◆レベッカ◆
(REBECCA 1940米)

原作:ダフネ・デュ・モーリア
監督:アルフレッド・ヒッチコック
出演:ローレンス・オリビエ、ジョーン・フォンテーン、
ジュディス・アンダーソン

「私」は、モンテ・カルロで偶然、マキシムに出会い、電撃的に結婚を決意し、
彼の領地であるマンダレイに暮らすことになる。だが、そこには、彼の死んだ
前妻であるレベッカの影が色濃く残り、「私」を追いつめていくのだった。

美しいマンダレイ。ヒロインである「私」は、ずっと前からその風景に憧れを
抱いていました。 そういう憧れの屋敷に、大好きなマックスの妻として暮らす
ことになったのですから、本当なら、1番幸せに輝いている時のはずでした。

実際、新婚旅行中は、本当に幸せだったのです。年齢こそ離れていますが、
「私」は、夫マキシム・ド・ウィンターを心から愛し、一緒に幸せになりたい
と心から願っていました。だから、マキシムがときおり見せる暗い表情や
突き放した態度に、何度も傷ついて苦しんでいました。
それも、すべては、マンダレイに戻ってからのこと。
それまでは、本当に幸せな2人だったのに。
そんなふうに、マキシムの態度に一喜一憂する自分を、彼女は飼い主を慕う犬の
ようだと感じてよけいに苦しむのです。
そのけなげなまでの一途さには、本当に心を打たれます。

それまではまったく縁のなかった世界に、結婚によっていきなり飛び込み、
1番の支えになってくれるはずの夫は、過去の亡霊に取り憑かれていて、
彼女の孤独を深めるばかりだなんて!

使用人たちの中心であるデンバース夫人は、亡くなったレベッカの熱烈な崇拝者で、
その後がまに座った彼女にことごとく、辛く当たります。
確かに、おどおどとして、マンダレイの女主人の風格なんて欠片もない女性が、
崇拝するレベッカの代りというのは、納得も行かないでしょうが、やり方が
陰湿で不気味な女性なんです、このデンバース夫人は。
パーティで、「私」をはめたやり方は、親切ごかしがあまりにも陰険。
とにかく、すべてがそんな感じなのですから。

それにしても、このレベッカという女性。もう亡くなっているというのに、
恐ろしい存在感で「私」を追いつめます。
いえ、実際に彼女を追いつめているのは、家政婦頭のデンバース夫人と、
「私」自身の、レベッカへの気後れなのかもしれません。

彼女は、レベッカの筆跡、頭文字の「R」を大きく目立つように書かれるサイン
にすら、気後れを感じるのですから。そして、彼女だけがマキシムをマックス
と呼んでいたらしいことにも。

やがて、マキシムに、レベッカについての、恐ろしい疑惑がかけられる
ことになります。それは、まるで、死んだ後でもレベッカがマンダレイを
支配している象徴のように。
そう、生きていたときに、とても見事に屋敷を取り仕切っていたレベッカは、
他の女性が、ましてや自分とは似ても似つかない女性がマンダレの女主人に
なるなんて、許せなかったのでしょう。美しく、恐ろしい女性です。

その存在だけで「私」を威圧し、萎縮させることで、マキシムとの仲さえ、
ぎこちなくさせるだけでは足りないと言うかのように、その存在を主張して
いるのです。

そして、レベッカについて1つの事実が明らかになったとき、
「私」も1つの変貌をとげます。
彼女は、もう、マキシムと出会ったときのような無邪気な少女ではありません。
少女は、試練にあって一人前の女性になり、遠くからマンダレイを偲ぶのです。

ところで、小説でも映画でも、ヒロイン「私」の名前は、決して呼ばれません。
マキシムとの結婚後は「ド・ウィンター夫人」であり、それ以前は、
名前で呼びかけられることがないのです。面白いですね。
名前だけのレベッカと、そこに確かにいるのに名前だけが明らかにならない
ヒロインという取り合わせ。

これを思い付いたのは、もちろん、原作者であるデュ・モーリアでしょうが、
ヒッチコック監督も、映画でそれを踏襲しています。小説で、出会ったばかりの
2人が彼女の名前について話す場面がありますが、名前自体は明かされません。
なぜでしょう。もしかして、「私」の名前も「レベッカ」だったりしたら、面白
いかもしれないなぁ、なんて想像したりしています。この作品の印象のせいか、
「レベッカ」という名前の女性は、プライドが高く美しいというイメージを持
ってしまったのですが、その同じ名前を、まったく正反対とも見える「私」が
持っていると言うのも、空想としては面白い気がするのです。

作者は、何か具体的な名前を念頭に置きながら、表に出さなかったのか、
それとも、最初から名前は明かさないつもりで考慮に入れなかったのか、
そういう、物語の本筋とは外れたところにある謎に思いをめぐらせるも
楽しいですね。


indexに戻る
Topに戻る