大野至嘉遺稿集

戦地からのたより覚書

大野 至嘉


目 次

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  大野傳について

  1.応召

  2.南京にて

  3.武漢より

  4.瀏陽進出

  5.最後のたより

  6.あとがき



戦地からのたよりへ

大野傳について

出征
大野傳1944年3月撮影の写真
 昭和十九年三月三日
 召集令状来る。
 三月七日
 未明 零時二十一分頃四男道弘生まれる。
 三月九日
 午後二時の下り列車にて、戸倉町の人々に見送られて戸倉駅を 発つ。令治ひとりだけ同行する。
その夜は南原泊り
 三月十日
 南原より村の人々に送られて、篠ノ井駅より松本五十連隊へ入隊す。
この日邦嘉と穣は、宮子叔母に連れられて戸倉より篠ノ井駅まで見送りに行く。

入隊途中列車内より、鉛筆の走り書きのハガキを、戸倉の家宛に出す。

1.応召

戸倉町仲町
  大野至嘉 様

今冠着トンネルの中だ.元一緒だった者が三人又一緒になって 実に当時の
事を思い出し又愉快だ.この汽車ではないがもう一人来ることになってゐる
この室の中に同じ様な者十人も居る
子供の名前矢張道弘がよからう、昨夜父とも話して見た.
御近所へよろしくたのむ.
お母さんにも宮ちやんにもよろしく
3.10
更級郡中津村
    大野  傳

これが先ず第一報  大野至嘉宛

  父上  様
出発に際しては色々御心配ありがとう御座いました.
種々おねがいや 御相談する暇さへない様な
慌ただしさで出かけて参りました.
何と言ひましても後に残された者は色々とご苦労
なわけですが一切おねがい致します.
今 嘗て御厄介になった安原町の局の辻さんのお宅に
居ります 今晩御世話になることになりました
大変御親切にして戴いております.
宿の方も先程見て来ました.下宿です これもすぐこの
すぢ向ひの様な所のもと大きな青物屋をやって居た
家で大体そこに致したいと思ひます 明日隊の方へ
行った向きでどうなるかわかりませんが若し下宿が
出来るとなると寝具を送って戴きたいのですが着物も一緒に
用意して置いて下さい.何れ送ってもらう様になりましたなら>
お知らせします.(送先は 松本市安原町八七一 辻 治門様 宛に)
手紙も何枚かは書きませんでした 戸倉の方へも言って
やって下さい.
御近所へ呉々もよろしく.
  三月十日
                  傳


  至嘉 殿

一.御守護袋 二階ノ机ノ抽出ニ縞ノ 袋ニアリ
一.ゴム長靴(新シイ方 戸棚ニアル物)
一.紙   ザラ紙.新改良.各二百枚位宛(二階ノモノ)
一.石鹸袋 何ニテモ良イカラ縫ッテモライタイ
一.手拭  洋手拭ニテモ何ニテモ可.二枚位(切符ナクテハ買入出来ザルニツキ)
一.定規  ロイドノモノニテモ可 物指ノ短キモノ見当ツイタラ共ニ
      定規ハ二階ノ廊下ニアル箱ノ中ニモアリ真直ナモノニテ可
一.ボタン 軍服ノ入ッテヰタ箱ノ中ニアル金ボタン全部
一.肩章      〃     夏服ニツケル大キナノ 箱ノ中ニアリ
一.名刺  二階ノ机ノ抽出ノ中ニアリ
一.手帳  使イカケノモノニテモ良イ 二階ノ本箱ノ上アタリニモアッタ様ニ思フ.
      階段ノ上ノ戸棚ニ小サイ日記ヲカク様ナ手帳アル筈
      見当ツイタラ此レモ入レテ
一.乗馬ズボン 配給ニナッタモノ
一.白布  名前ヲツケタリシタイカラ小サキモノニテ可
一.褌   出来タラ一ツデモ二ツデモ良イ.
一.洗濯石鹸 有ッタラ一ケデヨイカラ
一.マッチ 一ケニテモ良イ 尚宮本先生ヨリモラッタライター 火縄ノツイタモノ
              本箱ノ左ノ引出ニアッタト思ウガコレモアッタラ
一.射撃教範 多白色ノ表紙(黒色ノ小サイモノハ古イ)ノモノ 西ノ階段ノ上ノ箱ノ
  体操教範 多分淡黄檜色(    〃      )ノモノ 中ニ見当タッタラ

 右ヲ安原町ノ 辻治門様宛ニ送ッテ下サイ
                       大 野


当時物資不足は深刻
以上の品をとにかくまとめて、大至急送ると言っても手間取るので、多分十二日ごろ 宮ちゃんが松本までわざわざ持って行ってくれた筈

従って一番最後に会っている人は、宮ちゃんというわけ。

尚この時、宮ちゃんのだんなさん(中俣さん)は出征中だった。しばらく家へ泊って 手伝ってくれた。 これも十九年八月頃戦死

この後数日にして外地出征きまる。
中支より第一信が来たが、これはこまごま子供の養育上の注意など書いてあったが、 母が南原へもちかえり、それっきりになってしまった。
子供達のためにも残念に思う。

現在手もとに保管されている戦地よりの便り
だんだん色あせたり、鉛筆書きのものなどうすれて読めなくなりつつあるので、書き 残しておこうと思う。
日付がわからないので順序は適当に。(至嘉)

2.南京にて


長野県埴科郡戸倉町
   大野至嘉様方
   大野邦嘉様 
邦嘉サン ヨクアソンデヰルカネ.オカアサンノゴヨウ モ ヨクヤリマスカ
ニイチャン ノ イウコトヲ ヨクキイテ ユタボウ ヤ スマコ ヲ カワイガリ
ナサイ.ウチニハノ 白イモクレンガ サイタデセウネ オトウサンモ ウラノ
山デナク ウグイス ヲ キキマシタ.

絵ハガキ(写真に着色したもの)
  長江第一の要關下關碼頭(大南京美觀)
  Hsiakuan Wharf on the Yantze River(Nanking) 

第四四野戰郵便局気付
中支派遣柏四六三三部隊
  宮澤部隊宮下隊
      大野  傳


長野県埴科郡戸倉町
   大野至嘉様方
   大野 穰様 
穰坊ハオ母サン ノ イワレルコトヲ ヨクキキマスカ ナキマセンカ
ヱモヨクカケルヤウニ ナリマシタカ
シナノマチモ コンナニ ニギヤカデス マチニハ オカシヤ オマンヂウガ 
タクサンアッテ オクッテ ヤリタイヤウデス

絵ハガキ(着色写真)
  復舊せる夫子廟の賑わい(大南京美觀)
  Restored Confucius Temple(Nanking)

第四四野戰郵便局気付
中支派遣柏四六三三部隊
  宮澤部隊宮下隊
      大野  傳


長野縣埴科郡       ミンナ元氣カ 仲ガヨイカ.
戸倉町仲町        兄サンハ二年生 カラダヲ強クシ、
             ヨクベンキョウシナサイ.
   大野令治君     學校ヘモ行カレナイ支那ノ
    他一同      子ドモノコトヲ考ヘルト
             ホントウニ シアワセダヨ
             オ母サンノ言ハレルコトヲ
             ヨクキキナサイ.
             コノヱハ 一ショニヰル野澤
                          少尉サンノカイタモノデス
                          オ前タチモ上手ニカイテ
                          オクッテ下サイ.
〔裏面絵葉書〕      
山 道  野澤 武美   
 第八回美術新協展
    
第四十四野戦郵便局気付
中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
  大野 傳
* 編者注:この写しは次の一連の便りの後に有り、次のような付記がある。

令治宛にかいた
前のハガキよりこれの方が先に来たもの
一四四になる前のもの。もっと先に書きこむべきだった。


次のものは至嘉宛のふつうの葉書

長野縣埴科郡戸倉町
   大野至嘉様 
今教育終って隊に帰った お便り(五月十日)拝見 皆元気の由何より
私も元気だ 湯原先生よりも便りあり写眞ももらった
○○にて一寸急いで居る 近所へもよろしく
郵便局一四四に変更

第一四四野戰郵便局気付
中支派遣柏四六三三部隊
  宮澤部隊宮下隊
      大野  傳
井戸のまわりでとったしゃしんのことである。


3.武漢より

編者注:昭和19年5月中旬 武漢からと思われる.

長野縣埴科郡戸倉町                    
   大野至嘉様                    
其の後変わりなきや.令治を始め子供達皆元気か
道弘はどうか.もうかれこれ七十日になるが丈夫で大きくなっ
て居るか.私も長途の行軍も非常に元気だった.途中思
ひがけなく知っておる者に逢った.当地は田植えも大分済み蛍
が飛び日中は随分の暑さだ 蚊と暑さで寝られない様な
夜もある.家の方もそろそろ春蚕の掃立てと思ふ 二ケ月も
新聞を見ないので 世の中の事は殆どわからない.家の様子
を知らせて呉れ 子供達と写眞を撮って送って呉れ 学校
方面も相当変動があったらう 新聞の様なものも見たい
二三日前内地よりの便りを受け取った 町長さんと北村校長
先生外二三子供から.家からのがないで もの足りなかった.
暑さに向かふ 軆に注意し子供に注意して呉れ 荷物
の都合で はがきがない 南原や近所へよろしく.(気付局変更)

第一四四野戰郵便局気付
中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
    大野 傳
                  
上は至嘉宛のはがき
 はがき大にきったボール紙に細々としたためてある。
 写真を撮って送ったが、この後転属転属で遂に当人の手にはわたらずじまいだった
  らしい。
 六月十九日撮影のもの。

*編者注:上の行軍は南京から武漢へのもの。途中で会った知人が至嘉宛に出
  して下さったハガキを以下に付す。
 日付と部隊の秘匿名称から、父の行軍径路・日程がわかった貴重なハガキである。

〔戦友からの便り〕
長野県埴科郡戸倉町仲町
   大野 至嘉 様

拝啓初夏の侯となりました 貴女様には御健勝にて銃後職域に御邁進の事と存じます
尚御主人様御不在にて何かと御苦労様の事と存じます 
御主人傳様には元気旺盛にて 永い間の行軍にも疲労の色も見えず通過致されました
ご安心下さい 私の居る処にて一泊されまして 郷里の話や将校団の話を致しまして
なつかしくございました お立ちになる日は朝から降雨でありましたから御難儀遊ば
された事と存じます 先ずは取り敢えず御一報迄申し上げます        敬具

中支派遣肇第七三五四部隊岡田隊 相澤彦之助
 四月二十三日


長野縣埴科郡戸倉町仲町
   大野 穰様
ユタボウ マイニチヨクアソンデヰルカネ.スマ子チャン
ハ ゲタガハケルカネ.ミチヒロチャント ミンナナカヨク
シナサイ.「ハイ」ト オヘンジモヨクシマスカ.   
兵タイサンハ オヘンジガヨイデス.コノゴロエンゲイカイ
ガアリマシタ.オヒゲノ一トウ兵サンガ ウスグライローソクノ
ソバデ ヨイコヱデ ウタヲウタヒマシタ(御便落手皆元気の由
                    安心した 私も元気)
表は崑山の絵ハガキ
 崑 山        南 薫造 筆

第一四四野戰郵便局気付
中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
    大野 傳

この便りをもらった穣は大へん喜んだものだが、終わりの方の
  オヒゲノ一トウ兵サンが ウスグライローソクノソバデ・・・・
のくんだりへ来ると とたんにベソをかいたような顔をするので みんなによく
からかわれたものでした。


長野縣埴科郡戸倉町仲町
   大野邦嘉様マイニチ ユタボウヤ スマ子チャント ヨクアソンデヰマ
スカ.オ母サンノ ゴヨウモヨクヤルト 兄チャンノ
テガミニ カイテアリマシタ
オ父サンモ ゲンキデヰルヨ コチラデハ イマ キウリ
ガ タクサン ナッテヰマス コチラノキウリハ 白イヤウナ
ウスイキミドリイロデ ウマイデス.
〔裏面絵葉書〕

 船艙内の演藝會を覗く    南 薫造 筆
                        〔発信地は先に同じ〕


長野縣埴科郡戸倉町仲町
   大野令治様 
元氣でよくべんきゃうして居るかね.おまへの手紙もこのごろとどきました.
ひらがなもよくかけ ゑもよくかけました.ほかの兵隊さんにもみせました.
今こちらは田うゑもすみ ほたるがたくさんとんでゐます.戸倉や五加の  
ほたるのやうに ながく光るのはゐません.
お母さんのいわれることをよくきいて おとうとやいもうとを かわいがって
やりなさい.
 表は杭州西湖の絵ハガキ
 杭州西湖   南 薫造 筆           〔発信地は先に同じ〕


4.瀏陽進出


編者注:昭和19年8月末〜9月初 瀏陽からと思われる.

長野縣埴科郡戸倉町               
   大野至嘉様                   

皆元気か 私も元気でやってゐる お盆もすぎ暑さも峠を越えたようだが仲々暑い
蚊や蠅が多い 蚊帳も十一月頃迄要るとの事だ
春の収穫はどうだっただらうか 今頃は野菜や果物が出きかかるころと思うがすゐ
みつ桃を思い出す.庭の葡萄はどうかな 今年もなったか.こちらにも茄子や南瓜
があり食べてゐる もろこしも大分食べた 澤山あって子供を思い出す
甘薯や落花生ももう少ししたら取れる 時折は兵隊がふかして呉れる.砂糖きびの
畑があったり庭に枇杷の木や「ぽんかん」か「ざぼん」か知らないが夏みかんを大
きくした様なのがごろごろぶらさがってゐるなど異風景だ 子供達も随分変わった
事と思ふ 殊に須磨子や道弘は大きくなった事だろう
包雄や中俣の妹の方へもあれ以来一度も通信して居ない 今出そうと思ってみたが
お前よりの手紙や包雄よりの端書を荷作りして送ったので未だ手に入らず 住所を
忘失してしまった たかをや宮子様も子供が生まれた事と思うが元気だろうな
どんな事があっても戰に負けてはならない 国内に敵を上陸させては駄目だ 支那
も住民が気の毒だ 殊に小さい子供を抱へた母親達は子供を連れて戰火をくぐりぬ
けて逃げ惑っている 戦場を見る時何も内地に不平はない筈だ
健康に注意して子供たちを元気に丈夫に育ててくれ(南原のお隣へはこれと一緒に
お悔みを出して置いた)
包雄 宮子様 尼崎の住所を知らせて呉れ

ミンナゲンキカネ ワタシモゲンキデス
オカアサンノ イフコトヲヨクキイテ 
ニイサンタチハ オトウトヤ イモウトヲ
カワイガッテ ヤリナサイ
スヰミツトウヤ ブダウヲ マイニチタベテ
ヰルコトトオモヒマス 
コチラニハ スヰミツモ ブドウモ アマリ見マセン
ミカンヤ 大キナ ザボンガ タクサン アリマス
クリモ スコシアリマス ナシモ イマウリアルイテヰマス
ミンナ カラダニ キヲツケナサイ マタカキマス
コノヱハ キタノ方ノ 支那ノヱデス

第一五五野戰郵便局気付〔この欄は墨で消してある〕
中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
    大野 傳

・ いつも少しの紙面に細々と書いて来る。
  思うは子供のこと、本当に子ぼんのうの父親であった。
・ 文中の子ども生まれたかというのは 大野隆、中俣文子のことである。
*編者注:2人とも既に亡い。隆は事故死、文子は病死。

参考までに
 この時、令治は戸倉小学校二年生、邦嘉は来年入学


長野縣埴科郡戸倉町
   大野至嘉様
(はがき不足に付き内地の繪ハガキでもよい 送って呉れ)
野菊やつゆ草が咲き乱れ稲田の面を吹く風が全身にすがすがしく浸み込む 
変わりは無いか 皆元気の事と思ふが邦嘉や穰の誕生もお祝いできたかな 
遙に想い浮かべて居た 作戦の関係で内地の便りにも久しく接しないが  
丸半年の間にも随分の変わり様だと思ふ お父様やお母様も丈夫で居られる
だらうな 私も相変わらず元気だ 食事が甘味い 時折に町へ食ひに出る事も
あるが物価は相当なものだ 一杯五十円の支那そばでは度々といふ譯にも行かぬ
煙草の好きな者等は相当辛手の様だ 支那の戦地へ来て塩の尊さがつくづく
わかった 住民達も之れに苦心している 塩と薬によって政治も解決出来る
位のものだ 此の頃萬年筆をどこかへ失くして不自由だ 送れるものなら 
送って呉れ 代用ペンの物でも結構だ鉛筆二三本と胡麻塩 でもいつ着くか
わからぬが.家もよろしく

以上は至嘉宛のはがき、鉛筆にてぎっしり書いてある。
尚その上に行間へ、わかるように今度はペンで

 この便りを書いたところへ内地よりの便り五通あり何れも五月のものなり
 家よりのものはなかったが七月以来にて嬉しかった 送ってもらひたい物
 一つ付け加えてほしい 小刀(肥後守式なもの)をたのむ 日用品として
 役場の証明があると送れるとか聞いてゐる 何れも着くどうか 又いつに
 なるかわからぬがたのむ
 六月六日までの新聞を見た.

中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
    大野 傳
(今度野戰郵便局名を記入せずにて可)

後書
これもその通り、送っても遂に届かなかったらしい。何しろ動きつづけている部隊
に、いくら送っても後を追っている中に紛失とか。

三枚つづきのはがき(ハガキ大に切った紙の代用品)
編者注:昭和19年11月初旬 瀏陽からと思われる.

  大野 至嘉様                   

皆元気でいるか.新聞やお便りやおもしろい画を澤山ありがとう.皆よくかけてゐ
る.
ゆた坊の電車も仲々おもしろい.兵隊さん達にも見てもらったよ.ゑはがきを送り
たいのだがこのへんにはないのだ.漸くはがきになる様な紙を城内で見つけたのだ.
十月にはこちらは毎日雨降りだった.雨の降らなかった日が二三日あったのみだ.
十一月に入ってもまだ止まぬ.丁度二回目の収穫期になって居るのだがこう降られ
てはやり切れぬ.二三センチ芽が出て居るのもある.農民達は雨の晴れ間を見ては
刈ってはたたき刈ってはたたきして居る.川も随分増水した.舟運は大分良くなっ
たと思うが道路の方は切角造っても思うように利用出来ない.

田植ゑが済んだと云ふ便りを十月受取ったのだが塩田ではどうかな.亡くなられた
だろうか.幾回もの大病みだからね.宮坂先生はどうか.たかをは元気かな 子供
は男か女か.何と言ふ名前をつけたらう.内の親類でも兵隊さんが澤山の様だね.
便りがあったら部隊を知らせてくれ.道弘も八ヵ月 大分大きくなった事だろうな.
穰はどうなった 水痘だったのか.後にかたが残らなかったか.運動會には邦嘉も
旗拾いに出たか皆で見に行った事と思ふが.兄ちゃんも元気にやったかな.支那に
はあんなに廣い運動場をもった學校はまだ見た事がない.最も今我々の居るところ
では学校は休んでいるが.子供達は気のどくなものだ.

★大室から文哉(弟)、そして光男(兄)と、博行(弟)に引き続いて出征して行
  った。

新聞は大分楽しんだ仲間の者も.六月のもので丁度我々のやった事を全般的に見た
様なものだ.始終と言ふわけにも行かぬ時折でよいから送れる時に送って呉れ.物
價は相変わらず高い.岩塩一斤八百円迄したのだから.シャツのボタン一ケ五円−
二十円 鉛筆一本四十円−八十円 それに比べるとそば一杯五十円は安い方かも知
れん.もっとも儲備券だが(儲備一〇〇円−日本円一八円の率) 支那では塩は実
に尊い.それを思へば一斤五銭や十銭で買へる内地ではほんとうに有難いと思はな
くてはならないよ.
時折入る報道によると台湾沖に比島に容易ならない決戰が続けられて居る様だが内
地も仲々の事と思ふ.皆が兎に角達者で全力を盡してやる事だ毎日御苦労だが充分
軆に注意してやって呉れ.俺はいつも健康で居るよ.

5.最後の便り


次は令治宛のもの
  大野 至嘉様方
     令治様 

毎日元気で學校へ行ってゐますか 寒くなって来ましたね.今こちらの山ではお茶
の花やさざんくわやびわの花ざかりです.お茶の花ハ丁度梅の花のようですさざん
くわのたくさん咲いてゐるのを見るとりんごかなしのはたけが花盛りのやうです.
先頃までさざんかのみを人々が取ってゐました.あつめて油をしぼるのです.びわ
の花は小さいのがかたまって咲きます.よいにほひがします.
                        (お茶の花がかいてある)

次は邦嘉宛のもの
  大野 至嘉様方
     邦嘉様 

邦嘉サン毎日ヨクアソンデヰマスカ ゴヨウモヨクヤリマスカ.モウダイブサムク
ナリマシタネ モウ一月アマリデオ正月ガ来マス 八才ニナルト ヂキニ學校デス
ネ 字モオボヘマシタカ.オカンジョウモ.
支那ノ子供達ハ學校ヘモ行カレマセン 下ノヱハ赤ン坊ノノル車デス コレデユス
ッテ カタッテヰマス.丁ド ミチヒロデモ ノセルニハ ヨイクラヒデス ユタ
ボウヤ スマ子ヤ ミチヒロヲ ヨクカタッテオクレ
                      (赤ん坊を乗せた車のスケッチ)

次は穣宛のもの(上と下に絵がある)
  大野 至嘉様方
     穰 様 

             (支那の町のスケッチ)
ユタ坊ゲンキカネ 今年ハオカキガ タクサンナリマシタカ.コチラニモ柿ガアリ
マス.今ミカンヤ キンカンガ オイシソウナ色ヲシテ城内ニタクサンアリマス.
オ前達ニクレタラ ドンナニヨロコブダロウカトオモヒマス.
上ノヱハ オトウサンガ見タ支那ノアル町ノヱデス.リュウグウノヤウデスネ.下
ノハ支那ノオバアサンデス.コノヘンハ皆オカッパニシテヰマス.
                       (支那のお婆さんのスケッチ)
                         

これが子供達への最後の便りとなる。入手したのが一月二日だったと記憶している。
正月五日夜(六日未明)戦死。

令治宛(紙をはがき大に切ったもの、鉛筆書き)

  大野 至嘉様方
     令治様 
今日はお前のたんじょう日 元気で勉強してゐるかね うんどう會もゑんそくもす
んで こんどは お正月を待つばかりですね.お父さんも毎日元気でやってゐます
今日二ばんとまりで あるところへ用に行ってかへって来たよ よいお天気だ
一月あまりも降った雨が止んでほんとうに気持ちのよい日だ 赤とんぼもとび い
なごもぴちぴちはねてゐる先日は二十日ほどある仕事に行ってゐたがかへりに歸順
兵四十人あまりつれて帰ったので柏四六三三部隊長閣下よりお酒とおさかなをいた
だきました では又かきませう

付記
令治の誕生日は十一月十一日なので、これは昭和十九年十一月十一日に書いたもの。
多分これらの子ども達への葉書は、丁度年賀状のように一月一日と一月二日と引き
続いて配達されたように記憶している。次の至嘉宛のものも。

私が種々取り揃えて送ったのが一月四日、戦死一日前であったわけである。
それ以前に送ったものも着いた方が少ない位で、途中殆どどうかなってしまったら
しい。
戦争はそれ程苛烈であったらしい。

至嘉宛(紙をはがき大に切ったもの、黒ペン書きのもの)

  大野 至嘉様
冬ごもりの用意に忙しい事と思ふ.健康で働いていて呉れると思ふが私も相変わら
ず丈夫だ 今年の稲作はどうだ こちらも永雨だったが相当にはとれたらしい.山
も色づいて来たが故郷で見る様な美しさは見られない.此の頃当宮澤部隊の歌が募
集され出来た 私の隊の将校の作ったのが一等さ それに私が曲をつけた.新嘗祭
に発表と言ふので各隊より二名程集めて練習をした.何れ又知らせる.少しの間便
り出来ぬかも知れぬ.少々送金する 軍需品をと思って居たが手に入らん.では又
よろしく
                       (食卓らしいスケッチ)

中支派遣柏第四六三三部隊
宮澤部隊宮下隊
    大野 傳

付記
私宛への便りもこれが最後のもの。
子どもたちに何か買ってやるようにと、当時のお金で千四百四十円送って来る。
(当時中堅サラリーマンの月給七十五円位)
そしてそれ以来ずっと何のたよりなく、八月十四日、戦死の公報は入る。
参考までに「当時うちには貯金が二百円ニ十円あったのみ」

6.あとがき


戦死公報(というより死亡報告書)

長聨留歿第一四六八號
             死亡報告書
本籍 長野縣更級郡中津村大字原九一番地
   戸主   大野  傳
右 昭和二十年一月六日午前七時〇分 中支方面ニ於テ戦死ス
   右 報告候 也
   昭和二十年八月十日
   長野聨隊区司令官  原田 久男
  中津村長殿

 右証明ハ相違ナキ事ヲ証明ス
 昭和二十年十二月十七日 中津村長 飯島亜三郎(印)

★ 戦死公報は昭和二十年八月十四日、南原の父母が受取った筈。
   多分終戦前日ともなれば、唯単なる紙切れだったことと思う。
  右のものは後で来た証明書らしい。

出征当時(昭和十九年三月)
  長男 令治  七歳四ヶ月
  次男 邦嘉  五歳六ヶ月
  参男 穣   三歳六ヶ月
  長女 須磨子 一歳五ヶ月
  四男 道弘  生後三日目

戦死場所並びに戦死状況
作戦命令ニ依リ
支那軍攻撃ノタメ戦闘行動中、昭和二十年一月六日中華民国湖南省祁陽縣潘家舗ニ
於イテ敵弾ヲ腹部ニ受け同日十時壮烈ナル御戦死ヲ遂げラレマシタ。

右は詳細が何もわからないので問合せたものの返事である。
所属部隊より詳細な通報が御座いませんので的確では御座いませんが、現在迄に当
部に入手致しました状況によりますと・・・とあった。

敗戦のどさくさで何も彼もが、はっきりしないままに過ぎて行く。
一月六日未明戦死がほんとうらしい。

編者注
上記の縣当局からの返事の全文を以下に示す。

〔長野県当局からの便り〕(母の問い合わせに対する返信と思われる)

冠省
御芳書拝見 一家ノ主柱タル御主人戦死後ハ 遺児ヲ抱ヘ此ノ物価高ノ社会ニ生キ
テ行ク御心労御同情ノ外御座ヒマセン
御申越ノ件 左記ノ如ク御回答申上マス

一、戦死状況ニ就テ
 所属部隊ヨリ詳細ナ通報ガ御座ヒマセンノデ 的確デハ御座ヒマセンガ現在迄ニ
 当部ニ入手致シマシタ状況ニ依リマスト 御主人ハ作戦命令ニ依リ支那軍攻撃ノ
 タメ戦闘行動中 昭和二十年一月六日 中華民国湖南省祁陽縣潘家舗ニ於テ 敵
 弾ヲ腹部ニ受ケ同日 十時壮烈ナル御戦死ヲ遂ゲラレマシタ。
二、就職斡旋ニ就テ
 誠ニ申上ニクイ事デ御座ヒマスガ 役場又ハ最寄ノ勤労署ニ御連絡ノ上 善処方
 御依頼致シテ頂キタク存ジマス。
三、生計援護ニ就テ
 御無理ナス必要ハ御座ヒマセンカラ 御遠慮ナク村ノ援護主任ニ御申出テ処置シ
 テ頂ヒテ下サイ 当係モ戦友的立場ニ於テ側面的御援助致ス事ニ就テハヤブサカ
 デ御座ヒマセン。
      
御心中ヲ御察シ致シマス
気候不順ノ折リ折角御自愛ノ程
                                   不備

 三月十六日   長野地方世話部援護係
大野至嘉殿

合同葬儀
 昭和二十年十月十四日午後一時より昭和小学校講堂に於いて行われる。
(編者注:母の記憶違いで、実際は昭和二十一年)
それに先立ち同日午前十時遺骨を長野市に設けられた(城山)(今の蔵春閣?)
長野地方世話部援護係までもらいに行く。

人の悲しみごととは、なんのかかわりもないようなすっきり晴れた日で、秋とんぼが
平和そうにとんでいるのが印象的だった。私は型ばかりの白い遺骨箱を抱いて、黙々
として歩いていた。

合同葬儀の会場写真
顕忠院直入義傳居士 戦死当時の階級 陸軍中尉 年齢  三十六歳 戦死当時の子供年齢  令治   八歳二ヶ月  邦嘉   六歳四ヶ月  穣    四歳四ヶ月  須磨子  二歳三ヶ月  道弘   生後十ヶ月 叙位叙勲 叙位叙勲発表    四十二年十二月二十三日 〃 〃 通知    四十三年五月二十一日 〃 〃 伝達     〃  五月三十一日           贈従七位           勲六等 旭日賞 を受取る。 ★ 戦死して二十四年目であった。 せめて母が生きている中だったら、どんなによかったろうと思う。 参考資料(編者追加、一部重複) 〔戦友からの便り〕その一 長野県埴科郡戸倉町仲町    大野 至嘉 様 拝啓初夏の侯となりました 貴女様には御健勝にて銃後職域に御邁進の事と存じます 尚御主人様御不在にて何かと御苦労様の事と存じます  御主人傳様には元気旺盛にて 永い間の行軍にも疲労の色も見えず通過致されました ご安心下さい 私の居る処にて一泊されまして 郷里の話や将校団の話を致しまして なつかしくございました お立ちになる日は朝から降雨でありましたから御難儀遊ば された事と存じます 先ずは取り敢えず御一報迄申し上げます        敬具 中支派遣肇第七三五四部隊岡田隊 相澤彦之助  四月二十三日 〔戦友からの便り〕その二 長野縣埴科郡 杭瀬下小學校    大野  傳 様                  ・・・・・・・・                             ・記念スタンプ・ お元気ですか                      ・・・・・・・・ 第二次動員で兄も出動したのか不明です.        遼陽駅 昭和12.8.31 私達は大連に滞在中なりしも三十日出發 昨夜山海関 を通過して北支に入りました. 私達の部隊は小銃も少ないので何だか不安です.     山海関站 昭和12.9.1 まあ大いに頑張りたいと思っております.         では又                               □巫閭山之図  9.2                       □徳 北支派遣軍武藤部隊道家隊                4 9.1       塚原 忍

祁陽県潘家舗(編者追記 2002年7月15日) 父の戦死地と伝えられるこの場所を長年探していたが、先日遂に確認することができた。 去る7月3日、弟穣と恵比寿の防衛研究所を訪問、同所図書館に保管されている10万 分の一地図を見せて頂いた結果である。 一昨年上海の楊明炯さんに調べて頂いた潘家埠と同じ場所と思われる。 当日適切なアドバイスをして下さった同所戦史部菊田主任研究官と、楊さんに深く感謝 申し上げます。
おわり

戦地からのたよりへ


編集:大野令治