2003年3月。まちかど研究室の面々であり、島根大学の学生である中野・若原・安部・小林・堺、まちづくりプランナーの田中は、『どこでもバスブック(試作版)』を手に、松江駅前に立っていた。バスを待つ人、道を行く人、ひと、ヒト、人にバスブックを手渡し、説明していった。さらにバスの乗り場ごと、オリジナルのカラー路線図を張り出していった。
まだ寒かった3月、すぐにアンケートという形で反応が返ってきた。たくさんの人からの暖かい風を受け、5人の心は躍っていた。
これは、『どこでもバスブック』の制作にまつわる話である。この入口にたどり着くまでに、まちかど研究室には3年もの月日が流れていた。
太田昌幸。この人物がいなければバスブックは生まれなかった。彼はバスブックの前身である『バスマップ』の最初の制作者である。彼自身、大学在学中はバスを使って通学していた。いくつも複雑に入り組んだバス路線図を見て、「もっと気軽にバスを使える仕組みをつくりたい」「バスを使っていろいろなところに行けるようになったら面白いのに」そう思ったのがきっかけだった。2000年7月、そんな想いを胸に『バスマップ』の制作は始まった。
初めは太田ひとりでの制作だったが、いつしか市役所や国土交通省まで巻き込み、味方につけ、『バスマップ』は完成、そして4千枚が無料で配られた。1枚1枚を駅前で配り、アンケートをとった。さらなる改善のためだ。反応は上々。『バスマップ』の未来に光が見えた。
そんな太田も卒業を迎え、1学年下になる平松がその想いを引き継いだ。より分かりやすい、見やすいマップを目指した改良作業、市長へのプレゼンをはじめとした様々なPRに取り組んだ。しかし、依然として製作費、印刷費の捻出方法に糸口が見つからないままだった。
そして、その後輩である中野・若原・安部・小林・堺の第3世代によって、いよいよ最終ステップへと足を踏み入れることになる。目指すは、バスマップに載せることのできなかった時刻情報を1冊にまとめた『バスブック』の制作だった。冊子にすることによって、広告掲載枠を確保し、今後の継続的な発行を可能にしよう、という発想の転換である。
バスブックが完成するまでには越えなければならないハードルがいくつもあった。
費用はどうやって集めるのか?バス会社から時刻表の使用許可を正式にもらわなきゃいけない。これはどーするの?あれは?・・・・
さまざまな人の助けを受け、自ら動いていった。
ハードルをひとつひとつクリアして、2003年3月、『バスブック(試作版)』は新しくなった『バスマップ』と共に、堂々と陽の目を浴びることになる。
『バスブック(試作版)』にはアンケート用のはがきをはさんでおいた。150通を超える返事がが返ってきた。
「とってもわかりやすくて、便利です。これからも作ってほしい。」「迷わず行けるようになった。これがあると安心してバスに乗れます。」 など...
アンケートの意見をふまえた改善、必死に集めたスポンサーの広告、まちかど研究室のメンバーの想い、すべてをこの1冊に込めて、2003年6月、『どこでもバスブック(改訂版)』が発行される。
スーツを着て、資料を持って、スポンサー集めに奔走した。そして30社以上の広告を集めた。スポンサーとして協力していただいた方々に、心からお礼をいいたい、感謝したい、とメンバーの誰もが口をそろえて言う。
バスブックの製作の過程には、さまざまな苦労があった。
「主に大学の研究室で作業していたんだけど、しょっちゅうそこで寝てた。椅子並べて、その上で。家に帰ってなかったなぁ。」
「広告ね、始めは全然とれなかったんだ。でも、スーツ着て、ちゃんと資料持って行くようにしたら話を聞いてくれるところが増えた。すごく社会勉強になったと思う。」
「朝、1社スポンサーさんのところへ行って、昼からこっちの会社で就職活動の面接、それが終わったら今度は別の会社に行って説明して・・・。不思議な感覚でしたね。」
「大学生だったら普通会えなような人に会えたし、いろんな話ができた。いい経験になった。」
彼らがこのバスブックの制作を通して得たものは、図りしれない程大きいようだ。
まちかど研究室の6人は語る。
「他県とのネットワークをつくってバスマップ協会みたいなものができたらおもしろいかもね」
「バスの停留所のデザインとかもやってみたい」
「このバスブックで使った路線の色がそのままバスの車体の色になったら、もっとわかりやすそう」
………夢は大きく広がっていく。
インタビュー&執筆・構成 コミュニティ・ワークス SHOKO-DO」編集部