遺族の記憶

折 に ふ れ て

大 野 至 嘉 遺 稿 集





目次

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筆者紹介

折にふれて

父の死

雑草

わたしの名前

あれから

モダンガール

その後の雑草

つゆ

病床日記抄

戦地からのたより覚書

戻る



    



筆者紹介

大野至嘉(おおの・しか)

1910年5月長野市松代町禅福寺に生れる
1930年3月女子師範を卒業して長野市吉田小学校、同大豆島小学校に勤務
1935年12月大野傅と結婚
1945年1月夫が中国湖南省にて戦死
1947年4月教職に復帰、長野県埴科郡戸倉小学校に勤務
1961年3月退職、50歳
1979年3月富士通川崎病院にて病没、68歳
        
 写真 「至嘉とその子ども達」(1944年4月ころ、湯原先生撮影)   

折 に ふ れ て

   ひねもすをほう木作りに余念なき父のかたへにけいとうの花咲く  (ニニ年秋)    帰るさに父のたまへる草ほう木しかと抱きて電車にのりぬ     ( 〃  )    村の道とぼとぼかへるわが背に母の情けのリュック重たし    ( 〃  )    鼻たりて草履ひきずる村の子が買出し部隊とわれをののしる    ( 〃  )    つましさもここまでくれば限りあり明日の朝われ何たかんかと悲し ( 〃  )    春来れば野辺の草花みな咲きぬ散りにし夫は永遠にかへらじ    (ニ三年春)    ひまありて山にのぼれば一本のわらびのありてしばしなぐさむ    山に来ていこへばうれし一本のわらびのありて心慰む     (春の香をかぐ)    ふと醒めてねられぬままに物おもふ夜のしじまは寂びしかりけり    梅雨あけの夏の日ざしにまけて来て四十度の高熱に吾子うわごとす    髪結えば白髪のまじり気になりぬ今日此の頃はわれも老いたり    わびしさに何せん気力なきわれは爪など切りて時をすごしぬ    乏しきに耐へて十年を過し来てよくぞ育ちぬとじっと子を見る   (ニ七年)    いみじくもよくぞ今日まで生きしかな弱き性なるわれなりしものを ( 〃 )    われ未だ亡びざる人となりてより八度目の春はいま巡り来んとす  ( 〃 )     春くれば父の遺愛の花咲きぬ墓に供へてしばし慰む    末の子も三銃士などよみふける今日は八度目の誕生日なるに    (ニ七・三)    がりがりと音などたてて原紙きりぬポマード匂うわが傍らの人    弱き性罵声にかへてまぎらしぬポマード匂う傍らの人    冬の夜をふみかき居れば犬なきて隣家に人の訪ふ声のする    居ねむりてふと醒めみればかたわらに子等二人して夜具などのべおり    やすらおとわがふるさとに来てみれば破れしふすまよ老いし父母 (昭和六年の作)

    

父 の 死(昭和二十五年十月)

かりそめの足の病とおもひしにたへざる痛みに父は老い行く    たへかねて又モルヒネをせがまれて母病院の廊下に立ち居り    医師の顔今日も曇りて暮れ行きぬ父モルヒネを又せがみおり    夕べより意識がないと妹は父の容態を電話で告げ来ぬ    電話にてかけつけみればはやおそく父の呼吸はとまりつつあり    今まさにたへなんとする父上の眼より涙のほろりと散りおちる          精魂もつきたる如く父上はがくりとなりて再び動かず    川魚を好みし父に川魚を今日もみまひに我はもち行く    川魚もたべずになりて父の顔悲し死のかげ見へてありけれ    秋雨のしとど降る日に息絶へし父にうらめし病院の窓    朝よりの雨止まずして父上の遺骸はシートにつつまれて行く    父上の遺骸見送りし病院の部屋の掃除を母とすましぬ    うすやみの立ちこめる頃病院を母と妹と我は出で来ぬ     (三未亡人)   二月を父のみとりに明け暮れし病院の窓を母見返りぬ   吹雪の日道に迷いて雪中に目を閉じおれば雲はれにけり  (父雪道に迷いて)

 写真  妹(宮子)
     至嘉の出産のときなど、よく手伝いに来てくれた。
     美人でやさしい人である。
     夫(中俣兼雄)は結婚後間もなく応召し、一人娘の
     誕生(1944年7月)も知らず南方で戦死した。


雑 草


 子供は生まれついた性質をもって、勝手に伸びる草である。母親はそれを守り、育てる

園丁に過ぎない。

 勿論、誰も自分の草たちが、美しい花であってくれることを望んではいるけれど、どん

な優れた園丁でも、たんぽぽの花しか咲かない草に、ひまわりの花を咲かせることは出来

ないし、すみれの花しか咲かない草に、ばらの花を咲かせる事も出来やしない。

 草たちが、水を欲していたら水を与え、強い風が来て倒れたら起こしてやり、虫がつい

たら早くそれを取り除いてやって、その草のもって生まれた花を、それがたとえ小さなつ

ましい花であっても、誇らかに咲かせてやるのが園丁の仕事ではないだろうか。私は此の

頃泌々こんな事を考えている。私も勿論自分の草たちが、みんな美しい花であってくれる

事をのぞんではいるけれど、雑草の種から生えた草であって見れば、やはり雑草でしかな

い事と諦めている。

私は生まれつき楽天家なのかも知れないし、又少し足らないのかも知れない。だから自分

の草たちが、みんな雑草であっても、余り苦にもならないし、悲しい事にも思っていない。

「仕方がないさ」とすぐ諦めてしまうのである。諦めがいいと言えば、ちょっと聞いたと

ころはいいけれど、むしろこれは無気力から来ているのかも知れない。無気力でその上、

又すばらしいものぐさときているから、私はあまり感心した園丁さんではない。倒れてい

る草を見て「めずらしくひるねを始めたな。」位にのんびりかまえていて見たり、むしば

まれている草に一向気づかなかったり、思い出した様に水をやってみたら、それが丁度雨

上がりの後だったり、とに角こんな間抜けた園丁さんなのである。

  園丁さんが間抜けていれば、自然草たちも又どこか間抜けてのんびりしているものであ

る。だから落ちた時のことなどてんで考えても見ずに、屋根の上を雀の様にちょんちょん

とんで見たり、高い木のてっぺんで底抜け騒ぎをしてみたり、つまらないことを平気でや

って抜けるのである。そんな時には流石の園丁さんもちょっとはらはらさせられて「屋根

の上のペンペン草でもあるまいに、どうしてこんな高い所ばかりが好きなんだろう」とう

らめし気に屋根を見上げては見るけれど、子供は又巣立つ小鳥でもある。その日の為の羽

ばたきだと思えば、むげにとめる事ばかりも能ではあるまい、まあ放っとけ放っとけ、と

ひとり慰めておちついてみるのである。

 幸いなことに雑草には雑草の強さがある。放っておいても伸びる力をもっているし、引

き抜かれても又根を張る強さがある。根強さ、これが雑草のとりえなのかも知れない。片

手おちで、ろくな手入れもしてくれない園丁さんを持ちながら、どうにか丈夫でいられる

のも雑草なればこそであろう。でも果たして、精神的にはどうであろうか。無気力な園丁

さんは「雑草には雑草なりの期待を持とう。それ以上の期待をもつ事は、反ってか弱い草

たちに重荷を負わせる事になるから、つつしむべきではないだろうか。」といつもこんな

思いやりをしているのである。これが反って甘やかす結果になって、思わぬひょろひょろ

草や、何か欠けたえたいの知れない草を作っているのかも知れない。

 時々反省はしてみるけれど、私にはやはり園丁の資格はありそうにもない、という結論

が出るだけである。お前には資格がないからと免職してもらえるんだったら、どんなにい

いだろう。ふっとこんな事を考える。冬が間近に迫って来ると、この草たちを寒さからも

防いでやらなければならない。そうなると、ものぐさな園丁さんは、自分自身生きて行く

だけが精一杯なので、つい「うちの雑草たちは、なぜ冬眠しないんだろう。みんな冬眠し

てくれたら、どんなにいいだろうなあ。」なんて自分勝手な事を考えてしまう。そして自

分までが、冬眠したくなってくるし、一層のことみんなが冬眠出来るといいんだがなあ、

なんてばからしいことまで考えて、ひとり喜んでいるのである。

 こんな園丁さんとも知らず雑草たちは又雑草たちで勝手なことを考え、勝手な夢を話し

合っている。

 弟「おい兄ちゃん、おら湯川博士みたいに偉くなってノーベル賞が、もらいたくてさ」

 兄「何だ、お前の望みは小さいんだなあ。俺はなあ、其のノーベル賞をくれる人になり

たいんだ」

 雑草でしかないくせに、何てとてつもない夢のような事を言い合っているのだろう。と

おかしくなる一方、又その意気だけは愛すべきである。これある限り、花の咲かない雑草

で終わってしまうこともないだろう。と心ひそかに慰められるものがある。

 この雑草たちが花の咲くまで、私は頑張らなければならない。

        (戸倉小学校読書会『ながれ』第二号 昭和二十五年十二月十日発行)

私 の 名 前


 「至嘉」これが私の名前である。ずいぶん変てこな、名前らしからぬ名前であるが、正真

正銘の私の名前なのである。
  
  字だけ見たのでは何が何だかわからないし、これが人の名前でああると聞けば、「さて

何と読んだものだろう」と一応判断に苦しむのが普通らしい。其のおかげで、男女同権な

らざる其の昔、選挙候補者から挨拶状を貰ったり、洋服屋から男子用の帽子を貰ったりし

たことがある。

  こんな事実からみても、女という感じから程遠い名前であることが、よくわかるのであ

る。これが又「しか」と、音にしてみると如何にも品がなく、馬の兄弟かなにかのように

聞こえて、まことに味気ないのである。

  前の学校の校長先生がつくづくそれを感じたと見え、何か事ある毎に「これを、おめさ

んもまあえな名前をつけてもらったいなあ。これじゃあまるっきり動物だねかい。もっと

何とかつけ様もなかったもんかいなあ。俺の五一郎の方がまだましだどやなあ」とよく云

われたものである。そして先生仲間のうちにお産があると「おい、まかりまちがってもな

あ、馬だの鹿だのという名前はつけるなやなあ。せめて五一郎位にしておけよ」と、きっ

と云うのである。それ程私の名前は人間らしからぬ、いやな名前の見本になっていたので

ある。

 此の頃磯部事件の証人としてよばれて行った際も、裁判長が先ず第一に聞いたのが私の

名前だった。

 「あなたが大野先生ですか」

 「はいそうです」

 「お名前はこれなんとよみますか」

 「しかとよみます」

と答えると、「しかとさようか」とも何とも云わず、「珍しい名前ですねえ」と傍らの検

事につぶやいた。すると検事も判事も弁護人も皆んな、同感だと云うように頷いて、「ほ

んとうに珍しいですね」と云いながら一斉に振り仮名をした。ここで珍しい名前だという

ことが立派に確認されたわけである。

 こんな妙ちきりんな名前でもたった一人だけ「いい名前ですね」と、ほめてくれた人が

ある。

 それは師範学校時代の活花の先生だった。

 「至って嘉す、至ってよろこぶ。ああ実にいい名前ですね。きっとこれは、何かいわれが

あるんですね」と、ひどく感じ入っていた。

  ご当人にとっては、ほめられたからといって一向自慢にならないし、感心されたからと

いって決して喜べる名前ではない。

  でもそんな事があってから、夏休みに家に帰った時、父母に名前のいわれを聞いてみた。

驚いたことには、父も母もよっぽどいい名前をつけてやった、と思っていたらしいのであ

る。しかも名付け親は母だった。
 
 それは私が付けたのさ、と話してくれた其の話によると、母は若い頃東京へ出て病院に

勤めていた。そこの院長さんが面白い院長さんで、女の子が生まれた時、考え抜いたあげ

くの果てにつけたのが「至嘉」という名前だった。

  院長さん頗る得意で「どうだ、至ってよみす、いい名前だろう。第一そこらにざらにあ

る名前ではないし、字がいいだろう。」

 「女の子は尻が軽くては困るから、下の字はうんと画のある方がいいんだ。どうだ、坐

りがいいだろう。」

 等々と盛んにふきたてるのだそうである。看護婦共もあんまりふかれるので煙にまかれ

「ほんとに珍しい、いい名前ですね」とお世辞にほめていたらしい。

 私が生まれた時、父は多忙だったし、直ぐにはいい名前も浮かばないので、女の子だか

らお前が考えて好きな名前をつけたらどうだと、母に一任した。一任された母はひまにま

かせて「ああでもない、こうでもない」といろいろ考えた末、ふっと思い付いたのがこの

至嘉なる二字だった。

 父も「それがいい、それがいい」と云うようなわけで、幸か不幸かそくざに私はそうき

められてしまったのだそうである。何のことはない、人のお古を頂戴したのである。同じ

よび方でも幼時は「しかちゃん」とよばれたから、まだいくぶんかあい気があったけれど

も、此の頃では御丁寧にも、「おしかさん」とよぶ人がある。

 此の「おしかさん」がどうもいけない。

  「おしかさん」と、いわれると何故か私は直ぐ裏長屋を連想してしまうのである。

  「おしかさん、今おかえりですか」

  「おしかさん、おかえりしたな」
  
  「おしかさん、御手伝いですかな」

 会う人、通る人が一々これだからたまらない。

 あんまり「おしかさん、おしかさん」と云われると、「はてな、そうしてみると私は一

体何だっけ、らくごの馬さんのおかみさんだったかしら」なんて、ふっとそんな錯覚を起

こしてしまうのである。

 ただせめてもの慰めは、偉人野口英世のお母さんも「おしかさん」だったことである。

爪の垢でもいただいておいて、煎じてのんだらいくぶんでも、あやかれたかもしれないも

のを、残念なことをしたとつくづくおもう。

        (戸倉小学校読書会『ながれ』第三号  昭和二十六年十二月二十八日発行)


あ れ か ら


 「うーむ残念、やられたっ」

 ばったり倒れた兄の所へかけつけた弟は、「小隊長殿、しっかりして下さい。」と一生

懸命に介抱している。

 「おーい、小隊長殿がやられたぞっ」と叫ぶと、又其の弟がどこからか勇ましく駆けつ

けて来る。

 「小隊長殿、傷は浅いです。しっかりして下さい。」と、二人とも一生懸命に叫んでい

る。

 「そうだ、ここはあぶない。病院へ運べ。」と次男がどなると、二人は前後に分かれて

重傷者をかつぎ上げようとする。

 とたんに「わっ、毒ガスだっ」と重傷者をおっぽり出して、二人とも地べたにぺたんと

突っ伏してしまう。

 「くせえ毒ガスだなあ」と三男がたまりかねて叫ぶと、「南瓜の毒ガスだ、気をつけろ。

まっ黄色になっちゃうぞっ」と次男が叫び返して居る。すると瀕死の筈の長男が地べたで

げらげら笑い崩れているのである。

 今まで本気でどなったり叫んだりしていた弟二人も、たまりかねたようにげらげら笑い

出し、あげくの果てには三人とも、地べたをはい廻って笑いこけて居る。

それまで誰とも相手になれず、ひとり庭の片隅で土いじりをしていた四男も、余りの騒ぎ

に驚いて立ち上がり、やがて一緒になって、「くちえなァ、くちえなァ」を繰り返し繰り

返し、兄達のまわりをよちよちし始める。

 姉のお下がりの短い簡単服を着て、あまびろの様にひらひら、よちよちとび廻り、はら

はらしている中にぺたんとつんのめって泣いている。砂だらけの顔をして泣き続ける。

 さっきから笑い続けていた兄達は、又それがおかしいと言って、わはわは笑うのである。

 自分達も砂まみれになって、そんな事もおかまいなしに土の上で笑い続けている。

 「何と他愛のないものたちばかりなんだろう。」私はぼんやり見ている中に泣けて来た。

一度転がりおちた涙は止め処なく、後から後からと伝わって転がり落ちてくる。私は今ま

でこらえにこらえて居たものを、一度に吐き出して泣いた。

 こうして私と子ども達だけの生活は、正式に始められたのである。

 これは父戦死の公報から五日目、終戦から四日目に、うちの子ども達が始めた遊びなの

である。

 「今度俺が父ちゃんになって戦死する番とな」と順番に倒れっこをするのである。

 こんなたあいのない遊びの記憶は、子供達にはもう忘れ去られているかもしれない。け

れども私には此の日の記憶は何時までも残っている。そして折にふれて昨日の事の様に想

い出す。此の日、子供達は朝から南瓜の粉かきしか食べていなかった。「今日もごはんな

いの?」と、半べそをかいた子供達なのである。

 それが、おなかのすいたことも、四五日前までは空襲々々で夜中に起こされて、目ばか

りパチパチさせておびえていたことも、父が戦地で死んだことも、日本が戦争に敗けてし

まったことも、みんなどこ吹く風と此のさわぎなのである。
 
 父の死を、敗戦を悲しむには、子供達はまだ余りにも幼なすぎたのである。

 考えてみればかわいそうなのはむしろ此の子供達であり、又それ以上に気の毒なのは、

こんな幼い者たちばかりを遺して死んで行かねばならなかった父親その人であるかも知れ

ない。

 私はハッとした。

 「そうだ、私はこの幼い者達の為に生きなければならないんだ。」と、それからは、必

死に生きることを考え続けるようになった。そうして此の日から又一層きびしい貧しい日

々は繰りひろげられて行ったのである。


   つましさもここ迄くれば限りありあすの朝われ何たかんかと悲し

   村の道とぼとぼ帰るわが背に母の情けのリュック重たし

   鼻たりてぞうりひきずる村の子が買出し部隊とわれをののしる

   ひねもすをほう木つくりに余念なき父のかたへにけいとうの花咲く

   帰るさに父のたまへる草ほう木しかといだきて電車にのりぬ

   山にきていこへばうれし一本の蕨のありてしばしなぐさむ

   春くれば野辺の草花みな咲きぬ散りにし夫はとわにかえらで

   梅雨あけの夏の日ざしにまけて来て四十度の熱に吾子うわごとす

   乏しさに耐えて十とせを過ごしきてよくぞ育ちぬとじっと子を見る


 あれから八年、私は斯うして貧しさや悲しみと闘って生きてきた。二ヵ年の準備期間を

入れれば丁度十年になるわけである。

 其の間、私は持って行き場のない憤懣や、苦しみを、唯書きなぐったり、うたにもなら

ないうたにしてみたりして、ひとり心を慰めて来た。

 生まれて三日目に、もう父と別れなければならない運命にあった末の子も今年は四年生

になる。あの日、よちよち、ひらひらしていたあまびらも、今ではあのかわいかった俤も

なく、一名マラソン選手、一名キュッ・ストンと呼ばれている。これは毎時間毎時間忘れ

物をして、学校と家との間をホイッサ、ホイッサと往復しているからマラソン選手、「今

日も又お昼はお餅にしようかね」と云うと、「又餅かッ・・・・キュッ・ストン」とひく

リ返るから、キュッ・ストンと名付けられたわけである。兄達もみんな、どれもこれと五

十歩百歩の「馬鹿者」の口である。「貧すれば鈍する」と言うからこれはしかたないと思

っている。唯貧しいものにとって一番おそろしいのは病気であったけれど、みんなたいし

た病気にもならず、年並に大きくなってくれたので、それが何より幸いであったと喜んで

いる。

 あれから八年、私達親子は暗い長いトンネルをとぼとぼと歩き続けてきたのである。

                                一九五三年正月記






     写真  戦地の夫へ送ったが届かなかった。  1944年8月撮影 (戸倉温泉・宮澤写真館)



モ ダ ン ガ ー ル

 「ゴーン。」

 今日もまた本堂から鐘の音がしている。そして木魚の合い間々々に、さびついたような

渋い父の読経の声が洩れて来る。

 残暑は相変わらずきびしい。

 昨日も今日もというように、東京からのあげどき法事の客があって、母や姉は台所から

座敷へとてんてこ舞いをしている。村立身者が盆で帰郷した折に、こうしてお寺で法事を

したり、遺骨を納めたりしていくのである。

 お経が始まるようになると、忙しかった台所も少しはすきになるので、其の間に私は火

を焚き、もろこしをやくのである。騒ぎ立てる弟妹たちの為に、私は火を焚き、もろこし

をやいてやるのがこの頃の日課のようになっている。

 大きないろりに沢山の薪をくべ、そこへ幾本ものもろこしを転がし込んで「トテピチ、

トテピチ」とやくのであるが、暑くて煙くて、気忙しくて、なかなか楽な仕事ではない。

  幾らやいてもやいても、次から次と待ち構えていて、引ったくるように取っていってし

まう。まっかな顔を、もえぼこりだらけにして、私はやき続ける。

 「こうした生活ももう後一週間余りしかない。直ぐまたあの寄宿舎へ帰らなければなら

ないんだ。」そう思うと、こんな毎日の生活もたまらなくなつかしいのである。そして刻

一刻がとても貴重なものに思われて、どんな些細なことにも淡い感傷を誘われるのである。

 鬼ざる一杯取ってきたもろこしも、とうとうやき終えた。やき終えると今度は桑つみと

いうもう一つの私の日課が待っている。もえぼこりを落とすひまもなく、最後のもろこし

をかじり、大きなボテをしょって、とぼとぼと私は畑へ出かけるのだ。

 人里は離れた山裾の一軒家。

 降るような蝉しぐれの中を、私はとぼとぼてくてく歩いていた。

 すると境内の松の木のかげで、学生が二人、私を見ながら、ニヤニヤ笑い合っている。

通り過ぎるのを待って「これはモダンガールである」と、一人が言うと、それに応えるよ

うに、「ここを歩きつつあるのは大変なモダンガールである。」と、よくよく初歩の下手

くそな英語でしゃべり返して、どっと笑い合うのである。

 向こうはいい気なもので「モダンガール、モダンガール。」だけを繰り返すのである。

どう見たって中学一年か二年、しかも青白いひょうたん学生である。今日のあげどき客の

子ども達だろう。

 「ふん、江戸っ子ぶったって何だってんだい。元を洗ってみりゃ、自分達の親だって、

水呑み百姓の次男三男じゃないか、苦し紛れに村をおん出て、東京の裏長屋あたりにあく

せくしているくせにーー。大変なモダンガールで悪かったねえ。」

 私は憤然としてもろこしのからを力一杯投げ捨てた。

 畑に着いても、なかなか腹の虫がおさまらない。むしゃくしゃ紛れに、バリバリバリバ

リっと、ひんむしるように桑を摘んだ。バリバリバリバリと桑つむ音も私にはなつかしい

音である。だんだん摘んでいる中に、私の心は少しづつ落ち着いてきた。落ち着いて考え

てみると、腹を立てたこと自体が馬鹿らしくなってくる。

 「モダンガール、大変なモダンガール。」と言ったっけと繰り返し繰り返し考えている

中に、よくも皮肉ったものだと苦笑が沸いてきた。

 「片田舎のモダンガール」確かにそうかもしれないと、改めて自認してみるのであるが、

何かそこに一抹のさびしさが感じられるのである。

 「ええっ、これでも師範学校の二年生なんだぞ。」と叫んでみたいような気持ちになっ

てくる。すると又嘲笑の声が聞こえてくるのだ。

 「おい、どこだどこだ。どこの遠足だ。」

 「うんドテシャン(女子師範)だお。」

 「うわあ、ドテシャンか、どいつもこいつも凄えのっきりじゃあねえか。」と。

 これこそ現実なのだ。

 きびしい現実、激しいたたかい、そこへ又帰らなければならないのだと考えると、夢から

醒めたように又寂しくなって来た。

 「片田舎のモダンガール。」この方が何となくユーモラスでいいじゃないか。頬かむりに

ひっぱさみ姿の桑摘み乙女、うたにでも出て来そうである。

 ドテシャンよりましかも知れない。そう思った頃はそろそろ涼しい風も吹いて来た。

 私は今日この光栄ある(?)名前をいただいた代わりに、彼等に「裏長屋の青びょうたん」

という名前をつけてやることにした。
                            (昭和一年八月記 一部訂正)


そ の 後 の 雑 草


(編集中)
    



つ ゆ


 六月半ばに近いいなか道を、私は急いでいた。

 「あの子は、どんなに喜ぶだろう。きっと喜んで、泣いてとびついてくるかもしれない。」

私は、二ヶ月ぶりで会うわが子のことを、あれこれと考えて、ただただ急ぎに急いでいた。

車のわだちでへこんでいて、まん中にまで草が生え茂っているような、ふだんなら歩きにく

いこの田舎のでこぼこ道も、少しも苦にならないほど私の心ははずんでいた。

 「もう道弘もすっかり家になれたから、今度の日曜には泊りがけで会いにくるように。兄

たちを連れて来ると、一度に里心がついて、反っていけないと思うから、できたらお前ひと

りで来る方がよいだろう。」と、いったような父からの葉書の、いかつい文面までが、おど

るように、目の前に現れたり消えたりする。

 夫が戦死して三年目、昭和二十二年の四月、私の再度の学校勤めがきまった時、「この子

は、責任を持って預かってやるから・・・・。」と、父は一番下の満三歳になったばかりの

子を引き取ってくれたのであった。

 「こんにちは。」と、台所口からはいって行くと、いろり端で、渋茶をすすっていた父が、

顔をあげて、「おお、お前か。よくこんなに早く来れたなあ。」と言いながらも、あたりを

きょろきょろ見まわして、「はてな、道弘はどこへいったかなあ、つい今しがたまで、この

へんに、うろちょろしていたっけがなあ」と、ひとりごとのように言っていた。

 「いいんです。きっと、そこらに遊んでいるんでしょうから」と言うのに、父はもう、

「むつや、道弘呼んどいで、かあちゃんが来たよってな。」と、奥にいる妹を呼び立ててい

た。

 翌、日曜日は、あまりよい天気ではなく、今にも泣き出しそうな、空模様であった。

 前の隠居家からは、朝早くから、泣いたり、わめいたり、ぐちったりする声が、陰気に聞

こえてきた。

 うとうとした浅い眠りを破られて、重い顔を上げてみると、「ほら、また始まった。たま

らんなあ」と、傍らの妹たちが笑っていた。

 泉水へ顔を洗いに出てみると、薄汚れたふとんが、もう軒下に広げられてあった。遠慮会

釈もなく地図がかかれている。それが、あきれたことには、小学校五年生になる男の子なの

だそうだ。

 こんな雨模様の日に、しかもそれが、毎晩のようだというから、たまったものではないだ

ろうと、人ごとながら、つくづく思った。これは、東京のそばやさんの疎開家族である。

 干されたふとんには、何の責任もないように、ついに小雨が降ってきた。

 案じながら、たんぼへ出て来た人たちは、仕事をやめて、みな、うちのいろりに集まって

来た。大きなとっこが、どかどか燃えて、渋茶がまた出された。

 「この家には、いったい幾家族いるのか。」という問いから、また父の悲憤やるかたない

戦争の話になった。

 いつもの父の口ぐせ、「たあくらたあな戦をやりやがって・・・・」が始まった。

 父にしてみれば、何物かにいきどおらずにはいられないのも無理がないと、私には私なり

に、うなずけるものがある。幸いにも長男(私には兄)は無事帰還したけれど、二男は生死

不明、三男は負傷して帰っているのである。

 北支から引き上げた妹一家も転がりこんできているし、その上、戦争遺児を二人も預かっ

ているのである。六十名の疎開学童をうけ入れた、くりの傷みもまだそのままである。

 「いっそ、あの疎開学童のかんばんを、未亡人、遺児、引揚者御預かり所と書き換えたらど

うだろう。」と、村の人がわらっていた。

 幸いにも、雨は昼近くからやんでくれた。

 午後、疎開学童のはきちらしていったという、ゴム浅靴をつっかけて、前の畑に下り立っ

てみた。青々としたえんどう豆が、重なり合うほどなって、たれ下がっていた。

 私は、そのひとつるひとつるを、いたわるように、静かにつんだ。つゆが、はらはらとお

ちて、足も手もびっしょりとぬれた。

 それといっしょに、私もいつか、はらはらと涙をおとして泣いていた。

 「親にも会わない、ねじれ松だ。」

 「屁理屈ばかり言って、ちっとも子どもらしくない。」

 「二言目には、おれは戸倉のもんで、このうちのものではない、という。」

 「かあちゃんに黙って、こんな所へ連れて来ちゃったから、かあちゃんが心配して、今に

きっと迎えに来てくれる、と言い暮らしている。」などなど、いろいろ夕べみんなから聞か

されたことが、頭の中をどうどうめぐりしている。

 ここにも戦争犠牲者はいたのであった。

 もぎはなされるように、急に親からひきはなされた悲しさ、やるせなさを、誰がほんとう

に理解してくれただろう。みんなが必死にあがき、生きることのみに精一ぱいの中で、この

子は、この子なりに、あがいていたのだ。父を、すべてを奪った戦争に対する、精一ぱいの

反抗なのかもしれない。私は、この子を裏切って、また黙ってここにおいて帰ろうとしてい

るのである。

 ぬれたザルをかかえて、家に入るなり、「帰る時は、ちゃんと道弘に挨拶していけよ。黙

って帰ったりすると、反って諦めがつかないで、いけないものだよ。」と、父から一本釘をさ

されてしまった。

 荷造りもそこそこに、うわの空で帰り支度をしていると、もう父は奥へ向かって「道弘や、

かあちゃんが帰るよ。早く来て、いってらっしゃいおやり。」と、呼び立てた。すると、も

うすっかり覚悟をきめたものとみえて、ちょこちょこっと、とんで来たかと思うと、ぺたん

と座って「いってらっしゃい。」と、両手をついて言った。私は夢中で、「おりこうにして

おいで、そうすれば、またこんどのお休みにもくるからね。」と言うなり、家をとび出して

いた。息が苦しい、めがねがくもって来る。私はただ家からはなれるために急いでいた。

 「いっそ泣かれた方が、気がらくなのではなかったろうか。」

 あのちょこなんと座って、両手をついた姿が払っても払っても目に浮かんできて、いじら

しくてたまらない。あれが、二ヶ月前には、まだ私に抱かれて、お乳を飲んでいた、あの子

なのだろうか。

 あまりの変わりように、なんだかもう手の届かない所へ行ってしまったような不安さえ感

じられて、たまらなくかなしくなってくる。すると、ふっとまた、夫の両親の方に預けられ

ている、五歳になる女の子の顔が、重なるように浮かんできた。

 祖母の盲愛に甘え、「おばあちゃん。」と、泣くことよりほかに、母をよぶことすら知ら

ない不幸な子が、あそこにもいたのだ。あの子の方がまだひどい戦争犠牲者かも知れない。

あの子こそ、糸の切れた凧のように、私の手の届きそうもない所へ行ってしまおうとしてい

る。あの子のことで、いざこざも起きていると聞いている。でも今の私に、どうすることが

できるだろう。「私も生きなければならないんだ。」そう考えてくると、くっくっと泣けて

きた。私はこうして泣きながら、長い境内を歩いていた。

 どっちを眺めてみても、青空一つ見えやしない。この子どもたちと一緒に、手をとり合っ

て晴れた空を眺められるのは、いつの日のことだろう。「ああ、早く十年もすっとんじゃっ

てくれ。」と、私は苦しさのあまり叫んでいた。

 境内を出はずれると、もう泣いてもいられなかった。「元気を出せ、くよくよするな。」

と、自分で自分に言い聞かせてみた。すると不思議に、雲間から覗く太陽のように、三人の

子どもの顔が浮かんできた。

 夕べ一晩帰らなかった母の留守を守って、親なし鳥のように、一かたまりにかたまり合い

ながら、私を待っていてくれたことだろう。「そうだ、私にはまだあの三人の子どもがいた

っけ。」そう思うことで急に元気が出た。あの子どもたちだけでも、せめて人並みに幸福に

してやらねばならない。誰にもわらわれないように、立派に育ててやろう。そうしたら、ま

たあの三人の力で、このかわいそうな幼い二人も、少しは救われる時が来るかもしれない。

 私は、あたりの黒雲を払いのけるように、いっしょうけんめいで、戸倉にいる三人の子ど

もたちのことだけを考えながら、金井山駅への道を急いでいた。


           (『ながれ』第七集 一九五七年度版
               昭和三十二年十二月二十七日 戸倉小学校教養部発行所載)




病床日記抄


(編集中)

− 完 −

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編集:大野令治