今までの「ポケモン」という殻を打ち破った作品だった。毎年、ギリギリのところまでいきながら、最後は必ず救済があったが、今回はその奇跡を起こさずに終わる。とりかえしのつかない犠牲を払ったぶん、生命や自然といった、ポケモンがいつも抱えるメッセージが無理なくストレートに伝わってきた。
ストーリー自体は、「最強」、「最悪」、「世界征服」といったスケールの大きさよりも、どちらかといえば、個人の「欲望」、「絆」など小さな単位に焦点を当てている。そのせいか、悪役のザンナーとリオンはやや迫力が欠ける。ザンナーはただ宝石が欲しいだけで、中盤以降はあっけにとられて見ている。リオンは、ほんとうに世界征服したいというよりは、自分の好奇心を満たしたいだけである。そんなこんなだから、ふたりの野望は、あっけなくうち砕かれる。そして、たったふたりの悪事が町の滅亡を引き起こしそうになり、守り神と謳われるラティオスとラティアスは命をかけて町を守ろうとする。まるでおとぎ話のような展開だ。というより、今回はおとぎ話が作品の鍵になっている。ラティオスとラティアスがアルトマーレを守ったという大枠のおとぎ話に、サトシたちが体験したストーリーが組み込まれ、ポケモンというファンタスティックな存在を組み立てているのである。心のしずくが、サトシたちの星(地球とは言っていない)を凝縮した存在だとしたら、ポケモンもまた、ただ人間により近しいだけで、同じような意義があるのかもしれない。
今回は、サトシとピカチュウの活躍がメインで、ほかのレギュラー陣(カスミ、タケシ、ロケット団、それぞれの持ちポケモン)は脇に徹していた。毎年、映画が公開されるたびに、誰にもっと活躍して欲しかったなどの声を耳にする。映画だけでなく、テレビアニメでも、ファンから同様の要求はたくさんある。このように受け手に要求の余地を残すポケモンは、言い換えれば、それだけ懐が広いのかもしれない。たとえば、『ドラえもん』は、メインの5人は毎回ほぼバランス良く活躍して、役割分担もほぼ固定している。けれども、ポケモンの場合は、サトシとピカチュウ以外は、どうなるか予想がつかない。ファンにしても、お気に入りのジャンル(アニメ、ゲームなど)やキャラが分散している。つまり、いったん公けの「ポケモン」を取り込みながら、それぞれが独自にポケモン世界を再創造できる遊びの部分があるのだ。だから、毎回色々なリクエストが出るのだろう。それは、作品にとってある意味とても幸せなことだ。
今回は、かっこいいラティオスと、愛らしいラティアスと、二枚看板にしていたが、軍配は出番も多かったラティアスにあったような気がする。初めて絵を見たときは、ルギアもどき?!とやや否定的に思ったが、映画ではしっかりと個性が出ていた。なにより、特筆すべきは、このふたりはバトルらしいバトルをしなかったことである。ポケモンはゲームでバトルをするのが第一目的でつくられた。そのバトルを切り離したのは、アニメならではの試みだろうし、より自然との一体感が伝わってきた。映画でバトルをしなかったポケモンが、ポケモンGBA版で登場したときにどうバトルするかも楽しみである。
神田うの@ザンナーは、まさにハマリ役。というか、彼女そのまま。有名人の自前キャラと役柄のマッチングという意味では、今まででベストかもしれない。釈由美子@リオンは、予想以上にうまくて感心した。
オープニングでも、ワニノコが短編と同じように脳天気にはしゃいでいて笑えた。あのワニノコでもけなげに落ち込んだりして、可愛いところがある。
エンディングテーマは、cobaの切なく懐かしいメロディが作品と融和していて、とてもよかったと思う。『ルギア』で出てきたジラルダンがひょっこり登場したりと、細部にちりばめられていた前作までとのつながりも、5周年という一区切りの歴史が感じられた。
『ピチューとピカチュウ』のピチュー兄弟がふたたび登場。2000年の『ピチューとピカチュウ』、2001年の『ピカチュウのどきどきかくれんぼ』と続き、劇場短編ではテレビレギュラーのポケモンたちの活躍こそに楽しみがあると実感したので、もしピチュー兄弟を出すなら、今年のような方法がベストだと思う(ピカチュウがみんなを引き連れてNYに似たあの町へ行くという手もあるが、場所が同じだと面白みにやや欠けるかもしれない)。ただ、ピチュー兄弟がスペシャル版の定番になるほどの存在意義があるどうかは、個人的には疑問である。まあそれは、今後の制作側の計画(なにをどう売っていきたいか)と、受け手の需要によるだろう。
今回は、意味もなく新ポケモンの紹介ムードが強くて、やや食傷気味だったが、それでも、いつもの通り楽しく可愛い内容はしっかりキープしている。コダックのボケぶり、のんびりやのヒノアラシに、いつも脳天気にはしゃいでいるワニノコなど、おなじみのキャラが、ふだんのテレビでは出し切れない個性を存分に発揮していた。とくに、ヒノアラシ、ワニノコは、テレビでは一緒に出てくることは稀なので、おたがいに絡んでいる様子(というか、ワニノコがやたらと迷惑をかけているだけ)は、日常の連帯感を強く感じさせてくれる。毎週のアニメではできないことを、劇場(短編、長編ともに)で補完することで、徐々にポケモンアニメ世界が確かになるのだろう。ただ、現状のように、ゲームで新バージョンが出るたびにレギュラーをコロコロ変えていくようでは、世界観が固まる余裕がないので、アドバンス版が出た後、どのようになっていくのかが心配だ。
今回は、レギュラーポケモンがかなり限定されいたのが気になった。サトシのヨルノズク、ベイリーフ、カスミのヒトデマン、ニョロトノ、トサキント、タケシの全ポケモンが欠場。制作側が、意識的に「小さくて可愛い」ポケモンだけを選んで出したように思えてならない。でも、なぜ、「小さくて可愛い」ポケモンでなければダメなのだろうか。そこらで遊んでいるだけなのだから、大柄なポケモンがいても構わないだろうし、可愛いだけがポケモンではないだろう。さらに、受け手は「可愛い」ポケモンだけが好きなわけではない(可愛さなら、ピカチュウだけで十分におつりがくる)。たくさんのポケモンの個性が見られるから楽しいのだろうだし、レギュラーポケモンのチームワークを、もっとゆがみのない形(たとえば、『ピカチュウのなつやすみ』のような)で見たかった。制作側が、意図的にポケモンを区別、差別し、それを受け手に押しつけているような姿勢が感じられてやや残念である。(これは、実質的に知名度と人気がナンバーワンのピカチュウを全面に押しだしていることとは別問題である。ピカチュウの場合は、需要と供給が見合っている。)
オープニングのボケモン5は、山田花子のはずしっぷりが、いつもひとりずっこけているコダックとうまく重なっていた。エンディングに、アニメのエンディングを使ったのは初めてだが(手抜き?)、最後のダンスで、これまたコダックがひとり3テンポくらいずれて踊っていたのが爆笑ものだった。ピカチュウ狂いの私でさえ、コダックに目が釘付け。おなじボケキャラでも、ここまでやれるのはコダックだけだろう。これまで何度も惜しすぎるポケモンを降板させてきたが、コダックも、もしそうなったら痛すぎる....
最後に、ソーナノが大量にわらわら出てきたのにはさすがにびっくり。去年の『セレビィ』の自己パロディ??