デナリ一人旅   
宮本俊浩(ぽっぽ会)
    入山登録名TOSHI’S EXPEDITION‘98 なんて格好つけたが、山暦三年目を迎えたかけだしクライマー(大阪労山中級登山学校受講中)の単独行である。以前は想像すらできなかったマッキンリー登山が実現するなんて…。二年前のヒマラヤで栗秋氏に会わなければ思いつきもしなかっただろう。昔から出会いに恵まれた自分は幸か不幸か果報者である。今度の旅も例外ではなく予算25万円の貧乏旅行である。

  5月5日 晩ソウルを立った機は同日の朝にアンカレッジに着く。明日はタルキートナよりBCに入る予定なので、時差ぼけ寝不足の体にムチ打ち買出しを急ぐ。レンタルスキーに、クッキー、チョコ、チーズにナッツ、ビーフジャーキーにスモークサーモン、ウイスキー、ビールが主な内容ですさまじい荷物となる。白ガソリン8Lを含め、60kgの荷となり氷河の登行が案じられる。
  5月6日、加藤さんのB&B(民宿)にやっかいになり、タルキートナまで運んでもらう。あいにく4月の半ばからアンカレッジはずっと曇りに雨の寒い毎日と聞く。本当は天候が安定しているはずの5月だが異常気象のようである。自分の単独行はいつも運が悪い。‘88乾期のオーストラリアギブソン砂漠は洪水の雨。‘89乾期のサハラ砂漠の砂嵐。‘97モンブラン1週間は5日間が雨、世界中何処へ行ってもエルニーニョ?がついてくる。コブシ大のボタン雪の歓迎をうけながらタルキートナのレンジャーにて入山の申し込みを行う。デナリはまだ真冬のようでこの日5200mのHCで−41度を記録。2100mのBCの積雪は2mとなっており厳しい環境のことだったが90名という入山者数にはほっとした。装備の調書を厳しく書かされ、クレバスの対策が胸をはって書けない単独行の弱みである。思わぬ英語のテストに焦った。昨年は5件のクレバス墜落があり死亡例は毎年あるらしい。落ちたら死ぬと思って行動しろとも言われるが、これはだめ、こうしろ!との忠告は無く、タイムリミットを聞かれ捜索の用意があることを知らされ、個人の暴挙が多くの迷惑になることを肝に銘じる。窓口に早川さんの激励のメッセージが届いており有難いことだが入会間もない自分にはどの方か見当もつかない、帰ったらお礼申し上げたい。ぜひとも頂に立って
ぽっぽの旗と写真に映りたいものだがこの天気にはなえる。
    5月7日 昨日は終日、悪天でフライトは無く、今朝は水溜りが凍るほど寒い朝、朝一番に50分でBC入りとなった。5年ぶりにお世話になったパイロットのダグさんは以前ヨメと一緒に来た事を覚えてくれており懐かしい再会だった。「自分は植村直己と同じ故郷で、いつかマッキンリーに登りたい」だなどと心にもないことを豪語していたのである。BC(着陸地点2100m)に着くなり、抱いていた不安からは一気に解放され、まばゆいばかりの白銀の世界に心踊り楽しんだ。マッキンリーには傘雲。カヒルトナ氷河は広い広い白銀
の平原。しかし天気は今夜から荒れるとラジオは言っていた。天国のように美しいこの地はやがて氷雪地獄と化す。命がけの遊びがこれからはじまる!と心して20sのザックをかつぎ、40kgのそりを引きBCを後にした。トレースは数10名の先行者により明瞭、気温0度だが、太陽が出ると汗だくとなる。おだやかな一日だが時折小雪もちらつく。スキーを履いてのカヒルトナ氷河の歩行は氷山のそびえる白銀の大海原を航海している様でもある。初日で好天であることで気力も充実。どんどん休憩中のパーティーを抜いていった。万一のクレバス落下の際、後の人が自分の引きずるロープをフィックスしてくれるだろう!との思惑で抜かされぬよう一生懸命歩き5時間でC2 2535m着。
  アリエスカでスキーのインストラクターをするタート、ダイアナ、ステイシイの誘いに乗って彼らのとなりにテントを張った。スノーリーで椅子をこさえてスモークサーモンをほおばり、暖めたビールを片手にごはんに味噌汁、ビーフジャーキーにウイスキーで仕上げ、‐12度の露天で楽しむ最高のディナーである。「苦闘のデナリ、孤独と試練の3週間」のイメージと少し違うがまっいいか!
  タートとダイアナは夫婦でマッキンリーは3度目のベテラン。近くにテントを張るロジャーとピエールはスイスの山岳パトロールの隊員で山のプロ。おちかずきになれて心強い。予報どおり夜半から風が出て吹雪となった。気圧レベルは高いままなのに天気は下り坂なのが不思議。日本との気圧の違いは海抜0mで200m程。標高が上がる程、その差も顕著になるのだろう。4300mのBCでは400mの差があった。
         一人で歩いていると皆に声を掛けられる。うちのイグルーに遊びに来いと誘うアイスランドの4人パーティーは豪華な天井の高いイグルーを作っており、コーヒー、ナッツにサーモンを回していた。「お前、一人でクレバスにはまったらどうするんだい?」と聞かれ、他力本願の対策は笑いを買った。まさに皆に声を掛けて仲良くするのが今回のクレバス対策の主力である。カミカゼジャパニーズトシ!というのは決してほめられているわけではない。リスクの高い単独行を胸をはって人に説明できるのは、長くて強いパイプを腰につけ自力で安全を確保しながら自らトレースを引く場合であり、それが真の単独行であると思うのである。自分のように人のトレースをあてにして登頂できたとしてもそれは単独登頂の値打ちはないと自覚している。今期真冬の真の単独登頂に成功した栗秋氏のうわさはレンジャーステーションからこの山域全体に広がり、自分の仲間だと言うのだが笑われるばかりである。
        5月8日 昨夜−15度の吹雪は一晩中続き、昼に視界が広がった時を見て食料ガスのデポに出かける。C2以上は傾斜が増し荷を一度に上げるのがしんどいため、装備半分をデポしておこうというわけである。2750mのC3に埋めて旗を立てるが帰りが再びホワイトアウトとなり肝を冷やす。ほんの10分前についたトレースは全く判別できない状況となり、本気で吹雪けば5分もせずに消されてしまう。緩傾斜の雪原で方向転換しようとして一度転べば来た方向が分からなくなってしまう。その時、唯一の道標は後ろにひきずってきたロープの存在であった。白一色の世界にくっきりと方向と距離感を示してくれた。ロジャーたちも上って来た。彼らも同じくC3付近にデポすると言っていた。夕方、気圧が200m程下り風がさらに強くなって来た。テントに戻って驚いたのは隣のタートの3人パーティーが自分のテントのスノーブロックをさらに積み上げ暴風対策を施してくれていたのである。一日テントに閉じ込められていたのでエクササイズしないとな!と言うのである。修羅場とわかって飛び込んでくる者たちはすぐ友達になれる苦しい登山だが素晴らしい仲間もできる場所である。日本のラーメンのうまいことパワーバーは元気は出そうだが味はいまいち、薬だと思って毎日食べた。積雪激しく度々の除雪を強いられる。
         5月9日、‐12度 終日ホワイトアウトの猛吹雪。スノーブロック塀の外は1mくらいの積雪となり外出もままならない。テントの中で済ませた大キジ打ちの産物はビニール袋にして所定のクレバスに捨てるのがデナリのマナーだ。テント内でするキジ打ちは単独行の強みであり快適であるが失敗は許されない。つけっ放しのFMラジオからは日本でもよく聞くヒットポップスが流れる。イージー、イージーFMアラスカ イーグルリバー(アンカレッジの放送)、イージーイージーと繰り返すチャンネルコールはひつこいくらいで、ここのどこがイージーやねん!とつっこみたい。することもなく、ラジオを聞いてはうたた寝し、飲んで食ってはまたうたた寝、なんだか今に“FM長野”と聞こえてきそうで、吹雪の北アルプスにいるような気がしてくるのだった。冬の烈風寒気に耐えた栗秋レポートはこんな日の精神安定に役だった。テント入り口の凍結防止と雪の吹き込み防止にラーメンのビニール袋を煙突代わりに使用すると効果的だった。
          5月10日、‐15度また雪。風はやんだがよく積もる。昨夜も度々除雪作業にいそしんだが、朝急に明るくなり、あっという間に快晴となった。積雪で雪塀やイグルーは全て純白の平原に飲み込まれ、晴れると穴から皆いっせいに頭を出している。まるで白銀の干潟から顔を出すムツゴロウの様で面白い。早急に装備を整え出発した。昼前の出発だったが先行者なく自分が最初のトレースを踏む。ピーカンのコバルトブルーと純白の世界に圧倒されながら、しんどいラッセルを楽しんだ。とにかく景色がすばらしい。自分の前には白い大海、自分の後ろには1本のトレース、後ろのほうでは自分がつけたくねくねのトレースに登高者がすずなりである。
        昨夜は会社をクビになった夢を見た。吹雪いて心配事がつのるとこんなものか。自分は自営業者なのでクビになることはないのである。高度順応より早く不安な夢に順応しているのである。
       
    カヒルトナパス(3000m)以上では、雪面はウインドクラストして固く、スキーがなくても歩ける程だ。晩8時頃にはC4(スキーのデポ地点3400m)に着く。フォレイカー、カヒルトナドーム、ウエストバットレス末端峰、ブルーアイスの氷山を回りに見わたせる、小さなプラトー(平坦地)で絶景を楽しむが風が冷たすぎる。塀を作るためスノーブロックを切り出すが、登行に疲れても休む間もなく忙しい。‐20度弱風なのだが、太陽光が残っていると暖かく、多少の雲で影に入るととても寒く足指、手、顔がいたむのである。深夜の夕暮れは最高の夕焼けショーであった。
        5月11日 昨夜は疲れと寒さで日記を書く気力も無く。3400mにして朝方はなんと−26度このころから今回の装備についての誤算が明らかになってきた。この低温は自分が想像していたHC5200mで体験するはずの温度だった。このまま登り−40度となったのでは、自分に手のおえる環境ではなくなる。アタック予定のあと10日後、季節が進んでくれるのを祈るしかない。ここにいたってネパールで買った1万円のシュラフが情けなくなってきた。自分は安物買いの銭失いである。銭で済むならよいのだが先が思いやられた。カヒルトナ氷河は厚い雲海におおわれている。今日は先日デポしておいた。食料とガスをとりに、C3(2800m)へ下りたい。トレースは蜜に立てられた赤布竿(ワンズ)によって明確に標されている。1時間の下りで雲海の下のデポ地につくが雲行きがあやしくなって来た。早急にデポを掘り出し帰りを急ぐがやがて吹雪きガスが出て進退きわまる状況になる。カヒルトナパス3000mの手前で下降時にはあれだけ立っていた。ワンズが間引かれて間隔は3〜4倍にもなっているのだ。そのわけがわかった時には遅かった。すでにホワイトアウト状態となりトレースはつかの間に姿を消した。密に立ち並んでいたワンズは上から、または下からやって来たパーティーが帰り道を標すため突き刺したもので、帰りには自分のものを抜いていってしまうのである。使おうとして出番の無かったワンズ15本の竹ひごは我がマヌケを笑うかのように風に揺れていた。キャンプはあと2時間の上りにあるが、この平原にホワイトアウトでは一歩も前に進めない。GPSがあれば役立つのだろうか?後続のパーティーは荷をその場でデポしてキャンプへ下山。アメリカ人学生ピーターとハルはその場にテントを張った。仕方が無いので彼らのとなりに雪洞を掘ったが、コンロがない、寝袋がない。ラッキーだったのはアルミのビバークシートと高所用に用意したカイロも出てきて安心した。彼らにもらったお湯で夕食をすませ穴に入た。深夜になってあまりの寒さに自分のことが心配になった彼らは、「トシ!こんなところで寝ていたら死んでしまうで!」と自分をテントの中に招き入れてくれたのである。二人用の狭いテントで横向きになり、決して快適とはいえなかったが寝袋なしの体に2人の体臭と体温が伝わり温かい夜だった。雪洞にいたら一泊はともかく2日も吹雪けば救出騒動が起きていたに違いない。「Fucking SOLO!」と思わず、口にしたハルをピーターが蹴っていた。細い心使いに感謝した。そう言われても当然なのである。
        5月12日 曇り、視界良好、彼らのワンズもかりて再びバージントレースを踏む。各パーティーはこの天気に出発するかどうかを思案していたのであろう。自分にはC4までのルートはワンズがなくてもわかっている。となりのパーティーからは勇敢だなと言われるが、そんな言葉よりも安心が欲しい。本日C4にもどれなければ大変だ。毎日毎日CLOWDY SHOWERを繰り返す天気予報にはなえる。気圧配置は極北に位置するアラスカは必ずしも西から東に移動するとは限らない様で天気図を書いても予測するのは難しいのだろう。皆天気図などの準備はなく、ただただ予備の行動日、食、燃料によって対処しているようである。あてにしていたCB無線の山岳天気予報などはなく、レンジャーとの交信もできなかった。出発後間もなく昨日自分の立てたワンズが見つかり、そこからほんの20mでレンジャーのワンズが見つかった。たった20mの先が見えずに、進めなかったことがわかり、大自然の恐ろしさを実感。やがてセスナが頭上にやって来た。ダグもK2もTATも勢ぞろいで心強い。.昼を過ぎて晴れ間が出始め、カヒルトナ全山がクリアになった。心細くて心配でくじけそうになっていた心は再び踊り始める。現金なものである。本日元気にC4にもどれたのはハルとピーターのおかげである。
・ 密に立てられた人のワンズを当てにして、自分のものを立てなかったこと。
・ ビバークの用意なしに行動したことを大いに反省。
 
   5月13日 昨夜は‐28度となり、自分の記録を更新。ウインディコーナー手前のなだらかな雪原は雲海の上に出てまさに雲上散歩である。快晴からうす曇りとなった空からおぼろな太陽がちらつく雪を輝かせなんとも幻想的なダイヤモンドダストとなる。その頂きは大霊界のようである。ウインディーコーナーの登高はソリが何度もひっくり返る非常に苦しいトラバースだった。その後、巨大なクレバス帯のスノーブリッジを幾度か渡るのだが通りすぎてはクレバスの存在に気づき、肝を冷やす、スノーブリッジは寒さのためかブルーアイスと化し、極めて安定していると思われる。8時間もかかってBC4300mに着く。高度の影響を受け、バテバテ。ウエストバットレスは見えているもののなかなか着かないのであった。テントを設営したころには夕焼けとなり‐30度の寒気となった。何もかもが凍る。モチ、チーズ、コンデンスミルク、目薬、日焼け止めクリーム、作った夕食もさっさと食べないと凍ってしまう。
    5月14日 ‐35度以下、ジッポゲージは完全な丸状態となり、日が出るまでは手も足も出ない。高山病で脈拍100頭痛に悪寒が激しいが珍しく朝から快晴となり、C5附近のデポの回収に行く。行動をはじめるとテントの中の酸欠状態から開放され、頭痛は治り、6時間の斜面を50分で下り、やはり6時間はかかる苦しい登高となった。晩になって突風をともなう吹雪となり水を作っている最中スノウブロックの塀が吹き飛ばされ、一瞬にしてテントはぺしゃんこにつぶれ、水もコンロもひっくり返り火は消えた。何が起こったかわからない自分はパニックであった。慎重に入り口のファスナーを開け脱出。修復作業をする。
   昨日はあまりの疲れでスノーブロックの切りだしに楽なスコップを使い、スノーリーでの丁寧な作業をおこたった。手をぬいた分、相当疲れる羽目になった。まさか重いスノーブロックが風に飛ぶとは思ってもみなかった。ブロックをとりのぞくとテントは自力で元に戻り胸をなでおろした。テントに入るとこぼれた水は一枚氷となっており片付けに手間はかからなかった。デナリの稜線からはゴーという地鳴りのような風の音、恐ろしい所に来てしまったと思った。これはきっと栗秋氏から聞いていた冬のデナリの現象だとへんに関心してしまった。夕食を済ませ手袋の穴を繕い、皮のむけた足くるぶしと乾燥でささくれだった指の手当て、頭痛にめまいで実に夜は苦しくて忙しい。
    5月15日、‐25度の朝、吹雪くと暖かい。脈拍80と落ち着いてきたが、頭は痛み手足顔もむくんでいる。終日嵐は続き、自分はテントの中でできるものの、他の皆は所定の便所、雪の大穴に穴の空いた木箱が置いてあり、それに座って用を足すことになっているのだがそれがまるで吹きっさらしの大プラトーの上にポツンと置かれた木箱なのである。極寒の嵐の中のその姿には壮絶なものがある。今日も稜線からは烈風の音、こんな時にHC(5200m)に居たら、高山病に低温と風…新鮮なまま急速冷凍にされてしまうに違いない。その前に気でも狂ってしまうのではないかと思われる。こんな日は家が恋しい。ムサシ(愛犬)に会いたい。デナリの天気はむずかしい。
    5月16日 曇り‐27度午後になり晴れて来たので4900mのコルに上るが風が強く再びガス、薄着の体は冷えてしまい早々に下山。ロジャーとピエールは体調を崩し明日にも下山すると言って来た。ロジャーは貧血。ピエールは胸が痛むというが高山病であろう。この数日の悪天にうんざりしてしまったのだろう。こういう自分もめまいがして食欲は無く朝から水ばかり飲んでおり気力もない。
    5月17日 曇り‐31度。昨夜は高山病で震えが止まらなくなりカイロを全部使ってしまった。午後から再び吹雪。寒い一日。停滞。
    5月18日 雪‐13度。暖かい一日。穏やかな吹雪、午後視界が広がり多くのパーティーがHC(5200m)に駒を進めるが、停滞。雪は積もるが、太陽の薄明かりでテントはポカポカ。
    5月19日 雪‐18度。食欲が出て体調良いが停滞。脈拍70.不快なテントの環境整備。同じ所に一週間も滞在するとテントの中の床は沈み、ワタゴミまみれの毛まみれといった不潔極まりない状況となる。
   チリからの登山者サンチアゴ氏の来訪あり、一ヶ月近くになる彼もチャンスなくもう下山するといっていた。28歳の彼は国で奥さんが怒っているといっていた。自分と一緒だ。午後になってタート一行も降りて来た。ステイシイの調子が思わしくなくBCからは一人で下山したと言う。この日はBCに来て以来の食欲で一日中テントの中で食いまくった。モチ、しるこ、パワーバー、クッキー、チョコ、ジャーキー、チーズ、ラーメン、玉子スープ、コーンスープ、海草サラダ、すき焼き、八宝菜。
   晩になってやっと雲が晴れ、放射冷却で気温は下り、マッキンリーがくっきりと現れた。寝袋に入って榊原さんの「HCに泊まると高山病やら突風やらで大変だからBC4300mより頂上を往復してしまうんだ!白夜だからできるんだ!」を思い出していた。一時は事前にHCに装備の一部をデポしておき初日HCへ移動。次の晴れた一日で頂を往復してBCまで下山することを考えていたが、久々に晴れたこの天気が2日続く保証はなく帰国の期日も迫ってきたこともあり、最初で最後になるかもしれない。頂上アタックを決行することにした。
   登頂できなくても、デナリパス5500mなら、10時間もあれば可能であろうし、ひょっとするとアーチデゴンズタワー5990mなら…デナリパスに早く着けば本峰に登頂できるかもしれないと気持ちはふくらみ、ますますハイになり一睡も出来ぬまま深夜準備を整えAM2時前 猛烈な寒気の中テントを後にする。
   5月20日 ‐33度微風。寒くて目鼻喉が痛む。雲海に浮かぶハンター、フォレイカーが月に照らされ幻想的。心はついに始まったアタックに覚醒し鳥肌が立つ思いでであった。
   フィックスロープのある50度程度の氷雪壁はきつく空気が薄いので激しく呼吸をしたいのだが多分‐40度くらいであろう。あまりにも冷たい空気のため喉の奥が乾燥と凍傷で痛むのである。常に水を飲みレモン飴をなめていたのだが、4重の手袋を外してポケットから、それを取り出す行為は重労働でついつい口に何も入れずに深呼吸をしてしまうのである。あまりの喉の痛さで咳き込んでは登行を中断せざるを得ない。ピエールが胸が痛むと言った理由がここで分かった。もう一つは呼吸によって激しく出る水蒸気がゴーグルの内側から付着しては凍結し、たちまち見えなくなってしまう。テーピングによっての換気口をふさぐのだが、それでもほんの10分で視界不良に陥ってしまう。20分もほおっておくと内側は薄い氷板に覆われているのである。太陽光さえあればゴーグル内で融け、風が乾燥させてくれるのであろうが、この低温で日の出前ではなすすべがない。ゴーグルを外せばたちまち氷粒のサンドブラスト攻撃がはじまるのだ。ゴーグルを頬にあてて氷を溶かしてはティッシュでふき取るが頬も冷たく、かじかむ手に大変な作業である。コルに向かう200〜250mの氷雪壁にはフィックスロープがあり、ユマールをセットして登高。雪洞を掘るつもりだったこのコル周辺はほんの4〜50p掘ると氷が現れ、鉄製シャベルでないとままならない。
下界はクリアに見えるのだが、デナリ山上はガスがかかり風が強い。朝焼けに染まるハンター、フォレイカーを見下ろした時には感動したがとてもカメラを出せなかった。太陽は厚い雲の中にあるが気温が上がったような気配はなく足の指の感覚はすでに無かった。ブーツカバーが薄かったのかと大いに後悔、ゴーグルにしても寝袋にしても自分の未熟に加えて選んだ装備はまさに最低の品揃えである。ゆっくりとした動作なのにすぐに息が切れる。くしゃみせきをしようものなら、その後おびただしい深呼吸をすることになる。つま先立ちでの登高はとても息が続かない。飴もろくになめられず、喉は枯れ、息はだんだんヴーヴーヴーと牛か豚のいびきのようだ。体はまた牛や豚のように重く、足はまさに牛歩であった。ナイフリッジの雪稜に岩稜を上りさらに2〜3時間の行動で、そろそろ最終キャンプにつく頃だと思われた5200m地点でとうとうガスで前が見えなくなってしまった。ブリザードに頬をたたかれ、暖かい恵みを受けるには程遠い薄い薄い太陽だった。先へ進んだところでデナリが見えるわけでもなく果てしない労力をかけリスクを稼ぐ行為に思われた。この先をゆく技術も体力も気力もなかった。1000mも残し完全敗退だった。ラオは明日もCLOWDY SHOWER。未練を感じることなく安全に下山することだけを考えた。50度の氷壁は下りは非常にもろく氷が崩れて肝を冷やした。アイゼンを研いでおかなかったからである。昼前に引き返し3時ごろの下山となり再び雪。数日前よりHCで頂をねらっていたパーティーがチャンスなく、続々と下山してきた。早朝に自分の姿を雪壁に見た皆が出迎えてくれ、どうだった?と聞かれるのだが喉が擦り切れ笑いを招くハスキーボイスが出来あがっていた。HEY TOSHI!と声を掛けられるが自分にはどこで会った人か分からないのであった。
    5月21日 小雪、‐30度で結局登頂のチャンスはなかった。
    5月22日 極寒のデナリは季節をゆずらなかった。ガスが出て3000mまで。
    5月23日 前に滑り出してくるソリにロープを巻いてブレーキにすると快適となり、晴れたり曇ったりのカヒルトナ氷河を滑降した。きんとん雲にのる孫悟空である。白銀の雲海をひとっとびでほんの2時間でBCについてしまった。トレースはスキーを脱いでも沈まないカヒルトナハイウエイと化していた。昼から天気が崩れセスナは飛んでこなかった。関西登高会の大谷氏、G登攀クラブの上岡氏、雲表クラブの三浦氏とも再会。ハンターのチャンスを待つが連日の悪天でずっとBCに停滞していたという。
    5月24日 吹雪。帰国の便を思うと心配つのる。夕方になって突然視界が広がり皆で滑走路を踏み固めた。熱いシャワーとご馳走のまつ緑の街タルキートナへ自分を乗せたセスナは戻っていった。
    5月25日 レンジャーステーションにてチェックアウトのあいさつをする。カヒルトナ氷河でクレバスに転落して2名が死亡したと聞かされショックを受ける。タルキートナ名物のサーモンステーキとデナリーピザに舌鼓。
    5月26日 アンカレッジYHでは各国の貧乏旅行者の前でタラバガニを食べまくり大顰蹙。
    5月28日、予定通り帰国。
登頂にはとても及ばなかったかったものの、白銀の大海原を旅する夢はかなえられ、こんなに寒くて恐ろしいデナリを体験して無事下山出来たことは喜ぶべきだと思っている。好天ならば登れていたかもしれないが思い知らされたのは大自然の厳しさと自分の弱さである。両足指の軽度の凍傷は3ヶ月で回復したが、自分はこの地に再び戻りたいとは思はない。しっぽをまいたのを潔く認めるデナリ(エスキモー語で偉大)は本当に偉大である。