ピカピカ雑記帳2002年
「ポケットモンスターの部屋」「子どもの本」共通のコーナーです。子どもの本&文化(ポケモン含む)関係で、日々あれこれ考えたことをつづっていきます。
2002年11月21日〜
GBAソフト「ポケットモンスタールビー」をやっている。
今や、インターネットでどんどん情報がアップされるから、攻略本はほとんどいらない状態。ぎゃくに、ネットにアクセスが難しい子どもが気の毒だったりもする。
前作に登場したポケモンを大幅に削ったのには、とっっっっってもガッカリ。「新しいファンと昔からのファンを差別したくない」という理由らしいが(ソースないので、断言できないけれど、そういう噂が流れること自体、問題)、じゃあ、それだったら、全部変えなければ意味ないのではないか。たとえば、ピカチュウにしても、「昔はトキワのもりでゲットできたよね」という一言だけで、新旧ファンの隔たりはできるはず。なんだか結局は、自分たちに都合のいい言い訳を並べたてているのが見え見えだ。
2002年8月某日
ウェンディがお母さんになった、第一次世界大戦真っ最中という設定。父親がセンチへ赴くことになり、長女ジェーンは、母ウェンディと弟の面倒をみると約束をする。いつ空から爆弾が降ってくるかわからないというご時世に、ピーターパンやら妖精やらと浮かれている余裕はない。ジェーンはピーターパンとネバーランドの話を楽しそうにする母と弟に嫌気すら感じていた。
ある日、ピーターパンの話をせがむ弟を叱りつけた罪悪感から、窓辺でふて寝をしてしまうジェーン。すると、フック船長ひきいる海賊一味が現れて、彼女をウェンディだと勘違いしてネバーランドへ連れ去る。そこでピーターにたすけられ、ティンカーベルやロストボーイたちに出会うが、心をかたく閉ざすジェーン。信じる心がないから、妖精の粉をふりかけられても空を飛べない。家に帰ることばかりを願っている。そこをフック船長が見抜いて、ジェーンに近づく。フックのいうままにピーターたちの元へ戻り、いっしょに遊んでいるうちに、ネバーランドの楽しさを知っていくが、時すでに遅し。まんまと罠にかかり、ピーターたちは捕まる。ティンカーベルもジェーンが妖精を信じないために、死にかけてしまう。ティンクやピーターたちを助けるために、ジェーンが立ち上がるのだった。
アメリカでの公開は2002年2月頃で、製作していたのは世界貿易センター爆破よりもずっと前なのだろうが、「信じる心と妖精の粉があれば、悪に負けない」という決まり文句は、あまりにもタイムリーだ。アメリカの正義感をここでもまざまざと見た気がする。
ウェンディはあくまでピーターたちのお母さん役だったが、ジェーンは、初めての「ロストガール」になる。このあたりが、ディズニー・フェミニズムをはっきりと示している。強いヒロインは、書かせない要素なのだろう。
ちなみに、今回のイチオシキャラは、ティンカーベルなのだとか。
2002月7月25日
ディズニー映画『トレジャー・プラネット』の試写を観た。日本公開は2003年7月。
スティーブンソン原作『宝島』のSF版。宇宙が舞台なのに、乗り込む船は、昔とかわらぬ帆船ってのが、こだわりなのか。まだ完成版ではなかったので(アメリカでも今年11月に公開)、ところどころ絵コンテが動いていて、デッサンの仕方、顔の付け方とか、技術的な部分がかいま見えておもしろかった。
原作をご存知の方なら想像できるだろうが、この話はいかにもディズニーらしい「勧善懲悪」の図式には当てはまらない。とはいえ、『ノートルダムの鐘』をあんなに変えてしまうくらいだから、今回もどれだけストーリーが変わっているかが、怖くもあり楽しみでもあった。が、あけてみると、意外にも原作の大筋からはほとんどズレず、エッセンスをかなり忠実に抽出していた。シルバがいい感じに描かれていたのは、個人的に嬉しい。ジムは、性格はともかく、ルックスはもうちょっとなんとかならなかったのか。『アトランティス』といい、最近のディズニーヒーローの容姿は、イマイチかも。アメコミとか日本アニメを下手に採り入れて失敗したような....
いかにも宇宙っぽいマスコットキャラ(スライムみたいなの)が気に入った。これは、かわいらしくグッズ化してほしい!あと、ディズニーの方程式も新たに発見!(たいしたことじゃありません)
2002年7月24日
ディズニー映画『リロ&スティッチ』の試写を観た。日本公開は2003年3月8日。
ディズニー映画史上かつてないタイプのキャラクターというのが売りらしい。パンフには歴代のキャラ(『美女と野獣』、『ライオンキング』、『アラジン』、『ピノキオ』、『リトルマーメイド』など)のキャラが登場している。宇宙の彼方で、遺伝子操作によっ破壊プログラムだけを組み込まれて誕生した生き物(スティッチ)が、逃亡の末ハワイに到着して、少女リロと出会って徐々に愛を知り、最後は家族に収まるという内容。
この映画は、ドタバタの宇宙ギャグコメディと、いかにもハワイの風土をリアルに描いた場面が、見境なしに混ざっていて、そのハチャメチャさがかえって楽しい。おなじみのディズニー式大円団も、あまりに大技をつかってしまって、逆にお決まりを覆しているような印象すら受けた。スティッチは、なかなかいいキャラかもしれない。飾ってあった、特大(もしかして、実物大?)のぬいぐるみは、可愛かった。
気になったのは、ハワイアンが、みんな画一的でブサイクに描かれていたこと。本土のアメリカ人からすると、ああいうのがエキゾチックな南太平洋ってものなのだろうか。
2002年6月28日
なんと、第二次世界大戦中の作品。公民権運動やら民族運動やらの前だから、けっこうな差別的な描き方がある。あるいは、わざと、そういう部分をこしらえていると見えなくもない。なにせ、ダンボ自体が、差別され、それに打ち勝ち、「欠点」を最大の長所に変えて成功するという話だから。ダンボの唯一の味方が、ネズミのティモシーってのも興味深い。これは、ミッキーキャラにつながる部分があるのかもしれない。
映画自体は、ダンボがとにかく可愛い。ティモシーのしっぽを鼻でくわえて歩くほど幼くて、つい守ってあげたくなる。ピンクの像の部分だけは、どうにもキモくてダメだったが、とんでもなくエキセントリックだったというウォルト・ディズニー自身は、ああいうのを普段から見ていたのだろうか?
2002年6月21日
ディズニー映画『ティガー・ムービー/プーさんの贈りもの』を観た。
勝手につくっちゃった続編ねえ....とすこしネガティブに構えていたけれど、思った以上に、原作の世界を大事にしていた。ファミリー・ツリー(家系図)をそのまま言葉遊びにして、家族がたくさんいる木を想像したり、それまでに出てきたエピソードも上手くとりいれて(テンケンたいとか)、プーさんワールドにうまくつなげている。
あまり、映画宣伝の表面にはクローズアップされていないが、メインはティガーというより、なんといってもルーだろう。ティガーの弟分になりたいのに、なかなか認めてもらえなくて(ティガーは家族探しに必死だから)、それでも必死にティガーのためを思って走り(跳び)まわる幼いルーは、それはそれは愛しい。原作ではあまりはっきりしていなかったルーのキャラクターをここまできちんと描けたのは、ディズニーの功績なのかもしれないとさえ思ってしまうほど。
逆に、プーやピグレットのほうが、原作の印象が強烈で、どうしてもイメージにずれがあるから、違和感を感じてしまうのかもしれない。
2002年6月9日
前作では、古いおもちゃ(カウボーイのウッディ)が最新のおもちゃ(スペースレンジャーのバズ)との衝突と友情だったけれど、今回は立場が逆転する。なんとウッディが、コレクター真っ青の超プレミア人形だったのだ。ウッディを盗み、東京のおもちゃ美術館に高値で売り飛ばそうと目論むおもちゃ屋店長と、ウッディ奪還目指して町に出るバズ率いるおもちゃたち。ウッディは、コレクションとして美術館へいくか、はたまた持ち主のアンディのもとへ戻るかに悩む。今回はまた違った意味で、「おもちゃ」や友情について考えさせられる。でも、それが、説教くさくならずに、ほどよく感動できて、めでたしめでたしなのが、このシリーズの上手いところだ。
一番笑えたのは、バズたちアンディのおもちゃたちが、工事用の赤い三角錐(アレ、ほんとうの名称はなんだろう?)をかぶって道路を渡ろうしたところ。あまりにギャグな展開なのだけれど、その健気な必死さは逆に胸をつく。とにかく、盛り上げるのが上手くて、楽しい映画である。
映画『ハリー・ポッターと賢者の石』のDVDをレンタルした。
劇場で観よう観ようと思いつつ、もともとのやる気のなさから、やっぱりレンタルになってしまった。お店は気合いを入れてものすごい数を在庫しているので、週末でもたくさん残っていた。
肝心の内容は、原作があれだけ人気があるだけあって、ファンの期待を裏切らないようにかなり忠実にできている。キャスティングも、ハリー、ロン、ハーマイオニーの3人組、スネイプ先生、マグゴナガル先生、ハグリッド、ドラコ・マルフォイなどなど、原作のイメージにぴったりだった。とくに、ハリーは、写真を見た限りではりりしすぎるかも?と思っていたのだが、画面上で動いていると幼くとぼけた感じが出ていて、印象がアップした。
でも、私がハリポタで買えない部分まで、きっちり映像化しているのは残念だった。というよりも、ハリー性善説が原作以上に強調されていて、ちょっと後味が悪い。たとえば、組分け帽子のシーン。それぞれの寮のイメージ通りに組分けされているのが(ハッフルパフに入ったいかにもとろそうな女の子とか)、映像になるとよけいにあからさまで、見ていてあまりいい気分がしない。あの方程式に合わないのはたぶんネビルだけでじゃないだろうか(でも、これも続編を読むとその意図が見え見えになるなのだが)。だいたい、入学時点でそんなに決まってしまっているのなら、悪者になる確率が高いスリザリンなんかいらないし、他の生徒より劣っているらしいハッフルパフの存在意義はそもそもどこにあるのか。(それよりもまず、ほんとうに厳選された生徒が集まる最高レベルの魔法学校なのか。)最後の最後のグリフィンドールへの追加点も、ほかの生徒にしてみたら知ったことではないし、そんなもので勝手に点数を挙げるのはひいき以外のなにものでもない。あの事件を公の場で褒め称えること自体(しかも、詳しい説明のない秘密めいたそぶりで)、ヤな感じで、その矛盾が実写ではいっそうアリアリと見えてしまった。
逆に、映像向きのハリポタと言われていた割に、映像にぴったりの大道具小道具が活かされていなかったのは、じつにもったいない。せっかく巨額をつぎ込んでいるのに、クイディッチシーンはドタバタしているだけで迫力に欠ける。あの程度のCGは、今のレベルではしょぼい。少なくとも私の目には。(20年以上前の『スターウォーズ』に負けている。)動く写真も、テレビやビデオの動画と変わりなくて、工夫が足りない。ニンバス2000も、どこがそんなにすごい箒なのか、あれではさっぱりわからない。あと、魔法の杖もあまりかっこよくない。せっかくの魔法アイテムなのに、そこで頑張らなくてどうするか。フクロウが多用されていたのは、映画ならではのオリジナリティかもしれない。
2002年5月20日
映画『エトワール』を観た。感想はこちら。
ヤフーのオークションで、かねてから狙っていた『トルネコの大冒険2アドバンス』(もともとプレステだかで出ていたゲームのゲームボーイアドバンス移植版)を落札する。
が、たった1晩プレイしただけで挫折してしまった。
誤解がないように断っておきたいが、私には合わなかったというだけのことで、このゲームは出来もよいし、きっとおもしろいのだと思う。でも、プレイヤーを選んでしまうのだ。
私の場合、まず、戦闘のアクショが苦手なのである。瞬時の判断であせってしまうし、どうぐやらなにやらを使うのもままならない。なおかつ、このゲームは運に頼る部分が大きくて、ひどければ負けてしまい、そうするとせっかく集めたり補強したりした道具をすべて失ってしまう。私はコツコツ育てたり集めたりするのが好きなので、それが一瞬でパァになると、やる気が失せてしまうのだ。もっと慎重に丁寧に進んでいけばよいのかもしれないが、そこまでやりこむ愛も時間もない。ならば、とキッパリ売り払うことにした。ストレス解消のゲームで、逆にストレスを貯め込んでしまうようでは意味がないからだ。せっかく攻略本まで買ったのに、ちょっと悔しい。
別に比較する訳ではないが、漠然と、ド素人からマニアックなプレイヤーまで楽しめるゲームのすごさを改めて実感した(いわずもがな、ポケモンのことです)。
ところで、忙しい忙しいと言っているくせに、ゲームする時間はあるじゃん、などと思わないでください〜〜。私には、これも大事な気晴らしなんです(ああ、言い訳くさい....)。
映画『ロード・オブ・ザ・リング』のプレミア試写会に行く。コネではない。純粋に応募して当たってしまったのだ(もしかして、今年の運は使い果たした?)。
プロデューサーのバリー・M・オズボーン、出演者のイライジャ・ウッド(フロド)、リヴ・タイラー(アルウェン)、ドミニク・モナハン(メリー)←たぶん、オーランド・ブルーム(レゴラス)のほかに、司会者はおすぎ、通訳は戸田奈津子という豪華メンバーの舞台挨拶。間近で見るハリウッドスターは、やけに気さくで、観客に応えて、ぶんぶん手をふって愛嬌をふりまいていた。とくに、イライジャ・ウッドはめちゃくちゃ愛想がよい。ウッドとモナハンは、始終楽しそうにふざけていた。
映画は、原作にとても忠実で、しかも、きっちりていねいに映像を抽出していた。この作品くらい原作の存在が大きいと、ファンが納得できるリアリティと映画ならではのスケールを両立させるのは、きっとおそろしく大変だっただろう。それなのに、これほどの完成度は、見事としかいいようがない。
ストーリーはテンポよく、おすぎが言った通り、3時間はあっという間にすぎた。映像効果もすごかったけれど、なんといっても、キャラがそれぞれよい。フロドは、原作のイメージよりも、カッコよく凛々しすぎるのだけれど(私のイメージでは、ホビットは、もっと情けない小太りのおじさん風)、映画となるとヴィジュアルも大切だから、ある程度の美化は必要なのかもしれない。でも、映画の枠全体からは、ホビットはやっぱりホビットだった。とくに、ホビットと、人間、エルフとの大きさの対比は、場面によって微妙にサイズを変えつつ、ちゃんと自然に映っていた。映像技術でちっちゃくなったホビット(を演じる役者たち)が、ちょこちょこ動く様子は、紛れもなく思い描いていたホビットの動きそのもので、なんとも人がよさそうで憎めない愛らしさがある。
ガンダルフやエルフは、まさに原作から飛び出したような威圧感と存在感。戦闘シーンや、大道具系の見せ場(橋が崩れる、洪水がおこる)も、さすがの迫力だった。あと、オークやトロールが、とにかくグロい。あの姿は、映像で生々しく動いていると、よけいに鳥肌もので嫌悪感がわく。まだちゃんと姿を現していないゴラム(ゴクリ)も、フルCGの最先端ということで、実写はすごそうだ。続編、来年といわずに、ゴールデンウィークくらいに公開してほしい。
おすぎが「この映画の最後を見て泣かない人は人間じゃありません」という捨てゼリフ(?)を吐いて去っていった。ごめん、私泣かなかった。これからは、エルフを目指そうかな。
映画『THANK YOU, BOYS』の試写会にいく。ドリュー・バリモア主演。
自伝小説(デビュー作)の映画化というだけあって、かなりベタな内容。有名大学を目指していたビバリーが、一夏の恋で妊娠してしまい、15歳で出産。相手は、人柄はいいんだけれど、バカで無職、しかも結婚後はアル中でジャンキーになってしまう。ビバリーも、大麻製造に関わって逮捕されたりする。そんな彼女が、女手ひとつで息子を育て上げ、作家デビューする直前の視点から、過去を振り返るというもの。
つまんなくはないけれど、冗漫で、印象に残らない作品。自伝だから内容はあくまでリアルなのだろうが、リアルだから伝わるわけではないことを、あらためて実感してしまった。
2002年2月12日
ハリポタ、どーしてあんなヘタレ主役でよいのかが、いくら考えても考えても理解できない。で、ふとバレエを思い出す。
バレエは、ダンサー、音楽(生オケの場合は、指揮者&演奏者)、舞台装置、衣装、その他もろもろが融合して成り立つ総合芸術である。でも、舞台成功の鍵を握るのは、やはり主役ダンサーだ。どんなに群舞が美しかろうが、オーケストラが流麗だろうが、主役がよれよれだと、舞台全体の印象は芳しくない。一回だけ、まさにそういう舞台を観たことがある。そのバレエ団は、テクニシャンのソリスト(ソロを踊るダンサー)がたくさんいて、群舞も幾何学模様のようにきれいなフォーメーションをつくる。だが、主役は、なんでもないような場面でもグラグラよたよた、決めの32回転は最初から危なげでもちろん回りきれなかった。とっても有名なバレリーナ(一般人でも知っているレベル)なのだが、もう二度と観たくないと思った。(なんで、そんな人が主役を踊れるのか?それは、色々な政治的背景があるからだ。)
しかし、不思議なことに、そのヘタレバレリーナが好きなバレエ通もいる。東京には、世界有数のバレエ団(キーロフ、ボリショイ、ロイヤル、オペラ座、アメリカン・バレエ・シアターなどなど)が次々に来日するから、日本のバレエ通はけっこう目が肥えているはずである。なのに、それでもなおそのバレリーナを良しと思える要因は何なのか?ハリーと並んで、私には深い謎である。
ちなみに、素晴らしい主役ダンサーのおかげで、他の失敗を埋め合わせて、さらにおつりがくることもある。たとえば、1999年に英国ロイヤルバレエ団が来日したときのこと。吉田都主演の『白鳥の湖』を観にいった。第2幕で吉田都@オデットがソロを踊る時、注意不足な指揮者は吉田が舞台中央にしっかり出てきて踊る準備ができる前に、さっさと演奏を始めてしまった。バレエ公演で、指揮者が舞台を見ないなんてふつうでは考えられない。でも、経験豊かな吉田は、ワンテンポ進んでしまった音楽にすぐさま踊りを合わせた。彼女のおかげで、そのアホ指揮者のミスが舞台全体の印象にならずにすんだのである。
2002年2月7日
ただいま、ハリポタシリーズ第4巻、Harry Potter and the Goblet of Fireを読んでいる。じつは、2度目のトライ。1度目は、発売された去年の夏に読み始めたのだが、ダラダラとうざい描写に我慢できなくなって、100頁に到達する前に挫折した。今回も、ほぼ同じところで嫌気がさすが、趣味で読んでいるわけではないので(=仕事でやむなく)、なんとか結末に到達せねば。とりあえず、一つめの山は超えた(さっさと新学期始まってくれ!)。しかし、売れるのが分かりきっているせいか、もう、ローリングを野放し状態で好きなだけ書かせて、編集者は内容に全くノータッチなのでは?と疑いを抱いてしまう。つまり、734頁という膨大な量にする必然性は感じられないのだ(=どーでもいいことをグダグダ書きすぎ)。かゆいところに手が届くというより、かゆくもないのに否応なくかかれていい迷惑な気分である。ゆうに洋書の辞書なみのぶ厚さ、いい漬け物石になりそうな重さだ。5巻もこんな調子だったら、ダンベル体操にもよさそうである(やらないけど)。