ポケモン考十 「妖精物語とポケモン」 (1999年1月21日執筆) 妖精物語を好むのは、大人、子どもの隔たりなく、ある特定の人々だとトールキンは述べている。 "But in fact only some children, and some adults, have any special taste for them (fairy stories).... (p. 34)" (しかし、実際には、妖精物語に対する特別な嗜好は、ある子どもたち、そしてある大人たちに限られたものである。)そして、私はかつてその「ある子どもたち」に属する一人であり、現在は「ある大人たち」の仲間入りをしている。
私は昔から妖精(妖怪)の類に興味を持つ子どもだった。妖精物語も好きではあったが、それ以上に妖精(妖怪)そのものに関心があった。水木しげるを初めとする、妖怪画集、百科などを何度も繰り返して眺めたものである。西洋の妖精よりも、日本の妖怪に強く惹かれ、恐いながらも見るのをやめられなかった。
あかなめ、天井なめ、髪きりなど、実生活に密着した妖怪は、夜一人でいると思い出して震えたり、夜道を歩いてふと後ろが気になると、「べとべとさん先へおこし」と言ったりもした。女郎ぐもと子女郎ぐもを比較して、「女郎ぐもは男の人を騙すけれど、子女郎ぐもは裏切られた女の人の代わって男の人に復讐してくれるから、エライ」と訳のわからない事を思ったこともある。また、木の上に住む沖縄の妖怪、キジムナーに愛着を持ったり、佐藤さとるのコロボックル・シリーズを読んで、ふきの下にコロボックルはいないかと真剣に探そうと考えた思い出もある。
逆に、妖精(妖怪)への愛着に対して、幽霊(生霊、死霊を含む)、つまり、怨み、この世への執念などから発生する、肉体から離脱した人間の魂は受け付けない。これは、妖怪が想像力の産物である一方、幽霊は、人間の現世、すなわちトールキンが言う「第一の世界」、への執着心という、あまりに生なましく、かつ現実的な存在であるからだと考える。
それから20年近くたった今、その嗜好は全く変わっていない。それどころか、さらにより一層強まっているように感じる。水木しげるは相変わらず好きであるし、鳥山石燕など、子ども時代には知らなかった妖怪画家なども楽しんでいる。東西の妖怪をモデルにした、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』『女神転生』などのRPGは高校生くらいの時から現在までプレイし続けている。そして、現在最も関心を持っているのが、ピカチュウという黄色い電気ネズミを筆頭とする、ポケットモンスター(以下ポケモン)である。
前述の『ドラゴンクエスト(以下DQ)』『ファイナルファンタジー(以下FF)』に登場する妖怪(妖精)たちと、 ポケットモンスター(注:『』抜きはRPG『ポケットモンスター』に登場する妖怪(妖精)を指す)に対する私の中の位置づけは明らかに異なっている。DQ、FFに関しては、ゲームそのものが好きで、そこに登場するモンスターを妖怪(妖精)としてとらえることは少なかった。DQに関しては、98年9月に『ドラゴンクエスト・モンスターズ』という、これまでDQに登場したモンスターを前面に押し出した、ポケモンと構造の似たゲームが出た。しかし、DQとの付き合いの方が断然長いにも関わらず、 DQのモンスターを妖怪(妖精)としてとらえると、ポケモンには全く及ばない。
一方、ポケモンは現代日本が生み出した新たな妖怪(妖精)だと思う。その大きな理由は以下の通りである。
現バージョンで登場する151匹のポケモンは、15のタイプに分けられる。ノーマル、ほのお、みず、でんき、くさ、エスパー、かくとう、どく、じめん、ひこう、ドラゴン、むし、いわ、ゴースト、こおりである。自然(かみなりポケモンのサンダース)、動植物(ねずみポケモンのピカチュウ、ざっそうポケモンのクサイハナ)、物質(ふうせんポケモンのプリン)など、従来の妖怪と同様に、人間を取り囲む「八百万」の事物を妖怪として具現化した存在だからである。キックポケモンのサワムラーなど、特定の人物を連想させるようなポケモンもいるが、キックという行為を具象化したということで、妖怪とみなすことができる。(山彦をかえす妖怪、呼子などが近い存在だろう。)
そして、DQのモンスターが妖怪として受け入れられないのは、あくま系、ゾンビ系など、キリスト教の神と対極の存在や、幽霊(亡霊)に属するもの、またスライム系といった作り手が新たに創造したモンスターがいるからだと言える。
ポケモンは日本人が従来の方法に従って生み出した妖怪だからこそ、大人、子どもを問わず、受け手は彼らをゲーム(あるいはアニメ)という第二の世界における、真実として受け入れることができるのだ。
トールキンは、On Fairy Stories の "Children"の中で、 "At least it will be plain that in my opinion fairy-stories should not be specially associated with children. (p. 42)" (少なくとも、妖精物語を特に子どもと結び付けるべきではないというという私の意見は明白であろう。)と述べている。私はこのトールキンの主張に全く同意する。私の興味対象は子どもの時と比較して多様にはなったと思う。しかし、妖精物語を含む、子ども時代から愛好していたものを必ずしも全部放棄している訳ではない。文学に関して言えば、子ども時代に好きだった作品は、ほとんど全て今でもそうであると言える。一般的に批評家たちが評価しないクレヨン王国シリーズやイーニッド・ブライトンも平気で読める(しかも楽しんでいる)。
だからと言って、自分が子ども返りをしているとか、ピーターパンのように現実逃避に走っているという訳ではない。単に、 "The process of growing older is not necessarily allied to growing wickeder.... (p. 45) (年をとるという過程は必ずしもよこしまになるということと結びつかない。)ということなのだと思う。古くからの趣味と、比較的新しい興味が自分の中でしっかり調和がとれているから、現状態に満足している。
ラングが提唱し、トールキンも必要だと認めた「幼ごころ」(ピーター・ホリンデールが提案している 'childness'と繋がるものがあるように思えるが)は、人間の幅を広げる一要素ではないかと思える。なくても生きてはいけるだろうが、あればその人の人生の層を厚くするようなものである。
だからこそ、私は自分の子ども時代から今日までずっと続いている妖精(妖怪)に対する興味・愛情を大切にしている。そして、子どもの文学という、子どもそして子ども性に関わる研究に携わる人間として、「幼ごころ」は、必要であり重要な特性ではないかと考えている。
参考文献:『『ファンタジーの世界−妖精物語について−』』(J.R.R.トーキン著、猪熊葉子訳、福音館)