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篠崎史紀との出会い
1984年2月、ヨーロッパの音楽を聴きたくて貧乏旅行に出発する。(詳しくは別に書く予定)その時ウィーンで篠崎史紀(マロ)と初めて出会う。マロは北九州出身で私が熊本出身なので、ウィーンから見たらほとんど隣町みたいな感覚だった。お互いに共通した知り合いもいてけっこう初対面の時からすんなりと話ができたと思う。
その時もらった名刺(台紙は黒。マロ氏の服は圧倒的に黒が多い)にすでにMaro Sinozakiと印刷してあった。彼がマロと呼ばれているのは小さい子どもの頃かららしい。
マロ君には本当によくしてもらった。泊めてもらったのはもちろん、ウィーンのことをたくさん教えてもらったり、スパゲッティの極細麺でラーメンをつくってくれたりと、初めてのウィーンで心細い私も彼のおかげで安心してウィーン滞在を楽しむことができた。
アバド指揮による「シモン・ボッカネグラ」がウィーン国立歌劇場で上演された。確かアバドのウィーン国立歌劇場初登場だったと思う。
この公演のチケットをとるために徹夜したことがある。チケットは1週間ほど前に窓口で売り出される。それを朝早くから並んで買いに行こうというわけだ。朝の五時くらいにウィーンの市電が動き出すが、その前にいこうということにして、その時同じアパートに住んでいた佐々木さんという指揮を勉強していたひとと3人でいろいろと話をしながら夜を明かした。もう今では内容は何も覚えていないが、音楽のことはもちろん、政治的な話(主に共産圏のことについて)をたくさん聞いて、今まで知らなかったことだけにびっくりしながら聞いていた。ウィーンは地理的にはほとんど東ヨーロッパで、隣のプラハまでもとても近いので特によく知っていたみたいだ。
今ではもうゴルバチョフ以降なくなってしまったが、当時はまだ外面的にはアメリカとソ連の力が拮抗していて世界中が東西冷戦の緊張感に包まれていた。でも実状は、東側の生活レベルはどうしようもなくおそまつで、こんな状態では長続きはしないだろうというのは中身を知っている人はみんな感じていたことと思う。
要するに単なる観光旅行できた私もさすがにその時は深く国際情勢に思いを馳せたのだった。
結局徹夜して朝一番の市電で行った。でも着いてみてびっくり。もうすでに200人ほど並んでいる。発売が10時くらいなので、約4時間ほど並ばないと行けない。チケットを手に入れるということは、徹夜明けで4時間も並ぶという思ったより大変なことだということを初めて知った。
ウィーンの人達はさすがになれているようで、折り畳みの椅子を持ってきていたり、暖かい水筒にコーヒーを入れて持ってきていたりして楽しみながら並んでいるようにさえ見えた。私たちは何をして待ったのか覚えていないが、いよいよあと1時間という時に佐々木さんがマーラーの交響曲4番のスコアを出してきてそれを読み始めた。「これが終わるとちょうど1時間だから」といっていたが、こんな時間のつぶし方初めて見た。
チケットは無事に手に入り、1週間後の「シモン・ボッカネグラ」を楽しんだことはいうまでもない。ただ安い席だったので、舞台の前半分しか見えなかったが。
マロ君と佐々木さんふたりに日本に帰ってから何かお礼を送りたいと申し出た。佐々木さんは音楽の友社から出ているスコア。ウィーンで手に入るモノよりいいそうだ。マロ君は車とバイクの雑誌。さすがマロ、ウィーンでも車、バイクには目がなかったらしい。
1986年にも再びヨーロッパ旅行を敢行した。その時も大変お世話になったし、彼の車でリンツ、ブルックナーで有名なザンクト・フローリアン教会などを旅してとても楽しかった。
その時は、マロ君の奥さんの弟君(音楽評論家の奥田佳道氏)も一緒だった。3人でリンツの町を歩きながら篠崎史紀氏からウィーン訛について教わっていた。”私はそれを知らない”という意味のIch
weis es nicht.(イッヒ ヴァイス エス ニヒト)。これがウィーン訛では”イヴァイネット”というような発音になる。それで、「イヴァイネット、イヴァイネット」と練習しながら歩いていた。どうもすれ違うリンツっ子が不思議そうな顔をして振り返る。
それはそうで、日本でいえば熊本のような地方都市を一目で外人とわかる男3人が、関西弁で話しながら歩いているよなものだからだ。
それから、リンツはモーツァルトの「リンツ」交響曲を作曲したということで、作曲した家がモーツァルト記念館になっているというので地元の人何人かに場所を聞いてみたが、誰も知らなくて結局行けなかった。ある男は「モーツァルトハウスはザルツブルクだよ」と親切なのかとぼけてるのかわからないことを言っていたな。あとでガイドブックを見たら、わかりやすい場所にあったのに。
今思い出しても楽しい旅だった。
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