大野穣の手記

母 の 思 い 出


目 次

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  プロローグ

  母の涙

  そして東京へ

  上京後




プロローグ

昭和四十九年、暮れも押し迫ったあの時、体調が思わしくない母は、簡単な旅支度のまま、戸倉の町を後にした。春には元気になって戻ってくるつもりもあって、挨拶は両隣なりだけ。心配して頂いていた人達への連絡も叶わないままの、慌しくも簡単な旅立ちであった。
あの時、この状態では、寒くなるこの冬の独り住まいは無理であった。東京で病を治し、春暖かくなったら、また戻ればよいと思った。

上京後、検査入院してからは、ベッドで寝たままの生活を余儀なくされ、歩く事はもとより、立ち上がる事すら出来なくなってしまった。
このまま連れてきてしまって、果たして良かったのか、こんな事ならせめて戸倉の町を一回りゆっくり見せてやれればよかったと悔やまれた。あの体調では仕方なかったし、そこまで思いがまわらなかった。本格的な冬が訪れようとしていたあの時、少しでも早く連れ帰りたいと思った。来年暖かくなった頃にはまたきっと、戻ってこられると思った。

出立前、庭の土に戻した福寿草は翌年の春、主なき庭の片隅で、雪の中から顔を出して咲いてくれていた。流しの上の壁に出来た鼠穴に差し込み、留守を託したネズミサシの枝も、その後ずっと家が取り壊されるまで、鼠の侵入を拒み、家を守ってくれていた。
後日、これを見るたび母の病に、何故もっと早く手が打てなかったのか、孝養を尽くす事無く、逝かれてしまった空しさを思った。

平成九年十二月、四十年の風雪に耐え、多くの思い出を詰めたこの家も、取り壊され、その歴史を終えた。母がこよなく愛したこの町を訪れる足掛かりが、また一つ遠のいてしまった事も確かであった。
仲町に在った子供の頃から、半世紀以上にも及び関わってきた所であっただけに、その思いも多く、特別な感慨があった。
親しくして頂き、お世話になった人達、昔の町の佇まい、千曲川や大正橋が、そしてあの温泉街が、脳裏から離れることはない。今でも、国道を吹き抜けていくように走る、車の騒音すらも、懐かしく耳に残っている。

(戸倉の町に在った母が、体調不良のため、春になるまではと連れ出した当時を思い出して綴ったものである。上京した母は、五年後の昭和五十四年三月二十三日、六十八年の生涯を終えた。母の死後二十年後、当時の日記をもとに、この記録をパソコンにて改めて纏め直した。)

母の涙

寒さも厳しくなる故郷信州に独り暮らす母を、正月は東京で過ごしてもらおうと、迎え方々松本経由で戸倉に向かったのは、暮れも押し迫った十二月二十五日(昭和四十九年)のことであった。
先日の電話の話振りでも、体調は良さそうになかった。待っているからと電話は切れたが、様子が何となく気にかかった。所用も兼ねて車で伊那谷をまわり松本経由で、母の元へ出かけたのは、数日後の事であった。明科から麻績を経て聖高原へ。姨捨山から俯瞰する善光寺平、眼下に臨む光景は、ジングルベルの鐘の音も、都会の喧騒も届かないかのように静かに広がっていた。白く光る千曲川沿いに戸倉の町が望まれた。

クリスマス、年の瀬ともなれば何となく忙しいであろうが、母のいるはずの家は師走の忙しさも忘れ去られたかのように、ひっそりとしていた。
「ただいま!」
勇んで飛び込んだ部屋に、迎えに出ようと這いずりながら、泣き出した母の姿があった。食べ残した食器などが置きっぱなしのその部屋で、母は泣き崩れていた。立ち上がる事もままならならず、必死に病魔と戦いながら、不安と心細さに、独り耐え続けた緊張から解き放された瞬間でもあった。

タオルに声を籠もらせながら、どうしても立てなくなってしまったと、小刻みに震えての涙の訴え。
「えっ!こんなに悪かったの」
まさかの母の姿に、病の深刻さを感じた。肩に手を差し伸べて
「がんばれ おっかさん」

足が思うに任せず、こんな身体では何所も行けないと、嗚咽が漏れる。独り放って置いた事が悔やまれた。侘しさ心細さ、藁にもすがる思いの日々が、部屋のあちこちからも感じ取られ、胸の詰まる思いであった。
「車で来たから、そのまま乗っていけばいいから」

母は安堵したように頷いてみせた。日に日に悪くなっていく体、独り住まいの自信が消えた、不安の日々。それでも心配かけまいとする親心、様々に交錯する思いの中、いままでの緊張の糸が切れてしまった母の安堵振りは、分からないではなかった。
元気そうには振舞って見せたが、そういえば、いつもの母にしては弱気であったと、数日前の電話の事が思い出された。

うれし泣きに見せようと、涙を拭いて見上げた母の顔に、笑顔で応えたが、何所となく視点の定まらない虚ろな表情が見えたと思った。
明日は明日といつも楽天的に構え、どんなつらい時でも涙を流す事はなかった母の突然の涙に、戸惑い驚いたが、垣間見たこの表情に、病の進捗状況を思い知らされ、不安が脳裏を過ぎった。心が痛んだ。

この年は、夏頃から、調子が良くない日が多く、気にはしていたが、これ程までにすすんでいたとは、思いもよらなかった。
聞けば、最近は特に立ち眩みが酷く、近所の指圧と病院に、週に二回ぐらい通っていたと言う。それでも一向に良くならず、二日ばかり前から食事は隣の家からの差し入れであった。独り暮らしは慣れていたとはいえ、立ち上がれないまでに病が進んできては、その心細さは想像以上であったと思われる。気ままな独り暮らしも良かったが、この状態での越年はとても無理であった。 東京の病院で詳しく調べてもらい、元気になったら再び戻ってくればいいと、母も覚悟はしていたようでもあった。

虫歯の治療も丁度終り、数日後には、噛み合わせの確認をするのみとなっていた。不具合はなさそうだったので、このまま発っても、心配はなさそうであった。慌しい出立となったが、暖かくなる春には戻れるからと、安心もあって、気丈にも少しずつ立ち上がりながら、身の回りを整理し、支度をはじめた。

それでも両隣くらいは知らせねば、とそろりそろりとお礼方々、暖かくなるまでと挨拶回り。少しは歩けるまでに気持ちも回復、笑顔も戻ってきた。 部屋で大事に育てていた福寿草も、春までこのままでは気の毒と、別れを惜しみながら庭の片隅に下ろしてやった。

とりあえずの、持ち物類を揃え、ガス、電気、水道、戸締り等見て回り、最後に鼠が時々出るようになったと、台所の流しの上に出来た壁穴に、以前採ってきたと言うネズミサシの枝を詰め込み、留守を託した。これがこの家での母の最後の仕事となった。
住み慣れた戸倉の家をあとにする頃、どんよりとした冬の空が広がり始め、この町にも本格的な冬の訪れを告げるかのように、北風が吹き抜けていた。時々静かな師走の町を車の騒音が響いた。戸締りされひっそりとした家と、吹き抜ける木枯らしだけが、母の旅立ちを見送ってくれた。

そして東京へ

母を乗せ車は戸倉の町を後にした。後部座席には、積み込んだ布団に体を持たれかけ、過ぎ去る景観をじっと見据えている穏やかな母の姿があった。安堵と嬉しそうな表情であった。
千曲川もその向こうに望む冠着山(姨捨山)も住み慣れた町とともに遠ざかっていった。いつ戻れるだろうか、またいつこの景色に出会えるだろうか、遠ざかる故郷の山や川を、どんな思いで眺めていたことだろう。バックミラーに写る母の穏やかな中にも時たま見せる無表情さが、なぜか気に掛かった。

急な旅立ちの疲れや、緊張があったのだろう。そう言えば自分自身も昔、上京する時は、いつも不安と緊張があったことを思い出した。
昨夜は、松本で義母の心尽くしのケーキをご馳走になりながら、高血圧症のため、未だに薬と縁が切れず、長い病闘生活を続けている義父の奮戦振りを見、そして聞かされて来たばかりであった。高血圧に悩まされる者あれば、低血圧に泣かされる者が居て、人生様々をぼんやりと思った。そしてこの時が、義父との永久の別れとなってしまった。(翌一月六日、脳内出血にて死去、一二日目の事である。享年五十九才は早すぎた死であった)。

母のこの低血圧症は果たして良くなるのだろうか。立ち眩みが大学病院などの検査で原因が分かれば、良くなるであろう一縷の望みはあったが、血圧の病だけに、義父のように、長くなるかもしれないと云う気掛かりもあった。
様々な思いを胸に、時々振り返っては、母の体調を気にしながら車を走らせた。上田の町を後に小諸、そして浅間の山麓を視界に軽井沢にと差し掛かってきた。信州に別れを告げる峠付近で、母は小用を訴えた。国道十八号を外れ林の中に車を乗り入れ止めた。母より少し離れた場所に並んで「親子連れション」となる。用足し後も、母は暫くその場所に佇み、ちらほら降り始めた雪を気にすることもなく、辺りを見回していた。

きっと戻って来ると誓ったのか、ひょっとしたらがあって、生まれ育った信州の景色をしっかりと心に留めておきたかったのか。この林でどんな思いで信濃に別れを告げたのか、この時、母の脳裏を過ぎったのは何だったのか、知る由もなかった。母は再び、生きてこの峠を戻る事はなかった。

からまつの林をすぎて    からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。 たびゆくはさびしかりけり。

浅間嶺にけぶり立つ見ゆ、からまつのまたそのうへに。何故か、北原白秋のこの名高い「落葉松」が思い出された。
目に飛び込んできた脇道に続く林に、国道を外れ、入り込んで車を止めたそこが、からまつの林だったのか、白樺の林だったのか、雑木林だったのか、今となっては思い出す術もない。母が見納めとなった地であり、足跡を残した最後の信濃路と言う事になる。
再び母を乗せ車は、暮れなずむ碓氷峠を後に、一路東京にと向かった。  

上京後

上京した母は、ひとまず東久留米の次男宅の留守を預かる長女の所に、身を寄せた。検査のため富士通病院入院、そして再検査のため東大付属病院(北病棟)と転々とする事となる。が、一向に良くなる気配はなく、寝たままの状態が続いた。意識はしっかりしていたが、体の方は日に日に衰退していた。

検査の連日が続いたが、入院早々から医師たちは首を傾げた。母の病はやはり難病であった。歩く事はおろか、立ち上がる事も出来ず、治療方法は難しく、これといった打つべき手は見当たらなかった。

上京から四年四カ月近くの殆どが入院生活となり、この病院のベッドが、母の終の住処となってしまった。
四年目、富士通病院で、母は帰らぬ人となった。長男と長女がその最後を看取った。昭和五十四年三月二十三日のことである。享年六十八歳。
母は昔から低血圧症で悩まされていた。死因は、やはりこれに起因する、特殊な起立性低血圧症であった。

母の病はシャイ・ドレーガー症候群 この病は自律神経系の運動失調症で、立ち上がると急激な血圧低下で、立ち眩みや時には失神を伴う。
厚生省は「シャイ・ドレーガー症候群」を昭和六十年四月二十六日、二十七番目の特定疾患(難病)に指定。母の死後六年後の事である。

終り



編集:大野令治