小山博行「参戦記」

参 戦 記




目 次

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はじめに・筆者紹介

北支編

初 陣

上 船

船 中

上 陸

軍馬(愛馬)

戦傷(1)

参戦記地図

参戦記続き




はじめに・筆者紹介

小山 博行

大正4年2月 長野市松代町禅福寺に生れる。
旧制長野中学卒業後、長野県庁に勤務して定年退職
その間一兵卒として日中戦争に従軍、徐州戦で戦傷を負う。
平成18年現在91歳で長野市在住
大野至嘉実弟

北 支 編

初 陣

 夢うつつに「天に代わりて不義を撃つ、忠勇無双の我が兵は・・・・」の唄声を聞いていたが、頬に何かが当たってふと目を覚ますと、プラットフォームにはエプロン姿で肩から国防婦人会の襷をかけたキレイどころを交えた人達が、手に手に日の丸の小旗を打ち振り大声で合唱しながら、時には万歳を叫び窓からキャラメルやマッチの小箱などを投げ入れていた。それは昭和12年8月末の真夜中で、所は東北本線大宮駅での出来事であった。

 支那事変が起こり、赤紙(召集令状)を受けて宇都宮の野砲兵第20連隊へ召集され、本土を後に死出の旅ともいうべき第一線(北支)へ出発の当夜であるが、宇都宮の引込み線からこっそり発車した軍用列車が大宮ではどうして知っていて見送ってくれたかは知るよしもない。その時投げ込まれた大宮亭という屋号は今も目の底に残っていて、無事に帰れたら一度訪ねて見ようと思っていたが、遂にその機会はなかった。

 大阪駅で下車し上船まで市内の通天閣近くの旅館で待機していたが、日中は駅の近くに置いてきた馬に水やえさを与えに電車で通っていた。毎日のように各種の予防接種(当時は3種混合はまだなかった)をくりかえして行われた。1日目は左腕、2日目は右腕、3日目は右尻、4日目は左尻、5日目は右肩、6日目は左肩、次はまた腕とあらゆる場所に注射された。このお蔭で伝染病にもあまり罹らないで済んだ。しかし昭和14年の夏、開封城外に駐屯していた時だけはチブスが流行し、戦友が次々とやられ真性約15人、擬似約15人の犠牲がでた。自分は下痢がひどい程度で済んだ。

 臨時の便所が作られていたが、アンペラ(高粱殻で作った敷物)で囲っただけの粗末なもので、隣に誰が入ったかすぐ判る。偉い人が入ったとき出てから、出したものを見たら自分のように多少血が混じっていた。偉い人も同じだから大丈夫だろうとタカをくくっていたら、そのうちに下痢も止まってきた。

上 船

 上船が又大変なことで、歩兵なら背嚢を背に鉄砲をかつげば直ぐ上船できるが、何しろ大砲や馬の部隊だ。起重機を使って大砲や馬を吊り上げて積み、馬は船の中に材木で馬つなぎを作って片っ端から詰め込み、馬と馬の間に丸太を一本入れ仕切り、あまり動けぬようにするわけだ。
 船上でも朝、昼、夕方と馬に水とえさをやってから食事にするのは、馬部隊の宿命であることに変わりない。

船 中

 大阪港から出港したが、船中では兵士はごろ寝だ。ごろごろ寝ているのが船酔いしない方法だ。不寝番でも、目をあいていれば横になっていてもよいと言われた。その意味が最初は判らなかったが、波が高くなって来て気分が悪くなりそうになったので横になったら何ともない。なるほどと思った。幸い波が穏やかであったのであまり船酔いもせず玄海灘を乗り越えて塘沾港に上陸した。

上 陸

 上陸は上船の経験があったので、仕事は割に早く片付いた。最初に宇都宮の駅で貨車に馬を入れる時もそうであったが、馬は離れていて脚が一杯に延び切った時に蹴られると一命を落とすこともあるくらい強烈なパンチになる。後脚のすぐ後ろにいて蹴られても力が入っていないから大したことはない。馬の一番の弱点は尻尾にあり、尻尾を持ち上げれば、たいがいの馬は言うことを聞く。
 一人が手綱を引き、一人が尻尾を持ち上げて押せば貨物列車への出し入れも、船倉への出し入れもそう難しくない。

軍 馬(愛馬)

 上陸して作業が一段落し、さて出発という段になって自分の持馬が見当たらない。これは大変だ馬を盗まれたと上官に報告すると、あの馬はよい馬だから重観測車を運ぶ馬と取り替えた。そこにいるのが替わりだからそれを使えと言われたが、その馬を見て驚いた。

 ひょろひょろした弱そうな馬で、その名がまたひどい参老号といった(所属した部隊が第3大隊だったので馬は全部参○号と参がつけられた)。
 案の定3日目にはもうへばって、しまいには20歩行っては止まり10歩動いて一息という具合で、とうとう部隊に取り残されてしまった。とぼとぼ部隊の行った車輪の跡を辿って、どうにか野営準備中の部隊に追いついた。
 しかし、一人で敵地を歩く淋しさはたまったものではない。ましてこんな行軍を毎日やっていたらいつかは本当にはぐれてしまうだろうと思ったので、すぐ上官(大行李長−伍長)に他の馬と取り替えて呉れるよう交渉した。

 曲(くせ)馬で手がつけられぬからやめろと言われたが、なんとか手なづけるからと強引に、かねてから目をつけて置いた馬(参力号という蹴る、噛む、やたらに飛び出すという代物)と取り替えた。大変な馬で車輌をつけると走り出すさわぎだが、大言を吐いた手前何としても手なづけなければならない。手綱にしっかりしがみついて遮二無二前の車の後へ押し付け、わきへ外れると走り出すので絶対手綱をはなさないという、無茶苦茶な必死の行軍が始まった。しかし一週間もしたら何とか前の車につけて行けば大丈夫だという自信がついた。ただ、前の車に前脚をがちゃがちゃぶっつけながら歩くのは半年くらいたつまで直らないで困った。前の車が急に止まるとその車の上に乗り上げるのだから始末だ。だからといって横へ逸らすわけにはいかない。「馬が怪我したらどうする」と毎日怒られながら結構この馬と弾丸の下をくぐる羽目になった。後日徐州戦で負傷するまで一番長く付き合ったのもこの馬である。しかし、この馬は疳が強く、不用心に後ろへ廻ると蹴られるし、いい顔していると肩口をがぶりとやられる。まったく何の因果でこんな馬と付き合わなければならないのだろうと思ったが、今になればなつかしい思い出である。

 馬も人間と同じで、いろいろな曲(くせ)を持っているのもあるが、よい馬も多かった。丸々と太っているのもあれば多少スマートなのもいた。ちゃんと前の車との距離を保って歩くのもいれば、1時間でも2時間でも手綱をとらなくても前の車の後を黙々と歩く可愛いやつもいた。
 曲馬には他人に判るように印をつけておく。噛むものは鬣(たてがみ)に、蹴るものは尻尾にそれぞれ白い布を編み込んでおくわけである。その他に後っ引きといって前へ仲々進まないで後ろへ後ろへと退る馬や、前脚で抱き込んで踏んづけて、噛み更に後脚で蹴飛ばすという、兵隊を3人も殺した曲者もいた。自分も一度シナ馬でたちの悪いやつに噛みつかれ、倒れたところを前脚で踏んづけられたことがあった。2時間後にその馬は去勢され、夕方獣医官たちが睾丸を焼いて食べたそうである。

 病院から帰ってからは、班長の馬を世話することになった。これも曰く付き、部隊唯一頭の牝馬(雌馬)で参竹号といい、少し小柄な馬であった。
 この馬はもともとは九州のある部隊のものであったのを分捕ったもので、その経過はこうである。上陸して1ヶ月ばかり経ったある夕方、いつものように糧秣の補給に行っての帰りに、九州の部隊の一車輌が川にはまって困っていた。滅多に仏心を出すような連中ではないが、仲間の5〜6人が車を川から引き上げるのを手伝った。野営地へ引き返す時に後方で何か騒いでいるようであったが、帰隊したら仲間が見馴れぬ小さな馬を一頭連れて来ていた。何のことはない、どさくさに紛れて失敬して来たのだ。

 この馬がどういう経路で班長の乗馬になったかはよく判らなかったが、駐屯中に馬の運動のためよく乗馬訓練をした。この馬に乗っていると丁度春であったからたまらない、去勢に失敗したらしく睾丸が一つ残っているという馬に追いかけられ閉口した。

 当時の軍隊ではお前達は1銭5厘(ハガキ一枚の値段)だが、馬は兵器(買上価格が80円〜120円くらい、清酒1升(1.8リットル)が80銭〜1円20銭)だ、粗末にして怪我でもさせると営倉(軍隊の監獄)だと脅かされ、馬に水と食事を与えてからでないと飯にはありつけなかった。また歩兵でもお偉方は馬に乗っており、馬と軍隊とは切り離せられない関係にあった。

 上陸して最初の試練は水であった。昔から旅に出たら水当たりに注意しろと云われたが、大陸の生水は到底そのままでは飲めるものではない。住民は必ず煮沸して飲んでいる。軍でも出発の時に正露丸(クレオソート)を一瓶づつ携行させ水当たりや食中りに飲むように指示があった。上陸直後5〜6人が生水を飲んで七転八倒の苦しみをしているのを、目の当たりに見て以後生水は絶対飲むまいと思った。民家で沸かした水を貰うか、水筒に水を入れて火にかけて沸かして飲んだ。しかし行軍々々で湯を沸かすひまもない或る時、馬の水を汲んで帰ってくる途中軍医殿に呼び止められた。何事かと思ったら、その水をこの水筒に入れろと云う。どうするか見ているとその水をがぶがぶ飲み、ああ旨かったと云い、正露丸を一粒飲みこれで大丈夫だという。軍医が云うんだから大丈夫と、それからは正露丸を飲みながら、生水を飲んだが別に腹痛も起こさなかった。

 普通の水は岩塩等が含まれていて、辛いというか苦いというか、ひどい味だが飲まないと体がもたない。
 その水も部落に2つか3つくらいしかない井戸から汲むわけだが、浅い井戸でも10〜15間(20〜30m)或いはそれ以上もあるので、携帯している麻縄(8〜10mの細引で軍装の必需品の一つである)を何人もが持ち寄って、その先に水嚢(布製の水入れで馬に飲ませるためのもの)または石油カンを半分に切って針金で手をつけたものを結びつけて汲み上げるのである。時には底をついて部落を3つも越えて、やっと水が汲めるような場合もあった。

 とにかくわれわれの部隊は、人と馬の数が同じくらいの馬部隊だからたまらない、一つや二つの井戸はすぐ空になってしまう。人が飲む分がなくても、馬にやる水だけは確保しなければ飯にありつけないのが、馬を持っている部隊の宿命である。
 何しろ馬は水が切れて馬糧だけを食うと疝痛という病気(糞詰まり)になり、手遅れになると一晩で死んでしまうから大変だ。行軍中腹が膨れて死んでいる馬が、置き去りにされているのもよく見掛けられた。

 どんな小さなものでもはありがたかった。川のそばでの小休止、大休止(1時間くらいの休みで昼食の時間)または野営は楽で、休息も充分とれるからだ。
しかし、その川で嫌なことがあった。敵の死体がよく川にはまっていたからだ。死ぬ間際に水が欲しくなり、末期の水を飲んで事切れたものらしい。

 だが戦争が激しくなり、炎天下を行軍している時には贅沢はいっていられない。3尺流れれば水は元に還ると変な理屈をこねて、死体の浮いている川の水も飲んだが、臭かったのは今でも忘れられない。川の水は井戸の水と違って結構旨いからだ。同じ流れでも河になると更に水はきれいで旨い。

 永定河の河岸についた時は走って行って口をつけてごくごく飲んだが、少し変な味がしたような気がした。その時は気がつかなかったが、その直後上流300mくらいの橋を渡る時、何の気なしに橋桁に目をやるとシナ兵の死体が引っかかっていた。しまったと思い、げーげーやってみたが、もう後の祭りであった。

戦傷(1)

 敵の弾丸に当たるにも何か因縁でもあるのか、不思議な気がする。13年5月25日羅王という所で迫撃砲の破片を左の尻に受けて負傷し、8ヶ月ほど入院した。負傷する2日ほど前に汗と垢でごわごわになったを取り替えたばかりで、負傷を予感したような嫌な気持ちであったが後の祭りであった(それまでは一つの行動が終わり、少しの間滞在休息する時でないと替えなかった)。

 後で聞いたことであるが、戦友の一人がやはり褌を取り替えた直後に戦死したそうで、それ以後行動中の褌の取替えはしなくなった。
 弾丸に当たるにも運不運がある。ある准尉は弾丸が雨あられと飛んで来ている中を、われわれが見ている目前200mほどの所に据えてある野砲の所へ乗馬で乗りつけ、その途端に前のめりに落馬した。駆け寄った兵士がすぐこちらを向いて「○○准尉殿即死―」と叫んだ。心臓に一発でコロリであった。

 ある者は物陰で休息していた時、どこからともなくピュ―ンと流れ弾が飛んで来て股にプツンと当たった。自分に当たったとは気がつかず「弾がどこかに当たったのか?」と友人に聞いたので、友人が「お前の股だ」と言うと「そういえば痛い、蹴られたのかと思った」というような笑えぬ場面もあった。

続く

編集:大野 令治

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