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TERTIUM BBS(ウスペンスキー掲示板)
小森健太朗
(メール、URL)
P.D.ウスペンスキーと、G.I.グルジェフについて語り合うための掲示板です。参加される方は、少なくとも『奇蹟を求めて』(平河出版社)は読んでおいてくださいね。ボードリーダーは、小森・高橋両名です。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(28) 2000年02月15日(火)21時41分27秒
私たちの意識より高いレベルにあり、より広い視界を持つ知覚を想像すれば、この知覚にとっては、私たちにとって一定の時間内(一分、一時間、一日、一ヶ月)に起こるように思われることすべてが「同時に」起こるものとして、すなわち「一瞬」として把握されるでしょう。その瞬間の中で過去、現在、未来を区分することは不可能であり、その知覚にとっては、このすべてが「今」であると言えます。つまり「今」が拡大するのです。
しかしこれが起こるためには、私たちは自らを「物質」から解放しなければなりません。なぜなら物質は私たちが生きている時間と空間の条件でしかないからです。ここで疑問が起こります。意識は、自分自身を根本的に変化させることなしに、または(実証主義者が言うように)完全に消滅してしまうことなしに、現存する物質的な存在条件を超越することが可能なのでしょうか?
この点には非常に議論の余地があることはウスペンスキーも認めています。この本の後半では、彼は意識が現存する物質的条件を超えることができるという考えを肯定する例を挙げ、検討することになります。しかし目下のところ彼がはっきりさせようとするのは、「意識が物質性を超えたときに何が起こるか」ということです。
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小森
密教としてのスーフィズム(1) 2000年02月15日(火)01時03分38秒
私が参加した『堕天使殺人事件』の三章には「密教はそもそもインドに生まれた土着の宗教である」(87頁)という記述がありますが、これはタントラ密教のことだけですね。イスラム教にもユダヤ教にも密教の系列はあるからです。
キリスト教にも密教はありますが、はっきり焦点が定まらないですね。グノーシスから錬金術、薔薇十字団等々。イスラムの場合は、スーフィーに密教は焦点化しています。ユダヤ教の場合は、ハシディズムで、これも比較的はっきりしている。
「奇跡」の解説で、編者の石堂さんには、私のことを「イスラムの神秘主義に造詣の深いミステリ作家」と紹介していただきました。全然縁遠そうな形容詞がならんでるやないかと友人にひやかされましたが、それはこの私のホームページとて同様。イスラムの神秘主義に造詣の深い(謎)ミステリのホームページになってます。
せっかくですから、スーフィーにかんする蘊蓄話も、ときどきこの掲示板で、気が向いたら書くことにします。
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小森
ハーモニアス・サークル(5)ライフ・アゲンスト・ライフ 2000年02月15日(火)00時43分37秒
一回消えたのですが、気を取り直してもう一回。本書の三章までは、グルジェフの、ウスペンスキーとの出会い以前の伝記でしたが、続く四・五章は、ウスペンスキー伝です。六章で両者の出会いが描かれます。
生年さえはっきりしないグルジェフとちがってウスペンスキーの誕生日は1878年五月五日とはっきりしています。それでもロシア革命で関連資料が散逸したせいで、ウスペンスキーの前半生もまた資料がほとんど残っておらず、わからないところが多いようです。妹がいたのは確かで、ウスペンスキーのロシア脱出以前になくなっていることも確かですが、名前さえわかっていないそうです。
ウスペンスキーは早熟な学童だったようで、五歳から本を読み始め、レールモントフの「現代の英雄」やツルゲーネフの小説を愛読したそうです。
「イワン・オソーキン」がどの程度自伝なのかと後年質問されたとき、あれは自分の愚かな知人をかなりモデルにしたものだとウスペンスキーはこたえたそうですが、ウェブはその言を鵜呑みにはできないといい、かなりは自伝で事実だろうと述べています。ウスペンスキーは正規の大学卒業生ではないのですが、聴講生としてはモスクワ大学の講義などに出席し、独学で自然科学・数学を学んだようです。
ブラバツキー夫人のはじめた神智学を知り、かなりのめりこみ、ロシア支部の重鎮に近い存在にまでなったそうですが、ある時期に幻滅したのか、神智学協会から20世紀初頭までには脱退しています。ルドルフ・シュタイナーの講演を聞いたこともあるとか。
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小森
鳥瞰的視点より 2000年02月15日(火)00時25分01秒
高橋さん。このあたりから、ターシャムの論は本格的に面白くなってきますね。離陸するのは、このあたりからでしょうか。
コリン・ウィルソンの『賢者の石』では、主役のハリーが、意識の拡大を体験した瞬間、突如として鳥瞰的視点を得る感動的な名場面があります。通常の人間の意識は、日常的視界に限定されていて、狭窄的です。ウィルソンの比喩にのっとれば、通常の意識では、地を這う虫の視点しかもてないのに対し、鳥瞰的視点によって、直線的・不可逆的でない時間の視座が得られるという話です。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(27)通常の知覚からの上昇 2000年02月14日(月)22時34分32秒
間隔が空いてしまいましたが、先を続けます。
私たちの知覚は、通常の観察の限界内では、常に同じ条件の下に留まり、この条件から抜け出せません。換言すれば、「平面上に縛りつけられて立ち上がることができないような状況にある」ということです。この条件、またはこの「平面」のことを私たちは「物質」と呼びます。私たちの通常の内的生活は一定の(意識または物質の)平面上で進行し、そこから決して立ち上がることはありません。
もし私たちの意識がこの平面を見下ろすことができれば、平面上で見るよりも遥かに多くの出来事を同時に見ることができるでしょう。山に登ったり気球に乗ったりすれば、地上からは決して見ることのできない多くのものを同時に一度にに見ることができます。二台の電車がお互いに向かって進んでいて、そのままいくと間違いなく正面衝突するのが分かるだろうし、盗賊が夜のキャンプに近づいてくるのも分かるだろうし、二つの町が山の尾根で隔てられているのも見えるでしょう。
同様に、私たちが普通に暮らしている意識の平面を「見下ろす」ことのできる知覚によれば、通常の知覚では「時間」によって隔てられている現象を「同時に」見ることができるでしょう。その中には、普通の意識が決して原因と結果としては見ない現象もあるかもしれません。たとえば、労働と報酬、犯罪と処罰、電車の動きと正面衝突、敵の接近と戦闘、日の出と日没、朝と夕方、昼と夜、春夏秋冬、人間の誕生と死など。
一言で言えば、知覚の上昇と共に、視界は広がり、「瞬間の拡大」が起こるでしょう。
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小森
文章消えた〜(涙) 2000年02月11日(金)22時12分23秒
あー。せっかく「ハーモニアス」の続き書いてたのに、「ESC」を間違って押したら全部消えてしまった〜(涙)。やはり長文書くときは、オフラインで文書を用意すべきでした。
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高橋
RE:出典も 2000年02月05日(土)23時36分18秒
小森さん
「名言その1」の出典はConscienceの裏表紙より、でした。
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小森
出典も 2000年02月05日(土)02時15分06秒
高橋さん、こんにちは。「もつれっぱなし」は見本をいただいたばかりなので、書店に並び始めるのは、来週くらいからなのかもしれません。「奇跡」はもう出てますが、部数が少なそうなので、大書店で探さないとないでしょう。大阪・梅田の紀伊國屋書店には並んでました。
名言集というのも、企画としてはいいかも。出典箇所を併記した方がより親切かと思います。私も見つけたら何か書きましょう。
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高橋
少しご無沙汰でした 2000年02月05日(土)00時41分50秒
引越しなどで最近アクセスできなくなっていました。
『書物の王国・第15巻・奇跡』(国書刊行会)と井上夢人著『もつれっぱなし』(文春文庫)もう書店には並んでいるのでしょうか?
本屋で探したのですが、まだ見つかりません。
>ナクシュバンディ教団について、概要がわかる本(洋書)、なにかいいのありませ んかね。
僕もそれについてはちょっと・・・。シャーの“The Sufis”にもこの教団について述べられていますが、まとまった記述というほどではないようです。
ちなみに、シャーの本は平河出版から「スーフィの物語」が出ていますね。
ここで新企画「ウスペンスキー名言集」その1。
“The professors were killing science in the same way as priests were
killing religion.”
「聖職者たちが宗教を殺しているのと同じように教授たちは科学を殺している。」
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小森
ハーモニアス・サークル(4)──職業的催眠術師 2000年02月03日(木)22時00分17秒
引き続き第三章は、グルジェフの伝記で、ウスペンスキーと出会う直前までの、謎に包まれた生涯を追っています。当時のロシア宮廷には、神智学に傾倒する者や、ラスプーチン・シンパがかなりいて、一種の神秘派閥をつくっています。そのとき出入りしていた人物に、後のグルジェフではないかと目される人物がいて、その追跡調査をしています。しかし、いろいろと歴史の闇に包まれてわからないことが多く、前章でのチベットのグルジェフの活動には断定をしていたウェブも、この章では多くを推測のままにとどめています。いろいろ人名がたくさん出てくる章なので、簡略に概略を書くのは困難です。
グルジェフは催眠術の腕に長けていて、それで渡世していたらしいという傍証がいろいろ出ています。しかし、「来るべきよきものの前触れ」でグルジェフが「1912年にたてた誓い」にふれているのは、もうこの催眠術の力を使うのを封印しようという誓いだろうとも述べられています。
ラスプーチンとグルジェフも、本章で推測されている人物がグルジェフならば、接触があったことになります。このあたりの闇のロシア史は面白いところですね。
次の四章から、話はウスペンスキーの伝記にうつります。
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小森
ナクシュバンディ教団について 2000年01月31日(月)20時31分28秒
↓下でちらりと言及したナクシュバンディ教団について、概要がわかる本(洋書)、なにかいいのありませんかね。
調べていたら、以下↓の本が、グルジェフとスーフィー教団にかかわりにふれていて、なおかつエニアグラムの源泉がナクシュバンディ教団にあったことを主張しているようです。未見ですが。
The Naqshbandi Sufi Way: History & Guidebook of the Saints of the Golden Chair
イドリース・シャーの"the way of the sufi"にも、ナクシュバンディのorderは出てきますが、簡単な紹介だけで、踏み込んだ内容ではなかったですし、他のシャーの本で、書いているのあるかな?
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小森
解説にグルジェフを出してしまった…… 2000年01月31日(月)14時48分50秒
新刊として刊行された井上夢人著『もつれっぱなし』(文春文庫)の解説を書いたのですが、ついつい解説の後半はグルジェフのことをえんえんと(あまり関係がないのに)書いてしまいました。ちらりとウスペンスキーも名前がでてきます。
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高橋
時と人と場所 2000年01月28日(金)21時51分03秒
その部分は僕も読んだことがあり、読んだとき、「時と場所と人」を選ぶとはどういうことを意味しているのかよく分かりませんでした。スーフィの教えの特徴を、実践的、柔軟さ、変幻自在、逆説や比喩を多用する、等とすれば、確かにスーフィは“教えを伝えるTPO”を非常に重視するように思われます。そう考えるとグルジェフはまさにスーフィ的であるのに対して、ウスペンスキーはスーフィとは対極にあるといってよいかもしれません(観念的、頑固で融通が利かなく、真っ直ぐな定式化を好む、等々)。
しかし、ウスペンスキーの生きてきたあの時代、あの状況で、果たして「時と場所と人」を選んで教えることができたかどうかは疑問だと思います。これは多かれ少なかれグルジェフについても言えることですが。
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小森
イドリース・シャーのウスペンスキー評 2000年01月27日(木)21時48分55秒
ちなみにイドリース・シャーの"THE WAY OF THE SUFIS"(Penguin Books,1968)には、p43に簡単にグルジェフとウスペンスキーに触れている文章があります。グルジェフの教義の源泉の多くは、スーフィーのナクシュバンディ教団に由来すると述べています。
イドリース・シャーによれば、ウスペンスキーは、グルジェフと違って、スーフィーとの直接の接触がなかったため、スーフィーの教義を彼のシステムの中にうまく取り入れることはできなかった。「時と人と場所を選んで教えるべきだ」というスーフィーの基本理念を彼は無視していると批判しています。
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高橋
RE:イドリース・シャー 2000年01月27日(木)21時12分19秒
彼の本は以前僕も読みました。読み物としては面白いです。彼は我こそスーフィの伝統の継承者なりという自負があるのでしょうか、確かに出典は一切言いませんね。しかしあれだけ膨大な量の説話を縦横自在に引用する力量はたいしたものだと思います。
小森さんの訳本、是非読ませていただきます。
>いわゆる精神世界本がいかがわしいイメージがあるのは、日本だけでなく、多分
>外国もそうではないでしょうか。インドやチベットなら別かもしれませんが、欧
>米はそうだと思いますよ。実際、その分野にならべられている本って、いかがわ
>しい感じがするのが多いですし。少数のいくつかは、価値があるものが含まれて
>いるとは思いますが、藪の中に分け入って真珠を見つけるのって難しいですから
>ねえ。
同感です。ただこの国ではいま、欧米以上に真珠を見つけるのが難しくなっているような気がします。
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小森
RE:雑感 2000年01月27日(木)01時04分33秒
いわゆる精神世界本がいかがわしいイメージがあるのは、日本だけでなく、多分外国もそうではないでしょうか。インドやチベットなら別かもしれませんが、欧米はそうだと思いますよ。実際、その分野にならべられている本って、いかがわしい感じがするのが多いですし。少数のいくつかは、価値があるものが含まれているとは思いますが、藪の中に分け入って真珠を見つけるのって難しいですからねえ。
しかしそれとは別にバック博士の本とか、ヒントンの本は邦訳されてほしい文献だと思います。前者は、ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』でも重要な役割をはたしている歴史的文献ですし。
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小森
イドリース・シャーって 2000年01月27日(木)00時50分36秒
今日本が届いたのですが、今月末刊行の『書物の王国・第15巻・奇跡』(国書刊行会)。その中で、スーフィー関連の翻訳を私がやったのが載ってます。イドリース・シャーの「イスラム奇跡譚集」は、"THE WAY OF THE SUFIS" "THINKERS OF THE EAST" "THE BOOK OF THE BOOK"の三書からとりました。あとマーガレット・スミスの『ラビア伝』から奇跡をあつかった章の訳。
グルジェフは、スーフィーとの関係は取り沙汰されているので、まあこの掲示板のテーマと関連がなくもないですよね。
しかし、イドリース・シャーって、前田樹子さんの『エニアグラム進化論』では、後からやってきた詐欺師みたいに描かれていましたが、実態はどうなんでしょうね。スーフィー関連の寓話を集めた、書き手としては才能ある人だと思いますけど、出典を明記しないあたり、学者としてはなってない気がする人ですね。
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高橋
雑感 2000年01月25日(火)23時13分48秒
「ターシャム」を読んだり訳したりしていてつくづく思うのは、日本では「心理的(心理学的ではない)著書」の古典といってよいエドワード・カーペンターやR.M.バック博士、C.H.ヒントンなどの紹介がすっぽり抜け落ちているということです。
日本で「精神世界」ものにどうしても胡散臭いイメージがつきまとい、最近の種々のカルトに代表されるような歪んだ形に結びつきがちなのは、この国では本当に良質な「高次の意識」に関する思想に出会うことができないからではないでしょうか。
以前オウムに入信した中学生が入信の動機として「西洋哲学の限界を認識したため」と言ったというのを聞いて考えてしまいました。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(26)時間についての疑問 2000年01月23日(日)21時01分31秒
時間の問題は、二つのデータ(世界と内的生活)に関して、空間的な概念として調べなければならない、とウスペンスキーは主張します。
時間の観念は感覚知覚による世界認識から生じます。私たちの感覚知覚の特性のために、私たちは世界をあたかも狭い裂け目を通して見ているようなものだということはすでに述べました。
このことからいくつかの疑問が生じます。
1 なぜ世界には「運動」が存在しているように見えるのか? つまり、なぜ私たちはこの裂け目を通していつも同じ物を見ないのか? なぜ裂け目の背後で変化が起き、それが運動という幻想を生み出すのだろうか。つまり、私たちはいかにして、またなぜ、現象世界の中で知覚の焦点を移行させるのか? 加えて、世界を見るのと同じ裂け目を通して、私たちは他のあらゆるものの中に見るのと同じ変化を自分自身の中にも見るということも忘れてはいけません。
2 なぜこの裂け目を拡大することができないのか?
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小森
売れ行き(推測まじり) 2000年01月21日(金)02時03分40秒
「奇蹟を求めて」は、平河出版社の本としてはロングセラーのよく売れた本でしょうね。たしか最近みると奥付が19刷りになってた。初版数千部で、増刷で1000〜1500冊ずつくらい刷ったとすると、累計では二万部は越えているというところか、あるいはもっといっているかもしれません。めるくまーるの本では「存在の詩」が累計で一万部をこえたのが例外的なベストセラーだと言ってましたから、軒並みそれ以下なんでしょうね。「リトル・トリー」は30万部になろうかという化け物的ヒットですが、それ以前のめるくまーるでは。
ですから、「ベルゼバブ」なんかはたぶん、増刷したとはいえ一万部未満だと推測します。他の関連本はもっと少ないでしょう。
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小森
閑話 2000年01月20日(木)20時36分05秒
高橋さん、いやどうも(笑)
新パソコンを導入したはいいですが、インストールしたドライバーかソフトが悪かったのか、フリーズしっぱなしで、この数日悪戦苦闘してました。結局リカバリーで、新たに一から再インストールすることになりました。苦労しましたが、いまようやく順調に動いてます。
何やら私が責任者のネットページがもうひとつ立ち上がりそうなのですが、それはさておき。
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高橋
閑話休題 2000年01月20日(木)20時13分11秒
最近書きこみすくないっすね。小森さんはお忙しいのかな?
ところで『奇跡を求めて』や『ベルゼバブ』ってどれくらい売れてるんでしょうね。今でも本屋で目にするのは『奇跡』くらいで、グルジェフの本は一時ほど並んでいないような気がするのですが。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(25)五次元としての永遠 2000年01月17日(月)22時54分52秒
「時間」の概念なしに空間を理解することが不可能であるように、「永遠」の概念を持たずに時間を理解することはできない、とウスペンスキーは述べます。
「永遠」の観点からは、「時間」は他の線や空間の広がり(長さ、幅、高さ)といかなる意味でも異なっていません。空間には私たちの知らないもの、私たちが知っている以上のものが含まれているように、時間の中では、私たちの意識が接触する以前にも、私たちの意識がそこから引き離された後でも、出来事は同じように存在しているのです。
「時間の広がり」は未知の空間への広がりであり、「時間」は空間の第四次元であるとすれば、「永遠」は空間の第五次元であるということになります。
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高橋
訂正 2000年01月13日(木)23時42分02秒
>五次元を「瞬間」の永続としての永遠としてとらえる考え方は、初期キリスト教(グノーシス派など)の中にもあるようですね。
この言い方は不適切なので訂正します。
「永遠を瞬間の永続としてとらえる考え方は・・・」というのが正確な言い方です。「瞬間の永続としての永遠」という考え方はあっても、「五次元」という発想は過去の神秘主義思想にはなかったと思います(僕の知る限り)。
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高橋
RE:十字架と永遠 2000年01月13日(木)22時38分05秒
五次元を「瞬間」の永続としての永遠としてとらえる考え方は、初期キリスト教(グノーシス派など)の中にもあるようですね。「時間」を一次元の線と考えると「永遠」は二次元の面、つまり空間の五次元であると。
この考え方は『新しい宇宙像』の同名の章でさらに詳しく発展させられており、『奇蹟を求めて』にもその要約が紹介されていますが、『奇蹟』全体の中では次元論はむしろ脇役に徹していますので、あの部分に注目した読者はほとんどいないのではないでしょうか。
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小森
十字架と永遠 2000年01月13日(木)21時18分19秒
一次元〜六次元の話では、五次元が一番難しいなあと思います。
『新しい宇宙像』の「キリスト教と新訳聖書」の章の中にたしか、十字架は、時間のまじわりを象徴しているという話が出てきたような覚えがあります。水平な時間軸にたいして、垂直方向の時間は永遠を表していると。その交点が「現在」ということでしょうか。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(24)永遠とは 2000年01月12日(水)23時24分02秒
ここでウスペンスキーはもう一つの問題を持ち出します。四次元は「時間」と「運動」に関わっています。しかし、ウスペンスキーによれば、「五次元について理解しない限り我々は四次元を理解することができない」(!)のです。
カントは「時間は一次元である」と述べました。これは、時間とは無限の未来から無限の過去に延びる一本の線であるということです。私たちはこの線の中の一点、常に「現在」という一点のみを意識しています。とはいえ、普通「現在」と呼ばれているのは「寸前の過去」か「直後の未来」のことでしかないのですが。
永遠に延びる一本の線という考え方は、私たちの持つ幻想としての時間の概念については正しい、とウスペンスキーは言います。しかし彼によれば、実際には、「永遠」とは時間線の無限の延長ではなく、「時間に垂直な線」のことを意味します。というのは、もし永遠が存在するならば、それぞれの瞬間もまた永遠でありうるからです。
(一次元の)時間の線は出来事の因果的相互関係の順序に従って連続的に進行します。まず原因があり、それから結果があります。それは過去、現在、未来です。「永遠」の線はこの線と垂直に交わっている、というのです。
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高橋
そうでしたか 2000年01月12日(水)23時21分18秒
小森さん
あの訳にそういう経緯があるとは知りませんでした。
「ベルゼバブ」は確かに浅井氏のいい訳があるので、他の関連本(ウスペンスキー、ニコールなど)の訳も期待したいところです。
短いところではウスペンスキーの“Conscience”など一刻も早く紹介すべき本だと思います。
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小森
その訳のこと(続) 2000年01月12日(水)13時32分19秒
去年がグルジェフの没後50年でしたから、その訳文をアップしたのは、著者没後50年により版権が消滅していると判断したからでしょうね。このあたりのきまりは私はよくわからないのですが、私がもっている『ベルゼバブ』の原本は、(DUTTON社の一巻本で15年ほど前に丸善で買ったものです。定価40ドルですが、一万円もしました。貧乏学生だった当時の私には痛い出費でした)COPYRIGHTの年号は1950年となっていて、1978年にrenewedと書いてあります。著作権が更新されているので、版権切れにはならないのではないかと思うのですが、>郷さん
私が読んだときも、前半の一巻めのみの訳出でしたので、それ以降はまだ未完成なのでしょうね。グルジェフ・ファウンデーションから、訳書刊行の許可がとれなかったという話も聞きましたが、真偽はよく知りません。グルジェフ関係を訳しておられる浅井さんや前田さんは、グルジェフ関連グループにいたことがある方ですからね。『注目すべき〜』の星川さんは違いますが、あの訳書は、ニューヨークにいた、グルジェフ・グループの某氏が徹底的に改稿してようやく許可がおりたそうで、そのあたりの話は、元めるくまーるの編集をやってた方から話を聞きました。(なんだかやはり狭い世界の話ですな。顔が見える人が多い)
浅井訳より自分の訳の方がよいという自負があるのはわかりますが、既に邦訳がある(しかも訳文のできがよい)ものの後半をあらためて訳すよりも、モーリス・ニコールの「コメンタリー」などを訳してくれた方がありがたいです。
それとか、ウスペンスキーの「フォースウェイ」をやってください。「ターシャム」と「ニューモデル」は高橋さんにやっていただこうかと。(私も余力あれば一部やる予定)
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小森
その訳12年ほど前に読みました 2000年01月11日(火)22時40分13秒
そんなのがネットに載っていたとは。
実は私、その訳文を今から十数年以上前の、まだ『ベルゼバブ』の邦訳が刊行されていなかった頃に、コピーを借りて一読したことがあります。訳者の方と直接面識はなかったのですが、共通の知人がいたので人づてに借りたものです。いくつか訳書を刊行している実績のある人ですね。
訳した時間順では、浅井訳より、こちらの方が古いと思われます。
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高橋
ベルゼバブ 2000年01月11日(火)22時04分59秒
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高橋
ターシャム・オルガヌム(23)運動と時間 2000年01月08日(土)19時01分29秒
「時間」という考えの中には実際には二つのアイデアが含まれていると前回述べました。つまり、「ある一定の空間」という考えと、「その空間における運動」という考えです。しかし現実にはこの「運動」は存在しません。それは我々が「時間という空間」を見ることができないために存在するように見えるだけなのです。「時間の中の運動」(時間の中にない運動というものは存在しない)という感覚が生じるのは、我々がいわば世界を細い裂け目を通して眺めているからであり、三次元空間と時間面の断面のみを見ているからである、とウスペンスキーは言います。
以下引用。
『かくして、時間の概念は運動の観察から発展したものであり、運動の連続性を保証する概念に過ぎないという一般的な理論が誤りであることが明らかになる。
実際にはその反対のことが正しいのである。すなわち、「運動」という概念は我々の「時間」の知覚(時間の感覚)によって発展したものであり、空間の四次元への知覚(感覚)から生じたものである。しかしその感覚は不完全なものでしかない。この不完全な(四次元の)時間感覚――裂け目を通しての知覚――のために我々は「動き」という感覚を持ち、運動という幻想を作り上げた。しかし実際には「運動」というものはなく、存在するのは我々が想像できないある方向への広がりだけである。』
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小森
私のページにある、グルジェフ・ウスペンスキー関連のコンテンツ 2000年01月08日(土)12時46分58秒
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小森
共に学ぶ姿勢でいきましょう 2000年01月06日(木)01時31分36秒
もしファンクラブになっていたとして、望ましくないところがあるとすると、どういう事態でしょう? たとえば、ウスペンスキーに不利な事柄があったとして、それを見ようとしない、隠蔽する、事実を歪曲する(?)といった相互了解がなされているような状況にあれば、外部から見てそこはおかしいだろうと。
これは、諸々の宗教団体から各種サークル、アイドルファン団体まで共通しておこりうる問題で、吉本隆明的な用語を借りれば、「共同体幻想の形成」というやつですね。
ウスペンスキーに関しては、共同幻想をつくろうにも、成員が少なすぎるし、情報も少なすぎますね。邦訳書だけでは、ウスペンスキーの思想のほんの一角しか伝わらないので、主に、ウスペンスキーの知られてない面を紹介したい、というのがこの掲示板の第一義なんですけどね。共同体幻想をつくれるほど、強い磁場なんてここではもてないと思いますがねぇ。
まあ邦訳書の刊行までは、ここは我々でリードして、邦訳書が出たらまた新しい読者層が拡大できるのでは、と期待しておくことにします。
三日月さんのウスペンスキー観と、私のそれとの違いは、情報の多寡による面も大きいのではないかと思います(というのも未訳のウスペンスキーの本を読む前と後では、私の中のウスペンスキー観は180度違うといっていいくらい激変しましたから)。どうやら、私がウスペンスキーに自己同一化して、あるがままを歪めていると三日月さんは分析されているようですが(笑)、まあどう分析なさろうとそれは本人の自由です。しかし私の方でも、自分の見方を絶対化してしまうと、三日月さんと同じ轍を踏んでることになりますから、そうならないよう自戒しつつ、この掲示板でもともに学び合うことをモットーにしたいと思います。
何が正しいかをめぐって議論するのも大いに歓迎しますが、そのためには対等の立場にたってやりとりできるのが前提ですので、モノローグは不可です。あくまでダイアローグにしましょう。
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宮
明けましておめでとうございます 2000年01月06日(木)00時31分20秒
今年も楽しいウスペンスキー談義(?)をよろしくお願いいたします。
「ファンクラブ」という語自体には、単に”〜がすきな人の集まり”以上の意味はありませんからね。ここに集う人たち自らがファンクラブを標榜したって、何の問題もないかと思いますけど。
でも、真理や客観性を追求する場ではない、とまで言い切る必要もないかな。とは思いますが(笑)。ウスペンスキーに好意をよせつつ、客観的な、偏らない態度を堅持してやっていきましょう。
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高橋
2000年01月05日(水)23時36分46秒
>↑ これは私の意見ですが、高橋さんはいかがお考えですか?
基本的には小森さんの考え方と同じです。最低限のルールは守りつつ、ウスペンスキーの話題を中心にわいわいがやがやできればいいのではないでしょうか。
ただ今のところ、ウスペンスキーに関する資料が少ないので発言者が偏りがちなところはありますが。
やはり彼の著作刊行が第一ですね。
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小森
ファンクラブ化でも 2000年01月05日(水)02時23分16秒
ところで、今までの発言の流れとは別に、もしここがファンクラブだとしたらどうなのか? と自問してみましたが、ファンクラブ化していたとしても、別にオーケーだと私は思います。モーニング娘。の掲示板が、モーニング娘。に好意を捧げているのと同じように、この掲示板ではウスペンスキーに好意が捧げられています。
ただし、これはもちろん、対象を神格視したり、参加者に崇拝を強制したりするものではありません。
モーニング娘。の掲示板や西澤保彦ファンの掲示板と同様に、ファンが自主的に集う場ですので、ここは科学的真理や客観性を追求する場ではありません。
↑ これは私の意見ですが、高橋さんはいかがお考えてすか?
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小森
2000年01月05日(水)00時39分36秒
三日月さん
あなたの発言パターンは、いつも決まって自分を一段高い位置において、そこから語ることですね。グルジェフを読んでいることを自認するなら、そういうパターンが自らに形成されていることくらいは自覚した方がいいですよ。
それはともかく。下で高橋さんが提案された内容は以降この掲示板のローカルルールとしましたので、今後もここに参加を継続なさるのなら、まずは質問にこたえて、発言が誤解されているなら真意をあらためて説明してください。
どうしても、ご自分を優位な、一段高い立場におきたいのなら、こちらへの参加は控えた方がいいと思います。ここはあくまで対等に話をする場ですので。
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小森
最近の探偵小説でグルジェフが登場するもの 2000年01月05日(水)00時01分55秒
私のホームページの主題は、主に三つあって(1)探偵小説、ミステリー(2)親指シフト(3)神秘思想(特にウスペンスキーとグルジェフ)。
掲示板がこのテーマに対応して三つあるわけですが、(1)と(2)では重なる人がかなりおられますが、(1)と(3)、(2)と(3)の重なる人はほとんど知りません。あっ、笠井潔さんは例外で、(1)(2)(3)とも興味分野が重なってますが、日本国内に他にそんな人はもう存在しないかもしれません。
たまには(1)と(3)にまたがる話をしましょう。
お題は、最近の探偵小説でグルジェフに言及したものをあげる、というやつです。ウスペンスキーはより知名度が低いせいか、全く見つかりませんが、グルジェフはぽつりぽつりとはあります。
・笠井潔『天啓の器』……グルジェフの高弟というヴァシリエフという架空の人物が重要な役割で出ます。ある程度グルジェフ本人をモデルにしているらしいが、思想的にそんなに踏み込んだ記述はない。
・有栖川有栖『月光ゲーム』……閉じ込められた学生の一人がグルジェフの愛読者。戦争は月の食物だという話などが紹介される。ネタ本は『奇蹟を求めて』かしら?
以下は、ほんのちょっとだけ言及のある本。
・法月綸太郎『誰彼』
・竹本健治『闇に用いる力学──赤気篇』
・小森健太朗『マヤ終末予言 夢見の密室』
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三日月
何が起きていたのか? 2000年01月04日(火)23時44分28秒
この掲示板上で小森氏の発言後、私がツッコミを入れているところが多々有りますが、私がやっていたことは一体なんだったと思いますか?些細な内容に囚われず基本的なパターンだけに注目してみれば何人かの方はひょっとしたら気付かれるかもしれません。ヒントは自己同一化です。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(22)「時間」の二つの概念 2000年01月04日(火)22時06分54秒
これまでの議論を踏まえると、(普通の意味における)「時間」には二つの概念が含まれていると言えるかもしれません。それは、未知(四次元)の「ある空間(そのもの)」という概念と、「その空間の中での運動」という概念です。我々が絶えず誤りを犯す原因は、この二つの概念を同時に念頭に置かず、常にどちらか一方についてしか考えないという事実にある、とウスペンスキーは言います。以前にも四次元の概念を時間と結びつけようとする試みはなされてきました。しかし、ウスペンスキーによれば、四次元と時間を結びつけようとするすべての理論において、常に「空間としての時間」と「空間の中の運動としての時間」の意味の混同がありました。それは「運動」についての考えが混乱しているからです。
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高橋
今年もよろしくお願いします 2000年01月03日(月)18時59分14秒
あけましておめでとうございます。
今年は、日本におけるウスペンスキー元年になることを望みます。
ずばり、第三ミレニアムのための「第三(ターシャム)オルガヌム」紹介の実現を!
2000年も相変わらずの調子で行きたいと思いますので、よろしくおつき合いいただければ幸いに存じます。
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小森
新年のご挨拶 2000年01月03日(月)11時28分42秒
あけましておめでとうございます。
今年は、ウスペンスキーの未訳の名著の刊行を実現し、ウスペンスキーの正当な評価をかちえるよう頑張りましょう。
高橋さん
今年もよろしく。特にこの掲示板において。
下の提言は、もっともなので、以降この掲示板のローカルルールにしましょう。
#本当は、いわずもがなのことなのですがね。
ハスナムス体に残る、クンダーバッファーの残存影響が除去しがたいというところですか。
#↑用語の意味は、『ベルゼバブの孫への話』(平河出版社)参照のこと。
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DMT
2000年ショック 2000年01月02日(日)11時13分29秒
ここしばらくの展開は、適切な「ショック」が起こらなかったために、オクターブを下降してしまった感じですねぇ・・。しかし、「ショック」は起こせる時にしか起こせない。次の「ショック」の機会を待ち、そのとき上昇気流に乗りましょう。
・・・曖昧な発言ですが。
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akaosug
お、動いている 2000年01月01日(土)12時38分40秒
何か私の認識できていない問題があったのなら申し訳ないことと思いますが、小森さんにおいて
>どちらともみなしてないわけっす。
というところを了解していただいたのなら、それ以上私から述べることはありませんので、
これにて退場いたします。お騒がせしましたー。
引き続きここは楽しみに拝読させていただきます。
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小森
「アイディア」の日本語と英語のニュアンスの違い 1999年12月31日(金)21時39分52秒
akaosugさん
なにが問題になっているのか、お取り違えかと存じますが──
三日月さん
宮さんから出た質問にも、なにか応答されることを願います。
しかし、下の三日月さんの発言で、少しわかりやすくなった面もあります。
三日月さんの発言意図で、一つ確認のために質問したいのですが、「アイディアを盗んでいる」という話が出たときに、「こういうことを言ってもしょうがない」とおっしゃってますよね。この「しょうがない」の主語は、私たち掲示板の参加者が、ですか? それとも、ウスペンスキーが、ですか? 前者なら了解できます。この掲示板で、ウスペンスキーがアイディアを盗用されたという話をしても、不毛ですし発展性もないですから。しかし、後者だとすると、納得いきません。
イギリスでは、ウスペンスキー自身が、非公開で秘密にするといっていた会合の内容が、記事にされたり、盗まれたりしていたわけです。そのことに対する抗議を、先人からの影響などといっしょくたにするわけにはいきません。この点は、これまでの発言でも指摘したとおりです。
ただ、英語でsteal one's own ideaといえば、「思想を剽窃する」といった重い意味になりますが、「アイディア」と日本語でいうと、「ちょっとした思いつき」というような意味合いもありますから、原著と日本語の意味のニュアンスの差によって、三日月さんが少々誤解ないし取り違えをしているのかもしれない、と、ログを読み直していて気づきました。
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高橋
釈迦に説法(2)? 1999年12月31日(金)21時07分14秒
正直言って僕には下のakaosugさんの発言の意味がよくわからないのですが、この件についてこれ以上書いても泥仕合になるだけような気がするので、あえて何も言いません。
ここで、繰り返しになりますが、今後のために気がついたことを書いておきたいと思います。
お互い次のことは守るようにしませんか。
1 発言の中で誤解を与えるような表現を指摘された時には(あるいは誤解が生じたことに気がついたときには)すみやかにその真意をはっきりさせること。
2 名指しで尋ねられた質問は、はぐらかしたり問題をすり替えたりせずに答えること。
もちろん時と場合によっては守らなくてもいい場合があると思いますが…
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akaosug
ふつー気がつくでしょう(^^) 1999年12月31日(金)17時55分50秒
>三日月さんの発言意図が、彼らを剽窃者とみなしていたにせよ、ウスペンスキーが引用と盗用を混同していたとみなしたにせよ、
どちらともみなしてないわけっす。そう読めないかな〜?
ではではみなさま、よい1900年をお迎えくださ〜ギコ☆仝$^&
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三日月
? 1999年12月31日(金)00時00分44秒
人格、人格、人格……
「本質」殿は一体どこで何をしておられるのだろう?
akaosugさんまったくもってその通りなんですよ。感情と思考を刺激する言葉を除いて構文だけを見てみましょう。
>……なんて話をしだしたら、〜〜なんてことになってしまう。
これは仮定表現の構文です。akaosugさん良く気付きましたね。ありがとう。
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小森
それはちょっとちがうと思います。 1999年12月30日(木)18時46分58秒
akaosugさん
うーん、それはちょっと違う気がします。あの発言で三日月さんは、グルジェフやカスタネダが剽窃者だとは言っていないというなら、そのとおりだと思いますが。
ただ、そうすると、(彼らが剽窃者でないとした上で三日月さんの発言を受け入れるなら)、ウスペンスキーが、他人のアイディアの正当な使用(引用)と、不当な使用(盗用)を区別していなかった、ということになります。ウスペンスキーの著作では、両者は明確に区別されているので、この違いをウスペンスキーが混同したというのはありえないと思います。
後にグルジェフの弟子たちが、エニアグラムの著作権をめぐって、訴訟を起こしたのも、エニアグラムのアイディアが、引用ではなく盗用されているとみなしたからでしょう。ウスペンスキーの著作が、無断使用されたというのは、当時のイギリスで起こったことでしょうし、それにウスペンスキーが文句を言っているからといって、その文句の対象となった不正使用を、三日月さんの言うように、グルジェフやカスタネダが先人のアイディアを使用したり借りているのと、同列にするのは賛成できない、ということですね。
三日月さんの発言意図が、彼らを剽窃者とみなしていたにせよ、ウスペンスキーが引用と盗用を混同していたとみなしたにせよ、それは違うだろうと言いたいわけです。
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akaosug
あんまりなので 1999年12月30日(木)16時19分51秒
> アイデア盗んだなんて話をしだしたら、グルジェフもカスタネダも「剽窃大権現」なんてことになってしまう。なんだかんだ言
>ってるウスペンスキーもちょっと危ないのでは???
> 私に言わせれば「うまく盗むのも才能のうち」なんですが……
三日月さんのこの発言は、グルジェフは剽窃とは言えない、と言っているようにしま読めませんよ。
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高橋
ターシャム・オルガヌム(21)四次元への広がりとしての時間 1999年12月30日(木)01時47分31秒
「時間」という概念は、出来事を序列通りに分離し、様々な「全体」へと結びつける「距離」のことを表しています。この「距離」は三次元空間の中には含まれない方向に延びています。この方向が空間の中にあるとすれば、それは「空間の新しい広がり」を意味します。この「新しい広がり」(すなわち「時間」)は、先の議論の中で四次元について求められたすべての要求を満たしています。
それは三次元空間の基準では測定することができません。それは三次元空間のすべての方向に対していわば「垂直」であり、そのいずれとも平行ではありません。
よって、「時間」とは四次元への広がりである、とウスペンスキーは結論付けます。
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小森
ハーモニアス・サークル(3)・「グレートゲーム」 1999年12月30日(木)01時05分46秒
ウェブの「ハーモニアス・サークル」第二章
三部に分かれる本書は、第一部がロシア時代、第二部がグルジェフ、ウスペンスキーの亡命後、死去するまで、第三部が教えの検討という構成です。
第一部は七章あり、1〜3章までがグルジェフの若いころの伝記、4、5章がウスペンスキーの伝記、6章がグルジェフとウスペンスキーが出会ってからの協働時代、7章がロシア革命の戦火の中での脱出行、となっています。
第二章のタイトルは"THE GREAT GAME"。
当時(1880、90年代)のチベットは、イギリスとロシアが植民地化を狙って策謀していた。チベットのダライ・ラマ(13代)の信用を得て、チベット宮廷に入り込んでいたロシア人グループの長ドルジェブ。後にグルジェフがロシアから追われた流転生活時に「ドルジェブ」という名を使ったこともあることから、チベットのドルジェブがグルジェフであったという説はかねてより有力であった。
『ベルゼバブの孫への話』中にある、イギリス軍のチベット侵攻に立ち会った記述は、本物と思えるので、その頃グルジェフがチベットにいたことは確実だろうと思われる。しかし、ウェブは資料を精査し、ドルジェブは、別人であると根拠づけている。実際、残されている写真を見ても、風貌は違う。ウェブは、ドルジェブに従っていた下士官のウシェ・ナーズノフ(Ushe Narzunoff)が、グルジェフであると主張する。写真がいくつか残っているが、グルジェフに似ていると思える一枚は、英国のカメラマンがおさめたもの。ロシアからの派遣団をうつした他の写真は、あまりグルジェフに似ていないが、それが似ていないのは、身元を隠すロシアの密偵ゆえに素姓を隠蔽するためだろうとウェブは推定している。チベット人よりもチベット密教に通じている外国人(ロシア人)がいて、幼少のダライ・ラマの家庭教師をやっていたという風説もあり、それがグルジェフかもしれない。
『注目すべき人々との出会い』に出てくる、ルボヴェドスキー公爵に相当すると思われる人物も、この派遣団に見いだせる。
では、このロシアからの派遣団が、チベットを植民地化するための政治目的のものだったかというと、必ずしもそうとばかりも言えず、当時ロシア政府の高官に、ブラバツキー夫人の神智学に傾倒したものがいて、チベットの秘密の教えを探りに行かせるという目的もあったらしい。宗教・政治両面の目的がある極秘任務で、グルジェフはチベットで、密教をせっせと学んでいたらしい。
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宮
ごもっとも 1999年12月29日(水)09時12分27秒
小森さんへ
小森さんの発言、ごもっともです。私も、単に「削除してしまえばok」などと考えている訳ではありません。かりに削除依頼だったにしても、もっと明確に意図を示すべきだと思いますから。ですから、下の私の発言はすこし言葉足らずで、「必要なら」というところは、「三日月さんが必要と思うなら」とするべきでしたね。
さてさてみなさま。今後もせめてこの掲示板の上では「言いっぱなし」は極力やめましょうね。でないと、話が先にすすまないから。
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小森
意図と原則 1999年12月29日(水)01時24分05秒
宮さん
「発言削除」と三日月さんがおっしゃっているのが、どれにかかるのかは、発言者に意図を聞かないと、わかりませんね。
管理者としては、やむをえない事情がある場合を除いて発言削除は行ないません。やむをえない事情とは、公開すべきでない事柄(プライバシーに属する情報等)が書かれていたり、他人を根拠なく誹謗しているときとかですね。三日月さんの発言はそれには該当しませんから。
もし管理者が、自分以外の発言を削除してしまうと、あとから読む人がそこに何が書かれていたか確かめられませんから──それに対して、ログが全部あれば、もしよそで「あそこはファンクラブになっている」「ちょっと批判しただけで排除した」といわれても、過去ログを遡って読めば確かめられますからね。
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宮
削除発言についての見解 1999年12月29日(水)00時41分36秒
下の三日月さんの「削除発言」と小森・高橋両氏のそれに対する反応について、なんだか両氏にいささかの誤解があるようなので、私なりの見解を書きます。三日月さんの「問題があれば削除してください。」という言葉は、その直前の「ファンクラブ」発言だけにかかっている、つまり、三日月さんなりに、発言が穏当でないことが気になって、その発言の削除は任意で、っと小森さんに依頼をした、ということだと解釈しましたが、いかがなものでしょうか?ところが、三日月さんのささやかなフォローが見事に空振りして、かえって火に油をそそいでしまった・・・。
三日月さんはそれ以前の一連の記事まで「問題なら削除してくれ」とはおっしゃってないですよね。ですから、
ファンクラブとか削除依頼というのは問題のすり替えですね。
という高橋さんの発言もちょっと筋違いかな・・・と思います。
ここは、ファンクラブ発言についての反論にはひとまず終止符を打ち、(必要ならば三日月さんのおっしゃるように、削除でもして。)話を本題に戻しましょう。
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宮
三日月さんへ 1999年12月28日(火)22時27分52秒
やれやれ。
昨日は、三日月さんあてに書き込みしようと考えてたのだけど、「ファンクラブ」発言を見て気が萎えてしまいました。気を取り直してすこし発言してみましょう。
この掲示板に限ったことではないと思いますが、こういった匿名性の高い場での討論をする以上、お互いの信頼を損なわないよう、用いる言葉には細心の注意を払うべきでしょう。なにしろ、対面での討論と違ってこの不自由なる「言葉」しか、コミュニケートする手段がないんですから。(もっともグルジェフを読み込んでいるはずの人たちに言葉の不確実さのことをことさらに書いてもねえ。ああ、釈迦に説法・・・・)また、自分に向けられた疑問・質問には可能な限り真面目に回答するのも礼儀のうちですね。時と場合によっては無視するのが一番、ということもあるのかもしれませんが。
さて、作法のお話はここまでとして、「剽窃」に関わる一連の流れの中から私からの疑問を提示したいと思います。、三日月さんの、
>ウスペンスキーはそれを「私のアイデアを盗んでいる奴がいる」
>と言って批判していたそうです。
こういうことを言ってもしょうがないということを強調したいのです。
という発言について、疑問があります。なぜ、「しょうがない」のでしょうか?何が「しょうがない」のでしょうか。もともと、ハクスレーの「知覚の扉」が、ここではウスペンスキーとの関連において紹介されており、その流れから言えば、ウスペンスキーがハクスレーの作品についてどのような感慨を抱いていたかに言及するのは、そう不自然な成り行きではないと思います。また、この掲示板のそもそもの目的が、グルジェフ・ウスペンスキーとその周辺の事柄について討論することなのですから、掲示板の趣旨に照らしてもべつにおかしくはありません。三日月さんはなにが問題だ、と思ったのですか? 確かにウスペンスキーの「思想」や「システム」を語るために、あえてウスペンスキーの情緒面にふれる必要はないかもしれませんが、私としては、ウスペンスキーの全体像に近づくためには、彼の情緒的な言動についての情報も不可欠な要素と考えます。
これ以降の(というのは上に挙げた三日月さんの発言のことですが、)問答については、いちいちあげるのも不毛な気がするので、持ち出す気はないのですが、最後にしつこくも一つ。
グルジェフのどのあたりが「剽窃」だと思うんですか?(しつこいな〜)
そもそも、この疑問に答えてないから、話がややこしくなってるような気がするんだけど。
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高橋
ファンクラブ? 1999年12月28日(火)07時09分25秒
ファンクラブとか削除依頼というのは問題のすり替えですね。
批判的な意見は歓迎しますが、不適切な発言(僕もしばしばやるので)があったときはお互い素直に認めないと話が進まないし、根拠のある意見であればもっと興味深い話し合いができると思うのですが。
今回の件で三日月さんが「ちょっと否定的なことを言ったら袋叩きにあった。ここはファンクラブだ」と考えたとしたら心外です。
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小森
ちょっと訂正 1999年12月28日(火)03時42分00秒
下の発言、一か所訂正。
「そんなこといったら」→「アイデア盗んだなんて話をしだしたら」
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小森
問題がどこかをはっきりさせましょう。 1999年12月28日(火)03時31分10秒
三日月さん
あなたは、私のページの掲示板に初めてこられたとき、私の本の中でのカスタネダの扱いに抗議なさいましたよね。あの作中では、故意にカスタネダの思想を作中人物が曲解し歪曲しているので、カスタネダに対して不当なところもあるだろうと認め、三日月さんには、抗議を受け入れて頭を下げました。
しかし、「剽窃大権現」とは、カスタネダとグルジェフに対して、それよりはるかに失礼なもの言いではありますまいか。そのあたりの言葉の不適切さをお認めになれば、簡単に済むことなのに、ここがファンクラブになっている、などというのは、問題のすり替えではないでしょうか。
もちろんあの発言は「そんなこといったら」という条件節がついているので、「彼らが剽窃者だとは言っていない」という反論はなりたちえますが、たとえそうでも、あの発言は彼らの名誉を傷つけるものだと私には読めます。
ウスペンスキーを批判しているからといって排除されるということはありません。グルジェフとウスペンスキーについて、私と三日月さんで見解の相違はあるようですが、そのこと自体はなんら問題でもないし、含むところもないと明言しておきます。
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三日月
削除依頼 1999年12月28日(火)03時03分00秒
私の発言に問題があるようでしたら管理者の判断で御削除下さい。通知不要です。
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三日月
ファンクラブ 1999年12月28日(火)00時58分17秒
大変申し訳ない。ここがファンクラブだとは気が付かなかったもので……
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小森
だから…… 1999年12月27日(月)21時23分35秒
サマセット・モームの『魔術師』は、アレイスター・クロウリーをモデルにしたとおぼしき人物が主役ですが、それと似て、ハクスレーの『After a many summer』は、ウスペンスキーをモデルにしたとおぼしきロシア出身の老学者が出てきます。ウスペンスキーがハクスレーに怒っていたのは、盗用ではなく、無断で人をモデルにした件のようです。
三日月さん
ウスペンスキーは、ロンドン時代に、自分が教えていること(システム)は、自分のものではなく、グルジェフを通じて教えられた教えだと強調していました。弟子の中には、ウスペンスキーに、教えの上でもグルジェフと縁を切ることを望んだのもいたようです。しかし、ウスペンスキーはかたくなにそれを拒みました。
弟子にグルジェフの名前さえ出さないように命じたというのは本当ですが、教えの出所がグルジェフであったことをウスペンスキーは全く隠そうとはしていないので、そこのところは誤解なきよう。むしろ不必要なまでに、ウスペンスキーは自らのオリジナリティの刻印を回避しています。
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