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ギャリー・ソト『四月の野球』−懐かしさのある異文化ー

 チカーノ(メキシコ系アメリカ人)との直接的、間接的な付き合いが始まって、早いもので十年以上たつ。幸運にも、ギャリー・ソトの『四月の野球』(理論社、一九九九)を邦訳する機会にも恵まれた。
 チカーノ(メキシコ系アメリカ人)作家は、ここ数年で、ようやくぽつぽつと日本に紹介された。大人むけでは、『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』(金原瑞人訳・草思社、一九九六)のルドルフォ・アナヤ、『マンゴー通り、ときどきさよなら』(くぼたのぞみ訳・晶文社、一九九六)のサンドラ・シスネロスがいる。子ども(というか、ヤングアダルト)向けの作品としては、昨年のヴィクター・マルティネスの『オーブンの中のオウム』(さくまゆみこ訳、講談社、一九九六)に続いて、『四月の野球』は二作目。
 『四月の野球』を初めて読んだ時、懐かしさと同時に新しさを感じた。
 この懐かしさは、二通りある。まずは、ごく個人的な体験によるもの。私は「チカーノ」という言葉を知る前から、その人たちを知っていた。彼らとは、オレゴン州の高校に交換留学していた時に出会った。米国史や国語の授業が一緒だった仲良しのレネッテも、野球部でショートをしていたランディも、チカーノだ。私にとって彼らは、単純に「アメリカ人」だった。「メキシコ系」なんて冠はない。それと同じ安堵感が『四月の野球』にはある。
 そして、普遍的な懐かしさ。思春期を迎えて、異性を意識したり、おしゃれに関心を持ったりなんて、誰でも一度は経験のあることだから、共感できる。この、「チカーノ」と「普遍的な懐かしさ」が上手に溶け込んでいるところが、『四月の野球』の新しさにつながる。
 これまで、私はずっと異文化に対して興味を持っていたし、アメリカに住んでいた時は、オリエンタルとしての自分を、嫌でも意識せざるを得なかった。そのせいもあって、マイノリティに対する関心は人一倍強い。だから、マイノリティ作家には自然と手が伸びる。でも、ヴァージニア・ハミルトンにしても、エイミ・タンにしても、大抵は、自分とは違う世界だ、という印象を持っていた。ハイ・ファンタジーを読むのと似た気分。リアリティはあっても、別世界の物語。私の知っている現実とはリンクしない。
 民族的、人種的な少数派として、長い間無視されてきた存在である彼らにとっては、自分たちを主張するがゆえに、独自性を強調することは理解できる。チカーノにしてもそれは同じだ。六十年代の民族運動以来、文学と政治的主張は切っても切れない関係にあった。しかし、彼らの存在を認めることはできても、「違うのね」ちう感情が心のどこかに芽生えてしまう。
 全米図書館協会賞をとった『オーブンの中のオウム』は、民族的、政治的プロテストではないにせよ、ステレオタイプ的なチカーノ像に添った作品である。特に家族像は、いかにもメキシコの伝統的なマチズモ(簡単に言えば、男尊女卑思想)だ。決してステレオタイプが悪いという訳ではないが、(読者である)自分との間には、いくつものハードルがある。「私たちはこうなんです」は、「あなたたちとは違う」と表裏一体だ。作品の質いかんの問題ではなく、『オーブンの中のオウム』はチカーノとその他を分けてしまう作品であるのに対して、『四月の野球』は全部一緒にしてしまう。そこが、両者の大きな違いなのだろう。
 『四月の野球』は、「違うのね」というより、「同じなんだ」という印象がまず先にあった。「チカーノ」という冠も、さらりと自然に入り込んでいて、無理や気負ったところがない。これは、私がたまたまチカーノを知っているからではないだろう。ソトもマルティネスも、「自分たちの世界を書きたい」という目的は同じなのかもしれないが、その手法が違う。マルティネスは独自性重視、ソトは、「人類みな兄弟」的なのだ。
 異文化に触れる時、その人たちの独自性を尊重することは、もちろん大切だ。けれど、同時に、共通項で責める『四月の野球』は、私にとって新鮮だった。
 マルティネスのような、典型的なチカーノが受け入れられるのも、ソトみたいに、「普通でリアル」な作品が出るのも、私は歓迎している。どちらも、読ませる力を持った作品だからだ。子どもの本にチカーノ(というか、マイノリティ全体)が不在だった時代から、地方の小規模な出版社を経て、ようやく、実りがでてきたといったところ。最大のチカーノ作家のアナヤがアメリカでメジャーデビューをするまでは、二十年近くかかった。でも、突破口が出来てしまえば、それからは早い。チカーノを含むヒスパニック系アメリカ人は、二十一世紀前半には、現在第一マイノリティである黒人の人口を抜くという。人口が増えたからどうの、という問題ではないが、これからの動向は楽しみである。(『日本児童文学』、1999年11-12月号)