プロジェクトX 挑戦者たち

 

 この番組は戦後の技術開発などを影で支えた無名の人々に光を当てたドキュメントである。キャスターは国井雅比古と久保純子。

 人間ドキュメントと近代史をミックスさせたような特殊な番組で、人物の物語を中心にして戦後の技術史を描いていこうという面白い試みである。内容的にはこれまた地味になりがちなのだが、それを避けるためになんとかドラマチックな構成にしようという努力は見られる。なお中島みゆきの歌に、いかにもの画面を重ねたOPは、NHKにしては流行を取り入れたつもりなのだろうが、この形式ももう既に古い演出の部類に入りつつあるのがむしろ悲しかったりする(笑)。また久保純子を投入したのも人気取り策の一環なのだろうが、おかげで彼女の喋りの下手さが非常に目立っているのは(こうして聞くと本当に彼女は喋りが下手だ。発音・活舌ともにアナウンサーにしてはかなり悪い方に入る。)難しいところ。

 

追加コメント(’00.12.1)

 当番組も放送開始から半年以上が経過したが、その異常に「熱い」演出がウケて、NHKとしては久々の話題番組になった感がある。当初は「狙いすぎてはずし気味かな」と思われたそのオーバーな演出も、今では一つのスタイルとして定着してきようである。それとともに主題歌の「地上の星」もヒットチャートに上がってきた。ただ私個人としては、あの曲が街中で聞こえてくると、条件反射的に目の前に活字が流れ始めるので苦笑してしまうのだが。

 なお当初は開発ものが中心だった内容だが、最近は中坊公平チームの話など技術もの以外の内容も増えてきている。ただ最大の心配は、果たしてネタがいつまで続くかである。

 

追加コメント(’05.9.26)

 この番組もここ数年露骨に「ネタ切れ」の傾向が見えており、私は来年の春には終了するだろうと予測していたのですが、やっぱりその通りになったようです(新聞記事がありましたし、ラジオ局からも連絡がありました、なぜか(笑))。私の本音としては「浅間山荘」辺りで終了していた方が正解だと思ってたんですが、引っ張りすぎたという印象です。ところで番組の「情報信頼度A」ってことはないだろうとの苦情があったのですが、確かに最初に設定したA評価のまま動かしてませんでした。淀川工業高校の問題とかも出て、この番組の信頼度もかなり世間一般に疑問を持たれたことを考えるとA評価ってのは今となっては甘いかもしれないという気もしますが、もうすぐ終わる番組に対して、今更あえて評価を変えもしませんのでとりあえず放置します。ラストスパートを願いたいところです。

 

 非常な好評を博して一世を風靡した感のあったこの番組ですが、さすがに長年に渡る放送のためのネタ不足や、NHK海老沢独裁体制に対する批判などの諸要因が重なって、2005年末に放送が終了いたしました。

 私個人としては、このページ開始当初から長期に渡ってつき合ってきた番組であり、このページ開設の動機の一つなった番組であることを思い返すと、感慨深いものがあります。一つの時代の終焉のように思えます。

 なお後継番組として「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組が始まっておりますが、やはり登場エピソードの薄さや「人間ドキュメント」と差別化が図られているように思えない内容などに、残念ながら個人的にはあまり興味をかき立てられません。

 

エンターティーメント度 B

情報信頼度 A

タイプ分け 話題型

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12/13 プロジェクトX「技術者魂 永遠に〜新ロータリーエンジン 革命車に挑む〜」

 平成3年、マツダのロータリー車がルマンを制し、その年に投入したロータリーターボを搭載した新型RX−7は売れに売れていた。しかしそれが2年で暗転する。バブル崩壊。車は全く売れなくなり、拡大路線をとっていたマツダは巨額の赤字を抱え経営危機に陥り、フォードの傘下へと入る。新経営陣の元で社内では社員の削減が進み、部品メーカーは続々と倒産、ロータリーの開発も凍結され、開発チームは解散する。平成8年、ロータリーの生産ラインは3ヶ月に1度だけの操業という状態になっていた。またロータリーエンジン設計課は、50人のうち45人が異動を命じられるという惨状になった。残ったのはロータリーターボ開発者の田島誠司ら5人のみになってしまった。

 しかし田島は諦めなかった。コストを上げる元となったターボをはずし、それでもパワーの落ちない新型エンジンを開発しようとした。彼が手をつけたのはかつてローターリー47士が開発を断念した側面排気だった。エンジンの排気の効率が上がるために出力が上がるのだが、横付けの排気口は高温のために排ガスが煤になって出口を塞いでしまうのだ。

 その時、10人の男達が彼に協力を申し出た。ロータリーをはずされたかつての仲間達だった。上層部には秘密の闇研だった。エンジン部門の統括の羽山信宏開発本部長は、彼らの行為を黙認する。彼とてロータリーエンジンを捨てたくはなかったのだ。

 田島は仲間の士気を鼓舞するためにある男に連絡を取る。それはかつてロータリーの開発を立ち上げた伝説の技術者・山本健一だった。彼は後輩達に言った。「君たちは僕以上に苦労しているね。」伝説の技術者の言葉に彼らは震える。「あくなき挑戦だ。」

 田島は試作車を作るために車体設計部門の任田功に声をかける。彼はかつてRX−7に惚れ込んでマツダに入社した男だった。予算のない中、彼は廃棄寸前の車を工場に持ち込み、仲間達と共に深夜に改造に挑んだ。彼らはそのつぎはぎの黒い車をゴキブリカーと呼んでいた。

 一方の田島は、エンジンの煤の問題をエンジン内に水路を張り巡らせることで解決しようとした。究極の設計になったが彼は寝ても覚めてもそのことを考え続け、1年後に設計が完成する。

 後はフォードを説得する必要があった。彼らは元レーサーの常務のマーティン・リーチに目を付け、彼をテストコースで試作車に試乗させる。彼はコースを3周した後に言う「車体の安定感もエンジンも最高だ」。これで新型ロータリーエンジン搭載車の開発が決まる。

 しかし開発チームに科された課題は大きかった。フォードは販売対象を拡大するために、4ドア車にすることを要求したのだ。4ドア化は車体重量の増加を意味し、そのままでは運動性能が損なわれてしまう。田島はエンジン出力の向上のために、禁断の部品改造に挑む。エンジンの気密を保つアスペックシールの接触面積を減らして回転抵抗を減らそうとしたのだ。しかしこれはかつての悪魔の爪跡を再現してしまう危険を秘めていた。

 田島はこの新型シールの生産を部品メーカーのマイクロテクノに委託する。しかしそれには4億円の設備投資を求める必要があった。部品メーカーが続々と倒産する中、マイクロテクノも苦しい経営を続けていた。しかし責任者の堂面博之は田島の依頼を受ける。彼にもロータリーエンジンにかける思いがあった。

 車体改造の方も進んでいた。車両設計の責任者の片渕登はドアを観音開きにして車体の長さを15センチ短縮して、重量を10キロ減らすことを提案、任田は後方のドアを重さ1/3のアルミに変える。

 こうして平成15年新型ロータリーエンジン車RX−8が発売される。年8万台を売り上げるヒットとなる。

 

 ロータリー3部作完結編とのことだが、やはりどうしても回を重ねるごとにエピソードの盛り上がりが薄くなるのは如何ともしがたいところ、逆境の中での開発物語は個人的には心を打つのだが(それにしてもまたも闇研だ)、さすがにこういったパターンは出尽くした感がある。

 それにしてもフォードの了解を取るために、元レーサーで車のことが分かる常務に目を付けて車を売り込んだというのが戦略的にうまい。これが経営の数字しか見ないタイプの経営者相手だったらどうにもならなかっただろうから。実際のところはこの時期のフォード自体も鳴かず飛ばずの状態だったから、ロータリーでも何でも話題になりそうなものならなんでもよかったという面はあったのだろうが。

 マツダのロータリーエンジンは今でも根強いファンがいるようですね。私は車のことはさっぱり分からない人間なので(何しろ日頃の愛車が中古で購入したカローラ2という人間ですので)、マツダのロータリーと言えば高橋兄弟の愛車という程度の認識しかありません(笑)。どんなメーカーでも、技術にこだわる開発者はいるし、それに共感する一部のコアなマニアはいるんですが、悲しいかなそれは営業的にはあまり功を奏さないんですよね。だから営業利益を優先するアメリカメーカーなどでは、物としては全く面白くない製品ばかりが出てくることにななりがちなんです。

 さてこの番組もいよいよ次回で最終回とのことです。ここ数年は明らかに低迷傾向が見られていましたが、なくなってしまうとなると寂しいものです。いずれ特番か何かでの復活も期待したところです(年に数回程度ならまだネタはつなげられるはずである。本来はこの番組はそのぐらいのペースの方が良かったと思うのですが。)。

 

9/13 プロジェクトX「北のワイン 故郷再生への大勝負〜十勝・池田町〜」

 昭和31年、北海道の十勝平野の池田町は税収不足での財政破綻を起こしていた。ジャガイモや麦などの畑作は冷害によってさっぱりの上に、十勝沖地震で大被害を受け、財政破綻に拍車がかかった。税収不足になった町は、飼っているニワトリから荷車にまで税金をかけようとした。この時に町長選に打って出たのが丸谷金保だった。彼は税収に頼るのではなく、新しい町営事業を起こして財源にすることを主張した。彼は山葡萄からヒントを得、葡萄を栽培することを提案した。しかし無謀に思えたその提案に対し、町役場の者達は誰もが「ほら吹き町長」と馬鹿にしていた。

 昭和36年、巨峰やマスカットなどの苗を取り寄せて北の大地でも育つ葡萄の探索が開始された。さらに丸谷はワイン作りを夢見ていた。彼は町役場一番の酒好きの高橋寿夫を指名して、ワイン作りを託した。高橋はワイン作りの本を調べ、山葡萄を集めてジューサーで絞って地下室で半年間寝させた。翌年の春、彼は丸谷を地下室に招いてビンの蓋を開けた。しかし口に含んだ次の瞬間、二人はあまりのひどさに吐き出した。ワインどころかカビが浮いた腐ったジュースになっていた。

 ワイン失敗の半年後、丸谷は農業振興係長の大石和也をドイツに送り込んでワイン作りを一から学ばせることにした。しかし町にはその資金がない。大石は国費で留学できる農業研修制度を見つけ、難関を突破して合格、ドイツに渡った。大石はドイツの老舗のワイン製造所のマルゲート社を訪ね、一から修業させて欲しいと頼む。大石の真剣さに魅せられたライネル・マルゲートは彼の頼みを受け入れる。

 その頃、池田の農家ではとんでもない事態が起こっていた。馬を売って苗を買い、葡萄栽培に挑んだ高橋道明は冷害で葡萄が全滅していた。次々と農家は葡萄栽培から撤退、丸谷にはほら吹き町長と罵声が浴びせられる。

 ドイツで修業していた大石は、葡萄を地上40センチに這わせる技術(これより高いと地熱を受けられず、それより低いと虫が付く)を学び、またマルゲートが秘伝の酵母を加えていることを知る。彼はマルゲートにそれを分けてくれるように頼むが、マルゲートは「それは国で禁止されている」顔を曇らせる。しかしマルゲートは静かにこう言う「俺は1分間窓の外を見ている。その間に起こることは何も知らない」。大石は頭を下げると酵母を持ち出す。

 大石が帰国すると試験圃場で葡萄の栽培が開始された。そこでセーベルという品種に房がついたのが見つかった。しかし完熟していなかった。これを見た河口将征が枝がわりの技術が応用できるのではないかと思いつく。葡萄は1000本に1本の割で枝がわりと呼ばれる突然変異が発生するのである。しかしそのためには1000本の苗を植える必要がある。農家に協力を要請、福田利孝ら4軒の農家が参加する。そして翌年、枝がわりが見つけられ、刺し木で増やされる。この葡萄は清見と名付けられた。

 葡萄が確保できる見込みの付いた丸谷は、醸造所建設の費用6億を調達するための債券を発行する許可を得るため、自治省、大蔵省と交渉する。「自治体が金儲けに走るとは何事だ」との批判を受けるが、彼は一歩も退かず、許可を勝ち取る。そして醸造所が建設され、昭和49年秋、農家で栽培された清見が運び込まれて汁を搾られた。そこに大石が持ち帰った酵母が加えられた。半年後、皆で初のテイスティングに挑んだ。素晴らしい味がした。こうして発売された十勝ワインは年150万本も売れた。

 

 ワイン製造なんて地味すぎるネタなんで、一体どうなることかと思ったが、なかなか演出で魅せてくれた。ドイツ親父の「俺は1分間窓の外を見ている。その間に起こることは何も知らない」なんてセリフはなかなか泣かせてくれます・・・というか、今回はこれがすべてだったような気がするな。メーカーの開発ものと並ぶこの番組王道の1つの「産地もの」です。この番組の横道と言えば後は災害ものかな。最近は建設ものは今一つの感があるのが多くなっており、開発ものもネタが尽きつつあるから、産地ものは1つのカテゴリーになりそうである。

 この番組を見ていて思うのは、やはり「主役」がはっきりしていないとしんどいと言うこと。今回も多くの名前が登場したが、実質的には大石が主役、丸谷が準主役という位置づけがはっきりしていたので、それが盛り上げやすく見やすくなった理由。巨大プロジェクトなどではどうしても最初から最後まで一人で担当するなんてことがないから、人物群像になってしまって、それが最近の開発ものが今一つ盛り上がらない原因のようにも思える。果たしてこういう言い方をしていいのかは疑問だが、主役1人に主要キャラが4人までのという私が唱えている物語構成の基本が、このような番組でも当てはまるようである。つまりはこの番組は単なるドキュメントではなく、ドラマでもあるからであるが(そこがウケたのだが)。

 ところで次回はsuicaの開発の筈だったんですが、今回の予告によると次回は再放送の模様です。何か問題が発生したんでしょうかね。JR西日本が「なぜicocaでなくてsuicaなんだ!」と文句をつけたとか(笑)。開発メーカーが不祥事を起こしていたことが発覚して、そのままお蔵入りした例も過去にはありますが。 

 

9/6 プロジェクトX「回避せよ東京湾炎上〜初の海上交通システムに挑む〜」

 昭和35年、過密状態の東京湾では事故が続発し、その対策が不可欠となっていた。もし大型海上事故でも発生し、東京湾の航路が長期にわたって使用不能になるような事態でも発生すれば、日本の危機であった。海上保安庁の灯台部の技術者・豊福滋善はかつて霧の釧路港に導入して成功したレーダーの導入を考える。

 昭和45年春、レーダー基地の構想が開始される。レーダー開発を担当したの沖電気。沖電気の技術者・北里賢二は旋盤技術者の鈴木理景と共に、過密海域でもここの船を識別できる高性能のスロットアンテナを開発する。

 しかし東京湾では別の問題が起こっていた。貨物船の専用航路を設置しようとする案に地元の漁師達が反対したのだ、彼らは漁場を制限されることに抵抗を感じており、大型船などは自分たちの腕でかわせると主張していた。そこで海上保安庁の小野維之は大型船を調達し、反対する漁師達10人を乗せて航行に出る。大型船からいかに漁船が漁船が見えないかを実際に彼らに納得させた。

 だがレーダー設置に問題が発生した。豊福は東京湾の3個所にレーダー設置を検討していたが、その一個所である観音崎が神奈川県の都市公園地域に指定されたことで建設が不可能になってしまったのだ。やむなく豊福は本牧のレーダーだけでカバーしようとする。そして昭和48年3月、本牧基地が完成する。レーダーは船を一隻一席キャッチし、船長からの問い合わせなどに答えられる体制が整った。

 しかし昭和49年11月9日、大事件が起こった。本牧のレーダーが接近する2隻の大型船の姿を捕らえた。しかし船長からの問い合わせはなく、基地では何も出来なかった。そしてまもなく二隻が衝突した。タンカーと貨物船の衝突事故で、現場は一面炎の海となっていた。

 炎上するタンカーは沖に曳航した上で自衛隊の艦砲射撃で沈没させてようやく鎮火させた。しかしシステムの欠陥が露呈した。豊福はシステムを根本的に改革して、飛行場の航空管制のようなシステムにすることを考える。しかしこれは船長に与えられた「航行の自由」の権限に斬り込むタブーでもあった。しかし昭和50年海上保安庁長官以下のトップ会議で「東京湾では指示に従って貰う」という決定が成される。25人のベテランが管制官へと配置転換される。その中にはベテラン会場保安官の沖本俊彦がいた。

 さらに豊福は観音崎にレーダー基地を設置するため、レーダー基地に公衆トイレと展望台を設置し、公園の施設として建設できるように神奈川県の了解を取る。そして昭和50年秋、観音崎基地が完成する。そして豊福はさらに沖電気に衝突の事前予測システムの開発も依頼、その要望に応えた黒崎悦明は世界初のシステムを開発する。そして昭和52年2月、東京湾海上交通センター(東京マーチス)が動き始める。沖本と25人の管制官が24時間交代で画面を見続けた。

 そして昭和52年12月9日、東京マーチスの真価が問われる事件が起こる。観音崎のセンターが衝突コースにある二隻の船を捕らえたのだった。一隻はソ連船籍の貨物船、管制官が呼びかけたが応答はなく、巡視船の出動を要請したが20分かかると言われた。しかし5分後、10分後に二隻の船が衝突することを予測した。管制官はただちにもう一方の船であるとよた丸に通信、急遽進路変更を指示した。とよた丸は直ちに面舵をきる。両船はわずか50メートルで辛うじて衝突を回避する。

 

 東京マーチスのエピソード。この施設についての紹介は7/16のサイエンスZEROでも取り上げており、NHKのよくやるネタの流用のような気配が濃厚である(どちらが先に取材を行ったかは定かではないが)。サイエンスZEROを見た時に、東京マーチスのシステムは空港の航空管制システムみたいだなと思ったのだが、やっぱり航空管制システムをモデルにしていたようである。ただ飛行機と船は反応速度が全く違うので、どうしても海上の方がスローモーな印象が否定できません。

 久々に登場の新ネタではあるのだが、やはり番組自体がネタ切れになっていることは否定できず、どうも近年のネタは細かい話が多すぎるという印象を受ける。しかもドラマ性のあるネタとなるとさらに少なく、どうしても番組内容が盛り上がりに欠けることになる。それを無理矢理に補おうとすると、淀川工業高校合唱部の回のように、過剰演出になってしまう場合もでる羽目になるのである。今回にしても、エピソードとしては淡々と進んだ印象で、手に汗握るといった雰囲気はなかった。

 次回は十勝ワインで、次々回はsuicaとなったら、これもどちらもネタとしてはあまりに地味すぎる。やっぱりもうそろそろ限界じゃないでしょうか、この番組は。私の予想ではこの番組は次の春の番組改編でなくなると見ている。恐らく次の春はかなり改編の嵐が吹き荒れると予想しているので、今の8時枠、9時15分枠の番組の大半は消えるんじゃないだろうか。悲しいことにネタ切れ傾向が見えているのはこの番組だけではないですから(特に顕著なのは「その時、歴史が動いた」)。

 

6/21 プロジェクトX「炎なき台所革命〜IHに懸けた30年〜」

 子供の頃から電気器具修理などをしていた荻野芳生は、昭和46年に松下電器産業に入社する。その彼に与えられたテーマは電磁誘導加熱(IH)の実用化だった。これを使えば発熱せずに鍋だけ温めるコンロが製造できる。彼は半導体技術を利用して、IHコンロの開発に成功する。しかし半導体を使用した器具はコストが高くなることから、製造には反対される。しかし他者との競争に圧されていた厨房器事業部から切り札が欲しいとの要望があり、荻野はIHの卓上コンロを実用化する。

 昭和53年、IHコンロが発売された。しかし火力がガスの7割ぐらいしかなく、火力が弱すぎるとの不満が出た上に、油をかけたままの鍋を放置して、油が発火する事件が発生。安全神話も崩れ、製造ラインは停止に追い込まれる。

 このIHこんろが発売された頃のことは私も覚えています。確かに最大の売りは安全性だったんですが、その影で「火力が弱すぎる。電気代が高い。」という弱点も聞いていました。また油の発火事件は、はっきり言って鍋をかけたまま放置した客が馬鹿だったのですが、実はこの事件もIHの弱点を露呈させたのも事実であります。というのは、当時のIHコンロは「動作しているのかしていないのか分かりにくい」という特性があり(火のついているガスコンロにに気づかないということは考えられないが、IHコンロは作動インジケーターぐらいしかなく、スイッチが入っていても分かりにくいのである。)、それが鍋を放置する一因にもなっていたのである。

 ただ番組ではこの事件の方が決定打になったように言っているが、実際は客観的に見て「火力が弱すぎる」ということの方が主婦に決定的に嫌われた理由であったというのが事実である。現に今でも100V用のIHコンロはかなり火力が弱く、炒め物などは難しい(実際にIHコンロを使用していた私が言うのだから間違いない)。

 

 IHは事実上頓挫してしまい、荻野は苦闘していた。また彼は自分の研究チームの若手の行く末も懸念していた。そんな荻野にチャンスがやって来た。かつてIHの実用化に反対した電化調理事業部長の佐野啓明が、IHを炊飯器に応用することを考えたのだった。当時の電気炊飯器は火力の調節が出来ず、ご飯の味ではかまどやガスには負けていた。佐野は火力をコントロール可能なIHの特性に目を付けたのである。こうしてIH炊飯器が実用化される。

 この成功で荻野はIHを中華や揚げ物も出来る本格的調理コンロとして実用化することを決意する。商品化に協力したのは営業20年で売り込みの鬼と呼ばれていた立田英雄だった。彼は客の声を聞いて開発をするようにアドバイスする。二人は2ヶ月間顧客を回って客の声を集める。その結果、火力3割アップが絶対条件であると考える。

 プロジェクトチームは火力アップのために200Vの電気を使用することを決める。200Vに耐える回路の設計は半導体の専門家である弘田泉生が担当し、彼は半導体の数を倍に増やしてクリアする。一方、立田は関西電力が大阪の星田で計画していた電化住宅に売り込みをかけていた。IHの火力を信用しない関西電力を納得させるため、彼らは凍ったコロッケを揚げる実験を実演、その火力に驚いた関西電力では採用を決定する。

 結局IHが軌道に乗ったのは、ここで関西電力の電化政策とシンクロしたことである。関西電力では電気の使用を増やすためにすべてのガス器具を廃止して、電気だけに切り替えさせる政策を考えていた。いわゆるオール電化であるが、IHコンロはその決定打になったわけである。当然ながらこれは今まで電気会社とガス会社の間で暗黙で行われていた棲み分けを乱すことであり、ガス会社の猛反発を呼び、この後、電力会社とガス会社はにらみ合いを続けることになる。現在のところ、電気会社のオール電化が優位を保っているように見られるが、ガス会社が電気会社に対する切り札として養成しているのが燃料電池である。ガスを原料にして発電を行い、その際の廃熱も使用しようというこの高効率システムは、発電という電力会社の聖域にガス会社が本格的に斬り込むという第一歩である。

 なお私も個人的には、エネルギー効率の悪いオール電化には興味ないが(やはり湯を沸かすならガスの方が効率がよい)、エネルギー効率の高い燃料電池には非常に興味を持っている。またこれが実用化できれば、原子力発電所など必要なくなる公算が大きいのである。これが電力会社が最もあせっている理由でもあるが。

 

 しかし立田はIHについての致命的な声を聞いていた。それは「今までの鍋が使えない」というものだった。IHは鉄系の鍋では使えるが、アルミでは誘導させた電気が拡散してしまって発熱しないのだった。弘田は磁力のパワーをさらに上げることでこれを解決しようと半導体を改良、磁力を10倍に引き上げる。しかし行った実験では、なんと鍋が沸騰する前に、浮き上がってしまうというとんでもないことが起こる。この問題の解決に頭を悩ませた弘田は、子供が生まれた直後の家を飛び出し、会社の近くの社員寮に泊まり込む。通勤時間も惜しんでのことだった。心労のあまり彼は髪の毛が白くなった。

 悩む弘田に荻野がアドバイスを与えた。鍋に当てる磁力を調節できないか。弘田はコイルと鍋の間にアルミ板を入れて磁力の一部を遮ることを考え、何種類もの板を検討する。そして平成14年12月ついに新型IHヒーターが発売され、翌年には累積100万台を突破する。

 この鍋を選ぶというのも、実はIHの最大の弱点だったんです。IHではアルミ鍋だけでなく、ステンレス鍋でも鉄の含有量の低いステンレス(高級品ほどそうである)では効率が極端に落ちるということがあり、わざわざそこの部分に鉄の含有量の多いステンレスを挟み込んだIH用ステンレス鍋というのも発売されていました(実は私が持っている)。私もその記憶が鮮明なので、恥ずかしながら、今のIHコンロではアルミ鍋も使えるようになっているとは知りませんでした。ただ磁石につかないアルミ鍋では、やはり効率は鉄よりも劣ると思うのであるが、その点はどうなのだろうか? またいくらアルミを使えるようになったといっても、IHではやはりその原理上、底が平らな鍋である必要があるという制約はまだあると思うのだが。

 

 以上、IH開発にまつわるエピソード。ただ、どうも話がせこいなという印象は拭えない。正直なところ、私はIHが世の中を変えたとはとても思っていないからである。はっきり言って、私の本音は「湯を沸かすのならガスの方がエネルギー効率は良いじゃん」というものであるから、IHには電力会社が電力の浪費を進めるため(その背後には、省エネの促進などで電力需要が頭打ちになったため、新規に原発を建設する大義名分が立たなくなったということがあるのだが)に仕掛けた政策という良くない印象を持っていることもあるだろう。ただ客観的に考えても、IHがそれほどメジャーなネタとは思われず、この番組も大分ネタがしんどくなっているんじゃないかということは否定できない。

 また番組のパターンとしても、開発もののパターンが出来上がってしまっており、題材は変われども番組は変わらずという印象がつきまとうのもかなりしんどい。

 

6/14 プロジェクトX「名古屋城再建 金のシャチホコに託す」

 戦争の爆撃で焼失してしまった名古屋城天守閣。戦後、この天守閣を再建したいという機運が市民に盛り上がる。地元の商店会では名古屋城再建の寄付を募る文面を書いた傘を学校に配るなど、寄付集めに奔走、ようやく再建の資金が集まる。

 しかし天守閣再建の検討に入った市のプロジェクトはいきなり問題に突き当たる。。法律の関係で天守閣の再建は鉄筋コンクリートによることになるが、そうすると重量は約8千トンと試算され、今までの重量よりもはるかに増加する。しかしそれを支える石垣は、戦争で焼かれて石がボロボロになっていた。また金のシャチホコを作るには鎚金と言われる金槌で金の板に複雑な凹凸を作る技が不可欠なのだが、戦争時の贅沢品追放で鎚金職人はいなくなり、この技を行える人材が見つからなかった。

 その一方で請負業者の入札が行われた。落札したのは間組。お祭り神部と呼ばれる社長の神部満之助が、採算度外視の価格で落札したのだった。

 天守閣再建の手法に苦しむ市のプロジェクトに救いの手が伸びた。九州大学名誉教授の吉田徳次郎から、天守閣の台座にケーソンと呼ばれるコンクリートの杭を埋めることで石垣の負担を減らす工法が提案されたのだった。

 昭和32年、天守閣再建の起工式が行われる。そしてシャチホコを作るための鎚金職人も見つかった。大阪造幣局で勲章などを製作していた奥野茂一だった。彼はかつて鎚金職人としてその技を学んでいた。かつての技を再び復活させられることで奥野は奮い立つ。しかし盗難を恐れて地下の大金庫内で鎚金の作業を始めた途端、大問題が発覚する。予算の関係でかつての1/4の金しか使えず、0.15ミリといったはがきより薄い金の板を使うことを余儀なくされたのだ。これではとても金槌では打てない。奥野はへらで引き延ばすことにするが、複雑な形をするシャチホコでは、どうしても板に破れが出てしまうのだった。

 一方、天守閣再建の現場でも問題が発生した。ケーソンのためのコンクリートの筒が石垣からの圧力で沈まなくなったため、周辺の土を溶かそうと水を注入したところ、注入した水のせいで石垣が歪んで崩れる危険が発生してしまったのである。ずっと石垣を監視し続けていた佐藤昭は、自分が石垣を組み直すことを決断する。

 佐藤は石垣の多くの写真を撮り、石の一つ一つに方向などを直接に書き込んだ。そして10日間かけて、200個の石が石垣から取り外された。本当にこれを元通りに積み直せるのだろうか、不安を感じる佐藤の元に、社長の神部が一升瓶を抱えて現れた。彼は社員達に酒をつぐと言う。「微粒結集だ。一人の力は小さくても、みんなが集まればやがて大成を導く」。佐藤達は30日間かけてすべての石を積み直す。

 シャチホコに挑んでいた奥野は、相変わらず破れに苦戦していた。彼は打開のために共付けの技にかけることを決める。破れた部分を融かして一つにする技だが、炎の調整を誤ると継ぎ目が出来てしまう危険があった。彼は事前に何度も条件をテストしてから、貼り付けを開始する。彼は金の板を伸ばして継ぐという作業を黙々と繰り返し、昭和34年7月についにシャチホコを完成する。

 昭和34年8月、金のシャチホコが再建なった天守閣の上に運び上げられた。歓声が沸き起こる。

  

 名古屋人の誇りである名古屋城の再建物語・・・ということですが、本当に名古屋人はあの天守閣を誇りに思っているのでしょうか? 名古屋城の天守閣は大阪城と同じで、鉄筋コンクリート製です。いわゆる外観復元という奴で、外見は城ですが、中はエレベーターまでついた展望ビルにすぎないという代物です。大阪人は大阪城の天守閣について「安作りの城型展望台」と言って、実際のところは結構ボロクソに言っている人が多いです。名古屋は大丈夫なのでしょうか? ちなみに私が以前に名古屋に行った時は、名古屋城からタクシーに乗ったところ、そのタクシーの運転手は名古屋城のことを「あんなとこは行くもんじゃない」と言っていました。彼によると名古屋城に行くのなら、徳川美術館にでも行った方がはるかに良いとのこと。

 鉄筋コンクリートでしか再建できなかった法律というのは消防法か建築基準法辺りだと思うのですが、城の再建を鉄筋コンクリートでというのも無粋すぎる話です。もっとも木造で再建するとなったら、予算はもっとかかっただろうと思いますが。なお全国に城は意外とあるのですが、どうしようもない城が結構多いです。ひどいのは元々天守閣がなかった城に無理矢理に天守閣を造ったような例ですが、さらにひどいのになると、源平時代の砦の跡に戦国末期の天守閣を建造するという歴史的意味も何も完全に無視している例さえあるとか。

 

5/24 プロジェクトX「命の離島へ 母たちの果てなき戦い」

 米軍占領下の沖縄、離島の多い沖縄では感染症の増加などで医療状況は最悪な状況になっていた。しかし沖縄に180人いた医師は、戦争のために2/3が死んでいた。医師が極度に不足していたのである。

 昭和25年、琉球政府から派遣された看護婦・金城妙子が東京の国立公衆衛生院に降り立った。彼女は地域に入って病気の予防や治療を行う保健婦の要請という使命を負っていた。沖縄に帰った彼女は、米軍政府のワニタ・ワータワースから公衆衛生看護婦制度を持ちかけられる。都市の保健所で仕事をする保健婦ではなく、離島に駐在する保健婦を養成することを目指していた。この構想に100人以上の女性が集まる。

 小学校の養護教諭をしていた与那覇しづは、3人の子供を女で1つで育てていた。彼女の次男の宜靖はポリオを患ったことで脚が不自由になっており、彼女はそのような伝染病を根絶したとの思いから参加を決意した。小学校の教員をしていた山城ヒロ子は、離島での赤ん坊の1割が生後一週間以内で死亡している(本土の3倍)ことを知って衝撃を受け、助産婦の資格を取ってから公看に応募していた。彼女らは金城の元で授業を受け、任地に赴いていった。

 任地では彼女たちの苦闘が始まった。与那国島に赴任した与那覇しづは結核の蔓延と戦っていた。しかし結核患者の家に赴いた彼女は、病気の発覚を恐れる島民に拒まれる。しかし彼女は訪問を続ける。やがて彼女の誠意は島民に伝わり、徐々に彼女の存在は受け入れられていく。そして昭和31年、レントゲン技師を招いての全島健康診断が実施され、1300人もの島民が検診を受けに現れる。彼女の熱意により、この島での伝染病は制圧されつつあった。

 西表島に赴任した山城ヒロ子は密林の中を患者の訪問のために歩き続け、500人を越える赤ん坊を取り上げた。しかし多忙な毎日を送る中、彼女自身の子供が急性肺炎にかかったことに気づかず、子供を亡くしてしまう。

 彼女らの戦いに島の人々も協力を始める。日夜急患に追われる与那覇には、戦中看護婦として働き医介補の資格を持つ仲本トミが協力した。二人はペアを組んで患者の治療に当たった。また自分の子供を失っても患者のために奔走していた山城に打たれた西表の島民は、患者の搬送に困っていた彼女に協力して、緊急時の患者の搬送システムを作り上げる。

 しかし本土復帰を前にして、沖縄に衝撃が走る。日本政府は公看制度の廃止を計画していたのだ。早速金城は運動を開始する。沖縄を訪れた国会議員の元を訪ね、沖縄の現状を訴えたり、政府に陳情を始める。沖縄でも世論が盛り上がり、ついに公看制度は存続が決定される。

 

 この番組の原点である「無名の人々の活躍を描く」という考えに沿った内容。ただ登場したのが人物群像であったせいで、感動的な内容ではあるにもかかわらず、ドラマとしての盛り上がりには少々欠け気味という点があり、それが少々しんどかった印象もある内容。ただ内容的に構成は大変だっただろうことは間違いない。公看募集に応えた女性は100人以上いたというから、その中から誰を取り上げるかは相当難しかったのではないか。結局今回は与那覇と山城が事実上の主役で、これ以外にも数人が登場したが、彼女らに絞ったのは実際に取材できた相手ということと、ドラマ的なエピソードが存在するかがポイントになったのは間違いない。与那覇については3人の子供を抱えた上で仕事に打ち込み、しかもラストでは長男は琉球大学教授になり、次男はアメリカに渡って医師になっているという「親の背中を見て子供が育った」という出来すぎの展開であり、彼女のエピソードをメインに採用したのも至極当然だろう。また山城については、仕事の最中に自分の子供をを病気で失ってしまったということが効いているのは間違いない。種々あるエピソードの中からどのエピソードをメインに持っていくかという辺りが、制作者の力量が現れるのだが、これが1つ間違うと過剰演出と表裏一体になってしまうので難しいところである。

 

5/10放送分についての諸問題

 新聞各紙で報道されているところによりますと、5/10放送分の淀川工業高校合唱部の回の内容について、一部事実誤認が含まれているという抗議が学校側からあり、NHKもそれを認めた模様であります。

 新聞報道などによると事実誤認については以下の通り

1.番組中では淀川工業高校では退学者が年間80人も出るほど荒れていたということになっているが、実際は80人も退学者が出たことはないし、合唱部がコンクールに出る頃には校内はかなり沈静化していた。

2.淀川工業高校合唱部がコンクールに初参加した時、問題が発生するのを恐れた主催者側が警察を呼んだとなっているが、そういう事実は存在しない。

 主にはこの2点であるようです。つまり一言で言えば「実際の淀川工業高校は番組で言っていたほどには荒れてはいなかった」ということであるようです。表現としては事実誤認となっておりますが、どうも実態は「過剰演出」と言った方が正しいようです。制作者が明らかに伏見工業高校のエピソードを意識していたようであるので、それと同じ文脈に持っていくために演出をしすぎたのでしょう。

 テレビ番組において演出の問題は常につきまとうもので、「やらせ」と紙一重であるため、とかく問題になりやすいです。また今回特に問題になったのは、一連のNHKバッシングの中でNHKの看板番組の不祥事という点が大きいでしょう。さらに相手が高校生(つまり子供)ということも忘れてはならないところです。今回の場合、明らかに「事実と異なる」ことがはっきりしている部分があるため、「演出」とは言えないことも間違いないように思います。

 かつて民放には「電波少年」などの全編やらせといった番組も存在しましたが、あの番組の場合は「所詮はバラエティだから」と逃げられますが、プロジェクトXはドキュメンタリー番組であるだけに、事実誤認は問題化しそうです。また昨今、この番組が明らかにネタ切れの傾向が現れており、やや苦戦しかかっていることを考えると、致命傷になる懸念も考えられるところです。

 ちなみにこれは不祥事とは一切関係ありませんが、鉄鋼橋について大規模な談合が摘発されたことも、橋ネタが多いこの番組としてはネタがさらにしんどくなる原因になりそうです。どうも世間の動向がこの番組にとって逆境になりつつある模様です。

 今後のこの番組の動向が注意されるところです。なお放送と演出の問題は非常に重要な問題でありますので、メディアリテラシーの基本として視聴者の側も把握しておく必要はあるだろうと考えます。

 

5/17 プロジェクトX「東洋一の巨大ホテル 不夜城作戦に挑む」

 昭和34年、オリンピックの開催が決定された。建設業界は活況に湧き、あちこちで建設工事が行われ、建設技術は目に見えて進化した。 大成建設の平島治

 昭和37年、オリンピックまで後2年を切ったところで準備局で大問題が発覚した。1日3万人は押しかけると推測された外国人を収容するための施設が全く不足していたのだ。このままでは諸外国から非難が集中 東都知事と河野建設大臣は資産家にホテル建設を打診したが、、採算性に疑問があるとみんな尻込みした。都心に巨大な土地を持つ資産家・大谷米太郎にも声がかかった。彼はかつて相撲取りになり、そこから鉄鋼王にのし上がったという人物であった。彼はこの話を受ける。

 工事が依頼されたのは大成建設だった。しかし建物の設計から完成まで1年半しかなかった。普通は3年はかかる工事だった。現場監督はみんな尻込みした。会社はここで竹波正洪を起用した。カミソリと呼ばれる男だった。彼は設計部に行くと信じられないことを言った。「設計図の完成の前に工事を始める」昭和38年4月工事が開始された。基礎工事が行われる中、現場で同時進行で図面が描かれていた。

 3ヶ月後、ホテルの基礎が姿を現した。その頃設計チームでは建物全体の図面の作成が進められていた。設計の鈴木悦郎は建物の耐震性の問題に直面していた。彼がここで導入したのが柔構造理論だった。しかしこれには壁に軽い素材が必要だった。竹波は重くて工期がかかるコンクリート壁をやめ、アルミを鉄骨にはめ込むカーテンウォール工法に目を付けた。しかしこの工法は一つ間違うとひどい雨漏りがして使い物にならなくなる危険があった。パネルの精度と鉄骨組の腕が鍵だった。竹波の部下の平島治は駆け回って腕利きの職人40人を集めた。

 工期の短縮にもう一つ鍵になるのは風呂の作成だった。通常多くの職人が入れ替わりで取りかかって1ヶ月かかる。これではとても間に合わない。東洋陶器に出向いた竹波は世界初のユニットバスの作成を依頼する。開発を担当したのは東洋陶器の進藤正巳。彼は素材に強化プラスチックを採用することで、ホテルのエレベーターで現場に搬入できるユニットバスを完成させる。

 完成まで後1年になったところで、施主の大谷からとんでもない追加注文が来る。屋上に東洋一の回転ラウンジをつけてくれというものだった。平島は神戸の十国展望台に視察に出かける。しかし振動がひどくてラウンジには使い物にならなかった。

 しかし現場で問題が発生していた。10階を越えたところからクレーンの動きが極端に悪くなったのだ。このままではとても間に合わない。竹波は100個の投光器をかき集めて鉄骨組を24時間突貫で行うことを決める。期限まで後半年の時、鉄骨工事が完成する。さっさそこにパネルがはめ込まれる。すべてピッタリと合った。そこに進藤達が作った1000室分のユニットバスが次々と運び込まれた。1ヶ月かかる風呂場工事が2時間で完了する。

 回転ラウンジを担当した平島は呉の尼崎製鉄にでかける。そこでは回転台の下のコロを製作していた。45メートルのラウンジを回ることが出来るかと聞く平島に、尼崎製鉄の天満登は胸をはって「可能だ」と答えた。このコロは、かつて戦艦大和の主砲を回していた技術だった。120個のコロが導入されテストが開始された。コップの水が全く揺れないぐらい滑らかに回った。こうしてホテルの開業はオリンピックに間に合った。

 

 サンシャインなどに続く巨大建設ものである。ただ正直なところ、少々マンネリ気味であるのは否定できない。1年半での突貫工事というのは、確かに建設業界ではとんでもなく凄いことなんだろうが、所詮は素人にはアピールが弱い。その上に演出も地味気味なので、今一つアピールが弱い。カミソリと呼ばれた竹波は確かに凄い人物なんだろうが、その凄さを語るエピソードが今一つ弱いため、カリスマが見えてこないのである。エピローグを見ていても、いかにここで開発された技術が周辺に波及したかは分かるのだが、所詮はあまりに専門的でマニアックなのである。また最近のこの番組に露骨に見える傾向なのだが、この手の大型プロジェクトになると関係者がすべて登場したがるのか、どうしてもやたらに関係者や関係企業が登場してテーマが散漫になってしまうのである。

 来週はいわゆる無名の人の努力の物語(かつて登場した北海道の診療所のタイプの話)のようだが、こういうテーマの方が主人公がはっきりして、昨今のこの番組にはよいのかもしれない。もっともこういうネタが中心になると、番組として「人間ドキュメント」との差がなくなってきてしまうのであるが。

 

5/10 プロジェクトX「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌」

 以前にスクールウォーズの元ネタになった伏見工業高校ラグビー部の話があったが、今回は「教育界に語り継がれる文化系の伝説」である。

 

 昭和54年、大阪守口市、オイルショック後、守口では不況の直撃を受け、失業者が町にあふれていた。この町にあった府立淀川工業高校も荒れていた。ケンカや暴走などで退学者は年間80人を超えていた。ここに赴任したのが23才の新米教師の高嶋昌二だった。国語教師だった彼は、張り切って授業に挑んだものの、生徒達は「国語は休み時間だ」と言って、弁当を食べたり漫画を読んだりのやりたい放題だった。高嶋は愕然とする。落胆していた彼は、ある日、3年生の5人が中島みゆきの「時代」を歌っていたのを見つけた彼は、彼らと一緒に歌う。そこにいたのが土井俊弘、谷本浩志らだった。その頃は景気はどん底で、彼らも卒業しても町工場ぐらいしか働くところはなく、将来に不安を感じていたのだ。彼は生徒達に「卒業前に文化祭で歌わないか」と呼びかける。彼はかつて高校時代に合唱を教えてくれた教師の影響を受けて、教師を目指したのだった。

 しかし工業高校には音楽の授業がないので、音楽室もピアノもなかった。高嶋は校長と掛け合って物理実験室を練習所として借り、近所の小学校から鍵盤の欠けたピアノをもらってくる。そして文化祭当日、ステージに登場した彼ら。しかし会場からは「合唱なんか気持ち悪い」と大ブーイングが起こる。ヤジの飛び交う中での合唱となった。しかし不思議と谷本達の気は晴れた。高嶋は合唱を正式に部にしようと行動する。しかし体育教師の西寺重信は「工業高校に合唱はいらない」と反対し、他の教師からも賛成は得られなかった。

 昭和55年4月、合唱部設立を諦めない高嶋は新入生の勧誘を始めた。彼は新人を菓子で釣って強引に11人を集めた。だが発声練習を始めるが音程が合わない。しかも他の教師からは「騒音だ」と怒鳴り込まれ、学校を追われた彼らは淀川で練習をする。実績を示すしかないと考えた高嶋は、コンクールに出ることを生徒達に提案する。目指すは関西合唱コンクール。上位二校は全国大会へも参加できる。しかし3人の生徒がさぼり始める。駆けつけた高嶋はリーダー格の高島英夫をいきなり平手で殴る。しかしそれを後悔した高嶋は、練習後に生徒達に餃子券を渡すようになる。高嶋の1ヶ月分の給料はあっという間に飛んだが、生徒達はそれで部に踏みとどまった。

 ある夜、合宿の計画を練っていた高嶋の元を、仲程長哲が辞めたいと訪ねてくる。彼の父は土木作業員で不況で仕事がなく、合宿代の1万円が払えなかった。高嶋は黙って一万円を差し出し言った「みんなには内緒だ。お前が必要なんだ。」。初めて人から「必要だ」と言われた仲程は熱くなる。彼は朝3時に起きて新聞配達のアルバイトを始める。1万円を返すためだった。高嶋は生徒達の劣等感を吹き飛ばすために、何が何でもコンクールで勝ちたいと思う。高嶋の顔つきが変わる。また仲程達は合唱部を作るための署名を集める。コンクールに参加するには同好会ではなく部である必要があった。1ヶ月かけて全校生徒の過半数の署名を集め、高嶋は職員会議で訴える。その時、体育教師の西寺が立ち上がる。「認めてあげましょう」。頑張っている生徒達を見ていた彼は、これは本物だと感じていたのだ。こうして工業高校に合唱部が出来た。

 まもなく、高嶋達は府立春日丘高校に見学に行った。共学で進学校で合唱の名門だった春日丘高校の合唱部は根本的に彼らと違っていた。技術の差は明らかだった。生徒達は愕然とする。

 昭和57年5月、河川敷で練習を続ける生徒達、コンクールは後4ヶ月に迫っていた。その時、高嶋の元を鉄工所を営むOB出口友治が訪ねる。彼は使って欲しいと10万円を差し出す。不況で仕事が行き詰まり鉄工所を畳んで夜逃げすることを考えていた彼は、河川敷で必死に練習する生徒達を見て、逃げないことを決めたのだった。「オレ達を応援してくれる町の人もいるぞ」彼らは土日も休まず猛練習を始める。

 9月23日コンクール当日を迎えた。会場にはパトカーがやって来ていた。淀川工業が参加すると聞いた主催者が、舞台で暴れられては困ると警察を呼んでいたのだ。高嶋は闘志が湧く。そして淀川工業は見事に銀賞に輝く。仲程達は抱き合って喜ぶ。

 その思いは次の生徒達につながれた。そして5年後、淀川工業高校はついに全国大会に参加、並み居る強豪を押しのけて、金賞を受賞する。

 

 やたらに暑苦しくて感動的なエピソードになったが、それは合唱部とは文化部でありながら、本質的には体育会系であるからである。私は実は高校時代に合唱部に所属していたことがあるのだが、合唱とブラスバンドはとかく体力が必要なので、この二つの部だけは文化部でありながら筋力トレーニングがあった。また関西合唱コンクールには、私も淀川工業と同じ頃に参加しております。ちなみにこの全国大会は毎年NHKで放送されますので、当然のようにその時のビデオが今回登場しているわけです。

 なお今回のエピソードはまさに血と汗と涙の世界でしたが、そのような世界と無縁な私は、結局のところ1年で合唱部を辞めました(化学部と兼部していたので、文化祭前に死にそうになって、結局合唱部を辞めることになったのですが)。関西合唱コンクールと言えば、私自身の青春時代のほろ苦い想い出でもあるわけです(笑)。

 さて今回のエピソード、なかなか熱い話ですが、さすがに合唱部となれば「大阪一の悪」を合唱部に無理矢理入部させ、コンクールで頑張る先輩達に熱くなった彼はその後に教師になるなんて展開になりようがないのが少々ツライところか(笑)。それでも、春日丘高校の圧倒的なレベルにうちひしがれて猛練習に励むという展開は、花園高校に惨敗して目の色が変わったという展開と非常に似ている。やっぱり作る側もあの話は意識してるだろうな・・・。

 一番笑わされたのは、高嶋は生徒達をことごとく食べ物で釣っていること。高校生というのは食べ盛りですし、あのころは日本も今よりもずっと貧しかったですから、高校生達は余計に飢えてました(笑)。まあ仲程のエピソードからもうかがえるように、淀川工業の生徒は貧しい家庭の子弟が多かったということもあるのかもしれませんが。今の贅沢慣れしすぎている子供は、食べ物じゃ釣れないだろうな。

 

4/19 プロジェクトX「焼け跡の家族工場世界へ〜ハイテク印刷機に挑む〜」

 昭和20年、空襲にさらされる日本で陸軍将校・羽山昇は本土防衛の任務に就いていた。サイパンで多くの戦友を失い、死に場所を求めていた彼、しかしそのまま戦うことがないまま敗戦を迎えた。死のうと思った羽山だが、母に説得され生き抜くことを決意する。

 羽山は教師を志す。しかしGHQによる職業軍人の公職追放により、教師への道は断たれる。家族を食わせるための方法を模索していた彼は、ガリ版印刷の参考書を買い求める学生の姿を見て、ガリ版印刷の仕事を志す。彼はガリ版印刷所に勤め、鉄筆での原板の作り方や刷りを学んだ。やかで東京世田谷の自宅に小さな印刷所を開き「理想社」という看板を掲げる。彼はそこで独自の開発を進め、外国製にも負けない粘りのあるインクや赤外線を使用して原板を5秒で作る装置を売り出して大評判となる。

 昭和43年、理想社を3Mの副社長のカール・マイヤーが訪れ、赤外線原板製作装置を全世界に売り出すことを提案する。チャンスと見た羽山は銀行から1億8千万円を借り、茨城新工場を建設してフィルムを増産、世田谷には研究所を建設して勝負に出る。しかしその直後、3Mから突然に「直ちに生産を停止してくれ」との通告が入る。3Mからの知らせは衝撃的なものだった。ゼロックス社から普通紙コピー機が販売されたのだった。ボタン1つで鮮やかな複写が可能で、ガリ版印刷機はあっという間に駆逐され、新工場は操業を停止、返すあてのない借金だけが残った。

 羽山は連日金策に走っていた。しかし3Mの販売網を失くした理想社に対し、つなぎ融資に応じる銀行はなかった。300人いた従業員も120人が辞めた。羽山は自らの肩書きを営業部長に変え、自分が陣頭に立ってフィルムの販売に走り回っていた。しかしそんな中でも研究所への投資は止めなかった。

 そんな時、羽山に東京都民銀行の陶山繁弘から融資をしたいとの申し出がある。彼は技術開発を諦めない会社は絶対に伸びると考えていた。この4000万円の融資で、理想社はなんとか倒産を切り抜けた。

 羽山が気に掛けていることが1つあった。毎日膨大な印刷物を配布する学校では、電気代のかさむコピー機は置けず、今でもガリ版のお得意先だった。しかしここでも教師はインクまみれの仕事に音を上げていた。羽山はガリ版印刷をコピー機に負けない全自動の機械にすることを決意する。

 目標はボタン1つで印刷できて手を汚さず、1分120枚でコピー機を超える速度を実現することだった。若手技術者の総力戦となった。電気担当の長谷川貴則は原板製作に赤外線でなくカメラのフラッシュを使うアイディアを出す。輪転機担当の中村松郎はガリ版のローラーを輪転機の中に入れる方法を考えつくが、インクの補充がうまくいかずかすれが出る問題が発生する。また異常発生時に瞬時に停止させる装置には小型コンピューターが必要で、その開発には3000万円が必要だが、会社には資金がなかった。開発は暗礁に乗り上げる。昭和49年、羽山は営業担当から時代遅れになった孔版印刷にいつまでこだわるのかと突き上げを食らう。しかし羽山は諦めなかった。

 昭和52年、若手技術者の細谷任道が1つの試作機を持参した。これがプリントゴッコだった。年賀状印刷に使えると判断した羽山は販売を開始、2ヶ月で6万台も売れ、これで会社が一息ついた。直後、羽山は社員を集め「この売り上げを自動孔版印刷機の開発に投入する」と宣言する。昭和53年春に開発が再開される。羽山は若手技術者達に山口百恵のブロマイドを渡して言う「清楚な百恵ちゃんが使っても手を汚さない完璧な機械を作るんだ」 そして高橋靖弘がインクが切れたローラーの表面が凸凹になっていることに気づき、インクをならす板代わりの棒を一本ローラーに加えることを思いつき、印刷ムラの問題が解決する。そして電機メーカーに発注した小型コンピューターも届く。

 昭和55年1月、最終試作機が完成する。羽山は究極の耐久テストを提案、連続120時間100万枚の印刷試験を実施した。100万枚を刷り終えてもトラブルは起こらず、しかも100万枚目も最初の1枚目と品質が変わらなかった。

 昭和55年4月、世界初の全自動孔版印刷機が発表される。全国の学校から注文が殺到、5年で3万台が使われるようになった。 

 

 いわゆる「リソグラフ」の開発の物語です。理想科学はプリントゴッコで大儲けをしたことで知られている会社ですが、その資金がリソグラフ開発に回ったと言うことは知りませんでした。しかしあれだけ売れまくったプリントゴッコも、その後の急速なパソコンの普及により、あっという間に市場から駆逐されてしまったことを考えると、余裕が出来た時に次の基軸商品にの開発につぎ込んだという羽山の判断は正しかったのでしょう。

 リソグラフは多くの枚数をするほどコストが安くなるようになっており、CMでも「5枚以上はリソグラフ」と宣伝していた記憶があります。確かに会社の会議資料程度ならコピーでも良いんですが、教室で配布するプリントとなるとコピーだとランニングコスト的にとても合わないというのはあります。もっともこれからカラー時代を迎えた場合、果たしてリソグラフって対応できるんでしょうか? と書いたところで思いついたが、インクジェットプリンタの開発なんてのも、今に登場するかもしれないな。となるとエプソンか。98互換機パソコンを販売したものの、NECのあらゆる嫌がらせで苦汁をなめ、パーソナルワープロでも市場はとれず、苦しんでいた会社がインクジェットプリンタで成功する。うーん、完全にストーリーが出来てるな。 

 

4/12 プロジェクトX「ブランドミシン誕生 流転の技術者立つ」

 昭和22年、東京で有名なパン工場があった。ジューキパンとして親しまれていた。作っていたのは東京重機。昭和13年、銃の製造のために技術者が集まって作った会社だが、敗戦後、苦肉の策でパンを作っていたのだ。しかしこれでは200名の従業員はとても食えなかった。この頃、家庭にミシンが急速に普及し始める。100社以上のメーカーが参入し、しのぎを削っていた。機械作りの設備を持つ東京重機も家庭用ミシンに乗り出した。16年後、既製服が一般的になり、ミシンの販路は縫製工場に限られるようになった。しかし外国製のミシンが席巻し、100社あったメーカーも80社が消え、東京重機は辛うじてまだ残っていた。東京重機は外国製のミシンのコピーを作っていたが、故障が続発していた。

 そんな東京重機に中途採用で一人の技術者が入ってきた。35才の小塚忠。彼は今まで8社も転々としていた。職場にやってきた彼は、社員が海外のミシンをばらして部品のサイズを測っているのを見て、上司に「これでは売れるわけがない」と食ってかかり、他の社員は反発する。

 その小塚に一つの仕事が回ってきた。それは縁かがりミシンの設計だった。東京重機では海外製品のコピーを作っていたが、振動でうまく縫えず返品が相次いでいた。できるわけがないと周囲が冷ややかな目つきで見る中、彼は2ヶ月で全く新しいメカニズムのミシンの設計図を書き上げる。出来上がったミシンの凄さに、他の技術者達は圧倒される。

 小塚が職場を転々としてきたのには理由があった。彼はかつて海軍兵学校に入学し、海軍士官の道を目指したが、敗戦後に焦土となった広島を見て、今度は技術の世界で国に貢献すると誓ったのだった。彼は今まで就職した会社で、次々と新しい機械を設計しては、次の職場に移っていたのだ。技術の求道者を目指すと決めた彼は、学ぶべきものを求めて会社を渡り歩いていたのだ。

 もはやこの会社で得るものはないと考えた小塚は会社を辞めようと考える。しかしコピーのために持ち込まれていたドイツ・パフ社の穴かがりミシンを見て、ミシンの構造に魅入られる。

 海外ではブランドの生産量が増加し、工業用ミシンの市場は広がっていた。しかし重機のミシンは全く売れなかった。ヨーロッパに渡った営業の海老原清は、ドイツのパフ社を見学して技術力の差に圧倒される。そして立ち寄った販売店で、工業ミシンで最大の課題になっているのは糸切りの問題だと教えられる。糸切りを自動で出来るミシンを開発できれば売れると海老原は考える。

 自動糸切りミシンの開発を任されたのは、大学で機械工学を専攻した期待の若手の青山規利だった。しかし自動で糸切りをするには針が上下する0.3秒の間隙で糸を切る必要があり、これはプロペラの中に手を入れるよりも難しかった。彼は試作機を作り上げるが、糸を切るメスが針と衝突して針が真っ二つになる。そこで上層部は、このプロジェクトに小塚をリーダーとして投入する。

 メンバーは小塚と青山、それに電気制御担当の篠宮宏影だった。しかし青山は課題のあまりの困難さにやる気を失くしかけていたし、篠宮は中途採用の小塚の下で働くことに不満を感じていた。小塚はこの二人を埼玉の縫製工場に連れて行く。作業をする主婦は「一日千回以上も糸を切るから手がつかれてどうしようもない」と語る。小塚は二人に言う「こうやって真面目に働いている人たちに役に立つことをするのが、僕たちの仕事じゃないのか。世界に一台しかないミシンを作るんだ」。二人は心を打たれて燃え上がる。

 三人は動き始める。最大の難問である糸を切るタイミングについては、小塚がかつてのアイディアをまとめたノートから、カムを使用して雌の動きを針と連動させることを思いつく。こうして自動糸切りミシンが完成し、販売される。

 しかし納入先の縫製工場から糸が切れなくなったとの苦情が殺到する。昭和44年7月、故障の原因究明をしていた篠宮は、ミシンを分解して驚く。電気回路の一部が焼け付いていたのだ。小塚は直ちに渋る専務と交渉し、すべてのミシンを回収させる。一方、篠宮はミシンが故障した縫製工場に飛んでいた。そこでミシンを見た彼は驚く。ミシンは夕日を浴びて真っ赤に染まっていた。太陽の熱と内部との発熱で回路が焼けてしまったのだった。篠宮は早速熱を逃がすアルミ製の部品と交換し、高温度試験室にミシンを持ち込んで青山と二人で裸で1週間の耐久テストをやり続ける。

 昭和46年6月、パリで4年に1度の国際ミシン市が開催され、小塚達は命運を賭けて自動糸切りミシンを出品する。各社も同様のミシンを出品、実演が始まる。欧米各社のミシンが数十回でみな糸が切れなくなったのに対し、小塚達のミシンは何百回やっても鮮やかに糸が切れ続けた。一千回たっても切れ味は全く落ちない。ブースには人が集まり、営業の海老原にはバイヤーから「売らせて欲しい」との声がかかる。そして小塚を取り囲んだバイヤー達から一斉に拍手が起こる。

 

 いやー、技術者魂を揺り動かす久々に熱い物語でした。あまりにテーマがマイナーだったもので、これで大丈夫なんだろうかと思ったが、どんな世界にもドラマはあるものです。地味ではありますが今回の主人公も「伝説の技術者」の一人です。「世界に一台しかないミシンを作るんだ」なんてセリフ。私も技術者の端くれとして、不覚ながら涙がこぼれました。いやー、技術者のモチベーションの上げ方をよく心得ていること。技術者冥利に尽きるというのは、世界に一つしかないものを開発して世の中の役に立つことです。技術者にとっては決して金を稼ぐことが目的ではないんです。だからここで「新しいミシンで世界を制覇して、○○億の市場を獲得するんだ」と言われても、技術者としては全く熱くなりません。しかし昨今は上層部などはこういう物言いしかしなくなってるんですよね。

 それにしても「技術の求道者」って・・・。つまり彼は根っからの機械屋だったということですね。結果としてはあちこちで機械設計の経験を積んでいたことが生きたわけですが、これだけの設計が出来るというのはアイディアマンでもあります。努力家の側面があるのは間違いないですが、それよりは一種の天才肌のようにも思えます。

 王道の開発もので、楽しませてくれました。やはり4月になって、番組生き残りのためにスタッフ側も気合いを入れてきてるんでしょう。今回は開発もの、先週は建設もの、先々週が職人ものと、この番組の王道三部作というところ。これで後は災害ものがくればフルコースなんだが・・・次回はリソグラフのようですね。プリントごっこは出るんだろうか(一時バカ売れしたが、今やパソコンに駆逐されて風前の灯火である)。

 

4/5 プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」

 戦後、焼け野原の中から復興の進む日本。復興のPRのために東京オリンピックの開催が決定される。しかし当時の東京は年インフラの整備が全く進んでおらず、羽田空港から会場や宿舎のある代々木までは渋滞のために車が進めないような状態だった。開催までのわずか5年の間に道路を通す必要があった。とても用地買収をしている暇はない、都庁都市計画部の大崎本一は頭を抱える。そこに都市計画部長の山田正男が空中作戦を提案する。これは河川や現在の道路の上に高架道路を造るという案だった。用地買収を避ける妙案だった。技術者の選抜が始まり、河川の改修に活躍した仲田忠夫、戦後に破損した橋の修復にかけた玉野治光などが名乗り出る。

 昭和34年6月、首都公団が設立される。しかし路線を決めた途端に問題が発生した。かつての街道はすべて日本橋を起点にしており、その街道上に敷設する首都高速も日本橋で合流することになる。しかし合流地点の江戸橋ジャンクションは上下三層の構造になり、橋脚は100本も必要だった。しかし日本橋川に100本もの橋脚を立てると流れが止まって水があふれるのは確実だった。また皇居の堀の上に建設する予定の空中道路は、皇居を見下ろすことになると警備に問題が生じると許可が出なかった。

 江戸橋ジャンクションの橋脚に悩んでいた玉野の元に部下の前田邦夫がアイディアを持ってくる。それは梁を渡して、その上に道路を載せるというものだった。また皇居の堀についてはトンネルを掘ることになった。こうして昭和35年4月、工事が開始される。

 日本中の総力戦となった。江戸橋ジャンクションの梁は、かつて戦艦大和の主砲を作った日本製鋼所が担当した。そして足場が組めない川の上でその鉄骨を組んだのは、かつて東京タワー建設などで活躍した鉄骨鳶の桐生五郎(以前の東京タワーのエピソードで登場している)らだった。またトンネルを支える鉄骨は水道管メーカーの久保田鉄工が製作した。

 一方、起点の羽田工区の道路を担当していた仲田は困難に直面していた。海老取川を越える橋をかけようとしたところ、羽田空港から「離発着の邪魔になる」と反対され、トンネルを掘ろうと決めたものの、地元の漁業組合が怒鳴り込んできたのだ。地元で浅草海苔を作っていた彼らは、海苔に影響が出ると猛反対したのだった。

 また皇居の堀下の合流トンネルである三宅坂トンネルでも大問題が発生していた。送風機では出入り口にガスが抜けず、合流地点で滞留することが判明したのだ。もし事故や渋滞が起こればガス中毒になる可能性があった。

 仲田は危機に直面していた。開削トンネルである以上、川を2年間にわたってせき止めることになる。漁師達が懸念する通り、海が荒れるのは必定だった。困り果てた仲田は「たった一日ですむ工事がある」という話を聞く。それはオランダで開発された沈埋函工法というものだった。巨大な鉄の箱をつくり、それを海中の所定の位置に沈めてから、その両端を開くという工法である。これだと川をせき止める必要がない。仲田はこれで漁師達を説得、沈埋函は石川島播磨重工で大至急製造され、現場に沈められる。

 一方三宅坂トンネルの問題は、ガスを出入り口から抜くのではなく、トンネルの壁にガスの吸い込み口を作るアイディアを玉野が考えつく。風洞実験に入り、荏原製作所によってその装置が製作される。トンネル内で煙を発生させるテストでも見事に煙が排出される。

 こうして昭和39年10月1日に首都高速は開通する。

 

 今回のエピソードの特徴は、再登場の桐生五郎を始めとして、とにかく異常に関係者が多かったことだ。名前が登場した人物だけで1ダースを軽く超えるので、とても全員の名前を出していられないので私の解説では割愛している。多分、この番組に出演するとかなりの宣伝になることから、取材に行った関係先でことごとく会社の名前や担当者の名前を出すことを依頼されたのだろう。今回のような巨大プロジェクトになると、今に映画のエンドロールよろしく、関係者の名前がズラズラと列挙されることになるかもしれない(笑)。

 さて今回は首都高速がいかにすごい道路かという宣伝一色だったのだが、実際の首都高速はやはり突貫工事であることは否定できず、構造上の問題点は多々指摘されており、それが慢性の渋滞の原因の一つあげられている。まあ確かに首都高速は制限の多すぎる条件の中では頑張ったのであろうということは認めるが・・・。そもそも一番の問題は、東京で都市計画が全く行えなかったことである。これは今に至るまで東京の最大の弱点になっている。もっともここまで異常な過密になると、よほど立派な都市計画を行っても破綻するのは見えているが。基本的には東京の首都機能を分散して、異常な過密を解消した後に根本的に都市計画をやり直す必要があるのだが、東京の地位を低下させる恐れがある政策には、あの右翼知事がことごとく反対するからな(とにかく権力を振り回すことが彼の趣味だから、権力を振るえる相手の人数が減る政策には反対なのだ)。

 なおこの時は浅草のりを守るために沈埋函工法をとったが、その後、浅草のりは結局のところ東京湾の汚濁で壊滅してしまう。今は海苔の養殖といえば有明海が中心だが、その有明海はあの諫早湾干拓という無意味な無駄工事のせいで壊滅的打撃を受けつつある。今や巨大公共工事といえば無駄の象徴だから、どうしてもこの番組でもその手のネタは批判的に見てしまうクセがついてしまっている。ちなみにこの番組で絶対にやって欲しくないネタ。「新幹線を故郷に 悲願の整備新幹線」「北海道に高速道路を 鈴木宗男、執念の道路建設」「巨大堤防完成す 諫早湾干拓事業」「震災復興、夢をかけた海上空港 神戸沖空港建設」

 ちなみに言うまでもないことですが、神戸沖空港は震災復興とは全く無関係にもかかわらず、神戸市がどさくさ紛れに復興事業に割り込ませたものです。神戸市民の大半はその建設を望んでいないにもかかわらず、その市民の声を無視して(市民の署名を完全に無視した)建設を強行したものであります。神戸市民のほとんどは「空港を建設する金を使うなら、市民の生活再興を優先するべき」と言っていたにも関わらず、結局は神戸市は市民の生活は見捨てて、ゼネコンに金を垂れ流したのである(当然ながら、ゼネコンからは担当者にキックバックがあったことは想像に難くないが)。こういう体質は日本中に現在充満している。

 

3/29 プロジェクトX「千年の秘技 たたら製鉄 復活への炎」

 日立金属の安来工場、この工場は刃物で有名だった。その鋼はヤスギハガネとして名が知れ渡っていた。その技術を築いたのは、大学で最先端の鋼技術を学んだ鈴木禎一だった。彼は鉄に混じる不純物の除去に取り組んでいた。その結果、他のメーカーが作れない純度90%の鋼を作り上げた。昭和40年、彼に特命が下る。ヤスギハガネを世界進出させるという話だった。スウェーデンのメーカーが市場を一手に握るカミソリ市場に殴り込みをかけたのだった。ヤスギハガネ製のカミソリはアメリカに販売された。しかし間もなく、カミソリが刃こぼれして顔に傷が付くというクレームが来る。原因は不純物だった。純度90%では極薄のカミソリは無理だったのだ。日本の鉄の原料はオーストラリアなどの鉄鉱石で不純物が多く、スウェーデンの高純度の鉄鉱石に太刀打ちできなかった。やがて刃物市場もステンレスに奪われ、会社は危機に瀕する。

 昭和51年、刀剣保存教会の意を受けた4人の刀鍛冶達が訪ねてくる。その一人、吉原義人は戦後満足な鋼が入ってこないため、カナ火事の技術が途絶えるのを懸念していた。彼らはたたら製鉄の復活を依頼しに来たのだ。たたら製鉄は弥生時代から日本に伝わってきた製鉄法で、砂鉄と木炭だけで鉄を作る方法だった。これで生まれる玉鋼は99%の純度を持つものだった。日本刀や神社仏閣の釘やかすがいはすべてたたらで作られていた。かつては全国で200以上はあったたたら製鉄所も、手間がかかりすぎるために敗戦後には消滅していた。この話を聞いた鈴木はたたらに勝負を賭ける気になる。

 鈴木は島根の横田町のかつてのたたらの製鉄所に出向く。彼はそこで砂鉄の研究を続けていた技術者の木原明を呼ぶ。木原はたたらの記録をかき集めるが、炉の形と砂鉄を1000回投入するということしか分からなかった。たたらの秘伝は村下(むらげ)という親方のみが知っており、一子相伝の技術だった。しかし既にその技術は途絶えていた。その時、古参の職人が「一人だけ生きているぞ」と言う。木原は山奥で炭焼きを営むその人物の元を訪ねる。安倍由蔵74才だった。木原は安倍に協力を頼むが、杖をつく安倍は、三日三晩かかるたたらはこの身体では無理だと断る。たたら製鉄の復活はいきなり暗礁に乗り上げる。

 木原は安倍の元を日参したが、ことごとく断られた。このままでは駄目だと決意した木原は、夜明け前氷点下の山道を上半身はだかで安倍の元に走っていった。その姿を見た安倍は、この一途な男に技術を託すことを決意する。

 こうして昭和52年2月、安倍と日立金属の10人によるたたら復活プロジェクトが立ち上がる。製鉄はまず炉作りから始められる。安倍の指示によって4トンの土が集められると、安倍は杖を突き放して、土を踏みつけ始める。炎に耐える炉を作りには毎日6時間踏みつける必要があった。木原が見かねて変わろうとしたが、安倍は「この作業を続けた者にのみ鉄の神は良い鋼を授ける」と譲らなかった。

 一方、安来工場はさらに追いつめられていた。たたらの復活を急ぐ必要があると考えた鈴木は、博物館の資料を基にたたら用のふいごを作る。後は砂鉄の調達だったが、安倍が指定した地は国有地となっており掘ることは出来なくなっていた。木原は安倍に砂鉄の特徴を聞き、通常の砂鉄に水を掛けて酸化を進める方法を思いつく。

 昭和52年3月、試し操業が開始された。安倍は炎の色に注目するように言う。1日後には炎が山吹色になり、それが鋼になった証拠だという。しかし15時間経過後、安倍が砂鉄を入れた直後に炎が突然消える。慌てて炉を開けてみると、黒こげになった塊があった。失敗だった。

 もう一度試し操業が行われたが、やはり15時間後に炎が消えた。メンバーの中から安倍への疑いの声が上がるが、安倍の製鉄への執念を目の当たりに見ている木原は、失敗の原因は自分たちにあるのではないかと失敗作の塊を調べ、ふいごの空気が多すぎたことに気づく。そして11月18日、いよいよ操業が開始される。ふいごの操作盤の前に立った木原は、送る空気の量を今までの半分にセットする。そして魔の15時間後、炎は山吹色に変わる。歓声が上がる。しかしその時、目眩を訴えた安倍が横たわる。74才の体力は限界に近かった。後は私達がやるという木原達に対し、安倍は首を振る「鉄作りは子育て同じ、途中で投げ出すわけにはいかない」。彼は医師から栄養剤の注射を受けて現場に復帰する。3日後、炉の中から出てきたのは見事な玉鋼だった。この玉鋼は刀鍛冶達に渡され、早速吉原義人によって刀に打たれる。吉原の作った刀は、見事に鋼鉄の兜を叩き割る。鈴木は早速たたら製鉄の記録を調べ、その技術を新型の炉に投入する。こうして出来た純度99%のカミソリの刃は世界に衝撃を与える。

 

 職人シリーズ好例の「努力と根性」の物語である。たたら製鉄の場に立った途端、杖を投げ捨てる74才の安倍が凄いですが、その安倍を口説くために、裸で雪の中を走っていった木原が馬鹿です(笑)。結局彼はその後に安倍に弟子としてついて、彼の技術を継承されたようであるが、職人にはこういう暑苦しい奴がむいているんだろう(笑)。なおたたら製鉄についてはかつて東大寺の南大門仁王像の修復の時に登場した記憶があるが、やはりエピローグで登場した。ちなみに仁王像修復は昭和62年なので、このプロジェクトでたたら製鉄が復活された後のことである。なんとなく今回のたたら製鉄は、あのテーマとの絡みで浮上したような気もしないでもない。

 たたら製鉄でないと日本刀が作れないと言っていたが、多分鉄の純度が低いと、カミソリで出てきた刃こぼれだけでなく(日本刀の刃もカミソリ並みであるから、日本刀でも刃こぼれするだろう)、不純物が原因でさびが出たり、鉄にねばりがなくなるのだろう(鉄は一般的に不純物が増えるほど固脆くなる)。兜割りなんてまさに鉄の性能を試す技だが、固脆い刀だと簡単に折れてしまうであろう。日本刀は粘りのある玉鋼を使い、さらに鍛える時に粘りを増すという作業を行っていたはずである。なお最近になって純鉄(小数点以下数桁まで不純物を減らした鉄)が新素材として研究されたが、純鉄になるともはや通常の条件では錆びないという。また鉄とは思えないほど柔らかいとのこと。

 なかなか暑苦しいエピソード(燃え上がる炎がそれに拍車をかける)で、久々に楽しませてくれた。やはりこの番組の命は、クサさ寸前の暑苦しさであると再確認させられた次第(笑)。血と汗と涙といったかつてのスポ根ワードがそのまま登場するのがこの番組である。この番組がヒットした頃、私は次の時代に当たる作品はスポ根ものだと予言したが、確かにスポーツものは復活したが、「テニスの王子様」に代表されるような、根性の部分が抜け落ちた新世代系スポ根ものが中心になるというところまで読めなかった。もっとも最近の「テニスの王子様」は、かなりオールドタイプのスポ根に接近しつつはあるようだが・・・失礼、またあらぬ方向に話がそれた。

 ところでたたら製鉄の技は一子相伝とのことだが(まるで北斗神拳である)、木原の後を継ぐ暑苦しい若者はいるんだろうか?

 

2/22 プロジェクトX「激走せよパリダカ 日の丸トラックvsモンスター」

 昭和38年の第1回日本グランプリ。このレースをぶっちぎりで制したのは、トラックメーカーの日野自動車が開発した乗用車コンテッサであった。開発したのは当時35歳の技術者・鈴木孝。かつて航空技術者になりたいと思っていた鈴木だが、敗戦によってその夢は断たれ、次に彼は乗用車メーカーを目指したが採用されず、やむなく入社したのがトラックメーカーである日野自動車だった。そこで巡ってきた乗用車開発のチャンスに日本一の車を作ったのだった。しかしこの車はレースの結果にもかかわらず、日野自動車の販売網の弱さのせいでまるで売れなかった。そして昭和41年、日野がトヨタとの提携を発表、コンテッサは生産中止、日野は元のトラックメーカーに戻った。鈴木の夢はここに破れた。

 いままでしょっちゅう「元航空技術者」がでてくるこの番組であるが、今回は「元航空技術者志望」である(笑)。なんかこの辺りに少々ネタの辛さが滲んでいたりするように思えるのだが(笑)。

 やがて日本は本格的な自動車時代を迎え、トラックは物流の基盤を担い始める。しかしそれと共にディーゼル排ガスによる大気汚染が問題化、厳しい排ガス規制が課せられることになる。会社の命運をかけたこの開発を指揮したのが鈴木である。彼の元で日野の技術者達は排ガス規制に対応するための研究開発を続けた。しかしいくら規制をクリアしても、また新たにさらに厳しい規制が定められる。開発は常に終わりのないいたちごっこになってしまった。このことは若手の技術者達を精神的に疲弊させ、多くの技術者が職場を去っていった。

 このままでは会社が駄目になってしまう。若手技術者達の士気を上げるために、鈴木はトラックでも参加できるパリダカに参加することを考える。彼は上層部に「若者が希望を持てない会社は駄目になる」と訴え、社長から3年の期限を与えられる。

 早速若手の技術者達が集められる。しかしパリダカは過酷なレースだった。レースに参加するには四輪駆動のトラックでないととても無理だったが、日野の車では195馬力の中型のレンジャーしかなかった。優勝チームからノウハウを取得するべく、エンジニアの茂森政がイタリアのペルリーニ社に飛ぶ、しかしそこで見たレース用トラックを見て驚く。それは長さ8メートル重さ12トンの超大型で馬力は550馬力のモンスターだった。日野のトラックのサイズを知ったペルリーニ社の担当者は「このサイズのトラックだと砂に埋もれてしまう」と笑う。パリダカに初参加で完走したチームは今までなかった。

 報告をうけた鈴木はトラックの耐久性を上げるしかないとトラックの改造に挑む。また砂の対策も重要だった。もし砂がエンジン内に入り込んだら一発でエンジンがやられてしまう。エンジニアの鈴木浩一らがエンジンの改造に挑み、レース仕様のトラックが完成する。そして平成2年のパリダカに参加する。日野のチームは馬力不足のために砂に埋もれるなどのトラブルに遭遇したが、総力戦で取り組んで初参加にして完走に成功する。

 次こそ優勝だと意気込む鈴木だが、役員からの批判が吹き上がる。予算は当初予定の倍の8億かかっており、これで完走だけだと割が合わないと判断されたのである。またバブルに崩壊の予兆が現れており、会社の売り上げが落ちてきていたことも影響していた。結局、焼く井はパリダカへの中止を決定、鈴木は現場を去る。

 平成8年、排ガス規制はさらに強化され、会社は技術開発に苦しんでいた。鈴木の後を継いで技術開発の責任者になった茂森は、再びパリダカに参加することを社長に直訴する。このままでは駄目になるとの茂森の訴えに、社長は絶対に優勝することを条件に一度だけチャンスを与える決断をする。

 茂森は早速全国から若手のエンジニアをかき集めた。全員で前回のレースの問題点の洗い出しを行った。その結果、サスペンションが弱かったことが判明、サスペンションの強化に籾山富士男が起用され、彼は従来よりも柔軟性の高いサスペンションを導入、またタイヤの設置面積を増やすために径の大きなタイヤを採用する。こうして新型車が開発された。

 平成9年のダカールラリー、これに重森達は3台の車をエントリーした。日野のトラックは、途中でエンジンのパーツに亀裂が入るトラブルが発生したが、若手の技術者達が危険を冒して修理を行い、レースに復帰する。そして最終日、日野のトラックが先頭を切ってゴールインする。しかも2位も3位も日野のトラックだった。重森達の完全優勝であった。史上初の快挙だった。歓声の中を彼らは凱旋する。

 

 またもレースのエピソードである。今回のレース参加の目的は「若手の士気を上げる」ことであるということが今までとは少々違う。確かに開発者としては「出口の見えない開発」というのは一番しんどいものであり、いつまで経っても達成感がないからどんどんと疲れていくのである。そういう意味では現在多くの会社で導入されている成果主義がまさしくそれであり、目標を達成したらしたでドンドンとハードルが上がっていくことになるから、現場の士気はみるみる落ちていくということになる。実際に富士通などはこれのせいで現場が滅茶苦茶になり、最近になって制度の全面見直しの必要性に迫られているのは有名である。経営者が近視眼的に従業員の給与を下げることを目的にこのような制度を導入したら、早晩にその会社は駄目になる。

 番組的には「パターンだな」としか言いようがないのが本音。さすがにレースのパターンは今までに多すぎるように思われる。また今回は技術ネタ的にもあまり画期的なブレイクスルーがあったわけでもなく、そっちの面での目玉もなかったせいで、今一つの盛り上がりに欠けてしまう部分がどうしてもあった。どうしても最近はネタが小粒になってきており、やや番組構成的にしんどいのは否めないようである。この番組もそういう意味での「ブレイクスルー」が必要となってきているように思われてならない。

 

2/15 プロジェクトX「そして街中に音楽が飛び出した〜逆転のカセットテープ〜」

 家電の国産か時代を迎える中、磁性素材を電機メーカーに納めて成長している会社があった。東京電気化学工業(TDK)、東京工業大学の電気化学科教授の加藤与五郎が「日本の産業発展に役立てて欲しい」と磁性素材の技術を無償提供して出来た会社だった。ここに、かつて松下から無理や値引きを要求された時に、「それでは品質が落ちる」と頑として跳ねつけたという敏腕営業マン・大歳寛がいた。

 彼は昭和35年、玉川工場の事業部長に抜擢される。この工場は全社の中で唯一巨額の赤字を出していたお荷物部署だった。この工場の技術者・伊藤福蔵は「とうとうこの時が来たか」と覚悟する。この工場の赤字の原因は、彼の開発したオープンリールテープだった。彼は放送局の依頼に応じて録音テープの国産化に成功したのだが、放送局はテープを何度も上書きして使用するし、当時のオープンリールデッキは高価な上に一般人には扱いにくく、彼の製造したテープは全く売れなかったのだ。敏腕営業マンの大歳が事業部長になったことを知った伊藤は事業の閉鎖を覚悟していた。しかし全従業員を前にした大歳は意外なことを言った。「俺はテープ部門を絶対につぶさない。この技術が必要とされる日が必ず来る。」。

 昭和37年5月、伊藤に幼なじみの太幡利一から「ヨーロッパからのみやげがある」と電話が来る。太幡が伊藤に見せたのは、オランダのフィリップス社が試作したカセットテープレコーダーだった。これを見た伊藤は瞬時にこの機械の将来性を見抜き、この機械を大歳に見せる。これを見た大歳は、やがてカセットテープが大量に必要になると見て、伊藤に直ちにカセットテープの量産に取りかかるように命じる。

 昭和40年、アメリカのGEなど世界の大手家電メーカーが次々とカセットテープレコーダーに参入していた。その頃、TDKではやっとカセットテープの量産化に成功する。大歳は早速アメリカに飛び、GEにレコーダーとのセット販売の10万本の契約を取り付けて帰る。また国内でも松下や東芝から3万本の取り付ける。こうして昭和41年6月にカセットレコーダーが発売され、カセットテープも半年で20万本が出荷される。しかし半年後、とんでもない事態が発生する。謎のテープの回転不良が発生、3万本が返品される。伊藤は原因を探ったが、テープの問題点が見つけられず頭を抱える。その間にも返品は増え続け損害は2500万円を超える。大歳に呼ばれた伊藤はクビを覚悟していた。しかし大歳は言った「テープだけに問題があるとは限らない。レコーダーを調べてみろ。」。伊藤達は大量のレコーダーを調べ、その結果、松下のレコーダーのゴムローラーに不良があり回転ムラが発生していることが判明する。部品メーカーの立場として松下に改善を要求することを皆が躊躇する中、大歳の部下として営業極意を叩き込まれた吉田一章が松下と交渉、改善を約束させる。

 しかし昭和42年6月、GEが突然にカセットテープのセット販売の打ち切りを通告してくる。大手テープメーカーの3Mがカセットテープの量産を開始、安い値で市場に打って出ていたのである。さらに日本の国内でもソニーがカセットテープの自社開発に成功、TDKのテープはあっという間に駆逐されてしまい、在庫の山を抱え込む。

 経営陣からテープ部門からの撤退を迫られる大歳は、部品メーカーから脱却し、テープ単独で売れる製品の開発を目指す。そして突破口を探していた伊藤は、若者達が生演奏を録音する録音コンサートに参加しているのを見て、音楽用カセットテープを開発したら売れるはずだと考える。当時のカセットテープは会話録音ぐらいにしか使えないと考えられていた。ポイントは高音の録音だった。開発を託された栃原重三は、磁性体を針状にすることで、高音の録音も可能な高密度な磁性層を作る技術を確立する。

 こうして開発された音楽用カセットテープはまずアメリカで販売される。そしてNASAでも採用されるなどアメリカで大反響を呼ぶ。そして逆輸入の形で国内で販売され、国内でも大評判となる。

 

 カセットテープ開発という地味なテーマである。ただ個人的には私がオーディオを始めた学生時代は、まさにオープンリールが完全にカセットテープに置き換わった時代であり、その時期に馴染みのあるオーディオ評論家の斉藤宏嗣氏が番組に登場していたのが、妙に感慨深かった。

 私は個人的にはカセットテープにはいろいろな記憶がある。特にTDKのテープはメインに使っており、ノーマルテープのADは私にはまさにスタンダードだった。番組ではエピローグでデッキメーカーがTDKのテープのためにデッキを開発したと言っていたが、実際にこの時期にはテープとデッキが共に進化した時期で、その後にクロームテープ(巷ではハイポジションとも呼ばれたが)のSAや、メタルテープのMAなども登場、デッキの方もパーマロイのヘッドから、センダスト、アモルファスなどと進化して音もドンドンと良くなった。それに合わせてTDKのテープのラインナップも増加した。スタンダードなAD、力強いサウンドのクロームテープSA、ロック向けにチューニングされていたために音がガサツすぎてクラシックファンの私には使い物にならなかったAR、ノーマルテープながらも素晴らしい高音を出したにも関わらずキャラクターが地味すぎたためにあまり売れなかった名器AD−X、メタルボディを使用して非常に高価ながらもまさに究極のサウンドを出した名器MA−Rなど記憶に残るテープが数々ある。

 ただ今回、どうしても忘れてはいけないのは、今やテープメディアはほとんど絶滅に瀕していることである。カセットテープはその後に登場した、カセットよりも格段に音は悪いものの使い勝手に勝るMDに取って代わられ、そのMDも今やさらに音は悪いが使い勝手がさらに良いMP3に取って代わられている。そしてこの流れに象徴される、もはや音などどうでも良いという風潮と共にオーディオは急速に衰退し、カセットテープも今やほとんど瀕死である。また彼等がその後に転身を図ったビデオテープの分野も、今やDVDレコーダーに取って代わられつつある。多分、このような事情があることから、今までこのテーマは扱っていなかったのだと思う(それに加えて、カセットテープのそもそもの原型はフィリップスの開発によるということもあろうが)。ただ今になってこのテーマが登場したのは、昨今のこの番組の深刻なネタ切れも反映しているように思われてならない。

 以上の点から、私は個人的には妙な感慨を抱いた今回の内容だが(かつてのオーディオマニアとしては、このテーマを書いているとあらぬ方向に筆が暴走しそうなので、今回はかなり抑制している)、テーマとしては「?」といった印象である。で、次回はパリダカ。またレースのパターンである。予告を見る限りでは日野自動車の模様。これは全メーカーが登場するまで続きそうな気配。かなりワンパターンにもなってきてるんですよね。

 

2/8 プロジェクトX「地下鉄サリン 救急医療チーム最後の決断」

 平成4年、東京に聖路加国際病院の新たな病棟が建った。広々としたロビー、コンサートが開ける礼拝堂まで完備、ベッド数を稼がずに無駄なスペースが多いことに周囲は採算が採れないのではないかと首を傾げた。しかし院長の日野原重明には考えがあった。戦争を体験した彼は、東京大空襲で多くの人々が治療も受けられずに死んでいったのを見ており、いつか大災害でも耐えられる病院を作ってみせると決めていた。実はこの病院は酸素の配管を病院中に張り巡らしており、礼拝堂も非常時には広い病室になるよう設計されていたのだ。さらに24時間対応の救命センターを設置し、若手の医師に経験を積ませていた。そしてその指導官には若手の石松伸一を抜擢していた。

 平成6年6月、松本でサリン事件が発生。サリンはナチスが開発した神経ガス、筋肉をマヒさせて呼吸停止にしてしまう毒ガスだった。あまりに悲惨なために製造が禁止されているはずだった。

 平成7年3月20日、午前7時50分、日比谷線の小伝馬駅。改札の大室勉はいつものように仕事をしていた。8時2分、列車がホームに入ってきた。ドアが開くと同時に乗客が次々とホームに倒れ込んだ。何か危険なガスが漏れている。駅員達は倒れた乗客を必死で運び出した。大室は最後の乗客が運び出されるまで持ち場を守っていたが、最後の乗客が運び出されたところで、一人改札で倒れた。

 最寄りの聖路加病院の救命センターの電話が鳴り、消防庁から爆発事故だとの連絡が来た。石松は火傷の治療の準備をした。そこに被害に遭った乗客がやって来た。乗客は眼を押さえながら「車内でシンナーが撒かれた」と伝えた。消防庁から伝わっている情報と違っている。そして5分後、運ばれてきた患者は外傷はないが心停止していた。石松には何が起こったのか分からなかった。

 患者に心臓マッサージをしても反応しない。毒物中毒だ。それもかなり激しい。石松は若手に地下鉄の状況を見てくるように指示した。若手の木村哲也が救急車で飛び出した。現場には数百人の患者が倒れていたが、患者を受け入れられる病院がなかった。それを聞いた院長の日野原が決断する。「今日の外来診療はすべて中止する。患者は全部受け入れる。」 精神科医や産婦人科医まで含む全医師に緊急招集がかかり、救命センターに集められた。病院は戦場になった。ロビーや礼拝堂は診察室となり、多くの患者をそこに収容した。日野原の布石が効いていた。

 病院に大室が運び込まれてきていた。体が動かず呼吸が苦しくなっていた。硫酸アトロピンを点滴しても改善しない。石松が患者の瞳孔が収縮している(縮瞳)になっているのに気づいた。有機リン系の農薬に特有の症状。その時、同僚の奥村徹が松本の事件を思い出していた。「まさか、サリンか」 治療薬はパム注射薬があったが、これは危険な薬だった。筋肉の麻痺をとるが、これ自体が毒性を持つ。原因の分からないまま使用すれば、患者の命を奪いかねない。事件発生から1時間、患者は200人を超えた。救命センターには治療法を問い合わせる電話が殺到。同僚の奥村が石松にパムの使用を促すが、石松はためらう。 その頃大室は、意識を失い人工呼吸器が頼りになっていた。かなり危ない状態だった。

 その頃、松本市で信州大学医学部付属病院の柳澤信夫がテレビでこの事件のことを見ていた。患者の症状を見た彼は「サリンに似ている」ととっさに感じ、聖路加病院に電話をかける。ここで石松が決断した「パムを投与する」。彼はパムを重症患者8人に投与する。30分後奥村が駆け込んで叫ぶ「パム、効きました」

 しかし薬剤部では問題が発生していた。特殊な薬物だけにパムの在庫が20人分しかなかった。薬剤部長の井上忠夫が問屋に電話をかけた。「東京中でパムが必要になる。ありったけを運んでくれ。」 パムを扱っているのは名古屋のスズケンしかなかった。物流責任者の小林源吉が各地の倉庫にパムを集めるよう指示を出した。彼はこだまに飛び乗って、沿線の倉庫から途中の停車駅でパムを集める作戦を実行、230人分のパムを集めた。

 聖路加病院では非番の看護婦までが駆けつけ、全員が迅速な対応を行っていた。日野原が目指していた「大災害にも耐えられる病院」の姿がそこにあった。絶対に乗り切ってみせると彼は決意した。そこに200人分のパムが到着、患者に次々と投与された。そして集中治療室の大室の意識が戻った。彼の前には母の心配する顔があった。「大丈夫かい」「大丈夫だよ」涙ぐむ母に彼は答えた。

 

 オウムネタであるが、麻原の逮捕劇ではなく、サリン事件への対応を持ってきたというのはこの番組らしい。まだ裁判が決着していないので意図的なのか、オウムについてはほとんど言及していないのが特徴である。もし私が制作していたら、もっとオウムに対する怒りが露骨に滲む内容にしていただろう。

 内容としてはパニックものに近いエピソードになっている。切迫する事態の中で迫られる決断。手に汗握る熱き展開である。語り口は淡々としており演出的にはむしろ地味(表現などは抑え気味であった)であるが、展開で盛り上げるという構成になっていた。最近低迷傾向が見られていたこの番組であるが、久々のヒットではなかろうか。

 ところで院長の日野原は、このような事態にも備えてこのような施設を作っていたと言うが、正直なところ、それはどこまでホントかなという気もしないではない(笑)。確かに酸素配管などの布石はしていたようだが、実は豪華施設で患者を集めようという思惑がメインだったのではなかろうかと思えてならないのだが(笑)。災害時には病院がパンクするのは阪神大震災の時に起こっており、しかも阪神大震災の時は病院自体が被災していた(中央市民病院は停電などで機能停止、西市民病院に至っては病棟自体が倒壊していた)ため、通常時なら適切な医療を受けて命を取り留めることが出来る患者が、みすみす多数見殺しにされてしまったというのが、未だに医療関係者の間では痛恨事(そして家族の間では取り返しのつかない不幸)になっている。病院というものは災害時にも機能し続けられるということが重要なのである。そのあたりの備えはどうなっているのだろうかということも興味のあるところである。

 

2/1 プロジェクトX「町工場 復活のヘリコプター」

 昭和46年、アメリカの為替レートの引き下げ(いわゆるニクソンショック)により、繊維産業は大ダメージを受ける。広島の府中市で紡績の下請け会社ヒロボウを経営する松坂敬太郎は金策に明け暮れる毎日を送っていた。繊維に見切りをつけて電子部品などの製造を始めるが借金が重なるばかりだった。そんなある日、おもちゃを作ることを思いつく。ラジコンカーを作ってドイツのおもちゃの博覧会に乗り込んだが全く相手にされない。しかし彼はその時に会場で見た無線ヘリに魅入られる。帰国した松坂は家屋敷を売り払って開発費を工面、無線操縦ヘリで世界一を目指すと社員に訴える。

 しかし小型ヘリの設計には大型ヘリと同じ技術が必要だった。設計の松本貢はヘリのローターヘッドに鍵があると考え、ヘリの写真から見よう見まねで図面を引き、それを旋盤技術を誇る橋本尚之が切り出した。昭和60年、試作機が完成しテストする。完璧だった。ヘリは評判を呼び、海外からも注文が来る。しかしある日、松坂が友人に小型ヘリの成功話を語った時、友人がこう言う。「それは社会の何の役に立っているのか?」松坂の胸に言葉が突き刺さる。

 そんな時、ヤマハから農薬散布ヘリの開発に協力して欲しいとの依頼が来る。山間部の畑などでは20キロの噴霧器を背負っての農薬散布は重労働だった。農林水産省から開発委託されたヤマハは独力で開発に取り組んだが、ヘリのノウハウを持たないヤマハでは、2年間かけてヘリの飛行に成功していなかった。そこでヒロボウの小型ヘリに目をつけたのだ。共同開発の条件はヒロボウの名前を出さないこと。ようやく下請けから脱してメーカーになったばかりの社員達は悩むが、松坂は「社会の役に立つ仕事」ということで引き受ける。

 昭和60年冬、共同開発が始まった。ヤマハの開発責任者の久富暢は製品の基本構想を決定する。田んぼ1ヘクタール分の10キロの農薬を搭載し、そのためにエンジンはヤマハのゴーカート用の11馬力のものを使用する。ヒロボウではそれに見合う機体の設計にかかり、昭和61年試作機が完成する。しかしこの試作機は、試験飛行中に壊れて墜落する。調べてみるとあらゆる部品が破壊されていた。エンジンが強力すぎて機体が耐えられなかったのだ。ヒロボウの製造担当の千葉良三はあらゆる材質の検討を行ったがうまくいかなかった。そこに久富が社外秘の技術規定を持参する。ヤマハで今まで開発された材料についての報告が記載されていた。それを舐めるように頭に叩き込んだ千葉はついに新しい機体を完成させ、それは久富が静岡の工場にヘリの耐久テスト用に作った檻の中で500時間耐久テストにかけられた。機体は見事に跳び続けた。そして平成2年4月世界初の農薬散布用小型ヘリが発売される。

 農薬散布ヘリの開発に成功したヒロボウ、しかし松坂はそれでは止まらなかった。千葉大学の野波健蔵と手を組んで、自動操縦ヘリの開発に着手、高圧電線の点検に採用される運びとなった。

 前々回が東レの極細繊維の話で、その時も繊維不況のエピソードが登場したが、今回も繊維不況で転身を図ったメーカーの話である。内容としては開発ネタでなかなか面白かったのだが、それだけに気になったのが構成のまずさだ。最初の2/3ほどの農薬散布ヘリ開発の話と最後の1/3ほどの自動操縦ヘリの話が全くつながっておらず、非常に散漫な印象である。しかも農薬散布ヘリの開発が終わったところで一旦オチが付いているので、二重オチのような形になってしまって非常に座りが悪く、番組全体の焦点が拡散してしまった印象が拭えない。

 結局のところ、主人公をヒロボウだけに限定してしまわず、ヤマハとのダブル主役にした上に、野波氏まで絡めてしまったせいで、このような内容になったのだろう。私ならヒロボウの話だけの一本にして、メインエピソードは農薬散布ヘリ開発の時点で終了、自動操縦ヘリの開発についてはエピローグでその後の展開という形で持ってくるところだ。あちこちに取材した結果、そのエピソードを軽視するわけにもいかなくなって総花的な構成になったのだろうが、あまりにまずすぎる。

 

1/11 プロジェクトX「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間〜阪神・淡路大震災〜」

 平成7年1月17日、阪神地区を襲った大地震により神戸は甚大な被害を受け、交通網も各地で寸断される。日本の動脈であったJR山陽本線も各所で寸断、特に被害がひどかったのは六甲道駅で、ここでは高さ10メートルの高架橋が崩壊、駅が完全につぶれてしまった。

 交通のマヒは被災者に甚大な影響を与えていた。大阪に通うサラリーマンなどは、長い距離をひたすら歩くことを余儀なくされており、一日も早いJRの復旧が求められていた。しかし完全につぶれてしまっている六甲道の復旧には2年はかかると思われた。この時に呼び出されたのが、JR東日本の石橋忠良だった。復旧工事の専門家である彼は、現場を見て「3ヶ月で復旧が可能だ」と判断する。彼は高架橋の床や梁が壊れていないのを見て、これらをジャッキで持ち上げて再利用する方法を提案したのだ。

 工事を請け負ったのは六甲道駅を建設した奥村組の男達。工事を監督する岡本啓以下、59人は現場に泊まり込んで2交代24時間体制で工事に挑む。しかしジャッキの設置のためには崩れた高架下に入り込む必要があり、もし工事中に高架橋が崩れるようなことがあれば、工事の人員の命にかかわる。しかし彼らは余震が続く中、危険を冒してジャッキの設置に成功する。

 そんな彼らの作業を近隣の住民も見ていた。駅前で焼鳥屋を経営していた金澤光雄は、冷たい弁当を食べながら作業に挑んでいた彼等に、暖かい焼き鶏を差し入れる。駅前の書店主の北風陸亘は、書店のテーブルクロスに作業員を激励するメッセージを記して、向かいのビルに掲げた。

 岡本達のジャッキアップがついに始まる。バランスを崩さないように注意しての作業である。しかしついに高架橋は10メートルの一にまで上がる。そして3月30日、JRによる車両通行テストが行われ、高架橋の強度が確認される。ついに4月1日、JRが復旧する。

 震災10年ということで持ってきたネタなんだろうが、明らかにネタとしての弱さは否定できない。内容が薄い分、引き延ばしが目立って、実際に内容を要約したらたったこれ↑だけの文章になってしまった。確かに命がけで工事に挑んだ男達は凄いと思うが、番組としてはあまり山場もなく、焼鳥屋の金澤の強烈なキャラクターとペシャンコにつぶれたseidenだけが印象に残ったというのが本音(ちなみにseidenはこれから数年後、本当に会社自体がつぶれてしまいました。今から思えばそれがその後の関西家電販売店大量倒産の先駆けでした。)。

 明らかに最近のネタ切れの兆候が顕著である。NHKの午後8時〜10時の枠はいずれも長寿番組になってきたせいか、どれもネタで苦しんでいる傾向が顕著である。その中でももっともネタとしてしんどいのがこの番組。とは言っても、NHKの稼ぎ頭になっている都合上、なかなか終了も出来ないのだろう・・・。しかし正直なところ、この番組の寿命は中島みゆきの「地上の星」がランキングの100位以内から消えた頃に、既に終わっているように思えるのだが。

 

11/23 プロジェクトX「横浜ベイブリッジ 港町の復活に懸ける」

 戦後の横浜、米軍に中心部を占領されたせいで道路整備などが全く行えなかった。また多くの橋が爆撃で落とされ寸断されていた。そんな中、横浜市道路課の池澤利明は橋の整備を行うために上司と掛け合うが、無理だとの一言で却下された。横浜の企業は次々と東京に移転し、横浜の税収は激減していた。ある嵐の日に、木で出来た橋が流され、道路課にわずかな予算が付いた時、池澤は解体現場の廃材や米軍が放出した鉄ゴミなどを片っ端から集めて、時とも業者と共に半年に一本ずつ鉄の橋をかけていく。池澤の架けた橋をトラックが通り、復興の力となり始める。

 昭和31年、米軍が横浜を引き上げ、港も返還される。港町の復活に皆は沸き上がるが、大問題が持ち上がる。大型トラックが町中に大渋滞して物流が麻痺したのだ。米軍に中心部を長く押さえられていたせいで、道路の整備率は他の都市の1/3にすぎなかった。

 この事態を解決すべく、池澤は幻のベイブリッジ構想を実現することを考える。しかし250億円の費用を要する。彼はこの事業を建設省が打ち出した東京湾一周道路に接続して国の予算を取ろうと考えたのである。彼は建設省の認可をとるため用地確保から奔走する。彼は「横浜の発展のため」と渋る企業を説得し、半年で用地を確保する。そして昭和42年8月、建設省の認可が下りる。

 池澤は海外を周って多くの橋を見学、ベイブリッジには斜張橋が最適であると考える。しかし建設省が予算をつけなかった。建設省は道路の建設は東京から開始すると言っていた。しかし横浜の事情は切迫しており、一日も早い橋の開通が望まれていた。池澤は地元商店街の市民などと共に官邸に押しかけ、当時の福田総理と直談判し、予算を獲得する。

 そして昭和53年工事が開始される。工事を担当したのは地元出身の首都高速道路公団の内藤誠一だった。しかし海底調査をした彼は絶句する。海底にヘドロ層が60メートルもあったのだ、岩盤まで杭を打ち込むのに人間が潜水しての作業は不可能だった。内藤が目を付けたのは炭坑用の無人掘削機だった。これを海底で使えないかと考えたのだ。彼は九州に飛ぶ。

 九州では三井三池製作所の伊藤啓之が待っていた。無人掘削機は30年かけて開発した彼の自慢の機械だったが、海の中を掘れないかとの依頼に戸惑う。機械は防水していない上に、水圧にも耐えないといけない。しかし炭坑の閉山が相次いで自慢の機械の活躍の場がなくなっていた伊藤は、活路を求めて内藤の依頼を受ける。

 また橋脚を建てる場所は1000隻以上の舟が行き交うメインストリートであり、舟の航行を妨げずに一気に橋脚を建てる必要があった。これを担当したのは造船不況で仕事を求めていた三菱重工鉄鋼部の溶接チームだった。彼らは造船と同じ手法のブロック工法を採用する。

 昭和59年1月、海底の掘削工事が開始された。伊藤の自慢の無人掘削機が海底の岩盤を削り、そこに杭が打ち込まれる。杭の上にはコンクリートの蓋がされ、そこに三菱重工のチームが作ったブロックが積み上げられた。そして平成元年9月にベイブリッジは完成する。

 技術的な問題も登場するが、最大の山場はどうやって予算を確保するかだったように思われる。そのためかストーリーの熱さは今一つ。横浜の人間の悲願の橋だったと言われても、神戸生まれの私には全く実感できません。私にはベイブリッジは単なる観光名所のように思われていたので(海ほたるなんかと同じ認識)、どうも内容自体が最初からピンとこなく、そのせいか私的にはどうしても盛り上がらなかった。瀬戸大橋の時にも感じたのだが、「ホントにこの橋必要だったの?」と感じてしまうような場合は辛い。まあ必要な人がいたのは事実なんだろうが、大型公共事業ネタは果たしてこの時代にはどうか。まあ将来的にどうまかり間違っても、宗男道路(大臣が熊しか通らんと言った無駄な道路)なんかは登場はしないだろうが(笑)。

 そう言えばキトラ古墳の壁画保存、いずれはこの番組のネタになるんじゃないかと思ってるんですが(壁画はもはや崩壊寸前だった。愕然とした。「一刻も早い作業が必要です。日本のかけがえのない宝を失っても良いんですか!」・・・なんて調子で)、NHKスペシャルの方に先に出てきたようですね(笑)。後、カミオカンデは登場しましたが、SPring8は登場してませんね。あれなんかもネタとして使えるかも。

 

10/19 プロジェクトX「瞬間凍結 時間よ止まれ〜冷凍食品誕生〜」

 保存食シリーズといえば、以前にカップヌードルが登場したが、今度はもっと地味な冷凍食品である。

 昭和20年、終戦と共に日本の企業はGHQによって次々と解体されていた。そんな中、日本の水産業を担った帝国水産統制株式会社も国策会社として解体される。日本冷蔵と名を変えたが氷を港に売る仕事しかなかった。その会社の行く末を託されたのが、木村鑛二郎だった。かつて金融恐慌で24才で織物会社の仕事を失い、再起をかけて魚屋を開き、日中戦争で前線の兵隊に魚を運び名前を挙げた人物だった。氷売りだけでは会社が立ち行かないと感じていた彼は冷凍食品に目を付け、これに会社の命運を賭けようとする。彼はかつて海外から運ばれた新鮮な冷凍海老を食べたことがあったのだ。

 しかし日本人の冷凍食品に対する偏見は厳しかった。それは食糧難の折に北海道で大量にとれたスケトウダラが、GHQによって東京で冷凍魚として配給された時の苦い記憶があったからだ。一週間かかって運ばれた上に製氷倉庫で保管されたスケトウダラは、鮮度が落ちまくり、腐臭がする上に味も歯ごたえもないとんでもないものであった。

 木村に冷凍食品について調査するように指示された日本冷蔵の島川順二もそんな一人だった。しかし彼はアメリカの最新の冷凍食品事情を知って驚く、アメリカでは−18度で新鮮な魚を6ヶ月保管でき、凍ったまま輸送する設備も完備されていた。また新鮮な野菜が冷凍され、野菜の不作時には冷凍食品が価格の高騰を防いでいた。早速木村はアメリカから冷凍装置を取り寄せ、冷凍食品の事業を起こすことを決意した。

 製氷工場で働く若者達が営業に動員された。その中の一人が22才の藤田清だった。彼は特注の冷凍ケースを持って売り場の確保のために奔走するが、1台13万円もする冷凍ケースは振り向きもされなかった。木村は冷凍食品のイメージを変えるため、下処理をした魚や野菜を冷凍食品にする。食べてもらえればきっと使ってもらえると、営業の天野弘治はサンプルを持って町に出るが、「臭い冷凍食品など持ってくるな」と店から追い出される。日本人の冷凍食品に対する偏見は非常に深かった。また木村は家電メーカーに電気冷蔵庫に冷凍庫をつけてもらうように交渉するが、これも全く相手にされなかった。

 冷凍食品に対する偏見は相当に強かったのは私も知っています。実際、私の母なども「冷凍食品は・・・」と言って最近まで冷凍食品を食べようとしなかった世代であります。昔の冷凍食品の負のインパクトは相当にあったようです。冷凍食品は瞬間的に超低温に冷却するのがポイントですので、今でも家庭の冷蔵庫などで自家流冷凍食品を作ったら、かなりひどいものが出来ることはよくあります。それにも関わらず、今時の主婦って結構これをするんですよね。日本が豊かになる一方で、味音痴が逆に増えているように感じるのは私だけでしょうか。

 

 疲れ切って帰宅した木村に、妻の麟がコロッケを作った。彼女が言う「コロッケの時は食事が遅くなってしまう」。この言葉を聞いた木村はひらめく、彼は社員に冷凍のコロッケを作るように指示を出す。三ヶ月後冷凍コロッケが完成。「これなら売れる」勇んで営業に飛び出す藤田。ある八百屋の店主が興味を示し、冷凍ケースごと買ってくれた。しかしその一週間後、営業部に客からの苦情の電話がかかってくる。冷凍コロッケがパンクしてやけどしたという苦情だった。客の家に向かった彼は絶句した。コロッケに穴が開いて油が飛び散っていた。彼はただ謝るしかなかった。会社の危機だった。

 昭和35年、コロッケに対する苦情が会社に殺到していた。原因を調査していた開発チームはコロッケの揚げ方が家庭でまちまちで、多くのコロッケを一度に油に入れ、油の温度が下がって水分が入り込んだことが原因であることを究明する。開発メンバーの天津進はジャガイモを調査して水分の出にくい男爵イモを使用することを思いつく。また強い衣を作るための小麦粉を調べていた島川順二はイタリア産小麦がもっとも強い衣を作ることを見つける。

 日本で冷凍食品が普及した鍵は、調理済みの冷凍食品が登場したことだというのはよく指摘されるところです。実はこの発想は当初はアメリカにもなかったといいます。アメリカにおいて冷凍食品とは素材の保存法の一種であり、調理したものをいつでも手軽に食べられるようにするという発想は日本から出たものだとか。今ではアメリカでも加工食品の冷凍品はかなり増えています。

 

 こうしてパンクしない冷凍コロッケが出来た。しかし既に冷凍コロッケの信用は地に墜ちていた。木村は戦国時代から続く料理人の家元・服部道政(いわゆる服部料理学校の祖)に強力を要請する。服部は木村の元に弟子の小野寺三二を送り込んできた。彼はコロッケの実演販売を提案する。食品店では相手にされないので、実演販売は人の集まる銭湯で行われた。この実演に小野寺はシベリアで発見された冷凍マンモスから思いついた秘策を持っていた。彼はいきなり金魚をすくい上げると、それを客の前で液体窒素に放り込んだ。何事かと見守る客の前に凍り付いた金魚を取り出すと、彼はそれを水の中に入れた。やがて金魚は再び泳ぎ出す。彼は言った「これが冷凍です。時間を止める技術です。」さらに彼は冷凍コロッケを揚げると、客に振る舞った。熱々のコロッケに「美味しい」という声が上がった。これをきっかけに日本冷蔵の社員は各地で実演販売を行った。

 4年後、西友の仕入れ担当の倉又涼から電話がかかってくる。野菜を1年中売り場に並べる方法を模索していた彼は、冷凍金魚の実演を見て衝撃を受け、日本冷蔵に連絡を取ったのだ。初めての大量注文で日本冷蔵では大量生産が開始される。冷凍食品は主婦の負担を軽減すると話題になった。冷凍食品がやっと日本人に認められた時だった。

 結局は実演販売で成功したわけですが、そう言えば昔は結構多かった気がしますねこういう実演販売。ちなみに冷凍金魚が再び泳ぎ出すというパフォーマンスは私も見た記憶があります。ただ昭和35年といえば、私もまだ生まれておりませんが。

 

 日本の食卓を根本的に変えた冷凍食品についてです。現在では冷凍食品は忙しい主婦の強力な味方であり、お弁当の定番でもあります。もっとも冷凍食品の普及により、立派なシステムキッチンにはさみをつるしているだけという主婦が増えているのは、果たしてこれで良いのかとの疑問も抱かせます。加工済み食品の氾濫が家庭料理を絶滅寸前にまで追い込んでおり、加工食品の化学調味料による濃い味付けに慣らされた子供たちの味覚は、年々鈍化していっているとの指摘もあります。これが先に私が言いました「日本は豊かになる一方で、味音痴が逆に増えている」という現象につながっているのかもしれません。

 食品の保存方法にもいろいろありますが、冷凍・乾燥・密封といったところが常套手段でしょうか。今回は冷凍、以前のカップヌードルは乾燥でした。となれば次は密封ということで、缶詰かレトルト食品? ただ缶詰は外国の発明だったはずですから、レトルト食品でしょうか・・・となればボンカレーか?(笑) 加工食品の走り、キャンプの定番ということで、これも十分に登場の資格があるように思えます。今頃、大塚食品がNHKの取材を待っていそうだ(笑)。

 

10/5 プロジェクトX「地上最強のマシーン F1への激闘」

 今回のテーマはホンダのF1。満を持しての登場と言えるが、どうも日本GPを前にしての宣伝めいているのがやや気になるところ。ちなみに以前にホンダのマン島レース制覇の話は出ていたはずだが、物語はその直後から始まる。

 

 マン島レースを制覇していちやくバイクの世界で名を挙げたホンダ。この結果を受けて、本田宗一郎はかねてから念願であった乗用車への進出を考える。しかし昭和37年、通産省が外国車の輸入自由化を前に自動車メーカーを3社に絞る特振法を打ち出す。この法律が制定されるとホンダが乗用車に進出するのは不可能になる。本田宗一郎は通産省に掛け合うが相手にされなかった。その時に彼が目を付けたのがF1レースだった。F1に参入することでホンダの技術力をアピールすることを考えたのだった。車体をロータスに委託し、ホンダはエンジンを担当することを計画する。エンジンの設計を託されたのはマン島を制覇した「エンジンの鬼」新村公男。彼はフェラーリを凌ぐ12気筒200馬力のエンジンを設計、ホンダはF1参戦を決める。しかし直後、とんでもない知らせが届く。車体担当のロータスが一方的に協力を断ってきたのだった。特振法の施行は8ヶ月後に迫っており、ホンダの乗用車進出の夢は断たれようとしていた。

 特振法は自動車ネタになると必ず現れる悪法である。典型的な護送船団方式の発想。メーカー側にすれば「余計なお世話」というところだろう。ちなみに今でも「日本の銀行を3社に統合する」と言っている輩が金融庁のトップにいるのですが・・・役人の発想はこの頃からあまり変わっていない。

 それにしてもいきなりF1参戦を決定する「伝説の経営者」本田宗一郎の決断は果敢と言うよりもほとんど無謀。ゲストの新村氏が「本田宗一郎というオッチャンも少し滅茶苦茶だし」という言葉が印象的だが、この言葉があらゆる意味で当時のホンダの社風を現しているのだろう。こんなチャレンジングな会社なんて、今の日本ではほとんどないでしょうな。日本組織の伝統は、大きな成果を挙げたものよりも大きなミスをしなかった者の方が出世するという役人的なものですから。

 

 昭和39年春、宗一郎は車体もホンダで設計してレースに参戦する決断をする。車体設計に抜擢されたのは26才の佐野彰一だった。彼は数少ない大学出で、航空機の設計を学んでいた。彼は葉巻型の斬新なデザインを考えるが、新村のエンジンを見て絶句する。あまりにも大きすぎてボディに搭載することが不可能だった。佐野は新村にエンジンの小型化を頼むが、自分のエンジンに絶対の自信を持っていた新村は聞く耳を持たなかった。やむを得ず佐野はボディの後方にエンジンを剥き出しに搭載する。

 昭和39年7月F1参戦。マン島のメンバー達が送り込まれる。2輪の王者がどんなマシンを送り込んできたかと記者達が注目する中で、重量検査が行われる。しかしその結果を見た皆笑い転げる。他チームよりも65キロも重かったのである。それでもエンジンのパワーに自信を持つ彼らはこれでも勝てると考えていた。しかしエンジンの調整に入った奥平明雄はとんでもないことに気づく。ホンダのマシンは無理矢理にエンジンを搭載したため、エンジンを車体からはずさないとエンジンの調整が出来なかったのだ。しかもエンジンの取り外しには5時間もかかった。連日徹夜の作業になったがそれでも間に合わず、結局は予選にも参戦できないままぶっつけ本番の最後列からのスタートになる。

 結果は惨憺たるものだった。12周目、カーブを曲がりきれずにコースアウト、リタイアしてしまった。次のレースでは調整にたっぷり時間をかけるために早めに現地に乗り込んで調整を行ったが、今度はカーブで急ブレーキ後に加速が出来ないというトラブルが発生。しかも13周目にスピードが出ていないのにオーバーヒートしエンジンが白煙を上げてリタイアしてしまった。この時、彼らは初めて「エンジンに問題があるのではないか」というタブーに触れる。彼らは日本の新村に連絡を取るが、彼はやはり聞く耳を持たなかった。あくまで現場での調整に問題があると思っていた。結局、この年のホンダは3回走ってすべてリタイアに終わる。バイクの新車種1年分の利益に当たる20億円を投入した結果がこれだった。

 新村はマン島での実績があるだけに、若い佐野の言うことなど聞く気になれなかったのでしょう。自分の技術に絶対の自信を持っているが故の落とし穴である。新村氏が自分でも言っていたが「バイクで世界を制覇したことによる一種の自惚れ」があったのは間違いない。

 

 翌年、やはり同じトラブルが続いていた。本社からは怒りの電話が相次いだ。原因を調べていた奥平はある時、その原因に行き当たる。バイクはカーブで車体を傾けるが、4輪車ではそれが出来ない。そのためにオイルが偏ってオーバーヒートを起こしていたのだ。さらに燃料を空気と混合するタンク内で燃料が波打つことで燃料の混合もうまく行っていなかった。奥平はこのことを新村に伝える「やはり問題はエンジンです。バイクの感覚では通用しません。」。その言葉を聞いた新村は、翌日休暇をとると埼玉の車体工場に赴く。そこでつぶさにラインを見学した彼は、4輪とバイクは別物であるということを噛みしめる。

 新村は本田宗一郎と掛け合って、直ちにF1チームを呼び戻す。10日後全員がシーズン途中にレースを棄権しての緊急帰国をする。その場で新村は皆に言う。「エンジンを作り直す。どんな要望も言ってくれ。」 奥平からは遠心力によるトラブルの問題、車体設計の佐野からはエンジンの軽量化の依頼が出る。新村はすぐに設計室にこもると設計を開始する。こうしてオイルの偏りを防ぐための壁をつけ、燃料混合のためのポンプ式燃料噴射装置を搭載、さらに材質をアルミからマグネシウムに変更して25キロの軽量化を行った新型エンジンが開発された。新型エンジンを見た奥平、これならいけると感じる。

 新型エンジンは直ちに現場に送られ。この年最後のメキシコグランプリに登場する。ホンダの新マシンは凄まじい加速でいきなりトップに立つとそのままゴールまで突っ走る。

 危機に陥って新村も自分の間違いに気づく、こうなった後の彼のパワーがまた凄まじいものがある。とことん技術馬鹿なオッサンである(笑)。結局、ホンダはF1初完走が初優勝になったということであり、つくづくとんでもない会社(笑)。結局この時に確立した技術のホンダのイメージは、今でもこの会社の財産になっているわけである。

 

 成功体験が次の大きな失敗につながりかねないという結構考えさせられる内容を含んでいた今回。こういったパターンは個人的なレベルに限らず、組織的なレベルでもありがちで、昔に成功したビジネスモデルに固執した挙げ句にコケてしまった会社なども結構あります。個人にしても会社にしても常に進化が必要なわけである。しかし最近はこのサイクルが非常に早くなっているので大変である。去年に成功したビジネスモデルが今年には通用するするとは限らないというのが現代であり、経営者などにはより判断が困難になっている。

 その一方で、逆に変化することを頑なに拒むことで成功する例もあったりするのも事実。ここのところはどちらを選んだら正解なのかは実際は誰にも分からない。まあ一番重要なのは「問題が発生している時にそれから目をそらさないこと」なんだろうが、これが実は意外と難しかったりする。私にしても解決困難な問題に直面したら、現実逃避したくなるから・・・。そうやって国民みんなが現実逃避した結果が、今の小泉政権だったりするのだが。口先では改革を掲げても、実際は重要な改革など一切しない「改革風政権」。それが今の日本人の本音と合致しているのが、小泉内閣の高支持率の原因というのが私の分析である。ちなみに同様の現実逃避はアメリカのブッシュ政権を支える原動力にもなっている。あの政権の支持基盤の一つは「アメリカは常に正しいんだ。アメリカに楯突く奴らの方がまちがっているんだ。」という考えに現実逃避して自らの過ちを認めることを拒絶している連中であるのは明らかである。こういうことをやっているとそのうちにどうしようもない破局が来てしまうのだが・・・。

 

9/14 プロジェクトX「革命ビデオカメラ 至難の小型化総力戦」

 以前にデジタルカメラの開発物語があったが、今回はCCDビデオカメラについてである。それまでのビデオカメラは巨大な撮像管が必要なため、どうしても小型化が不可能であったが、このCCDの開発によって劇的に小型化するのである。

 

 半導体の開発を志してソニーに入社した越智成之。しかし彼が配属されたのはスピーカーの検査部門、彼は活躍する同期達を横目で眺めているしかなかった。そして8年後、彼はCCDに関する論文を見つけた。これを実用化できればビデオカメラを画期的に小型化することが可能である。彼は独学でCCDに関する学習を始める。1年後、彼に協力を申し出た人物がいた。製造部門の狩野靖夫。彼等は深夜や早朝に実験に挑んだ。

 2年後、ソニーに戦慄が走る。シャープが超小高の電卓を開発、ソニーに計算機太刀打ちが出来ず、半導体部門は壊滅状態となる。この危機にアメリカから呼び戻されたのが、伝説の技術者・岩間和夫だった。彼は戦時中にレーザー撹乱期を開発し、戦後にトランジスタの開発も行った人物であった。いきなり研究所に乗り込んできた岩間に、越智はCCDの試作品の実演を行う。岩間は驚く「君が開発したのか、凄い」。越智の研究が初めて認められた瞬間だった。越智をリーダーとして岩間の直轄プロジェクトとしてCCD開発のプロジェクトが結成される。

 昭和49年1月、開発が開始された。実用化のためには1センチ四方に20万画素が必要、1つの窓は8マイクロメートルであった。製造部門の狩野が悲鳴を上げる。手作業では無理だった。そこに岩間の指示で機械が続々と届く。そうして彼等は7万画素のCCDを作り上げた。

 昭和51年夏、初の試作機完成した。寅さんのうちわを被写体にテストが行われる。彼等はそこに浮かび上がった映像に感動する。続いて彼等は12万画素の試作機を製造した。しかし強い光を受けると白いボケが発生するというトラブルが発生、1年間開発が進まなくなってしまう。そこに岩間が驚くべき話を持ってくる。彼等は「CCDカメラの特別注文を取ってきた」と告げた。1年後に全日空に就航するジャンボ機の前輪部分にカメラをつけて、風景を客席に見せるのだという。彼は開発現場に明確な目標を与えることで、彼等にハッパをかけようとしたのである。

 ボケの原因解明を買って出たのは若手の鈴木智行だった。彼は顕微鏡で電子の流れをチェック、頭痛と吐き気に襲われながらの連日の作業を実施する。そして半年後、原因が究明される。強い光で発生した電子が隣の区画まであふれていたのである。早速回路の見直しと設計の変更が行われ、長さ30センチのCCDカメラが開発される。昭和55年6月、そのカメラはジャンボに搭載される。ここで岩間が「5年後に市場に出す」と宣言する。目標は2キロ以下のカメラを作ること。鹿児島の国分工場で製作のためのラインが設置されることが決定した。

 昭和57年春、ラインが動き出す。しかし完成品をテストした時、とんでもない問題が発生した。謎の黒点が無数に現れたのだ。工場は不良品の山に覆われる。さらに昭和57年8月、総指揮官の岩間がガンで死亡する。またビデオ本体はベータ方式を採用する限り、2キロ突破は不可能であるという壁にぶち当たっていた。重さの問題、謎の黒点が消えないCCD、そして総指揮官の死亡、暗礁に乗り上げたプロジェクトにやる気を失いかける越智、しかし彼は岩間の残した「自信を持って進む」という言葉によって立ち直る。

 越智は鈴木智行に黒点の問題を託した。急遽国分工場に出向いた鈴木、彼をCCDのために雇用された地元の若者達が不安な表情で迎えた。彼等はプロジェクトが失敗して失業をすることを恐れていたのだ。プレッシャーのかかる鈴木、彼は直ちに黒点の原因の究明に取り組み、ゴミが入っていたことを明らかにする。なんと新品の製造装置の機械の部品から1/1000ミリの金属ゴミが飛んでいたのだ。ただちに機械を分解してアルコールで洗浄する。一方ビデオ担当の森尾稔は決断を迫られていた。ベータにこだわれば目標の2キロを切れないことは明らかだった。彼はVHSに押されて敗勢が見えていたベータを捨てる決断をし、8ミリビデオを開発することにする。

 国分工場では鈴木の取り組みにもかかわらず、まだ黒点が消えていなかった。今度は皮膚の一部、角質のかけらが検出された。作業員の手のひらから剥がれていたのだ。そこで手袋の着用を支持したが、今度はCCDがうまくつかめず表面に傷がいくという問題が発生した。この時、ラインに立つ女性達が立ち上がる。ラインの松脇孝子らは町の薬局でハンドクリームを買い漁り、片っ端から塗っては角質の剥がれる量をチェック。もっとも良いハンドクリームを3時間おきに塗って作業に挑む。しかしそれでもまだ駄目だった。その時、髪の毛の静電気で角質を取り除くことを思いつく。そして不良品は激減、ついにビデオカメラが完成する。重さ1.97キロ。昭和60年1月、販売開始。年15万台の大ヒットとなる。

 

 以上、ソニーによるCCD開発の熱いドラマである。なおこうやって市場に投入された8ミリビデオが、当時各社が開発していた電子カメラを完全に駆逐、その結果日陰部署に回されてしまった各社の開発者達が、数年後にリターンマッチとしてデジタルカメラを市場に投入するのである・・・と言うわけで完全に表裏の関係にあるエピソードである。なおデジタルカメラの開発のエピソードは、いかにして顧客のニーズを開拓し、さらに社内においていかに開発のための許可を取るかというところがポイントであったが、こちらの方は純粋に技術開発がポイントとなっている。またソニーの半導体部門を危機に追い込んだシャープの電卓も、後にカシオが出してきた小型電卓に追いつめられ(このエピソードも以前に放送)、起死回生の策として液晶が搭載されることになるんだが、この液晶の開発の物語も以前に放送されているなど、時代が狭いせいで、互いのエピソードが密接に関わり合ってきている。

 ところで今回のエピソードを見ているだけでも、ソニーという会社が決断が速く技術開発に力を入れている会社であると言うことがよく分かる。半導体部門が危機に瀕している時に、まだ海の物とも山の物とも分からない技術にこうやって力を入れるということはなかなか出来ないこと。これは企業に開発重視の風土がないと無理だろう。これでまたソニー入社を目指す若者が増えそう(笑)。

 ネタ的にはかなりしんどくなってきている印象のこの番組だが、王道の開発物語でまさに王道的展開&演出でかなり盛り上げてくれた今回。技術者なら魂を震わさせられるといった内容だっただろう。もっとも私はここまで熱い人間ではありませんので、ここまで厳しい状況での開発はやりたくはありませんが(笑)。もっとも電子立国日本と言われたその屋台骨を支えたのは、こういう熱いオッサン達であります。今、そういう熱い技術者は、日本よりもむしろ韓国の方が多いのではないかなどと言われているのが、今日の日本の停滞の原因だったりするとの指摘もあります。

 

9/7 プロジェクトX「ラストファイト 名車よ永遠なれ」

 ここのところ再放送ばかりだったのですが、やっと久しぶりに新ネタです。しかしスカイラインって今まで登場したことがなかったっけ・・・って考えると、フェアレディやクラウンは登場したけど、スカイラインはまだだったか。ただ似たようなネタが今までに多かったのも事実である。

 昭和25年、日本の産業が朝鮮特需で湧く中、業績不振でもがいている会社があった。富士精密工業、戦後発足した映写機やミシンのメーカーだが、売り上げはさっぱりだった。部長の中川良一は「オレ達の技術を活かす道はないのか」とため息をつく。実はこの会社の前身は零戦のエンジンを作った中島飛行機であり、中川はその主任設計者だったのだ。9月、会社にたま電気自動車からガソリン車への転換のために自動車のエンジンを作ってくれないかとの依頼が来る。中川は会社再建のチャンスと専務に直訴してこのプロジェクトに賭ける。中川達は2年後に一台の乗用車を作り上げる。この車「プリンス」は93台を売り上げるが、トヨタがクラウンを発売して追撃してくる。中川達はクラウンに負けないために60馬力の車を作り上げ「スカイライン」と名付ける。こうして富士精密工業は自動車で生きていくことを決意、プリンス自動車と名前を変える。

 やがて名神高速道路建設が決まり、日本にも高速時代が到来することになる。中川は独創技術でこの時代に生き残りを狙う。そんな頃、第1回日本グランプリが開催されるとの知らせが入り、中川達はスカイラインで参戦する。しかし「改造は行わない」という事前の申し合わせを馬鹿正直に守った彼等は、改造を施した他者の車に惨敗する。レースの結果は売り上げにも直結、スカイラインの売り上げは激減し、中川は始末書を書かされて減俸処分を受けることになる。

 昭和36年8月、中川らは次のグランプリで勝利するための車の制作を開始する。車両設計の櫻井眞一郎ら若手は、馬力のあるエンジンを搭載するためにボディを20センチ伸ばすことを提案する。実現にはあらゆる部門に無理を強いる大胆な提案だったが、1年後の自動車の輸入自由化を睨んでいた中川は、生き残りのためにはレースに勝つことが不可欠であると判断する。エンジン設計の榊原雄二は目標の150馬力突破のためにオーバーヘッドカムシャフトのエンジンを組み込むが、まだ馬力の不足に悩んでいた。その彼に中川が気化器を3つに増やすアイディアを提供する。3ヶ月後新エンジンが完成する。こうしてこのエンジンを搭載したスカイラインGTが完成する。レース監督になった青地康雄は、テスト用の高速コースを持っていないのをカバーするため、みんなで鈴鹿に出かけて試験走行を行う。

 こうして第2回日本グランプリが開催される。しかしここでとんでもない強敵が登場する。ドイツのポルシェ904だった。日本車に比べると化け物のような車だった。そして決勝レース、スカイラインは他社の車を引き離すが、その前にはポルシェが走っていた。ポルシェが周回遅れの車にひっかかっている間に一度は抜いたものの、その後呆気なく抜きかえされてしまい完敗する。プリンスの売り上げは半減、さらに日産に吸収されることが決まってしまう。

 合併が1年2ヶ月後に迫った昭和40年6月。プリンス最後のレースとなる次の日本グランプリのため、中川達はポルシェに勝って最後の意地を見せることを決意する。エンジン設計の榊原は燃料供給のために4バルブにし、潤滑油供給のためのスカベンジング・ポンプを導入する。一方車両設計の櫻井は車両の軽量化のため、燃料タンクをゴムにし、ボディにはアルミニウムを採用する。こうして完成したのがR380。ポルシェよりも26キロ軽かった。しかしポルシェは最新の906を投入してくることが判明する。中川は「空母の乗組員と同じチームワークがあれば勝てる」と告げる。メカニックはタイヤ交換と給油の練習に励む。

 こうして昭和41年5月、第3回の日本グランプリが開催される。ジャガー、ロータス、フォードなど世界の強豪が集まる。プリンスは序盤からトップに立つ。しかしそこにポルシェがジリジリと迫ってくる。そして24周目、ついにポルシェに抜かれる。しかしドライバーの砂子義一はあくまでポルシェに食らいついていく。両者の実力が伯仲しているのを見て、監督の青地は給油勝負になると感じる。そして給油、ポルシェが50秒かかったのに対し、プリンスは車両設計担当の柿島道雄が開発したスピード給油装置の効果で15秒で給油が終了する。この時間の差でプリンスは再びトップに立つ。ドライバーの砂子は必勝の覚悟でアクセルを踏み続ける。そしてポルシェは残り18周でスピンしてリタイヤ、プリンスは他社の車に3周の差を開けてぶっちぎりで優勝する。

 レースに意地を賭けた熱き男達の物語である。それにしてもまた「元航空技術者」か・・・。いろいろな意味であまりに今までのパターンを踏襲しているので、既に一回見たような気がしてならないのだが、やっぱり初登場ネタのようである。どうしてもネタがかぶってくるのは仕方ないのか。

 内容的にはもろに王道パターンだけに、計算通りに熱く盛り上がる内容になっている。またエピローグで、日産に吸収された後も彼等が日産の研究開発部門の中核で活躍し続け、プリンスのDNAは日産に受け継がれるというのはハッピーエンドであり、昨今の会社統合などで右往左往しているサラリーマンにとっては希望を持てるエピソードであろう。 

 

7/13 プロジェクトX「中央突破 疾走せよ不屈の雑草馬」

 自動車の整備士を夢みて上京した佐々木修一。しかし入社した会社で、溶接ばかりの日々に「ここには自分の居場所はない」と感じていた。昭和43年、彼は叔父からの「岩手の馬が走るぞ」との電話で大井競馬場にでかける。その時に見た競馬が彼を熱くする。そして昭和47年岩手の水沢競馬場、佐々木は厩務員として働いていた。彼は調教師になる夢を持っていたが、厩務員600人に1人しか受からない難関だった。平成2年、40才になった佐々木。しかしまだ夢は叶っていなかった。彼は20頭を持つ馬主・小野寺良正に迷いを打ち明けた。その時、小野寺は「諦めてはいけない」と佐々木を諭す。かつて映画俳優をめざして上京した小野寺は、主役のチャンスをつかんだ途端に交通事故で顔に大怪我、故郷に戻って港湾工事で再起を果たしたという経歴を持っていた。彼は、君が調教師になったら俺の馬を預けるよと佐々木に約束する。そして翌年、佐々木はついに調教師の資格を手にする。

 その頃、牧場主・黒岩晴男は持ち馬のグランドオペラに種付けの話が来ていた。雌馬はテラミス、素質は十分にある馬だと言われていたが、気性の激しすぎる馬だった。しかし種付けは精巧、雄の子馬が誕生する。 

 平成8年春、佐々木は独立して自分の厩舎を構える。しかし経営は火の車であった。そんな時、小野寺から馬を託される。2歳馬メイセイオペラ、黒岩の牧場で生まれた子馬だった。メイセイオペラは2ヶ月後デビュー戦に出場、佐々木はそのしなやかな伸び足に息を呑む。そしてメイセイオペラはレースに圧勝する。この結果を受けて、小野寺は中央競馬を狙う決意を決める。しかし地方競馬と中央競馬では圧倒的な設備の違いがあり、佐々木は無理だと思った。しかしその1ヶ月後、小野寺が心臓病で死んだとの知らせが突然に入る。佐々木は小野寺の遺影に「メイセイオペラを必ず中央に連れて行く」と誓う。だが、第2戦、メイセイオペラはゲートに入った途端に火がついたように暴れ出してしまう。気性の難しい馬だった。この馬の調教を担当することになったのが、20才の柴田洋行。彼は佐々木を先生と慕っていた。柴田は片時も離れずに馬の心を落ち着かせる。それ以降、メイセイオペラ走りに走り、連戦連勝で東北ナンバーワン、ついに中央への挑戦権獲得した。しかし2ヶ月後、早朝に大事件が発生する。厩舎からのただならぬ泣き声に駆けつけた柴田が目にしたものは、鼻からどす黒い血を流しているメイセイオペラの姿だった。厩舎の壁に頭をぶつけて骨折をしたのだ。競走馬生命の危機だった。

 事故から一週間、流血は続き、獣医も手のうちようがなかった。柴田は自分を責めた「俺がもっと寄り添っていれば」。彼は厩舎に監視カメラを設置、寝ずに監視を続けた。一週間後鼻血が止まる。この時に佐々木は決断する「すぐにレースに出すぞ」。このままでは走れなくなる恐れを感じていたのだ。メイセイオペラは右目は腫れたままの状態で、レースには惨敗する。しかし直後、場内に大声援が湧き起こる。逆境からはい上がろうとするメイセイオペラに観客が熱くなっていた。メイセイオペラはその後も走り続け、1年後、4選連続優勝で完全復活し、G1に出る。

 メイセイオペラの中央進出のため、小野寺の親戚・前田征道が動き出す。彼は福島で瞬発力を鍛える訓練を施す。そして平成11年1月G1フェブラリーステークス。レース前に柴田が故郷岩手の水を与える。静かに水を飲むメイセイオペラ。観客席では小野寺の妻明子が遺影を胸に見送った。そしてレースが開始される。しかしメイセイオペラはスタートでいきなり出遅れ6番手に後退する。しかし騎手の菅原勲は集団から離れたことで冷静であった。そして最終コーナーで手綱を引く。メイセイオペラが一気に加速する。そしてついに一着でゴールする。地方が中央を制する奇跡が起こった瞬間だった。

 競馬ネタです。ただ競馬が好きでない私はどうしたら良いんでしょうか(笑)。競馬ネタと言うよりは、圧倒的に不利な状況での地方が、中央に勝つことが出来たという地方分権のドラマとして見るのが正解か。

 

7/6 プロジェクトX「さぬきうどん 至高のうまさとは」

 以前からコスプレの多い国井氏であるが、今回はうどん職人が似合いすぎ。

 昭和38年、香川県三木町。畑の自慢の小麦に胸を躍らせる少年がいた。多田孝夫14才。彼はこの小麦を使って父の竹市が練るうどんが大好きだった。馥郁たる小麦の香り、ふるさとの食。しかしこの年、日本中を異常気象が襲う。北国では38豪雪と呼ばれる大雪となり、香川でも記録的な長雨が続いた。小麦は刈り取ると天日に干さないと実から芽が出て使い物にならなくなる。しかし雨は1ヶ月間降り続いて小麦畑は壊滅、多田の畑では一粒も収穫できなかった。この年、オーストラリア産小麦ASWが緊急輸入された。この粉を見た業者の人間は感心する。日本の小麦よりも白く明らかに商品価値が高かった。ASWは安定供給が可能と国が輸入を奨励、そして多田の父・竹市は、もう小麦を作っても意味がないと小麦作りを断念する。

 昭和45年、大阪万博に出店した讃岐うどんが大人気になり、香川に観光客が殺到する。香川には700軒のうどん屋が立ち並びうどん景気になる。しかしその中で不満を感じている者がいた。うどん職人の香川政明、彼の父・菊次もうどん職人といった人物である。彼はASWに納得できなかった。ASWは香りが弱く、かつてのさぬきうどんのような馥郁たる香りを感じさせなかった。彼は青年組合の会合で「本物のさぬきうどんを作りたい」と訴える。その思いを持っていたのは彼だけではなかった。他の職人達も決して満足をしていなかったのだ。そして昭和46年、県独自の小麦粉が作れないかとの嘆願書が提出される。そして県は早速動き始める。しかし小麦開発を命じられた農業試験場の多田伸司は不安だった。今まで小麦の開発は国任せで、県の試験場では独自の取り組みはしていなかった。ノウハウが全くなかった。急遽、小麦の種を取り寄せ究極の小麦を目指して交配技術を学ぶところから開始した。小麦の受粉作業に携わったのは新人の太田尊士。彼は本を見ながら受粉を行った。小麦は受粉すると胚が出来るこれが成長すると小麦になるのだ。しかし、胚を取り出す日、彼は愕然とする。胚が全く出来ていなかったのだ。結局、半年で5000回実施したが胚は全く出来なかった。いきなりプロジェクトは暗礁に乗り上げる。10ヶ月後、太田達はのべ1万回を超える作業を行っていたが、胚は一つも採れなかった。彼らはいつも花粉まみれで花粉アレルギーになってしまった。

 一方その頃、多田孝夫が小麦作りを再開していた。彼は国産小麦に挑戦していたのだ。しかし出来た小麦は色が見劣りした。良い品種が必要だった。

 開発が難航する中、太田が長野の農業試験場を訪ねる。長野の農業試験場は長い歴史があり、太田は自分たちの技術とどこが違うのを目を凝らして観察していた。すると長野では受粉前にほんの少しだけ穂先を切っていたが、自分たちは本の通りに穂の真ん中を切っていたことに気づいた。たった数ミリの差だがこれが重要だった。彼は香川に戻ると早速試す。そして10日後、ついに胚が出来ていた。彼らは休日返上で胚を作る。そして3年後、4000種類の交配した小麦が作られた。

 いよいようどんを打って試験となった。通常は機械で打つがところだが、さぬきうどんは手で打たないと分からない。若手の本田雄一がうどん打ちに挑戦した。しかしうまくいかない。その時、宿直の木村幸男が声をかけてきた「水をさわらずに粉をさわるんだ」。見事な腕だった。実は木村は元うどん屋だったが、身体をこわして断念していたのだった。本田「さすが香川はうどん王国だ」と感心、めきめきと腕を上げる。そして10日後、試験場の職員を集めて食味試験が行われた。300種類のうどん玉が試され、欠点のある品種はドンドン捨てられた。残ったのは2種類、香育7号と香育8号だったが、彼らにはこれ以上絞り込みが出来なかった。

 平成10年、前代未聞のうどんプロジェクトが開かれた。製粉業者・製麺業者などが集められた。そして香川政明がうどんをうった。彼は香育7号に目を奪われる。ASWに負けない白さ、小麦の香り、これだと思った。そして香育7号が選ばれ、「讃岐の夢2000」と命名された。香川県が希望を賭けた品種だった。しかしすぐに製粉業者や製麺業者から問題点が指摘された。粉が製粉機にこびりつき離れない。麺がバラバラになる。いきなり大問題が発生した。 

 平成12年、問題の発生に多田は苦しんでいた。ここで動き出した男達がいた。製粉業者、うどん職人。うどんプロジェクトの面々が立ち上がった。製粉業者の吉原良一。「こびりつく小麦、俺がひいてみせる」果敢に挑戦した。しかし予想以上の粘りに機械が悲鳴を上げる。この小麦は皮と身が離れにくく、力加減の調節が勝負だった。そして数日後、ついにこびりつかない粉ができた。その粉を見た吉原が感心する。明るい白に食欲をそそる黄色がかかっていた。良い粉だった。次に香川政明がうどんにする。彼はこの粉はグルテンの含有量がわずかに少ないから麺が切れると聞いていた。粉の欠点は経験と技で補うつもりだった。彼は粘りを出すための塩をわずかに増やし、水加減も2%少なくした。8才で始めたうどん打ち「俺はうどんの中で産まれた」という技だった。そして彼は見事に麺にする。 

 平成12年秋 この小麦を一般に広めるためには農家に小麦を作ってもらう必要がある。ここで農家の多田孝夫が名乗りを上げる。彼は小麦の大敵の水分を防ぐために、豆科のセスバニアを植えた。農家の勘だった。そして6月の長雨、セスバニアが地中の水を吸い取り、見事雨を制した。6月讃岐の夢2000が実り、トータルで63トンが収穫された。そして試験場は最後の勝負に出る。県内一斉アンケート調査を行うことにしたのだ。平成13年11月、28カ所の会場で調査が始まった。香川の店も会場だった。香川はうどんを食べる客の表情に目を配る。客に笑顔が浮かぶ。いけると確信した。そして多田の元にアンケートが集まる。懐かしい小麦の香りがする、また食べたいなど評価が記されていた。そして2年後1200戸の農家が栽培を開始、こうして香川の人々の執念が実った。 

 

 現在さぬきうどんが全国的にブームであるが、それにしてもマイナーなテーマを選択したものである。しかしテーマのマイナーさにかかわらず、かなり熱いエピソードとなっていた。よく考えてみればそれもそうだろう。小麦開発に賭ける技術者の熱い思い。親の代からの農家の悲願。そしてこれまた親の代からのうどん職人の誇りと、この番組定番の熱いパターンのオンパレードなんだから、盛り上がる要素は多いエピソードだったわけである。

 うどんチェーンの立ち上げの物語かと思ったら(笑)、香川のうどん復興物語だった。良いうどんを作るには良い粉からというわけで、小麦の復活から始めたというのは確かに正解。そもそも外国の小麦粉は、パンを焼くのにはよいがうどんを作るのには向いていません。地場の食べ物にはやはり地場の食材をというのがセオリーというものでしょう。

 ところでうどんと言えば、香川だけでなく大阪もかなりのうどん文化圏なんですが、大阪のうどん職人にはこういうこだわりはないのでしょうか? もっとも大阪の場合は、小麦云々以前に、まず水が問題外なんですが。

 

6/29 プロジェクトX「新羽田空港 底なし沼に建設せよ」

 昭和43年、ジェット機の登場によって、各地で新空港の建設が行われていた。そんな中、運輸省港湾技術研究所の佐藤勝久は、舗装の専門家として空港の滑走路の舗装の研究をしていた。かつて黒四建設の技術者に憧れてこの道を目指した彼は、部下の福手勤に常々言っていた言葉があった「現場で使える技術でないといけない」と言うものだった。彼はジャンボの400トンの荷重に耐える滑走路建設のために、メーカーとの共同研究を進めた。鉄鋼メーカーと組んでスラグを使用したり、コンクリートメーカーと組んで金属ワイヤーを入れたコンクリートの開発などを行った。

 昭和52年、東京羽田空港は地方から押し寄せる飛行機でパンク状態だった。上空で飛行機同士の異常接近が頻発していた。滑走路は1本しかなく、上空2時間待ちはざらという状態だった。この事態を打開するため、運輸省が新空港の立地を検討した。しかし東京湾岸で埋め立ての出来る土地は、羽田沖の埋め立て地しかなく、そこに白羽の矢が立った。しかし現地調査におもむいた運輸省の高瀬博行は呆気にとられた。埋め立て地は一歩踏み込んだ途端に腰まで沈んでしまう底なし沼だったのだ。そもそもここは東京湾のヘドロを埋め立てた超軟弱地盤だった。果たしてこんなところに空港が作れるのか、大問題となった。その時、東工大の中瀬明男が「あれを使えないか」と提案した。スウェーデンで使用されたペーパードレーン工法だった。これは管を束ねた紙を埋め込んで水を抜く方法である。こうして羽田の工事が決定された。 

 昭和59年1月工事開始。現場リーダーは泊博昭。彼はスエズ運河の建設に携わった男だった。しかし羽田の埋め立て地は彼の想像を超える難所だった。地中に管を打ち込む巨大櫓が、現場に運び込んだ途端に足を取られて倒れた。あやうく大惨事になりかねない大事故だった。彼は唖然とする。

 昭和60年春、泊は長さ3メートルの丸太を重機の下に並べ倒れないようにしながら作業を行っていた。しかし現場は腰を下ろすところもなく、休憩時間も立ったまま休憩するしかなかった。しかも現場は強烈な悪臭が漂う。さらに晴天で表面が乾くと、細かい粘土が砂嵐を起こして息も出来ない。羽田地獄と呼ばれ、メンバーの士気は低下、工事の進行が危ぶまれた。しかし羽田はパンク状態、一日でも早く工事を進める必要がある。泊は休憩時間を15分から30分に延長した。これで詰め所に戻って休憩が出来る。ようやく現場の士気が回復した。

 水抜きが終わるまで舗装を待っていられないと、佐藤は実験を開始した。ここで登場した秘密兵器が、400トンの加重をかけられる巨大トレーラーである。これでジャンボの加重のテストが行われた。

 一方、水抜き現場の泊はトラブルに直面していた。管が地中に押し込めなくなったのだ、力を加えると管を押し込むチェーンが切れた。元々土砂の処分場となっていたこの埋め立て地には、ヘドロに硬い石やコンクリートが混ざっていたのだ。そこで彼は、抜群の強度のダブルチェーンを装着した。これでチェーンは切れなくなった。こうして100万本の管を埋めた。1ヶ月後、管から水が流れ出る。そして1年半で東京ドーム8杯分の水を抜いた。

 佐藤の舗装が始まった。飛行機を止めるエプロンにはピアノ線を入れたコンクリートを採用。滑走路にはスラグを使用した。スラグは水を吸うと固まった。工事担当は石塚幹人。

 昭和62年暮れ、現場に緊張感が走った。試算の結果、凄まじい地盤沈下が起きることが分かったのだ。なんと10年間で49センチも沈下する。これでは、エプロンの飛行機を載せる板がデコボコになる。メンバーは頭を抱える。

 昭和63年、滑走路完成。しかしエプロンはまだ手つかずだった。しかし羽田は既に限界、乗客はターミナルからあふれ、貨物は野積みの状態だった。佐藤はプレッシャーで寝られなくなった。ある日彼は、土木を目指した原点、黒四ダムに出かける。巨大建造物に心を震わせた。その時、アイディアが湧いた。彼は空港技術者の宮内健にアイディアを持ちかける。地面が沈むなら、油圧ジャッキで持ち上げるというものだった。しかし最終便から始発便までの6時間しか作業できない。効率的なジャッキアップのシステムが必要だった。宮内はコンクリートにネジ溝を切り、コンピュータ制御で一気にジャッキを操作する方法を開発した。最後に残された課題は、ジャッキが持ち上げた空洞に詰める特殊セメントだった。2時間で固まりジャンボの荷重に耐える強さが必要だった。しかしこのコンクリートも様々な配合を試した挙げ句に、ついに開発に成功した。

 平成2年、試験用エプロンでの実験が開始された。世界初のジャッキアップ試験である。現場に緊張が走る。しかしジャッキアップは順調に進行、見事に成功した。そして平成5年9月、新空港がオープンする。

 

 熱き土建ものである。しかも定番の「元航空技術者」は登場するし、「黒四ダム」に「スエズ運河」まで登場である。この番組はこのような構成を良く取るが、これはまるで「帰ってきたウルトラマン」に「ウルトラセブン」が飛んでくるようなものである。ある年代には問答無用で熱くなってしまうパターンなのかもしれない(笑)。

 舗装一筋の研究者といえば、東名高速建設の時にも出てきた記憶があるが、時代が違うので同一人物ではなかろう(笑)。世の中はこのような地味な分野をコツコツ研究している人物によって支えられているのである。またペーパードレイン工法というのは、果たして羽田が日本初かどうかは知らないが、埋め立て地なんかで結構良く見る工法である。昔はパイプみたいなものをさしていたようだが、ペーパードレインの管の方が、毛細管現象か何か知らないが効率よく水抜きできるらしい。

 ジャッキアップといえば、関空の管制ビルにも導入されていたはずである。あの建物は地盤が不等沈下した時、建物の土台に仕込んだジャッキで調節するようになっている。もっとも想像以上に不等沈下がひどすぎて、建設当初に仕込んだジャッキがもう限界に近い状態になっていると聞いたことがあるのだが・・。埋め立て地に地盤沈下はつきもので、私の良く知っているポートアイランド(神戸)などは地盤沈下が進んだせいでポートライナーの軌道がデコボコになってしまっている。しかもあの大震災のおりには地面の液状化で大変なことになった。ちなみにあそこに立っているポートピアホテルは地下の岩盤に直接杭を打っているので、結果として地面からどんどん浮いていくことになり、既に入り口の階段が数段段数が増えている(後から足した)と聞いている。羽田も果たしてこれから大丈夫なのかは分からない。

 そう言えば羽田の拡張工事といえば、今その件に関して東京湾岸の各県が色々ともめているはずだ。それが悪化してあまりに生々しい話になってしまわないうちにこのネタを出してきたんだろうか? 

 

6/15 プロジェクトX「列車炎上 救助せよ 北陸トンネル火災」

 今回は開発もの、スポーツものと並ぶこの番組の定番「災害救助もの」である。このタイプのエピソードはネタの性質上、非常に熱い話が多くなる傾向がある。

 昭和37年、難所木ノ芽峠をぶちぬいて作られた、当時日本最長の13キロの北陸トンネル。しかし敦賀消防署の岸下正男はこのトンネルが消火設備などの防災施設を装備していないことに懸念を感じる。彼は国鉄に防災設備の整備を申し入れるが、国鉄は「電化されている北陸トンネルで火災が起きるはずがない」と地方の消防署の職員の要請など一顧だにしなかった。岸下は唇をかみしめるしかなかった。

 しかし10年後の昭和47年11月5日、岸下が懸念した最悪の事態が発生した。760名の乗客を乗せた大阪発青森行きの寝台急行きたぐにが、北陸トンネルの中央で食堂車から火災を発生し緊急停止したのだ。トンネル火災の救助マニュアルなど用意していなかった国鉄は大混乱になる。

 有毒ガスの煙が発生する中、先頭車両部分の乗客はトンネル内に逃げ出した。しかし火元の食堂車に隣接する車両に乗っていた乗客達は、激しい煙のため列車の外に出ることが出来なかった。煙に追われるように前方車両に避難した彼らは8号車で行き詰まる。その車両は前方への通路がなかった。多くの乗客がここで閉じこめられてしまう。しかしこの時はまだ誰もそのことを知らなかった。

 「電化されているから火事など起こるはずがない」とはとんでもない対応である。当時の国鉄は根本的に安全思想に欠けていたようだ。また時代的にも大型建設工事が多く、いわゆる手抜き工事の多かった時期でもある。

 さらに事故を大きくしてしまったのは、火災車両がトンネル中で緊急停止してしまったこと。当時の国鉄はトンネル火災の対応マニュアルがなく、運転士は「火災が起こった場合はその場で緊急停止する」という通常のマニュアルに従ったのだ。だからこの点については、トンネル火災を想定していなかった国鉄に責任があり、運転士の責任を問うのは無理だろう。ただすべての面で対応が最悪だったのは間違いなく、ゲストの小野寺氏も「何の誘導も案内もなかった」と言っている。避難に当たって車掌と運転士はどうしていたのだろうというのは気にかかるところではある。

 

 敦賀消防署に通報が入ったのは火災から40分後だった。当時課長になっていた岸下は非番で帰宅していたが、慌てて家を飛び出す。しかしトンネルに到着した隊員達はまるで騙されたような気持になる。駆けつけたトンネルの入り口はまるで何もなかったかのように静まり返っていたのだ。

 しかしまもなく彼らは深刻な事態が発生しているのを目の当たりにする。逃げ出した乗客がすすまみれになってトンネル内から出てきたのだ。「まだ多くの人が取り残されている」乗客は言った。

 敦賀消防署に駆けつけた岸下は、国鉄に連絡をとり、列車の位置を確認しようとする。しかし国鉄担当者の返答は「上司の判断なしでは教えられない」と繰り返すだけだった。「人命がかかっている。早く教えろ!」岸下は怒鳴りつける。

 ここでさらに国鉄のお粗末さが炸裂する。まず消防署に通報が入ったのが40分後というのはあまりに遅すぎである。さらに現場に隊員達が駆けつけた時は現場が静まり返っていたというのは、まだ国鉄職員の誰も現場に駆けつけていなかったということである(つまりは本格的な救助体勢はとれていなかったということ)。そして極めつけが「上司の判断なしには列車の場所を教えられない」という典型的なお役所返答。岸下は「人命がかかってる。早く教えろ!」と怒鳴りつけたことになっているが、これは果たして本当にこの通りだろうか? 少なくとも敦賀消防署員でなく、難波消防署員だったら、まずここは「アホかお前は!乗客の命がかかっとんやぞ!とっとと教えんか、ボケ!」と叫ぶであろうことは想像に難くない(笑)。

 そう言えば似たようなエピソードはニュージャパン火災の時にもあった。非常階段の位置を聞こうとした消防隊員を、警備員は社長と電話中であるといって追い返そうとしたというエピソードである(そしてこの時、金の亡者の横井は、宿泊客はどうでも良いからまずロビーの高価な家具を運び出せと指示していたのである)。トップが駄目な組織というのは大体こんなものである。この時の国鉄は相当駄目な組織になっていたということである。

 

 聞き出した火災現場の手前に工事の際に土砂を運び出した斜坑があるのを見つけた岸下は、隊員達を斜坑に急行させる。15分後隊員達が中に入ろうとしたとき、すすだらけになった50人の乗客が逃げ出してくる。彼らを病院に送って隊員達は斜坑に入る。しかしそこに国鉄が送り出した救助列車がやってきた。彼らは何も聞いていなかった。列車に乗った彼らに、国鉄職員は「救助は終わりました」と告げる。

 しかし国鉄の失敗はこれで終わらない。まるで次々とリコール隠しが発覚する三菱自動車の如く、失態の連続である。今度は現場との連絡の不備。これは下手をしていたら、トンネル内にいる隊員が救助列車に巻き込まれる危険もあった事態である。またどういう根拠で判断したのか知らないが、この時点で勝手に救助は終了したと判断したのは決定的なミスである。国鉄は非常時の対応を決めていなかったので、指揮系統さえが混乱し、誰も全体の状況を把握していなかったのだと思われる。

 

 しかし実はこの時、トンネル内の8号車に100人もの人たちが取り残されていた。多くが老人や子供連れの女性などだった酸欠の社内で彼らは次々と倒れていった。その中に一人の若者がいた。小野寺宏、彼は故郷の兄の結婚式に参加するためにこの列車に乗り合わせていた。一か八か外に逃げ出そうとした彼に、子連れの母親・豊井久美子が声をかける「この子を助けてください」。彼女の娘・さつきは意識不明の重態になっていた。「このままではみんな窒息してしまう」小野寺は肘で窓を叩き割って列車の外に出る。彼の目に非常電話が見えた。電話機を取り上げると彼は叫ぶ「動けない乗客達がいる。早く救助を!」

 知らせに国鉄の対策本部は大混乱になる。怒って詰め寄る隊員達に国鉄は再度救助列車を出すという。しかしトンネルの中は一酸化炭素が充満している。決死の救助だった。彼は署長に「部下を5人突入させろ」と命令される。青ざめる部下の顔を見た彼は言う「俺も行く」。彼は独身の若手4人を選び、決死隊を編成する。隊員達を乗せた列車が煙の立ちこめるトンネル内に突入する。

 で、救助する側に見捨てられた乗客は、自ら生存のために立ち上がる。ここで登場するのが故郷に帰ろうとしていた若者・小野寺。彼が今回のエピソードのヒーローになっています。恐らくこの時点での小野寺の状態は、まさに「火事場の馬鹿力」状態だったのだろうと思われます。彼が若くて体力があったことが幸いしたのは言うまでもないですが。

 そして今回のもう一人のヒーロー・岸下は命を賭けて現場に突入する決意をします。ここで部下に託して自分は後方にいるような指揮官なら、今回のエピソードの主役にはなれません(笑)。それに何よりも、またここで彼が自ら決死隊に志願したら、次に指名された部下は断りようがなくなってしまうというのも、日本型組織の特質であります(笑)。またこういう時には、昔から独身の若手が選ばれるというのもお約束であります。これは彼らが背負っているものが少ないということが理由の一番、若者の方がいざという時の体力があるというのが二番、もし死んだときに補償金が少なくてすむというのが三番です(笑)。

 

 トンネル内では取り残された乗客達が列車から逃げ出していた。しかし彼らのほとんどは動けなかった。冬の北陸、トンネル内は凍えるように寒い。その中で小野寺は寝台車から運び出した毛布を乗客達に配っていた。

 トンネル内に突入した岸下達、しかし現場の手前で煙のためにそれ以上進めなくなる。彼らはそこから歩いて現場に向かう。煙の中を壁沿いに縦列で進む彼らが最初に発見したのは倒れた男性だった。しかし既に彼は死亡していた。さらに前方に進む彼らの前に火元の食堂車が見える。やがて散乱する毛布とその周囲に多くの乗客を発見する。彼らは300メートル先の救助列車まで彼らを抱え、何往復もして輸送した。突入隊員の一人、意識のない乗客を担いで運んだ辻克己は足が痙攣し始める。しかし彼の目に、苦しむ男性に肩を貸す青年の姿が飛び込む。小野寺だった。フラフラになった小野寺の姿に彼は釘付けになる。この時、彼の疲れは一気に吹き飛んだ。彼は小野寺に言う「後はまかせてくれ!」 煙の流れを気にしていた岸下の目に、一組の親子が目にはいる。豊井久美子だった。彼女は出ない声を振り絞る「この子を助けてください」新人の川畑清忠は母親の必死さに打たれる。娘のさつきは重態だった隊員の藤本久は急いで彼女を抱き上げると列車に走る。それを見届けた久美子が意識を失う「しっかりするんだ!」川畑は自分の酸素マスクを彼女に与える。1時間後、救助作業は終了、彼らは41名の乗客を救い出した。

 決死隊の面々はこうして41名もの人々の命を助けたのである。しかしスタジオに来ていた岸下は、41人を救助したことよりも13人を助けられなかったことの方を激しく悔やんでいたようである。まさに現場の人間の使命感ですね。ニュージャパンの時の伝説の消防士がダブります。立派な人だと思いますが、とても私はこうはなれません(笑)。小学生の読書感想文なら「岸下さんは立派だと思います。とても僕には出来ません。」と書くところか(笑)。

 また岸下に国鉄に対する怒りが未だに残っているのも見て取れた。彼の警告を無視した挙げ句に大事故を起こしたというのでも怒り心頭なところだろうが、救助情報の混乱のせいで取り残された乗客の救助が遅れ、結果としてそれが犠牲者の増加につながっているということの怒りが大きいのではないかと推察する。

 なお今回のもう一人のヒーロー・小野寺氏は、この時の無理が祟って重い椎間板ヘルニアを患った挙げ句、勤め先を辞めて故郷に帰ったとのこと。何かひっかかるエピソードだ。

 

 何やら国鉄に対する「大糾弾大会」になってしまった趣もある今回。既に国鉄は消滅しているので(国鉄民営化のおりの国労組合員差別に対する裁判によれば、今のJRは旧国鉄と全く無関係の組織であるらしい)、何に気兼ねすることもなく盛大に非難しまくっているのが印象的である(笑)。ニュージャパンの際も、かの金の亡者・横井秀樹は裁判で有罪判決を受けていたので、容赦なく非難しまくっていたのと同じである(笑)。

 久々に熱い内容。もう冒頭から「出たぁ〜!!」という印象である。こういう大げさ気味の演出がこの番組の場合はすっきり決まる。また「○○を助ける」という単純な展開は、実は一番燃え上がるストーリーになるのもしれない。よく考えると、宮崎駿の作品なんかでも、一番楽しめる作品は「少女を助ける」というだけの単純なテーマの作品の方が多いから(「未来少年コナン」「ルパン三世 カリオストロの城」など)。ここ数回、やや不完全燃焼気味な印象を抱いていたので、久々に完全燃焼した展開であった。

 さて次回はまたも再放送の模様。いわゆる「開発もの」のデジカメ開発である。日陰部署で会社に冷遇される中、同じ境遇の開発者達が会社の壁を越えて立ち上がるという、技術者なら涙なしには見られない物語である。このエピソード、私も身につまされるんだよな、彼らの勉強会がまるで新○○発展○会(私が携わっている研究分野の互助組織)に見えて・・・。

 

6/8 プロジェクトX「宿命の最強決戦〜柔道金メダル・師弟の絆〜」

 今回のテーマは柔道である。外国の巨漢選手に押しつぶされた日本柔道の復活の物語である。

 昭和39年、東京オリンピック。柔道で日本の期待を一心に集めていたのが神永昭夫だった。すぐれた技のキレで日本選手権を三回制覇し、天才と言われていた。両親に優勝を誓って挑んだ無差別級の決勝戦、しかし彼の前に2メートルの巨漢、オランダのヘーシンクが立ちふさがる。彼は得意の体落としをかけるが、巨漢のヘーシンクには通じず、逆に強引にのしかかられてそのまま押さえ込まれてしまった。圧倒的な体格差の前に、彼の技は通じなかったのである。

 翌年、神永をさらなる不幸が襲う。彼はは網膜剥離を患い、失明の危機に遭遇したのだ。こうして彼は現役を去った。一方、ヨーロッパでは柔道ブームが起こり、多くの格闘家が柔道に参入していた。

 後に説明があったが、実はこの時、神永は靭帯を損傷しておりかがむことが出来ない状態だったらしい。彼の技が通用しなかったのは体格差だけの問題ではなかったようである。ただ彼はこのことをずっと伏せており、一切言い訳をしなかったとか。何やら古臭い男の美学です。

 

 4年後、明治大学の監督の曽根康治が神永の元を訪れ、監督を引き継ぐように要請する。「私は柔道に義理があります」彼は監督を引き受ける。仲間達は神永のために有望な学生を新入生として10人集めてくる。

 10人の新人の中に、一番小柄な上村春樹がいた。彼はここで強くなるという野心を持っていた。しかしそうそうたる先輩達に圧倒される。そして挑んだ新人戦。いきなり首を絞められて失神する。とても通じないと彼は思った。しかし神永は上村に目をつけた。「負けからすべては始まる」神永は上村に言う。「技は自転車と同じ、勢いがつくと止められない。その前に防げ」「技の善し悪しは音で知れ」。上村は神永のすべてを盗もうと練習に励む。

 神永は自分の敗北後、筋トレに励む選手が増えたことが気になっていたとのことだが、柔よく剛を制すというのが柔道の理念であるから、腕力勝負の形になっていくのには忸怩たる想いがあっただろうことは間違いない。その神永だから、上村の素質に目をつけたのだろう。「技の善し悪しは音で知れ」なんて言うのも、キーワードになりそうなエピソードである。

 

 昭和47年、ミュンヘンオリンピック、神永は全日本監督として参加する。しかし日本選手は敗退、表彰台はヨーロッパ勢に占められた。神永は監督を辞任することを決意し、部員達の就職先を世話する。

 上村は旭化成に就職した。しかし旭化成の柔道部は二流だった。柔道部の練習に参加した初日、事件が発生した。上村が思いきり技をかけた途端に、相手がそのまま倒れ後頭部を強打して脳震盪を起こしてしまったのだ。旭化成の柔道部員は段違いに弱かった。

 このままでは練習にならない。悩む上村は一週間後柔道場で部員達に取り囲まれる。上村との練習で脳震盪を起こした岡村芳次らだった。彼らは次から次へと上村にかかっていった。1対多数の凄まじい戦いになった。いつの間にやら最高の練習環境が出来上がっていた。2年後、オリンピック代表選考会を上村は制する。

 段違いに実力の違う上村をどうやって練習させるかを岡村らが考えたのだろうと言う説明をしていたが、このシチュエーションって、どう考えても「生意気な新人をみんなで締めてやろうと思ったが、返り討ちにあってしまった」というパターンである。ただ結果としては、きわめて「実戦的な」練習になったようである(笑)。

 

 オリンピック本番、上村は無差別級の準決勝でソ連のチョチョシビリと対戦する。奇妙な試合になった。一方的に攻め続けたのは上村だけだった。上村の技がチョチョシビリの怪力を封じていたのだ。決勝戦はイギリスのレンフリー、やはり怪力の選手だった。試合開始6分40秒後、上村は大内刈りから押さえ込みに持ち込み勝利する。

 ここまで来たら何やらオリンピックは付け足しに見えてしまいます(笑)。お約束通りに金を獲得してめでたしめでたし。ちなみにチョチョシビリという名前は、何かで聞いたことがあり奇妙に印象に残っているのですが(日本人にはインパクトがありますよね、この音)。

 

 定番のスポーツものということで、やや熱めの内容だった今回。やっぱりこの番組は開発ものかスポーツものが定番か。構成的には前半の主役を神永にして、後半の主役を上村にしたのは苦労してるなという印象。本当は一人の人間で引っ張りたかったんだろうが、東京での無念の敗北には上村は全く関係していないし(何しろこの頃はまだ高校生でしょうから)、モントリオールオリンピックには神永は全く関与してないみたいですので、こういう構成にせざるを得なかったんだろう。ちなみに次回は「災害救助もの」というこれまた熱い話の定番ものです。どういう内容になることやら。

 

6/1 プロジェクトX「地上240m 世界最速エレベーターに挑む」

 今回は開発もの。しかし内容はエレベータである。だんだんと地味なテーマになっていくのを感じる今日この頃。

 戦時中は贅沢品として製造が禁止されていたエレベータ。しかし終戦と共にGHQの指示によってビルにエレベータの設置が進められることになった。それを命じられた三菱電機は急遽かつて技術者を集める。その中に宮城晃がいた。彼は再びエレベータの制作に開始した。

 しかし客から「エレベータが不快だ」という苦情がくる。彼はこの課題を部下の高村明に託す。彼はこの不快感の原因が加速度にあることを突き止め、理想運転曲線を編み出し、このも問題を解決する。

 しかしこの頃の三菱のエレベータはアメリカに大きく遅れをとっていた。アメリカの最新のエレベータは三菱製品の3倍ものスピードがあった。彼らはアメリカに近づく目標を掲げて新型エレベータを開発、アメリカとの技術差を縮める。その時、霞ヶ関ビルの構想が持ち上がる。彼らは

そのエレベータの受注を目指すが、結局はアメリカのオーチス社に受注をとられる。

 悔しさを噛みしめる彼らに、チャンスが訪れたのは8年後の昭和51年だった。超高層サンシャイン60ビルの建設が決定され、そのエレベータ工事を受注することになったのだ。彼らが求められたの世界最速のエレベータ。この仕事に高村が開発リーダーとなって、技術者100人を集めて取り組む。彼らは目標を世界最速の分速600メートルにおいた。

 高速エレベータ用に高村は大型の巻き上げ機を開発する。しかし一番の問題は高速に伴う揺れと騒音だった。騒音の原因はガイドレールの継ぎ目の段差だった。レールの据え付け精度が問題だというアドバイスを、宮城が高村に与える。

 工事が開始された。据え付け職人の二ノ宮崇らは200本のレールを寸分の狂いもなく据え付ける。その頃、かごの開発担当の田中英春は台風並みの騒音に悩んでいた。彼はかごを流線型にして空気抵抗を減らすと共に、壁を二重にして騒音を防ぐことを考える。ただ壁を二重にするためには従来の換気口をふさぐことになる。空気の通り道は造ってあるが、停電時などに酸欠になる恐れがあった。23人が実際にかごの中に乗り込んで実験を行い、安全を確認する。

 設置工事が終了し、いよいよ試運転が開始された。試運転を担当したのは入社3年目の若い社員・小高篤男だった。しかしエレベータは試運転中に急停止する。小高が確認すると、かごが床下に20センチもずれていた。原因は天上にぶつからないための安全装置だった。ミリ単位の微妙な調整が必要だった。小高はかごに新聞紙を敷いて寝泊まりしながら、早朝から深夜までのテストを繰り返し、14日後、ついに調整に成功する。最後の仕上げに、彼は床に10円玉を立ててエレベータを動かす。10円玉は最後まで倒れなかった。

 昭和53年4月、サンシャイン60がオープン、世界最速のエレベータは注目を浴びる。しかし2ヶ月後、客が騒いでいるとの通報が入る。保守担当の峰靖弘が現場に急行したところ、「エレベータが激しく揺れる」との苦情が殺到していた。峰が確認したところ、57回にさしかかった途端にエレベータが激しく揺れることが分かった。原因は風でビルが揺れていたことだった。揺れているビルの中でエレベータだけ揺らさない方法があるのかと頭を抱えるメンバーの中で、蟹江英二が自動車のダンパーを出してくる。これで揺れを抑えることを考えたのだ、彼らはこれをエレベータに取り付ける。一ヶ月後、東京は春の嵐に襲われる。しかし彼らの取り付けたダンパーは見事に振動を吸収する。

 一応定番の開発ものなのだが、元々のエピソードがあまり熱くなく(笑)、ごく普通の開発物語だったので、いくら番組側が煽ろうとしても盛り上がらなかったという印象である。いかにも彼らが苦労したように見せているが、この程度の苦労は新製品の開発では常につきものであって、そう特別ではない。エピソードも全体的に散漫な印象を受け、ストーリーの焦点が今一つ定まらないことが、さらに盛り上がりにくい理由になっていたようにも思える。

 やはりこの番組もそろそろネタ切れの気配が濃厚に漂っていると言わざるを得ないように思える。予想以上の好評に無理矢理今まで引っ張ってきたが、さすがに戦後限定の成功を収めたプロジェクトとなるとそうゴロゴロとネタがあるわけでなく、かなり無理のあるネタも最近は多いようである(以前にあった毛利宇宙飛行士のエピソードなんて、もろにネタの弱さを感じた)。さらにこの番組特有の熱い演出も、さすがにこれだけ繰り返すと、大分パターン化してきて世間にも飽きられ始めているように思える。不景気のそこに沈む日本において、この番組はいわゆる「親父向け癒し系番組」だったんだが、もし日本が本格的に景気回復に向かい始めたなら、この番組ももう使命は終えたのではないだろうか。「地上の星」もついにオリコンから消えたことだし、さすがにそろそろこの番組も潮時ではないかという気がするのだが・・・・。最終回は「プロジェクトXを作った男達」か?(笑)。

 

5/18 プロジェクトX「南大門仁王像大修理〜運慶に挑んだ30人〜」

 今回はいわゆる職人シリーズ。天才仏師・運慶の傑作、東大寺南大門の仁王像の修復作業である。

 昭和62年5月、南大門の仁王像のおみぬぐいの際、とんでもないことが発覚する。木組みは隙間が出来、台座はシロアリに食われて倒壊寸前だった。危機的状況に東大寺管長・狭川宗玄の顔がひきつる。急遽、仁王像の修繕が京都美術院国宝修理所に委託される。ここでは40人の職人が国宝の修復にあたっていた。所長・小野寺久幸は三十三間堂の仏像千体の修理で名を馳せた名人であった。早速奈良に向かった小野寺は名人運慶の力量に圧倒される。運慶は快慶ら名だたる仏師とチームを組んで仁王像を作っていた。小野寺も腕利きの職人でチームを編成することにする。抜擢されたのは小野寺の愛弟子・山本敏昭。さらに若手で7年間木材の切り出し一筋に打ち込んで来た八坂寿史ら30人であった。一世一代の大仕事に彼らは奮い立つ。

 確かに仁王像の痛みはかなり激しかったと聞いている。シロアリによる食害が挙げられていたが、つなぎ目などに隙間が出来ていたのは、鳩による糞害の影響も大きかったはずである。しかし運慶の傑作だけに、あれを修復するのは並大抵の腕では無理だろう。

 

 しかし作業が開始されるや否やトラブルが発生する。運び出すために仁王像の腕を引き抜こうとした時だった、メリメリと猛烈な音がし、腕が折れる危険が発生した。メンバーは戸惑うが、八坂が音を聞き分けて言う「この音なら大丈夫だ。」。木の切り出し一筋の彼は、木が割れる時の音が分かっていた。こうして無事に仁王像は運び出される。

 工房で解体が始まった仁王像は腕だけでも25の部材から成り立っていた。設計図も何もない中での解体は困難を極めたが、小野寺の名人芸で解体作業は完了する。しかし欠けた薬指のところでみんなの作業が止まった。運慶の作った像の指には木目に指紋まで彫られていた。担当の古谷健二はそれを彫ろうとするがどうしてもうまくいかない。それを見た山本は木材倉庫に走り、適切な木材を選んでくる。

 仁王像は運慶が仏師のチームを編成し、パーツごとに制作して一気に組み上げたのだろうと言われている。多くのパーツから出来ているのは、多分部分事に修正することも考えてのことだったのではないだろうか。

 当時と同じ木材を使おうと思っても、もうそんなものは存在しないというところに日本の現状が見える。そのうちに国産木材なんてなくなるんじゃないだろうか。

 

 最後に仏像を中央で支えていた根幹材を解体した時だった。八坂が根幹材のかすがいをはずした途端、木材が音を立てて反り始める。解体された木材は30センチも反り返った。このままでは再び組み直すことが出来なくなる恐れが発生した。

 どうすれば反り返った根幹材を組み直すことが出来るか。小野寺は木材を800年間支えてきたかすがいに目を付ける。これは日本古来のたたら製鉄に作られたものだった。小野寺は製鉄会社に調査を依頼、鉄の成分を明らかにする。しかしこのかすがいを今の日本で作れるか。この時に白羽の矢を立てられたのが刀鍛冶の三上正幸だった。かれはかすがいを作ったことなど初めてだったが、この依頼を受ける。

 800年も経てば木材も反り返るというものである。ただそれでも仁王像が崩壊することがなかったと言うところが腕というものか。ちなみにたたら製鉄は砂鉄を使った製鉄法で、日本刀はこれで作られています。日本では昔から鉄鉱石が産出しないので、鉄と言えば砂鉄原料です。

 

 しかしもう一つの問題があった。根幹材を組み直す際、重心を完璧に真ん中に持ってこないと仁王像が倒れる。重心の位置を正確に割り出すため、八坂は1/5の正確な模型を作り上げる。これを元に、八坂は三上の作ったかすがいで根幹材を組み直す。その根幹材に部材を組み付け、吽形像は南大門に戻された。後は台座と腕を取り付けるだけだった。しかしここで奈良を台風が直撃する。修復中の仁王像の内部に水が入り込むと中から腐る恐れがある。メンバーはビニルシートで像を守り抜く。そうして、ついに仁王像の修復が完了する。

 職人の腕で鎌倉の仏像が復活というハッピーエンド。ただ小野寺が後継者にと考えていた山本は、全国の仏像を修理したいと美術院を辞め、5年後に病気で亡くなってしまったとのことです。この手の技術を継承する人材というのはなかなかいないだけに、小野寺の技術の継承は大丈夫なんでしょうか。

 

 ネタには熱いものがあるにもかかわらず、いまいち盛り上がりに欠ける印象を受けたのは、この番組の持ち味である「過剰演出」に欠けていたためか。そう言えば、この番組に恒例のキーワードがあまり登場しなかったように思われる。登場したのは「息を呑んだ」ぐらいしかなかったような。私なら・・・。

○崩壊寸前の仁王像。しかし並大抵の職人ではこの作業は不可能だった。一人の男に白羽の矢が立った。小野寺久幸、この道36年、京都三十三間堂の千体の仏像を修理した彼は仏師のと呼ばれていた。

○自分に運慶の技を再現することが出来るのか、ためらう小野寺に狭川が言った。「仁王像は800年東大寺を守ってきました。この鎌倉仏師の魂を後の世に残してください。」狭川の目は真剣だった。小野寺は胸が熱くなった。

○早速、奈良に向かった小野寺、しかし仁王像を前にして息を呑んだ。力強い筋肉の描写・・(以下略)・・運慶の力量を目の当たりに見せつけられた。小野寺は圧倒された

○3000もの部材からなる仁王像の解体は困難を極めた。どうばらせばよいのか。その時、小野寺が「ここだ」と指をさした。内部をのぞくとかすがいがあった。八坂は信じられない思いだった(このあと八坂本人のインタビュー)。

○いよいよ根幹材の解体にかかった時だった。しかし信じられないことが起こった。八坂がかすがいをはずした途端に、木材がメリメリと大きな音をして反り返った。なすすべもなく見守る八坂の前で、木材は30センチも反り返った。このままでは再び組み直すことが出来ない。八坂は目の前が真っ暗になった

○今の日本でこのかすがいを作れる職人はいるのか? プロジェクトは暗礁に乗り上げた。その時だった。「彼なら可能かもしれない」三上正幸、たたら製鉄の技を今に伝える伝説の刀鍛冶と呼ばれていた。

 これ以外にも、呆然とした身のすくむ思いがした奮い立ったなどは必須のキーワードでしょう(笑)。これらが登場しなかったのが何か番組が淡々として見えた原因のように思われます。やはりこの番組のポイントは、1つ間違えたら大映ドラマになりかねないクサさというものもありますから(笑)。

 

 

5/11 プロジェクトX「創意は無限なり〜超音波診断機エコー〜」

 今回のテーマは超音波診断機エコー。この診断機は身体を切らずに中身を見ることが出来る上に、レントゲンなどでは見にくい臓器の様子が分かることから、今日では多用されている。この開発の物語である。なお医療技術ものとしては、以前に胃カメラ、レーザーメスなどが登場しており、どれもこれもかなり熱い話だったのだが、今回もそれに負けない熱い話である。物語は戦後すぐから始まって、最終的には昭和49年にまで至るという壮大なものである。

 

 昭和25年、順天堂医院に勤務する新米医師・和賀井敏夫は脳腫瘍と格闘していた。腕を磨くために、最新の医療を求めてこの病院に無給の助手として勤務した和賀井であるが、10人に1人しか救えない現状に愕然とした。当時の脳の検査は血管に造影剤を入れ、X線で撮影を行っていたが、患者の肉体には激しい痛みがあるにもかかわらず、腫瘍はほとんど写らなかった。彼はある時、患者の所見を巡って先輩医師と対立。彼は脳腫瘍の可能性を訴えたのだが、先輩医師は相手にしなかった。しかしその後、患者の様態が急変、緊急手術を行ったが、脳は腫瘍に冒され手遅れだった。

 最新技術を求めて東京に出てきたものの、そこで現実に打ちのめされる若手医師といった展開です。これは実によくあること。これが今後の彼の生き様につながっていくというプロローグになっています。

 

 翌日、傷心を抱えて故郷の宮城に帰った和賀井。そこで彼は超音波で船体の傷を検査するのを見て、超音波で脳の検査が出来ないかと思い立つ。彼はそのアイディアを数社に持ち込んだが、どこにも相手にされなかった。半年後、和賀井が開発を持ちかけたのが日本無線だった。この会社は戦争中に軍に協力したことでGHQに抑えられ、社員4万9千人が路頭に迷っていた。自分たちは結局は戦争での人殺しに協力しただけだったということにむなしさを感じていた技術総責任者の中島茂は、和賀井のその依頼を受け、内田六郎、萩原芳夫と4人のチームを組む。その夜、和賀井は意を決して病院の保管庫に侵入、本物の脳の標本を持ち出す。彼らは標本に超音波を当てる。しかしそこで愕然とする。そこには何も映らなかったのだ。

 失意の中から思いつくアイディア。そしてこれに乗ってくる「挫折した技術者」。パターンですね。今までよく出てくるのは「元航空技術者」ですが、中島の場合は「元レーダー技術者」でした。

 そして開発を始めるが、いきなりすべてが根本的にご破算になりかねない大問題が・・・。いやー、盛り上げる展開ですね。

 

 原因は超音波が弱いことだった。それまでの水晶で発生させていた超音波では不十分だった。そこで軍用ソナーに使用されるチタン酸バリウムを使用してみたところ、今度は反射が映った。開発の可能性が見えたことで、和賀井は寒天に異物を埋め込んで腫瘍の感知の実験を繰り返し、腫瘍のパターンを発見する。和賀井は完成した装置を病院に持ち込み、気になる症状を示していた患者に試してみた。腫瘍に特有のパターンが現れた。彼は教授に緊急手術を強く要請、手術で開いた脳に腫瘍が見つかる。患者は助かった。この結果を受けて、彼は教授会に乗り込んで開発費用を捻出するように提案するが、教授たちはこれを却下する。和賀井は食い下がるがどうにもならなかった。その夜、詫びるつもりで工場を訪れた和賀井の前で、中島は「創意無限」の文字を書き言う「創意を実現するには無限の努力が必要です。諦めずにやりましょう。」和賀井は頭を下げる。

 大学の権威主義をよく現しているエピソード。教授にしてみれば、たかが無給の助手ごときが提案したものなんかに乗れるかというところでしょう。この教授は彼のアイディアをつぶしにかかったのですが、場合によっては取り上げてしまう教授もいます。そのような例は昔から枚挙に暇がない。

 なおここでタイトルの「創意無限」が出てきます。普通この言葉を聞くと「アイディアは無限にある」という意味だと思うんですが、中島の意味は「アイディアの実現には無限の努力が必要」という意味だそうです。なんて自虐的(笑)。しかし努力を無限にしていたら、永久に実現しないと思うのだが・・・(笑)。

 

 萩原が気象レーダーをヒントにして、探触子を動かすことで臓器を断面で捕らえることを思いつく。しかしソナーは空気が間に入ると映らない。内田が水を使うアイディアを提案し、和賀井が実験台になる。彼らの装置は身体の臓器の断面を映し出す。再び和賀井は教授の下に風呂桶を持ち込んで実演、開発費を出してもらうように頼む。しかし教授は相手にしない。

 一方、日本無線でも異変が発生していた。会社の経営が悪化し、超音波診断機の開発の中止が決定された。中島は継続を主張するが通らず、プロジェクトに解散命令が出される

 和賀井が教授を相手にリターンマッチをしますが、全く相手にされなかったようです。つくづく技術を見る目がない教授です。多分頭が古いせいで、新しい技術を理解できなかったんでしょう。技術者の中にも、自分が理解できない技術は何でも否定してかかる類の人物はいます(概して地位の高い人物に多いのだが)。こういうのが老害になって若手の邪魔をするわけですが。

 そして中島の方にも逆境が。この経過をたどってお釈迦になってしまったプロジェクトなんて数限りなくあるでしょう。彼らはここで執念を持って諦めなかったことで、今回の主役になったわけですが、世の中にはここで諦めなかったがばかりに悲惨な末路をたどった例もこれまた枚挙に暇がありません。

 

 昭和31年、和賀井は突然に大学に休職届を出し、アメリカ行きの船の船医になる。彼の手には国際医学界への招待状が握りしめられていた。密かに書いた超音波の論文がアメリカで発表の場を与えられることになったのだ、彼にとってはこれは賭だった。発表の場はハーバード大学、世界の研究者200人の前で和賀井は臓器の断面図を見せて説明する。彼の発表に場内から割れんばかりの拍手が贈られる。

 帰国した和賀井は日本で超音波の学会を立ち上げる。アメリカでの評判を聞いた日本各地の若手医師が集まる。一方、日本無線の中島も大きな決断をしていた。彼は研究を続けるために内田と萩原を連れて赤字まみれの子会社に移籍する。

 和賀井はここで策略を練ったようです。権威に対抗するには権威をということです。未だに日本の学会では「外国で名を挙げる」というのは結構通用します。この時代だったらなおさらでしょう。だから日本の権威主義でつぶされそうになった若手が海外で活路を求めるのは事例としては多いです。この辺りも日本の組織の問題点なんですが。

 そして中島の方も大博打。しかしそれについていく部下の方もなかなかのものです。彼らは最後まで中島に付いていったわけですから、彼は相当のカリスマがあったのでしょう。さて、自分が子会社に転籍することを決意した時に部下が付いてきてくれる自信のある方は何人いますか? ちなみに私は上司ではなく部下の方の立場ですが、もし私の上司が子会社に転籍することを決意したら、喜んで一人だけで行ってもらいます(笑)。

 

 どうやれば水なしで身体の断面を描けるか。料理屋でいかソーメンを見た萩原は、探触子を細かく分けて一発で断面を描く方法を開発する。それを聞きつけて、和賀井の元に集まった医師の一人・心臓専門の吉川純一が、これを動画に出来ないかと提案する。心臓病の診断に苦労していた彼は、ソナーを動画にすることで強力な武器になると考えたのだ。

 しかし開発には金がかかる。中島は自宅を担保にして500万円の金を用意する。こうして彼らの執念の開発が続く。昭和49年4月、最終実験の日、和賀井と中島の前で内田が萩原の胸に探触子を当てる。次の瞬間、心臓の動きが画面にくっきりと映し出される。ついに彼らの開発は実を結んだ。

 画期的ヒントはいかソーメン。そして中島はさらなる大博打をやってしまうわけですが、これで失敗していたら相当に悲惨なことになっていたところです。奥さんは何も言わなかったのでしょうか。このような彼らの努力のおかげで、今日の我々はエコーの恩恵に浴することが出来るわけですが。

 

 以上、滅茶苦茶熱い医師と技術者の物語でした。展開的に胃カメラ・レーザーメスの時とよく似ているのは、題材が類似しているからか、スタッフが共通しているのかは分かりませんが、こういうものの開発の時は大体似た経過をたどるのかもしれません。

 

 

4/20 プロジェクトX「毛利飛行士 衝撃の危機脱出〜技術者達の総力戦〜」

 今回のテーマはスペースシャトルに乗った毛利氏。ところでNHKは「日本人初の宇宙飛行士」と断言したが、TBSは未だに、ロシアの宇宙船に乗った秋山特派員のことを「日本人初」と呼んでおり、毛利氏のことは「日本人で2番目の宇宙飛行士」と言っている。さすがにNHKは、単に金だけでお客さん同然で宇宙船に乗せてもらった人間を宇宙飛行士とは見ていないか(笑)。なお私は秋山氏が「宇宙飛行士」と言うのは、ヨットに乗ったお客がヨットクルーを名乗っているのと同じように感じる。だから私は秋山氏は「日本人で初めて宇宙に行った人物」と呼び、毛利氏を「日本人初の宇宙飛行士」と呼んでいる。これは多分NHKと同じなのではないか。

 

 アメリカがスペースシャトルによる宇宙開発に乗り出していた頃、日本にはそれに対抗できる設備は全くなかった。しかしアメリカがシャトルの乗務員を外国人にも開放することを決定。日本でも新聞に宇宙飛行士の公募の案内が出る。それに応募したのが大学の工学部の毛利衛だった。533人が受けた選抜試験を彼は通過する。

 一方で宇宙開発事業団の祖一紀男はテーマの選択を始めていた。無重力空間を使用した新素材の開発などの34項目のテーマが選ばれた。しかし日本に与えられたスペースは小さく、その中に実験装置を組み込む必要があった。

 日本の宇宙開発はアメリカに比べて圧倒的に劣っていたから、日本にとっての悪夢は、アメリカが宇宙を利用した新素材技術などで日本に対して圧倒的なアドバンテージを確立してしまうことだった。そのことを考えれば、日本のこの焦りはよく分かる。ちなみにアメリカが日本などにシャトルを解放したのは、決して善意というわけではなく、この頃既にアメリカは単独で宇宙開発を担っていくのがしんどくなっていたのが事実である。

 

 一次選抜を通過した12人に入った毛利は、二次試験を受ける。それは宇宙酔いに対する抵抗力を見るための試験だった。その試験とは回転椅子の上で頭を動かすという過酷なもの。最初の挑戦者は1分で脱落したが、これを10分間耐える必要があった。試験を受けた毛利も意識が遠のきそうになる。しかしそこで彼は妻が出産の時に行ったラマーズ法の呼吸法を思い出し実践する。上昇していた脈拍が落ち着き、かれは10分を耐え抜いた。

 一方、実験装置の開発を行っていた鎌田政雄達は、チャレンジャー事故の影響で強化された安全基準に戸惑った。彼らが設計した制御装置は空冷であったために、シャトルの温度を上昇させると却下された。このままでは実験装置を作ることが出来ない。彼らは装置設計をやり直す。しかしこれで8億円もの大赤字が出ることになる。結局、鎌田はこの責任をとって更迭される。残された牧野健二らが鎌田の弔い合戦と開発に挑む。彼らは水冷装置を組み込み、NASAが要求したスペックを満たす。

 毛利氏が受けたテストの話は私も聞いたことがある。このテストは私は経験がないので想像がつかないのだが、相当にキツイものらしい。乗り物に決して強いとは言いにくい私なら、30秒でゲロを吐くのがオチか。

 企業である以上、もうけが何よりの至上命題であるから、8億も赤字がでてしまった以上、責任者はなんらかの責任を取らされる必要性はあるのだろう。ここで後進に託して自分はキチンと責任の形をとった鎌田は立派ではあるが。

 

 そして打ち上げの時が来た。打ち上げは成功。しかしその直後、実験装置から水漏れが起こっていることが発見される。このままではショートして園児要する可能性がある。NASAは実験室への水の供給を停止する指示を出す。このままでは実験が全く出来なくなる。焦る毛利達の前に修理担当の飛行士マーク・リーが現れ、ただちに装置の点検を行う。その結果打ち上げの衝撃でバルブのナットが緩んでいたことが判明した。ただちに地上の大石三男が修理の方法を検討する修理のために断熱材をはがす必要があるが、これにNASAが待ったをかけた。そのまま断熱材をはがせば飛び散った繊維が宇宙飛行士達に危険を及ぼす可能性がある。大石は考え込んだ末、粘着テープを貼り付けてから断熱材をはがす方法を思いつく。こうして実験装置は復活した。

 しかしこれで28時間の時間が失われた。毛利は残りの実験を急ピッチで行う。しかし最後の実験でトラブルが発生した。二つの金属棒を接近させる駆動装置が壊れていたのだ。打つ手がないのを見た毛利は、手動でそれを行う。そして実験は成功する。こうして彼は34の実験を100%成功させた。

 危機に際して一番必要なのは、機転と決断。幸いにしてスタッフがその能力を持っていたようである(そもそもそういう能力がなければ宇宙開発には向かない)。バルブが衝撃で緩んでしまうなどというところに、いかにシャトルの打ち上げが過酷な条件であるかが分かったりする。だからシャトルのメインコントロール系統は複数化してあるんだが。

 

 アメリカが開発したシャトルに乗っかっていったというだけの内容だから、やはりイマイチ盛り上がりに欠けたことは否定できない。それに毛利氏のあの飄々とした表情に、熱血ものは似合わない(笑)。それにしてもそろそろネタがしんどいな。

 

4/13 プロジェクトX「不屈の町工場 走れ 魂のバイク」

 バイクメーカーの話らしいと思ったが、一体どこのメーカーか見当がつかないなと思っていたが、本当に名もない町工場の話だった(レースの世界では有名なのかもしれないが)。町工場のオッサンの熱い話である。

 昭和25年九州博多、博打浸りの生活を送っていた町工場の息子がいた。吉村秀雄、彼は19歳の最年少で難関の航空機関士に合格したのだが、敗戦で航空技術者への道は閉ざされていた。

 昭和29年、そんな吉村の元を一人の米兵が訪れた。彼は基地内で行われるレースのためのバイクのチューニングを吉村に依頼したのだった。吉村の顔が輝く。彼はバイクをばらすと部品を削り、カムシャフトを加工してエンジンのパワーがフルに引き出せるようにチューニングした。彼がチューニングしたバイクは草レースで断トツの一位になる。

 この番組のパターンを熟知している者はここで私と一緒に叫びましょう。「また元航空技術者かい!」 初っ端からのお約束パターンに、今回も熱い話が期待できるのだが、まさに番組はその期待通りの展開を遂げる。

 

 吉村は博打を止め、吉村の工場には次々とバイクが運び込まれ、吉村がチューニングしたバイクは九州のレースで勝ちまくり、やがて吉村は「ゴッドハンド」と呼ばれるようになる。そんな吉村の元にホンダからバイクの改造の依頼がやってくる。本多宗一郎に憧れていた吉村はその依頼を受け、東京への進出を決定する。

 東京の郊外に小さな町工場を借りた吉村は家族や新しい従業員・森脇護らと共にバイクの改造に励む日々を送る。吉村が手がけたホンダのバイクは日本グランプリで驚異のタイムを叩き出す。

 しかし異変はその直後に起こる。吉村の工場に部品が届かなくなったのだ。意を決して本多宗一郎の元に向かった吉村。本多宗一郎は吉村の話を聞くや、直ちに部下を集めて事情を聴く。事情を聴いた宗一郎は驚く、吉村の改造の腕を恐れた部下が吉村の工場に部品を回さないように手を回していたのだ。「何をやってるんだ!」宗一郎は怒鳴るが、その声は届かなかった。やがてホンダがレース専門の会社を設立する決定がなされ、吉村の工場との取引は打ちきられる。

 ここで伝説の技術者(&経営者)の登場です。本多宗一郎ってホンダに関係ないエピソードの時でもやたらに登場します。ちなみに結果として吉村はホンダに利用された挙げ句に捨てられたということになるのですが、この件について本多宗一郎が関与していたのかは私には判断しようがありません。番組の方にもあまりにも露骨にホンダが敵役にならないようにとの配慮がチラホラ見えていたりするのが感じられたりして・・・。取材に協力してもらっている都合上でしょうね。

 

 苦境に立った吉村。しかし彼は一匹狼で戦っていく決意を従業員達に告げる。彼は自前でレースに出る決意をし、従業員達は解体工場を回って部品を集める。レーサーはバイク好きの森脇が買って出た。彼らは大メーカーを向こうに回して走りに走る。しかし自力でのレース出場は工場の経営を悪化させる。

 その矢先、アメリカのデール・アレキサンダーから部品をアメリカに売り込む商談が持ちかけられる。吉村はエンジンの排気効率を上げる集合管などを制作し、アメリカに送り込む。そして半年後、吉村はアメリカに工場を建てる決意をし、家族の反対を押し切って渡米する。

 しかし渡米した吉村を待っていたのは信じられない話だった。部品代を受け取るためにアレキサンダーの元を訪れた吉村に、彼は「もう金は使った。支払えない。」と告げられる。ではと部品を回収するために向かった倉庫では銃を突きつけられ押し返される。工場を売り払っていた吉村は丸裸にされる。

 泣き面に蜂と言いますか、ここで吉村はたちの悪いアメリカ人詐欺師に騙されるわけですね。向こうのビジネスマンなるものには詐欺師同然の者も多いので要注意です。吉村は典型的な技術者タイプなので、どうしても経営の方には疎いのでしょう。レースに力を入れすぎて経営が悪化するなんて、典型的です。

 

 帰国した吉村を長女の南海子とその夫となっている森脇が待っていた。彼らは鈴鹿サーキットのそばに吉村のために小さな工場を用意していた。ここで再出発をしようという長女に吉村は言う。「もう一度アメリカで勝負させてくれ。」父の懲りない性格に呆れる南海子。しかし父を支えるのは自分たちしかいないと仕事に励む

 昭和50年4月、再びアメリカを訪れた吉村は、娘に渡された金で工場を借りる。しかし昭和52年3月、とんでもない事件が発生する。エンジンのテスト中に火花がガソリンに引火、工場は炎に包まれ、爆発を防ぐためにガソリンの入ったタンクを運び出した吉村は大やけどを負う。

 全身やけどの重傷を負って入院していた吉村の元に、一台のバイクが送られる。以前からバイクの改造を頼んでいたスズキの横内悦夫が、スズキの市販車を吉村の元に送ったのだった。彼は吉村に「これでホンダのRCBに勝ちましょう」と持ちかける。ホンダRCB、レースのために技術の粋を集めて開発し、連戦連勝、無敵艦隊と呼ばれていた。これに市販車に挑む、無謀な挑戦としか思えなかったが、吉村は「望むところだ」と立ち上がる。

 しかし懲りないこの親父、再びアメリカ進出です。これは家族も大変だ。しかもその上にさらに度重なる不幸が。これにはもうこの親父もいよいよ駄目かというところに、バイクを送ってくる人物が。横内が「あの人にはバイクが一番の薬だ」と言っていたのが印象的。吉村が根っからのバイク馬鹿であることをよく心得ていたんだろう(こういう言い方をする横内自身も多分そうなんだろうが)。なおスズキの横内から話がくるというのは、ホンダと切れた吉村にスズキが接近していたということでしょうか。この辺りを突っ込んでいったら、かなりドロドロした話もありそうです。多分、吉村としてもホンダには怨念がなかったはずはないと思うんですが。

 

 帰国した吉村は家族を含む8人のチームを結成し、徹底的にバイクの軽量化に挑む。やけどで麻痺する手で吉村は部品に穴を開けまくった。こうして60キロの軽量化に成功する。

 昭和53年7月30日鈴鹿サーキット、ここで開催された8時間耐久レースに吉村達は参加する。数十人の技術者を引き連れたホンダチームにたじろぐメンバーに吉村は言う「これは戦争だ。」

 レースが開始される。吉村達のマシンはいきなり先頭に立って突っ走る。8時間の長丁場にかかわらず、指示は「全速全開」というものであった。40度を超える日差しの中で、吉村はピットに立ったまま日陰にはいることもなくレースを見守る。

 4時間後、タイヤ交換にマシンが戻ってくる。その時、タイヤを止める2本のネジの1本が折れる。凍り付くメンバー。ネジを交換するには前輪の骨組みごと替えるしかなく大きく時間が遅れる。この時ライダーのボールドウィンが言う「ネジ1本でもしばらく走れる。そのうちに対策を考えてくれ。」もしタイヤがレース中にはずれれば命にかかわる。しかしボールドウィンにも吉村の執念が乗り移っていた。

 メカニックの浅川邦夫は考える。ネジが折れて短くなったのなら、かぶせる部品の方を削ることは出来ないか。改造一筋の町工場の腕の見せ所だった。再びピットに戻ったマシンに部品が取り付けられる。タイヤは固定された。そしてそのまま吉村のバイクは圧倒的な1位でチェッカーを受ける。これにはホンダの技術者も感心する。熱狂に包まれる会場で、久しぶりに吉村の心からの笑顔が映える。

 そしていよいよお約束の大団円。吉村の執念が乗り移ったアメリカ人レーサーが命がけの爆走をします。この番組のパターンとして、こういう風に熱い親父に触発され、自分も命をかけてしまう外人がたまに出るんですよね。今回の内容ってこの番組の王道パターンをもろに踏んでますね。最後の土壇場で町工場の意地が出るなんて展開、思わず握り拳しながら泣いてしまうような内容です。「これは戦争だ」って、指示も滅茶苦茶ですが、自分のチューンしたマシンに自身があるからなんでしょうな。

 

 元航空技術者に始まって、伝説の技術者との出会い、押し寄せる困難、度重なる不幸、そしてそれを執念で乗り越えての大団円と、まさしくこの番組の王道パターンを踏んだ内容です。久々に胸が熱くなったお父さん方も多いのではないでしょうか。かくいう私も「やっぱり、こうでなくっちゃ」って思ったのは事実。この番組って基本的には「くたびれた親父達に送るファンタジー」ですから、こういう熱い内容でないと駄目でしょう。さすがにこう言うのを見ると、私も心が熱くなります。もっともこんな生き方しようとは思いませんが(笑)。私はもっと気楽に生きていきたいたちですので(笑)。

 

3/30 プロジェクトX「悲劇のルワンダ 希望の義足」

 名もない人々の活躍を描くというのがこの番組の主旨だが、今回はまさしく名もない人の物語である。

 OLとしての生活に満たされないものを感じていた吉田真美(26歳)は、アフリカのケニアに旅行に出かける。ケニアの自然に癒された彼女は、そこで足の不自由なルワンダ人のガテラ・ルダシングワと知り合う。帰国後、恋人と別れたりなど傷ついた真美はガテラに手紙を書く。それに対してガテラは返事を書いた。こうして二人の交流が始まる。

 翌年ガテラが来日する。しかしガテラの足の装具が故障し、真美は隣町の技師の工房の親方の平井貞夫に修理を依頼する。平井は2ヶ月かけ、ガテラの足に合う装具を作る。ガテラはその装具をつけ、その精緻な作りに驚く。それを見た真美は、ガテラの帰国後、会社を辞めて平井の元に弟子入りする。

 満たされない毎日に、海外に旅行に出かけたというのは何となく分かるような気がする。毎日に漫然とした不満を感じている人は多いのではないだろうか(私も含め)。こういう時、女性は「旅に出る」というパターンが多いようだ。

 ところで感心したのは、父子家庭で育った真美がガテラを連れてきた時に、父親が何も言わなかったということ。大抵の父親は娘が黒人の彼氏を連れてきたら、程度の差こそあれ反対するのではないだろうか。娘に対して理解があったというか、娘の自立を信用していたというか。なかなかこうはなれないのではないか。

 それにしても真美は思い立ったら突っ走る性格のようで、会社を辞めて平井の元に弟子入りするというのもかなりのもの。それにしてもこの平井もいかにも「物作りにかけた男」というイメージで、なかなかのキャラクターだ。彼の「俺たちは患者一人一人の人生を背負っている。妥協はするな。」なんてセリフは泣けてきますね。彼が何か大きなことをしていたら、彼の方が番組の主役になったかも。

 

 しかしガテラがルワンダに帰国した4年後、1994年ルワンダで内戦が勃発する。多数派のフツ族が少数派のツチ族を虐殺したのだ。犠牲者は80万人以上になったという。ツチ族だったガテラからの連絡も途絶えた。

 3ヶ月後、内戦はようやく終結。真美の元にガテラからの連絡が入る。ガテラが言った「一度ルワンダの現実を見て欲しい」。ルワンダを訪れた真美はあまりの状況に絶句する。教会はおびただしい死体で埋め尽くされ、町には手足を失った者があふれていた。内戦の最中、フツ族によって手足を切られたり、地雷で手足を失った者達だった。実に国民の10%もの人口が手足に障害を負っていた。ガテラは「復興には彼らの手足が必要だ。義肢工房を建てたい。」と言う。

 悲惨な内戦なんだが、これが起きた理由が、ベルギーが植民地支配の際にツチ族とフツ族を分割統治したことによるというのが、何ともやりきれない。事実として、今アフリカやアラブで起きている民族対立の根源は、ほとんどがヨーロッパによる植民地支配の後遺症だったりする。これに対して、「私はルワンダ人です」と答えたガテラの心情は痛いほどよく分かる。

 

 帰国した真美は全国の義肢製作所に手紙を送り、中古の義足を送ってくれるように依頼する。こうして60本の中古の義足と200万円の寄付金を集める。ルワンダのガテラは政府に乗り込んで交渉し、使われていない建物を工房に使えるように段取りを行う。1997年7月、こうして義肢工房がオープンする。

 ここで真美とガテラは多くの人に義足を提供するための活動を開始する。また現地のスタッフも雇って義足の制作技術を伝えた。しかしある日、真美は町中でショッキングな光景を目にする。以前に義足を与えた女性が、義足をはずして物乞いをしていた。彼女は言った「足があると恵んでもらえない。」 また工房内のスタッフの士気も低下を始めていた。現地スタッフたちは自分たちの活動に意義を見失いかけていたのだ。「この国には希望がない」真美は現実の厳しさの前に立ちつくす。

 ガテラの行動力には感心する。つくづくすごい人だなと感じさせられる。政府に乗り込んで交渉って、一体ガテラって国内ではどういう立場なんだろうか?

 「足があると恵んでもらえない」というのはいかにもありそう。そういえば私が子供の頃にも「傷痍軍人」と書いて市場の前に座っていた物乞いがいた。戦争で負傷したのが本当かどうかは知らないが、戦争から大分経っているのに、本当に何とかするつもりだったらいつまでも物乞いということはなかろうにと思ったのをおぼえている。真美としては自立してもらうために義足を与えたのだろうから、義足をはずして物乞いをしていたというのは、悲しかったというよりも腹が立ったのではないかと思ったのだが、どうやら本人のコメントを聞いていても、やっぱり「腹が立った」ようである(彼女の性格によるものもあるだろうが)。

 

 この国には希望が必要なんだと感じた真美は、シドニーで開催されるパラリンピックに選手を送り込むことを考える。しかしシドニーまでの旅費はなく、送り込む選手もいなかった。しかしガテラは言う「とにかくやってみよう」。

 ガテラはラジオ局に頼み込み、ルワンダ中に水泳選手募集の放送を流す。これに応募してきたのは、かつて真美に義足を作ってもらったセザールだった。彼は工房で働きながら、ガテラが借り受けたホテルのプールで練習に励む。

 パラリンピックにルワンダ代表としてたった一人参加したセザール。彼は水泳の自由形に出場、欧米の強豪選手を向こうに回して、最下位になるものの最後まで完泳する。その時、場内から激しい拍手が湧き起こる。内戦のルワンダから参加したセザールの健闘をたたえる拍手だった。

 帰国した真美は、工房のスタッフの顔つきが変化しているのに気づく、彼らは自ら工夫してルワンダで入手した部品で義足の制作を始める。ルワンダに希望の灯が点ったのだ。

 パラリンピックでアピールというのは、確かに方法としてはなかなかよい方法に思われる。またあの金まみれのオリンピックと異なり、パラリンピックは純粋に人々の善意で運営されているようなイベントなので、最下位になったセザールに会場中の拍手が集まるなんていうことが起こるのだろう。オリンピック精神は本家のオリンピックでは死に絶えて、今やパラリンピックの方にしか残っていないように思われるのはなんとも悲しい。

 番組としてはこのセザールのパラリンピック出場が工房のスタッフに希望を与え、彼らが変わったというようになっているが、果たしてこれは本当かな?というのが本音。何かもっと別の理由があったように思われて仕方がない(例えば待遇の問題とか・・)。まあこの方が番組としては間違いなく美しいが。

 

 義足に関するエピソードについては、カンボジアでも活躍している日本人がいる。内戦のあった国に共通して言えるのは、足の不自由な人が極端に多いということだ。これは対人地雷のせいである。対人地雷は踏んだ人間を殺すのではなく、わざと足が吹き飛ぶ程度に破壊力を調整してある。それは踏んだ時点で即死したら一人が戦闘力を失くすだけだが、片足が吹き飛んだ状態になれば、彼を救いに行くための人員も必要になるので、敵方の戦力を大幅に削ぐことが出来るからである。

 この対人地雷が戦争後も放置されて世界各地で問題になっている。この非人道的兵器を禁止しようという動きもあるのだが、これに反対しているのが例によってアメリカである。やっぱりこの国は世界平和への最大の障害のようである。

 内戦などを起こした国にとって一番重要なのは、どうやって国が一体になって再建していくかである。そういう点では、ルワンダは内部に深刻な対立を残したという点でまだまだ前途は多難であるようである。このような国を統治していくには、どの民族からも支持されるような強力なカリスマが必要なのであるが、これは一つ間違うと強力な独裁国家になってしまったりする。私はこの国のことについてはよく知らないので、現状がどうなっているのかは分からないのだが。

 

2/24 プロジェクトX「命のリレー 出動せよ救急救命士」

 緊急患者の運搬に当たる救急隊員。しかし彼らは法律によって医療行為を禁止されていた。心肺停止状態の患者は8分以内に蘇生しないと助かることはほとんどない。また5分をすぎれば重大な後遺症が残ることが多い。しかし救急隊員に許されているのは心臓マッサージなどの応急措置だけ。そのために助かるべき多くの命が失われていた。そんな毎日に、若手隊員・福嶋誠はいたたまれない気持を募らせていた。「このままで良いんですか?」と先輩に問いかけた福嶋に帰ってきた返答は「オレ達は運び屋に徹していれば良いんだ」というものだった。

 現場のやるせなさが伝わってくる。「運び屋」という言葉に隊員たちの自嘲の響きがこもっているのが悲しい。なお心肺停止状態の時は迅速な措置が必要で、アメリカなどでは素人による心臓マッサージも頻繁に行われているようだ。

 

 その頃、東京消防庁の救急課に新しい課長が就任する。消防畑を歩んできた武井勝徳にとってこの人事は不本意なものだった。彼の心の中には救急隊員のことを「運び屋」と蔑む気持もあった。しかし彼のその考えを覆す事件が起こる。娘と一緒に行った海で、娘が事故に遭い救急車で運ばれることになる。「出血を止める手はないのか!」叫ぶ武井に救急隊員は「医療行為はできません。とにかく急ぎます。」と答える。武井は憤る。幸い娘は助かったが、この件で武井は法律に縛られて何も出来ない救急隊員の現状を思い知る。

 その2年後、アメリカに飛んだ武井は現地の救急医療の現状を視察する。彼はアメリカの救急隊員がパラメディック(准医師)と呼ばれており、気管内挿管や血圧上昇剤などの薬剤の投与や電気ショックまで行っていたのを見てショックを受ける。救急車に尊敬をこめて市民が手を振る姿を見た武井は、医師法を改正する必要があると考える。

 日本に帰った武井は医師会と交渉するが、医師たちは「医療は聖域だ」と言って反対する。武井にはなすすべもなかった。

 自分の娘が死にかけた途端、日本の救急の問題点に気づくという身勝手さ(笑)はともかくとして、これだけ積極的な活動を始めるというのは、武井という人物はかなりの切れ者だったのだろうと想像できる。そのような切れ者を救急に配備したのは、上層部の深慮遠謀か、それとも一種の左遷人事か? 昔より切れ者は往々にして組織内では冷遇されることも多いのは事実である。

 それにしても日本医師会って・・・。医師会は単なる医師の利権団体と言える団体だが、その強力すぎる利権主義は種々の批判を受けることが多い。現在自民党の族議員を操って医療制度の改革を阻もうとしているのも、この日本医師会だったりするんだよな・・・。もっとも小泉の方も本気で改革なんてする気はないから、どっちもどっちなんだが。

 

 一刻も早く法律を変える必要があると考え訴え続ける武井と同じ気持ちの医師も現れる。日本医科大学救命センター助教授の山本保博。連日心肺停止患者が運び込まれているのを見ている山本は、ほとんどが手遅れだったり後遺症で社会復帰ができない現状を知っており、これをなんとかしたいと思っていた。彼は法律の変わる日に備えて医療の基本を教えるべく、救急隊員を病院に招く。その中に福嶋の姿もあった。法律で医療器具にさわれないもどかしさの中、福嶋たちは必死でメモをとる。

 しかし法律改正は、医師会の頑なな反対で暗礁に乗り上げていた。ついに武井は非常手段に訴える。彼は救急現場の遅れた現状を雑誌に投稿して世論に訴える。辞表を用意した上での決意である。武井の投稿で消防庁は騒然となり、武井は消防庁総監の中條永吉に呼び出される。クビを覚悟して中條の元を訪れた武井に、中條はこう言う「救急を変えないといけないね。」若き日、救急隊員として2年間努めた中條は、目の前の命を救えない現場の辛さを知っていたのだ。中條は東京消防庁の総力を挙げて救急隊員の医療行為を勝ち取ることを決意する。

 やはり現場を体験している者とそうでない者の差は大きい。医師会は利権まみれでも、現場の医師の中には問題意識を持つ者がいるものである。

 世論に訴えるという大胆な手をとった武井はやっぱり切れ者のように思われる。それにしても公務員としては思い切った方法である。どんな組織でも内部告発というのは大変なものだが、特に公務員は何かと制約が多い。また日本の組織ではこのような組織の輪を乱す輩は嫌われるので、次の就職も難しくなりがちである。それでも決断できたのは、ある程度自分に自信のあった証拠。

 この彼の決意にトップが答える。このトップもまた現場を知っていたのが大きいだろう。これがただ単に事務屋一筋で来たような人物だったら、これだけ敏感で大胆な反応はしなかったろう。そしてトップが本気になったら組織は動くものなのである。

 

 平成2年4月、中條は取材陣の前で記者会見を行い、心肺停止患者の社会復帰率の低さ、在宅医療患者を運べない実態などの情報公開を行い、救急隊の遅れた現状に目を向けるように訴える。これを受けて各マスコミで特集報道が始まる。また医師の山本も国会議員に「救急医療は救急の現場から始めるべきだ」と訴える。ついに平成3年4月、救急救命司法が成立する。国家資格を得たものに医療行為の一部を認める法律だった。

 福嶋は必死の猛勉強をして見事に救急救命士の資格を得る。その一ヶ月後、福嶋の元に通報が入る。なんと病院からの通報だった。内科医を訪れた患者が倒れ、心肺停止状態になったが、医院では設備がなく処置が出来ないとのことだった。現場に急行した福嶋は患者の容態が切迫しているのを感じた。福嶋は緊張しながら初めての電気ショックを行う。そして二度目の電気ショックで心臓の鼓動が復活。その後、病院に運ばれて緊急手術を受けた患者は、無事に退院して職場に復帰する。福嶋にとっては何よりもの朗報だった。

 世論が動けば政治家も動く。この時のキャンペーンは私も記憶にあるが、各新聞がこの問題を大々的に取り上げていた。こうなれば医師会とて反対し続けるのは難しかろう。

 ところで今回の主役として武井が選ばれたのは当然のこととして分かるのだが、福嶋隊員については何か特別のことはあったのだろうか? 救急救命士の第一期生は彼以外にも多くいたはずなんだが、彼が選ばれた理由だけがよく理解できなかったのだが・・・。

 

2/17 プロジェクトX「われら茨の道を行く 〜国産乗用車 攻防戦〜」

 今や世界企業となったトヨタ。そのトヨタもかつては倒産の危機に瀕したことがあった。そこからいかにして立ち上がったのかという物語である。

 昭和22年、廃墟の中でトラックを製造していたトヨタ。その工場に一人の技術者がいた。中村健也、彼は豊田喜一郎社長が以前に言った「国産乗用車を開発する」という言葉にひかれてトヨタに入社した。しかし会社には一向にその様子がない。そこで彼は乗用車開発のプロジェクトを立ち上げる建議書を提出する。予算25億円の会社の利益60年分の費用をかけた計画である。みんな呆れかえって、誰も相手にしなかった。しかし彼の計画に目をつけた者がいた。それは豊田喜一郎社長だった。「自分と同じ考えの者がいる。」喜一郎は銀行から借金して機械を導入、中村を中心にすえて乗用車開発のプロジェクトが立ち上がる。

 しかしそんなプロジェクトはいきなりの危機を迎える。昭和24年、GHQの金融引き締め策により、銀行が資金供給を停止したのだ。トヨタは資金が干上がって倒産の危機を迎える。トヨタでは従業員の給料が払えない事態になり、激しい労働争議が起こる。その時に組合の闘争委員長として戦ったのが長谷川龍雄。彼は元戦闘機技術者で自動車業界に転身したが、あまりの技術の低さにやる気をなくしていた。長谷川らの争議により、ストライキも勃発。結局トヨタは、1600人の人員削減の代わりに社長退任という結果となる。乗用車開発どころではなくなった。

 豊田喜一郎社長がトヨタ自動車を設立し、国産初の自動車を製造するいきさつは、実は以前に「その時、歴史が動いた」で放送されている(当時私は「まるでプロジェクトXのような内容だ」とコメントしている)。今回はそのエピソードの後編のような雰囲気がある。

 どうやらこの喜一郎社長も夢に賭けるタイプだったらしく、それが中村の信念と共鳴したのだろう。もっとも夢に賭けるにはあまりに時代が悪かったようである。なおこの時トヨタが銀行に冷たくあしらわれた(「機織り屋に貸す金はあっても、車屋に貸す金はない」と言われたというエピソードがある。トヨタの前身がトヨタ織機という機織り機製造メーカーだったことから来ているようだが。)ことで、トヨタ上層部にとって銀行に対する不信感が強く植え付けられたようで、現在「トヨタ銀行」と呼ばれるぐらい自己資本を確保して銀行に頼らない経営を行っているのはこの時の苦い教訓によるという。

 

 しかしその後朝鮮戦争が勃発、日本中が特需ブームに沸き、トヨタにもアメリカから軍用トラックの発注が来る。「これで倒産を免れた。」。この時、中村も動き始める。今のうちに乗用車プロジェクトを立ち上げるしかない。しかしその時、フォードからの業務提携申し入れという思いがけない事態が発生する。当時、日本の自動車メーカー各社にアメリカのメーカーから触手が伸びていた。トヨタは決断を迫られた。ある日、常務の豊田英二が中村の元を訪れ、フォードとの提携と自主開発の茨の道のどちらを選ぶべきかを中村に問う。母の言葉「何事も諦めてはいけません」を思い出した中村は、あえて茨の道を進むことを選択する。こうしてトヨタでは独自の乗用車開発のプロジェクトが立ち上がり、中村は全権責任を追う主査に任命される。

 朝鮮特需に遭遇したのはトヨタにとって幸運だった。実際、あれのおかげで助かった企業は日本に多くある。なおトヨタはあえて茨の道を選んだのだが、これが未だにトヨタの自社開発路線の基本になっているようだ。

 

 昭和27年3月、中村は設計仕様を発表する。タクシー会社を回って情報を集め、アメリカ車に対抗できるにはどれだけの性能が必要であるかを把握していた中村は、アメリカ車に対抗できる乗用車を制作する目標を立てる。部品総数2万点にも及ぶ壮大な設計であった。しかしあまりに高い目標に、スタッフがみんな無理だと反対する。しかし中村は言う「ここで退いたら国産車に未来はない。技術は絶対に妥協しない。」彼は組み立てスピードを上げるために、スポット溶接機を導入する。

 9ヶ月後足回りだけの試作車が完成、試験走行が開始される。しかし30分後、帰ってきた試作車はサスペンションのコイルバネは割れ、骨格の溶接ははがれた散々な状態だった。その時、日銀総裁のとんでもない言葉が飛び込んでくる。「国力のない日本に乗用車は無理だ。アメリカから買えばよい。」吹き付ける逆風の中プロジェクトは暗礁に乗り上げる。

 お決まりのパターンの「技術開発に立ちはだかる壁」というやつである。一見無謀と思える目標を掲げた中村だが、確かにここで品質に妥協していたら、もし開発に成功したとしても販路は開けなかったであろう。

 

 昭和28年2月、テストの度にバネは破損し、溶接ははがれ続けた。スタッフの一人・長谷川達雄は設計の変更を中村に迫るが、中村はそれを拒絶する。一方ボディのプレス現場も難航していた。流線型のボディは鉄板が割れてばかりでうまく行かなかった。担当の藤井義裕は中村に相談するが「自分の頭で考えろ」と一喝される。しかし中村は深夜一人でプレスの専門書を読んでいた。彼は部下の独創性を殺さないためにあえて部下に具体的な指示は与えなかったのだった。数日後、藤井は中村に「鉄板を見直そう。鉄鋼メーカーに交渉する。」と言われる。二人で尋ねた鉄鋼メーカーの会議で、中村は具体的な材料を示してメーカーに説明を始める。その姿に藤井はしびれる。中村はスタッフに言った「開発は夜行列車の運転と同じだ。先が見えなくても度胸で走り続けろ。」それを聞いたスタッフの顔つきが変わる。バネ担当の守谷茂は訪ねたバネメーカーで見た小さな球をコイルにぶつけて強度を上げる方法を見、その方法を採用する。また長谷川ははがれた溶接の問題に取り組んだ。スポット溶接がはがれた原因は、重ね合わせた鉄板がずれることだった。原因を調べた彼は、鉄板を切り出す型紙に使用していたベニヤ板が湿気で歪んでいたことを発見する。彼はアメリカの航空機メーカーが使うポリエステルフィルムに目をつけ、商社に頼み込んで買い付ける。これで溶接の精度が格段に上がり、試作車の溶接がはがれなくなる。一方プレス担当の藤井は、力を分散させるために鉄板に油を塗って、流線型のボディのプレスを成功させる。こうして昭和30年1月クラウンが完成する。

 中村は数万冊の蔵書を持ち、機械だけでなく材料工学その他のありとあらゆる知識に通じていたという。ここまで来ると伝説の技術者を通り越して、ほとんど化け物と言って良いだろう。リーダーにここまですごい姿を見せられたら、部下としても奮い立たざるを得ないだろう。「しびれた」という表現がすべてを表していた。今、部下をしびれさせられることの出来る上司なんて、果たして何人いることやら。少なくとも私は残念ながら今まで一人もそんな人に出会ったことはない。

 また彼は逐一細かい指示を出すのではなく、なるべく部下に考えさせるようにしていたというのが、部下の育て方をよく知っている。しかもそのまま放置するのではなく、キチンとフォローを入れている(またそれを出来るだけの知識を持っているのが驚異)というのは指導者としても完璧な態度である。こういう部署では人材が育っていく。

 

 これから待ちかまえているのは外国車との戦いだった。その時、新聞社からある企画を持ちかけられる。それは5万キロ離れたロンドンから東京まで走るというものだった。中村はこの企画に打って出る。昭和31年4月30日、クラウンがロンドンを出発する。でこぼこ道、アルプスの雪、砂漠の猛暑、クラウンはすべてを走り抜けた。そしてその姿は日本人に国産技術に対する誇りを甦らせる。そして8ヶ月後、クラウンは見事にゴールインした。

 国産車のプライドを賭けての大勝負。これがなかなかドラマチックです。なおこのクラウンの成功を受けて、「誰でも買える自動車を」と開発を始められたのが「テントウ虫」になるわけですが、これは別の回でありましたね。 

 

 伝説を通り越してほとんど化け物ではないかと思われる中村健也氏に唖然とさせられる。80歳を過ぎても大型コンピュータを使って設計をしていたというのだから、信じがたい人物である。技術者なら誰でもこういう人物に憧れるが、とても自分がなれるものではない。ただ、彼はハッピーな結果を迎えたが、彼に劣らないような力量がありながら、ハッピーな結果を迎えられなかった技術者というのも実は多くいる。技術者の能力には運も含まれるのである。

 ところで彼のセリフとして「開発は夜行列車の運転と同じだ。先が見えなくても度胸で走り続けろ。」というものがあったが、夜行列車は度胸だけで走ってはいけないと思うのだが(笑)。

 

2/10 プロジェクトX「ゆけチャンピイ 奇跡の犬 〜日本初の盲導犬・愛の物語」

 盲人の目として今や欠かせない存在になりつつある盲導犬。今回は日本で初めて盲導犬の育成に挑戦した人の物語である。

 昭和23年、技術者でありながら倒産と結核で未来を閉ざされ、犬の調教師として生活していた塩谷賢一。しかし彼は「飽きた」という理由で犬を次々と買い換える金持ちを見ながら、彼らの道楽につき合って生活している自分が空しくなった。そんな彼はある日、欧米で活躍している盲導犬の存在を知った。当時の日本には盲導犬はおらず、新聞の記事などでも「犬なんか信用できない、妻が手を引け」というものだった。「やってやろう」そう思った塩谷は目隠しをして、愛犬のアスターと共に街に出る。しかしどぶには落ちる、電柱にはぶつかると散々な状態で、彼は闇の世界の恐怖を知る。

 昭和23年頃といえば、確かに日本においては盲導犬など全く存在しなかった。また町中も今のように点字ブロックなどがあるわけでもなく、いわゆる身体障害者に対する配慮など皆無と言って良い状態であったから、盲人の一人歩きなどほぼ不可能だったろう。そんな中で「無理だ」と言われた盲導犬の調教に挑戦するという塩谷は、やはり技術者の精神を持っていたと思われる。技術者というのは「無理だ」と言われれば、なんとかしたくなる性分を持っているものだから。

 

 そんな塩谷の元に、自分の犬を盲導犬に育てて欲しいという一通の手紙が来る。手紙の主は河合洌だった。彼は18歳の大学生の時に失明し、大学を辞めて失意の日々を送っていた。再び一人で表を歩きたいとの思いで塩谷の元に連絡を取ったのだ。彼は一頭の耳の垂れたシェパード・チャンピイを塩谷に託す。

 河合はいわゆる「中途失明者」であるが、この中途失明者が一番悲惨であるのは良く知られている。彼らは生まれつきや幼くして失明した者と違って、視覚の全くない状態というものに適応できていないので、生まれつきの盲人などと違って感覚が極めてぎこちない(生まれつきの盲人は視覚の欠損を補うように他の感覚が鋭敏になる)。だからこの番組にも出てくるように、盲学校の教師になった彼が、生徒を引率すると言うよりもむしろ生徒に引率されている状態になってしまうのである。

 

 塩谷の調教が始まった。しかしチャンピイはとんでもない犬だった。ハーネスは嫌がる、命令は聞かない、挙げ句の果ては他の犬とケンカして勝ってしまう。塩谷は無理矢理にチャンピイを躾る。チャンピイは渋々ながらも塩谷の命令に従うようになる。しかし試験のために街に出た時だった。道路の横断、塩谷はGoの命令を出す。チャンピイが歩き始める。しかしそこに車が来て塩谷はあわや事故に遭いそうになる。その時、塩谷はハッと気づいた。盲導犬は命令に従うだけではいけない。自分で判断して、時には命令に逆らう必要もあるんだ。あまりの難題に塩谷は頭を抱える。しかも持病の結核が悪化、塩谷は寝込んでしまうことになる。

 この「賢い不服従」というのが盲導犬の調教でもっとも難しいところ。なおこのとんでもなくケンカ早かったチャンピイも最後はなんとか盲導犬になったが、やはりどうしても盲導犬に対しての適性がない犬というのもいるとのことで、現在ではある程度の年齢になった時点でそのふるい分けをしているようである。

 

 挫折しかけた塩谷の元を盲学校の教師・大内三良が訪れる。「あなたは日本にいる七万人の盲人に希望を与えている。私にもいつか盲導犬を与えてください。」塩谷は胸が熱くなり、再び訓練を開始する。しかしそのことで彼の身体を心配する妻との間でケンカになる。その二人のケンカをなんとか止めさそうと、近所に住む塩谷の父を連れてきたのが愛犬のアスターだった。あまりのことに唖然としながらも、アスターを誉める妻を見て、塩谷は気づく「俺は本気でチャンピイを誉めたことがあっただろうか。」それから塩谷のチャンピイに対する調教の方法が変わる。彼はチャンピイと一緒に寝起きし、何か指示に従うたびにチャンピイを誉めた。チャンピイはケンカをしなくなり、塩谷の指示にも自ら従うようになる。

 夫婦喧嘩を止めるためにアスターが塩谷の父を呼んできたというのは驚き。犬ってそこまで利口だったとは。なおチャンピイを誉めるようにしたことでチャンピイがみるみる変わっていったようであるが、怒ることよりも誉めることで育てるというのは人も同じである。中にはガツンと言ってやることで逆に育つ者もいるが、ガツンと言われることで逆につぶれてしまう者も多い。特に最近の若者はその傾向が顕著であるという。なおチャンピイがみるみる更正(笑)して言ったところをみると、チャンピイのケンカ早くて落ち着きがない性格というのは、幼児期の躾を失敗していたのではというように感じる。チャンピイは以前に河合が盲導犬として躾ようとして失敗しているというような話がチラリと出ているところからみて、その時の訓練(どのようにしたのかは分からないが)が誤っていたのだろう。チャンピイが盲導犬になっていく過程は、グレて不良になっていた若者が、自分のことを真に思ってくれる相手に出会うことで、社会的に更正していく過程のようにも見える(笑)。チャンピイは、更正してボランティアとして社会に尽くしている元珍走団員のようなものか(笑)。

 

 運命の日が来た。昭和32年8月15日、河合を呼び出した塩谷は、彼にチャンピイと郵便局まで行ってきて欲しいと頼む。そのコースはかつて河合が大学まで通った道だが、障害物の多さのために一人で歩くことを諦めた道だった。緊張する河合、しかしチャンピイは数々の関門をくぐり抜ける。そして最大の難関の道路の横断。Goのサインを出す河合、しかしチャンピイはそれを聞かずに車の流れを見守っている。車の流れが途切れた瞬間を見計らってチャンピイが歩き始める。1時間後、河合が1円切手20枚を手に帰ってきた。日本初の盲導犬が誕生した瞬間だった。

 日本初の盲導犬誕生の感動的な瞬間である。なお盲導犬の訓練のためには、最終段階においては盲人の側の訓練も必要だという。まず盲人と盲導犬が信頼関係で結びついていることが重要だし、盲導犬に対する指示の出し方などの訓練も必要である(言葉の違いによる犬の混乱を防ぐために、盲導犬に対する指示は英語にしているという。日本語だと「行け」「行って」「行きなさい」「行ってちょうだい」など人によって言葉が様々なので「Go」らしい。)。

 

 盲導犬誕生の感動的物語である(落涙ものだ)。これをきっかけに日本でも多くの盲導犬が訓練されるようになったようだが、実際のところはまだまだ絶対数が圧倒的に足りないとのことである(犬もさることながら、訓練士の数が足りない)。盲導犬の訓練のための募金なども集めているようであるので、共感する方は協力してあげてくださいと、最後は公共広告機構のようなメッセージを残しておきます。

 

2/3 プロジェクトX「海の革命エンジン 嵐の出漁」

 今回のテーマは船のエンジンである「船外機」の開発物語。それにしてもドンドンとネタがマイナーになっていく。

 浅間でのレースを制し、バイクで日本一になったヤマハ。次なる市場として狙ったのは船舶用の船外機であった。しかし開発は難航した。塩水でエンジンは錆び、エンジンは焼け付いて金属が熔けた。いつまでも開発はうまくいかず、船外機の部署は赤字だけが重なり「損害機」と揶揄されていた。その赤字部署に新しいリーダーとして赴任してきた男がいた。安川力、あの浅間のレースでのエンジンを設計した男だった。

 またも「敗戦によって未来を閉ざされた航空技術者」の登場なんですよね。一体何人目でしょう。ホントに戦時中の日本は航空機開発に相当に力を入れていたのがよく分かる。だから確かに、大戦中の日本の航空機の設計はかなり先進的だったようです。もっとも大戦が進むにつれて、生産力の方がガタガタになってしまったので、その設計を生かすことが出来なかったのですが。

 

 しかし当の安川はやる気を失くしていた。エンジニアとして社外にまで名前が知れ渡っていた安川にとっては、船外機の開発は不本意だった。会社を辞めようと思っていた安川。しかしある日、安川は社長の川崎に呼び出された。川崎は手こぎの舟で沿岸漁業だけを行っているアジアの漁業の現状を説明し、「一流の船外機を作れば革命を起こせる」と安川に告げる。これで安川は本気になる。

 目標は連続500時間の耐久性。開発チームは新型のベアリングの開発や新たな機械油循環システムの開発などで、その目標を達成した。こうして船外機は営業担当者達に託されることとなった。

 ここまでで開発ストーリーの8割は終了、後は営業ストーリーになると言うのが、今回の趣向がやや異なるところ。いくら商品が良くできていても、営業が駄目では売れませんから。

 

 スリランカの市場を担当したのは、綱本貫一だった。スリランカではオルーという手こぎの舟を使って、沿岸での漁業がなされている。船外機をつければ小舟でも沖合に漁に出れると説明する綱本。しかし漁師達は「舟は神の贈り物。傷つけると沈む。」と言って反対する。その時駆けつけたのが、現地営業マンのスリランカ人、パトリック・ピーリスだった。日本で働いた経験のある彼は、貧しい祖国のために役に立ちたいと思っていた。彼は浜に漁師を集めて、その目の前で舟の後部を切断、船外機を取り付ける。罰が当たって戻ってこれないぞという漁民達の前に、彼は沖合の魚を捕まえて現れる。それを見て手を挙げたのは、義理の弟を嵐で亡くしたウェナドゥ・ダナシリ。それがスリランカでの営業の第一歩となる。

 現地での迷信との戦い。ただ舟を傷つけると沈むというのは、一概に迷信とは言いにくい部分がある。嵐の中に出ていく舟は、確かに小さな傷一つでも致命傷になりかねないから、舟を大事にするというのは当然の生活の知恵だったのだろうと思われる。こういう時には、やはりよそ者よりも現地民が説得するのが一番というのはセオリー。どこの国においても「実演販売」というのが一番強いようで。

 

 一方、南米ブラジルのアマゾンでの営業活動を展開していたのは、北添政雄だった。しかし彼は川に出て驚く、川には流木が流れており、エンジンがそれにぶつかって跳ねた。そしてさらに大きな流木にぶつかった時、エンジンがはずれて沈んだ。ブラケットが真っ二つに割れていた。もし沖合でエンジンがはずれると、人命にも関わる。深刻な事態だった。

 安川はこの対策を、かつてトヨタ2000GTの製造の時の部下の廣野淳三に託す。彼は散々苦労した挙げ句、衝撃を吸収するタイプの2段ロック構造のジョイントを開発する。

 営業が汲み上げてきた問題が、開発現場にフィードバックされるという典型例。これが出来ないメーカーは、顧客のニーズと全くかけ離れた世界に行ってしまい、やがては駄目になってしまいます。ところでマイクロソフトとかは、顧客のニーズをまともに聞いているんだろうか。

 

 一方、スリランカの綱本は難問に直面していた。現地の漁民が魚が捕れないと苦情を言っていたのだ。。彼らは沖合10キロで投網漁を行っていた。これは技術開発ではどうにもならない問題だった。この問題を聞いた本社の営業宣伝担当の清水馨は、ライターの山内影樹とカメラマンの添畑薫を全国の漁港に送り込んだ。彼らに日本の漁を取材させて、その漁法をスリランカに持ち込むことを考えたのだ。彼らのまとめた記事を清水は新聞にまとめて綱本に送った。スリランカの各地でその記事を元にして、日本の漁法を学ぶ勉強会が開催された。日本の漁法を取り入れた彼らの漁獲量は10倍になる。その中には大きなマナガツオを掲げるウェナドゥ・ダナシリの姿もあった。

その後、船外機の注文が殺到。昭和56年、海外出荷台数100万台を超えた。

 売りっぱなしではなくて、キチンとアフターサポートをするというのも大切なこと。ちなみに日本企業が成功したのは、この部分がしっかりしていたからでもあります。アメリカのメーカーなんて、売りっぱなしで後は放ったらかしのところが意外と多いからな・・・。

 

 開発もの半分、営業もの半分といった配分。どちらか一つだと弱いので組み合わさせたという印象。ただネタ的にはあまりにマイナーにすぎるので、日経ビジネス的な観点では面白いんだろうが、一般的には地味という印象を拭えない。やっぱりネタ的にキツイのが正直なところでは。

 

1/27 プロジェクトX「撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ」

 1985年、イランイラク戦争の最中、しかしイランの首都テヘランには商社マンなど450人を超える日本人が滞在していた。しかしついにテヘランへのイラクの空爆が開始され、現地の日本人に危機が迫る。現地の日本人学校の教師として赴任していた縣直樹らの日本人はテヘラン脱出の必要に迫られることになる。

 しかし彼らの日本脱出には大きな障害があった。イランには日本の航空会社は乗り入れておらず、ヨーロッパの航空会社は自国民の避難を優先した。脱出のために座席を取ろうとした日本人達は、あちこちで搭乗を拒否された。幼い子供と臨月の妻を抱えた縣も散々苦労した挙げ句に、4日後のソビエト航空のチケットを手に入れる。やっとイランを脱出できるととホッとした縣の元に信じられない情報が届く。イラクのフセインがイランの領空を飛行する民間機を撃墜すると予告したのだ。その期限は2日後、このままでは撃墜される恐れがあった。

 日本人が脱出できない。イランに派遣されていた大使の野村豊は、日本政府に特別機を派遣することを要請する。しかし日本からの返答は「イラン・イラク両国の安全の保証がなければ派遣できない」というものであった。イラクのフセインから安全の保証を取り付けるなど現実的には不可能である。事実上の拒否解答だった。

 こういう辺りに、日本が危機に対していかに対応が鈍いかということが現れている。この時でも日本の政治家は、在留邦人をいかに救い出すかといったことよりも、いかにしてこれを口実にして自衛隊の海外派兵の先例にするかを画策しており、その結果として在留邦人に対しては事実上の無視を決め込んでしまった。この辺りは今でも変わっていない。それにしても「イラクから安全の保証を取り付けろ」なんてアホなことを言い出すのは、いかにも官僚的。

 

 このままでは日本人は取り残される。野村は以前より家族ぐるみのつき合いをしていた在イラントルコ大使のイスメット・ビルセルに、日本人を救える手はないかと相談する。ここでビルメルは本国に信じられない電報を打った。それは「日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか」というものだった。その報を受けたのはトルコの首相のトルグト・オザルだった。彼は日本人のためにトルコ人を危険にさらしても良いのかと苦悩する。そんなオザルに伊藤忠のトルコ駐在員の森永堯が「飛行機を飛ばしてもらえないか」との電話をかける。彼は以前にトルコでの工業技術導入の際にオザルと関わりを持っていた。彼はどうしても仲間を助けたかった。オザルは悩んだ末に決断する。

 外交でも何でも、結局最後は「人と人との信頼」に尽きる。このトルコの異例とも言える対応も、突き詰めていったら個人ベースの友情などに根ざしている(政治家レベルでの計算が全くなかったかといえばそれは疑問でもあるが)。なんだかんだ言ってもその国に対する信頼というものは、実はその国の元首や外交官の信頼だったりするのである。そういう点では今の日本の元首は最悪である。ちなみに小泉総理なら、韓国辺りが「自国民を助けるために日本の特別機を派遣してくれ」と言ってきた場合に派遣を決断するだろうか? 甚だ疑問だ。

 

 トルコ航空の特別機が派遣されることとなった。機長はパイロット歴36年、空軍上がりのベテランのアリ・オズデミル。彼は重要な使命に奮い立つ。彼はイラクを避けて北に迂回しつつテヘランに向かうルートを決定する。

 その頃、イランの日本大使館では在留邦人への連絡に奔走していた。しかし避難先が分からず連絡のつかない者が大勢いた。このままでは避難がさせられない。大使館員達は空襲の危険のある夜のテヘラン町中に飛び出していく。

 翌日、日本人達が空港に集まってくる。しかしここになってトルコ航空の特別機の離陸が遅れていた。イランからの運行許可が下りていなかったのだ。野村は空襲警報が鳴り響くテヘラン市街をイラン外務省まで車を飛ばす。彼は顔見知りの幹部を捕まえると「すぐこの場で運行許可を出してくれ」と迫る。1時間後に運行許可が下りる。アリは直ちに特別機を離陸させる。

 特別機はようやくイランに到着、乗客も搭乗し、給油も完了、いよいよ離陸をすることになる。しかしフセインが攻撃予告をしている時間まで4時間を割っていた。しかもイラク空軍が近くに迫っていた。緊張のフライト。しかし彼らは無事にトルコにたどり着く。

 この番組にはいつも、困難な任務に直面すると「意気に感じる」暑苦しい男ばかりが登場するが(笑)、このパイロットもそのタイプだったようだ。またイランの日本大使館員も在留邦人を救出するために必死で活動していたらしいことは感動的。あの9・11の時には日本総領事館が在留邦人の保護のための活動を一切しなかったと批判されたが、やはり同じ外務省役人でも、政治家の観光接待のためにニューヨークにいる連中と、戦時下のイランなどといった困難な地域で頑張っている連中とでは質が違ったか。

 なおこの後のエピソードとして、トルコが大地震に見舞われた際に、この時に救出されたメンバーが中心となって募金を呼びかけたという美しいエピソードが登場するが、国と国との友好なんてものも最終的にはこういう草の根レベルでの交流が元になるということである。それにしても日本は、トルコにここまでお世話になっておきながら、ソープランドのことをトルコ風呂と呼んでいたりなどと、かなり失礼なことをしていたんだな。日本にとっては未だにトルコは遠い外国というイメージがある。

 

 イラク絡みということで「タイムリー」なネタなのかもしれないが、実際に動いたのがトルコ人というのがつらいところ。日本の外務省がその役立たずぶりを遺憾なく発揮していた。日本の組織はどんな組織でも大体言えるのが、現場には人材はいても中央に人材はいないということである。

 

1/20 プロジェクトX「日米ブルドーザー対決」

 やはりこの番組で一番盛り上がるのは「開発もの」。というわけで、今回は久々の開発ものである。

 昭和20年、瓦礫の中の日本で小松製作所の設計技術者・山本房生は生き方を見いだせずにいた。戦前にトラクターで成長した同社は、戦後1万人を解雇。山本は解雇を免れたものの将来は見えなかった。しかしかつての土木技術者仲間に会った山本は「これからは道路やダムが必要になる」との発言で、ブルドーザーを造ることを思いつく。

 しかし戦前に軍のために試作したブルドーザーの図面は、GHQを恐れて焼き捨てられていた。悩む山本。しかし部下の西沢集がとんでもないことを言う。実は彼は密かに図面を地面に埋めていたのだ。掘り返した図面を元に、昭和22年日本初のブルドーザーの生産が始まる。

 西沢は図面を焼き捨てるに忍びなかったのだろう。技術者としては実によく分かる心境である。

 小松が製作したブルドーザーが各地で活躍、日本で重機産業が育ち始めた矢先の昭和36年、小松社内を激震が駆け抜ける。政府が建設機械の輸入自由化を発表したのだ。これを受けて世界のブルドーザー市場の6割のシェアを持つキャタピラーが日本参入の名乗りを上げた。まるで蟻と象の戦いである。このままでは小松は吹き飛ぶ。小松社内は臨戦態勢となり、輸入解禁の3年後をメドに輸入品に対抗できるトラクターを製造する丸A対策が実行されることとなった。技術部長として指揮を執ることになった山本は、キャタピラー社のブルドーザーの分解調査を命じる。部品の強度を測って驚く。キャタピラー社の部品の強度は5000時間、小松のものの数倍だった。小松の技術は10年は遅れていた。

 自社の技術の遅れは分かった。しかしどこから手をつけて良いのかが全く分からなかった。その時に膨大な資料を送ってきた人物がいた。サービス課の河合正二だった。ブルドーザーの修理に全国を駆け回っていた河合は「修理の神様」と呼ばれていた。彼が送ってきた交換部品の記録によって、改良の必要な部品が明らかになった。最大の問題はエンジンのパワーを伝える歯車だった。ここの耐久力を5倍にする必要があった。

 これに名乗りを上げたのは、焼き入れ担当の信枝潤吉郎だった。彼は今までの一歯ごとの焼き入れから一括焼き入れに切り替えることを提案する。しかしそのための機械には社員1000人の給料分の費用が必要だった。尻込みする役員の中で装置の導入を決断したのは山本だった。こうして作り上げた一括焼き入れのシステムによって歯車の強度は向上。輸入自由化の直前に新型ブルドーザーが完成する。

 お約束の「熱い技術者達の物語」である。しかしここで彼らをサポートしたのが、現場一筋の河合だったというのがなかなか泣かせる。なんだかんだといっても技術者は現場のことはなかなか分からないので、現場からのフィードバックというのは非常に重要なのである。特にこの頃には「技術部長」なんてお偉いさんなっていた山本は、プロジェクトの指揮はとれても現場からは離れていただろうから、こういう人材の協力は重要だったろう。

 なお歯車の一括焼き入れに関しては、明らかに大博打である。こんな博打を打てたのは「どうせこのままなら座して死を待つだけである」という追いつめられた状況が影響していたのは間違いない。もしもう少し会社に余裕があれば、概して日本の企業はこういう大博打には打って出ない。

 ここで社長がとんでもないことを言い出す。「国内市場を死守しても駄目だ。アメリカに逆上陸をする。」山本は思う「望むところだ。」 こうして小松のブルドーザー18台がアメリカの現場に投入される。しかしそのブルドーザーはすべて異常な騒音を発して停止するというトラブルに遭遇する。最悪の回収騒ぎとなり、小松の信用は失墜した。

 この危機に投入されたのが、修理の神様・河合正二だった。現地でトラブルを起こしたブルドーザーを検査した河合は、歯車の軸受けのローラーベアリングが破損しているのを発見する。歯車の強度不足という最悪の事態ではなかった。早速改良されたベアリングが届き、18台すべてが息を吹き返す。

 その月、ロサンゼルスが大降雨により河川が氾濫、死傷者200人以上の大災害が発生する。この非常事態に州政府は建設機械の出動を要請。小松にも声がかかる。名誉回復のチャンスとして、既に定年を迎えていた河合はトレーラー一杯の補修部品と共に現場に駆けつける。この現場で小松のブルドーザーはキャタピラー製のブルドーザーと共に作業を完遂。小松のブルドーザーはこれで名を挙げ、アメリカからの注文が殺到する。

 アメリカへの逆上陸。社長の英断と言うべきか暴走と言うべきか。結果論では英断になるのだが、この当時の判断としては微妙なところである。よほど新型ブルドーザーの性能に自信があったということで、番組では社長の決断ということになっているが、実際は山本辺りのかなり強力なプッシュがあったことは想像に難くない。

 そしてここで大活躍するのが、修理の神様・河合正二。結局はこういう現場を良く知っている人物が一番重要であるということである。かつて日本のメーカーが強かったのは、こういうプロが多く現場に存在したからである。現在、リストラと称してこういう現場のプロが次々といなくなっているので、これはいずれは日本のメーカーの衰退につながるだろう。なおこの河合正二はこの後、10年間に渡って世界を駆け回ったというのだから驚く次第である。

 

 久々の「開発もの」で、物作りの現場の熱さを伝えてくれるエピソードである。なお青雲の志を抱いて日本製のブルドーザーを作り上げた山本と、生涯現場で頑張り続けた河合のどちらにより共感をするかで、あなたの技術者としての志向も分かるという次第である(笑)。いわゆる「エリート技術者」と「現場の叩き上げ」の対比の妙という奴か。

 

1/13 プロジェクトX「100万ボルト送電線 決死の空中戦に挑む」 

 この番組は「無名の人々に光を当てる」ということをテーマにしているが、今回は100万ボルトの送電線工事に従事した人達という、極めつけに「無名の人々」が主人公である。それにしてもこの番組も明らかにネタがなくなりつつあるが、あまりにネタ切れではないだろうか。

 年々電力需要が増加し続ける東京。そして昭和62年7月ある夏の暑い日、ついに大停電が発生する。完全に麻痺する都市インフラ、批判の集中した東京電力は、新潟から関東まで送電線を引く計画を立てる。世界最大規模の100万ボルトの送電線建設計画。鉄塔の高さ130メートル(ビル50階)。昭和63年10月鉄塔工事開始、平成3年4月いよいよ架線工事開始が開始された。

 この架線工事を担当したのは架線電工(架線上で工事をする職人)の田中登。かつて地方で電気工事に従事していた彼は、人々に電気を届ける仕事に賭けていた。さらに彼には一つの思いがあった。それは若手に技術を継承したいとの思いだ。そこで彼はチームに若手の川崎学を渡辺一仁を起用する。

 しかしその彼らが失敗をしでかす。130メートルの鉄塔を力任せに登って握力の低下した川崎、ヘリから受け取った電線をすっぽ抜かしてしまう。自由になった電線は暴れ回り、絶縁用の碍子を叩き割る。また渡辺は資材運搬用の滑車を忘れ、工事を半日停止させてしまう。ベテラン陣は彼らを工事からはずすように抗議する。

 宿舎に残って酒を食らっている川崎。「このままでは彼らがつぶれてしまう」思案した田中は、ベテラン職人の三浦三代吉を彼らの師匠としてつける。三浦のゆっくりとしているが着実で休みない動きに感嘆する川崎達。やがて彼らの動きも三浦とそっくりになる。

 どんな現場でも「若手への技術の継承」というのは課題である。3K職場と言われて若者に敬遠されていた職場にやって来た若者を、是非とも育てたいという思いは非常によく分かる。ただ、全体の作業効率を落とさないように新人を教育するというのは、どんな現場でもなかなか難しい課題なのである。よきリーダーとはその辺りがうまいものだ。

 

 工事を続ける田中達。しかしその前にこの工事の最大の難所、標高2000メートルの御座山が立ちふさがる。鉄塔の足下は40度の急斜面、この足場の悪さでは資材の引き上げに時間がかかる。特に5トンにもなる碍子の引き上げには1日かかってしまう。だが天候の変わりやすい山の中、モタモタしていて天候が急変すれば大事故につながる。決断を出来ない田中。そのとき班長が碍子を半分ずつ引き上げることを提案する。しかしこの場合、空中で宙づりの状態での接続作業が必要だ。この作業を川崎が買って出る。ベテラン齋藤太一に命綱を託し、空中に飛び出す川崎。20分をかけて碍子の接続に成功する。

 次に残った難工事はスペーサーの取り付けだ。これには新開発された自走式機械が投入され川崎が工事に従事する。しかし西の空を見た田中が青ざめる。西の空に入道雲が沸き上がっていた。まもなく嵐がやってくる。その時すぐに鉄塔を登り始めたのは三浦。彼は送電線の上を歩いて川崎の元に駆けつけ、二人がかりでスペーサーの取り付けを間に合わせる。こうして平成5年10月通電が開始される。

 こうして名もない職人達の活躍によって巨大プロジェクトはなされたということである。

 

 無名の人々に脚光を当てるのは結構なんだが、やはり内容が地味すぎるように感じられた。担当した職人達の命を賭けた作業の凄さは感じるのだが、どうしても番組としては、この番組特有の「過剰気味な演出」を加えてさえ、盛り上がりに欠けてしまうことは否定できない。やっぱりいわゆる「技術開発もの」が内容としては一番盛り上がるんだろうが、既にその分野のネタは尽きてきているんじゃないだろうか。NHKとしてもまさかこの番組がこんなに長寿になるとは思っていなかったのだろう。今ならもしかすると、NHKに直接に「テーマの候補」を推薦したら採用されることもあるかも(笑)。

 

5/27 プロジェクトX「衝撃のカミオカンデ 地下1000メートルの闘い」

 今回はノーベル賞を受賞した小柴昌俊氏のカミオカンデのプロジェクトの物語である。

 

 東大で素粒子物理を研究していた小柴、しかし欧米に比べて基礎研究に対して冷淡な日本では必要な研究設備が整っていなかった。しかし小柴の頭の中には巨大な構想があった

 昭和54年、浜松。世界最大の光センサーを開発した浜松テレビの元に、小柴がある依頼を持って現れる。それは直径50センチの光センサーを開発してもらいたいというものだった。小柴の構想は岐阜県・神岡鉱山に、光センサーによってニュートリノを発見するための巨大な施設を建設するというものだった。しかし小柴はまだこの段階では予算も確保できていなかった。しかし日本のテレビ開発の父・高柳健二郎の愛弟子達の流れを汲む浜松テレビは技術に対する挑戦精神が強かった。社長の晝間輝夫は開発を決断する。 

 この辺りは小柴が主役のエピソードである。世界的に例のない施設の建造を思い立った小柴の構想力には驚くが、その一端を著すエピソードとして、実験のためのアルミニウムを確保するのに、一万円を一円玉に両替させたという逸話が出てくるが、一つ気になったのは「まさかその一円玉を鋳つぶしたんじゃないだろうな」ということである。ちなみに一円玉をそのまま何かに使うのは問題がないが、もし何らかの加工を行えば法律違反になる。ちなみに「一番安いアルミニウムが一円玉だ」と言っていたが、実際に現在の一円玉の製造原価は一円を超えているというのが事実である(だから造幣局は本当は一円玉は作りたくないのであるが、例の消費税導入のせいで大量に一円玉を作る必要が出来たということがある)。

 なおこの番組では、よく過去のフラッシュバックが出てくるが、今回はテレビ開発者の高柳である。彼の薫陶おぼしき弟子達が作ったのが浜松テレビだそうな。それにしても予算も確保されていない開発を受けるとは、かなりの冒険である。技術者魂としては分かるのだが、経営者の判断としてこれは良いのだろうか?

 

 小柴は施設建造のための交渉に弟子の須田英博を送り込んだ。神岡鉱業所鉱長・小松弘の元を訪れた須田は、いきなり土下座をする。小松は度肝を抜かれる。だがそこで須田は、神岡鉱山はコンクリートの5倍の強度を持つ飛騨片麻岩で覆われていることを知らされる。 

 その頃、浜松テレビでは技術者の鈴木賢治が光センサーの開発に挑んでいた。彼は20時間ぶっ続けの作業で図面を書き上げる。巨大なガラス管の製造を託されたのは、茨城の硝子職人・吉田元雄だった。彼は15キロのガラスと格闘し、500個を無駄にしながらも、ついに鈴木の図面通りのガラス管を作り上げる。そのガラス管は浜松テレビに送られ、光センサーの試作が行われる。全員が息を呑む中、光センサーのテストが行われる。光センサーは見事に作動した。これは40万キロ離れた月の上で照らされた懐中電灯を感じることが出来る性能を持つ画期的なものだった。そして小柴は建造費として5億7千万の予算を確保する。

 開発者達が大苦労をするというお定まりのパターンである。それにしても開発が成功してから予算が確保されるというのは、どう考えても順序は逆であるのだが。ところでコンクリートの5倍の強度の飛騨片麻岩が登場したが、以前にもスエズ運河の回でコンクリートの5倍の強度の「悪魔の岩盤」が登場している。岩質としては同じものなのだろうか?

 

 昭和57年2月、現地の地名を取ってカミオカンデと命名された施設の建造が始まる。鉱山の掘削にあたったのは、技術者の齋藤修二。海外品との価格差に押されて閉山が見えていた神岡鉱山で、彼は是非とも自分たちの技術を後世に残したいとの思いを持っていた。しかし地下1000メートルに7階建てのビルと同じ空間を作る工事は前代未聞のものだった。作業中、突然に1メートル四方の岩が真横に飛んだ。地下1000メートルの圧力による山ハネだった。作業員達は震え上がり、工事は一時中断される。工事中止も懸念される中、齋藤は現場に乗り込んで鉱山用の杭を561本埋め込んで、山ハネを抑えることに成功する。

 昭和58年4月、小柴の弟子達が神岡鉱山に乗り込み、1050個の光センサーを取り付け作業を行う。光センサーの取り付け後、3000トンの真水を満たして、いよいよカミオカンデが観測を開始する。

 そしてここでも「技術者の意地」が登場。それにしても岩が横から飛んでくるというのはとんでもないことだ。つまり穴を開けたことで岩盤内のバランスが崩れることが原因になっているのだろうが、こんなものの直撃を受けたらひとたまりもないだろう。ところで私に分からなかったのは、なぜ杭を打つだけで山ハネが抑えられるのかということ。杭を打てば岩盤の水平方向へのズレは防げると思うが、垂直方向に岩が飛び出す山ハネをこれで防げるんだろうか? それとも山ハネが起こる前には、まず水平方向のズレが生じるんだろうか? 土木の専門家でない私にはこれは分からない。

 

 昭和62年2月23日、大マゼラン星雲での超新星爆発のニュースが小柴の元に飛び込んできた。小柴は「超新星爆発によって大量のニュートリノが地球に降り注いだはずだ」と直感する。早速、弟子に観測データをチェックすることを指示する。観測データの中にはニュートリノの発する信号が記録されていた。世界で初めてニュートリノが観測された瞬間だった。平成14年12月、小柴昌俊は素粒子科学の新しい地平線を築いた功績で、ノーベル賞を受賞する。

 超新星の爆発は400年に一度とのことだから、小柴氏が言っているように、確かに「幸運だった」のは事実だろう。もっとも「運も実力のうち」という言葉があるように、大きな功績を挙げた人間には多かれ少なかれラッキーの要素があるのは事実である。もっとも実力がある故に、そのラッキーの確率を上げることが出来るという効果はあるだろう。もっとも裏返せば、実力はあったにもかかわらずラッキーに恵まれなかったがために失敗した人物も極めて多いはずであるが。

 

 小柴氏のカミオカンデについていつか登場するだろうと思っていたが、やっとの登場である。番組的には光センサー開発と鉱山の掘削に焦点を当てていたが、現実にはこのプロジェクトの最大のポイントは「小柴氏がいかにして予算を確保できたか」である。実のところ、小柴氏の最大の功績は国からこれだけの予算を引っ張り出したことであり、ノーベル賞はそのおまけのようなものである(笑)。この時代はバブルの頃で、国に予算があったというのも幸いしているのだろうと思われるが(SPring8などが建設されたのもこの時期のはず)、多くの研究者が予算不足で苦しんでいる中、これだけの巨大プロジェクトを認めさせた手腕はかなりのものである(政治工作、はったりその他いろいろあったはずである)。

 なお今日では国の財政危機により、研究予算はさらに悲惨なことになっている。また国が大学においても実用研究を重視する方針を打ち出したことで、基礎研究の現場はより一層悲惨なことになっている。それにも関わらず「ノーベル賞受賞者を30人出す」とか大臣が言っているのは矛盾だらけなのだが・・・。ニュートリノの発見なんて、そもそも実用技術とはもっとも遠いところにあるにも関わらず、そんな分野にこれだけ予算を投入したから最終的にはノーベル賞の受賞につながったのだが、その辺りはお役人や政治家には分からないようだ。この国は政治に理念がないせいで、いろいろな部分に歪みが生じている。

 ちなみに某大学教授の「国は完成した分野にばかり予算を回そうとする」という発言を聞いたことがある。今、世の中にはびこっている成果主義の負の側面である。これでは新たな画期的な研究など出てくるはずがないのだが。

 

5/13 プロジェクトX「チェルノブイリの傷 奇跡のメス」

 なぜか日本にはあまり情報が伝わってこない(原発に対するイメージダウンを恐れる日本政府が、意図的に情報を伏せている節があるのだが)が、チェルノブイリの事故以来、現地では癌の増加などの悲惨な状況が発生している。そんな中で現地での医療に奔走した一人の医師が今回の主役である。真の国際貢献とは何かを感じさせられる内容である。

 

 最悪の原発事故チェルノブイリの惨事で、現在のベラルーシ共和国には大量の放射性物質がばら撒かれた。この放射性物質は特に子供たちを直撃、甲状腺ガンが続発した。このベラルーシに乗り込んだのが、甲状腺ガンの専門医師・菅谷昭であった。長野の山村で地域医療に貢献した父を見て育った彼には、ベラルーシの惨状を放置しておくことができなかったのだ。

 放射能漏れ事故があった場合、放射性ヨウ素の甲状腺への蓄積が起こることは有名である。特に成長期で甲状腺の働きが高い子供の場合、甲状腺ガンが増加する。特に旧ソ連では一般に放射性物質の危険性がまったく知られていなかったので、一般市民は特に放射能対策をとっていなかった(もし危険性を知っていたとして、対策が取れたかどうかは疑問だが)。放射性物質は目に見えないだけに、事故の翌日にはもう市民は普通に表を歩き回っていたという(そもそも避難さえ行われなかったのであるが)。当然のことながら現地は極めて悲惨な状況になっていたのである。

 

 現地に到着した菅谷は愕然とした。子供たちの甲状腺ガンの率は日本の40倍にも及んでいた。しかもなされた手術跡を見た彼はショックを受けた。患者には首筋から耳の下にまで及ぶ大きな傷跡が残っていた。旧式の手術しかなされていなかったのだ。彼は憤りを覚えたが、彼には現地で手術を行う権限はなかった。

 帰国後、大学内でさらに出世した菅谷。しかし彼はベラルーシのことを忘れることはできなかった。患者に向かい合って生きていきたいと考えていた彼は、大学での地位を投げ打って退職金で部屋を借り、単身で現地に乗り込む。

 旧ソ連というのは、決して技術力の無い国ではなかったのが、それはあくまで国の最先端部分だけの話であって、一般にはその恩恵は及んでいなかった。それが端的に表れているエピソードである。またソ連からの独立後に貧困にあえいでいる国は多く、それが医療などの社会福祉の分野にまともにしわ寄せが来ているようである。

 医師というのには使命感に駆られてなるタイプと、算術によってなるタイプとがいるが、菅谷は典型的な前者の方であったようである。祖父・父の代からの医師であったようだが、都会の院長などではなく、地方の町医者だったのが大きいのだろう。都会の病院の二代目などにはこのような人材はほとんどいないだろう(算術に長けた奴ばかりで、医大も親の金とコネで卒業したような連中が多い)。

 

 1996年2月、彼がベラルーシにきて1ヵ月後、助手として手術に立ち会う。しかし手術台の少女ののどをばっさりとメスで切り裂くさまを見た菅谷は怒りを覚える。彼は若い医師たちに「あなた達は医学書を買ったり、学会で勉強しないのか」と責める。しかし貧しいベラルーシでは医師たちの給料は安く、仕事の後にドライバーのアルバイトをしている者もいる始末だった。彼らにはとてもそんな余裕はなかったのだ。彼は自らに言い聞かす「焦るな。行動で示すしかない。」

 一ヵ月後、菅谷に手術の許可が下りる。傷跡をほとんど残さない菅谷の手術を見た現地の若い医師・ゲンナジー・トゥールは衝撃を受ける。菅谷がトップクラスの医師であることを知ったのである。彼は体が熱くなるのを感じる。

 菅谷は現地で多くの子供たちを救っていった。その姿に感動した若手医師達は、菅谷の元を訪ね、教えを請う。菅谷を囲む現地医師の輪ができる。

 まさしく「ブラックジャック」の世界である。外科医というのは職人としての側面が強いが、卓越した技に出会ったら純粋に感心するのが職人の魂というものである。現地の医師達もこの職人の魂は失っていなかったのだろう。

 それにしても菅谷は、退職金で現地に渡って無給で働いていたとのことだが、ここまで駆り立てられるというのも凄まじいものがある。

 

 現地に到着して2年。100例以上の手術をこなした菅谷は、もっとも被害の大きかったゴメリに乗り込むことを決意する。その菅谷のために現地の病院の手配などを行ったのはゲンナジーだった。

 ゴメリに乗り込んだ菅谷は、がん患者の多くが再発の恐怖を持っていることを知る。ゴメリの州立腫瘍病院で無給で働いていた菅谷は、現地医師たちに手術指導をする傍ら、患者たちの家を回っての往診を始める。また300キロ離れたミンスクから休みを返上して駆けつけたゲンナジーも菅谷の往診に協力する。二人の行動を見た現地の医師たちも彼らに協力を申し出、大きな動きが巻き起こる。現地医師達は菅谷を尊敬を込めて、日本語で「先生」と呼んだ。

 その後も患者のいる町に移り住みながら現地での検診に貢献した菅谷。菅谷に育てられた現地医師たちも腕を上げ、見事な手術をするようになる。それを見届けた菅谷は日本に帰国する。

 熱い男の活動が現地に波及して、ベラルーシには熱い医師ばかりが増えたようである。ゲストで出演したゲンナジーが、見事なまでに日本人的精神の持ち主になってしまっていたことには驚いた。自己犠牲などの精神が徹底していたことや、挙句の果てが「一期一会」という言葉が日本語で登場したのには絶句。よほど菅谷の薫陶が行き届いたと見える。

 またここで登場するエピソード(かつての患者だったカーチャが看護学校に進んだ話や、やはりかつての患者だったスベトラーナが無事に出産する話やら)が視聴者の涙腺を緩める。実のところ私も久々にこの番組で泣かされてしまった・・・。

 

 さて今回はチェルノブイリでのエピソードだったのだが、今後問題になりそうなのが、イラクでの問題である。湾岸戦争時に米軍が大量に使用した劣化ウラン弾のせいで、イラクでは小児の白血病や癌が増加しているという。イラクを侵略した挙げ句に自国の放射性廃棄物をばらまいたアメリカは、劣化ウラン弾による現地での健康被害には知らんふりを決めつけているようだが(実は自国の兵隊にも被害者が出ているにも関わらずだ)、「国際貢献」の美名で対米追従に邁進した日本も、この件に関しては表だった動きはしていない。

 放射線障害についての研究がもっとも進んでいる国が日本であるのだから(広島・長崎での被爆者が多い関係がある)、こちらでも国際的に貢献してもらいたいものである。

 

1/21 プロジェクトX「爆発の嵐スエズ運河を掘れ」

 今回はいわゆる「海外巨大プロジェクトシリーズ」。しかしスエズ運河にまで日本人が絡んでいたとは知らなかった。ちなみに幕府の欧州派遣団の一員としてスエズ運河を見た渋沢栄一が、この巨大プロジェクトに銀行が果たした役割が大きいことを聞き、後に日本初の銀行を作ったというエピソードも、昨年末に「その時、歴史が動いた」でも登場していた。意外と日本と関係のある運河のようだ。

 

 インド洋と紅海をつなぐ交通の要衝・スエズ運河。しかし幅75メートルしかない運河は、巨大タンカーを通過させることができず存亡の危機に瀕していた。エジプト政府は日本に支援を仰ぎ、運河を拡張することを考えた。この事業に白羽の矢が立ったのは、広島の水野組だった。しかしこの仕事は一つ間違うと会社の存亡にかかわる事業だった。しかし広島の焼け跡から会社を復興させた社長の水野哲太郎は「失敗すればまたゼロからやり直せば良い」と工事を決意する。

 「失敗すればまたゼロからやり直せば良い」こんなことを言えるのも、水野哲太郎の自信の現れでしょう。普通はなかなか言えません。創業社長にの心意気とでもいうものでしょうか。

 

 水野は日本最大のポンプ船(水底を掘削して、ポンプで土砂を吸い出す船舶)を発注。スエズに向かわせる。しかし工事は予想以上に困難なものだった。スエズ運河のそこには「悪魔の岩盤」と呼ばれるコンクリートの5倍の固さの岩盤が存在した。そのために掘削機のカッターはほんの2時間でだめになった。カッターの交換ばかりで工事は進まない。しかも第三次中東戦争が勃発、イスラエル空軍の爆撃が始まる。作業員の金子明弘達はありったけの白と赤のペンキで船の甲板に日の丸を大きく描いて爆撃を避けようとする。

 しかしやがて中東戦争は激化、イスラエルに運河の東岸を占領されたエジプトは、運河に船舶を沈めて閉鎖する。やむなくポンプ船は日本に帰る。会社の命運を賭けてのプロジェクトが頓挫した水野組は危機に瀕する。

 いくら心意気があっても、戦争だけはどうしようもない。しかしこの時に会社がこけていたら洒落にならないところだったが、よくぞ生き延びたものだ。

 

 昭和48年、中東戦争が終結し、工事の再開が決定される。かつてイスラエル空軍の爆撃の中を、運河工事の入札に出かけて落札していた水野哲太郎に、エジプトのスエズ運河庁・長官のマシュフールからの電話がかかる「あの時の入札はまだ有効だ。」。彼はかつて危険を省みずに入札現場に現れた水野に感動していたのだった。

 勝負に出た水野は、一気に12隻のポンプ船を送り込む。日本からは700人、エジプトからは2000人が現場に乗り込む。しかしやはり工事は困難を極めた。今回の工事のために用意したアメリカ製のモリブデン合金のカッターも、スエズの岩盤のためにあっと言う間にボロボロになる。カッター担当の榎孝信はカッターの交換に明け暮れることとなる。

 アラブ人というのは男の美意識のようなものにこだわるところがあるが、このマシュフール氏は危険を省みずに入札に現れた水野哲太郎によほど感じ入ったのだろう。なんだかんだといっても、最後はこういう個人ベースの感情というものが大事だったりする。

 

 しかもポンプ船のポンプ室で突然の爆発が起こる。スエズ運河の底には中東戦争で使用された不発弾が無数に沈んでいたのだ。爆発事故は次々に連日のように起こった。運河庁に回収を要請してもエジプト側は動かない。その時、日本から水野哲太郎が乗り込んでくる。彼は不発弾処理の専門会社である日本物理探鑛に処理の依頼を行っていた。20人の作業員が乗り込み調査を行う。なんと運河100メートル内に200個もの異常点が存在した。宇田川春義ら潜水士達はその爆弾を一つずつ命がけで処理した。

 チップの破損の対策を検討していた機械担当の榎孝信は、実験の結果からチップの最適角度と新型チップの模型を作り上げる。そうやって導入された新型カッターは見事に「悪魔の岩盤」を打ち砕く。工事のペースは一気に上がる。そして昭和55年12月16日、ついに運河は完成する。

 戦争のとんでもない置きみやげに大苦戦というパターン。戦争というものがたちが悪いのは、その戦争で犠牲者が出るだけでなく、戦争が終わってからも犠牲者が出続けること。カンボジアでは地雷で負傷する人が未だに後を絶たないし、アフガニスタンでも米軍の不発弾が問題になっている(地面に沈み込んでそのまま対人地雷になるようなタイプの砲弾を使用したらしい)。またベトナムでの枯葉剤の影響もまだ完全に消えたわけでもない。戦争なんて馬鹿なことがこの世の中からなくなるのはいつのことやら・・・。現在もアメリカの戦争大好きの馬鹿大統領がまた戦争を始めようと必死だし。

 

 この番組の定番は、妻の病気とか、志半ばで命尽きる同僚などであるが、何も無理矢理にこのパターンに持っていく必要もなかろうと感じたのが今回。エジプト人事務員の心臓病手術の話が途中で出てきたが、確かにこれは美談ではあるが、どう考えても話の流れからいけば蛇足の感は否めない。あまりに感動の押し売りのようなものはどうかと思ってしまう。

 

1/14 プロジェクトX「衝撃のべルー 男たちは生き抜いた〜人質127日間のドラマ〜」

 今回は浅間山荘に続く「事件シリーズ」。ペルーでの日本大使公邸人質事件である。この事件では日本人サラリーマン13人が人質なったのだが、彼らがいかにして127日間を生き抜いたのドラマである。

 番組は人質となった松下電器営業マンの滝滋、丸紅社員の齋藤慶一、トーメンの岩本匡司達を主人公として進める。

 

 平成8年12月17日ペルーの首都リマ、天皇誕生日の祝賀パーティーが開かれていた日本大使公邸に武装グループが乱入する。彼らはペルーで爆弾テロを繰り返していたテロリスト・MRTAであった。彼らは公邸の600人を人質にして、刑務所にいる仲間の釈放を求めた。しかしペルー政府は要求を拒否、長期の篭城戦となる。35人ずつ一部屋に閉じこめられた悪環境の中で、滝達は靴を枕に固い床に横たわる毎日を送る。

 この事件については、テロリストにとっては格好のターゲットであったにもかかわらず、日本側の警備の甘さが指摘されている。確かにいくら武装していたとはいえ、14人のテロリストにこうも簡単に公邸を占拠されるというのはいかにも警備が杜撰ではある。

 

 赤十字の交渉によって人質の一部が解放されるが、74人の人質が残される。その中に24人の日本人が含まれ、そのうちの13人がペルーに進出した日本企業のサラリーマンだった。

 ここでの人質の解放は、テロリストにしては温情でもなんでもなく、単なる予定の行動。14人で600人の人質を監視するのは不可能である。いくら武装していても、それこそ追いつめられた600人の人質がやけくそになって襲いかかってでも来たら、テロリスト共もひとたまりでもない。なお人質連中がハイソな連中であったのも、テロリストにとっては好材料。ハイソな連中ほど命を大事にするので、無謀な行為はしないもの。同じ人質600人でも、これが貧民街の600人なら、テロリストがただちに袋叩きにされる可能性大(そもそも政府が人質価値を認めないので、いきなり軍事行動にでるのがオチだが)。

 

 日本赤十字も日赤職員の中田晃をリーダーに、医師の鈴木隆雄ら6人の特別チームを編成、ペルーに送り込む。彼らはいつ撃たれる分からない中で、赤十字のゼッケンだけを頼りに公邸に向かう。

 ゲストで出演した中田の「中立といえば聞こえがよいが、中立というのはテロリストにとっては味方ではないということ」という言葉が重い。つまり本当にいつ撃たれるか分からないという意味。実際に見境のない連中だと、問答無用で撃たれることもある。ちなみにこの犯人連中は、政府との交渉を狙っていたので、テロリストにしてはまだいくらか話の通じる連中だったという印象がある。

 

 日本人人質達が最年長の滝を中心に励まし合いながら頑張っていた頃、ペルー軍は密かにトンネル作戦を推進していた。しかしペルー軍の行為はテロリスト達を刺激し、人質達の恐怖が迫った。人質達の心配をした鈴木は公邸に乗り込む。憔悴しきった人質に会った彼は、静かに自分の妻のことを話し始める。人質達の目に生気が甦る。

 医師としては「がんばれ」という言葉をかけてはいけなかったというのが非常にリアリティがある。今まで何度も出てきたが、もう頑張りようがない人間に対しての「がんばれ」の言葉ほど残酷なものはない。この言葉は本人に対しては「死ね」と言われているに等しいのである。なおこの言葉は鬱病患者に対しても禁句である。彼らも頑張りたくても頑張れない状況にあるのだから。

 

 現地に駆けつけた家族達の手紙(検閲のためにスペイン語によるものだった)によって人質達が元気づけられたのも束の間、ペルー軍のトンネルがゲリラ達に見つけられ、またも事態は緊迫する。見せしめに人質達が殺される可能性があった明日をもしれない状況の中で日々を送っていた滝に妻からの手紙が届く、誕生日の日にラジオの近くにいて欲しいと言うものだった。ラジオからは二人がデュエットできる唯一の曲である、加藤登紀子の「百万本のバラ」が流れてくる。滝の妻が現地のラジオ局にCDを持ち込んだのだ。滝は再び、何が何でも生き抜く決意をする。

 今回の最大の「泣かせどころ」である。私自身も不覚にも涙がにじみそうになった。年末の紅白で中島みゆきの「地上の星」に胸を打たれた親父族は、今頃あちこちで涙ぐんでいるところだろう。

 

 4月22日、ついにペルー軍による突入作戦が行われる。激しい銃撃戦の中、日本人人質達が監禁されている部屋が炎に包まれる。このままでは全員焼け死んでしまう。全員で鍵のかかった鉄の扉に体当たりする。7回の突撃の後、やっと扉は開く、人質達は高さ4メートルのベランダから飛び降りる。全員ケガをしたが無事に脱出に成功する。

 当時でもこのペルー政府の強硬姿勢には賛否両論があったところだ。実際のところ、テロリストの要求に屈してはならないというのはよく分かる(テロリストの要求などをいちいち呑んでいたらキリがない)のだが、ペルー政府が人質の命をどの程度尊重していたかは疑問がある。なお犯人グループ14人は全員が射殺されたのだが、これは口封じであるとも言われている。

 

 ペルーの人質事件を扱うというので、事件の責任者の一人でありながらも杜撰な対応と我が儘放題で、人質達をして「テロリスト共よりもたちが悪かった」とまで言わしめた「アホの青木」こと青木大使(あまりにも評判が悪すぎたので、この後に左遷された)の扱いをどうするのかと思っていたが、そこは上手に避けていた(笑)。結果としてはこの番組の王道の「家族の愛」を歌った美しいエピソードとなったようである(百万本のバラのエピソードなど、例によって泣かせどころも心得ている)。

 

 

11/12 プロジェクトX「金閣再建 黄金天井に挑む」

 

 今回のテーマは「金閣寺再建」。薬師寺東塔の建設、アンコールワット修復などに次ぐ、執念の文化財再建シリーズである。

 

 戦後、荒廃した人々の心をそのきらびやかな姿で魅了し続けていた金閣寺。しかし昭和25年7月2日、その金閣寺がなんと放火によって全焼してしまう。600年の時代を生き延びてきた文化財は、ほんの一時間ほどで完全な瓦礫と化してしまった。焼け跡には住職の村上慈海が呆然と立ちつくしていた。しかも放火の犯人が自分の弟子であったことが、彼をさらに打ちのめした。彼は自分の弟子のしでかしたその不祥事に、「世間の人々に対して申し訳ない」と全国をお詫びの托鉢に回る。

 金閣が放火されたというのはかなり有名なエピソードである。三島由紀夫もこの事件に着想を得て「金閣寺」という作品を執筆している。もっとも実際の放火犯は三島の創作ほどの深い事情があったわけではなく、ただ単に自殺のついでに火をつけただけのようであるが。

 

 やがて同宗派の他の住職達も托鉢に回り始め、各地から金閣寺再建のための寄付が集まり始めた。そして昭和27年、ついに金閣寺は再建され、往時の姿が甦ったかと思われた。

 しかしやがて信じられないことが起こる。なぜか金閣の金箔が次々と剥がれ始めたのだ。住職の村上は心を傷めるがどうしようもなかった。そして昭和59年にはついに外壁の金箔のほとんどが剥がれてしまい、金閣は黒い漆の肌をさらす有様になってしまった。「これでは金閣ではなくて黒閣だ。」観光客の罵りの言葉が突き刺さる。

 私が小学生の頃に遠足で金閣を見に行ったのは、昭和50年頃であったが、既にこの頃にも大分金箔が剥離していて、かなりくすんだ状態になっており(黒閣までは行ってなくても、茶閣ぐらいになってしまっていた)、がっかりした記憶が残っている。この時の私は「室町時代に建てられた建物だから仕方ないか」と思っていた。これが再建の時に使用した金箔が悪かったのだということを知ったのは、かなり後にNHKスペシャルで今回の金閣再建の番組を見た時である。それにしてもよく考えてみると、私はまだ金箔を貼り替えた後の金閣を見たことがない。近畿在住だというのに・・・。

 

 重い病で病床についていた村上は華麗な金閣の姿を取り戻したいと、表具師の矢口一夫に金箔剥離の原因究明と、金閣の修復を依頼する。幼い頃から金閣に魅せられ続けてきた矢口。金閣に対する思いには強いものがあったが、自信がなかった。決断を出来ないまま一年が経過、住職の村上がついに病死する。村上の墓に手を合わせて詫びる矢口。彼は金閣の修復に挑むことを決意する。

 スポ根ものとこの番組の黄金パターン「死んだ者に誓う」展開。この番組でも今までに、死んだ妻に誓った者、今は亡き父に誓った者、幼くして命を落とした子供に誓った者、志半ばで命を落とした同僚に誓った者、いろいろな人物が登場したが、今回は「死んだ住職に誓った者」が登場です。

 

 まず彼は金箔剥離の原因を調査する。彼は実験の結果、金閣寺に使用された厚さ1万分の1ミリの金箔では太陽光の紫外線を透過してしまうために、金箔を貼り付けていた漆が劣化していたことを解明する。さらに彼は実験を重ね、通常の5倍の厚さの金箔を使用すると紫外線を通さないことを発見する。

 しかし金箔の厚さが5倍になることは、同時に重量も5倍になることを意味していた。これを支えるには粘着力の強い漆が必要だった。矢口は世界中の漆を取り寄せる。そんな中、彼は浄法寺漆に目を留める。東北の地で育つ浄法寺漆は抜群の粘着力を見せた。矢口は早速東北に飛ぶ。安い輸入の漆に圧されて多くの在庫を抱えて、悔しい思いをしていた漆かき名人の岩館正二は、喜んで金閣再建に必要な1.2トンの漆を提供する。

 金閣の再建のためには腕利きの職人も不可欠だった。矢口は全国を回り、木曽で北原久ら6人の漆塗り職人を、また柳生建智ら3人の金箔押し職人を集める。

 ここからはおなじみ「匠の世界」。東北で黙々と漆を集めていた名人や、漆塗り名人、金箔押し名人などと、次々と「地味な方々」が登場(笑)。この番組のメインコンセプトであるところの「無名の人々の活躍を描く」という思想をいかんなく発揮しております(笑)。

 それにしても、金箔って単に漆の粘度で粘着してただけだとは初めて知った。私は接着だと思っていたのだが、違うようだ(粘着と接着の違いは、接着はネバネバしているところに貼り付けてから固めるが、粘着はずっとネバネバしているものに引っ付けているだけ。つまり接着は2度と剥がれないが、粘着は剥がそうと思うと剥がせる。)。

 

 まず漆塗りが始まる。矢口は建材の傷みを確認するためにすべての漆を剥がせてから、新たに漆を塗ることを指示する。31年前の再建にも携わった腕利きの漆塗り職人・牧野新吉が「わしの塗った漆はまだ大丈夫だ。なぜ剥がす。」と抵抗をする。しかしそれに対して矢口は確固たる信念で言い放つ。「私は金閣を600年保たすつもりだ。前の漆では無理だ。」矢口の強い意志に負けた職人達は、すべての漆を剥がす。

 漆塗り作業が始まった。北原達漆塗り職人が漆を塗っている姿を見て、矢口は絶句する。真夏の40℃を越える金閣の中で、彼らは床に汗を落とさないように長袖のシャツを着込んで漆を塗っていたのだ。こうして金閣は黒い漆でピカピカに塗り上げられる。

 これまたパターンの「職人の意地と意地の衝突」。しかし職人というものは「後世に残る仕事をしたい」という強い意志を持っているので、「600年保つ」と言われてしまうとグラッと来るものである(笑)。矢口は自分も職人であるだけに、その辺りのツボをよく心得ている(笑)。職人というものは一度意気に感じてしまうと、後はかなりの無茶をするものです(笑)。真夏の灼熱地獄の中で長袖シャツなんてぐらいは平気でするでしょう(笑)。それにしても漆で塗り上げた後の仕上がりは感心するばかり。これだと「黒閣」でも良いかなと思わず考えてしまった(笑)。

 

 いよいよ柳生達による金箔貼りが行われる。しかし究極の頂と呼ばれる3階の天井に、3000枚の金箔を貼る時に問題が発生する。3人の職人のクセが微妙に違うため、金箔にミリ単位のズレが生じてしまったのだ。湿度や温度の変化のために金箔は1日で貼りあげる必要がある。しかし上を向いての無理な姿勢での作業は4時間が限界だった。プロジェクトは暗礁に乗り上げる。

 ここで金箔貼り職人の柳生が自分が一人で金箔を貼ると名乗りを上げる。彼には自分がやらなければという使命感を持っていた。職人の意地だった。イメージトレーニングを繰り返しながら本番に備える矢口。しかし4時間以上作業を続けられる自信は出なかった。しかしいよいよその日がやって来る。

 素人の私にはどうしても、なぜ金箔を1日で貼り上げる必要があるのかが理解できなかったのだが・・・。それと貼り付けた直後はどう見てもくしゃくしゃに見える金箔が、最終的にはなぜああも綺麗に貼り付いているのか? どうも金箔の世界も奥が深いようである。

 それにしても天井を見上げたままのあの辛気くさい作業の連続なんて、私だと10分で首ならぬ頭が痛くなるところである(笑)。番組冒頭で国井氏が金箔相手に悪戦苦闘していたが、普通はあんなものです。金箔なんてほんのわずかの空気の流れでグシャグシャになってしまうので、手でまともに触れるものではありません。柳生がやっていたように、あれを貼り付けるときはほとんど息でやってるんですよね。そう言う意味でも天井に貼るのは相当難しいことぐらいは想像はつく。

 そしてここでもまた登場する職人の意地。やたらに血圧の高そうな連中が多いな(笑)。

 

 朝8時、柳生の作業が始まった。トイレに行けない過酷な作業。やがて以前に首を痛めてしまった4時間が経過する。しかし不思議と首は痛くならなかった。「いける!」しかし6時間が経過したところで手が動かなくなる。柳生を急に不安が襲う。しかし彼の職人の意地が再び腕を動かした。そして13時間後、とうとう金箔を貼り終える。柳生はその場に座り込む。天井には寸分の狂いもなく金箔が貼られていた。

 職人達の技の限りを尽くして甦った金閣は、こうして再び輝きを取り戻す。

 で、最後は職人の意地が勝利を収める。しかしこの時の柳生の精神は限界を超えてほとんどランナーズハイの状態にあったのでは? もしこの時の彼の血液を調べたら、βエンドルフィンが全開になってたりして・・・。

 

 久々の「職人親父達の群像」シリーズ。私は前から何度も言っているが、ハイテク日本の原点はこういうところにあるんじゃないかと思う次第。世の中がことごとく軽薄短小・利益第一主義になってきて、こういう職人芸の世界は後継者がいない例が多いのが懸念されるところ。この手の技術は常に継承をしていかないと、あっと言う間に滅んでしまいますから。

 

10/15 プロジェクトX「運命のゴビ砂漠 〜人生を変えた三百万本のポプラ〜」

 

 中国・ゴビ砂漠、この不毛の土地を緑の森に変えようとした日本人がいた。今回はそのプロジェクトである。完全にコスプレづいてしまって最近は悪ノリの著しい国井氏であるが、今回はラクダに乗って登場。それは良いのだが、これは本編とは全く無関係である(笑)。

 

 鳥取大学を定年で退官した遠山正瑛、かつて彼は鳥取砂丘を畑に変え「砂丘の父」と呼ばれた男だった。定年後の暮らし方を考えた彼は、77歳で中国に渡る。彼は砂漠化の進む中国で砂漠と戦う決意をしたのだった。

 当初遠山は成長の早いクズを植えて砂の移動を防ぐことを考える。しかし彼の植えたクズは羊に食い荒らされて全滅してしまう。「草がだめなら木だ。」100万本のポプラを植林する途方もない計画を打ち上げる。

 元大学の教官が、退官後にも世の中に自分の知識を活かそうとして中国に渡るとは、なかなか行動力のあることである。なかなかこの手の実戦的経験のある人物は日本の大学には乏しいのだが。

 

 遠山は植林のための組織を打ち上げ、日本でのボランティアを募る。その中に造園会社の社長・塩田修二もいた。観光気分で参加したボランティア達であるが、砂漠の厳しさを目の当たりにして愕然とする。

 植木職人から身を起こして社長となった塩田。彼は鬼社長と呼ばれていたが、仕事漬けの毎日の中で体を壊し、気分転換のつもりで参加していた。しかし先頭に立って働く遠山を見ていた彼の中で、かつての植木職人の血が甦る。

 またも登場の「パターン通り」の人物である。仕事一途に打ち込んでいるうちに、自分が本当に燃えるべきものを見失って、それで新たな人生に目覚めるというパターン。こういうエピソードは、彼と同世代に属していて毎日の疑問を感じているような親父族の心を打つんだよな(笑)。

 

 しかし植えた木は放牧の山羊によって荒らされた。山羊の飼い主のところに直談判にいく遠山、しかし山羊の飼い主の中国人は「木を見ていても飯は食えない」と言う。遠山は現地の人にも植林の大切さを理解してもらうためにも、地元の人間を雇って木を植えることを考える。

 そのためには恒例の遠山の代わりに中国に常駐する者がいる。誰もが尻込みをする中、塩田が名乗り出る。金儲けに明け暮れる毎日に嫌気のさした彼は、会社を後進に譲って中国に渡る。塩田は現地の中国人を束ねて、植林の仕事を進める。

 で、突然に燃える者を見つけてしまったこの親父、ついに仕事もなげうって中国に渡ってしまう。思い切りが良いと言おうか、見境がないと言おうか(笑)。ワンマン社長だったようですが、それはそうだろうと納得させられてしまう次第。昔の世代には、時々こういう熱い親父がいましたね。

 

 しかし異変が起こる。せっかく根付いたポプラが枯れ始めたのだ。水不足が原因である。遠山はムダ枝の剪定にかかる。しかし10万本の剪定が必要だった。この作業に選ばれたのが、東城憲治だった。彼は会社で窓際族に追いやられ、逃げるように中国にやってきた男だった。一度は尻込みしかけるが、自分を変えたいと思った彼はその仕事を引き受ける。そして東城の働きでポプラは復活する。10万本の剪定を終えた東城には、リストラのことなどちっぽけなことに思えていた。

 そしてもう一つ、親父族の心を打つキーワード「リストラからの復活」です。しかし東城氏の行動を見ていたら、典型的な「単純繰り返し作業には強いが、機転の利かないタイプ」のようです。このような人物は、昨今の成果主義をやたらに言われる企業内では、まず間違いなく出世できないタイプです(笑)。要は使い方次第なんですが、こういう人物はなかなか正当な評価を受けないんですね。とにかく実績があろうがなかろうが、大きな声でやたらにアピールするようなタイプのみが出世できるのが、現在の成果主義の実態ですから。

 

 1995年8月、ついに100万本のポプラを植えることに成功する。しかし翌年、とんでもない出来事が起こる。砂漠に訪れた突然の嵐で、3万本のポプラが流されてしまう。落胆するメンバー、しかし遠山が言う「続けさえすれば成功だ。やめた時が失敗だ。やればできる。やらなければ出来ない。」メンバーは再び立ち上がる。

 そして、まず間違いなく「プロジェクトX リーダー達の言葉」辺りで出てきそうな決めぜりふの登場です。「続けさえすれば成功だ。やめた時が失敗だ。」確かに遠山氏の植林の経験から出た言葉でしょう。ただ植林の場合だからこう言えるわけで、昨今のスピードが求められている時代では「続けさえすれば成功だ」とは言いにくいところが辛いところ。今はむしろ止め時の見極めが重要だったりする。業務を拡張しすぎてこけた会社などは、この止め時の見極めに失敗している場合が多い。

 

 東城憲二は生き残った林の10万本を調査し、枯れた木や手入れのいる木のリストを一ヶ月がかりで作り上げる。塩田も植木職人としての技をボランティアに教え込む。2001年、ついに植林が300万本に達し、不毛の砂漠が緑の衣で覆われる。

 リストラ社員・東城氏の本領発揮と言ったところでしょうか。やっぱり彼は「機転は利かないが、単純作業には強い」ようです。彼もやっと天職を見つけたというところでしょうか。彼の奥さんが、主人は中国から帰ってくるたびに元気になっていると言っていたが、それはまさしく天職ということ以外の何者でもない。仕事一途だった塩田氏も、社会に貢献できる方法を見つけだして目出度し目出度しという結論になっているようです。

 

 まさに最前線で世の中のために汗を流した人々の物語である。ただ参加者の誰もが社会的使命感などではなく、個人的理由で参加しているのが印象的。本来のボランティアって実はこういう「良い意味での利己的な行為」なのではないかというのが私の考え。だからボランティアという名の下に、変に奉仕の精神やら自己犠牲の精神を強調しようとする動きには胡散臭いものを感じたりするのだ。大体そういう考え方を強調する輩は、社会に対してではなく、国(森首相が言ったところの「国体」の方がぴったりか)に奉仕させようと考えている場合が多かったりする。

 それにしても感心させられたのは、遠山氏の達者ぶり。まさしく「お達者クラブ」といった趣で、この爺さんは多分生涯現役のまま死ぬタイプだろうなと思わせられる。やっぱり植林の専門家ということで、若い頃から最前線で汗を流してきたのが良かったのだろうか。健康を保つポイントは、やっぱり「自然と適度な運動」なんだなと妙なところで感心した次第。

 

 

7/2 プロジェクトX「男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」

 

 日本中がバブルに踊り、「濡れ手に粟」が時代のキーワードとなって、物作りが軽視されていた昭和60年、カシオ計算機の若手技術者・末高弘之は電子カメラの開発に着手する。勤めていたカメラ会社が倒産してカシオに入社した川上悦郎を始めとする若手のプロジェクトが結成される。昭和62年、末高らは電子カメラの開発に成功、カシオを始めとして8社が一斉に参入する。これは売れると判断したカシオも2万台の大量生産に踏み切る。

 しかし発売から2ヶ月後、営業の担当者に呼び出された末高は信じられないことを告げられる。それは電子カメラが全く売れないという事実だった。この年にソニーから8ミリビデオが発売され、電子カメラは「動かないビデオ」としか消費者に見られなかったのだ。市場は一気に萎み、プロジェクトメンバーの倉橋成樹は秋葉原の店頭で、自分でカメラを販売することを命じられる。7割引の捨て値でも売れないカメラ、カシオはカメラ部門からの撤退を決定し、末高らは開発部門からはずされ左遷される。

 切ない話であるが、確かにこの時の電子カメラは商品として魅力がないのは確かである。ビデオ並に大きいのに動かない。これでは売れなかったのは当たり前ではある。ただ、これは末高らが作った商品がまずかったというよりも、ソニーの技術が二歩ほど先を行っていたと言うべきだと思うが。

 

 不遇の境遇に甘んじていた末高の元に一本の呼び出しの電話がかかる。出向いた末高を待っていたのは、25社の電子カメラ開発者達であった。彼らは皆不遇の中でカメラの開発を諦めていなかった。彼らは会社の壁を越えての勉強会を結成する。末高は「もう一度やる」との決心を固める。末高は川上ら5人のメンバーに呼びかけ、本社に黙っての闇研究を開始する。失敗すれば処分は免れない究極の賭だった。

 末高が言っていた「社内の人間よりも社外の人間の方が話が通じた」という言葉は私の胸にもズキンと突き刺さった。私もかなりマイナーな分野の研究に携わっており、社内でも冷遇されている身分である。これはどこの会社でも似たようなもので、確かに社内の人間よりも、社外で同じ仕事をしている人間の方が話が通じるのである。このエピソードを見た時、私は思わず「これは○化学○○○会(私が入っている同業者の勉強会)のことか?」と呟いてしまった。末高らのあまりに不遇な処遇は、どうも私自身の境遇とも重なるところが多すぎて、不覚にも涙が流れてしまった。

 

 電子カメラが生き残るには小型化しかない。そう考えた末高はカメラからモーターやフロッピーを省いてメモリー化することを思いつく。部品は社内から密かに調達した。しかし問題が発生した。どうしも購入する必要のある部品があるのだが、予算がなかった。困った末高らに事務担当の村上雅美が救いの手をさしのべる。彼女は「画像処理の研究」との口実をつけ、末高らの伝票を処理する。

 闇研で問題になるのは、予算の問題です。しかし「画像処理の研究」という口実をつけたにしても、よくぞ左遷の身の末高らが物品の購入が出来たものである。この辺りは、まだこの時代がバブルを引きずっていたことが大きいように思える。多分今の不景気の時代なら、末高らがどう口実をつけたところで予算はおりないだろうし、それどころか既にリストラされている可能性も高いように思える。

 

 平成3年春、試作機が完成する。しかし安物部品を寄せ集めた試作機はアナログカメラよりもはるかに大きいとんでもない代物だった。小型化するには半導体の開発が必要であるが、2000万の予算が必要だった。闇プロジェクトには到底そんな予算がなかった。しかもこの試作機は消費電力が莫大で手で持てないほど発熱し、ファインダーの部分に冷却器をつけざるを得なくなる。村上はこの試作機に「重子」と「熱子」とあだ名を付ける。

 近くの公園で村上をモデルにしての実験が開始された。ファインダーの代わりにやむを得ずモニターをつなぐ。シャッターが切られる。その時、モデルになっていた村上が驚きの声を上げた「なに、これ、楽しい」。撮った写真がその場でモニターに浮かぶことに、村上は面白さを感じたのだ。失敗から登場したアイディア、末高は商品化を決意する。

 しかしその後、バブルが崩壊、製造業は大打撃を蒙り物は売れなくなる。末高らの夢も打ち砕かれる。

 重子と熱子とはよくもネーミングしたものである。あり合わせの部品で作ったんだから、こうなってしまうのも仕方ないところだろう。しかしここでファインダーを取り除かざるをえなくなったことがケガの功名として、デジカメの新しい用途を生み出すことになるというのが皮肉なところ。しかしこの「撮ったその場ですぐに見れる」という用途が生まれたことで、真にデジカメの存在価値が確立出来たと言えるだろう。最初の電子カメラの失敗は、メーカー側が消費者に効果的な使い方を提案できなかったことにあるのだから、これは実に大きいことである。

 

 平成4年、開発費2000万円の捻出に悩んだ末高は、プロジェクトの元メンバーで商品企画部にいた中山仁に相談を持ちかける。彼は目玉商品として売り出していたポケットテレビへの付加機能としてカメラ機能をつけるという口実を考え出し、見事を予算をつけることに成功する。

 回路担当の富田成明は不眠不休でLSIの開発に専念、川上はカメラのレンズ回りを超小型に仕上げる。また秋葉原の電気店の倉橋は、カメラをパソコンにつなげれるようにすることを末高に提案する。平成5年12月、カメラ付ポケットテレビが完成、大きさはビデオカメラの半分以下だった。しかしポケットカメラの競争が激化、価格が低下して、末高らのテレビは価格で競争出来ないことは明らかだった。末高は役員会でとんでもないことを直訴する。彼はテレビ機能をはずしてカメラだけで勝負することを訴えた。社長の樫尾和雄「他のカメラにない用途はあるのか」末高「一つあります。このカメラにはパソコンでも見られるよう、入力用の端子をつけてあります」樫尾「最初からそのつもりだったんだろ。分かった。」 ついにデジタルカメラが商品化された。

 またもこの番組の得意技「現場の独断専行」である。いつも問題の解決を見るのはこのパターンしかないというのは、日本の組織の管理職がいかに無能揃いかを示しているとも言えるだろう。なおカシオの社長は、最終的には末高らの計画にゴーサインを出したのだから、そこらの馬鹿社長よりはずっとマシであるということが言えると思われる。

 

 しかし生産台数はわずか500台に押さえられた。このままでは市場が開かないことを懸念した末高は大勝負に出る。ラスベカスで開かれる電気商品の見本市にデジタルカメラを持参し、電気店の担当者達に宣伝して回った。パソコンに写った写真を見た担当者は「グレート」と叫ぶ。このデモは大反響を呼び、発売前から全米で大評判となる。

 平成7年3月、発売開始。恐る恐る電器屋に出向く末高。しかし店頭にデジタルカメラがない。店員に尋ねる末高。「すごい売れ行きでもう商品がありません。」末高らの執念が報われた瞬間だった。

 またも日本人の特質が現れている。日本人は昔から「アメリカで評判になったものには弱い」という性質がある。だから日本で認められない研究者などは、アメリカで学位や賞などを取って帰って来ることになるのである(日本で出世するには実力以外の要素が多すぎる)。そう言えば、青色発光ダイオードの開発者の中村氏も、結局は会社とケンカ別れになってアメリカに渡っている。彼も馬鹿管理職連中に散々仕事を邪魔されて、つくづく嫌になったんだろうな。

 

 不遇の境遇の中から大ヒット商品を生み出した執念の開発者の物語である。そう言えばカシオのQV−10というカメラは私もよく覚えている。デジカメ初期の機種で、今から思えばおもちゃのような写真しか撮れなかったが、当時は大ヒットした機種である(ちなみに私はQV−20が登場した頃に、フジフィルムの35万画素のカメラを購入した)。

 末高らは不遇の中で開発を諦めずに、最終的には大輪の花を咲かせたというハッピーストーリーになっている。ただこの番組中でも言っていたがこのようなハッピーストーリーは希有な例と言ってよい。いかに多くの開発者が、そのまま日の目を見ずに左遷の境遇を甘んじているか。物作りが軽視されているのは、何もバブルの時代だけでなく、現在でもほとんど変わっていない。人生を要領よく生きたい人は、開発者や研究者などにはなるべきではない。

 

6/11 プロジェクトX「桜ロード 巨木輸送作戦」

 今回の主人公は、不可能と言われた巨大桜の移植に挑んだ植木職人である。

 

 昭和27年、朝鮮特需で湧く日本では、電力需要が急増、電源開発が至上課題となっていた。そんな中岐阜県の山中の合掌造りが並ぶ山村・荘川村がダム湖の底に沈むことになった。この村の神社には荘川桜と呼ばれる、村の人々の心のよりどころとなった樹齢400年の桜の巨木があった。

 ダム開発が決定され、村の立ち退きが要求される。老人達は村と共に沈みたいと言うが、「国のため」と説得され、立ち退きに応じることになる。

 朝鮮特需やらいかにも時代を感じるキーワードが散りばめられているが、私にとってもっとも印象的だったのは、立ち退きの件について諦めたある女性が「国賊みたいに国の方針に反対しても・・・」という言い方をしていたこと。この時代は未だに「国賊」という言葉が生きていて、国の方針に反対するのは犯罪行為といった戦前の洗脳が完全には抜けていなかったことを実感させられる(つい最近でも「国体」なんて戦前用語を使った時代錯誤総理もいたし、「三国人」なんて差別用語を使いたがる差別意識が人格の一部と化してしまっている右翼知事もいるが)。

 この時代は電源開発と言えばダム建設のことを指していた。今なら原発が設置されるところだろう。ちなみにダム建設は山村で行われるが、原発建設は海沿いに行われるので漁村の場合が多い。

 

 昭和34年、村の解散式が行われる。多くの来賓の中の一人に、高崎達之助がいた。彼は財界に請われ通産大臣となり、YS11の開発を決定した男気溢れる人物だった。彼は是非とも荘川桜を移植したいと考え、桜研究の第一人者・笹部新太郎に相談を持ちかける。しかし笹部は「桜は小枝一本折れても腐ってしまう繊細な樹木であり、移植は不可能だ」と答える。

 昭和35年、ダム工事が開始される。そんな中で立ち退く村人を見つめている男がいた。丹羽正光、植木職人の親方だった。彼はかつて出撃する特攻隊員のために基地に桜を植え続けた過去を持っていた。東京の偉い先生が荘川桜の移植を断念したとの話を聞いた彼は、弟子の内藤重明達とこの桜の移植に挑むことを決意する。

 過去のエピソードの影がちらつくことは、この番組ではかなり多いが、今回も「YS11」のエピソードがチラリと出てくる。いずれはこのエピソードも再放送されるのだろうか? それにしても最近は2週間に1回は再放送になっているが、これもこの番組の延命策の一つなんだろうな、やっぱり。

 なお桜が非常に弱い木であることは、そちらの専門家でなくても話に聞いたことはあるぐらい有名なことである。この番組では「普通樹木は傷口を受益などで保護するのだが、桜はそれが出来ない」と説明していたが、これはまるで白血病か何かのようである。よくこんな樹木が自然界で生き残ってきたものだと感心するものである。

 またここで今回の主人公であるところの職人親父が登場するのだが、彼の性格はまさに「職人」の一言で説明がついてしまうのが大笑い。この移植に取り組む決意をしたのも、やはり東京の偉い先生が断念したというのがプライドを刺激したのだろう。なおこの人物、この後も多分に「やってしまってから考える」というパターンを繰り返すのだが、その辺りもいかにも職人的(笑)。

 

 かつて枯れかかっていた名物の松の老木を甦らせ、東海一の腕前と呼ばれていた丹羽であるが、桜の移植に関しては職人仲間の全員が「無理だ」と言った。桜の移植はそれだけ困難な作業であったのだ。しかし丹羽はかまわず、電源公社と掛け合って桜の移植の許可を得る。

 最初の問題は移植場所の選定だった。丹羽は二週間辺りを歩き回ったが、どこに移植して良いか分からなかった。そんな時、丹羽が桜の移植に挑むと聞いた笹部が現れる。彼は貝原益軒の花譜を渡し、「役に立つかどうかは分からないが読んでください」と告げる。花譜の記載から桜の移植のヒントを得た丹羽は、現在の位置から直線距離で600メートル、高低差で50メートルの斜面に荘川桜の移植を決意する。

 職人・丹羽の「やってしまってから考えるシリーズ第一弾」は桜の移植予定地について。移植の許可を取ったは良いが、その時点でどこに移植したら良いかは分かっていなかったというのがなんとも。結局は彼がこの作業に取り組むきっかけになった「東京の偉い先生」の援助を仰いでいるのだが、まあ人間は素直なのが一番なのでしょうか。

 

 まず根を掘り起こして土ごと荒縄で縛る作業が開始される。しかしすべての根を掘りだした時には40トンもの目方になっていた。とても人力では運べなかった。

 植木職人達の苦境を聞いた高崎は、急遽最新鋭のクレーンを手配する。そして桜の移動作業が開始される。しかし思いがけない事態が発生する。桜のあまりの重量にクレーンが耐えられず、桜はバランスを崩して転倒し、大枝が無惨にも折れてしまう。丹羽の顔がこわばる。その晩、丹羽は心労からの腸のポリーブで倒れる。

 昭和35年12月、ついに堤防が完成する。村が水没するまでに2ヶ月しか残っていなかった。時間がない。丹羽は身体の不調を圧して翌日には現場に現れる。

 ここでまたも職人・丹羽の「やってしまってから考えるシリーズ第二弾」が登場する。彼は桜を掘り起こしたは良いが、その運搬手段を考えていなかった。ここで援助の手をさしのべるのが「男気溢れる男」高崎達之助。こういう人物は、絶対にここ一番の場面で現れるものです。ただ彼が手配した最新鋭のクレーンでも、結局は桜が重すぎて歯が立たず、かえってさらにピンチに陥ってしまうのは皮肉。

 それにしても職人シリーズの定番「自分の身体のことは全くかまわない」というパターンも丹羽は踏んでいます。なんてお約束なんでしょうか。

 

 この桜を運搬するには、もはや大枝を切るしか方法はなかった。しかし丹羽にはなかなか決断が出来なかった。しかし根を観察したときに、新たな根が生えてきているのを見た丹羽は、木の生命力を確信し、枝をすべて切り落とすことを決断する。

 ここで丹羽がとんでもないことを言い出す。彼は枝の切り口に防腐剤であるコールタールを塗ることを指示する。戸惑う弟子達、しかし彼は「前代未聞のことに挑んでいるのに、通常の方法は意味がない」と答える。桜が生きているかどうかを確認するための一本の小枝だけを残して、すべての枝が切り落とされ、その切り口にコールタールが丹念に塗られる。

 ここで「決断」の時なのですが、最初は「小枝一本折れても枯れる危険があるから、全く傷つけずに運ぶ必要がある」と言っていた方針が、ここに来て180度全面転換です。この決断を成し遂げたのは、丹羽の職人としての勘というものでしょうが、ある点では彼の「やってしまってから考える」という性分も影響していたのではないでしょうか(笑)。それにしても枝の伐採で5トンも軽くしたと言うのだから、なんとも徹底的に枝を落としたものです。

 なおここで切り口にコールタールを塗るという画期的手法が出てくるのだが、彼がこの手法をどういうきっかけで思いついたのかが個人的には興味があるところ。実のところは「腐るんなら、防腐剤を塗っちまえ」という程度の発想だったのではないかという気もしないではない。なおこの切り口にコールタールを塗るという手法は、今では定番になっているのか、あっちこっちでよく見かけるようである。

 

 5トン軽くなった桜の運搬が開始された。しかしぬかるんだ地面に車輪を取られて、クレーンは動くことは出来なかった。そこに駆けつけたのが、永谷昭治達ダム工事の男たちだった。彼らは作業現場の鉄骨で橇を作り、重機を動員して道を作る。立ち去る村人達を見続けていた永谷は、どうしてもこの桜の移植を成功させたかったのだ。桜の運搬が開始される。橇がゆっくりと動き出す。4日をかけて桜は斜面の上に移動させられた。2ヶ月後村は水没した。

 5トンも軽くしたのにやっぱり桜は運べない。これまた職人・丹羽の「やってしまってから考えるシリーズ第三弾」になってしまってます。しかしここでもやはりオタスケマンが現れる。今度は工事現場の男たちが立ち上がる。ゲストで現れた永谷は「もしこれに失敗したら腹を切っても成仏できない」などと言っていたが、これまた男気溢れる人物の登場である。それにしてもこの時代って、どうしてこんなに暑苦しい男が多いんでしょうね(笑)。今時の若者だったら、さっさと諦めちゃうんでしょうね。

 

 丹羽は移植された桜を世話し続けた。半年後、ふと桜を見上げた彼は、小枝に花が咲いているのを見つける。その話を聞いた村の小学校教師・田下昭夫は桜の元に駆けつけ、いとおしく桜を撫でる。人々の想いが奇跡を成し遂げたのだ。

 移植したらそれで終わりではない。そのまま桜が枯れたのでは洒落にならないので、花が咲いて初めて万々歳である。そしてこの大勝負に彼らは勝利した。感動の大団円です。エピローグで現在この桜を守っているのが丹羽の孫(息子かと思えば、もう既に孫の代になっていた)だったというのが、この番組定番の感動編です。ちなみに丹羽はこの移植から4年後に、腸のポリーブ転じた癌で死亡したとの話。沖縄の赤瓦の時を思い出すような「職人の執念の物語」になっています。

 

 ところで最近定番となった感のある、国井氏の「肉体労働コスプレシリーズ」は、今回はいきなり植木職人。これがまたまるでバカボンのパパみたいで似合いすぎである。なんで彼はこんなに長靴や手ぬぐいがよく似合うのだろうか。

 来週はまたも再放送で「新幹線」とのこと。最近は2週間に1回は必ず再放送である。これは多分、そろそろ番組のネタが切れてきてるんじゃないかと思われる。NHKにしたら、この番組をこんなに続けることになるとは実は考えていなかったのではないだろうか。それが思わぬ大ヒットで、今やNHKの看板番組となってしまったので、NHKとしては今更終了もできないので、「番組延命プロジェクト」を必死で行っているのだと思われる(笑)。ただ戦後という限られた期間で、成功を収めたプロジェクトとなると結構題材が限られるような気がするのだが。

 ちなみに失敗したプロジェクトならごまんとあるだろう。いっそのこと、失敗したプロジェクトを題材にした「プロジェクト×(バツ)敗北者たち」でも作るか(笑)。「独断専行でプロジェクトを決断した彼は、結局はプロジェクト失敗の責任をとらされて退社、現在は国道沿いでラーメン屋を開いている」とか「社運を賭けたプロジェクトに敗北した彼は、現在は巨額の借金を抱えて債権者から逃亡する日々を送っている」とか、今時の不況下で、親父族の涙を誘う番組になること間違いなし(笑)。うーん、「地上の星」が心に染みる番組になりそうだ。みんなどこに行った〜 見守られることもなく・・・。

 

 

5/28 プロジェクトX「命の水 暴れ川を制圧せよ〜日本最大愛知用水・13年のドラマ〜」

 今回のテーマは愛知用水。これは確か教科書にも載っていた戦後有数の大工事である。

 

 昭和22年、愛知県知多半島、この地域は常に渇水に悩まされており、三年に一度は大規模な干魃に苦しめられていた。戦後、食糧難の中で全国で食糧の増産が叫ばれていたが、この地域では干からびた大地を見捨てて逃げ出す家族も増えていた。

 そんな惨状の中、立ち上がった一人の男がいた。久野庄太郎、荒れた土地を耕し、山の上にまで田圃を作ってきた男だった。彼は信心深かった父親の「自分を捨て、人のために尽くせ」の教えを守って生きてきていた。彼は知多半島の人々のために、木曽川から水を引く計画を打ち上げる。

 あまりにも壮大な計画に誰もが不可能だと考えた。しかし知多半島出身の旧満鉄技術者の濱島辰雄は、この記事を見て身体が熱くなるのを感じた。彼はかつて満州で用水計画に従事し、戦後は故郷で農業教師になっていた。彼は久野の元に駆けつける。二人は近くの山に登り「ふるさとを緑の地に変える」と誓う。こうして二人のプロジェクトが開始される。

 この番組でのお決まりのパターン「最初に立ち上がるのは一人か二人」です。こういう時に必ず出てくるのが久野庄太郎ようなタイプの人物。しかし「自分を捨て、人のために尽くせ」とはこれまたすごい思想です。もっとも、この「人」のところを「お国」に変えた言葉は、この数年前までさんざん唱えられていたわけですが。

 

 元技術者の濱島は知多半島の測量を行い、畳6畳分の精密な用水路の図面を書いた。二人は予算獲得のために県に向かう。しかし総工費50億の数字に役人は腰を抜かす。また工事実現のためには地元の総意が必要である。二人は地元を走り回って総意を取り付けた上で、当時の吉田茂首相に直接訴える。久野と濱島は計画図を示し、この工事で食糧の増産と雇用を生み出すことが出来ると訴える。吉田は「食糧増産と失業対策、良いじゃないか」と答えると計画実現のために役所に声をかける。こうして愛知用水は国家事業として取り組まれることとなった。

 さすがに「ワンマン」吉田茂。「良いじゃないか」の一言で国家プロジェクトが決まってしまうというのがすごい。ただそれが良いか悪いかは難しいところ。実際にこの数十年後に、「よっしゃ、よっしゃ」で四国に橋を三本も架けることを認めてしまった総理(真紀子さんの親父さんです)がいたせいで、今日の国家予算に赤字を垂れ流すことになっているわけですから。

 

 昭和32年11月、木曽川上流で、用水の取水用のダムの建設が始まる。現場には22万人の希望のためにお願いしますと頭を下げて回っている久野の姿があった。しかし9年間用水のために走り回っていた彼は、この時点で既に田畑や屋敷などすべてを失っていた。

 一方、用水路の測量のために走り回っていた濱島も厳しい決断をしていた。彼は農業学校を辞め、この工事のために全力を投入していた。

 これまたこの番組の定番「すべてを失ってもプロジェクトに賭ける男たち」。これにさらに「奥さんが倒れる」などが加われば、完全にパターンなんですが、今回の奥さんはバッタリ倒れたのではなく、プッツン切れたようです(笑)。それにしても元来はこういうすべてを捨てても事業に打ち込むという姿勢は、彼らのような一般人ではなく政治家などにこそ必要なのですが、日本にはそういう奴はいないんですよね。

 

 しかしダムの建設工事は難航を極めた。水を迂回させるためのトンネルを建設していた時だった、いきなり火山性のガスが噴き出し、現場の班長の渡辺繁治が他の作業員達をかばって犠牲となる。

 渡辺の葬式の時、家族の前で頭を畳にこすりつける男がいた。久野だった。彼は自分達の望みのために犠牲者が出たことにいたたまれなかったのだ。濱島も胸の裂ける思いだった。

 そしてついにこの番組の定番「プロジェクト途中で命を散らす無念の犠牲者」の登場。作業員達をかばって班長が倒れるというのが泣かせる。どうしてもこういう大事業は「事故0」は難しいんですよね。しかもこんな時代ですから、人海戦術で工事しているようなものだし。

 

 現場監督の大根義男はガスの噴出に手こずっていた。彼を助けたのが、アメリカから技術指導のために訪れていたアメリカ人のビーズレーだった。二人は危険を省みずに現場を駆け回る。

 しかし昭和33年、台風17号が和歌山に上陸、あふれ出た濁流が建設現場を襲い、現場は泥と砂の中に埋められる。

 苦悩する男にそれを助ける男。しかし「信じられないことが起こった」。これまた定番のパターンです。

 

 昭和33年9月、建設工事はふりだしから再開された。しかし壮絶な工事となった土砂崩れで9人、落盤で5人、機械の横転で5人が亡くなった。毎月のように犠牲者が出ていた。これらの訃報は久野を叩きのめした。彼は食事も摂らず痩せ衰えていった。彼は知り合いの陶工に、ダムの土で観音像を作ることを依頼する。

 観音像を作ることを思いつくというのが、いかにも信心深い久野らしい。またこのエピソードが後の彼の一生の伏線になっているわけですね。

 

 濱島は灌漑工事のためには土地の区画整理の必要があった。そのためには土地の交換が必要だが、工事の難航を聞いたある村の長老が反対した。ここで濱島の教え子だった田中康允が立ち上がる。彼は濱島が自分の職業をなげうってまでこの工事にかけていることを知っていた。彼は反対する長老の家を一軒一軒尋ねて訴えた。みんな圧倒され、農地の交換に応じる。

 またも定番「奮闘する彼らに触発されて、自らも立ち上がる人達」のパターン。クサイと言えばクサイのですが、これが結構泣けるパターン。だからこの手のエピソードは、小説やドラマなどの創作の分野でもよく出てくるところです。

 

 現場では大野が苦戦をしていた。ガスだまりにコンクリートを流し込んでみたが駄目だった。その時、ビーズレーがやってきて、木屑を加えることを教える。半信半疑でその通りにしてみる大野、しかしなんとガスを止めることに成功する。驚く大野にビーズレーは「ダム屋は理屈よりも経験だ」と笑う。だがビーズレーはこれから間もなく狭心症の発作で死亡する。彼は誰にも病気のことを告げていなかった。「アメリカ人までもが命を賭けている」皆は熱くなり、村人まで総出で水路の整備が急ピッチで進む。

 ついにアメリカ人まで倒れる。これは意外な展開ですね。熱い男たちはアメリカにもいたということでしょうか。実際にこの辺りは不覚にも私も泣かされてしまいました。

 

 昭和36年5月28日、ついにダムが完成する。その現場に久野がダムの土で作った観音像を持って現れる。彼は観音像を胸に抱き、黙祷を捧げる。

 4ヶ月後、ついに用水に通水が行われる。赤茶けた大地に木曽川からの水が流れる。知多半島に住民達の喜びの声が湧き起こった。

 そして工事は完成。この水路は今でも使われているのですから、まさに「後世に残る仕事」です。元来は公共事業とはこういうものについて行われるべきでしょう。いつの頃から、鈴木宗男の地元に作っている誰も通らない高速道路のような「後世に残る恥」ばかりが公共事業で作られるようになったんでしょうね。

 

 非常に印象的な「泣けるエピソード」。前回が技術屋のプライドの話だとしたら、今回は燃える一般人の物語。結局この事業に生涯を賭けてしまった久野と濱島の熱さが胸を打つ。愛知用水の話は、中学生の頃に教科書で読んだことがあるが、教科書とかではこのような臨場感は感じられないところ。うーん、社会の副教材にも良さそうな番組だな(笑)。

 

5/21 プロジェクトX「東京ドーム〜」

 今年はNHKで東京ドームの巨人戦が放送されることになったそうだが、その関連か、今回のテーマは東京ドーム。そう言えばJリーグのことも扱ってたな・・・。

 

 昭和55年、老朽化した後楽園球場の建て替えが行われることとなった。計画された新球場は、日本初の全天候型のドーム球場となった。工事を依頼されたのは、東京タワーを建設した竹中工務店。早速、竹中工務店ではプロジェクトが結成され、ドーム球場の屋根を担当する企業の選定が始まる。白羽の矢が立ったのは大阪のテントメーカー・太陽工業だった。

 この時に当時の世相が紹介されるのだが、ちょうど長島監督がチーム低迷の責任をとって辞任したり、王が引退したりと、巨人人気に翳りがさしつつあった頃らしい。それを一発逆転のためのドーム建設だったとのこと。もっとも野球嫌いの私にすれば、この時に巨人の人気がもう少し落ちた方が、後のプロ野球のためになったような気もしないではない。

 

 太陽工業・社長の能村博正は戦後、トラックの幌などからテント一筋で技術を磨いてきた男だった。建設現場などでは「テント屋」と馬鹿にされながらも、テントでは世界一の技術を持っていた。そんな能村の技術が世界に披露されたのは大阪での万博だった。能村らは巨大なパビリオンをテントで包み込み、世界をあっと言わせた。

 しかし能村達の技術にも関わらず、建築基準法ではあくまでテントは仮設建築にすぎなかった。世界を驚かせた万博のテントも結局は焼却処分となり、能村らはやるせない思いでそれを見つめるしかなかった。「後世に残る建築物を建造したい。」 そう思っていた能村は竹中からの依頼を進んで受ける。こうして建築基準法の壁を破る最強のドームを作るという挑戦が開始される。

 いかにも技術屋といった感じの能村が印象的。かなりカリスマを持った人物だったようである。本多宗一郎といい、この時代はこういう社長が日本にも多くおり、彼らが技術立国日本を支えていたと思える。それがいつのまにやら財務屋ばかりが社長になり始め、その頃から日本はおかしくなったのではないか。

 なお技術屋の端くれとしては、能村達の想いはいやというほど分かる。これは技術屋のプライドというものである。

 

 太陽工業でこの仕事を任されたのは、能村の愛弟子の望月利男だった。望月は身が引き締まる想いがした。望月は種々の素材を試した後、アメリカで開発されたシィアフィル2という高強度で難燃性の素材に目をつける。会社総出で実験用のテントを製造した。

 屋根は風速60メートルに耐える必要がある。この実験を任されたのは、別名「風の深尾」こと、竹中の深尾康三だった。彼はかつてビル風の原因を究明した風の専門家だったが、会社内では日の当たらないポジションだった。彼は台風が吹きすさぶ中で実験を行い、膜に張力を与えることで風に耐えられることを証明する。深尾のデータによって建設の許可が下りる。

 ここにもまた技術馬鹿が登場する。しかしどこの会社にもこのような、技術を持っているにも関わらず必ずしもそれが評価されていない人物というのはいるものである。こういう連中をどう使いこなすかが、その会社の発展に大きく寄与するのだが。

 

 建設の許可を聞いた能村は、十億の借金をして新工場を建設する。社運を賭けての大勝負だった。

 しかし突然に東京都から日照権の問題で横槍が入る。それを回避するためには屋根を傾けた斜めドームという前代未聞の建設を行うことになる。しかし屋根を斜めにすることで、打球が天井に当たる恐れがある。計算担当の丹野吉雄は打球の測量を繰り返し、打球が当たらない高さを割り出す。

 大勝負に出る能村、しかしそこに思わぬ横槍がというパターンである。この辺りはお決まりの展開ですね(笑)。

 

 だがドームを空気圧で膨らます実験を行った時だった。信じられないトラブルが発生した。膜を支えるケーブルが膜を噛んで途中でドームが膨らまなくなったのだ。このままでは膜が破れてしまう。丹野達は青ざめる。深尾は精巧なミニチュアを作り上げ、原因の究明に勉める。実験の結果、膜を支える金具に問題があることが分かった。深尾達は金具の改良に注力する。

 これもお定まりの「いきなり思わぬ技術的障壁が」のパターン。どんな技術でも必ずこういうことが起こります。だから事前に実験施設などでのテストが必要なわけです。むしろここで問題が露見したのは、結果としてはラッキーというのが正しいところです。

 

 一方、その頃望月もとんでもない事態に直面していた。納入されてきたシィアフィル2は、ロットごとに伸び率も強度も異なるというとんでもないものだった。このままでは膜にしわが入ってしまう。アメリカに飛ぶ望月だが、「機械のせいでどうしようもない」と言われて帰ってくる。

 これもよくある話。サンプルだけでテストして、本番でもそれと同じものが来ると思っていたら、痛い目に遭います。大体、サンプルなんていうのは一番物性が良いのを送ってくるもんですから。これは素材メーカーに勤務している私が言っているのだから確かです(笑)。

 

 会社総出で、全生地の強度の測定が開始された。望月がそのデータに基づいてドームの設計を行う。その傍らで彼を助けたのが斉藤嘉仁だった。彼は家にも帰らずに仕事に励んだ。彼はガンで闘病中の父に是非とも自分の仕事を見せたかったのだ。

 望月達の設計が完成し、深尾の改良金具も完成した。そしてついに工事が開始される。昭和62年6月28日、いよいよドームが膨らまされることになる。それをビルの屋上から眺めている男がいた。能村だった。そしてその傍らには癌と闘う斉藤の父を呼び寄せていた。

 これまたこの番組の定番「父と息子」の物語。ただし今回は主役は息子の方。こうやって「仕事馬鹿」が再生産されていくのですかね(笑)。

 

 送風機から空気が吹き込まれ、膜が膨らみ始める。きしみを上げる金具、不安な面もちで見上げる斉藤達。しかし次の瞬間、金属音が収まる。ついにドームは完成した。能村は小さくガッツポーズをすると、斉藤の父に頭を下げる。

 こうしてドーム完成。なんか終わってみると、能村の執念だけが妙に浮き彫りになった感じで、他の登場人物が食われてしまっていた(笑)。しかし「後世に残る建築をしたい」というのは、非常に理解出来るな。ただ彼はここでの大勝負に成功して会社を発展させたのだが、逆に失敗して会社をつぶした例なんてのも、世の中にはあるのと違うかな。

 

 今回はこの番組に定番の巨大建築物もの。ただどうもNHKの意向が透けて見えたのが少々鬱陶しい(笑)。ちなみに読売絡みの話なので、まさかナベツネが出てくるなんてことはないだろうなと思ったが、やっぱり出てきませんでした(笑)。

 

4/2 プロジェクトX「決戦・人類最強の敵〜日本人リーダー天然痘と闘う〜」

 大昔から、最悪の伝染病と言われた天然痘。今まで何度となく流行し、多くの人命を奪ってきた。そんな天然痘の根絶に挑んだ日本人リーダーの物語である。

 

 昭和37年、厚生省で満たされない日々を送っていた蟻田功は、WHOのリベリアでの感染症予防の専門家募集に答えて、リベリアに飛ぶ。そこで蟻田が目にしたのは天然痘の患者だった。蟻田はWHOからワクチンを取り寄せ、予防に走り回る。

 世界各地で感染爆発の恐れが迫っていた。蟻田はWHOから「根絶プロジェクトのためにWHOに勤めないか」と誘われる。それに答えて、蟻田は厚生省を辞め、WHOに勤めることにする。しかしWHOに出向いた蟻田は愕然とする。プロジェクトには蟻田一人しかおらず、誰も天然痘撲滅など不可能だと考えていたのだ。

 感染症対策に奔走していた蟻田が、高度成長期になって飼い殺しにされるのがいかにも象徴的。厚生省の改革試案を提出した蟻田に対して、上司が「なぜ仕事を作るんだ」と言ったというのが、いかにもお役所的で情けなくなる。そういえば、お役所の得意技は「前例がない」。つまりお役所の仕事は太古の昔から、減ることあっても増えることはないと言うんだろう。以前の「風力発電」の回でも、官庁の許可を取ろうとしたら「先例がないから駄目だ」と拒否されたというアホな話が出てましたね。先例がないからこそ挑戦するのに、お役所的思考ではそれらはすべて駄目になっちゃうんですよね。この辺りが今の日本がガタガタになっている現況。

 こんな中で蟻田がWHOに活躍の場を求めたと言うのはいかにもであるが、ここでも蟻田にとって十分に活躍の場が用意されていたわけでもなかったというのは、いずこも同じということか。

 

 蟻田は各国の厚生省にワクチンの提供をするように働きかける。活発に動き回る蟻田に対して「日本からサムライが乗り込んできた」と評判が立つ。そんな蟻田の元に、ブラジルのアマラル夫妻を始めとして、世界中から同じ目的を持った医師達が集まり始める。天然痘根絶のためのプロジェクトが結成されることとなった。

 しかし逆境にも負けずに動き回る蟻田氏。確かにどう考えてもお役所の枠に納まる人物ではなかったということだろう。なおこういう人物はやはり志のある人物を引き寄せる。しかし上には疎まれるんですよね。

 

 蟻田が最初にターゲットとしたのはインドだった。しかし6億の人口を抱えるインドでは、いくらワクチンを打って回っても焼け石に水だった。一向に効果が上がらないことに蟻田への批判が集まる。蟻田はここで一計を案じる。患者の行動を一ヶ月に渡って遡って、その間に接触した者にだけワクチンを接種するのである。蟻田は最大の感染地・西ベンガル州へと乗り込む。

 しかしそこで村人達はワクチンの接種を拒む。それは天然痘にかかると幸せをもらえるという神への信仰のためだった。蟻田は村の長老に対して「ワクチンを接種することは天然痘に感染するのと同じで、幸せをもらうことが出来る」と説得する。この呼びかけで村人はワクチンの接種を受けるようになる。蟻田のワクチン作戦は成功し、1年半後、ついにインドから天然痘根絶に成功する。

 天然痘の根絶に乗り込んだら、そこの現地の神様が障害になった・・ってありがちな話です。これ以外にも迷信だのなんだのと、蟻田が行ったような努力に対する障害というのは結構多いです。そういえば、以前の「集団検診」の回でも、地元民の「病気になったら恥だ」という考えがかなり障害になったと言うことは言ってましたね。そこで無理強いをするわけでなく、いかに現地の人に受け入れてもらえるように考えるかというのがポイント。ちなみに天然痘にかかると幸せがもらえる神様というのは、一度天然痘にかかると免疫が出来るので、二度とかかることがないということを経験的に知っていた現地民から発生した信仰のように思えますね(もっとも天然痘は、その一度目に罹ったときに死んでしまう確率がかなり高いのですが)。なお天然痘のワクチンの発見は、牛痘という手に天然痘のような発疹の出来る病気にかかった人が、天然痘にかからないということがきっかけになったということも聞いたことがあります。

 

 一息ついた蟻田達。しかしそこに信じられないニュースが届く。アフリカで感染爆発が発生したのだ。しかもそこはゲリラが跋扈する紛争地、国連でさえ手出しの出来ない土地だった。

 蟻田はエチオピアに乗り込んで天然痘根絶作戦を開始する。しかし紛争は激化し、外国人は避難が始まる。しかし蟻田は言う「人生の価値はやる気で決まる。諦めることは無意味だ。」彼は作戦の続行を決意し、他のメンバーもそのまま残留する。しかし2日後、アマラルが行方不明になる。彼はスパイと間違われ、ゲリラに囚われたのだ。ゲリラは民間人でも殺していた。アマラルも処刑されるかと思われた時、ゲリラの一人が言う「彼は医者です。我々を助けてくれます。」そのゲリラはかつてアマラルの元で助手をしていたソマリア人だった。「オレ達にもワクチンを打ってくれ」ゲリラ達はアマラルに腕を差し出した。二週間後アマラルは解放される。

 ここで大問題、「紛争地帯でどうやって医療行為を行うか」であるが、蟻田らはどこの陣営に組みするわけでもなく、中立の状態で活動したということがポイント。それでも破壊だけを目的としているようなゲリラ相手ならとても通用しなかったのだが、ゲリラ達も一応は天然痘の脅威は理解していたということだろう。

 ただアマラルは幸運にして無事に帰ってこられたが、紛争地帯でそのまま命を落とす者なども多いのが実際である。ここでアマラルが死んでいたら、蟻田の責任問題なんかも浮上したのでは?

 ところで、「人生の価値はやる気で決まる」なんて、団塊世代の親父達などが涙を流しそうなセリフだな。ただこのセリフに感動して、やたらに精神論を振りかざされたら、下の者はたまったものではないが。

 

 無事に帰ってきたアマラルを迎える蟻田。蟻田はアマラルに尋ねる「ブラジルに帰りますか?」。アマラルは笑って首を振った。作戦が再開され、1979年10月26日、WHOは地球上の天然痘の根絶宣言を発表する。

 蟻田達の執念が実った輝かしい瞬間である。それにしても「天然痘を撲滅するまでは子供を産まない」と決意していたアマラル夫妻が、天然痘撲滅の1年後に子供を作ったというのがなかなか良いエピソードだ。しかもその子供が成人後、父親の意志を継いで医者になり、僻地医療に貢献しようとしているというのが、実に泣かせる。

 

 日本の枠を越えて、真に世界のために貢献した「国際人」の物語である。英語が出来るだけで国際人ぶっている勘違い非国際人とか、世界情勢のことをまるで知らないインチキ国際政治学者などが闊歩している今日、本当の「国際性」というのがどういうものなのかを考えてみる必要がありそうである。

 

2/5 プロジェクトX「炎を見ろ赤き城の伝説〜首里城・執念の親子瓦〜」

 今回のテーマは、沖縄の首里城の復元。伝説の赤の復活に賭ける古文書の、赤瓦に命を賭ける執念の瓦職人親子といった調子で、初っ端から親父族の琴線に訴えるキーワードの連発である。大体、サブタイトルからしてキーワードが二つも入っている。

 

 沖縄の誇りだった首里城。しかし昭和20年の沖縄戦の際の米軍の攻撃により、城は完全に焼失してしまう。

 翌年、一人の復員兵が帰ってくる。瓦職人・奥原崇実、彼はかつて父や兄と共に首里城の赤瓦の葺き替えに携わった男だった。彼はいつの日か再び首里城の赤瓦を焼くことを誓いながら、兄と自分の子供11人を養うためにひたすら瓦を焼き続ける。

 20年後、51才になった奥原は、昼夜を徹して毎日子供達のために瓦を焼き続けていた。彼が瓦焼きのの技を仕込んだのが三男の崇典。しかし崇典は絵描きになりたいと考え、そのことを父に打ち明ける。父は「お前の行きたい道を行け」と告げ、崇典は日本画家になる。

 また泣かせる父と子の物語の始まりである。いかにも職人の親父が胸を打つ。そしてこの父と子の物語が、今回のメインストーリーである。

 

 沖縄が本土に復帰した翌年、沖縄の文化財復元の責任者・源武雄が首里城の復元を呼びかける。その訴えに沖縄の老人達が立ち上がる。6000人を越える賛同者が集まり大きなうねりとなり、ついに国の予算もつく。奥原も「俺が首里城の赤瓦を焼く」と立ち上がる。しかし間もなく、彼は心臓発作で仕事場で倒れる。彼は一命を取り留めたものの、もう二度と瓦を焼くだけの体力はなかった。

 ここで「信じられないこと」が起こってしまう。あまりにもドラマチックな展開と言うべきか。ただこれが次の展開につながるのだが、ここまでの構成を見ていると、どういう展開になるのかは大体の予想はつくところである。なんせこの番組は「ドラマよりもドラマチック」であるから。

 

 昭和60年、首里城後の発掘が行われる。しかし首里城の復元は困難を極めた。あまりにも残された資料が少なすぎた。この困難な作業を委ねられたのが、古文書の鬼と呼ばれた高良倉吉だった。かつて沖縄の国費留学生として本土に留学した彼は、ろくに寝ずに猛勉強を続けた努力家だった。彼は片っ端から資料を調べ始め、やがて文化庁に首里城の修理の時の記録が残っていることを見つける。これで柱のサイズなどの建物の構造が明らかになる。しかし石垣などの高さが分からない。かつて首里城内の国民学校で教師をしていた真栄平房敬に声がかかる。彼は自分の記憶を頼りに石垣の寸法を明らかにする。

 ここでこの番組の定番「鬼」の登場である。それにしても彼の猛勉強ぶりについては「通学の電車の中でしか寝なかった」とか「一日に一冊、古文書や歴史書を読んだ」とか「風呂は週に一回だった」とか、いかにも親父族の胸を打ちそうなエピソードの連発である(最後のエピソードについては、ただ単に不潔だっただけのようにも思えるが)。

 

 しかしまだ問題が残っていた。首里城の色彩を示す資料が何も残っていなかった。高良のさらなる調査によって、18世紀の改修記録に行き当たる。そこには朱塗り、赤土塗りなどの情報が記載されていた。高良達はアジアに飛んで、紫禁城などを調査、首里城はいかなる赤を使用していたかの情報を収集する。

 赤を求めて三千里、彼らは色見本まで持ってアジア中を飛び回ったらしい(色見本といえば、コシヒカリのエピソードの時も登場しましたな)。各地で彼らは膨大な写真を撮りまくったようだが、一つだけ気になったのは、カラー写真にしてしまうと色調は変化してしまうのではないかということ。だから彼らの写真は、色調の調査よりも、むしろ装飾などの調査に使われたのではという気がするのだが。

 

 さらにもうひとつの問題があった。それは首里城の赤瓦だった。しかし沖縄中の瓦業者が「とても出来ない」と断る。そんな中、ただ一人手を挙げたのは、奥原の三男・崇典だった。父に瓦焼きの技術を仕込まれた彼は、自分には出来ると考え、父の望みをかなえたいと思っていた。しかし崇典の話を聞いた父・崇実は言う「首里城の赤瓦は生やさしいものではない、止めろ」。

 しかし崇典は退かなかった。彼は一億円を投じて瓦工場を新築する。高貴な赤瓦を思い浮かべて彼は死語に挑む。しかし三日後、窯の中からは出てきたのは、無惨にただれた黒い固まりだった。赤瓦を焼くには実に微妙な条件が必要だった。彼は失敗を重ね、そのたびに5000枚・50万円が無駄になった。

 当初の予想通り、赤瓦の仕事は三男の崇典が引き受けることになります。極めてお約束の展開というべきか(笑)。それにしても、彼は絵の方は一体どうなったんだろう? 

 

 高良達は首里城の赤に迫っていた。柱の朱や、壁のベンガラが定まっていく。ただ窓の格子の赤土だけがどうしても分からなかった。古文書に没頭する高良、ある日とうとう、久米島から赤土を献上したという資料を見つける。高良は久米島に飛ぶ。そしてやっと顔料に使える赤土を見つけだす。

 赤土を顔料にしていたというのは驚きである。顔料に出来るほどの土などは私も見たことがない。ところで久米島の名前に聞き覚えがあると思ったが、以前のウリミバエの回に出てきた、ウリミバエに占拠された島である。島の陶芸家が出てきたが、彼もミバエと戦いながら陶芸をしていたのだろうか?(笑)

 

 その頃、崇典の失敗は4万枚を越えていた。崇典は王達の墓に「瓦を焼く力を与えてくれ」と祈る。再び仕事場に向かう崇典、その時、仕事場に父の崇実が現れる「慌てるな、炎をよく見るんだ」崇実は崇典の後ろにどっかりと腰を下ろす。「父が自分を見ている」崇典の心が落ち着いた。彼は窯の炎を見つめる。

 翌朝、彼は祈りながら窯を開ける。そこには気品溢れる赤瓦があった。最高の赤瓦だった。父は大きく頷くと3年ぶりに仕事場に向かい、飾り瓦の製作を始める。

 そして瓦を葺く日、父は息子に言う「屋根に登るぞ」。5万5千枚の赤瓦が屋根を埋める。首里城が47年ぶりに姿を現した。人々の執念が結実した瞬間だった。

 「友情・努力・勝利」といったまるでどこかの雑誌のキャッチフレーズのような展開である。しかし心臓病で倒れた親父がここで登場するというのは驚き、しかもこの親父、とうとう屋根にまで登ったというのだから奇跡である。なお彼はその一ヶ月後に死去したというのだから、執念だけで生きていたというように思える。人間は精神力だけでも結構もたすことが可能なのかと感心した。

 ところでやはり気になったのは崇典の本職、彼は沖縄一の瓦職人になったということだが、絵の方はどうなったんだろう(笑)。ただ申し訳ないが、彼が父の魂を描いたという絵は、私の目には極めて平凡なものに見えた。やっぱり沖縄一の瓦職人の方が手堅いのではないだろうか。この番組に登場したときの肩書きも「瓦職人」だったし。

  

1/15 プロジェクトX「王が眠る神秘の遺跡〜父と息子・執念の吉野ヶ里〜」

 今回のテーマは、空前の弥生時代遺跡である「吉野ヶ里遺跡」発掘の物語である。そこには秘められた父と息子の物語があったという話。

 

 高度成長下の昭和35年、九州各地が発展を遂げる中で、農業中心の佐賀県は若者の流出に悩んでいた。そんな佐賀県の片田舎、吉野ヶ里で日本史の教師・七田忠志は弥生時代の遺跡の発掘に打ち込んでいた。彼の授業は変わっていた。彼はいつも弥生を熱く語った。この吉野ヶ里には重要な遺跡があるというのが彼の信念であり、彼は他の土地への転勤を断ってこの地にこだわっていた。家族が呆れる中で、彼の理解者は次男の忠昭(小学校3年)だった。

 はっきり言って問題教師である。当時の生徒が「弥生時代ばかり授業でするので不安を感じた」と言っているが、それも当然であろう(笑)。それにしても、小学3年から遺跡に興味を示すとは、なんて渋い子供なんだろう。

 

 彼は吉野ヶ里に邪馬台国があるのではと考え、発掘の要請を行った。しかししがない教師である彼の意見を聞くものは誰もいなかった。昭和50年、息子の忠昭が佐賀県の文化課に就職し、県内の遺跡の記録係となった。そして七田は今までの研究成果をまとめる執筆を始める。しかし彼はその途中で倒れ、「村の歴史を・・・」の言葉を残してこの世を去る。

 親父の執念が息子の就職を決めてしまったようである(笑)。ところで学会というのは権威主義なので、七田のような民間研究者の研究はなかなか通りにくいものである。彼と同様に不遇の最後を迎えた研究者は多いと思われる。

 

 昭和60年、時はバブル全盛。佐賀でも工業団地の計画が持ち上がる。そしてその候補地に選ばれたのが吉野ヶ里の丘だった。建設工事の前には遺跡の発掘が義務づけられている。県や町の職員6人のプロジェクトが結成され、七田忠昭がそれに従事することになる。彼はこれで父の念願だった吉野ヶ里の発掘が出来ると考える。彼には心中に期するものがあった。

 発掘を始めてからメンバーは驚く。大量の弥生土器が発掘されたのだ。広大な敷地の発掘には100人もの地元の村民達が作業員として協力していた。彼らは発掘が早く終われば、工業団地がやってくると期待に満ちて協力をしていた。現場は盛り上がっていた。

 日本における発掘は、開発前に急ぎ足で行われることが大半であるというのが実状である。それだけに期間は限られるし、遺跡の保護は難しいなどのかなり制約があるのである。七田の心中が複雑だったのは想像に難くない。

 

 一週間後、巨大な甕棺が見つかり、その中からさらに昭和63年、集落を囲む巨大なV字型の溝が発掘される。想像を絶する巨大集落だった。メンバーは喜ぶが、七田の顔はこわばる。この遺跡は記録を残すだけで終わるべきものではなかった。この遺跡を残したいと彼は考える。しかし彼の頭をよぎったのは、奈良で発掘された長屋王の屋敷跡のことであった。木簡が大量に見つかり世紀の大発見だと言われたのだが、結局遺跡は壊され、デパートが建った。あの遺跡でさえ壊されるのなら、吉野ヶ里が残されそうなはずがなかった。また地元の人々が工業団地に期待しているのを知っている彼は、それを言い出せなかった。そんな矢先、発掘の終了を待たずに工事が始まることが決定される。発掘の現場にブルドーザーが現れる。七田は唇を噛む。

 この長屋王の屋敷跡に建設されたのが、奈良そごうである。そしてこのデパートは最近破綻した(長屋王の呪いだという声もある)。世紀の大発見を、無意味なデパートがつぶしてしまったのだから、明らかにバブルの罪である。これは世界的にもどひんしゅくなことだと感じるのだが、日本はこの辺りには極めて貧困な国である。

 

 遺跡を取り囲む溝は未曾有の規模になりつつあった。しかし遺跡の取り壊しは3日後に迫っていた。いたまれなくなった七田は、弥生研究の権威である奈良国立文化財研究所の佐原真に連絡を取る。七田は佐原に現地を見てくれるように頼み込む。しかし佐原のスケジュールは10日後しか空いていなかった。七田は工事を待ってもらうために、現場監督の黒岩貞夫に頼み込む。工事の延期を拒む黒岩を、七田は出土された土器の保管場所に連れていき「せめてどれほどの遺跡か確認させて欲しい」と頼み込む。七田の熱意に押された黒岩は独断で工事を遅らせる。

 10日後、佐原が吉野ヶ里に現れる。緊張する七田。2時間の視察の後、佐原の口から「吉野ヶ里は邪馬台国を記した魏志倭人伝の記述に合致する」との言葉が出る。ニュースが全国を駆け抜ける。

 先に「日本の考古学会は権威主義だ」と言ったが、だからここで七田が弥生研究の権威に頼ったのは、作戦としては正解。この方法しか遺跡保存の可能性はなかっただろう。幸いだったのは、佐原がキチンとした研究者だったこと。そうでなかったら、単なる政治的交渉だけで時間を費やしてしまったところである。

 ところでまたもや「現場の独断」である。この番組で困難な事態の解決を見るのは、大抵は「現場の独断」の場合が多いのだが、これは日本の組織にはそれだけ無能な管理職が多すぎるということの反映であるようにも思える。それにしてもこの番組の視聴者層は、むしろこの管理職側に属する世代が多く、毎回涙を流して感動しながら見ている方もいるとの噂だが(笑)、こんな現場の独断専行を促すような番組は大丈夫なんだろうか?(笑)

 

 佐賀県庁では幹部が集まり、会議が行われる。開発派がズラリと並ぶ中で、七田の上司・文化課の高島忠平は「全国に誇れる遺跡です保存できないでしょうか」と訴える。これに対して開発派からは「遺跡で県民が食えるか」と猛烈な反対がわき起こる。そこに和って入ったのは知事の香月熊雄だった。彼は憤丘墓を掘って遺跡を保存するかどうかを決定することを提案する。

 いかにもどこのお役所でも行われるような議論。概してお役所は土建勢力が強いので、開発賛成派が中心である。「遺跡で県民が食えるか」なんてセリフは、この遺跡のところを他のものに変えたら、今でも全国各地で行われている議論でしょう。例えば、白神山地なんかでも「原生林で地元が潤うか」なんて類の議論がありましたよね・・・。そんな中で知事の香月の聖断は、自治体の主張としてはむしろ異色でしょう。

 

 緊張の中、憤丘墓の発掘が行われる。甕棺の掘り出される。そして甕棺の中から王の冠に使われる管球と王の権威の印である有丙銅剣が発見される。木の墓は王の墓だったのだ、世紀の発見だった。平成元年、県は吉野ヶ里の保存を決定する。

 最後の勝負を賭けた発掘。これが世紀の大発見につながります。しかしよくぞ、遺跡を捏造しなかったものです(笑)。今、日本の考古学は例の捏造事件のおかげで大混乱ですからね。研究者たる者、常に正直であることが要求されています。

 

 七田には最後の仕事が残っていた。彼は工業団地を期待していた地元の人々に、遺跡を残すために工業団地の建設が出来なくなったことを、恐る恐る告げる。しかしそこには村人達の笑顔があった。彼らはこの遺跡を故郷の誇りだと感じていた。

 「故郷の誇り」良い言葉ですね。最近はこれがない者が増えたから、簡単に山河を破壊してしまう輩が増えているのでしょう。この素朴な「故郷の誇り」の延長線上にあるのが真の愛国心というものだと思いますね。

 なおこの時の村人の判断は結果的には賢明だったと言えるでしょう。もし工業団地の建設を進めていたら、この後のバブルの崩壊で誘致企業は全く来ず、遺跡を破壊して借金を残すだけという結果になっていたところです。現在の吉野ヶ里は遺跡公園として観光客を集めているのですから、経済的にも完全に大正解だったということです。もっとも逆に言えば、遺跡で観光客を呼べるという目算が立ったから、工業団地の建設にこだわる必要がなくなったという意地悪な見方も出来るのではありますが。

 

 今回は内容紹介(斜体)にコメントを挿入する形式にしてみました。私個人としてはこの形式の方がコメントを書きやすいです。やっぱり私の芸風ってツッコミ型なんでしょうか?(笑)

 

1/8 プロジェクトX「あさま山荘 衝撃の鉄球作戦」

 いずれは登場するだろうと言われながら、今まで登場しなかったテーマの登場である。NHKとしてもまさに「満を持して」の登場であり、新年初放送に2部構成90分といった体制で持ってきている。

 ただしこの題材自体は、NHKに限らず各番組で語り尽くされたものである。そこでこの番組では、事件解決に協力した地元の人々を中心に描いている。またあの鉄球を操作した技術者に脚光を当てたりなど、この番組のテーマである「大きなプロジェクトを成し遂げた無名の人々に光を当てる」という志向に沿ったものとなっている。

 

 昭和47年、日本は過激派・連合赤軍の爆弾テロで騒然としていた。2月19日、東京の喧噪から離れた別荘地、軽井沢町・馬取地区で信じられない事件が発生する。連合赤軍のメンバーがあさま山荘に管理人の妻・牟田泰子を人質として立て籠もったのである。犯人達は銃砲店から入手した銃器で武装しており、斜面に建設された山荘は要塞のようであった。最悪の事態であった。

 事件解決の指揮を執ったのは、長野県警本部長の野中庸。彼は人質の命を優先するために、犯人に対して絶対に発砲しない方針を立てる。

 だが事件解決の糸口は全くなかった。犯人の家族を呼んで説得工作をしても、彼らは肉親の乗る車に対して発砲してきた。警官隊と犯人との長期の睨み合いになる。しかし夜中にはマイナス20℃になる気象の中、警官達は凍傷になり、弁当は凍り付く様だった。警官達の疲労がつのる。

 その時、村の女性達が貴重なコメを持ち寄り、一人600個もの握り飯と、熱い豚汁を差し入れる。これで警官達は甦る。

 村の男たちも立ち上がった。警察は犯人からの銃撃を防ぐための土嚢3000個用意することを決定したが、そのための麻袋が調達できなかった。小諸農協の大野正秀は独断で備蓄米用の麻袋の提供を決定する。また土嚢につめるための土(この季節、山の土は凍っていて土嚢に出来ない)を提供したのは馬取村の佐藤豊と別荘地の事務所長の篠原宣彦だった。村の男たち20人が総出で土嚢を作る。

 犯人との睨み合いは一週間にも及んだ。しかし人質の牟田泰子のことを考えると、10日が限度と推測された。野中は突入を決意する。二階にいると思われた泰子さんと三階の犯人を分断するために、階段を破壊する作戦が考えられる。しかし頑丈に作られた山荘の階段は、人力で壊すことは不可能だった。警視庁から応援に来ていた幕僚の佐々淳行が「ビルの解体で使う鉄球ならどうだ」と提案する。

 しかしどの業者も、報復を恐れて尻込みした。そんな中、この作業を引き受けたのは、クレーン技術者の白田弘行だった。彼の心の中には、卑怯な犯人グループに対する怒りが渦巻いていたのだった。彼は義理の弟の五郎と共にこのプロジェクトに挑むことを決意する。二人は今まで数々の作業を阿吽の呼吸でこなしてきたコンビだった。この二人は後に伝説となる。

 犯人の銃撃を押さえるには放水も欠かせなかった。しかし山荘付近には水がなかった。水の確保に困る警察に対して、別荘地の管理人の篠原は別荘地用の生活用水を提供する。この夏のシーズンの営業を諦めてまでの決断だった。

 白田兄弟は鉄球クレーン車の改造を行っていた。弾除けのために9mmの鉄板を貼り、警察から提供された防弾ガラスをはめ込んだ。危険な作業になるはずだったが、彼らには恐怖はなかった。突入は明日の10時である。

 突入前夜、馬取村には雪が降る。深夜、白田兄弟は犯人に気づかれないように、鉄球クレーン車を別荘の手前100mまで持ってくる。そこで警察からの作戦指示書を受け取る。作戦は一撃で階段を破壊するというものであったが、柱を損傷しないためには20センチの誤差で鉄球を操作する必要があった。

 深夜、一升瓶を下げた野中が白田兄弟を訪ねる。彼は白田兄弟に対して「一日警察署員に任命すると告げる」。危険な任務に向かわせる白田兄弟へ対する彼の思いだった(万一のことがあった場合、警察官に準じた補償をするという意味だと思われる)。

 夜明け前、雪が激しくなり積雪が30センチになる。このままでは山荘前にクレーン車を移動できない。佐藤豊がブルドーザーで出動、積雪で道幅も分からない中で、彼は命がけで除雪を行う。

 作戦決行の朝、白田兄弟は作業のためにギリギリまで山荘に接近する(当時の写真を見ると、彼らのクレーン車はなんと警察の装甲車よりも前に出ている)。そのクレーンを運転する白田弘行を狙って、犯人の銃弾が放たれる。銃弾はクレーンののぞき窓を正確に捉え、防弾ガラスをえぐる。「もう一撃を食らったら危ない」。そう思いながらも不思議に白田弘行は冷静だった。

 弟の白田五郎がクレーンを操作する。7m先の壁に狙いを定める。鉄球は正確に階段を捉え、それを破壊した。山荘の二階と三階が分断される。作戦が開始された。

 放水が開始され、二階への突入が開始される。しかし二階には誰もいなかった。泰子さんは犯人達と三階にいたのである。犯人達との直接対決が強いられることとなった。

 白田兄弟は三階の銃眼をつぶしていった。また放水も繰り返される。突入部隊は土嚢から頭をのぞかせて突入のタイミングを測っていた。しかし犯人からは銃弾の雨が浴びせられる。そして警官隊の高見繁光と内田尚孝が犯人の銃弾を浴び、殉職する。

 突入は難航していた。しかもここで放水が止まってしまう。作戦予定時間を大きく過ぎており、別荘地の水がなくなってしまったのだ。さらに孤軍奮闘していた白田兄弟の鉄球クレーンもバッテリートラブルでエンジンが停止してしまう。突入部隊は完全に武器を失ってしまった。野中は作戦中断の苦渋の決断をする。

 作戦を再開するためには、最低でも水の確保が必要だった。しかし地元の消防車のポンプを連結しても、麓の池から水をあげることは不可能だった。

 その時、群馬県から最新鋭の消防車がサイレンを鳴らして駆けつける。この新鋭車を先頭に6台を連結して水をあげることが計画される。しかしポンプの圧力の制御は困難であった。もしこれを間違えると水は上がらずポンプは焼け付いてしまう。もし突入中に放水が止まれば、警官隊の命が危なかった。この大役に名乗りを上げたのは、19才の新米消防士・小林勉だった。彼はかつてこの近辺を遊び場にしており、地理に明るかった。彼はこの思い出の地を汚した犯人達への怒りを胸に秘めていた。

 突入作戦が再開されることになり、4人の警官が突入部隊を志願する。その一人・永原尚哉は一瞬、9ヶ月になった長男の顔を思い出すが、自身の危険よりも犯人を捕まえたい想いの方が強かった。

 午後4時46分、永原達の突入が開始される。しかし彼らには容赦のない銃弾が浴びせられる。「このままではやられる」その時、犯人に対する放水が開始される。放水が壁を壊し始める。激しい放水に水がなくなるかと思われた直前、壁が崩れる。永原達が飛び込む。そこには泰子さんがいた。彼らは無事に人質の救出に成功した。

 

 まさにこの番組らしい「熱い」内容であった。印象的なのは、命の危険を伴う任務に立ち向かっているにもかかわらず、誰もが「危険を感じなかった」と発言していること。これは異常な事件の興奮で、一種ハイになっている状態であると考えられる。また村の誰もが通常では考えられないような協力をしているが、これもそのような雰囲気がなさせる技であるといえる。

 実は私も阪神大震災の経験で思い当たる節がある。と言うのは、あの時は私自身、疲れも空腹も何も感じない様な状態になっていたからである。またあの頃は、日本中が突然にボランティア精神に目覚め、誰もが「何か協力をしなければ」という空気になっていたことも記憶に新しいところである。

 この番組の目玉は、クレーン車を操作した白田兄弟のエピソードだろう。突入した警官隊のことは扱われても、彼らのことが表に出てきたことはほとんどない。それというのも、犯人グループからの報復を避けるために、彼ら自身がほとんど事件について語らなかったからだという。多分、彼らが今になってテレビに登場する気になったのは、北朝鮮に渡っていた赤軍メンバーが日本で逮捕されたり(それ以前に、既に普通のオッサン、オバハンになってしまっている連中も多いが)、もう彼らの報復を受ける可能性がほとんどなくなったことが大きいところだろう。

 それにしてもいかにも喧嘩っ早そうな白田の写真を見ていると(そもそも「義兄弟」なんて、ほとんどヤクザではないか)、彼は単純に犯人に対する怒りだけで、この危険な任務を引き受けたのだろうと推測される。白田兄弟に限らず、大抵の連中の原動力は犯人に対する怒りである。連合赤軍が何を目指していたのかはしれないが(「革命」などと言う言葉を使っていたわけだから、当初は何らかの社会改革を求めていたのだろう)、破壊活動自体が目的と化してきて、それが社会から大きな反感を買っていたということを示している。

 大体、現在テロリストと言われているような連中も、もとをたどれば独立運動とかの大義名分があった場合が多いのだが、それがおかしな方向に進みだして、暴力が目的化してしまった場合が多い。どんな運動も、一端そちらの方向に動き出すと悲惨なものである。構成員にも思想的背景のない破壊衝動だけの輩が増えてくるし、そうなるとまともに活動していた連中は去っていくし、社会からも遊離して単なる犯罪者集団になっていくのである。昨今のオウムの例も含め、組織の堕落の典型的例である。このような堕落は、反政府運動に限らず、宗教組織でも自然保護運動でもあり得るので、要注意である。このコースを歩む可能性がないのは、政府などが裏で仕掛けている御用運動ぐらいだろう(ある意味、最初から堕落してるんだから)。なお、反政府的な運動をつぶす手法として、意図的にそういう類の連中を送り込んで、組織が社会から遊離し始めたところで武力的に叩きつぶすという高等テクニックもある。

 

11/13 プロジェクトX「8ミリの悪魔VS特命班〜最強の害虫・野菜が危ない〜」

 今回は沖縄本島を襲撃した最強の害虫ウリミバエと、それを撲滅するために戦った男たちの物語である。私の記憶する限りでは、恐らく今回は最凶のエピソードだったのではないかと思われる。

 

 昭和45年、本土復帰に湧いていた沖縄。しかし誰も気がつかないうちに脅威が迫っていた。植物防疫官の与儀芳雄は、沖縄本島の南300キロの宮古島に飛来したウリミバエを懸念していた。ウリミバエはキュウリやピーマンなど多くの野菜に卵を産みつけて腐らせてしまう最悪の害虫だった。しかも1匹が1000個の卵を産み、それらが1ヶ月で成虫になる。爆発的な繁殖力を持っていた。もし本土に上陸でもすれば、日本の野菜栽培は壊滅的打撃を受ける恐れがあった。また沖縄本島に上陸を許せば、沖縄から本土への野菜の輸出が規制されることは確実だった。沖縄本島は厳戒態勢を敷いていた。

 しかし同年の6月に行われた調査で、沖縄本島から90キロの久米島でウリミバエが発見される。もはや沖縄本島への上陸は時間の問題だった。与儀達植物防疫官は久米島に乗り込んで、強力な殺虫剤を徹底的に散布する。しかしウリミバエが島中に蔓延するのを防ぐことは出来なかった。

 この知らせを受けた農林省は震撼する。農林省の担当官・岩本毅達はウリミバエ根絶の方法を探して文献を調べまくる。その結果、アメリカの学者が考えたとんでもない方法を発見する。それは放射性物質コバルト60で不妊化したメスばえをばらまき、繁殖を阻止するというものであった。

 昭和47年、ついに沖縄本島でウリミバエが発見される。与儀達はウリミバエ根絶のための作戦を久米島で試験することにする。既にこの時、久米島は500万匹のウリミバエに占領されていた。

 不妊化したハエ(不妊虫)を作るには大量にハエを育てる必要があった。与儀の部下達が石垣島へハエの飼育のために送り込まれる。那覇の農業試験場の若者、垣花廣幸、仲盛広明らであった。目標は週百万匹。しかしハエの飼育は簡単ではなく、飼育室の温度がわずかに3℃上がっただけで幼虫が全滅するなどのトラブルに見舞われ続けた。彼らは24時間、飼育室に泊まり込んでハエの世話をする。沖縄決戦の時、逃げ込んだジャングルでマラリア蚊によって兄を失った仲盛にとっては、害虫との戦いは青春のすべてをかけたものだった。

 昭和49年11月、ついに彼らは週100万匹のハエの生産に成功する。早速、さなぎは那覇の施設でコバルト60の照射によって不妊虫が生産された。昭和50年2月、久米島に毎週100万匹の不妊虫が送り込まれる。1年半後ついに久米島でのウリミバエの数は0になる。

 しかし彼らの戦いはまだ終わっていなかった。久米島の20倍もの広さがある沖縄本島での戦いが控えていたのだ。しかもハエ達は米軍基地に潜んでいた。そこは彼らには手出しできない場所だった。

 与儀はヘリで基地内に不妊虫撒くしかないと考える。しかし米軍の回答は「unblievable」、すなわちNOであった。しかしやがて米軍から「調査だけなら認める」との回答がくる。この調査で証拠を突きつけるしかない。そう考えた与儀は、ハブの潜むジャングルの中に踏み込んでいく。そんな与儀達に協力する一人の米軍兵士がいた。ダグラス・エハート大尉、彼はかつて昆虫学の研究者であり、ウリミバエの恐ろしさをよく知っていた。

 データを入手した与儀達は、そのデータを持ってアメリカ軍と交渉する。基地上空の飛行を求める与儀に対して、基地司令は口ごもる。その時、一人のアメリカ兵が両者の間に割って入る。ダグラス大尉だった。そしてようやく基地司令の許可が下りる。

 いよいよウリミバエ撃退作戦が開始される。基地上空からばらまかれる不妊虫。そして1年半後、ついに沖縄からウリミバエは根絶される。

 

 最悪の害虫と戦った男たちの熱い物語であるが、はっきり言って今回は史上最凶の内容だったように思える。番組開始と共に登場するハエのアップにもゾゾッとするが、さすがに100万匹のハエの幼虫(つまりウジ虫である)と言われたときには、全身に鳥肌が立つのを感じた。昆虫嫌いには正視に耐えない画面が多々あり、私も最後まで鳥肌が立ちっぱなしで、よくぞ一時間前に夕食を終わらしといたものだと思った次第。この時間はまだ遅めの夕食をとっている家庭もあるだろうに、抗議の電話とかは来なかったんだろうか? 正直なところ、これを流したNHKの英断には感服する(笑)。

 それにしても沖縄と言えば、いつも問題になるのは米軍基地。米軍基地は犯罪者だけでなくてウリミバエまで飼っていた(笑)とは呆れる次第。米軍基地さえなかったら、ウリミバエ根絶作戦はもっとスムーズにいっていたのだから、つくづく米軍基地は沖縄の癌である。さすがに米軍も自軍の犯罪者は日米地位協定を盾にかばっても、ウリミバエまではかばわなかった(笑)のは不幸中の幸いと言うべきか。

 マラリア蚊に兄弟を奪われた仲盛が、害虫の撲滅に青春を賭けるというエピソードはなかなか泣ける。彼はその情熱で沖縄に巣くう害虫を根絶したのだが、次は是非とも米軍基地に巣くう社会の害虫の駆除にも活躍してもらいたいところである(これ以上言っていると、どんどん危ない方向に話が行きそうだから、ここらで止めとくか)。

  

11/6 プロジェクトX「通天閣熱き7人〜商店主と塔博士の挑戦〜」

 NHK大阪放送局がリニューアルしたとかで、今週は「クイズ日本人の質問」では坂田三吉、「ガッテン」ではたこ焼きなど、一連の「大阪週間」になっているが、その流れを受けてこの番組のテーマも通天閣である。

 

 大阪・新世界の名物として多くの観光客を集めた通天閣。しかしこの通天閣は第二次大戦の空襲で焼失してしまう。

 戦後、その通天閣を再建しようと、地元の商店主達が立ち上がる。坂田三吉の芝居をの背景に描かれた通天閣の絵を見ながら、いたたまれなくなった古着屋の雑野貞二が、商店主らに呼びかけたのだ。これに答えたのは写真店を営んでいた曽和繁雄、鰻屋の竹守義雄、質屋の八木芳夫らである。また麻雀屋の知里正雄は父親が描いた通天閣の絵を持ってくる。彼は父親のためにも再び通天閣を見せてやりたいと思っていた。

 彼らはまず工務店に塔再建の建築費を見積もってもらう。しかしそれは1億5千万円(現代の貨幣価値だと20〜30億円とのこと)という天文学的数字だった。その時、質屋の八木が株券を発行することを思いつく。彼らは出資を集めて回る。しかし彼らの計画は実現不可能だと誰にも相手にされない。食堂の店主などには「もし塔が建ったら、うどんで首吊って死んだる」とまで言われる。

 費用以外にもさらに問題があった。通天閣の跡地には既に別の建物が建っていた。彼らは代わりの土地として市が管理する小さな公園に注目する。しかし市からは、公園に建物は建てられないとけんもほろろにあしらわれる。そんな彼らに知恵を授けたのは、建築局長の伊東五郎だった。彼は公共性のあるテレビ塔を建てればよいと彼らに教える。彼らは開局を目指していた大阪テレビと交渉し、電波塔として前向きに考えるとの回答を引き出す。

 さらに彼らは伊東の紹介で、名古屋テレビ塔を建設した内藤多仲に会いに行く。彼らの熱意に現場の視察に出向いた内藤であるが、予定地のあまりの狭さに困難であると考える。「名古屋のテレビ塔を見てみなさい」彼はそれを言い残して立ち去る。名古屋テレビ塔に出かけた彼らは絶句する。塔は100メートル道路の真ん中に建っていた。どう考えても通天閣の土地は狭すぎた。しかし曽和は大阪のために是非とも塔の再建は必要だと考える。

 彼らは再び内藤の元に押し掛ける。彼らの熱意に打たれて内藤が図面を作成する。それは庶民の塔として丸みを持たせ、敷地の狭い分は地下室を設けてバランスをとるというものだった。また高さは名古屋のテレビ塔よりも1メートル高かった(この1メートルというのが、いかにも「大阪的」なんだが)。彼らの前に希望が見えた。

 彼らは必死で資金を集めて回る。多くの商店主達がへそくりを投入して株券を購入する。しかし彼らが工事を申し込んだ大手建設会社は、資金に懸念を抱いて工事を断る。

 結局、工事を引き受けたのは、奥村組という奈良から出てきた新参企業だった。彼らは金は二の次で、ここで実績を作ることを考えてのことだった。

 工事が始まる。だがあまりの敷地の狭さに工事は難航した。工事が始まるやいなや、近所では家が傾くぐらいの振動が起こった。しかし近所の住民は「塔のためなら我慢する」と耐えてくれる。

 しかしここで信じられない事故が起こる。塔から落ちたボルトが通行人の頭を直撃したのだった。工事責任者の奥村組の島廣一は青ざめて病院に駆けつける。病院には食堂の主人・住田文夫が横たわっていた。意識を取り戻した住田が島達に言う。「まあええわ、ワシの頭一つで通天閣が建つなら安いもんや、あんじょう頼んますわ。」

 そして昭和31年9月、通天閣は完成する。

 

 「恋人たちの東京タワー」に対して、お好み焼きの匂いがしてきそうなほどのコテコテの内容であるところが、いかにも通天閣である。圧巻はボルトを頭に受けながら「ワシの頭一つで通天閣が建つなら安いもんや」と言いきる住田である。まるで吉本のギャグのようにまで聞こえるこのセリフは、いかにも「大阪」としか言いようがない。大阪人間でないと吐けないセリフだろう。

 私も関西人であるのだが、恥ずかしながら通天閣再建のいきさつは全く知らなかった。私にとっての通天閣の印象は、日本橋の電気街に行ったときに見える「日立プラズマビジョン」という泥臭い宣伝塔である。この番組では、いかに大阪人がこの塔に強い想いを持っているかを描いていたが、実のところはこの塔に強い思い入れを持っているのは、新世界周辺の大阪人(もっとも大阪人らしい大阪人と言える気はするが)であって、必ずしも大阪人すべてというわけでないのが事実である。

 

10/16 プロジェクトX「魔法のラーメン82億食の奇跡〜カップめん・どん底からの逆転劇〜」

 昭和40年、食品業界では熾烈なラーメン戦争が繰り広げられていた。その中の一社、日清食品は危機に瀕していた。7年前にインスタントラーメンの商品化(多分チキンラーメンのことだろう)で業界に先鞭をつけたメーカーであったが、その後の競争の激化で業績はどんどん悪化し、製造ラインもたびたび停止する状態になっており、1100人の従業員も800人にまで減少していた。そんな中、新入社員の松本邦夫も、草むしりしか仕事がない日々を送っていた。

 一発当てようと焦った社長の安藤百福は、あの手この手の商品を繰り出したが、尽く空振りに終わっていた。彼は活路を求めてアメリカに飛ぶ。しかしスーパーのオーナー達は、ラーメンを見るなり「どうやって食べるのですか?」と聞いてきた。ラーメンを作ろうにも、アメリカにはどんぶり鉢がなかったのだった。

 昭和45年7月、突如松本は7人の若手社員の一人として社長に呼び出される。安藤が彼らに命じたのは容器に入ったラーメン、カップラーメンの開発であった。

 早速松本はめんの開発を始める。しかしここで大きな問題が起こる。普通のラーメンよりも厚みのあるカップめんは、乾燥のために揚げた時に、中まで火が通らないのだった。

 昭和45年、従業員は既に450人に減少していた。しかし松本のめんの開発はまだ難航していた。松本はテストのためのめんの試食を繰り返す日々を送っていた。毎日20食ものラーメンを試食する彼は、新婚の妻の手料理を食べる余裕さえなくなっていた。

 一方、プロジェクトの一人・大野一夫はラーメン開発に気が乗らない毎日を送っていた。大学で生物化学を学んだ彼は、ラーメン開発に興味はなかった。ある日、彼は社長に呼ばれ、ラーメンに入れる具の開発を命じられる。「具の開発なんて薬の開発に比べると子供だましだ」軽く考える彼であったが、いざ具探しを始めると適当な具はどこにもなかった。彼は必死で具の乾燥方法を調べ、フリーズドライの手法に行き着く。大野はいろいろな野菜を試した挙げ句、ピーマンの乾燥に成功する。しかしピーマンは好き嫌いが多いということで、没になる。その時に安藤が言う「日本人が喜ぶ具は海老だ。」大野の海老探しが始まる。しかし乾燥したらボロボロになったり、色が悪くなったりなど、大野の要求にかなうエビはなかなか見つからなかった。

 一方、麺の開発に行き詰まっていた松本だが、社長の安藤の「天ぷらのあげ方が参考にならないか」のアドバイスで、麺を一割減らすことで中まで揚げることに成功する。

 やっと試作品が出来上がり、売り込みのための問屋回りが始まる。しかしどこの問屋もほとんど相手にしてくれない。しかも持ち込んだある大手商社では「こんなものは絶対に売れない」とまで断言される。開発メンバーに失望が走る。(最初の頃のカップヌードルは、確かに異様な印象を受けたので、「これは食べ物か?」という問屋の感想は正直なところだろうと思う)

 その頃、大野はやっと要求にかなう海老を見つけることに成功していた。こうしてカップ麺の製造が開始される。

 販売ルートの開拓は、営業きってのセールスマン・秋山晃久に委ねられた。彼は飛び込みで営業を続ける。球場などで売り込みを行うもののうまくいかない。夜になってがっかりした秋山が気づいたのは、都会には夜にも働いている者がいることだった。秋山はカップ麺を消防署や工事現場、夜勤の看護婦などのところに持ち込む。彼らはカップ麺を受け入れた。

 ここで安藤は大勝負を賭ける。銀座で一日に二万食を売り切る空前の街頭販売作戦を仕掛けたのだ。この大博打は成功し、カップ麺は日本人の食生活を変える

 

 今や残業サラリーマンの定番であるところのカップラーメンの物語である。確かにこの食品は定着にはかなり苦労したということは私も聞いている(しかも初期のカップヌードルは、今よりも随分まずかった)。この番組では銀座の街頭販売が成功のきっかけであるという構成になっているが、実は私が聞いたカップヌードル定着の鍵は、この番組にも少しだけ出てきたが、浅間山荘を取り囲む警官隊がカップヌードルを食べていたことであるとのことである。あの時は日本中がテレビに釘付けになっていたので、かなりの宣伝効果になっただろうと思われる。

 ところでうちのアンケートでも浅間山荘はトップなのだが、いつになったらこの番組で扱うのだろうか? ただ今回、浅間山荘の話がチラッと出てきたところから見ると、NHKのパターンとしては、近日中に登場する可能性は高いのではないかと考えるのだが(近く扱うテーマを予告編的にチラッと登場させるパターンはNHKの番組には多い。例えば「その時、歴史が動いた」で、三国志のスペシャルの前に、白村江の戦いのところで三国志の映像をチラチラ出したり)。

 ところで最近コスプレづいている国井氏は、今回はなんとラーメン屋の親父で登場。しかし彼はなぜ漁師や建設作業員など肉体労働系の衣装がこんなに似合うのだろうか?(笑)。多分NHKで一番、ゴム長とはちまきの似合う親父である。

 

10/9 プロジェクトX「レーザー光のメスで命を救え〜倒産工場と脳外科医の闘い〜」

 脳外科手術は大量の出血を伴う危険な手術である。そのために手術が出来ず、患者を助けることが出来ないこともよくあった。東大付属病院の若き脳外科医・滝澤利明は、手術で救えるはずの患者を、救うことが出来ないジレンマに苦しんでいた。そんなある日、彼はアポロでのレーザーの実験を見て、レーザーを手術に使用することを思いつく。しかし彼が東大で見つけたレーザーは巨大な上に故障ばかりのとても手術に使えるものではなかった。

 3年後の昭和47年、滝澤の元を訪れた持田製薬の酒井洋が、滝澤に思いがけないことを依頼する。「レーザーメスの開発に社運を賭けたいので、協力して欲しい。」願ってもない話だと滝澤は協力を約束する。

 持田製薬が開発の請負をする会社を募集したところ、破格の価格で引き受けることを申し出た企業があった。日本科学工業、小さな町工場であるが工業用レーザーカッターなどの最先端の技術に取り組むチャレンジングな会社で「いつか第二のソニーになる」を合い言葉にしていた。開発を担当したのは、竹内一政。彼は恩師・湯川秀樹の「就職するなら金よりも知的好奇心を満足させる仕事に就け」という言葉でこの小さな会社に就職した人物だった。

 やがて試作機が完成する。滝澤の元に運び込まれテストが始まるが、数分でレーザーが出なくなってしまう。8時間にも及ぶ手術にはとても使えるものでなかった。滝澤は引き続き開発を依頼する。

 昭和48年、日本科学工業では社運をかけてレーザーメスの開発が継続されていた。しかし会社の内情は火の車で、竹内の給料も半額という危機的状態にあった。

 レーザーが出なくなる原因が鏡の角度のズレにあることに気づいた技術者の東郷隆志は、鏡の角度を調節できるネジをつける。こうして完成した自信作・試作二号機が滝澤の元に持ち込まれる。二号機は一時間経過しても出力は低下しなかった。しかし滝澤の表情が曇る。アームの動きが重すぎて手術には使えないのだ。滝澤は実際に竹内を手術台に寝させて、手術時の手の動きを彼らに見せる。

 新たに設計がやり直され、やっと完成が見えた半年後、突然に工場に取立屋(いかにも「ヤ」のつく仕事の筋の連中)が乗り込んでくる。会社が手形の不渡りを出して倒産したのだ。開発リーダーである竹内も彼らの脅迫を受けることになり、家族の危険を感じた彼は、妻を実家に避難させる。

 「倒産」の話を聞いた滝澤は凍り付く。彼はそのような状況は全く知らなかったのだ。もはやレーザーメス開発の希望は完全に断たれたかと思われた。

 完全に希望を断たれ、空白の日々を送る竹内と、荒れていた東郷。しかし倒産から三ヶ月後、二人は突然に持田製薬に呼び出される。彼らは社長から持田製薬に入社してレーザーメス開発を継続することを依頼される。これは竹内にも東郷にもそして滝澤にも願ってもない話だった。再び彼らの挑戦が始まる。

 12畳の会議室での二人きりの開発が始まった。しかしまだ滝澤のなめらかな手の動きに追随できるアームの設計に苦しんでいた。そんなある日、東郷は秋葉原で目にした天体望遠鏡にハッとする。彼は入れ子式の伸縮性のアームを思いつく。こうしてついにレーザーメスが完成する。完成品を見た滝澤は「これなら使える」と言う。

 テレビで放送されたレーザーメスを見て、全国から滝澤の元に千通以上の手術の以来が殺到する。その中の一通が、札幌で脳腫瘍で余命1年と宣告された9才の少女・大本賀世ちゃんの両親からのものだった。彼女と同年齢の娘を持つ滝澤には、他人事とは思えなかった。滝澤は手術を決意する(手術の決断の理由は、滝澤の心理的なものだけでなく、彼女の腫瘍が非常に大きく、レーザーメスによる手術以外助かる可能性があり得なかったことが大きいと思われるが)。東郷も機械の管理に参加し、手術が開始される。

 レーザーメスの効果は絶大だった。レーザーの光は病巣部を取り除くと共に、血管を焼き固めて出血を防ぐ。5時間の大手術の後、彼女は命をとりとめる。

 1年後、レーザーメスの医療機器としての認可が下りる。滝澤は竹内と東郷を研究室に招いて、ささやかな祝いを開く。三人が酌み交わすビールがうまかった。

 

 開発者達の執念が伝わってくるエピソードである。医者は、救う方法があるのに救えかった患者に無念を感じるというが、滝澤も敏腕脳外科医だったというだけに、その想いはひときわだったのだろう。定年になった後も未だに診察を続け、レーザーメス1号機を診療所に設置しているというところに、彼の思いの強さがうかがえる。

 それにしても、竹内達の開発がかなり終盤まで来ていたので、持田製薬も救済の手をさしのべたのだろうが、そうでなければこのプロジェクトは完全に頓挫していたところであろう。技術大国日本は、実は大企業ではなく、ハイテク中小企業が支えていたのだが、今は小泉不況でこのような中小企業が危機に陥っている。小泉総理は「つぶれるべき会社はつぶれても仕方ない」と言っているが、問題なのは、無責任経営をした金融機関を救済するために、中小企業を犠牲にしようとしているところ。経営者が全く駄目な中小企業ならつぶれるのも仕方ないかもしれないが、そうではないところが、中小であるという理由だけでつぶれかかっているのが現状である。小泉総理は苦労知らずの三代目のせいか、社会的弱者に対する心配りというものが根本的に欠落しているところに危険性を感じる。正しい競争というのは、正当なる弱者に対してはそれ相応の配慮をするべきもので、それを何もなしに競争させるのは、ただ単に強者に媚びているだけである。今の社会状況を見ていると、竹内達とは違って、最後まで日の目を見ることなく終わった者も多いのではないかとの危惧を感じる。

 

10/2 プロジェクトX「リヒテルが愛した執念のピアノ」

 今回から久保純子アナがいよいよ産休に入ったらしく、膳場貴子アナにスイッチしての放送である。間合いの取り方などが久保純子アナと異なるので、番組の雰囲気もやや変化している。彼女は喋り自体は下手ではないのだが、声がややハスキーな上に、少々肩に力が入りすぎているのが気になるところ。

 昭和20年、浜松。一面焼け野原の瓦礫の中で、ヤマハの職人達はグランドピアノの製作を開始する。昭和25年、日比谷公会堂で完成したピアノの発表会が行われる。久しぶりのピアノの演奏に詰めかけた聴衆。しかし演奏が開始された途端に会場がざわめく。フォルテシモは響かない、ピアニシモは鈍い音しか出ない。評論家に「ふんどしが緩んだような音」と酷評を受ける。

 昭和40年、高度成長期になり、日本にピアノブームが訪れ、ヤマハも大きな会社になる。その年、名人ミケランジェリが来日する。彼は自分の愛用のピアノ・スタインウェイを持ち込んでいた。その音色に、ヤマハの調律師・村上輝久は客席で打ち震える。彼の会社のピアノとは雲泥の差であった。

 翌日、村上が勤める銀座支店に社長の川上源一が視察に来る。村上は意を決して社長に訴える。「我が社のピアノは駄目です。良いピアノを作ってください。」社長の顔がひきつる。数日後、川上はミケランジェリのコンサートに出向く。

 三週間後、川上は浜松工場にミケランジェリの専属調律師のアウグスト・タローネを招いて、「我々もスタインウェイに負けないピアノを作りたいから協力して欲しい」と訴える。タローネは秋に来日することを約束する。

 40名からなる社長直属のプロジェクトが結成される。加工の担当は木工職人・鈴木辰次とその仲間達、また村上も調律師として浜松に向かう。

 ピアノ製作は、まずスタインウェイを徹底的に分析することから始まった。彼らは構造と材質をスタインウェイに近づけることで音色を近づけようとしたのだった。しかし半年後に製作された試作機は、スタインウェイにはまるでかなわないものだった。メンバーは愕然となる。

 その秋、タローネがイタリアから来日する。しかし試作機の音を聞いた彼は「あなた方のピアノは100年遅れている」と言い切る。響板の削り方の違い、ピアノの強度の不足など、数々の問題点が指摘される。特に調律師の村上は特に厳しい指導にさらされる。ピアノの調律は、鍵盤の沈み方一つとっても1/100ミリ単位の作業であった。タローネは理想の音色を「フォルテシモは宇宙の広がりを持ち、ピアニシモは澄み切った空、音色は神のようなもの」と表現する。しかしあまりに漠然とした表現に、誰も理解することは出来なかった。

 タローネの帰国後、社長に突然に呼ばれた村上は、ヨーロッパで本物の音を聞いてくることを命じられる。彼は言葉も通じない外国に一人出かけていく。彼はあちこちでピアノの調律の仕事を受けながら、腕を上げていく。

 ヨーロッパで修行中の村上に、運命的な出会が訪れる。彼はある音楽祭で、100年に一度の天才と言われたリヒテルの調律を担当することになる。リヒテルは調律に対して気むずかしいことで知られていた。緊張しながら調律に挑む村上。村上が調律したピアノを試したリヒテルは一言告げる。「音色は申し分ない。しかし弾きやすすぎる。」

 弾きにくいと言われるのなら理解できるが、弾きやすすぎるという言葉に悩む村上。彼は一か八かで、各鍵盤の下の紙を一枚ずつ除き、鍵盤を重くする。

 リヒテルの演奏が始まる。そのすばらしい演奏に場内は興奮の渦に包まれる。演奏が終了して村上のところにやって来たリヒテルは「すばらしい調律だった」と告げる。

 その頃、日本ではピアノ製作の苦闘が続けられていた。木と木の接合部分がうまくいかず、どうしてもピアノの強度が上がらなかった。木工職人の鈴木辰次はふと家具職人だった自分の師匠の技を思い出し、蟻組を試してみる。二本の松はがっしりと組み合わさった。こうして目指していたフォルテシモが完成した。

 昭和44年1月、リヒテルから「日本のピアノを試してみたい」との連絡が入る。日本から送られたピアノを村上は精魂込めて調律する。

 リヒテルの演奏会が開催された。宇宙のようなフォルテシモ、澄んだ空のようなピアニシモ。会場の聴衆が立ち上がり、拍手の渦に包まれる。日本のピアノがヨーロッパの聴衆を魅了した瞬間だった。

 その後もピアノの開発は続けられ、リヒテルも日本のピアノを愛し続けた。ある日、リヒテルが信じられないことを言い出す。「私のピアノを作ってくれている人達に感謝を込めて、日本の工場でコンサートを開きたい。」

 仕事を終えた作業服の200人の男たちが、工場の中に作られた仮設の演奏会場に集まる。ここでリヒテルは2時間30分にも渡って熱演を続ける。天才の音色を耳にした男たちの頬に感動の涙が流れる。

 

 またも「執念の開発物語」である。私は音楽が好きなのだが、ピアノのことは全く知らないので(私は聞く方だけで、楽器は全く駄目である)、実に興味深い内容であった。いかにも「天才肌」のリヒテルの行動が実に興味深かったが、彼が日本人に対して偏見を抱いていなかったように見えるのは、ある種の驚異である。この辺りは彼がヨーロッパの人間ではなく、ヨーロッパから見た場合には辺境になるロシアの人間であったことも影響しているのだろうか。

 最後のリヒテルの演奏会のくだりなどは実に泣かされるのだが、一つだけ疑問を感じたのは、ヤマハの浜松工場の作業員が全員クラシックファンであるかということである。中には途中で爆睡してしまった不届き者はいなかったのだろうか(笑)。もしかしたら、涙で頬を濡らしている男たちの横で、よだれで口元を濡らしていた男も何人かはいたのでは、などと考えてしまった(笑)。と言うのも、自分で金を払ってチケットを買ったはずのコンサートでも、時折爆睡している観客を見かけるからである。仕事が終わってからのクラシックのコンサートというのは、クラシックファンでさえも時には辛いことがあったりするのだ(笑)。

 

9/25 プロジェクトX「巨大モグラドーバーを掘れ〜地下一筋・男たちは国境を越えた〜」

 イギリスとフランスを結ぶドーバー海峡トンネル。EU統合を象徴するこの大事業も日本人が手がけたものである。

 ところで今回のこのテーマを聞いたときに、私は「あれ?このテーマ、昔扱ってなかったっけ?」と思ったのだが、この番組では初登場である。しかしどうもこのネタを見たことがある気がするので、調べてみたところ、以前に「たけしの万物創世記」のトンネルか何かの回でこのテーマを扱っていたのを思い出した(そういえば、その時に「これじゃまるでプロジェクトXやないか」と言った記憶がある)。

 話は建設ラッシュに湧く昭和40年に遡る。この年、川崎重工の掘削機械の設計の仕事に従事することになった佐古井耕三は、モグラのような地下作業をなんとか安全にするための機械を考えていた。こうして現在のシールド工法用の機械の試作機が出来上がるが、この試作機は地下で動かなくなり現場の作業員に散々にどやされる。

 やがて佐古井のチームに助っ人が参加する。機械整備一筋で叩き上げてきた上崎一美と「溶接の鬼」と呼ばれた上見成之だった(またも「〜の鬼」の登場である。かつて「法隆寺の鬼」もいたし、H2の回でも「溶接の鬼」は登場した。鬼と「伝説の技術者」「元航空技術者」はこの番組のキーワードのようだ)。

 1986年夏、フランスからドーバー海峡にトンネルを掘る話が持ちかけられる。沸き上がる設計部。プロジェクトのリーダーは宇賀克夫が担当することになった。しかしフランスに行って彼が持ちかけられた条件というのは、通常の3倍もの速度で掘り進むという信じがたい条件だった。「無理だ」と主張する宇賀、しかしフランス側は譲らなかった。彼は仲間と相談した上でこの仕事に挑戦することにする。

 しかし彼らの前に海底の地層が立ちはだかる。ドーバーの海底には「チョーク層」と呼ばれる、日本にはない特殊な地層が存在した。このチョーク層とは、乾燥時には固いが一端水を含むとドロドロになり、また乾燥すると固まって機械に張り付くというとんでもない岩石だった。

 掘削機の設計に当たった佐古井は、フランスからチョーク層を40トン取り寄せ、実験を繰り返しながら、チョーク層を削るためのカッターを設計する。8ヶ月後、カッターは完成し、フランスに送られるとともに、佐古井達10人がフランスに乗り込む。

 だが工事直前、フランス側の工事責任者ファバから、掘削速度を上げるために機械を改造することを要求される。宇賀達はこの信じられない話に抵抗するが、ファバは譲らなかった。やむなく現地での改造工事という前代未聞の作業が不眠不休で行われることになる。

 現場はフランス人との共同作業であった。しかしそこには言葉の壁があった。上崎らはフランス語の勉強を始める(この時の単語帳に挙げられていた言葉が「溶接」とかであったところがいかにもだが)。

 1988年12月、いよいよ掘削が始まる。しかしいきなりトラブルが発生した。ドロドロに姿を変えたチョーク層がいきなりモグラの中にあふれ出したのだ。しみ出した水で配電盤がショートする。電気技師の吉田和正らが対応に奔走する。日本人技術者たちは、構内で働いている300人のフランス人技術者達に、片言のフランス語で注意をして回る。

 工事は遅れていた。フランス側から「これ以上工事が遅れるとペナルティを課す」との通告が宇賀になされる(どうもフランス側は、最初から日本からペナルティを取るのを目的で、無理なスケジュールを押しつけたような気がして仕方ないのだが)。本社からも非難が来るなか、宇賀は絶対に工事を間に合わせると答える。

 しかしその矢先、構内を見回っていた佐古井がカッターの亀裂を発見する。壊れたカッターをこの場で切断するしかないが、目の前の岩盤はいつ崩れるか分からない。ここでこの重責を果たしたのが、「溶接の鬼」上見成之だった。彼は8時間かけてカッターを切断する。

 設計部は新しいカッターの設計に不眠不休でくたくたになっていた。そこにファバが現れる。彼は「一晩休めば、良いアイディアも浮かぶ」と彼らに特上の桃のリキュールを差し入れる。ファバにとっても、ドーバー海峡トンネルは子供の頃からの夢だったのだ。

 新しいカッターが製作され、バカンス返上で現場に従事したフランス人技術者と日本人技術者達によって取り付けられる。彼らの目の前で、新しいカッターはチョーク層を削り始める。彼らは24時間体制で作業に挑む。

 彼らは約束の16キロを8ヶ月も早く掘り抜き、国境を越える。1991年6月、いよいよトンネルが貫通の時を迎える。イギリス側で待ちかまえる佐古井の前に、モグラの顔が現れる。フランス人技術者と日本人技術者達はカッターによじ登って、歓声を上げる。

 

 前回に続いての「巨大プロジェクトもの」である。今回は舞台が日本ではなく、海の向こうのドーバーであるところから、以前の日本橋のエピソードや、油田開発を連想する。

 今回のエピソードで目を引いたのは、やはり現場の人間の能力と情熱だろうか。機械の音で不調を見つけだす上崎の神業には感心させられる。かつて「技術立国」といわれた日本の土台は、こういう名人芸が支えていた部分が大きいのだが、最近はこの手の名人芸は軽視されている上に、全く継承されていない。この辺りが日本の技術の根幹が怪しくなってきている原因のように思えるのだが。

 

9/11 プロジェクトX「白鷺舞え空前の解体工事〜姫路城・定年前の大仕事〜」

 姫路城、その優美な姿から白鷺城とも呼ばれる天下の名城である。しかし、昭和20年、この姫路城は倒壊の危機に瀕していた。老朽化により、壁の漆喰は剥がれ、瓦は傷んで雨漏りがしていた。

 その姫路城の修復に当たることになったのが、奈良で瓦の研究にいそしんでいた文部技官・加藤得二だった。前任者が汚職で逮捕されたために、後任として「瓦のように堅い」と言われていた加藤に白羽の矢が立ったのだった。自分には無理だと拒絶する加藤だが、既に決まったこととして強制されることになる。

 やむなく姫路に向かい、城の検査を行った加藤は、そのあまりの傷み方に驚かされる。測量の結果、城を支える心柱が30センチも傾いており、このままでは倒壊を免れない状況であった。解体修理しか方法はなかった。

 地元の誇りである姫路城の修理のために、100人の大工が低い賃金を承知で集まってくる。棟梁には播州一の宮大工・和田通夫が就くことになった。5万人もの署名が集まっての、地元の願いを一身に受けての工事であった。

 昭和31年、姫路城の解体が始まる。しかしここで、2本の心柱のうちの1本が腐っていて使い物にならないことが明らかになる。25メートルの心柱を丸ごと取り替える必要がある。大工達は騒然となり、加藤は呆然となった。

 心柱に使うには25メートルもの檜が必要である。しかしこんな巨木はそう簡単に見つかるものではなかった(特に戦争で日本中の山が禿げ山になっていた直後であるから、なおのことであろう)。加藤は巨木を求めて全国を行脚することになる。

 ある日、村の神木を提供したいとの申し出の電話がかかってくる。電話の主は兵庫県市川町の世話役の牛尾四郎だった。姫路城の心柱探しの難航を聞いた彼は、村人達と相談して、神木の提供を決めたのだった。喜んで駆けつける加藤、しかし巨木を見上げた加藤の表情が曇る。高さ15メートルのところにわずかな反りがあり、心柱には使えないことが分かったのだ。「残念です」加藤は肩を落とす。

 心柱を求めて加藤は裏木曽の国有林に出向く。そこは尾張藩の御用林として300年間伐採を禁止されてきた森だった。営林署の福山幸七が加藤に協力して檜探しをし、28メートルの巨木を見つけた。翌春を待って伐採が行われる。しかしその木は伐採中に折れてしまう。内部に空洞があったのだった。加藤は言葉を失う。

 心柱探しの難航で修復工事は滞っていた。福山が陣頭に立って、必死のローラー作戦で檜探しが行われた。その結果、一本の巨木が見つかる。しかし安心したのもつかのま、その巨木は運搬中の事故で二つに折れてしまう。

 愕然とする加藤のところに棟梁の和田が駆けつける。彼は日本の檜を継ぎ合わせて心柱にすることを提案する。和田の提案にハッとした加藤は、折れた檜を調べる。下側の15メートルは傷んでいないことが分かった。これに継ぐことの出来る木は・・この時、加藤の脳裏にあのご神木が浮かぶ。

 さらに加藤は心柱の負担を減らすために、軽量で丈夫な瓦も開発する。彼の瓦の研究がここで生きたのだった。

 昭和36年6月、姫路城の修復は終わる。棟梁の和田によってつながれた心柱は、ぴたりと組みあわさっていた。待ちわびた市民達が押し掛けてくる。こうして姫路城は築城当時の美しい姿を甦らせたのだった。

 

 姫路城修復にかける職人魂の物語である。また姫路城に対する地元民の思い入れの強さも実によく伝わってきていた。復員してきた牛尾が、姫路城の姿を見た途端に涙が流れたという気持はよく分かる気がする。当時の姫路の光景が映っていたが、あれだけ焼け野原になっている中で、姫路城だけが以前と変わらず建っていたから、感極まるであろう。その想いがご神木の提供という行為につながったらしいが、これに同意した住民も驚きと言えば驚きである。

 またこの工事を指揮した加藤が、いわゆる文部官僚ではなく、技官であったのもポイントだろう。彼が役人ではなくて職人であったから、和田や大工達とも心が通じたし、ここまで修復にこだわることもできたのであろうと思われる。それにしても最近は税金を誤魔化していた外務省ノンキャリアの話とかばかり聞こえてきて、こういう加藤のような公務員がいなくなったことは悲しい次第である。

 

9/4 プロジェクトX「逆転田舎工場世界を制す〜クォーツ・革命の腕時計〜」

 今回は久々の開発ものになる、クォーツ時計の開発物語である。クォーツ腕時計を開発したのは日本のSEIKOであるが(そう言えば、聖子のSEIKOなんてCMが昔あったような・・どっちでもいいことだが)、その裏にある熱き物語である。

 昭和16年、日本中の工場が戦闘機の開発などに当てられている中、生糸の街・諏訪は滅びる寸前にあった。戦争で生糸の需要が激減、しかも化学繊維におされて街は寂れる一方であった。この街を再生するためにどうしたらいいか、地元の商店主達が相談している中、時計店の店主・山崎久夫が「時計を作って、諏訪を日本のスイスにする」というアイディアを打ち出す。彼は味噌蔵を入手すると、製糸工場の職を失った女工達を雇って時計を作り始める。

 昭和21年、やっと初めての時計が完成する。誤差は1日2分で、当時1日3分の誤差のある時計が普通にあった時代としてはまずまずのものであった。しかし彼らの作った時計は「信州の田舎ものの作った時計」と東京の者に馬鹿にされ、彼らは悔しさをかみしめながら、高精度の時計を作ることで見返してやる決心をする(それにしてもあまりにひどい書かれ方をしていたようだが、洒落にしてはきつすぎるような気がする。何か恨みでもあるのか?)。

 10年後、自信作が誕生する。1日の誤差はわずか20秒、正確さで日本一になり、徐々に時計も売れ始めた。しかしここで衝撃的なニュースが伝わってくる。アメリカのブローバ社が1日の誤差がわずかに2秒で、電池で1年間動き続けるという電子時計を発売したのである。この時計は世界中で飛ぶように売れる。起死回生の道を模索する彼らは、ベル研究所が開発したクォーツ時計のことを知る。クォーツ時計は水晶を使用した新しい時計で、桁違いの精度を持っていた。だがクォーツ時計の実物を見た彼らは愕然とする。その時計は腕時計はおろか、タンスよりも大きなものだったのであり、ベル研究所も小型化に成功していなかった。しかし山崎らは、クォーツ時計の腕時計化に社運をかける決意をする。

 しかしそれは容易なことではなかった。ゼンマイ時計ばかり製造してきた彼らの工場には、クォーツ時計開発に必須の電子工学の知識を持った者が一人もいなかった。長田功干が人材獲得の名乗りを挙げる。彼は山崎と二人で全国の大学を回って卒業生を就職させてくれるように頭を下げて回る。しかし当時、電子の時代を迎え、大手企業からも卒業生が引っ張りだこだった各大学は、諏訪の弱小メーカーに卒業生を送り込むところはなかった。

 なんの収穫もないまま3ヶ月後が経過した。彼らは静岡大学の岡部隆博教授の元を訪れる。最初は断るつもりだった岡部だが、山崎らの熱意に打たれ、学生を紹介することにする(地方大学で研究予算的に冷遇されていた岡部だから、地方で頑張ろうとしていた山崎らの心情に打たれたというのは、実に考えられる話だと思う。実際に地方大学の実状というのは実に悲惨なものである。)。山崎の熱意に打たれた、藤田欣司・坂本求吉の二人の学生が入社を決意する。

 昭和36年、20人の若手技術者が諏訪に集まり、技術者の相澤進をリーダーにクォーツ時計開発のプロジェクトが開始される。だがその前途は多難なものであった。

 まず水晶の小型化に苦労する。水晶は小型化すると共に振動数が増加し、電気をやたらに食った。これでは電池は3日しかもたず、実用はほど遠いものだった。彼らは3年後もまだ重さ3キロの置き時計を試作するのがやっとだった。目標の遠さに気が遠くなりそうになっている若手達を山崎は励ます。

 しかしその矢先、山崎が胃ガンに倒れる。彼は58才で志し半ばにしてこの世を去る。社員たちは動揺する。

 しかも彼らを震撼させる知らせが伝わる。スイスの時計メーカーがこぞってクォーツ腕時計の開発に乗り込んできたのだ。坂本ら若手達は山崎の弔い合戦として必死にに取り組むが、水晶の消費電力の問題と耐震性の問題(水晶は結晶であるから非常に壊れやすい)の難問に苦しんでいた。

 水晶の小型化に苦しんでいた藤田が打開策を見つけたのは、音叉を目にしたときだった。彼は水晶をU字型にすることで小型化に成功する。さらに耐震性の問題も、水晶にバネをつけて浮かせることで解決する。

 設計を担当したのは、山崎の死の直前に静岡大学から入社してきた下平忠良である。彼はこれらの部品を直径3センチの中に収めることに成功する。

 試作品が完成し、最後の最も過酷な試験が行われた。それは腕時計をして3日間バレーボールを打ち続けるというものだった(こうして彼らバレー部の全国大会優勝を目指した戦いが始まる・・違うって!)。しかしこの過酷なテストも問題なくクリアする。こうして世界初のクォーツ時計は発売され、世界中で大評判となる。

 

 日本が誇るクォーツ腕時計の開発物語である。ちなみにこの桁違いに高精度の腕時計の登場は、スイスを震撼させた。それまでスイスでは自国の時計の性能を誇るために、腕時計の精度を比較するコンテストを行っていたのだが、日本が開発したクォーツ腕時計の精度が高すぎるために、これが登場した年にこのコンテストをやめたとのエピソードもある(この番組では触れていないが)。

 諏訪の町を再生したという山崎氏の強烈な郷土意識と職人魂のようなものが迫力のある内容であった。最近はもの作りにこういう情熱を燃やす人間がいなくなったものである。ところで最後に山崎の孫という人物が登場していたが、私は息子ではないかと思ったぐらい彼に似ていたのは大笑い。血は受け継がれているようではある。

 それにしても毎回思うことなのだが、「若き技術者」達などのその後の変わり様について、人によっては昔の面影がほとんど残っていないぐらいに変わり果てていることがある。今回でも坂本氏はそんなに変わっていないのに対して、藤田氏の方は昔の顔と直接に結びかないぐらいに変わり果てていたのが印象的。よほどクォーツ開発で苦労したのだろう(笑)。

 

8/28 プロジェクトX「鉄の男たち逆境からの日本一〜伝説の釜石ラグビー部〜」

 今回は7年連続日本一の快挙を成し遂げた、新日鐵釜石のラグビー部の物語である。どうもテーマがラグビー部であるので、以前の伏見工業高校の回がダブって見えるが、今回はラグビーをするのは、不良達ではなく熱い社会人達である(笑)。

 昭和35年、岩手県釜石市の富士製鉄釜石製鉄所にラグビー部が生まれる。当時の釜石製鉄所は8000人の従業員を抱え、釜石市は活気に湧いていた。

 昭和43年、釜石のラグビー部は全国大会に出るようになっていた。その中には、富士製鉄の下請け企業の経営者を父に持つ、干場日朗志らがいた。しかしラグビー部には試練が訪れる。数年前からの鉄鋼業界の深刻な不況により、旧式の釜石の高炉は縮小されることになり、多くの部員達が配置転換で愛知に転勤していき、監督もいなくなった。

 窮地に立ったラグビー部の監督を引き受けたのが、エリート技術者・市口順亮だった。しかし彼は就任していきなり、それまでの釜石ラグビー部の「突進ラグビー」を否定する。彼は現代流のグラウンド中にパスを回す「展開ラグビー」を目指していた。「お前達に本当のラグビーを教えてやる」しかし市口の言葉に部員達は戸惑いと反発を感じる。

 その矢先に事件が起こる。単調な動きを叱られた堀端義則が市口を殴ってしまったのだ。出口の見えない合理化の中で苛立つ部員達、ラグビー部も崩壊の危機に直面していた。

 昭和44年、釜石市はどんどんと寂れつつあった。市口を殴った堀端は、きつくなる仕事、先行きの見えない不安、なんとない気まずさの中で日々を送っていた。そんなある日、市口は練習後に堀端らを自分の家に誘う。市口は彼らにすき焼きを振る舞いながら、ラグビーの資料を見せる。そこには彼が綿密に研究した展開ラグビーの情報が書いてあった。堀端は「監督はラグビーを愛している」と感じる。翌日から堀端を中心に展開ラグビーの練習が始まる。

 15人もの部員がリストラされ、紅白戦さえ出来ない状況の中、市口は地元の高校を回って有望な選手をスカウトして回っていた。そんなある日、市口はとんでもない大男を見つける。瀬川清、実に191cmの身長を持っていた。「君の身長が必ず役に立つ」市口は瀬川を説得するが、瀬川は「ラグビーをする気はない」とことわる。

 昭和45年3月、富士製鉄は八幡製鉄と合併し、新日鐵が発足する。監督の市口は上層部に呼ばれて「ラグビー部は一つの会社に二つはいらない」と告げられる。市口は部が存続するには全国大会で優勝するしかないと考える。堀端や干場らは練習に励む。

 同12月、全国大会が開催される。背水の陣の釜石ラグビー部は快進撃を続け、決勝まで勝ち上がる。決勝戦の相手はラグビー界の巨人・大西鐵之祐が率いるラグビー界の雄・早稲田大学だった。大西は日本に展開ラグビーを持ち込んだ人物であり、展開ラグビー対展開ラグビーの対決となる。しかし後半、直前まで仕事をこなし夜行で12時間かけて競技場に到着していた釜石ラグビー部の選手の体力が尽きる。結果は30対16の完敗となる。市口の脳裏に廃部の二文字が浮かび上がる。

 しかし釜石に戻った彼らを待っていたのは、市民全員の暖かい出迎えであった。廃部はどこかに消えてしまっていた。また同僚達もラグビー部員の練習達に協力してくれる。そして翌年、瀬川が入部してくる。「これで展開ラグビーの駒が揃った」そう考えた市口は、練習についていけない瀬川を励ましながらも試合に出し続ける。

 昭和52年1月、釜石ラグビー部は再び全国大会の決勝戦に出場し、早稲田と対決することになる。「釜石の皆のために我々は勝つ」市口が檄を飛ばす。序盤は早稲田がリードし、また駄目かと思われた時、瀬川がその長身を生かして早稲田からボールを奪う。彼は釜石ゴールを守る巨大な壁となっていた。また満身創痍の干場もパスを出し続けていた。釜石から駆けつけた応援団の中から干場コールが起こる。釜石ラグビー部はその声援を背にトライを続け、27対12でついに早稲田に勝利する。

 全国一となった部員達は釜石に凱旋し、市民達の熱烈な歓迎を受ける。ここから釜石ラグビー部の神話が始まる。

 

 ラグビーがテーマの熱い話である。高校生達と違って、社会人は仕事もした上でラグビーをするのだから大変である。しかしその中で笑えたのは「体育の点を上げてやるから」と言われて高校のラグビー部に入部し、「安定しているんじゃないか」と思って新日鐵に入社してきた瀬川の話。彼だけなにか「今時の若者」的なところがあり、異常に熱い話の中で笑いを誘う。この彼がその後に日本代表になったというエピソードは、オイオイというところである。

 ただこの話が悲しいのは、この後の釜石ラグビー部は7年連続日本一の伝説を築くが、結局は釜石製鉄所の縮小は続き、ついにはラグビー部も2部に落ち、この春にはついに消滅してしまったということだ。おらが町のラグビーを守れと、市民達の運動で10日後にはクラブとして再出発したとのことであるが、過去の栄光が大きすぎるだけに落日の辛さがこみ上げてくる。

 現在、不況の中で各企業とも余裕がなくなってきたので、日立のバレー部が廃部になったりなど名門チームの廃部が相次いでいる。日本のスポーツは企業の福利厚生・広報の一環として行われている例が多いので、どうして企業の状況に左右されることが多いのが最大の弱点である。そう言う意味では市民によるクラブチームというものが誕生するのは正しい方向である。ただ釜石ラグビー部の場合は、寂れゆく町の住民達の最後の希望というニュアンスが強いので、スポーツチームとして成功するかどうかは難しいところである。彼らの成功を祈りたい気持は強いのだが。

 

7/24 プロジェクトX「起死回生アラビアの友よ〜巨大油田に挑んだ技術者たち〜」

 昭和40年、日本は世界第二位の工業国になり、高度成長を謳歌していた。山内達が開発したカフジ油田は日本の石油需要の15%をまかなっていた。しかし日本の石油消費量は10年で10倍になっており、新たな油田を求める声があがりつつあった。

 そんな昭和48年、第四次中東戦争の勃発により、アラブ諸国はメジャーを中東から締め出す。ほとんどの石油をメジャーから購入していた日本は、パニックになる。いわゆるオイルショックである。このあおりで、日本ではYS11の生産中止、ロータリーエンジン車の売れ残りなど、多くのプロジェクトが頓挫していた(ここはまるで今までの総集編のようである)。

 山内はアラブ首長国連邦のザクム油田に目をつけ、採掘を計画する。しかし既に高齢の山内は自身に代わって陣頭に立つ技術者として、愛弟子の細井弘に白羽の矢を立てる。細井の元に、数学の得意な下村章、英語が堪能な平岡尚など若手技術者が集まる。

 しかしアラブに出向いた細井達が目の当たりにしたのは、すっかり変貌を遂げていたアラブ諸国の姿だった。石油の利益によりビルが林立し、王族達は油田はすべて自国で管理すると強気だった。

 細井はアブダビの石油開発の全権を委ねられているハムラ・クルーハと交渉する。しかしクルーハは、日本の経験は浅すぎると、一言の元に否定をする。食い下がる細井に対してクルーハは一つの油田を示す。それはウムアダルク油田だった。ここを開発して技術力を示せという意味だった。しかしそこはかつてメジャーでさえ開発を断念した油田だったことを細井は知らなかった。

 開発の条件はアラブ人技術者との共同開発であることだった。しかし文化の違いや考え方の違いなどから、日本人技術者とアラブ人技術者の間に溝が生まれる。

 やっとのことで油脈のありかを確認し、5本の井戸を掘ることが決まった時だった。クルーハがとんでもない要求を突きつけてきた。それはすべての海域に500メートルおきに油田を掘れというものだった。そのためには162本もの油田を掘る必要があった。日本の金で油田を全面開発させようとする理不尽なものであった。

 あまりの理不尽な要求に、撤退すべしの声があがり始めたある日、アラブ人技術者のアル・ハディーディが細井をアブダビの裏通りの粗末な家につれていく。彼はこう言った「アラブにはまだまだ貧しい人が大勢います。私達の夢はこれらの人を豊かにすることです。この国の思惑とは別に、この国に残ってくれませんか。」細井は、開発継続の了解をとりつける。

 昭和56年、井戸の掘削が始まる。しかし掘削した井戸からは油ではなく、水が湧き出てきたのだ。アブダビ沖の地層はとんでもないものだった。このままでは水がでてくるだけで二度と油を取り出せなくなる可能性があった(油層の下に大量の水が溜まっており、圧力を抜くとこの水の方だけが噴き出してくるのである。そのままでは油が出ることがないまま地中の圧力が抜けてしまい、二度と石油は湧き出なくなる。)。これこそがこの地からメジャーが撤退した理由だった。怒って駆けつけてきたクルーハによって、バルブが閉じられてしまう。

 油を取り出すためには、再びバルブを開いてのテストが不可欠だった。しかしアブダビの技術総責任者・アブドゥルファッター・アーベトが頑としてそれを認めなかった。このままでは日本は技術のない国のレッテルを貼られてしまう。細井の檄で、下村章は解決策を探り始める。

 油を取り出すには圧力を制御するしか方法がない。しかし圧力が高すぎると水ばかりが出てくるし、低すぎると油は少ししか出ず生産性が上がらない。最適の圧力を求めてシミュレーションが行われた。数学の得意な下村は計算を開始した。

 連日必死の計算を繰り返していた日本人技術者の真剣さは、アラビア人技術者達にも影響を与える。彼らは協力を申し出てきたのである。日本人とアラビア人の共同作業によって最適な圧力値が計算される。

 圧力値は分かった。しかし実際にバルブを開いての試験は不可欠である。しかしアーベトはそれを一切認めなかった。そんなある日、細井の元にハディーディから電話がかかってくる。彼はアーベトが来週から出張に出かけることを告げる。それは、上司のいない間に独断で実験を行おうという、彼自身の首をかけた提案であった(またもこの番組の得意パターンの「現場の独断専行である」)。

 バルブが開かれる。息を飲みながら見つめる技術者達。油田から油が吹き上げてくる。彼らの首をかけた大博打は成功したのだった。この成功によって日本はその技術をアピールすることに成功し、後に目的であったザクム油田の開発の許可を得る。そして彼らは世界第4位の巨大油田を掘り当てる。

 

 文化の違いによる技術者間の軋轢、それを乗り越える熱い思いといったお約束の展開が繰り広げられる今回であった。それにしてもまたもや事態の解決をみたのが「現場の独断専行」というのは議論のあるところであろう。組織の論理としてはこれは許されるべきではないのだが、しかしどうしようもない上司が存在している場合は、往々にしてこれしか解決手段がない場合が多いのも事実である。つまり現場が独断専行に走りがちな場合とというのは、組織や管理職に問題があるということである。ただし、今回も「結果オーライ」になっているが、もし失敗していたらとんでもないことになっていたろう。

 それにしても先週は「悪の組織メジャー」という趣であったが、今回はクルーハが徹底的に「悪役」になっている。実在の人物に対してここまでやっていいのか?という疑問を感じたりするが、まあまさかアラブでこの番組は放送していないだろうから、これでいいのか(笑)。

 ところで先週に登場したカフジ油田は、この度権利が切れてアラブに返還されたと聞いた記憶がある(つい最近、そのことがニュースで話題になっていたはず)。その後、どうなったのだろうか。

 

7/17 プロジェクトX「炎のアラビア 一発必中 油をあてろ」

 戦後の日本、その復興を支えるエネルギー源は石油だった。しかし日本は自前の油田を持たず、欧米のメジャーから石油を買うしかなかった。この状況を憂いた満州太郎こと財界の大物・山下太郎は、日本もアラブで自前の油田を掘ることを政府に提案する。昭和32年、岸内閣のもとこの方針が認められ、山下は交渉団の団長として中東に飛ぶ。

 サウジアラビア政府との交渉によって、メジャーが権利を押さえていないと示された油田は一つ、なんとそこはサウジアラビアとクェートとの国境に位置する海底油田だった。直ちにサウジアラビア政府の了承を得てからクェート政府との交渉に入る山下、しかしここでメジャーの横槍が入る。交渉価格が高騰し、半ば諦めかけていた山下のもとに、王族の一人ファハド・サーリムからメジャーの情報が提供される。この情報によって山下はなんとかメジャーとの勝負に勝利する。「何故我々を助けてくれるのか」訊ねる山下に対して、ファハドは「いつも車を修理してもらっている日本人の勤勉さに感心していたから」と答える(どうもこの部分は、この番組では美談になっているが、現実は裏金が飛び交っていたのではないかと私は感じるのだが)。海底油田の権利を獲得した山下は、アラビア石油を立ち上げる。

 この油田の掘削に抜擢されたのが、伝説の石油技術者・山内肇である(またもこの番組の定番、「伝説の技術者」の登場である)。彼はかつて日本軍の南方油田に派遣され、そこで軍に見捨てられたために同僚2000人を失っていた(またもあのアホな軍による犠牲者である)。彼らのためにもこの事業を成功させなければと、彼は決心する。

 山内の元に腕利きの技術者達が集まる。油田探索は玉野俊郎が、掘削は品田静雄が担当することになる。いずれも若き腕利きの技術者だった。

 しかし彼らに日本から信じられない情報が伝えられる。メジャーとの激しい競り合いにより予定以上に予算を消耗し、掘れる井戸はたったの一回だけだと告げられたのだった。メジャーでさえ油田の的中率は100本の内3本だった。これを一発必中で的中させる必要がある。ほとんど無茶に思われた。しかし山内は決断する。

 山内は海でダイナマイトを爆破させ、その音波の跳ね返りで油田の位置を見つけだす作戦を指示する。炎天下のアラブで、のべ一万二千回もの爆破が繰り返される。

 一方掘削資材の組立も風速40メートルの強風下、難航を極めていた(スタッフのメガネが割れるぐらいの砂嵐だと言うから尋常ではない)。しかしスタッフはトレーラーハウスに泊まり込んで頑張る。

 昭和33年、玉野はロンドンの地質調査会社に飛び、爆破のデータから地形図を作成する仕事をようやく開始する。しかしこの玉野に危険が迫る。彼の情報を横取りしようとしたメジャーが、彼を拉致しようとしたのだった(こうなると企業というよりは、ほとんどマフィアである。確かにメジャーもマフィアも大差はないが。)。辛うじて逃げ出した玉野は、ホテルの地下室にこもって作業を続ける。血道な作業の結果、玉野はカフジ沖の一地点を見つけだす。

 昭和34年、いよいよ掘削が開始される。しかし2週間後、とんでもない事故が発生する。いきなり水とガスが吹き出す暴噴が起こったのだった。このままでは火災の危険がある。しかし作業員が全員慌てて逃げ出す中で、掘削担当の井上修一は一人、8ミリを回していた。まだ作業の経験の浅い彼は、身の危険を感じるよりも、珍しい現象に対する好奇心の方が勝っていたのである。ふと回りに誰もいなくなっていることに気づいた彼は、慌てて自分もボートに飛び込む。その後油田は大火災を起こす。実に危ないタイミングであった。

 結局油田は数日にわたって燃え続け、消火のためには油田を爆破せざるを得なかった。破壊された機材を修理するのに必要な費用は数億円、損害保険に頼るしかない状況に追い込まれる。

 しかし保険金請求の交渉が難航する。保険会社が「火災が人為的ミスでなく自然災害であることが証明できないと保険金を払えない」と言ってきたのである(保険会社が保険金を払う段になると、いわゆる因縁をつけて保険金を出し渋る典型的な例である)。山内は作業員の事情聴取を始めるが、今度は保険会社から「いわゆる身内の発言は証拠にならない」と因縁をつけられる(保険会社の悪質さここに極まれりという感を受ける。アラブの海上油田採掘現場に、果たして身内以外の何者がいるというのであろうか。これだけ無茶な条件を出せば、保険金の請求は無理だと考えていたのだろう。)。保険金がおりなければ、油田の開発は続けられない。プロジェクトは暗礁に乗り上げる。

 しかしここで起死回生の証拠が浮上する。それは井上が撮影していた8ミリフィルムだった。フィルムは急遽本社に送られ、保険会社の代表を同席させて上映される。そこには引火の瞬間がはっきりと写っていた。動かしようのない証拠を提出されて、保険会社は保険金を全額支払うことを約束する。

 保険金によって再掘削の資金を得たプロジェクトは、再び採掘に挑む。そして見事に油田を掘り当てる。こうしてアラビア油田からの日本への送油が開始される。

 例によって「伝説の技術者」を中心とした熱い物語であった。それにしても技術者達の熱さもさることながら、メジャーのえげつなさと、保険会社の悪辣さが極めて印象に残る内容である。特に石油利権の独占のためには手段を選ばないメジャーの、ほとんどマフィアとしか言いようのないやり方は、大半の視聴者が反感を抱くのではないだろうか。ちなみに今この連中は、アメリカのブッシュ大統領の後ろ盾になっており、二酸化炭素排出量の抑制に取り組む京都議定書を反故にすべく暗躍している。やっぱりこの連中はいつまでたってもマフィアであるようだ。

 

7/10 プロジェクトX「白神山地 マタギの森の総力戦」

 昭和35年、秋田県藤里町に若い夫婦が引っ越してきて、写真店を開いた。写真店の主人は鎌田孝一、彼は心臓病を患っている妻のために、妻の故郷に越してきたのである。

 やがて彼は妻のリハビリを兼ねて、近くの白神山地に出かけるようになる。森深くまで入られない妻のために、彼は白神山地の写真を撮って見せることが楽しみになる。

 20年後、だんだんと白神の山に魅せられた彼は、8人の仲間と共に、マタギ(山での猟で生活している山の民)の長老・佐々木伊一郎に案内してもらって白神山地の奥、ブナの原生林に出かける。マタギが「神が宿る森」と呼ぶその原生林は多くの生命の源であった。鎌田は白神山地に深く魅せられる。

 しかしそこに思いがけない事態が持ち上がる。この白神山地を伐採し、大規模林道を作る計画が決定されたのだ(典型的な無意味なばらまき公共事業である)。県の環境報告書には「この地域には守るべき植物はなく、工事に全く問題はない」と報告されていた(よくある手続きのためだけの全くの嘘っぱちの報告書である)。このままでは白神山地が駄目になると考えた鎌田は、山仲間30人と共に伐採を中止させるためのプロジェクトを結成する。

 しかし彼のプロジェクトはいきなり大きな壁に突き当たる。過疎に悩む地元に大きな利権をもたらす計画に驚喜する地元民は、鎌田の話に全く耳を貸さなかった。やがて鎌田達に利権の亡者達の攻撃が行われ始める。

 鎌田の店には「運動をやめないとどうなってもしらないぞ」と恫喝する地元土建屋や「よそ者が地元の悲願の邪魔をするな」と抗議に来る隣町の町長(妻の故郷で、既に20年住んでいるにも関わらず「よそ者」とは、恐るべし田舎)などが押し掛けてくる。また花壇を滅茶苦茶にされるなどの嫌がらせも受け、鎌田の写真店の売り上げも半減する。

 食品会社勤務の根深誠にはさらに過酷な事態が発生していた。ある日彼は、社長に呼び出されて解雇を告げられる。理由は「地元の有力者が困っていると言っている」であった(典型的な不当解雇である)。執拗な利権の亡者達の嫌がらせで、プロジェクトのメンバーの多くが脱落する。

 その頃、若きマタギの頭領・吉川隆は、白神の森で思いがけないものを見つける。それはブナの木に貼られたシールである。実は政府が伐採予定のブナに貼り付けた目印だった。「神々が宿る森が、このままではとんでもないことになる。」吉川は青ざめる。

 昭和59年林道工事は進行し、ブナの原生林まで後4キロに迫っていた。どうすることも出来ずに焦る鎌田達。しかもそれに追い打ちをかけるかのように、マタギの佐々木伊一郎がガンに倒れる。佐々木は「森を切れば獣も人も駄目になる。山と喧嘩をしてはならねえ。」と言い残して息を引き取る。

 昭和62年10月、とうとう林道建設がブナの原生林の入り口にまで到達する。一ヶ月後には原生林の伐採が始まる。この時、鎌田達の前に意外な人物が現れる。

 それは秋田県庁の職員・泉祐一であった。彼は白神山地に調査のために入ったとき、本土ではほとんど棲息していないクマゲラを発見し、この森はただの森ではないことを感じていた。しかし彼が上司にあげた報告書は無視され、彼は職を賭して鎌田達に接触してきたのである。彼が鎌田に授けた工事中止のための手段は、後1ヶ月以内に3000人の署名を集めることだった。しかし鎌田には3000の署名集めは絶望的に思えた。だがここで根深が立ち上がる「俺は失業中だ。時間ならいくらでもある。俺が先頭に立つ。」。根深が青森側で、鎌田が秋田県側で住民を集めて説明を始める。しかし公共事業景気に湧く住民は冷ややかだった。

 苦戦する鎌田達の前でマタギの吉川が立ち上がった。「俺は一人でも森を守る」吉川の呼びかけでマタギ達が立ち上がる。山の民が声を上げ始めたのだ。

 山の民の声に、川の民が答える。最近川の水が減ってきていることを気にしていた赤石川の川漁師の石岡喜作は、吉川達と話し合い、上流のブナ林が伐採された影響が川に現れていたことを確信する。

 山の民と川の民が一つになって、住民集会で語り始めた「山を切っちゃいけねえ」。彼らの行動で反対署名が集まり始める。鎌田も店を妻に任せて、必死で署名を集める。

 昭和62年11月13日、ブナの原生林の伐採を2日後に控えたこの日、反対署名が県庁に届けられる。なんと1万3千人分もの署名が集まっていた。とうとう青森・秋田両県庁とも、工事の中止を決定する。

 こうして山の神が住む森は守られた。現在の白神山地は、その豊かな生態系により、世界遺産に認定されている。

 屋久杉の時と同じパターンの「名もない住民達が、自然保護のために立ち上がる」ストーリーである。屋久島の時も「杉を守っても飯は食えない」という抵抗があったが、今回はいわゆるばらまき公共事業にたかる輩の、さらに激しい抵抗にあっている。これはどこの地域でもよくある無意味な自然破壊の縮図になっている。利権にとらわれた連中には、山は崩すべきもの、海は埋め立てるべきものにしか見えないようである。また地方での最大の産業が、実は公共事業であるという日本の経済体制にも問題がある。

 また森が川や海にもつながっているということにも注目。襟裳岬の回でもあったが、山が荒廃すると、川が駄目になり、海が駄目になる。結局は豊かな森がすべてを養っているということである。それにもかかわらず今の日本の山はお寒いばかりである。日本は比較的森林面積の広い国だが、その大半が戦後に杉ばかりを植えられた偏った人工林なので、生態系には全く寄与していない(だからこそ白神山地のようなブナの原生林が貴重なのである)。だからこそ杉を減らして、他の広葉樹林を意図的に植えていく必要があるのだが、山村の荒廃している現在、そのようなことも全く進んでいない。それどころか、山にゴミを捨てたりなど悲惨の極みなのが現状。そういうことを考えると、今後の日本の自然はかなり絶望的に見えてしまう。

  

7/3 プロジェクトX「兄弟10人海の革命劇〜魚群探知機・ドンビリ船の奇跡〜」

 昭和13年、日本は経済統制の下、暗い時代を送っていた。長崎口の津、この半農半漁の町に貧しい古野一家が住んでいた。かつては町一家の名家だった古野家も、代用教員だった父が失業、10人兄弟を抱えて貧乏のどん底にいた。長男の清孝は家族を支えるため、技術者になる夢を捨てて、中学を中退して漁船の電気工事の仕事に従事する。兄を見ていた次男の清堅も、中学を卒業後兄の手伝いを始める。兄弟は丁寧な仕事ぶりで漁師に信頼される。しかし漁師の景気で左右される電気工事の仕事に清孝は不安を感じていた。

 しかしやがて日本は敗戦を迎え、資材が不足し始める。資材を探して佐世保の旧海軍の払い下げ物資を入手した兄弟は、そこで潜水艦探知用のソナーに出会う。それをみた清孝はこれを応用して魚の群を探知する機械を開発することを思いつく。

 これから兄弟の格闘が始まった。清孝は電気工事の仕事を減らして、借金をして開発を始める。1年後、試作器が完成、弟の清堅が知り合いの漁師に頼んでその装置を漁船に搭載して実験を行った。しかし映ったのは海底だけだった。漁師は清堅の持ち込んだ装置を馬鹿にして「探知機ではなくてインチキだ」とあざけった。

 昭和22年、古野兄弟は新たに人を雇って、電気工事の仕事はすべて彼らに任せ、不退転の決意で開発に取り組む。超音波について無学であることを感じた清孝は多くの専門書を購入して、超音波の勉強を始める。その結果、彼は超音波で魚群の探知は可能であるはずだとの確信を抱く。

 清孝はソナーの感度増幅のための改造をし、10倍の感度を持つ機械を作り上げる。弟の清堅はこの機械を持ち歩いて漁師の協力を頼む。しかし自分の技量に自身を持つ彼らは、誰も相手にしなかった。やむなく清堅は遠く五島列島の岩瀬浦まで足を伸ばす。ここに枡田富一郎という風変わりの網元がいた。彼は東京の銀行をやめて父の後をついで漁師を始めていた。しかし彼の枡富丸は漁獲量が最低で「ドンビリ船」と呼ばれていた。重い借金を背負って後のない富一郎は、清堅が持ち込んだ魚群探知機に賭けることにする。実験が始まった。しかしスイッチを入れた途端に画面は真っ黒になってしまった。清堅は青ざめる。

 しかし清堅はさらに20隻の船に装置を積んでもらって実験を続ける。ある日、探知機に影が映った清堅は漁労長に頼み込んで網を入れてもらう。しかし上がったのはクラゲの大群だった。清堅は怒った漁労長に海に叩き込まれる。そのうえ、古野兄弟がインチキ商売をしているとの評判がたち、古野兄弟の信頼も地に落ちる。

 岩瀬浦は鰯の大量で湧いていた。しかし枡富丸だけは頼みの魚群探知機が全く役に立たず、不漁が続いていた。とうとう、見切りをつけた漁師たちがよその船に移り始めていた。土壇場まで来ていた。

 ある日、清堅は船が全速で走行している時だけ画面が黒くなることに気づく。総出で実験した結果、ソナーが船のエンジンの振動や舳先から回り込む泡などを拾っていたことが分かる。清孝は、船底にソナーをつけることを決意し、網元の枡田富一郎と交渉のために五島に出向く。

 「枡富丸の船底に穴を開けさせてください。探知機を取り付けます。」清孝の言葉に富一郎の顔色が変わる「漁師の命、船に穴を開けろと言うのですか。」「それしか手はありません。」清孝は言い切る。富一郎は目を見据え答えた「私の父の船には毎日五色の大漁旗がたなびいていました。私にもあの旗を見せてください。」。2ヶ月をかけて枡富丸に装置が取り付けられる。

 清堅が乗り込み枡富丸は夜の海に出漁する。しかし探知機に何も映らない。3時間が経過し、漁師達のイライラが募る。その時、画面に魚群が映る。網がうたれる。枡富丸は鰯とアジの大群をものにすることに成功する。枡富丸始まって以来の、水揚げ4000箱もの大漁だった。枡富丸は大漁旗をなびかせて網元の富一郎の元に凱旋する。

 一ヶ月後、枡富丸はドンビル船から漁獲一位の座に飛躍する。古野兄弟の元には魚群探知機を求める漁師達が殺到する。

 その後、古野兄弟はみんなで助け合いながら会社を興し、現在では従業員1500人を抱える業界一の企業になっている。

 実は今回のエピソードは、私は他の番組で見たことがある(この番組の成功で、最近は他局にも似た番組が増えている)のでおおよそのいきさつは知っている。ただその番組では清孝・清堅兄弟のことしか扱っていなかったが、この番組では兄弟10人全員の結束を描いていたところが解釈の違いである。

 家族のために青春時代を浪費した清孝が、かつて抱いていた技術者への夢を魚群探知機の開発にぶつけるのが泣かされる。またこの開発成功の裏には、彼が素人であったということが影響しているというのも皮肉なところ。もし彼が超音波の専門知識を持っていたら、「魚は超音波を反射しない」と開発を考えなかっただろう。ただし、素人だから成功するなどという例は、実は極めて希な例である。大抵は素人はとんでもない大失敗をしてしまうものだということを忘れてはいけない。

 古野兄弟の熱さもなかなかのものだったが、もう一つの見所は、追いつめられた網元・枡田富一郎の決断である。素人から漁師になってどうにもならなかった彼としては、魚群探知機の導入は、ある意味では藁にもすがる思いだったのではないだろうか。最後には船底に穴を開けることを了承するところなんて、もう既に「引くに引けない」とか「毒食わば皿まで」といった心境ではないかと思うところ。結果としてはその大博打が成功したから良いものの、もし失敗していたら、ただの馬鹿な二代目になっていたところだ(しかし枡田富一郎の船だから枡富丸ってのは、何とかならないものなのかな(笑))。

 ところで、最近コスプレづいている国井氏であるが、今回は漁師のコスプレで登場。しかしこれが笑えるほど似合いすぎている。どうして彼はこんなに肉体労働者スタイルが似合うのだろうか。

 

6/26 プロジェクトX「通勤ラッシュを退治せよ〜世界初・自動改札機誕生〜」

 今や多くの駅に設置されている自動改札機。今回はこの自動改札機の開発ストーリーである。

 昭和38年、都会の駅の混雑は限界状態に達していた。ホームには人があふれ、転落事故も多かった。駅の混雑の緩和のために近鉄は自動改札の導入を計画する。しかし開発を依頼した大手メーカーは「技術的に不可能」「採算がとれない」と次々に拒絶した。唯一その依頼を受けたのが、弱小電機部品メーカーだった立石電機(オムロン)である。部品メーカーからの脱却をはかっていた社長の立石一真は、株主から「社長の道楽」と揶揄されながらも、中央研究所を設置して開発スタッフを集めていた。立石は自動改札の開発に社運をかけたのである。

 この開発に抜擢されたのが、大学の助手から引き抜かれた田中寿雄だった。彼は期待されて入社したものの、今までに開発した商品は、たった一台しか売れなかった電気ツボ刺激器だけだった。彼はこの開発にすべてを賭ける。また彼を助ける設計士として選ばれたのが、ベルトコンベアの設計で社内一の腕を持つと言われていた浅田武夫だった。しかし工業高校を卒業して立石電機に入社した浅田は、実は立石電機の研究所のお粗末さに落胆し、技術を身につけたら会社を辞めて独立するつもりでいた。妙な機械の設計を命じられた浅田は憤然とする。

 田中と浅田はラッシュの梅田駅に乗客の観察に向かう。改札を通り抜ける客はなんと毎分80人もいた。一人当たり0.5秒でさばく必要がある。田中はこれに愕然とする。しかし浅田は逆に「俺が通勤ラッシュを退治してやる」と闘志を燃やす。

 早速試作器の製作が始まった。浅田は手前で定期券をいれて、1メートル先でそれを受け取るという機械をデザインし、切符の運送には得意のベルトコンベアを使う。しかし秒速2メートルという速度に、ベルトは耐えられず、5分で切れてしまう。浅田は1000本以上のベルトを試した後、やっと切れないベルトを作り上げる。

 田中はセンサーの開発を担当していた。しかしこちらも難航する。30人の主婦を使っての試作器のテストでは、荷物と人間が判別できずに、何度もセンサーが誤作動してしまう。田中は焦る。

 ここでとんでもない事態が発生する。国鉄から自動改札機にクレームが付いたのだった。開発中の自動改札機は、パンチカードと同じように穴で情報を読みとるしくみになっていたのだが、近鉄と同じ定期券を使用している国鉄が「うちは自動改札を導入するつもりはないのに、穴の空いた定期券は駅員が見にくくて困る」と抗議してきたのである。この一件で、近鉄はあっさりと自動改札から手を引いてしまう。

 もうこれで開発は中止だ。覚悟を決める田中達に社長の立石から電話がかかってくる。「自動改札機は我が社の初の本格的製品だ。金のことは心配せずに開発を続けろ。」田中は必死でセンサーの改良に取り組む。

 浅田達の売り込みの甲斐あって、阪急電鉄の北千里駅に自動改札の導入が決まる。自動改札機は順調に稼働を始める。しかし1時間後、突然に警報が鳴り始める。機械を開けると、そこにはグシャグシャになった切符が入り込んでいた。定期券専用であるにも関わらず、切符を入れたり、果ては紙幣を入れる客までおり、機械はトラブル続きだった。結局、立石電機の若手社員が張り付くことになる。無人改札のはずが、無人でなくなってしまった・・。

 田中は切符使える自動改札の開発を始めていた。しかしパンチカード方式では、小さな切符には情報を記載できない。新しい情報記録方式が必要だった。アイディアにつまって気分転換のために音楽をかけた田中は、オープンリールテープを見てハッとする。「そうだ、磁気記録だ」こうして新しい切符(今よく見かける裏の黒い切符ってやつですな)が誕生する。

 しかしまだ問題があった。小さな切符は機械の中で斜めになったり横向きになったりで、うまく読むことが出来なかった。設計を担当していた浅田はこの問題に悩んでいた。しかしこの問題も思わぬところで解決される。ある日、子供を連れて釣りに行った浅田は、川を流れる葉っぱが石に当たって方向を変えたのを見て思いつく。障害物をつければ、切符は向きを変える。こうして切符の問題が解決する。

 こうして新しい自動改札機が完成する。北千里駅に取り付けられたこの機械は、トラブルもなく乗客をさばく。これが自動改札機の普及の第一歩になる。

 何やら開発ものの王道を突っ走っていて楽しませてくれるのが、今回。執念を持って開発を続けた田中達技術者もかなりのものだが、圧巻は社長の立石の決断だろう。近鉄が突然撤退してしまったあの状況で、開発の継続を行うのは並大抵の決断ではない(下手をすれば会社がつぶれる)。だがその甲斐あって弱小部品メーカーだった立石電機が、社員2万人の大会社になったのだから、立派なものである(最初はまるでどこかの分校のようだった中央研究所が、近代的な立派なビルに変わっているのは笑える)。技術者にはロマンも必要だが、経営者の方にもロマンが必要だと言うことだろう。

 しかし成功したから良いものの、失敗していたら道楽で会社をつぶした馬鹿社長と言われていたことだろう。実際にそれまでの中央研究所の開発品が、田中の一台しか売れなかった電気ツボ刺激機を初めとして、新札発行で無意味になった偽札判定機や、使い道のなかった馬の体温測定器など、ほとんど珍品奇品の類ばっかりなのだから、ある意味奇跡の逆転ホームランだったようにも思える。

 なお、田中や浅田の起死回生の発想が、いわゆる気分転換の際に生まれているもの象徴的。概してアイディアというのは、思い詰めている時には出てこないものである。全く関係ない時に、妙案がポッと生まれてきたりするから不思議なものである。

 ところで失礼ながら、今回の内容で最も目を引いたのが浅田武夫本人の変貌ぶりである。リーゼントの兄ちゃんが、ああも見事なオッサンになってしまうのかというのは少々驚愕(笑)。彼がリーゼントをしていた頃から、妙にそり込みが深いのではと気になっていたが、晩年にはそれが見事に禿げてしまっていたのが、本人には失礼ながらも笑いを誘ってしまった。リーゼントは髪にはやさしくないのだろうかなどと、全く関係ないことを考えてしまった次第である。 

 

6/19 プロジェクトX「父と息子執念燃ゆ大辞典」

 今回のテーマは日本語のバイブル「広辞苑」である。広辞苑を編纂した親子の執念での物語である。

 言語学者・新村出には一つの願いがあった。彼は日本語用の辞書を作りたいと思っていた。当時は日本語のまともな辞書はなく、言葉数も説明も不十分なものしか存在しなかった。彼はイギリスのオックスフォード英語大辞典ような日本語の辞書を作ろうと考えていたのだ。

 毎日書斎にこもって、辞書のための原稿を書いていた新村出、しかしある日とんでもない事件が起こる。彼の次男で、同志社大学でフランス文学を教えていた猛が、治安維持法違反で特高警察に逮捕されたのだ。日中戦争が激化し、言論に対する統制が強化されていた時代、猛がペンネームで書いた政府批判の文章が原因だった。猛は収監され、猛の妻子は国賊として責められる。出は彼らをかくまう。

 2年後、猛はようやく釈放される。しかし彼は職も失い、廃人同様の状態になっていた(特高警察は捜査のための機関でなく、政府にとって都合の悪い連中を、取り調べとは名ばかりの拷問で粛正するための組織であるから、連中に捕まった者は大抵こうなる。彼はまだ生きて帰って来れただけ良い方だとさえ言える。)。そんな猛を見た出は、辞書作りを手伝って欲しいと呼びかける。「slow but steady(ゆっくりでも着実に)」父の言葉に息子は肯く。

 父の原稿を見た猛は、その緻密さに驚嘆する。しかし科学・経済などの専門用語の数が少ないと感じる。彼は高校の同級生だった科学者・湯川秀樹に専門用語の解説を依頼する。また大学の先輩・人類学者の今西錦司などにも原稿を依頼する。このように各分野の50人もの専門家の協力で15万語が集まる。

 猛は原稿を持って東京に向かう。出版の約束を取り付けていた出版社に原稿を持参するためだった。「これでやっと父の夢がかなう」猛の胸は高鳴る。

 しかし信じられない事態が発生する。東京大空襲で印刷工場が爆撃を受け、原稿がすべて灰になってしまったのだった。親子の夢が無惨にも消え去る。

 戦後、廃墟の中に立ちつくす人々の中で、新村親子は再び辞書作成のために立ち上がる。まず専門家のもとを回って原稿を集める。幸いにも京都は戦災を逃れていたため、多くの原稿の下書きを回収することに成功する。また辞書を出版してくれる出版社を探し回った結果、岩波書店の協力を取り付ける。

 しかし新村親子を時代の急激な変化が襲う。内閣の訓令によって難しい漢字など多くの言葉が使えなくなったうえに、「アルバイト」「ノルマ」「闇市」など多くの新語が現れる。彼らは辞書の内容の大幅な変更を余儀なくされる。猛は岩波書店から資金を借り、東京で7人のスタッフを雇って、辞書の編集作業を開始する。

 猛以下、編集の素人ばかりが集まっての言葉探しが始まった。目標は20万語、彼らは新聞・雑誌・ラジオ、果ては町の中にまで言葉探しに出かけていく。

 しかし資料代やスタッフの給料で、岩波書店に借りた資金はすぐに底をつく。新村親子は必死で金を工面する。その矢先に、ギリギリの生活をやりくりしていた猛の妻が乳ガンで倒れる。

 動揺して意気消沈するスタッフ、しかし彼らを猛が励ます「slow but steady」それはかつて猛が父からかけられた言葉だった。そして彼らの努力の結果、辞書の編集が終了する。

 しかしこれで完成ではなかった。出版直前でとんでもない問題が発生する。素人スタッフばかりで編集した悲しさか、言葉の説明が短すぎたり、専門語の解説が難しすぎたりなどで、再編集の必要が発生してしまう。結局、岩波書店編集部の精鋭と若手の言語学者数人が熱海に泊まり込みの突貫作業で編集を完成させる(いわゆる缶詰というやつですね。睡眠時間1日5時間以外は作業に当てられたとか、「完成するまで家に帰れないと思ってくれ」とか、またもや団塊の世代辺りが涙しそうなキーワードが多いのだが)。

 多くの人々の苦労の末、広辞苑が出版され、日本語のバイブルとして大ヒットする。

 辞書の編集の話でどのような熱い話を作るのだろうと思っていたが(まさか編集中の辞書が爆発するというわけにもいかないし(笑)・・と言っていたら辞書の原稿が燃えていた)、想像以上に熱い話になっていた。しかし広辞苑以前にはまともな辞書がなかったというのも私は知らなかったところである。現在は大言海だの新明解だのといろいろな辞書が出ているが、その原点がこの広辞苑であるわけである。

 辞書の作成にかけた新村親子の情熱もさることながら、あの戦後の混乱の中で辞書を出版しようと決意した岩波書店の決断も感心する。営業的に成功するかどうかという判断だけでなく、文化を養成しないといけないという使命感のようなものが、この決断の背後にあるだろう。最近の出版社はこの「文化の担い手」というプライドがなくなってきているのが悲しい。

 ところでスタッフが必死になっていた大きな理由の一つが、新村出が存命のうちに辞書を出版したいということであったが、出はかなり高齢であったのだから、スタッフが焦るのも当然であろう。幸いにして新村家は長寿の家系のようで、新村出・猛ともにかなり長生きしたようであるので、新村出も広辞苑の完成を見ることが出来たようである。ただその分、奥さんが若死にしてしまったのが悲しいところ。

 

6/12 プロジェクトX「男たちのH2ロケット天空へ」

 電電公社の通信衛星、気象庁の気象衛星などの要求にこたえるためにH2ロケットの仕様が決定された。H2ロケットは2tクラスの衛星を静止軌道に打ち上げるためには、LE5の10倍の出力が必要とされることになった。これは世界でも最大のエンジンであった。新エンジンLE7の開発が開始される。しかしこれが苦闘の始まりとなる。

 五大富文をリーダーとしてH2の開発が始まった。最も困難であるLE7エンジンの開発を指揮するのは、LE5の開発に携わった平社博之であった。

 しかし試作のエンジンは5秒ともたず爆発した。必要とされる噴射時間の350秒にはほど遠いものだった。これからしばらくは「5秒の壁」を越えることが出来ないことが続いた。ここで平社は日本ロケット界の切り札を投入することを決める。それはアメリカの宇宙産業の現場を転々としてて技術を磨いてきた岸本健治であった。

 岸本の「燃料の混合がうまくいっていない」との指摘によりエンジンの改良が行われる。改良したエンジンは16秒燃焼し続けた。5秒の壁を突破することに成功する。

 しかしここで思いがけないことが起こる。アメリカが日本に対して市場開放を迫ったスーパー301条の中に人工衛星が含まれていたのである。もし衛星がアメリカのものになれば、ロケットもアメリカ製になる可能性が高くなる。これは実はアメリカによる日本のロケット技術つぶしの陰謀であった。

 打ち上げ予定まで後2年、H2の開発は着々と進行していたが、エンジンの開発が未だ完成していなかった。技術者全員で100以上もある失敗の原因を一つ一つつぶしていく気の遠くなる作業を続けていた。試験場に泊まり込んでの突貫作業が連続した。そして犠牲者が出た。エンジンに燃料を送るターボポンプ開発に携わっていた、大木俊英が突然に倒れ、死亡した(多分過労死だろう)。

 さらに犠牲は続く、噴射機の実験を行っていた若手技術者・金谷有浩が爆発に巻き込まれて事故死したのだった。日本ロケット開発史の中での初めての犠牲者である。とうとう犠牲者が出てしまったことで、平社博之はロケットの世界から引退することを決意し、辞表を提出する(自発的に辞めたようにドラマではしているが、実際は責任を押しつけられて辞職させられたのではないかとの気もするが)。

 エンジン開発のリーダーは岸本に引き継がれるが、犠牲者が出たことで各方面からの非難が殺到し、エンジン開発は危機に瀕する。また警察の捜査まで受けた現場の士気は低下してしまう。

 その時、二人の人物が岸本達を尋ねてくる。金谷の両親だった。彼らは息子の夢であったロケット開発を是非とも成功させるように岸本達に願う。現場の目の色が変わる。

 200以上ものチェックポイントが次々と調査されていった。その結果浮上したのが溶接の問題だった。溶接部分の盛り上がりがエンジンの高熱によって歪みを与えるのだった。この問題解決のために投入されたのが溶接の鬼・竹内稔(それにしても○○の鬼とか伝説の○○がやたらに登場する番組だな・・そう言えば、昔にも「法隆寺の鬼」と呼ばれた宮大工も出てましたね)。彼は溶接部分を鏡のように磨き上げる。こうしてまるで工芸品のようなエンジンが出来上がった。

 LE7の燃焼実験が行われ、岸本達が見守る中、とうとう350秒の燃焼を終了することに成功する。こうしてLE7は完成した。

 その後、LE7を搭載したH2の打ち上げも成功。結局H2の打ち上げは5回連続して成功する。一昨年打ち上げに失敗し、世論から無駄遣いだと叩かれるが(たかだか数十億でとやかく言う方がおかしい。ロケットなんて失敗していくらなのである。無責任経営の挙げ句に破綻した銀行救済に投入された資金は、これよりも0が2つほど多い。)、彼らは再びLE7を改良して、この夏再び宇宙に挑もうとしている。

 今回も例によって熱い内容である。「技術者にとって最も大事なものは意地だ」とか、試験場に泊まり込んでの突貫作業、挙げ句の果ての過労死など、どうもおじさん族の琴線に触れそうなキーワードが今回も散りばめられている。ただ下手すると精神主義に走ってしまいそうな危険があるのが、毎度のことながらこの番組の危険性ではある。その辺りには注意。

 

6/5 プロジェクトX「激闘男たちのH2ロケット〜純国産・屈辱からの復活戦〜」

 昭和30年、日本の産業は復興を遂げつつあったが、技術の基盤は弱く、その多くを外国に依存していた。かつて戦闘機「隼」を設計した天才技術者・糸川英夫は、戦後にGHQに航空機研究を禁止され、不完全燃焼の毎日を送っていた(またもこの番組の常連、元航空技術者の登場である。つくづく当時の航空技術者には人材が多いものだ)。

 既に航空技術ではアメリカに大きく水を開けられた今、糸川は研究が始まってすぐのロケット技術なら、外国に対抗できると考える。こうして彼が始めたのが、全長20センチのペンシルロケットと言われる小型ロケットの実験である。「おもちゃ」と揶揄されながら、彼はロケットの基礎研究を続ける。彼の研究に刺激を受けた若者達が、国産ロケットの夢を抱いて、彼の元に集まってくる。その中に、やはり航空技術者を目指しながら敗戦で断念した竹中幸彦の姿があった。

 しかしすぐに彼らは衝撃を受けることになる。昭和32年、ソ連が世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、続いてアメリカも人工衛星打ち上げに成功した。両国は国家をあげてロケットの開発を行っていた。日本との差は既に大きく開いてしまっていた(まさにB29に竹槍・・いや、鉛筆だったか・・で挑んでいるに等しい雰囲気である)。

 日本で本格的な大型ロケットの開発が計画されるのは昭和40年のことである。5年後の打ち上げを目指して、30人のプロジェクトが結成される。リーダーは竹中幸彦、設計は竹中らとペンシルロケットの実験に参加した五代富文があたった。多くの企業が集まって技術開発を始めた。1000人もの技術者が集結する。

 エンジンの開発にあたったのは、三菱重工の平社博之ら、船舶エンジンの開発を行っていた技術者達。しかしエンジンの開発は難航する。20台以上の試験用エンジンは尽く爆発してしまった。

 そのころ、ロケット技術の輸出を産業として考えていたアメリカは、日本をターゲットにロケット技術の売り込みを欠けてくる。なかなか進まない国産での開発には産業界の批判が相次ぎ、とうとうアメリカの技術の導入が決定されてしまう。日本の技術者にとっては屈辱だった(多分、この影にはアメリカからのかなりの政治的圧力があったことは容易に推察がつく。後に同様のことは、FSXの開発でも起こっている)。

 特に姿勢制御装置の開発に携わっていた日本航空電子の小島雅夫は怒りを感じていた。彼は自分の開発していた姿勢制御装置が完成する確信を持っていたのだ。しかもアメリカから来た姿勢制御装置を見た彼はさらに激しい怒りを感じた。その設計は彼のものとほとんど変わらなかった。

 エンジン開発の方にもアメリカの技術者達はやって来た。彼らは平社達のエンジンの改良点を次々と指摘する。しかし60億円もの技術料を受け取ってやって来たアメリカの技術者達が開示した技術は、10年前のものまでだった。

 こうしてアメリカの技術によって作られたロケットN1は打ち上げに成功する。しかし竹中達は釈然としない気持を抱えていた。

 さらに次期開発ロケットN2の計画を聞いた竹中達は、戦慄することになる。N2ロケットはほとんどがアメリカの製品を組み立てるだけだった。しかも開発が始まるや、日本の技術者たちはさらなる屈辱に打ちのめされることになる。アメリカからの技術はすべてがブラックボックスに閉ざされ、実験データさえもらうことが出来なかった。このままでは日本のロケット技術は滅んでしまう。竹中達は焦る。

 「このままでは日本のロケット技術は滅んでしまう」竹中は、日本独自の技術の開発を呼びかける。それに答えて日本の技術者達は、独自技術の確立を目指して密かに開発を始める。

 姿勢制御装置の開発に携わっていた小島は、開発中の装置を遊園地に持ち込んで、ジェットコースターに乗せた。こうしてどんな姿勢の時でも正しくロケットを制御する装置を開発した。

 エンジン開発の平社は役員に直訴して、エンジン開発を開始する。しかし試作のエンジンは爆発し、20億円の試験設備が破壊されてしまう。開発中断を恐れた平社は、本社には一部損傷との嘘の報告をして、開発を継続する(この番組に付き物の、現場の開発者の暴走。だけどこれを賛美して良いのかは賛否両論だろう)。そうして日本ロケット開発の命運を賭けたエンジンLE5の燃焼実験が開始される。この試験に平社は辞表を持って臨む。そして試験は成功する。

 昭和59年2月、宇宙開発事業団は、純国産ロケットH2を8年後に打ち上げる計画を発表する。

 この番組では、糸川のペンシルロケットからNASDA(宇宙開発事業団)の実用ロケットに直接つないでいるが、実はこの両者は厳密な意味では直接はつながらない。糸川のロケットは固体燃料ロケットであるが、NASDAのロケットは液体燃料ロケットである。糸川のロケットの直系と言える固体燃料ロケットは、その後、学術目的で研究が続けられ今日に至っている(鹿児島の内之浦に基地がある)。ちなみに固体燃料ロケットの技術については日本は世界でもトップで、噴射力を制御できない固体燃料ロケットで人工衛星を打ち上げる技術を持っているのは日本だけである。

 それにしてもアメリカのとことん日本を馬鹿にした態度は、日本の技術者の一人である私にはカチンとくる。もしかしてこの番組の制作者は攘夷論者だろうか(笑)。だが「日本にこんな複雑なエンジンが開発できるはずがない」などと言われると、意地でも開発したくなるのが人情というものだろう。

 しかし最初にも言ったが、またも「元航空技術者」が登場である。この連中は新幹線やYS11やテントウ虫の回などにも出てきているが、実に人材の宝庫のようである。先の大戦では日本はいかに戦闘機開発に国力を傾けていたかがうかがわれるところだ。

 次回はいよいよH2の開発であるが、これがまた苦難の連続のようである。これはかなり熱い話になりそうだ。

 

5/29 プロジェクトX「腕と度胸のトラック便〜翌日宅配・物流革命が始まった〜」

 老舗の運送会社・ヤマト運輸は、企業の大口顧客を他社に奪われて、倒産の危機に瀕していた。二代目社長に就任した小倉昌男は、役員達の反対を押し切って、起死回生の策として小口運送に乗り出すことを決意する。当時は小口荷物を扱っていたのは郵便小包と国鉄貨物だけだった。小倉はそこに活路を求めていた。小倉が若い社員を集めたプロジェクトは、電話一本で荷物を受け取りに行き、日本全国翌日配達という、当時としては非常識な方針をぶち揚げる。そしてそれを支えるために、トラック運転手達全員に営業になるように要請する。

 当時、花形と言われていた国道一号線を担当していた若手ドライバー・加藤房男はもっとも難関と言われた北海道を担当することになる。

 しかし北海道は甘くなかった。吹雪の中を地図に載っていない家を求めてさまよったり、地吹雪でトラックがひっくり返ったりなどの体験をしながら北海道営業所は大苦戦する。

 北海道を渡り歩いていた加藤は、過疎地域の方が、荷物の宅配を求めていることに気づく。過疎地域の親が、都会に出ていった子供達に地元の産物を送りたいと思っているのだが、そのような荷物を扱ってくれる会社はなかったのである。加藤はこの心を是非に届けたいと考えるようになる。

 しかしそれは簡単ではなかった。ヤマト運輸は運輸省に全国での営業の許可を申請していたが、運輸省は地元の業者の保護と、「過疎地域に宅配の需要などあるはずがない」との論理で、その申請を門前払いしていた。そのため加藤達は営業許可地域の外に出向いていくことは出来なかったのだ。

 悩んだ加藤は、法律の規制にかからない軽トラックで営業することを考えつく。こうして加藤達北海道営業所のドライバー達が、北海道中の過疎地域を走り回っていった。しかしそれは宅配事業の赤字を増やす結果につながった。しかし社長の小倉は、逆に宅配便の専業会社になることを決意し、加藤達にもそれを続けることを命じる。

 ある時、過疎地域をまわっていた加藤が、地元の漁師から特産のカニを東京に直売したいとの要請を受ける。これが「産直便」の発想につながり、ヤマト運輸はこの産直便を大々的に宣伝する。そしてこれが大ヒットし、過疎地域が一気に活気づくこととなる。

 この事態を受けて、ヤマト運輸は再び運輸省への免許申請に挑む。地元運送業者の反対などに遭うが、地方の農協や漁協などの支援を受け、ヤマト運輸は免許を取得することに成功する。

 完全に物流から見捨てられていた過疎地域を、宅配便によって助けようという考えが感動を呼ぶ内容である。先週が異常に熱い話だっただけに、果たして今回は宅配便をテーマにしてどんな熱い話が作れるのだろうかと懸念していたのだが、そんな懸念を吹き飛ばすような「熱い」ストーリーを展開していた。

 しかし実は今回の本当のテーマは、お役所というものがいかに既得権益の保護に動くかということの実証のように思える。運輸省の免許発行までの時間が、誰が考えても「なんでそんなにかかるの?」というぐらい時間がかかりすぎている。この辺りが「構造改革」が必要とされているところなのである。

 

5/22 プロジェクトX「炎上男たちは飛び込んだ〜ホテルニュージャパン・伝説の消防士たち〜」

 いつも「燃えている」「熱い」ことが特徴のこの番組であるが、今回は文字通り、燃えていて、熱い物語である。

 33人もの死者を出して、最悪のホテル火災と言われたホテルニュージャパン火災。この火災では100人以上もの宿泊客が逃げ遅れたが、66人の客が消防隊によって救助された。今回はその救助にあたった消防隊の物語である。

 ホテルブームの昭和54年、赤坂のある古いホテルが乗っ取り屋・横井秀樹に買収された。彼はホテル事業が生み出す富に目をつけたのである。横井はこのホテルを豪華施設に改装する。しかしそれはあくまで表面だけを。

 消防庁の特別救助隊の試験を4度目にして合格した高野甲子雄は、あるホテルの視察に出向いた。しかしそのホテルは異様な感覚を高野に与えた。迷路のような構造、中が空であるような壁、スプリンクラーがなく、異常に湿度が低い。高野はこのホテルは危険だと判断し、そのホテルは消防庁から改善勧告を受ける。そのホテルこそがニュージャパンだった。改善勧告を受けた社長の横井は、設備の改善を約束する。しかしこの守銭奴は、もとより人命などなんとも考えていなかったので、改善などは行われなかった。配管のされていない飾りだけのスプリンクラーが設置されただけで、経費節減のために加湿器も止められたままだった。

 そして昭和56年2月8日、ついにこのホテルで火災が起こる。9階から出た炎は、穴の空いたブロックに壁紙を貼っただけの壁を伝って、あっという間に9階と10階をなめ尽くす。多くの宿泊客が炎の中に取り残されていた。

 緊急出動をした高野達が見たのは、異常な光景だった。巨大ホテルが激しい炎に包まれていた。それは普通の高層建築(大抵は耐火構造になっている)の火災とは全く違う光景であった。

 その頃、火災の報を受けた横井は、従業員に指示を出していた。横井が最初に出した指示は、ロビーの家具を運び出すことだった。人命などなんとも思っていないこの守銭奴には、宿泊客を避難させるなどという考えは微塵もなかった。

 ホテルに突入した高野達は、警備員に9階への非常階段に案内するように告げる。しかし警備員は社長と電話中であることを理由にそれを断る。「宿泊客の命がかかっているんだ!」怒った高野は警備員の胸ぐらを掴んで、非常階段の位置を教えさせる。

 しかし非常階段を駆け登った高野達は9階で立ち往生する。階段の非常扉が熱で変形して開かなくなっていたのだ。高野はとっさに屋上に上がることを判断する。

 その頃、ホテル周辺でも消防士達が炎と格闘していた。消防庁は23区すべての消防車を集めるという非常出動をかけたが、それでも救助は追いつかない状態だった。

 屋上に上った高野達は、猛然と一番高い火柱があがっているところを目指した。そこは梯子車では接近できない部屋だった。下を覗いた高野達が見たのは、10階から飛び降りようとしていた宿泊客だった。彼らは韓国から来た旅行者だった。高野達は下にロープを投げて彼らを助け出す。

 韓国人達を助け出して、次に向かおうとした高野達であるが、信じられない話を告げられる。彼らによるともう一人が部屋に残っているという。誰かが助けに行くしかない。しかしその部屋はいつフラッシュオーバーが起こるか分からない状態だった。フラッシュオーバーとは火災が爆発的に広がる現象で、その温度は400度を超え、消防士の耐火服でもひとたまりもない。しかし若い隊員である浅見昇が命を賭けて救助に向かう。彼は宿泊客が倒れているのを発見するが、その時に酸素ボンベが空になる。このままでは一酸化炭素でやられてしまう。やむなく彼は一端撤退する。

 浅見を引き上げた高野は次は自分が行くことを決心する。部屋に降りた高野、しかし彼が宿泊客を救助のために抱えた途端に、フラッシュオーバーが起こる。

 高野が飛び込んだ部屋が、一瞬にして炎に包まれたのを目撃した隊員たちは、慌てて高野のロープをみんなで引っ張る。高野が炎の中から、宿泊客を抱えて現れた。高野は全身火傷を負っていた。しかし屋上に上げられた彼の第一声は「この人を早く病院へ」だった。

 消防士たちの奮闘によって、ようやく火災も鎮火する。しかし33人の尊い人命が犠牲となった。

 全身火傷で入院していた高野の元に、スーツを着た人物が現れる。彼は「横井社長から預かりました」と分厚い風呂敷包みを高野に差し出す。それを見た高野は怒って突き返す「一体、何人が犠牲になったと思っているんだ!」。

 それから数年後、横井社長は業務上過失致死罪で禁固3年の判決を受ける。

 高野達消防隊の勇気と使命感が胸を打つ。彼らが部屋の中に一人の宿泊客が残っていることを知った時、「ここで助けられなかったら、悔いが残って、これから人命救助の仕事が出来なくなる」と考えていたというのは、彼らを突き動かす原動力がうかがえる話である。なお、もしこの時に陣頭指揮を執っていたのが、差別主義者の石原慎太郎だったら、宿泊客が韓国人だと分かった時点であっさりと見捨てたことだろう。

 しかし番組全体を通して受けるもっとも強烈な印象は、横井秀樹社長に対する憤りだろう。これだけの死者を出しながら、結果として禁固3年という刑罰は、大抵の者は「軽すぎる」と考える刑罰だろう。恐らく番組制作者もその憤りを感じているのであろうことは、番組の随所でうかがえる。この災害はほとんどのすべて人災の要素であったことは忘れてはならないことである。

 

5/15 プロジェクトX「霞ヶ関ビル超高層への果てなき闘い〜地震列島日本の革命技術〜」

 地震の多い日本では高層の建築は、長い間無理と言われていた。日本には建築物の高さを31メートル以下に規制する法律があり、昭和39年でも、最高で9階建てのビルしか存在しなかった。当時の東京は低層の建物が

 そんな日本で状況が変化したのは、建築学者・武藤清によって柔構造の考えが提案されてからである。彼は、関東大震災で多くの建造物が倒壊する中、上野寛永寺の五重塔だけがビクともしなかったのを見て、「柳に風」の要領で揺れを受け流す方法を考えついたのである。昭和38年についに建築物の高さ制限が撤廃される。

 ついに昭和40年、日本初の超高層ビル36階建て、高さ147mの霞ヶ関ビル建設が開始される。工事を請け負ったのは鹿島建設、担当したのは技術者・二階盛だった。かつてマンハッタンの摩天楼に圧倒された彼にとって、日本のプライドをかけた工事だった。

 「柳に風」を実現するには、多くの鉄骨を1ミリの狂いもなく立てる必要があった。二階はこの困難な工事を、技術の継承のために35才以下の若手に委ねる。二階は、工業高校を卒業したばかりの19才の角田勝馬や、大卒の26才の米田圭一郎を抜擢する。

 全国から集まった腕利きの鳶60人が集まる。小林利三を頭とした鳶達を指揮する現場監督に角田と米田があてられる。米田はクレーンでの資材の運搬の指揮、角田は鉄骨がキチンと垂直に組み上げられているかを確認す「墨だし」を担当することになる。

 この後はお定まりの「若手の成長物語」になる。米田が資材運搬の段取りを失敗し、鳶の頭の小林に「役立たず」と罵られたり、角田の墨出しが鉄骨の膨張のせい(太陽のせいで、朝は鉄骨の東側が膨張して、鉄骨は西に傾き、夕方には逆に東に傾く)でうまくいかなかったりなどのエピソードがあるが、彼らはそれを乗り越えてとうとう霞ヶ関ビルは完成する。その時には彼らは立派な現場監督になっていた。

 若手の成長物語と恋愛物語を絡めているところが、もろに以前に放送した「東京タワー」の回とダブってしまうのがつらいところ。おかしな言い方ではあるが「二番煎じ」の印象が強い上に、「熱さ」では東京タワーに負けてしまっている。あと一工夫が欲しかったというのが本音である。

 

5/8 プロジェクトX「日本初のマイカー てんとう虫町をゆく〜家族たちの自動車革命〜」

 昭和28年、まだ日本はモータリゼーションとはほど遠い状態だった。当時の乗用車は一戸建てよりも高く、庶民にとっては高嶺の花だった。それでも財をなした者の間では、ステータスとして外車が飛ぶように売れていた。国産車を作れば儲かる、各社が必至で開発競争を行っていた。

 そんな中、小さなメーカーが自動車開発に取り組んでいた。その会社、富士自動車工業は経営危機に瀕した零細メーカーだった。社運を賭けた開発に取り組んでいたのは、かつて軍用機開発に携わっていた若手技術者7人だった。そして彼らは試作車の製作にまでこぎ着ける。しかしここで思いがけない事態が発生する。メインバンクが「零細メーカーには自動車の量産は不可能」と融資を打ち切ったのだった。永久に日の目を見ることのなくなった試作車を前に、彼らは涙を飲むしかなかった。日本初の国産車は、トヨタのクラウンになる。会社社長などは競ってクラウンを購入し、トヨタは大企業に成長した。

 昭和30年、かつて試作車の開発に携わっていた百瀬晋六は、上司に呼び出されこう告げられる。「このままでは会社が危ない。今度、スクーター会社と合併する。360ccのエンジンならスクーターのラインでも製造できる。」こんな小型エンジンではせいぜい2人乗りの車が限界だと思われたのだが、百瀬はこのエンジンで4人乗りのファミリーカーを作ることを考え、会社の上層部を説得する。

 若手を中心にしたプロジェクトが結成され、百瀬がその指揮をとることになる。百瀬が開発目標に掲げたのは、1.35万円以下の価格で作る。2.悪路を60キロの速度で走る。3.どんな坂でも登る。いずれも当時の技術では到底不可能と思われる課題だった。

 百瀬に頼まれ足回りの開発を担当することになった小口芳門は、いきなり困難に直面した。軽自動車は法律によって幅1.3m、全長3m以内という規制があったが、このサイズ内に4人の乗車スペースを確保しようとすると、サスペンションのバネを入れる場所がなくなった。考えた末、彼は「ねじり棒バネ」を採用することを思いつく。しかし試作した車のバネは、日本の悪路で簡単に曲がってしまい元に戻らなかった。

 車体開発の方も難航していた。当初の設計では500キロを越えてしまった。360ccのエンジンで走れるようにするためには、350キロ以下に重量を抑える必要があった。車体の鉄板を薄くするしかないと考えたボディ設計の責任者・室田公三は、0.6ミリの鉄板を取り寄せる。しかし取り寄せた鉄板はペラペラで、落石でペシャンコになりそうだった。 は強度を上げるために車体に丸みをつけることを思いつく、丸みをつけた鉄板は大幅に強度が上がった。その結果「てんとう虫」と呼ばれる独特のシルエットが出来上がる。

 車体はやっと完成したが、まだバネの問題は解決していなかった。運輸省の走行テストを合格して、市販を始めないと会社の命運も尽きる。しかし試作車のバネは次々と折れていた。しかし小口達は百瀬に差し入れられた外国のバネの専門書からヒントを得て、やっとその問題を解決する。

 完成した車がとうとう運輸省の試験を受けることになる。箱根のテストコースを走りきるという過酷なテスト。百瀬達の開発した車を見た検査官の一人が、「こんな小さな車は危なっかしくて乗りたくない」と言って車を降りてしまう。しかし降りた検査官の代わりに55キロの重りを載せた車は、道ばたでオーバーヒートしている高級外車を後目に、全コースを24分という驚異的タイムで走りきる。

 こうして誕生したスバル360は庶民の手が届く車として大ヒットする。

 元飛行機技術者達の執念と(この番組にはこの連中はよく出てきます。新幹線の時もYS−11の時も出てきました。やはり一流の技術者が揃っていたということでしょうね。)家族への思いを絡めた「熱い」ストーリーであった。小口氏の「妻を乗せてやりたい」という思いはなかなか泣かされる。そう言えば小口氏の妻は脊椎カリエスだったということだが、その後どうなったのかが気になるところである。そう言えば、百瀬氏も奥方とご息女は出演されていたが、百瀬氏自身のその後については一切触れていなかったが、どうなったのであろうか。過労死でもしていなければ良いが。

 今回はおじさん族などが感動しそうな内容だが、それよりも少し下の年代に属する私の目から見た場合は少々気になることはある。例えば百瀬の「やる前から出来ないと言うのは、やる気がない証拠だ」という言葉など、いかにもおじさん族は感心しそうだし、現に私の上司などもよく口にする言葉である。ただしこの場合重要なことは、「技術的困難さは努力と発想で解決できる可能性があるが、そもそも理論的に不可能なものは絶対に解決できない」ということである。いくら徹夜で努力しても、飛行機が宇宙を飛ぶことは原理的に不可能なのである。ここのところの区別がついていないと、単なるはた迷惑な精神論になってしまうので、部下を持つ立場にいる人は注意して欲しい。人の上に立つ以上、「挑戦的課題」と「無理難題」はキチンと区別する必要がある。現に私はこれで困らされているのである(「人がやっていないことをするのが研究だ」と西堀栄三郎の言葉を引っぱり出して言われても、原理的に不可能なことが明らかであるものをやるのは単なる馬鹿である。)。ここのところを考えずに、無意味に「エンドレス」なミーティングだけをやられたら、部下はキレるし、会社は能率が上がらなくなって、とんでもないことになる。

 ところで全く関係のない話だが、クボジュンがテントウムシに乗って登場した時、妙に「似合ってるな」と感じたのだが、次に国井雅比古アナが自転車に乗って現れた時は、「似合いすぎている・・・」と呟いてしまった。やはり世代のものなのだろうか(笑)。  

 

5/1 プロジェクトX「史上最大の集金作戦広島カープ〜市民とナインの熱い日々〜」

 12球団の中で唯一の市民球団である広島カープ(そう言えば私も昔、どうしてこのチームだけ都市名がチーム名についているのか疑問に感じていた)。その設立の物語が今回である。

 原爆の投下で廃墟と化した広島。その中で人々は復興に立ち上がろうとしていた。昭和24年、人気の盛り上がっていたプロ野球では、2リーグ制への移行に向かって各地で新球団の創設が起こっていた。広島でも復興の思いを込めての球団設立の計画が持ち上がる。地元の元政治家などが中心となって、自治体の資金援助なども取り付けて球団設立が決定される。

 この新球団の監督に要請されたのが、野球の鬼と言われ、かつて阪神の監督もしたことがある石本秀一だった。石本は野球人生の最後をふるさとの復興にかけるつもりで監督を引き受ける。

 しかし石本が監督に就任したカープの状況は惨憺たるものだった。合宿所はつぶれかけの廃工場、そして資金もまだ十分に集まっていなかった。それどころか開幕を三ヶ月後に控えているのに、選手が全く集まっていなかった。想像を絶する惨状に石本は唖然とする。

 とにかく選手がいないことには試合もできない。石本は全国を駆け回って選手を集めようとするが、貧乏球団にやってくる選手はいなかった(8年前に選手をやめて喫茶店のマスターになっている人物にまで声をかけたというのが象徴的)。やむを得ず石本は地元で入団テストを実施する。集まってきた高校生や草野球の選手の中から石本は捕手の長谷部稔や投手の長谷川良平を採用し、なんとか30人を開幕までにかき集める。石本は自らスライディングの見本を見せて(この時の石本は52才である)彼らを指導する。

 しかしカープは貧乏チームだった。合宿でも十分な食べ物はなく、遠征費にも事欠く状態で、選手は三等車で20時間もかけて遠征し、選手は床の上で寝た。遠征先でも旅館に泊まれず、選手の実家で食事をもらうような状態だった。選手の給料も遅れた。石本は選手の生活費を工面するために企業を駆け回る。

 しかしとうとう資金難のために広島カープ解散のニュースが流れる。球団幹部に旅館に呼び出された石本は、球団の解散を告げられる。しかしその時旅館の周囲から「カープを解散させないでくれ」の声が沸き上がる。押し掛けてきた市民達だった。石本はすべてを自分に任せてくれるように頼み、資金集めに奔走する。元新聞記者だった石本は、自ら記事を書き、募金を訴える。市民達も立ち上がり、苦しい生活費の中から募金を行う。選手達も募金を集めるために、試合が終わった後で公民館などの舞台に立った(昔、阪神が吉本に買収されたら、阪神の選手が新喜劇に出るのではないかなどという噂があったが、ほとんどそれに近い世界である)。

 石本はベンチに帳簿を持ち込んで金の計算をする、応援団の連中は各家を回って募金を集める。まさに市民をあげての総力戦での募金活動で、この年の12月、球団存続に必要な400万円がやっと集まる。

 広島ファンというのは、他のチームと違って熱狂的な連中が多いことは感じていたが、こういう歴史があったことは初めて知った。昭和50年に広島が優勝した時に街をあげての大騒ぎになったのは当然だろう。

 なおうちの父はかなり古くからの野球ファンであるが(阪神ファンだ)、父によると広島は「とにかく弱かった」とのことである。開幕3ヶ月前に採用テストをして選手を集めたようでは、それはやむを得ないところであったのだろう。

 野球よりも特にJリーグで言われていることだが、プロスポーツの正しいあり方として、市民と密着したクラブチームのようなものが理想として言われる。しかし日本では往々にして資金の問題でなかなかうまくいっていない。この広島のエピソードのような熱気はもう今の日本では無理だろうが、何らかの形で地域密着型のチーム設立の方法はないのだろうか。ヨーロッパなどでは都市には市民オーケストラと市民スポーツチームがあるが、日本ではそういう例が皆無である。どうもこの辺りが日本での文化レベルの低さというものを感じる。

 なお今回一番印象に残ったのは、長谷川氏があの年齢にも関わらずかなり良い球を投げていたこと。昔取った杵柄というものだろうか。

 

4/24 プロジェクトX「パルモア病院」

 出産は赤ん坊にとっても母体にとっても試練である。未熟児で生まれてきたり、異常分娩が起こったりで、すぐに命を落としたり、重い障害を負う赤ん坊も多い。しかし今日の日本の新生児医療は世界でもトップクラスで、1000人の内、998人が無事に成長するという。その日本の新生児医療の基礎を築いた医師達の物語である。

 京都府立医科大学の小児科の教授に就任した、三宅廉は一つの想いにとりつかれていた。僻地医療に携わってきていた彼は、出産時の事故で障害を負った多くの子供達を見てきた。「出産の現場に立ち会いたい」彼は大学病院の産婦人科の教授にそう訴えるが、越権行為だとの批判を受ける。やむをえず、彼は知り合いの産婦人科医の元などを回り、出産の現場に立ち会う。そこで彼が見た現実は驚くものだった。当時の小児科医は生後1ヶ月以上の子供を対象にし、産婦人科医は母親のみを対象にしており、出産直後の乳児を救う医者はいなかったのである。

 三宅の元を義兄の専門学校バルモア学園の院長・石井卓爾が訪れる。三宅の強い想いにを知った彼は、三宅に対して学校の用地の提供を申し出る。三宅は大学教授の地位をなげうって、神戸の元町に作られる病院「パルモア病院」のために奔走する。小児科医と産婦人科医が力を合わせて母と子を助ける病院を夢見る彼は、相棒の産婦人科医を求めて各地を尋ねる。しかし彼の話を聞いた産婦人科医はみんな尻込みする。

 三宅が大阪の病院を訪れた時、息絶えた未熟児の横で涙を流していた産婦人科医を見つける。その医師・椿四方介に自分と同じ志を見た彼は、椿の元を訪れて協力を頼む。椿も三宅の大きな理想を見て、協力を約束する。さらに三宅は有能な助産婦を捜し、神戸で妊婦達から姉御と慕われていた小西田鶴子を勧誘する。そしてスタッフは揃った。

 さらに、今まで新生児を診察した経験のない三宅は、赤ん坊の病状をどうやって判断するかに苦しむ。しかし彼は多くの出産に立ち会ううちに、赤ん坊の泣き方と皮膚の色で状態が分かることに気づく。こうしてすべての準備が整い、パルモア病院は開設される。

 しかしすべてが順調にいったわけではない、ある日、陣痛が始まって10日たっても出産しない妊婦がやってくる。椿は分娩を決意し、30時間にも渡る格闘の末出産する。しかし産まれた子供は産声を上げなかった。彼は明らかに過熟児(おなかの中に長くいすぎて、育ちすぎた赤ん坊)だった。三宅はその子供を救おうと二日がかりで治療するが、結局は脳障害を阻止することが出来なかった。自分達の無力をかみしめるスタッフ、病院内に重い空気が立ちこめる。

 その後もパルモア病院は忙しい日々を送っていた。そんな時、小西が突然倒れた。盲腸で腹膜炎をおこしていた。手術を受けた彼女は一ヶ月の絶対安静になる。

 しかしその5日後、緊急事態が発生する。陣痛が始まってから5日間も出産しない妊婦が送られてきたのだ。妊婦を診察した椿は息を飲む。産婦人科医が生涯に一度出会うかどうかと言われる顔面位だった。顔面位とは、通常は頭から産道を出てくる胎児が、顔から出てくる状態で、喉などが圧迫されて命に関わる可能性のある症状である。このままでは赤ん坊も妊婦も危ない。椿は緊急手術を決意する。しかし助産婦がいない。だが、騒ぎを駆けつけた小西が病床から飛び起き、傷口に当てたガーゼの上からさらしを巻いて現れる。

 椿がメスを入れ、小西がお腹の痛みに耐えながらその赤ん坊を取り出す。息をせずにぐったりした状態の赤ん坊が三宅の元に運ばれる。三宅は必死で心臓マッサージを行う。12分後、赤ん坊が産声を上げる。その声を聞いた途端、小西がお腹を押さえてその場に座り込む。

 このパルモア病院がきっかけになって、日本でも新生児医療が見直されることになり、多くの子どもの命が助かることになる。

 三宅の新生児医療にかける情熱がひしひしと伝わってくるエピソードである。また助産婦・小西のエピソードの凄まじさには圧倒される。さすがに「姉御」と呼ばれていただけのことはある。彼らに共通しているのは、使命感に突き動かされるように仕事に携わっていたことである。やはり医者という仕事は、こういった奉仕の精神というものがないと出来ない仕事のように思われる。最近の医療現場の不幸は、こういう志を持った医師が減ってきていることだろう。算術でなったような医師に診てもらいたくないと思うのは誰でも同じだと思うが、そうでない医師の方がだんだんと珍しくなってきているのは悲しい。

 

4/17 プロジェクトX「液晶 執念の対決〜瀬戸際のリーダー・大勝負」

 今回は久しぶりの開発ものである。今日では「液晶のシャープ」としてその名が知れ渡っているシャープでの液晶開発物語である。

 液晶開発に立ち上がったのは早川電機(後のシャープ)の研究者の一人、和田富夫。しかし彼は以前に壁掛けテレビの開発に失敗し、プロジェクトが解散、自身は管理部に左遷を食らった身であった。

 アメリカでの液晶開発のニュースを見た和田は、「これを使えば壁掛けテレビも可能になる」と考え、開発部門のトップと直談判する。その熱意によって何とか開発計画の承認を得るが、当時電卓戦争の最中で電卓開発に主力を注入していたシャープでは、和田のプロジェクトに一線の研究員を回すことは出来ないと言われる。中川は研究所内で不遇の身を囲っていた者や、新人などを集めてプロジェクトを立ち上げる。

 しかし液晶開発を始めた和田達は、大きな技術的な困難に出くわす。液晶の原料は一万種にも及び、その組み合わせは無限に近かった。また当時の液晶は応答速度が遅すぎる上に、電圧をかけて数分後には消えてしまった。これらの困難のために、アメリカでも実用化を断念したものだったのだ。

 しかし以前にプロジェクトの解散で部下の将来をつぶしてしまった和田は、再び失敗してしまえば最低の人間になってしまうと考え、大胆な行動に出る。当時、シャープで花形商品だった小型電卓に採用してもらうことを考える。和田は電卓開発部門の責任者・鷲塚諫に掛け合う。和田より6才年下の鷲塚は、入社4年目に電卓を開発した研究部門の若きリーダーだった。和田はこの年下の鷲塚に頭を下げて液晶を売り込む。しかし液晶のあまりの反応の遅さに鷲塚の反応は冷淡だった。

 ここで新入社員の船田文明が新発見をする。前日の実験の後、液晶のビンに蓋をし忘れていたのに気づいた彼は、試しにその液晶に交流電圧をかける。すると反応が早い上に一週間経っても表示は消えなかった。彼らは不眠不休でこれを完成させる。

 和田は改良液晶を持って開発会議に臨む、しかし交流を使用していると言った途端に激しい罵声を浴びる。直流用に設計されていた小型電卓では、交流の液晶を使用することはコスト的に不可能だった。和田のプロジェクトは解散の危機を迎える。

 しかしコスト低減に限界を感じていた鷲塚の「品質で勝負したい」と言う意向で、液晶の採用が決定される。しかしスケジュールはギリギリのものだった。和田のグループの不眠不休の開発が続く。その最中、ライバルメーカーのカシオから低価格電卓「カシオミニ」の発売が発表される(これの開発エピソードも、この番組で以前に登場したことがある)。コスト的に圧倒的に不利な立場の液晶電卓は危機にさらされるが、ランニングコストを計算した場合に勝負の余地があることに気づいた和田は、液晶製造のための装置の発注にメーカーへ向かう。しかしそのメーカーは和田の要求するスケジュールで納入するには、今直ちに契約しないと不可能だという。和田はクビを覚悟で独断発注をする(これが表題の「大勝負」の意味だろう)。

 和田達の努力の結果、液晶電卓は完成。大ヒット商品となる。こうして「液晶のシャープ」の基礎が築かれる。

 企業内の技術者の一人としては、かなり身につまされる内容である。私も経験していることであるが、プロジェクトがこけた後のメンバーは特に悲惨なものである。和田氏はここから一発逆転を果たしたのだが、現実はなかなか困難なものだ。往々にして上司の意気込みだけが空回りして、部下を散々こき使ってつぶした挙げ句にプロジェクト失敗などという結果になりがちである。そういう意味では和田達の結果は、本人達の能力・努力以外に幸運にも支配されている部分はあると考える。

 また和田氏の独断発注は、成功したからこそ美談になっているが、失敗していたら大問題になっただろう。和田氏はその時は自分が全責任を負う考えだったようだが、実際は部下に責任を被してしまう管理職の方が多い。ただ和田氏がここでこんな大博打を打たざるおえなかったのは、日本の組織の問題もある。欧米ではプロジェクトマネージャークラスの人間は、このような契約に関しては独自の判断で決定する権限を持っているのだが、日本の組織では何でも本社稟議にかけねばならず、迅速な意志決定が不可能になっている。この件はまさにその組織的問題の反映でもある。

 それにしても今回も「不眠不休・徹夜」がキーワードになっている。危険なのは、これを見た中年族(管理職クラス)が、部下を不眠不休でこき使いさえすれば大きな成功を得られると勘違いすること。上司に確たる方針があってこそ成果が期待できるのだが、それを考えずに結果が出ないことを部下の努力不足に帰結する上司が出てくると迷惑極まりない。これが私には実に切実だったりする。

 

4/10 プロジェクトX「大地の子、祖国に立つ〜中国残留孤児・葛藤する家族」

 山本達の中国での聞き取り調査が終了した。しかしこれ以上は、孤児達を日本に呼んでの対面調査が必要である。しかしこれは山本達だけでは困難であった。

 その時、霞ヶ関で動きが始まる。厚生省援護局の課長・水田努は着任早々、孤児達の肉親探しを求める500通もの手紙が保存されている棚を見て驚く。「今まで何をモタモタしていたんだ!」水田は大蔵省や中国政府の協力を求めるために動き始める。

 水田の申し入れに難色を示す中国地方政府の中でも、韓虎吉のように孤児達のためのプロジェクトを立ち上げる者が現れる。彼は戦争前、日本人開拓団の友人がおり、戦後消息が不明になった彼らを思っての行為であった。

 また山本達の調査結果は日本の世論に訴え、孤児の肉親探しに対する機運が盛り上がる。そして厚生省の中川昇に「孤児達の肉親を全力で捜せ」の特命が下る。こうして中川を中心とした10人のプロジェクトが結成される。そして47人の孤児達の訪日調査が実施されることになる。

 しかし中国側のスタッフは困難に出くわしていた。中国の養父母には、孤児達が日本に行ってしまうことを怖れ、訪日調査を拒む者も多かった。彼らにとっては、文化大革命時に「日本の鬼の子をなぜ育てた」と迫害を受けながら、守ってきた子供達であった。中国側スタッフによる懸命の説得が行われていた。

 また日本側でも中川達が35年の月日の重さを思い知らされていた。中川達の調査の結果、数人の孤児達の肉親が判明していた。しかし孤児達の親だと思われる人物に接触をはかっても、彼らの中には戦後既に再婚し、子供を中国に残していることを家族に秘めている者も多く、名乗り出ることを拒まれた。そんな家族を中川達は一人ずつ説得する。

 そうして訪日調査団第一陣の47人が日本に到着する。調査初日から肉親と再会できる孤児が出てくる一方、いつまでも肉親に会えない孤児も出てくる。中川達の親達に対する懸命の説得もまだ続いていた。

 その中で胸を打つエピソードが紹介されている。孤児の一人、宋春巧の母、長岡恵美子はその住所さえも分かっていたのだが、戦後再婚して子どももいる彼女は娘との再会を拒んでいた。しかし訪日調査も終わりに近づいて、落ち込んでいる宋を見た中川はとうとう我慢できなくなり、彼女を連れて長岡に会いに行く。ここでの35年の空白が埋められるエピソードは涙なしでは見られないものである。

 結局、家族と再会できた孤児は47人中24人だった。「これは終わりではない。始まりだ。」帰国する孤児達を見送った中川は、ただちに第2回以降の訪日調査のために活動を開始する。

 前回に続いて、実に切ない内容である。山本を初めとする関係者の執念には鬼気迫るものがあるが、35年の歳月の間に孤児も家族も双方が背負っているものの重さが実に辛い。この件に関しては、戦後すぐに手を打てなかったことがつくづく悔やまれる。

 なおエピローグで山本慈昭が、生き別れの娘・啓江と再会するエピソードが紹介されている。第一回訪日調査で来日した孤児の一人、何紅が彼の娘を捜し出したのである。

 安直なお涙頂戴で終わらせたくはないところなのだが、この追加エピソードは嫌でも涙を絞らせる。しかし彼が見つけだしたのは、55人の教え子のうちの5人にすぎないという事実は実に重苦しい。

  

4/3 プロジェクトX「大地の子、日本へ〜中国残留孤児・35年目の再会劇」

 先の大戦を美化しようとする輩の、阿呆で恥知らずな教科書が検定を通過したことが話題になっている現在であるが、その大戦の犠牲者である中国残留孤児の物語が今回である。

 第二次大戦も末期、既に日本の敗色が濃くなっていた昭和20年。しかし日本政府はその事実を国民から完全に隠蔽し、未だに地方において満州開拓団の募集を続けていた。そして貧しい農村・阿智村の村人330人も「豊かな大地」という宣伝映画にだまされて、満州行きを決意する。その時、一人の僧侶が村人から請われて同行する。山本慈昭、彼は子供達に読み書きを教えていた。病弱な娘・啓江の身を案じて、妻の千尋は満州行きに反対したが、山本は村人の頼みを結局断れなかった。

 しかし満州に渡った彼らに与えられたのは、ソ連との国境まで80キロの荒れ地だった。呆然としながらも開拓を開始する彼らであるが、3ヶ月、それまで中立を保っていたソ連が参戦する。

 山本達村人は死の逃避行を始めるが、やがてソ連軍に捕らわれ、山本はシベリアに送られる。「家族にもう一度会いたい」その思いだけで必至に生き延びて、昭和22年に村に帰ってきた山本が見たのは、多くの墓標だった。彼の教え子51人の内、生きて帰ってきたのはわずか6人だった。そして彼の妻子も収容所で死んだと告げられる。

 20年後、阿智村で子供達への償いの生活を送っていた山本は、村人の一人から思わぬ真実を告げられる。山本の妻・千尋が死んだのは収容所ではなく、松花江を渡るときに力つきたこと、彼の娘・啓江は他の子供達と共に中国人に渡されたことだった。

 真実を知った山本は、どうにかして子供達を探したいと考える。しかし文化大革命の最中にあり、日本と国交を断絶している中国には行くことさえもかなわなかった。

 しかし昭和47年、日中国交回復のニュースが山本の元に飛び込んでくる。「これで子供達を探せる」官庁を回りながら孤児探しを訴え続ける山本。しかしどこも彼を変人扱いするだけで、まともに相手にしなかった。だが山本の噂を聞いた人々が山本の元に集まる。

 その一人、佐藤一總は中国で娘の明子と生き別れになっていた。また「岸壁の母」のモデルとなった端野いせも駆けつける。彼女は中国で行方不明になった息子の帰りを待ち続けていた。こうして孤児探しの45人のプロジェクトが発足する。

 その山本の元を、中国から帰国した残留孤児の高坂米が訪れる。彼女は山本に残留孤児達の手紙を渡す。そこには日本人であるということで迫害を受けたこと、両親に会いたいという気持、日本に対する望郷の念が綴られていた。プロジェクトのメンバーは中国に渡っての調査を決意する。最年少メンバーの柏実が中国大使館と交渉、調査の許可を取り付ける。そして山本達は中国に渡る。しかし病気で倒れた端野の姿はそこにはなかった。調査団は高齢者ばかりの不安の出発だった。

 「孤児達は自分を捨てた親を許してくれるのだろうか」不安の中で中国に渡った調査団メンバーの前に多くの孤児達が現れる。数十キロ離れた村からやって来た者もいた。彼らも必死だったのだ。こうして聞き取り調査が始まった。そしてこの調査の中で、プロジェクトメンバーの一人・佐藤一總は、生き別れになった娘、明子と再会する。

 涙なしでは見られないような内容である。山本達プロジェクトメンバーの執念のようなものが感じられる。特に泣けるシーンが、調査の最中にいなくなった山本が、松花江で亡くなった妻・千尋と行方不明の娘・啓江の名前を呼ぶところ。彼の中でまだ戦争が終わっていない哀しさが描かれたエピソードである。

 満州開拓団は、満州国支配を既成事実にしようとした日本政府によって、国策で送り出された者達である。それにも関わらず、戦局が悪化すると共に、彼らを守るべき軍は上層部から真っ先に逃げ出し、彼らを見捨てたのである。なお山本も佐藤もシベリアに拘留されているが、あの件についても実はソ連政府と日本政府の間で賠償の代わりに捕虜を強制労働させるということで裏取引があったという話もある。彼らはとことんまで国の犠牲にされたのである。それにも関わらず、この残留孤児の問題については、国の対応が非常に鈍かったのが印象に残る。

 このような戦争を美化したり、このようなことをした日本を正当化しようとしている輩が未だにいるのは私には理解不能である。一体彼らは何を目指す気なのか。こんなことをもう一回したいのか?

 ところで奇妙なところで私が感心したのは、残留孤児達の顔立ちが明らかに中国人の顔立ちになっていたことである。彼らは血としては完全な日本人であるのだから、いわゆる中国人と日本人の顔立ちの違いなどは生活の差によるものであり、遺伝的に見た場合、全く差がないのではないかということが感じられた。ということは、先の大戦で日本人は同族を殺したに等しいということになる。つくづく戦争の罪を感じる。

 

3/20 プロジェクトX「嵐の海上輸送作戦〜戦場にかけろ日本橋〜」

 苦労の末、やっと一体になり始めた田辺と工兵達。しかし彼らが工事をしている日本橋が、ポル・ポト派の攻撃目標に設定される。多くの日本人が国外に逃げ出す中、田辺達は橋を守るために残留する。

 その頃日本では橋桁の建造が始まっていた。これを設計したのは技術者・中山武志。彼はこの橋にバルコニーをつけることにこだわった。カンボジアの人々には憩いの場所が必要だと考える彼は、「無償援助の橋に贅沢だ」という反論を押しのけて、自分の考えを通す。

 その頃、カンボジアの田辺達にとんでもない事態が発生していた。国連監視下での選挙が始まり、プノンペンの街内に兵士が増えてきたので、工事現場の警護の兵を減らそうとしたところ、クビを切られると怒った兵士が銃を持って田辺達のところに押し掛けてきたのである。兵士は事務所の2階に向かって発砲、さらに銃を田辺に向ける。

 田辺の危機を救ったのは、経理の磯崎だった。彼は兵士達に「要求を聞こう」と呼びかける。その結果、彼らは3ヶ月分の給料を退職金として受け取り、銃を置いて去る。

 現場で働いていた工兵達は、後にこの話を聞いて、憤ると共に恥じる。しかし田辺は彼らに言う「気にするな」。そして彼らの突貫工事で橋脚はようやく完成する。しかしその完成直後に田辺は過労で倒れてしまう。入院先のベッドで我が身を振り返る田辺。働き続けの彼にはむしろこれはちょうどよい休養だったかもしれない。

 日本での橋桁の工事は佳境に入っていた。この橋を託されたのが橋掛け名人・松村勝美と、英語での交渉能力に長けた藤田泰であった。総重量2000トンの橋桁は、3週間をかけて外洋を輸送されることになる。橋を見送った中山は、松村と藤田に後を託す。しかし中山はその一週間後、ベトナムで交通事故で死亡する。

 「中山のためにも、橋を絶対に架ける。」決意に燃える藤田達。しかし一週間後、とんでもない報告が届く。台風にぶつかった輸送船が橋桁を切り離したと言うのだ。橋桁は大洋を漂流している。藤田は船会社に乗り込み、救助の船を至急送ることを要請する。当初は、保険があるからと救助に乗り気でなかった船会社も、「人の命を賭けた橋なんだ」と迫る藤田の迫力に圧され、救助の船を手配する。そして橋桁を中国の領海ギリギリで捕まえることに成功する。

 数日後、待ちに待った橋桁が到着する。橋桁が橋脚にキチンと載るだろうか(1ミリ以上の誤差も許されない)、緊張する松村・田辺の前で、橋桁は予定通りに納まる。今、この橋はプノンペンと地方を結ぶ大動脈となり、街の発展に貢献している。

 先週に「技術者に銃が向けられる」と言っていたので、危機一髪の事態が発生するのは分かっていたが、まさかその銃を向けたのが警護の兵だとは思わなかった。なお磯崎氏によると、その銃を向けた当の本人はその後、しゃあしゃあと工事に参加していたそうであるから、カンボジアではあれも交渉術の一つなのだろう。内戦のせいで一家に2,3挺は銃があると言っていたが、なんとも物騒な国だ。そういえば先週も「カンボジアでは、みんなが銃を持っているからケンカはない。いきなり殺し合いになる。」というようなことを言っていた。どうも日本の常識では計れない。

 常識で計れないと言えば、この橋を完成させた日本に帰って3年後、田辺は再びカンボジアに道路建設のために単身赴任しているという。彼の奥さんは、結婚してからの半分は別居だったと言っているが、これもかなり異常なことではないかと思える。これも私としては常識で計れない。

 

3/13 プロジェクトX「戦場にかける橋〜カンボジア・技術者と兵士の闘い〜」

 カンボジアの首都、プノンペン。ここに首都と地方とを結ぶ日本橋と呼ばれていた重要な橋があった。しかしこの橋はポル・ポト派との内戦によって破壊されてしまう。

 この橋の修復を依頼されたのが大林組である。しかし未だに内戦の完全に止まぬカンボジアに行きたがる者はほとんどいなかった。そんな中でこの工事を引き受けたのが、タイで道路の受注に失敗して名誉挽回を狙っていた磯崎邦夫と、工業高校を卒業後、大林組に入社しして各国を転々としていた技術者・田辺勝義だった。

 しかしカンボジアに出向いた田辺はいきなり困難に直面する。ポル・ポト時代に知識人や技術者を完全に粛正したカンボジアには、作業に従事できる経験者が全くいなかった。結局彼らは軍から工兵を集めて作業を開始するが、彼らは工事に関しては全くの素人だった。

 工事の期間は1年間。雨期には水没するカンボジアでは、橋脚を雨期が来るまでに完成しなければならない。しかし田辺達と工兵の間はうまくいかなかった。工兵は田辺達の指示を聞かないし、工期が遅れたために残業をさせると、彼らはポル・ポト時代の強制労働を思い起こして反発した。

 通訳のソクラディとテリーは田辺達と工兵の間に立って、彼らの間を取り持とうとする。彼らは共にポル・ポト時代に家族を失くし、難民となって日本にやって来ていた。彼らは結婚を延ばして、祖国のためにカンボジアに戻ったのである。彼らは日本とカンボジアの架け橋になりたいと考えていた。彼らは工兵達の不満を聞き、田辺にカンボジアで技術者を育てるために協力して欲しいと頼む。これは田辺の技術者魂を揺さぶる。

 田辺は工兵達に技術を伝えるために、先頭に立って溶接の技術を見せた。事務屋の磯崎は工兵達の中に入り、彼らと心を通わせる。やっと彼らの間に心のつながりが出来始める。しかしその時、ポル・ポト派の攻撃が激しくなり始める。邦人の避難が始まる中、田辺達は残って工事を続ける。田辺達の熱意に打たれた工兵達も昼夜の突貫工事を行う。田辺の指導を受けた工兵達の技量は確実に向上していた。そしてなんとか橋脚は完成する。

 田辺達の物語などがなかなか良いが、それよりも印象に残るのが、ポル・ポト政権下でいかに徹底した粛正が行われたかである。ポル・ポトの行った粛正は、自分に反逆する可能性のある知識人を抹殺するという行為であり、いわゆる愚民化政策というやつである。自分の権力維持だけに汲々とするアホな独裁者はよくこういう政策をとるが、それがいかに国内を混乱させ、国を滅茶苦茶にするかが痛感させられる。なおこれとは違ったタイプの愚民化政策は、貴族社会化である。特権階級を作ってその連中だけを保護するやり方である。このやり方も明らかに国を弱体化させるのだが、うま味のある連中も多いので、日本でも貴族社会を理想と考えている輩は与党系政治家の中に多い。

 

3/5 プロジェクトX「えりも岬に春を呼べ〜砂漠を森に・北の家族の半世紀〜」

 かつては豊穣の海といわれていた襟裳岬。しかし入植に伴う伐採が襟裳の森を砂漠に変えてから、襟裳の海は一変した。砂漠から流れ込んだ砂や赤土が海を濁らせ、かつての特産品だった昆布もほとんど取れなくなってしまった。

 そんな襟裳岬で海を甦らせるために植林を行った人達がいた。今回のそんな彼らのエピソードである。

 襟裳の漁師、飯田常雄は故郷を甦らせたいという想いを持っていた。そんな彼と想いを共にする地元の漁師達の願いで、襟裳の緑化は林野庁のプロジェクトとなる。しかし工事に臨んだ常雄達を、10メートルを超えるという襟裳の強風が打ちのめす。彼らのまいた牧草の種は、根付くことなく吹き飛ばされた。悩んだ常雄は、浜辺に打ち上げられたゴダと呼ばれる雑海草を種の上に敷くことを思いつく。一週間後、地面に張り付いたゴダの間から、緑の牧草が顔を覗かせる。緑化の感触を得た常雄は毎日、砂漠にゴダを運ぶ。

 しかし作業はなかなか進まなかった。一ヶ月にわずか5ヘクタール。牧草で砂漠を覆うだけでも20年かかる計算になった。付近の漁師の家族が総出で砂漠に挑むが、それは熾烈な戦いであった。

 小樽から嫁入りして来た常雄の妻、雅子は砂との戦いに疲れ、ついには小樽に戻ることさえ考える。しかし彼女は、家族のために毎日砂と格闘している常雄の姿を思いだし、そのまま襟裳にとどまる(ここのエピソードが実に泣ける)。

 昭和45年、すべての土地が牧草に覆われ、いよいよ植林が始まる。乾燥に強いクロマツが選ばれ植えられる。しかしそれは一週間で枯れてしまう。1メートルほど下にあった水分を含んだ奇妙な地層のせいであった。溝を掘って排水するしかなかった。これで森作りは5年は遅れることになった。

 長期化する砂漠との戦いの中、常雄や仲間達も高齢化してくる。しかし後継者はいなかった。常雄の息子の英雄も、漁師の跡を継ぐのを嫌って、大学進学を目指して都会の高校に行ってしまう。そんなある日、常雄がとうとう過労で倒れる。英雄は母親に無理矢理に襟裳に呼び戻され、進学を断念して漁師になる。最初は嫌々漁師を継いだ彼だが、真剣に森作りに取り組む父の姿を見て、自らも森作りに協力する(このエピソードがまた泣かせる)。土木現場で働いた経験から工作機械を使える英雄のおかげで、工事は一気に進む。

 昭和59年、常雄が待っていた天佑がついに現れる。それは「伝説の流氷」とも言われる巨大流氷だった。この流氷が、襟裳の海底に溜まった砂を根こそぎ押し流す。翌年、立派な昆布がとれた。そして森では腐葉土が育まれる。

 半世紀に渡っての漁師達の戦いが胸を熱くさせる。またその中で描かれる父と子の関係などには泣かされてしまう。この番組によく出てくる「背中で息子に語りかける」タイプの親父に飯田常雄もあてはまるようである(英雄の息子、直宏もまた漁師を継ぐことにしたというのがまた泣かせる。彼の言っていた「この仕事をしたくないと思っていたが、お父さんを見ていると格好いいなと思って」という言葉は、いかにも今時の若者のように思えるが、これこそがまさに「背中で息子に語りかけている」ということである。)。

 また常雄達が森進一のヒット曲「襟裳岬」の「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に怒りを感じたというエピソードが、実に考えさせられる。彼等にとっては、この歌詞は自分達の努力を無視するもののように思われたのだろう。これは当人達にしか分からない感情である。こういった感じ方があるのは、我々はついつい見落としがちである。

 なお今回の内容で痛感させられるのは、豊かな海には豊かな森が必要だということである。これは極めて当然のことであるのだが、どうも最近は森がおろそかにされているのが気になるところである。

 

2/27 プロジェクトX「倒産からの大逆転劇電気釜〜町工場一家の総力戦〜」

 町工場が並ぶ、東京大田区。その中の一つ光伸社は倒産の危機に瀕していた。光伸社は進駐軍向けの電気温水器を納入していたのだが、進駐軍の日本撤退に伴い仕事が激減、ラインが停止に近い状態になってしまっていた。

 光伸社の社長、三並義忠は会社存続のために東芝に相談に行く。そこで持ちかけたられた話が、電気炊飯器の開発だった。それまではご飯はかまどで炊かれるのが普通であったが、これは時間がかかる上に全く目が離せないという主婦にとっては大きな負担であった。これを電気で簡単に出来るようになればヒット商品間違いなしという判断であった。

 しかし電気炊飯器の開発は容易ではなかった。それまでいくつかのメーカーが挑戦したが、温度調節の困難のために挫折していた(ここで登場した電気釜というのが、お櫃や鍋に電熱器が付いているだけというほとんど抱腹絶倒のもの)。しかし三並はこの開発に社運を賭けようと決心する。

 三並に協力したのが妻の風美子だった。三並はまずどうすればうまいご飯が炊けるかを調べるために、風美子に何度もご飯を炊かせて、その時の温度を測定した。その結果、100度で20分保てば良いことが分かる。しかしやはり温度調節の問題に行き当たり、開発は暗礁に乗り上げる。

 三並を助けたのが、東芝の技術者が持参したバイメタルだった。これで温度調節が可能になり、電気炊飯器は完成したかに思われる。しかし思わぬ弱点が発覚する。この炊飯器は冬などの低温時には、加熱が不十分になってごはんが炊けなかったのだ。「このままでは炊飯器は完成しない」三並は焦る。

 その時、妻の風美子が倒れる。炊飯器のテストのために冬の早朝に吹きっさらしの縁側での作業を繰り替えていた彼女は、腎臓を悪くしていた。倒れた母を見て、6人の子供達が協力を申し出る。そして炊飯器開発は三並家の家族をあげての作業となる。

 苦労の結果、三並は本体を二重構造にして断熱することを思いつき、電気炊飯器は完成する。そして電気炊飯器は大ヒットをする。

 倒産の危機の瀬戸際、一発逆転のプロジェクトに家族総出で取り組む三並家の姿が感動を呼ぶ内容である。また、家事労働に縛られている女性達を炊飯器の開発によって助けてやりたいという、妻の風美子の想いをさりげなく織り込んでいるところがなかなか憎い。

 ただし、風美子はこの時の無理が祟ったせいで、結局46歳という若さで亡くなっており、あまりハッピーストーリーではないことがつらいところである。それと非常に気になったのが、三並義忠氏について「彼は今は妻と故郷で眠っている」と語っているだけで、彼の最期について触れていないこと。今までのこの番組のパターンとしては、「その後彼は故郷で家族と暮らしながら、80年の生涯を静かに終えた」などという調子で、主人公の最期について触れるのだが、それが全くないことが、もしかして彼のその後は決して良くはなかったのではないかという懸念を抱かせる。まあこれについては、調べてみないと分からないことではあるが。

 

2/13 プロジェクトX「運命の船「宗谷」発進〜南極観測・日本人が結集した880日〜」

2/20 プロジェクトX「極寒南極越冬隊の奇跡〜南極観測・11人の男たち〜」

 今回は南極観測隊の物語である。前後編構成で、前編は南極観測隊の隊長・永田武を主人公にして宗谷が南極に旅立つまでを、後半は副隊長・西堀榮三郎を主人公にして、南極越冬隊の苦闘を描いている。

 日本が南極観測隊を送ることになったのは、国際協力での南極観測計画が打ち上げられたことによる。しかしまだ敗戦の傷の癒えない日本には諸外国からは、南極観測隊なんか送れるはずがないと考えられる。しかしかつてノーベル賞候補とも言われた天才・永田武は、日本のプライドをかけて、日本からも観測隊を送ると断言する。

 しかし大蔵省はそんなものに金は出せないとあしらわれる。苦悩する永田の前に現れたのは、朝日新聞の編集局長だった広岡知男。彼は永田のプロジェクトを支援するために、新聞上でのキャンペーンを展開する。それに答えて、全国で南極観測に対する募金運動が始まる。日本人は夢を求めていたのである。そしてそれは文部省や運輸省の若手官僚を動かし、ついには国家プロジェクトになる。日本の誇りがかかっていた。

 しかし船がなかった。そこで大戦を生き残った老朽貨物船の宗谷を砕氷船に改造することになる。だが工事期間はほとんどなかったため、大手造船所はすべてこの仕事に尻込みする。結局は船舶修理を中心にしていた小さな会社、あさのドックが名乗りを上げる。だが想像以上に老朽化が進んでいた宗谷の改造は、水漏れが続出する難工事になる。このままでは期限に間に合わない。その時、「職人の心意気を見せるんだ」の呼び声に答え、横浜中から腕に覚えのある職人たちが集まってくる。そして彼らは突貫工事で宗谷を完成させる。

 一方、永田たちは装備の問題にも直面していた。網走で行ったテストでは、テントはブリザードで吹き飛び、発電器はオイルが凍り付き、無線機はバッテリーがあがって使えなくなってしまった。この装備では南極に行けない。苦悩する永田たちの前にあるメーカーが風力発電機を持参する。彼は「社長がはりきっているんです」と告げる。そのメーカーの社長はあの本多宗一郎であった。さらにある通信会社が新型の無線機を持参する。そのメーカーは東京通信工業、後のソニーであった。さらにあの東京タワーを手がけた竹中工務店が日本で初の木造プレハブを開発し、これが南極基地に使われることになる。

 そして宗谷は南極に向けて出発する。

 以上が前編のストーリーであるが、南極観測が国家的プロジェクトになっていく過程が実に感動的だが、その中でさりげなく(でもないが)ホンダやソニー、東京タワーの竹中工務店など今までにこの番組での主役になった者達が次々出てきているのが憎いところ。ウルトラマンタロウの危機にウルトラ兄弟が次々とやってくるようなもので、演出としては熱くなる。(後編では黒四ダムまで出てきている)

 後編は南極越冬隊の物語になる。

 南極に向かう宗谷。その中で観測隊の副隊長の西堀は、越冬観測を行う決意を行っていた。隊長の永田は危険だと反対するが、西堀は「南極大陸に着ける保証はない。欧米はもう既に観測を始めている。今は観測成果を出すことが大切だ。」と永田を説得する。

 結局、西堀と共に10人の若者達が越冬隊として南極に残ることになる。しかし南極は予想以上に厳しいところだった。ブリザードで観測小屋が木っ端微塵になり、隊員は恐怖にかられ基地にこもってしまう。「オレ達は落ちこぼれだから、観測なんてできっこない」と腐っている隊員達に対して西堀は特に叱咤するでもなく、ただ無線機で外国に呼びかけるように言う。無線がつながった途端に、多くの通信が飛び込んでくる「日本隊はなんの研究をしているんだ」「南極はどんなところだ」世界中の人々が南極に注目していた。これを知った隊員達の顔つきが変わる。南極の石の分析を始める者、ペンギンの観察を始める者、オーロラの観測を始める者、みんなそれぞれのテーマを考え、観測を開始する。

 しかしそんな彼等を信じられない出来事が襲う。ある朝、氷が割れて食料の2/3が流されてしまう。呆然とする隊員達。しかし西堀は猟銃を持ち出すと、アザラシやカモメを撃って食料の足しにする。

 さらに事件は続く。オーロラの観測をしていた北村泰一が観測小屋で火事を起こし、観測機器と観測記録を焼失してしまう。数日後、落ち込む北村を西堀は部屋に呼ぶ。彼は手作りの観測機器を北村に渡し、諦めずにこれで観測を続けろと伝える。(ゲストで来ていた北村氏が、この時のことを思い出して涙ぐんでいたのが非常に印象的)

 一年後、彼等は宗谷で日本に帰る。そして彼等が持ち帰ったデータは多くの発見をもたらし、日本は世界に対して面目をほどこすことになる。

 ニッケルがない中で、焼いたトタンを使って真空管を作ったという技術者・西堀の器用さ(ホントになんでも作ってしまう)と行動力が非常に印象的なエピソードである。彼は「探検のカリスマ」と呼ばれていたそうだが、確かに彼のような上司なら部下もついていくだろうと思える。危機に対して常に自らが率先して立ち向かっていく姿勢には感心させられる。

 また学校で落ちこぼれだった北村が、これをきっかけに帰国後は研究者になり、オーロラ研究の第一人者になるというエピソードがまた泣かせる。

 前後編通じて実に「熱い」内容で、なかなか心を打たれる。この番組の本領を発揮した会心作ではないかと思われる。 

 

2/6 プロジェクトX「男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋〜世紀の難工事に挑む〜」

 今回のテーマは「瀬戸大橋」である。この世界に冠たる巨大建造物の建設のために奔走した者達の姿を描いている。

 まず番組は連絡船の衝突沈没によって多くの小学生が死亡した、紫雲丸沈没の事故から始まる。この橋が四国の住民にとっての悲願のものであったことを強調する。

 そしてこの橋の建造に奔走するのが「伝説の技術者」と言われた杉田秀夫である。彼は自ら陣頭に立って海に潜り、漁業被害を防ぐための水中爆破実験を繰り返す。また彼はここで漁民に対して実験のデータをすべて開示する(この態度は実に尊敬に値する)。彼のこの誠実さはやがて漁民達の信頼を得、本四架橋建設のプロジェクトが立ち上がる。その後このプロジェクトはオイルショックによる計画の中止などの障害に会いながらもなんとか完成する。

 最愛の妻を病気で失いながらも、そのことを一切気づかせずに事業に奔走する杉田の姿などが実に感動的な内容であった(とても真似したいとは思わないが)。

 以上のようにドラマとしては全く非の打ち所のない構成になっているのが今回の内容なのであるが、ただこの事業の現状に目を移した場合、かなりつらいところが多数ある。まず本四架橋についてなのだが、この番組では瀬戸大橋しか触れていなかったが、現実にはルートの選定に紛糾した挙げ句に、3ルート同時着工という採算性無視の事業になってしまい、その結果として現在はいずれの橋も赤字を垂れ流しているだけで、その必要性は疑問視されている。またこの番組中では、オイルショックによる事業中止の決定を杉田達に襲いかかった試練として描いていたが、経済的に考えた場合はあれは妥当な決定であった。これを後に覆して3ルート同時着工を決定したのは、あの田中角栄である。その時の彼の決定理由というのは「3ルートすべて工事した方が土建屋が儲かる」といういかにも彼らしい発想であるということも忘れるわけにはいかない。

 杉田達のドラマは感動的なのではあるが、このように本四架橋自体にかなり疑問符がついている中では、私としてはどうしても半分身を引いて眺めざるおえなかった。こういった事例は今回のテーマに限らず、この番組にとってつらいところでもある。

 

1/30 プロジェクトX「女子ソフト銀 知られざる日々〜不屈の闘い・リストラからの再起〜」

 シドニーオリンピックで銀メダルをとり、一躍脚光を浴びた女子ソフトであるが、今回はそこに至るまでの軌跡である。

 日本代表チームの監督を務めた宇津木妙子は、ユニチカでソフトボールの選手だった。しかしユニチカ内ではソフトボール部はバレー部に比べて日陰者扱いだった。しかもその後の業績の悪化でソフトボール部もリストラにあう。そして年齢による衰えを感じた宇津木は退社する。

 しかし引退していた宇津木に、日立からソフトボール部の監督への就任の要請がくる。その宇津木の元に彼女に憧れた強打者・任彦麗がやってくる。彼女は宇津木の元で練習に励む。

 そしてソフトボールが正式種目に採用されたアトランタオリンピック。ソフトボールチームの強化のために宇津木がコーチに招かれる。そして選手団の中には日本に帰化し宇津木麗華と改名した任の姿もあった。しかし麗華は、帰化して3年以内の選手の出場には出生国の許可が必要であるとの条項に引っかかり、アトランタオリンピックに出場できなくなる。

 そのアトランタオリンピックで日本ソフトチームはアメリカチームと対戦する。しかし国際大会で負け知らずの常勝アメリカチームには全く歯が立たず惨敗する。

 そしてこの時から4年後のシドニーを目指した挑戦が始まる。宇津木は全権を得て監督に就任する。宇津木はシドニーで速球派のピッチャーが打ち砕かれた教訓から、軟投派のピッチャーを揃える。

 迎えたシドニーオリンピック。日本は常勝軍団アメリカと対決し、勝利する。そこには麗華の姿もあった。

 例によってこの番組お得意の非常に「熱い」内容であった。「女巨人の星」といった趣の完全にスポ根ものになっていた。どうも最近のこの番組は全体的にスポ根付いているようだ。ところで、宇津木の毎分40発という「速射砲ノック」は圧巻であった。この番組でも淡々と「とても人間業ではなかった・・」などと言っているが、確かにあれは人間業ではない。

 

1/23 プロジェクトX「ゴジラ誕生〜特撮に賭けた80人の若者たち〜」

 映画が娯楽の花形だった昭和30年代。各映画会社では小津安二郎の小津組、黒澤明の黒澤組など、カリスマを持つ監督を中心としたチームが脚光を浴びていた。そんな中、東宝には完全に裏方に徹していたグループがいた。それが円谷英二の率いる特撮班である。

 この頃の特撮は映画の1シーンに用いられる程度で、明らかに軽く見られていた。しかしその中で円谷は自身の職人的な技術を磨き続けていた。

 しかしここに転機が訪れる。東宝が新企画として採用したのは、当時第五福竜丸の被爆事件などで注目を浴びていた水爆に絡む映画であった。それは水爆実験で生まれた怪獣が、東京の町を破壊するという斬新な映画である。

 この映画はは今までの映画と違って、特撮が主役となった。そしてその特撮が円谷の手に任される。円谷はこの映画の成功に日本の特撮の将来がかかっていると考え、自らの映画人生命をかけてこの作品に挑む。

 しかし、円谷の元には十分な人手がいなかった。そこで彼は美術大の学生やカメラマンの助手などの素人をかき集める。

 素人集団が円谷の指導の元で一丸となって映画作成に取り組んでいく姿が、なかなか感動的なエピソードであった。特に今まで脇役ばかりしていた役者が、初めての主役だと意気込んでゴジラの人形の中に入るエピソードが、「プロのプライド」を感じさせて秀逸であった。彼の演技へのこだわりが、あのゴジラの生々しい動きにつながったのである。

 素人の集団が円谷の「親父さん」の下でプロになっていく姿がなかなか考えさせてくれた。現代はこのようなカリスマ指導者がなかなかいないのが問題なのだが・・・。

 

1/16 プロジェクトX「奇跡の心臓呪術に挑む〜天才外科医の秘めた決意〜」

 心臓が肥大化し、死に至る難病「拡張型心筋症」。それに対してバチスタ手術という大胆に心臓を切開する手術で挑んだ医者と患者の物語が今回のテーマである。

 この難手術に挑んだのが、神の手を持つと言われた凄腕の心臓外科医、須磨久善だった。彼は私立の医大を出、学閥による妨害を受けながらも、多くの手術の現場を踏んで腕を磨いてきたのだった。そして彼は大病院の外科部長の椅子を蹴って、患者と直接向かい合うために地方の病院にやって来たのだった。

 彼が初めてバチスタ手術を行ったのは、リストラを恐れながら無理を続けて心臓病で倒れた銀行員の日高氏だった。しかし手術後、日高氏は肺炎を起こして死んでしまう。

 新しい技術として注目していた世間は、日高氏が死んだと同時に須磨医師を攻撃し始める。無謀、売名行為との批判が彼に浴びせられる。そんな中、須磨医師に一通の手紙が届く、日高氏の妻から手紙であった。そこにはバチスタ手術が夫に心の安らぎを与えたこと、拡張型心筋症の患者にとって一筋の光明であるこの手術を是非とも続けて欲しいということなどが綴られていた。そして須磨医師は、自身の医師生命をも賭けて二度目の手術に挑む。

 二人目の患者は寿司屋の奥さんの大島則子さんだった。彼女は夫と共にまだ生きたいとの思いで、危険な手術を受ける。そして須磨医師は手術に成功する。

 「ブラックジャック」を思わせるような須磨医師の凄腕がなかなか印象に残る回であった。また病気を通して夫婦や家族のつながりを描いていたのが特徴的である。今時猛烈サラリーマンなんかしても、会社は自分の都合で勝手にリストラをしてしまう。それなら自分の生活を大事にすべきである。

 ところで次回はいよいよ「ゴジラ」登場である。どういうエピソードが飛び出すことやら。

  

1/9 プロジェクトX 挑戦者たち「エベレストへ熱き1400日〜日本女子登山隊の闘い〜」

 前回の男女雇用機会均等法(残念ながらこの回は見逃した)に続いての「女性の自立シリーズ」である。今回のテーマは1975年に世界で初めて女性だけのパーティーでエベレスト登頂を果たしたグループの物語。

 エベレスト登頂を目指した彼女たちの道は平坦ではなかった。まずエベレスト登頂に必要な資金が集まらない。大抵の登山隊は企業をスポンサーなどにつけるのだが、女性だけのパーティーにはスポンサーはつかなかった。誰も彼女たちが成功するなどとは思わなかったのである。実際にスポンサーを頼みにいった企業の担当者から言われたのは「そんなことをするよりも、子供をまともに育てなさい」ということだったらしい(現在でこそこんな発言は女性差別だと言われるが、昭和50年頃の一般人の認識なんてその程度である)。結局彼女たちはほとんどの費用を自分たちで賄う必要に迫られ、一人あたり140万円の負担を強いられることになる(この時代の140万円と言えば相当の大金である)。

 エベレストに出かけるまでの彼女たちの奮闘がいろいろ語られている。まず資材をなるべく安上がりにするために、商店街の中で在庫品などを集めて回ったりなどのエピソードや、休暇を申請したが認められず、退職を余儀なくされた教師のエピソードなどが出る。しかしこの中で泣かされたのが、中幸子のエピソード。彼女は登山を心配している母親のことを考えると、140万円もの大金を用意してくれとは言い出せなくいた。しかしその彼女が旅立つ前に父親が一つの封筒を渡す。その中には現金が入っていた。彼は先祖から受け継いでいた田畑を手放したのだった。彼は「悔いのない人生を送ってくれ」と娘にその金を渡したのである。古き良き日本の親父像を彷彿とさせるこのエピソードは、不覚ながら私も泣かされてしまった。

 なんとかエベレストに挑むことが出来た彼女たちであるが、その後も苦難の連続である。高山病で倒れる隊員とシェルパ。物資の輸送もままならない。しかも装備も食料もギリギリの貧乏隊である。しかもそのキャンプを雪崩が襲い、隊員たちが生き埋めになる。彼女たちは離れたところで宿泊していたシェルパ達に辛うじて救助されるが、多くの物資を失い、撤退もやむないのではないかとの決断を迫られる。しかし諦めない彼女たちはエベレスト登頂の夢を隊員の一人、田部井に託す。そして田部井は体力の極限に挑みながら登頂に成功する。

 帰国した彼女たちは歓呼の渦で迎えられる。しかし私としては、最初は無関心で突然ヒーロー扱いをするこの単純さが、いかにも日本人やマスコミの特性を見ているようで、なんだか複雑な気持ちであった。もっとも、彼女たちにはそんなことは全く関係なく、この経験がその後の糧になっているのは喜ばしいことである。

 それと私が気になったのは、決して表には出ないシェルパ達の活躍である。どんな登山隊でもそうであるのだが、優秀なシェルパなくして登頂の成功はないようである。彼女たちの功績にケチを付けるつもりは毛頭ないが、彼女たちも多くのシェルパに助けられていたことを強く感じさせられた。どの分野でも、このような光を浴びない裏方が実は重要なものなのである。

 

11/28 プロジェクトX 挑戦者たち「よみがれえ日本海〜ナホトカ号重油流出・30万人の奇跡〜」

 ロシアのタンカー・ナホトカ号の沈没で流出した重油が、漁業の町三国町を直撃する。恵みの海はもう死んだかと思われた。しかしこの海を甦らすためにのべ30万人ものボランティアが立ち上がる。

 今回はボランティアの話ということで、主人公がはっきりしていないので、ボランティアの受け入れ組織を作った人々を中心に描いていた。特に私の印象に残ったのは、倉庫管理一筋で定年を迎えたサラリーマンがかけつけ、混乱した救援用物資の管理を一手に引き受けるエピソードである。個々人が自らの技術を生かして参加するといったボランティアの精神を目の当たりに見た思いである。

 私は阪神大震災を体験しているので身に染みているが、このような惨事が起こった場合にボランティアとして駆けつける人は今でも意外と多いものである。こういうのを見ていると「この国もまだ捨てたものではない」とも思われたりする。ただこれらのボランティアを有効に活用するには、統括・指揮を行う機関が大切なのであるが、なかなかその体制がまだ整っていないものである。ヨーロッパなどでは現地に負担をかけないように、宿泊設備から食料まで自前で用意できるボランティア団体が存在するとのことである。日本もそろそろそのような仕組みを考えていく必要があるのではないだろうか。

 

11/21 プロジェクトX 挑戦者たち「ツッパリ生徒と泣き虫先生〜伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦〜」

 元日本代表のラグビー選手だった教師が、荒廃していた学校をラグビーで立て直し、ついには日本一にまでなるという教育界での伝説的エピソードが今回のテーマである。なおこれは、往年の大映ドラマ「スクールウォーズ」の原作でもある。

 新任教師として伏見工業高校に就任した山口良治(「スクールウォーズ」では山下真二が演じてましたね)。彼は学生達にラグビーを教えようと意欲に燃えていた。しかし彼が赴任した伏見工業高校は京都一荒れていると言われている学校だった。校庭をバイクが走り回り、ガラスは割られ、授業を聞く生徒は全くいない。それはとても学校と言えるものではなかった。しかも彼が率いることになったラグビー部はツッパリ生徒の集まりであった。

 彼はこの学校を立て直すべく奮闘し、その彼に触発されて他の教師の中からも協力者が現れる。そして彼はラグビーで日本一になることで生徒達に誇りを持たせようとする。

 しかし彼の思いにもかかわらず、ツッパリばかりのラグビー部員達は全くついてこなかった。部員達は彼に対して強烈な敵対心を抱いていたのだった。

 そんな彼等が変わるきっかけになったのは名門花園高校との試合だった。この試合で伏見工業は一方的にトライを決められ続け、112対0という記録的惨敗をする。そしてこの試合後の山口の「お疲れさん、けがはなかったか。悔しかったやろうな・・・」の言葉に、ツッパリの小畑が「俺は悔しい!」と地面に泣き崩れる。そして部員全員が泣き崩れる。これがきっかけになって彼等は一体となって猛練習を始めることになる。この後、いろいろと問題もありながらも、山口は生徒達を信頼し続け、生徒達もラグビーに打ち込んでいく。

 こうして一端落ち着いた伏見工業だが、翌年の春に衝撃が走る。京都一のワルと言われ、「八坂の清悟」と恐れられた山本清悟(ドラマでは松村雄基が演じてました)が入学して来ることになったのだ。しかし山口は「ラグビーはケンカと同じだ」と言って、彼をラグビー部に引き込む。練習についていけず一度はラグビー部をやめようとする清悟も山口の心遣いに踏みとどまり、ラグビー部の一員として練習に励む。

 そしてその年、伏見工業は花園高校を破り京都一となる。そしてその後、ついに日本一になる。

 スクールウォーズが結構好きだった私としては、この番組を見ながらも「おっ、これが松村雄基か。これは岩崎良美だな」などと言いながら見ていた。さすがに梅宮辰夫のラーメン屋は出てこなかったようだ(笑)。今回に限ってはOPは「地上の星」よりも「ヒーロー」の方が良かったのではとも思われた(笑)。

 しかし事実の方がフィクションよりも感動的な部分も多かった。もっとも感動的だったのは、その後のツッパリ生徒達が今はみんな立派に活躍している(建設会社の社長だったり、海外の企業で技術者になっていたり、あの清悟に至っては教師になっている)ことだ。みんなこれは山口先生のおかげだと言っていた。彼が生徒と真っ正面から向かい合ったからこそ奇跡が可能となったのだろう。

 またタイトルでも「泣き虫先生」と書いてあるが、山口氏が本当に涙もろかったのは印象的だった。この番組のインタビュー中でも一体何回泣いていただろうか。実に熱い人物である。

 

10/17 プロジェクトX 挑戦者たち「幻の金堂 ゼロからの挑戦〜薬師寺・鬼の名工と若武者たち〜」

 戦国の戦乱で焼け落ちた薬師寺金堂。今やほとんど資料も残っていなかったこの金堂の再建という難工事に挑んだ、鬼と呼ばれた名工と若い大工達の物語である。

 薬師寺住職に就任した高田には金堂再建の悲願があった。薬師寺の本尊は仮金堂に安置されているが、この仮本堂は老朽化による雨漏りで、内部で傘をささないといけないぐらいであった。高田は「タレント住職」と揶揄されながらも、テレビなどで一般人に寄付(一人1000円で写経を奉納する)を呼びかけて費用を集め、起工にこぎ着ける。

 この工事の棟梁を任されたのは、法隆寺の鬼と言われた宮大工・西岡。しかし彼の手足となるべき宮大工は一人もいなかった。しかし薬師寺金堂再建の話を聞いた若い大工が全国から彼の元に集まってくる。集まってきた50人の若者の中から西岡は30人を選び出す。しかし彼らの誰一人として宮大工の経験はなかった。

 この若い大工たちが西岡の元で一体となって金堂建設に奮闘する姿が今回の主題。「木と対話しろ」の一言しか言わず、黙々と仕事をこなしていく西岡の姿がまた今はなき典型的な職人であり、何やら懐かしさのようなものを感じさせる。しかし現在ではこんなやり方では若者の方がぶち切れて終わりだろう。そうならなかったのは、ここに集まった若者の方もやはり職人としてのプライドを持っていたからであろう。「北向きで育った木はどこにも使えないが、これを日の当たらない場所に使うと、いつまでもじっと耐える」という言葉で、どんな人材でも適材適所の使い方があるということを示した西岡の言葉が意味深い。これなど今時の企業の人事担当者に聞かせたい言葉である。建築でもクセのある木の方が強く、これは人間でも同じだという言葉など涙が出そうなほど立派な言葉である。

 なお私が小学生の頃に遠足で行った奈良の薬師寺の住職が、異常に喋りがうまかったのが記憶に残っていたが、 今から思えば彼が高田氏だったのだろう。つまりテレビ慣れしていたので、喋りがうまかったのかなどと納得してしまった。

 

10/3 プロジェクトX 挑戦者たち「悪から金を取り戻せ 〜豊田商事事件・中坊公平チームの闘い〜」

10/10 プロジェクトX 挑戦者たち「史上最大の回収作戦 〜豊田商事事件・中坊公平チームの闘い〜」

 老人達を食い物にした史上最悪とも言われた詐欺事件・豊田商事事件。今回のテーマはこの被害者達の金を取り返すための中坊公平を中心とした弁護士グループの奮闘である。

 豊田商事の事件が表沙汰になってからも行政や警察の動きはきわめて鈍かった。その間に豊田商事の責任者である永野会長が殺され、事件の真相は有耶無耶のうちに消されそうになってしまったのだ。

 これが司法関係者達の焦りと怒りを呼び、司法の信頼を守らないといけないと中坊公平のチームが豊田商事の金の行方を追うのが前編、そしていよいよい史上最大の回収作戦が展開されるのが後編である。

 まず解明された金の流れであるが、凄まじいのは、被害総額1200億円のうちの半分の600億円が従業員の給与として支払われていたこと。月収1000万円の従業員がゴロゴロいたというのだから、この組織が詐欺師集団であったことがはっきりしている。しかし無視できないのは、残りの半分が多くの企業に流れていたこと。その中には日本を代表する大手ゼネコンなども含まれていたという。しかもこれらの企業は逆に豊田商事の足下を見て、自分達に圧倒的に有利な契約をしていたというのだから、よってたかって豊田商事を食い物にしていたようなものである。

 中坊公平のチームが凄まじいのは、このような企業からも金を取り返そうとしたこと。当初は「我々も被害者だ」と開き直りに近い態度を示していたゼネコンを、周囲の協力者なども得て返還に追い込んでいく過程などは興味深い。

 またこのような中で、逆に「永野に三億円を貸していた」と主張して、優良資産の1つであるホテルを無理矢理奪おうとした金融屋なども出現(多分、暴力団絡みだろう)、この金融屋の主張を膨大な資料を調査することで覆す過程もなかなか熱い。なおこの時に大活躍したのが経理担当の坂本都子氏であるが、彼女はその後、オウムの犯罪に巻き込まれて夫や幼い子供と共に無念の死を遂げる。

 中坊チームに協力すべく、ボランティアで立ち上がる1000人以上の弁護士達、世間や身内からの「欲呆けで被害にあった」という中傷にさらされながらも、ついには自ら立ち上がる被害者の老人達。多くの人々の「悪を許さない」という熱い思いが見ていて胸を打つ内容であった。

 ただ最終的に中坊チームが回収できたのは被害金額の10%にすぎなかったことが辛いところ。この額に対しては被害者からの「カラカラの雑巾から絞りだした一滴」という言葉があったとのことで、被害者達は中坊チームの努力を評価していたようで、そのことに関しては中坊氏は今日にコメントを求められても、明らかに涙声になってしまっていたので、よほど感極まったのだろう。ただ私としては、もっと他に救済の方法はないかの疑問は感じられる。 

 なおこの番組では触れていないが、豊田商事の金は明らかにいわゆる大物政治家の数人に流れており、行政の動きが鈍かったのはそれが原因である。しかしいよいよ無視できる状態でなくなった時、口封じのために永野を殺させた。あの事件の犯人はいわゆる暴力団関係者で、本人は「義憤に駆られた」などと言っているが、そんなことが嘘なのは誰が考えてもわかることである。日本の大物政治家はこのような時には、あの手の金で動く連中をいくらでも飼っているので、彼がそのたぐいの連中の一人であるのは間違いない。まさに見え見えの構図なのだが、残念ながらこの真相が表に出ることは永久にないだろう。またこれだけ見え見えの事件にも関わらず、マスコミが一切この件に切り込まなかったことから見えても、関与しているのはよほどの大物政治家なのだろう。この辺りの「真の巨悪」に切り込めなかったのは不満が残る。また豊田商事の社員の大半も詐欺の共犯と言って良いのだが、大半の者は高額な報酬を取り逃げしており、しかもさらに同様の手法で犯罪を重ねている輩も多い。この連中もなんとか出来ないのかとの怒りも感じる。 

 

9/12 プロジェクトX 挑戦者たち「海底3000メートルの大捜索 〜H2ロケットエンジンを探し出せ〜」

 純国産のH2ロケット、第6回目の打ち上げにあたる平成11年11月15日、メインエンジンLE−7が突然噴射中止、制御を失ったH2ロケット2段目は爆破され、メインエンジンは太平洋に落下する。エンジン停止の原因を究明しないとこれ以上の開発は不可能である。しかしそのためにはメインエンジンを海底から引き上げる必要がある。そのための関係者の悪戦苦闘を描いたのが今回。

 宇宙の専門家と海洋の専門家がお互いのプライドをかけて衝突するさまが実に見物であるが、最後はそのプライドがエンジンの発見につながり、日本の宇宙開発が守られる。

 このような技術に対するこだわりというのが、最近は世の中からなくなってきているように思われる。それが大問題であるのだが。 

 

9/5 プロジェクトX 挑戦者たち「東京タワー恋人たちの戦い 〜世界一のテレビ塔建設・333mの難工事」

 日本中がが力道山の活躍に狂喜し、テレビ時代を迎えようとしていた昭和30年。テレビ局増加に伴い電波塔が乱立する状態を解消するため、首都に巨大な統合電波塔を建設する計画が持ち上がる。しかし当時の最高の鉄塔が180m、巨大クレーンもない中で333mの塔を建設する計画は常軌を逸しているように思われた。

 設計図は出来上がったが、それはミリ単位の精度を要求する難工事であった。それに挑んだのが鳶達である。

 今までこの番組は企画や開発側の人間を描くことが多く、実際に工事を行った現場の人間を描くことはあまりしなかったのだが、今回は現場監督や鳶といった実際に作業を行った人物を中心に描いていた。特に若手鳶の筆頭であるボーシンを務めた桐生五郎(当時25歳)と現場監督を務めた竹山正明(当時31歳)という若手達の恋愛状況も含めて描くという方法をとっていた。

 この仕事を成し遂げてから彼女に結婚を申し込もうと決意する竹山や、工事の最中に舞い込んできた見合いで一目惚れした相手とタワー完成の翌日に挙式の予定を組んだ桐生の熱い物語が、難工事の裏で描かれている。

 驚くべきはこのタワーがほとんど手作業で作られていたことだ。ほとんど人力で組み合わせた鉄骨に対して、鍛冶職人が焼いた鋲を投げ渡し、鳶がそれを受け取って次々と固定していくといったやり方は、あまりにもハイテクとはかけ離れており、よくこんなやり方でこれだけのものを作れたものだと感心する。

 番組全体から感じるのは「職人のプライド」そのものである。特に桐生も竹山も、未だに自分が作り上げたこの鉄塔に大きな誇りを持っていることが印象的だった。これだけ誇りを持てる仕事を成し遂げた職人はある意味で幸せである。またこのプライドがあったからこそこれだけの一大プロジェクトが立ち上がったのだろう。最近はこれが日本から失われつつあるのが危うい兆候である。

 

8/22 プロジェクトX 挑戦者たち「宇宙ロマンすばる〜140億光年 世界一の望遠鏡」

 ハワイのマウナケア山山頂に日本が建造した世界最大の望遠鏡がある。これが「すばる」である。今回はこれの建造にまつわるエピソードである。

 ハワイのマウナケア山頂上はまさに望遠鏡銀座とでも言うべき地域である。観測の妨げになる大気の揺らぎの少ないこの山頂は、各国の大型望遠鏡が並んでいる。しかし日本はそのような望遠鏡を持っていなかった。

 ここに巨大望遠鏡を建造したいと考えたのが天文学者の小平である。彼はこの望遠鏡で150億光年先の宇宙の果てを観測することを夢見ていた。しかし彼にとってはこれは研究者としての生活を捨てることであった。彼は悩むが、「世界中の人々が使える望遠鏡を作って欲しい」との家族の願いなどもあり決断する。

 しかし彼の計画はなかなか理解されなかった。彼がやっと会見にこぎ着けた文教族議員が彼に言ったという「一体それが何の役に立つんだ」というセリフが実に象徴的である。

 実際に一番難航したのは予算の獲得だった。会計課長の森が予算獲得のために奔走するが、400億もの建造費は反発が大きく、結局1988年に予算は却下される。しかもこの時の却下の理由が「日本の税金を使って海外に施設を作る法律がない」ということであった。これは天文台の学者達には全くの盲点だった。

 一方、見切り発車で望遠鏡の設計に挑戦していた三菱電機の方でも壁に突き当たっていた。口径8mもの巨大な鏡のたわみを解決する方法がなかったのである。

 翌年、再び予算復活をかけて森が文部省と交渉する。彼は「法律がないのなら、法律を作ればよい」とねじ込む。

 三菱電機の方では鏡のたわみの問題を、センサー内蔵のロボットアームを使用することで解決する。これは若手技術者達の大胆な発想だった。

 そして1989年、やっと予算が通る。電話がかかってきた後、森は一人で密かに外に出て、大声で「万歳!」と叫んだという。そして1998年、すばるが完成する。そこから現れた鮮明な画像は世界中の天文学者を驚愕させる。

 なかなか身につまされる話である。研究においては最大の問題になるのは予算の獲得である。しかも利益がはっきりしていない分野が予算を獲得するのは至難の技である。国の予算でさえこの有様なのであるから、企業の研究者はもっと辛い状況にある。特に昨今は各企業とも収益が悪化しているからなおのことである。この番組でも三菱電機で設計に携わっていた連中が、無駄金を使っていると批判されたというくだりがあるが、まだこの時代はバブル景気の余波が残っていたから、研究を続けることが出来たのだろう。恐らくこれが現在なら、このプロジェクトは頓挫していたのではないか。

 

7/4 プロジェクトX 挑戦者たち「海のかなたの甲子園〜熱血教師たち・沖縄涙の初勝利」

 沖縄サミトが近づいて、日本中が沖縄一色になりつつある状況を受けてか、この番組まで沖縄の特集である。

 沖縄が本土復帰するのは昭和47年であるが、特別措置として昭和27年から甲子園への門戸は開かれていた。しかし当時は甲子園に行くには大分・宮崎・鹿児島といった九州ブロックで勝ち抜く必要があったのだ。

 戦争の傷跡が未だに癒えない沖縄、首里高校に赴任した福原は野球によって子供達を勇気づけようと考える。しかしその頃の沖縄はまだ野球がまともに出来る状態ではなかった。そんな中、昭和30年の暮れ、強豪鹿児島商業が親善試合にやってくる。これに対して沖縄は全県選抜チームで挑む。しかしレベルの差は明らかで、沖縄チームは0対17で惨敗する。

 しかしこの試合の後、沖縄の若い教師達の間で、沖縄の高校を甲子園に送り込むべくプロジェクトが開始される。

 まず沖縄高校野球連盟が発足する。しかし事務所も選手もまともにいない状態である。その中で福原と佐敷は、手弁当で沖縄の高校野球のために奮闘する。そしてこの二人の姿に影響を受けた多くの人が彼らに協力を始める。

 昭和33年の記念大会で各県から1校ずつ代表が出ることになり、首里高校が沖縄代表として甲子園に出場する。しかし沖縄中の期待を受けて首里高校を率いる福原は緊張で一杯だった。しかし首里高校は、大敗するのではとの予想に反して、強豪敦賀高校に善戦する。

 この後のかなり有名なエピソードが、甲子園から帰った彼らが甲子園の土を沖縄に持ち込めずに、海に捨てざるおえなかったことだ。この当時の沖縄はアメリカ領であり、土を持ち帰ることは検疫に触れてしまうのである。これが悲しい沖縄の現実であった(この番組ではこの部分はなぜかあっさりと流していたが)。

 この首里高校の甲子園出場をきっかけに、沖縄では高校野球熱が盛り上がる。そして昭和38年、首里高校が日大山形を激戦の末打ち破り、悲願の甲子園初勝利を実現する。そして福原と佐敷は二人で朝まで飲み明かす。

 占領地として虐げられていた沖縄の人々の想いが、高校野球という形で結集されていたのが実に印象的であった。そして本土復帰を果たした今日でも、やはり沖縄は米軍に虐げられている。このことを考えると、どうも複雑な想いに駆られる。

 

6/20 プロジェクトX 挑戦者たち「パンダが日本にやって来た〜」

 日中友好記念として上野動物園にパンダが送られた。しかしこの「国賓」を絶対に死なせてはいけない、パンダ飼育プロジェクトのリーダー中川には強烈なプレッシャーがかかっていた。

 何しろパンダは四川省の山奥にしかいない珍獣である。日本は当然、世界的にも飼育の実績はほとんどない。慌ててパンダの資料を集めるが、あるのは解剖学の本だけで飼育に関する本などあるわけがない。試行錯誤のまま、飼育に突入してしまう。中川は飼育係にベテランの本間を起用する。

 野生動物の飼育は最初の一週間が勝負だという。繊細な野生生物は環境変化のストレスなどもあり、餌を食べずに一週間で死んでしまう例が多いという。上野動物園の飼育係達もまず餌でつまづく。飼育係達は熊笹を用意したが、パンダはこれには全く手をつけなかった。同行した中国の飼育担当者の口から出た言葉は「パンダはこんな笹は食べない」であった。しかも副食用に用意したトウモロコシ団子もパンダには粒が細かすぎることが判明、いきなりパンダの食べ物がなくなる危機に陥る。飼育係の一人が笹を求めて日本中を駆け回る。

 また本間はパンダが心を開いてくれないことに苦闘していた。3日経つにも関わらず、餌も全く食べてくれない。その後、笹を探しに行っていた飼育係が中国の笹に近い笹を探してき、パンダたちは辛うじてそれをわずかに食べる。しかし一般公開を前にまだ前途多難であった。

 一般公開の日、カンカンが風邪をひいてしまう。子供のパンダは弱いので、このままでは命にかかわる。しかし抗生物質は副作用が怖くて使えない。その時、獣医が言った言葉が「漢方薬はどうだろうか」。中国から来た動物だから漢方薬というのは、ある意味では安直な発想であるが、他に手も思いつかず近く薬屋に走る。ここでのエピソードが笑える。パンダが病気だなどと言えない飼育係達は、薬剤師に対して「子供が風邪をひいたから薬が欲しい」と言った。これに対して薬剤師が聞く「おいくつの子供ですか」「2歳です」薬剤師が調合を始めて、手を止める「子供さんの体重は?」「55キロ」「!?」

 しかし次の問題はパンダが薬を飲んでくれるかである。野生の動物は絶対に薬は飲まない。ミルクに薬と蜂蜜を溶かして、飼育係の本間がカンカンの元に持っていく。もし疑われるとカンカンは絶対に薬を飲まない。緊張する本間。しかしカンカンは飲んだ。そしてこれが本間とカンカンの心が通い合った瞬間であった。

 日本を湧かせたパンダブームの影でこんな悪戦苦闘があったとはなかなか興味深い話である。飼育係のパンダに対する情熱がなかなか熱い話である。それにしてもパンダとは私のイメージよりはかなり弱い動物であるようである。一応あれでも熊なのだが。

 

6/6 プロジェクトX 挑戦者たち「美空ひばり復活コンサート〜伝説の東京ドーム・舞台裏の300人」

 今まで戦後技術史の雰囲気の強かったこの番組だが、さすがにネタが尽きたのか、先週辺りから風向きが変わってきたなと感じていたが、今回は極めつけである。なんと美空ひばりの復活コンサート(1年前に病気で倒れ、再起を期したコンサートだった)の裏方達のエピソードである。

 言うまでもなく、美空ひばりとは戦後日本を代表する大物歌手である。そのひばりが福岡でのコンサートの後、全く動けなくなってしまった。両足の股関節が壊死しており、肝機能がかなり落ちていた。病名は肝硬変であった。

 医師はひばりに引退を勧めるが、ひばりはそれを拒否。股関節の治療のために両足に2キロのおもりを吊された状態での入院生活。いくら暑い夏でも彼女は喉を守るために冷房をいれなかったという。

 そのころ完成直後の東京ドームでひばりのコンサートを行うという計画が持ち上がる。しかしひばりはまだ入院中である。しかしひばりは自身の意志で退院し、東京ドームでのコンサートが動き始める。

 しかしそもそもコンサートホールではない東京ドームはとんでもない場所であった。ドームの中では音があちこちに反響し、とんでもない残響が起こる。これではコンサートにはならない。

 また歌手の顔を狙うピンスポット1つをとっても80mという通常の倍の距離である。これには並大抵でない名人芸が必要であった。

 結局、音響の問題は上からスピーカーを吊して、音を客席に直接向けて天井に音をぶつけないことで解決を図る。ただ実際にそれでうまくいくかはぶっつけ本番だった。

 スタッフとひばりの執念でこのコンサートは成功、そして伝説となる。しかしひばりはこの奇跡の復活の10ヶ月後再び倒れ、二度と帰らぬ人になる。

 相変わらず「熱い」内容ではあるのだが、どうしても私個人としては芸能ネタはあまり面白くない。また今回は「美空ひばり物語」の側面が強すぎて、スタッフ達のドラマがかすんでしまったきらいがあり、巨大なプロジェクトを立ち上げた者達の執念を描くという当番組の特徴から見ると、やや不満があったのが事実である。残念ながら、今後のテーマが今回のように矮小化していくのなら、私個人としてはこの番組に対する興味がかなり減退してしまう。

 

5/30 プロジェクトX 挑戦者たち「全島1万人史上最大の脱出作戦〜三原山噴火・13時間のドラマ」

 14年前、伊豆大島で三原山が500年ぶりの大噴火を起こした。

 当初は14年ぶりの噴火ということで、見物のための観光客が増加し、むしろ島民はこの噴火を歓迎していた。観光客をもっと火山に近づけられるように会議をしていた矢先、突如として大噴火が発生する。

 この時、避難計画の指揮をとったのが助役の秋田である。彼にはかつての噴火で死傷者を出した苦い記憶があった。今度こそは絶対に犠牲者を出さない。彼は固い決意で避難計画に挑む。

 まず風向きから火山弾の被害が予想された泉津地区に避難命令を出す。しかしこの地域は老人の多い地域で避難もままならない。そこで消防団の若者50人が老人達を救助するために出動する。

 噴火はさらに激しさを増し、とうとう溶岩が住宅地に向かって流れ始める。もはや大島には避難する場所はなくなっていた。ここで秋田は町長に島民の全員脱出を進言、町長はそれを了承する。

 しかし問題となったのが船の確保、東海汽船の重久がこれに奔走するが、会社が持つ船だけでは間に合わず、海上保安庁や自衛隊、付近の漁船などにも依頼する。その結果、なんとか30艘の船を確保し、翌朝までに全島民を避難させられるメドが立つ。

 しかし新たな危機が生じつつあった。なんと溶岩が住民達が避難していた元町港に向かって流れ始めていたのである。この時点で元町港にはまだ1200人の住民が残っていた。秋田はこれらの住民を波浮港へ移動させる決断をする。この移動には東海汽船の路線バスが動員されることになり、島に残る運転手が動員される。しかし途中の道は切り立った崖などがあり、いつ落石が起こるか分からない危険な状態である。

 しかも今度は彼らが向かった波浮港が水蒸気爆発の兆候を示し始める。ここで再び島民を元町に戻すことが決断されるが、この時に波浮に避難する島民は2600人に増加しており、これだけの人数を運ぶには二往復する必要がある。だが波浮に戻ったバスが爆発に巻き込まれる恐れがある。しかし運転手達は決死の覚悟で仕事に挑む、その中には新婚の三田の姿もあった。

 その頃、東京電力の7人の社員が発電所の維持のために残っていた。彼らにも避難の要請がくる。しかし彼らが避難を開始しようとした時、本社からの電話がかかる。発電器を維持するためには人員が残る必要があるという内容だった。その結果、責任者1名と最も年長の社員2人が残留を決意する。

 そして最後の避難船が出航する。全員の避難が完了したことを確認して、秋田は島に残ることを決意する。

 久々にかなり「熱い」内容であった。各人が自身の使命のためにまさに命がけで挑んだ様が非常にドラマチックである。また島に残った東京電力の社員の一人の前田の当時の8才だった息子が書いた「おとうさんはつよい」という作文が心を打つ。しかも駄目押しのごとく、成人した彼は最も尊敬できる人物として「父」をあげたというエピソードが来る。これには「わざとらしい」とか「見え見えだな」と思いつつも、涙が出そうになってくる。「父は背中で息子に語る」というのを地でやっている感じである。

 

5/23 プロジェクトX 挑戦者たち「海底ロマン!深海6500mへの挑戦〜潜水船・ 世界記録までの25年〜」

 日本が誇る深海探査船、しんかい6500の最高深度は6527mという世界最高記録を持っている。普通の潜水艦の深度が300〜500mというのだからとんでもない数字である。しかしこのしんかいの開発には25年の歳月を費やした。

 これを開発したのは三菱造船神戸造船所。艦艇設計課に配属された前田逸郎は大卒のエリート達の間で設計の技術を磨いていた。そこで彼は潜水艦設計のスペシャリスト遠藤倫正と出会う。今後は深海開発が重要とにらんだ遠藤は腕利きの技術者3人と助手に前田を選んでチームを組む。

 アメリカの潜水艇アルビン号(潜水深度1800m)の調査が行われ、そのデータを元に遠藤は6000m級の潜水艇を作ろうと決意する。1800mの深度なら大陸棚の端までしか行けないが、6000mまで潜航できれば世界の海の98%を行くことが出来るとの考えがあってのことである。しかし6000m級の水圧テストを行った結果、あらゆる金属で作った船室のすべてが破壊された。道はまだまだ遠かった。

 やがて2000m級を目指すしんかい2000が国家プロジェクトとして動き始める。前田は浮力材の設計を担当する。この浮力材はわずかの誤差があってもしんかいが海中を自由に動くことが出来なくなる。前田は設計部と製造部を熱心に往復する。

 同時に耐圧穀の建造が進められる。これは乗員室であり、水圧から乗員の命を守るものである。これには高精度の溶接が要求され、徳山喜紀という腕利きの溶接工が選択される。そして彼は何度も訓練を重ねた後、一発勝負の耐圧穀の溶接に挑戦し成功する。

 そしてしんかい2000のテストが行われる。しかし潜航中、突然電源が落ち、操縦不能に陥る。このままでは沈没の危険がある。ここでのエピソードがよい。パイロットに対して「マリンスノーが見えるか」と聞いたそうだ。つまりマリンスノーの動きでしんかいが浮上しているかどうかを判断したというのである。危機に際しての冷静な判断がうかがえる。

 このころアメリカでは4000m級の潜水艇が建造されていた。そして日本でもいよいよ6000m級の潜水艇が計画される。

 この中でトランスポンダという船の位置を超音波で測る装置の開発が進められる。これの開発を担当した門馬大和はトランスポンダを6200mの海底に実験のため沈めた。しかしこれが浮かんでこない。ここで門馬は40個の碇を投げ込んで引っかけるという無謀とも思える方法をとる。しかしこれが本当に引っかかって上がってきたというから驚きである。概してこの手の開発ではこのような幸運も必要なのである。

 そしてしんかい6500が建造される。しかしここでとんでもない問題が発生する。なんと建造されたしんかいの重量が150キロも予定重量をオーバーしていたのである。このままではしんかいは浮上できない。プロジェクト成否を左右する大問題に、浮力材のバランスを担当した前田は悩む。前田は船を分解して、部品をわずかずつ削って、150キロ減量する決断をする。そしてなんとか予定重量におさめる。そしてしんかい6500は世界記録を実現する。

 この成功の影には設計部と現場を何度も自転車で往復しながら調整を行った、前田氏の活躍があるようである。いつの場合も研究と現場の意見が対立することはよくあることで、これを調整する人間がいないとなかなかうまくいかないものである。そのことを思い知らされる内容であった。

 なお蛇足であるが、気になったのは、なぜかゲストとして出演していた松本零士。「時間は夢を裏切らない」などしっかり999の宣伝をしていたのがあまりにあまり。

 

5/16 プロジェクトX 挑戦者たち「カール・ルイスの魔法の靴〜超軽量シューズ 若手社員の闘い」

 今回は少々趣向が変わって、カール・ルイスの靴を開発した技術者の話である。長田高校で陸上の選手だった木村隆也は美津濃に入社後、カール・ルイスの靴を設計することになる。陸上後発の美津濃としてはこれは会社のイメージをかけたプロジェクトであった。当時のカール・ルイスはベン・ジョンソンに敗北し、100mの王者の地位が怪しくなっていた。そしてルイスは「裸足のように軽い靴」を要求する。しかし木村の開発には「商品化(美津濃はこのモデルを商品として販売するつもりだった)」の制約がかけられたために、ルイスの要求するスパイクは作れなかった。

 そして迎えたソウルオリンピック。しかしルイスはここでベン・ジョンソンに敗れる。後にベン・ジョンソンはドーピングで失格になり、ルイスは繰り上がりで金メダルを獲得するが、これはルイスにも木村にも不本意な結果であった。

 しかしその後、転機が訪れる。ルイスを勝たせるためにルイスの靴からは「商品化」の制約がはずされ、木村はプラスチックのスパイクピンを採用した画期的なスパイクを開発する。そしてさらに調査を続けた結果、スペースシャトルのパラシュートに使用されている三軸織りという布に注目する。

 しかしこの三軸織りを靴に採用しようと話を持ちかけた長田のメーカーの技術者は、三軸織りは横に引っ張った時にすぐに布目が偏るので靴には使えないと言う。しかしあきらめきれない木村は、これをルイスのスパイクに使うつもりであることを明かす。木村の熱意を感じたメーカーは布の製造メーカーと協力して、より細かく精度の高い三軸織りを開発する。こうしてルイス用特性スパイク「ルイススペシャル」が完成する。

 そして迎えた東京国際陸上。ルイスはライバル達を破って世界記録をうち立てる。そしてそれを眺める木村の姿もそこにあった。

 元陸上選手であった技術者が、自分の夢も乗せて、ルイスのために必死で開発に取り組む物語がなかなか感動的である。特に靴の開発を通じて技術者とルイスとの間に信頼関係のようなものが築かれていく過程が心を打つ。またルイスが競技にかける真剣さも伝わってきて面白かった。

 なお個人的には、いきなり神戸市長田区が出てきたのは絶句したが(私はかつてここに住んでいた)、長田高校といった私に非常に関係の深い高校が出てくるに及んではさらに驚いた。やはり靴のエピソードは長田とは切っても切れないようである。番組でも言っていたが、長田は靴の町であり(ケミカルシューズの生産量日本一である)、その執念のようなものも感じられたエピソードである。

 

5/9 プロジェクトX 挑戦者たち「執念が生んだ新幹線〜老友90歳・戦闘機が姿を変えた」

 日本が世界に誇る技術の一つが超特急新幹線である。この超特急の開発には旧陸海軍の技術者の平和への想いがこもっていた。

 戦後、焼け野原の中で鉄道の技術開発が行われた。これに携わったのは陸海軍で兵器の開発にあたっていた技術者たちである。この中で目立ったのが海軍で零戦の改良に携わっていた松平精、陸軍の大尉で通信技術のスペシャリストであった河辺一、海軍で爆撃機の機体設計を任されていた三木忠直の三人である。この三人が鉄道の開発に携わる。しかし彼らには戦争の十字架がのしかかり、一筋縄ではいかなかった。まずその中の河辺が戦争責任で研究所を追われる。松平は研究所は追われなかったものの、脱線の原因は車両の振動にあるという研究所内での彼の発言は無視され冷遇されていた。また三木は特攻戦闘機桜花の設計に携わったという重い十字架を背負っていた。彼は救いを求めてクリスチャンとなる。

 そして10年後鉄道技術研究所に新所長が就任、彼が鉄道の未来技術を説明する講演会を企画し、これがきっかけでこの三人が出会い、新型特急の構想がまとまり始める。三木は鉄道に飛行機の技術を導入することを考え、松平は新型台車で脱線を防止することを考え、河辺は低周波を利用して列車を安全に停止させる技術を考えていた。彼らが考えた超特急は大阪・東京間を3時間で結ぶという構想をぶちあげる。この技術をぶちあげた彼らの講演は大反響を呼び、これが国鉄総裁の目に留まる。こうして彼らのプロジェクトは現実に動き始めることとなった。

 松平は高速運転にともなう台車の異常振動(蛇行動)を防ぐ技術の開発をおこない、河辺は列車の自動停止システムの技術開発に邁進していた。そして三木は空気抵抗を減らすための車体のフォルムを研究していた。三木は美しい車体こそが空気抵抗が少ないと考え、自らが手がけた急降下爆撃機銀河をイメージして新幹線のフォルムを考え出す。

 こうして新幹線の試作機が開発され、試験走行が行われることになる。その最中「自分の技術はすべて出し尽くした」と三木は辞表を提出する。そして松平と河辺の二人は責任者として試験列車に乗り込む。緊張する関係者の中で彼ら二人は落ち着いていたという。この辺りに開発者達の自信のほどがうかがえる。試験走行は成功し、最高速256キロを記録する。

 番組としてはなかなか興味深い内容であったが、ただ今回はこの番組の特徴の一つである「熱さ」がイマイチである印象を受けた。技術者達の執念を伝えるエピソードが意外と少なかったのが原因だったんではないだろうか。これは逆に言えば、新幹線の開発は技術者集団で行われており、決して一人の技術者のみよるものではないことを語っているのではないか。 

 

5/2 プロジェクトX 挑戦者たち「妻へ贈ったダイニングキッチン〜勝負は一坪・住宅革命の秘密」

 戦後、焼け野原の中から日本は復興をとげようとしていた。しかし当時の日本では住宅が圧倒的に不足していた。そこで住宅不足解消を目指し、昭和30年に日本住宅公団が設立される。そしてそれに参加したのは建設省の尚明である。彼は戦後の焼け跡を見ながら、これからは住宅が最も大事であると妻とともに語っていた若者であった。

 しかし国民に良質の住宅を供給したいという彼の夢は、いきなり壁にぶち当たる。大蔵省が設定した一戸あたりの面積は13坪、これは当時狭いと言われていた都営住宅よりも1坪増えただけにすぎなかった。彼らは公団総裁と直談判するが、限られた予算の中では不可能だと突っぱねられる。そして彼らの苦闘は始まる。

 当時の日本の住宅の台所は大体が北側に面した暗く寒い位置に置かれていた。そしてその台所で、ジントギと呼ばれる小石をセメントで固めた流し台で調理をしている妻を見た尚は、その1坪を主婦のために使えないかと考える。彼は米軍住宅などにあったダイニングルームのような家族団らんの空間を作りたいと考える。しかし限られたスペースの中ではそれは困難である。そうして考えられたのはダイニングルームとキッチンをつなげたダイニングキッチンであった。

 さらに彼は大胆にもダイニングキッチンを家の南側に持ってこようとする。しかしこれは当時の住宅建設の常識を覆すものであった。そしてこのための設計を女性初の一級建築士である浜口ミホに依頼する。以前から日本住宅の台所が劣悪な環境に置かれ、主婦がそこで一日中仕事に励んでいる現状に疑問を感じていた彼女は、積極的にこのプロジェクトに参加する。

 しかし問題は多かった。まずスペースが狭すぎること、客もやってくる南の部屋にジントギの流しを置くことは非常に見栄えが悪いことなどが大問題であった。そこで彼女は流しの設計を根本から変更し、当時日本に上陸して間もないステンレスを流しに採用することを考える。しかし当時のステンレスは加工に非常にコストがかかるために実用化に問題があった。そしてこのステンレス流し台大量生産の難題に、当時経営難に陥っていた従業員40人の板金工場サンウェーブが社運をかけて挑むことになる。そして二人の若い職人木村鉄雄と渡邊正次が、「失敗すればクビだ」と社長から言い渡され、日本で初めてのステンレスのプレスに挑戦する。寝る間もない二人は、工場の向かいに部屋を借り、24時間体制で技術開発に邁進する。

 そのころ浜口は、新型キッチンは主婦にとって使いにくいと反対した女子栄養大の武保助教授のもとに、試作品のキッチンを持ち込んで勝負を挑んでいた。勝負は十人の主婦に同じ料理を作ってもらい、従来のキッチンとどちらが使いやすいかで決着をつけた。浜口の設計したキッチンでは主婦はほとんど動き回る必要がなく、主婦はこちらが使いやすいと発言、浜口のキッチンに感心した武は今後はこのキッチンの普及に協力することを約束する。

 24時間体制で開発に苦しんでいた木村と渡邊の2人であるが、彼らの執念の結果昭和31年9月20日の夜9時過ぎ、とうとう流しのプレスに成功する(ここまで詳しい時間が残っているということは、多分サンウェーブの社史に残っているのだろう)。技術開発に成功した二人は、その夜、社長に銀座につれて行かれ、生まれて初めてのステーキを腹一杯食べたとのことである。

 こうして多くの人物の執念の結果、公団住宅は完成し、団地ブームとも呼ばれる時代が到来する。尚は妻を公団住宅の見学に連れていく。

 現在は○LDKなどという間取り表示が普通になっているが、その背景にこのようなエピソードがあったというのは初めて知ったことである。妻への想いからDKを思いついたり、それを実現するために多くの人物の熱い戦いがあったりなど、そこらのドラマよりもよほど面白い展開で、なかなか楽しませてくれた。またなかなか良いエピソードだったのは、尚はこの後に住宅公団の総裁になったが、「国民に十分な家を与えられていないのに、自分が広い家に住むことが出来ない」と戦後に買った小さな家に住み続けたということ。この人物、見るからに真面目そうな印象を受ける人物であるが、それを物語るエピソードである。昨今は国民を犠牲にしてでも、自分だけはお屋敷に住んでいるという役人が多いというのに。

 

4/25 プロジェクトX 挑戦者たち「世界を驚かせた一台の車〜名社長と闘った若手社員たち」

 今回は70年代に世界で一番厳しかったアメリカの排ガス規制(マスキー法)をクリアして、世界をあっと言わせたホンダのCVCCエンジンの開発秘話である。

 トヨタと日産という二大巨大メーカーが凌ぎを削っていた中、バイクメーカーであったホンダは四輪車進出を目論む。ホンダはカリスマ社長・本多宗一郎を中心に四輪車開発を行い、成功する。

 その頃、ホンダの若手技術者の中にアメリカでの排ガス問題に注目し、低公害エンジンの開発を目指そうとする者が現れる。彼を中心にプロジェクトが組まれ、若手技術者中心に開発が進むが、開発はなかなかうまくいかず、ホンダが四輪成功で湧く中、彼らは白眼視される。

 しかしこの後、この新車で事故死した遺族が本多宗一郎を、欠陥車を販売したとして訴える事件が起こり、ホンダの看板に決定的なダメージを受ける。また時を同じく、アメリカでは排ガスの問題が深刻化し、その結果世界で最も厳しいというマスキー法が制定される。アメリカの三大自動車メーカーが開発は不可能だという中で、ホンダはこの規制に対応できるエンジン開発に活路を見出そうとする。

 今まで日陰者扱いで開発をしていた低公害エンジンが突如として社運をかけたプロジェクトとして浮上する。本多宗一郎は彼らに「今こそホンダがビッグスリーと並ぶチャンスだ」とハッパをかけるが、それに若手技術者達は「自分たちは会社のために開発をするのではなく、社会のために開発をしているのだ」と反発する(なかなか良い話である)。

 そして若手中心で本多宗一郎の干渉をはねのけて作ったCVCCエンジンは、9ヶ月後世界で初めて見事に規制をクリアする。こうしてホンダの名は世界に轟き、ホンダの技術がアメリカのビッグスリーにも提供される。

 この後、本多宗一郎が引退するに当たっていった言葉がまた良い。彼はCVCCエンジン開発の時のエピソードを上げ、「いつの間にか自分も会社中心の考え方をするようになっていた」と言い、それを引退の理由の一つにしたそうである。

 若手技術者の執念、本多宗一郎の器量の大きさを感じさせる良い話である。このようないさぎの良い経営者という者は今はいなくなったものだ。最近の経営者は引き際の悪い連中ばかりである。あのダイエーを設立し、流通業界の風雲児と言われた中内功でさえも、自分が世の中とずれてきているのに気づかず晩年にはダイエーを落ち込ませることになったし、その挙げ句に世襲をしようとしている。それを考えると本多宗一郎の引き際の美しさは見事と言って良い。

 

4/11 プロジェクトX 挑戦者たち「友の死を越えて〜青函トンネル・24年の大工事」

 今回は青函トンネルに携わった男たちの物語。

 青函トンネルが計画されたきっかけは洞爺丸の転覆で多くの人が死んだ事故があったことである。この時から北海道と本州をつなぐ海底トンネルの工事が始まった。しかしこれは世界的にも例のない大工事で、当初は10年で終了する予定が、結果としては24年もかかることになる。

 作業員達は30℃をこえるという劣悪な環境下で頑張ったのだが、事故での犠牲者などが出る。また大規模な出水事故などもあり結果としてはかなりの犠牲者が出たらしい。出水事故の中から命をかけてトンネルの水没を防ごうとする男たちの活躍などはなかなか感動的なドラマである。

 そして多くの犠牲の上でこのトンネルはやっと開通する。この時に犠牲者達の遺影を抱いてトンネルをくぐったというエピソードなどもなかなか感動的。この時のことを振り返った当時の作業員の方が、今でも涙ぐんでいたのも印象的ではあった。

 ただし私個人としては、この青函トンネルという施設自体が実は今となっては無用の長物としかいいようがないのが皮肉であると思う。命がけで頑張った作業員の方には申し訳ないが、結果としてはこのトンネルは莫大な費用と多くの犠牲をかけて作っただけの価値は持っていないのは事実である。

 今まで3回この番組を見てきたが、個人的に少々ツライのは、あれだけの苦労をして建設した富士山レーダーは今は気象衛星の登場で役目を終え、リストラ技術者が執念で作り上げたVHSは、ベータというより技術的に優れた規格を駆逐して、家庭用ビデオのレベルを低下させる結果になったし、多くの作業員が命がけで作った青函トンネルは結局は無用の長物だったという風に、どれもその末路があまり良くないということである。次回は胃カメラに関することのようだから、次回はこのようなことはないとは思うのだが・・・。

 

4/4 プロジェクトX 挑戦者たち「窓際族が世界規格を作った〜VHS・執念の逆転劇」

 今回は今や世界規格となったVHSビデオの開発秘話である。ビクターは今でこそビデオを中心とした大メーカーであるが、この当時はステレオが中心の弱小メーカーだった。その中でも特に駄目だったのが、業務用ビデオを扱っていたビデオ事業部で、ここは赤字を垂れ流している状況だった。そしてそこに左遷同然で配属された部長と、本社の採算悪化によって切り捨てられた技術者達が、一発逆転をかけてホームビデオの開発を行うという「サラリーマン根性もの」である。

 本社からのリストラ命令をなんとかかわし続ける部長。本社には極秘で開始したプロジェクト(本社にばれたらクビは確実)、経理部長を味方に付けて嘘八百の業績見通しでなんとか本社をだまし通そうとするといった手に汗握る展開になっておりなかなか楽しめる上に、研究者である私としても、彼らの「技術者魂」には非常に共感できるものだった。

 そして彼らの努力の甲斐あって、VHSビデオはSONYのβから遅れること3ヶ月後に開発に成功する。その後、親会社の松下やその他の家電メーカーに対して技術をオープンにすることで、VHS陣営を増強していくという手法が的中し、ついにはβを駆逐してビデオのスタンダード規格になっていくのである。

 内容的には実に面白いものであった。ただ私個人としてはどうにも複雑なのは、私の評価としては明らかにVHS規格はβ規格に比べて能力的に劣っているものであるということ(これは両方式のビデオの映像を比較したことがあれば明らかである)。だから私としては、VHS対βの争いは「技術的には優れていた規格が販売力などの他の要因で駆逐されていく」といった技術者の目からは極めて不本意な例の典型として記憶されているので、残念ながらこの番組の中身に100%は共感できなかった。ただそういうことはあるものの十分に興味を持てる内容であった。

 リストラで人材を切り捨てることばかり考えている経営者は、真のリストラクチャリングとはどういうことかを考えて欲しいと思えた。首切りだけなら素人でも出来る。

 

3/28 プロジェクトX 挑戦者たち「巨大台風から日本を守れ〜富士山頂・男たちは命をかけた」

 かつて日本の気象用レーダーは非常に観測範囲が狭く、台風については上陸3時間前でないと分からないぐらいだった。そこでこの状況を打開すべく、富士山頂に巨大レーダーを建設する計画が浮上した。最終的に9000人が関与することになったこの巨大プロジェクトは、気象庁測器課の藤原寛人補佐官を中心として強力に推進されることとなった。藤原をそこまで突き動かしたのは、伊勢湾台風で多くの死者を出してしまったという苦い教訓で、台風の被害を防止するには、台風が南海上にあるうちに動きを捕らえる必要があり、そのためには4000メートル球の山頂にレーダーを設置するしかなかったのである。

 しかしこの計画にとんでもない盲点があったことが技術者から指摘される。レーダーをコントロールするための電波が富士山頂に届かないのではないかということなのである。そして技術者達は調査のために冬の富士に決死の登山をすることになる。技術者達は全員登山の素人であるから、非常に危険な登山である。この中には結婚直前の者もいたらしいが、遺書を書いて登山に臨んだとのこと。この時のことを物語る強烈なエピソードが、足下の悪さに全員をロープでつないでくれと要求したら、そうすればもし一人が滑ったら全員が滑り落ちることになるから、死ぬときは一人で死んでくれと言われたということである。

 命がけで山頂にたどり着いた技術者達は、山頂で火を燃やし、それを気象庁から黙視することで、電波を届けることが可能であることが確認されたのである(つまり直線間に障害物がないということ)。

 しかし建設が始まってからも前途多難だったらしい。困難な物資の運搬、高山病との戦い、体力の限界に達して次々と脱落していく作業員。現場監督をしていた伊藤庄助は自分自身も高山病でボロボロの状態で必死で作業員を鼓舞して工事を続けたとか。

 そして最後の問題となったのが、レーダーを守るためのレーダードームの運搬。骨組みだけで重さ620キロあるこのドームを空輸できるヘリは当時の日本にはなかったのである(450キロが限界だったらしい)。この事態に起用されたのが、旧日本海軍航空隊の神田真三氏。彼はヘリコプター操縦のベテランだった。しかし富士山頂の気流は複雑で、わずかのミスで命取りになる。空輸決行日は8月15日(終戦記念日になったのはなんとも運命的なものだ)、空輸用のヘリはわずかでも軽くするためにドアや副操縦席をはずされた状態だったとのことで、まさに決死の覚悟なのである。

 こうして難航を極めた工事も完了し、富士山レーダーはやっと稼働にこぎ着け、この後の気象予報に活用されることになり、台風の被害を抑止していくことになる。なおこの富士山レーダーも気象衛星に役目を譲り、去年活動を停止した。なおこのプロジェクトの中心となった藤原氏は、気象庁を退官後に作家に転身した。彼こそが実はあの新田次郎氏なのである。

 

 全体的に人間群像ドラマとして実にうまく描かれており、フィクションなどでは期待できないような興奮を感じることが出来る。ともすれば退屈になりがちなドキュメントの描き方としては非常に巧妙だと言えよう。

 

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