ショーペンハウアーとウスペンスキー
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ショーペンハウアー(1788‐1860)ほど誤解を受け、不当な扱いを得ている思想家も珍しい、と私は敢えて言いたい。名前こそ有名だが、その思想の中身はあまりまともに知られていないといってもよい。たいていは「ペシミスト」「厭世主義者」の一言で片付けられ、その哲学も「悲観主義」「生への嫌悪」などのネガティブなイメージで捉えられている。
事実、岩波文庫から出版されている『自殺について』(このタイトルそのものが誤解の元なのだが)の表紙にはこうある。「人生とは裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない、など透徹した洞察が易しく味わい深く描かれている」。
これではよほどのことがない限り「健全な読者」には手が出まい。
まずこうした誤解があるのが一つ。さらに、ショーペンハウアーの哲学そのものについても「異端」とか「論理的に矛盾している」とかいう評価が少なくない。彼の哲学は生前いわゆる「アカデミズム」にはまったく無視され、冷遇されたことで有名だが、現代においてすら、その評価は哲学プロパー達の間では決して高いとは言えないのが現状である。
英国の哲学者バートランド・ラッセルは『西洋哲学史』の中でショーペンハウアーの思想を「浅薄」と評している(このような不可思議な見方をする「学者たち」は決して少なくない)が、私から見れば、それはラッセル自身の思考の浅薄さを示しているにすぎないように思われる。いったい、西洋哲学史上ショーペンハウアーの哲学ほど深遠で、ありのままの「真理」に近づいた思想はないといってもよい。それは「仏教に通じるものがある」どころか、仏教精神そのものであり、同時にインド哲学(つまり永遠の哲学)の精髄を明晰で理性的に語り尽くした(ウスペンスキーを除けば)唯一無二の西洋哲学である。
ショーペンハウアーの代表作『意志と表象としての世界』を読むと、ウスペンスキーの観点との共通性に驚かずにはいられない。カントの「現象と物自体」の区分を出発点にした議論、唯物論(実証主義的科学思想)への徹底した批判、既存の制度化された学問への嫌悪、超越的認識の手段としての芸術への評価の高さなど、両者の思想には大いに共通する点がある。何よりも最大の共通点は、彼らの哲学が天才の「直観」によって一瞬のうちに捉えられた真理を理性的言語を用いて描写していることにある。
「彼の哲学の骨格は若者の直観で成り立っている…ショーペンハウアーの哲学は、また一方に明快な論理性を持ちながら、他方では意外なほどの自己矛盾とか飛躍というような非論理的性格を示している。」(『人と思想 ショーペンハウアー 遠山義孝著』p9)
「ヘーゲルにいたるまでの理性主義の哲学が、ひとつひとつの論理の積み重ねによってその体系を完成したのに対し、ショーペンハウアーの思想の核心はむしろ直観により、瞬間的に打ちたてられた感がある。…ショーペンハウアーの哲学はこうした直観によってできあがったということで哲学史上独特な位置を占めているのである。」(同上p136)
また、見逃せないのは、両者に共通するその文体と論旨の明快さである。
「ショーペンハウアーの文章は明快で、わかいやすいこと、直観的で、具体的で、論理のすじみちがはっきりしていて、どちらの意味にも取れる曖昧な言葉遣いが少ないことをもって特徴とされている。それは彼の思想を世紀末のフランス人が、なかでもモーパッサンが好んだという一事をもってしてもわかることである。…ワーグナーが彼に引きつけられたのはもちろん思想的なことだが、ただ理由の一半は、他のドイツの哲学者と違って、明瞭な言葉で問題の核心へ導いてくれる思想家に出会えたことの喜びであった。」(『中公バックス世界の名著 ショーペンハウアー』p11)
ショーペンハウアーの哲学そのものについては、後で簡単に説明するが、要約では彼の思考の深さはとても伝えられないので、未読の方は是非上記『中公バックス 世界の名著』シリーズの第45巻「ショーペンハウアー」の巻で『意志と表象としての世界』を読んでいただきたい。ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』に興味を覚えた方にとっては、非常にスリリングな読書体験になることを保証する。
ただし、同著(中公バックス)の冒頭に掲載されている訳者西尾幹二氏による解説は正しいショーペンハウアー理解にとってはあまり参考にはならないことを付け加えておく。これについては後ほど改めて言及することにする。
日本ではまずショーペンハウアーを読む人の方が圧倒的に多いだろうから、そういう方に『ターシャム・オルガヌム』を読んだ感想を是非お聞きしたいものである。
今回は、ウスペンスキー思想との比較に先立って、ショーペンハウアー哲学を簡単にまとめておくことにする。ただし、これはあくまでもウスペンスキーとの比較を念頭においたごく簡単な要約なので、全体像を知りたい方は、繰り返しになるが是非原典(特に『意志と表象としての世界』)にあたってもらいたい。
ショーペンハウアーは、カントの「物自体と現象」という図式を踏襲している。「世界は表象である」。世界は我々自身の知覚器官が生み出した表象としてのみ存在する。我々が現象として経験する一切のものは我々自身の生んだ表象であり、我々の知覚に内在する(ア・プリオリな)カテゴリーに従って生起する。その知覚のカテゴリーとは、時間・空間および因果性である。これらをショーペンハウアーはひとまとめにして「根拠の原理」と呼ぶ。現象界の一切のものはこの「根拠の原理」に束縛されている。
しかし、「物自体」は根拠の原理を超越しており、あらゆる現象界の背後にあって自存している。ショーペンハウアーはこの「物自体」を<意志>と呼んだ。「世界は意志の自己認識である」。現象とは、<意志>の、世界における客観化である。この場合の<意志>とは、人間の恣意的な努力とはまったく関わりがない。それはあらゆるものの中に等しく遍在しており、人間のみならず動物の中にも植物の中にも無機物の中にも等しく存在するものである。この<生きんとする意志>が現象世界全体を形成する動因である。
しかし、ショーペンハウアーによれば、この現象世界はひとつのマーヤー(幻影)であり、超越されるべきものである。現象世界は終わりなき永遠の苦しみであり、そこには永続する幸福は存在しない。はかない快楽があるだけで、それは繰り返す無限の苦悩に挟まれた束の間の休息でしかない。幸福が満たされたと思ったときには、退屈という苦しみが襲ってくる。<生きんとする意志>そのものがこの悲惨の根本原因なのである。
芸術は、普通は<意志>の目的に従属している<認識>が、意志の必要を超え出た「純粋な認識主観」としてはたらくことによって、現象世界の背後にある<イデア>を知覚し、主客の対立を乗り越えて苦悩から一時的な解放を得る作用である。これは<天才>のみに可能な特権である。普通の人々は天才の目を借りて現象の背後にある<イデア>を見るのである。しかしそれは束の間の解脱でしかない。
本当の苦悩からの解放は、一切の意欲を超越すること、すなわち<意志>を否定することである。意志を否定し、「純粋な認識」に化することによって、人はこの現象世界にとって「無」となり、現象世界は人を束縛する力を持たなくなる。
ウスペンスキーとショーペンハウアーにはいくつか注目すべき共通点がある。
その第一は、現象の背後には未知なる<隠された特質
occult qualities>があり、自然科学によってはどうしてもそれを知ることはできないという観点である。第二は、現象の本質を認識するための手段として<芸術>を極めて高く評価していることである。この芸術への高い評価はショーペンハウアー哲学の特徴の一つである。
第三は、その思想の核心部にインド哲学の根本公理である「汝それなり(
tat tvam assi)」を据えているということである。これは万物の根源にある<意志>の一体性、普遍性に基づいている。ウスペンスキーはそれを「部分は全体と等しい」という<ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)>の公理として表現している。第四に、これは付随的なことではあるが、性愛についての見解に共通するところがある。ショーペンハウアーは「性愛の形而上学」をはじめてうち立てた哲学者であった。
また、ウスペンスキー思想の重要な部分を構成する「時間論」について、ショーペンハウアーは極めて示唆的な記述を多く行っている。とりわけ<永遠の今>という思想(ウパニシャッドに由来するが、スコラ哲学にも同様の考え方がある)を繰り返し力説している点は特筆に値する。
以下、これらの点について順に両者の思想を比較検討していくことにしよう。そして最後に、両者の間にある根本的な差異、とりわけウスペンスキーがある意味でショーペンハウアーを超えている部分について論じてみたいと思う。
まず第一の、「現象の背後には未知なる<隠された特質
occult qualities>があり、自然科学によってはどうしてもそれを知ることはできないという観点」であるが、ウスペンスキーの主著『ターシャム・オルガヌム』における最大のテーマはまさにこの点にあったと言ってもよく、全体のかなりの部分がこれについての記述で占められている。この観点は、とりわけ「現象の分析によって現象の原因と本質をくまなく知り尽くすことができる」という実証主義(還元主義)の観点に対する批判となる。ショーペンハウアーもまたこの考え方を唯物論または客観主義と呼び、当時の科学思想の主要な潮流を徹底的に批判している。
以下はショーペンハウアー『意志と表象としての世界』からの引用である。
「力学、物理学、化学は、不可入性、重力、剛性、流動性、凝集力、弾性、熱、光、親和力、磁気、電気、等などの諸力が作用する規則や法則を教えてくれる科学である。すなわちこれらの諸力が時間、空間の中にそのつど出現することに関してこれらの諸力が守る法則や規則である。しかし諸力そのものは、人間がどう振舞おうと、そのさい<隠れた特性
Qualitates occultae>であり続ける。なぜならこれこそ物自体だからである。物自体は現象することによってもろもろの現象とはなるが、現象そのものとはまるきり別である。なるほど物自体は現象となっているときには、表象の形式としての根拠の原理に完全に支配されているが、物自体そのものは、表象の形式にけっして還元されることはない。したがって物自体は原因論的に、究極にまでさかのぼって説明されることも、いつか完全に究明しつくされるというようなこともあり得ない。もとより物自体が、表象という形式をとっているかぎりでは、すなわちそれが現象であるかぎりでは、理解は完全に行き届くといえるだろう。しかし物自体の本質からいえば、そのような理解の行き届き方によってはいささかも説明されるものではない。」(第二巻 第24節より)
次にウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』(コスモス・ライブラリー)から。
「実証主義にとって自然は閉じられた本のようなものであり、外的な側面しか研究することができない。航空学を含めた現代科学技術のおびただしい業績の示す通り、自然「活動」を研究するという点では、実証主義の手法は多くを達成することができる。しかしすべてのものはその明確な活動領域を持っている。実証主義は、与えられた条件の下で物事が「どのように」起こるかという問題に対しては非常に役に立つ。だがその明確な条件(時間、空間、因果律)を超えて、与えられた条件の外に何かが存在するのかどうかということを確認しようとすると、それは明らかに実証主義とは異質な領域になる。」
(第13章 p168より)
ショーペンハウアーもウスペンスキーも共に、実証主義(唯物主義、還元主義)をリアリティの探究には不十分な道具と考え、単なる実証可能な事実に基づいた推論を超えた手段が必要であるとした。
そして、両者がリアリティ(本質)認識のための有力な手段としたのが、芸術である。
ショーペンハウアーにとって芸術とは、人間が現象世界の苦悩を超越するための手段である。芸術作品に没頭しているとき、人間は純粋な認識主観として世界から超越した立場にあり、そのとき「見るもの」と「見られるもの」との差異は存在せず、ただ<イデア>とその観照のみがある。
芸術家は、普通の人々には知覚できないものを知覚し、それを他者にも知覚できるようにする。ショーペンハウアーによれば、そのとき芸術家が知覚するものは事物の本質たる<イデア>である。
「芸術が再現して見せてくれるのは、純粋な観照を通じて把握せられるところの永遠のイデア、世界のいっさいの現象の中の本質的なもの、持続的なものである。…芸術のただ一つの起源は、イデアの認識である。そして芸術のただ一つの目標は、この認識の伝達ということに他ならない。…芸術家はわれわれに彼の目を通して世界を垣間見させてくれる。彼がこういう目を備えていること、彼があらゆる相互関係を離れて存在する事物の本質面を認識するということ、ほかでもない、これこそ天才の賜物であり、生まれつき身にそなわった才能である。」
(『意志と表象としての世界』第37節)
ウスペンスキーは芸術を「未来の言語」と呼ぶ。芸術家は、目に見えない事物の違いをはっきりと知覚し、それを他の人々にも明確にする。
「…芸術家にとって、物質世界は単なる素材でしかない。それは本質世界を理解し、それを表現するための手段に過ぎないのである。今の段階では、芸術以上に力強く原因の世界を知覚する手段は存在しない。…現象の中に反映した本質は「芸術家の魂」と呼ばれる精妙な器官によってのみ感じられ、理解されうる…芸術家は透視者であり、他の人々が見ないものを見なければならない。彼は魔術師でもあり、彼には見えるが他の人々には見えないものを見せる才能を持っていなければならない。」
(ウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』p
189-190)
ショーペンハウアーの<時間>論は、ウスペンスキーのアイデアの原型とも言えるものである。両者は共に、過去、現在、未来という一続きのリアリティを順を追って体験する我々の意識のあり方は幻想にすぎず、実際にはすべての時は同時に存在しているのだが、我々がそれを知覚することができないだけであると言う。
「さて、われわれが将来のものとして受け取るものは、今は全然実在しないように見えるが、将来が現在となったあかつきには、この錯誤は消え去る。それがそのように見えるのは、我々の知性の装置によるのである。…
また、あらゆる出来事、すなわち時間の中で相次いで現れてくる事柄の必然性は原因と結果の連鎖を通してわれわれに示されるけれども、…これもわれわれが、統一不変に実在するものを時間の形式のもとで知覚する様式にすぎない。いいかえればその必然性とは、われわれが、それを今日は将来のものとして、明日には現在のものとして、あさってには、過去のものとして認識するけれども、だからといって実在自体が自己同一であり、一つの不可変のものでなくなるというようなことは不可能であるということを示している。…
あらゆる出来事の――因果関係によって拘束された――必然性は、そこで自己を客観化しつつある実在自体の統一性を形成するもので、それがただ、時間に拘束されている我々の知覚においては、様々な状態の継続として、すなわち過去、現在、未来に分かれたものとして受け取られるのである。実在自体は、それにまったく無関心に、『永遠の今』において現存している。」
(『知性について』岩波文庫、p74−5)
「我々は過去、現在、未来はいかなる意味でもお互いに異なるものではないことを認めなければならない。存在する唯一のものは現在――インド哲学の言う<永遠の今>だけである。しかし我々にはそれが分からない。なぜならすべての瞬間に我々はこの「今」の小さな断片しか認識していないからである。そしてこの断片だけを実際に存在しているものと考え、他のすべてのものが現実に存在することを否定しているからである。」
(ウスペンスキー『ターシャム・オルガヌム』コスモス・ライブラリー p41)
「我々の意識より高いレベルにあり、より広い視界を持つ知覚を想像すれば、この知覚にとっては、我々にとって一定の時間内(1分、1時間、1日、1ヶ月)に起こるように思われることすべてが同時に起こるものとして、すなわち「一瞬」として把握されるだろう。その瞬間の中で過去、現在、未来を区分することは不可能であり、その知覚にとっては、このすべてが「今」であろう。「今」が拡大するのである。」
(同上 p48)
さらに、ウスペンスキー思想の一つの要である<スケール>の考え方もショーペンハウアーは先取りしている。
「止まることのない時の流れは、その全内容を奪い去り、また現実に存在するものは、確固不動で永遠に同一のものであるが、その間の対照ほど大きなものはない。この観点から、生命の直接の進行を純客観的に注視すれば、時間という車輪の中心には、<永遠の今>が明らかに見えるであろう。
??比類なく長く生きて、一目で人類の全経過を観察した人があるとすれば、その人には、出生と死との不断の交替も、単に一つの間断のない振動に見えるだろうし、従って、それが絶えず新たに無から生じ無に帰することだと思うようなことは決してあるまい。われわれの目には、速やかに回転する火花が連続した輪に、速やかに振動するばねが三角形に、振動する糸が紡錘に見えるように、彼には種族が永遠に実在するものに見え、死と出生が振動に見えるであろう。」(『愛と生の苦悩』ショーペンハウエル「死について」 人文書院 第二版 p43)
「いま、地上の物体が占めている空間が電子にとって、そして地球にとってどんなものであるのかを想像するなら、非常に奇妙で一見逆説的な結論に達するだろう。我々を取り巻く物、テーブル、椅子、日用品、他の人々などは地球にとってはあまりにも小さすぎるために存在しない。惑星世界で椅子を知覚することは不可能である。地球から見て一個人を知覚することはできない。人類全体もそれだけでは地球から見て存在し得ないだろう。それが存在しうるのは全植物・動物界と人間が作り上げたものすべてを一緒にしたときにのみであろう。」
(ウスペンスキー『新しい宇宙像』第10章「新しい宇宙像・第二部」より)
より大きなスケールから見れば、人間の生死など存在しないに等しい。それどころか、巨視的に見れば、人間の一生は消滅と生誕としてではなく、<振動>として知覚される。個々人の人間は存在せず、種としての人類だけが存在している。それはあたかも、原子や電子が一瞬の間に無数の生滅を繰り返しているにもかかわらず、人間から見ると静止し安定した存在として知覚されるようなものである。我々には個々の原子を知覚することはできず、ただ総体としての「原子」だけがある。
ウスペンスキーは、エジプトでスフィンクスを見たとき、自分という存在がスフィンクスの存在に比べるとまったく取るに足りないものであることを知って愕然とした体験を記している。
「一瞬後に私は、スフィンクスは私を見ていない、そして、見ていないだけではなく、見ることができないのだと感じた。それは私が小さすぎるからでもなく、スフィンクスの持つ深い英知に比べて私があまりにも取るに足らない存在だからでもなかった。全然そうではない。それは当たり前のことなのだ。自分自身が消滅するという恐怖は、私という存在はスフィンクスが気づくにはあまりにも儚いものだという感覚から来ていたのである。私がスフィンクスの前で過ごした束の間の時間が、スフィンクスにとって存在しないというだけではない。私が生まれてから死ぬまでの間をずっとスフィンクスの眼差しの下で過ごしたとしても、私の全生涯は、スフィンクスにとって一瞬の閃光でしかなく、スフィンクスはそれを認知することはできないだろう。その眼差しは何か他のものに注がれている。それは何世紀や何千年紀もの単位で物思いに耽っている人の眼差しである。その中では私はスフィンクスにとっては存在しないし、存在し得ない。そして私は自分自身の質問に答えることはできなかった――私は私自身にとっても存在しているのか? 私というものは一体、何らかの意味において、何らかの関係において、存在しているのだろうか? この考え、この感情の中には、そしてこの不思議な眼差しの下には、氷のような冷たさがあった。我々は、自分が存在しているという感覚にあまりにも慣れてしまっている。しかし、ここにきて突然私は、自分が存在していないこと、私というものは存在しないこと、私は知覚しうるほどのものではないことを感じたのである。」
(『新しい宇宙像』第9章より)
万物の根源が一つであり、塩水の中に塩があまねく浸透しているように、アートマン(真の自己)は森羅万象に普遍的に浸透しているという“Tat tvam assi”(汝はそれである)の思想はウパニシャッド(インド哲学)の核心であり、当時初めてヨーロッパに紹介された『ウパニシャッド』を読んだショーペンハウアーはこれを即座に彼の哲学の中に取り入れた。というよりも彼の思想と完全に合致する表現をその中に見出したという方がいいだろう。
ウスペンスキーもまた、“Tat tvam assi”(汝はそれである)の思想を「第三の論理」の公理として捉えている。「第三の」というのは、アリストテレス、ベーコンの論理に続くという意味だが、実際にはこの第三の論理こそが最も古くから存在していた。
実際のところ、『ターシャム・オルガヌム』という本は、この“Tat tvam assi”(汝はそれである)という命題の証明のために書かれた論文と言ってもよい。
さて、ここで、ショーペンハウアーの哲学に対する重要な批判を指摘しておかなくてはならない。
それは、ウパニシャッドにおいては「汝はそれなり」の「それ」はアートマン(真我)を指すのであるが、ショーペンハウアーはそれを「物自体」=「意志」のことと解釈しており、さらにその「意志」を否定することが究極の解脱だと述べている点である。
しかし、アートマンは決して否定され得ない。すべてを否定したところにただ一つ残る究極のリアリティーがアートマンだからである。それは究極の「物自体」である。
ショーペンハウアーの最大の矛盾は、いかなる属性も持ち得ない「物自体」に<意志>という「属性」を措定してしまったところにある。
この点について、インド哲学に関して近代最高の解説者といってよい、ラーマクリシュナの弟子ヴィヴェーカーナンダはこう指摘している。
「私は、ショーペンハウアーの哲学はヴェーダーンタ哲学の解釈において一つの間違いを犯していると思います。それは意志を一切物にしようとしているのです。ショーペンハウアーは、意志を絶対者の位置に立たせています。しかし、絶対者は、意志ではあり得ません。意思は、変化する、現象的なものであるのに、時間、空間および因果律の上方に引かれた線を超えたところには変化もなければ活動もないのですから、外的な活動や思考と呼ばれる内的な活動がはじまるのはこの線の下方に限られています。上の方には意志はあり得ません。したがって、意志はこの宇宙の原因ではあり得ません。
…椅子を動かすのと同一の力が、心臓や肺臓やその他のものを動かしていますがそれらは意志が原因ではありません。力は同一であるとしても、それが意識の段階に上るときにはじめて意志となるのであって、その前に意志と呼ぶのは間違いです。これが、ショーペンハウアーの哲学に多くの混乱をもたらしているのです。」
(『アートマン ヴィヴェーカーナンダ講演集』日本ヴェーダーンタ協会 p.173-174)
さて、このようにショーペンハウアーの哲学体系はその根本において大きな矛盾を孕んでいるのであるが、私がここで主張したいのは、論理的にはそうした欠陥を含んでいるにもかかわらず、ショーペンハウアーの思想は西洋哲学の中でも図抜けて偉大であるということなのだ。
単に論理的に矛盾のない体系をうち立てることが哲学の目的なのではない。哲学の価値は、それがいかに通常の理性では捉えられない真理の領域に知性を肉薄させることができるか、という点にある。理性の限界をありのままに明らかにすることによって、それを逆説的な形で行ったのがカントの哲学である。
哲学とは、<真理>というイデアを他者に知覚させるための手段であるという点で、芸術と共通する特性を持っている。芸術の場合にはそれは<美>のイデアである。科学が終わるところから哲学は始まる。科学は現象を精密に描写することはできても、現象の背後にある<イデア>を提示することはできない。ショーペンハウアーの哲学には、人間の知性を<イデア>の領域にまで持っていく強力なパワーがある。それは、彼がある種芸術的といってもよい技能で、人間の真理への直観に訴えるからである。
ショーペンハウアーは、「カントの哲学を理解した者にはまったく新しい眼が開かれるが、私の哲学はその眼にもっと遠くまで見える眼鏡をかけてやるようなものだ」と述べている。
これはまことに言い得て妙な比喩であると同時に、彼自身の哲学の限界(それはすべての哲学の限界でもあるのだが)を暗示していると言えよう。
科学の終わるところから哲学は始まる。しかし哲学もまた、芸術と同様に、一時的な解脱を与えるにすぎない。それは人を一時的にイデアの存在まで引き上げることはできるが、そこに留まらせることはできないのである。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第四巻は実践的道徳論に充てられている。彼は自著の中でここが最も重要な箇所であると宣言している。ここで彼は<意志>の否定という救済の道を指し示すのである。詳細については、同著をお読みいただきたい。
しかし、仏教で言う「涅槃」へと導くこの救済の道は、その記述を読む限り絶望的といってよいほど困難なもので、彼の哲学の信奉者が、その本質を捉えきった者を除いては、その中に希望と慰めを見出すのは難しい。その意味で、彼の道徳論は美しく崇高ではあるが決して実践的ではない。
ウスペンスキーの独自性が発揮されるのはこの点にある。ショーペンハウアーは、<意志>の否定はひとりでに起こるものではなく、それはいわば人間の恣意的な努力を超えた認識の転換=「恩寵」によって与えられるのだと述べている(『意志と表象としての世界』第四巻70節)。しかしウスペンスキーは「恩寵」という曖昧な言葉には満足せず、それは必ず具体的なものとしてどこかに存在するのだと確信していた。つまり、「隠された知識」の源というものがあり、それと接触することを通して、またそうすることによってのみ、救済の鍵が得られるのだと考えていた。だから、彼にとって最大のテーマは、この「隠された知識」の源を探究することであった。『ターシャム・オルガヌム』の終結部および『新しい宇宙像』の全体を通して、その底に流れているモチーフはまさに<奇蹟の探究>である。
そしてこの<探究>は『奇蹟を求めて』における<システム>との邂逅という形で一応の結実を見せることになる。
結局、ショーペンハウアーとウスペンスキーの違いは、冒頭の比喩を使って言えば、カントは読者に新しい眼を与え、ショーペンハウアーはその視力を拡大する眼鏡を与え、ウスペンスキーは、眼鏡をかけなくても遠くまで見えるようになることを求めたと言えるかもしれない。
ウスペンスキーがどうあがいても決してショーペンハウアーに太刀打ちできないのは、その研ぎ澄まされたユーモアのセンスだろう。この点ではむしろグルジェフと比較するのがふさわしいかもしれない。ショーペンハウアーの「笑い」については白水社から出ている『笑うショーペンハウアー』(ラルフ・ヴィーナー編著・酒田健一訳)に存分かつ痛快に述べられているので、是非御一読をお勧めする。
ショーペンハウアーの文章は若々しく溌剌とした「認識の喜び」に溢れていて、彼が終生強烈な批判の的にし続けた哲学教授たちの生気のない干からびた論文とは対照的である。
そこには真の意味での貴族的な精神の輝きが絶え間なく宿っており、文体の「エスプリ」を重んじるフランス人たちに受けたのも頷ける。
彼の文章はロシア的心情にも訴えるものがあったと見え、ロシアの文豪トルストイは自室にショーペンハウアーの肖像画のみを飾り、「私が真に天才的な人物と考えるのはショーペンハウアーだけだ」と語っていたという。
ショーペンハウアーのユーモア感覚には比類がないが、そのセンスはウスペンスキーというよりグルジェフに通じるものがあるように思われる。特に、厳粛な問題を扱っているときに突然滑稽な比喩を混ぜたり、誰もが敢えて触れようとしない矛盾を容赦なく暴露するときの口調や、冗談の間合いなど、精神的な双子と言ってもよいほどである。グルジェフがショーペンハウアーを読んだかどうかは定かでないが、ショーペンハウアーが『ベルゼバブ』を読んだらどんな感想を漏らしたことだろう。
ウスペンスキーにも独特のユーモアのセンスがあったことは彼の文章からときどき窺える。ウスペンスキーを実際に知っていた人の記録によれば、実生活の場面ではシニカルなユーモアとウィットを得意としていたようで、言葉の達人ショーペンハウアーにはかなわないにしても、作品の中に鋭いユーモアの片鱗を覗かせることはある。
「遅かれ早かれ動物園に行くことが運命づけられている特質がいまだに我々の生活を支配しており、人々はそれを失うのを考えることすら恐れている。なぜならそれを失うと何も残らないと感じているからである。最悪なのは、多くの場合彼らの思いは完全に正しいということだ。」
(『ニューモデル』第一章 秘教と現代思想)
しかし、全体としてウスペンスキーの本には笑えるところは少ない。まあ、そうはいってもプラトンやカントの本にだって笑える箇所はほとんどないのだから、シリアスな思想を語りながら笑いを誘うというのは一種ショーペンハウアーのような独特の天才にしかできない芸当なのかもしれない。再び言うが、私の知る限りその点で彼に匹敵しうるのはグルジェフだけである。
ウスペンスキーは後年「人間は<為す>ことができない」と繰り返し述べることになるのだが、ショーペンハウアーほどそれを愉快に表現した人がいるだろうか。
「…ここに一人の男を想定してみよう。この男は道端に立ち止まってこんな独り言を言っている。『さて晩の6時だ。一日の仕事は終わった。これから散歩に出ることもできるし、クラブへまわることもできる。塔に登って日没を眺めることだってできる。芝居を見に行くことも、あちこちの友達を訪ね歩くこともできる。いや、それどころか市の門から広い世界へ走り出て、二度と戻ってこないことだってできるのだ。どれもみな私の一存で決まる。どうするかはまったく私の自由だ。だが、いまはそのどれも実行せずに、まったく同じ自由意志によって帰宅し、妻のもとに戻るとしよう。』これはちょうど水がこんなことを言っているのと少しも変わらない。『私は大波を打たせることもできる(そうとも、嵐の海ではね)。泡立つ奔流となって落下することもできる(そうとも、滝になればね)。一条の水柱となって自由に空中に舞いあがることもできる(そうとも、噴水ならね)。そして最後に、煮詰まって消えてしまうことだってできるのだ(そうとも、百度の熱にかかればね)。けれどもいまはそのどれにもならず、自由意志によって鏡のような池の姿で静かに澄み渡っているとしよう。』」
次の言葉は、まるでグルジェフの口から語られたかのようだ(グルジェフの方が半世紀後なのだが)。
「私は私が欲することをなし得る。私が欲するならば、私はなし得る。たとえば、私が持っているすべてのものを貧者たちに与え、そうすることで自分自身も貧者のひとりになることができる。ただし私が欲すればだ。しかし私はそれを欲することができない。なぜなら私がそうすることができるには、それに対立する動機があまりにも強大な力を私にふるっているからである。これに反して、私がこれとは別の性格、しかも聖者にでもなれそうな性格の持ち主であるならば、私もそれを欲することができるだろう。しかしその場合の私は、それを欲せずにはいられないのであって、だからそのように行為せざるを得ないのである。」
グルジェフの「人間機械論」はショーペンハウアーのこの洞察を「機械」というよりインパクトの強い用語を用いることで強調したものであると言えよう。
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