑わされた当時の人々を笑うのは簡単だが、現代人だって実はあまり偉そうなことを言えたものではない。今でも「マイナスイオンは身体に良い」とかのあからさまなインチキに踊らされている輩は多いわけだから・・・。
11/21 その時、歴史が動いた「継体天皇ヤマトを救う」
今年は継体天皇即位1500年だそうで、その関連でのテーマの模様。
さて、時は6世紀。ヤマト政権では求心力が衰えて戦乱が続いていた。506年、跡継ぎのいない武烈天皇が崩御したことで後継問題で大和朝廷は混乱する。政治の実権を握っていた大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が協議し、後継の天皇として白羽の矢を立てたのが、越前を治めていた男大迹王(をほどおう)だった。越前の国を治める彼は朝鮮ともパイプがあった上に、鉄の産地であった近江地方へも影響力があったことが決め手になったとのこと。
しかし男大迹王は慎重だった。豪族の中に自分の天皇即位に反対する者がいるとして即位の辞退を告げてきた。そこで慌てた大伴金村と物部麁鹿火が中心となって豪族達の意見をとりまとめる。そのような状況を調べていた男大迹王は、それを見て天皇即位を決定する(つまりはなかなかの策士なのである)。
天皇に即位した男大迹王は継体天皇となる。しかし彼はヤマトに入らず淀川流域を転々としていたという。これは彼が百済との結びつきを重視しており、水路で朝鮮半島とつながっていた淀川流域を重視していた現れだとのこと。また彼は国造りのための政治制度を先進国である朝鮮半島から仕入れることで国内の基盤を強化する。
しかし朝鮮半島に異変が発生する。百済にとってライバル国である新羅が加耶に進出、百済にも脅威が迫ってきたのである。これを聞いた継体天皇は百済に援軍を送ることにする。だがこの軍勢が北九州で妨害される。この地域を治めていた豪族の磐井が周辺の豪族を率いて反乱したのだった。そして彼らの背後には新羅の存在があった。
この戦いは継体天皇にとってまさにヤマト政権の命運をかけた戦いとなる。しかしなんとか勝利を収め、継体天皇は国内の基盤の強化に成功する。
と言う話なのだが、何しろこの辺りの古代史は史実と伝説が入り交じっている時代なので、諸説紛々であるような気もしないではない。それに教科書などでは「磐井の反乱」という言い方をされるが、そもそもこの時代の九州豪族がヤマト政権に従っていたかも怪しく。現実はヤマト政権対九州政権の国際戦争に近かったような気がする。もしかしたら、継体天皇の援軍派遣なるもの自体が、そもそもそれに名を借りた九州遠征だった可能性もあるのではないかという気もしないでもない。
なお九州については邪馬台国九州説なども含めて、まだまだ古代史で謎の部分も多く、今後のさらなる研究も待たれるところ。実際私自身も、ヤマト政権と九州と出雲のそれぞれの関わりがどうもよく分からない。そもそもはいずれも独立した政権だったように思われるのだが(邪馬台国が九州から大和に移ったという説もあるようだが)。
10/17 その時、歴史が動いた「義に死すとも不義に生きず〜会津戦争 松平容保 悲運の決断〜」
幕末、京ではテロが頻発して治安が悪化していた。そんな時に京都守護職に任命されたのが松平容保である。藩士には経済的負担の大きさを懸念する声もあったが、彼は徳川家のために尽くすのが使命と京に赴任、治安の回復に努める。また禁門の変での長州軍の撃退などに活躍、その甲斐あって京の治安は沈静化し、容保は孝明天皇からの信任も厚くなる。
しかし比較的徳川家に理解のあった孝明天皇が没して情勢は変化する。薩摩は朝廷を抱き込んで新政府を樹立、容保は徳川慶喜と共に鳥羽伏見で薩長と戦うことになる。兵力的には優勢だった幕府軍だが、薩長側が錦の御旗を掲げたことで幕府側が動揺、総崩れとなってしまう。徹底抗戦を主張した容保を押さえて、慶喜は江戸へと撤退してしまう。
その後、新政府軍は江戸へ迫り慶喜は恭順の意を示す。しかし容保は逆賊としての汚名を着せられる羽目になる。彼は朝廷ばかりか、徳川に対しても逆賊扱いされることになる。この事態を受け、容保の会津は藩の名誉をかけて戦うことになる。この時に新政府の使者に対して会津の藩士が述べた言葉が「たとえ義をもって倒れようとも、不義をもって生きず」だという。会津は評価は後世に託すと戦いの道を選ぶことになる。
しかしそれは壮絶なものになる。会津に同情して東北の多くの藩が協力するが、新兵器を誇る新政府軍の前に敗北、会津は包囲されることになる。会津藩は籠城するが、その時に足手まといになることを避けて多くの女性や老人は自害したという。また白虎隊の悲劇があったのもこの時である。そして食糧の備蓄も乏しい中、会津藩士は徹底抗戦をするが、ついに容保の「これ以上藩士や家族に塗炭の苦しみを与えるのに忍びない」という意志により、降伏することになる。
新政府側は何が何でも会津藩を武力で潰すつもりだったので、こうなることは避けられなかったように思われる。それは会津が旧幕府勢力の中では一番の軍事力を持っていたことと、容保が京都守護職の時の取り締まりなどで長州藩からかなり恨みを買っていたことなども大きいだろう。
この後、会津藩士は多くが蝦夷地に流れることとなって、これが薩摩と会津の遺恨につながっていくわけである。悲しい歴史だ。容保は筋を通したわけだが、それが結果として良いか悪いかなんて、後世でも判断のしようがない。ただ個人的見解としては、負けるのが分かっている戦争をするのは、単なるナルシシズムにしか思えないのだが。
10/10 その時、歴史が動いた「賤ヶ岳に散った夢〜猛将・柴田勝家の悲劇〜」
本能寺で信長が明智光秀に討たれた後、信長家臣団の有力者であった秀吉と勝家が対立することとなる。そしてこの両者が雌雄を決することとなったのが賤ヶ岳の闘いである。今回はその柴田勝家が主人公。
信長亡き後、勝家は家老の合議制で織田家を運営することを考えていた。これに対して、秀吉は信長の後継者にたった3才の三法師を後継者に推し、自分がその後見として織田家を差配する野心をむき出しにする。
結局、この両者の溝は埋まるはずもなく、ついには正面衝突することになる。まず先手をとったのは秀吉。勝家が越前北の庄で雪に閉ざされて動けないうちに、長浜城や岐阜城を落とす。これに対し勝家は、2月末頃、ついに大軍3万を仕立て、まだ雪の残る北国街道を南下する。
これに対する秀吉の柵は、土塁を築いた上での持久戦だった。これに対して勝家は短期戦を目指していたが、秀吉の堅固な土塁を抜けずにいた。しかし勝家にも勝算がないわけではなかった。勝家は岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益、さらには長宗我部や毛利にまで働きかけ、反秀吉包囲網を形成しようとしていた。
そしてこれが功を奏する。滝川一益と織田信孝が動いたことで、秀吉が軍勢の一部を割いてそちらに当たらざるを得なくなるのである。この時に勝家側の佐久間盛政は秀吉側の砦の奇襲を進言、勝家もそれを認める。佐久間盛政は夜明けと共に奇襲をかけ、秀吉側の砦を二つ落とし、勝家に総攻撃を進言する書状を送る。
しかし勝家は盛政に撤退を支持する。秀吉の軍勢の移動の素早さを警戒したのだった。現に、勝利したとはいえ盛政の軍勢は敵中に孤立しているに等しかった。そして勝家の懸念が的中する。秀吉が直ちに軍を引き返してきたのだった。盛政は撤退をしつつ秀吉の軍勢に当たることになる。鍵を握るのは盛政の背後を守る形の前田利家軍。しかし前田利家は秀吉有利とみて無断で戦線を離脱してしまう。こうして盛政軍は敗退、柴田軍は全軍敗走となってしまう。
こうして秀吉の天下が定まることとなる。北の庄に敗走した勝家は、秀吉軍に包囲され自刃して果てる。
内容的には以上のようなところ、特別に新しいことも珍しいことも何もない。最近になって発見された勝家側の資料が追加されたぐらいのもの。観点としては、勝家は無骨一辺倒の人間ではなく、器量としても秀吉に劣るものではなかったという観点。それはその通りだろう。ただ事前の根回しその他で、秀吉の方が一枚上手だったのは間違いない。
それと柴田勝家にとっての不幸は、信長の息子達が揃いも揃ってボンクラだったということ。彼らがもう少し器量があれば、勝家もそれを盛り立てて秀吉に対抗するすべもあったのだが・・・・。
10/3 歴史ドキュメント01「グルメ誕生〜北大路魯山人と器〜」
今回は特番。本来は1ヶ月以上前に放送される予定だったのだが、安倍内閣のドタバタで番組が吹っ飛んでしまったといういきさつがあり、ようやく今回放送にこぎつけたようである。テーマは魯山人。
後の魯山人こと房次郎は養子先を転々とする不幸な少年時代を送っていた。しかし4軒目の養子先で彼に転機が訪れる。彼は自分の味覚の鋭さに気づき、料理で養父を喜ばせられることが分かったのである。これが彼と料理の出会いだった。
20才で東京に出た彼は書道家の岡本可亭の元に身を寄せる。彼はその料理の腕を活かし、まかない料理で可亭の心をつかんだのだという。彼は2年の修行で書家として名を上げ、食うには困らない程度に稼げるようになった。この頃から食道楽を極めたいと思った彼は全国を回っていろいろな料理に触れるようになる。
彼は北陸の金沢で風流人として知られる細野燕臺と知り合い、細野が設けた一席で優れた器に盛られた料理は、同じ味付けでもさらに美味しくなることに気づく。これが彼と器の出会いだった。
彼は東京で古美術店を始め、一級の器に料理を盛って振る舞うようになり、これが評判となる。このことで彼は自らが理想とする料亭を建てることを考える。また彼が魯山人と名乗り始めたのもこの頃だという。
しかし料亭を作るとなったら器が不足していた。やむなく彼は、古代の名品を真似た絵付けを自ら行った器を用意する。そして彼は料理人を集め、材料も一級品を産地直送で集める。そうして彼の料亭である星岡茶寮が開業する。
星岡茶寮は評判を呼ぶ。しかしやがて「魯山人の器は所詮間に合わせの模造品」という批判が起こる。料理のレベルが高かっただけに、器のアラが目立ってきたのだ。上絵だけをつけて、自分の銘をつけた器を作ってきたことを恥じた彼は、本格的に器の製造を始めることを決意、鎌倉に自らの窯を開き、一流の陶工を集めて研究に励む。彼は研究のために料亭の売り上げを湯水のようにつぎ込み、名品を買い集めた。また苛立つ彼は勤め人ともトラブルが増える。
やがて彼は、器の原点は自然にあるということに気づくが、その頃に星岡茶寮を解雇され(経営は彼以外の者がしていた)、日中戦争の勃発で職人も戦争に狩り出される。一人になった彼は創作に励み、彼独自の備前焼に行き着く。そうして彼の器の世界が開花する。
今回は特番形式であるが、恐らく「その時、歴史が動いた」がかなり長い放送になりマンネリ化の気配が出ていることから、次の歴史番組の形態を模索しての試行だと思われる。だが、正直なところこれは失敗である。はっきり言って面白くない。
確かに魯山人というネタの選択のまずさもあるが、番組の作り方に問題が大きい。今回を一見しての印象は「美の壷みたいだな」というもの。しかし美の壷は美術品の鑑賞の仕方などのポイントの紹介が情報として面白いが、この番組はそこまで踏み込んでいるわけではない。かといって歴史番組としてはあまりにドラマがないし、考えさせる部分もない。何よりも、世の中との関わり合いが登場せずに魯山人を追っているだけだから、歴史番組ではなくてまるで「プロフェッショナル」か何かみたいである。
また竹中直人をわざわざ起用しているにもかかわらず、その意味が全くない。大体、最後の部分の竹中直人が懐石料理を食べているだけの展開は、番組としても退屈至極でだれてしまうだけ。
つまりは所詮は美術番組ではないし、かといって歴史番組としてもしまらないという中途半端な内容になってしまった。はっきり言ってこれなら、以前に何回かやった「歴史の選択」シリーズの方がまだ良い(双方向は絶対に不要だが)。
歴史の原点を探るという番組コンセプト自体は悪くないと思うのだが、どうもできあがった番組がイマイチ。ネタを再吟味してリターンマッチをしてもらいたいところ。歴史番組を名乗るなら、事件もしくは人物の社会との関わりは不可欠である。中途半端にいろいろな番組の要素(美術番組、グルメ番組、人間ドキュメント)を取り込むのではなく、歴史番組としての核を明確化しておく必要があるだろう。
9/26 その時、歴史が動いた「日中国交正常化」
300回記念に記念になると言う今回のテーマは、日中国交正常化。昭和49年9月29日に日中共同声明が調印され、日中関係の正常化がなされることになったが、その舞台裏について解説。
日中国交正常化に動いたのは田中角栄であるが、当時の日本は台湾政府と国交を行っており、中国とは国交がなかった。日本は台湾政府と日華平和条約を締結して、これによって中国との講和はすんだという姿勢をとっていた。しかし田中は中国との貿易が増加していることに注目し、中国との今後の経済関係を強める必要性を感じ、それから中国との国交正常化を目指していた。
そして社会情勢も変化する。1971年、アメリカのニクソン大統領が中国訪問を発表。ベトナム戦争が泥沼化していたアメリカは、ベトナム政府の後ろ盾である中国と交渉することによって事態の打開を狙っていた。この流れを受けて、田中は本格的に中国との国交正常化に乗り出す。そして佐藤内閣退陣後の総裁選挙において、親台湾派の福田赳夫を破って総理に就任する。
しかし中国との交渉に入った田中の前に問題が発生する。周恩来との交渉に入った田中だが、まず最初に対立したのは歴史認識問題だった。田中がかつての日本の行為について「多大なご迷惑」という表現をしたことに中国側が反発する。中国側の主張は「迷惑」という言葉は軽すぎると言うものだった(中国側の認識では、迷惑とは道で水をかけてしまったなどのレベル)。これに対して田中は、日本においては迷惑という言葉は誠心誠意のお詫びにも使う言葉だと説明して、なんとか理解を得る。
だがより本質的な問題になったのは台湾の問題だった。日本が中国との講和は日華平和条約で解決済みとすることが、中国は1つであることを主張している中国政府にとっては認められないことだった。これで交渉は暗礁に乗り上げる。外務スタッフの深夜に及ぶ議論の結果出てきた案は、今までの日中間の関係について「不自然な関係」と表現して、その点については曖昧にするという案であった。この案を外務大臣の大平正芳が中国側に提示した時、中国からはすぐの回答は得られなかった。しかしその後、田中が毛沢東に呼び出され、そこで中国側が日本の提案を飲むという意志が示される。こうして日中国交正常化が実現する。
以前に石橋湛山の話があったが、その後編のような内容。また田中が総裁選で勝利したのが、今度総理に就任した福田康夫の父である福田赳夫というのが象徴的なんだろう。
なおこの時に日中国交正常化が実現した最大の理由が、日中双方共に両国の関係が重要であるという認識があったからであり、結局はそれがその後も続いているわけである。ただその認識の背後には、経済的関係だけでなく、ソ連の存在も大きかった。だからソ連崩壊と共に、日中関係が微妙になってきたりしている。またこの時には曖昧に終わられた台湾についても、その後に存在感が大きくなってきて無視するわけにも行かなくなって来たりしている。日中関係は今や問題山積みでもある。
9/19 その時、歴史が動いた「赤ちゃんを死なせない〜乳児死亡率ゼロ・ある村の記録」
昭和30年代、「もはや戦後ではない」という言葉に見られるように、都市部では繁栄の始まっていたこの時代、地方では未だに立ち後れが目立っていた。岩手県の沢内村では乳児の死亡率が高く、全国でも最悪の岩手県の中でもその平均死亡率以上という惨状だった。ここで立ち上がったのが村長の深沢晟雄だった。彼は「月にロケットが飛ぶ時代に赤ちゃんがコロコロ死ぬなど許せない」と乳児死亡率ゼロを目指して活動を開始する。その深沢を扱ったのが今回。
台湾などで実業家として活動していた深沢は、終戦を海外で迎えて志半ばで故郷の村に帰ってくる。しかし彼がそこで見たのは昔と変わらない村の惨状だった。多くの乳児が死亡していた。
昭和32年、村長に就任した深沢は村の赤ちゃんの命を救うための活動を開始する。しかしその彼の前に雪が立ちふさがる。豪雪地帯の沢内村では冬は雪に閉ざされ、病院に行くこともままならなかったのである。しかし除雪のためのブルドーザは県に二台しかなく、深沢の構想は村民には夢物語のように思われた。必死でブルドーザを探す深沢、そこに朗報が届く。彼の熱意を聞きつけた建設機械会社が最新型のブルドーザを貸してくれたのだ。その効果は絶大で、村人は病院に通うことが出来るようになる。この一件が村人の心に希望を持たせることになった。
深沢はさらに定期的な乳児検診を実施、その結果、子供達の発育不良やくる病の多さなどが明らかになる。適切な育児が行われていない証拠だった。また診療所の医師にも問題があった。耳が遠く聴診器も使えない医師、攻撃的で性格に問題のある医師、果ては薬物中毒の医師までがいた。深沢は東北大学に医師の派遣を要請するが「地方に派遣すれば医師の技量が落ちる」と反対される。しかし深沢は大学に通い続け、ついに医師の派遣の承諾を得る。
また深沢は母親達の意識改革のために保健婦達が中心となった教育を行う。しかしここにも壁が立ちはだかる。家庭で育児を差配していた姑達だった。「子供は放って置いても育つ」という考えを持つ彼女たちが育児改革の妨げとなっていた。そこで深沢は姑達の意識を改革するため、部下の提案で「おばあちゃん努力賞」を導入する。虚弱児を立派に育てた姑に贈る賞である。この構想は功を奏し、姑達の意識が改革されていく。そして乳児死亡率は低下に向かう。さらに予防医療に力を入れるため、病院に保健婦を常駐させる。このことにより、医師は乳児の発育状況などの情報を把握し、適切な医療を行えるようになる。
しかしまだ問題があった。病院にかかることは「かまど返し」と言われ、財産をなくす大きな出費だと考えられていた。これを解決するために深沢は医療費の無料化を打ち出す。国民健康保険で定められた半額分の自己負担を村が肩代わりするのである。しかしこれには県から法律違反だとの待ったがかかる。しかし深沢は「憲法が保障している健康で文化的な最低の生活すらできない国民がたくさんいる。訴えるなら最高裁まで争う。」とこれを一蹴する。またこれは村の条例にも反することであった。しかし村長の強い意志を前にして、村議会も沈黙する。こうして全国に先駆けて、乳児医療の無料化が行われる。これによって村の赤ちゃんのすべてが病院にかかれるようになる。そして昭和38年1月1日。ついに乳児死亡率ゼロが実現される。
すごい人だなとしか言いようがない。彼は「国のやり方だと不十分だ」とその先を行って、そして実績を上げたわけである。またうまいなと感心したのは「おばあちゃん努力賞」。今だとこういう時には「賞金でも出すか」になって、その財源はどうするんだという話になるのだが、戦前教育を受けている姑の世代は「役所から表彰される」という名誉に弱いわけで、その性質を見事についている。彼がすごいのは、往々にして高邁な理想を持つ政治家は、それの実行の段階の具体策でこけるんだが、彼は実現性のあるプランを掲げる能力やそれをサポートする部下を持っていると言うこと。この辺りは良い意味で実業家上がりなんだろう(悪い実業家上がりは、言うまでもないが金に汚い)。
彼は国よりも先を行っていたんだが、情けないことに国は医療についてさらにレベルを落とそうとしている。何しろおよそ先進国とは言えない最悪の制度と言われているアメリカの医療制度をモデルにしようとしているんだから。なおアメリカの医療制度がどのようにとんでもないかは、マイケル・ムーア監督の「シッコ」を見ればよく分かるので一見をお勧めする。
なおあの映画について世間で誤解されている点について言っておくと、アメリカは国民健康保険がないので、個人が保険会社と医療保険を契約している。だから底辺の貧乏人はこのような医療保険の契約が出来ないせいで病院にかかることが出来ない。しかしこの映画が扱っているのはそういう人たちのことではなく、普通に医療保険に加入しているにもかかわらず、保険会社がなんだかんだと理由をつけて保険を支払わないせいで命を落としている人がいるということ。保険会社には申請者に対して因縁をつけて保険金請求を却下するための専門家がおり、契約している医師は請求の却下率が高いほどボーナスが出るようになっているということ。で、現実に、ガンで手術を受けたら「あなたの年齢ではそのガンにはかからない」と文句をつけられて医療保険がおりなかったり、本人も知らなかった細かい病気を調べてきて「告知義務違反があったから契約は解除」なんて言われている例が続出しているということを扱っているのである。日本でも保険会社の不払いがつい最近に事件になったところであり、アメリカ型の制度なんかが導入されたらどうなるかは、容易に想像がつくのであるが。
9/12 その時、歴史が動いた「外交の信念 時流に散る〜宰相・廣田弘毅の闘い〜」
今回の主人公は、第二次大戦当時の外務大臣で、東京裁判において唯一文官として死刑になった人物である。
外交官であった廣田弘毅は、日本は中国に手を付けるべきでないという信念を持っていた。と言うのも、当時の中国では列強の権益が絡み合っており、そこに進出していくことは列強との対立が不可避だったからである。
しかし時代は廣田が望んだとは全く逆の方向に向かう、満州事変が勃発、軍部は中国への軍事侵略を進め、満州国が建国される。そんな頃に廣田は外務大臣に起用される。彼は軍部の独走を掣肘することを期待されていた。この時、廣田は軍部を抑えて外交交渉に奔走し「私の在任中に戦争はない」と断言、彼は日本を外交手動にする共和外交を目指していた。
しかし中国を勢力下におくことを画策していた軍部はさらに暴走する。統帥権を振りかざし、外交の介入を排除したのである。当時の日本の憲法では軍の統帥権は天皇に属するという欠陥があったので、それを悪用したわけである。こうしてまさに「何とかに刃物」の状態になった軍部は手の付けられない状況になる。さらに狂犬化した軍部は、二二六事件で実力行使にまで及ぶ。
この頃に廣田は総理大臣に就任する。軍部を抑えることを期待して起用された廣田だが、もう既に彼にはその力も気力も亡くなっており、軍からの要求に唯々諾々と従うだけだった。そして間もなく廣田内閣は総辞職となる。そして日本は責任者不在の無責任体質のまま、戦争へと突入していく。
暴走する軍部はさらに廬溝橋事件をでっち上げて中国軍と衝突、戦火は際限なく拡大していく。この時の廣田は近衛内閣の外務大臣として入閣していた。彼は再び外交交渉での解決を目指すが、閣議は一方的に軍部主導で決してしまう。戦火が拡大する中、廣田に一度だけチャンスが訪れる。天皇が「もうこの辺で外交交渉によって問題を解決してはどうか」と発言したのだった。この言を受けて廣田は中国政府も飲める条件の和平条件をまとめ交渉に臨もうとする。しかし状況が一変する。南京が陥落し、日本の先勝で国中が浮かれた状態になってしまい、もはや交渉の余地がなくなってしまうのである。廣田の用意した和平案も、閣議において中国政府が到底飲むことはできない条件に改められてしまう。そしてついに日本政府は「中国の国民政府を相手にせず」の宣言を発し、全面戦争に突入してしまうのである。
戦後、廣田は東京裁判において死刑判決を受ける。廣田自身は軍国主義者ではないが、結果として戦争を傍観したというものであった。廣田はそれに反論することなく刑に処される(戦争を主導した軍部の連中は、あの手この手で見苦しく延命を図ったのであるが)。そこには諦めとも反省ともが入り交じった心境があったのではないか。
軍部の暴走を抑えきれなかった悲運の外務大臣の末路です。しかしあの時代の狂犬化した軍部を果たして誰が抑えられたかは難しい。こういうことがあるから、軍部の暴走を防ぐ装置としてシビリアンコントロールと言うことが戦後に重視されたのである。それにもかかわらず、それをはずそうとしている馬鹿が今の時代にもいるようだが。
9/5 その時、歴史が動いた「引き裂かれた村〜日米戦の舞台・フィリピン〜」
大国に翻弄され続けてきたフィリピンだが、第二次大戦では日米の間で翻弄され、フィリピン同士で頃試合をする羽目になってしまった。そのフィリピンについて。
フィリピンにアメリカが進出したのは1898年、10年の戦いの後にフィリピンはアメリカの植民地とされる。アメリカの支配下でのフィリピンでは、アメリカと結託した地主が農民の土地を奪い取る例などが相次ぎ、フィリピンでは深刻な格差が発生、貧しい農民のアメリカへの不満が高まる。そして貧困層を中心としたサクダル党がアメリカ支配に抵抗して立ち上がる(暴動発生)。しかし十分に武器も持たない彼らに対し、アメリカは銃による弾圧を行い、多くの犠牲者が出ることとなる。
そこに日本が進出してくる。日本は大東亜共栄圏を大義名分に掲げ、ハワイ真珠湾と共にフィリピンのアメリカ軍基地に攻撃をかけ、フィリピンを占領する。日本の進出に対し、これをアメリカからの独立の契機と考え、日本に協力する人々も現れる(かつての貧困層に多いと思われる)。日本はフィリピンからアメリカ色を一掃すべく、日本式の教育などを導入する。
しかし日本に好感を持つ者だけではない。特に日本が大量に軍隊を駐屯させ、その食料を現地調達にした結果、フィリピンは深刻な食糧難に陥る。そのような中で日本に対して反感を募らせる者が増えてくる(かつての富裕層に多いと思われる)。そしてフィリピン人による抗日ゲリラが結成される。抗日ゲリラは日本の現地施設や軍施設などへの攻撃をかける。日本はフィリピン人を懐柔するために1943年にフィリピンを名目上の独立国とするが、それは功を奏することはなく、日本は親日派のフィリピン人を集め、マカピリと呼ばれる対ゲリラ部隊を結成する。その結果、フィリピン人同士が争うことになる。
しかし戦局は日本にとって厳しくなってくる。フィリピンにはアメリカ軍が迫り、抗日ゲリラにはアメリカ軍から武器が渡る。そして日本軍に対するゲリラの攻撃も激化する。住民に紛れて攻撃をかけてくるゲリラを見分けるために、日本軍はマカピリによってゲリラを通報させるようにする。しかしその結果、フィリピン人同士の間で憎しみが深まることになり、ついにはマニラにアメリカ軍の攻撃が迫る中、日本軍によって住民への無差別虐殺が発生することになる(マカピリが深く関わっている)。
だが日本軍は敗北、するとマカピリは今度は抗日ゲリラの中に取り残されることになる。今度は彼らが抗日ゲリラのリンチにあうことになった。人々の憎しみを一身に受けた彼らからは多くの犠牲が出るが、その実数は未だに不明だという。
結局、フィリピンは内部に大きな憎しみを残したまま、再びアメリカの支配下で戦後の時代を送ることとなった。同国がアメリカの支配から脱する道を選ぶのは、マルコス独裁政権を倒した後になる。
日米の間で翻弄されたフィリピンの苦難の歴史についてである。なお同様のことは各地で起こっているが、先の大戦を美化したい連中は、ことさらに親日派の方だけを取り上げて「日本はアジアを開放するために戦争を行っており、それは現地民にも歓迎されていた」と主張するのだが、それが都合の良すぎる見方であるのは言うまでもない。先の大戦が日本だけが悪いのではなく、欧米などにも問題があり、結局は列強同士の植民地争奪の戦争だったというのは事実であるが、それは「日本が悪くない」という意味ではなく、「日本も悪いし、欧米も悪い」ということに尽きる。だから私は「日本だけが悪いのではない」という主張には頷くが、「日本は悪くない」という主張には「ふざけるな」と言いたくなるわけである。
なお日本はそのような愚かな侵略合戦に参加して多大な犠牲を出した反省から、戦争に荷担しないということを誓った。ほとんどすべての侵略戦争が、自国の防衛や相手国住民の保護を大義名分にしていたことから考えると当然の判断である。日本が戦争に参加しないというのは、単に自国民の犠牲を恐れた卑怯な行為ではなく、他国民に犠牲を出すことを避けるための尊い行為だと考える。そしてこのことは日本人としてもっとも世界に誇って良いことだと考えている。だからこそ、日本をアメリカの手先として再び戦争に駆り立てようとする連中に怒りを感じるわけでもある。
7/31 その時、歴史が動いた「忘れられた島の闘い〜沖縄 返還への軌跡〜」
今回のテーマは、戦中に本土の犠牲にされ、戦後もさらに本土の犠牲にされ、現在もさらに本土の犠牲にされている沖縄についてである。
戦後、沖縄はアメリカの統治の元におかれていた。アメリカは沖縄を基地として長期保有を考えていた。収容所に押し込まれた島民は配給が不足していたために餓死者を出していた。この時にアメリカ軍との交渉役を務めていたのが瀬長亀次郎だった。しかしその要求は入れらず、それだけでなくアメリカ兵による強姦事件が続発していた(アメリカ軍の得意技である)。瀬長は「戦争は終わったが、地獄は続いていた」と述べている。
昭和21年に一応民政への移行が謳われるが、実際は飾りのようなものでアメリカに統治されたままであった。瀬長は島民の人権を訴えるが、朝鮮戦争の勃発で沖縄の重要性はさらに増大、アメリカは沖縄の永久保持を意図、日本本土も沖縄を放置したまま独立をしてしまう。
昭和20年代後半になると、冷戦下でアメリカの基地が拡張され、基地のための土地収用が進み始める。これはアメリカ軍の意向でいつでもただ同然で島民の土地を収用できるという事実上の土地の強奪である。生活の基盤が破壊される島民は抵抗するが、上を手に脅しをかける米軍を前にして無力であった。
この時に運動の先頭に立ったのも、立法員(県議会に当たる)の議員になっていた瀬長だった。彼は強制収用反対を訴えるが、アメリカ軍はさらに無期限での土地収用を打ち出す。そして目障りな瀬長を、米軍が手配していた人物をかくまうのに協力したという罪で突然に逮捕する(今でもよくあることである)。瀬長の拘束は1年半にも及ぶが、その間にも米兵によって6歳の少女が誘拐暴行されて惨殺されるという事件も発生する。
瀬長は釈放後も土地収用反対の活動を続け、島ぐるみ闘争と呼ばれる大きな運動になる。そして昭和31年12月、瀬長は那覇市長選挙に立候補し、アメリカとの協調路線を訴える候補を破って当選する。
しかし早速米軍の妨害が始まる。米軍が大株主だった銀行が、突然に那覇市の預金を凍結して融資も中止したことで、市は公共事業などが不可能になる。しかしこの事態を受けて那覇市民が動いた。市民が市政を支えるべき行列を作って納税を始めたのである。また議会には瀬長を支援する市民が押しかけた。これに対してアメリカは市長の不信任が出来やすいように制度を変更し、瀬長をついに不信任で追放してしまう。
しかしこれが本土にまで伝わり、アメリカの横暴に対する懸念が表明される。また再選挙では瀬長と同様に日本復帰を訴える候補であり、沖縄の祖国復帰への動きに拍車がかかる。またアメリカのベトナム戦争から戦争反対の機運によって、本土でも沖縄の復帰を求める声が上がり始める。このような声に押されて、ついにはニクソン大統領と佐藤総理の間で昭和47年に沖縄の施政権が日本に返還されることが決められる。しかし沖縄は基地を押しつけられたままという条件付であった。
その後、瀬長は反基地闘争も続けるが、現在に及ぶも沖縄は基地は残留しており、アメリカ兵による犯罪も絶えていない。
日本人なら、アメリカの汚いやり口に自然に憤りがわき上がってくるところだが、何もこれは日本だけでの話ではなく、イラクではまさにこの状況が現在進行形で起こっている。今イラクでは、米兵による市民に対する無差別発砲や強姦などが頻発しているが、日本政府はそんな米軍の支援を続けているわけである。この現状を考えると、やはり日本はつくづくポチなのだが。
7/4 その時、歴史が動いた「冷戦の壁を破ろうとした男〜石橋湛山・世界平和への願い〜」
第一次大戦後、日本が大陸への進出を図る中、東洋経済新報の記者の石橋湛山はそれに対して冷ややかな目を向けていた。彼の主張はアジアの植民地との貿易額は9億円に対して、アメリカやイギリスとの貿易は18億円であり、日本が大陸進出を続けてアメリカやイギリスと対立すると、その18億円が犠牲になるというもので、彼は日本は平和な貿易立国を目指すべきと訴えた。しかしその後も日本は帝国主義的領土拡張を続け、ついには世界から孤立する。そして日本が戦時色を強める中、湛山は憲兵からの圧力を受ける。しかし彼は自らの主張を曲げることもペンを折ることもしなかった。そして日本の敗戦。国民が深い喪失感に沈む中、彼は「更生日本の門出 前途は実に洋々たり」と日本は平和な貿易立国として羽ばたけると主張する。
彼が政界に転身したのは、吉田茂に大蔵大臣に抜擢されたことからだった。大蔵大臣になった湛山は誰もが手を付けなかった進駐軍の経費削減に手を付ける。国家予算の1/3をも占めることになっていたこの経費に切り込んだのである。この問題に真っ向から切り込む湛山に対し、GHQはこの問題が大きくなることをおそれ、経費の2割削減を飲む。これ以来湛山は心臓大臣と呼ばれることになった。しかし昭和22年5月、湛山はGHQから突然公職追放に追い込まれる(GHQによる意趣返しとしか思えない。彼は戦争遂行に協力はしていないのだから。)。その間に朝鮮戦争の勃発、米ソの冷戦などによって日本は共産主義に対する防波堤として、西側諸国に取り込まれることとなる。
やがて湛山の公職追放は解かれたが、その頃に米ソの対立は激化し、共に水爆実験を繰り返していた。湛山はこの冷戦構造に風穴を開けない限り、世界は水爆によって滅びるということを感じる。
鳩山内閣の元で通産大臣に就任した湛山は、経済を足がかりにしたアジア外交に着手する。彼は国交のない中国と民間貿易協定締結の後押しをする。経済での結びつきから国交回復へとつなげようとしたのである。しかしこれはアメリカが反発する。あくまで「防波堤」である日本が、勝手に中国と結びつくことは彼らにとって脅威だったのである。しかし湛山はアメリカの意向を無視する。だが鳩山内閣が退陣、後継者としてアメリカ一辺倒の岸信介の名が上がるに至って、湛山は共産圏との関係改善を訴えて総裁選に出馬する。
総裁選で湛山は僅差で岸に勝利する。岸に期待していたアメリカ(岸なら良い飼い犬になると考えていたのだろう)はこの結果に狼狽したという。しかし全国で自分の政策を訴えるための遊説を繰り返していた湛山は、突然に脳梗塞で倒れる。医師から2ヶ月の安静を要求された湛山は総理に就任して69日で辞任を決意する。
湛山辞任の後は岸が総理に就任した。岸はアメリカ一辺倒の政策をとり、中国を敵視する。さらにその頃、中国軍が台湾に対して武力行使したことをきっかけに米中関係は一触即発の事態に陥る。この事態を懸念した湛山は、病身をおして訪中を行う。しかしアメリカべったりで中国敵視の政策をとる岸は、政府は無関係との姿勢を崩さず、湛山の訪中は賛否が渦巻く中でのものとなった。
湛山は周恩来との交渉を目指したが、日本の中国敵視政策に非難する中国側は強硬だった。それでも彼はなんとか周恩来との直接会談に持ち込む。その席で彼は秘策を繰り出す。それは日中米ソ平和同盟だった。二国間では解決不可能な問題を四カ国の枠組みで解決しようというものだった。これは国連代表権をまだ持たない中国にとっては国際社会への足がかりとなるもので、周恩来にとっては一考の価値があった。周恩来は湛山の提案に同意し、台湾への武力行使をしないと伝える。これ以降、日中貿易も再開され、やがては両国の国交回復へとつながっていく。
昔から日本の保守政治の中にはアメリカ一辺倒の勢力と、中国との関係も重視する勢力があるのだが、その後者の側の話。もっとも日中米ソ平和同盟が実際にどの程度有効に機能したかは評価の難しいところがある。なおアメリカは日本が中国と接近することをこの頃から警戒していたが、それは今でも続いている。だから岸の流れを汲む小泉政権や安倍政権は、アメリカのポチとして何が何でも中国との対立を煽ろうという方向に向くわけである。
しかし実際に日本がアメリカ一辺倒で中国と対立することが国益にかなうかはよく考える必要がある。アメリカが日本を中国と対立させたがるのは、両国が手を結んで強大化するのが恐いのと、いざ中国と有事がある際は日本をまさに防波堤として戦場にするつもりであるからである。日本としてはそれにホイホイと乗る必要はない。中国とべったりしろなどとは言わないが、両国の力を秤にかけて間で巧みに振る舞うぐらいのしたたかさは必要なわけである。所詮日本のような地理的な小国は軍事力だけで国を保つことは不可能であるので、勢力バランスの狭間で平和を保ちながら、貿易立国で生きるしか道はないのではないかというのが私の考え。今の世界は、軍事力で物事を解決するにはあまりに狭すぎる。
6/20 その時、歴史が動いた「乱世に祈りを〜蓮如・理想郷の建設〜」
室町時代、京の本願寺の宗主の息子の蓮如は、貧しい中で全国の布教の旅を続けていた。本願寺は親鸞が開いた浄土真宗の寺だったが、この頃には衰退していたという。布教の旅の中で、彼は塗炭の苦しみを受けている農民を見ると共に、僧侶の腐敗も目の当たりにする。世の中に疑問を感じた彼は、親鸞の「四海の信心の人は皆兄弟」という言葉に真理を見る。
彼はこの言葉に従うべく、村の僧侶たちなどへの指導の旅に回ると共に、村同士の諍いを治めるべく講を広げる。従来は僧が唱える経を聞くだけだった講を、彼は全員が経を唱和する集会に変え、また比較的裕福な門徒が提供する酒や食べ物をみんなで飲み食いしながら話し合う寄り合いを講の後に開催した。やがてこの講が広がっていき、農民以外の堅田衆なども加入して大きな広がりを見せる。
しかしこれが旧来の宗教勢力を刺激する。本願寺を敵視する比叡山延暦寺が本願寺と堅田を急襲、堅田の町は焼き払われてしまう(京の周辺での布教活動は、延暦寺から見るといわゆる縄張り荒らしであったわけである)。
辛くも脱出した蓮如は、北陸の吉崎に道場を開くと、親鸞の教えをかな交じりの文章で分かりやすく記した御文章を執筆する。この御文章は多数書き写されて広がり、多くの信者が吉崎に集まってくる。蓮如は自ら彼らを手厚くもてなしたが、吉崎に多くの信者が集まってくることが周囲を刺激することになる。周囲との対立を恐れる蓮如は、これ以上吉崎に集まらないで欲しいと訴えるが、もう既に信者には彼の言葉は届かなくなってしまった。さらに門徒に武士が増えたことが暴走につながる。吉崎の信者たちは武装を始め、ついには門徒たちが応仁の乱に巻き込まれることになる。彼らは敵対する領主を追い出したばかりでなく、他の宗派などへの攻撃や略奪に走るなど暴走を始める。蓮如は激怒して信者を抑えようとするが、一部の信者は加賀で独立してしまう。挫折感にさいなまれた蓮如は、一人吉崎を後にする。
京の山科にたどり着いた蓮如はここで仏法領(仏の教えがすべてを規定する理想郷)を作ろうと考える。そこは巨大な土塁に囲まれており、これは周囲からの攻撃を防ぐと共に、内部からも攻め出すことはしないという意志を示すものであった。しかしその実現のためには人出も資材も不足していた。しかしそこに大阪の信者たちが吉野から切り出した材木を持って駆けつける。しかしその頃、加賀の一揆勢が勢力を拡大、蓮如たちも争いに巻き込まれる危険が起こってきた。蓮如は作業を急がせる。そうして1483年、山科本願寺が完成する。そこは80万平方メートルの敷地面積内に信者たちが暮らす寺院都市であった。町は門徒たちによって自治され、戦乱の中50年の間平和を守るのである。
戦乱の中で、武装中立を保ったのが蓮如のスタンスだったようだが、彼が同時に唱えていたのは政治への不関与であり、これはいわば政教分離か。最近の巨大宗教組織は、大抵が教祖の私欲から政治介入を目指すとのとは対照的な姿勢である。私は加賀の一向一揆は蓮如が関与しているものという認識を持っていたのだが、今回の内容から見ると、むしろ蓮如は反対していたということになっている。確かに途中で路線対立みたいなものがあり(内ゲバの多さも宗教組織にはよくつきまとう)、実質的に蓮如は吉崎から追放されたようである。
まあ彼自体は苦労人ではあったようだし、庶民の生活の苦しさも知っていたので支持を集めたのだろう。ただ彼の後継者がその同じ資質を持っているとは限らないわけで、この後の本願寺の混乱もその辺りに起因したりするのだが。
6/13 その時、歴史が動いた「ニッポン外交力誕生〜伊藤博文・神戸事件解決〜」
今回のテーマは神戸事件。これは1868年の王政復古直後でまだ新政府が発足していない空白時に発生した事件である。備前藩の行列を横切ろうとしたフランス兵と小競り合いになって威嚇射撃をしたことから、欧米列強の陸戦隊と備前藩が交戦状態になり、神戸が列強に占領されてしまうという事件である。
この解決に当たったのが伊藤博文だという。基本的に伊藤博文は列強と武力で争ってはいけないという考えを強く持っていたという。それは彼がかつて長州藩から海外に留学させられた時、アヘン戦争で敗北して事実上列強の植民地化された清の現状を見ていたからだとか。
番組では伊藤博文の経歴についての解説が大半を占めるのだが、要は「列挙と武力衝突してはいけない」と考えていた彼は、下関事件でも列強との仲介をしようとしたが、藩内の強硬派のために失敗、結局長州藩は列強と戦闘状態になって、砲台を占拠されるなどの大被害を蒙る。やがて彼は倒幕の必要性を感じ、そのために薩摩藩から最新鋭の武器を導入するために交渉、従来の丸玉を使うゲベール銃よりも射程距離の長いミニエー銃を入手することに成功(ミニエー銃はいわゆるライフルマークのあるタイプで、射程距離が長い)、これが幕府軍との戦いで威力を発揮、結局は幕府による長州征伐の失敗につながり、権威の失墜した幕府は大政奉還にまで至ることになる。
列強の神戸占領については神戸開港を急ぐ列強の思惑もあったという。列強は責任者の処分を求めていた。また日本は新政府が発足したことを対外的にまだ表明していないということも着かれたという。そこで伊藤は天皇親政の宣言を列強に公布するように働きかけると共に、断固として責任者の処罰に抵抗する備前藩をねばり強く説得したという。結果として備前藩は責任者の処罰に同意、伊藤は今後の日本の対外問題については万国公報に基づいて解決することを宣言すると共に、各国の大使を備前藩の責任者の切腹の場に立ち会わせたという。こうして日本最初の外交問題は解決したということらしい。
要はこの事件のポイントは、日本が国際法に基づいて外交問題を解決するということを宣言したことにある。ただ日本がその後に不平等条約を解消するにはまだまだ時間を要するのであるが。なお伊藤が備前藩の責任者の切腹に各国の大使を立ち会わせたのは、処罰をキチンとしたということを明らかにするだけでなく、切腹を彼らに見せることによる威嚇も狙っていただろうことは推測も着く(そちらがこれ以上ことを荒立てるつもりなら、死ぬ気で一戦構えるぞという無言の脅し。欧米人に腹切りパフォーマンスはかなりインパクトがあるだろうから。)。
6/6 その時、歴史が動いた「メキシコ五輪 奇跡の銅メダル〜日本サッカー・勝てる組織作り〜」
何やらサッカーネタは以前にやった記憶があると思っていたが、それはベルリンオリンピックに出場した時のことであったようである。今回はその34年後にメキシコオリンピックで銅メダルを取った時のことだという。
東京オリンピックに日本中が湧く中で、一つだけ蚊帳の外にあった競技がサッカーだったという。サッカーは知名度が低いだけでなく、当時の日本チームは連戦連敗で、アジア大会でも予選落ちする状態だったという。そこでこのサッカーを立て直すべく白羽の矢が立ったのが、ドイツ人コーチのデットマール・クラマーだった。
本場ドイツのコーチがどんな高度な戦略を教えてくれるか。期待して待つ選手たちに彼が教えたのは基本中の基本のインサイドキックだった。実際、この基礎さえまともにこなせない選手が多かったのだという。彼は選手たちに基礎の訓練を徹底させると共に、日本人選手にあった戦略を立案していく。日本人はパワーがないが俊敏性があることに目をつけた彼は、パンアンドゴーを重視した練習を繰り返す。彼は選手に大和魂を説き、選手を心身共に強化していく。
また彼は選手だけではなく、指導者も育てていた。彼は岡野俊一郎と長沼健に指導者として資質を見いだして育成する。岡野には情報収集能力と分析力、長沼には選手からの人望があった。
そして東京オリンピック。日本はアルゼンチンと当たることになった。日本の勝利を予想したものは誰もいなかったが、グラマーは個人技に勝るアルゼンチンを速度で翻弄することに活路を見いだしていた。そして逆転でアルゼンチンに勝利する。大金星であったが、日本の勝利はそこまでだった。
グラマーが日本を去った後、日本チームを率いたのは岡野コーチ、長沼監督だった。彼らは日本チームの強化を続け、杉野→釜石の日本の得点パターンを作り上げる。そうして臨んだメキシコオリンピック。日本チームは予選から快勝、ついには決勝へ進出する。しかし連戦の疲労で準決勝で敗れる。そして銅メダルをかけて地元のメキシコチームと挑んだ試合。序盤からメキシコの猛攻を受ける日本。しかしそれをしのぐと反撃、釜石のシュートが決まる。日本は前半で2点を先取する。しかし後半に突入した時には選手は体力が尽きていた。それでも体力の限界を超えた選手たちは全力でメキシコの攻撃を防ぎきる。懸命に戦う日本の姿に、ついには観客席から日本を意味する「ハポン」のコールさえわき起こる。そして日本は勝利する。
日本チームは後にフェアプレー賞も授与されたそうだが、懸命に戦う日本選手に対して地元から日本コールが起こったというのは、思わず感動してしまうエピソードである。そう言えばメキシコといえば、あのWBCでも自身には決勝進出ののぞみはないにも関わらず、アメリカチームを粉砕して結果として日本を援護してくれたことを思い出した。良い連中である(笑)。
5/23 その時、歴史が動いた「悲しき女帝 許されざる恋〜道鏡事件の真相〜」
今回のテーマは、古代史最大のスキャンダルの一つである道鏡事件である。道鏡事件と言えば、野心家の僧・道鏡が、女帝に取り入ってまんまと天皇になろうとしたが、和気清麻呂ら廷臣の行動で阻止された事件という風に一般に言われている。この番組では若干解釈が違うという。
さて主役の一人は女帝・孝謙天皇である。彼女の父は、奈良の大仏の建立で有名な聖武天皇である。聖武天皇には結局男子が出来なかった(一人生まれたがすぐに死んだ)ことから、娘を皇太子に立てる。そして聖武天皇は大仏建立の事業に力を入れ、それが軌道に乗った749年に娘に皇位を譲って出家する。彼が娘に伝えたことは「仏法僧の三宝を盛んにせよ」ということだった。孝謙天皇はこの父の言いつけを守っていくことになり、父の死の一年後に大仏殿を完成させる。
しかし天下は定まらなかった。女帝は所詮はつなぎと見られており、757年に彼女を皇位から引きずりおろそうとする政変が発生する。それが橘奈良麻呂の変である。彼女に代わって男子の皇族を天皇に立てようとするこのクーデターには皇族や貴族が443人も関わっていた。計画は事前に漏れたことで未遂に終わるが、彼女は大きな衝撃を受ける。結局その翌年、彼女は譲位を余儀なくされ、いとこの男子が淳仁天皇として即位する。
しかし淳仁天皇の即位と共に、彼を養子にしていた藤原仲麻呂の勢力が増してくる。彼は太政大臣にまで登りつめ、国政を意のままに操り始める。淳仁天皇は自ら政務を執る気は全くなく、恵美押勝という尊号を受けた藤原仲麻呂が国の政策を独断で決済するようになる。そしてこのことが孝謙上皇と淳仁天皇の対立を深めることとなった。そして淳仁天皇が自分の亡くなった父に天皇の尊号を送ろうとしたことに孝謙上皇が反対したことで、両者の対立は決定的となる。
やがて孝謙上皇は病に倒れる。その彼女を懸命に看病したのが弓削道鏡であった。この後、この二人は急速に接近することになる。
しかしこのことがスキャンダルとなり、孝謙上皇は淳仁天皇から道鏡との関係を責められることになる。怒りをあらわにした彼女は、宮殿を出て法華寺に入る。10日後、再び人々の前に現れた彼女は尼僧の姿となっていた。そして淳仁天皇には天皇としての資格はないとして、天皇の権限を奪い取ることを宣言する。この彼女の宣言を受けて、藤原仲麻呂に不満を持つ貴族たちが彼女の回りに集まってくる。764年、藤原仲麻呂は孝謙上皇を排除するべく反乱を起こす(恵美押勝の乱)。しかしこれは直ちに孝謙上皇の知るところとなり、逆に先手を打たれて淳仁天皇は捕らえられ、天皇の証である駅鈴と玉爾を孝謙上皇に押さえられてしまい、仲麻呂自身も逃亡の途中で捕らえられて処刑される。
孝謙上皇は淳仁天皇は淡路島に流すと、再び自らが天皇に即位する。これが称徳天皇である。そして彼女は信頼する道鏡を法王に即位させ、彼に天皇に等しいほどの実権を与える。
そして道鏡が法王についた3年後の769年、太宰府から知らせが入る。九州の宇佐神宮で「道鏡を皇位につかせるべき」という神託が下ったというものである。称徳天皇は真偽を確かめるべく、信頼していた女官の弟である和気清麻呂を宇佐神宮に送る。しかし彼が持ち帰った知らせは「天皇は皇族から立てるべきで、無道の人である道鏡は排除すべき」というものであった。これを聞いて、和気清麻呂が他の貴族と結託して道鏡を排斥しようとしている感じ、激しく怒ると清麻呂を穢麻呂と改名して流罪にしてしまう。
判断に悩んだ称徳天皇だが、1ヶ月の後に決断を下す。それは道鏡を皇位につけることはしないというものであった。さらに和気清麻呂と共に謀略に加わった者も許すというものであった。
さてこの番組の解釈であるが、従来は野心満々の道鏡が自ら皇位を狙ったという解釈が主流であったのだが、それに対して道鏡を皇位につけようとしたのは、むしろ称徳天皇だったというもの。道鏡は自らは積極的には動いていないとしているのである。
うーん、これはどうか。道鏡が全く野心なしに称徳天皇に近づいたとは思いにくいというのが私の考えである。実際、惚れた男を天皇にしようと称徳天皇自身も動いたかもしれないが、道鏡からの働きかけがなかったとは思いにくい。
なお道鏡については巨根だったなんて噂もありますが、これはなにしろ噂だけでそんな記録など残っていません。多分、中国の歴史に残っている始皇帝の母と愛人のロウアイ(日本字表記が不可能)のエピソードなどからの連想だろうと思われる(この人物については、史記に「巨根だったことから愛人にした」とはっきり書いてあるんですよね。中国の歴史書は正確さ重視ですから。)。
真実のところははっきりしないのだが、歴史上皇族内での皇位争いは血みどろの抗争が延々と繰り広げられているが、皇族と全く無関係の者が皇位につこうとしたというのは、この件が唯一なんですよね。だからこそ古代史の最大のスキャンダルにも挙げられているわけで。ちなみに現皇太子が娘しかいないことから、女帝の是非についての議論が起こったが、この時に保守派が「女帝が誕生すると、どこの馬の骨か分からない奴が天皇になることになる可能性がある」とか言って反対していたのは、この道鏡事件がイメージにあったりするわけです。
5/16 その時、歴史が動いた「日本ミステリー誕生〜江戸川乱歩・大衆文化との格闘〜」
日本のミステリーの元祖である江戸川乱歩が少年時代を送ったのは、都市化が進みつつある明治30年代。当時は新聞小説が花盛りで、彼もそれらによって文学に興味を持つことになった。大学生の時に、彼はエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」に出会ったことでミステリーに興味を持つ。この頃の彼は、アメリカに渡って探偵作家になりたいと夢を抱いたという。
しかし資金不足でその夢はかなわず、彼は日本で職業を転々としながら作品を発表する機会をうかがっていた。当時はまだ日本では探偵小説のジャンルは確立していなかった。そして大正12年、彼は処女作である「二銭銅貨」を発表、この時に初めて江戸川乱歩のペンネームを使用したという。
この後、彼は次々と作品を世に送り出す。この時に誕生したヒーローが探偵・明智小五郎である。まさに大衆文化が花盛りで「エロ・グロ・ナンセンス」がキーワードの時代に、彼は次々と話題作を発表し、時代の流行と合致してもてはやされることになる。
しかし彼の作品が有名になると共に、大衆からの予想外の反応も巻き起こすことになった。彼の作品のセンセーショナルさから、彼の実像と離れたイメージが勝手に一人歩きし、バラバラ殺人事件が発生した時には犯人として名指しする投書まで現れる始末。過熱する報道と巨大化する自らの虚像から大衆に嫌気のさした彼は、ついには執筆をやめてしまう。
しかし昭和10年に、彼に少年倶楽部から少年向け少年向け作品の執筆依頼が舞い込む。彼は最初は戸惑うが新境地のつもりで挑戦する。こうして怪人20面相と少年探偵団の物語が登場することになる。
だが翌年に日中戦争が勃発すると、探偵小説は犯罪を誘発する反体制的なものとして弾圧されることになる。そして検閲はだんだんと厳しくなり、太平洋戦争が始まると彼の作品はすべて絶版にさせられる。こうして乱歩は執筆活動をやめてさせられてしまう。
そんな彼に転機が訪れたのは終戦だった。もはや作家をやめる覚悟だった彼だが、終戦で考えを変える。この後の彼は、自らの創作よりは後進を育てることに力を入れるようになる。昭和21年、雑誌「宝石」が創刊され、彼は探偵小説の紹介や募集小説の審査員を行った。ここに掲載されたのが横溝正史の「本陣殺人事件」だった。これが戦後初の本格探偵小説となる。そして彼は探偵小説の普及のために昭和22年、探偵作家クラブが設立される。この団体を中心に彼は後進の発掘に活躍する。
以上、日本の探偵小説の黎明期のお話。今