『超宇宙論』の世界

『超宇宙論』の「超訳」?! 

 

ウスペンスキーの主著の一つ、“A New Model of the Universeの訳本と称している『超宇宙論』(高橋克巳訳、工作舎、1980年初版)について、どうしても一言いわせていただきたい。これはとんでもない本です。まず、このHPを見ている方々に言いたいのは、『超宇宙論』をウスペンスキーの著作だと思ってはいけない、ということです。もっと言えば、あれを読むことはウスペンスキー理解にとって癒し難い障害となるでしょう。

しかも恐ろしいことに、この悪書はいまだに絶版にもなることなく、着々と版を重ねているのです。

訳文を読めば明らかですが、この本には、訳者の知識レベル云々の問題以前に、基本的に英語の文法を理解していないのではないか、と思われる箇所があまりにも多く見られます。訳者は「あとがき」の中で「翻訳にあたっては、おもいきって意訳を前面に押し出した」と述べていますが、意訳と誤訳はまったく別のものであることは言うまでもありません。

これも言わずもがなのことですが、私は訳者である高橋克巳氏に個人的に何の悪感情も抱いていません。私自身、逆の立場に立たされることは当然のこととして承知しています。ただ、いまだに『超宇宙論』が絶版になることなく書店で手に入り、多くの読者がこれをウスペンスキーの主著として理解している現状は一ウスペンスキーファンとしてあまりに辛いという思いから、ここで少しばかりその翻訳の適切さを問うてみたいと考えるものです。

それに、氏の“ウルトラCクラスのぶっ飛んだ翻訳テクニック”を論じるのは割と面白そうなので…(笑)

以下、ほとんどすべての頁(段落)ごとにある誤訳(以下「超」訳と名づけることにする)の中から少し例を挙げてみることにします。

 

まず、英語版(Dover.1997 version)の、ウスペンスキーによる序文(Introduction)の冒頭の一文より。

原文: There exist moments in life, separated by long intervals of time, but linked together by their inner content and by a certain singular sensation peculiar to them. Several such moments always recur to my mind together,

普通の訳: 人生には、長い時に隔てられていても、その中身と、それに特有の並外れた感情によって結びつけられた瞬間というものがある。そんな瞬間のいくつかはいつも私の心に一緒になって回想される。

「超」訳: 人生にはながい時間的へだたりの後に、きわだって光芒を放つ瞬間がいくつか訪れる。しかもその到来には、内的拡がりと、これだという異常な喜びにみちた独特の感覚が結びつけられている。そのようなまれな瞬間は、きまって私の魂を巻き込んだまま回帰する。…

検証: まず原文には、「きわだって光芒を放つ」、「これだという異常な喜びにみちた」という日本語にあたる言葉は存在していません。意訳? ちょっとやりすぎでは… また、「内的拡がり」とは“inner content(内容、中身)のことでしょうか。Content にはどこを探しても「広がり」という意味はないと思うんですけど…

後半の「私の魂を巻き込んだまま回帰する」の「巻き込んだまま」の意味が不明です。それに、細かいことを言えば、ここで my mind を「私の魂」とするのは訳しすぎでしょう。「そんな瞬間はいつも私の心に一緒になって回想される」くらいでいいのでは、という気がします。

これはまだ序の口です。

 

Introductionの第三段落。ウスペンスキーが少年時代を回想して、寄宿舎での予習時間に教科書の代わりに別の本を読み耽っているという場面の一文です。少し長いですが…

原文: But instead of Zeiferts Latin grammar, entirely consisting of exceptions which I sometimes see in my dreams to this day, or Evtushevskys Problems,with the peasant who went to town to sell a hay, and the cistern to which three pipes lead , I have before me Malinin and Bourenins Physics.

普通の訳: 今でも時々夢に見るほど例外だらけのツァイフェルトのラテン文法や、町に干草を売りに行く小作人や三本のパイプを持つ水槽が出てくるエヴツシェヴスキーの『問題集』の代わりに、私の前にはマリーニンとブレーニンの『物理学』がある。

「超」訳: 今日の私の夢想の中にときおりまよいこんでくる、まったく腹立たしい教科書、ツァイフェルトの「ラテン文法」とか、家畜用の干草を売りさばくために、町に出かけた小作人を思わせる、エフトシェフスキィの「問題集」のかわりに、目の前にはマリーニンとブレーニン共著の「物理学」がある。私にとってこの本は三本の知識のパイプのうちで、第1位の指導的役割を果たす水槽なのだ。

検証: どうやったらこんな日本語になるのだろう? entirely consisting of exceptionsは、「ラテン文法」が「今でも夢に出てくるほど」「まったく例外だらけ」ということだろうけど、それを「まったく腹立たしい」で片付けてしまうのは乱暴すぎるのではなかろうか…。ところで「小作人を思わせる教科書」って何じゃらほい? これは「問題集」の中に「干草を得る小作人」とか「三本のパイプのある水槽」を使った例題が出てくるということじゃないの? 

「三本の知識のパイプのうちで、第1位の指導的役割を果たす水槽」?! なぜ、いつのまに「パイプ」が「水槽」になってしまうのでせうか。日本語としてもわけわからん。

ここだけですでに訳者の頭の中身に疑いを持つに十分な気がする。しかし、その根はもっと深い。

 

Introductionの続きの部分。まず、「超」訳をご覧ください。

「超」訳: 通常では孤立してそれじたいで充足しているさまざまの思考方法の溝に立って、私がいま理解している独自の内的結合をあきらかにする諸概念で統一するために私は題材を集め、引用文を選定し、概要を整える。

 

日本語として意味がわかりますか?

ちなみに原文と試訳は、

I collect material, select quotations, prepare summaries, with the idea of showing the peculiar inner connection which I now see between methods of thinking that ordinarily appear separate and independent.

私は、通常は別個の独立したものと思われている思考手法の特別な内的つながりを明らかにしようという考えをもって、材料を集め、引用を選び、要約を準備する。

 

さらにまったく不可解な超訳のウルトラC

And besides, both of them learn to lie immeasurably more than they could learn even in the best of the old kind of schools. Preface to second edition, xiii

試訳:それに加えて、彼ら(訳注:共学制の学校に通う男女)は共に最良の旧制学校で学ぶよりもはるかに多く、嘘をつくことを学ぶようになる。

<超>訳:そのうえ、それぞれ学校が受け継いでいる伝統的な<善さ>を、最上のものとして学ぶ以上に、男女間の自覚のうちに眠っているものを学ぶほうが測りがたい価値がある。(『超宇宙論』p26〜27)

 

文字通りすべての文章においてこの調子であるということを強調した上で、さらに恐ろしいことに、この「超訳」は単なる悪文の羅列に留まっていないのです。

 

訳者はIntroduction(序章)に「大いなる憧憬の果てに」というタイトル(見出し)をつけています。もちろん原文にはそのような表現はどこにも存在しません。日本語訳として読みやすくするために章にタイトルをつけるのは別に構わないと思います。しかし、原文にはまったくない見出し・小見出しをほとんど各頁ごとにゴシックでばら撒くのはいかがなものでしょう。目次を見ると次のようなゴシックの見出しが80個以上羅列されています。

「魂理学的方法の告示」 「ようこそディメンジョン」

「めくるめく四次元」 「オカルトのアストラル的存在論」

「秒速30kmで突走る『相対性理論』」 「『軟体動物』に多時間を直観する」

原文のどこをどう読んでも、これらのタイトルに類似する表現は本文中には出てこないと、僕は思います。もちろん訳者は別の考えをお持ちなのでしょうが。しかし、きわめて主観的な見出しを多用し強調することで本文の意図を歪める危険性は訳者として自覚すべきではないでしょうか。

 

次は、『超宇宙論』の中で最も「超訳」の「跳躍度」が激しい、そのものずばり「第4章 超宇宙論」(A New Model of the Universe)という章の検討に入りたいと思います。

 

高橋克巳氏訳『超宇宙論』のメインとなるのは何といっても「第4章 超宇宙論」(原書『ニューモデル』では第10章「新しい宇宙像」の全訳)でしょう。この章は第一部と第二部に分かれていて、前者が当時の現代物理学の概説、後者がウスペンスキー独自の時空論、次元論となっています。

まあ内容の解説はともかくとして、「超訳」の実例をいくつか挙げてみましょう。

 

1. These premises generally disregard a whole series of collateral circumstances the influence of which outside these narrow limits cannot be neglected.

普通の訳: これらの諸前提は一般に一連の付帯的状況全体を無視するが、その影響はこれらの狭い限界の外部では無視することのできないものである。

「超」訳: それらの前提には、傍系の一連の出来事を、最小値の外側の作用であるとふつうはみなしていない。(p.300)

 

2. To put it briefly, the specialand the generalprinciples of relativity are necessary for agreement between contradictory theories on the border line of old and new physics.

試訳: 簡単に言えば、「特殊」相対性原理と「一般」相対性原理は、旧物理と新物理の境界線上での論理の矛盾を調停するために必要なのである。

「超」訳: かんたんに言えば、「特殊」相対性理論と「一般」相対性原理は、古典物理と新物理のボーダー・ラインの上にたつ収縮理論と対応する必然性が見られる。

 

検証(仮説):「収縮理論」=contradictory (矛盾した)がcontract(収縮する)に見えた。

しかし、本当に恐ろしいのはこれからです。

硬めの文が続いたので、もう少し単純な例を。

 

3.as a rule 概して…(慣用句)

 「超」訳:ひとつの規則である…(p300)

 

4.Much effort and prolonged work on oneself are needed to become used to it.

普通の訳:それに慣れるためには多くの努力と長期の自己鍛錬が必要である。

「超」訳:個人の多大な奮闘と延々と続く作業は報われることを必要とする。(p302)

 

次の例は、この訳者がこの本を訳すべきではなかったという事実を見事に露呈しています。

 

5.The time duration t is multiplied by the velocity of light c and by √−1,which without changing the magnitude makes it an imaginary quantity.

普通の訳:時間の長さtに光の速度cと√−1をかけることで、それは大きさを変えることなしに想像上の量になる。

「超」訳: 持続時間tは、光速度cと、マグニチュードが時間を虚量にする変化を加えない場合を想定した平方根√−1により多様化される。(p307)

 

検証: 「マグニチュード」=magnitude(大きさ、量)をそのままカタカナに直した。

「時間を虚量にする変化を加えない場合を想定した」=マグニチュード(changingの目的語)を主語と思ったためにこのような訳になったものと思われる。それにしても日本語としてあまりにもぎこちない。だいいち意味不明。

「多様化される」=もちろんis multiplied by(…で乗する、かける×)のこと。この章の全体にわたって、「かける」は「多様化する」と訳されている。(ex.2かける2→2を2で多様化する。)

 

誇張ではなく、すべてがこんな調子なのです。最後にきわめつけのを一つ。

 

6.The special theory of relativity has reference to domains in which no gravitational field exists.

普通の訳: 特殊相対性理論は、重力場の存在しない領域に関係する。

「超」訳: 特殊相対性理論は重力場がない領域とはいっさい関連しない。(p310)

 

なんとまったく正反対の意味になっているのだ〜〜〜あ!!!

ちなみにこの箇所はアインシュタインのかの有名な論文「特殊および一般相対性理論について」からの引用なので、ちゃんとした日本語訳も入手しようと思えば簡単にできたハズ。

この章はこのアインシュタイン論文からの引用が多くの部分を占めているのですが、その引用箇所の訳が日本語としてまったく意味不明なので、結局全体を通してなんのこっちゃわからん内容になってしまっています。

英語版に目を通したことのない人にとって、『超宇宙論』は意味不明のいかがわしいオカルト本という印象しか持ちようがないでしょう。結果、ウスペンスキーは『奇蹟を求めて』以外は二流の作家、という認識しか持たれないことになってしまいます。

 

いかがですか? これでも「『超宇宙論』はウスペンスキーの本ではない」という主張が不当であると思われるでしょうか? 

 

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