◆願い−−由布子の場合◆


「どうして、こんなことになったのだろう・・・・」
 薄れゆく意識の中で由布子は考えていた。
「どうして、彼がこんなことを・・・・」

 由布子と正樹は、学生時代からの付き合いで、もう6年ごしの恋人だ。
 だから、ここのところ、正樹が何か思い悩んでいることなど、由布子には手に取る
ように分かっていた。そして、それを正樹が由布子には悟られまいとしていることも
分かっていたので、あえて何も質問せず、彼の気を引き立てるようにさりげなく心を
配るにとどめていたのだ。
 正樹は、自尊心の強いところがあって、恋人である由布子にすら、いや、もしかし
たら相手が由布子だからこそなのかもしれないが、弱音を吐くことを極端に嫌ってい
るふしがあった。そして、いつでも、黙って問題を解決していくのを男の美学である
とでも思っているらしかった。そんな正樹の強がりも、由布子にはむしろ愛しく思え、
だからこそ、いつでも彼が言いたがらないことは、聞かずにすませてきたのだ。
 だが、今度の問題は、一筋縄ではいかないようだった。
 一週間経っても、正樹の屈託は消えてなくならない。
 思い余って、由布子は訊ねてみた、何か心配事でもあるのか、と。
 なんでもないさ、という木で鼻をくくったような言葉が彼の返事だった。
 だって、なんでもないわけないでしょう、問い詰めてはいけないと思いながら、
正樹の答えにいくぶんムッとして由布子は言い返した。
ここ一週間ぐらい、正樹の様子、おかしかったわよ、と。
 それがいけなかったのだ。
 あえて気づかないふりをされていたということが、正樹のかんに触ったのだ。
 彼は、氷のような一瞥を残して、由布子の部屋を出て行った。
 残された由布子は、なんだか絶望的な気分になって、その場に座り込んでしまった。

 正樹は、行き付けの喫茶店で腰をおろし、冷たい水を立て続けに二杯口にした。
 そうして、おいしいコーヒーを飲み終わる頃には彼の気持ちもだいぶ落着いてきた。
(あいつ、もしかしたら泣いてるんじゃないだろうか。)
しっかりした風を装っていても、由布子はもろさを秘めている。気になり始めると、
もう、いてもたってもいられない。
店の隅には、古めかしい公衆電話が置いてある。ポケットの小銭を確認して席を立ち、
そらで覚えた番号をまわす。だが、聞えてくるのは通話中を知らせるそっけない音だった。
憮然とした表情で彼は席へ戻る。
 部屋を出てきたのは自分の方なのに、なんだか、自分の方が由布子に拒絶されたような
気がしてたまらなかった。
いつだって、由布子には強いところだけを見せるようにしてきたのに、
それが虚勢だということを彼女は知っていたのだ。
おまけに、今夜のような態度を取ってしまったのでは、愛想をつかされたのかもしれない。
今だって由布子は、誰かとそんな自分のことを・・・・?
 由布子がそんなことをするわけがないと思っていても、彼女を失うことを思うだけで、
正樹は怯えてしまうのだった。もう一度電話をかけて、また話し中だったりしたら自分は
最悪の事態を想像してしまう、そう思うと、どうしても受話器を取ることができなかった。
そのかわり、正樹は、その夜、とことん酔うことに決めたのだった。

正樹が部屋を飛び出して数時間後、ようやく泣き止んで由布子は受話器を置いた。
 こういうときただひたすら話を聞いてくれる友達がいるのはありがたかった。
それに、薫は、正樹の親友でもあり、なんとか正樹を見つけて話をしてみるからと言ってくれた。
思えば、正樹と付き合い始めてから、何度こうやって薫を頼ったことだろう。
薫がああ言ってくれたのだ、きっと、明日には正樹から電話があるだろう。
どこにも出かけたりせずに家にいることにしよう。

マスターは、ろれつがまわらないほど泥酔した正樹を持て余していた。
だいたい、もう閉店時間を30分も過ぎているのだ。
だが、そんな状態の正樹を放り出して店を閉めるようなことなどできそうもなかった。
だから、よく正樹と一緒に店に来ていた薫の姿を見て、心底ほっとしたのだった。
 薫は、マスターに頭を下げると、正樹をタクシーに押し込んで自分もその後から乗りこんだ。
そして、もう一度マスターに頭を下げると、運転手に正樹のアパートの住所を告げた。

明け方近く、由布子は、しつこく鳴らされる玄関のチャイムの音で目が覚めた。
こんな時間に押しかけてくるなんて、正樹ぐらいだわ、そう思って由布子は
パジャマの上にカーディガンを羽織った。
 覗き穴から相手を確認してドアを開ける。
「こんな時間に突然来るなんてどうしたの」
 彼は、あざやかに微笑んで答えた。
「一刻も早く、君の願いを叶えてあげたくてね」
 由布子がさらに質問する間もなく、彼の手の銀色の光が由布子の脇腹に埋まった。
 そして、それは、今度はさっと引き抜かれる。
 由布子が事態を把握するより早く、ドアが目の前で閉じられ、
すでに立っているだけの力を失くした由布子はフラフラとその場にくず折れていった。
「どうして、どうしてこんなことに・・・・」
 だが、すでに、答えを知る機会は、由布子から永遠に失われていったのだった。

朝の光のまぶしさで正樹は目が醒めた。
襲ってくる頭痛は二日酔いのせいだろう。
そういえば、昨夜はどうやってここまで帰ってきたのだろう・・・・?
 その答えは、横で眠っている薫を見れば明らかなようであった。
 薫は、まったく無邪気な顔をして眠っている。
 押し入れから引っ張りだしたのであろう、予備の毛布をかぶって、
安らかな寝息を立てている薫を起こすのは気が引けて、正樹はできるだけ静かに起きだした。
 とにかく、コーヒーでも飲んで頭をすっきりさせなくては。
やがて、その香りにつられたのか、もぞもぞと薫が起き出す気配がしたので、
正樹は振り向いた。そして、薫の様子にあきれて、からかうように訊ねた。
「おい、薫、その、服についてる汚れはどうしたんだ?まるで、血みたいじゃないか。
人でも殺してきたのか」
「うん、そうだよ、よく分かったね」
 いつものように穏やかな笑顔で薫がそれを受ける。
「あはは、そりゃ、いいや。いったい、誰を殺して来たって?」
「由布子に決まってるじゃない。忘れたの?」
 ちょっとすねたように薫が答える。
 いつもなら気にならないことだが、やけに、その唇が赤く見える。
「何言ってんだよ。たちの悪い冗談はやめろよ」
 かろうじて笑顔らしきものを顔に貼り付けながら正樹は怯えていた。
「こんなこと、冗談でなんか言わないよ。僕、由布子を殺してきたんだ。
ほら、このナイフでね」
 ポケットから取り出された赤黒い汚れのこびりついたナイフ。
それは、いかにも凶々しい存在に見えて、正樹は言葉を失った。
だが、薫は、平然と「それ」をもてあそんでいる。
「な、なんでだ・・・・」
 正樹は、かすれた声で、ようやくそれだけの言葉を唇から押し出した。
「僕、由布子の願いを叶えてあげたのさ」
 薫は、むしろ自慢げだ。
「由布子の願い・・・・?」
「そうさ、彼女は、昨夜、僕に電話かけてきて、泣いていたんだ。君が冷たくするからだよ」
 軽く正樹を睨むようにして、薫は言葉を続ける。
「由布子は、いつだって、君のことが一番なんだ。昨夜も、泣きながら言ってたよ。
君の願いならなんでも叶えてあげたいのに、うまくいかないってね」
「そ、それで・・・・?」
「君の悩みをどんなことをしてでも取り除いてあげたいって言ってたんだ。だからだよ。
僕は、ずっと、由布子が好きだったんだ。だから、彼女の願いを叶えてあげたんだよ、
分かるだろう?」

そのとき、正樹の脳裏に前夜の薫との会話が浮んできた。
−−由布子が、君が何かに悩んでるって気にしてたよ。悩みなら、由布子にも話して
  あげてもいいんじゃないの?
−−あいつのそういうところが、俺の一番の悩みなんだよ
今、俺が、一番側にいてほしくないのがあいつなんだ!

 正樹は、自分の中から全ての感情が抜け落ちてしまったような気がした。
 その横で、薫は、あいかわらず、無邪気な顔で、ナイフをもてあそんでいる。
 コーヒー・メーカーは、何も知らずにこぽこぽと平和な音でコーヒーを煮詰めていくが、
そんなことを気にするものは、もういない。
(由布子は、あっさりおとしたコーヒーが好きだったな。)
空っぽの心で正樹はぼんやりとそんなことを思っていた。

Fin.

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