2006年8月21日のテーマ 危険な愛国主義者
多くの人は家族を愛する気持ちを持っている。
これは自然の発露で、殆ど本能的なものである。
もちろん中にはそうでない人もいる。
このような例外現象は自然の摂理と言ってよいものであり、なくしたくてもこれをなくすことは殆ど不可能である。
だから家族を愛さない人がいても、危害でも加えない限り罰せられることはない。
これと同じように、自分の国を愛することも自然の発露である。
もちろん中には自分の国を愛さない人もいる。
このような例外現象もやはり自然の摂理なのだ。
だから自由主義国では、国を愛さなくても、暴力を振るったり、スパイ活動をしたりしない限り、罰せられることはない。
だが全体主義の国はそうではない。
例えば北朝鮮では、国民が国や金正日の悪口を言ったりすればたちまち監獄行きだろう。
わずかの例外も許されないのだから、教育したり、取締をしたりするのも大変なのだが、それをやっているのである。
だから二言目には、指導者や国を賛美することを強制される。
多くの人はこれを批判して、悪い体制を批判することが許されないのは怪しからんと怒る。
だがこれはちょっと論点がずれている。
良い体制であろうが悪い体制であろうが、批判が許されないことそのものに問題があるのだ。
良い悪いは主観の問題だろう。
そんなこと当たり前だとお笑いになるかもしれないが、ちょっと待って欲しい。
日本にだって宗教団体の指導者や会社の創業者をその組織に属する人が批判するのが絶対に許されない例は山ほど有る。
筆者もそうした会社に勤めていたから良く判る。
多くの人が自分の属する組織を愛するのは当たり前なのに、それでは満足せずもっと高めて自己犠牲まで強制しようとしだすのは行き過ぎであり、全体主義である。
オリンピックや国際試合では自国の選手を心から声援する。
それくらいで良いのだ。
そして例外があっても笑って見過ごし、タブーのないのが健全な組織というべきだろう。
全体主義ではそうは行かない。
100%の忠誠を要求する。
だから全体主義の組織では教育に莫大なエネルギーが必要である。
アンチテーゼの芽を全て摘み取ろうというのだから大変だ。
さて今日本では愛国教育が話題になっている。
愛国教育とはどんな教育なのだろうか。
若者達に国を愛する心が足りないというのだ。
国のため命を投げ出す覚悟がないという。
戦後日教組による偏った教育の為、愛国心が失われているからだと主張している。
だが国を愛する心などは、自然の発露なのだから、これを無理に無くそうとか、高めようとかしてもそんなに状況は変らない。
それが証拠にはその日教組に教育された若い世代は、ワールドカップに熱狂し、政治問題では中国韓国になめられてたまるかと叫んでいる。
北朝鮮にはなにがなんでも経済制裁だ。
国を愛するこころ以上、筆者などは行きすぎたナショナリズムを感じてしまう。
こう主張する人達の割合は筆者の見るところ、我々世代より遥かに多いようだ。
だから小学校で愛国教育などするのは100害あって一利無しと断じたい。
もしナショナリズムを煽りたてる教育が行われれば、一部に熱狂的愛国主義者が発生しやすくなる。
つまり健全な国を愛する心には殆ど影響を与えないが、ウルトラナショナリズムの発生土壌を作ってしまうのだ。
これは日教組が愛国心の阻害など出来なかったが、赤軍派、革マル派などの過激派を生む土壌を育ててしまったのと同じである。
家族を愛する心にもいろいろ有って、自分の子供は絶対正しく、学校、先生、友達は全て間違っているというウルトラ教育ママもいれば、公平な目でわが子を見、偏らない教育をしようとする母親もいる。
これが自然なのでこれで良いのだ。
いろいろな考えが渾然一体となっているのが一番の教育なのだ。
国を愛するということはこういうものだと政府が決め、それにあてはめようなどとしてはいけない。
やがては戦争反対などと言えば、お前は非国民だとの攻撃が始まりかねない。
国家だから、時には戦争しなければならないことも有るだろう。
だがそんなときでも,反対意見を抹殺するような国にしてはいけない。
誰に操られたのかわからないが、首相の靖国参拝に反対する政治家の家に放火するような右翼が出てくるご時世になって来ているのだ。
危険な愛国主義者を排出させてはいけない。
それにしても日頃は天皇絶対を叫んでいる右翼が、昭和天皇の靖国に参拝しないとする趣旨の発言覚書が発表されると、いっせいに反発するのはどういうわけだろうか。
  

以   上

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