ガイド】日本の史跡を巡る47 桶狭間紀行 久田巻三
- 平成××年5月18日、出張先で半日の時間が空いたので、桶狭間合戦関連の史跡をまとめて回ることにした。戦いは1560年の5月19日に行われているので、一日違いである。もっとも新暦と旧暦の違いはあるが。
- 正午、熱田神宮駅前でレンタカーを借りて、いざ出陣。本来は清洲城から出発するのが筋であるが、半日しか時間がないし、復元された清洲城天守閣を先ほど電車の窓から見てきたので、ここはお許し願おう。
- 南門に車を止め、長い参道を五分ほど歩いて熱田神宮に参拝する。三種の神器の一つ、草薙の剣を有しているという由緒からも想像できるように、まさに巨大な社である。信長は、決戦当日の朝、ここで戦勝祈願をしたと言われている。
- 拝殿の手前に、高さ三mほどの石造りの塀が両側に延びているが、これは信長塀と呼ばれている。桶狭間の勝利に対する感謝ということで、戦後に信長が寄進したと伝えられている。
- 近くに神宝館があったので、三百円を支払って覗いてみる。あまりたいしたものが展示されてない。ここは国宝の短剣を所蔵しているのだが、特別展の時以外は見られないということだ。
- 再び参道を戻り、南門脇にある上知我麻(かみちかま)神社にも参拝する。「信長公記」で言う源大夫の宮である。午前八時頃、ここからはるか南方を見ると、織田方の鷲津、丸根砦方面から黒煙が上がっていたという。当時はここから十km以上も離れている場所を望むことができたということである。だが、今はすぐ目の前にビルが乱立し、全く視界がきかない。
- さて、織田軍はここから東南に進み、まず丹下砦に向かった。ところが、この砦の所在地が分からない。詳細な道路地図を事前に精査したが、見つからない。砦と言うくらいだから当然高台にあるはずだが、桶狭間への途中で、かつ山の手サイドにあるものというと、地図上では見晴台遺跡しかない。もしかしてと思い、寄ってみることとした。
- 国指定史跡見晴台遺跡は、弥生時代後期の、いわゆる環濠集落である。南北200m、東西120mという規模は、とても九州の吉野ヶ里遺跡には及びもつかないが、航空写真で見ると環濠の跡がそのまま道路として残っており、小さいながらも防御機能は優秀だったと思われる。
- 見晴台というその名の通り眺望がよい。近代には、高射砲の陣地としても使われたということで、所々にコンクリートの残骸が放置されている。丹下砦の位置が特定されてない(?)のであれば、ここは有力な候補地ではなかろうか。
- 遺跡の頂上に名古屋市立見晴台考古資料館がある。土器などの出土物が展示されているほか、住居跡観察舎という別棟もあり、柱のピット穴が模型で復元されていた。その下に埋まっている本物の遺跡は、毎年一回夏に行われる市民参加の発掘の際に見ることができる。
- 見晴台遺跡を後にして、いよいよ戦場地帯に向かう。信長は、丹下砦から善照寺砦に進軍し、そこで兵を整えたとされている。我らも歩、いや車を進めるとしよう。
- 天白川という一級河川を渡ると、敵である今川方の鳴海城の勢力範囲に入る。一気に緊張が高まる。
- 鳴海城は、別名根古屋城とも呼ばれた。現在天神社という小さな神社の境内に鳴海城趾と書かれた大きな石碑が立っている。道路(旧東海道)の反対側の高台には、鳴海城跡公園という子供の遊び場もある。百m四方の広さであり、ここが本丸だったのであろうか?
鳴海城は、本丸の他、二の丸、三の丸、堀などを有する本格的な城だったという。眺望もよく、おそらく大高城や鷲津砦も見通せたと思われる。
- 天神社の脇道を車で上へ上へと登っていくと、善照寺砦公園があった。事前に所在地が把握できていなかったのだが、すぐ見付けることができてラッキーだった。鳴海城からは車で数分の近さである。信長が兵を整えたと言われるこの砦も、現在はやはり子供たちの遊び場になっており、石碑と解説板があるのみだ。
- 場所としては鳴海城に続く丘陵の東端に位置しているが、標高は鳴海城よりさらに高い。相当に眺望がきいただろう。信長がここを拠点にして、戦況を判断したのもうなづける。ただ、二千の兵がここまで登るのは大変だっただろう。おそらく、東側の丘の下に集結させたものと思われる。
- さて、信長はここにしばらく留まった後、意を決して中島砦に向け、兵を進めた。丘を一気に駈け下り、鳴海城の南側を警戒しながら行軍し、無事入城を果たすことができた。馬なら十分もあれば着いてしまうだろう。
- 中島砦とは、その名の通り、扇川と手越川の合流地点にできた中州の上に設けられた砦である。ちょうど二等辺三角形の尖った頂点の部分に当たると言えば分かりやすいであろうか。
- 現在は民家の庭に中島城跡と刻んだ石碑が建っているだけだが、善照寺砦公園でも見たあの解説用プレートがちゃんと塀に取り付けてあった。観光客向けに市が設置しているのだが、当時のものが全く何も残っていないこんな所でも、わざわざ訪ねてくる物好きがいるのであろうか?(そう言う自分がそうなのだが)
- 「信長公記」によると、信長が中島砦に向かうのを、家臣たちは馬の轡に取り付いて制止したとある。それはそうだろう。湿地帯だから一斉に移動することができないし、その上、鳴海城や敵の手に渡った鷲津砦からも丸見えだからである。
- だが、信長は決断した。義元の本隊に少しでも近づかなければ勝機は無いと初めから考えていたのであろう。いや、それよりもむしろ、初めから襲撃される危険は少ないと計算していたのかも知れない。善照寺砦にある程度の兵力を残しておけば、上から監視されている鳴海城としては撃って出にくい。一方、鷲津の兵は朝方からの攻撃に苦戦して疲れ切っているはずなので、これも動きが鈍いと読んだのだろう。
- 果たして、無事中島砦に移動することができた信長は、ここで今川義元の本隊が桶狭間山に陣しているという情報を梁田鬼九郎より得ることになる。
- いよいよ桶狭間の戦いのクライマックスに向かうわけであるが、楽しみは後に残して、ちょっと丸根、鷲津の両砦と、大高城を見ておこう。
- 丸根砦は、中島砦から南西に向かって数km走り、緑ヶ丘という丘陵を一つ越えて降りたところにある。新幹線の高架の下に砦前という交差点があるのだが、砦自体はちょっと離れていて分かりにくい。道路に小さな標識は出ているので、その矢印の方角を見上げると、ああ、あれかという感じである。大高緑地公園という巨大な自然公園の向かいにある独立峰である。
- 東西三十六m、南北二十八mの小さな山を巾三mほどの堀で囲んで要塞にしている。石垣などはない。城というよりやはり砦と呼ぶのがピッタリだ。千人は収容できなかったであろう。標高としては、背後の緑ヶ丘丘陵の方が高いが、目の前の大高城方面は開けていて、敵の動きを監視するには絶好の位置である。
- 兵糧の欠乏に苦しんだという大高城だが、この砦の果たした役割は大きかったであろう。そもそも今川義元が西上したのも、上洛するためというよりも、まず大高城救援が第一目的だったのではあるまいか?
- もう一つの鷲津砦は、丸根より北に車で五分ほど走った所にある。規模としては若干丸根より大きい感じである。麓に空堀のような跡も残っていて、立て籠もった軍勢も多少は多かったかも知れない。鳴海城と大高城の連絡を監視する役割を果たしていたに違いない。
- さて、相手の大高城であるが、大きな緑の固まりが遠くからでも見えるので、迷うことはない。現在はかなり埋め立てが進んでいるが、当時は城のすぐ西側は海だったようだ。桶狭間合戦当時、今川方に属した尾張蟹江城の服部左京大夫が、船団を率いて城のすぐ下まで参戦している。
- 大高城は、東西百六m、南北三十二m、回りを二重の堀で取り囲んでいたという本格的な城である。現在でも、一部に堀の面影と石垣が残っている。先ほどの両砦と違って本丸の平地部分が広い。数千の兵は収容できたであろうが、それでもとても万は無理である。今川義元がすぐに大高城に入城しなかったのも、城の規模が影響しているのかもしれない。
- ここも視界はよいが、先ほど通ってきた緑ヶ丘の丘陵があって、桶狭間方面は望めない。もともと海城なので、遠くは見通せないのだ。桶狭間合戦の当日、徳川家康がここにいて、主戦場から取り残されたのも致し方ないであろう。
- さて、東海道を下って、いざ決戦場に向かう。その名も桶狭間という交差点を過ぎて少し行くと、「桶狭間古戦場跡」と書かれた大きな看板標識が現れる。やはり一大名所なのであろう。昭和十三年、関連する丸根砦、鷲津砦、大高城、戦人塚と合わせて、国の史跡に指定されている。
- 史跡自体はちょっとした日本庭園のような感じの公園になっている。当然のことだが、見るべきものは何もない。こんな百m四方ほどの狭い範囲で合戦が行われたはずもなく、ここは今川義元が討ち取られたという伝承地なのである。
- 近くに高徳院というお寺があった。ちょっとした小高い丘になっていて、義元の本陣跡と書いた石碑がある。ここが桶狭間山なのだろうか?
ちょっと器が小さいような気がするのだが。
- 境内には資料館もあるが、既に閉館時間を過ぎていた。一体どんな資料があるのだと、問い詰めたくなる気持ちをぐっと押さえて、一冊の小冊子を五百円で買い求めた。地元の研究家が豊明市報に連載した寄稿を集めたものだ。数十もの関連文献を調べ尽くして桶狭間合戦の真相に迫ろうというもので、なかなか読みごたえがあった。
- 古戦場伝承地から少し南に行くと、戦人塚という、桶狭間合戦の犠牲者を葬ったと伝えられる塚がある。東海道から東へ折れて標識に従って進み、かなり上まで登っていく。こんな山の上に二千五百人分の遺体が埋められているのであろうか?
- いずれにしてもここが当時の激戦地であったのは間違いないだろう。もしかしたら、こちらが桶狭間山だったのではないかというような疑問も涌くくらいの戦略上の要地である。
- 周辺の開発が進んで、当時の地形を留めていない今となっては、真の桶狭間の場所を確定するのはもう無理である。また、その必要性もないであろう。
- 最後に、今川義元が当日の朝、決戦に向けて出立したという沓掛城を見ておこう。だが、当初懸念していたように、その場所が分からない。事前に調べた地図にも載っていなかった。先ほどの善照寺と中島は何とか探し出せたが、今回は地域が広いので難しい。
- 豊明市の台地状の丘陵地帯を当てずっぽうに、高いところを目指して車を走らせる。ようやく沓掛という看板標識のある交差点を見つけ出した。近くには鹿嶋神社という古社もある。城はきっと近くにあるのだろうが、城跡は探し出せなかった。もう十八時を過ぎ、日も落ちかかっている。無念だが、諦めよう。
- 帰りは、渋滞気味の国道1号線(東海道)には戻らず、豊明から斜めに名古屋に通じる国道を走った。平らな東海道とは違って、山あり谷ありの起伏の激しい道である。このあたりの三河と尾張の国境地帯で今川軍を迎え撃とうとした信長の判断は、極めて賢明だったと言えるだろう。
- 信長は、帰りに熱田神宮に寄って戦勝報告をしている。私も神宮の方に手を合わせ、今日の旅の無事を感謝した。戦いは終わった。
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