昔は何処かなについて


今自分が住んでいる所や、よく行く場所は、昔はどう呼ばれていたのでしょうか。
江戸時代から変わらない地名、消えていく地名たち。

ここでは、地名の今昔について纏めてみました。


押上駅付近

都営浅草線の押上駅付近はどうだったのでしょうか?

大横川親水公園を境に、東側が小梅、押上、柳島村などののどかな風景が広がり、西側は大名屋・武家屋敷の隙間に町屋がひしめいてました。

現在

江戸切絵図
大横川親水公園 横川の流れがあった。
大横川親水公園西側あたり 西側の川沿い1,2区画は中ノ之横川町が南北に細長くありました。

他に中ノ之瓦町、八軒町、小梅代地町、松倉町などの町名も記載されています。
業平橋 現在とほぼ同じ位置にある。
浅草通り 吾妻橋、業平橋を直進する通りは昔はありませんでした。

本所吾妻橋駅上部分が森川肥後守、大久保駿河守の下屋敷の門に面した大通りとなっており、妙緑寺が吾妻橋方面で突き当たりになっていたのです。

妙緑寺は現存しているのですが、北側の敷地が削られた格好になっている。
平川、横川、紅葉橋 切絵図にはこれらの橋はかかっていません。
法恩寺橋 現在とほぼ同じ位置にある。
横十間川 昔も横十間川で流れも同様となっている。
下水道局墨田あたり 森川肥後守の下屋敷に相当。
東駒形三丁目あたり 妙緑寺(現存)、崩松寺、福巌寺(現存)、東盛寺、松巌寺(現存)が酒井大学頭下屋敷裏手に密集していました。
三ッ目通 途中道幅に差はありますが、ほぼそのまま存在しています。
春日通 北割下水を挟む形で二本の道路が切絵図にあり、下水を無くして一本の道路にした形が春日通りになっています。
業平三〜五丁目、横川二〜五丁目、太平二〜四丁目あたり 押上村、押上出村、柳島村に相当。
本所税務署、業平橋住宅、JTあたり 西尾隠岐守下屋敷に相当。

門は業平橋を渡り、押上駅方面に少し歩いたあたりにありました。
本法寺、霊山寺、法恩寺 本法寺、霊山寺、法恩寺は全て現存。

この三寺で横川一丁目、太平一丁目を占める敷地を誇っていました。

法恩寺は太田道灌一族の信仰が厚かった古刹で切絵図でも大きく描かれています。

浅草駅付近

都営浅草線の浅草駅付近はどうだったのでしょうか?

金龍山浅草寺の門前には雷門があり、その前には多くの町屋が広がっていました。
その雷門から大川(隅田川)沿いに下っていくと幕府の米倉である浅草御倉が立っていたのです。

現在

江戸切絵図
金龍山浅草寺 浅草の観音様として江戸庶民に愛されていました。

現在の浅草一、二丁目が全て浅草寺の境内であり、一体の大歓楽街の中心地となっていた。
花やしき 皆に愛されるこの遊園地も浅草寺の広い境内に位置しています。
雷門・仲見世 風神・雷神が守る浅草寺の表門。
現在の仲見世が位置する場所には、浅草寺の支院である日音院、智光院などが並んでいました(傳法院は現存)。
雷門一、二丁目あたり 吾妻橋を渡って雷門の前の廣小路は今と変わらない配置となっています。
その門前には田原町、東仲町、西仲町、茶屋町、並木町などの町屋が広がっていていました。

ロック座、浅草演芸ホールなどが立つ位置には”蛇骨長屋”があったのですが、蛇骨湯というのはそこからとったのでしょうか?
浅草六丁目あたり 幕府によって歌舞伎の中村座・市村座・河原崎座、浄瑠璃の薩摩座・結城座が集められ、猿若町となりました。
新堀通 浅草御蔵に通じる堀があり、浅草寺近くの海禅寺(現存)付近まで通じていました。

堀にはキクヤハシ、コシヤハシ、マッコウハシ、ヤクシハシ、コアゲハシ、ユウテイハシなどが架かっていました。
蔵前一、二丁目あたり 幕府の米倉があり、櫛の歯状に一番から八番までの堀がありました。
旗本・御家人はここから支給される米を現金化したため、この近辺には札差の大店がありました。
千束四丁目あたり 新吉原が周りを掘りに囲まれて田畑の中にありました。
吉原大門付近で道が”くの字”になっているのは切絵図のままです。
土手通り 日本堤と呼ばれた通りで、通りにそって山谷堀が大川(隅田川)まで通じていました。

これらを通る人の目的はただ一つという所ですね。
南千住駅付近 小塚原刑場があったところで、切絵図には”仕置場”と書かれています。
回向院は、明暦の大火で亡くなった人や刑死者、無縁仏を供養・埋葬するため建立されました。

上野駅付近

JR上野駅付近はどうだったのでしょうか?

不忍池にある東叡山寛永寺の門前町を除けば、ほとんどが武家屋敷で占められていました。
大大名の上屋敷も多く、その広大な屋敷の塀はどこまでも続いていたのです。

現在

江戸切絵図
上野公園

東叡山寛永寺を中心とした寺院群がありました。

東京芸術美術部・音楽部、国立博物館、国立科学博物館はもちろん、上野駅まで含めた広大な敷地を誇っていました。

不忍池弁財天 現存する不忍池弁天様ですが、不忍池は現在よりひとまわり大きく、上野動物園西園もすっぽり入っていました。
中央通り

東叡山寛永寺の門前町があった下谷広小路にあたるのですが、現在のように長く通りがあったわけではなく、松坂屋付近で行き止まりとなっていました。

この広小路の近くに刀剣の鑑定・研磨で有名な本阿弥宅もありました。

平成小学校あたり 台東三、四丁目一帯は、出羽久保田藩佐竹右京太夫の上屋敷がありました。
清洲橋通りを挟んだ反対側には、S字型の三味線堀があったため、三味線堀屋敷の別名で呼ばれていたのです。
東京大学 加賀藩前田家上屋敷の跡地。
赤門は上屋敷の御守門で、広大な屋敷の入り口に当たります。
東京大学(農学部、工学部) 御三家の一つ水戸家の中屋敷、小笠原信濃神の下屋敷の跡地にあたります。
小石川後楽園あたり 御三家の一つ水戸家の上屋敷。
後楽園ホール、ドーム、遊園地もすっぽり入ります。
西片一、二丁目 阿部伊予守中屋敷の跡地。
本郷六丁目 本多美濃守下屋敷の跡地。
旧岩崎邸庭園あたり 越後高田藩榊原式部大輔の中屋敷の跡地。
譜代の名門として知られる名家です。
隣祥院春日局社 春日局が晩年を過ごした寺。その菩提寺でもあります。
本郷通り 太さこそ違え、ほぼ同じ位置に通りがありました。
白山通り
水道橋 現在とほぼ同じ位置にある。
後楽橋、お茶の水橋は当時まだ架かっていませんでした。
小石川橋 現在とほぼ同じ位置にある。

早稲田、神楽坂駅付近

東西線・早稲田、神楽坂上野駅付近はどうだったのでしょうか?

安政の大獄で恐れられた井伊大老の腹心であった酒井若狭守の上屋敷や尾張殿の広大な下屋敷がある一方で、神田川沿いには田んぼが広がっていました。

現在

江戸切絵図
戸山公園、国立医療センター、早稲田大学文学部 あたり 尾張殿下屋敷。
切絵図には「戸山尾張殿」と書かれており、門は統計局前の交差点あたりにありました。
弁天町 あたり 根来百人組組屋敷。
鉄砲集団として幕府・将軍警備を担当していた根来衆の組屋敷がありました。
新潮社、市谷商高、牛込一中 あたり 酒井若狭守の上屋敷。
矢来町がすっぽり入る大きさでした。
ラ・トゥール神楽坂 あたり ラ・トゥール神楽坂とトーハンの間の西五軒町6、11の長方形の土地は馬場になっていました。
赤城神社 牛込を支配した大胡氏が群馬から勧進した古刹で牛込の総鎮守。
切絵図には、赤城明神に隣接して法隆寺、天徳院、宝蔵院、東覚寺が見えます。
済松寺 あたり 切絵図では新宿山吹高校や大日本印刷の敷地の一部も境内に含まれていました。
また山吹町一帯は田んぼで加二川が流れていました。
早稲田大学 切絵図に「高田富士」が書かれています。
富士講の日行が江戸市中で初めて作った富士塚です。
南門側の半分は水稲稲荷の境内、残りの半分が井伊掃部頭の下屋敷にあたります。
新江戸川公園 あたり 細川越中守下屋敷の南半分にあたります。
お茶の水女子大、筑波大学付属中高 あたり 安藤長門守下屋敷にあたります。
音羽通り 護国寺の門前町である音羽一丁目から九丁目が道の両脇にありました。
目白通り 音羽通りと江戸橋付近で合流する通りで、道筋も切絵図にほぼ一致しています。
護国寺 切絵図でもひと際大きい境内が目立ちます。
徳川綱吉の生母・桂昌院のために建立されました。
小石川三丁目あたり 伝通院は徳川家康の生母・於大の方の菩提寺として建立されました。
広大な境内は大名の上屋敷を凌駕する大きさです。
駒塚橋 現在とほぼ同じ位置にある。
江戸川橋
石切橋
中ノ橋
船川原橋 現在とほぼ同じ位置にある。飯田橋は当時まだ架かっていませんでした。

錦糸町両国駅付近

JR錦糸町、両国駅付近はどうだったのでしょうか?

回向院、若き平蔵が暴れ回った入江町など鬼平ファンには馴染みの場所が多くあります。

現在

江戸切絵図
旧安田庭園 松平伯耆守下屋敷。
両国駅、両国国技館、江戸東京博物館、両国中学校、日大一中高校 あたり 御竹蔵。
幕府が材木倉として使っていたが後に米倉となる。

旧安田庭園と国技館の間に御蔵橋がかかっていた。
蔵前橋通り 蔵前橋は切絵図になく、清澄通りと交差する地点から東へのびていました。
京葉通り 切絵図では、両国橋から大横川に突き当たるまでしか道がありませんでした。
両国橋 切絵図では若干南にあり、橋のたもとは廣小路になっていました。
回向院 明暦の大火の死者を埋葬したのがはじまりで、敷地は小さくなりましたが同じ位置にあります。
緑四丁目 あたり 切絵図では大横川側に入江町があります。
入江町の銕といえば・・・
一之橋二之橋三之橋四之橋 切絵図の一ツ目之橋、二ツ目之橋、三ツ目之橋、四ツ目之橋にあたります。
清澄通り 一ツ目通りにあたり道筋も切絵図にほぼ一致しています。
三ツ目通り 三ツ目通りにあたり道筋も切絵図にほぼ一致しています。
大横川親水公園 現在公園になっている部分も大横川が流れていて、北十間川と合流して隅田川までつながっていました。
新大橋 切絵図では若干南側で、芭蕉記念館のあたりに架かっていました。
新大橋通り 現在は幹線道路ですが、切絵図にある道は細く、住吉駅までで行き止まりでした。
猿江恩賜公園 幕府の猿江御材木蔵の跡にあたり、まわりを水路が囲んでいました。
横十間川 現在とほぼ同じ位置にある。
小名木川

秋葉原、神田駅付近

JR秋葉原、神田駅付近はどうだったのでしょうか?

五街道の起点である日本橋、罪人が送られた小伝馬町、古本屋街となった裏神保小道がありお馴染みの場所です。

現在

江戸切絵図
日本銀行本店 金座。
幕府が小判、一分金などを鋳造した場所。
日本橋本石町二、室町二 あたり 江戸筆頭町役人の樽藤左衛門、舘市右衛門、喜多村彦右衛門の屋敷がありました。
十恩公園 小伝馬町の囚獄跡地。
石出帯刀の屋敷がありました。
日本橋室町三 あたり 十軒店。
雛人形、武者人形、羽子板市はすごい人出で江戸名物でした。
区立総合体育館 あたり 鎌倉河岸。
大石や材木の荷揚場。白酒で有名な豊島屋もありました。
日本橋女学館中・高 あたり 郡代屋敷。
天領地での訴訟はここで処理したため、その住民はここまで来る必要がありました。
神田和泉町 あたり 藤堂和泉守・伊勢津藩の上屋敷。
藩祖高虎は家康の信用が厚く松平姓を許されていました。
気象庁 あたり 一橋屋敷。
徳川御三卿の一つ。
日本ビル あたり 勘定奉行屋敷。
日本橋 五街道の起点となる橋で、東側には魚河岸、南側には高札場と罪人の晒場がありました。
万世橋 筋違御門と橋がありました。
浅草橋 浅草御門と橋がありました。
中央通り 下谷御成街道、下谷廣小路に相当し、不忍池の三橋に続いていました。
昭和通り 和泉橋から秋葉原側は御徒町を通る路でしたが、神田駅側には現在に相当する路はありませんでした。
靖国通り 太さこそ違え、ほぼ同じ位置に通りがありました。
ただし小川町駅から両国橋にかけての部分は切絵図に該当する大通りは無く、神田川沿いに柳原通りがありました。

神保町駅あたりは裏神保小路で、現在の古本屋街にあたります。

市ヶ谷駅付近

JR市ヶ谷駅付近はどうだったのでしょうか?

市ヶ谷御門の前には、御三家の一つ尾張藩の広大な上屋敷がありました。赤坂御用地や新宿御苑も、大名の中、下屋敷の跡地が利用されているのです。

現在

江戸切絵図
靖国神社 歩兵駐屯所、表・裏四番丁にあたります。
日本医科大学、富士見小学校 定火消御役屋舗水野國之助。
防衛庁 尾張殿上屋敷。
徳川御三家の一つ。外苑東通り側に馬場がありました。
東京女子以下大学、東京韓国学校 あたり 尾張殿下屋敷。
東京女子医科大学病院 松平伯耆守中屋敷。
市谷加賀町二丁目 あたり 切絵図には馬場が見えます。
市谷亀岡八幡宮 あたり 太田道灌勧請と伝わる古社。
その門前には岡場所がありました。
市谷左内町 あたり 切絵図にも市ヶ谷左内町が見えます。
左内坂という坂がありました。
浄瑠璃坂 水野大炊頭上屋敷の横の通りに浄瑠璃坂の文字が見えます。
この坂で宇都宮藩の旧家臣同士の争いがあり、有名になりました。
合羽坂 切絵図にも合羽坂が見えます。
曙橋駅付近には御先手組屋敷が並んでいました。
九段坂 切絵図にも九段坂が見えます。
新宿通り 太さこそ違え、ほぼ同じ位置に通りがありました。
半蔵門から四ッ谷橋を通る町屋の通りになります。
牛込橋 牛込御門と橋がありました。
市ヶ谷橋 市ヶ谷御門と橋がありました。
四ッ谷橋駅 四ッ谷御門と橋がありました。
駅付近の外堀は埋め立てられ、外堀公園などになっています。

門前仲町駅付近

東西線門前仲町駅付近はどうだったのでしょうか?

深川十万坪や富ヶ岡八幡宮、霊巌寺など時代小説ではお馴染みの場所が広がるのがこのあたり。網の目のようにあった水路は分断されつつも当時の面影を残しています。

現在

江戸切絵図
富ヶ岡八幡宮 切絵図に見える富ヶ岡八幡宮は、周囲を全て堀で囲まれ、二カ所に橋が架かっていました。
数矢小学校も富ヶ岡八幡宮の境内の一部でした。
清澄公園・庭園 久世大和守、松平美濃守、松平出羽守の下屋敷跡地にあたります(清澄公園庭園は久世大和守 下屋敷にほぼ一致)。
木場公園 切絵図には”木置場”とある木材集積地で、問屋・製材業者が集まっていました。
霊巌寺 江戸六地蔵のひとつ銅造地蔵菩薩像が有名で、切絵図にも多くの寺院が集まっている場所です。
仙台堀川 切絵図に”仙台堀という”、とある網の目のような堀は、現在の大横川、大島川西支流、平久川などにその面影を見ることができます。
三井倉庫のあたりで行き止まりになっている水路も、隅田川までつながっていたのでした。
大横川 小名木川、堅川を南北に結ぶ大横川は、切絵図に同じ流れを見せています。
永代橋 文化四年の深川八幡のお祭りで崩壊し、多数の死者を出した永代橋は、切絵図では豊海橋のIBM側に架かっていました。
万年橋 切絵図の小名木川には、大横川までにこの三つの橋しか架かっていませんでした。
高橋
新高橋
首都高9号深川線 富ヶ岡八幡宮に沿ってあった水路上に作られています。
城北信金あたりで曲がっているのもその名残です。
越中島一丁目あたり 幕府によって作られた越中島調練場で、黒船来航後、その脅威に備えるための砲術・武術調練の場となりました。
牡丹町公園あたり 松平阿波守下屋敷がありました。
永代局あたり 真田信濃守・信州松代藩の下屋敷がありました。
千石(一〜三)あたり 切絵図に”深川十万坪という”と書かれたこの一帯は、巨大な湿地帯でした。広重の浮世絵にも描かれています。

東京駅付近

東京駅付近はどうだったのでしょうか?

東京駅前の通りは大名小路と呼ばれており、松平相模守・松平土佐守などの有力大名の上屋敷がありました。また現在の外堀通りは数寄屋橋御門、鍛冶橋御門の前にあった外堀に沿った形になっています。

現在

江戸切絵図
皇居外苑 老中水野和泉守、阿部豊後守、若年寄立花出雲守、田沼玄番頭、平岡丹波守ら有力大名の屋敷がありました。
霞ヶ関 大岡越前守(南町奉行)などの上屋敷がありました。
日比谷公園 松平肥前守、南部美濃守、松平大膳大夫らの上屋敷がありました。
松平大膳大夫(長門毛利家上屋敷)は長州征伐後に屋敷を破壊され更地とされました。
東京駅 東京駅・ホームの中心部は松平伯耆守、松平内蔵頭、松平丹波守、水野肥前守の屋敷に相当します。
また東京駅前の通りは大名小路と呼ばれており、有力大名上屋敷の門が並んでいたのです。
有楽町マリオン 南町奉行所の跡地になっています。南町奉行では大岡忠相、遠山景元などが有名ですね。
帝国ホテル 板倉周防守上屋敷がありました。
八丁堀一〜三丁目 あたり 八丁堀の旦那と呼ばれた町奉行配下の与力・同心らの町御組屋敷がありました。
外堀通り 江戸城外堀に沿って(一部は埋め立てて)整備された道路。
首都高都心環状線も江戸の掘割りを埋め立てる形で整備されたため切絵図の水路と重なります。
首都高都心環状線
中央通り 切絵図では日本橋通りとあり、銀座を貫く形で重なる通りがあります。逆に昭和通りに相当する通りは切絵図上になく、町屋の上に重なります。
銀座一〜八丁目 あたり 両替商が集まった新両替町、蠣殻町に移転する前の銀貨幣鋳造所がありました。
銀座の名前は鋳造所が移転しても残ったのです。
築地川公園 聖路加看護大学前の築地川公園も掘割りの跡地を整備したもので、切絵図では軽子橋、備前橋などが架かっていました。
桜川公園 桜川公園も掘割りの跡地を整備したもので、亀島川へとつながっていました。
東京証券取引所 松平和泉守の上屋敷がありました。
亀島橋 切絵図にもあり、堀部安兵衛がこのあたりに住んだとされています。

赤坂駅付近

赤坂駅付近はどうだったのでしょうか?

大名屋敷が多くあったこの一帯は、その跡地を利用した赤坂御用地、明治神宮外苑など広大な空間があります。

現在

江戸切絵図
赤坂御用地 御三家・紀州藩の広大な上屋敷がありました。切絵図を見るとほぼそのままなのが良くわかります。
明治神宮外苑 御先手、百人組組屋敷がありました。
国立競技場は幕府の火薬庫であった御鉄砲場に位置します。
神宮球場
国立競技場
外苑東通り 乃木公園側の外苑東通りは切絵図にも道があり、公園の所で直角に曲がっているのも同じです。ですが神宮外苑側の道路は切絵図にはありませんでした。
青山霊園 青山大膳亮の下屋敷があり、その敷地は現在の霊園より大きく南青山一丁目も含んでいました。
慶応義塾大学医学部、病院 森川出羽守中屋敷、永井遠江守下屋敷、本庄宮内大輔の屋敷に相当します。
鮫河橋坂、安鎮坂 この地名は切絵図にもあり位置もそのままです。
鮫河橋坂は太さも位置も同じですが、安鎮坂は切絵図では細い道になっています。
上智大学 尾張藩の中屋敷があり、ホテルニューオータニとの間の紀尾井坂も切絵図に見えます。
ホテルニューオータニ 井伊掃部頭の中屋敷がありました。
グランドプリンスホテル赤坂 紀伊殿の中屋敷があり、切絵図には弁慶堀の先、永田町駅あたりに赤坂御門が見えます。
最高裁判所 三宅備前守の上屋敷がありました。南画家・渡辺崋山の生まれた長屋があったそうです。
日枝神社 将軍家の産土神として保護され、江戸第一の大きな神社でした。切絵図では周りに沢山の子院が見えます。
首相官邸 京極周防守の上屋敷がありました。
国会議事堂 井伊掃部頭、松平安芸、真田信濃守らの屋敷がありました。
潮見坂 切絵図にも同じ位置にあり、坂の先、日本財団ビルのあたりには馬場もありました。
TBS 松平安芸守の中屋敷がありました。切絵図には三分坂の名前も見えます。

浜松町駅付近

浜松町駅付近はどうだったのでしょうか?

勝どき、月島、晴海などは埋め立て地のため、切絵図ではもちろん海になっています。他に目立つのは旧芝離宮、旧浜離宮の広大な庭園ですね。

現在

江戸切絵図
聖路加病院 奥平大膳大夫の中屋敷がありました。隣接する聖路加看護大は取り潰しとなった赤穂藩浅野家の上屋敷があった場所になります。
佃大橋 人足寄場があった石川島。佃煮の発祥地である佃島。佃大橋は切絵図には無く、渡し場という表記になっています。
また住吉神社も切絵図に見え、辺りには漁師町がありました。
西本願寺 切絵図の西本願寺は、晴海通りの反対側の場外市場までありました。
首都高速環状線、築地川銀座公園は西本願寺を囲む掘り割り跡地を利用したものです。
おさかな普及センター資料館 幕府の御軍艦操練所がありました。操練所は南小田原町、肴店、上柳原町、南本郷町などの町屋に囲まれていたのです。
築地市場 尾張殿蔵屋敷、一橋殿下屋敷、松平越中守下屋敷、松平安芸守蔵屋敷、稲葉長門守中屋敷に相当します。
新橋演舞場 この近くが木挽町六丁目で、絵島事件で廃絶となった山村座があった場所。
塩竃神社 松平陸奥守(仙台伊達家)中屋敷がありました。
東京美術倶楽部あたり 将軍家剣術指南役であった柳生対馬守の上屋敷がありました。
慈恵医大付属病院 松平隠岐守の屋敷がありました。
汐留 赤穂城の受け渡しを務めた脇坂淡路守の上屋敷があり、この位置に汐留橋がかかっていました。
旧浜離宮庭園 徳川将軍家の狩り場だった場所で、後に濱御殿となりました。ここに入るには、表御門または中之御門を通る必要がありました。
旧芝離宮庭園 紀伊徳川家の下屋敷で、当時は海に面し、周りを掘り割りで囲まれていました。
世界貿易センタービル 大久保加賀守の上屋敷がありました。
第一京浜 このあたりの第一京浜道路は、切絵図の町屋(浜松町、宇田川町など)を通る道路にぴったりと当てはまります。
赤レンガ通り 切絵図の愛宕下大名小路に相当し、多くの大名の上屋敷の入り口が面していました。
新橋四丁目あたり 桜吹雪で有名な遠山金四郎の屋敷がありました。

六本木駅付近

六本木駅付近はどうだったのでしょうか?

六本木ヒルズやテレビ朝日といった話題のスポットがあるこの一帯。切絵図にも六本木通り、氷川神社、増上寺といった現存する場所の名前が見られます。

現在

江戸切絵図
俳優座あたり 内藤右近将監の中屋敷がありました。
檜町公園あたり 松平大膳大夫(毛利家)の中屋敷がありました。その敷地は広大で赤坂(九)にほぼ相当します。
六本木1丁目あたり 御手先組組屋敷がありました。弓組と鉄砲組からなるこの組織が火付盗賊改方として活動したのです。
一ノ橋JCT 中ノ橋、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋は切絵図の同位置に見えます。中でも一ノ橋は清川八郎の暗殺場所として有名です。
六本木ヒルズ、テレビ朝日あたり 毛利右京亮(長州藩毛利家)の上屋敷がありました。ここで赤穂浪士十名が切腹しています。
有栖川記念公園 南部美濃守下屋敷がありました。後に有栖川宮邸となり現在は公園となっています。
専称寺 切絵図にも見え、沖田総司の墓があります。
日赤医療センター、日本赤十字看護大学あたり 堀田備中守の下屋敷にあたります。
六本木駅あたり 六本木丁と書かれた町屋が光専寺、深光寺とともに切絵図に見えます。
増上寺 浄土宗の大本山で徳川将軍家の菩提寺。芝公園一帯は増上寺とその子院、寮の敷地でした。
東京タワー 金地院と瑠璃光寺は切絵図では境内が隣接していました。その境界線あたりに現在東京タワーがあります。
桜田通り 切絵図では現在の様な大通りではなく、神谷丁、カワラケ丁といった町屋を通る道で赤羽橋へと続いていました。
虎ノ門パストラル 土岐美濃守の上屋敷、松平右近将監の屋敷がありました。
江戸見坂 切絵図にも江戸見坂の名が見られます。
テレビ東京 花房平左衛門、福島左衛門、土屋熊蔵の武家屋敷名が切絵図に見えます。