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フリーマントル・1

(作成日99.4.24)
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《1987年 12月 フリーマントル》

オーストラリアは、日本の21倍の面積を有しているが、大きく行政区で分けられるのは6つだけである。

そのうち一番西側にある州はその名の通り、ウエスターン・オーストラリアという。日本人の観光客の多くは東海岸を訪れるが、西側まで行く人は少ない。 しかし、そこは先住民族のアボリジニの住む原野ばかりでなく、ゆったりと設計された都市もある。

ウエスターン・オーストラリアの州都は、パースといい、小銭入れ〈PURSE〉ではなく〈PERTH〉とつづる。パースは、旅行作家の兼高かおるが《世界中で最も美しい都市》というほどで、街の中央をスワン河が流れ、青々と広がった芝生にスプリンクラーが回っている町中の風景が美しいところである。


そのパースの20KMほどの海辺にフリーマントルという港町がある。 1983年、ヨットレースのアメリカズカップで、アメリカが130年間一度も手放さなかったカップをオーストラリアが持ち出した。1987年その雪辱を果たし、アメリカがカップを取り戻したレースが行われたのが、フリーマントルである。

フリーマントルもパースに負けず劣らず美しい所で、私は着いて早々とてもここが気に入った。
私は、フリーマントルでフリオホテルという宿泊施設に落ち着いた。ここはユースホステル協会の経営する長期滞在型の寄宿舎のような所で、最初1ヶ月部屋を借りると後は週単位で継続契約できた。

4階建ての鉄筋の建物に各階20ほどの部屋があり、キッチン、トイレ、シャワーは共同であるがそれぞれの階にあり、家具付きの個室に住むことができた。

キッチンがもっぱらミーティングルームのような役割をはたしていた。世界中の若者が集まり、勝手きままな共同生活をしていた。 ヨーロッパ人の多くはここを根城にアルバイトに勢を出していた。アジア系の若者もたくさんいて、特に中国人が多かった。

中国人の朝は騒々しい。毎朝、声高に話しながらというより、怒鳴りあいながら朝食をとって出て行く。彼らが出ていった後は、静かな朝のやり直しであった。

二、三日してキッチンで彼らと話すようになり毎日どこへ行くのかと聞いたら、英語の学校に通っているという。私も英語はおぼつかないので、次の日彼らに付いて学校へ行ってみた。生徒は、全員アジア系だが日本人は一人もいない。

「これはいい」と思い入学することにした。

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