グルジェフ・ハルトマン音楽について
音楽CD (WERGO)
Georges Ivanovitch
Gurdjieff / Thomas de Hartmann
Music for the Piano Vol.1:Asian Songs and
Rhythms
Vol.2:Music of the Sayyids
and the Dervishes
ライナーノーツより
1929年、トマス・ド・ハルトマンと彼の妻がパリ近郊にあるグルジェフの施設でグルジェフの元を去ったとき、彼らの手元にはトランク一杯の楽譜が残されていた。その多くは今回初めてレコード化されたものである。その音楽はグルジェフとハルトマンの共同制作によって作られたものであり、その模様は日々グルジェフの生徒たちに目撃され、ハルトマンの著書「グルジェフと共に」や他の生徒による多くの草稿の中に記録されている。確かなことが一つある。それは、ある稀に見る音楽史的事件が1925年から1927年にかけて彼の施設「人間の調和的発展のための研究所」で起こったということである。その結果がこのレコードに収められた一連の作品である。
作曲されてから1949年にグルジェフがこの世を去るまで、これらの音楽は公に出版されることなく、様々なピアニスト、とりわけハルトマン自身によってグルジェフの生徒のサークルの中で演奏されるのみであった。1950年代の初めには、いくつかの作品が私的に出版され、アマチュア録音家の手によって、ハルトマンがいくつかの曲を演奏した一連のレコーディングが行われた。その録音のまずさにもかかわらず、これらの即興的な録音は作曲家自身の演奏としての権威を持っている。
グルジェフがこの世を去ったとき、彼は自らの仕事の継続を最も近しい弟子であったジャンヌ・ド・ザルツマンに託した。彼女自身有能なピアニストであったザルツマン夫人は、グルジェフの元で作曲された現場を目撃していた。この音楽が完全な形で出版されることはザルツマン夫人の長年の望みであり、この目的を達するために彼女はニューヨークのグルジェフ・ファウンデーションの代表であったペントランド卿を招いた。彼女の要請に応えて、ペントランド卿は1983年に、これらの作品によく親しんだ3人の音楽家、リンダ・ダニエル・スピッツ、チャールズ・ケチャム、ローレンス・ローゼンタールに、これらの作品の完全版を編集するよう依頼した。彼は3人をハルトマンの著作権者トーマス・C・ダリーに引き合わせた。ダリーはすでに楽譜の全集を準備していた。ザルツマン夫人の指導の下で、一つの合同事業が形をなし始めた。スコット・ムジク・インターナショナルが現在の全4巻の作品のスコアを出版することに同意した時、それと並行して出版に合わせたレコーディングと、ハルトマン自身が確立した演奏法の記録をつくるというプランが生まれた。ハルトマンとザルツマン夫人は有能な音楽家たちと一緒にニューヨーク、パリ、ロンドン、サンフランシスコで、この音楽の本質を最も忠実に伝えるために力を尽くした。ザルツマン夫人は生涯の最後の10年間、スコット版を編集し、今回のレコーディングを行った3人の音楽家たちと共に働いた。
忘れてはならないのは、この音楽はスクール(一般的な意味でのそれではなく、より馴染みのない意味での)に由来するものであるということである。この音楽が作曲され、最初に演奏されたグルジェフの「人間の調和的発展のための研究所」は古代におけるスクール、例えばピタゴラスのサークルに比較しうるものであった。スクールの目的は自己知識であり、意識の発達であった。研究所の活動はグルジェフのより広い目的と思想を反映して、活動プログラムの中で特定の形態の音楽と芸術をその中心に据えた。
グルジェフとハルトマンは共同して考えうる限りの多様な経験と訓練をその音楽の中に盛り込んだ。民族のるつぼであり多様な音楽が共存していたロシア・アルメニアでの子供時代に聞いた音楽から、中央アジアからチベット、北アフリカからアビシニアに至る旅の途上でグルジェフの出会った多様な音楽とダンスまでのあらゆる要素が盛り込まれている。素朴な民謡から聖歌に至るまで、彼は無数の世代に受け継がれてきたその本質的な特徴を集め、それらに新たな生命を与えて西洋にもたらした。ハルトマンの側では、その高度な音楽的素養と創造性を与えたが、もし彼がロシアに残っていたらそれはロシア音楽芸術の創造に向けられていたことであろう。彼は将来有望な作曲家として皇帝の庇護を受けていたが、レーニンのロシアではその居場所を失ったのであった。
グルジェフとハルトマンの音楽の創造には両者の存在は切り離せないものであった。グルジェフがメロディーとリズムを与え、ハルトマンはハーモニーと構造を与えた。しかし、例えば作品の中で聴かれる印象深い不協和音はアジア式の音階によるものか、それとも20世紀初頭の音楽的革新の成果なのであろうか。また、ロシア正教の典礼を思い起こさせるが同時にそれとは様式的に全く異なる聖歌(第3集と第4集に収められている)はどちらのアイデアによるものなのか? そして、私たちの潜在意識に語りかけるような素朴で暖かいメロディーを持つ純真な作品はどちらの手になるものなのか? ハルトマンはロシアの学校で教えられていた民謡風の音楽や、アルメニアの伝統音楽、バルトーク、グリーグ等に深く親しんでいた。一方グルジェフは、正式な音楽教育は受けなかったが、生徒のためにハルモニウムを弾いてみせたとき、直観的なメロディーのセンスと聖なる音楽への深い理解を示した。
グルジェフとハルトマンの複雑な共同作業は、今回の3人のミュージシャンの共同作業にもその残響を残している。
「アジアの歌とリズム」は中近東の人々、そしてグルジェフ自身のアルメニアとギリシアの血統へのオマージュであると考えられる。これらの民族の音楽的伝承は、彼が共に暮らし、旅した人々のものとして彼の話す言葉そのものに第一の影響を与えた。
タイトルの多くは文字通り受け取ることはできないことを述べておかねばならない。ある作品は確かにグルジェフが旅先で聞いた特定の地域のメロディーであり、それをそのまま引用したり再構成したものである。他の作品は、ある場所や人々の個人的な印象を反映し、それをグルジェフ自身の音楽的言語に翻訳したものであり、中には古代文化を喚起することを狙ったものもある。タイトルのついていない作品も多いが、それらは明らかに今回のアルバムの様式に沿ったものである。
いずれにせよ、一般的な民謡形式の中に、著しく多様なスタイルが盛り込まれていることは確かである。例えば、アルバム全体を通して聞かれる一連のギリシア的作品は大部分全音階で、しばしばわかりやすい長調で書かれ、率直、陽気で、ほとんど子供っぽいと言ってもよい単純さを持っている。それとは対照的に、クルド的作品はより内省的、情感豊かで、しばしば短調で書かれ、生き生きしたテンポの時にも(19曲目)、9度の奇妙な不協和音が含まれていても(4曲目)、底に流れる捕らえどころのない悲しみを放射している。アルメニア的作品は自然な音楽的直接性と人間的な暖かさを持ち、ペルシアの歌(6曲目)はこのレコードで最良のものの一つであり、長い、探るようなメロディー・ラインを持ちながら、ゆっくりとした揺れるリズムと微妙に転移する半音階のハーモニーが内的な雰囲気と伝統的な民謡音楽をはるかに超えた神秘的な感じを伝えている。
前述のように、この音楽は東西の影響を共に受けている。このことはpolyrhythms多拍子(?)やcross-rhythms雑拍子(?)を使った作品に顕著である。これらのcross-rhythmsの使用は演奏者に興味深い課題を与えている。例えば、11曲目では、左手では一定のリズム・パターンを繰り返しながら、右手では同時に不規則で対位法的なメロディーのリズムを弾かねばならない。これは2つの異なるリズム構成を同時に演奏するという特別な要求を生み出す。このコントラストの重要性を強調するかのように、ハルトマンはこの作品や他の作品で、左手の韻律的構造のみに小節をつけるといういくぶん非正統的な手法を採用している。メロディーの中の小節を意図的に省くことで、2つの手のリズムの独立性が強調され、対照的なサイクルのパターンを作り出している。
このアルバムのほとんどすべての作品は短く、時には1分ほどしか続かず、しばしば一つのテーマを持つのみで、あたかもある特定のアイデアに光を当て、ある特定の感情を喚起しようとしているかのようである。ある場合には、その本質を十分に伝えるためには作品を繰り返し聞くことが必要である。それぞれの作品は、ある意味で「瞬間の音楽」、ある種の「旅先のスケッチ」であるが、その表面の下には深い感情が隠されており、聞き手によって発見されるのを待っている。
ユージン・E・フォスター
「サイーズとダーヴィッシュの音楽」は、グルジェフとハルトマンによる作品の中でも特別な位置を占めている。それは中東の音楽的特徴を色濃く反映しながら、民謡的な作品や聖歌などとは対照的に、より個人的で主観的な表現を持つ。
ダーヴィッシュ(イスラム神秘主義)の音楽の伝統的な形式は今でも保存されている。
ダーヴィッシュはキリスト教団と同じく様々な宗派に分かれており、いずれも霊的な修行が伝統的な音楽と結びついている。グルジェフは、探求の旅の間に、それらの様々な教団、とりわけ中央アジアと近東のグループと接触し、彼らの音楽に強い影響を受けた。例えば、西洋でもその旋回舞踏が知られるメルレヴィ教団は、覚醒に至る手段としてダンスと音楽を重要視している。
ダーヴィッシュの作品はしばしば力強いダンスのリズムで特徴付けられ、霊的熱狂に満ちている(14,27,36,37がその例である)。しかし、その力強い表現にもかかわらず、その情熱は強烈に内面的である。この種のダンスは陶酔状態を生み出すためのものではなく、全くそれとは逆に、呼吸のコントロールと内的な覚醒の助けとなる特定のリズムを提供するためにある。
サイーズの音楽は、より神秘的である。サイーズとは、血統あるいは霊的なつながりによって、預言者モハメッドの直系の子孫とみなされている人々のことで、イスラム世界では深い尊敬を得ている。しかし、知られている限りにおいて、彼らが特に自分たちに捧げられた音楽を残したという事実はない。
サイーズの作品においては、痛切でハートから直接沸き出るような感情が表現されている。それはしばしば「タクシム」と呼ばれる特定の音階に基づくメロディアスな即興から始まり、通常それは持続低音かpedal pointによって支えられる(ピアノではある音の繰り返しか左手のトレモロで表現される)。この即興的な表現が次第に作品の本質的なメロディーの特徴に発展していく。その雰囲気は詩的だが抑制されており、親密な感じを与えている。これがスローで穏やかなテンポのダンスに変わり、冒頭の歌の内的な感情がリズムの動きの新たな感覚として表現され、より肉体の動きに関係したものとなる(1,10,29,42)。感情的だが決して感傷的ではないこの胸を打つ人間的特質がこれらの作品のほとんどに浸透している。
作曲者の意図は、サイーズやダーヴィッシュの音楽を再現することよりもむしろ、その精神を喚起することにあるのは明らかである。他のすべてのグルジェフ・ハルトマン音楽と同じく、ここには東洋と西洋の音楽的特徴のユニークな融合が見られる。しかしながら、この音楽のインスピレーションの正確な源は、グルジェフの教えの多くの部分と同じく、謎に包まれている。
ユージン・E・フォスター
トマス・アレクサンドロビッチ・ド・ハルトマン(1885−1956)
ウクライナに生まれる。「無意識の哲学」で有名なエドワルド・フォン・ハルトマンは叔父にあたる。音楽的才能に恵まれ、1903年にセント・ペテルスブルグ芸術大学を卒業。1907年、皇帝列席の下マリンスキー劇場で上演された「緋色の花」というバレエ作品でデビュー。第一次世界大戦の前ミュンヘンに渡り、シェーンベルク、カンディンスキー等と交流。。1916年、当時モスクワで活動していたグルジェフに出会う。以後1929年にグルジェフの元を離れて独自のキャリアを歩むまでの期間、密接な共同作業を行う。独立してからの作品にはピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲、交響曲、映画音楽、オペラ「エステル」の作曲などがある。1956年ニューヨークで死去。