手動写植機をご存知じてすか

かつて印刷会社やデザイン関係の仕事にかかせない機械の一つが「手動写植機」でした。代表的なメーカーとして「写研」という会社が有名でした。この会社名は印刷、広告、出版など文字に関係のある人にはなじみのある会社名です。
私が初めて「手動写植機」にさわったのは、1975年の12月でした。仕事柄写植指定をするには写植を知らなければいけないと思い、写研「写植スクール」に通ったのが最初です。そのころの写植機は鉄のかたまりで、機械にガラス製文字盤がセットしてありました。オペレーターが割付計算をして操作するモノでSK-3RYと呼ばれたものでした。当時、印刷方式が活字からオフセットに移行していた時期で写植知識はさけて通れませんでした。

原理は暗箱に印画紙をセットして、文字を写し撮るカメラのような機能です。専門オペレータが1文字ずつ文字を「印字」していました。電球を光源としてガラス製の文字盤を通過した光が、レンズで拡大され暗箱の印画紙に届きます。現像すれば「写植」の出来上がりです。この作業をする専門の人を写植オペレータと呼びました。
東京の「写研」、大阪の「モリサワ」が2大メーカーで、リョービも写植機メーカーでした。ガラス製の「文字盤」は、パソコンDTPの「フォント」に相当します。
今日のようにWindowsやMacintoshなどパソコンDTPが登場するまで「手動写植機」が主流の時代が長くありました。

紹介するパボ(PAVO)はかなり進化した機種で、あまりオペレーターが計算しなくても良くなっています。

 
 
写研PAVO-J       PAVO-KY(1990年写研カタログより)

PAVO-Jは写研の手動写植機の中でもっとも普及した機種だと思います。4ビットCPUの制御盤がオペレータの足元に設置されています。印字した文字位置を表示する「インク点表示盤」が左上にあります。取っ手付きの箱が暗箱で、ここに最大12インチ(30.5cm)サイズの印画紙をセットしました。

PAVO-KYはパソコンDTP移行期の最後まで手動写植機として現役で活躍しました。初期型はCRTがグリーンでした。その後ペーパーホワイトに変更され見やすくなりました。手動写植機とはいえ「文字を円形に沿ってレイアウトしたり」「斜体をワンタッチで打ち込めたり」「大きな円弧やだ円が描けたり」版下時代の高機能手動写植機でした。8ビットCPU制御だと思います。

ミニ情報

初期の手動写植機は電源部をのぞいて機械式でした。歯車がむき出しの「鉄のかたまり」でした。その歯車から1歯(0.25ミリ)と言う単位が生まれています。1歯=1Qがそれです。
1975年ごろ「電子回路」でコントロールできる手動写植機(PAVO-8)が登場します。が、まだモニター画面を見ながら作業できる手動写植機はありませんでした。1978年頃になって小さなモニターが付いた手動写植機(PAVO-JV)が登場します。本格的なもの1983年になって登場したPAVO-KYです。

NHKのテレビ画面文字(テロップ)と写研書体


テレビ画面に表示する文字(書体)は、NHKの場合「写研の書体」を使用しています。
現在のテロップはコンピュータで作成していますが、テレビの初期は手書き、その後は手動写植機で作成するため、専用機をNHKと写研が共同開発したのが「スピカテロップ」です。昭和39年頃の事です。

1980年代、印刷業界で本文組版に多く使用された小型軽量の普及機種がスピカです。写真と同じような外観をしています。違いはフイルム状点字盤、印画紙ドラム、ガラス製文字盤が2書体装着仕様等でしょうか。

写真は写研のスピカテロップ


手動写植機のその後


1995年以降パソコンDTPが盛んになるにつれて手動写植機はその出番がなくなりました。モニター付き写植機(PAVO-KY)の価格は、書体の数にもよりますが1台セット1000万円を超える設備でした。廃棄処分には数万円の費用がかかります。
一般の国産機械は中古市場として東南アジアに輸出ができますが、手動写植機は市場がないようでスクラップの運命です。かつては適価で中古手動写植機が取引され、技術があれば比較的簡単に開業できた職種でした。印刷産業の底辺を支えたオペレータがたくさん存在した時代がありました。

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