美味礼讃(海老沢泰久)
文春文庫 563円
辻調理士専門学校の創立者として有名な辻静雄の仕事の軌跡を表した本。文庫本としては厚い本だが一気に読ませるおもしろさがある。
辻静雄は初めから料理に興味があったわけでない。新聞記者として仕事を始めて仕事で知り合った結婚相手の親が、料理学校の経営者だったということからこの道に入ったというのに驚かされる。だいたい料理などというものは小さいころからの環境によって感性が磨かれるものという先入感があったが、彼の場合、20歳は確実に越えたところで料理の勉強を始めたわけだ。でも努力と強運によって凄いスピードで料理を学んでいった。
辻の義父が経営していたのは料理学校、辻が始めたのは調理士専門学校。前者は主婦や花嫁修業中の若い女性対象で、後者は料理のプロを目指す人を対象としており、二つは全く内容が違う。
だが辻は調理士専門学校の必要性がこれから必ず高まると確信して学校の経営内容を大転換させる。
辻は文献で見たフランス料理と日本のフランス料理のあまりにも大きい違いに、調理士学校をやるには本物を知らなくてはいけない、と一大決心をしてフランスのレストランを食べ歩く。
ただしこれはただの食べ歩きではない。辻の人柄、料理かける情熱が通じたのかフランス料理界の重要人物達と深い交流をしながらの濃い内容の旅になっている。伝説のレストラン「ピラミッド」のポワン夫人、それから今でも最高のフランス料理人のひとりとみなされるポール・ボキューズなど、辻が本物のフランス料理を日本に紹介したいという情熱に心を動かされ、最大の援助をしてくれたひとたちだ。
辻の仕事は誰が見ても大成功だった。フランス料理はほぼ正しい形で日本に入りつつあるし、彼の学校も規模も内容も間違いなく日本最高になった。成功の裏にはもちろん様々な妨害や非難中傷、人間関係のトラブルなど当然起こるべきことはみんな起こっている。しかし、彼の情熱はそんなものをはるかに上回るエネルギーがあった。その過程は息つく間も無いくらいスリリングでおもしろい。だれもが読みながら辻に喝采を送りたくなるだろうし、フランス料理の素晴らしさを想像しては、フランスにいってフランス料理を食べたくなるにちがいない。
しかし、この本を読んでサクセスストーリーと感じる事もできるが、最後まで読むとこれは一種の悲劇ともいえるのではないかという思いも頭をもたげてくる。
辻自身は、晩年自分の仕事の価値に疑問を持っていたのだ。料理なんて腹がふくれるのなら最高のフランス料理も一杯のラーメンも同じではないか?という思いが辻の晩年に暗い陰を落とし、極度の食べ過ぎによる病気で1993年、60歳で亡くなる。
彼の仕事が偉大だったということは疑う余地はないが、彼自身がそこに疑問を持っていたということは、辻静雄の人生は果たして幸せなものといえるかどうか。普通の新聞記者としてそれなりに充実した生活を送ったほうが彼にとっては幸せだったかもしれない。この「美味礼賛」は読み終えて彼の情熱に感動すると同時に、辻静雄という傑出した人物の人生感にまで深く思いを寄せたくなる傑作だ。