ピカピカ雑記帳2001年

「ポケットモンスターの部屋」「子どもの本」共通のコーナーです。子どもの本&文化(ポケモン含む)関係で、日々あれこれ考えたことをつづっていきます。


2001年11月26日

来春公開予定のディズニー映画『モンスターズ・インク』の試写に行った。

期待通り、めちゃくちゃよかった。メインのサリー、マイク、ブーを始めとするキャラがそれぞれ立っていて、笑いも涙もスリルも見事にツボをつき、最後はとても幸せな気分になれる。あんまりおもしろかったので、ネタばれは一切しない。ぜひ劇場でごらんになってください。

2001年10月7日

ディズニー映画『美女と野獣』を観る。

2002年1月に、未公開のミュージカルシーンが追加されて、リメイク版が劇場公開される。

昔、公開当時に劇場で観たのだけれど、個人的にはこの作品がディズニーアニメの最高峰だと思う。うっとりするほど綺麗な映像(特に舞踏会のシーン)にマッチするロマンチックな音楽、ベル(ヒロイン)の凛とした美しさ、野獣の見事な変わりっぷり、対峙する嫌らしいガストンとの対比、ルミエール、コグワース、ポット夫人、チップなどディズニーならでわの立ったキャラたち。アニメが子ども向けじゃないと世間に知らしめたのも、この作品だった。

ディズニーアニメの「改悪」はよく言われることだけれど、『美女と野獣』はそのなかでも、一番成功した例ではないだろうか。原作のメッセージを損なうことなく、さらにアメリカ的な善悪の観念や大衆性をうまく盛り込んでいる。すごく気がつよくて自分を持ったヒロインのベルも、「アメリカ」を象徴するヒロイン像というだけではなくて、原作のイメージときちんと重なりあっている。バラの最後の花びらが落ちる最後の瞬間におこる奇跡は、リュティが言うところの昔話の「時間」という様式をきれいに再現している。

ベルは本が大好きな女の子、という設定は、ディズニーの文学に対する敬意のあらわれなのかもしれない。

2001年8月23日

8月4日に、「世界妖怪会議」にいった。

水木しげるを筆頭として、荒俣宏、京極夏彦、小松和彦、多田克己といった妖怪な人たちの会議である。生・水木を見るのは初めてだった。水木本人の存在感もすごいけれど、あの荒俣宏が、平伏せんばかりの腰くだけ状態でびっくりした。

で、水木さんは、「ボケは神様がくれた幸せの素」と言っていた。ボケをここまで肯定できる人はすごいと思う。そのくせ、「水木さんのなかで、『水木さん』はどのくらい占めているのか?」という質問にたいして、キッパリと「63%」と答えたり、「ガハハと笑うことで、いままでの矛盾を水に流して相手を納得させる」というマル秘テクニックを披露したりする。「ボケ」というのも、実はテクニックのひとつでは?と思ってしまうような、ほんとうに部分的に神様化したかのような、不思議な人である。

2001年8月20日

『テルミン』を見る。

けっこうな評判になっているらしいのだが、私にはとても退屈で、最後の30分は無理矢理寝てしまった。ドキュメンタリーとしては、ずいぶんまとまりが悪かったような気がする。

テルミンというのは、世界初の電子楽器で、空中の手の動きに電子が反応して、ハープに近いような音を出す。が、映画から流れてくるのは、なんとも耳障りな不協和音である。テルミン演奏の第一人者の音でさえ、終始ヴィブラートがかかりまくっていて、聞いていて気持ちよくない。ホラー映画の恐怖音によく使われたというのは、合点がいく。

家に帰り、テルミンの日本人奏者のCDを聞くと、驚くほどなめらかな音で、びっくりした。ってことは、テルミン初期の頃は、まだ楽器として安定していなかったから、あんな不協和音だったのだろうか。

2001年8月16日

『千と千尋の神隠し』を見た。

なんとも頭がどでかくて、末端にいくくにつれてどんどんしぼんでいく作品である。まるで空気がシュルルゥゥゥ〜!とぬける風船のようだった。

たしかに映像はいい。けれど、私はディズニーとかポケモンとか、今時のアニメーションを劇場で観るから、映像がぬきんでて素晴らしいとは思わなかった。また、ご自慢のDLPシネマ上映ってのは、日本映画初だというのは間違いではないのだろうが、おととしあたりから日本で公開されているディズニー映画(『トイストーリー2』、『ダイナソー』、『102』)で次々と使われていると知って、ちょっとがっくり、ありがたみが減る。だって、「日本で公開された映画」として、とっくの前にお目見えしているのだから、日本映画初という言葉にどれほど価値があるのか。

スポットライトがパッとついたかのような、印象的なシーンはたくさんあった。特に、湯屋につどう八百万の神様たちとその情景などは圧巻である。世界妖怪会議で荒俣宏が絶賛していたのもうなずける(世界妖怪協会として、「もののけ」は認めないが、「千と千尋」は合格だそうだ)。

さて、ストーリーは、頭でっかちだけあって、千尋が湯屋で働きだすあたりまでは、ほんとうに綿密である。でも、銭婆のところへいくあたりから、三段飛びみたいにポンポンと話が進み説明を省いてしまうので、だんだんこっちの頭のなかに?マークがたまってくる。千尋がハク@竜にのっているときに、彼の名前を思い出すあたりで、?が飽和状態になり、一気にしらけてしまった。いきなりとってつけたような話で解決されても、充足できない。

千尋についても、最初はずいぶんブータレの役立たずだった割には、オクサレさまや顔なしのような、湯婆婆でさえお手上げのお客に、ああもうまく立ち回れる機転はいったいどこからくるのか。千尋の変化がよくわからなかいから、結局は「主人公だからそういう力が潜在的にあった」で片づいてしまう、ずいぶん都合のいい話である。ただ、最初はめちゃくちゃブサイクに見えた千尋が、だんだん生き生きしてきて、可愛らしくなったのはきっちり見てとれた点は評価できる。

ハクも、千尋の記憶が正しければ、川の精霊か神なのだろうけれど、そんな神に近い身分だったら、どうして湯婆婆のとらわれの身になってしまうのか。似たような状況にある、オクサレ様という存在があるだけに、なんとも納得がいかない。

他のキャラにしても、たとえば、どう見ても人間らしい(パンフにも人間と紹介されている)リンが、どうして湯屋につかまって、これからどうなるんだろう、とか、他のキャラはただいるだけで、その背景がよく見えないのが残念だった。重要な脇役である湯婆婆も、ずいぶんいい加減な描かれぶりだったり(キャラとして終始一貫していない)、銭婆は訪ねてみるといきなりいい人で、じゃあ、この双子姉妹ってのは、いったいなんなんだという疑問が残る。千尋の両親も自分勝手で、母親にいたっては「くっつくな」と千尋にいったり、千尋を全くみていない気がした。こんな親だからバチあたって当然、と情けの念もでない。もうちょっと千尋と両親との関係があってほしかった。

最後に主題歌だが、楽曲の良し悪しはともかく、この歌手は上手いのか下手なのかよくわからない、耳障りな歌い方だった。劇場でエンディングをきくと、声の質はともかく、やたらと息つぎが目立ってうるさかった。

2001年8月9日

ふと思った。

東京ディズニーランドが「夢と魔法の王国」だったら、東京ディズニーシーは「神秘と謎の海」とでもいおうか。

「インディ・ジョーンズ」と「センター・オブ・ジ・アース」では、真っ暗闇の瞬間がある。なにも見せない技法が、アトラクションのスリル感をかえって増幅させる。逆転の発想でけっこうすごい思った。でも、その場所にはなにがあったか、ほんとうは知りたい。

2001年8月8日

8月1日、2日と東京ディズニーシーのプレスプレビューへいってきた。

取材日というだけあって、人が少ない(一万人弱)&芸能人が多い。激混み必死の「インディ・ジョーンズ」や「センター・オブ・ジ・アース」も、5分から長くても30分待ちくらいだった。こんなに空いていることはもう二度とないだろうと、2日かけて、カルーセルとプレイグラウンドをのぞく、すべてのアトラクションとショーを制覇してきた。両日で歩いた歩数は、4万を超えた。現時点では、ガイド級のベテランゲストである。

さて、TDLと違って、TDS(東京ディズニーシー)は、地形が入り組んでいる。まさに、山あり谷ありと、くねくねしているうえに、そこら中に水たまりがあるので、回り道を余儀なくさせられる。それはそれでまた楽しいものなのだが、アトラクション&ショーの攻略を考えると、しっかり予定をたてて、無駄なく移動するのがいいだろう。

独断と偏見による、オススメアトラクション、トップ3は以下の通り。

1.インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮(ロストリバーデルタ)

べつに私が勧めなくたって、一番人気間違いなしの、アトラクションである。ファストパス指定もされている。ジェットコースターっぽい乗り物でありながら、衝撃とか、風圧とか、スピード以外の要素でここまでスリル感を出せるのか、というのが新しい発見だった。

2.ディズニーシー・トランジットスチーマーライン(メディテレーニアンハーバー、アメリカンウォーターフロント、ロストリバーデルタから出航)

水のテーマパークならではの、アトラクションのひとつ。単にテーマパーク間を移動するだけなのだが、水の上からだと、また違った景色が楽しめたりする。ガイドの話も、けっこうおもしろい。ルートが変われば、風景も違うので、できれば全ルート乗ってみたい。

3.マジックランプシアター(アラビアンコースト)

「アラジン」でおなじみのジーニーが3Dになって登場する。コミカルなショーは素直に楽しめるし、ジーニーのノリのよさはやっぱりいい。途中の手品も、単純そうで、けっこうすごいかも。

ほかにも、「センター・オブ・ジ・アース」というジェットコースター、「海底二万マイル」という水中探検(ロスのディズニーランドで見たのとは別物だった)、「マーメイドラグーン・シアター」という海の中を舞台にしたショーも必見。

ショーは、「ポルト・パラディーゾ・ウォーターカーニバル」と「ディズニーシー・シンフォニー」は外せない。前者の場合、どこで見るかによって、見えるキャラクターが違うので(ちなみに、ミッキーは水面中央なので、どこからでも同じ)、前もってキャストに確認するとよい。ちなみに、「ザンビーニ・ブラザーズ・リストランテ」の前の船にはミニーがくる。

個人的にオススメなのは、「セイル・アウェイ」と「ドナルドのボードビルダー」(ともに、アメリカンウォーターフロント)。前者では、マーメイド姿のミニーが可愛い(個人的にハマった)。後者は、「ケープコッド・クックオフ」というハンバーガー屋で、随時おこなわれている。ただたんに食事や休憩するだけでは飽き足らないというひとには最適である。アニメや、楽器演奏もあるのだが、30分もあればショーを一巡する。ドナルドをはじめ、ミッキー、グーフィ、チップ&デールが出てくるので、かなりお得感がある。

食事どころでは、ロストリバーデルタにある「ミゲルズ・エルドラド・キャンティーナ」が気に入った。というのは、大好きなメキシカン料理だからである。1日にタコス、2日にタコサラダを食べたけれど、なかなか味もいけていた(タコサラダにキュウリが入っていたのには、びっくりしたが)。ちなみに、「タコ」は、あの海の生き物の蛸ではなくて、牛挽肉に味付けした、具のことである。

あと、ミステリアスアイランドの「リフレッシュメントステーション」にある、「ギョウザドッグ」という珍しい食物もおすすめ。ようは、餃子形のにくまんのようなものである。

おみやげは、ミッキー形の潜水艦がかわいい。ミステリアスアイランドの「ノーチラスギフト」にある、ノーチラス号のマスコットがついたストラップもおもしろかった。TDS入ってすぐにある、メディテレーニアンハーバーはイタリアをモチーフにしているため、イタリア生まれのキャラクター「ピノキオ」がメインキャラのひとりなのだが、ピノキオとフィガロ(←ゼペットじいさんのネコ)グッズもけっこうあって、なかなかツボをつく出来だった。

2001年7月13日

ディズニー映画『アトランティス/失われた帝国』を見た。(日本では2001年12月公開予定)

ウォルト・ディズニーの生誕百年を記念する作品ということなのだが、これ?ディズニーアニメ?というような印象だった。いえ、決して悪い意味ではなくて、それだけ典型的な正統派ディズニーアニメの型を破るような作品だったのである。

主人公は若き言語学者、マイロ。彼は祖父から受け継いだ夢、アトランティス発見をめざして、祖父の残した記録を頼りに、探検にでかけることになる。そして、海底に、信じられないアトランティスの光景を見つける。

さすがにディズニーだけあって、映像がすごく美しい。特に、今回は海が舞台ということで、青が綺麗である。深海の深い青から、水晶の透明感ある青まで、幻想的な青色が堪能できる。

けっして飽きさせないテンポよいストーリーとともに、やはり魅力的なのはそれぞれのキャラクターである。主人公のマイロは、頭は良いけれど、探検のノウハウはさっぱりの足手まとい。そんな彼が少しずつ仲間に受け容れられ、たくましくなっていく様子がよく描かれている。それと、脇を固めるキャラクターがいつも以上に豊かである。ごっついけれどじつはとても優しい医者、元花屋で今は爆弾専門のおじさん、気が強いけれどすごくキュートなエンジニアの女の子、いつも奇妙なモグラ人間、どうして探検チームにいるのかよくわからない皮肉屋なおばあさんなど、一人ひとりがたっている。もちろん、悪役もインパクトたっぷりである。

今回の人物画は、「スーパーマン」や「スパイダーマン」など、アメリカの昔ながらのコミックに登場するキャラたちとタッチが似ている。これも、アメリカの伝統ということで、意図的に取り入れたのだろうか?

ちなみに、日本語版の主題歌はドリカムが歌うそうである。

2001年7月10日

『A.I.』を見た。

ひっっっっっじょうに胸くそ悪い作品だった。

冷凍保存状態の息子を持ち、悲嘆にくれながら暮らす夫婦が、たまたま夫の勤めるロボット製造会社のモニターとして、愛という感情を持てる最新の子どもロボット「デイビッド」をもらう。妻はとうぜん最初は激しく拒絶するが、ついに自分だけを愛するようにインプット作業をしてしまう。ちなみに、一旦インプットしたらリセットは不可能、いらなくなったらロボットは破棄する以外に方法はない。その後、皮肉なことにほんとうの息子が奇跡的に回復する。デイビッドを邪魔に思う息子は彼をいじめぬいて、ついには、両親に彼を捨てる決心をさせる。

最初からデイビッドを疎ましく思う息子はともかく、厳正な審査と重々しい誓約書とともに会社からの申し入れを受けいれた父親も、ついに自分への愛を入力した母親も、最初からこのロボットの意義・目的を知りながら、あっさり豹変する姿がたいへん不愉快である。

その後、捨てられたデイビッドは、ロボット狩りにとらわれてしまい、虐待要素に満ち満ちた処分ショーへと送られる。そこで、ロボットの「処刑」を喜んで見る観客たち。この背後には、ロボットの数が増えすぎて、人間に危機感を抱かせるという状況がある。人間たちは自分の都合でロボットをつくりだしたくせに、邪魔になったりうざくなったりすると、あっさり斬り捨て排除する。それで、首謀者が、愚かな最新技術の見せしめとしてデイビッドを連れ出すと、観客はほんものの人間そっくりな姿に同情し(というか、人間だと信じ)、処刑に断固反対する。ライセンスのついていないロボットは、野犬というよりは、逃亡奴隷である。見かけにばかりこだわるところも、ロボットには何かしらのサービスを求めるだけのところも、まさにロボットは人間が自ら創り出した奴隷なのである。

危機を逃れたデイビッドは、母親に読んでもらった『ピノキオ』を信じて、自分をほんものの人間に変えてくれるはずの「青い妖精」を探す。そしてたどり着いたのが、自分の創り主である博士のもとである。じつは、この博士の亡き息子がデイビッドのモデルだったのだ。で、その博士、「きみはほんとうの人間だ」などとぬかしながら、デイビッドの行動や判断をほめたたえ、ロボットの成功をよろこぶ。デイビッドは無数にあるじぶんと同じ形のロボットを見て絶望し、水没したマンハッタンに身をなげる。そこで、とうとう、ほんものの青い妖精(の像)を見つける。そして、一度助けられたあと、ヘリコプターで潜水し、妖精像に「ぼくをほんとうの子どもにしてください」と頼み続けて、やがてそこは氷に覆われた世界になってしまう。

二千年後、人間は絶滅し、生きながらえたロボットがデイビッドを発見し、復活させる。デイビッドを人類を記憶している貴重な存在ということで、彼の「ママを生き返らせて」という願いを、たった一日だけ実現する。そこで、デイビッドは母親とこのうえなく幸せな一日をすごし、夜になって永遠の眠りについた母親の横で、初めて夢を見る。

登場する人間が、ことごとく、人間のエゴのかたまりで、こうまで悪い部分ばかりだと、ほとほといやになる。アイボ程度のロボットでさえ溺愛する人がいたり、ペットを自分の子ども以上に可愛がる人も多いというのに、デイビッドのこの扱われ方は、見るにたえない。

最後に、たった一日だけ母親と過ごすことができたデイビッドは、その間だけでも幸せだった、とかいう終わり方なのだが、これもどうにもよろしくない。「あなたのことをずっと愛していたわ」と言って母親は眠りにつくのだが、そこにはリアリティが全然ないのだ。彼を捨てる前、そんな愛情を持っていたって細部がない。デイビッドにインプットしたのだって、彼が愛しいというよりは、自分が寂しいからである。そのあげく、彼は結局ペット以下で、自分の都合で愛をうえつけ、いらなくなったから捨てたくせに、なにをふざけるか。たしかに、デイビッドはその日だけは幸せだったかもしれないが、永遠に母親を愛するように入力されてしまった彼は、それからずっと気が遠くなるほどの長い時間を母親への愛を抱いて存在しつづけるのだ。人間じゃないから、母の喪失や恋慕はあせることもない。永遠の地獄状態である。

デイビッドといっしょに冒険をする快楽ロボットのジョーやテディベアのほうが、よっぽどリアリティがあり、人間的だった。

この作品はものすごい人間皮肉ともとれるが、だったら、このデイビッドが死にゆく母親とともに安らかに眠る終わり方は何なのか。テーマもメッセージもないくせに、やたら近未来のロボット世界だけは詳細で、人間はただただ破滅思考に走っている。こんなものが大ヒットだったり素晴らしいなんて評されたりしたら、ぞっとする。天才子役とうたわれるハーレイ・ジョエル・オスメントの演技うんぬんの問題以前に、作品として、とてもとてもとてもとても気分が悪くなる。

2001年6月27日

23日のシンポジウムでのこと。

那須正幹さんの「ズッコケ三人組」シリーズに登場する女の子像について、いくつか意見がでた。ズッコケに出てくる女の子が、みんな美人ばかりで、その点がひっかかるというものだった(ちなみに、参加者の過半数以上が女性)。それに対して、那須さんは、「イヤなら読まなきゃいいんですよぉ」とアッサリ。舟崎克彦さんも、「すべての読者を頭に描いて書けない」とフォロー。

たしかに、美人ばかり登場するという指摘は当たっているけれど、それって、いけないことだろうか。少年マンガ、少女マンガなんて、勝手な幻想きわまりない異性像のオンパレードである。「ズッコケ」は児童文学だから、男女どちらも同等に読めなければダメなのか?「少年」マンガ、「少女」マンガと、読者を一応指定しているから問題ないのだろうか?でも、異性向けの雑誌を読むことなんて、珍しいことではないだろう。私は弟の『少年ジャンプ』や『コロコロコミック』を毎号借りて読んでいた。

マンガをよく読んでいる友人(♀)にその話をしたら、「私は、それよりも、少女マンガの主人公が、平凡で取り得もないくせにやたらとモテまくる方が、ムカつく」と言っていた。たしかに、マンガではないが、コバルトシリーズの藤本ひとみなんて、いい典型である。結局、どっちもどっち、美人ばかりが登場する男の子ものも、凡庸なくせにモテモテの少女が主人公の女の子ものも、都合良い幻想の元は同じなのである。

2001年6月19日

ディズニーアニメ『わんわん物語2』を観た。

日本語版は、2001年8月22日発売予定。

前作で、めでたく結ばれたレディーとトランプもりっぱなパパとママになっている。ふたりの子どもは、4匹。トランプにそっくりな男の子1匹と、レディーにそっくりな女の子3匹。

今回の主役は、ふたりのいたずら盛りな息子、スキャンプである。やんちゃすぎるのがたまにキズ、いつも悪ふざけがすぎて、飼い主のダーリングさんにおこられてしまう。窮屈な飼い犬生活にうんざりしたスキャンプは、自由な野良犬生活にあこがれ、ついに家を飛び出してしまう。

ストーリーは、親の過去に自分のルーツを探すという、『リトルマーメイド2』と同じプロットである。原作がない分(注:『リトルマーメイド』はアンデルセンの『人魚姫』が原作)、『わんわん物語』のほうが、自由奔放にできあがった印象がある。父親トランプの過去と、今のスキャンプの模索がうまくからみあい、ストーリーに厚みがある。

飼い犬の幸せを訴える反面、安泰な生活を送るトランプに昔の鋭敏さがなくなっているシーンなどは、安心とひきかえに失った自由をちょっと考えさせられる。

スキャンプの相手に、エンジェルという野良の可愛いメスイヌが登場するのだが、彼女はクールで気が強く、現代風な女性という印象がある。レディ(おっとりした、いいところのお嬢様)からエンジェル(自力で生きる孤独な少女)というヒロイン造形の変化が、それぞれの時代の特徴を一番映しだしている。けれど、ヒロイン像の違いはあっても、家族観にはあまり差がない。飼い主を持たないエンジェルも、じつは家族というものにひどく憧れているのだ。レディーとトランプにしても、伝統的な父親、母親像を踏襲していて、アメリカの根底にある男女観や家族観は、あまり変わっていないのかもしれないと感じてしまった。

2001年5月30日

「ゲーム的」と「ゲーム」の違い

「ゲーム的」「マンガ的」のような比喩がある。そこには下方向の目線が含まれているように感じる。児童文学を文学より格下とする人がいるように、児童文化の中において、ゲームやマンガを文学より低俗とみなす傾向はは少なくない。

で、「ゲーム的」、「マンガ的」な文学と、「ゲーム」「マンガ」そのものは、たとえばエンターテイメントとして捉えると、どちらが良いのだろうか。私個人の意見としては、「ゲーム」や「マンガ」には独自の様式やおもしろさがある。だから、「〜みたいな」文学よりも、そのものの醍醐味を好む場合が多い。4月10日に触れた「バトロワ」でも、どうにも評価できなかったのは、「これだったら、ゲームのほうがおもしろい」と思ってしまうからだ。本もマンガもゲームも同時に親しんでいたので、どのメディアもすんなり受けいれられる反面、「〜的」に対する許容範囲が狭いのかもしれない。

「ゲーム的」つながりで、ちょっと方向転換。

未成年の残酷な殺人・傷害事件がおこると、評論家やジャーナリストなる方々が、新聞やテレビで、加害者について「ゲーム的」な思考能力、判断力などと表現する。でも、そういうことを言っている人に限って、ゲームを知らない、やらない世代なのだ。

ゲームと現実の区別がつかなくなる人間が、仮にいたとしても、そんなものは一般化、普遍化できる数ではないだろう(もし一般化できたら、ゲームが当然の子どもたちが成人する未来は、スプラッタ地獄である)。ただ、自分の知らない、目新しい、子どもを害する(だろう)メディアとして、「ゲーム的」はあまりに容易かつスマートに使えてしまうのだ。「ゲームの思考、ゲームをやる思考」と「ゲーム的な思考」って、似ているようで、全然違う。

2001年5月18日

12日にここで話題にしたちびネコは、無事引き取り手が見つかった。私の母の知人がひきとってくれることになったのだ。それで、今日このちびちゃんを、電車、バスを乗り継ぎ、はるばる江戸川を越え、里親のもとへ連れていった。ちびちゃんといえば、わけのわからぬままバスケットにとじこめられる恐怖から、この世のおわりのような鳴き声をあげる。電車に乗ったらどうなるのかと心配したが、不思議なことに駅に着くころには眠ってしまい、そのまま私の実家付近までぐっすりだった。その後、母と一緒に里親のところへいくと、着くなりみんな大喜びで歓迎してくれた。きっと可愛がってもらえることだろう。

しかし、この子を助けた小学生に始まり、約一週間愛情をたっぷり注ぎこんだ美容師さんご夫妻、そして里親の農家のおじちゃん、おばちゃんまで、このちいさなネコちゃんを守るためにたくさんの善意が集まったと思うと、人間ってすてたもんじゃないと思う。

 

2001年5月15日

5月8日〜11日まで、朝日新聞朝刊に「ポケモン四話」というコラムが連載された。

その1はポケモンの世界的現象について(イスラム圏でのポケモン禁止運動、ドイツでポケモンカードの「卍」マークがナチスを連想させると問題になったことなど)、その2は97年12月のポケモン気絶事件について、その3はポケモン創作逸話(田尻氏の昆虫採集など)、その4はポケモン人気が普遍化した理由と現状について。

ポケモンにどっぷりつかっている身としては、「ナニを今さら」な話題ばかり。でも、きっと世間一般は、これを読んで、この程度の情報で、ポケモンへの認識を深めたと満足するのだろう。自分の常識は、他人様にはまったくの非常識である。(児童文学にしたって、グリム、アンデルセンは世間の常識でも、ピアス、カニグスバーグ、ネストリンガーと言われてわかる人は、やっぱりマニアの域に入ると思う。)そこは深く肝に銘じておかなければならない。

で、このコラムに登場するポケモンは、厳密にいえばピカチュウだけ。あとはポケモンの進化を説明するために、ピカチュウの進化前後の「ピチュウ」「ライチュウ」が出てくるのみである(しかも、ピチューの表記が間違っている)。

なぜ、このライター(学芸部の野波健祐氏)はピカチュウしか取り上げないのか?ピカチュウしか知らない?それは十分が考えられる。なにせ、ポケモンファンには常識も常識の「ピチュー」の表記を間違えるくらいである。いってみれば、「松田聖子」を「松田成子」と書くようなものだ。決して間違いをせめている訳ではないが、執筆、校正の過程で、だれも気づかないくらいなじみが薄いのかと、ちょっとびっくりしてしまった。

かりにピカチュウしか知らなかったとしても、書く前にリサーチくらい当然するだろうから、他のポケモンだって見たはずである。それでも、あえてピカチュウ以外は割愛するのは、コラムというスペースと情報量の兼ね合い、そして、「新聞」というメディアの性質上、世間一般の認知度を配慮したからではないだろうか。

このように、ポケモンとは直接関わりのない人が、ポケモンについて語るとき、なにが論点で、なにに興味をひかれるのかということはとても興味深い。知らないがゆえに、バッサリと切りすてられるのだ。膨大な情報があるのは便利だが、その反面、知りすぎが逆に仇になったりもする。自分の常識を、いかに他人の常識とつなげて、その「おもしろさ」や「魅力」を伝えるか。スタート地点は違っても、目的は同じような気がする。

2001年5月12日

前回かけたパーマがきつすぎて、毛先のパサパサ&枝毛、切れ毛がどーにも我慢できなくて、急遽美容院へいった。いきつけの美容院は、徹底的な自然派ということが一番の魅力なのだが、それにもまして、いつも黒ネコのマリアンちゃんがくつろぐアットホームな空間がとても心地よい(とくに、ネコ好きにはたまらない)。

今日そこにいったら、ちびこいのが一匹増えている!!!まだ片手のひらサイズで、足もよたよた、たぶん、生後1ヶ月未満だろう。ちなみに、黒と白のツートーン(比率は半々くらい)の日本ネコ、オスである。とても人なつこくて、遊んでやるとすぐにじゃれてきて、そのまま手の中でゴロゴロ→スースーと寝てしまう。まだほんとうに赤ちゃんで、丸くなったり、あおむけになったりして無防備に寝る姿は、なんとも愛らしいのだ。(私としては、こんなに小さいネコとたわむれるのは久しぶりで、とても嬉しかった。)

聞いてみると、カラスに襲われそうになっているところを、小学生の女の子二人が助けて、自分の家では飼えないからどうしようかと悩んだあげく、このネコ好きの美容院を思い出したのだそうだ。私が着く、ほんの数時間前のことである。でも、そこの美容師さんご夫婦も、家に4匹という、飽和状態。どうか、いい里親が見つかりますように...どなたか、都内近郊の方、ネコ飼ってくれませんか?!

2001年5月11日

ディズニー映画『ラマになった王様』の試写を観た。(7月14日(土)よりロードショー)

ディズニーのエンターテイメントが結集!というかんじの、とてもコミカルでノリのよい作品だった。主役は、若くてハンサムで、しかも大金持ちの王様である。でも、彼は性格が悪い。そして、リストラした魔女に恨まれて、ラマにされてしまう。伝統あるディズニー映画に、ちょっとそぐわない?ようなこのクスコ王@ラマ。でも、ラマという道化になることによって、彼は自分を含める世界をひっくり返して、ほんとうに大切なものを見つける。

とにかく、笑いのツボを押さえた作品で、主人公、脇役、チョイ役、細部のすみずみにいたるまでおもしろい。とくに気に入ったのが、魔女イズマの子分、クランクである。マッチョな部下なのだが、どんな色にでも染まる純粋無垢な柔軟さと、動物や子どもたちとすぐに仲間になるおちゃめな部分がとてもいい味をだしている。悪役とはとても思えない、とてもユーモラスで親しみのある人物なのだ。そして、クスコ王の相棒となる、農夫パチョの素朴な暖かさが、ストーリー全体に染み渡り、人間への信頼というメッセージを確かにしている。

ポスターを見ただけでは、あまりピンとこなかったが(いままでのディズニー路線とはずいぶん違うので)、予想以上におもしろかった!興味のあるかたは、ぜひ!ごらんください。すかっと爽快な気分になれます。

2001年4月10日

バトル・ロワイアルとハリーポッター

どちらも最近の話題作である。内容はずいぶんかけ離れているが、エンターテイメントとして考えると、共通点がいくつもあるのに気がついた。

世間が騒ぐほど、そんなにすごい作品か?というのが、『バトル・ロワイアル』と「ハリー・ポッター」シリーズに対する私の率直な感想である。ハリー・ポッターについては、3作目までのレビューがこちらにあるので、とりあえず『バトル〜』の方だけ触れる。

たしかに、中学三年生の同級生たちによる殺人ゲームってアイディア自体はぞっとする。でも、その殺人にまつわる心の深淵がたいしてどっぷりと描かれていないから、それほどのヘビーさというか、ホラーは感じない。スプラッタ描写も、むしろあっさりめである。恐怖というものは、殺人という行為そのものより、そこに追い込まれた人間の狂気からくるのだと思う(ちなみに、キングのようにほんとうに怖かったら私は読めない)。

逆に、ハリーポッターと同質のエンターテイメント性はひしひしと感じる。今の大衆が求め喜ぶのは、こういう作品なんだろうか。ストーリーのテンポがよくて、斜め読みしても十分内容が把握できるわかりやすさ。軽くさらっと読めて、適度な読み応えもある。本の分厚さが苦にならない軽さはある意味偉い。その軽さが今に合っているのかもしれない。

作品の軽さが一番よく出ているのが、登場人物の造形である。ゲーム的というか、インフォメーションが浅くて、その人の人物像が浮かび上がってこない。これは主人公がのっぺらぼうなハリポタと一緒である。殺人鬼のひとりである光子はそれでもまだ描かれている方だが、どうも男ならではの発想というか、あまりに紋切り型な「不幸なオンナ」タイプで、陳腐でさえある。もう一人の殺人鬼の桐山は、表面的な説明ばかりで、どうしてこのような狂気に至ったのか、心の闇が見えない。

さらに、ハリポタと同じように、主人公が一番インパクトがない。秋也とヒロイン典子は、汚れなく、守られ、ほぼ脳天気に生き残る。特に、典子は最初から最後まで役立たずで、なにもしないで生き残るから一番美味しいけれど、存在的には、出番の割にはもっとも薄いかもしれない。一番深そうなのは前年の優勝者でもある川田だが、なにをどうしたかったのか、やっぱりよくわからない人のままで終わっている。結局、RPGのキャラクター設定レベルの描かれ方なのだ(決してRPGを見下しているのではない。RPGは性質上、人物造形にそこまで深く立ち入らないけれど、いくらでも立ち入り可能な文学でわざわざRPGの手法に合わせていると言いたいのである)。

全体の設定も変である。どうしてハリーがヒーローなのか、ハリーの世界における悪は何なのかがよくわからないように、なぜこういうゲームをやるのかという意義は伝わってこない。全体主義かつファシズムで、けっこうな恐怖政治をしいているわりには、徴兵制度がないのは不自然である。しかも、このゲームのターゲットを、15歳という、貴重な労働力人口にあてる発想はあまりにリアリティに欠ける。わざわざ殺し合いに参加させるくらいなら、徴兵してボロぞうきんになるまでこきつかったほうが国としての生産が上がらないか?こういう部分でリアリティがないから、現実世界のリアリティを越えられない。

でも、きっとリアリティがどうというより、適度な刺激や十分な軽さが、『バトル〜』やハリポタの魅力なのだろう。読まないよりは読むほうがずっとマシだけれど、でも、もっとおもしろい本、すごい本ってあるよ、というのがこの2作への結論である。

2001年4月2日

ゲームボーイ用のソフト「ドラゴンクエストモンスターズ2」にはまりぎみ。やるべきことは山盛りだというのに、トホホ....

で、略してDQM2、おもしろいのは、とってもおもしろいのだけれど、ついついポケモンと比べながらプレイしてしまい、気になったことがいくつかある。

まず、300種類以上いるというモンスターの名前が、さっぱり覚えられない(←ポケモンと比較して)。ずかんが見づらい、分布がわかりづらいということもあるが、それよりとにかく、ドラクエ世界のモンスター観に起因するのだろう。鳥山明デザインのモンスターは、とても凝っていて、オシャレだとは思うのだけれど、それがかえってネックになって、判別しにくかったりする。あと、単なる色違いとか、ほとんど同じとか、個体差があまりないのも、インパクトに欠けてしまうのだ。

しかし、一番の問題は、モンスターの扱いだろう。まず、キープできるモンスター数が少なすぎる。次に、モンスターを繁殖させたら、おやのモンスターはいなくなってしまうのだ。そして、モンスターによって強さに差がありすぎるので、最初に仲間になったモンスターや、序盤で愛着のわいたモンスターとは、最高までレベル上げをしても、最後まで一緒に冒険しようってのは、無理である(←少なくとも配合しない限り。でも配合してしまえば、いくら種類は同じでも、別ものである)。

キープできるモンスターは少ないわ、弱いモンスターは使えないからどんどん配合(=繁殖)させて強くしなければダメだわで、モンスターは完全に「道具」扱いである。だから、「仲間」としての愛着がわきにくい。仲間にしたって、さっさと配合してサヨナラなのだから。戦闘後に仲間にした時、あるいはたまごが孵った時に、名前をつけるように指示されるのだが、どうせすぐに配合していなくなると思うと、いちいち考える気などおきない。いつも機械まかせである。最高レベルまで育てあげても、感無量どころか、じゃあ早速配合するか、となる。ゲームの中では、「モンスター=仲間」ってアピールしたいようなのだけれど、ハッキリいって浮いている。主人公と手下がいいところだろう。

ちなみに、ポケモンだったら、最初にもらったヒノアラシでも、好きだけれど弱いピカチュウでも、最後まで進化させずに冒険できる。好きなモンスターと一緒に冒険色はぐっと強い。ビジュアル的に単純でわかりやすいし、ゲットした後も進化させたりして関わる機会も多いから、自然に全部覚えてしまう。

こう書いていくと、ポケモン賛美で、ドラクエこき下ろしみたいだが、そうではない。私はドラクエも大好きである。かれこれファミコンの時代から、ずーっとプレイしている。けれど、モンスターへの思い入れを比較したら、どうしてポケモンとドラクエではこんなに差があるのかと考えてみたのだ。結局のところ、ドラクエは、モンスターより、まずその世界が好きであり、ポケモンはモンスターが好き、というところに落ち着くだろうか。

ちなみに、DQM2では、序盤にダンスが得意な「イカずきん」というユーモラスなモンスターを仲間にして、大分頑張ってもらったが、もうそれは遠い記憶のようである。個人的な好みでは、ユニコーンが好きで、DQMでも、今回でもずいぶん使ったが、今のレベルではユニコーンの能力の限界をとうに超えてしまった。それよりまず、強いモンスターを作ることのほうが楽しいので、ついつい、ぜんぜんビジュアル的に好みじゃないまおう系を連れて育てなくちゃ、なのである。

2001年2月20日

ディズニー映画『わんわん物語』を観た。

お嬢さまなレディと、ホームレスでワルっぽいトランプの階級を越えた恋物語。レディは、ゴールデン・コッカースパニエルなのだけれど、おさげみたいな耳が可愛い。ディズニーらしく、イヌそのものの動きと、人間味あふれる表情、しぐさをミックスさせているのがとても自然である。近所の老犬2匹が脇役としていい味をだしていて、レディの家に赤ん坊が産まれることを知ると、レディが飼い主に捨てられないようにと気づかってプロポーズしようとするあたりがなんとも心憎い。トランプは、後のアラジンやシンバにつながるような、ディズニー十八番ともいえる「陽」のキャラクターである。しかし、レディの飼い主がジム・「ディア」、奥さんは「ダーリン」という、呼び名そのものの名前なのだが、記号的というかあまりに分かり易くて笑える。そういえば、白雪姫の王子は、プリンス・チャーミングだった。これもすごい。

2001.2.5

映画『リトル・ダンサー』を観た。

評判が上々なのは知っていたけど、平日昼間だというのに満席。終わって外に出ると、次の回を待つ人の列もすごかった。良い映画は自ずと客をひきつけるのだろうか。久々に大感動、爆涙した。私はたまたまバレエファンだからこの映画に興味を持ったのだが、バレエを好きでない、知らない人でも、この映画は絶対に楽しめると思います。

80年代イギリス北東部の炭坑ストライキという背景をしっかり描きつつ、家族の絆や愛情にあふれ、ビリー少年のバレエへの押さえきれない情熱が満ち満ちている。ひとりの少年が、かけがえのない宝をみつけ、困難にぶちあたり、ついにそれを獲得するまでのいわゆる<成長>のプロセスも丁寧に紡いでいる。

希望の見えないストライキに疲れ果てた父親と兄に新しい未来を与え、いなか町でダルそうなバレエ教室をひらいていた先生を奮い立たせ、痴呆ぎみの祖母に昔の夢を蘇らせたビリーがとにかくいい。バレエに惹きつけられる自分に戸惑いながらも、チュチュをつけた女の子ばかりの教室に通い、次第にレッスンにのめりこんでいく。はじめてピルエット(回転)が決まったときのなんとも嬉しそうな顔がものすごく印象的だった。

ビリーの天才っぷりは、怒りも悲しみも喜びも、感情がまず踊りで出てしまうところである。トイレにすわっていても、足だけで踊ってしまうくらいなのだ。一番のクライマックスは、バレエを反対する父親との対決である。その瞬間に、バレエをやりたいという思いが爆発して、バレエ=オンナのものと信じて疑わない父親を圧倒する。

主役のビリーを始め、家族(父、兄、祖母)、バレエの先生など、脇を固める人もみんな光っている。バレエに反対し、それでも息子の才能を認めざるを得なくなった父親が、いざロイヤルバレエ学校に旅立つときにビリーを幼子のように抱っこするシーンなど、愛情ひしひしである。この無口な父親は、踊るビリーとは対照的に、表情で繊細かつ複雑な感情をあらわしている。ビリーの親友で、オカマっ気のあるマイケルも、笑いをとっているようでいて(女装&メークをしたり、チュチュを身につけたり)、じつは、男くさい炭坑町という背景のなかで、ビリーと違った意味で異端ぶりを発揮していて深い。最後も、夢は叶うのだけれど、それが、『白鳥の湖』に主演は主演でも、ビリー自身が白鳥になってしまうのが(注:クラシックバレエの『白鳥の湖』では、白鳥は女性)、既成概念を破るというストーリーの1本軸になっている。

『リトル・ダンサー』に関連して、おすすめ本♪

『バレエ・ダンサー』(ルーマー・ゴッデン作)

同じくイギリスを舞台に、少年がバレエダンサーを目指す物語。はじめは反対していた父親が後に後押ししてくれたり、ロイヤルバレエ学校の様子が出てきたり、と共通点が多いです。こちらもとてもストーリー性豊かで、読ませ泣かせます。『バレエ・ダンサー』のレビューはこちらからどうぞ♪

2001.1.9

ゲームボーイ版『ドラゴンクエスト3』をやっている。その前には、同じくゲームボーイ版の『ドラゴンクエスト1・2』もやった。

ドラクエ2、3ともに、私はリアルタイムでプレイした。今回両方ともまたやってみて、おもしろいことに、ドラクエ2の方がよく覚えていることを発見する。登場人物から、宝のありか、地形など、攻略本なしでほとんど事足りてしまった。これは別に2の方が単純だから、という問題ではない。2の頃は、攻略本などまだあまりなくて、『少年ジャンプ』にちょこっとのる情報をたよりに試行錯誤していた。3はおそらく攻略本があって、さくさくストーリーを進めていったからだろう。自分で苦労していないとこれほどまでに記憶に差があるものなのか。

ちなみに、一番よく覚えているのは、ファミコンの時は、データが保存できなかったので、代わりに「ふっかつのじゅもん」という、アルファベット30文字ほどを組み合わせたコードを書き取っていたことである。これは、当然だが一文字間違えるだけで、そのデータがパーになる。悲しい経験をしたことは一度や二度ではない。こんなゲームそのものじゃなくて、ゲームの事情を覚えていることが笑える。

そういや、ドラクエは4以降、ストーリーはろくすっぽ覚えていない。(4に登場した商人トルネコみたいなキャラとか、2回以上プレイした6はまだそれでも覚えている。)なんでかというと、ゲームが複雑になる分、どんどん攻略本に頼るクセがついていってしまって、進めることに意義を感じてしまうのだ。

複雑で凝ったゲームもいいけれど、攻略本に頼りっぱなしというのも情けない。かといって、攻略本なしでは、取りこぼしが多すぎたり、時間がかかりすぎる。

ゲームだってひとつの出会いである。それが、RPGであるとしたら、いくらプレイ中はおもしろいといっても、すぐにストーリーを忘れてしまうのはあまりに寂しい。本だったら、おもしろさと記憶は比例するはずなのに、なんか変だ。使い捨ての出会いにならなくて、かつほどほどに複雑な作品が理想なのだろうけれど、なかなか難しそうだ。