歴史秘話ヒストリア
2009年4月から「その時、歴史が動いた」の後を受けて始まった、NHKの歴史ドキュメント番組です。放送は毎週水曜日の午後10時から。
キャスターに初めて女性アナである渡邊あゆみアナ(私には旧姓の「黒田あゆみ」の名のイメージが強いが)を起用するなど、外観上の雰囲気を変えているが、話題も「歴史秘話」の名の通りゴシップ的なネタを採用するなど、NHK歴史番組のワンパターンを打破しようという試みがうかがえる。ただ番組の印象をできる限りソフトで軽いものにしようとしている一方で、基本の作りがNHK歴史番組の伝統を踏んでいるだけに、外観ほどは中身があまり変わっていないのが今後どうなるか。現に第一回のネタが「源頼朝と北条政子」第二回が「上杉謙信」とかなりコテコテのネタであり、いきなりネタに苦しんでいる風も見える。既に歴史番組自体がネタ切れ傾向にあるだけに、前途多難なような気はする。
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5/27 歴史秘話ヒストリア「いつだって好奇心〜水戸黄門知られざる熱中人生」
漫遊記で知られている水戸黄門だが、本当は江戸と水戸の間ぐらいしか移動したことがなかったというのも有名な話。これは彼がもし将軍に何かがあった時のための控えのような立場だから仕方のないところである。その水戸黄門のお話。
水戸黄門こと徳川光圀だが、若い頃にはかなり遊びまくっていた(要はぐれていたということ)と言われている。水戸家には彼の兄がいたのだが、諸々の事情で跡継ぎは彼になっており、そのことに負い目を感じていたらしいと言うのが番組での話。
その彼が一転して生活を改めたのは、中国の古典書で伯夷叔斉の話を読んでからとか。歴史書を学ぶことの重要性を感じた彼は、それから歴史書の収集を始めることになる。しかし彼が30歳の時、明暦の大火で彼の集めた書物の多くも燃えてしまう。
しかしそこでめげずに彼は再び立ち上がる。彼は研究者らをあつめて彰考館を設立する。そこでは多くの史料を集めて、系統的な歴史書を編纂しようというプロジェクトが企画されたわけである(現在ならプロジェクトXものである)。
そして光圀の意図を受けて各国の調査に回った調査員の中に佐々介三郎なる人物がおり、これがいわゆる「助さん」のモデル。彼は各地を回って古文書などの史料を調べまくったのだが、「こんな遠くまで来てしまって一体いつになったら帰れるのやら」なんていう愚痴のような記録も残しているらしい。ちなみに彰考館の総裁に安積湛泊(覚兵衛)という人物がおり、これが「格さん」だそうな。要は助さんは記者で格さんは編集長だったようだ。
光圀は古文書の調査だけでなく、遺跡の調査なども行っており、発掘調査した品はそれが後世にまでキチンと残るように気を付けていたという。また文献調査結果をまとめた大日本史を編纂する時も、史料の真偽を十二分に吟味してから、出典を明らかにした上で記録を残すということを徹底していたらしい。そのためにこの大日本史は光圀の生存中には発行が間に合わず、第一版が出たのは彼の死後15年も経ってからとか。それ以降、明治時代まで修正が続けられたとのこと。
と言うわけで、知られざる水戸黄門の実像と言うことですが・・・あまり目新しい話も面白い話もないよな・・・。
4/15 歴史秘話ヒストリア「美の戦国時代〜長谷川等伯vs狩野永徳」
七尾の生まれで若い頃から絵師としての修業を積んだ長谷川等伯は、朝倉氏から武田信玄に送るための絵の依頼を受けたことで、一躍一流の絵師として認識されるようになる。ここから「天下一の絵師になる」との野心を描いた等伯は中央へと向かう。
しかしそこに立ちはだかったのが、御用絵師として中央からの依頼を一手に引き受けていた狩野派と、その総帥である狩野永徳だった。等伯が千利休とつながりを作り、大徳寺の金毛閣に絵を描くことになって一躍京都の注目浴びる。しかしこれが狩野永徳との確執を決定的なものにする。等伯に脅威を感じた永徳は、御所の絵を依頼された等伯に対して有力者に働きかけることで妨害する。永徳の妨害によって等伯のチャンスは奪われ、しかも彼の後ろ盾であった千利休もその半年後に秀吉によって切腹させられる。
しかし等伯にチャンスが訪れる。豊臣秀吉から絵の依頼が来たのである。この時の狩野派は永徳の死で混乱状態にあり、一方の等伯は多くの弟子を抱える工房を抱えており、息子も後継者として順調に成長していた。等伯はこの依頼を成功させるために、秀吉の好みを探るべく永徳の作品を調査する。その結果、秀吉の派手好みの性格を見抜き、絢爛豪華な「楓図」を制作する。
順風満帆に見えた等伯であったが、不幸は突然に訪れる。後継者として目していた息子が突然にこの世を去ったのだった。また秀吉もこの世を去り、等伯は虚しさを感じずにはいられない心境になる。この頃に描いた作品が墨一色の松林図屏風である。この作品は実は何のために制作されたのかが不明だとのことであるが、等伯が己の心証をはき出すために制作したのかもしれない。
その後、御用絵師として徳川幕府と運命を共にした狩野派に対し、長谷川等伯は一生涯に渡って絵を描き続けたとのこと。もっとも完全に野心を失ったというわけではなかったようだが。
第3回にしてはかなり地味な話題で来たなという印象。ちなみに等伯の息子の突然の死については、狩野派による暗殺との噂もあるのだが、さすがにそれは扱わなかったか。ちなみに永徳も等伯も明らかに天才です。ただ狩野派については永徳の死後はかなり様式化した作品ばかりで、あまりにワンパターンに陥った感じがしますね。探幽など単発的には優れた才能は出ているのですが、狩野派全体としては明らかに衰退傾向に入ってしまいました。