PON BOOK 2
(この日本語訳は仮訳です。不適切な訳や誤訳があると思われますので予めご了解下さい)
1. PONの歴史
[イヌ人に会う]
イヌは、人類が味方に付けるためやコントロールするために征服する必要がなかった唯一の動物である。イヌは初期の人類の頃、たき火に喜んでやってきて食料を分け合い互いの利益を守った。有史前の時代に築かれた絆は時代を通して生き残り、強くなっていった。イヌは人類にとって、アシスタントとしてまた友人として貴重な存在となった。そして、動物界の中で他の種が持っていないような恩恵をこの関係の中から得ているのである。この絆がイヌにとってあまりに便利で不可欠なものになってしまい、今日ではイヌは人なしでは生きていけなくなった。あなたが興味を持つようになった、この4本足の毛のふさふさした腕白小僧のことをもっと十分に評価し理解するために、まず彼のfamilyの年代記を少なくとも一覧することが有益であろう。
[ルーツはチベット]
PONは大変に古い犬種であるが古代犬種ではない。PONやPONのようにふさふ
さした毛で被われた多くの犬(種)は、もともと中央アジアで生育していた犬種、チ
ベッタンマスティフ、チベッタンスパニアエル、ラサアプソ、チベッタンテリアが先
祖だと考えられている。これらの犬種の祖先がいずれも同じかどうかは確かではない
が、彼らはいずれもいろんなタイプと色を持ったふさふさした長い毛で被われている。
アジアの高い山々と巨大な渓谷は人々を孤立させ、特別の目的を持った新しい犬種を
作り出す試みをさせたに違いない。チベットはいつも外国との貿易に携わっていたと
知られており、絹や黄金の他これらの土着の犬種が同様に交易されたと言うことは十
分に考えられることである。こういうことで世界の別々の地方から生まれた多くの犬
種が類似性をもっていることが説明できるであろう。
[移動する牧羊犬]
東方からの遊牧民族がヨーロッパに移住してきたとき、犬は既に戦争や狩猟に、また
家畜の番や世話に使われていた。移住者によっては、ロシアに侵入した者がいる一方、
南ヨーロッパへの西行きのルートとして山道をとった者もいると思われる。Harry
Gloverは彼の著書「純血犬種」(Purebred Dogs)の中で、牧畜と定住者の略奪に大き
く依存していたフン族は、いろんな種類の牧羊犬を西ヨーロッパに移住させるのに役
立ったということを示唆している。フン族が14世紀後半にヨーロッパに大暴れしな
がら侵入してきたとき一緒に付いてきた大きな厚い被毛で被われた牧羊犬は、おそら
くその土地の犬と交配され、特別の性質や機能を持った使役犬として作られたと思わ
れる。人類が新しい辺境を越えるに従い、地勢や気候や要求される仕事に適合するよ
うに犬は進化してきた。新しい環境に順応し、選択的な繁殖が行われて特性が固まっ
たところで新しい犬種は固有のものとなる。
[護羊犬と牧羊犬]
歴史的に見て、羊飼い用の犬(shepherd dogs)には二種類あることが知られている。
一つは護羊犬であり、もう一つが牧羊犬である。護羊犬は大きくてたくましく、牧夫
に警告を発する間、熊や狼やオオヤマネコなどと戦うことが出来る。こうした
Mollosser-typeの犬は通常羊や山羊の群に混じり込むように白い。これらは今日でも
ヨーロッパ中で見つけることが出来る。ピレニアン・マウンテン・ドッグ、ターキッ
シュ・アナトリアン、イタリアン・マレーマ、ユーゴスラビアのSzarplaninacそして
ポーリッシュ・タトラ・ドッグである。大きな犬は羊たちを脅かし、また、特に子羊
の世話のように穏やかな仕事にはあまりに攻撃的すぎる。羊飼い達はもっと扱いやす
く、素早くて知的な犬を、家畜の群の世話のため必要とした。この目的のため、より
小さい牧羊犬が開発された。これらの牧羊犬は家畜の群を牧草地に連れて行ったり、
群から離れないようにしたり、池やその他の障害物に行かないようにする。
牧羊犬の幼犬は羊と一緒に生活し、子羊と一緒に遊び羊の群の一員として成長した。
PONは最も沢山ある牧羊犬の一種に属している。彼らは小型の牧羊犬の最も基本的
な特徴である、がっしりとした体つき、滑らかできびきびとした歩様、丈夫ですべす
べして体をしっかりと守る被毛といった体の傾向や、忠実な性格と群を守る強い本能、
見知らぬ人への警戒心、高度に開発された領域を守る意識、そして強い独立心といっ
た傾向を持っている。これらの小型牧羊犬は、大型の護羊犬が野獣から家畜を守ると
いう役割の余地を残しながら、人々の牧畜作業を手助けしてきた。
ポーリッシュ・ローランド・シープドッグの他にロシア、ドイツ、チェコスロヴァ
キア、ハンガリーと国境を接する国々には似たような犬がいた。Maxwell Riddleは
彼の著書「歴史を通してみた犬」(“Dogs Through
History")の中で、古代のギリシ ァエジプト、イスラエルの文学では牧童や牧羊犬は一般にそんなに尊重される存在で
はなかった。というより実際軽蔑されていた。多分時折PONに見受けられる頑固さ
は生き残るための本能的な決意の反映であろう。
[幸運な犬]
PONは実際良く生き残った犬であった。20世紀のPONは何世紀にも及ぶ不運な
物語を背負っている。PONは過去2千年人類を手助けするために開発された何百も
のいろんなタイプの猟犬、牧羊犬、護羊犬のたった一種にすぎない。悲しいことに、
多くの古いヨーロッパの使役犬は現代人の生活様式や必要性の変化により消滅した。
2回の世界大戦の影響も多くの犬種を消滅させ、あるいはほとんど消滅寸前といった
ところに追い込んでいる。最も役に立ちニーズにフィットしている幸運な犬種だけが
生き残る。PONの働く能力、人を楽しませることがとても好きな性格(仮:intense
desire to please)そしてその双方を両立させる性格が混乱の時期を乗り越えさせたのだ。
[初期のPON]
中型の、ふさふさした被毛で被われた牧羊犬の存在が知られていて、ほとんど東部
と北部地方のポーランドで数世紀にわたり選択的に繁殖されてきた。我々がある犬種
の発達の全過程をトレースする事が出来るのは直接的な記録や古い絵画や岩山の彫刻、
古い墳墓などを通じてである。数百頭の羊と一緒に働くポーランドの毛のふさふさし
た中型の牧羊犬に関する最初の記述された記録は13世紀からである。外国から輸入されたcultivated
animalsの群が、牧童と中型の毛の多い犬に番をされているという
ものだ。
次のポーランドの牧羊犬についての記述された情報は1514年のものである。Willson夫人の著書「ベアデッドコリー」はポーランドの船主であるGdansk(地
名)のK.Grabski 氏とスコットランドの羊の繁殖家との間に交わされた書面による
契約書を掲載している。Grabski氏は小麦とスコットランドの最も丈夫な羊との交易の
ためポーランドから航海してきた。彼は6頭の牧羊犬を伴ってきており、その牧羊犬
の役割は60頭の羊の中からGrabski氏が選んだ20頭の羊を分けるというものである。
そのスコットランド人はそれらの犬の巧みな働きにたいそう感動し、羊をひとつ
がい追加する代わりに牧羊犬牡一頭牝2頭を欲しいと申し入れた。Willson夫人は毛の
ふさふさした犬は紀元前2000年頃英国諸島に導入され、ポーリッシュ・ローラン
ド・シープドッグは現在のタイプのベアデッドコリーを作り出す手助けをしたと信じている。
ポーランドのCiechanowiec教区民であるChristopher Kluk氏は、1779年に
書かれた農業、狩猟、自然史に関する本の中で、大変利口な毛のふさふさした白い、
ほとんどの場合尾のない、明らかに容易にPONのタイプと認識できる犬と慣れ親し
んでいたと書いている。(この本の中で) “poodle”という言葉(ドイツ語では
“HirtenpudelもしくはSchaferpudel)はふさふさした被毛の犬を指す言葉として使
われている。Klulk氏によれば「Poodleは通常中型で毛がふさふさしており、利口で
ほとんど人間と同じ知能を持っている。羊の群の世話をさせれば他の犬とは比べものにならない。」他の本の中で彼はその犬は選択的に繁殖されているとも書いている。
もう一つの文書は北部ポーランドのPodlasieのJablonowska王女によって1783
年から1785年頃書かれたものである。彼女は彼女の農場について次のようなルー
ルを作った。つまり1000頭の羊の群毎に3人の人間と、守りのための2頭の大型
犬とそして2頭の小さめの犬によって番をすべしと。
また、中型の牧羊犬はポーランドの他の地域――Lubin近郊――でも知られていた。18世紀から、気だての優しい利口な毛の長い犬が、大きな農場で、昼間は羊の群の
世話に夜は家の周りの番犬に使われていた。彼らは、頭の形や耳や色の形態ではなく、
毛玉になりにくい長い体を守る毛の質や群を守る本能、気性などの良さや飼料を効率
的に使う能力(?the ability to utilize food
well)などで選ばれた。この壮健な使役犬 は彼の生息地であるポーランドの過酷な状況に完全に適していた。PONは屋外のあらゆる気象状況の中で決まった食料がもらえるといった便宜なしで働いた。当時は、人間も動物も、最も頑健で知的な種のみが生き残ることが出来た。
[最初のショードッグ]
19世紀末のポーランドで、農場の動物ショーが流行になった。農場の動物と一緒
に牧羊犬をショーに出すのも一般的になった。この時期はポーランドにとって大変困
難な時代であった。祖国は三つに分断されていた。1881年のそうした最初のショーではたった一頭の牧羊犬が出展された。
[世話をする羊がいなくなった]
20世紀初頭までに牧羊業は繁栄する産業ではなくなった。そして、毛の長い牧羊
犬は段々農夫達の間で人気を失っていった。羊を飼っていない農夫達はもはや牧羊犬
に関心がなかった。PONは当時「純血種」(“purebreds")とは呼ばれておらず、単
なる使役犬であった。血統や形態には無関心であった。何人かの古い農夫が、主とし
て感傷から身の回りに牧羊犬を残しているだけであった。
[ブリーダーのパイオニア]
第一次世界大戦後、長い占領の年月の後ポーランドが独立してから、ポーランドの
動物の純粋種に対する関心が高まった。このお国の利口な小さな犬に最初に関心を向
けたのは東部ポーランドのRadzynに近いPlantaに住むMaria J Czetwertynska
Grocholska伯爵夫人であった。彼女は数頭の牧羊犬を年老いた羊飼いから購入し、多
分この犬種の歴史では初めて形と容貌のための選択的な繁殖を始めた。1924年、
ワルシャワで開かれた、家禽と鳩と犬のショーで彼女は最初の2頭のポーリッシュ・
ローランド・シープドッグを出展した。それらの犬には血統証など無かった。彼女の
犬舎は1941年まで存続し、何年もの間彼女は繁殖した犬を定期的にショーに出展
した。 Grocholska夫人の血統の中から、Radzynに近いMilanowのWanda&Roza
Zoltowskaは1930年代にPONの繁殖を始めた。彼女らはFajkusとTuskaから始
めて5世代にわたる繁殖を行った。Wanda Zoltowskaは、彼女らが繁殖した全ての
犬も、彼女らの住んでいた地域で見た他の牧羊犬も、形においても、中型であること
や、白くて、あるものはクリーム色の斑点があり、ほとんど自然に尾が無いといった
ことなど、みんな似ていたと書いている。また、彼女らは全ての犬が優秀な羊番や家
畜番であり、番犬としても利口で親しみやすいペットとしてもいいと書いている。
それらはまた、イノシシを追跡するのにも使われた。
Zoltowska犬舎は12年間存続した。これらの二つの犬舎から全部で17頭のPON
が1924年から1937年の間にショーに出展された。これらの3人の女性の活発
で成功裏に行われた繁殖とショーへの出展活動はこの犬種の人気に重要な影響を与え
た。
[PONの復活]
ポーランドにおける民族的な誇りがエスカレートしていく中で、犬に熱心な人たち
がポーランドの純血種を確立し登録しようと試みた。1937年、「使役犬協会」が彼
らの公式紙である「My Dog」に、ポーランドの牧羊犬に関する調査プログラム
の通知を掲載した。彼らは、血統が分かっているかどうかに関わりなく、農夫達と一
緒に住んでいる犬の情報を集めた。ポーランドの牧羊犬の全ての所有者か、このタイ
プの犬を知っている人全てにその犬種の情報、例えば、何匹の犬がどこにいるか、そ
の地方にその犬は何年くらい存在しているか、ブリーダーの名前、彼らが出会ったり
所有していたりする犬の正確な描写などを出来るだけ提供するように要請した。
Wanda Zoltowskaの台牝であるTuska z Planty
の写真がその通知に掲載された。 この犬種の復活が間近に迫っていた。
[戦争の勃発]
不幸なことに、この犬種のためになされた全ての作業は全て無駄なことに帰してしま
った。第二次世界大戦が勃発すると、ポーランドにおける全ての愛犬活動は停止した。
犬たちは失われ、記録類は破棄され、ポーランドの人々は自分たちの生き残りのこと
に気を取られた。Wanda Zoltowskaは彼女の新聞“Owczarki Nizinne z
Milanowa“で彼女の牝犬であるPsycheのことを詳しく書いている。Psycheは194
4年のワルシャワ爆撃の間、Wandaと一緒に住んでいた。彼女は(Psyche)いつも一
番に爆撃が始まることを人々に警告し、爆撃が始まる前に地下壕に避難するようせか
した。彼女のお陰で多くの人々が、地上の彼らのアパートの建物が崩壊する中、地下
壕の中でこの恐ろしい時代を生き延びた。この差し待った危機を人々に警告する能力
によってPsycheは、飢えたワルシャワの人々が犬や猫を見つけたら(食料に出来ると)
喜んだような時代に、自分自身生き残ることが出来た。人々に大変重要な形で奉仕す
ることによって、Psycheはこの戦争を生き残ることが出来た。Ms.Zoltowskaも彼女
の二頭の犬とともにこの戦争を生き残った。彼女と二頭の犬はKrakowに移り住んだ
が、その後の彼女の犬との関わりは知られていない。
[他のパイオニア達]
戦後、愛犬活動により1948年にポーランドケンネルクラブが設立された。ポーラ
ンドケンネルクラブのBydgoszcz支部とMaria Dubrowinowaは戦争が終わると直ち
にこの犬種を救い再確立しようと試みた。彼らはポーランド北方の農夫達のポーラン
ド牧羊犬の調査を復活させた。彼らは質のいい犬を事前登録用に選んだ。そのことは
つまり、PONに似た犬であれば登録され、ナンバーをふられ、繁殖用に使われるこ
とが出来た。そして本当に質のいい子犬だけが第二世代の繁殖に使われた。そして、
三世代の先祖が分かるようになるとその犬は登録され正式な血統証を受けることが出
来た。1957年、最初にPONを登録した犬舎はMrs.KusinowicsのBabia Wies
犬舎である。彼女は1946年以来PONを繁殖していた。
[犬種の柱]
現代のPONの繁殖と奨励に最も貢献したのは間違いなくDr.Danuta Hryniewicz
である。彼女は、第二次世界大戦後ポーランドの海岸地方で開業した獣医である。彼
女は近くで二頭の牧羊犬を所有している老農夫と出会った。その牧羊犬はDr.
Hyniewiczが戦前PoznanやLwow付近でよく見たことのある種類であった。彼女は
これらの牧羊犬が羊飼い達に大変評価されていたことを覚えていた。彼女はその農夫
に、将来彼の犬、KurtaとLaskaが出産したとき彼女のために一頭とっておくように
頼んだ。というのもその当時彼女は他の犬種の繁殖に取りかかっていたからである。
数年もしない内、Dr.Hryniewiczは妊娠した状態で牝のLaskaを譲り受けた。この犬
はそれまでにすっかり年をとっており、たった一頭の子犬を出産した。彼女は創設し
た犬舎の名前をとってその子犬にSmokzKordegardyと名付けた.Smokは“dragon
=竜”という意味である。 その当時、彼女にはこの新しい犬種を繁殖する計画はなかったので、その犬は地方
の羊飼いにやられ、さらに他の農夫によってその優れた羊番の能力で有名になった。
数年後、Dr.Hryniewiczはある犬の雑誌で、戦前よく知られていたポーランド土着の牧
羊犬に関する記事を見つけた。その記事に付いていた写真とその記事の描写から、そ
れは彼女のSmokの描写と合うことに気が付いた。彼女は地元のケンネルクラブと連
絡を取り、その(地元の)ケンネルクラブはMrs.KusinowiczのBabia Wies犬舎を
紹介した。他の人々がこのすばらしい犬種を再確立しようと試みていると言うことに
勇気づけられて、彼女はBabia Wies犬舎から二頭の子犬、DukatとDiunaを買った。
彼女は更にSmokを彼女の犬舎に取り戻した。それは1955年のことであった。
次に彼女はKrakowから若い、白の、尾のない牝犬を手に入れた。彼女の名はWiga
といい、初期のPONであるPlantaとMilanowの系統であると信じられていた。そ
して多分このPlantaとMilanowは第二次世界大戦を生き残ったMs.W.Zoltowska
の所有していたPONのペアの系統と思われる。
[犬種の父]
Smokは解剖学的にも完璧な身体であり、かつすばらしい気性を持った優秀な犬であっ
た。Dr.HryniewiczはSmokはこの犬種のepitome=概略、縮図であると考えた。
(PONの)スタンダードが出来る前、Smokは彼女が(PONを)繁殖する際のスタ
ンダードであり、その後の新しい世代のためにブリーダー達が模範としたタイプであ
った。Mrs.M.Dubrowinowaによって書かれた(PONの)スタンダードは1959
年にポーランドケンネルクラブによって受理された。
Dr.Hryniewiczは1956年に3胎繁殖を行った。その内2胎はSmokとDiunaに
よるもので、もう1胎はSmokとWigaによるものであった。Smokは1956年から
1959年にかけて10胎の父親となった。必要性から大規模な近親繁殖が行われた。
Smokは彼の娘とも孫娘ともかけ合わされ、ブリーダーや農夫達が待ち望んでいる様な
犬を生み出した。Dr.Hryniewicz自身の言葉によれば「その当時(50年代)、私は私
の犬舎でむしろ強烈な近親繁殖を行った。悪い結果がでなかったのは本当に幸運であ
った。それはSmokのお陰だと思う。Smokは高度に均質だったので彼の長所を全て子
孫に伝えたのである。」 Dr.Hryniewiczのところにはポーランドの国中から子犬を分けて欲しいという依頼
が殺到した。彼女は、その犬種の使役犬としての能力がそのまま残されるのを確保す
るため、同胎犬の中から必ず彼女の住む地域の羊と一緒に働ける農場に子犬を送り、
その内何頭かを繁殖のためまた彼女の犬舎に取り戻した。
1958年、Dr.Hryniewiczははじめて完全な血統の子犬を獲た。1969年までに
Kordegardy犬舎は150頭の子犬を生産し、その内31頭がチャンピオンになった。
過し年の著名なPONを挙げると、最初のインターナショナルチャンピオンとなった
Amok Moniekの母となったHarfa;InkluzとIwa;有名なインターナショナルチャ
ンピオンであるDomanの父親であるLider;Assan;Garda
Wtora;有名なチャンピ オン犬Gwarek z Psiegoの父親であるチャンピオン犬Witezの母親であるDuda;チ
ャンピオン犬Szelma;チャンピオン犬Lubek;そしてチャンピオン犬Rolaなどであ
る。(特に注記していない限りすべてKordegardy犬舎の犬である)。
PONについて世界中で出版された記事を沢山書いている、著名なPONについて
の大家で、審判員であり、コンサルタントである弁護士のLubomir Smyczynskiによ
れば、犬種を確立させ、繁殖のための最高の品質を持った数頭の犬を得るまでに、第
二次世界大戦後15年の年月を要したということである。
PONがまとまった数で始めて登場したインターナショナルドッグショーは196
5年にチェコスロヴァキアで行われたワールドドッグショーであった。9頭のポーリ
ッシュローランドシープドッグが出展され、それらの全てが高い得点を得た。2頭が
CACIB(Certificate of Aptitude for Championship
of International Beauty=直訳 すれば国際美犬チャンピオン素質証となる)に賞され、他の2頭が準CACIBを獲
得した。1970年以降、この犬種はポーランド国内で顕著にポピュラーとなり、多
くの新しいブリーダーが賞を獲得した。ほとんどのブリーダーはKordegardy犬舎の犬
からスタートしたが、何人かは無名の血統の牝犬からスタートした。1975年まで
にポーランド国内に66のPONの犬舎が出来たが、ほとんどはせいぜい一頭から三
頭の牝犬しか持っていなかった。1971年のブタペストで開かれたワールドドッグ
ショーで数頭のPONが出展された。世界畜犬連盟(FCI)は1959年にPON
を公認し 、1963年と1973年にスタンダードの変更を受理した。
