戦後五十年の起点
昭和19年11月11日
「今日はお前のたんじょう日 元氣で勉強し
てゐるかね うんどう會もゑんそくもすんで
こんどはお正月を待つばかりですね お父さ
んも毎日元氣でやってゐます 今日は二ばん
とまりで あるところへ用に行ってかへって
来たよ よいお天氣だ 一月あまりも降った
雨が止んで ほんとうに氣持ちのよい日だ
赤とんぼもとび いなごもぴちぴち はねて
いる 先月は二十日ほどある仕事に行ってゐ
たが かへりに歸順兵四十人あまり つれ帰
ったので 柏四六三三部隊長閣下より お酒
とおさかなをいただきました では又かきま
せう」(原文のまま)
これは、父が中国の戦場から出した最後の便りで、翌昭和二十年の初頭に
届いたと思う。
この年の記憶は、以下の三日間だけが鮮明である。
8月13日
長野市が空襲された。二十キロほど南方の戸倉町でも敵の戦闘機が数機、山
頂を掠めて北方へ向かうのが見えた。町中緊張し消防団が昼夜警戒に当たった。
8月14日
昼前、父戦死の公報が届いた。夕方の汽車で、母は私以下五人の子供を連れ、
実家のあった中津村に行き、祖父母と合流した。
8月15日
昼、玉音放送を聴いた。子供には理解できなかったが、大人達が戦争は終わ
ったと言った。皆ほっとした。
あれから五十年、私は平和で幸せに過ごすことができた。しかし、あの無謀
な戦争の犠牲になった人々のことは、いつまでも忘れないようにしたいと思う。
因みに今世紀中戦争で殺された人の数は、すでに一億五千万人を超え、いま
も増え続けている。
戦地からのたより
終戦の日に寄せる
皆様はご自分の過去を振り返り、明確に何が起き何をしたか憶えている日が、
どのくらいありますか? 私の場合、それは昭和20年と昭和70年(平成7年)
それぞれの8月13日〜15日です。
お盆にご先祖さまは、位牌を守る長男のところを訪ねて来るのだそうです。
だから長男はお盆に家を空けられません。
ところが戦後五十年、平成7年8月12日、長男である私は家内とJALで
成田を発ちました。行き先はスイスで、ご先祖さまにも一緒に行ってもらう
ことにしたのです。
乗り換えたスイス航空機がアムステルダムの空港を飛び立ったのが午後9時
その約10分後に美しい日没となりました。そして10時過ぎ、すこし雨模様の
チューリッヒ着、アトランティス・シェラトンホテルに投宿しました。
8月13日
・昭和20年
故郷の長野市が米軍機に空襲された。鹿島灘沖から飛来した艦載機の銃撃や
焼夷弾で周囲の松代、篠の井地区を含め50人くらいの死者が出た。
当時私どもが住んでいた戸倉の町も一日中緊張し、消防団が昼夜警戒に当た
った。
夏の強い日差しに白く輝く敵機が数機、山頂をかすめて飛び去るのを見た。
・昭和70年(平成7年)
朝、バスで雨のチューリッヒを発った。道沿いに見えるチューリッヒ湖もけ
ぶっていた。「ハイジの村」を経て、クールから「氷河特急」に乗る。
夏にしては冷たい雨の中に、教会の高い塔を囲んでひっそり佇む村々を眺め
貧しかった時代のこの地の冬の過酷さを思い、ふと神というものを感じた。
無神論者とは、よほど精神の強い人か、恵まれた人に違いない。
夕方まだ明るいうちに、小雨のツェルマットに着いた。自動車乗り入れ禁止
の町で、馬車と電気自動車が使われている。
駅近くの、ザイラーホテル・シュバイツァーホフに泊まった。
8月14日
・昭和20年
父戦死の報が入った。この日の昼近く、台所でおやつのキュウリを齧っていると
表に誰か来た気配がした。やがて母が狼狽して戻り「父ちゃんが死んでしまった
そうだよ、これからどうしようかねぇ--」と呟いている。軍国少年は言葉もなく
夢中でキュウリを齧り続けた。ここは母を励まさねばならぬ場面であった。
『二十四の瞳』の高峰秀子先生が、息子に父親の戦死を告げる場面とともに思い
出す。
夕方の汽車で母と5人の子供は、祖父母の住む父の実家に戻った。
・昭和70年(平成7年)
登山電車でゴルナグラートの展望台(3135m)に登った。雨は上がっていたが霧
が深く、マッターホルンは姿を現さなかった。
あきらめてレストランでコーヒーを飲んでいると、にわかにテラスが騒がしくな
った。飛び出して見て驚いた。一瞬霧が晴れ、目の前に左からモンテ・ローザ、
リスカム、カスター、ブライトホルンなど、いずれも4000mを超える巨峰のパノ
ラマが展がっている。思わず息を飲む壮大なスケールだった。
35mm程度の広角レンズにはまるで収まらない。これを一目見ただけで来た甲斐が
あったと思った。
間もなくこのパノラマは、再び霧の中に消えてしまった。
8月15日
・昭和20年
良い天気だった。正午、雑音の多い祖父の3球スーパーラジオで「玉音放送」を
聴いた。小3の私には全く意味が分からなかったが大人達は「戦争が終わった」
と言った。大人も子供もみんなほっとした。
「今の天子様は運の悪い方だ」と祖母が言った。彼女こそ昨日、最も頼りにして
いた息子の戦死を知らされたのだったが。
・昭和70年(平成7年)
朝、ロープウェイでクラインマッターホルン(3883m)に登った。良い天気だ。
眼前に鉄塊で造ったような巨大なピラミッドが現れた。マッターホルンである。
とうとう来た。昔、『アルプス登攀記』で読んだあの山が今、目の前にあった。
テオデュル峠からスケッチしたウインパーの絵に比べ、肩の辺りがが少し平板な
のは、ここがそれより高い位置だからであろう。200mm の望遠で引きつけると、
少し霧に巻かれた急峻な岸壁が迫ってきた。ロープが切れたのはどの辺りか。
不気味な美しい山だ。カメラ好きだった父ならどんな写真を撮っただろうか。
午後はホテルのテラスから、ツェルマットの祭のパレードを見物した。
五十年の歳月もさることながら、戦争と平和の落差は大きい。
あのような時代に生き、死んだ人達のことは永く忘れず、語り継ぎたいと思う。
スイスへの旅
東京裁判
東京裁判は勝者による報復裁判の性格が強く、戦後の日本の歴史観を大きくねじ曲げたこ
とが分かって来ました。
だが、だが、私が大いに疑問に思う事があります。
終戦時多くの軍人が自決しましたが、文官はともかくA級戦犯といわれるような超エリー
ト軍人たる将軍たちが、何故おめおめと「捕らわれ」の身となり、「報復」裁判を受け処
刑されたのか、ということです。
部下将兵には「生きて虜囚の辱めを受けず」と、強制したこれらの将軍たちこそ、真先に
自決すべきではなかったのか。
そうすれば東京裁判の様相は、全く違ったものとなったのではないでしょうか。
もちろんこれは暴論と思いますが、敢えてこんなことを言うのは、次のような史実もある
からです。
上海事変における、空閑昇(くがのぼる)少佐の自決
軍部は満州での新国家樹立工作から列強の目をそらすために、謀略によって上海事変を引
き起こした(板垣征四郎関東軍参謀からの依頼で、田中隆吉上海公使館付陸軍武官補佐官
が仕組んだ)。
1932年(昭和7年)2月20日の第一次総攻撃で、空閑大隊(金沢第七聯隊)は目標
を誤って江湾鎮の凹部にとりつき、中国軍の十字砲火を浴びて孤立、重傷の空閑大隊長を
残したまま23日退却した。空閑少佐は中国軍の捕虜となり南京に連行され、3月16日
上海の日本軍に送還されたが、28日江湾鎮の戦場跡におもむきピストルで自殺した。
時の陸軍大臣荒木貞夫大将は「俘虜となりたる者は死すべきものなりと考ふ」と語り、こ
れ以後、帝国軍人には勝利か死かのいずれしか途はなくなった。
節分の思い出
節分はどちらかと言えば子供向きの、豆まき中心のユーモラスな行事、と思って
きました。
それにしてもどの地方の風習だろうと、疑問に思っていたことがあります。
子供の頃、信州の私どもの家では、「鬼は外、福はうち」と豆をまく親父の後ろ
を、私と弟がすりこ木をふり回しながら「ゴモットモ ゴモットモ」と掛け声を
かけて家中ついて回りました。親父は大まじめ、こちらはおかしくて、おかしく
て腹を抱えながらついて歩いた懐かしい思い出ですが、このような風習はどこか
にあるのでしょうか。
親父は早く亡くなったし、その実家で祖父母たちはそんな風習を持っていなかっ
たようです。長野市の商人の娘であった陽気な曾祖母が伝えたのかな、などと推
測しております。
所感
1.戦争とジャーナリズム、そしてインターネットの効用
今世紀に入って最初の近代戦「日露戦争」をスクープし花形記者となったのは
旅順開城におけるG・H・モリソン(ロンドン・タイムズ北京特派員)と日本
海海戦の駒井権之助(デーリー・テレグラフ契約記者)だそうである。
その後駒井はロンドンに住みつき活躍したが、その容貌は日本人ばなれしてお
り、英国の新聞王ノースクリフとよく似ていたという。
ノースクリフは弟のハロルド・ハームズワースと「デーリー・メール」紙を創
刊、「タイムズ」を買収、英国の大衆新聞の時代を築いた。兄弟の努力で英国
最大の日刊紙となった「デーリー・メール」紙は大衆の感情に訴えて世論を組
織し、「タイムズ」紙は世論の名において政治を動かした。
アメリカでこのハームズワース兄弟に相当するのがジョーゼフ・ピューリッツ
ァーとウィリアム・ランド・ハーストである。
大衆紙が部数を増加させるには、大衆が望んでいるニュースをセンセーショナ
ルに提供し、大衆の感覚に訴える必要がある。
ハーストにいたっては、新聞はニュースをつたえるものでなく、ニュースをつ
くるものである、という信条のもとに米西戦争を「つくった」。
(大江志乃夫『壁の世紀』)
それを止めさせたり、客観性を求めることは、営業本位の現代のジャーナリズ
ムに対しては無理というものである。
「売れない」ニュースは、それが如何に重要なものであってもジャーナリズム
には取り上げられ難い。
このため、一般に今のようなジャーナリズムによっては、国民に望ましい世論
を形成させることや、必要な情報を普及させることは困難だ、と思わなければ
ならない。
しかし、人類の「知りたい」「知らせたい」という本能からみて、適当な環境
が提供されれば、営利をはなれたボランティアによる冷静・客観的情報の供給
も不可能とは思えない。そういう情報を求める層が、「イエローペーパー」に
踊らされる層より小さいとも思えない。
戦時中、新聞は踊っても田舎の「大衆」は案外冷静だったという印象がある。
そういう情報を供給しまた消費する環境として、有望なのがシニアとインター
ネットである。
シニアはあまり営利を追求する必要はないし、一般に豊かな経験、様々な能力、
冷静な判断力などを持ち、さらに生き甲斐を求めている。
一方、情報のメデアは大量コピーからネットワークへと移行しつつあり(富士
通アプリコが受託する富士通のコピー量はこの2年間で確実に半減した)、パ
ソコンの低価格化も依然進行中である。
「脱工業化社会」とはいかなるものか誰にも分からないが、「それは現在のア
メリカ社会だ」(佐和隆光)と言われる。トフラーは『第三の波』のなかで、
「プロシューマー」(生産者かつ消費者)や「エレクトロニック・コティジ」
(オフィス・イン・ホーム)という概念を打ち出したが、それが今アメリカ社
会で現実のものになりつつあると言えよう。
われわれシニアが客観的、冷静な情報をインターねとを通して発信し、世論作
りに一役買う可能性も出てきたのではあるまいか。
2.タカ派の跳梁、その危険性
第二次大戦が終わった直後、日本人は自分達の被害の大きさに呆然とし、自分
達が加害者でもあったことに気がつく余裕がなかった。
戦闘や爆撃などによる直接の死者だけで3百10万〜20万人、食糧や医療の
欠乏などによる間接的死者は、どのくらいあったのか見当もつかない。
台湾、樺太、朝鮮、満州などの「領土」や「植民地」を全て失わしめ、その他
莫大な物質的損害はどう見積もればよいのであろう。
あの戦争は日本民族に史上未曾有の、巨大な被害を与えた超重大犯罪である。
その責任はいかなるものであれ、日本人自身が追及すべきだが、未だに一億総
懺悔の域をあまり出ていないようにみえる。
加害者論議が行われるようになったのは、戦後の混乱がかなり落ち着いてから
だったと思われる。その推進役となったのは、どちらかと言えば戦後民主主義
派とか左翼系の人達が多かった。そのせいかソ連の崩壊後、俄にタカ派が反発
跳梁しはじめた。
江藤淳が占領時代を分析し、石原慎太郎がアメリカに噛みつき、小堀桂一郎が
東京裁判を批判し、我が敬愛する渡部昇一は謝罪外交を非難し、藤岡信勝が教
科書を論じ、という具合に一斉に左翼やヒューマニスト、リベラリスト、さら
には政府の「弱腰」を叩きはじめた。
確かに戦後の一時期、左翼系の人達は日本に共産主義革命が起こると信じてい
たふしがある。その時スターリン派に「粛清」されてはたまらない。アメリカ
の核実験は悪で、ソ連のそれは善、というような発言もせざるを得なかったで
あろう。
そういう「偏向」が矯正されることは大いに好ましいことである。しかしそこ
から一気に「改憲」「再軍備」へ飛躍するのはとんでもなく愚かな間違いだ。
しかし、タカ派に対する民主・リベラル陣営の抵抗はいかにも弱々しい。
大江健三郎は文化勲章を辞退し僅かに気を吐いたが、丸山真男、堀田善衛、久
野収は死に、加藤周一は老いた。後に誰が続くのか姿が見えない。
では、タカ派の論調がなぜ危険なのか。
先ず第一に、戦前と戦後の日本人は何も変わっていないからである。
いまの若者に愛国心が無いとか、国を守る気概がない、などというのは老人の
傲慢である。オリンピックやワールドカップですらあの騒ぎだ。愛国心のない
日本人など一人もいないと考えた方が間違いない。
一方で「イエローペーパー」など大衆マスコミは、大変な発達を遂げている。
第二に日本人は軍隊の本質を知らないのではないか、ということだ。私も長い
間、軍隊とは国家すなわち国民や国土を守るものだと思っていた。それは必ず
しも誤りではないが、軍隊の本質は国の権力者を守ることにある。
第二次大戦で日本軍は国民も国土も守らず、「国体」を守ることに執着した。
サダム・フセインはイスラエルにミサイルを打ち込んで挑発、自国民を危険に
晒し、金正日は国民を飢えさせて百万の軍隊を持つ。何のために?
英国には陸軍(年々)法(The Army Act) があり、これは空軍が設立
されたのち、一九二〇年に「陸軍及び空軍(年々)法」となり、空軍にも適用
された。
この法律は毎年三月か四月の特定の日までに議会で更新されなければならない。
そうでなければ法律は自動的に廃止となり、陸軍と空軍は自動的に解散される。
海軍の維持についてはこの種の法律はない。その理由は海軍はもっぱら外敵に
対するものであり、国内の軍事権力として国民の人権を抑圧する道具になりに
くいから、というのだそうである。(上記「壁の世紀」より)
今の日本人は、この一世紀前のイギリス人ほどにも成熟していないのである。
戦争と人間性
多くの「天声人語」の筆者の中でも、きっての名文家といわれたヒューマニスト、深代
惇郎は朝日新聞に連載された「世界名作の旅」の中で、パリのテュイルリー公園を訪ねま
した。
1914年夏のある夜、『チボー家のひとびと』のジャックはここにいました。ジェン
ニーに愛を告白してきた後でした。その数週間後に、第一次世界大戦が始まりました。
1914年7月31日、カフェー「クロワッサン」の店先で、反戦運動の社会主義者、
ジャン・ジョーレスが暗殺されました。小説ではジャックとジェンニーが、たまたまその
歴史的事件を目撃したことになっています。ジョーレスは即死し、二人が呆然と店を出る
と、いつの間にか、モンマントル通りのデモに巻き込まれていました。
若者たちが国旗を振り回し、怒号し、奔流のように通りにあふれかえりました。
「ドイツを倒せ!・・・カイゼルを倒せ!・・・ベルリンへ!・・・」
その翌日、8月1日午後4時半、総動員令を告げる寺院の陰気な鐘がパリの空に鳴り渡
り、すべてを一変させました。戦争反対の国際主義者たちは、魔術にかかったように、た
ちまち祖国を守る国家主義者に変身しました。
「祖国、正義、防衛」
フランスの若者も、ドイツの若者も、同じ合言葉を叫びながら戦場で殺し合う、そうし
た狂気のなかで、ジャックだけは変わりませんでした。同志と飛行機をやとい、アルザス
の戦場の上空から反戦のビラをまこうとする。だが飛行機は一枚のビラもまかず墜落し、
ジャックは重傷で口もきけぬままに射殺されました。
火のような弟に対し、水のように冷静で聡明で節度のある兄、アントワーヌにしても同
じことでした。ほんのわずかな毒ガスが、医者としてあらゆる未来が約束されていた彼を
殺し、すべてを無にしてしまいました。
作者マルタン・デュ・ガール自身、第一次大戦に駆り出されて辛酸を嘗め、多くの友を
失い、『戦争と平和』を十数回読み返し、二度とこのような大戦が起こらないよう祈りな
がらこの大作を書きました。しかしその願いは虚しく、この作品の完成をあざ笑うように
第二次大戦が勃発、彼はヒットラーのブラックリストに乗り逃避生活を余儀なくされまし
た。
深代はこのテュイルリー公園で一人のフランス青年画家と知り合いました。その青年は
アルジェリアで戦い、大勢の敵を殺し自分自身も心身に深い傷を負っていました。
「なぜ戦争が起きるのだろう。政治や社会がわるいのだろうか」という深代の問いに、
彼は吐き捨てるように「人間性の問題だ」と答えたそうです。
優れた官僚であり作家であった両角良彦氏は、1996年3月『私の履歴書』を、日経
に連載しました。その最後の日の頁に両角氏は次のように書いています。
「要するに人間は神々の系列ではなくて、動物の系列に属している。われわれの血の中
に眠っている殺戮集団の本能は、平和への呼びかけで鎮静できるようなひよわなものでは
ない。人類の誇りを傷つけるこの冷厳な事実を踏まえてこそ、平和を説く意味がある。
ところがJ・J・ルソーにはじまるヒューマニストたちは人間の性善説を盲信し、ロマ
ンチックな社会改造の虚構を飽きることなく説き続けた。・・・」
両角氏は動物と殺戮性を比喩的に結びつけたものでしょう。事実は、生まれつき大きな
牙や鋭いカギ爪を備えている動物は、たとえ血みどろの争いをしても、同種の相手を死に
いたらしめないための、絶対的歯止めをもっています。
一方人類は道具を使うようになってから、歯止めを無くし急に血なまぐさくなってきま
した。猿人アウストラロピテクスの最初の報告者であるR・ダートは、猿人たちのなかに
アゴが叩き割られたもの、有蹄類の大腿骨で頭部に一撃を受けて脳頭骨が陥没しているも
の、脳頭骨の一部が顔面にまでめり込んでいるものなどを発見しています。
ペキン原人をくわしく研究していたF・ワイデンライヒも、五体分の頭骨が鈍器のよう
なもので叩き割られ、こじ開けて脳をすくい出された痕跡を見出しました。
旧人類になると、ヨーロッパやアジアでも殺人例はもっと頻繁になり、しかも大量化し
てきます。つまり人類は進化するにつれて、この殺人という忌まわしい罪を減らしてきた
かというと、事態は全く逆で、いよいよ規模が大きくなってきたといえます。ドイツの著
名な人類学者H・ヴァイネルトは「殺人の痕跡があれば、そのサルはヒトと断定してもよ
い」と言い切りました。
殺人は人類の奥底から発する本性のようなものだ、ということなのでしょうか。
人類学者の長老であるS・ウォシバーン教授(シカゴ大学)、『狩りをするサル』の著
者R・アードレー、ノーベル賞を受けたK・ローレンツ、精神分析学の創始者S・フロイ
トらは、肉食は「殺し」を前提としなければならず、それは破壊本能や攻撃性という人類
の深層から発したものである、といいます。
ではなぜ、人類が人類を殺す以上に、もっと徹底した肉食であるはずの「ヘビがヘビを
殺し、ライオンがライオンを殺す」ようなことがみられないのか。
社会心理学者E・フロムは「人が人を殺す」のは、本能とか攻撃性などに根ざすのでは
なく、「理由づけ」によるものだといいます。理由も根拠もない殺人は、病的異常行為に
過ぎません。どの殺人ケースをみても、恨みや憎悪のような個人的理由から、思想・正義
・信仰などの社会的理由まで、実にいろいろな理由があり、その理由に基づいて殺人が行
われるというのです。
『人間性の起源と進化』(江原昭善 NHKブックス)によれば
(1) 人類の脳は、一つの脳の中にR複合体、周縁系、新皮質という、進化の段階に応じ
て生じた三個の脳が、三階建ての建造物のように共存している。
R複合体は脳幹など動物の生命維持の基本機能を司る部分、周縁系は爬虫類時代に発達
した怒り・恐怖・憎悪など感情を司る部分である。
(2) 大脳新皮質の急激な発達により、「人類は本能をなくしてしまった欠陥動物」にな
った。
自然にぴったり密着した身動きのとれない本能行動から、自らを解き放ち、自分の行動
を自分で決定する「自由」を手にしたときから、迷いと間違いも始まった。
神や仏に近い崇高な行動も可能だし、豚や犬や猫以下の行動も可能である。自らの分別
と判断で、姦淫し、盗み、虚言を弄し、他人をあやめることも可能になった。
(3) 一方直立二足歩行を完成させ、大きくなった脳中枢神経系を充実させるため、人類
の乳幼児期が長くなった。この幼児期の母親や周囲の大人たちへの絶対的な依存体験の
間に人類の心の奥底に、集団や社会への「帰属性」が育てられる。
人間が妄想や暗示やアジテーションにひっかかりやすい理由のひとつがここにある。
(4) 戦争は生物学的本性に根ざすというよりも、人類の本性に根ざしている。そして個
人的理由よりも、部族、王、国家、宗派、大義などの方に原因がある。
ひとたび軍旗がはためくと、分別は進軍ラッパのなかに飛び込んでしまい、催眠状態に
なってしまう。そして自分個人の利益はおろか、自分の命すら投げ出してしまう。
(5) スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼットは、すでに1930年代から今日を予測
し、21世紀には人間性とその確立を目指して、教育や芸術や宗教などの精神文化が重
要になるだろうと見通していた。
あとがき
葡萄美酒夜光杯 葡萄の美酒、夜光の杯
欲飲琵琶馬上催 飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す
酔臥沙場君莫笑 酔うて沙場に臥す、君笑うことなかれ
古来征戦幾人回 古来征戦、幾人かかえる
(王翰 「涼州詞」)
この詩を吟ずる度に、漢民族も昔から苦労してるなぁ、と同情を禁じ得ない。
涼という国は4〜5世紀、五胡十六国時代に興亡した前涼、後涼、南涼、西涼、
北涼であり、西域に接する地方である。しばしば異民族の侵入に脅かされ、その
制圧の途上で多くの戦死者が出たことであろう。
人類と戦争との付き合いは、一体いつになったら切れるのだろうか。
21世紀にはテロリズムという、これも古い形の争いが、俄に大きくクローズ
アップされてきた。
完