久保比呂誌?プロフィール

それがどうした!
久保比呂誌ものがたり

幼少時代

1957年 神戸のごく平凡なサラリーマン家庭の長男(末っ子)として生まれる。家族の愛情たっぷりの中、すくすくと育つ。
明るく、おちゃめな「ひろしちゃん」は一家の期待の星(?)であった。
 3つ年上の姉がすでにピアノを始めていた影響で「自然に」ピアノを習い始める。その時代はピアノを習っている男の子はまれで「男のくせにピアノやて〜〜〜」とからかわれることも。
 練習は好きでなかったが、ある日、生まれて初めてオーケストラの演奏会(外山雄三指揮、京都市交響楽団の「第九」)を見にいって、突然「将来、指揮者になりたい!」とピアノの稽古に励むようになる。それにしても昔から突然の思いつきで行動を起こす人間だった。

                                                                                            
中学校時代

地元の中学に入学した比呂誌は、そのころはやりのテレビ番組「柔道一直線」にあこがれ、迷わず柔道部に入部。しかし3カ月で飽き、「受け身」だけ練習して退部する。その後工作部、将棋クラブ、ハンドボール部と転々。本当に飽きやすい性格。
そのころ世の中はまさにフォークギターブーム。吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、ジローズ、が大活躍。「戦争を知らない子供たち」や「旅の宿」のイントロが弾けるだけでクラスのスターになれた。比呂誌もまた、モテタイ一心でギターの練習にあけくれた。(しかし残念ながら、クラス男子のほとんどが同じようにギターを弾いていたため、特にモテるということはなかった・・・・。)
三年生後半、受験シーズン到来。短期集中型猛勉強し、某私立有名高校を受験。受験科目3教科中、英語と数学で何と!100点を取る。が、しかし国語が最低ラインに満たなかったため、みごと(?)不合格。担任の先生に「おまえなぁ・・ほんまに・・、なんでやねん!もったいない!」と、ツッコミをいれられる。原因は、「国語の勉強をし忘れていた」こと・・・。なんじゃ、そら。


高校時代


 
英語に興味をもち、漠然と語学の方向に進もうと考えていたが、ある日担任の先生(音楽担当)がフトこんなことを言った。「ピアノを買うためにU君は新聞配達をしているんだぞ。」比呂誌はものすごい衝撃をうける。「な・な・なんか・・・ゴッツイかっこえぇーっ!」と即、自分も音楽の道を志すことに決める。(なんでやねーん!)それはなぜだったのかいまだにわからない。突然の思いつき・・(またか)。
 その日から「音楽一直線」の日々が始まる。まずコーラス部に入部。また部員3人でアリスのコピーバンドを組んだ。その名も「ありの巣」。ラジオのアマチュアバンドコーナーに出演しまくる(ヤングタウン、ヤングリクエスト、ビビットステージ)。その後声楽家をめざし、猛勉強。現役で東京芸大声楽科を受験するが、おしくも3次試験で不合格に。「現役でこの結果や!1年浪人すれば楽勝さぁ!」。
ところが、2年目は1次試験で不合格・・・「な・なんじゃ、こりゃ〜〜〜〜!!」その後、意を決して受験勉強のため上京。東京の音楽予備校に入学。ところがついた先生の発声法が合わずに、声帯を完全につぶしてしまう。
実は今の物静かな話しぶりは性格が物静かなのではなく、単に大きな声がでないだけなのだ(あっ、バレてもうた・・・)。こうして声楽の道は断たれたが、音楽の道はあきらめきれず、その後2年間の勉強の後、日大芸術学部作曲科に入学。しかぁし!!受験勉強の無理がたたって倒れてしまう。
さあて、ここからが苦難のはじまりだ〜〜〜。(パチパチ)(^^;)/

苦難の時代

 
大学は何とか入学出来たものの、あまりの体の不調に学校どころではない。とにかく登校しても2階の教室に行く階段が心臓が苦しくて上がれない。
そのまま家に引き返す毎日。こらぁえらいこっちゃ〜〜。大変な病気やで〜〜。しかし病院で検査を受けるが「異常なし」。それからいろんな病院を渡り歩くが何処も「異常なし」。揚げ句は「気のせい」だと・・・・。(なんやねん、それ!)。
病院(現代医学)では検査して原因がわからないと「自律神経失調症」とか「神経症」で片付けられてしまうのだ。

う〜ん何かおかしいぞー。病気って検査で異常が出なければ「気のせい」なのかぁ?

そんなはずは絶対になぁぁぁぁい!!

現代医学では完全に行き詰まり、それから長年にわたる民間療法、宗教の遍歴が始まる。

そのころはちょうど健康法、精神世界ブーム。書店に行けば毎日のように新しい本が出版され所狭しと並んでいた。とにかく「手当たり次第」に読みあさり、そして試してみる。そのころ試した健康法、健康食品は記録しているだけで200種類以上!にもなった。さらに怪しげなものにも目を向ける。「○○が憑いている」「○○のたたり」「〇〇の因縁」など。それらをすべて否定する気はないし、「なるほどなあ」という内容のものもあったが、とにかく玉石混合の世界。怪しいものが多かったな〜〜。(でも本当に困ってるときにはわからないんですよねー)。こうした遍歴は10数年に及んだ。

責任転化よりの脱却

 
「ワラ」にもすがる思いで「ワラ」にすがっていた毎日だったが、あるお医者さんの紹介で霊能者(?)を訪ねる。
(なんでお医者さんが霊能者を紹介するのかよくわからないが・・・)
その人は私を見るなり「おじいさん!だめじゃないか!孫を苦しめては!」また出たか、「先祖のたたり」パターン。「はやく離れなさい・・・そうそう!」。そして僕が「ここが苦しいんです」というと
「へびじゃな!」えっ、へびのせいなの・・「ここが痛いです」「キツネじゃな!」。えっ・・。
「ここが具合悪いです」「へびじゃ」「ここが・・・」「キツネじゃ」そんなこんなで、その日は終った。(終わるなーー!)

後日、また苦痛を訴えると、「おじいさん!またついとるのかー!だめじゃないか!」「・・・・・・・」
そしてまた、「ここが苦しい」「へびじゃ」「ここが痛い」「キツネじゃ」「ここ・・」「へびじゃ」
ここまでくるとさすがにおかしいと思いだし(もっとはやく思えー!) 適当に「ここ」「そこ」というと「へびじゃ〜」「キツネじゃ〜」・・・・・・・・


じゃ、じゃ、じゃっかましいわ〜〜〜〜い!!!!とぶちきれそうになるのをがまんしてその家を出た。

トホホホホホ・・・・・情けな〜・・・・・(ちなみにそこで聞いた予知、予言は100パーセント外れました・・・・金返せ〜〜!)

トボトボと駅までの道程を歩きながら考える。心身ともに弱っているとはいえ、こんなアホみたいなものにまですがらなければいけない自分は、なんて情けないんだろうか・・・。あ〜あ・・。
その日を境に、とにかく「責任を他に転化することはやめよう」と思うようになった。「すべての原因は自分の中にあるはず!それを解決できるのは自分だけだ」と。責任を押し付けていたご先祖や他の皆さん、ごめんなさい・・・かくして長い宗教(?)遍歴は終った。
それからは日に日に体調も好転して行きましたとさ・・・・ってな具合にはいかないんだなあ、これが(やっぱり・・・)

社会復帰したときの事を考えて、書道、療術(イトオテルミー)を学び資格を取る。家業だった書道教室を継ぎ10年ほど教室で教える。自慢じゃないが書道は「8段位」(明らかに自慢だが・・・・・)。
現在は書道教授も治療もやっていないがこれは結構日常生活で役立っている。うん、人生に無駄はないのだ〜(^o^)

そして津軽三味線との出会い。

 あるとき、偶然レコードで故・初代高橋竹山の「津軽じょんから節」を聞く。
そしてその直後からなぜか自分がステージでその三味線を弾いている姿が目に浮かんできた。舞台でスポットに照らされて。
「いやーかっこええやんか〜〜」。そう、いつもきっかけは「かっこいい」だ。
毎日思い浮かぶイメージに、ついに津軽三味線を始めるにいたる。もう30歳も間近のことだった。

社会復帰の第一弾はラウンジでのピアノ弾きだった。店の若い女の子や愉快なお客さんと過ごす仕事場は楽しかった。そのせいか入れ替わりの激しい世界で3年も同じ店でピアノを弾いた。「適当に好きな曲弾いてて」という最初の約束とは違い、いつの間にかお客さんの歌伴奏ピアニストになっていた。
「生演奏で歌える」と評判になり、毎日伴奏しまくった。上手な人から、下手〜〜な人まで、「もう何でも来い」状態。
「わしの中学校の校歌弾いてくれるか〜」「知らんがな〜〜」。でも伴奏した。歌の伴奏が好きになったのはこの時期である。
しかし毎日深夜に及ぶ仕事にまたもや体が不調に。ついに3年でダウン。
さてこれからどうしようか・・・・そんな矢先に運命の・・・

阪神淡路大震災

深夜に帰宅しいつものようにコタツでうたた寝。朝方突然ものすごい爆音とともに突き上げられる揺れ!
跳び起きるが立っていられない。「な、な、なにこれ〜〜っ!」  1995年の阪神大震災であった。
今にも倒れそうな家の中でとっさに柱にしがみつき揺れの収まるのを待つ。揺れが収まって外に飛び出し、空を見上げると赤い光の
球が無数にゆらゆら飛んでいる。マジに思った「空飛ぶ円盤の攻撃や〜〜〜〜!!」
すぐあとでわかったがそれらは地震直後に近くに起こった火災の火の粉だった。その後今度は家の近くから出火。
みるみる火は広がってくる。消防車など来るはずもなく、「まさに焼け放題」。目の前で自分の家が焼けていく様子は
夢を見ているようだった。自分の過去がすべて消されていく・・・・ような気がした。

復興

友人の家を転々としているうちに、大阪で被災者の為に事務所を貸しているとの情報があり入居する。
広いマンションだったが、持ち物はもらった布団と、かばん一つ。ポツンと部屋に座って「さて、これからどうしようかな」と考えた。
でも人間は強い、たくましい。あれほどひどい被害を受けながらその直後からすでに復興が始まっている!!
「よーし頑張ろう!」。
でも不思議なことに「自分のものが何も無い」というのは、何とも言えない自由さと安らぎを感じた。なんでだろな〜。
その時「もう、物なんかいらない!」(特に壊れる物は)、と思ったものだが、また日一日と物が増えていくのであった。
16年経ったいまではすっかり元の「物だらけの家」になっている。まあ、生きてる限り仕方のないことかな。

その後、口コミで三味線演奏の機会は増えていった。特に宣伝することもなかったが、紹介から紹介へ。
本当にありがたいことでした。「人は生かされているのだな〜」と強く感じた。
さらには若き奏者Y兄弟が火付け役となり空前の津軽三味線ブームが起った。
おかげで仕事も激増し、ひと月に28日間の演奏会ということも。
さすがにそのころはクタクタのボロボロ・・・コリャだめだ・・・


そして、今

震災より16年、生まれて半世紀。振り返ってみると本当にいろんなことがあった。
出会った人、演奏をきいてもらった人は何人になるだろう。
今こうして演奏を職業としながら、普通の生活ができていること、
20代の真っ暗な日々を思い起こすと、「ありがたい」の一語に尽きる。

これからの夢は?とよく聞かれるが「ない」のです。こんなちっぽけな自分が考えつく夢などたかがしれてるから。
それよりも天から与えられた「進むべき道」を真っすぐ歩けたらと思う。それはきっと自分にとっても周りの人にとっても
わくわくすること、嬉しいこと、楽しいことに違いない。

                                                 もうちょっと つづく・・・・かも

                                                   
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