短歌な日々に付箋!
(森岡貞香編)
| ◇ 馳せ帰り走りいでけり汝の置きし熟梅はにほひあかねさす晝 |
汝の置きし、から、熟梅はにほひ、までが、音的にギク
シャクした感じ。
馳せ帰り走りいでけり、のあたりも、説明臭い感じが
ある。
で、全体にすっきりした感じのしない歌であるが、前か
ら気になっていた。
で、気になる理由というか、この歌の魅力は、熟梅と子
供の生命感が相関して生き生きとしているところかな、と
思っていたのだけど、むしろ、ちょっとたどたどしいとも
思える<馳せ帰り走りいでけり>が肝なのか、と最近は
思っている。
わりとこういうべたな言い方を森岡貞香はするところが
ある。「下手うま」な感じにも取れる。(でも「下手うま」
とは違う)
ざくっと言ってしまうところ、なんか力技でもある。
Date: 2005-01-09 (Sun)
| ◇ 帰りくればぬれえんにさす月光に未だ干されあり足袋とくつした 『白蛾』 |
ぬれえんの、<ぬれ>が、月光と相関して、したたるばかりに月のさす、
というイメージがわく。
ぬれえんという生活じみたもののうえに、さらにつつましい母子の生活
を象徴したような足袋とくつしたが干されたままになっている。
でもこの歌にわたしは、あまりつましい感じとか、生活的な感慨は感じ
ない。むしろ、したたるような月の光の中に、なにか不可思議のもののよう
にほつねんと置かれている足袋とくつしたのイメージが立ってくる。
「ぬれえん」と「くつした」のひらがな表記におそらくそういう生活臭を
はらう工夫があるのだろう。
「ぬれえんにさす月光に」の「に」も効果的であるように思う。
「月光の下に」というような説明的な感じがなく、月光からそのまま
足袋とくつしたへとなだれていく作りがうまいと思う。
生活や「私」がぐっーーとしぼられて、ふっと現れた<足袋とくつした>。
Date: 2003-02-11 (Tue)
| ◇ ぱんこねる掌(てのひら)はりはり乾きゆき手相を浮かす薄命といふ相を 『白蛾』 |
下の瓦斯のとろとろ、同様、掌はりはり、あたりは拙い印象を与える。
<薄命という相>もやや俗といえば俗といえる。
しかし、ぱんをこねる掌に小麦粉がはりはりと乾いてまとわりついている
感じ、ちょっと間が抜けている感じ、がよくわかり、そこから手相が浮いて
出る、というのが<薄命>を俗な深刻さから回避させている感じがする。
ぱんこねる掌はりはり・・は、拙そうでいて、後年の森岡貞香の自在な
言葉の言い回しに通じるものがある。
Date: 2003-01-05 (Sun)
| ◇ とろとろと瓦斯燃えてゐて夕方の軽き目まひをわが踏みしめる 『白蛾』 |
とろとろと・・という歌いだしは拙い印象を与える。
しかし、瓦斯がたよりなく燃えている様子と目まひの感じが呼応してい
る。瓦斯の炎に意識がつながれていて、めまいの方へよろめいていかない
ように<踏みしめ>ている感じがある。
個人的には、歳晩、普段より台所に長く立つことが多く、体調不良もあ
って、ときどき目まいがした。だから・・というわけではないが、ふと心
にとまった歌。
Date: 2003-01-02 (Thu)
| ◇ わたのはらしづかにありてきこえこしこゑはくぢらの子をよべるこゑ 『夏至』 |
こゑ から
子、以外はひらがな。
ほんとうに海から鯨の声って聞こえるのだろうか?
きゅーとかいうのであろうか?
あるいは詠われているのはイメージの<こゑ>であろうか?
しかし、しんとした感じのいい歌だと思う。
ひらがな書きが音へのイメージをかきたてる。
ひろい海、わたのはらに、しんとしたなかに、ひとすじ聞こえる
細い細いこゑ。
母が子を呼ぶ、というところをあまりに強くよみすぎないほうが
良いと思う。
Date: 2002-08-10 (Sat)
| ◇ 薔薇の實の皺める赤の實みづからに机上の雑多のなかにまぎれつ 『夏至』 |
微小地震から
薔薇の実はローズヒップというハーブティーにもなる。
ローズヒップというとおしゃれなイメージがあるが、バラの実そのものは
ころんとして可愛い感じの形状をしている。
そのころんとした皺皺の実が、雑然としたなかにみづからまぎれていった。
雑多のなかに実は紛れていったが、言葉とこころは、しばし雑多の世界か
ら、ころんと転がり出た。
Date: 2002-07-31 (Wed)
| ◇ 昨(きそ)ひと夜ゆたんぽ抱けば追熟といふべくわれのやはらかにある 『夏至』 |
暑いヒートアイランド現象の夜に、ゆたんぽの歌もなんであるが・・
ゆたんぽ(ひらがな表記であるのがいかにもやはらか、結句にも
つながる)って抱くものだろうか?私などは布団のなかの足もとに
置くが・・。
しかし、作者は抱く。ゆたんぽの熱で、自分自身がゆっくりまっ
たりほんのり追熟する、という感覚。追熟するのは、朝の感覚で
あり、抱いていたのは昨(きそ)。しかし、追熟にいたるまでの
一夜、ゆたんぽがわれかわれがゆたんぽか、というようなゆたん
ぽとの一体感があったと思われる。これは足元に置いていては
感じられないだろう。
われのやはらかにある、このような身体感覚(という言葉が適当
かどうかはわからないが)は新鮮である。
Date: 2002-07-31 (Wed)
| ◇ へや二つ走りて通るときありて髪止めのpinその閧ノ落つ 『夏至』 |
静かにある日 より
こういう歌は、広い意味でのただごと歌的な感じがある。
ピンが落ちてて、だからそれがなんなんだ、という感じでもある。
この歌はいい歌かそうでないか。
ちょっと迷う。
しかし、おそらくいい歌だと思う。
どこがいいのか、というのがまた難しい。
たかがピンがおちていただけである。
しかし、このpinという表記、および結句の字余りはやはりなにかを
感じさせるものがある。
忽然と落ちている感じがある。
これが髪止めのピンではなく、クリップなどであったらどうであろう。
さらにかぎりなく狭い意味でのただごと歌へと傾斜する。
髪止め、というのはおそらく自分の髪をとめていたもの、そうでなくても
女性の髪にかつてあったもの。
髪にあったときは、髪の一部のように、おそらく女性の体の一部のように
存在したものが、忽然とただの<もの>として落ちている。その落差。
(あまり女性の髪、という生な感じを強くもって読まないほうがいいとは思
うが)
日常の不思議な違和感がここにはあると思う。
その日常の不思議な違和感の表現に、喩を用いて詩的な飛躍を狙うとか、
そういうものではない手法がここには用いられているように思う。
Date: 2002-05-12 (Sun)
| ◇ 服装のろまんちつくのごとくにも蓮の葉のへりふるふるうごく 『夏至』 |
白桃 より
表現がたのしい。
「服装のろまんちつくのごとく」とか「ふるふるうごく」と
いった言い方が、自在である。
蓮というと仏様の座っておられるイメージとか、水の上に
ひろがるしずかな雰囲気がある。けっして軽いイメージではな
いのだが、「ろまんちつく」「ふるふる」とかろがろと
詠んでいる。
10年ほど住んだ町は、あちこちに蓮がみることのできた。
私は、毎日、通勤バスの中から、蓮をみて通っていたが、ついに
「ふるふるうごく」葉のへりにこころとめることはなかった。
Date: 2002-05-05 (Sun)
| ◇ 椅子にゐてねむれる閧ノあふ人にあひて別れきそれぎり逢はぬ 『夏至』 |
白桃 より
夢で、あった人ともうそれきり逢わない、
この逢った人は実在の人であろうか?
死者なのか、あるいはまったく夢のなかだけで逢った人なのか。
よくわからないが、後者かもしれない。
椅子での眠りというと、ほんとにうたた寝、短い時間の眠りである。
そのなかで、逢い別れた人。
実人生のなかでの出会いと別れも、実際は椅子の眠りのあわいのこと
のようにはかない。
Date: 2002-05-05 (Sun)