次は令治宛のもの
大野 至嘉様方
令治様
毎日元気で學校へ行ってゐますか 寒くなって来ましたね.今こちらの山ではお茶
の花やさざんくわやびわの花ざかりです.お茶の花ハ丁度梅の花のようですさざん
くわのたくさん咲いてゐるのを見るとりんごかなしのはたけが花盛りのやうです.
先頃までさざんかのみを人々が取ってゐました.あつめて油をしぼるのです.びわ
の花は小さいのがかたまって咲きます.よいにほひがします.
(お茶の花がかいてある)
次は邦嘉宛のもの
大野 至嘉様方
邦嘉様
邦嘉サン毎日ヨクアソンデヰマスカ ゴヨウモヨクヤリマスカ.モウダイブサムク
ナリマシタネ モウ一月アマリデオ正月ガ来マス 八才ニナルト ヂキニ學校デス
ネ 字モオボヘマシタカ.オカンジョウモ.
支那ノ子供達ハ學校ヘモ行カレマセン 下ノヱハ赤ン坊ノノル車デス コレデユス
ッテ カタッテヰマス.丁ド ミチヒロデモ ノセルニハ ヨイクラヒデス ユタ
ボウヤ スマ子ヤ ミチヒロヲ ヨクカタッテオクレ
(赤ん坊を乗せた車のスケッチ)
次は穣宛のもの(上と下に絵がある)
大野 至嘉様方
穰 様
(支那の町のスケッチ)
ユタ坊ゲンキカネ 今年ハオカキガ タクサンナリマシタカ.コチラニモ柿ガアリ
マス.今ミカンヤ キンカンガ オイシソウナ色ヲシテ城内ニタクサンアリマス.
オ前達ニクレタラ ドンナニヨロコブダロウカトオモヒマス.
上ノヱハ オトウサンガ見タ支那ノアル町ノヱデス.リュウグウノヤウデスネ.下
ノハ支那ノオバアサンデス.コノヘンハ皆オカッパニシテヰマス.
(支那のお婆さんのスケッチ)
これが子供達への最後の便りとなる。入手したのが一月二日だったと記憶している。
正月五日夜(六日未明)戦死。
令治宛(紙をはがき大に切ったもの、鉛筆書き)
大野 至嘉様方
令治様
今日はお前のたんじょう日 元気で勉強してゐるかね うんどう會もゑんそくもす
んで こんどは お正月を待つばかりですね.お父さんも毎日元気でやってゐます
今日二ばんとまりで あるところへ用に行ってかへって来たよ よいお天気だ
一月あまりも降った雨が止んでほんとうに気持ちのよい日だ 赤とんぼもとび い
なごもぴちぴちはねてゐる先日は二十日ほどある仕事に行ってゐたがかへりに歸順
兵四十人あまりつれて帰ったので柏四六三三部隊長閣下よりお酒とおさかなをいた
だきました では又かきませう
付記
令治の誕生日は十一月十一日なので、これは昭和十九年十一月十一日に書いたもの。
多分これらの子ども達への葉書は、丁度年賀状のように一月一日と一月二日と引き
続いて配達されたように記憶している。次の至嘉宛のものも。
私が種々取り揃えて送ったのが一月四日、戦死一日前であったわけである。
それ以前に送ったものも着いた方が少ない位で、途中殆どどうかなってしまったら
しい。
戦争はそれ程苛烈であったらしい。
至嘉宛(紙をはがき大に切ったもの、黒ペン書きのもの)
大野 至嘉様
冬ごもりの用意に忙しい事と思ふ.健康で働いていて呉れると思ふが私も相変わら
ず丈夫だ 今年の稲作はどうだ こちらも永雨だったが相当にはとれたらしい.山
も色づいて来たが故郷で見る様な美しさは見られない.此の頃当宮澤部隊の歌が募
集され出来た 私の隊の将校の作ったのが一等さ それに私が曲をつけた.新嘗祭
に発表と言ふので各隊より二名程集めて練習をした.何れ又知らせる.少しの間便
り出来ぬかも知れぬ.少々送金する 軍需品をと思って居たが手に入らん.では又
よろしく
(食卓らしいスケッチ)
中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
大野 傳
付記
私宛への便りもこれが最後のもの。
子どもたちに何か買ってやるようにと、当時のお金で千四百四十円送って来る。
(当時中堅サラリーマンの月給七十五円位)
そしてそれ以来ずっと何のたよりなく、八月十四日、戦死の公報は入る。
参考までに「当時うちには貯金が二百円ニ十円あったのみ」