この木はなに
この木はなに問ひし人も答へし人も亡く更紗どうだん
天城高原に私達の小さな家ができたのは、平成4年3月末のことだった。
あれからちょうど10年になる。
あの年の4月18日郷里で家内つや子の母が86歳で亡くなった。傷心の家内は暫くこの家に来なかった。だからあれは家が出来た次の年のことだったと思う。5月ころ、お天気のよい日、二人で山道を歩いて来ると、庭先で草むしりをしている老人があった。この地に常住しているという噂の西村さんである。庭にきれいな花の咲いている木があった。
感動した家内は西村さんに挨拶して「この花はなんですか」と尋ねた。
「サラサドウダン」というのが答えだった。初めて聞く名前なので何度か聞きなおした。「サラシャドウダン」とも聞こえた。家に着いて早速植物図鑑をしらべた。サラサドウダンというらしかった。「うちにも一本欲しいね」と話し合ったものである。
それから何年か後、この別荘地の管理センターが主催するハイキングで、西村さんと一緒になった。大仁城山から葛城山に登り三津浜に下りる、かなりきついコースだったが、西村老人は杖をつきながら歩き通した。そのときは84歳だった。一年の三分の一、天城高原に来ていると言った。練馬で染物屋をしていたそうだが、跡取息子さんが先に亡くなってしまったという話だった。いつも夕方6時ころ、鐘をたたいて読経しているわけがわかった。
西村さんは昨年91歳で亡くなり、今年4月5日家内が57歳で亡くなった。そして、私はまたひとりで、この天城高原の家に来ている。
家内を失ってからは、必然的に同じ境遇の人に関心が向く。いままで徳岡孝夫さんといえば「第三の波」の訳者でジャーナリスト、というくらいしか知らなかった。文芸春秋の八月号で、同氏の「我ら70歳、文句あっか!?」を読んだ。以下関連部分の抜粋・要約である。(文芸春秋2002年8月号より)
徳岡孝夫氏略歴
昭和5年生れ、3年後に妹、7年後に弟が生れる。
昭和12年 母と死別、以後43年父は独身を通す。
昭和28年 大学卒業 毎日新聞社に入社
昭和30年 結婚
昭和35年 長男 昭和38年 次男誕生
昭和55年 父と死別
昭和60年 定年退職
昭和61年 視力障害(脳下垂体腫瘍のため)
平成12年 妻と死別 独居 要支援者
「目は悪くなったが首から下は(特殊な一部分を除いて)健康の高原状態がここ20年ほど持続している。これで妻さえ死なずにいてくれたら、胸を張って『幸福だ』と言えたことだろう。妻に死なれたいま、その二文字は意味を持たなくなった。・・・・
予定通りなら、妻と二人で人生の長く美しい夕暮れを満喫するはずだった。庭の草取りをし、ときどき歌舞伎座に行って、帰りに銀座で何か旨い物を食べ・・・・・・。
淋しく独居して一年半、愚痴を言えばキリがないが、たった一つ重荷を下ろしたと感じることがある。自分が死んだあと妻が百まで生きても(遺族年金だけでなく)ときどき芝居を見に行けるようにしておかねばという責任感から開放されたことである。自分ひとりならどうにでもなる。・・・・
不惑負うて古希の峠を越えかねる 」
どこまでもユーモアを忘れない徳岡さんだが、いまの私の心に沁みる文章である。
高原の夕富士に祈る
高原の夕富士に祈る妻の冥福
7月27日久しぶりに天城高原に来たときの夕方、丸野平地区を散歩した。家内と一緒によく歩いたコースの一つである。富士山がよく見えるT字路があり、この日も富士の肩から上が美しかった。思わず祈った。
背が高かった家内の母は、娘が自分より大きくならなかったと、残念がっていたそうである。いまは娘が自分よりはるかに若くして亡くなったことを、どんなに悲しんでいることだろう。
家内が最後にこの天城高原の家に来たのは昨年の夏である。そして8月15日、私より一足先に帰って行った。前の日丸野平の山崎さんに誘われて、ハーヴェストクラブにハワイアンを聴きに行った時、ロビーで山崎さんに撮ってもらったのが、最後のツーショットとなった。
8月の終わりころから「疲れた」と言い始めた。浅はかな私は、それが死に至るような重大事になるとは、夢にも思わなかった。最近になって江藤淳さんの「妻と私」文庫版が出たのを見て、この老夫妻を襲った数年前の悲劇を思い出した。夫人に先立たれた江藤さんが、1年後に自殺した事件である。
「妻と私」を読み夫人の病気が脳腫瘍であったことを知り、家内の場合と非常によく似ていると思い同書から抜粋した。以下抜粋・要約である。
「妻と私」(平成11年7月 文芸春秋刊)
著者:江藤 淳(えとう・じゅん)
本名 江頭敦夫 昭和7年(1932年)12月25日生
平成11年(1999年)7月21日逝去 66歳
夫人(慶子さん)病気経過
平成9年12月20日(誕生日)身体の不調を訴え始める。松本楼(日比谷)で夕食後「右の頬がしびれているみたい」
後日歯科へ行ったが異常なし、耳鼻科で大きな病院へ行くよう勧められる。
平成10年2月16日 済生会神奈川県病院(横浜)で受診(MRI、CT)、肺から転移した脳腫瘍(末期がん)と診断される。告知しないと決意、夫人には脳内出血と告げる。
院長は夫人と慶応高校、慶応女子高時代からの友達。
平成10年2月18日 病状説明(肺に11箇所、脳に7箇所腫瘍であることを示す病変あり、顕著なものが延髄の上にあり、手術で取除くことができない。もう少し早く発見していればガンマ・メスで取除けたかもしれないが、ここまで来てしまうと後3ヶ月〜半年。)
平成10年2月18日〜23日 検査入院、その後暫く病状に変化なし。
平成10年5月20日頃 呼吸に変調、ステロイド剤を試用、効果あり。
平成10年5月22日 車を運転中交通事故を起こす。
平成10年5月25日〜6月10日 入院、脳の病変を窺わせる小事件あり。車の運転、犬の散歩を禁じられる。
平成10年6月15日 プールで泳いだら唇が紫色になり、顔も血の気が引いた。
平成10年7月22日 受診、右手に機能麻痺を確認。夕食の支度中油をこぼし発火。
平成10年7月23日 入院(2週間の予定)、早朝お手洗いに立ち、倒れ脳震盪を起こす。
平成10年8月4日および10日 外出を許され横浜東急ホテルで食事。以後外出したいと言わなくなった。
平成10年8月19日 付添婦を雇う。
平成10年9月 江藤氏の病院通い毎日となる。
平成10年9月17日 近親者に本当の病状を知らせるようにと、医者から勧告される。
平成10年10月2日 病状急変(全身の力が抜け、声に目だって力なくなる)。江藤氏横浜東急ホテル泊まりこみを決意す。この夜中、血圧低下・徐脈、1時間余りで正常に復す。
平成10年10月9日及び11日 病状悪く、江藤氏病室に泊まる。
平成10年10月13日 「息が止まりそう。もう駄目・・・」と訴える。モルヒネ投与開始。
平成10年10月15日 「もうなにもかも、みんな終わってしまった」と呟く。モルヒネ投与量増える。
平成10年10月23日 気分よく会話「ずい分いろいろな所へ行ったわね」「本当にそうだね、みんなそれぞれに面白かったね」
それから概ね、安らかな昏睡が続く。意識が戻ると末期癌特有の全身の苦痛が誘発され、モルヒネの投与量が次第に増加。
平成10年11月2日 産経新聞の原稿を書いて送り「書けたよ」と報告したら、満足そうに笑った。
平成10年11月4日 昏睡状態に陥ったと思われる。江藤氏も体に変調(尿が出ない)を来たす。
平成10年11月6日 院長より午後10時過ぎには臨終と告げられる。主治医は午前零時を越すかも知れないという。
平成10年11月7日 午前零時21分逝去 享年64
午前2時過ぎ、遺体が鎌倉の自宅に帰る。(入院して3ヶ月半)
同じ体験をした私には、手にとるようによく判る記述である。
家内の場合は昨年12月5日、私達の36回目の結婚記念日に入院、翌年1月悪性脳腫瘍と判明(告知せず)、入院から4ヶ月後の今年、平成14年4月5日午前零時3分に死去した。そして午前2時過ぎ、たまプラーザの自宅に帰った。
やまない雨はない
喪の悲しみを癒す(NHK福祉のページへ) 大野 令治
この番組を第1回、第2回続けて拝見いたしました。
倉嶋厚先生は私の高校(旧制中学)の先輩でいらっしゃいますが、この数年お見かけしないので不思議に思っておりました。
しかるに昨秋御著書「やまない雨はない」を拝読、奥様を亡くされご自身も病に倒れ、自殺を図るなど大変ご苦労なさったことを知り驚愕いたしました。
実は私も昨年4月妻(つや子、57歳)を亡くしました。脳腫瘍という診断でした。
この番組に一緒に出演されている相川充先生が、同じ境遇にありながら悲しみを抑え、冷静に悲しみの過程を分析して下さる姿に深く感銘を受けました。
お蔭さまで今私がどういう過程にあり、これからどうすればどうなるのかなどを、客観的に理解することができました。
どうやら私はパニック状態を過ぎて、苦悶・抑うつ・無気力の状態にあるようです。
私が江藤先生や倉嶋先生のように死のうと思わなかったのは勇気がないこと、おふたりと異なり娘が二人いることなどの理由もありますが、何よりも妻の死を通して命というものの貴重さを身にしみて感じたからです。
妻はまだ57歳でした。どんなにか生きたかった事でしょう。私達も何とかして生かしたいと念じました。しかし、どうしても助けることができませんでした。
それを思えば、生きられる命を捨てるなどということは許されません。
とはいえ私もまだ一人では完全に生きて行けないと感じております。
生前一緒に通っていた絵の会やゴルフ教室へ行くときは、いつも妻と「一緒のつもり」で「つやちゃん、さあ出かけようぜ」などと声をかける、という具合です。
これから妻のために何ができるかと考えたとき、せめて彼女がこの世に活き活きと生きた証しを残してやりたいと思いました。
お参りに来てくださったボランティア仲間の一人が言ったように「どこにいても声が聞こえて、存在感があった」、そんな風に元気だった妻の姿を残してやりたいと思い、ホームページを作り始めました。
3年あまり前、会社勤めを引退したとき両親の追悼集を作ろうと思い、取りかかったホームページですが、完成しないうちに妻のページを加える羽目になってしまいました。
http://homepage1.nifty.com/r~ohno/
妻は病みぬオオシマサクラ咲く春なるに
この木は何と問ひし人は亡くサラサドウダン
石楠花や主なき庭に去年今年
この下に妻もありし日白木蓮
お隣の北嶋ご夫妻(細野高原にて)
2007年11月
異次元に住むてふ人よ彼岸花
艶やかな夜月の照る現世界
夕霧の木立に牡鹿潜みおり
鹿声の夜半に到り論語措く
囲炉裏焚き昔の人と集ひける
マドンナが死してわが世の秋ぞ知る
「あのころ」のアルバム
--つづく--
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