ピカピカ雑記帳2000年

「ポケットモンスターの部屋」「子どもの本」共通のコーナーです。子どもの本&文化(ポケモン含む)関係で、日々あれこれ考えたことをつづっていきます。


2000.12.15

ディズニービデオ『バズ・ライトイヤー 帝王ザーグを倒せ』を観た。このビデオは、来年1月すぎに発売予定だとか。

『トイ・ストーリー』で活躍したおもちゃのバズ人形の元となっているアニメを、ウッディを始めとする『トイ・ストーリー』のメンバーが観るという設定になっている。中身は、いわゆるアメリカのSFアニメのディズニー版なのだが、エンターテイメントしてやはり一流、すごくおもしろい。時間は、約70分と、劇場版とほぼ同じ長さなのだけれど、テンポよいストーリー展開で、あっという間に終わってしまう。『トイ・ストーリー』では三枚目な部分もちらほらあったバズが、本職のスターレンジャーとして見事なヒーローっぷりを見せてくれるのだ。悪を憎み、弱いものを助け、つねに背筋をのばしている姿は、いかにもアメリカの理想的な英雄像だ。ディズニーお得意のユーモラスな脇役キャラも、さえている。

ディズニーの作品は「子ども」向けの作品ではなくて、「子ども心」をもった作品なのだと思う。子どもの目線に合わせながらも、大人の「子ども心」(簡単に言えば、かつて子どもだった頃の心を喚起させるような)にうったえる。その「子ども心」を支えるのは、超一流のアニメーション技術とストーリー構成であるのはいうまでもない。ディズニー独自の「魔法」の発想と、それをしっかりと受け継ぎ「今」という形でバージョンアップさせて蘇らせる人たち。『トイ・ストーリー』作品群の秀逸さから、生誕百年を迎えるウォルト・ディズニーの歴史の重みがずしっと伝わってくる。

2000.12.2

『ライオン・キング』を観た。

アフリカの大地と動物たちの美しさがアニメーションで見事に再現され、ディズニー方程式にぴったりハマる主役、脇役のキャラクター設定と抑揚の効いたストーリーで、とても楽しめた。キャラクターたちが、なじみの深い歌をうたったりしていて(「イッツ・ア・スモール・ワールド」など)、細部もこっている。

つい最近『バンビ』を観たばかりなので、ついつい比較してしまった。『ライオン・キング』の公開は1994年。『バンビ』の1942年からほぼ50年たっているので、「動物たちの王」という設定は似ていても、主人公の描かれ方にずいぶん差がある。

『バンビ』の場合は、愛らしい子ども時代がメインなのに、『ライオン・キング』では成長後の比重がかなり大きい。親を失うのは同じなのだけれど、バンビは母親の死を告げられるだけなのに、シンバは父親が死ぬ瞬間を目撃する。精神的なタフさの求められ方が全然違うのだ。そしてシンバは追放され(悪いおじの策略で)、ジャングルで暮らす。その後シンバはサバンナに戻り、王となるのだが、その前に通過儀礼ともいえるおじとの対決がある。

東側の社会主義が崩壊して、湾岸戦争も無事乗り越え、唯一の世界超大国に君臨するアメリカに、百獣の王の成長物語なんて、あまりにもアメリカを反映している。ディズニーも、それだけ、当時のアメリカ人が求めている「強さ」を感じ、映画に込めたのではないだろうか。

2000.11.15

ささやかにウレシイこと

電車を乗っていると、就学前の子どもがポケモンのカード(ポケモンカードではない)らしきものを手にしているのを見かけることがある。ひらがなが書いてあるので、どうやら、文字を覚える学習道具らしい。

子どもが読み書きを習う時、よく動物や食べ物を例にあげて覚えるが、ポケモンがその代わりになれるほど浸透しているということだろうか。今やポケモンは251種類に増えて、五十音の「ん」以外は、どの文字でも名前の始まるポケモンがいる。「ん」ではじまる名詞などないから、つまり五十音全てをカバーできるのだ。

ちなみに、ポケモンが子どもの教育に役だっているからウレシイのではない。「クマ」「ウサギ」と同じくらいに「クサイハナ」「ウィンディ」が子どもにとっては親しみがあるのかと思うと、ワクワクしてしまうのだ。今はまだ親のほうが、「え?臭い花?なーに、それ?」ってな感じだろうが、今の子どもたちが大きくなったら、「あいうえお」はポケモンで覚えるのが常識になってしまうかもしれない(ポケモンのバックには学年誌の発行元、小学館がいるのだから、けっしてあり得ない話じゃない)。

ファンであろうがなかろうが、誰もがポケモンを何十種類も知っている未来。考えるとすごいことだ。

2000.11.12

ポケモンが好きなワケ

私はなぜポケモンが好きか。そのルーツは妖怪にある。

小さい頃からとにかく妖怪・妖精が好きなのだ。ちなみに、幽霊は苦手である。この世に未練を残して亡くなった人間の魂=幽霊と、いわばアニミズムの妖怪はまったく別ものだ。

ポケモンは、オリジナルな妖怪でありながら(キュウコンのように、昔ながらの妖怪をリニューアルしたものもいるが、リニューアルすること自体斬新である)、現代にマッチする親しみやすさを備えている。もうそれだけで大発明である。

ポケモンは妖怪か?

妖怪とは、人間のさまざまな思い(願望や恐れなど)や理解できない自然現象を具象化した存在である。そういう意味では、ポケモンは十分妖怪として通用する。妖怪博士として名高い故宮田登先生は、たまごっちでさえ妖怪であるとおっしゃっていた(私は先生のそのお言葉にたいそう励まされた)。

妖怪は、人間にとっていつの時代も欠かせない。だから、江戸時代には鳥山石燕の妖怪図画が流行したり、現代では水木しげるを筆頭とする妖怪派(京極夏彦、宮部みゆき、荒俣宏など)が広く受け入れられている。水木さんの鬼太郎ワールドもすごいけれど、まったく新しい妖怪を何百匹も生み出して、しかもここまで浸透させてしまったことは、とんでもないことであるし、見えざる力が働いているとしか思えない。

なんでポケモンを好きな人がこんなにいるのか。それはやはり、ポケモンの妖怪性なのだろう(今風に言えば、キャラクターとも言えるのかもしれないが)。人間には妖怪(あるいは、精霊、妖精)を求める心があり、それが現代ではポケモンとうまく結びついた。オリジナルな妖怪だから、外国でもあっさり受け入れられたのだろう。どの国にだって、土着の妖怪(妖精)がいるし、妖怪という概念自体はけっして珍しくない。

ポケモンには、表現媒体のゲームやアニメに、長所もあるけれど短所もボロボロあって、それでもなお魅力を放つのは何故かと考えていくと、妖怪性にいきつく。

さて、歴代の妖怪に連なるポケモンは、どこまでがんばれるのだろうか。

...なんでこんな事を突然書いたのか。以前「ポケモンと妖怪」だかなんだかという文を書いたのだけれど、ふと思い出して探してみたはいいものの、どこへ行ったのか見つからなかったのでした。

2000.11.10

『MOE(モエ)』という雑誌がある。ご存じない方のために説明すると、絵本、童話(児童文学までは広くない)、ファンシーなキャラクター、はたまた魔女、妖精などを中心的に扱っている雑誌である。主な読者は、中高生以上の女性だろう(洋書の紹介などもあるから、年齢層は大人まで幅広いと思う)。

これの12月号に、「緊急特集 さよなら20世紀 MOEを飾った人気キャラクターベスト50!」という記事があった。そこで、20世紀のキャラクターから、21世紀に注目のキャラクターまで、ランキングがあるのだが、ポケモン(あるいは、ピカチュウ)はランクインされていない。ちなみに、ドラえもんも入っていない。この雑誌の読者層には、ポケモン(あるいは、ピカチュウ)は相手にされていないらしい。

ちなみに、人気なのは、ミッフィー、スヌーピー、アランジ アランゾ、ムーミン、星の王子様、ピーターラビット、ピングー、など、おなじみのキャラクターがたくさんいる。ちびまる子ちゃんやアンパンマンも入っている。アンパンマンは、作り手が童話作家っていうことがポイント高いんだろう。

しかし、おもしろいは、ポストペットのモモやどこでもいっしょはもちろん、ワンワンちゃん(初めて知ったぞ)だの、こげぱんだのがランクインしているのに、ポケモンやドラえもんがまるっきり無視されていることだ。ほかにも、初めて名前を知ったキャラがけっこう上位にランクインしていてびっくりした。少なくとも、一般的な認知度からいえば、ポケモンやドラえもんの方がずっと上だろう。

これはつまり、いかに売り手側(小プロ、任天堂、テレ東など)が、自分たちで受け手を限定してしまい、マーケットの拡大を怠っているかいることではないだろうか。こういう雑誌で、毎月いろいろなキャラを特集して、ランキングまでするんだから、日本におけるキャラの需要って、お子さまだけじゃないってのはバカでもわかる。それなのに、売り手の方が「お子さま」って枠に縛られてしょぼい商品しか出さない。今や、ガシャポンでさえ大人にひろがっているんだぞ。

ポスト・ピカチュウという大穴を狙って、媚び系キャラを続出させるヒマがあったら、もっともっとできる/やるべきことってあるだろうに。

2000.11.7

現実と仮想現実(バーチャル・リアリティ)

未成年者の凶悪犯罪がおこると、犯人の少年がゲームに夢中だったとか、そういう類のことが騒がれる。たとえ犯人にそういう要素があったとしても、それを一般化してゲームなどの新しいメディア(一昔前だと、漫画やテレビ)を攻撃するのはどうかと思う。が、やっぱりのめり込む人っているのだと最近つくづく思う。

ポケモンの世界観には、いくつか矛盾がある。ポケモンの捕獲方法にしかり、バトルにしかり。突然あらわれたポケモンを弱らせて無理矢理ボールに収めたり、トレーナーがポケモンを格闘ゲームの道具にするのは、たしかに一般常識や倫理に反するものだ。けれど、それは現実の常識や倫理に当てはめた場合である。じゃあ、バーチャル世界なら、許されるのか、などという問題ではない。バーチャルにしても、根元的な倫理に反するから、疑問や批判が生まれるのだろう。

じゃあ、なにが問題なのかというと、現実とバーチャルの区別がつかなくなることである。ポケモンは、現実とは似ているけれど、まったく違う世界なのではないだろうか。似ているというのは、けっこうやっかいなものである。例えば、『ゲド戦記』や『指輪物語』など、まるっきりの異世界なら、こっちの常識が通用しないと最初から分かっているから、そういうリスクは少ない。でも、『ハリー・ポッター』シリーズのように、あたかも現実にありそうな世界だと、やれ黒魔術だのなんだと吠える人が出てくる(でも、吠える人自身はハリー・ポッターのファンではないだろう)。

ポケモンも同じである。こちらの世界と地続きのような親しみのある世界観だから、ポケモンの命の尊厳を唱える人が登場する。これがファンじゃない人ならともかく、ファンが唱えるといっそうやっかいだ。ポケモンの世界観が気に入らないなら、やらなきゃいいじゃん、と私などは考えてしまうのだが、熱烈ファンはそう一筋縄ではいかない。ファンだからこそ、改善しなければ!!という使命に燃えるらしい。バーチャルだって命がある、大切にしよう!という意見に反対する気などさらさらないが、だからといってバーチャルは所詮バーチャルである。いくら私がピカチュウを愛していようとも、心のどこかでは、狂喜乱舞する自分を冷ややかに見つめている私がいつもいる。

別に私自身を正当化しているわけではない。いくらファンであっても、冷静に自分を見つめられなくなるのは恐ろしいと言いたいのだ。ポケモンに限らず、アイドルにしろ、野球チームにしろ、崇拝、狂信したりと、バーチャルにどっぷり浸かるようになったらオシマイである。いや、本人たちだけのレベルだったら、それはそれで結構なのかもしれない(他人様の趣味など関係ない)。けれど、往々にして、見境なく他人に押しつけたり、他人を攻撃したりと第三者に被害が及ぶから怖いのだ。こうなると、カルト宗教の勧誘に似ているな。「改心しないと、地獄に堕ちますよ!!」

2000.11.3

ディズニーの『バンビ』を観た。原作はまだ途中。

『バンビ』は1942年に公開された作品である。『ピーターパン』より11年も古い!でも、今でも十分に通じる新鮮さと躍動感がある。

バンビのおこちゃま時代がとにかくとにかく可愛い。足がよたよたして、すぐにこけたり、べったり地面についてしまったり。軟体動物みたいに足が交差するのも、アニメだからこそ可能な描写である。バンビの友だち、ウサギのとんすけ、スカンクのフラワーも、ぬいぐるみのようにころころ丸くて愛らしい。特に、やんちゃで好奇心旺盛なとんすけは、バンビを新しい世界(生まれたばかりだから、何もかもが新しい)へ案内する導き手として、とても効果的である。

バンビたちが青年になってからは、まあ余談程度。ああ、この子も立派に大きくなったのね、とわかればよい。

考えてみれば、ディズニー長編アニメ映画では、こういう、愛くるしくて抱きしめたくなるキャラが主人公の話って、あんまりないような気がする。主人公はもうちょっと大きくて、脇役におとぼけラブリーキャラ(『ピーターパン』のマイケルとか)が登場する、というのが一般的じゃないだろうか。『ライオン・キング』だって、可愛いおこちゃま時代はあるけれど、その先の方がずっと大切である。

原作『バンビ』の雰囲気に、ラブリィさは感じられない。しかも、成長してから先もけっこう長い。では、ディズニーが『バンビ』を映画化するとき、どうしておこちゃま時代をほぼ大部分にあてたのか。そして、『ライオン・キング』ではおこちゃま時代がなぜ『バンビ』より短いのか。『バンビ』では、戦争中だから、かえって愛らしい動物たちのほっとする姿を求め、『ライオン・キング』では、百獣の王(=アメリカ)として強く正しくたくましく君臨する様子が時代にマッチしたのだろうか?うむ。

2000.10.28

『トイ・ストーリー』を観た。

この映画の公開時は、なんかディズニーのイメージと合わなくて興味がわかなかったのだが、大きな間違いだった。ディズニーアニメのCGのレベルが高いってことは、『美女と野獣』『ポカホンタス』などの諸作品ですでに知ってはいたが、オールCGの『トイ・ストーリー』はもっともっとすごい。おもちゃの表情とか仕草がとってもリアル。動いている時だけじゃなくて、人間の前で「おもちゃ」に戻った時のウッディの脱力ぶりも見事。ディズニー節もしっかり健在で、見ていてほんとうに楽しくて、最後に一件落着するとこっちも幸せになれる。ストーリーも、メリハリが効いていて、とてもうまくまとまっている。ビデオには、本編の後にメイキングが入っていたのだが、これを見ると、作り手たちがすごい苦労を重ねて、どんなに大切に作品を作ったかが伝わってきて、余計に感心してしまった。主人公のウッディ役のトム・ハンクスが、「ディズニーはアニメを芸術に高めた。『トイ・ストーリー』は、そのディズニーの功績を、現代において実現した」と言っていたが、まさにその通りだと思う。

ディズニーの名作アニメは、その功罪がいろいろ言われるけれど、『トイ・ストーリー』に関してはそういうリスクが全くないってのがいい。私も決してディズニー名作アニメが嫌いではないが(それどころか、好きだ)、あまりに話が変わってしまうのには(人魚姫が死ななかったり)、ちょっと複雑な思いがある。だから、素直に楽しめる『トイ・ストーリー』とか『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』とか、オリジナルの作品がどんどん出てくるといいのにというのが正直なところである。

さて、今度は『バンビ』を観る予定である。現代に戻ってきたばかりだというのに、すぐ数十年過去にタイムトリップである。じつはこれは原作を読んでいないのだが、この機会にトライしよう(これもアニメではずいぶん変わっているらしいが)。

そういや、去年の11月にアメリカで『ミュウツーの逆襲』が公開された時、『トイ・ストーリー2』とランキングを争っていたっけな。そのうち、『トイ・ストーリー2』も観てみよう。

2000.10.26

十何年ぶりかでディズニーの『ピーターパン』を観た。『ピーターパン』に限らず、最近は縁があって、ディズニー映画をみる機会が多いのだが、そのたびに、仕事を忘れて夢中になってしまう。ちなみに、今冬公開の『ダイナソー』も観た。いろんな種類の恐竜が、群れになって移動する姿は圧巻でした。ディズニーファンの方に恐竜ファンの方、そして、どちらでもない方も、おすすめしますよ〜。

さて、この『ピーターパン』は、1953年に公開されたのだが、約50年たった今でも、全然古くさくなくて、とってもおもしろい。こっちの気分を盛り上げるツボを、ほんとうにうまくとらえている。ディズニー映画には、必ず愛らしくてユーモラスなキャラクターがいるのだが、末っ子のマイケル、フック船長の手下のスミーがいい味をだしている。そして、なによりも、マイケルがいつもだっこしているクマのぬいぐるみがいい。このクマは、別に動いたり話をしたりする訳でもなくて、単なる無生物、小道具にすぎないのだけれど、じつに巧妙なタイミングで画面に入っている。『白雪姫』『シンデレラ』もそうだけれど、ディズニー節ともいえる、この高揚感は、こんな昔からずーーっと磨かれ続けてきたのね。

名作、古典を映画化したディズニーの功罪はいろいろあるのだろうけれど、でも、今の子どもが本に親しむきっかけとして、ディズニー映画は貢献していることはまず疑いないだろう。ピーターパンの人物造形とか、ずいぶん原作とは違って(原作をしっている者にしてみれば)違和感はあるけれど、それでも、あのわくわく楽しい気持ちを味わってしまうのは否定できない。しかし、以前観た時は全然気にしなかったのだが、改めて観て、夢オチだったのはびっくりした。原作では、事実としてずっと通っていたが、アニメではその部分が限りなく曖昧になっている。そういや、ジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使い』も夢オチだった。映画という限られた時間のなかでは、やむを得ない処理なのだろうか....ちょっと納得いかん。

さて、明日中に、今度は『トイ・ストーリー』を観なくちゃならない。こっちは初めて。『ピーターパン』や『シンデレラ』とほぼ50年の間隔があって、さらに古典のリメイクとオリジナル・ストーリーの違いもあるし、色々比較して観てみよう。

2000.10.24

非難と批判と批評

この3つの差がわからない人は意外と多い。というか、単語の意味を知っていても、自分の頭で、ちゃんと区別できないのだ。

私なりの定義では左図のような感じである。

批判は、非難、批評どっちにも含まれうる。批判は、くだけて言えば「ダメ出し」、つまり否定である。非難は、ほぼ全部否定であるが、批判はその一部。逆に、批評は肯定否定両方の可能性を持ち、批判はその中の否定部分。英語のcritiqueには、批評、批判どちらの意味もある。しかし、非難と批評はまったく別物である。根本的な姿勢が違うのだ。非難というのは、自分にとって好ましくないものに対しての文句や抗議であるが、批評は、そのものを取り上げた時点で、存在価値を認めていると私は考える。

批評をする(心がけている)私としては、論じるに値しないと思う作品は、まず取り上げないし、紹介などする気はさらさらない。ポケモンにしても然り。けっこう憤慨しまくっているハリー・ポッターだってそうである。あのシリーズは、なんで今の時代に受け入れられる(売れる)のか、どうしてあの作品がいいのか、他の児童文学作品ではどうしてそれをなしえなかったのか、などなど、考えなくちゃいけないと思っている訳なのだ。あの作品は、まあ平均値は超えているけれど、そんなに大げさに激賞するほどでもないと私自身は読んでみて感じたから、なおさらである。

2000.10.22

批評とファン・トークの違い

ポケモン掲示板の方で、かなりの価値のずれが生じている。これは、ゆえに批評とファン・トークの違いからおこっていると私は解釈している。こっちがいくら批評と思っていても、ネガティブな意見を受け付けたくないファンにしてみれば、「誹謗中傷」の類になってしまうらしい。ポケモンに限らず、そういうのはよく聞いたことがある。鈴木晶さんが、熊川哲也の公演を新聞でレビューしたあと、ご自身のHPでもレビューをアップしたら、ファンからがんがんメールが来てまあそれは大変だったらしい(新聞ではほめて、HPでは問題点を指摘したのが原因だったと記憶している。新聞では、文字数の制限があって表現できなかったことを、HPでは詳細に述べたという違いなのだと思ったが)。わざわざ抗議への反論までアップされていたし。

批評とファン・トークの違いはどこにあるのか。私事になるが、『ほんとうはこんな本が読みたかった!』『だから読まずにいられない』で紹介する本を選ぶさい、ファンの感想ってのは頼りにならないということを思い知った。すごい誉めてあるから、どれどれ? と期待して読んでみたら、つまらなかったぁ(怒)って経験は数え切れない。誤解を防ぐために書いておくが、その方たちが1冊1冊新鮮な喜びを抱きながら大切に読んでいらっしゃる事自体はとても素晴らしい。それを否定する気はまったくない。でも、商品としてブックガイドを出すには、それだけじゃ足りない。加点法の視点はすごく大切だけれど、同時に切り捨てる勇気も必要なのだ。

ポケモンは世界的な大ブームを引き起こし、世の中に浸透したといってもいい。でも、その扱いは、まだまだ低い。日本では、アメリカで興行成績1位を樹立してから、ちょっと見直された感じだけれど、それでも、格下の文化、「どうせ子どもの遊び」扱いである。世間一般では、ハリー・ポッターブームとの比較に引っ張り出されて、こきおろされるような程度だ。

子どもの本の研究をしている私が、たまたまピカチュウのファンになったことから、どうしてポケモンが世代を越えた、日本が誇れる文化になりえる(た?)かを真剣に考えるために、このサイトをつくった。ポケモンをわかっていない、見下している人たちに、ポケモンの価値を訴えたいという野望を抱いているわけである。だから、ここは、ファン・トークをするためのファン・サイトではない。もちろん、ファン・トークをするな、など野暮なことはいわないが、酷評に対していちいちヒステリックに反論されるのは辟易する。だいたい、一時話題になったアメリカの虐待サイトでもあるまいし、ほんとうに下らないとおもったら、わざわざHP作るほど暇人ではない(嫌いなものは無視するのが私のポリシーである)。掲示板に批判を書き込む人にしたって然りである。私だって、あからさまな中傷誹謗など許すわけがない。そういう根底の部分もちゃんと考慮してもらいたいものだ。

2000.10.14

ハリー・ポッターシリーズの2作目『ハリー・ポッターと秘密の部屋』が発売され、各メディアはこぞって特集を組んでいる。先日も、朝の某ワイドショーで、この作品の魅力について取り上げていた。レポーターや出演者が口々にハリー・ポッターのおもしろさ、すごさをたたえる中、司会者の男性は、「読んだんだけれど、おもしろくなかった」と言った。そしたら、となりにいた女性司会者に「もう子どもの心がわからないからですよ」とあっさり片づけられていた。

冗談じゃない。ハリー・ポッターが子どもの本の代表作、傑作として高々と掲げられるだけでもどうかと思うのに、それを子どもの心がわかるかどうかのリトマス紙にされるなんて、言語道断もはなはだしい。そりゃ、ハリー・ポッターを好きな子ども(&大人)は(たくさん)いるだろう。だけど、いくら世界的ベストセラーだからといって、それが全てではない。「古典」「名作」として長く親しまれている『赤毛のアン』『クマのプーさん』「ぐりとぐら』にしても、好きじゃない子どもだっているはずだ。なんでハリー・ポッターひとつで子どもの全てをくくろうとするのか。その女性司会者は、べつにそこまで深く考えて発言したのではないだろう。しかし、一連のハリポタフィーバーが、こんな風にまとめられるのは、じつにやりきれないことだ。(子どもの本の研究者として、つねにこの大ブーム作品の価値や意義を確かめていかなればならないと思った。)

話題はさらにハリー・ポッター。最新刊(4作目)を読み始めたはいいものの、パワーダウンもいいところで、前進するのがつらい。忙しいせいもあるけれど(単なる言い訳か?)、まだ学校が始まる前で止まっている。シリーズものは全巻揃わないとちゃんとした評価は下せないが、3巻目で大分もたつきが気になり(それでも、1日で一気に読んだ)、4巻目でこのダルさとは、先が思いやられる。他にも読まなければいけない、優先順位が高い本は山積みだし、本当に読破なるか、ちょっとあやしくなってきた。

2000.9.30

ハリー・ポッター4巻目を読み始めた。なんか求心力がガクンと落ちている気がする。魅力のひとつだった、細部の描写が、ダラダラとうざい。さっさと進んでくれーーー。「ニューズウィーク」では、今までのシリーズで最高!と謳っていたけどねえ。この厚さでこのかったるさでは、読破が思いやられる。

そういや、ハリポタを誉めるとき、比較してこきおろす対象がいつもポケモンになっている。そりゃ、どっちも今の話題だから、つい一緒に並べたくもなるかもしれない。しかし、ポケモンやるから本を読まない、本を読む子はポケモンを知らない、って簡単な構図はつくれない。そう簡略化する輩はなんとバカなことか。そういうヤツに限って、ポケモンを体験したことがなかったりするんだよね。

2000.9.13

ドラクエ7のラスボスを倒した。はー、今回はスケジュール的にキツかった。

しかし、ドラクエ(に限らず、およそRPG)というのは、自己犠牲のゲームだ。ぜんっぜん関係ないのに、主人公は行く先々でトラブルを押しつけられて、見知らぬ人たちを救わなくちゃいけない。弱っちい敵ならともかく、ダンジョンとかでは恐ろしくパワフルな敵に何度も殺され(て復活して)、やっとこクリアしたなんてことも度々だった。(私はプレイしながら、「なんでこんなやっかいごとを背負わなきゃならないんだ」と思っていたけれど、主人公たちだって、きっと内心そう感じているはずだ。)でも、それで最後は世界まで救ってしまうのだから、じつはイエス・キリストと同じくらい偉いってことになる。

ドラクエで最高級の職業にあたる「ゆうしゃ」は、「おひとよし」というレベルから始まる。たしかに、底抜けのお人好しじゃなくちゃ、こんなことやってられないだろう。主人公ご一行は、不平不満ひとことももらさずにダンジョンへ向かい、人々が救われると素直に心から喜ぶ。しかも、ドラクエ7では、主人公は世界の救い主であるにも関わらず、ラスボスを倒した後は、生まれ故郷の小さな村で漁師としての人生をおくるらしい。とてつもなく偉大なことをやり遂げても、主人公の根本的な部分はちっとも変わらない。ゲームを進めるためとはいえ、プレーヤーにそういう「英雄」像を強制的に味あわせるのって、人間はどう生きるべきか、みたいな哲学に自然と役に立つのではないのだろうか。こんなことを、今回はプレイしながら考えてしまった。まあ、プレーヤー自身はあまりそんなことを意識していないんだろうけどね。でも、押しつけがましい道徳よりも、こっちの方がよっぽどいい。

世間一般の大人(テレビのコメンテーターとか、評論家なる人たちは特に)って、未成年の犯罪とかあると、すぐに「ゲーム世代」と一緒くたにまとめて言うけど、はたしてゲームのこういう側面を知っているんだろうか?まあ、ゲームといっても色々だから、それを一括してどうだとも言えない。が、自分はやったこともないくせに、「ゲーム」で全て片づく、みたいな人の方が多いのはたしかだ。そういう方たちには、ドラクエでもFFでもゼルダでもいいから、一度RPGを全クリアしてみろと言いたい。たしかに戦闘はばんばん出てくるし、よそさまのタンスやら宝箱やらから勝手にいただいたりしているけど、それ以前に、もっと大切で基本的な理念があるのだから。

2000.8.16

8月25日〜27日まで、幕張メッセで「任天堂スペースワールド」というイベントがある。そこで、GBソフト「ポケットモンスター金(銀)」の幻のポケモン「セレビィ」が初めてプレゼントされる。その数なんと、10万人!なのだけれど、ポケモン金銀自体500万本以上売れているんだから、決してものすごい数ではない。去年の「ミュウ」プレゼント(5万人)の時は、すでに何度も同じイベントがあったので、応募したら確率100%で全部当たったのだが、今回は6割くらい勝率である(まだ返ってきてないハガキもある)。10万人プレゼントで、全部当たらないのは、当然!なのか、さすが?なのかはよく分からないが、やっぱりポケモン人気あるねーーーと今更ながら感心してしまった。

話はとんで、やっと「ドラクエ7」を予約した。そういえば、SMAPのCMは話題になっていたけれど、ドラクエって予約特典みたいな、一種イベントっぽいのってあったっけな??ポケモン金銀みたいに、予約パンク状態みたいなこともないようだし。私は、たまたま入手ルートあるから全然心配していなかったけれど、予約で苦労した人っているのかしら?私が知っている、某大手量販店では、何万本(!)だか確保してあるから余裕なんだそうだ。ドラクエって、もう売れるのは当然で、そんなにプロモーション活動がなくても余裕しゃくしゃく、もとからすっごく沢山生産しているってことなんだろうか?しかし、予約をしたのはいいけれど、肝心のプレイは全く未定です。特に、8月末頃は、それどころじゃないだろうからなあ。

2000.8.8

本日アマゾン・コムからハリー・ポッター第4作目Harry Potter and the Goblet of Fireが届いた。噂には聞いていたが、ぶ厚い!洋書の(ハードカバー)辞書サイズ並。ちなみに、すぐ手元にある、「コンサイスオックスフォードディクショナリー」とほぼ同じ大きさである。さて、色々と詰まっているので、すぐには読まないが、読み始めたらさぞかし首と肩にきそうだ。そういえば、ハリー・ポッターの人気に対して、ネット上のニュース記事でだったと思うが、ある親が「この本のおかげで子どもがポケモンに夢中にならなくてすんだ」と言っていた。はたしてそんなに喜ばしいことなんだろうか。メディアの違いこそあるが、流行、娯楽という意味では互角勝負と思うのだが....まあ、読まないよりははるかにマシだけれど、活字なら全て有り難い時代になってしまったのだろうか。

2000.8.3

アメリカで現在「ルギア爆誕」と「ピカチュウたんけんたい」が公開されている。評判はどうかな〜?とヤフーとかで調べたら、まあ、それが惨憺たるもので。とにかく、アメリカ人映画評論家は、ポケモンなんてくだらないものはぜんっぜん理解出来ないし、子どもを映画館に連れて行かなければならない親たちには計り知れない苦難だ、みたいな書き方をしている。まあ、プロットが弱いとか、そういうのはまだいい。それが映画批評として客観性を持っているなら。でも、映画の内容以前に、「ポケモン」に対するバッシングが大半なのだ。「訳のわからないポケモンがたくさん出てきて、ぎゃーぎゃー騒ぐなんて、くだらないにも程がある」ってのは、批評になっていない。

ポケモンは、その「訳のわからない」生き物たちがメインであって、最大の売りである。ポケモンがたくさん出てこない映画はポケモン映画じゃない。それを真っ向から否定するのってあまりにおかしい。ディズニー映画を観て、ミッキーやドナルドをけなすのと一緒なんじゃないの?たとえば、「101わんちゃん」に、イヌがギャンギャン次から次へとわめいてうざかった、みたいに。しかも、こんなものはダメという思いっきりマイナスのイメージから入り、それで押し通してしまう傲慢さ。もし「くだらない」と思うなら思うで、それで結論を出さないで、じゃあなんで日本の子どもたちだけでなく、アメリカを始めとする世界の子どもたちもポケモンに夢中になっているかを考えてみてもらいたい。それが評論家の仕事だろうが。

しかし、こういう批評の姿勢は、ものすごく考えさせられる。どの作品を観る(読む)時も、真っ白な心で読むのがベストなはずなのに、知らず知らずのうちに、良い意味でも、悪い意味でも、個人的な偏見って入ってしまいがちである。「○□だから良いに違いない」とか「△○なんておもしろくなさそう」とか。それに、けなすばかりの評論家ってのもねぇ。しかも、あそこまであからさまな口汚い悪口レベルだと、それでもプロ??と思ってしまう。もとは、映画鑑賞を推進するのが目的でしょ?なのに、感情的にケチつけるだけつけて、その批評を読む側にたっていないってのは問題だよなあ。読者は、映画のレビューを読みたいのであって、悪口を期待しているんじゃないはず。たとえ元々ポケモンを観る気が全くないとしても、悪口読むのって楽しくないような気がするけど。

2000.7.26

本日発売の「ニューズウィーク日本版」で、ハリー・ポッター特集をしている。ようは、このシリーズは恐るべき世界大ベストセラーで、しかも、4巻目も発売前から数々の記録をうち立てているということなのだ。ちなみに、アマゾン・コムで34万5435部の予約があったという。じつは、私もアマゾン・コムで予約した一人である。私自身もその記録に加担してしまったのか....しかも、最初の25万部は、発売当日の発送を保証していたんだというが、私の分もちゃんと即日に発送連絡があった。なお、この記者は、この第4巻目がシリーズ最高傑作と大絶賛している。まあこれは読んでみないとわからない。世間一般でのハリー・フィーバーと、私の読後感は必ずしも一致していないので。余談になるが、発売日にハリーの扮装をして本屋に集まる子どもの写真があったが、額の稲妻のキズは、私にはピカチュウのしっぽに見えてならなかった。

2000.7.22

私は公式の場(このHP含む)では、つまらなかった本は紹介しない主義である。こっちがつまらなくて読んだ時間返せ!とか思うのに、さらにレビューなぞ書いて、他人さまの時間までつぶす気にならないからだ。しっかし、実際にはある。おすすめ本に当たるまで、どれだけそういう本に遭遇していることか。余裕がない時とか、うがーーーーっ!と吠えて怒る。(一応説明しておきますが、「つまらない」本というのは、あくまで私の感性に合わないという意味で、世間一般ではひっじょうに評価が高い本もあります。)でも、そういう「つまらない」本があるから、おもしろい本との差がわかるわけで、必要悪(厳密には、悪でもなんでもないが)なのかなあとも思ってしまう。他の人にはおもしろいかもしれないしね。だいたい、おもしろい本にしたって、おもしろい本なりのランクがあるんだからねー。難しい問題だ。

2000.7.18

子どもの本のボーダーとはなんぞや?と考える機会が多い。ヤングアダルトなんて、本当にひろく取れちゃうし、はたまた近頃は「大人のための絵本」なんてのもあるしなー。別に考えたからって、これ!っていう結論は出ないし、無理矢理だす(だせる)ような問題じゃないんだけどね。まあでも、いつも自問自答して、自分のなかでのイメージ(定義というにはほど遠い)をコチコチに硬くしないようにしていることが大切なんだろうな。これも時代によって違うけれど、今は子どもオンリーってより、子どもだけでなく大人もって方向だから、よけいにグレーゾーンが増えていって当然だよなあ...本当にただのぼやきで終わってしまった....

しっかし、いけないとは思いつつ、私も偏見の塊である。本当は偏見がないのが一番だが、偏見が見事に覆されるのって、すごい嬉しい(マゾか?)。そういや、ソトも、最初は「つまんなかったらどうしよう」ってネガティブなイメージから読み始めたっけな。ごめんなさい。最近では、『モンシル姉さん』がそうだった。暗くて説教くさい印象を勝手に持ってしまい、ちょっと引きながら読み始めたけれど、すぐにハマっていった。モンシルが、単なる「いい子ちゃん」じゃなくて、しかも、都合のいい甘さとかもないのがいい。過酷な状況なんだけれど、悩み苦しみながらも、プラス思考なのも偉い。これからも、偏見にはチャレンジ精神だな。

2000.7.9

岡山県で後輩をバットで殴打した容疑で最近つかまった少年がポケモンカードを大量に持っていたと新聞にでかでか出ている。しかし、だからなんだというんだ。新聞ではその事実を述べているだけで、一体どういう意図で載せているのか。またアホな大人がそれをひとまとめにくくって、ゲームとかを攻撃しようというのだろう。しかも今をときめくポケモンだし。作為がプンプン感じられる。しかし、ほんとにバカだよね。氷山の一角でしかないキーワードだけを信じ込んで、それで斬ろうとするのって。だいたい、そんなにブランド名をでかでかと挙げていいんだろうか。メディアファクトリー(ポケモンカードの発売元)にしてみたら、いい迷惑だよなあ。故意的な営業妨害として訴えてでもしてくれたらいいのに。

今日、イギリス、アメリカの現地時間の8日は、ハリーポッター4巻目の発売日。だいぶ前から、アマゾンとかではフィーバーしていて、「ハリーポッターの発売前に!」みたいなDMも来ていた。という私も、じつは予約している。それで、さっき早速「発送しました」メールが届いた。さすが、話題作とあって、対応が早い!しかし、私は船便で頼んだから、きっと到着はお盆すぎでしょう(航空便で頼んでまで早く読みたい!!という気は、当然、ない)。特にお気に入りという訳ではないが、3巻まで読みかかった船だし、今後のハリーの成長が気にかかるところなので、早く読みたいな。

2000.6.29

ここ最近、ずーーーーっと本読みに追われている。もう楽しみの域は遠くかなたへ行ってしまった(それでもおもしろい本だと楽しいけど)。で、こなす量が量なので、速読をせざるをえないのだが、そうすると自然につまらない本とおもしろい本が分かれてくるからあら不思議。要は、つまんない本は頭に入らない、残らない、おもしろい本は乱読、熟読、速読に関わらずおもしろい。しかも、単純に、おもしろい、おもしろくない2分法じゃなくて、その程度は千差万別。すっごく!!!おもしろいから、まあまあから、なにこれ!?まで色々。これは、単純明快な幼年向けの文章がやさしい本であろうと、複雑なヤングアダルト向きの本であろうとほとんど変わらない。

だいたい、「子どもの本」なのに、大人の私にとって(内容、文章のどちらに関わらず)「頭に残りずらい」本が、子どもにしてみればすっごく楽しいなんて変だと思う。私は一応速読のトレーニングを専門の学校で受けたことがあるのだが(しかも、けっこうな記録を残した!)、その時も、おもしろくない本は速度が落ちた記憶があるなあ。逆に、トレーニング中でも、内容がおもしろかった本は今でも覚えている。しかし、この頭に入らない、残らないのは、文章が良くないからなのか、内容が良くないからなのかということまではわからない。まだまだ修行不足ということ。




<子どもの本はおもしろいへ戻る>

<妖怪なポケットモンスターへ戻る>