私が住んでいる 九州北部の浜玉町でも雪が降ります。

今年の初雪の景色です。

登校途中の子供たちもうれしそうでした。

最近はあまり雪も降らなくなりましたが、背景に見

える山には一年に数回雪が積もります。 

山頂の向こうの村落にはこのように平地で積雪を観測するときには20センチから30センチの積雪でしょう。

信じられないかもしれませんがスキー場もあるのです。

人工雪のお世話にならなければなりませんが・・。

最近はスキーよりスノーボードの方が人気があるようです。

ゲレンデは雪というより氷の大根下ろし、下手に転ぶものなら真っ赤な血のシュプールを描くことになります。


ふるさとの原風景とはこのようなものか。

海あり 山あり 白砂青松 田圃に囲まれ 小川が流れる。

唐津市と浜玉町にまたがって、虹ノ松原という松林が続きます。

聞くところによると100万本の松の木が植えられているとか。

冬の海岸と松林です。 夏のコバルト色の海もいいですがすっきりと澄み切った水色の冬の海もいいものです。

雲間から漏れる冬の光に波の白さが目にいたい。

北陸の日本海と比べるとかなり和やかな冬の海です。

夏の松林は下草も伸びて、強い光が真上から照りつけ濃い影で見通しがきかないが

初冬の松林はハゼの赤や銀杏の黄色が松林のなかを透けさせる。

斜めから差す光は松林に影を作らない。

空気そのものが淡く光を出しているよう。

以前は松露がとれていたのですが、落ち葉を刈らないようになって松露が激減しているようです。

松露とは直径一センチから二センチほどの球状のキノコです。

お吸い物に入れて食べていたような記憶があります。

松林の苔のなかにころころとひそんでいました。

まるで松の真珠のようなキノコです。

 

玄海国定公園に指定されているおかげで松林自体の開発は押さえられています。

しかし、周辺の自然はご多分に漏れず開発虫に食い荒らされつつあります。

松林と山との間は田圃、松林は塩、砂、風を防ぐ目的で植えられたのですからその後ろに田圃は当たり前です。

その田圃にサギが生息しています。

ゴイサギの雛です。近くには母親らしい成鳥が不安げにこちらを見ていました。

こんな里に住んでいる私は幸せです。

パワーの試合であちこちに出かけるのですが。

やはり、ふるさとの自然が一番体にあっているようです。

 

佐賀県といえば藩政の昔からハゼ作りが盛んでした。

その名残か近くの小川の岸に見事なハゼの木があります。

実を付けてもいまやそれを利用するというものもなくカラスの絶好の餌となっています。

この時期、カラスが大陸からわたってきます。数百派、数千羽のカラスの群はヒッチコックの「鳥」を連想させられます。

夕暮れ時、これらのカラスが鳥柱となって黒い竜巻となります。

カラスといえば嫌う方が多いかと思いますが

結構、観察するとかわいいものです。

陽光にてらされた黒い羽は虹色に変化します。

頭も良くて、近所の定住カラスはどうも私を

認識しているようです。

猫と同じくカラスも商売もので手なずけて300メーターほど離れた

万両の大木に巣くうカラスに手を挙げて合図すると

目の前の屋根に飛んできます。

近所のスーパーに商品を卸しているとき電信柱の上からカァと鳴くのは

たぶんそのカラスじゃないかと思ってます。

カラスは余分な餌をもらったときは犬みたいに隠します。

屋根の瓦の下なんかが多いみたいです。

犬と違って、あとから必ず食べているようです。

 

鳥の話のついでに、カモメの話も少し。

海が荒れて飛ぶのにも疲れたとき、カモメたちは鳩になります。

鳩みたいに見えるのはカモメです。

近くによっても鳩みたいに寄ってきませんがかなり人にはなれています

橋の上に立つと、餌をねだりに飛んできます。

カラスは水が苦手ですから、ユリカモメみたいに弱い鳥もえさをもらうことが

できます。

私は人にすかれているとカモメたちはわかっています。

カラスたちはどうせ俺たちゃ嫌われ者と少しひねたところがあります。

勇気のある1羽が流れのなかに入って餌をとると、みんな学習するのか。

その群は川の水を怖がらなくなります。

素人考えですが、カラスは家族単位で行動しているようです。

教育熱心でもあるようです。


 

家のなかにもすてきなポイントが探せばあるのです。

ちょっとした小物が、話しかけてくるそんなシーンです。

娘とかみさんとの四人暮らしが去年から三人暮らしになりました。

長女が進学してつくばへ行ってしまいました。

狭かった住まいも人一人いなくなるととたんだだっ広く感じます。

でも正月の間は長女も帰ってきていますので、笑い声がぎゅーっと詰まった住まいになりました。

去年の今頃、受験で大変でした。

どうかなるものですね。親って、おかしくなっているのもわからなくなってしまうものです。

受験なんてと思っていても 子供が入りたい大学に何とか受かってもらいたいという思いの強さにとまどってしまいました。

志望校が決まったのが秋口でした。 

筑波大学に彼女が志望校を決めたときははっきり言って、無茶な。

とおもいました。

無茶なという思いは担任の先生にとっても同じらしく三者面談ではさんざんランクを下げるように進められました。

妥協として二次はランクを下げてくれませんかと言われましたが、娘はがんとして聞き入れません。

行きたい大学に行きたい。それが彼女の意見でした。

で、一次はみごと落ちました。

親は予備校の入学金を考えていましたが

本人は二次で受かるつもりでいたようです。

 

読めなかった。そこに娘の受験番号があるのがわかっているのに

あるのに、読めないのです。

数桁まで確認して、それから先が見えないのです。

やっと、認識して合格を確認したら、今度は涙で見えなくなりました。

二次試験の合格を告げるレタックス。

 

 

 


1/8

佐賀県と福岡県の県境から車で福岡よりに5分くらい行ったところに、姉子浜という景色のいい海岸がある。

そこの海岸の砂は、鳴き砂だ。

石英質の白い砂浜、天気が続いて砂がよく乾いたときに海辺を歩くと クッ、クッ、と音がする。

ここの鳴きは少し低音で雪を踏む音に似ている。

最近、海が少しきれいになったのか。

鳴き砂が復活した。

国道からすぐに海岸に降りれるのがいい。

かつては、唐津から深江までの海岸線の砂は鳴いたという。

記憶の片隅に私の町の海岸でもそんな記憶が・・・。不確かだ。

この姉子浜、海もきれい。こんなに海の水が透き通っていたのかと感心させられる。

沖縄とかの海もきれいで澄んでいるが、なんだか無機質に感じられる。

しかし、玄界灘のこの透き通った海は生物をはぐくんでいる有機質のきれいさというのだろうか。

生命を感じる。

特筆すべきは、夏の夕日だ。

海はオレンジ、琥珀に輝き、波の数だけ黄金のいるかのように泳ぐ。

紅い夕日にてらされた水面には、夕日まで続く光の回廊ができる。

焼き尽くされたかのような、積乱雲の名残の雲は、その彼方に西方極楽を約束してくれるかのような紫雲。

単純に極楽を信じてしまう。

火に焼かれて火照った頬を夕風に和めば、紫が始まった海岸線に体が溶け出しそうな錯覚に陥る。

耳には潮騒。目にはもう満天の星。 水平まで続く天の川。

ああ、夏が恋しい。

 


虹ノ松原

美しい松林である延長5キロほど、巾1キロほどか。

黒松林、玄界灘から吹き付ける風でその形状は複雑怪奇。

人の心と同じ、世間の冷たい風に吹かれ続ければ強くもなるし、複雑な精神構造になる。

一歩、松林のなかに足を踏み入れれば畏怖心を感じる。

数百年の生命を持つ松の古木から心の奥底まで見透か

されているような、それでいて安堵感も覚えるのは・・。

精神科医にすべてをゆだねることなんて私にはできない。

他人に心を開くなんて、恥以外の何者でもない。

弱みは絶対に他人に見せない。

そんな私でも、ふと心の鍵がゆるむ。

 


エビ養殖場

エビの養殖場が町はずれの岬近くにある。

カモメたちも生きるが上手になるようだ。

漁師が作業するときに浮かび上がってくる養殖エビをねらって集まってくる。

カモメもうまいものが好き。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

万葉の唄にも詠まれている玉島川 その河口である。

毎日その顔色は変わる。

海の誘い。雨の涙。そして鳥たちの慰め。

人の営みでその形も変わるが、永劫 その流れは変わることはない。

 

 

 

 

 

孤独なカモメはいるもので、沖から波の早さで河口まで

さらに、川をさかのぼる・・・。

 

 

 

 


すんでいるところに目をやるとどうしても松原に話がいくのはしょうがないか。

生まれたときからそこにあり、山の緑より身近に感じて、遊ぶのもそこだったから。

海へ行ってもそこにあり、山へ登っても眼下に広がる。

松の緑というのはどの植物の緑より親しみがある。

なんといっても常緑樹 これがいい。

常緑樹といっても葉の交代はあるものだ。

落ち葉、茶色の松葉である。

幼い頃、近所の人が松原にはいり共同作業で松葉を刈るのである。

松葉箒とよんでいる庭箒で松の葉をはき集めて、1メーター角くらいの松葉の立方体をつくる

いまとなってはどのようにしてそれをつくっておられたか記憶にはない。

荒縄で器用に縛ってあったのを思い出すだけだ。

長くて又になっている松葉だからできた技だろう。

その茶色の立方体を、リヤカーに積んで浜の漁師小屋に蓄えておく。

かまどや風呂釜のたき付けに使うのだ。

その形状と油のおかげで最高のたき付け材になる。

戦時中は本気で松の脂から機械油を摂取していたと聞く。

かまど、風呂釜、懐かしい。

当時としても、まとまった裸の火を直接みじかで感じられるのはかまどと風呂釜くらいだ。

薪を燃料として使っていたから。

飯、風呂そんな日常のなかに、火がちゃんといてくれた。

飯をかまどに釜をおいて炊くのを見ているのが好きだった。

薪の上に腰をかけ 火を見ていると安心できた。

薪のはぜる音、炎、そして薪の焼けるにおいに混じってくる飯の臭い。

いまでも、思い出せる。

生乾きの薪の尻からでてくる、泡も覚えている。

半分くらいまで薪が焼けると、焚き口からはみ出ている薪の尻からじゅうじゅうと音を立てて水分が泡となって吹き出てくる。

まだまだ小さい頃、現実より遺伝子の方が強く作用する。

人が洞窟で火を囲んでいとなみをやっていた頃の血が火を恋しくさせていたのだろう。

時折、ボンとはぜて焚き口から火の粉が飛ぶ。

それでも目を細めて、かまどの口をながめていた。

 

松林のなかにハゼの群生を見つけた。

はたしてハゼが群生するのかどうか解らないが見た目には群生だ。

鳥たちが種を運んできたのが発芽したのであろう。

三十センチくらいの赤い葉をつけたハゼの木が群生している。

この季節。松原のなかの赤い色は、目を引く。

同じ赤の群でも、彼岸の曼珠沙華とは趣が違う。

好みであろうが 私は、終末を思わせるあの赤より誕生を思わせる

ハゼの赤が好きだ。

なんと派手な木ではある。

つんとした黄色の葉のハゼも良いものだ。

黄色と赤が微妙に入り交じった木もある。

緑の松の空気とハゼの赤や黄色そしてその間の色をみんな

網羅したようなハゼ。

着物の柄にそのまま使えるのじゃないか。

 

 

ハゼの色に見せられて道から数歩松林のなかにはいる。

画像を納めて車に戻る。

ほんの数歩、歩いただけなのに車のなかは松林の香ばしいにおいに満たされる。

靴の底についた松林の名残に 懐かしいかまど端の情景が不意に浮かんできた。1/16

 


 

隣の町、といっても福岡県の二丈町。

そこに はるかという新種の蜜柑がある。

見た目はあまなつ柑を小さめにして、レモンの色を付けたような蜜柑である。

大きいものでもこぶし大だ。

手でむくのではなく、ナイフが必要だ。

切った感じは夏みかん、少し厚めの皮だ。

真っ白い皮の内側にレモンと同じ色の実が現れる。

少し大きめの種が数個見える。

最初の食感はネーブルオレンジのあの感触だ。

かなり酸っぱい味を、予想していたのだが予想は見事はずれた。

あまい、甘さに関して言えば、すごく甘いと言えばいいか。

で、酸っぱさもある。

酸っぱさを甘さで押さえ込んだおいしさ。とでも言おうか。

うまい。 

あらゆる蜜柑のおいしさを、ぎゅーと厚めの皮で圧縮した蜜柑だ。

この蜜柑を作っている農家の庭で偶然発見されて、その後品種改良が行われて製品化されたとのこと。

お酒もある。

二丈の海岸線のサン・サン・シーという小さなコーヒーショップで手にはいる。

5個入って300円だ。

もし202号線を通られるときには購入されてはいかがだろうか。

コーヒーショップの下の砂は鳴き砂。

穴場の観光スポットだ。

 

 

1/19

 


すわ海難事故。

船が難破してこの寒空に板に捕まりながら救助を待つ被災者。

ではない。

サーファーだ、寒いのに寒中水泳中である。

久しぶりに冬の玄界灘という雰囲気の海になってきた。

この時期、必ず玄界灘で人の命が失われる。

板子一枚下は地獄の世界だ。

救助信号一発、私の知り合いの海上保安庁の職員は荒海に船を出すのだそうだ。

船と船とを接舷して船に乗り移ることもあるそうだ。

玄界灘は波のストロークが短い。

海域が狭いのでうねりの巾が小さいのだ。

それ故に、船の揺れが激しい。

ライフジャケットだけをたよりに救助活動をやるのだそうだ。

海の男達の活躍に休みはない。

今年の正月は二千年問題のために海の上での待機

だったとのこと。

 

かつて、海保を避難した野田智輔さんのエッセイを読んだことがある。

お節介海保め、どこで死のうが勝手じゃないか。

と、海の冒険を阻まれた人の立場になっての発言だった。

しかし、勝手に死んでもいい人のために勝手に死にたくない人たちが、命を懸けるのだ。

勝手に死んでいった人たちのなかに風船おじさんがいたのを思いだした。

風船に乗って太平洋を横断しようとしたおじさんだ。

もう数年前のことだ、覚えておいでだろうか。

今 どこを飛んでいるのだろう。

空の上まで飛んでいったか。降りたくても降りられないのだろうね。

 


こんな寒い日。

島が持ち上がるのです。 

あ、このフレーズ河瀬さんのホームページへの投稿で使った。

まあいい。

こんどの浮き島現象の写真なかなかいいでしょう。

本当に不思議ですよね。

ベンチシャツで200キロのバーベルを持ち上

げるより頻繁に島が持ち上がる。

島が持ち上がるのも不思議だが、誰もそのこ

とに気づいているのかどうか。

全く話題にすら上らないのもすごいと思う。

今日は晴れ上がって寒がきつかったですね。

島も縮み上がっていますからね。

なんて挨拶が交わされてもいいと思うのだが。

国道202、寒が厳しい晴れた日に二丈町の海岸線を走ると見られます。

寒の厳しい日の朝です。水平線まで見通せる天気でしたら必ず見えます。

午前中が太陽の加減できれいに見えます。

私のベンチプレスより確実です。

 

燃える夕焼けです。

電線がじゃまですが、勘弁してください。

西の果て、これから先は東シナ海。

西国浄土まで続いている夕焼けです。

どうです。

浄土はありそうでしょう。

 

 

 

何となくいいでしょう。

結ばれない許されることのない愛。

海鵜とカモメのいわくありげなツーショット。

まさか、投身自殺はない。

ねぇ、私たちこれで良かったのよね。

そうだね。

  宿帳に妻とあなた書いてくれたわね。それだけで・・・。                                                                 

 ・・・・・・・・・・・。

 

すんでいるところ、もろである。

風呂の脱衣所。

籐のタオル入れ。

いい雰囲気でしょう。

三年後の、このうち、かみさんと二人暮らしの危惧大である。

と、猫一匹。

 

 

こいつ、結構かしこい。

人の話すこと、わかっているのじゃないかと思うときがある。

目、知ってますよ。という目だ。

宇宙人じゃないかと思う。

 

耳で、会話を解析して目で情報の収集。しっぽはアンテナ。

そういえば、世間に猫が多すぎる。

ひょっとしたら猫型センサーだ。

すべて監視されているのだ。

これが本性なのだ。

 

 

 

 

 

 

 


1/27

もう今日は雪一色。

何でもかんでも雪だ。

突然の雪が重そうな南天である。

ちぎって、口に放り込むとうまそうである。

たぶん氷ミルクいちごの味がする。

とにかく雪は嬉しい。

理屈なしに嬉しい。

車から見える顔、道行く顔、みんな、みんな、嬉しそうである。

スリップしてガードレールに迫っている車の中の顔も、嬉しそうである。

雪道で滑って転んで、頭を道路に打ち付けた人も、ずううっと笑っている。

わらっている。わらって・・・。 おい大丈夫か。     壊れている。


 

 

昨日の雪は、放射冷却でぱきぱきに凍っている。

通学途中の子供達が凍った道路で、滑りながら通学している。

時折、派手に転ぶ子供達も。

かなり痛いのだが、九州の子供達はプライドが高い。

雪ごときに負けたくはない。笑ってごまかす。

凍った朝の楽しみは、事故った車。

深刻な事故は笑えないが、滑ってぶつけた車はおかしい。

道路のあちこちに乗り捨ててある。散らばった部品が朝の光できれい。

人の不幸が一日の活力を生み出す。

慣れないのだ、滅多に凍ることのない雪。

車が動けば普通に止まると認識している。

得意先の隣のブロック塀にミルクタンクローリーが突っ込んで塀を壊していた。

ガソリンタンクローリーではなくミルクというのがほのぼのしている。

あんなに凍り付いていた雪もお昼近くなるとこの有様だ。

名残惜しい。

もう一度くらい積むのだろうか。

 

 

 


2/2

南向きの畑のすみに、梅が咲きました。

先週末はしっかり雪に覆われていたところですが。

春は、咲きました。

梅は咲いたか 桜はまだかいな・・。

まだまだまだまだ 先です。

梅から桜まで雪三回でしょう。

菜の花の黄色もしっかりと咲き始めました。

晩秋、季節の終わりを飾ったのは銀杏の黄色。

早春、地中にしみこんだ銀杏の黄色を土の中で漉して吸い上げたような菜の花の透き通った黄色。

季節は、黄色から黄色へと時間を進める。


海が好き。

やはり潮騒を聞きながら育ったせいだろうか。

海の気配を感じないと不安だ。

カモメでもいい、潮のにおいでもいい。

つんと澄み切った空気でもいい。

なにかしら、海がいてほしい。

荒れた海でもいい。

鏡のような海でもいい。

夏の海、青さに誘われて体を海にあずける

体中の力を抜いて、仰向けに浮くといい。

空の青さと海の青さの間に体が浮く。

体が青に染まりきってしまいそうだ。

自分の血液の流れる音と、遠くで聞こえる波の音がシーン、シーン、シーンと重なる。

もう、体は海に溶けだして、海の分子の一部と化す。

 

2/5

海辺の道路、いろんな動物が横切るらしい。

たまたま目にするのは横切れなくて、死んだ動物の死骸。

春や秋。 たいがい死んでいるのは狸。

猫や犬の死骸よりよけいに目にする。

一度など、数頭のイノシシが車の前を横切ろうとしたことがある。

先頭が躊躇したために私の車の前には飛び出さなかったが、後ろの車が急ブレーキを踏んだ。

大型のイノシシが四 五頭 あのままぶつかっていたら、こっちも無事にはすんでいなかった。

カーブを曲がったところ、道のすみに野ウサギが死んでいた。

山道や松原では時折、ライトの中を走り去ることはあるのだが、

海辺の道で車からはねられたウサギというのは初めて見る。

光を無くした、くろい瞳が哀れである。

冬毛のピーターラビットふうである。

春先、蜂に巣別れがある。

ミツバチの巣別れの群に車が突っ込んだ。

不意に視界が暗くなり、大粒の雨でもフロントグラスにたたきつけてきたような感じだった。

バンバンバン、という風な音だった。

なにがなんだかわからない内にそれは終わったがワイパーには無数の蜂が挟まっていた。

フロントグラスは黄色に染まって、ウォッシャーで洗っても黄色い筋になるだけだった。

帰り着いて、フロントマスクを見ると 小さなハニカム構造のグリルにまるで蜂の巣にはいった蜂のようにミツバチがはまりこんでもがいていた。

あれは奇妙な体験だった。

 

ばんぺいゆ という蜜柑らしい。

リンゴはソフトボールくらいの大きさ。

500円前後で売っていた。

ざぼんよりうまいという。

バレーボールくらいの大きさだ。

頭に当たったら、間違いなく死ぬ。

九州は柑橘系の栽培が盛んである。

ハウス蜜柑の早ものは三月ころが初出荷だ。

一箱10個入りで10000円以上の競り値が付くとのことだ。

ハウスで重油炊いて冬の間夏をつくって出荷するのだ。

露地物の蜜柑は最近あまり見かけなくなった。

安いからね、見てくれのいい蜜柑を時期を見てテーブルオレンジといってカナダに輸出しているようだ。

ナイフがいらないオレンジというふれこみだ。

確かに 西洋系蜜柑はナイフがいるよね。

しかし、何でナイフがいらないオレンジはテーブルなのだろうか。

私はグレープフルーツは、はじめてその名を聞いたときはブドウだと思ってました。

目の前でこれがグレープフルーツだといわれてもきっと中は葡萄色の蜜柑だと期待していました。

が、ただの夏みかんでした。

じゃ、味がブドウだと思いましたが、ただのハッサク蜜柑でした。

じゃ何でグレープなのか、さだまさしが命名したのか。

 

なんと、気になっている姿がブドウの房みたいだからだという。

なんと安直な。

これはなんだ、食べかかけのアイスクリーム。

うまそうである。

ストロベリーアイスクリームにチョコソースとトッピング。

しかしこれは食べられない作り物。

裏に磁石がついてメモなどを挟むグッズです。

しかし、確かに食べた後、誰が食ったか。

じつは、ゴキブリらしいのです。

流しの引き出しの奥に、忘れられていたアイスクリーム、ちゃんとゴキブリが食べてくれていました。

本当に何でも食うのだね。


忘れられたような路地裏に懐かしい がちゃポンを見つけた。

いくら田舎でも、本当に久しぶりの掘り出し物だ。

確か小さいときは陶器製のものもあった記憶がある。

海辺の近くにあるポンプは少し塩辛い井戸水がでるのだ。

水位が下がりがちな夏の日は汲み置きの水をポンプの上にそそいで誘い水にする。

スイカ、ラムネ、露地物のトマト。そんなものをブリキのたらいで冷やしていました。

ブリキのたらいといえば洗濯板。

洗濯板といえば固形石鹸。

水質が悪い井戸のポンプには手ぬぐいとかタオルを水の出口に巻いてあった。

金気が多い水はそのタオルや手ぬぐいが赤く染まっているのだ。

冬ではなくて夏にお目にかかりたいポンプである。

もちろん路地には朝顔が咲いていてもらいたい。

 

海の近くのポンプ、海水浴を終えて潮や砂をよく洗い流した。

井戸水は夏でも冷たい。

日焼けでいたいくらい火照った体には冷たすぎる。

泳ぎ疲れて、しゃべるのもおっくうな子供達もその冷たさで嬌声が戻る。

青い空に入道雲、井戸の周りの元気な声にトンボがとまる。2/11


何の群生だと思います。

近所の捨てられた畑です。

もう何年も手が入れていない。

植えられていた植物はなかなかしぶといらしく雑草をも受け付けないらしい。

なんとバナナの木、本当はバナナは草らしいが。

いくら九州は暖かいと言ってもこれはやりすぎ。

以前はハウスの残骸があったのだがすっかりハウスの残骸は朽ち果ててバナナだけが残った。

残念ながら、実はならないのだ。

九州は暖かいと思っているのはバナナだけではない。

ホームレスの方々もそう思って冬に九州へ渡ってくる。

去年の秋口の統計によると、東京駅、福岡駅、大阪駅の順でホームレスの方々が多いとのこと。

大阪と福岡の人数が逆転したらしい。

ただ、駅周辺に寝泊まりする人だけでなく、ママチャリやリヤカーに全財産を積み込んで国道をあてもなく移動する方々もいる。

先週から今週にかけて、そういう人の一人が海岸線を移動していた。

リヤカーに廃材だのぼろ切れだのを積んで移動していた。

長いオーバーコートを着て、長いひげを生やして、長く洗ってない帽子を、明らかに長くかぶって、長い自分の影を引きずりながら長い坂を気を長くしながら登っていた。

面白いのは、彼はリアカーを後ろ向きになって引いていたのだ。

ボートをこぐように進行方向とは反対をむいて移動しているのだ。

荷物がこぼれないようにいつも見ていたいのか。

それとも、俺の人生はいつも後ろ向きだった、これからもずっと後ろ向きだとばかりのアピールか。

彼の面魂。なかなかのものだった。

意志を貫き通しての浮浪者家業だと見た。2/13


 

 

 小高い丘の上からすんでいるところを望みました。

私の住んでいる町は左端。

右端の島は高島。

高島の住民之みなさんのほとんど99パーセントが野崎姓です。

ですから、みなさん名前で呼び合っているようです。

この島に宝当(ほうとう)神社というのがあります。

その通り、宝くじにが当たるという神社です。

 

私の町のすぐ側の山は鏡山、この山から松浦佐用姫は袖を振って恋人との別れを

惜しんだと言うことです。

その後、この山から身を投げて、松浦河の巨石になったそうです。

文化体育館のすぐ側にその巨石はあります。

このパノラマ写真は序の口、海抜150メータくらいでしょうか。

まだ景色の良い場所があります。

海から3キロ海抜600メータくらいのところからの眺めが絶景。

水平線がまるいというのが認識できるような眺めがあります。

そのうちに・・。


2/27

そのうちにという自分の言葉に誘われて、きょう、その場所へ車を急がせた。

昨日のみぞれは、山では雪。

日の当たらない場所には数センチの積雪がそのままだ。

景色が高さで遠くなる、そんな山道だ。

海抜600メートルからの玄界灘です。

ズームを一番短くしてもとてもとても入りきれない。

さらに、高いところから。

落石防止ネットにしがみつき、崖をよじ登る。

茨に倒木。

やっとがけの上の石にたどり着く。

海の碧、空の碧に圧倒されて写真を撮るのも忘れ、碧の中にぽつんといる。

 

帰り道、道ばたの残雪に動物の足跡を見つける。

これはウサギか。

ぴょん、ぴょん、とイメージがわかないだろうか。

たぶん今日の夜も、明日の夜もこの獣道を通っていくのだろう。

 

 

 

そして、これは猿。と思う。

残された足跡が、人の赤ちゃんの手のように見える。

ふと、足を止めて辺りを見回したか。

 

 

雪の上に残された、昨夜からのメッセージである。

 

稜線をたどる道路を帰っていくと、十坊山登山道という道しるべに気づいた。

十坊山に最後に登ったのは中学の頃だ。

もう三十年ほど前か。

無性に登りたくなって、登山道の側に車を停める。

石とか登りの地形とか、振り返りの景色とか、覚えているものである。

しかし、のんびりと山登りというわけにはいかなかった。

性分か、パワーをやっているせいか。

いつの間にかトレーニング登山と状況は化してしまった。

もうほとんど、クロスカントリーだ。

緩やかな登りはもちろん駆け足。平坦はダッシュ。胸突き八丁は大腿四頭筋と二頭筋を意識しながらスクワット状態。

心臓と肺がパンクしそうになったとき頂上が見えた。

頂上までのルートはこれまた、はって登るような勾配。

そのとき目に付いたのが、福岡の山岳会の方が、山道の腋の枝につり下げた頂上まで後十分と書いたプラスチックのカード。

心遣いがにくいほど嬉しい。

で、どういう訳か、5分で登ってやると決める。

いやな性分だ。

 

最後の勾配を登り切り、遠い記憶にある頂上前の岩を越えると、やっと山頂だ。

山頂には大きな岩があるはず。

あった。

記憶の岩より少し小さい。

記憶にはなかったチェーンが岩から下りている。

チェーンを握り岩の上に立つ。

360度のパノラマのうち200度は海。

玄界灘の碧と空の碧が冷たい風の音と奏でるハーモニーを聞く。

こんな時にこそ、山の精はいるものだ。

 


3/1

 

近くの電信柱にこういった帯が巻いてある。

カササギとはカチガラスのことである。

パンダ色のからす。 

なわばり意識が強く、気も強い。

この季節、営巣をやるのであるが高い樹木が少なくなったのか

最近電信柱に営巣するカチガラスが増えてきた。

田舎では伝統的に小枝で巣を作るのだが、町のカチガラスは横着して針金なんかでも巣を作るらしい。

クリーニングやさんの針金のハンガーもいい建材となる。

当然、針金は電器を通すので停電事故の原因となるのだ。

以前は巣を撤去していたが、自然との共存というのだろうか。

危険のない限り監視というふうに変わってきたようだ。

原子力に対する風当たりもきつくなった昨今、自然派イメージは企業に大切。というのでもないだろうが。

で、上を見る。

マイホームの完成まで後少し。

誇らしげなカチガラス。

 

 

 

 

雛祭り

男兄弟四人でそだった。

兄弟げんかは血だらけ、ガラスは割れる。ふすまは飛ぶ。

鍵なんかうちにかけたことがない。

泥棒が入ってきたら、俺はバットで俺は木刀でと 話しているような家庭環境。

めし。もちろん一升釜。

業務用のガス釜で炊いていた。

女の雛祭りとはどんなもんだ。

で、女の子二人の子もち。

まあ、女も男も変わりないな。

うちの中では一緒。

外面のがいいのが女か。

それでも、お雛さんとか。うちの中が和む。

狭い借家の四畳半を占領しているが、それでも春って感じだ。


3/13

日当たりのいい神社の土手にレンゲの花が咲いていた。

昔は、近くの丘に登ると、レンゲの紫や菜の花の黄色の絨毯が見えた。

冬の間休耕している田圃や畑にレンゲや菜の花を植えていたのだ。

まだ、丘の上までの道が舗装してなかった時代である。

何でも補助金を出して、そのレンゲと菜の花の景観をまもってきたとのこと。

 

ならいに従って、早々とお雛様は箱の中。

 


3/30

試合をすぎると、そこはもう春。

冬と春との境界線を試合で越えてしまった。

試合の前二週間はほとんど正常な精神状態ではないようだ。

季節の移ろいにも気がつかない。

いけませんね。

気がつけばもう梅は去って さくらもちらほら。

黄砂で車は泥に使ったみたいに汚れている。

黄砂の後の雨は泥の雨だ。

外に止めた車は例外なく中国大陸の奥深くから運ばれてきた黄砂で汚される。

そしてツバメも、妙に低速飛行が似合わない鳥がいると思ったらツバメでした。

古巣を探しているようなそんな姿でした。

また新しい命をはぐくむのでしょう。

 


 

4/3

さくらが満開になった。

この時期に吹く春の嵐をうまくかいくぐった様子で、見事な咲きようである。

春霞の山を見ると山のあちこちに桜のピンクを見いだせる。

やはり、人為的な植物だと思う。

山の斜面をジグザグに続いている桜を見ると、道沿いに植えられた並木だと言うことがわかる。

そう思うとなんだか、桜の花がうさんくさくなる。

夜の桜は不気味だと思わないだろうか。

生ぬるくなった夜気の中で薄桃色にいる桜。

夜の梅は不気味とは感じないのだが、やはり緩くなった夜気のせいだろうか。

桜の花に腐敗臭を感じるのは、私だけか。

無惨に雨に落ちて、泥に踏みにじられる印象があるからだろうか。

散りゆく定めの花だとしても、泥の中の花びらは哀れではないか。

 


4/4

まあ桜への印象はどうであれ。

すぐそばの春の小川です。

多少曇っていた方が春の花は映えるものとは、平安の昔からの日本の心らしい。

紫の花はなんだろう。

メダカはいるのだろうか。

私が小さいときは、この時期待ちわびていたように川には行ったものだが、最近の子供は川遊びなどしないものらしい。

靴を脱いで、膝まくりをして、服を濡らさないように用心して川にはいるのだが、メダカを数匹捕まえる頃にはもうパンツまでぐっしょりだ。

拾った空き缶にメダカを入れて帰る頃には早春の風の冷たさと母親の怒った顔が現実になるのだ。

川の土手の向こうから少年野球の声が聞こえる。

たかがボール遊びなのに、完全に管理されている。

草野球さえ許されない子供たちだ。

いっそ、川の中でメダカでも追いかけていた方が少年らしいのだが。


4/6

春爛漫

山頂から麓まで桜並木が続く登山道である。

20代の頃、車でせめた道です。

ヘアピンカーブが続く、トリッキーな道路です

ブレーキングライン取りと気合いが勝負の道です。

山腹の三分の二ほどにある長い直線。

直線の真ん中ほどに緩いS字カーブがある、ここをいかに車速を落とさないで抜けるかがポイントでした。

下りは、ブレーキの性能勝負。

がんがんにせめて下ってくるとフェードどころか、フロントのベアリングのグリースが沸騰してもうもうと煙を吹き出す。

今思うとよくぞ生きていたという感想です。

一度など、ヘアーピンを抜けるとそこに観光客が車を止めて記念撮影。

対向車線には運の悪いことに対向車。

ままよと、駐車中の車の右側面数センチをかすめるように対向車線に出る。

三台の車が道いっぱいに並んだ。

かすりもせずに、間一髪で衝突を免れたこともあります。

対向車のドライバーの心境は・・・。

たぶん今でも覚えているでしょうね。

インベタの白いRX7との異名を持っていました。

カーブをフェイント気味にアプローチしてそのまま軽いドリフトアングルを保ちながらカーブを抜けていたからです。

地味ですが安全な乗り方です。


4/8

春が散って流れてゆきます。

春の陽光に照らされた川面に桜の花びらが流れてゆきます。

静かに、静かに、影をつれて流れてゆきます。

ゆく川の流れは絶えずして・・・ですか。

 

 

4/11

最初、どきりとした。

松の木と樫とが絡み合っている。

まるでツルが絡むように。

種のせめぎ合いか。

 

相容れぬ異種の愛の形か。

お互いにまっすぐにしか生きられぬどうし。 生き方を貫いた形か。

業の張り合いか。


4/13

これはなんの写真でしょう。

実は波なんです。

のたりのたりの春の海。

その波がひたひたとしている波打ち際です。

シャッタースピードを上げて砕ける瞬間の写真です。

玄界灘の海の水もきれいなんです。

これは波が砕けたところわずか十センチほどの波が押し寄せている様子を望遠でとりました。

ほとんど泡が立たないのでガラス細工のように見えます。

ほんの五メーター先では青い海になっているのですが。

この季節。本当に海がきれいです。

黄砂現象で空は薄ぼんやりとしていますが、それに対照的にはっきりとした青。

春の海です。

南の島へ行かなくともまだまだ列島にはきれいな海があるのです。

海、きれいなままで。

 

 

 

 

 


5/3

そんなきれいな海のすぐそばにお気に入りの公園がある。

芝で覆われた高見の上にベンチがおいてあってそこから見る海もいい。

そのベンチのたたずまいも好き。

この公園、広さは大したことがない。

すべて人工で作られたものだ。

護岸工事でできた埋め立て地を公園にしたもの。

ツツジや松などが植えられている。

 

 

 

そのほかに白詰め草がこのシーズンきれいだ。

白詰め草、遠いむかし古伊万里をヨーロッパへ輸出するときに詰め物として使われたことから白詰め草という名前になったとか。

 

高見のベンチに座って正面に見える島は姫島だ。

初夏の日差しに照らされながら、潮騒を聞いていると頭の仲間で真っ青になってしまう。

この時期の海にかかる朝霧は海と同じ色をしていて海と空との境がつかない。

漁に出る船はまるで宙に浮いているような錯覚さえ覚える。

ただ青を引き裂く白い波頭でそこが海とわかる。


まさに、すんでるところです。

我が家は集合住宅の二階である。

階段は独立していて、各世帯の玄関に続いている。

階段を上り詰めると当然踊り場。

その踊り場に野良猫が子猫をつれてきた。

田舎の集合住宅だ。

野良猫にはみなさん寛容。

好きな方がそれぞれに外猫を持っている。

そのおこぼれに預かろうと、招かざるものが訪れる。

ちょいとすねた雄猫である。

野良の雄猫は性格が凶暴。

やはり自分の遺伝子を受け継いでいない子猫は排除の対象となるようだ。

排除、かみ殺すという。 ひどい場合は頭を残して食べてしまうと聞いたこともある。

母猫はそんな野良雄から子供を守る。

それでも、数匹生んだ子猫も目が開く頃には二匹とか一匹とかの数になる。

敵は、野良雄だけではない、カラス。

カラスは利口である。

たいがい複数で子猫をおそう。

一匹がおや猫にちょっかいを出して猫のねぐらから母猫をおびき出してその隙に別のカラスが子猫をおそう芸当なんぞ、こともなくやり遂げる。

そのほか、隣にある小学校の学童も強力な敵である。

かわいい、かわいいと言って連れ去る。

うちにつれて帰ってもたいがい飼うことができない。

結果、母猫から離れたところに捨てられるということになる。

 

母猫も子猫の数が少なくなってくると、最後の手段を使う。

カラス、雄猫、子供らの天敵を利用するようになる。

天敵は猫好きなのである。

そう、猫好きの人間が一番頼れるのである。

今回白羽の矢が刺さったのは、うちの玄関だ。

 

玄関口に子猫をくわえた母猫がたよってきて邪険にする人はいないだろう。

ましてや無類の猫好きなら・・・・。

 

かくしてこの子猫はうちの玄関先で大きくなるようです。

 

今日も、野良雄と母猫の壮絶な戦いが繰り広げられました。

雄猫が雌猫を争ってあげる叫び声より数段強烈な声が玄関のスチールドアを通して聞こえた。

うちのミーコもあわてふためいて部屋の中を走り回る。

ただならぬ気配で、ドアを開けてみると辺り一面猫の毛だらけである。

 

猫の真剣勝負を見たことのある方なら、戦いのあと鋭い爪でひっかきとられた体毛が辺り一面飛び散るということをご存じであろう。

まさにその通りの状態でした。

母は強し。

野良雄を追いかけて母猫のいなくなったねぐらにはポツンと子猫。

つぶらな瞳で私を見上げてミーと小さく鳴く。

 


5/24

これがベンチシャツを縫っている部屋の一角です。

広さは六畳。

ベッドとタンスと本棚、オーディオに、テレビ。

それに、ディスクトップのパソコン二台。

文字通り足の踏み場もない。

 

カーテンのこちら側にぶら下がっているのはガスガン、電動ガンとモデルガン。

電動ガンの中で一番のお気に入りが、KH MP5K と言うモデルだ。

マシンガンと言うより、拳銃に近い感覚である。

突撃銃、テロ鎮圧銃とも違う。

警備のために弾幕を張るマシンというものか。

実銃はこの際どうでもいいのである。

この電動ガン。よくできている。

長さ三十センチあまりの銃の中にはモーター、電池 発射機能などのメカがぎっしりと詰まっている。

おもちゃにさえこれだけの技術をつぎ込む日本人の思い入れのすごさがたまらない。

サイレンサーがついていますが、そのサイレンサーただのサイレンサーとは違う。

本物は音を消すだけです。

これは、暗闇で弾丸の着弾を示す曳光弾を発生させる装置になっています。

センサーがついていて直径6ミリのBB弾が、センサーを通過するとストロボが発行が連続的に起こるのです。

プラスチックのBB弾には蛍光染料が練り込んであってオレンジとか緑とかに蓄光して発射された弾丸が光の帯となって銃口から発射されるのです。

銃口の近くに、レーザーポインターもある。

赤いレーザー光を発射して照準を素早くきめるのである。

映画で見たことがおありでしょう。

 

拳銃でお気に入りはコルト45オートマチックである。

自動式拳銃の元祖です。

今の自動拳銃と違ってグリップの部分が細くて握りやすい。

今の拳銃は、ダブルで平行に弾丸を装填しているのでグリップが太い。

手の小さい私には扱いにくい。

これはモデルガンがある。

今でも自衛隊で現役とは恐れ入る。

 

そのほか、十丁以上の自動式ライフルと、拳銃がある。

少しずつ衝動買いを押さえながら買いそろえたものである。

男たるもの武器の扱いくらい知らないとね。

 


6/18

九州は梅雨である。

べとべとじめじめの梅雨

日曜の駐車場に忘れ去られたサッカーボールが・・。

この時期、水泳はまだ禁止されているらしい。

今から一月ほどの間、子供たちは雨に降り込められる。

 

この時期北海道がうらやましい。

一週間ほど前、全日本マスターズで北海道へ行ったのだが・・。

津軽海峡を超えて千歳空港。

空港への着陸。逆噴射をどんと効かせて降りる福岡空港へのそれとは全く次元の違う着陸だ。

四千メートル級の滑走路をめいっぱい使うとこんなにスムーズに着陸できるのかと驚かされた。

逆噴射で驚いたのは、旧秋田空港。

着陸前から逆噴射をかましているのではないかと言うくらいの急制動だった。

着陸してタキシングで、空港の建物へと飛行機は向かう。

あっけらかんとした、青い空。

光はガラス質。

空気は干物か押し花にでもなりそうに乾いている。

空港ロビーに降り立った瞬間、ビールがうまそうと感じた。

北海道へ行って最初にそれらしい食べ物を口にしたのは札幌駅でのラーメンだ。

観光案内に載ってないラーメン屋さん。地元の学生さんやサラリーマンが数多く見かけられるラーメン屋さんでした。

おいしくいただきました。

 

沖縄から来ておられた、伊差川さんに聞くと沖縄の冬がちょうどこの時期の北海道と同じ気候だと教えてくださった。

そして、立花先生から昨日毛がにが届いた。

身がぎっしり詰まっていました。

久しぶりに静かな食卓を迎えた。

カニを食うときにはみんな無口になり、一心不乱にカニをカニの残骸へと変えてゆく。

そして目で会話する。

うまいね。

こっちでカニというと、ワタリガニを言う。

ガザミとも言う。

青い菱形のカニだ。

はさみは長く一番下の足には爪の代わりにオールみたいなものがついている。

これで海中を泳ぐのだ。

大きさは20センチから25センチくらいか。

しょうゆで甘辛く炊いて食べるのが一般的か。

ご飯と一緒に炊き込むのもおいしい。

そのほか川ガニもとれる。

はさみに毛が生えたカニである。

これはご飯に炊き込むのがいいみたいだ。


6/20

九州弁と言えば、デゴワス、バッテン、シェカラシカ、オイドン。

等々、まあいろいろあります。

佐賀弁、旧鍋島藩系は語尾にバンタを使う。

たとえば、そうですね を そうバンタ。 みたいに使う。

有るを ナイというのには恐れ入る。

たとえばセブンスター有りますかという問いに ナイと言われればないのかとふつう思うのだろうが、旧鍋島系は有るのだとのこと。

私が住んでいる筑前系とはかなり言葉が違っているようだ。

筑前系で極めつけは、とっとっと。 

それに対する答えは、とっとっと。

である。

なんのことかわからなくて当然である。

そのほかに、かっとっと と言う問いに対する答えは

かっとっと。でことたるのである。

そのほか、やっとっと

答えは 、やっとっとである。

なんでもとっと、答えもとっとである。

別に魚とか鶏のことではない。

最初のとっとっとの説明をしよう。

こんな場合に使う

電車の中で空いている席があったとしよう。

しかし荷物が席においてある。

荷物の隣の方が席をキープしている模様だ。

その場合、キープしているかどうか訪ねるときに使う。

共通語ではその席は誰かのために取ってあるのですか。

それを、筑前後では 席をとっ(取る)とっ(って)と(いるのですか)

となる。

それに対する答えは最後のとがイントネーションを下げることによって

取っていると言うことになるのである。

だから、実際の会話は とっとっと で語尾を上げる。

とっとっとで語尾を下げる。

 

やっとっとは 差し上げたのか。

こたえのそれは 差し上げたのだ。となる。

 

かっとっとは借りているか。

借りているのだとなる。

野球の場合は かっとっとは 勝っているのか。

勝っている という風にも使う。

もし、松浦地域に旅することがあったら会話にご注意。

 


7/3

福博の街は、祇園祭でにぎわっている。

山飾りが各町内に出ている。

昨日福岡へ行く用事があったので、本番前のやまかさの雰囲気を味わってきた。

博多では、祇園に入れ込んでいる方を やまんのぼせもん という。

のぼせもんは、祭りの最中ははっぴ姿に雪駄履きで街をうろついているのですぐわかる。

町内の詰め所には不浄のものいるべからずの看板がある。

不浄のものそれは女性だ。

それに、キュウリを食わないそうだ。

キュウリの輪切りの切り口が、祇園祭の主社の串田神社の紋と同じだからという。

これを祇園祭当日締め込み姿ののぼせもんが町内を担いで走り回るのである。

ちなみに紫の人は 初登場 うちのかみさんである。

典型的な 九州の女である。

 

 

 

私の町内の祭りも祇園祭だ。

博多のそれと違って、担ぐのではなく 曳き山だ。

京都のぎおんをまねたのか。

しかし、山鉾と違って博多みたいな飾り山なのである。

 


山と言えば、うちの町のはずれにある岬の小高い山。

サギの巣がある。半端な数ではない。

町中のサギのすみかになっている。

繁殖地らしい。

その山は海とバイパスに囲まれている。

人のアクセスができない山肌だ。

山が少し回り込んでいて海からの風が直接に当たらない場所のようだ。

なんだか熱帯雨林のジャングルの光景みたいである。

この季節田植えの終わった田圃でサギが餌をついばんでいる。

アマサギは群れて、しろサギは朝の出勤や帰宅は群をなして移動するがその先は自由行動をとるようだ。

ゴイサギやアオサギは単独行動だ。

餌を待つ姿がいいのはやはりアオサギだろう。

水面をじっと見ながらあたかも中国の墨絵の中の仙人の容をなしている。

狩りと言うより、つりをやっているようだ。

でも、サギは冬がいいね。

 


8/1

すでに陽は落ちた。

夏の太陽は、血に染まった夕焼けをを引きずるように地平に消えた。

まるで時が止まったような昼と夜の狭間。

夜のとばりの始まりに虹。

昼間の太陽の軌跡をなぞるような・・・・・。

それとも、自らの宿業の爪痕か。

 

 

 

 


9/13

台風が通過している。

東シナ海を北上している。

このまま、黄海へ抜ける公算が大きい。

玄界灘もあれる。

 

夏の青くて静かな海もいいだろうが。

私は、あれた翡翠の海が好きだ。

うち寄せる怒濤。 飛び散る波頭。

やはり、私たちは海からの生き物だと実感する。

気が付くとカメラをかまえて、ぼんやりとしていた。

 

夏の喧噪も消え果て、ただ波だけが・・。


9/19

夕方近くロードスターでは峠道が寒いくらい。

試合が終わって、トレーニングはお休みだ。

時間をもてあまし気味。

久しぶりに夕日を追いかける。

西へ、ほとんど日本の最西端の岬

夕日が沈む向こうは東シナ海だ。

騒いでいた、カモメたちも今日最後の儀式を見守るように静かになった。

ゆっくりと傾いていた夕日は水平線に近づくにつれ沈むスピードを速める。

最後はあっけないほど簡単に、沈んでしまった。

この夕日は、明日の朝、北の国から照らしはじめるのだろうか。

南の国の夕日は。

悲しい夕暮れではなく

明日また 力一杯出てきてやる! とでも言いたげな

大陸的な おおらかな太陽です。

との言葉のように、昨日の夕日が、今日ものぼってきた。

 

 

 

 

 

 

 

とても元気が良くて 根拠のない希望に溢れている。

ただ 朝だと言うだけで

どこからともなく 喜びが沸き上がってくる。

空気がきりっと冷えて ガラスに水滴がついている。

そこに 光が乱反射をして 光と水の宝石のよう。

 

いまの季節、北国ではこういった朝だろうか・・・。

 

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