◆理由◆
(JUST CAUSE 1995米)★
原作:『理由』ジョン・カッツェンバーグ
監督:アーネ・グリムシャー
脚本:ジェブ・スチュアート
出演:ショーン・コネリー、エド・ハリス、ローレンス・フィッシュバーン
ある日、法学博士ポール・アームストロングのもとに1人の老婆が訪れ、無実の
罪で死刑になろうとしている孫ボビー・アールを救ってほしいと訴えた。自分は、
とっくに弁護しを引退しているからと1度はその依頼を断ったポールだったが、
妻の勧めもあり、その事件を調査してみることにした。やがて、ポールは、
裁判が、差別と偏見によるずさんな捜査に、基づいて行われたことを暴いていく。
犯罪が行われ、警察が捜査する。その過程に、偏見や恣意が入るのは、とても
危険なことですね。純粋に、物的証拠と信頼のおける証言によって犯人を特定
することができれば、それにこしたことはないでしょう。現行犯でもないのに、
「こいつが犯人に違いない(犯人であってくれればいい)」などという私情や
偏見をもって捜査にあたるのは、とても危険なことですから。
もちろん、目に見える証拠だけに頼らず、経験に裏打ちされた直感をもとに歩を
進めることが必要な場面もあるでしょうから、一概に証拠だけを重視すべき、
と言い切る自信があるわけでもないのですが・・・。
でも、この作品で、死刑を言い渡された青年。彼が、幼い少女を誘拐し、暴行の上
殺害したとする根拠は、とても希薄なものだったのです。なのに、事件の捜査に
当った警官が、もともと彼に悪感情を持っていたために、いとも簡単に逮捕され、
有罪とされてしまったのです。そんなことは、あってはならないことです。
しかも、ポールの感触では、取り調べの段階で暴力がふるわれた可能性が非常に
高かったとあっては、とうてい、公正な捜査が行われたなんて言えません。
アームストロングは、さまざまな反発をものともせず調査を進め、連続殺人の
罪で死刑を宣告されたブレア・サリバンにたどり着きます。
そして、サリバンの口から、実に驚くべきことが語られます。
そう、すべてを逆転させるようなことが。
この小説が映画化されたときに、大きな変更点があります。
それは、この事件に疑問を抱き、調査を開始する人間の姿です。
小説では、彼はスクープを狙う野心家の新聞記者であり、妻とは離婚し、
娘とも離れて暮らしています。
一方、ショーン・コネリー演じるポールは、もうはるか以前に弁護士を引退した老人。
(それにしても、年令的には間違いなく「老人」であるにもかかわらず、
ショーン・コネリーとこの「老人」という単語は、
なんとかけ離れたイメージであることか)
妻や娘と一緒に幸せな家庭生活を営んでいます。
だから、事件に関わっていく動機も、また、違ってきます。
そのせいか、小説と映画では、役の名前すら違っています。その必要があったのかな、
という疑問もないでもないですが、それは、内容の変更に比べれば小さなことと
言えるかもしれません。
やがて、事件が意外な展開を見せはじめたときに、この2人のポールの置かれた
状況の違いが、大きな意味を持ってきます。
なにしろ、野心を持っている人間にとって、いったんあびた脚光を、
「やっぱりあれは間違いでした」なんていうことは、間違ってもやりたくないことの
1つでしょうから。
そして、その保身が、さらにコトを、大きくしていくのです。
映画には、ここで大きな位置を占める若い女性刑事は出てきません。
彼女は、私のお気に入りの人物でしたので、ぜひとも登場してほしかった
のですが。
それにしても、映画で際立っているのは、エド・ハリスが演じた
シリアル・キラー、ブレア・サリバンの強烈なキャラクターです。
そのインパクトは、「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンスにも劣らないと
思います。彼とショーン・コネリーの対決の場面は、素晴らしい見応えです。
真犯人の脅威は、アームストロングの家族にまで及ぼうとします。
大切な人ができるということは、その人に何か危害が加えられるという脅迫を
受けて、弱い立場に立たされるようにも見えますが、むしろ、その人を守りたい
という思いが、人を強くするのだろうと思います。
小説とは一味違った映画での犯人の動機に、なにか物悲しい気持ちにさせられ
ました。
沼地を泳ぐワニは、そんな人間の暗部を象徴しているのでしょうか・・・。